- 『ナイスミドルになれなくて…… 第11話〜エピローグ 』 作者:鋏屋 / 恋愛小説 ファンタジー
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原稿用紙約57.25枚
通勤電車から始まった中年男と女子高生のちょっと微妙な関係。2人の間にあるのは親子愛に似た気持ち? それとも……
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これまでのあらすじ
※1〜9話は-20071031の過去ログにあります
毎日同じ電車で通勤する鈴木俊介は冴えない中年サラリーマン。そんな彼がふとしたきっかけで現役女子高生アンドウミキコと知り合いになった。
通勤電車の中だけの微妙な関係の2人
「俊介」「ミッキー」と愛称で呼び合う仲になる。
そうして明るく破天荒な彼女に、俊介は年甲斐もなく惹かれていく。年齢差や世間体を気にして悩む毎日な中、そんな俊介の悩みなどお構いなしに、学校をさぼってデートに誘う彼女。歳の差や世間体など関係なくいい雰囲気になる二人。
しかし、そのデートの後、突然俊介の前から姿を消してしまった彼女。
失意の中、自分が道化だったと考える俊介。
そんな折りに、俊介は自分の鞄からペンダントを発見する。それは彼女と知り合うきっかけを作った彼女のペンダントだった。
何故このペンダントが自分の鞄に入っているのか?
そんな疑問を抱え、彼女への認めたくはない仄かな『恋心』を抱えたまま、俊介は彼女の真意を確かめるため、彼女の通っている学校へと向かう。
学校で彼は彼女の名前が『アンドウミキコ』ではないことを聞かされ、さらに会うことも出来ずに追い返されてしまう。
ミッキーに会うことも出来ず、もう忘れようと諦めていた俊介に一本の電話が入る。それはミッキーの母親からだった。
『やましい関係ではない』と自答する俊介だったが、やはり親からの電話であることから緊張して応対するが、それは意外にも『自宅まで来てほしい』という切実な要望だった。
俊介はミッキーの真意を確かめるため彼女の家に行くことを決意するのだった。
第10話 母親
次の日、俺は少し早めに仕事を終え、会社を後にした。
仕事自体は際限なくある代わりに、今日しなくてはならない仕事もまた一つもない。
連休前や、明け頃はそれなりに忙しくもなるのだが、それでも他の部署に比べればどうと言うことはない。
各部署から上がってくるデータを、ただ、ただ統計していく単純な作業。膨大な数字の積み重ねが、この部署の全てだった。その課程で導き出される各部署の問題点が発覚したとしても、それを指摘し、何かしらの対応策を導き出すのは俺達ではない。
俺達は、求められた時に求められたデータを時間を掛けずに正確に提出するだけである。そこに才能や特殊技能の介在する余地はない。
誰かが置いたレンガの上に、またレンガを積む。そうやって積み重ねてきたデータというレンガを整理するのに、特別な才能など必要ない。
そんな部署に回されてくる人間などを会社が重要視する訳もなく、他部署から回されてくる社員は大抵3ヶ月も経たずに退社していくのが常であって『精算系統管理室』なんて言うご大層な名前が付いてはいるが、体の良い左遷先と言った感じであった。
しかし、俺は別段この部署が嫌ではなかった。この出世とは無縁の部署に配属が決まった時、むしろほっとしたと言っても良い。以前居た営業でもそれほど成績が良かった訳ではないし、上司や同僚、得意先といった煩わしい人間関係に翻弄されるのも好きではなかった。俺は此処で定年までの20年あまりの年月を、このデータの蓄積という職務と共にひっそりと過ごしていくのを望んでいるのである。
俺は昨日交わしたミッキーの母親との約束のため、彼女がいつも乗り込んできた駅で電車を降りた。俺がホームに降り立つと、俺の背後で電車のドアが閉まり、やがて電車は次の駅に向かうべく動き出した。
『暗くなったから、気を付けてな』
『うん、じゃあまたね、俊介』
彼女の最後の言葉が脳裏をよぎった。あの日、電車から見送った彼女の姿を思い浮かべながら、俺は改札へと向かって歩いていくと、改札の向こうにマクドナルドの看板が見える。
あの日、俺は彼女と此処で朝マックを食べたのだ。まるで夢だったか、と感じるほど昔のことのように思える。そんなことを思いながら、俺は改札を抜けロータリーに出た。
ポケットから、昨日電話で話した時のメモを取り出し住所を確認する。ローターリー横の交番の前にある地図を見ながらメモの住所を探すと、駅から結構離れていることがわかった。どうやらバスかタクシーで移動した方が良さそうである。俺はタクシー乗り場に向かいタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
後部座席に腰を下ろすと同時にドアが閉まり、車を発進させながら運転手がそう聞いてきた。白髪交じりの年輩の運転手で、雰囲気からベテランのようだった。俺はメモの住所を運転手に告げた。
「わかりますか?」
「大丈夫、わかりますよ。私は此処で女房の手よりも長いことハンドル握ってタクシー転がしてますから、今じゃもう無い店や家だって案内できますよ」
運転手は冗談交じりにそう答えた。俺はふと、ハンドルの横にあるモニターに目が行った。最近珍しく無くなったナビゲーションシステムだろう。しかし、電源が入っていないらしく、モニターには何も映し出されてはいなかった。
近頃はタクシーにも付いているのか……
そう言えば営業時代に比べ、めっきりタクシーに乗る機会も減ってしまった俺にとって、最近のタクシー事情など判るわけがない。そんなことを思いながら見ていると、俺の視線に気付いた運転手が照れくさそうに言った。
「コレね、先月会社から支給された、最近流行のナビって奴です。私ぁ機械がてんでダメなもんで、使えないから切っとるんです」
世の中全てがデジタル化されるのではないか? と思える今の時代にこのような運転手が駆るタクシーに乗り合わせる自分に、少し口元をほころばせた。いや、決していやな意味ではない。
そんな俺の反応をどうとらえたのか、運転手はにこやかに話を続ける。
「初めは珍しいから付けてみたんです。ところがコイツは大通りやバス通りなど、混む道ばっかり案内するんですよ。この町を初めて走るドライバーなら良いんでしょうが、私みたいに長年走ってる連中には必要ないですよ。逆にイライラしていけない……」
「でも、距離や時間が延びて儲かるんじゃないですか?」
「いやいや、大して変わりませんよ。こう言っちゃ何ですが、さっさと降ろして次のお客さん拾った方が効率がいいときもあるんですよ。それになんか機械に使われているみたいでどうも気持ちが悪いんですよ」
なるほど、そんなものかもしれない。
俺も会社ではパソコンを使い仕事をしているが、やはりペン片手に電卓の方が安心するときがある。電卓のボタンをせわしなく叩き、2度の検算で出た数字に安心感を覚えるのにどこか似ている感じがする。
この数秒の会話で、俺はこの運転手に好感を持った。
車はロータリーに面した大通りを走り、2度ほど曲がって坂を登っていく。窓の外を眺めるといつの間にか駅前のガヤガヤとした雰囲気は消え、閑静な住宅街といった様相を呈した町並みが広がっていた。
この町並みを見ながら、ミッキーは毎朝駅に向かっていたのだろうか……
そんなことを考えつつ車に揺られていると、不意に運転手から声が掛かった。
「この辺りですかね……」
どうやら先ほど指定した住所に着いたらしく、タクシーは左の歩道側に寄せてハザードを炊いて停まろうとしているところだった。
俺はメーターを確認しつつ財布を取りだし金額を払いつつタクシーを降りた。たいした時間ではなかったが、俺は愛すべき運転手と別れもそこそこに、周囲を見回し電柱に記載されている番地とメモの住所を確認した。
確かに住所を確認するとこの辺りのようだ。俺はとりあえず通り沿いに並んだ一軒家の表札と、電柱の番地を一つ一つ確認しながら坂を登っていった。
坂を振り返ると先ほどタクシーを拾った駅前が下の方に見える、なかなかいい感じの眺めだった。この眺めをミッキーも毎朝眺めながら登校していたのかと、少々感慨深くなってしまった。どことなく、今の妻の家を初めて訪問したときの心境に似ている。あのときは緊張して周りの風景など見る余裕さえなかったのだけれど……
タクシーを降りてちょうど3件目の家に『板垣』と書かれた表札が掲げられた家を発見した。その下の住居表示プレートとメモ書きの住所を確認したが間違いはない。
俺はとうとうミッキーの家までやってきたのだった。
表札が掲げられた化粧ブロックの下にあるインターホンのボタンを押す際、ふと『手土産』が何もないことに気が付いた。
学生が友人宅を訪れる訳ではない。れっきとした社会人が手ぶらで訪問するなど、少し考えればおかしいと思うはずなのに、俺は今まで気が付かずにここまで着てしまったわけである。つくづく自分の迂闊さを呪った。
しかし、今更どうすることも出来ない。ここまで着てしまった以上手ぶらだろうが呼び鈴を鳴らす他に選択肢は無い。俺は意を決し、インターホンのボタンを慎重に2度押した。
少々高鳴る鼓動に反して、その音は澄んだ音を響かせながら家の住人に訪問者を告げる。程なくして『はい』というあの電話で聞いた声が応答した。
「恐れ入ります、鈴木と申します」
俺は極力自分の高鳴った感情を隠すべく昔営業時代に培った『営業ボイス』でそう告げた。『少々お待ちください』という声とともにカチッと切断音がし、辺りに静寂が戻る。
少しして2段ほどのタイル敷きのたたき上に備え付けられた玄関ドアがガチャガチャと音を鳴らしつつ開いた。
「ようこそおいでくださいました」
俺の顔を見るなり、出てきたその女性は深々とお辞儀をした。俺もつられて頭を下げて応じる。
少し線の細い、優しそうな、それでいて芯の強そうな印象を受けるのは、ミッキーに似たあのネコのような瞳のせいかもしれない。やはり彼女とは親子なのだと納得できる雰囲気を醸し出すその女性は、さもほっとした表情の笑顔で俺を迎えてくれたのだった。
「会社を出てすぐに直行したものですから、失礼と思いましたが手ぶら出来てしまいました。すいません」
と社交辞令の謝罪の言葉を並べる俺に、彼女は優しく微笑みながら俺を案内する。
「いえいえ、どうぞお構いなく。本日は私が無理言ってお越し頂いたのですから……」
そう言って玄関のドアを開き俺を家に招き入れた。
やはり親子だからなのだろうか…… ミッキーとは雰囲気はまるで違うのに、どこか初めて遭った気がしないのは―――
俺は玄関を上がり、ちょっとした廊下を行き過ぎてちょうど6畳間を2つ繋いだほどの和室に通された。彼女がお茶を用意するといって部屋を出ていったのを確認すると、俺はぐるりと周囲を見回した。
一般的などこの家にでもあるだろう和室だったが、二間続きというのが少々意外な気がした。しかし当たり前だがこれといって変わったところは無い。少し線香の香りがするのはどこかに仏壇でもあるのだろうが、ここからは確認できなかった。
そのうちに先ほど入ってきた戸襖が開き、彼女がお茶の入った湯飲みと茶菓子を乗せた盆を持ちながら入ってきた。
「あ、どうぞ、お構いなく」
俺は恐縮しつつそう言って鼻の頭を擦っていた。
俺の前にお茶と茶菓子を置きつつ、彼女は俺のそんな姿を眺めながら少し笑った。
俺はその微笑に照れながら、また鼻の頭を擦る。
「失礼しました。娘から聞いていましたもので……少し懐かしく思ってしまって……」
彼女はそう言いながら俺の向かいに腰を下ろした。
娘から聞いていた……か。いったいどんな話をしていたのだろう、ミッキーは。しかし懐かしいとは……?
「鈴木さんのその鼻を擦る仕草…… 前の主人にそっくりなんですよ」
その言葉を聞いて俺はどんな顔をしていたんだろう。
「前の…… ご主人ですか?」
言葉を選ぶつもりだったのだが、口を付いて出てきたのは何とも陳腐な質問口調だった。
「ええ、未来の実の父親です。4年前に他界しまして…… 今の主人とは去年再婚したんです」
「そうだったんですか……」
俺はこの告白は正直ショックだった。未来ちゃん、いや俺にとってミッキーは、俺に亡き父親を重ねていたのだと言うことだったのだ。
いや、しかしそれは当たり前か…… そう考えた方が自然だと言うことは俺も判っている。5年前となると中学生だ。俺も娘がいるから何となく想像できる。一番多感な時季に父親を亡くした少女。行きずりで見かけた親父に亡き父親の面影を見るという感情はない話ではない。
所詮そんなものさ……
「ちょっと失礼します」
不意に彼女が席を立ち、俺の横を通り過ぎて続きの間に行き、何かを持って戻ってきた。
そしてまた俺の前に座り、持ってきた物をテーブルの上に静かに置いた。
それは1台の1眼レフカメラだった。
よく見ると少し汚れており、所々に傷があるように見える。そしてカメラの命とも言えるレンズには大きなひびが入っていた。
「前の主人の形見です。彼、カメラマンだったんです」
「事故…… か何かですか?」
我ながらぶしつけな質問だったと後悔した。形見、それも壊れたカメラなど、恐らく遺品に違いない。嫌な思い出をよみがえらせるだけではないか……
「事故というか…… 爆発に巻き込まれたと聞いています。かなり大きな爆発だったみたいで遺体は見付かりませんでした」
彼女はカメラを手に取り、歪んだシャッターにそっと指を添え、こう続けた。
「フリーの戦場カメラマンだったんです」
「戦場カメラマン……」
「ええ、世界中の戦地に行ってはそこの様子なんかを写していたんです。たまに帰ってきては写真集を出したり個展なんかを開いたりして…… その業界では割と有名だったんですよ」
そこまで話して、彼女はカメラを両手で抱えながら、愛おしそうなまなざしを投げかけていた。
「元々私は彼の作品のファンでした。殺伐とした戦争という状況の中で、あの人のどこか暖かみを感じられる風景や写っている人の笑顔がとても素敵でした。どうやったらこんな表情が撮れるんだろうって思って…… 私からモーレツにアプローチして一緒に住むようになって…… 半年後に未来を身籠もりました」
目を細める彼女の瞼には、恐らく亡くなった前のご主人の姿が見えているのだろう。それは同時にまだ愛していることを確かめるための儀式のように思えた。
「テニスが好きで、学生時代は全国大会にも出場したそうです。ほとんど家には居なかったけれど未来は良く懐いていました。家に居るときは未来に良くテニスを教えてやってました」
なるほど、ミッキーのテニスは父親の影響だったのか。大切な亡き父の思い出もあってあれほどテニスにこだわっていたわけだ。
「その影響もあってか、未来は中学に入ってからテニスを本格的に始めるようになりました」
「ミッキー…… あ、いや、未来さんから聞きました。全国大会で優勝するほどの腕前だったんですよね」
「ああ、そうでしたね。もうあの時は私もびっくりで、応援席で思わず涙が出てきてしまって……『何でお母さんが泣くの?』って未来に笑われちゃいました」
そう言って彼女は恥ずかしそうに笑った。
「主人が亡くなって半年ぐらいでしたから、そのこともあって一気に感情がこみ上げて来ちゃったんですよね」
そう言いながら彼女はカメラをまたテーブルの上に置いた。そしてテーブルの下からもう一つ品物を取り出し、カメラの横に添えるように置いた。
それは、俺が学校に届けたあのペンダントだった。
「学校まで届けて頂いたそうで、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました」
そう言いながら彼女は深々と頭を下げた。
「あっ、いえいえ、わ、私の方こそどうやって返したらいいか判らずに、学校を訪ねてしまって返ってご迷惑をお掛けしたのかと心配してまして……」
不意を付かれて俺は慌ててそう返した。迷惑を掛けたというより、『不審がられるのではないかと心配した』と言った方が正しいが、さすがにそれは言えなかった。
思えばミッキーとの妙な関係はこのペンダントから始まったのだ。何か特別な物を感じずにはいられなかった。
「これは元々私の物だったんです」
不意に彼女がそう言った。
「鈴木さん、このペンダントの裏にある名前を見て、あの子の名前だと思ったんですよね」
そう言いながら彼女はペンダントを裏返す。そこにはあの時に見たアルファベットの名前と、あの暗号のような番号が刻まれている。
「ええ、するとこのアンドウ・ミキコさんというのは……」
「私の名前です。そしてこのマスザキ・トオルというのは前の主人です。まだ結婚する前に、お互いの写真を入れて持っていようって…… それでこの上の数字は籍を入れたときにあの人が自分で掘ったんです。1985年5月1日、その日の日付を記念にって。あの人、自分のはちゃんと掘ったのに、私のだけ間違って反対に掘っちゃって……」
I,S, S861―――1985,5,1
なるほど、アレは日付だったのか…… 暗号でも何でもないじゃないか……
「あの子が妙に欲しがってて…… あの子父親が大好きでしたから。高校に進学した記念にあの子に譲ったんです。」
写真の青年を『彼氏かい?』と聞いた時の反応
ミッキーをアンドウミキコさんと呼んだときの彼女の表情
『コレはね、秘密の暗号だよ』と言ったときの悪戯っぽい笑顔
全部納得がいった。そう、全ては俺の勘違いだったのだ。
勘違いから始まり、その間違いを伝えぬままつき合ってきたミッキー。それに気が付かずに変な期待を抱いたまま、こんな場所にいる今の俺。俺の心の中にぽっかりと穴があいた気分だった。
なにをやっているんだ、俺は……
何もかもがただ虚しく、情けなかった。さらに恥ずかしくさえある。
まさに道化。
いや、そもそもそんなことを感じることすら馬鹿馬鹿しい。考えても見ろ、相手は16歳の少女だ。俺はそんな年頃の彼女たちが避けたがる中年親父サラリーマンだ。そこに接点などあろうハズがない。ましてや嫌がられることはあっても好意を寄せるはずが無いではないか……
そんなことを考えていると、俺は早々にこの場違いな状況から一刻も早く脱したい心境に駆られた。
「あの…… 鈴木さん、あの子に会って行ってくださいませんか?」
「えっ?」
唐突に彼女が俺にそう言った。
会う? 今更会って何を話すというのだ?
ミッキーと会わなくなってもう一ヶ月以上になる。会う必要が無いと判断したから会わなくなったのだろう。俺に父親を見ていたのは今の話からいって間違いない。それがもう必要ないから会わなくなったと考える方が自然だ。そんな相手が、わざわざ自分の家にまで会いに来るなんて嫌に決まっている。普通そうだ。
しかし、では何故この母親は俺のような中年親父に娘と会うことを勧めるのだろう。
「でも、未来さんは会いたくないんじゃないですか?」
俺は帰りたい一心でそう答えた。
「いえ、それはないでしょう。あの子はあなたに会いたかったんですよ…… だから、会ってやってってください」
そう言って彼女はまた頭を下げた。
そんな姿をした女性のお願いを退ける度胸なんて、俺は持ち合わせては居ない。俺はもうどうにでも馴れという半ば自棄のような心境で答えた。
「……判りました。それで、未来さんはどちらですか?」
確か外から見たときは2階建てだった。この和室の大きさから考えて子供部屋は2階だろう。
「後ろです」
彼女の答えに俺は度肝を抜かれ、慌てて振り向いた。
しかし、そこにミッキーの姿は無かった。俺は深く息を吐きながら振り向いて彼女を見た。そんな俺の姿を見ながら彼女は立ち上がり、俺の横を通り過ぎて先ほどカメラを持ってきた続きの間に向かった。
「どうぞ、こちらです」
俺は疑問を感じつつ立ち上がり、彼女の後について隣の部屋に入った。
先ほどの部屋と同じくらいの広さで、西側に配された窓から茜雲が見える。先ほどからする線香の香りがその強さを増したの感じ、仏壇があるのがわかった。
丁度隣の部屋の俺が座っていた場所から戸襖の影になったところにそれはあった。
数本立つ線香の煙の向こうにある白い布にくるまれた四角い物体と
揺らぐ煙の向こうで笑う色のない写真―――
『あははっ 驚いた? 俊介!』
5月の美空のような澄んだ笑顔で、モノトーンのミッキーはそう言ったような気がした。
ああ、驚いたさ…… なあ、俺、今どんな顔してるんだ?
さっきから接地感の無い足の膝が揺れるのをどうにかこらえながら、俺は心の中でそう答えていた。
第11話 日記
「心臓病でした……」
リンの澄んだ音が辺りに染みるように響く中、彼女はそう語り出した。
「去年の12月の初め頃でした。部活の練習中にあの子が倒れたってコーチの方から電話が入りました。それから学校の先生が車で病院まで運んでくださって。
私も急いで病院に向かいました。ですが病院ではあの子、いつもと変わらない様子で笑いながら『大丈夫だよ。ちょっとクラッとしただけだから』と言ってました。
その日は一応検査をして貰い帰ったんですが、後日病院から『娘さんの検査結果の件でお話ししたいことがある』と電話がありました。
検査の結果、重度の心臓病であることが判ったんです。かなり進行しているらしく、このまま行けばもってあと1年から2年と言われました。
私は目の前が真っ暗になりました。主人に続いて娘まで私の元から居なくなってしまう…… そう考えると居ても立っても居られず、お医者さんに詰め寄りました。『助ける方法は無いのか』と……」
そこで彼女はいったん言葉を切り、少し疲れたような表情で深く息を吐いた。
そんな彼女の姿を見ながら、俺はかける言葉もなく、ただ無言で彼女の言葉を待っていた。
「心臓移植か、若しくは手術で心筋の悪い部分を切除するしかないとのことでした。ただ、あのこの場合、かなり広範囲に切り取る事になってしまうので、成功するかは五分五分だと言われました。
心臓移植は今の日本では出来ないそうなんです。さらに提供者が少なく、順番待ちが長くて恐らく間に合わないだろうとのことでした。
もうあの子に残された選択肢はその手術を受けるか、それとも病気が進行して死を待つかの2つしか残されてはいなかったんです。
そのことを娘にどう伝えるか悩みました。先生は気を遣ってくれて、『私から伝えましょうか?』と仰ってくださったのですが…… お断りしました。
なんと言うか…… それは私の、親としての義務だと思ったんです」
俺は聞きながら胸が締め付けられるような思いで一杯だった。
俺にも娘が居る。人の親であるが故、彼女の気持ちが痛いほどよく分かる。俺が同じ立場だったらどうだろう。余命幾ばくもないことを娘に伝える勇気があるだろうか……
だが、やはりそれは彼女の言うとおり、親の義務なんだと俺も思う。
「今の主人と相談して3人でそのことを話すことになったのは、それから3日たった夕食の後でした。
私は身を切られるような思いであの子に話しました。病院で伝えられた事をそのまま話しました。努めて冷静に話したつもりなんですが、たぶん私の声は震えていたでしょう。
そしたらあの子、少しうつむいてこう言ったんです。
『なぁんだ、やっぱりそうか……』って。
知っていたの?って聞くと
『何となくね。夏ぐらいからかなぁ、練習中に時々胸が痛くなるときがあってさ。何だろ? って思ってたんだけど、それが最近頻繁にあったから……』
何故言わなかったのかと聞くと『いつもすぐに治まるし、それに選抜選考近かったから』と言ってました。
話の最中、あの子は終始普通に喋っていました。さも他人事のように。でもそれが強がりだって事は私にはよく分かります。私たちに心配かけさせないようにって精一杯強がっていたんでしょう……
前の主人が他界したときもそうでした。努めて明るく振る舞って私を励ましてくれました。そういう子でしたよ、あの子は……
でも、病気の都合でテニスを辞めなければならなかった時はかなり落ち込んでいる様でした。テニス自体も好きだったんでしょうが、それ以上に亡き父親との最後の接点が無くなってしまったことがショックだったみたいです。
部活を辞めてもいつものクセで早く起きてしまうみたいで、時々そのままラケットを持って学校に行って朝練を覗いていた様です」
ということは、俺と会った頃はもうテニスはやっていなかったということになる。レギュラーから漏れてしまったと彼女は言った。だが実際はレギュラーどころか、テニスができなかったのだ。『頑張って練習して、またレギュラーになればいい』と、気休めにもならない俺の言葉を、ミッキーはどんな気持ちで聞いていたのだろう……
俺はなんて……っ!
「それからあの子はしばらく元気がありませんでした。手術のことも、受けるかどうか悩んでいました。成功しても今までのようにテニスは出来ないと言われた事が哀しかったんでしょう。
どうせテニスが出来ないのなら…… あの子はきっとそう考えていたんだと思います。私たちがいくら言っても、あの子は首を縦には振ってくれませんでした」
親としては辛い。
そうこうしているうちにも、病気は確実に進行していく。だが、高校生なら本人の意思がない限り、手術はあり得ない。
「それがある日、急に『手術を受ける』と言いだしたのです。その数週間前から、テニスが出来なくなって、元気に振る舞っているのにどこか抜け殻のようだったあの子が、昔のような元気を取り戻しているのに気が付いていました。私は直感的に『好きな人が出来た』と感じました。女の感ですかね……」
好きな人―――
その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中を電気が走ったような、しびれを伴う痛みが走った。
もしかしてそれは……
「42%…… あの子が受けた手術の術後生存率です。結局あの子は帰ってこれませんでした。
それでもあの子にそれを決心させるほど、その人はあのこの中で大きな存在だったんでしょう。親としては複雑ですが…… 」
そう言って彼女は俺に向かって頭を下げつつこう言った。
「今は感謝しています…… 俊介さん」
「あ、あの、未来さんは、私のことをなんと?」
「いいえ、直接には何も聞いてはおりません……」
そう言うと彼女は仏壇の下の扉を開け、1冊のノートのような物を取り出し、俺の前に置いた。薄い緑色の表紙に金色の文字で【Diary】と綴られていた。
「葬儀の後、あの子の机の引き出しを整理していたらこれが出てきました。あの子が生前付けていた日記です。どうも去年の暮れぐらい、丁度病気が発覚してから書いていたらしく、それほど量があるわけではないのですが…… 実はこの日記で、私はあなたのことを知ったのです」
そこで彼女は言葉を切り、俺の目を見つめてこういった。
「今日はこれをあなたに読んで頂きたくて来て頂きました。ここには、あの子のあなたに対する気持ちが、嘘偽りなく綴ってあります。あの子の純粋な気持ちが、あの子なりの言葉で書いてありました。母親として…… そして同じ女として、あの子の心をあなたに伝えてあげたかったんです」
そう言って彼女は静かに目を伏せると、目尻に光る粒を人差し指ですくっていた。俺はそのミッキーの日記を両手で持ちながら、そんな彼女にかける言葉が見付からず、無言のままそんな彼女を眺めつつ、自分無力さを呪っていた。
ミッキーの家を後にし、そのまま家に帰った俺は夕飯を済ませた後、2階のパソコンの前で日記を読むことにした。時間的な都合もあって、俺は日記を借りてきていた。
幸い妻はみたいドラマがあるとかで、夕飯の片付け後は今でテレビにかじりついてる。
別にどうと言うことではないだろうが、やはり少々後ろめたい気分になるのは致し方ないだろう。
俺はパソコン用のアームライトを付け、緑色の表紙を慎重に捲りミッキーの日記を読み始めた。
《日記》
今日また朝練の時間に家を出た。
もういい加減にって自分でも思うんだけど、やっぱりやってしまう。
こんな自分にちょっと自己嫌悪…… ああ嫌だ
〜〜〜〜
今日、正式に退部届けを出した。宮村コーチのあんな顔はちょっと見たくなかった。こっちもヘコむ。でも、自分なりのケジメ、これでおしまい。
少しあっさりしすぎてたのかな…… おしまいってこんな物なのかもしれない。
〜〜〜〜
やっぱり今日も朝早く出ちゃった。しかもラケット持って。
何やってんだろ、あたし。
でも今日、電車の隣の車両でちょっと気になる人発見!
鼻を擦る感じがちょっとお父さんに似てる気がする。顔は全然似てないけど……
〜〜〜〜
昨日見かけた人、今日も乗ってた。
そんでもって今日も鼻擦ってた。やっぱり似てる気がする。
明日も乗ってるかな?
結構気になっちゃってるあたし……
〜〜〜〜
今日は乗った瞬間からあの人を捜した。
居た!
いつも同じ場所に座ってる。なんか指定席みたいでウケるんだけど。
それで、今日はあたしも車両はさんで隣に座ってみた。
そんでチラッと窓から覗いてみた。ちょっと緊張するね、コレ。
新聞めくる度に『バレた?』とか思っちゃう。結構スリリング
―――と思ったら間に座られた。くそ〜っ 見えないじゃん! あたしの唯一の楽しみを邪魔しないでよっ!
よ〜し、明日は同じ車両に乗って観察しよう
ってあれ? 明日休みじゃん。う〜ん残念。月曜までおあずけかぁ……
〜〜〜〜
そんな感じで日記は続いていた。俺は全く気づいていなかったが、どうやらミッキーは2月も前から俺に気づいて観察していたようだ。俺の鼻を擦る癖以外に他の俺ですら気づいていない癖も、細かく分析して見ていたようで、俺は読みながら少々恥ずかしくなってしまった。そして日記はあの日…… 俺が初めて彼女を知った日の部分にさしかかった。
《日記》
今日思い切って声をかけてみた。
って言っても『となり良いですか?』ってだけだけど。
目があった瞬間、なんか一瞬びっくりした顔してた。
ヤバイ、顔に出てたかな…… あたし。
確かに他に席空いてたし、不自然だったかなぁ…… 変な子なんて思われたかな?
ちょっとシクったかなって思ったけど、大丈夫だったみたい。
なんか妙なかっこして新聞読んでるなぁって思ってたら、どうもあたしに気を遣ってるみたい。ちょっとカワイイ
よかったぁ、想像通りの人で。ここで少々悪戯の虫が騒ぎ出すあたし……
寝たふりして、ちょっと肩にもたれちゃったりしてっ!
そしたらちょっとビクってした。そんでもって咳払いなんかしちゃって真面目に起こそうとするもんだから、あたしもう可笑しくて笑いそうだった。
でも、少ししたら動かなくなった。どうやら起こすの諦めたみたい。
そしたら今度は肩を動かさずに新聞めくってた。きっと寝てるあたしを気遣ってそうしてるんだって思った。それが伝わってきて、ちょっぴり悪いことしたなぁって反省……
あたしの予想通り、とってもいい人。少し嬉しかったり……
気を遣ってくれているせいか、彼の肩はかなり快適♪ とっても優しくて、暖かくて、マジで寝ちゃったよ。あたしってお馬鹿。もう少しで乗り過ごすトコだった。
思わずダッシュで降りちゃったけど、窓からあの人が見えた。あの人もあたしを見てた。 あたしのこと、どんなふうに思っただろう……
やっぱりちょっとシクったのかな……? あたし。
〜〜〜〜
今日はちょと失敗だった。
昨日のこともあって、ちょっと気分的に微妙だったから隣の車両から乗った。
あの人がいつも座ってる席を覗くと、やっぱり今日も座ってた。
でも今日は隣に先客が居た。仕方ないから前の席に座ったんだけど、彼ったら新聞で顔が見えやしない。あ〜あ、と思ってipod聞いてたら、なんと、あの人が声をかけてきた!
もうメチャびっくり!! そしたら昨日あたしが落としたペンダントを持ってた。中の写真見て「彼氏かい?」って聞かれた。
お父さんの写真なんて歩かないもんね…… 普通。
「お父さんです」なんて言えないし…… あ〜あ、よりによってこの人が拾うなんてなぁ…… 最悪だわ
〜〜〜〜
今日、朝少し胸が痛かった。最近間隔が短くなっている気がする。やっぱり死んじゃうのかな? あたし……
なんて朝から少し悲劇ヒロインっぽい事を感じながら、やっぱりいつもの電車に乗り込む未来ちゃんなのであった、マル。
今日は良いことが2つあった。
まずひとつ目
あの人の名前ゲット! 鈴木俊介って名前。歳は39歳だって。
別に年は聞いてないんだけど教えてくれた。ちょっと緊張しててウケるよ、俊介って。
さらにウケるのは、あたしをお母さんの名前と間違えてた。ペンダントの裏にあった名前があたしの名前だと思ったみたい。それでそのまま成り行きであたしがアンドウミキコになってしまった。ちょっと小悪魔なあたし……
そして二つ目
俊介って呼んでもOKになった。
でもってあたしはミッキー。
いくらなんでもミキコさんってよばれるのは正直微妙だから「ミッキー」って呼んでもらうことにした。お母さんミキコだし、違和感なし。
俊介とミッキーって、けっこー響き良くない? 俊介はあたしのこと「ミッキー」って呼んでくれるかな……?
明日もまたこの電車で会う約束をした。
楽しみ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
彼女の日記を読んでいると、あの時の状況が目に浮かぶようだった。
そう―――
あの時俺は、幾ばくかの罪悪感と恥ずかしさ、そして当の昔に忘れていた感情にとまどいながら彼女に惹かれていったのだ。
学校のこと
部活のこと
俺の娘の話
一緒に聞いたコブクロの『蕾』
少し右上がりの、丸みを帯びた彼女の文字は、彼女の心情とともに、その時の情景をなぞるように綴られていた。
《日記》
昨日、今度の大会のメンバーが発表になったらしい。
判っているけどやっぱり悔しい…… ホント、ヘコむよ。
俊介は「次がんばれば良いじゃん」って言ったくれたけど、あたしには次も無いんだよね、実際。結局さ、あたしからテニス取ったら何にも残らない。
病気になるって、こういう事なんだよなぁって実感した。
俊介には罪はないんだよ―――
でも、何も知らない顔して言うからちょっとだけ意地悪したくなって、俊介に「会社さぼってデートしよう」って言ってみた。案の定困った顔する俊介。
期待なんてしてなかった。ただ、ちょっと俊介を困らせてみたかっただけだったんだ。マジごめんね、俊介。
でも、俊介は私の後に続いて降りてくれた。
ホント、びっくりしたけど…… ちょーうれしかった! もうね、駅だってこと関係なく、抱きついちゃおうかって思ったよ。
あたし絶対顔に出るから後ろ向いちゃったけど、ほんとに嬉しかったんだよ、俊介。
その後、横浜行って映画見て、元町行ってプリクラ撮って……
あ、そうそう、まえ清美が言ってたおまじない試してみた。好きな人のプリクラを携帯の電池の裏に張ると両思いになれるってやつ。
俊介にはちょっと教えられないけど……
そんでもって俊介、ipodデビュー! パチパチパチ…… きっと俊介のことだから、ハルちゃんに教えて貰いながらも、必死に曲入れるんだろうなぁ……
ちょっとハルちゃんが羨ましかったり……
そして、生まれて初めて男の人と二人っきりで観覧車に乗った。夕日が凄い綺麗で、ずっとこのままだったら良いのにって思ってたんだけど、すぐに終わっちゃった……
また、俊介と乗りたいなぁ……観覧車。
帰りの電車の中で、少し胸が痛くなった。もう、こんな時になんなのっ? って思ったけど、俊介にもたれ掛かってしまいました……(嬉
でも、混んでたしOKだったかな?
俊介ってば、少しドキドキしてたみたい…… カワイイ奴め!
不思議と俊介にもたれてると胸の痛みが取れていくような気がした。ひょっとしてエスパー? なぁ〜んてね。
今日は楽しかったなぁ……
あ〜あ…… なんか悔し
何で、俊介が17歳じゃないんだろう―――?
何であたしが40歳じゃ無いんだろう―――?
そしたらあたし、きっと俊介の良い奥さんになってたのになぁ……
帰ってきて、夕飯のあとお母さんに手術するって言った。
大丈夫、私は怖くない。
きっと上手くいく。
そしてあたしは絶対
もう一度俊介に会う!
〜〜〜〜
今日、とうとう手術の為に入院する。
何だろ……
やっぱり怖い! 凄い怖い! 怖くてたまらないっ!
痛くないかな……
麻酔が途中で覚めちゃったやっぱり痛いよね……
お母さんやお父さんは大丈夫だって言ってた。でもそれって根拠無いじゃん!
死ぬのが怖いよ。
死んだらどうなるの? あたしはどこへ行くの? お父さんのトコ? わかんないっ!
マジわかんないよっ!
忘れられるのも怖い。
そりゃ、お母さんやお父さんは覚えてるだろうけど、友達は? 先生は? クラスのみんなは? あたしのこと忘れちゃうんじゃないの? そんなの哀しいよぉ……
俊介…… 会いたいよ!
今すぐ会いたいよ!
手術が失敗して死んじゃったら、俊介に会えなくなるんだよぉ……
そんなの嫌だよ。
ホントに怖いよ、俊介。あたしこんなに度胸無いなんて自分でも思わなかった。
神様、お願い! 一生のお願いっ!
他になんにもいらないから、また俊介に会わせてください……
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
彼女の日記はここで終わっていた。
この翌日、彼女は手術を受け、帰っては来なかったそうだ。
あの横浜でのデートの時、彼女はやはりどこか違っていた。何となく判ったのだが、それがどんな事だったのか、俺には判らなかった。
『あたしは俊介から勇気を貰ったんだよ』
彼女の言葉が耳の奥でリフレインする。
勇気―――
あの小さな体で、そんな重い決断を迫られていたなんて―――
あの時、何故俺は抱きしめなかったんだろう……
世間体? 社会的立場? そんな物くそ食らえだった。感じ取ってやれていたら、判っていたら、もっと他になにか言葉をかけてあげられたのに。彼女の背負っている荷物を、ほんの何グラムかでも軽くすることが出来る言葉をっ!
俺は痛恨の念とともに目頭が熱くなるのを感じていた。
そして俺は、白紙のページをパラパラと捲ってあるはずの無い彼女の痕跡を探した。彼女はこの翌日手術を受け亡くなったのである。痕跡などあるはずがない。それは判っていたのだが、それでもほんのちょっとでも良い、何か彼女の『証』のような物がほしくて、俺は涙でぼやけた視界を拭おうともせず、ただページを捲った。
そして、最後から2ページ目に、それはあった……
『ミッキーの手紙』 俊介へ
「俊介へ」
俊介がコレを読んでいるって事は、あたしはもう居ないんだね。
書いてるのはあたしなのにちょっと微妙だな……
もし手術が上手くいって、あたしがまた俊介に会えたなら、コレはちょっと見せられない。恥ずかしくて。
ゴメン、急に会わなくなって…… まあ、こういう訳ですから、許してくれたまへ。
そっか、結局ダメだったんだね、あたし。
この日記はあたしの本当の気持ち。あたしが俊介のこと、どう思ってたなぁんてのも書いてある訳よ。ちょっと恥ずかしいけど、まあいなくなるわけだし……
あの日、あのデートの日、俊介の鞄にあのペンダントを入れて賭をしたのよ。きっと俊介はペンダントを見つけたら届けてくれるだろうって。
そして、そのころにはお母さんはきっとこの日記を読んでるだろうから、俊介に渡してくれるだろうって思った。あたしの読みもなかなかでしょ?
あたしね、病気が判ってテニスできなくなって、もういいやって思ってた。怖い思いして手術受けたって、長く生きられるか判らないって話だったし……
でも、俊介と出会ってさ、もっと…… 少しでも良いから長く俊介と居たいって思った。もっと俊介のこと知りたかったし、もっとあたしのことも知ってほしかったし、もっともっと話したいことがいっぱいあったから―――
だから手術することに決めたの。
あのね、笑わずに聞いてくれる?
あたし、俊介のこと、大好きだよ。
世界中で一番大好きだよ。
ちょっとさ、歳が離れてるけど『お父さんに似てるから』とかじゃなくて、ホントに大好きなんだからねっ!
あ〜あ、言っちゃった。というか『書いちゃった』か……
ハルちゃんと奥さんには見せられないね(笑
ねえ、俊介?
あたしが死んだら、いっぱい悲しんで。そんでもってもう涙枯れるぐらい泣いてくれる?
でも引きずらないで…… あっ、でもちょっとは引きずってほしいかも。
ありがとう俊介、あたしと出会ってくれて。
電車の中だけだったけど、俊介と一緒にいたあの時間はあたしにはとっても幸せな時間だったんだよ。
ほんと、短い時間だったけど、あたしはきっと一生分の恋をしたと思う。
人生の最後に想う人が、俊介でホント良かったよ。
最後に一つ我が儘を言って良い?
あたしのこと忘れないでね。
あたしが居たって事、あたしが俊介を好きだったって事……
ついつい忘れちゃっててもさ、たまに思い出してくれればいいからさ。そしたら許してあげるさ。
だから俊介、一生のお願いっ!
忘れないで!
大好きだよ、俊介……
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
何言ってるんだよミッキー
ありがとうなんて言わないでくれ……
俺は、何もしてあげられなかったんじゃないかっ!
忘れないでだって?
あり得ないよ……
君にもう一度会いたくて、学校まで行ったんだぜ?
君の気持ちを確かめたくて、家にまで行った。
自分の感情にどうしても逆らえなくてこの日記をよんで……
忘れられないから
忘れられないからっ
字が……
字がぼやけて見えないほど、悲しいんじゃないか……っ!
エピローグ 「ナイスミドルになれなくて……」
甲高い女子高生達のわら声でふと我に返る。
新聞越しに見える女子高生達は、入り口に立ちおしゃべりに夢中な様子だった。
いったい何がそんなに面白いんだろう……
俺の横に空いた席には、ほんの1月前まで座っていた少女の痕跡は全くといって無い。当たり前の事だが、それが俺には非道く理不尽なことに思えて仕方がなかった。
『ねえ、俊介コブクロって知ってる?』
鼓膜の奥にミッキーの声が蘇る。
俺は新聞を折り畳むと、鞄からipodを取り出し、イヤホンコードを引っ張り出すと耳に挟んでスイッチを押した。しばらくして曲が流れ出す。
流れてきたのは『風』という曲だった。
なんとももの悲しいメロディーだったが、今の俺の心には心地よかった。
目を閉じ、詞を追ってみた。どうやら別れの曲らしい。
左肩にかかる、居眠りしてもたれ掛かった頭の重み
柑橘系の微香をまとわせた瑞々しい黒髪のポニーテール
ニキビを気にして少し降ろしている前髪
猫のように良く回る瞳
刃に衣を着せぬキツイ口調
ipodの片方のイヤホンを借りて、一緒に聞いたコブクロの歌
そのコブクロを熱心に俺に薦める時の熱血教師のような仕草
時折見せる物思いげな横顔
親父ぐらい歳の離れた俺を「俊介」と呼び
少し鼻に掛かったような笑い声と
5月の晴れ渡った透んだ美空のような笑顔……
『忘れないでね』
ああ、わすれないさ……
何せ俺は君に恋をしていたのだから…… 良いおっさんが年甲斐もなく、ただ純粋に。
確かに初めはとまどったよ。それに認めたくはなかった。自分の娘と変わらない年の女の子にそんな感情を抱くなんて。
でも、今は違う。
君は俺のことを好きだと言ってくれた。君はこんなオジサンの俺を……
認めないのは、なんか君に失礼な気がするんだ。
俺がもっと上手く君とつき合えたなら……
もっと気の利いた台詞が口をついたなら……
もっと君を理解できたなら……
そう思わずには居られない
俺の方こそありがとうって言いたいよ、ミッキー。君と出会ってから、どんなにこの通勤時間が楽しかったことか。君に会えるのがどんなに待ち通しかったことか。
俺は胸のポケットから携帯電話を取り出し、裏のふたを外して電池を取り出した。
そこに張ってあるプリクラには、子猫のような瞳を輝かせながら笑うミッキーと、照れて妙に引きつった顔で笑う俺が写っていた。
『おまじない』
『何のおまじないだ?』
『ないしょぉ〜! 教えたげな〜いっ、あははっ』
なんだよ…… おまじないなんて必要なかったじゃんか……
電車内に彼女が降りていた駅への到着を告げるアナウンスが流れた。窓の外にはホームが流れていき、急速にスピードが落ちていく。
ふと、改札へと上がる階段に目をやる。
あの日、初めてこの駅に2人で降りた事が、もう何年も前のことのように思えて、俺はたとえようもない寂しさを感じていた。
あの日に戻って最初からやり直せたら、俺はもっと上手く、彼女とつき合えるのに……
「ゴメンな、ミッキー……」
そう呟いてみたのだが、開いたドアから乗り込む乗客の雑踏に俺の呟きはかき消されていった。
ゴメンな、俺、ナイスミドルになれなくて……
( 完 )
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2008/07/15(Tue)18:36:20 公開 / 鋏屋
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■作者からのメッセージ
どうも、鋏屋でございます。
初めて読んでくださった方、ありがとうございます。
毎度読んでくださる方、大変感謝しております。
やっとどうにか完結しました。ラストは一気にエピローグまでの投稿となりました。
初めて恋愛物に手を出したのですが、どうも白けてしまいそうで微妙な着地点となってしまいました。
途中、ヒロインがいなくなってからの話の持って行き方が上手くいかず、大インターバルを空けてしまいました。続けて読んで頂いている方にはホント申し訳ありませんでした。
途中、「もうダメぽ……」とか思っていたのですが、知人から『続きが気になる』なんていう悪魔のささやきをもらい、乗りやすい私はひょいと乗ってしまって続きを書くことになりました。
もう片方の方もちょっと間が空いてきてまして「こりねぇな、お前は!」との呆れ声が聞こえてきそうな悪寒が……
なにはともあれ、最後までおつき合いくださった方々には大変感謝いたしております。本当にありがとうございました。
鋏屋でした。