- 『常世花』 作者:甘木 / リアル・現代 未分類
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全角12244文字
容量24488 bytes
原稿用紙約36枚
鎌倉にやってきたのは不眠症が原因だった。
大学に入って四年目。怠惰でいい加減な学業態度のツケが就職戦線に影を落としてきた。大学にネームバリューもあることだし世間は売り手市場だと言うし、あくせくしなくてもそれなりの会社に就職できるだろうと高をくくっていたが、現実はそんなに甘くなかった。友人たちが着々と内定を決めるのを横目で眺めながら、慌てて生活態度を改めて就職活動に奔走していたらいつの間にか眠れなくなっていた。寝ようとすれば就職や将来のことが浮かんできて、焦燥感と不安が眠気を消してしまう。ウトウトしては目が覚めることの繰り返し。起きているんだか寝ているんだか解らない気持ちの悪い日々がもう半年近く続いている。おかげで大学に行っていても、アパートにいても、ご飯を食べていても、道を歩いている時でさえ不意に意識が飛びそうになる。
そして四九日前、ついに救急車で運ばれる羽目に。その日は大学に行く気にもなれず、アパートに籠もってさして楽しくもないゲームをやっていたのだが、昼前に大学の就職部から呼び出しのメールが来てしまった。『就職の内定が出ていない四年生を対象に、特別研修をするから必ず出席すること。出席しないと卒業が難しくなるかもしれない』との脅し文句付きで。
炎天下の中を大学に向かって自転車をこいでいたら急に目の前が灰色に霞んで……危ないと思うのだけど身体が全然反応してくれず前輪が滑って派手に転んでしまった。恥ずかしさに速攻で立ち上がったのが悪かったのか、寝不足で体力が底をついていたのか、立った途端に世界が歪み腰が崩れて、再度道路で大の字で寝ることに。お節介な人はどこにでもいるもので、こちらの都合などお構いなしに救急車を呼びやがった。
拉致られるように救急車に乗せられ、医者に擦過傷と打ち身の治療をされた。それだけならまだ我慢するが、誘導尋問のような問診の末、不眠症の治療まで受ける羽目になった。下らない質問を延々とされ、医者に『薬を飲んでゆっくり寝なさい』と睡眠薬と抗鬱剤まで処方されてしまった。
でも薬は飲まなかった。
だって寝れば絶対悪夢を見るのは解っている。悪夢を見ているのに薬のせいで起きられないとしたら地獄だ。地獄と面と向き合うような気力も根性もない。
だから薬も飲まず、気持ち悪さと、グチャグチャとして鮮明さを取り戻せない頭を抱えたままでいることを決めた。
* * *
今日も眠れぬままに夜を明かし、わずかな期待をもって朝日と共にベッドに入ってみた。しばらくは寝ようと目を瞑ったが、就職試験で落ちた思い出、面接でしどろもどろになった思い出が、次々と瞼に浮かんできてとても目を閉じてはいられない。結局八時過ぎまで横になったまま窓の外を眺めていた――半分だけ閉じたカーテンの青さよりも蒼く高く晴れわたった空――そんな空を眺めていたら、不意にどこかに出かけた方がいいんじゃないかってって気持ちが湧いてきた。狭苦しいアパートの一室に籠もっていることが莫迦らしく、凄くもったいないような気がしてくる。
怠さと重さ以外の存在感を実感できない身体、頭蓋骨の中に脳味噌以外のものが詰まっているんじゃないかと思う程ぼやけた頭。こんなにも疲れているのに、どうしてそんな気が起こるんだ? なのに不眠症との戦いの中ですべて擦り切れてしまったと思っていた健全つてヤツの残滓が『こんな時は気分転換に出かけるべきだ』と、しつこく主張する。
ああ、そうかい。そこまで言うのなら出かけるよ。
睡眠不足と疲労がつくりだした声に背中を押され、財布と煙草だけを持ってアパートを飛び出した。適当に電車を乗り継いだ末にたどり着いたのが鎌倉。見たいものなんかなかったけれど、たしかにアパートに籠もっているよりずっと気分はよかった。
まだ午前中だというのに鎌倉駅は混みあっており、鶴岡八幡宮に通じる参道はさながら押しくらまんじゅう状態。とてもその中に飛びこんでいく気力はない。べつに鶴岡八幡宮を見たいわけではないから、人混みを避け『佐助稲荷二キロ』と書かれた矢印の方へと踏み出した。車が一台やっと通れるような狭い路地。観光客の姿もない道はてれてれと歩くにはもってこいだった。
活気ある鶴岡八幡宮の参道と違って、佐助稲荷に向かう道は生活者のための道路と言うべき普通の道路だった。地方都市の寂れた道路と言った方が適切かもしれない。ベランダに干された洗濯物、ありふれた商品しか並んでいない雑貨屋、剪定されていない木々が伸びる庭、洗濯機が二台しかない小さなコインランドリー、ホコリまみれの車が置かれたガレージ。観光客など立ち入るなとばかり生活感を漂わせている。
こっちも真っ当な観光客とは言えないから、こんな俗っぽい道の方があっている。観光地じゃ気が引けてできない歩き煙草を楽しみながらのんびりと足を進める。
閑静な住宅地に控えめに出された『葛きり』の立て札。あまりにも小さくて、煙草に火をつけようとして立ち止まらなかったら見過ごしていたと思う。古い民家の格子状の引き戸の横に一尺ほどの棟木のような看板がかかっている。墨色も薄れかすかに「甘味処 逍遙庵」と読める。店のはずなのに周囲の家々に埋没していて、この看板がなければここが店であることを信じられなかったろう。
鎌倉には隠れ家的なお店が点在しているというのを雑誌で読んだ覚えがあった。たぶんこの逍遙庵もそんな一軒なのだろう。
煙草をくわえたまま『葛きり』の文字を眺めていた。もう十月に入ったというのに暑さは退かず、乾いた空気の中に目に見えぬ熱気の粒子を漂わせている。その中で『葛きり』の文字がとても涼しげなものに感じられた。昨晩から何も食べていなかったし、少々歩き疲れたこともあって、煙草を携帯灰皿に押しつけると格子戸に手を掛けた。
店内は安らいだ空気に満ちていた――長い時間の経過を感じさせる漆喰の壁、大切に使いこまれた木が生み出す深みのある黒い床、手作りで不揃いだけど木目の美しさが見事なテーブルが五組――世知辛い現代から、ここだけが時代の流れに取り残されているよう。その奥には庭が広がっていた。奥行き五間はある広い庭だ。短く刈りこまれた高麗芝の庭を囲むように、矢竹や五葉松、南天などの木々が生えている。隣家の壁も屋根も見えない程に密集して植わっている。この木々のおかげで、この場所がまるで森の中にぽっかり開いた日当たりの良い空地のように思える。そして芝の上には床机が置かれ、そこでも飲食ができるようになっていた。
他の客もいなかったから、遠慮することなく一番眺めが良さそうな床机に腰を下ろし葛きりを注文した。周りの木々が熱気を吸収するのか、さっきまでの暑さがしつこさを消し、出された焙じ茶も喉に心地よい。
ここは静かだった。茶を啜る音の大きさに自分自身がビックリしてしまう程に。大きな赤松の陰の先に店内が見えなければ、ここが鎌倉で甘味処であると言うことを忘れてしまいそう。
しばらくすると黒塗りの木椀に氷と一緒に入れられた葛きりと、糖蜜が入った蛍焼きの小鉢が出てきた。心太のように透明だけど仄かに白味を帯びた葛きりは、箸で掬うたび、てろんとした表面で一瞬陽光を反射させる。もし海月を短冊に切ったらこんな感じかな――なんて下らないことを考えながら、糖蜜に漬ける。透明な葛きりは糖蜜の黒色に紛れて見えなくなってしまう。それを箸で探るのも結構楽しいものだ。
糖蜜を纏った葛きりを口に入れる。糖蜜の甘さ、葛きりの冷たさが口内に広がる。そして僅かに弾力ある葛きりを噛むと、糖蜜とは違った控えめな甘さが歯と歯の間から染み出てくる。大の男が一人で葛きりを食べていても、格好のいいものではないことは自覚している。が、葛きりの冷たい塊が、にゅるりと喉を下っていく感触はなにものにも代え難い。アイスクリームやジュースのようなしつこさもないし、食道や胃袋で冷たさを感じられるのが何より嬉しい。
* * *
葛きりを堪能し終え、焙じ茶を飲みながら庭を見ていた。舌も胃袋も満足させ、目には生き生きとした緑を与える――こんなに落ち着いた気分になったのは久しぶりだな。
ゆるりとした陽光に身を晒していると、淡い眠気がわいてくる。今朝までの煉獄に堕ちていくような気持ち悪い眠りではなく、子供の頃の睡眠みたいに楽しみが待っているような眠りの気配。今なら悪夢を見ずに安心して寝られる予感がする…………優しい睡魔が広がってくることを感じながら、きゅっと伸びる矢竹を眺めていた。
と、風もないのに矢竹が揺れた。
睡眠の入り口にさしかかって目の前の光景が一幅の墨絵のように感じていた時だっただけに、絵が動き出したような驚きに一瞬のうちに目が覚める。
見ていると矢竹の中から一匹の黒猫が出てきた。黒猫が掻き分けた濃緑の竹葉の奥に赤色の塊が見える。それは曼珠沙華の花だった。
黒猫は誰もいないものと思っていたのか、人の存在に驚いたようで一瞬動きを止める。警戒いっぱいの目で見上げたと思ったら、「な」と一言啼いて曼珠沙華の咲く藪の奥へと逃げていってしまった。しゃしゅしゃしゅと竹の葉が擦れる音がして矢竹は元に戻る。もう黒猫も曼珠沙華も見えない。
嫌な物を見たな…………せっかくの気分が台無しだ。
曼珠沙華の花が嫌いだ。いや、嫌いと言うより気持ちが悪い。だって、曼珠沙華は常世花だから。
高校二年の時、父方の祖母ちゃんが死んだ。心臓が悪い人だったけど、八十歳まで生きたのだから、その死は大往生と言っていいと思う。
父さんの故郷は大分の山間の小さな村だ。バス通りに面して雑貨屋、酒屋、小さなスーパーがあるのを除けば、あとは斜面にへばりつくような田圃があるだけ。本当に小さい頃は自然が嬉しくて、虫を捕ったり、小川で遊んだりしていた。だけど、小学校に入った頃には、ただ退屈な田舎としか感じなくなっていた。小学校の学年が上がるにつれ、だんだんと足が遠退き、この五年間は祖母ちゃんの顔も見ていなかった。
祖母ちゃんの体調が良くないことは知っていたけど、人はいつか死ぬということを意識せずに高校生になり……夏の終わりに、祖母ちゃんの訃報が届いたのだ。
葬儀は田舎らしく参列者も多く、長々と行われるものだった。田舎では冠婚葬祭が一種の娯楽なのだろう、納骨の段になっても近所のおばさんたちは帰ることはない。
雨が振り出しそうな曇天の墓地。戦前までは土葬していたという。緩やかに傾斜した地面には、墓石の間に幾つも土饅頭や卒塔婆が立っている。その土饅頭や墓石の間には、墓と墓を区切るように、何百本もの曼珠沙華の真っ赤な花を咲かせている。祖母ちゃんの墓も曼珠沙華に埋まっていた。黒曜石のような光沢を持つ黒い墓石に、曼珠沙華の赤が映りこんで、まるで黒い墓石に血管が走っているように見える。
その墓に向かって、
『華子さんもとうとうあっちに逝っちゃうんだね』
『畑はどうするのさ、ほっといて逝っちゃうなんて華子さんらしくないわよ』
『こんど生まれる私の孫の顔が見たいって言ってたじゃない』
祖母ちゃんの友達らしい年配のおばさんたちは語りかける。まるで生きている人間に話すように。
この人たちはボケて祖母ちゃんが死んだことを理解していないのだろうか?
墓石に向かって語りかけていたおばさんの一人が振り返り、黄色く濁った目でしばらくこっちを見ていたと思ったら、祖母ちゃんに話しかける口調そのままで話しだした。
『華子さんはいるのよ。だっていまは中有なんだから』
中有? 中有って何だろう?
『人は死んでも、しばらくの間は魂は現世に留まっているんだよ。親しい人に別れを告げたり、あの世に旅立つ準備をするためにね。この生と死の狭間にいる期間を中有と言うんだよ』
死んだらすべて無だろう。魂なんてあるわけがないじゃないか。
『若い人には解らないかもねぇ。でも、歳をとってお迎えが近くなってくると、魂というものは確かにあることが解るようになってくるんだよ』
おばさんは、いつか解る日があなたにも来るよ、と言って柔らかい笑みを浮かべる。
『いまだって華子さんはここにいるんだよ。私にはちゃんと解るの』
そう言うと、また墓石に向かい手を合わせて語りかける。
近所のおばさんたちはまるで茶飲み話でもしているかのように、悲しみも衒いもなく穏やかな口調で話し続ける。真っ黒な墓石に向かって。
『華子さん……』
『華子さん、そうよね……』
その時、風もないのに曼珠沙華の花が揺れた。まるで皆の声に応えるように。
『ああ、華子さんが応えてくれたわ』
一人のおばさんがそう言うと皆がゆっくりと頷く。
『華子さんはいま常世花のところにいるんだね』
常世花? 父親に尋ねると、この地方では墓地に生える曼珠沙華を常世花と呼びならわすそうだ。昔は土葬だったから遺体は焼かずに埋められる。そして墓が鼠などの動物に荒らされないようにと毒草である曼珠沙華を植えた。植えられた曼珠沙華は根を伸ばし遺体を覆って球根となる。つまり曼珠沙華は遺体を栄養に茎を伸ばし花を咲かせる。地面から伸びる花は現世に、地面に埋まる球根は常世にあって、現世と常世を繋いでいる花だから常世花と呼ぶようになったと教えられた。
祖母ちゃんの身体に何本もの根を突き刺し花を咲かせる姿を想像した途端、曼珠沙華の赤い花が丹生の沈毒のように禍々しいものに感じられた。今は火葬して骨壺に入っているからそんなことはない。莫迦な妄想ってことは承知している。でも一度浮かんだ妄想はどんどんと膨らんでいく。曼珠沙華の花は次なる栄養を求めて、次に常世へと誘う人間を見定めるために咲き誇っているように見えた。
――高校生の時にそう思って以来、曼珠沙華の花が気持ち悪くてしかたがない。
下らない妄想だ……頭を振って妄想を打ち消し、藪の奥に消えてしまった曼珠沙華の影から目を離す。矢竹を見続けて凝ってしまった首を回し煙草をくわえる。
一服したら佐助稲荷にでも行くか。
* * *
佐助稲荷にお参りしてから、住宅地の道を通って海岸に向かう。時折すれ違う住人の他は観光客など歩いていない。見知らぬ家々、見知らぬ道、見知らぬ住人たち。見知った家も店もない、歩き慣れた道でもない、知人がいるわけでもない。ここはすべて未知の場所。現実の場所なのに朧な感じがして、まるで夢の中にいるような気分にさせられる。
由比ヶ浜海岸に出た時には、晴れていた空に幾つもの灰色の塊が浮かび、夏の暑さとは異質の空気を孕んだ風も吹きだした。この風を待っていたのか、浜辺で談笑していたサーファーたちは一斉に海に入っていく。海岸に残っているのは、散策を楽しんでいる僅かな人たちだけ。残っている人も風に舞い上がる砂に顔をしかめ、一人また一人と浜辺から離れていく。人のいなくなった浜辺を歩き続ける。目的なんかはない。ただ足が砂にめりこむ不安定さと、火照った身体からゆるりゆるりと体温を奪う風に身を任せているのが楽しかった。海を見ながら歩いていると、就職のことも、将来のことも、とても些末なことに感じられ気分がいい。
由比ヶ浜海岸を過ぎ、材木座海岸を歩く頃には風は収まってきたものの、空には青い部分はなくなり、空を引きずるように曇天が低く垂れこめていた。雨が降ってきたらやっかいだな。傘持ってきてないし、この辺りには傘を売っていそうな店もないし。そろそろ駅に戻ろう……。
うねるような波を立てる浜辺を離れ、海岸と並行して走る国道へと向かう。国道は信号がなく車通りが多い。おまけにカーブしているから見通しも悪い。危うくトラックに轢かれそうになり、思いっきり冷や汗をかきながら国道を横断した。
国道脇には幾筋もの小道が延びている。どの道が駅に戻る道なのか解らないから比較的道幅がある小道に入って行った。小道は五分も歩かないうちに、道ぎりぎりに建てられた木造の家屋と家屋の間を縫うような路地へと姿を変えてしまった。路地は住宅や木塀にぶつかっては何度も折れ曲がる。玄関横に置かれた醜くしおれた植木鉢、カーテンが閉まったままの窓、赤茶色に錆びた自転車、路地を塞ぐように置かれたプロパンガス――暗い空の色を吸いこんだように、路地に置かれた品々は重苦しいべったりとした陰をつくっている。
迷路のような路地を足早に歩いていた。家々の壁が迫る圧迫感、先の見えない閉塞感、自分の知らない場所にいるという違和感、それらすべてが歩みを急かせる。
何度路地を折れ曲がった時だろう、急に視界が開けて大きな山門をもつ寺院の前に出た。山門の横に案内板が立っていて『浄土宗・光明寺。創建は鎌倉時代の寛元元年(一二四三年)。開基は鎌倉幕府第四代執権北条経時。元関東総本山で歴代執権の帰依を受け、七堂伽藍を整えた大寺院に発展。念仏道場の中心となった。本尊は阿弥陀如来』と書いてある。
由緒のあるお寺のようだな見物でもしておくか。歩き疲れたからひと休みするのも悪くない――のしかかるようにそびえ立つ山門をくぐった。
参道というのだろうか、山門と本堂を結ぶ場所にいくつもの折りたたみテーブルが並べられていて、大勢の人が忙しそうに動き回っている。本堂の入り口横には『第■回 神奈川県患畜、実験動物合同供養祭 ○○獣医協会、××医科大学 △△製薬協会』と書かれた大きな看板が立てかけられている。
どうやら死んだペットや実験に使われた動物たちに対する葬式のようだ。動物の葬式というものに興味を惹かれ、しばらく見てみることにした。葬儀の人たちの邪魔にならないよう、参道脇にある鐘楼の石段に腰を掛け煙草に火をつける。
喪服を着た人たちが本堂に吸いこまれていく。
年間どれだけのペットや実験動物が死ぬのか知らないけれど、ここに集まった人たちの数を考えれば相当な数は間違いない。たぶん神奈川県だけでも万を超える動物が死んでいるのだろう。ペットはともかく、人間のためとはいえ死んでいく実験動物たちは哀れだ。さぞ人間に恨みを持っているだろう。こんな合同供養祭をしてもらっても嬉しくないだろうな。
参列者を乗せた車がひっきりなしに到着し、動物たちの恨みを畏れた人たちが足早に参道を抜けていく。
ふと気づくと、すぐ横に一匹の大きな黒猫がうずくまっていた。近所で飼われている猫なのか、人のそばにいながら恐れる風もなく眠そうな目で参列者たちを眺めている。
おまえもお参りに来たのか?
莫迦らしい行為だとは思いながら黒猫に声を掛ける。
黒猫は眠そうな目を瞑ると、長い尻尾をめんどくさそうにぱたんと振る。
それが肯定なのか否定なのか解らないけど、返事をするとはいい猫だ。
そろそろ供養祭が始まるのだろう、受付係が片づけはじめ、一人、二人と本堂に入っていく。もう受付には誰もいない。
びゅうと風が吹き抜け、無人の受付に置いてあった紙が土埃と共に舞い上がる。雲に覆われ灰色になった空の中で、紙の白さだけがやけに目をひく。すぅいと高みに引き上げられ、ほんの少しだけ空中で止まったと思ったら、ゆっくりと円を描きながら落ちてくる。なぜだか紙の動きから目を離せず、頭を動かして紙の行方を追っていた。
音もなく紙が無人の参道に落ち――その先に猫の姿。人がいなくなった代わりに、猫の数が増えていた。いつの間に集まってきたのだろう、たくさんの猫がいる。
鐘楼の下には斑猫。参道脇には雉猫、三毛猫。毛の長い猫、毛の短い猫、尻尾の長いヤツ、短いヤツ、大きな猫、子猫。まるで猫の集会のように距離を開けうずくまっている。
横にいた黒猫が『な』と短く啼くのと同時に、本堂から読経が流れてきた――風に紛れて大きくなったり小さくなったりしながら、低い声で唱える経文。猫たちは経に聞き入るように耳を立てている。
遠くから『べうべう』と犬の鳴く声が流れてくる。
猫たちはそれを気にする風もなくじっとしている。
『南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏』
不意に経文の声が大きく聞こえた。
と、空気が動きを止める。車の音、遠くの波の音、木々の音が変化する。まるで耳に水が入ったように、くぐもった響きになり、だんだんと音が小さく、小さくなり、そして消えた。でも経文を読む声だけは聞こえる。脈動のようにうねりながら流れてくる。
経文が大きく聞こえるたび、周りの色が曖昧になり、灰色へと収斂していく。建物も木々も空も地面も、灰色の濃淡がつくる模様のように変色していく。色を残しているのは猫たちだけ。
どうしたのだろう?
あまりにも唐突すぎて何も考えられず呆けるように見ているしかなかった。
『南無阿弥陀仏』
どれだけの時間こうしていたのか解らないけど、経文が耳朶を叩き我にかえった。
何度瞬きをしても世界は灰色。猫たち以外はさらに色をくすませ輪郭もぼやけて見える。音も読経しか聞こえない。
目と耳がおかしい。まさか、脳の血管なり神経が切れたのか?
脳の血管なんて切れちゃったら死んじゃうじゃないか。
どうすればいい? どうすればいい?
い、いや。こんな時は焦っちゃ駄目だなんだ。落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ。必死に自分に言い聞かせ、まずは身体を確かめようと右手を握った。
大丈夫。指は動く。腕も動く。頭とか痛いところはないか? 自分の中を探るように神経を研ぎ澄ませる。痛いところはない――ただ、頭が重くて舌の付け根に張りついた嘔吐感がある。でも、これは不眠症になってからずっと続いているものだ――以前にも倒れたことがあったじゃないか。きっと今回も不眠症のせいにちがいない。
もう帰ろう。帰って睡眠薬を飲んで寝てしまおう。たとえ悪夢しか見れなくてもいいから。そう決めて立ち上がった時、経文を読む声に混ざって小さな声が聞こえたような気がした。
『南無阿弥陀仏』
『豆州より参りました。シロと申します』
『南無阿弥陀仏』
『拙はトラ。武州は荏原の郷より参らん』
えっ? 声がした方向に顔を向ければ、鐘楼の陰から白猫と虎猫がのっそりと姿を現す。
『今日はよく参られた。ささ、大練忌の供養じゃ経を唱えよ』
こんどは年寄りのように掠れた声だったけど、はっきりと聞こえた。
だが誰もいない。いるのは黒猫だけ。
猫が喋るはずがない。これは不眠症で疲れ切った頭がつくりだした幻聴。きっとそうに違いない。このままではまた倒れてしまうかもしれない。人気のないこんなところで倒れたら大変だ。携帯電話を持ってくるのを忘れてしまったことをこれほど悔やんだことはない。携帯電話さえあればタクシーも呼べるし、救急車だって呼べるのに……周りを見ても公衆電話なんてない。だったら、とにかく駅に戻ろう。人がいる場所に戻ろう。
『汝……』
背後から声をかけられたような気がし、振り返った先には鐘楼の石段にあの黒猫。それに、いつの間にかさっき現れた白猫と虎猫も並んで丸くなっている。
『なぁーむ』
突然、黒猫は真っ赤な口を開け啼いた。
『なぁーむ』
『なぁーむ』
黒猫に唱和するかのように白猫と虎猫も真っ赤な口を開け啼く。
灰色の世界に猫たちの真っ赤な口だけが鮮やかさを保っている。まるで曼珠沙華みたいな濃く毒々しいまでの赤色。
『南無阿弥陀仏。なぁーむ。南無阿弥陀仏。なぁーむ。南無阿弥陀仏。なぁーむ』
猫たちの声は経文の声に混ざって空気を揺るわす。まるで読経に合わせて何かを訴えるように。周りにいる猫たちは啼きこそしないが、視線をこちらに注いでいるのが首筋にチリチリと感じられる。既朔の月みたいに細い瞳でじっと見つめてくる……なんだか気味が悪い。
猫たちの視線から逃れるようにして足早に山門をくぐった。
* * *
住宅地の真ん中にあるらしい光明寺の周りには太い道は通っていない。路地に毛の生えたような頼りない道しかない。歩いてきた順序を思い出しながら駅までの大まかな方向に当たりをつけ、背後から流れてくる読経に押し出されるようにして足を踏み出した。
灰色の土塀の間に道が続いている。土塀の向こうにある古びた家屋も、庭木も、空も、道もすべて灰色になり厚みを失い、輪郭を朧にしている。誰かに会ったら駅までの道を聞こう。電話を借りてタクシーを呼んだ方がいいのかもしれない。
空気が動きを止めた。匂いもない。音も経文を読む陰鬱な響きだけ。もう猫たちの啼声も聞こえない――大昔のモノクロサイレント映画を観ているみたいに現実感を喪失した世界があるだけ。いくら歩いても車も人の姿さえない。それどころか道はだんだんと狭くなる。はじめは自動車が通れる幅があったのに、いまでは人が一人やっと通れるほどの狭さになっている。おまけに家々の土塀が高くなってきて周りが見渡せない。さらに道自体が小刻みに蛇行していて先を見通すこともできない。ひょっとしたらこの土塀の向こうには何もないのではないかという莫迦げた妄想すら湧いてくる。
どれだけ歩いたのか解らなくなってきた。時計は携帯電話だったから時間すら知る術もない。空を見上げても灰色の塊があるだけ。もう夕方にさしかかっているのかどうかも判断つかない。それどころか自分が前に進んでいるのかどうかさえ解らない。迷路の中を堂々巡りしているのじゃないかと不安が何度も脳裏をよぎる。だっていくら歩いても読経の声を振り切れない――途切れ途切れになったり、急に大きく響いたり――だけど重くなった足が相当な距離を歩いたと主張している。
これだけ歩いているのに誰にも会わないなんて…………読経が聞こえるなんて………おかしいだろう。
ひょっとして自分はあの境内で倒れて夢を見ているんじゃないのか?
ひょっとして自分は異次元におちこんでしまったのではないか?
これは本当に現実か?
不吉な考えが浮かんでは消える。普段なら愚にもつかない児戯じみた考えだと自分自身を笑うのに、いまはどれも確固として否定できない迷いが心を締め付けている。
灰色しかない世界の圧迫感に眩暈と、自分までが灰色に飲みこまれてしまいそうな恐怖に潰れて足を止めてしまいそうになる。
ここから出られるのなら、どんな対価を払ってもいい……灰色の世界はもうたくさんだ。色が欲しい…………だから歩かなきゃ。
それは突然だった。
灰色が支配する視界に異色が飛びこんできた。
黒、白、茶、鈍茶、虎、斑。幾匹もの猫が道の脇や土塀の上に蹲っていた。
歩き始めて初めて見る生き物の姿に、緊張と焦燥でガチガチになっていた心の強ばりが緩んでくる。光明寺の境内ではあれだけ不気味に感じられた猫なのに今は安堵感すら覚える。
猫たちのそばに行こう。猫に触れれば現実感を実感できるはず。
だけど駆け寄ったら猫たちは驚いて逃げてしまうかもしれない。走り出したくなる気持ちをなだめながらゆっくりと足を前にだす。
黒猫まではあと僅か。手を伸ばせば届くだろう。
手を伸ばしかけた時、黒猫が大きく口を開け真っ赤な舌をちろりと動かしてはっきりと言葉を紡いだ。
『今日は中有の終わりの日。供養じゃ。なぁーむ』
えっ?
『中有が終わる』
『大練忌じゃ』
『供養じゃ』
『なぁーむ』
『南無阿弥陀仏』
猫たちは口々に言葉を紡ぐ。読経の声と一つになって猫たちの言葉がうねる。曼珠沙華のように赤々とした口から発せられた、すべての言葉が波打って押し寄せてくる。
目を瞑っても耳を塞いでも言葉が頭の中に流れこんでくる。
に、逃げなきゃ……こんなところで目を瞑って耳を塞いでいる場合じゃない……逃げなきゃ…………あれっ? 音が消えた。
恐る恐る目を開いた瞬間、世界は変わっていた。そこは一面曼珠沙華の花。灰色の空と曼珠沙華の赤しかない。土塀も猫もいない。どこまでも続く曼珠沙華の草原があるだけ。凍りついたように微動だにせず花を咲かせる曼珠沙華。
前を見ても後ろを振り返っても地平の果てまで赤い花。
町はどこに消えたんだ……どこに行けばいいんだ?
誰かいないのか! ここはどこなんだ! 助けてくれ!
どんなに大きな声で叫んでもすぐにかき消されてしまう。まるで曼珠沙華が吸いこんでいるかのように。
あまりの静寂に耳鳴りだけが殷々とこだまする。
音もなく風が吹き抜けた。曼珠沙華たちが一斉に揺れ、赤い波が地平の果て目指して広がっていく。
揺れる曼珠沙華が互いに擦れあって音を紡いだ。
『汝は……』
『汝は……』
擦れあうたびに命を感じさせない平坦な声が生み出される。
『汝は我が……』
『汝は我が……』
いつまでも揺れ続ける曼珠沙華。
『汝は我が眷属……』
『汝は我が眷属……』
声は頭に、身体に、心に直接響いてくる。
頭が思考を捨て朦朧となろうとする。船に長時間乗って下りた時のようにふらついて気持ちが悪くなる。原初的な恐怖が心を乗っ取ろうと肥大していく。
『汝は我が眷属なれば……』
『汝は我が眷属なれば……』
無意識のうちに自分が駆けだしていたことに気がついたのは、あまりにも無様に転んだからだ。幾本もの曼珠沙華をなぎ倒し押し潰し、身を丸めてひたすら酸素を求めていた。
ひゅーっ。ぜぇーっ。ひゅーっ。ぜぇーっ。
情けなくなるほど哀れっぽい呼吸音に混ざって声が降り注いでくる。
『逃げなそ。汝は我が眷属なれば…………』
『逃げなそ。汝は我が眷属なれば…………』
跳ね起き走り続ける。真っ赤な曼珠沙華の海の中を。
どこに向かえばいいのか、どこを目指せばいいのか解らない。ただ、走り続ける。
どんなに走っても声が追いかけてくる。まるで呪詛のように。
『逃げなそ……汝は我が眷属なれば…………』
常世の花はどこまでも続く。
どこまで行けばいいのだ……どこまで………。
『逃げなそ……汝は我が眷属なれば…………共に参らん』
終わり
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■作者からのメッセージ
この作品は2年前に鎌倉に葛切りを食べに行った時に見た情景を元ネタにしています。鎌倉には隠れ家的な店が点在していて、私が行った葛切りの店もそんな感じでした。そこで見た風景、さらにぶらぶらと散策している途中で見た動物供養祭など。鎌倉には日常と非日常が混在しているような空気を持っていてネタの宝庫です。ただし、作中にでてくる光明寺は実在しますが、おどろおどろしい雰囲気など無く風格のあるお寺でした。
同じ日には違うお寺で人形供養もやっていたから、いつか人形供養の話も書いてみたいですね。
なお、これは2年以上前に投稿した『猫供養』という作品を全面的に書き直した作品です。以前投稿した時、一度は書き直したのですが、自分としてはどうしても納得のできない書き直しでした。が、その時もそれから2年間もどうしても納得できる降着点が見つからず気になったまま月日だけが過ぎました。そして先日、不意に降着点が浮かびました。それで書き直しを始めましたがほとんどの部分を削除と書き直しという羽目に。文章量も以前の1・5倍に膨れあがり、結果的に別物となったので題を改めました。
もしこの作品が皆さんのお目にとまって読んでいただけたとしたら嬉しいです。また、御時間に余裕がありましたら一言でもかまわないので感想をいただけたら幸いです。