- 『ボタンとアップリケ』 作者:りり華 / リアル・現代 未分類
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全角10737文字
容量21474 bytes
原稿用紙約35.1枚
学校がいやになって屋上へ逃げ込んだ主人公がであったのはずっと刺繍をしている変わった女の子。ふたりの傷は全く違うものだけれど,どこか一緒にいて安心できる関係。その二人だけの世界を書いて見ました。
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私が、何をしたの?
痛みが心を駆けるたび、間接から力が抜けていく。意志を与えていない指から、持っていたいっぱいの感情をどこかに落としてしまった。
人はみんな、大人はみんな、『する方がおかしいのだから、無視をしたほうが良い』と言うけれども、孤独は確実に私を弱らせた。無視をしたって、傷はついていくのだから。いくら、理解していても、体は傷だらけ、もう私の心のどこにも傷がないところはない、今の心には優しささえも傷にしみた。誰のどんな言葉も傷にしみた。私には、傷と痛みが全てだった。
びりびりに破かれた心は誰に縫い合わされる事もなかった。
青い空。空はこんなに晴れているのに私の心はずっと重たい雲がたちこめていた。雲が重たいわけがないのに、いっこうに風に流される事なく、まるで意志を持ってこの心にあるようだった。
視界いっぱいの青空、私だけの青空。こんな青空が見れるのは学校という閉鎖的空間の中には一カ所しかなかった。北館立ち入り禁止の屋上だ。
逃げてしまった。
どれだけ悔やもうとも、それは事実で、おそらく今教室では退屈な授業が展開されているのであろう。
(サボリなんて、初めてだな)
本当は行かなきゃいけないと分かっていても、体には青を馴染ませてしまいたい。傷だらけの私の心を消毒してほしい。
ここには私と私の林檎のアップリケのついたボロボロの鞄以外、誰も、なにもいない。時々やってくるのは、空を任されている鳥たちだけ。
ここには、私を傷つける人はいない。誰の視線も言葉もない。青が体に馴染んでいく。自然と、息をするよりも、自然に。
「よし、行くか」
何もないから行かなきゃいけない。
大きく体を伸ばし、もう一度空をみた。瞬間、なにか硬い物が音をたてて落ちたのが分かった。ここには何もないはずなのに、と音に誘われて下を見た。
「ああ!」
そして確認のために、自分の制服の気になる所に目をやった。すると、紺色のブレザーに良く映える、銀色のボタンが一つないことが分かった。落ちたボタンを拾うとそれには間違いなく学校の校章が刻まれていた。
いっきに、血の気が引いた。もしボタンなんかが取れていたら、彼女たちはよってたかって攻撃してくるだろう。馬鹿にされて、ののしられて、ここから出て行けと言われる。目に見えるようだ。
「どうしよう……」
重たい雲がますます重さをもち暗闇が濃くなる。手に力が入らなくなる、いつもそうだ。
ボタンを持ち、ただ見つめていた。本当の空は自然に形を変え、流れていった。
「ボタン、貸して?」
ふと、声が後ろからした。だれもいないはずのこの空間から。体が動かなかった。何かを強く否定しているようだ。何を否定しているのかは分からなかったけれど。その声は確実に私の体を硬直させた。
「貸して?」
どうしよう、どうしよう、どうしよう。体中の血液とか、いろんな物が、ものすごい早さで動いてるのがわかる。体は動かないのに、体の中は忙しい。
「……」
その後なぜか、静かな時間が流れた。後ろにいるはずの誰かも何も言わないし、私もどうして良いかわからなくて、そのままでいた。
なんでだか、その緊張感がやけに落ち着けた。時が止まったのではないかと思うくらい静かだったけれど、雲ゆっくりと流れ時間も確実に流れていた。
不意に、ボタンを持っていた手の力が抜けて感情と同じように、落とした。そしてそのボタンは導かれるようにまっすぐ後ろへ転がった、反射的に振り向いた。
「あ……」
振り向いて私の瞳に映っていたのは、私が思っているような人間ではなくて、綺麗な人だった。黒くて長い髪。処女雪のように白い肌。顔のパーツも何一つ定位置をずれてはいなくて、長い手足を持った、どこにも傷のなさそうな女の子だった。心にさえ傷のなさそうな女の子だった。傷がないことを信じたいような女の子だった。
教室の扉は重い。
この扉は『学校』という敷地から『クラス』を分けるためのしきりだ。ここに入ってしまえば、彼女達の空間だ。
私を排除する空間だ。
教室の扉は私を笑うような音をたてて重さとは関係なく軽く開いた。
――空気が違うことが分かった。
クラスにいる大半の人間が口に笑みを浮かべている。小さな声で話している人間もいる。
関係ない顔をして提出物をしている人間。空気が読めずに友だちとの話をやめられない人間もいた。誰も私に話しかける人間なんていなかった。一人をのぞいて。
「美空さん、おはよう」
「……」
私は無視をして席に着いた。
「無視なんてひどいよ」
それでも私は無視をする。席に着く一瞬の時に彼女、宮崎麗の顔はひどく嬉しそうな笑顔だった。
「えっ?」
その顔の意味が分からなくて彼女を不振に思って振り返る。
「今日のは自信作なんだ」
次の瞬間には私の体中に痛みが広がった。
「いっ!」
痛みを感じたほぼ同時にいすから落ちるようにして私は転がった。
「あはははは! 痛かった?」
「な、なに?」
床にへたりと座り込んでしまった私は机を下から見ることになった。すると上からでは見えない所いっぱいに無数の針……机の裏にも、椅子の背もたれにも、椅子を座るときに触るであろう左右の椅子裏にまで、画鋲が均等に私の体を傷つけるためだけにそこにあった。
「あはは。これ、なかなか大変だったんだよ? ありがたく思ってよね」
私を傷つけるためにあるもの。
私を傷つけるためだけに存在を作られたもの。
そんな存在があるのだと知った私はただそこに座り込んでいた。周りの笑い声が遠くに聞こえる。確かに聞こえる。
画鋲は、確かにそこにある。
画鋲は決して動いて追いかけて来るはずはないのに、私を追いかけて、追いかけて、私を傷つけにやってくるのではないかと恐怖がさらに増した。
重かった扉はより重く感じられ、この空間から逃げることは不可能な事にも感じられた。ここから出れば傷つけられない。私は懇親の力で扉を開けたのだった。
「なにぃあれ! おっかしい」
痛みが追いかけて来るのではないかと感じた私はただ走った。周りの笑い声が近くに聞こえる。もう、聞こえないはずなのに。
青い空が近い、北館立ち入り禁止の屋上。ここが私の最近の通学場所だ。
「おはよう。ボタン」
誰もいない屋上。私と彼女しかいない屋上。
「今日ははやいのね」
彼女は無機質に、自分の手を止めることなく答えた。綺麗な長い黒髪は屋上の風に揺られながら、光を振りまいていた。白くて長い手足を惜しげもなく投げ出して彼女はいつも通りそこにいた。
「傷が、開いたみたい。」
「そう。」
彼女の趣味だと言う刺繍を黙々と続けながら彼女はまた透明な印象の声で答えた。傷が全くついていない声で。
天気は相変わらず快晴で、一週間前と何も変わってはいないように思えた。
不思議な女の子だった。転がったボタンを拾うと、私にブレザーを脱がせ、あっという間にボタンを元通りに止めた。
「はい」
「あ、ありがとう」
私にブレザーを渡すと、今度は別な物に針を通しだした。
その女の子は、ただそこにある、と言うのが、一番適当な形容詞であった。空気と一緒だった。そこにいるのが当たり前で、十年以上前に描かれた絵のように馴染んでいた。
「ねえ、どうしてこんな所にいるの?」
「いたいから」
単純な答えだった。彼女は自分のやっていることの手を止めない。規則正しく、ただ動いている。
「いつからいるの?」
「あなたより早くから」
同じ調子で返された。
その後同じような質問をいくつかしてみたけれど、それも似たような受け答えだった。
「まあ、いいか」
そう思って、質問をやめて、空を見上げた。
雲が流れて、ゆっくり流れて、雲と雲の間から光が射す。青色が私を包んでいた。
「あなたは?」
「え?」
不意に問われた。一瞬だれに聴かれたのかと思ったが、ここには彼女しかいない。
「あなたは、どうしてこんなところに来たの?」
さっきまでと同じようなトーンの声だが、確実にその言葉に疑問が含まれていた。
「私は……。逃げて来たの」
あの空間から、傷をつけられる事から逃げた。それは私が一番嫌な事だった。逃げるなんて……。
「逃げるくらいなら、最初から学校なんて来なければいいのに」
無機質な声は私の心の傷の特に深い場所を確実につついた。
不登校。それは考えた。傷ついて、傷つくだけなら最初から行かなければいい。でも、それは逃げることだ。
『逃げる事だけはダメだ。』と無責任な言葉は五歳の時から私の心に刺さっていて、それを否定する事だけはどうしてもできなかった。
「私の母ね。すっごく無責任なんだ。『逃げることだけはダメだ。』って口癖みたいにずっと言ってたんだよ。でも、私が五歳の時、この世界から逃げて行ってしまった」
体が傷に耐えられなかったのだ。傷に耐えられなくて、母は逃げたのだ。そのときの医者であった父の落ち込みようと私の心の初めての傷は、もう二度と味わいたくない物だった。だから、私は逃げないと決めた。
「私は逃げない。って決めたはずなのに。矛盾してるね」
彼女に言ったんじゃない。私自身に言った。逃げないと決めていたのに、逃げてしまった矛盾。
心は傷だらけで、もうどこにも傷をつけるところもないくらいに傷ついてしまった。
「それは逃げてるとは言わない」
針を動かしていた手を止め、彼女は私の目を見た。初めて目があった。きれいな目の奥には確かな意志があった。
「それは、休んでるって呼ぶの」
すうっと体が軽くなった。青が体に馴染みはじめたのかもしれない。
「傷ついたのなら、傷を治さなくてはいけないの」
取れたボタンはまた、つけ直せばいい。
「そうかもね」
空の青はただ青かった。
「ねぇ。あなた、名前は?」
ある昼休み。私はあの日からよくここに通うようになった。
逃げるためではなく、傷を癒すために。
「私は自分の名前が嫌い」
相変わらず彼女はこんな感じに素っ気ないけれど、一言一言が私の傷を治していくのが分かる。時々彼女の言葉は私の傷にしみるけど。消毒液は傷にしみる物だもの。
「名前は、私を縛る物。コレがある限り私は私でしかない。名前は私という区切りを作ってしまう。私は私以上の事はできない」
だから嫌い。といつもより口数が多かった。
「でも、それじゃなんて呼べばいいのよ。」
いつまでも『あなた』や『ねえ』ではそっけない。私の元々の人なつっこく、明るい性格はこの状況がすごく窮屈であった。
「好きに呼べばいい。ここには私とあなたしかいない。ここの私は私だし、あなたもここにいつもいるあなた以上にはなれないのだから」
白い布に赤い糸を彩りながら彼女は言う。
「名なんて、後からつける物なのだから」
彼女の話はいつもよく分からなかった。けど、それは決して冗談でなくきちんとした感情と意志が読みとれるから、私は彼女の言葉が好きだ。
意志のある言葉は意味があって私の体に入ってくる。彼女の言葉はそれが誰のどんな言葉より自然だった。だから好きなんだと思う。
「好きに呼って言われても……」
自由研究で、自由って言われてるのにかなり困るっていう心理と同じで、それは意外と難しい。
「んー。んー」
悩む。すると目に眩しい光が飛び込んできた。
「あっ」
銀のボタンがまるで私の視界に入ろうとするかのごとく、まばゆい光を反射していた。
「ボタン」
「え?」
彼女につけ治してもらったボタン。
「好きに呼んでいいなら、ボタンね」
「ボタン?」
「うん」
「そう」
少し興味を持ったようでは合ったけど、彼女は刺繍の手を止めることなく会話をした。
「アップリケ?」
この一週間を思って空を眺めていると聞き慣れない言葉を聞いてふと我に返った。
「アッ……プリケ?」
今、ボタンは私にその言葉を投げかけた。
私はその言葉がどうして私に投げかけられたのか、分からなかった。
「あなたが私の事をボタンと呼ぶなら、私はあなたをアップリケと呼ぶわ」
彼女はまた手を止めてなどいない。
それでも、気持ちがこちらに来ているのが分かる。
「どうして、私はアップリケなの?」
「……それ」
私の問いに、少し迷って、自分の手を止め私のボロボロの鞄を指さした。
「あなたのいつも持っているあの鞄に、林檎のアップリケが付いているから」
「……そっか」
ボロボロの鞄の疲れ切った林檎のアップリケ。つけ治されたボタンと破れた所を隠すためのアップリケ。彼女と私。
誰のでもない空はどこまでも青く澄み切って、時々雲が少し空を休ませようと覆い隠す。そんな、関係。
「ボタン」
「アップリケ」
私たちだけの名前。
私を呼ぶ彼女の横顔は白い雪に春が来たのを告げる光のような暖かさがあった。
「ねぇ、ボタン」
「……」
聴いていないようだが聴いてくれているという確信を持って話を進める。
「どうして、ずっとそれをしてるの?」
それと言って、彼女の手元で刺繍されている物を指さす。
「すごく、きれいだよね」
彼女は赤い糸を規則正しく縫い込んでいく。
緑に黄色に青に赤。沢山の色がそこにある。決してお互いの邪魔なんかしない。
違うものなのに……いや、違うものだからこそお互いの綺麗なところが分かるんだろうな。
「……千人針というのを聴いたことは?」
私の言葉への返答などいっさいなく、質問に答え始めた。
「千人針……って戦時中の?」
「一般にそういうイメージがあるけれど、合力祈願。多数の人の祈願によって目的を達成させるというのが元の意味。別に戦時中に生まれた考えじゃない。」
彼女は博識だと思う。いつもここにいるけれど、何かを聴いたらきちんとした答えが返ってくるし、いつだったか、誰かに捨てられてしまってやり直さなければいけない宿題を手伝ってもらった時。どんな問題も、すらすらと解いてしまった。
どうしてこんな所にいるのだろう。
ボタンは私と違って、美人だし、なんだってできそうで、もっと人の中心にいるべき人間な気がする。そりゃ口数は少ないけど、間違ったことは言わないし、女同士でも憧れる存在だ。
「聞いてる?」
「あっ……聞いてるよ!」
ボーっとボタンのことを考えていたら、どうやら顔に出ていたようだ。
「まあ、とにかく私は千針縫って叶えたい願いがあるってこと」
呆れたのか簡単に言われてしまった。ちょっと悪いことをしたなと思った。
「ん? でも、千人針でしょ? それって千人の人に縫ってもらうから千人針何じゃないの?」
「別に、ただの考えの話だから。」
そう言って、また一刺し。
「そのくらい何かを一生懸命やれば何かが変わるかもしれないってこと」
針を途中まで差し込んだところで彼女らしくない色の付いた表情で空を見上げた。
「流れ星に三回も願いを唱えるなんて無理。でも、千針この布に針を通すことは私たちの努力次第で何とかなるでしょう?」
話をする彼女の横顔はどこか夢を見る少女のようで、お伽の国のお姫様のようだった。
「私は、誰かに何かをしてもらえる人間じゃないから、星が私の願いを待ってくれるわけがない。だから少し。ほんの少しの可能性だけど、何かを一生懸命やって変わることができるなら、それに賭けてみたくなった」
永遠に追いつけない星を思うより、自分を変えて、願いに近くなることにした。努力がなければ無理なこと。努力をすれば可能性があること。始まりがあって、終わりがあること。
それがどれだけ幸せなのかなんていうのは個人の価値観ですらないけれど、私はうらやましく思った。そんなこと考えたことがなかったから。
何かを変えることはとても難しいから。私に傷が付かない日がないがやってこないように。
語る彼女の瞳には青い空がどこまでも映っていて、彼女の瞳の中の空は全て彼女のものだった。
「すごいね」
思わず口を出た言葉はひどく単純だった。今の言葉はきっと彼女の大切な物であったに違いない。
心には彼女の言葉の一つ一つがあって、心にしみこんでいる。その一つ一つがせめぎ合って混ざり合う。変な感覚が胸にあるのに、言葉にならない。
私が彼女に惹かれたのはこういう所なのだ
ろう。
いつまでも母の言った言葉に縛られ、誰かの顔色を見て言いたいことも言えない私は、彼女が言う夢のような大きな話を、まるで勇者がドラゴンを倒す物語を聞いているようにドキドキして聞いていた。
自分の考えを持って、それを正しいと言える人。
「すごいな」
口を開けばそんな言葉ばかり。また呆れられてしまいそうで、視線をそらした。でも、ここで何かを伝えて置かなくちゃ、私は変われるチャンスをなくしてしまうと、変な確信があった。
「私にもね。あるんだ。大切な物」
大切で、大切で、大切なもの。
「これ」
そう言って、ボロボロの手提げの布鞄を手に取る。林檎のアップリケがついた鞄だ。
「この鞄、お母さんが私に作ってくれた物なんだ。体が悪いのに、無理してね。私の幼稚園の入学式に間に合わせるんだ。ってさ」
病院のベッドの上、慣れにことをして指にいっぱい絆創膏を巻いていたっけな。
彼女に背を向けているから、どんな表情かなんてわからないけど、きっと相変わらず手を動かしているのだろう。
「苦しそうな息のなか、お母さんは最後まで私の鞄に手を加えていた。お父さんも、私も、もういいからって言ったのに、『逃げることになるから。』そんな馬鹿なこと言って最後までコレを作ってたよ」
もう、あちこちほつれて、赤かった林檎はくすみ、ボロボロだけど大切なもの。いつもそばにある物。あって欲しい物。
「すごいよ」
「え?」
声に反応して思わず振り返ると、思った通り手を止めてないままにいる彼女がいた。
「すごいと思うよ。アップリケのお母さん。」
赤い糸を縫い終わったのか、糸切りばさみを出して一本プツンと切った。プツンなんてそんな大きな音はするわけがないのに、なにかが糸と一緒に切れたのだろう。私の心にやけに大きくその音が響いていた。
静かな、静かな時間。ボタンと初めてあったときと同じような時間。違うのはお互いが向き合っていることと。私たちに名前があること。それだけなのに、あの時のような心地よい緊張感はなく、どこか、落ち着かない空気があった。それは私だけの感覚だったのか、お互いにそうだったのかは分からないけど。
そのとき、風が何かを排除するかのように強く吹いた。
学校に今日が終了した事を告げるチャイムが響く。足早にこの教室から出ようと、荷物を手早くまとめる。
「あれ?」
思わず声が漏れたのはいつもならある物がそこになかったから。ロッカーの中かと思って見てみても、私の探しているものはない。
私のなかで、一番嫌な予想が現実味を帯び来た。
「あれ? 美空さん、何を探してるの?」
「あなたね……。」
「なんのこと?」
宮崎麗はわからない、と言った顔で私を見る。その顔がいつも嫌だった。何事も、自分の手の中であるという、その顔が。
「私の鞄を返してよ」
「鞄? 鞄はないけど、この布きれなら、さっき拾ったけど?」
「え?」
そう言って私に見せたのは、鞄……いや、本当にただの布きれだった。わずかに、くすんだ赤色が見え、林檎のアップリケだとわかる。
鞄は、布きれにされてしまっていた。もともとあちこち解れていた鞄は今や、一枚の布のような状態で、私の目に入ってきた。
目の前が真っ暗になった。
今、私がどこにいて、何を思っていたのか、アレは、なんなのか。なにも、分からなくなった。
「なによ、その顔」
ただの布はひらひらと私の前で揺れていた。
「これ、あなたの母親が作ったんですってね」
その一言は、私を正気に戻すのに十分だった。
「な、なんであんたが、そのことを……」
そのことは、私とボタンしか、知らないはずなのに。
彼女の顔は、ひどく綺麗な笑みだった。気持ちが悪いくらいに。
「あんなところで、さぼっているからよ」
あんな所。空があるところ。私とボタンの所。
あのとき、風が何かを排除するかのように強く吹いた。
あのとき。私たち以外の人間がいるなんて、考えもしなかった。
「あはは。こんな、ぼろい布をいつまでも持っているあなたもおかしいけど、あなたの母親も意味のない人ね。こんな物だけ残して死ぬなんて」
頭が痛くなる。何かがすごい力で、頭を締め付けているのが分かった。血液が逆流するのではないかと思うくらいだ。
「あんたに、あんたに何が分かるっていうのよ!」
なにも知らないくせに。それが、今まで私の背中をどれだけ押してきてくれたのかも、お母さんの言葉も何も知らないくせに。
「だから? 何も知らないのにどうしてこんな事をするのかが知りたいの?」
私は彼女から目を離さない。
「そんなの、あなたが嫌いだからに決まっているでしょう」
そう言って、私の目の前に、布を落として彼女は帰っていた。
扉が閉じる音を聞いたと同時に、私は勢いよく扉を開けて飛び出していった。
「こんにちは、アップリケ」
私がどんなに息を切らしてやってきても、目を真っ赤にしていようとも、彼女はいつもと同じ口調で私を迎えた。
「うっ……。ひっ、うぅ」
その声に安心したのか、私はその場に座り込んで、声をかみ殺しながら泣いた。
「どうしたの?」
また、いつもと同じように手を止めずに聞いてくる。
「もう、いやっ!」
「なにが?」
「なんで、私だけがこんなに傷つかなくちゃいけないのよ!」
「……」
返事はないけれど、聞いてくれていると確信をもって話す。話すというか、怒鳴る。
「なにも知らないくせに、私が嫌いって言うだけで、なんで……」
今まで、放っていた傷が、見ないようにしてきた傷が膿はじめたようで、痛みが私の心を襲う。
「こんなに、痛いなら、ここから消えられればいいのに!」
「じゃあ、消えれば?」
「え……」
急に帰ってきた答えに、思わず顔を上げた。
ボタンは手を止めて、ただまっすぐに私を見ていた。
「そんなに、痛いのが嫌なら、そうすればいい」
ボタンはそう言うと、立ち上がって私の腕を引っ張った。
「ここから、落ちればいいじゃない」
ここは北館立入禁止の屋上。ここは、空が近い。空が近いと言うことは、地面が遠いと言うことだ。
立ち入り禁止の屋上には落ちていく空間と、立っていられる空間を隔てるものはなかった。
下を見ると、落ちてしまったのではないかと思うくらいの恐怖感に襲われた。
「はあ、はあ」
知らない間に、息も上がっている。ボタンに支えられているにも関わらず、私はその場で腰が抜けてしまった。
「生きていけるくせに、生きようとしないなんて、馬鹿」
ボタンはゆっくり私から離れていった。
「この世の中には、生きたくても治らない痛みで死んでいく人が大勢いるの。あなたのお母さんみたいに」
遠くから、私を見下しているのが分かる。
「あなたの言ったことは、そんな人を全て否定したことになる」
今までになく感情的な声がびりびり響いた。
「べ、別に、そんなの分からないじゃない。そういう人が本当にそう思うかなんて……」
「私は、そう思った」
そう言って私を冷たい目で見下ろすボタンは今までで一番感情のない、無機質な声で言ったのだ。
「私はもうすぐ死ぬのよ」
その言葉に愕然とした。今までにこんなに生を感じない言葉を聴いたことがなかったのだ。言葉は重力に従って石と同じようにただ下へ落ちる。
いっきに血のけが引いた。
「分かった? 私は、もうすぐ消えるのよ! だからあなたの言ったことが本当に悲しい。」
ボタンは初めて声を張り上げた。苦しい声だった。切ない声だった。雲に重たさを持たせれる事ができる声だった。
「だったら。」
そんなこと言われたって。
「だったら、なおさらだよ! 今から消えて、生きて行かなくてもよくなる人に言われても、何とも思わない!」
お母さんだってそうだ。言いたいことだけ言って、いなくなって。
これからもう痛みを感じなくてよくなる人に、この痛みと感情が分かるはずがない。
傷が付きすぎてなお、塩水に浸かっていなければならない痛みなんて。
「ボタンみたいに、千人針なんてものに、頼ってる人なんかの、病気が治るわけがないじゃない!」
頭の中はぐちゃぐちゃで、どうしようもなく、言葉が出た。
「もう、どうしようもなかったの! 何をやっても、治らなかったの!」
ボタンも同じようで、感情的な声が次から次へと私を襲った。
「本当は、もう千も二千も三千も、縫ってるの! ……でも、なにも、変わらなかった」
最後の言葉は今まで、絞り出すような言葉だった。
座り込んでいる私は彼女の表情を読みとることはできなかった。
「だから、あなたがうらやましかった。心にいくら傷があっても、私みたいに、そんな物に逃げずにいつまでも前を向いている、あなたが」
彼女は離れていった。この空間からいなくなるための階段に向かって。
「あなたの痛みは、治すことができる。何より、生きていける」
そう、一言残して、彼女はこの場からいなくなった。何も言えなかった。引き止めることも、慰めることも。あやまることも。
残ったのは、今までとは違う傷が付いた私だけだった。
それから、ボタンを見ることはなくなった。私も落ち着いて過ごしている。もちろん、あの日常からたいして変わってはいないけれど、千、二千、三千縫って願っても何も変わらなかったのに、私みたいな人の何かが変わるわけもなかった。
ただ、あれから、一度もさぼらなくなった。
放課後。久しぶりに、屋上に上がってみた。
空が青い。いつからか、私の心を覆っていた雲はどこかへ消えてしまっていた。
青い空のした、何もないはずの空間に、一枚の封筒が置いてあった。
大きめの封筒には、『アップリケへ』と綺麗な字で書いてあった。
私は急いで封筒を開けた。
中には、一枚のメモが入っていた。
『あなたの未来を祈って 三葉 牡丹』
自分の名前は嫌い、と言っていた彼女の顔が思い出された。
ボタンと牡丹。
私は牡丹さんがどんな人だったのか知らない。私のここにいた友だちはボタンだから。
封筒の中には、もう一つ。綺麗な赤色で、林檎が刺繍された布が入っていた。
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2008/06/10(Tue)22:39:43 公開 / りり華
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■作者からのメッセージ
前の投稿からあまり日がたっていないのですが,前々から考えていた話なので書き出すとすらすら書け,書きあがってしまいました。
いじめは悪いことです。解決のために先生や親はもちろん協力してくれます。しかしそこへたどり着くには大きな勇気がいるのですよね。主人公はそんな誰かを頼る勇気がないのです。
このあと,きっと主人公は一歩踏み出せると思います。なにか読んでくれた方々の心に残れば幸いです。
感想などお待ちしています。