- 『異聞記 −現代妖事情−』 作者:たえん / ホラー リアル・現代
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全角12583文字
容量25166 bytes
原稿用紙約40.9枚
酒池肉林、明鏡止水という故事成語に勝手にへんてこな別の物語をつけちゃえというお話です。一応ホラーのつもりです。 章前章後に語り手のモノローグが入ります。
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それにしても、暑う御座いますなあ。
台風一過。雲一つなく晴れ渡る空にこの先の猛暑に溜息。
まあというわけで。
暑気払いに怪談にお付き合いを。何、蓋を開けてみれば、怖くも何とも御座いませぬ唯の昔話。
この辺でお囃子などを一つ。
私は講釈師よろしく扇子などを取り出しましょう。
これは私がとある池の河童に聴いた話に御座います。
壱.酒池
今は昔。
山の奥のそのまた奥に、深い水を湛えた池が御座いました。この池の不思議は、流れ込む河もなければ流れ出す河もない、この一事につきました。どんな日照りの年にも決してこの奥池は枯れず満々と蒼々とした澄んだ水を湛えておりまして、ましてやその底を極めた者もいないので御座います。
何の取柄もない山奥の村の貴重な水源で御座いましたよ。
その深い深い奥池は神域として崇められ、巨岩を抱く池の畔に社などを建てて、村人の尊崇を集めておりましたそうな。
そしてその河童はその池に住んでいたそうな。
年振りた甲羅の厚き河童で、まあそこそこの妖力を操り、村人の願いを叶えてやり、霊験あらかたなお池と、こうまあ、楽しく暮らしておりましのよ。
なかなか良い水源となりますれば、次にきますのは酒造りに御座います。
河童は考えました。
ここで、人間達に恩を売っておくのは悪くない、と。
一般的に河童は力持ちで、水を自在に操りる妖とされておりますなあ。好物は胡瓜で頭の皿が弱点でありまして。河童の塗り薬もまた霊薬として知られ、水の眷族である彼らは酒造りにも長けていたので御座います。
思い立ったら即実行。この辺の思い切りはよろしいようで。
村の長者の夢枕に立ち、
「長者、長者、お主に話がある」
枕元にぬらりと立つ何やら怪しげな風貌の人物。服装は立派だがおかしなことにぐっしょりと水が滴り落ちまする。
しかもその顔色ときたら、青黒くてらてらと光っておりましたそうな。
「うわあぁぁぁ、お助け〜」
と、長者が叫んだかどうかは定かでは御座いません。昔の人っていうものは今の人間よりも妖の存在に慣れていたはずで差し詰め、
「どちら様ですかな? 」
ぐらいが妥当と思われます。
「私は池に住む河童である。そなたらは毎年、私の池に供え物を供し、今日はその恩に報いようと思う」
長者は夢の中で声も無く深々と叩頭したそうな。
「酒を造れ」
「酒を」
池の水で酒を造り、そこに河童の酒を加えればよい、といいます。夢の中で河童は細々と長者に指示を与えもうした。そして、毎年夏に胡瓜を供えれば、河童の酒をやると伝えたそうに御座います。勿論、月々のお供えも欠かさずに。
約束を違えたら……と、後はお決まり文句に御座います。
まあ、考えてみたら虫のいい話で、押しかけて勝手に約束もないものです。とはいえ、長者は例外なく欲深い、とこれはお定まりのことに御座いますれば。
早速、次の日の朝、半信半疑ながらお池に行き、約束通り、胡瓜を高々と供えると、突然、波が巻き起こり、祭壇ごと胡瓜は池の底へ。
代わりに、ぷかり、と瓢箪が浮いてきたそうな。
「ありがたや」
と、小躍りせんばかりに、この長者、家に駆け戻る。
でまあ、こんな具合で酒を村総出で造り、仕上げにこの瓢箪の中身を一垂らし。
あなや、何たることか!!
馥郁たる香り、芳醇な喉越し。
酔うては仙境に遊び、酔後は後を残さない。
かくして、あっという間にこの酒は諸国に知れ渡り、目出度く酒は将軍にまで献上され、村は潤い、長者は喜びに転げ周り、供物は漲ったというお話。
それを潮に、その池は「酒池」と呼ばれるようになったそうな。
えっ、何ですか? 怖くないって?
うーん、どうしても怖い話にしたいですか?
そうですね、私も少しばかり探し物が御座いますから便乗いたしましょう。
時は移ろい現代に話は変わります。
弐.肉林
「ほんっとうに、こっちでいいんだな」
「多分♪ 」
「そんなんじゃ、ごまかされないぞ!! 」
むっとするような草いきれが立ち込める。スニーカーの下で踏み躙った名も知らぬ肉厚の草の汁がジーンズの裾にべっとりと張り付いた。
渡部は伊木に声高に文句をつけた。渡部はかなり怒っているらしい。対する伊木はのほほんと受け流す。これでは渡部の怒り損だ。
季節は夏。それも梅雨が明けて本格的に暑くなってくる時分だ。
場所は山。それもいわゆる「入らずの山」で里人の手の入ってない半ば原生林だ。かろうじて昔に利用されていたと思しき山道を辿っているが、それもすぐに見通しのきかない薮の中に消えてしまう。
そこにジーンズにTシャツという軽装の大学生二人組み。それが渡部と伊木だ。
渡部が額から汗を滴らせているのに、伊木はショルダーバック一つで涼しげな顔をしている。それもそのはず、渡部は大きなナップザックを背負い、なおかつ伊木の為に藪漕ぎまでしているのだ。
「言っておくが、麻雀で大負けたのは渡部で、その返済を肉体労働で返すってのも君から言い出したことだよ」
伊木は大学で文化人類学を専攻している大学三回生。渡部は同期。但し工学部機械工学科所属。二人の共通項はサークル。麻雀に大敗した渡部は伊木の夏季課題のフィールドワークに付き合わされているわけなのだ。正確には荷物運び兼ナビ。
「胡(こ)先輩の資料によればこの近所のはずだよ。大丈夫、麓の村でも確認したし、絶対間違いないって」
ごくごく明るーく断言する。
その顔を殴ってやろうかと渡部はうんざり見詰める。
胡先輩は伊木の所属する研究室の院生で留学生だ。伝承文化に関しては、その辺の日本人など足元に及ばぬくらい詳しい。で、渡部の地元の山に伝わる「池」の伝説を教えてくれたのも彼だ。伊木は夏季自由課題で卒論のプレを行う。その題材に土着信仰に残る妖怪を選んだのだ。
「遭難の第一条件は、まあいいか、いてまえ、だぞ」
「ここは君の地元だろ? 」
「ばかやろ、麓の街だ」
「大丈夫、信憑性はあるって」
「何が? 池に河童が住んでて、それが酒の造り方を教えてくれて、栄えた村があったって話だろ? それのどーこが? 」
「まず、隣の県の土着の妖怪は河童だ。そして、この地方の山は太平洋プレートに押し上げられた堆積岩で圧力変成を受けている。つまり、造礁珊瑚の石灰岩塊、カルスト台地だ。伝承の池は注ぐ水も流れ出す水もない池。巨岩。僕はカレンフェルトのウバーレかドリーネだと思う。石灰岩質の土壌は地下水が豊富だ。だから、地下水が湧き出し、それがそのまま地下に流れ込んでも不思議はない」
「仮定だろ。っていうかさ、こういう文化人類学に地質学っているんかよ。それにここらで鍾乳洞と言えば天狗高原だ」
「それは山一個向こうだ。それにきみもあれだね、たとえ伝承の類であってもそこにはどこかに根拠があるっていうのが定説だ。思い込みだけでは説得力のある論文は書けないんだよ。アプローチとしては悪くないと思うけどなぁ、地質学からそもそもの成り立ちを検証するってのは」
「あのなあ、石灰岩質の土壌にこれだけの木が生えると思うか? 」
「龍河洞はどうなる? 」
渡部に否定はできない。だからって大雑把な仮説だと思う。麓の村から山に踏み込み、すでに三時間が経過している。この辺は神域として昔から「入らずの山」として禁山になっている。その為、道など無い。鬱蒼たる山だ。曖昧な伝承を頼りに何だか知らないがやたらと重い荷物を担いで遭難一直線だと渡部は思う。
「露岩に石灰岩質が増えてきたから、もう少しだと思うよ」
だから、お前は何を根拠に……渡部は伊木に文句を言う気力を失くした。
だが、池はあった。
「まじかよ、おい……」
しんしんと静かな波のない水面。
闇を底に抱いた澄んだ深い蒼。
底は見えない。
池と呼ぶに相応しい小さな水溜りはそれでも向こう岸に石を投げたとしても届きはすまい。岸のぎりぎりまで岩に食い込むように、木々が密生している。
渡部は荷物を放り出す。流れる汗を手で拭い、巨岩の下に残る小さな社を左見右見する伊木を見物した。
「保存状態がいいな。少なくとも二百年くらい前の話のはずなんだがなぁ」
何枚か写真を撮り、伊木は触っただけで崩れそうな扉に手をかける。
「おい? 開けるのか? 」
「開けなきゃ調査にならない」
「お前なー、そんなこと言って、バチ当たっても知らんぞ俺は。以前にもお前、稲荷神社のご神鏡を失敬しただろ? そーいうのって、後が怖いぞ」
伊木は渡部の理系とは思えない科白を鼻で笑った。
「あの稲荷神社は取り壊しが決まっていた。僕が持ち出しても文句言う人はいないよ。それにあれを持ってから、結構いい資料とか手に入るし。もう僕のお守りみたいなもんかな」
肩から提げたショルダーを軽く叩く。
「お前まさか、今持ってる? 」
軽くうなずく伊木。
渡部はふいに誰かの視線を感じた。辺りを素早く見回す。
誰もいない。
静かな水面と密生する木々。
「……俺もな、昔、この話聞いた事があったんだ。伝承には続きがある。長者はやがて、河童のくれる瓢箪だけで満足できなくなった。それで、逆に河童を捕まえて、もっと儲けてやろうと企んだ。供え物の中に長者は潜み、河童の左手を切り落とした」
「知ってるよ。僕も聞いた。その結果、村が消えた。山里の村人が一人残らず姿を消したんだろ。麓の村の古老から聞いたよ。あの山には入ってはいけない。典型的な話だよ。妖は祟る。富の分配を期待し、それから約定を破る」
「だったら、それを開けるなよ!! 」
「御免、もう開けた」
絶句する渡部に伊木はにっこり笑う。
「だからこれは新し過ぎるんだよ。誰かが小まめに手入れしてたんならともかく……」
「記録がない」
「胡先輩の資料。出所はどこだ? 」
「あ? 」
「それに僕だって祟りは怖い。だから、お供えも持ってきた」
「? 」
伊木は渡部の放り出した荷物を嬉々として開く。
手早く三方を組み立て、和紙と箱詰めの胡瓜を取り出した。
しかも四箱くらい。
呆れて声も出ない渡部を無視して水際にセッティングする。
「ちょっと、待て!! 俺が持ってきたのはそれか!? 」
「そうそう、帰りは楽だよ」
「中身、それだけか!! 」
「そ♪ 」
「っばっかやろう!! 日暮れまでに下山するの無理なんだよ!! 」
「諦めて野宿。幸い水はあるし胡瓜もある」
「そりゃあ、お供え物だろーが!! 」
ばちゃん、
その時、水音がした。
静まりかえっていた水面がふいに波立った。
声も無く硬直する二人の目の前で、水が触手のように伸び上がり、セットされた三方を上に載せた胡瓜ごと呑み込んだ。
水は速やかに引き、その後には何も残っていなかった。
「悪い。食料はなしだ」
「って、お前も少しは驚けよ〜 」
激昂する渡部に伊木は食い入るように水面を眺めるだけ。
ぱしゃん、
更に軽い水音が残って、再び静かになった水面にぷかりと瓢箪が浮いていた。
すう、とそれが岸に打ち上げられる。
「……伝承通りだな」
伊木は震える手で拾い上げる。
舐めらかな瓢箪はしっかり栓され、僅かに水音がした。
ぽん
思い切りよく栓を抜く。
馥郁たる芳しい香りが立ち込めた。
伊木はそれを右手の手のひらの上に僅かに開ける。
とろり、
穏やかな粘性を残して掌の窪みに納まる。
一瞬の躊躇いも無く、伊木は口に入れる。
その姿勢のまま固まり、ついで身体を二つ折りにする。
「おい!! 伊木!! 」
「…………うまい……」
「てめえ〜 」
渡部は伊木の手から瓢箪を奪い取り中身を口に入れる。
信じられない。
香気が口腔内から脳天に一気に溢れる。喉を滑り落ちる液体はわずかに喉を焼き、胃の中を満たす。心地よい酩酊感が一瞬で身体を支配した。
二人は我を忘れ、奪い合うようにその中身を飲み干した。
「これは納得……長者がもっと欲しがるわけだ」
「同感……」
渡部は手の中の瓢箪を物欲しげに覗き込む。
ふいに違和感を感じた。
誰かが見てる。それも複数だ。
立ち上がろうとした。できなかった。酔いの為か?
狼狽して伊木を見る。伊木と眼があった。伊木が悲鳴を上げる。同時に渡部も。
身体が岩と一体化していた。
違う。岩についた片手を持ち上げることもできない。
痛くて。
根が生える、という表現がある。
無理に引き剥がした指先から血がこぼれた。そしてその先端に、根が、植物の根が。
悲鳴を断続的に上げていた。
みしみしと身体中から突然生えた根が硬い岩に食い込む。
変化はもう零れた血にも及ぶ。
血が赤くない。
振り上げた手がそのまま、ぐいと伸びる。肩がぎしぎしときしみ、限界を超えた。ぐんぐんその腕が伸びる。指がそれぞればらばらになって枝に分かれて行く。
髪が頭皮の上で逆立ち、絡みあうように、伸び続ける腕に従う。
びりびり、と衣服が破れ、ひらひらと地面に落ちる。
胴が不自然な角度に伸び、当然、頭部もそれに従う。皮膚が硬く強張り、色がどんどん茶色に変色を始め、顔が奇妙に引き伸ばされる。
叫びはもう叫びにならない。
樹皮と化した顔の名残の上を涙のように樹脂が流れ落ちる。
静かになる。
池のほとりには二本の若木。
ぱしゃん
その梢から瓢箪が水面に落ちた。
周囲の木々が風も無いのにざわめく。
それぞれに人の顔の名残のようなものが見えはしないか?
私は伊木君の残したショルダーバックを拾い上げる。その中から古びた神鏡を取り出す。まあ対したもんじゃないしよかったんですが、成り行きですな。胡氏の一族として捨て置く訳にいかないでしょうし。
欲をかいた人間たちはすべて河童の妖力で木に変えられた。
彼らの恐怖と自由への渇望がより酒を芳醇に芳しく変化させる。
これをして「肉林」
だから、麓の住人はこの山を禁山にした。
えー、やっぱり怖くないって?
しかしお時間いっぱいで御座います。
故に、ぱちん、扇子を閉じまして終わりに御座います。
*
「なあ、ところであれって故事とは違うんじゃあ」
「ぬぁ〜に、細かいこと言ってんだい!! 狐が狐の話をしたって面白くないだろう? 」
「いい加減なことばかり言ってねぇ、相変わらずぅ」
「ひどい言われよう。折角、獲物を融通してやったのに。おまいさんが見境なく変化させちまうから、供物に欠き、妖力が衰えんだぞ」
「利用したのはそっち。それにしたって、このお題、故事知ってんの? 」
「……」
「……」
「急用を思い出した!! それじゃあ、御機嫌よう〜 」
「おい!! 待て!! 発起人(?)、逃げるな!! 」
呆然とする気配。しばしの沈黙の後、舌打ちの音。あの野郎、知らんのだな。この始末をどうつけんだよ。しゃあねーなぁ、もう。
そいじゃま、一つ。
器物は百年を得ると、命を得るそうな。それを九十九神(つくもがみ)とな、呼ぶのさ。
これは、そんな壷に聴いた話なんだな。
参.明鏡
今は昔。
娘は鏡を持っておりました。
「これはね、母さんもお前のお祖母さんから貰い、そのお祖母さんもその母から貰ったものなんだよ」
年頃になった娘に母親はそれを譲ります。
鏡はその家の女たちの喜びを見、悲しみを見、苦しみを見、悩みを受け止め、老いを見守りました。
この時代、鏡は貴重品で御座いました。金属を精製する技術が現代より低かったため、鏡は単に銅の合金を磨いた写りの悪いものでした。それでも、背後には長寿の願いである象嵌が僅かながら施され、その当代の持ち主によって常に綺麗に磨かれておりましたよ。
さて、当代の鏡の持ち主である娘はまだ数えで十六歳。昨年母を病で亡くしております。貧しい農家の一人娘に生まれ、父と二人で細々と日々を送ってます。
十七歳の年に近隣の村から婿をもらい、その年の暮れに子供を出産しました。
「ありがとう」
と、入り婿の遠慮からか口数の少ない夫が顔を紅潮させて喜び、年老いた父も眼に入れても痛くないくらいに可愛がり、子供は大事にされました。ところが、このままで終われないのが、昔話の常。
その子供がいなくなりました。
ようよう歩けるようになったくらいのこと。農業に追われ、自然、子供への眼も行き届きませぬ。
畑に連れて来たものの、ふと見ればその姿がありません。
「どこに行ったんだよぉ」
「帰っておいで」
交互に呼び交わしても、いっこうにその姿が見えませぬ。
辺りは次第に暗くなりまして。
夫も父も娘を責めません。それが一層、娘の苦しみを増しました。
近くには河があり、夜ともなれば里山から獣が降りてきます。そうでなくても小さな子供。娘は悲嘆にくれもうした。
半狂乱で探し回り、家人に説得されて泣く泣く我が家に戻ります。
ふと娘が我が家を見れば一筋の光が射しております。まさかこの上火事?! この時代何より怖いのが火事。それも延焼を考えれば自分の家だけではすみませぬ。
転がるように家に入り込んで娘は火の気などないことを確認しました。
ならばこの光はどこから?
柔らかく冷たい、月の光のような細い光の帯は?
娘が狭い部屋を見回すと光は娘の数少ない衣服をしまった長持ちから射しておりました。
おそるおそると蓋を持ち上げます。
鏡が光っておりました。
母の、そのまた母の、それよりもずっと前から伝わる鏡。
光は何を示しましょうや?
歩き出していました。
誘われるように光の示す方向に。
――鏡よ、母より賜わりし、鏡よ
――我が子を返したまえ
藁にもすがるとはまさにこのこと。娘は憑かれたように光の射す方向に走り始めました。どれくらい走っただろうか?
光は一直線にある茂みの中を指し示していました。
*
で、子供はその藪の中にいたわけさ。あれほど皆で探したのにそこは娘の家の畑から遠くない場所だったんだとさ。
って、何だい? いい所で? えっ、これ、怪談なの? 聞いてねーよー、そんなん。
うーん、まあ、乗りかかった船だ。努力はするよぉ。
四.止水
大学の研究室と言うものはどこか怪しい。
そう思うのは渡部志保だけだろうか?
何やらこ汚く狭い。しかも照明の暗い部屋部屋がずらっと並び、人の気配はない。ないのに、今まで人がいた、という気配は色濃く残っている。
くらーい廊下に、こつーん、こつーん、と自分の足音だけが残る。
で、たまーにすれ違う学生だか、院生だか、助手だか、講師だかわからない年齢不詳の青年たち。これがまた薄汚れた白衣着てたりする?
関係者以外立ち入り禁止と、言ったところで誰が関係者で誰が部外者なんて、それこそ誰にもわからない。
で、志保もこうして潜り込んだ。
「あのー、○○研究室ってこちらでしょうか? 」
一応、扉の上にかかっている札を確認してからノックをし、返事がないので勝手に開けた。眼に入ったのはとにかく本棚。天井までの高さがあってそれが何列にも並んでいる。詰まっているのだ乱雑に。本だか資料だがわからない物体が。それ以外の用途不明のありとあらゆるものがごちゃっと詰まっている。地震対策なんて言葉は念仏にも等しい空間だ。
「あのー? 」
すると、何かが崩れる派手な音がした。ついで苦痛の声も。
あちゃー、脅かしちゃったんだ。志保は臍を噛む。でもこ〜んなに散らかしたのは志保のせいじゃないし、いまさら表層雪崩を起したところで対して変わりはないだろう。
「あ〜、すいませんねぇ、どちらさまですか? 」
閉所恐怖症の人間なら絶対に入りたくない部屋の奥から、背の低い人物が出てきた。何やら後頭部を撫でながら。どうもそこに例の雪崩が直撃したらしい。
「あはは、びっくりしたでしょぉ。ごちゃごちゃなんで」
「いいえ、とんでもない。何かこういう雰囲気懐かしいです。学生時代を思い出して」
にっと小柄な人物は人好きのする笑みを浮かべた。白衣という古典的な風俗ではなかったが、穿き古したジーンズにチェックのだぼだぼのシャツ。それが指先まで覆う。大人子供の印象だ。だが、結構年配かも。哀れに頭頂部が禿げ上がっていた。本人諦めているらしく。残った部分も短くしているので、やけに光ったスキンヘッドという風情だ。
「あ、すいません、私は渡部志保と申します。あの、こちらの研究室にいらっしゃった伊木陽一くんについてお話を伺えたらと……」
「皆さん、いまゼミでいないんですよぉ。多分、あと二時間くらい」
しまった。やはり普通にアポイントを取っておくべきだった。
「渡部さん? 渡部って、まさか、伊木くんと一緒にいなくなった……」
「はい、渡部篤志の姉です」
通された研究室は、入り口から見たほど酷い混乱振りではなかった。
南側の窓に面したスペースに応接セットがあった。その隣の衝立で隔離された机はこの部屋の先生のものだろう。ロの字形の校舎の中庭がその応接セットのソファーから見えた。
室内灯が嘘っぽく見えるような午後の光線が窓から机の上に落ちた。
案内した先ほどの人物はしきりに壁際に本を積み上げていた。雪崩の正体かな?
「すいませんねぇ、僕、ここの助手をしてるんです。先生に資料の整理を頼まれて……」
と言い訳めいて苦笑してみる。何だか落ち着きがない。
「コーヒーでも入れますねぇ」
振り向いて右手で茶器のセットを示す。
あれ、袖から手が出てる。じゃあ、左手は……
「あ、いえ、お構いなく」
そうですか、ともぐもぐと志保の前のソファに座る。
その左手の袖は力なく下がっていた。袖自体に膨らみはあるから、おそらく手首から先がないのだ。視線を彼の袖口から無理やり逸らす。
あの、と口を開いて相手の名を聞いていないことに気が付く。だが相手はそれに気付いたように、軽く言う。
「あ、僕のことは河太郎って呼んでください。あだ名なんですけどぉ、定着しちゃって違和感ないんですよぉ」
と、つるりと頭を撫でて見せて、おどけたように眼をくるっと廻す。
河太郎。つまり、河童。志保は思わず噴出す。おそらくこれは彼自身の気遣いだ。固い強張った雰囲気がそれで壊れた。
「あのそれでですね、か、河太郎さん。伊木くんのことなんですけど」
ふっと陽気な顔が曇った。
「まだ見付かってないんですよね。彼ら。ご心労お察しします」
「篤志は、伊木くんの夏季研究で一緒にあの山に行ったんです。それで詳しいお話を聴ければと思いまして」
「僕は伊木くんのことはよくしらないんですよぉ。伊木くんとは研究分野がちょっと違うので。伊木くんは留学生の胡くんの指導生だったんです。でもいま胡くんもフィールドワークで大学をしばらく離れているんですけどぉ」
どこに、と聞けば、先生なら知っている、と答える。志保はのらりくらりとした自称河太郎さんにいらいらしてきた。
「伊木くんは今時珍しい真面目な学生さんでしたよ。民俗学は八割は文献研究で終わるんです。それを彼のようにフィールドワークまでしようってのは最近じゃ珍しいですよぉ。特に彼は三回生ですしねぇ」
だから、とじっと志保を見る。
「もし、彼が犯罪とかそういうことに手を出していると思うなら、その心配はないと思いますよぉ」
志保はかっと頬が紅潮するのを感じた。
「そんなんじゃないです!! 篤志は、伊木くんとは学部だって専攻だって全然違うし……篤志がどうしてって思うと……伊木くんに予備調査の紹介をしたっていう留学生の方に会ってみたくなって……」
どこっ、と志保の背後でまたモノが崩れ落ちた。志保は思わず飛び上がる。渋い顔をして河太郎が立ち上がる。
でも、あの手じゃ、また……志保の方が素早かった。
窓からの陽光を受けて壷が転がっていた。
そんなに大きくない。せいぜい一輪挿しがいいところだ。胴のところがふっくらと丸く、口も大きい。飾りはほとんどなく金属製らしく鈍い光を放っていた。陶器なら割れていたはずだ。それを入れていた箱らしき物も傍らに転がっている。
手を壷にかけた途端、視界がくらっと歪んだ。
それを河太郎がひったくる。はっと我にかえり志保は彼を睨んだ。
「……すいません。でも急に真っ青になるからぁ……」
河太郎は左手首と右手で器用に壷を支える。座りませんか、と促され志保は椅子に戻った。ためらうように壷を弄繰り回し河太郎も元の位置に座る。
志保の顔と壷を交互に眺め口を開く。
「この壷は……ある旧家にあったものです。ま、いろいろあって先生の研究室に落ち着いたんですけどぉ、これは<見出す壷>なんです」
志保ははっと身体を固くする。
探し物が見付かる……仲がよかったとは言えない弟。でも世界でたった一人の志保の弟。失踪する理由がない。三ヶ月以上たつのにまだ見付からない弟。
「まさか……」
「どうでしょうねぇ。もともとはこの壷、鏡だったそうです。その鏡がある時いなくなった子供を見つけたそうです。で、時代が下って質
素倹約令が施行されたんです。この鏡をもっていた家は農家でしたけどぉ、身分制度が厳しい時代ですからね、鏡のような装飾品は持つことが許されなくなったんです。それでまあ一応家宝だっていうことで実用品の壷に鋳直した、という伝承が残っています」
突然、人懐こい表情の青年が不可思議な表情を浮かべた。
「伝承があるんです。この壷に願いを込めて水を張れば探し物が見付かるってぇ。その昔、これが鏡だった時、鏡は子供を見出しましたぁ。そして壷に水を張って水鏡を作ることでその力が呼び出せるというのです」
ゼミはいつ終わるんだろう? 志保は急にそれが気になった。
「信じられませんか? 僕も探し物がありましたぁ」
ひっそり笑う。誘い込まれるように志保は尋ねていた。
「何を、ですか? 」
「見つけましたよぉ。水鏡に映ったんですよぉ」
どこか人を喰ったような笑い。
デスクの上の内線電話がけたたましく鳴った。失礼、と青年は壷を応接机の上に置き、衝立の向こうに回った。
壷は机の上に残った。青年は何事かを低く電話の相手と話している。
壷は机の上にある。青年は手を離せない。
壷は探し物を見つける?
見つけるかもしれない?
見つける?
みつける?
壷はそこにある。
試してみたい。
試してみるだけ。すぐに返す。
志保は壷を掴んだ。青年はまだしゃべっている。夢中で鞄に壷を押し込み、研究室を飛び出した。飛び出す途中で書棚にぶつかる。
ばっささっ、派手に何かが落ちる。構っていられない。
青年が背後で驚きの声を上げる。ぶつけた腰が痛いが無視して走った。声が背中にぶつかる。
私は何をしているのだろう? 志保は動悸を撫で下ろし周囲を見回す。一目散に大学を飛び出し、挙動不審のまま近くの公園まで一度も休まずに走った。
何をしているのか?
――水を止めれるのは一回だけですよぉ
耳元ではっきりと声が聞こえた。ひっと喉の奥で悲鳴を上げ、弾かれたように振り向く。誰もいない。宵闇の近付いた住宅街の公園。
河太郎と名乗った左手首から先のない青年の声だ。
確信があった。間違いはない。
渡部志保の父の生家のある山奥。弟がどこへ行ったか後で知った父は激怒した。渡部の人間はあの山に入るべきではない。
昔、あの辺り一帯の大地主だったというのだ渡部の家は。そこであることをして呪いを受け落魄れた。だが村の呪い避けの為に、渡部の家はあの地方に住み続けることを余儀なくされた。
渋る父から聞き出した、呪いの訳。
恩のある妖を裏切り、左手を切り落とした。切り落とした左手を代々家宝として、また呪いの象徴として保ち続けた渡部の家。
その妖怪は河童。
河童の住む池がある山は未だに禁山。秘伝の口伝として伝えられた伝説。
何かあるはずもない。だが実際、渡部の家の直系の子孫、渡部篤志は戻らない。
もし伊木陽一なりその指導者が、その伝承を知っていたなら、渡部の家の人間を連れて行ったのは何故か。故意か偶然か。
それが知りたくて研究室に行った。
「超常現象って……信じるなら、超常現象に頼るべきよね」
乱暴に鞄から壷を取り出す。
ありえない。
ありえない。
でも志保の弟は消えた。
あの青年は失せ物が見付かった、と言った。
児童公園に付き物の水飲み器と手洗い用蛇口。志保はそれを頭のどこかで考えていたはずだ。
思い切って蛇口をひねる。水が勢いよくほとばしる。冷たい。手が切れそうだ。
小さな壷で受ける。
水はすぐに上まで一杯になって透明な帯に盛り上がって溢れる。
父と母の答えのない永遠のなぜなに。超常現象なんてあるはずもない!!
――水を止めれるのは一回だけですよぉ
どういう意味だろう? ふと気になる。
それにあの青年は何を探していたのだろう? 左手のない、河太郎、と名乗った青年は。
突然、スラックスに水が盛大に撥ねた。はっと我に返り、ほとばしる蛇口から壷を引き出す。両手で壷を持っては水は止めれない。
あの青年は本当にあの研究室の助手なんだろうか? 志保でさえ潜り込むのは簡単どころか……助手ならどうしてゼミの手伝いをしていない?
あの青年は何を探していた?
手の中の冷たい金属の壷がかすかに光った。
はっと見下ろす。
壷のふちまで一杯に入った水は静まり返っていた。
そこにあるものは液体ではなく、まるで磨き上げた金属のようだった。
明るい鏡のように、止まった水。
何かがその奥で揺らめいた。
志保は息を呑み、目を凝らす。
狭くて小さくて見えにくい。
何か緑がかった。
それの正体に気が付いた。志保は悲鳴を上げて壷を投げ出す。
ばしゃっ
水が零れ、地面の上を壷が転がった。
「いやっ!! 違うっ!! 篤志のことを……もう一度っ!!」
壷を拾い上げる前に誰かの手がそれを拾った。
「水を止められるのは一度だけ、といったでしょう? 」
穿き古したジーンズ、チェックのシャツ。右手の指で拾い上げ左手首で支える。
「か、河太郎さん……」
河太郎はにっと笑う。その口がやけに大きくて、唇が薄いことに志保は気が付く。
「さすが渡部の血筋」
器用に左手首で支え、右手をその内部に突っ込む。
壷がその手から落ちた。
右手は緑色の、水掻きのついた五本指の手を握っていた。
「……返してもうらうぞ」
「待って、篤志は?」
ぱしゃん、水音がした。
河太郎の姿が揺らいだ。ざっと溶け、壷から零れた水の上に広がる。それはすぐに公園の土に呑まれた。
志保は悲鳴を上げた。
近所の人が駆けつけ、救急車が呼ばれても叫び続けた。
彼女は鎮静剤を投与されようやく静かになった。
*
おー、両手があるって快感♪
えっ、あれでおしまいかってぇ? 狐ほどお人よしじゃないんでねぇ。ま、多少の無理は認めるけどぉ、異解釈の明鏡止水ってことでぇ。
そうそう、怖くないって抗議も聞かないから。これにて、終わりぃ。
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2008/07/24(Thu)16:07:01 公開 / たえん
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■作者からのメッセージ
読んで頂きありがとう御座います。
妖はその本性を隠すためにその名前を同音異義語に読み替えます。例えば、風神なら封氏、花精ならば佳氏という具合に。胡氏も読み替えです。
無理にこじつけたものですから、深く考えないでお楽しみ頂けたのならばよいのですが。
七月二十四日 加筆・修正しました。