- 『死体と子供と犬の骨(リメイク)壱〜伍』 作者:オレンジ / 未分類 未分類
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全角26048.5文字
容量52097 bytes
原稿用紙約77.25枚
男が女の死体を担いでやってきた今にも崩れそうな寺。住職が男に見せたものは、この寺に代々受け継がれた「九相図」だった。業を背負ったこの男の運命は。不登校児のアキトと共に、過去の因縁に巻き込まれていく。
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壱
男は鬱蒼とした雑木に覆われた、今にも崩れ落ちそうな石段を、脚を引き摺る様にして一段また一段と登っていった。寺の本堂にたどり着くまでにはあと十三段ある。辺りは夜の帳に覆われ何も見えない。
眼球の周りの肉は落ち窪み、頬はこけ、肌は艶無く浅黒く汚れていた。身に着けた服飾品は、それでいて高価な物ではあったが、既に着倒されていて、汚れや綻びがあちこちに目立っている。男はここしばらく、着替えすらしていない様だ。
男は、一段一段命を削るかの様にして、やっと石段を登り終えた。そして、肩に担いでいた荷物をそっと地面に降ろした。いや、荷物などと言っては語弊があろう。男が大事そうに自分の肩から降ろしたものは、若い女性だった。年の頃は二十代前半といったところか。目鼻立ちのはっきりした、小顔の美人だ。ただ、惜しむらくは、彼女は既に呼吸をしていなかった。また、心臓も機能していなかった。彼女から、人肌の温もりは全く感じ取ることが出来なかった。
刻はいつしか午前二時を過ぎていた。石段を登り終え、女をそっと地面に寝かせると、男は辺りを見回す。正面には、軒先の崩れかかったこの寺の本堂がある。本堂へ上る為の三段程の木製の階段は真ん中からへし折れている。この粗さんだ光景を目の当たりにすれば、この寺に誰も住んでいないことは明白である。人の気配は全く感じられない。本堂まではおよそ五間の距離がある。そこまでの間には、参道の名残だろうか、石畳らしきものがまばらに敷かれている。石畳の隙間からは、雑草が伸び放題となっていた。もう何年も人の手は全く入っていない様だ。男から見て右手には本堂の裏へ通じているのだろうか、下りの石段が見えた。その先には、漆黒が口を開けていた。
男は、精彩無くグッと背伸びをすると、寝かされた女の横へ座り込んだ。
「レイコ、今夜はここで泊まる事にしような。人は居なさそうだし、ここならしばらく寝泊り出来そうだ」
男は、女の頬をそっと撫でた。冷たい……。しかし、これが男にとって彼女の体温だった。
「レイコ、すまないなあ。俺の所為でこんな苦労かけて。こんなに冷たくなって。でも、もうっちょっと辛抱してくれよな。もうすぐきちんとした医者連れてってやるからさ。逃げ切ってやるから。元気になって、また旨いもんでも食いに行こう。な、レイコ……」
男は、女の手を取り、上半身を起こす。そのまま脇に自分の肩を入れて、再び女を担ぎ上げた。
「さ、本堂の中に行こう。この時期、明け方はグッと冷え込むんだ、お前の体に良くないからな」
弛緩した女の体は、男の肩にずっしりとのしかかる。ずるずるとつま先を引き摺られながら、女の体は本堂の中へと連れられていった。
本堂の中は、当たり前だが明かり一つ無かった。月や星が夜空に輝いている分だけ、外の方がまだましだ。だが、別にそれでも良い。いや、返って好都合だろう。明かり一つ無い部屋での生活など、この逃亡生活の過程で既に慣れっこだし、明かりが灯っていると変に怪しまれる事もあろう。暗闇の中で二人肌を寄せ合って眠る、このひと時だけが生きている証だと男は感じている。
「レイコ、おやすみ。明日は、俺、早く起きてあの車処分してくるから、その間は大人しくしていろよ。そろそろあの車も足が付くかも知れない」
女の冷たい唇に男はそっと口付けると、女の体に寄り添い、瞼を閉じた。
その時。
「誰じゃ、そこにいるのは」
男は、反射的に上半身を起し身構えた。
そこには、禿頭の老人が、ロウソクの様な物を手に持ち透けるかの如く自然に、空気の様に立っていた。袈裟を被っているところから、僧侶であろう。この寺の住職だろうか。
「誰だ、てめえ!」
男は吼えた。
「私はこの寺の住職だ、そなた等こそ何をしておるのだ。勝手に忍び込んで」
「何だと、まさかこんなボロ寺に坊主がいるとはな。まあいいさ、悪いが今晩だけ泊めてくれねえか。行くところが無いんでね。それから、俺とレイコが此処にいる事は誰にも喋るんじゃねえぞ」
男はそう言って住職を睨む。とても物を頼んでいるとは思えない不遜な態度だ。
「それは構わんが……そちらの女性は」
住職は男の隣に横たわる女の様子がおかしい事に気付き、少しだけ近づき、手にした蝋燭の炎でその顔を照らしてみた。
「こ、これは……この女性、既に死んで……」
蝋燭の明りに照らし出されたその顔は、精気が抜け、作り物のように青白く透けた肌をしていた。明らかに生者のそれとは違っていた。
「まさか、そなたはこの死体を此処へ捨てていくつもりだったのではなかろうな」
「坊さんよ、何が言いてえんだ? 俺は、組を抜けて追われてんだよ。ただレイコと一緒に此処でしばらく厄介になろうと思っていた、それだけだ。なあ、レイコ。この坊さん何かおかしな事言ってるぜ」
男は隣に横たわる女に喋りかける。住職は、それを見て言った。
「おかしいのはそなたの方であろう。この女性はどう見ても生きてなどない。医者ではないので死亡診断書は書けぬが、見て分からぬか、触れて分からぬか」
男は、その住職の言葉を聞くと顔面を真っ赤にしてまくし立てた。
「貴様、フザケんなよ! レイコはなあ、病気なんだよ! 体が冷たくなって、体が動かなくなっちまったが、絶対治る病気なんだよ。毎日俺はレイコと話してんだよ、将来の事とかよ、明日のメシの事とかよ! 死んだ人間と話せる訳ねえだろうが」
「その仏様は、未だ成仏出来ずにおるのだ。そなたがその様な未練がましい事をしておる限りな。よって、そなたの業も消え去る事は無い。どうじゃ、私でよければこの女性のご供養をさせてもらえぬかのう」
「いい加減にしろよ! レイコは生きてるんだよ。お前にレイコの何が分かるんだ。今でも俺に話しかけてきてるじゃないか『もう堪忍してあげて』ってな。わかんねえかよ」
男は、住職の胸ぐらを掴んだ。男の眼には涙が溢れ、今にも零れそうだ。住職は、一瞬たりとも男から視線を外す事は無い。
「やれやれ、まこと業の深い男だのう。そなた、もしかして運び屋かも知れんな」
「もう二度と、下らない事喋るんじゃねえぞ。俺をなめんじゃねえ」
真夜中の真っ暗な静まり返った本堂に、男の怒声だけが響く。突き飛ばす様にして、男は掴んでいた住職の襟を放した。
「どうやらそなたには、アレを見せなければならん様だな」
住職は襟元を揃えながら言った。
「アレだと?」
「九相図、というものをご存知無いか」
「くそう……ず?」
「この寺に代々伝わる九相図なるものをご覧に入れよう。さすれば、そなたのその深い業も消え去ろう」
住職は蝋燭のわずかな明りを頼りに、本堂正面の以前はご本尊様があったであろう壇前に向って歩き始めた。
「ち、ちょっと待てよ。一体お前は何なんだ?」
住職は、その言葉に反応して、ゆっくりと禿げ上がった頭を回転させ、男を見た。皺に埋もれていた眼がぎょろりと開かれ、男の姿を捉えていた。
「そなた、苦しいのであろう。その苦しみから解き放たれたいのだろう……ならば、私の言うとおりにするがいい」
住職は、仏壇あたりから、一尺角で深さ三寸くらいの大きさの桐の箱を取り出し、男の前までやってくると、正座をし、その桐の箱をそっと床に置いた。
「まあ、座りなさい」
男がその場に腰を下ろし、あぐらをかくと、そこには大事そうに紐で縛られた桐の箱が、蝋燭の明りに薄ぼんやりと浮かび上がっていた。
*
ろうそくの灯りだけが、この世界でたった一つの灯火であるかのような錯覚。住職の肉付きの悪い萎びた顔と、随分古めかしい桐の箱……灯りの輪の中に存在するものはその二つだけである。これが、この世の全てかと思う。
「これから、そなたにこの寺に代々伝わる九相図というものをお見せ致そう。そもそも、九相図とは、世の無常を人体が土に帰すまでの九つの相を描く事で現したものである。生前、いかに栄華を誇り、富や名誉を手に入れた者でも、死んでしまえば肉体は腐り、獣達の餌食となり、果ては骨となり、唯の土くれと化す。これはその様な無常の理を人々に説くために描かれたものじゃ。どんな人間も皆死ねば一緒。九相図は古くは平安時代の公家達の……」
「おいおい、坊主の得意な説教かい? 悪いが俺は気が短いんだ。用件だけさっさと済ませよ」
苛立ちを隠せない男は、その苛立ちを本堂の床にぶつけようと拳を握ったが、それを振り下ろす事はしなかった。ボロ寺の床が抜け落ちそうだったからである。
「急かさずともよい。そんなにこの箱の中が見たいか? 先程からそなたの目はずっとこの箱に釘付けになっておる」
「何をバカな……」
「それだけ、そなたの心に救われたい思いが強いのじゃ」
「その箱の中を見たらどうなるってんだ? 俺が救われるってか、レイコの病気が治るってか、なあ坊さんよ」
バカバカしいと言いたげな口ぶりだが、男の目は住職が言うとおり桐の箱に釘付けとなっていた。そんな男に対して、住職は声をひそめて言った。
「……それは、そなたの心次第じゃ。では、行くぞ、よくごろうじろ」
ごくりと男の喉が鳴る。こめかみの辺りに汗がつうっと流れていく感触、そして血走った眼の先にある桐の箱がゆっくりと蓋を開く。
そこには、十二単に身を包んだ下膨れで真っ白な平安の貴族と思しき女性が鮮明に生々しく描かれた古ぼけた紙が入っていた。
「これが、九相図の第一の相『生前の相』じゃ」
「生前の相……」
男は身を乗り出してその絵を見つめる。ロウソクの灯りがその絵を妖艶に浮かび上がらせる。
「豪奢な平安美人じゃのお。今にも動き出しそうなほど良く出来ておるわ」
「まあ、そうだな」
男はその出来栄えを素直に認めた。特に芸術方面に精通している訳ではない、むしろとんと疎い方ではあるが。
「これが第二の相じゃ」
住職は桐の箱から先程の『生前の相』の図を取り出した。男は、更に身を乗り出す。
「この図を良くごろうじろ」
二枚目の図には、先程の着飾られた女性が裸で横たわる姿が描かれていた。体には何やら布の様な物が一枚無造作に掛けられているだけだ。
「そなた、この図を見てどう思う?」
「どうって言われても……女が裸で横になってるだけだからなあ」
「この図は『新死の相』と言ってな、この平安美人は既に息を引き取っておるのじゃ」
「ほう、そうか。まあ、言われなければ死んでいるとは解らんな」
「そうじゃろう。この図だけではなかなか判別は出来ぬ。描いたものの意図を汲取るしかないのかも知れん。しかし、これがこの世に生を授かった本物の人間であったら、そなたは判別がつくのであろうか」
「そんな事、当たり前だろ。死体と生きた人間の区別くらいつくに決っている」
「ではそこに横たわる女性、彼の者はどうじゃ? そなたに判別が出来るのか。生きておるのか、果たしてこの図の様に死んでおるのか」
住職は男に問う。
すると男は、顔色を変え声を荒げてまくし立てた。
「レイコの事か! だから、レイコは生きてるんだって言ってるだろ!」
「息もしておらぬ、心臓も動いておらぬ、四肢も動かせぬ、そんな者が生きておると言えるのかえ」
住職は、男に負けない位に声量を張り上げる。
「レイコは、俺に話しかけて来るんだよ。俺が話しかけてもちゃんと応えてくれる。死んだ人間がそんな事できる訳ないと、さっきも言ったじゃないか」
「それは、そなたの怨念じゃ! その女性の声などでは無い! ワシにはそれがその人の苦しみの声にしか聞こえぬ。己の欲望の為に死者を冒涜する、そなたの罪は断じて軽いものではない。解るか!」
住職は、男を一喝した。
再び、ロウソクの灯りの中という極狭い世界に静寂が訪れる。男は体を震わせ、何かを言葉にしようと震えていた。
「……違う……ちがう! レイコは、レイコは生きてるんだよ。俺を残して死ぬ筈が無い。あいつがそんな事する筈が無い!」
「そなたの業は相当深いようじゃ。では、続きを見るがよい。そして、己の罪深さを知るのじゃ」
「煩い。レイコは生きてる……この絵だって、死体かどうか解らないじゃないか。レイコが死んでるか生きてるかなんて、お前に解るのかよ! 医者でも無いくせに。ふざけんなよ!」
住職は、桐の箱の中からまた一枚、図を取り出した。
三枚目の図には、女性の変わり果てた姿が描かれていた。四肢はむくれ上がり、肌も先程の白く艶やかなイロは消えうせ、茶色く濁った様に変色している。顔もすっかり変わってしまっている。
「これは『肪脹の相』(ボウチョウノソウ)じゃ」
男は、その図を目の当たりにして、背筋に冷たい何かが走る感覚を覚えた。もしかしたら、来てはいけない領域へ足を踏み入れたのではないかと。
「遺体はしばらく放置されると鬱血した箇所から皮膚をどす黒く変色させる。臓物が腐り始め、発酵物が体中を膨脹させるのじゃ」
男の顔色が、さあっと青ざめる。声を出そうにも、何も口から零れては来ない。
住職は、また一枚、桐の箱から取り出す。
「遺体が土に返るまであと五枚……眼を背けるでないぞ。これは『血塗の相』(ケットノソウ)じゃ」
腫れ上がった皮膚は、所々破裂し、何やら膿の様な物が滲み出ている。皮膚は益々どす黒く、顔は、元々の目鼻が何処にあったのかさえ解らぬ程に壊れていた。
続けて住職はもう一枚図を取り出す。
「あと四枚……そしてこれは『肪乱の相』(ホウランノソウ)」
皮膚は破れ、臓物であっただろうモノがどろりと出ている。蛆や蟲が湧き、体中を這い回っている。一言で言えば、ぐちゃぐちゃだ。目玉は飛び出て腐汁が体を覆う。最早、原型を止めてはいない。これが人であったのだろうか、それすら疑わしく成る程に崩れている。
男の額からは汗が滲み出る。何も言葉が見付からないというように口をぽかんと開けたまま、ただその絵を見つめる。
「そなたは、誠に罪深い。かのご婦人も時が経てばこの様な姿を晒す事となるのじゃ。よく見るのじゃ。そなたの犯そうとしている罪を!」
男の息があがる。冷汗が額から頬を伝い、顎の先からぽたりと床に落ちた。
「こ、これが、レイコ……」
「悔い改めよ」
住職は、更に桐の箱から図を取り出す。
「あと三枚……これは『たん食の相』(タンショクノソウ)じゃ」
そこには、死体に群がる野犬や猛禽類、烏などが描かれている。野犬の牙が腹を割く。鳥の嘴が臓器を啄ばむ。屍は無残に蹂躙されている。
また一枚、住職は桐の箱から図を取り出す。
「あと二枚……これが『青おの相』(セイオノソウ)」
ケモノに食い尽くされた肉は殆ど残っておらず、骨に残った皮膚や肉片がこびり付いているというのが絵の印象だろうか。長い髪の毛だけが本来の姿を止めているに過ぎない。
「そして『散骨の相』(サンコツノソウ)……あと一枚」
そこには骸骨が横たわっているのみ。長い黒髪もあちこちに飛散している。
「最後に『古墳の相』(コフンノソウ)じゃ」
骨は砕け、最早土くれの一部となっている。生前、豪奢を極めた平安美女は、醜態を晒し、果ては土に返っていったのだ。放置された頭蓋の一部が、寂しそうに男を見つめているように思えた。
ロウソクの灯りの元に九枚の屍の絵が並んでいる。ロウソクの灯の中という特異な世界を屍の絵が占領する。丑三つ時の寺は死が溢れていた。
「見たか、人は死して、皆土に返ってゆく。それが……」
「いや、違う」
「何じゃと」
ロウソクの火が揺れる度に、まるで屍が動いた様な錯覚がする。
「この女は……死んじゃあいない……」
弐
男の心音が聞こえる、心なしかその打ち続けるリズムも高揚気味だ。
「なあ、坊さんよ、あんたも聞こえるんだろ。この絵の声が」
ロウソクの火が住職の顔を仄かに照らしている。その灯りは住職の顔にはっきりとした陰影を創り出す。
「何を言っておる、どうかしてしまったか」
「聞こえるぞ、俺にはこの女の声がはっきりとな」
「ふむ、優れた絵画は躍動感から絵が喋りだす様だと表現される事もあるが……」
「何を言ってるんだ。この女まだ生きている」
男は、食い入るように九枚の絵を眺めている。脳髄からの分泌物は、心臓の鼓動を更に高める。
男の輪郭は、光と闇の狭間にあった。ロウソクの灯は、その輪郭を異様に際立たせるが、同時に闇との境界線をあやふやにしている。
「この絵は、千年前に描かれたと伝えられておる。その頃の人間が未だ生きていると申すか? 摩訶不思議な事を……正気かのう」
「元々この俺は正気じゃないのさ。今までに三人殺している。正気の奴が出来る事じゃない」
「ほう、苦しんでおるようじゃな。己の犯した罪の深さに」
男は、にやりと口を歪めて住職を見据える。
「ああ、俺は罪深い男だ。だがな、救いの手は俺たちに差し伸べられたようだぞ」
「そなたに、救いの手が?」
男は住職から目を逸らして、自分のすぐ脇に横たわる女の顔を見てその目を細める。
「ああそうさ、レイコも俺も、きっと救われる。その絵の女が教えてくれたんだ」
怪訝そうに、住職は床に並べられた九枚の絵に目を落す。そこに描かれた女の顔が笑っている様に見えたのは、光の加減だろうか。口角が吊り上り、けたたましい女の笑い声が今にもその口から噴出しそうだ。
「悪いが坊さんよ、しばらく此処でやっかいになるぞ。別に飯を食わせてくれとは言わねえからよ、しばらくこの寺にいさせてくれよな。頼んだぞ」
男は自分の要求を強引に押し通し住職から了解の返事を貰うと、今度はさっさと九枚の絵を片付けさせて住職を本堂から追い出してしまった。
再び訪れた静寂と闇の中に取り残された男は、横たわる女の体に自分の上着を掛け、そのままそのすぐ脇に寝転がった。
男はその女の顔を見つめながら思う、神でも仏でも、天使でも悪魔でも、死神でも良い、レイコに救いの手を差し伸べてくれる者があるなら、俺はどの様な罰でも受けよう、千年の間、地獄の業火に焼かれ続けてもいい、レイコだけは救ってやって欲しい、と。
「なあ、レイコ。俺たちはずっと一緒だぞ……死ぬまで一緒だ」
男は、更に女の体に寄り添っていくと、ものの数十秒で寝息を立て始めた。
男は夢を見ていた。
ワンボックスカーの後部座席を全て倒し、女は毛布一枚を被って横になっていた。苦しそうに咳き込む女を、心配そうに男は見つめている。
「レイコ、もう駄目だ、医者に……医者に行こう」
女は、熱にうなされ息も絶え絶えに答える。
「ダメだよ……今、医者なんかに行ったら、コウちゃんの居場所が判っちゃうじゃない……。昨日も、テレビに顔が出てたよ……指名手配だって……捕まっちゃうよ。コウちゃんが捕まったら、私……」
そこまで言うと、女は喉の奥底から咳き込んだ。痰に血が混じったものが咳と共に出る。
「それに、もしあの人達に見付かったりしたら……コウちゃん殺されちゃう。そんな事になったら、私……私……」
「もういい、苦しいだろ、喋るな、大人しくしてろ」
「ねえ、もし足手まといだったら私を捨てていってもいいよ。コウちゃんの足手まといになるくらいなら、私を此処に捨てて」
そう言いながら、女は重い上半身を起す。女の額には痛みやら熱やらを堪えている為に脂汗がじりじりと浮き出ている。
女は車のドアレバーに弱々しく手を伸ばそうとした。
「バカなこと言うんじゃない!」
男は伸びかけた女の腕を掴んだが、その腕の感触に唖然とした。なんと細くて固い腕なのだろう。これは、骨と皮だけの腕に静脈が絡まっているだけではないか。これ以上強く握ったら、腕が砕けるのではないか。
ああ、レイコ、こんな体になってしまって、本当に済まない。俺なんかに付いてきたばかりにこんな目に……。
男は、思わず女を抱きしめた。決して柔らかくは無い。今にも折れてしまいそうな体を、男は胸いっぱいに包み込む。
「すまん、レイコ、お前をこんな目に合わせてしまって……。お前は、絶対俺が幸せにしてやるから。絶対死ぬんじゃないぞ。ずっと俺のそばにいろ。何があってもだ」
「ごめん、ごめんね、コウちゃん……」
「何でお前が謝るんだよ。バカだなあ」
いつ、終わるとも解らない逃避行の果てに、二人を待つものが何なのか、それは誰も知らない。
「おい、レイコ、どうしたんだよ? 何で動かないんだ? 足も腕も、瞳も……心臓も! なあ、どうしたんだよ、返事をしてくれよ。俺がちょっと買い物に行ってる間に何があったんだよ。なあ、こんなに冷たいし、返事を――返事をしろよ!」
「コウちゃん、私は大丈夫――ずっとコウちゃんの傍にいるよ」
「レ、レイコ! そうだよな、レイコ、俺を残してお前が死ぬ訳無いもんな」
「ごめんね、心配ばっかりかけてさ。コウちゃん、大好きだよ」
「ああ、ああ、俺もレイコが大好きだ! ずっと、ずっと一緒だからな」
男は、女の顔を覗き込む。しかし、そこにあったものは崩れて目玉の飛び出た腐乱した女の顔であった。
男は、そこで目を覚ました。
自分の傍らに横たわる最愛の女性の存在を確認すると、男は朝の空気を浴びに本堂の外へ出た。
晩秋の朝の空気は、身も心もぴりっと引き締める。
今日は快晴だ。
参
その日もアキトは小学校を休んでいた。もうかれこれ不登校が三か月ほど続いている。
アキトは親友を失った。生まれた時からいつも一緒だった一生の友だ。
アキトの一生の友であった柴犬のチロルが動かなくなり、庭先に埋められてしまったのが今年の夏休み、それ以来アキトは引き籠るようになってしまった。
元々人見知りのある内気な少年というイメージのあったアキトが引き籠りになった事は、確かに学校にとって衝撃的ではあったが、意表を突く出来事では無かったようで、一、二か月もすると、アキト少年の話題はほとんどされなくなった。毎日の様に学校の行き帰りに家まで来てくれたクラスメイト達もいつしか殆ど顔を見せなくなる。両親も共働きで、父親の顔はここ数カ月見た事も無いし、母親も適当に朝の家事を済ませ、ダイニングテーブルにアキトの昼食用に菓子パンとスナック菓子を置いてさっさと出て行ってしまうので、夕方5時ごろまでこの家はアキトの城であった。
何もない、退屈な城。だがそれだけがアキトの居場所だった。日常という無為なリプレイがアキトの城を支配していた。
もしも此処に一生の友チロルがいたのなら、どれほど素晴らしい世界だろうか、何度も何度も考えても、その時はアキトに二度と訪れる事は無い。
その日アキトは数か月振りに家を出た。閉塞感に耐えられなかっそのたのだろうか、気分転換でもしたかったのだろうか、その本意はアキトにしか分からないが。
この平凡な農村に生まれ早十一年が過ぎ、村の中もあちこちと足を運んだが、こんな村外れにこの様な荒れ果てた寺がある事など知らなかった。その日アキトが此処へ訪れたのは偶然だったのか、それとも、必然であったのか。村の外れ、鬱蒼とした森の中、道なき道をその小さな足で踏み締めて進む。今にも崩れそうな苔むした石段を登ると、そこは現実とは遠く離れた世界だった。少なくともアキトはそう感じた。
崩れかけた本堂、苔むした石畳、その隙間からニジリ出る雑草たち、その全ては少年の心に畏怖の念を抱かせるに十分な物だった。
恐る恐るアキトは本堂に近づく。人の気配は無いようだ。
確かに、こんな古ぼけた今にも崩れ落ちそうな寺に住む人間などいはしないだろう、と小学生のアキトでさえも思う。しかしアキトは、その古ぼけた本堂の存在感に圧倒された様子で口をあんぐり開けたままその周りを回っていた。
するとアキトは、本堂のすぐ脇に下りの石段を見つけた。
どうやら本堂の裏側へ行く為に有る様だ。
昼間だというのにその下りの石段の先は暗く、先が見えない。幼心にもアキトは思った。これが、この世とあの世の境目なのではなかろうかと。向こうの世界から魔物や幽霊が出てくる通り道か。アキトがよく読む漫画の受け売りではあるのだが。それが正に現実の物として今自分の目の前にある。そう思うと、アキトはその様にしかその石段を見ることが出来なくなっていた。
少年は、勇敢にもその魔界の入り口へ足を踏み入れた。元々内気で人見知りのあるアキトではあるが、不思議なものへの好奇心は人一倍強かった。その異常に強い好奇心ゆえに周りのみんなと馴染めずにいた部分もあったのだろう。
足が、石段に差し掛かる。一段、二段、三段……アキトの足が不器用に石段を下る。九段目、アキトは石段を下り終えた。薄気味悪い雑木林が眼前に広がる。足元は枯葉が支配し、足の感触は柔らかであった。
雑木林を進んでいくと直ぐに、アキトは何やら木々の隙間から人のような物が見えるのに気づいた。それは、アキトに背を向ける位置で座り込んでいた。髪はぼさぼさだが、服は派手なシャツというアンバランスな風貌がまた異様だ。そして、アキトの位地からは良く見えないのだが、男の前には何かが存在している。アキトはこわごわもう少しだけ近づいてみた。
――人の足だ――
男の右手前には、人の足が、左手前には、髪の毛が、多分人の頭なのだろう。つまり、男の目の前に誰かが横たわっているのだ。
アキトは、息を殺し、こわごわ近づいていく。もう止めればいいのに、と自分の心は叫んでいるのだが、体は言う事を聞かなかった。
異様な臭いがアキトの鼻をついた。音を立てないように男の座り込んでいる場所へと歩を進める。ハエが飛び交う。男の前に横たわる体は人の肌とは思えないような、紫を更に深くした色をしていた。
見たことの無いその光景を更に間近で見たい。少年の好奇心がまた一歩足を運ばせた。
その時、地面に落ちた小枝を少年の足が踏みつけた。「パキ」と乾いた音が、雑木林に響く。
条件反射的に少年は足を引っこめたが、既に遅かった。
「誰だ!」
魔界の住人が振り向き、身構える。派手な服を着て地べたに腰を下ろしていた男の、その血走った眼が少年の姿を捉えた。
すると男は「なんだ、ガキじゃねえか」と言って顔の表情と肩の力を一気に緩めた。自分を驚かせた、その対象がまだ歳巾もいかぬ子供だと認識出来た安堵感によって。
「用がねえならさっさと母ちゃんの処へ帰りな」
男は少しだけ声に凄味を貯えて、少年に此処から立ち去るように促す。
「おじさん、此処で何してるの?」
アキトは怯まない。少年は男の前に横たわるそのモノに非常に興味があった。雑木林に存在する魔界のモノ。男はその番人。少年の興味は尽きない。
アキトは男の威嚇も意に介さず、その場所へとどんどん近付いていく。
「こら、何だっていいだろ。ココはボウズが来る場所じゃねえ。痛い目に逢う前にさっさと帰りな」
アキトは吠える男の肩越しに向こう側を覗き込む。そして、少年はその興味の対象に関して、全てを見て捕らえる事に成功した。
女性が横たわっている。衣服は剥ぎ取られているが、男性用の濃紺のジャケットが掛けられている。
しかし、その皮膚の色や状態は、それは尋常ならざるものであった。ジャケットの隙間から垣間見える体は、まばらにドドメ色、足や手の指先は、何か蟲のような物に食われて骨らしき物が見える。ただ、その顔のみが何故か白く透き通り、生気は無いが、安らかな寝顔という印象があった。それでも、半開きになった口元から時折、蝿のような物が飛び立っていく。
「ねえ、おじさんは何してるの? この人はどうしちゃったの?」
アキトは表情一つ変えずに男に話しかける。
「何だお前は。別に何だっていいだろ。俺とレイコの邪魔すんじゃねえ」
「おじさんとこの人は、ここで何をしているの? この人は何でこんな風になっちゃったの?」
「ったく、煩いガキだぜ。……レイコはな、病気なんだよ」
「病気? じゃあ、この人、痛いの? 病気は治るの? ねえおじさんがこの女のひとの病気を治してるの?」
「まあ、そんなところだ、もういいだろ、さっさとどっか行けよ。それから、此処に俺とレイコがいる事は誰にも喋るんじゃねえぞ、分かったな」
「ふうん……病気なんだあ」
アキトは男のすぐ脇で立ったまま、女の変わり果てた体をじっと眺めた。
「ねえ、病気は治るの? どうやって治してるの? おじさん、早く治してあげてよ。かわいそうだよ」
「ああ、もう煩せえガキだ!」
男は、全く動じない少年の、異常なしつこさに遂に根負けする形で、仕方なく質問に答えてやる事にした。別に自分達に害を与える訳ではなさそうだ。
「俺は今、待ってるんだよ……」
「待ってる? 何を待ってるの?」
「永遠だよ……」
「永遠……?」
少年は首をかしげて男の眼をじっと見つめている。
「まあなんだ、興味があるならここに座りな」
男は、少年を自分の横に座るよう促す。
少年は、男の横に座り込んだ。
そしてアキトは、眼前に横たわる女性の顔を見た。生気は無いが白く透き通った肌、その妖艶な美に、今まで感じた事のない熱いものが腹の奥底から沸き立つのを感じる。
「どうだ、俺の女だ。綺麗だろう」
男は、アキトに問いかける。いや、同意を求める。
「う、うん」
「まあ、今は病気で動かなくなっちまったが、その前は今よりずっと美人だったんだぞ。見てみるか、写真?」
男は、言いながら胸ポケットから既に一枚の写真を取り出していた。有無を言わずに見ろという事なのだろう。アキトは出されるがままにその写真を見る。そこに写った女性は確かに美しかった。鮮やかなブラウン系の髪、切れ長で穏やかな目元、高くしっかりとした鼻、控えめな口元、どれをとっても、見劣りする要素は一つも無い。満面の笑顔がとても素敵だ。
まだ幼いアキトは、その美しさを表現するに足る語彙を持ち合わせていないので、感想もなく、その写真の中で最幸の笑みを浮かべる美しい女性をただ見つめるのみであった。
男はアキトの手から写真を取り上げると
「どうよ、いい女だろ。まあ、俺には勿体無いくらいの女だなあ」と、写真に目を落としながら、独白に近い口調で話す。
アキトは、その言葉の意味を理解は出来なかったが、男がこの女性を心底愛しているのだという事は解った。その愛情は、多分自分が今までに持った事の無い種類のものである事も何となく理解出来た。
アキトはもう一度、横たわる女性の顔を見つめてみた。まるで眠っている様だ。先ほどの写真の笑顔を思い浮かべると、何故だかアキトは胸の辺りを締め付けられるような感覚を覚えた。
「今、俺はこうやってレイコが生まれ変わる時を待ってるんだよ。生まれ変わるってのもちょっと違うんだがな……そうだ、ボウズ、お前にもあの絵を見せてやるよ。ちょっと待ってろよ、今からあの絵を取ってくるから。悪いがレイコの奴を見ててくれ、あいつが近寄って来ないように」
そう言って男は立ち上がると、本堂のある方へ消えていった。「あいつって誰?」とアキトが聞く間もない程に素早い行動だった。
横たわる女と共に雑木林に取り残されたアキトは、キョロキョロしながら、男の言う「あいつ」を探す、が、何処にも人の気配などは無い。
程なくして男は、アキトの所へ戻ってきた、大事そうに桐の箱を抱えながら。
「さあ、見せてやる」
男は、紐を解き桐の蓋を開ける。そしておもむろに中に入っていた九枚の絵を地面に広げた。律儀に絵を順番通りに並べる。
「よし、これでいい」
少年の眼は、枯れ葉の上に並べられた九つの死体の絵に釘づけになっていた。
「いいか、そもそも人間とは……」
男は、住職に説明された様に流暢には行かなかったが、その絵の意味する所を少年に懇切丁寧に説いてみせた。少年はその大きな眼を更に丸く大きくして、男と死体の絵を交互にくるくる忙しく見つめていた。
「そして、土に返ったこの女はどうなったと思う?」
おおよその話を終えた男は、少年に質問を投げかけた。
「わかんない……」
「この女は、大地になったんだ」
「ええっ。大地に?」
「そう、大地と同化したんだ、この広い大地にな。女は大地と同化する事で永遠を手に入れたんだ……」
アキトは呆気にとられている。この絵の中の女は死に、朽ちて、鳥獣虫けら共に喰われ、風雨に打ち砕かれ、消滅したのではないのか。
「この大地がある限り、女は生き続けるんだ。なぜなら、この女が大地で、大地がこの女なのだから。女は消滅したんじゃない、永遠を手に入れたんだ……」
九枚の絵が一瞬風に煽られてゆらめいた。
「レイコも同じだ。俺は最初、病気か何かだと思ってた。だけど、それは違ったんだ。レイコは、俺達の為に永遠を手に入れようとしているんだ。レイコの体はこのまま腐って肉はドロドロになり、骨は砕けて塵屑の様になる、だがその時こそ、俺たちは永遠を手に入れるんだ。レイコは今、永遠を手に入れる為に、こんな姿で頑張っているんだ……。この大地を踏み締める時、この大地に寝転がる時、常にレイコを感じる。何処へ行こうと、この永遠の大地がレイコなのだから、俺たちは離れることは決してない、そう、永遠に。解るか、ボウズ。愛する女が永遠に存在する、しかも常に俺と一緒にだ。これほどの幸せが他にあるか? まあ、ボウズには好いた惚れの話は早いだろうがな」
永遠……なんて素晴らしい事だろう。好きな物と永遠に一緒に居られる方法がここには在るのだ。今まで考えもしなかった事だ。アキトは気が狂いそうな程顔を紅潮させて男の顔を見ている。
「だから、レイコは死んじゃいない。今も楽しそうに俺たちの話を聞いているじゃないか。解るだろ、ボウズなら」
「うん、うん」
男は、少年の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「じゃあ、俺はこの絵を返してくるからな。その間レイコを
頼んだぞ、ボウズ。あいつを寄せ付けるな」
そう言って、男は絵を片付けてその場を去っていった。
アキトの興奮は収まらないでいた。これほどまでに心が高揚した事は生まれて初めてかもしれない。
男が本堂から戻ってきた。
少年と男は、現実から隔離されたこの雑木林で心行くまで語り合った。いつしか時計の針は午後四時を指していた。おじいさんから貰った腕時計でそれを知ると、アキトは夢から覚めたような感覚に襲われた。午後五時になれば、母親が帰ってくる。自分が家を出ている事がばれてはまずい。
「ごめん、おじさん、僕もう帰らなきゃ」
「そうか、仕方ねえな。またいつでも来いよ」
「うん」
「それからな、レイコが『おねえさん』なのに何故、俺は『おじさん』って呼ばれなきゃならんのだ。『おにいさん』と呼べ」
「何を言ってるの、おじさん。じゃあ、またね〜」
アキトは軽やかに、石段を登って行く。いつしかその背中は木々に阻まれ見えなくなっていった。
「ったく、最近のガキは……」
男は、少年の小さな背中が見えなくなってもしばらく石段の方を見つめていた。
その夜遅く、アキトは両親が寝静まった頃を見計らって、部屋から抜け出した。懐中電灯とハンドスコップを持って向う先は庭の片隅。その場所には木切れが立てられている。『チロルのお墓』と書かれた木切れを引っ張りぬき、アキトはその地面を掘り返し始めた。小さなスコップで一心不乱に地面を彫り続けるアキトの姿は、夜の闇に消されて、確認が出来ない。ただ、ざっざっという土を掘る音のみが庭に響く。
チロルが居るべき場所は此処ではない。今日、発見したのだ。僕の大好きなチロルが居るべき場所を。
崩れかけたお寺、その本堂の脇にある永遠に続く入口。
冬も近い秋の夜だと言うのに、アキトは汗だくで穴を掘り続けた。チロルの最後の一かけらを地中四十センチ程の所で拾い上げると、犬の骨はアキトによってダンボールに全て詰められた。
アキトは、犬の骨の入ったダンボール箱を抱え、自分の部屋に戻った。
明日が、待ち遠しい。これほど明日を待ちわびた事があっただろうか。
「チロル、明日はあそこへ連れて行ってあげるからね。……永遠なんだって、あの場所は。なんだか、嬉しいね。ねえ、チロル」
肆
ネオンと車のヘッドライトでかき消された夜の闇。繁華街の車道は随分夜も更けたというのに忙しく車が行き交う。黒い重厚な車体のAMGが繁華街の車道の隅に停車していた。明らかに駐車違反である。傍若無人なそのAMGには三人の男が乗っていた。運転席と助手席に二十歳くらいの若者が二人、その内一人はスキンヘッドだ。残りの一人は後部座席に座っている。30代も後半くらいだろうか。
実際は、フルスモークで外側から車内の様子は窺う事は出来ないのだが。そもそも、こんな車の中を覗き見ようなどという命知らずはこの繁華街にはいなかった。
「兄貴、○○県の国道△号線を北に向かっていった緑色のワンボックスを見たって、テツから連絡が……間違いないっすよ、コウスケですよ」
スキンヘッドの男が、携帯電話を閉じながら、本革の後部座席を一人で占領している男に向かって言った。
「○○県か……遠くまで逃げたもんだな」
「早速向かいますか、○○県へ」
左ハンドルの転席にいる男が、サイドブレーキを解除しながら後部座席の男に確認した。
後部座席の男は真ん中に大股開きで座っている。がっちりとした体に濃紺のスーツをまとった後部座席に座る兄貴と呼ばれた男は「まあ、待て」と言って渋い顔をしながら煙草を一本口にくわえた。間髪入れずスキンヘッドの男が懐のジッポライターを点火し、男の前に差し出す。相変わらず渋い顔をした男は、くわえた煙草に火を点すと、鼻から真っ白な煙をはき出した。
「やみくもに動いてもしょうがねえだろうが、もっと考えろよ、ばかやろうが」
「スイマセン、兄貴」
運転席の男は若干不満そうに答えた。
「じゃあ、どうすれば……」
「それを考えるのがお前らの役目だろうが、まったく使えねえな」
「す、スイマセン兄貴」
「とは言え、お前らの頭じゃ何も出てきやしないだろうがな……」
後部座席の男は、邪魔くさそうにしてネクタイの結び目を緩める。
「大滝村(仮名)へ行け、国道△号を北へ行ったんならあの辺りがちょうど良い潜伏先だ。あそこは、国道へ繋がる道が塞がったら何処へも行けない陸の孤島のような所だからな。それに何もない辺鄙な場所で、まさかこんな所にと意表をつく事も出来る、間違いない、コウスケはそこに潜伏してる筈だ」
「へえ、なるほどねえ。さすが兄貴だ」
スキンヘッドは目を丸くして言った。
「あの野郎は絶対逃がさない。自分ところの若頭(カシラ)を殺っておいて逃げられると思うなよ」
そう言って後部座席の男は懐に手を入れた。厚い胸板のせいで、懐が窮屈そうである。男が懐から取り出したものは、冷たく黒光るトカレフT-33。男はその光沢具合を堪能するかのように、じっと手の中のトカレフをねめつける。
「くっくっくっ……久し振りの狩じゃあ……。コウスケの野郎、絶対追い詰めてやるからな。日本中に絶縁状が流れたお前には、もうこの世に逃げる場所なんてねえんだよ。いや、たとえ地獄に行ったとしても追い込んでやる……くっくっくっ……」
舎弟たちは、その言葉を聞いて悪寒を覚える。うちの兄貴は、人間狩りを楽しんでいる。極道という人の道を外れた処で生きていくには殺しもやむを得ない、とは思う。やむを得ない殺しは誰もが少なからず経験がある。が、兄貴は違う、人間狩りなど正気の沙汰ではない「組の上層部お墨付きのコロシは久し振りだ。こんなチャンスをみすみす逃す手はない」と胸躍らせている、純粋に人殺しを楽しんでいるようにしか思えない。
「おら、出発だ」
AMGの真っ黒で重厚な車体がゆっくりと、忙しそうに車が行き交う夜の車道に紛れ込んでいった。
*
夜の帳はすっかり雑木林に居座る男の周りを覆い尽くす。男のその血走った眼球は、深遠たる闇の中で一際異彩を放ちながら浮き出ている。男は最愛の女性の傍に座り込み、何者をも寄せ付けぬ威圧感を出していた。
物音さえこの夜の闇に食い尽くされてしまったのかと思わせるほど静寂な雑木林に、めき、めき、と枯葉を踏みつける音が鳴る。音は、一定のリズムで男の居る場所へと近づく。めき……めき……その音は男の背後で止まった。男の背後から仄かな明かりが差す。
「こんな所にいつまでいるつもりじゃ。本堂で休めばよかろうに」
男は、面倒臭そうに顔を後ろに向ける。そこには、右手に提灯を持った禿頭の住職が、無表情に立っていた。提灯から漏れる灯りで、やっと誰であるのか確認が出来る。
「ずいぶんとやつれたのう」
住職は男の顔を提灯の明かりで確認すると、そう言ってのけた。
「煩い、さっさと消えろ。全く、夜になると何処からとも無く現れやがって」
「今晩も眠らないのか。そなた、此処へ転がり込んでから一睡もしておらぬのだろう」
「放っておいてくれ、俺は此処から離れるわけにはいかないんだからな」
「いつまで続くかのう、その我慢が。それがそなたの犯した罪の重さじゃ」
確かに、男のやつれ方は尋常ではなかった。男の命が心配になる。
「もう良いだろう、眠ってしまえ。体に悪いぞ」
相変わらず住職は無表情である。発する言葉にも抑揚がない。
「駄目だ、寝たら、奴がやってくる……」
「奴じゃと」
「奴が木の隙間から狙ってやがるんだ、レイコをな」
男は、そう言って正面を向き直す。そして、一寸先を見る事もままならない闇の中で目を凝らして何かを見つめている。
「くくく……はっはっは!」
住職が何を思ったか突然静寂を切り裂いた、体型の割にやけに高音程の笑い声で。
「な、何がおかしい!」
男はそう言って住職を威嚇する為に立ち上がった。しかしその時、脳からの伝令が上手く伝わらなかったのか、それとも足自体に何か欠陥があるのか、バランスを崩し転倒してしまった。男は、したたかに胸と顎を打つ。
「見えるのか、見えるのかそなたにはあれが。はっはっはっ……いやあ愉快愉快」
住職は腹を抱えるほどの大笑いを男の目の前でしている。
「何が可笑しい! 舐めんじゃねえぞ、この野郎……」
男は足がもつれてうまく立ち上がる事が出来なかった。
「くくく……無理するでない。そなたの体はもう限界じゃ」
住職は地べたで這いつくばる男を見下す。
「そうか、見えるのか、あれが。いやいや、善き事じゃ、はっはっは……」
「くそったれ!」
男の悔し紛れのわめきを聞きながら、住職は男の前から姿を消していった、深遠なる闇の中へと。
「さっさと死んでしまえばよいものを……」
翌朝午前九時、アキトは母親がパートに出かけた時間を見計らって、ダンボール箱を両手に抱えて一目散にあの寺へと向かった。
鬱蒼とした山道を抜け、本道を横目に見ながら、石段を駆け下り、枯葉を蹴飛ばしながらアキトは走る。男は、昨日と同じ場所に同じ様に座っていた。
「おじさーん!」
アキトは有らん限りの声を振り絞って男を呼んだ。男がその呼び声に振り向くと、そこには昨日のあの少し生意気な少年が段ボール箱を抱えて立っていた。
「おう、ボウズ、よく来たな」
男の顔が緩む、だがその顔は明らかに昨日よりもやつれていた。
「ねえ、おじさん、チロル連れてきたよ」
男と少年は、箱から乳白色の骨を取り出して、土の上にパズルの様に並べ始めた。ああでもない、こうでもないと、かれこれ三十分は骨と格闘していただろうか、二人は遂に犬の形に仕上げてしまった。
「ねえ、これでチロルも永遠だよね?」
「ああ、そうだ。こいつも永遠にボウズと一緒だ」
アキトは顔を紅潮させながらチロルの骨を眺めた。その興奮具合が手に取るように分かる。
「ねえ、もうこれで安心だからね」
アキトは地面に並べられたその骨を見ながら、男に言った。
「ん? 何が?」
「お姉さんは、チロルがしっかり見張ってるから、おじさん、安心してゆっくりしなよ」
男は、少年のその言葉を受けて、もう一度その少年の顔を見つめ直してみた。その幼い横顔に、男は忘れかけていた純粋さを僅かに思い出した気がした。多分、そんな気になっただけだろう。男は、そう思い直す。同時に自分の今の姿が、子供にさえ解るほど衰弱していて、哀れに移っているのだろうと改めて感じるのだった。
「ねえ、おじさんずっと此処にいて、ご飯はどうしてるの?」
「ん?まあ、此処まで来た車の中に少しは食いもんがあったから二日位はそれを食っていたな。それに、此処には、探せば結構食えるものが生えているんだ」
「へえ……」
「ほら、あそこに柿の木があるだろ、まあ、たいして旨くはないがな。それから、どんぐりも食えない事はない、それからあけびにざくろ……まあ、そんな程度だけどな」
そう言って男は立ち上がり、木に絡み付くツルに生っているあけびをもぎ取って、アキトに見せた。長円い茶色の皮を割ると、中には白い、何やら虫の幼虫の様な物が姿を現した。
「うわ、何これ?」
「これがうまいんだって、食ってみろ」
「ええ〜」
アキトは、恐る恐るその白い中身を摘み、ちょこっとだけ、舌に付けてみた。
「あ、あま〜い!」
「だろ、けっこううまいもんだろ。もう、最近は見ないけど、俺たちが小さい頃は山に良く生えていたもんだ」
アキトは、夢中でその白い果物をむしゃぶっている。男はその姿を目を細めて眺めている。
そして、男ももう一つあけびをもぎ取って、少年の横でそれを食べ始めた。
アキトはそれを食べ終わると、男に言った。
「ねえ、お菓子とか欲しくない? 僕のおやつを明日から持ってきてあげるよ。一緒に食べよ。あ、何だったら、お昼ご飯も持ってくるよ。おじさん、痩せてるからイッパイ食べなきゃね」
男は心の底からこみ上げる何かを堪えていた。この荒んだ自分が何か忘れかけていた何かを。純粋な気持ち、そんなものが自分の中に残っているはずはない。そんな頑なな心とぶつかり合うのだった。
「そ、そうか悪いなボウズ。じゃあ、明日からは一緒に昼飯を食おうか。レイコとその犬も一緒だ」
男は、少年の頭をクシャクシャに撫でた。
「ちょっと止めてよおじさん、ヘアーが乱れるから」
「ませたガキだな本当に。……ははは」
男の枯れた頬の皮に一筋の雫が目から流れてきた。
次の日も、少年は男のもとへやってきた。二人は今日もまた、人生談義に花を咲かせている。少年は男の深みのある言葉にいちいち大きく頷いては、目を輝かせていた。彼の豪放磊落な生き様は、十歳の少年にはとても刺激的で、それは、少年の心に信仰に近い憧憬の念を抱かせる。
また、男にとっても、毎日の様に食料を運んでくれる少年は命の恩人以外の何者でもない。男は、自分に出来る最上級のもてなしを少年に施す。それは、自分の半生を誇張して大げさな武勇伝を語っているに過ぎないのだが、少年はとても満足しているようだ。
男は、少年の持ってきた惣菜パンなどをかじりながら、お気に入りの歌を口ずさむ。非常に上機嫌であった。まるで小学校の頃に行った遠足みたいだ。参加者は、痩せこけた男と少年、そして女の死体と犬の骨。
だが、楽しい時間というものはあっという間に過ぎるもので、いつしか太陽は大きく西へ傾き、アキトの腕時計も間もなく午後五時を差そうとしていた。
遠足の時間も間もなく終わる。
「もうこんな時間だ、帰らなきゃ」
「そうか、もうそんな時間か」
「ごめんね、おじさん」
「おう、またな。ボウズ」
少年を見送る為、男は立ち上がろうとした。だが、足がもつれる。激しい痛みが男の右足を襲った。男は無様に、地面に膝をつく。
「どうしたの、おじさん。大丈夫?」
少年は男に駆け寄る。
「なあに、ちょっと足がもつれただけだ」
「足が痛いの? 医者に行った方がいいんじゃないの?」
「ばか、これしきで医者なんかに行けるかよ。それに俺は此処を離れる訳にはいかないからな」
離れてしまえば、レイコは奴の餌食になってしまう。
「そう、気をつけてね。それからさ、明日土曜日でしょ。お母さんがずっと家にいるんだよね。だから……」
「此処へ来られないんだろ。いいさ、親に心配かけちゃいかん。俺は大丈夫だからよ」
「じゃあ、またね、おじさん」
アキトはありったけの力で手を振り、男と別れ家路に着いた。
伍
長く長く伸びた自分の影を従えて、アキトはあぜ道を家に向かって走っていた。途中、見慣れない黒くて大きな高級車が目の前を横切っていった。村の風景にまるで溶け込んでいないその様子が、アキトには印象的だった。
午後五時十分前、何とかアキトは自宅の前までやってきた。母親の帰宅には何とか間に合ったようである。まだ築十年も経っていない新しい住宅。築百年近い様な屋敷も然程めずらしくないこの農村にあって、アキトの家は、地元の人間に言わせると「とてもハイカラな家」らしい。
アキトは、門扉の前に誰かが立っているのを見つけて、塀の影に隠れた。洋風の鋳物の門扉の前に立っていたのは、アキトの同級生で幼馴染のリカコだった。長い髪の毛を後ろで二つに分けて束ねるいわゆるツインテールの髪型で、アキトはすぐにその人物がリカコだと分かった。赤いランドセルを背中に背負ったまま、アキトの家をじっと見つめている。学校帰りなのだろう。少女は、しばらくすると、門に付けられたインターホンのボタンを押した。が、家からは何の反応も無い。誰も居ないのだから当然だ。
『リカコがまた余計なお世話をしにきたのか』
アキトはそのおせっかいな少女と顔を会わせないように、裏口に回った。ちょっと大変だが自分の背よりも高い塀を乗り越えて行こう。リカコが立ち去るのを待っているわけにはいかない。そうこうしているうちに、母親が帰ってきてしまう。
何とか塀を登り、裏の勝手口を静かに開け、家に忍び込む。そのまま二階に上がり、自分の部屋だというのに息を殺しながら入っていった。明かりを点けずに窓から外を窺うと、既に門扉の前にはリカコの姿は無かった。
アキトは思った。
『リカコもいつか、あの場所へ連れて行ってあげよう。でも、今は駄目だ。今はおじさんの邪魔をしちゃいけない。もうちょっと、待っててくれよ』
おせっかいな幼馴染ではあるが、自分とチロルとリカコはいつも一緒に遊んだ仲だった。リカコも自分たちの仲間なんだ、だからあの場所へ行く資格がある。
しばらく窓の外を眺めていると、母親の軽自動車がガレージに入ってくるのが見えたので、アキトはカーテンを閉めて、布団に潜り込んだ。
*
男の右足は酷く腫れ上がっていた。膝のあたりは、普段の倍くらいの太さに膨張している。触ってみると、かなりの熱を持っている。どうやら、先日住職の目の前で倒れた時、膝を擦り剥いたのだが、そこからバイ菌でも入ってしまった様だ。体もどことなく熱っぽい。右足が思うように動かない。いや、右足だけではない、正直なところ、男の体は四肢全てにおいてもう限界だった。
「レイコ、何だか俺の体、すごく重いんだ……。立ち上がるのもやっとだぜ。なあレイコ……俺、どうんばっちまうんだ?」
腐って異臭を放つ肉の塊に、男は問いかける。
「今日も、あいつがいやがる……こっちを見て笑ってやがる。あいつは、一体何者なんだ」
月の光でかろうじて視認出来る木々の隙間から、誰かがこちらを見ている、この雑木林に居座るようになってから、もうずっとである。レイコを狙っているに違いない。
「未だ生きておったか」
男は、迂闊にも背後を取られた事に気付かなかった。そこには昨日の夜と同じように住職が、男の背後で提灯を持ち表情なく立っていた。
「今夜も来やがったな。確かめに来たのか、俺の死体を。残念だが俺はこの通り元気にやっている」
「元気ではなかろう……顔色も悪い」
住職の枯れた声は、存外雑木林に響いた。
「関係ないだろう、あんたには」
男は、掌を振って『あっちへ行け』の合図を住職に送る。
「そう邪険にするな。ところでそなた、知りたくは無いか? あそこに見えるものが何か、そして、私が何者か、この寺にはいったい何が隠されているか、その全てを……」
「……坊さんよ、あんた一体何を知っている?」
住職は、男の顔に提灯を近づけ、その表情を窺った。男の眼差しは虚ろだった。
「では、今から全てをそなたに伝えよう、心して聞くがよい」
「相変わらず気まぐれだな、坊さんよ。どうしたんだよ、急に……」
「今から話すのは、そなたの運命、そなたはこの話を聞かねばならぬのじゃ」
「何だよ、その上から見下ろす様な言い草は」
住職に表情は無い。男の言葉に答える事無く、話を続ける。
「話は、今から千年ほど前にさかのぼる……」
「千年とは、また気の長え話だな」
「……黙って最後まで話を聞きなさい」
「ふん」
強がってはいても、男の右足は脈打つたびに鈍痛が走り、その痛みは男の体から生気を徐々に奪っていく。
「世は平安時代、人々が正に天下泰平を謳歌していた時分。あるやんごとなき身分のお方に、それはたいそう美しい姫がおられた。その美しさは、京の都中に噂が広まっておったそうじゃ。言い寄る者は数知れず、高貴なる者、下賤の者、男なら誰しもが、姫の美しさに酔うほどじゃったそうな。昼夜を問わず、貴族のご子息達が姫の下まかりこして、姫もその対応に、ほとほと困っておったようじゃな。姫は憂いておったそうじゃ。この世の男子は色恋沙汰にしか興味を持たぬのかとな。このまま、この様に軟弱な輩が政を仕切るようになれば必ずやこの国を衰退させてしまうだろう。聡明な姫は、色恋よりも、国の行く末に心が向いておったのじゃ」
更に住職は話を続ける。
「ところが、姫は若くして不治の病を患ってしまわれたのじゃ。これには、姫の父君も痛く悲しまれた。もちろん言い寄ってきた男達も昼夜を問わず泣き明かした。ところが、姫は、一時は落胆を隠せずにいたものの、これは好機と思い立ち、ある事を父君に具申したそうじゃ」
「そうかい、で、その姫は何て言ったんだ?」
男は、仕方無しに相槌を入れてやる。住職の目がどうにも相槌を欲している様に見えたのだ。本当に欲していたかは定かでは無いのだが、男が満足ならそれで良いのだろう。
「姫は、私が死んだら、その亡骸を野に捨て置いて欲しいと申したのじゃ。そして、その腐り行く様を克明に描き取って後世に残してほしいと、父君に具申たてまつったのじゃ」
「何でそんな事を……貴族様の考えはよくわからん」
男は、ぶっきらぼうに吐き捨てる。住職は、なおも続ける。
「姫はこのようにお考えになられたのじゃ。今の男子達の目を覚めさせるにはどうしたら良いのかとな。昨今の軟弱な輩は、見た目だけでで何もかも決め付けてしまう。美しき物はいつしか衰え醜くなって行くというのに、今だけの享楽に身を委ね、美しいもののみを追いかける。この考えを戒める為に自分が犠牲になろうと仰ったのだ。己の体が腐って行く様を描きとめておき、諸行無常、美しき物もいつかは衰え行くという理を、世の男どもに見せてやるのだと。その絵を見る事で自分たちの愚かしさを思い返してみろ、と言う事のようじゃな……。姫の父君であるやんごとなきお方は大いに反対なさったのだが、姫の意思は強く頑として譲らなかった。仕方なく、父君は姫の要求を呑み、一人の画家を呼び寄せたのじゃ」
「ちょ、ちょっと待てよ。まさか、その時に描いた絵が……あの絵、なのか?」
「そうじゃ、察しがよいのう。前にも言ったが、あの絵は千年前に描かれた物なのじゃ」
「バカな、千年も前の絵がこんなボロ寺にある訳ないだろ。どこか博物館やそんな所にあるんじゃねえのか、普通は」
住職は薄笑いを浮かべている。心成しか、提灯の灯りが先ほどより弱くなったように感じられる。
「現にあるのだから仕方あるまい。まあ、話を最後まで聞きなされ」
男は大人しく引き下がる。住職は更に口を滑らかにして、続きを語り出す。
「間もなく、姫は逝去された。やんごとなきお方に呼ばれた画家は、言いつけ通りに、都から外れた野に遺体を持って行き、そこで何日もかけて、遂に九枚の絵を描き上げたのじゃ。『九相図』がここに完成した。画家は、早速、そのお方に絵を持って上がったのだが、その絵を見た姫の父君は、大層気分を害され、画家を怒鳴りつけたのじゃ。我が愛しの娘を斯様に醜く描きおって! 何と無礼な男かと。画家は、仰せ付け通りの仕事をしたにもかかわらず、罰を受け、京の都から追放されてしまったのじゃ。まあ、何時の世でも理不尽な事はあるものだ。特にこの時代は身分、階級による差別が横行しておったのだから、まだ都追放ならば優しい処遇だったかも知れぬ」
住職の口は止まらない。
「その後、都を落ちた画家は、転々と諸国を渡り歩いたそうな。自分が描いた九相図を携えて。だが、何処へ行っても、何時も同じ夢にうなされてしまう。夢にあの姫が出てくるのじゃ。死体の状態で。崩れてしまって体中から腐汁を垂らしながら、画家に迫ってくるのだそうな。『何故わらわのこの様な醜い姿を晒すのじゃ、何故、もっと上手く描かなかったのじゃ』とな。画家は、再び九相図を描き始めた。前の作品以上の物を仕上げれば、きっと夢でうなされる事もなくなるだろうとでも考えたのか。それから、その画家は、死ぬまで九相図を何枚も描き続けたという。だが、九相図を描くにも被写体が必要だろう。そう、その画家は、九相図を描く為に、若い女性を殺めて自分の絵の題材にし始めたのだ。一つ書き上げたら、また別の女性を殺め、また次の作品を描く、こんな事を死ぬまで繰り返したのじゃ……」
男は、唖然とする。不気味な絵だとは思っていたのだが、あの絵にまさかその様な過去があるとは。
男は閉口した。先程からの勢いもすっかり失せてしまった。ただ、その虚ろな眼で住職の顔を見つめている。
「そして、その画家が一生を賭けて九相図を描いていた場所こそが、そなたの座っている、正にその場所だったのじゃ……」
林に、風が吹いて木々が騒ぎ出す。
「画家は、その場所で絶命した。女の屍を目の前にして、筆を持ったまま」
今まで、立ちながら喋っていた住職が、突然しゃがみ込んだ。目線の高さが、丁度男の位置と重なった。住職は、男の顔を覗き込む。
「まだ、話が終わった訳ではないぞ」
男の焦燥する顔が、提灯の灯に映し出された。
「それから、しばらくしてこの近くの村では奇妙な事件が起こる様になった。それは、若い美しい女が死ぬと、決まって通夜の晩にその女の死体と、連れ添いの男や、身内が忽然と姿を消してしまうというものじゃった。そして、決まってこの場所、九相図を描いた画家の息絶えた場所で女の死体とその連れの男の死体が見付かったという。……そう、画家は死してなお九相図を描き続けておったのじゃ。その強い怨念によって、人を操り死体を運ばせておったのじゃ。村人は、その怨念を鎮める為にこの寺を建て、九相図を祭った。だが、それでも画家の怨念は鎮まらなかったのじゃ。それどころか、しばらく若い女の死人が現れないと、男を操り、女性を殺害させ、この場所へ持って来させるようになった。正に画家の供物として捧げられる為に。村人は、何百年もの間、この繰り返しを耐えてきたのだ、何代も何代もな。しかし、遂に村人達はこの怨念から逃れる為に村を捨てた。そして、この寺は人々から忘れ去られていったのじゃ。しかし、画家の怨念は消える事無く、千年の時を経ても尚、この場所に存在し続けておる。千年の間、この場所では同じようなことが脈々と絶える事無く行われておったのじゃ……」
木々のざわめきが一層大きくなってきた。男は、自分の座っている場所、地面を見た。この地面には一体、何人の女性が溶け込んでいるのだろうか、理不尽に運び込まれ、怨念を残しながら、この大地の中で何を思っているのだろう。男の背筋に冷たい物が走る。
「そなたが見ておるものは、その画家の怨念そのものじゃ。画家が狙っておるのは、その死体……。画家への供物……。そなたは、唯の運びやじゃ、もう用はない、あとは、この場所で死を待つのみ……くくく……」
「何だと?……ふざけるなよ、こんな所で死んでたまるか。俺は死なねえ、レイコの為にも」
「そなたは、もう死ぬのじゃ。そなたは此処で死んで、また次の供物をこの場所へ呼び寄せる役目をしなければならんのじゃ、私の後を引き継いでな……」
「どういう事だ」
男は聞き返す
「この私も、六十年ほど前、そなたと同じように、此処へ愛しい妻の死体を運んで来たのじゃ……。私も、画家の怨念によって運び屋にさせられた一人。そして、運び屋は、次の供物を誘い出す役目を引き継ぐ。そう、千年も前から行われてきた。だからそなたも、此処で死に、次の供物が現れるまで待たねばならぬ。もう、逃れる事はできない」
「ばかな、そんな話……もしそうだとしたら、あんたもう死んでるって事だろう」
「さよう、私はすでに死んでいる。長かった、この六十年間。遂にこの時が来たのだ。この場所から開放される時が、九相図から開放される時が……どれほど待ちわびたか。さあ、早く死ぬのじゃ。さすれば私も解放される。さあ、さあ!」
男は、体中を震わせて、住職の『死ね』という呟きを聞く。その呟きは、男の脳髄に達し、その精神の均衡を破壊させようとする。男は、必死に防御を試みる。それは、心からの叫びだった。
「うおおおー! 何だよそれって! 何で俺たちがこんな事にならなきゃいけないんだよ ! 確かに人を殺した事だってあるよ。決して褒められっる人間じゃあねえ。でもどうして、こんな事に、どうして俺たちが!」
男は、拳を握り締めている。この気持ちを何処へぶつけたら良いのか解らぬまま。
「くくく……まだ、認めておらぬのか、そなたの罪を。私は全て知っているぞ、そなたの闇を。画家の怨念を引き付ける、そなたの心の奥底にあるものを」
「なにい?」
男は住職に食って掛かった。
「確かに――そなたは、三人殺したと言っておったな。その三人とは一体誰だ? 言ってみろ」
男は、住職を睨みつける。何故いまさらそんな事を訊くのだと。思い出したくない過去を、古傷をえぐるような事をさせるなと、その血走った眼で訴えかける。
「一人目は、親分に言われるまま、抗争相手の組のチンピラを弾いてやったんだ。親の命令は俺たちには絶対だからな……」
「二人目は?」
「二人目は、組の若頭、俺の義兄だ……。俺たちの世界は上の物の言う事する事は絶対だ。さからっちゃいかん。だが、義兄は、あいつだけは許せなかった! レイコを、俺のレイコを無理やり犯しやがった、泣き叫ぶレイコを俺の目の前で。一瞬頭の中が真っ白になった……気が付いたら、兄貴が頭から血を流して死んでいたんだ。そう、俺が義兄を殺したんだ。その所為で俺たちは、組から追われるようになったんだ」
「なるほどな、では、三人目は一体誰じゃ……」
「三人目は――」
「三人目は?」
林に静寂が訪れる。そして――
月曜日の朝を迎えた。この二日間、アキトの心は、いつもあの寺の森の中にあった。アキトは、そこに自分の居場所を見つけたのだと確信していた。今度は、どの様な話で盛り上がろうか、どのお菓子を持っていこうか、アキトの心は膨らみっぱなしであった。
母親が、いそいそと化粧をして出て行くのを見計らって、アキトは準備を始める。昼食用にとテーブルに置かれた惣菜パンを袋に詰め、棚に仕舞いこんであるスナック菓子を抱えこむと、アキトはお気に入りの靴を履き、一目散にあの寺へと向っていった。
しかし、そこでアキトが見たものは、男の変わり果てた姿であった。
続く
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2008/08/19(Tue)21:36:45 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
こんにちは。
えっと、まず、この話は3〜4年くらい前にここ登竜門に発表させてもらったものですので、ひょっとしたら(本当にひょっとしたら)既に読んでくださった方もいらっしゃるかもしれません。今回、廻りくどい表現や、おかしな所を書き直し、少しエピソードなど加えつつ、リメイクを試んでみました。
どんな事でも構いませんので、ご意見、ご感想、ご指摘など、お寄せいただくとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
*8/19 伍 をアップしました。