- 『ラスト パートナー 2』 作者:暴走翻訳機 / アクション 未分類
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全角82140.5文字
容量164281 bytes
原稿用紙約249.4枚
あの事件から約半年、再び宗谷達に魔の手が忍び寄る。過去と現在が紡ぎ出す未来に、彼らを待ち受けるのは何なのか。イェーチェの新しい門出と、あの天敵の登場によって波乱万丈は更なる加速を見せる。ちょっとハードボイルドなアクション小説第二弾開始!
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Last Partner/Stampede the Towar of Babel/
序章・過去の目覚め
過ぎ去る人波。その中に、男は佇んでいた。
空はドンヨリと曇り、今にも雨が降り始めそうだ。
男はボロボロの焦げ茶色をした旅行鞄を足元に置き、白い布に包まれた塊を抱きかかえている。野暮ったい丸渕眼鏡にヨレヨレのセミコート、白いアンダーシャツのようなものが食み出たまるで放浪の旅人のような格好である。痩せこけた肉付と、やつれた頬が更に増してそう思わせる。
カンカンと鐘の音を打ち鳴らし、坂の上から路面電車がその巨躯を現す。街の郊外まで向かうローカル線、男は停留所で路面電車が近づいてくるのを待つ。
上ってくる路面電車、降りてくる路面電車、流石は坂の街と呼ばれたロサンゼルスである。
路面電車が目の前までやってくると、男は手すりに捉まって乗り込もうとする。しかし、抱きかかえた塊と鞄が邪魔でなかなか上手く乗り込めない。
「どこへ逃げるつもり?」
悩みあぐねていると、一つの澄んだ声が初夏のロサンゼルスに響き渡る。一瞬、世界から音という音が消えた。
曇天を貫くような透き通った声。若いアルトボイスの音色が、男の耳朶を優しく撫でる。
けれど、男は肩を跳ね上げながら硬直する。
振り向かなくても、声の主が誰なのかわかっていた。
それでも男は、振り向いて彼女を見なければならなかった。
新月の夜空を彷彿させる黒い髪に、黒のホットパンツに黒いシャツと同色のベスト。黒一色に纏められた容姿が似つかわしくない、ロングヘアーの幼い少女だ。
年は七、八ぐらいで、まだ男の腰にも及ばない体躯。直ぐに雑踏の中へ消え去ってしまいそうな少女は、なぜかこの世の何よりも存在感を醸し出している。
白黒"モノトーン"の景色の中で少女だけが極彩色に映り込む。
「やはり、私を逃がしては……私の血をこの世に残させてはくれないのか?」
男が少女に問う。
それは問いではなく、懇願にも似た問いかけだった。
そんな懇願も、少女には何の意味も持たない。非情という言葉を一身に受け、狡猾という異名の中に生まれた、少女には男の声など聞こえはしない。
分かっていた。彼女に出会った時から、逃れられないことぐらい。
「これが、私の生きる意味だから。あなたには何の恨みもないけど、貴方と貴方の血を絶やすことが、私の生きる意味」
少女が微笑みながら答える。
切り揃えられた前髪に隠れた三白眼が、男をその場に縫い止める。
蛇に睨まれた蛙というのは、このことをいうのだろう。可笑しな話だが、大人の男が、僅か十にもならない少女に竦み上がっている。
少女は何が可笑しかったのか、こちらだけを向いて固まる男に唇を吊り上げてみせる。
そしてそのまま、白く磨き上げられた毒牙を剥き出しにして、男の下腹部へと突きたてた。
少女の行動は、この雑踏の中では大胆過ぎた。
こんな少女が、拙い妖艶さを振り撒きながら大人を誘惑する。ヌラリッと艶光する毒牙が男の下腹部を撫で、快楽の世界へと饒舌に誘う。
「や、止めてくれ……」
男が抗えるのは、声だけだ。
体はまったく動こうとせず、少女を引き離すこともできずに男は成すがままにされる。
少女は周囲の目など気にせず、どう料理してやろうかと毒牙で男の下腹部を撫で回してくる。一思いにやれば良いものを、それさえも野暮と言わんばかりに少女の愛撫は続く。
少女の行為は、弄ぶという愚行ではない。肉食獣の母親が子供に狩りの練習に傷ついた玩具を手渡すのと同様で、男は少女の狩りの練習道具にされているだけに過ぎなかった。
そう、暗殺という狩りの道具に。
膝が笑い、体の感覚がなくなってきた頃、一粒の水滴が頬を打つ。曇天が雨を流し、いつしか視界を覆いつくすまでの水流を吐き出し始める。
雨に打たれた塊が、腕の中で鳴き声を上げる。
雨に濡れることを嫌がったのではないのだろう。ただ、男を現実の世界へ引き戻そうと鳴動したのだ。こんな状況でさえ、抱きかかえられた赤子は男を逃がすために甲高いエールを送ろうとする。
「――ッ」
赤子の鳴き声に、男が我を取り戻す。
少女が躊躇い、児戯を続けている間に、好機を見出した男は彼女から身を離す。
運よく通りかかったタクシーを拾い、ドアが開くと同時に飛び乗る。
「どこでも良い。早く出してくれ!」
運転手は男の切迫した声を聞き届け、アクセルを踏み込む。
黄色い車体のタクシーは、雨に濡れて残念そうに俯く少女から勢い良く離れてゆく。
バックミラーに移る少女を、男が追ってこないか観察する。だが、直ぐに後悔した。
ゆっくりと動く唇。雨水の滴るナイフに舌を這わせ、聞こえもしない言葉を紡ぐ。
「(どこへ逃げも追いかけて――)」
聞こえるはずもない、少女の声が、鼓膜を震えさせる。
「(――あ・げ・る)」
恐怖に身をうずくまらせる男。
抱きしめた布の中で、二つのエメラルドが男を見据えていた。
フッと目を覚ましたのは、そんな懐かしい夢を見終えてからだ。体中を包み込む気だるさが、現の世に戻ってきたことを教えてくれる。
リクライニング式のシートに体を預け、薄暗闇の中でおぼろげな記憶を掘り返す。十八年も昔の出来事。
しかし、何年経とうとも忘れることの出来ない記憶でもある。
ロサンゼルスでしがない化学者をしていた男は、ある日、一人の女性に恋をした。三流大学の教授を務めていた化学者風情が摘み取れるような女性ではない。政界で名を振るわせる大御所の娘で、男にとっては高嶺の花とも言えるべき存在だった。
出会いさえ奇跡と呼べるほどの偶然だったと言うのに、初めて出会った時から男は女性に惚れ込んだ。
愛だの恋だのに消極的だった化学一辺倒の男が、出張先の大学で論文の発表会に赴いた先で出会ったばかりの女性に、告白したのである。
講義が終わって直ぐに女性を追いかけ、
『たった今、貴女のことが好きになりました!』
などと戯言をほざく男に対して、
『私はあなたのことを知りません。けれど、貴方を好きになれるようにしていただけますか?』
そう微笑みながら答えてくれたのである。
それからというもの、男と女性の密会は続く。
大御所の娘とは言え、大学に通ってプライベートを楽しめる時間はあったし、男も研究や論文に取り掛かっていなければ暇な時間は幾らでもあった。
だが、馬鹿な夢を見ていたものだと、男は自嘲の笑みを浮かべる。
「リーテシア……。君は、儚い幻想のように僕から離れていった」
女性の名前を呟き、座席のシートを倒したまま腕を頭上に掲げる。
目を閉じれば思い出せる、透き通った絹糸を彷彿させるブロンドの髪、踊れば翻る金糸雀の如きロングドレス。あの頃のリーテシアを思い出せるというのに、手を伸ばしてもその幻想に届かせることは出来ない。
リーテシアは自分のように浪漫や奇跡を信じない頑なな現実主義者だったが、二人の愛は固く誓われたものであったはず。なのに、運命の時は幸せのコウノトリと共にやってくる。
二人の間に生まれた小さな命、幸せと同時に彼らに訪れた不幸。密かに子宝を授かったリーテシアのことを知り、父親が二人を引き裂いたのだ。
大事な選挙を控えていた彼女の父親にしてみれば、不義の子が生を受けたことはスキャンダルの何物でもなかったのだろう。
だから、二人の間を引き裂いただけでは飽き足らず、殺し屋を男と子供に差し向けた。
それがあの、夢に出てきた少女である。
「止めよう……。僕はもう、過去の夢から目覚めたはずだ。彼女が、こんなところまで追ってくるわけがない」
なぜ今更になって十八年も昔のことを夢に見たのかは知らないが、既に過去からの決別は済んでいるはずだ。
こうして、極東の地へ逃れてきたことが、その決意であるはず。
しかし、運命とはどこまで皮肉なのか。
唐突に、とある伝手から手に入れた携帯電話の着信音が鳴り響く。向こうが勝手に渡してきたものだが、『Beck』の『Looser』とは自分を嘲ているつもりなのか。
「こんな時に、何の用だ?」
感傷に浸っているところに野暮を指され、些か苛立ちながらも約束ゆえに電話を取る。
「何の用だ? 今まで待たせておいて、今更、馬鹿げた約束を使おうとでも言うのか?」
多少の不自由は強いられたものの、生きてここまで逃がしてくれた彼らには感謝している。感謝はしているが、何の音沙汰もなく十年間も待たされれば、忘れてしまってもおかしくはない。
ただ、男は教師という肩書きもあるので完全な忘却は免れた。
最初は彼らの馬鹿げたお遊びに付き合わされたのかと思ったが、偽装ビザや飛行機の費用を出してまで何らかの遊びに興じる暇な大金持ちとも思えなかった。
電話に出ると、聞き覚えのある声が電子音に混じって流れてくる。
『久しぶりにしては、大層な挨拶だね。それはどうでも良いとして、テレビをつけてみたまえ』
男であろう声は、ただそれだけを告げてプッツリと切れてしまう。
男は意表を突かれて目を丸くしながらも、携帯電話と同じく買い与えられた小型のテレビの電源を入れる。
暗闇に映し出される液晶の画面が放つ明かり。
『わははははははははは』
具にもつかないバラエティ番組で、無機質な作り笑いが発せられる。
チャンネルを変えてみるが、ソープバスに浸かった若い俳優が出演するCMが流れるだけ。石鹸のように、自分も溶けて消えてしまえばいいのかもしれない。
そんなことを思いつつ、男はもう一度チャンネルを変える。
『さて、今日の特集は日本中央空港の付近に出来た、史上最大のデパートビル『セントラル・バベル』についての特集です』
流れたのは、ニュースの特集番組だった。
果たして、彼らは何を見せたかったのか。男は小首をかしげながら、チャンネルに力を込めようとする。
が、次に映った映像に、男は驚きとも喜びともつかぬ表情を浮かべる。
『これが、今現在に蘇った現代版バベルの塔、『セントラル・バベル』です。それでは、このデパートを建設したバイロン氏に突撃インタビューです』
どこかの空港の付近を映すカメラに入りきらないほどの、巨大なガラス張りの建造物。
まさに現代に蘇った神話のバベルの塔を思わせる巨大なビルディングだ。しかし、男にとって建築物の大きさや、全面ガラス張りという大胆な建造方法、女性リポーターの言葉など五感には届いていなかった。
ただ、己に訪れた運命の皮肉を呪い、そして歓喜する。
『こちらが、『セントラル・バベル』を建築したエドモント=バイロン氏です』
唯一五感が捉えるのは、カメラが映す一人の男だけだ。短髪の厳格そうな顔つきをした中年の男性。
リポーターの質問に答えるエドモントなる男が浮かべる笑みは、他の誰かが見れば自嘲にも似ている。なのに、男には、悪魔の嘲笑にしか見えない。
そう、このエドモントこそ、男とリーテシアとの仲を裂き、己の命とその血を抹殺しようとした悪魔の如き男だ。
「ハハハハハハハハハハハハハッ!」
男は狂喜した。
ただ、その復讐の悦びに燃えるのだった。男の呪詛はいつまでも暗闇の中に響き渡る。
春先の、季節の変わり目に吹く風が、ヒビだらけのボロアパートの壁を吹き抜けて行く。些かまだ冷たい隙間風に晒され、昨晩の暖かさに感けて湯上りにランニング一枚のままで寝たのが間違えだったのか、盛大なクシャミを吐き出しながら彼は目を覚ます。
寝癖の付いた日本人特有の黒髪を掻き乱し、寝ぼけ眼を擦る男の名は、桂木宗谷という。
「ふわぁ〜」
締まらない欠伸を噛み締めながら枕元を見る。六を指す短針と五を指す長針、刻々と時間を刻む秒針を見つめる。後、五分もすれば、頭に付いた二つのベルをハンマーが叩いて喚き散らすだろう。
数日前に干したばかりの布団から太陽の香りが漂うのと同時に、味噌汁の温かみがある香りが鼻腔を擽る。カビ臭かった部屋も、大掃除によってずいぶんと過ごし易くなった。
宗谷にしてみれば、独り暮らしのボロアパートの一室が多少汚れていても気にしないのだが、新しく入った入居者――同居者がそれを許してくれなかったのだ。滅多に怒らない同居者が、酷く剣幕を起こして「衛生上」の理由で宗谷を酷使した時は、ハタキを持って丹生立ちになる彼女の前で恐る恐る掃除をしなくてはならなかった。
それでも、
「宗谷さん、起きましたか。ご飯が出来るので、早く顔を洗ってきてください」
こうしてマシな朝食にありつけることに対しては、同居者に感謝しなくてはならない。
六畳間のリビングから見える台所の板間を、同居者の女性が右往左往する。調理用に纏められた艶やかな黒いロングヘアーが揺れ、味噌汁の味見をする同居者の横顔が微笑む。
名をアンリという、まるで人間のように振る舞いながら人間ではない、アンドロイドの相変わらずな笑顔だ。
彼女と出会った経緯は、短いようで長く、長いようで短い。
「そう言えば、あいつが出てくるのは今日だったな」
宗谷も相変わらず、アンリの言いつけを守らずに寝起きのまま小さな卓袱台の前に座る。
「もしかして、忘れてました? だから昨日は早く寝て、早く起きようって言ったのに……」
朝食の準備を終えたアンリが、困ったように眉間に皺を寄せながら味噌汁入りのお椀を運んでくる。
今日は味噌汁は、豆腐入りだ。
いや、そんなことはどうでも良い。アンリが食事に気を使うのは、いつものことである。
「この口の中で溶けるように消える、豆腐の食感が良いんだよなぁ〜。うん、美味しい」
「お世辞を言って、誤魔化せると思ってます?」
運ばれてきた味噌汁に箸をつけようとすると、アンリのジットリとした視線が突き刺さってくる。
炊き立ての白いご飯を茶碗に盛りつけ、近所の商店街にあるホームセンターで買ったピンクと白のチェック模様のエプロンを脱ぎ、小さく溜息を吐く。ちなみに、おかずには塩鮭と卵焼きも付いてくる。
そんなに呆れないで欲しい。別に忘れていたわけではなく、覚えていたくなかっただけだ。
しかし、そんなことを口にすれば、アンリが睨みつけてくることぐらい目に見えて分かっている。
「分かってるよ。毎週わざわざ赴いて、差し入れと交換に耳ダコが出来るぐらい聞いてたんだ。けどな、俺は――」
宗谷が、アンリの大切な人のことについて愚痴ろうとして、
「――保護者じゃない、と言いたいのでしょうけど、仕方ないじゃないですか」
アンリが先取りしてくる。この愚痴も、耳にタコが出来るぐらいまで言い尽くした台詞だ。
何が悲しくて、アンリの本当の保護者、というよりも製作者の世話を宗谷がしなくてはならないのか。甚だ疑問である。
「ガキでもあるまいし、自分で帰ってこればいいだろ? 車で二、三十分のところなのに、こっちの時間まで潰して、わざわざ迎えに行ってやる義理はないはずだぞ?」
まさか足代を使いたくないなどという理由で、あのバカスケが「出所の日に、迎えに来てくれ」と駄々をこねなければいつまでも愚痴らずに済んだのだ。
そして今日、アンリの製作者たる少女、イェーチェが少年院から更生プログラムを終了して出てくる。
それは今から四ヶ月ほど前、とある事件の共犯者としてイェーチェは少年院に入所した。天才的な工学技術を持ち合わせ、謎の経歴と詳細不明な出生を持つ、名前も本名なのか定かではない少女が、どんな話術を使ったのか知らないが、半年の刑期を四ヶ月ほどに縮めて出てくる。
「一生出てこない方が、この世の為になると思うが……な」
「宗谷さん、最近、ちょっと塩分が多いと思いませんか?」
イェーチェに対して愚痴を零していると、アンリがさり気無く怒りのお仕置きを口にする。
「あ、いや……これぐらいが、丁度良いです……」
別に、現代の若者好みの味付けが好きというわけではない。しかし、あのお湯に具材を浮かべただけのような味噌汁や、味気のない焼き魚は勘弁である。
家事の全般をアンリに任せている以上、怒らせて味付けが薄い食事を一週間も続けるのは地獄に等しい。健康には良いのだろうが。
「さて、ご馳走さま」
「お粗末様です」
朝食を食べ終え、一食の感謝を告げる。出会ってから続く、変わらない会話。当たり前の日常。
出掛ける前だというのに、アンリは着ていたジーパンとTシャツを脱ぎ、卸し立ての砂色のスーツを着込んでくる。化粧が必要ない、アンリなりのおめかしだ。今日、欠けていたピースが埋まることに、アンリは静かながら喜びを隠せていないように思えた。
もちろん、宗谷はアンリの着替えが住むまで借りている三号室の外で待っている。聞き及んでいない、隣の四号室の引越し準備を眺めながら。
「誰か、引っ越してくるんですか?」
「さぁな。新学期とかも近いし、どこかの貧乏学生だろ。大家の婆さんも、敷金礼金が入って大喜びだ」
着替えを終えて出てきたアンリの問いに、宗谷は感慨もなく答える。
そうした他愛もない話をしながら、二人は愛車の白いセダンに乗り込んで出発する。
白いボディーが初夏を前にした陽光を照り返しながら疾走する中、過去の記憶が覚醒し始める。
一章・現での飽食
まるで侵入者を威嚇し、全ての脱走者を阻むかのように聳え立つ巨大な壁。その佇まいは、童話の城壁を彷彿させながら外部と内部の繋がりを絶っていた。
長い歴史を刻み黒ずんだ元々は白い壁の、一角にある鋼鉄の扉が重苦しい呻き声を上げて開く。
警備員らしき制服姿の男が敷居を潜り、厳つい表情で口髭を撫でる。この城壁で罪人を監視する衛兵、顔で選ばれたかのように刑務官なんぞをやっている男だ。まあフォローとしては、体格と相変わらぬ心の広さも持ち合わせている、とだけ言っておこう。
そんな刑務官の後に続き、奴は姿を現した。
長い獄中の生活を思わせない手入れのされた金髪を山高帽で隠し、サングラスに黒いスーツという、そっちの人とも勘繰ってしまいそうな格好の女。
しかし、女性というのは幼く、少女というには少し年の過ぎた彼女には、幼さゆえか似合っていない。
「出所、おめでとう。これからは、正しき道を進むが良い」
刑務官が少女に声をかける。
続けて少女が刑務官に微笑み返し、人差し指と中指をくっつけながら真っ直ぐに立てると、額から軽く前に振る。
「See you(それじゃあまた)」
「出来ることならな。けれど、それは君が再び道を踏み外した時だ。」
少女の別れの挨拶に、刑務官は苦笑を浮かべながら答える。
少女も、名残惜しそうに破顔させながら踵を返す。
次に出会う時、それは二度と訪れないであろう偶然。元から道を踏み外した覚えはないが、少女がこの先の道を踏み外すことは無いだろう。
なにせ、二度と離れ離れになりたくは無い、家族がいるのだから。
「ちゃんと、迎えに来てくれたか」
刑務所の前に停まる白いセダンを見つけ、少し込み上げるものがあった。
そして、助手席から姿を現した家族の姿に、今すぐにでも飛びつきたくなってしまう。
けれど、今だけは我慢だ。この格好をしてきた意味がなくなってしまうではないか。
「お勤めご苦労さまです。イェーチェお嬢」
スーツを着た黒髪の女性が、太いドスを利かせて頭を下げる。
「あぁ、アンリもお迎えご苦労」
二人はどこやらのヤーさんみたいなやり取りをしつつ、やはり堪え切れなかったのか、堪えていた笑いを吐き出した。
『アハハハハハハハッ!』
目の端に薄らと涙を溜め、飛び掛ってきたイェーチェをアンリが受け止める。
「ただいま」
「おかえりなさい」
二人がいつも通りの飾らない挨拶を交わす。何度も面会しているというのに、この二人は思ったよりも涙脆いようだ。
何十年振りに再会した親友のように、二人が抱き合って再会を喜び合う。もちろん、ハイヤーを務めている宗谷も忘れられてはいない。
「宗ちゃんも相変わらず。皆も、仲良くやってるか?」
「何言ってやがる。面会にきたら、逐一、報告はしてるだろ。アンリを寄越した所為で、こちとら健康な生活を強いられてるよ」
「そうか、相変わらず尻に敷かれてるわけか。それとも、夜の営みの方でも主導権"イニシアティブ"を握られてるのかな」
『…………』
しばらく刑務所で頭を冷やしたかと思えば、まったく懲りた様子もなくこちらの揶揄を軽く切り返してくる。
宗谷の呆れ顔と、アンリの紅潮した顔を見つめ、ニヤリと唇を歪めるイェーチェ。
「さて、こっちも仕事があるんだ。積もる話は道行に聞くとして、そろそろ行くぞ」
これ以上の追撃を避けるため、宗谷が話を逸らせる。多少強引だが、初日で苛めすぎるのも悪いと思って許してやった。
イェーチェが後部座席に踏ん反り返ると、セダンは宗谷達が勤務する県警へと走り出した。
イェーチェは道中で、刑務所のことを嬉々として話していた。仲良くなった囚人のことや、イベントとして催されたクリスマス会のこと、まるで修学旅行に行ってきた女子高生のように終始笑顔で語る。
アンリも、話を聞きながら笑ったり、驚いたり、ハラハラもしながら聞いていてくれた。
そうした話が三十分ほど続き、五ヶ月近くの思い出を語り終えたぐらいにタイミングよくセダンが所轄に到着する。
「到着しましたよ、お嬢。皆に、顔見せておくか? 運悪く、響さんは用事で出てるけどな」
響がいないのは少し残念だが、心配をかけた皆に顔ぐらいは見せなければ申し訳が立たない。どうせ響には会わなければならないのだから、後でお礼を言っておけばいいだろう。
「そうだな、しばらく会えなくてあいつらも心配してるだろうしな。ここは一つ、勝率を上げようかね」
申し訳ないと思いつつも、素直に謝ることも出来ず憎まれ口を叩いてしまう。
つくづく、この数ヶ月の生活で自分がまったく変わっていないことを悟り、僅かに後悔する。だが、かつて宗谷が言った言葉は忘れていない。
イェーチェは、イェーチェらしく生きればよいのだ。
先に歩いて行ってしまう宗谷の後を、ステップで着いてゆく。
数ヶ月前とまったく変わらない、チカチカと点滅する蛍光灯を換えていない薄暗い廊下を歩き、懐かしささえ覚える刑事部の扉の前に来た。何故か静まり返っている扉の前で宗谷が立ち止まり、レディーファーストなどと言う粋な言葉など知らないというのに、イェーチェを先に促そうとする。
「……? 何だ、珍しく殊勝なことをするな」
「扉を開けて先に俺が顔を出したら、皆が糠喜びになっちまうだろ。ほら、早く顔を見せてやれよ」
今日の宗谷は、妙に気前が良い。
それが、久しぶりに会えたことに対する照れ隠しなどと勘違いして、何も警戒せずに足を踏み入れたのは間違えだった。所々塗装が剥がれている扉を勢い良く開き、一発なにかネタでもかましてやろうとしたところだ。
「イ――ッ」
その瞬間、パンッ、パンッと何かが弾け、細長い何かが頭や肩に絡み付いてくる。微かに香る火薬の匂い、舞い散る紙吹雪、絡み付いてくる紙リボン。
『お帰り、イェーチェちゃん!』
刑事部の面々が底辺の抜けたクラッカーを手に、声をハモらせて出迎えてくれた。
「――ェーチェさまのお帰りだ……」
全てを認識したところで、途切れていた言葉の続きを呆然と呟く。間の抜けた表情がウケたのか、皆がクスクスと笑っている。
まったく、一本取られた。
「宗ちゃん……後で体育館の裏行こうか」
わざわざサプライズを用意してくれたのは分かっても、嵌めてくれたことはちゃんとお返しをしなければ気が納まらない。何食わぬ顔で様子を見ていた宗谷を冗談混じりに脅しつつ、溜息を一つ吐いて皆の輪の中へと進む。
やっぱり、ここが自分の帰ってくるべき場所だったのだと自覚する。
「わざわざここでやる必要も無かろう……」
部屋の奥でブスッと呟くのは、刑事部部長の大早良孝之(おおさわら たかゆき)だった。どうやら一人だけイェーチェの帰りを歓迎していないらしく、皆が呆れたように微笑を浮かべる。
「それでも、皆さんの頼みをオッケーしたのは部長さんですけどね」
アンリがフォローを入れると、孝之はさらに不機嫌そうな顔をしてソッポを向いてしまう。その横顔から、僅かに照れているのが伺えたのは言わずが花だろう。
「イェーチェちゃんも、少しは大きくなって帰ってきたかな」
そう一端の口を利いたのは見渡友哉(みわたり ゆうや)である。野暮ったい眼鏡をかけたさえない童顔な友哉は、孝之と並べてみると刑事というより厳格な上司と平の商社マンという感じだ。まだ初めて会った時のように、職場見学の学生に見えないだけマシになったかもしれない。
子ども扱いされているようでちょっと生意気にも思えたが、フッと周りを眺める。
「おかしいな……この机、こんなに小さかったっけ……」
変わらない、変わらない、と思っていたのに、世界は少しだけ変わっていた。もう成長なんて止まっていると思っていたけど、少しだけ床が遠退いて、天井が近くなっている。
「このままいけば、イェーチェちゃんも美人さんになるよぉ〜」
いたことさえ気づかず、友哉の背後から姿を現すのは、資料係に所属する婦警のリンだった。
短く切りそろえたボブカットに猫口の、イェーチェとは違うベクトルで憎めないお茶目な婦警さんだ。日本語や文化に関しては、リンに良く世話してもらった。
「……心配かけてごめん。今日からまた、たまにはそっちにも寄らせて貰うから」
「うん。元気で何よりだ。イェーチェちゃんがいない間、こっちは二人だけで寂しかったんだから。たまに、と言わずに毎日でも遊びに来てよぉ〜。アンリちゃんのメンテナンスも、ここじゃ家の課でしか出来ないでしょ?」
珍しく素直に謝罪の言葉が出る。それでもリンは気にした様子もなく、いつでも迎え入れてくれると言ってくれた。
「二人? 家の課? 資料係って、二人いるんですか? それに、資料課ってありましたっけ?」
せっかくの再開に、友哉が疑問攻めで水を差す。
まあ、気になるのも尤もな話なのだが、便宜的に資料課と名づけられた目立たぬ廊下の端の倉庫など誰も知らないだろう。必要な備品や資料を保管してあるだけで、心ばかりに机が揃えられた部屋など、倉庫でも十分なのだが。
それはさて置き、リンの台詞で思い出したが、
「アンリのメンテナンスも、かれこれ半月ぐらいしてないんだっけ? せっかくだし、今日はアンリを弄繰り回すとしますか」
「おぉ! 賛成!」
イェーチェとリンの意見が合う。
すると、二人が何のモーションも見せずにアンリへ詰め寄り、不敵に唇を吊り上げる。
『フヒヒヒヒヒヒッ』
二人でアンリを取り囲み、なにやら中世の魔女が上げそうな含み笑いを漏らす。ワキワキと蠢く二人の魔手がアンリに近づく。
怯えるアンリ。
「あ、あ、あぁ……。指の動きが卑猥です……」
流石に不気味な二人に囲まれては、アンリも平常心を保てずに瞳を潤ませる。
様子を見ていた宗谷も何故か助け舟を出すことが出来ずに、襟首を掴まれて引き摺られてゆくアンリを見送った。
「しばらく、帰って来れそうに無いな。トラウマにならけりゃいいけど……」
大切な相棒を壊されては堪らんと、呆れながら宗谷は呟く。
出て行くイェーチェ達を見つめ、友哉が目を擦りながら首をかしげる。
「今、変なデフォ絵が見えた気がしますが……?」
「それは言うな」
友哉の疑問を宗谷が一蹴する声だけが刑事部の室内で木霊した。
イェーチェや宗谷達が県警でバタバタとしている頃、その場にいなかった男はとある場所にいた。
ふざけた無雑作な茶髪の、サングラスをかけた遊び人風の男。スーツこを着ているものの、女誑しの優男といった風体だろう。
けれど、男は列記とした県警の刑事で、腑抜けた面には見合わぬほどの修羅場を潜ってきた猛者でもある。
そんな男、庵明響(あんみょう ひびき)がいる場所は日本の中部地方最大の空港、日本中央空港だった。なぜ響が空港なんぞにいるのかは、本人よりも呼び出した男の方が知っている。
観光客で賑わう空港、雑踏がごった返すロビーで一服しつつ、響は自分を呼び出した男を待つ。
響が空港に到着してから数十分して、その男が人混みの中から姿を現した。ゆっくりとその巨躯を歩ませる、三、四十ほどの男。
人里に下りてきた熊がスーツを着込んでいるかのような、異様な光景だ。この間いた取り巻きが姿を見せないだけで、余計に周囲から浮いていた。
だが、男の名は紛うことなく体躯に合っている。
「熊谷……熊谷管理間殿、と呼んだ方がいいかな? まあ、人を十分も二十分も待たせるような相手を敬うほど俺は人間出来てないがな」
体躯に相応しい名の男に、響が嘲笑じみた揶揄を吐き捨てる。
熊谷と呼ばれた巨漢は、響の揶揄に動じた様子も見せずに口を開く。
「今日は警察としての俺ではなく、熊谷豪(くまたに つよし)個人として頼みたい。いや、詳しく言えば、俺のバックに付いているある人物からの頼みだ。表立っては動けないので、裏に詳しいお前なら敵の尻尾を掴めるのではないかと……思っている」
熊谷が何の余興もなしに単調直入で用件を伝えてくる。
もちろん、響は怪訝そうに顔を歪めるだけだ。
熊谷が言っている言葉は理解できる。しかし、詳細が分からず二つ返事で返すのがはばかられた。
「……いや、だと言ったら?」
牽制を入れてみるが、やはり動じるわけも無く話を続けてくる。
「脅しなどという下衆な遣り方は好きではないが、表の世界で正義を振るえなくすることも出来る。もし何かの見返りが欲しいというのであれば、可能な限り用意しよう。しかし、断った先に、人類の平和があるかどうかは保障できない」
小声で話しているつもりなのだろうが、よく通るバスが重く響に圧し掛かる。
熊谷の台詞は喧騒に消えたものの、近くにいた旅行者の何人かがチラチラとこちらを一瞥した。強面の巨漢が堂々と立ちはだかっている所為か、直ぐに目を逸らせて立ち去って行く。
「で、返事は?」
睨み付けるでもなく、詰問するわけでもなく、熊谷の声が迫る。
「話ぐらいは、聞いてやるよ」
内容によって決めれば良いと、響はその場だけは楽観的に返事を返す。ただ、裏だの表だのと言ってきた時点で、安請負出来る仕事でないことは分かりきっていたはずだ。
流石に場所が悪いらしく、二人はロビーを出た直ぐにある喫茶店へと移動する。
あまり周りに客の姿が無い席に向かい合わせで座り、お冷だけで居座るのも申し訳ないと軽い飲み物を注文する。
「お待たせしました」
ウェイトレスの女性が注文した飲み物を持ってくる。
「おっ、べっぴんさん! お姉さん、今度おし……」
ナンパをしようとしたところで、熊谷に睨みつけられて押し黙る。
ウェイトレスが立ち去って、近くに客がいないことを再度確認するという厳密振りを見せ、やっと熊谷が話し始めた。
「庵明響……違うな。明響矢(あきら きょうや)に戻る覚悟で聞いて欲しい」
「…………」
唐突に昔の名前を持ち出され、響は怒るとも驚くとも違う表情を浮かべる。
まさか、そこまでのことだというのか。
裏の世界で多くの事件を闇に葬り、多くの犯罪者を表の世界に露見させてきた、頃の名前――明響矢。
今すぐにでも、冗談じゃない、と突っぱねて帰りたかった。
イェーチェが関わった事件では片鱗こそ見せたが、あれは庵明響の正義としての行動だ。今更、あの頃の自分が蘇るわけも無い。
「お前、本気で言ってるのか? そんなもんを持ち出して、俺が首を縦に振るとでも? 馬鹿だ、阿呆だ、とんでもない返済計画のなさだ」
「……やはり、無理か。あの人が立ち向かっている敵は、お前ぐらいで無ければどうにもならんのだが」
響に返答に、初めて熊谷が悲壮な表情を見せる。
女なら笑ってフォローもしようが、男相手にアフターケアーしてやるほど優しくは無い。根っからの女性優位"フェミニスト"なのだ。
「無理も無理だ。他を当たってくれッ。あんたのバックとやらが裏に精通してるなら、他にも手立てはあるだろ?」
少しだけ声を荒げてしまう。
悲壮な顔を浮かべているものの、熊谷は諦めたわけではなさそうだった。
「お前を説得できなかった場合、不本意だが強硬手段に出るしかない、な」
「強行手段……?」
顔を背ける熊谷。
熊谷ほどの堂々とした男の声が、不思議と裏返っているのが分かる。強行手段と言うだけあって、この男が躊躇うほどのことなのだろうか。
「まさか?」
フッと、響の脳裏を過ぎる見知った顔。
「あいつらに、何かしようって言うんじゃないだろうな……?」
今日刑務所を出所してからまだ一度も顔を合わせていないイェーチェ、警察学校で出会った弟子みたいな生意気な宗谷、そしてアンリに友哉。
「…………」
顔を背けたまま熊谷の返事は無い。
既に肯定と言っても良い沈黙に、普段は滅多に怒りを露にしない響が肩を震えさせる。机がカタカタと鳴り、コーヒーカップの中の黒い液体に波紋が寄る。
もしこの下衆野郎の前にいるのが宗谷だったら、この場で殴り倒していたかも知れない。もしくは、殺していてもおかしくない状況。
しかし、そんな響の怒りも長くは続かなかった。
『――ッ』
コーヒーを口に含んで落ち着こうとすると、ロビーの方でこれまでとは違う喧騒が上がる。
響と熊谷が何気なくロビーに目をやる。
近くといっても割りと離れているところから聞こえてくる喧騒に、響は腰を浮かせて除き込んだ。口にコーヒーを含んでいることを忘れて。
「――ブッ!」
っと、次の瞬間、人混みを割って姿を現した人物を目の当たりにして、コーヒーを霧吹きの如く噴出す。
モーゼの授戒のように自然と割れていく人混み。そいつは人海の間を堂々と闊歩する。男の伸びた鼻先を背中で嘲笑し、女の羨望の眼差しさえなびく黒髪が払い除ける。
響は咄嗟に身を屈め、目の前にコーヒー塗れになった熊谷がいることなど気にも留めず荒くなった息を整える。
「ど、どうしてあいつがここにいるんだッ? 神出鬼没だとは思っていたが、こんなところまで来るか普通!」
「何のことだ? あの女性が、どうかしたのか?」
百年近く生きて見れるかどうかも分からないような響の狼狽ぶりに、熊谷がコーヒーをオシボリで拭いながら問いかけてくる。
裏の精通している熊谷さえ知らないぐらいだ、やはり異名に相応しいだけの奴なのだろう。
黒いロングヘアーに、黒いアンダーシャツの上に黒いベストを合わせ、黒いホットパンツと言う姿の女性。一般的に女性が履くには不似合いなはずの無骨で鈍重なコンバットブーツさえ、その女性の前ではただの履物でしかない。
裏の世界で闇夜を駆ける狩人と呼ばれ、月の無き夜に獲物を捕食する『新月の狐』と異名を付けられた殺し屋。誰も姿を知らず、彼女と関わった者は誰一人として――死と言う記憶の消去によって――彼女の存在を覚えていない。
もし彼女の顔を知っている人間がいるとすれば、この世界に二人だけ、彼女と一戦を交えて生き残れた元・明響矢とイェーチェだけだろう。
「まさか、あの女性が『新月の狐』なのか? しかし……到底、あんな細身の女性が殺し屋とは思えないぞ」
「信じられないのも無理は無いが、いずれ目玉が飛び出すことになるぜ」
「もし仮に、彼女があの殺し屋だとして、目的は何だ? 我々の獲物を嗅ぎつけたとは思えないが……」
果たして熊谷の獲物が何者なのかは知らないが、聞けば関わらざる得なくなるだろう、とあえて響は聞かなかった。
熊谷の疑問について、可能性があるとすれば二匹の獲物。そう、
「お前……か?」
熊谷の想像した通り、狩人の顔を知ったまま生き永らえている響とイェーチェ。
「すまん、この話はまた今度だ。早くイェーチェに知らせないと、殺されかねん!」
響はそれだけ言い残し、熊谷との話を打ち切って走り出す。『新月の狐』に見つからぬよう、彼女が歩き去った方向とは違う別の出口に走る。
時は満ち、ここに全ての役者が揃い、物語は一つの台本を元に、無数の惨劇を刻み始める。
降りるは夜の帳。
明けるは新たなる暮らし。
動くは甘くほろ苦い心。
停まるは辛く切ない想い。
少女は、別れ際にその言葉を残した。
『皮肉なものだな』
と、だけ。
少女というのはイェーチェのことなのだが、彼女が言い残した台詞の意味を宗谷は考える。
それはアンリのメンテナンスが終わって、宗谷の業務――デスクワーク――が終わり、帰路につこうとしていたところだった。
妙に疲れた表情のアンリと、どこか自嘲するかのように笑うイェーチェが刑事部に戻ってきた時、少女は一言だけ言い残して一人で帰ってしまった。
どこに帰ったのかと問われても返答に困る。
アンリに聞いても、メンテナンス中は意識をダウンさせているので分からないらしい。
「おかしなウィルスでも入ってたとか?」
「それぐらいなら、イェーチェさんが直ぐに除去してくれると思いますが」
と、まあ、帰路を走る愛車の中でそんな邪推しか出来ないわけである。
日も暮れ始め薄暗くなった高速道路を走りながら、未だに宗谷は頭を捻る。
「前に注意してくださいね。動物が飛び出してくることもあるらしいので」
アンリの動物愛護な意見で考えることを止めた。
愛車はいつもと変わらない通勤路を通り、見慣れた地元の町並みをフロントガラスに映し出す。宗谷の住む地元は、住宅街や商店街があっても結構な田舎だ。
都会ほど遅い時間まで開いている店など多くは無い。しかし、そんな田舎の片隅に佇むボロアパートの一室が、これまでの夜よりも賑やかだった。
「? 今日はやけに騒がしいな」
「誰かが引っ越してくるみたいでしたけど、歓迎会でもやっているんじゃないでしょうか」
宗谷の疑問に、アンリが苦笑を浮かべながら答える。
まさかとは思うが、あの大家の婆さんならやりかねない。明日も早いというのに、ドンチャン騒ぎなど御免だ。
アパートの貸し駐車場に愛車を止めると、自室を通り過ぎて四号室の前まで行く。耳を澄ませずとも、誰かが部屋の中で暴れているような音がドタドタと聞こえてくる。
流石に引っ越してきたばかりで怒鳴り込むのも悪いと思い、ドアの軽くノックしてみた。
「…………」
沈黙。
騒がしいのが止んでしばらくすると、中から住人が出てきた。
「あ、騒がしてすみません。ちょっと、荷物が多すぎて」
顔を出した人物が、しおらしく謝罪する。
『……なッ』
そして、宗谷とアンリ、新しい住人が顔を見合わせて硬直した。
目前の見覚えのある顔を、忘れるわけが無い。なにせほんの数時間前に別れたばかりの少女が、埃塗れ煤塗れになりながら、シンプルな紺色の無地のエプロンと花柄の手拭で作った三角巾を身につけて顔を出せば、本人かどうか確かめたくもなる。
「イェーチェ、なのか……?」
「イェーチェさん、ですよね……?」
宗谷とアンリが同時に問いかける。
「あ、あにゃっ……」
肯定のつもりだったのか、金髪の少女が語尾にハートでも付いていそうな声音で鳴く。
そのままゆっくりと閉じてゆくドアに足を挟み、やや冷ややかな目でイェーチェを見つめる。
「早く言ってくれれば良いのに。黙って隣に引っ越してくるなんて、水臭いで――」
「事情を説明して貰おうか」
アンリの甘いフォローを遮り、宗谷がイェーチェを部屋から引っ張り出す。
自分の部屋に引き込んだ後、事情説明タイムが始まる。
全貌を話すと長くなるので、簡単に話すことにしよう。
それはイェーチェが刑務所に服役している間の話である。
刑務所にイェーチェ宛で届いた一通の手紙。そこには、とある人物からの紹介状が入っていた。
『中部工学専門塾より、イェーチェさまへ。もしご都合がよろしければ、我が塾の講師として雇用したいと考えております。良いご返事の程、お待ちしております』
文字が数行、小学校で見かけるポスターよりも簡潔な文章だけの書類が一枚、入っているだけの封筒を手渡される。
これまで居候させて貰っていた家主にも、これ以上の居候は迷惑だと思い、自立を含めて考えた上でこのボロアパートに引っ越してきたらしい。
確かに、ここなら家賃を払うのもあまり苦にならないし、エンジニアやらを育てる工業学校専用の塾ならば将来も高い確率で保障されている。
「で、俺達に話さなかったのはどうしてだ?」
「驚かすため……」
簡潔な問いに簡潔な答え。
なんとなく、別れ際に残した言葉の意味が分かってきた。
「なるほど。お前らしいわ。それで、今日はどうするんだ?」
宗谷が問う。
イェーチェはその問いの意味を理解できないらしく、キョトンと目を点にする。相変わらず自分が言葉足らずだと気づいて、宗谷も言葉を付け足す。
「だから、今日はどこで寝るんだ?」
「そりゃ、自分の部屋、隣で寝るに……あっ」
気づいたらしい。
自分の部屋が、引っ越してきたばかりの荷物で一杯なのを。
「少し覗いてみても、あれじゃ寝るところなんてありませんよね。片付けはまた今度にして、今日はこっちで寝ましょうよ」
勝手にアンリが提案するが、宗谷ももとよりそのつもりでの問いだったので何も言わない。
どうやら居候させて貰っていた部屋は大きかったらしく、持ってこなくてもよさそうなものさえダンボールに詰め込んできたらしいのだ。
コンピューターや周辺機器は良しとしても、いったい何に使うのかも分からない外国のお土産みたいなガラクタやらは、深い思い入れがあるらしく捨てられないとか。
春の夜風が吹き込むボロアパートで、台所と一緒になった玄関に石間に寝かすわけにもいかず、部屋が片付くまでの間は宗谷の部屋で寝かせることになった。
六畳間に三人が寝るのはなかなかきつかったが、まだ石間よりはマシだっただろう。それに、
「なんか、家族みたいですね」
アンリがそんなことを恥ずかしげに呟いたりと、結構楽しんでいた。イェーチェはいつの間に寝入ったのか、静かな寝息を立てて宗谷とアンリの間に入って川の字を作っていた。
そして夜は明け、長年変わらない目覚まし時計のベルの音で目を覚ます。
その日の朝は、いつもと少しだけ変わった光景が見られた。台所に立っているのがアンリだけでなく、エプロン姿のイェーチェまで朝食を作っていたのだ。
「しばらく刑務所のスケジュールで生活してたから、朝が早いんだよ。それに、一人暮らしをするなら自炊ぐらい出来た方が良いと思ってね」
苦笑いしながら答えるイェーチェ。なかなか、殊勝な考えが出来るようになったと思う。
「豚箱生活も、まったく悪いものじゃなかったってことか。やっぱり、もう少し入っていて良かったんじゃないか?」
「宗谷さん……明日からもう少し塩分を控えましょうか?」
皮肉を言えば、アンリが薄ら寒い笑みを浮かべてイェーチェの味方をする。
どうして女というのは、二人以上になるとここまで結束の力が強まるのだろう。しかも、アンリとイェーチェ故の固い結束の前では自分も形無しなわけで。
「北の国から何もやってこないぞ。早く飯を食って、行こう。私は、今日から塾の方にいかなければいけないんだから」
「えっ、早いですね。昨日の今日じゃないですか? そう言えば、イェーチェさんが雇われた塾は県境に近いんでしたっけ。なら、一緒に出勤した方が早いですね」
「マジか? タクシー代はとってもいいのか?」
「うふふふふっ」
「あははははっ」
と言った感じの賑やかな会話が、それからしばらくの間続くこととなった。
さすがに、女性陣の不気味な含み笑いを聞くのは勘弁願いたいが。
仕方なく宗谷が車で送ることになったのだが、さすがに所轄を通り過ぎることは出来ないので最寄の駅に降ろし、後は電車で向かって貰うことにした。
これからイェーチェにどんな出会いが待っているのか。アンリが、自分のことでもないのに満面の笑みを浮かべてイェーチェを送り出す。
まさか、そんなことが起ころうとは知らず、若干十八歳の少女は新たなる門出を迎えようとしていた。
隣の部屋にいた所為で、昨晩に掛かってきた電話にも気づくことなく、イェーチェは苦難へと飛び込むこととなる。
駅を降り、少し歩いたところに目的の塾はあった。やはり塾と言うこともあり、最寄の学校もしくは駅の近くに建っている。
「ここか……」
陽光を背にする建物を見上げ、独りごちる。
思っていたよりも大きくはない、二階建ての民家を二つ繋げた程度の建物だ。入り口らしきところの軒先に『中央工学専門塾』とだけ看板が掲げられた、簡素とも派手とも言えぬ風体。
三十分ぐらい早く来てしまったが、既に誰かが来ているらしい。
イェーチェは一度深呼吸してから、ゆっくりと一歩ずつ入り口に向かって歩む。
「すみません」
玄関の踊り場で立ち止まり、周りを見渡しながら声をかけてみる。
返事は無い。玄関の鍵が開いている以上、誰もいないということは無いだろう。二階にいるのか。
「あのぉ〜、紹介されて来たイェーチェといいますが、どなたかいらっしゃいませんかぁ〜?」
もう一度、先刻よりも大きな声で声をかける。
すると、玄関を上がった直ぐ横の部屋――たぶん講師用の控え室だろう――から、人の呻き声が聞こえてきた。
まさか出勤初日に強盗でも入ったのではなかろうか、と馬鹿げた想像を膨らませて待つこと数分。
「…………」
顔を見せた講師らしき人物の、意外な登場にイェーチェが黙り込む。これまでにも色々と人をからかって遊んできたが、まさかその登場の仕方は予想していなかった。
「む、む、むぅ〜ッ! むむっむむむ、むむむまぁ〜!」
まったく理解できない言語を、何か捲くし立てるように喋る生物。
茶色掛かった頭部に焦げ茶色の胴体、芋虫を連想させるその生物は白いテープを口に貼り付けられている。
芋虫ではなく、列記とした人間だ。しかも、ロープでグルグル巻きにされてテープで口を塞がれた女性だった。
「まさか、本当に強盗が……?」
「むぅ〜。む、む、む、む。むむむ!」
イェーチェの問いかけに、女性が芋虫語を喋りながら首を横に振る。
このままでは埒が明かないと気付き、恐る恐るテープを剥してやる。
「ぷはっ。どうも、初めまして。いきなりこんな登場で申し訳ないけど、私はこの塾の塾長を勤める稲城誓子よ。よろしく」
奇抜な格好の割りには、冷静で当たり障りのない自己紹介をしてくれる。
と油断していると、誓子と名乗る女性が叫ぶ。良く通る、透き通ったアルトボイスで。
「やっぱり、カリッフモの時代でしょ!」
「…………」
一瞬の沈黙。
「はぁっ?」
全く誓子の台詞の意図が読めず、間の抜けた返答を返す。宗谷並みに言葉足らずな問いである。カリスマならまだ話も繋げられるだろうが、カリッフモと言われても何のことだか皆目見当が付かない。
伝わっていないことに気付いた誓子が、じれったそうに言葉を付け足す。
「だからさ、たこ焼はカリッフモじゃなきゃいけないよね? 外がカリッとしてて、中がとろけるようにフモッとしてるのが、最高のたこ焼でしょ。ソースは辛過ぎず甘過ぎず、お好みでマヨネーズやカラシをつける。あぁ〜、食べたい……」
と、捲くし立ててくる誓子。何のことかと思えば、たこ焼の話だった。
確かに、たこ焼は外がカリカリ、中はフワフワが良い。リンに誘われて、近所のお祭りの屋台で初めてたこ焼を食べたことを思い出す。
「それにしても、なんでいきなりたこ焼なんですか?」
流石にそこまでは思いつかないので、誓子がなぜロープで芋虫にされているのかも聞かず、先にそっちを訪ねる。
誓子はその問いに、一つ溜息をついて涙ぐみながら語る。
「皆は理解してくれないのよ。曰く『たこ焼なんて、食べられたら良い』。また曰く『たこ焼は日本のファーストフードみたいなものだ』。皆、たこ焼に理解がなさ過ぎよ……」
詳しいことは分からないが、誓子にはたこ焼に深い思い入れがあるらしい。まあ、誰のことかはわからない皆さんの意見も一理あると思う。
それからしばらく、話を進めたいと思いつつも誓子のたこ焼に関するうん蓄が続く。
そのうん蓄から開放されたのは、買出しから他の講師が戻ってからだった。余談だが、誓子やもう一人の講師は、この塾の講師室を自宅のように使っているのだとか。
とりあえず、簡単に他の講師たちを紹介しておこう。とは言っても、誓子とイェーチェを除けば一人しかいないのだが。
まずは誓子だが、担当はデジタル回路。この塾の塾長にして、皆から『姉御』と親しまれながらも『たこ焼オタク』の名を冠し疎まれる女性だ。縛られた上に口を塞がれていたのは、初めて出会うイェーチェのことを考慮してのことらしい。
そして、誓子を取り押さえた男、仙道竜司。担当は力学で、見た目こそ講師そのものといった風体をしている。
最後に、イェーチェがソフトウェア理論を担当することになっている。
「ちなみにね、最初は塾生全員とレクレーションするんだけど、後は塾生が自由に抗議を受けたいと思う講師を選ぶの」
と、自己紹介を終えた後に誓子が付け加える。
「もう少し補足しますと、一人の塾生にも選んで貰えない講師は即刻、クビです」
ニコニコと笑いながら首元の前で手刀をスライドさせる姿は、ある意味でシュールな光景だった。
しかし、仕事と浮かれながらもかなりシビアな職業らしい。
「ま、一発目で塾生の心をゲットしちゃえばいいのよ」
不安がるイェーチェに、誓子がカッカッと笑いながら簡単そうに言う。
そうして、自己紹介やら塾の機構などを聞いているうちに、塾生たちがやってくる時間になった。今は学生達が春休みなので、春期講習として朝の早い内から塾生が来るのだ。
「あ、水無月君。新しい先生のお披露目があるから、皆を教室に集めておいてね」
最初にやってきた眼鏡の塾生に、声をかける。
「分かりました……?」
水無月と呼ばれた塾生が答えながら、チラリとイェーチェを一瞥して怪訝そうな顔をする。やはり、自分と同じ年ぐらいの少女が講師と言われても信じられないのだろう。
その後も、やってくる塾生全員に訝しげな視線を向けられる。
初日から、幸先が不安である。
「さて、そろそろ全員揃ったぐらいね。それじゃ、頑張ってきてね」
と、柄にもなく緊張しかけているイェーチェを送り出してくれる誓子。
満面に浮かべられた笑みが、イェーチェを祝福するものだったのか、それともこの先の波乱万丈を嘲笑うものだったのかは分からない。
しかし、こんなところで怖気づいてどうするというのだ。自分の将来のため、独立のための一歩を踏み出さなくてはいけないのだ。
「うしっ!」
塾生たちが集まる教室の扉の前に佇み、気合を入れるために両頬を平手で叩く。塾用の控え室を出て少し奥に進み、階段を上った正面にある教室。
横手と少し奥まったところにも一つずつ教室があるが、そこは誓子と竜司が講義を行う教室になっている。さらに奥の方に扉が見えるが、物置か何かだろう。
教室の確認も忘れず、ターゲットに向かって特攻するべく勢い良く扉を開いた。
「おはよう、皆! 私が今日からソフトウェア理論の講師を務める、イェーチェだ」
覚悟を決めて、一応考えておいた台詞と同時に扉を開ける。
『…………』
返ってきたのは、ある程度の予測が出来た沈黙だった。
大学中退という結果ではあるが、イェーチェだって学生と言うものを体験したのだ。同じ年ぐらいの青年達が、どんなリアクションを取るのかぐらいは予想できる。
声にこそ出してこないが、
「マジであの女の子かよ」
「これ、なんてドッキリ?」
「新入生の間違えだろ?」
などと言っているような表情でイェーチェを見つめ返してくる。
「信じられないと思うが、嘘偽りなく、酔狂や冗談でもなく、私が今日から講師を務めさせてもらう」
何十もの視線に負けるまいと、念を入れて言葉を続ける。
「先生、質問いいですか?」
次に返ってきたのは、返事ではなく塾生の挙手だ。何を聞きたいのかは知らないが、答えてやるのも講師としての努め。
「はい。えっと……」
「雪浦です」
誓子から渡された塾生のリストを睨んで生徒の名前を探していると、呆れたように名前を言ってくれる。
どうやら決まった座席はなく、やってきた順番で勝手に席を決めてゆくらしい。
「ぅほんっ。皆の名前は追々覚えていくとして、じゃあ雪浦君、どんな質問だ?」
咳払いをしながら気を取り直す。
「先生は日本語が上手ですけど、外国人なんですか?」
うっかり意識していなかった質問に、イェーチェが僅かだけ驚きを顔に出してしまう。
学生の質問なので、答えるのが少し恥ずかしい質問かと思えば、言われてみて気付く自分の容姿。
彼らの奇異の目は、年齢だけではなくそうした日本人らしくない容姿に対しての視線でもあった。
こんなところで、自分がどれだけ日本の暮らしに馴染んでいたのかを知らされた。
「……あぁ、国籍は日本を取っているが、生まれは外国だ。日本には二年ぐらい前から住んでいる」
隠すことでもないので、正直に答えておく。
質問してきた学生は納得してくれたのか、小さく唸ってから黙り込む。
「他には? 何かなければ、簡単に私の講義について説明する」
二拍ほど置いて、誰も挙手しないのを確認してから次の段階に進む。
最初は軽いプレゼンテーションをしておけば良いとのことなので、講義がある時間と簡単な内容を半時間ほど掛けて説明する。
後は、塾生達が興味を持ってくれるかどうかだけだ。
「――っということで、説明は以上だ。詳しいことは、講義を受けてから理解して欲しい。沢山の人間に教えるのは初めてだから、幾らかは粗相もあると思う。けど、頑張ってやるので皆も優しく見守ってくれ」
その辺りまでくると、最初の頃よりは塾生達と打ち解けられたような感じがした。
最後に、名前と出席を確認するためにリストを読み上げてゆく。
「相沢祐樹君」
「はい」
「磯部奈津美さん」
「はい」
そんな感じで、名前を呼ぶ声と元気の良い返事が繰り返される。
だが、途中でリズムに乗っていた繰り返しが止まる。
「しらきりんごさん」
『…………』
「……?」
名前を呼び間違えたのかと思い、もう一度リストを見つめる。
白姫林檎。そうかかれているはずなのだが、読み方が間違えているのか。
「あぁ〜、なんて読めばいいのかな?」
教室を見回して、それらしき塾生を探し出す。
返事のなかった塾生は、教室の一番後ろの席にいた。イェーチェの声が聞こえていないかのように、キョロキョロと回りに視線を配る女子。
「おい、林檎」
「あっ……」
隣の男子に声をかけられ、自分が呼ばれたことに気付く。
「その呼び方で大丈夫です。すみません、余所見していて……」
林檎なる女子は素直に謝る。
確か彼女は、声をかけてくれた男子――塾に来て最初に顔をみた塾生の水無月――と同じぐらいにやってきた生徒だ。水無月こと水無月誠司とは印象が薄く、どこか控えめな容姿の女子だった。
ボブカットに切り揃えられた黒髪と、円らな大きく開いた漆黒の双眸。
長袖のシャツとジーパンという格好ではなく、清楚な着物でも着ていれば大和撫子と呼べなくもない容姿をしている。
「うん、まあいいよ。次、田村義之君」
「はい」
中にはそんな生徒もいるであろうと、無理やり納得しながら続きを読み上げてゆく。
「みなづきせいじ君」
「はい」
最後の一人を呼び終え、ちょうど終了のベルが鳴り響く。
後は、少し時間を空けてからのイェーチェの講義に何人が集まるかである。イェーチェは僅かの不安と、大きな期待を抱いて終業の挨拶をする。
「それでは、十分後に会おう」
緊張していたためか、退室の際に言い残せたのはそれだけだった。
二章・出会いに幸あれ
『personal data8』
『name:seiko inagi』
『class:Tearther』
『blood:B』
『age:About 35』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:160』
『weigh:40』
『like:たこ焼』
『hate:ハンバーガー』
『たこ焼はやっぱりカリッフモ(外はカリカリ、中はフワフワの意)以下略』
『personal data9』
『name:Ryuzi senndou』
『class:Tearther』
『blood:O』
『age:About 35』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:181』
『weigh:67』
『like:講義』
『hate:怖い女性』
『(姉御への文句等略)』
講師用の控え室に戻った後、持ち込んだ小型の電子端末のキーボードを叩くイェーチェ。
打ち込まれたデーターは全てアンリのHDDに保存されるので、この情報は全て彼女の記憶にも送信されている。しかも、アンリとネットワークが繋がっていれば、彼女の思考言語を読み取ってチャット形式で会話が出来るのだ。
『頑張っているようで何よりです。今度、お暇があれば皆さんを紹介してください』
『まだ分からないことばかりだが、講師の皆は気さくな良い人ばかりだ。生徒の皆とどれだけやっていけるかわからないけど、お前に紹介できるぐらいの関係にはなりたいな』
『弱気は禁物です。同じぐらいの年なんですから、きっと友達になれますよ。人に教えるのは、イェーチェさんの得意分野だと思いますが?』
『ありがとう。お前にはいつも励まされたばっかりだ。きっと、沢山友達連れて宗ちゃんとこに乗り込んでやるよ。それじゃ、アンリも頑張れよ』
『はい、頑張ります!』
幾らかのやり取りを終えて、少し感慨に更けながら溜息を吐く。
そこを誓子に見られ、いつの間にか背後に回られていた。
「お。誰とメールをしているのかな? もしかして……彼氏とかッ?」
まるでワザとらしい、それでも僅かに疑っている表情で、両手の人差し指を向けて突っ込んでくる。
「違います。どんな関係と言えばいいのか……。世話焼きな妹と言うか、頼りになる娘と言うのか」
『……?』
イェーチェの返答に、誓子と竜司が怪訝そうに首をかしげる。それでも、何かに思い当たって納得してくれた。
「イェーチェちゃんに姉妹なんていたの? た……塾の理事長からは何も聞いてないけど。あぁ、そうか、そう言えばそうだったわね」
この塾に理事長なんてものが存在したのか知らないが、誰なのかは大体の予想がつく。
「あの婆さん。ホント、手広くやってるな……」
この塾を紹介してくれたのもあの人だったし、アパートに引っ越すことを勧めてくれたのもそうだ。
老後の余生を満喫しているのだろうが、アパートの大家と塾の理事長というのは少し手広くやりすぎではなかろうか。
まあ、そんな疑問を抱いても仕方ないので、別の疑問を誓子と竜司に向ける。
「ところで、白姫林檎と言う生徒なんですが、彼女はどんな生徒なんですか?」
「林檎ちゃん? どんなって聞かれても、普通よりも少し出来る、としか言えないわね」
イェーチェの質問に、誓子が歯切れの悪い答えを返してくる。
普通よりも少し、と言うことは赤点は取らない程度、と考えても良いのだろう。
「じゃあ、講義中の素行とかはどうです?」
追撃開始。
「あぁ〜、そこは痛いところだね。ちゃんと集中して講義に出てれば、もっと高い成績が取れるんだろうけど……」
やはり、誓子が歯切れの悪い返答をする。
「たぶん、王城高屋って生徒が欠席しているからでしょうね」
と、竜司が言葉を挟む。
そう言われてみれば、出席を確認している中で一人だけ欠席していた塾生がいた。それが、竜司の言う『おうじょうたかや』だ。
「王城君は、白姫さんや水無月君と幼馴染でね、昔から仲が良かったみたいなんだよ。ただ、王城君は塾にこそ来ているものの、どうやら誰の講義も受けていないらしい。白姫さんは、それを心配して講義に集中できないんだろうね」
どこか神経質そうに見える竜司の、的確な答えを聞いて納得する。
話によると、高屋なる塾生は、色々と家庭の事情で一人暮らしをしているらしい。流石に内政干渉など出来ない塾の立場では、本人に講義への参加を促すだけが精一杯なのだ。それに、受講料を払っている以上は王城高屋を追放と言う形にも出来ない。
竜司の説明を聞いて、イェーチェは頭を悩ませる。
「確かに家庭の事情に口出しできる立場では……ないが」
『ないが?』
イェーチェの苦悶に、二人が食いつく。
別に必勝の案があってこんな顔をしているわけではない。無いから渋面と言うわけでもなく。
ただ、放っておけないのだ。
どんな事情があって塾に来ていても講義に出ないのか、そんなことはどうでも良い。
「その生徒、私に少し任せて貰えませんか? 決して人語を解さない獣じゃないんだから、言葉を掛ければ動いてくれると思います」
イェーチェが、冗談でも酔狂でもなく真面目な顔をして進言する。
「任せる、って言っても……ねぇ?」
「まあ、イェーチェ先生に任せましょう。同じ年だからこそ、分かる何かがあるかも知れませんしね」
誓子の不安を一蹴し、竜司がイェーチェに全権を任せてくれる。
「ありがとうございます! それじゃあ、時間なので行ってきます」
どんな手段で、どんな言葉をかけるかなど全く考えてはいなかった。しかし、救うべきは不良生徒ではないと思う。
初日早々から出来た目標を胸に、イェーチェは階段を駆け上る。
「遅れて済まない。それじゃあ、一日目の講義を開始する!」
教室の扉を開けると同時に、誰が何人来ているかなど数えずに講義を開始した。一つの目標が出来た今、目先の数字など気にしていられなかった。
こちらの計画に乗ってくれたかのように、林檎と誠司も授業に参加している。ゼロでないのなら、一人だろうが二人だろうが講義はする。
「まず、ソフトウェア理論の基本だが、ソフトウェアと言うものがどういうものか分かっているだろうか? わざわざ説明するのもなんだが、ソフトウェアとは――」
とまあ、そうした講義が約五十分続く。
初日なので、いきなり難しいことは出来ず簡単な基礎を一通り説明して最初の講義が終了する。
「――と、そういうことであるから、こうしたものをこれから作成してゆく。理論とは言いつつも、物はやっぱり実践しかないわけだ。なれない皆にも分かるようゆっくりやっていくけど、わからない所があればいつでも聞いてくれ。懇切丁寧に教えてやる」
自分でも、焦っているのかゆっくりやっているのかわからない。早口で捲くし立てながらも同じところを何度か繰り返して、基本の細部を説明し今後の予定を伝える。
こんなものを講義と呼んでいいのか、という塾生の文句などは知らない。聞かない。全権は、イェーチェにあるのだから。
「では、今日の講義はこれで終了だ」
終業の宣言をすると、塾生たちは立ち上がって我先へと教室を出て行った。次の誓子の講義に参加するために、隣の教室に移動している。
林檎と誠司も教室を出て行くところで、イェーチェは二人に気取られぬよう後を追う。案の定、二人は直ぐには隣の教室に入らず、奥の教室を通り過ぎて更に奥の扉を潜る。物置みたいな薄暗さだけが滲み出す扉の向こうに、果たして何があるというのだろうか。
柄にも無く、少しだけワクワクしてくる。洞窟探検をする子供のような心境で、二人に見つからないよう後をつけた。
意外にも、扉の向こうは物置ではなくて階段が続いていた。
蛍光灯も何も無い、ただ頂上に心ばかし据え付けられた扉の窓から陽光が差し込むだけの、実際より長く感じる階段。
冒険なんて目的ではないのだが、秘密の部屋の入り口みたいで期待が込み上げてくる。
イェーチェは足元を確認しながら、薄暗い階段をゆっくりと一歩ずつ上る。ブリキの階段は木製のように軋みを上げることも無く、忍び足で上れば音は立たない。
一番上まで上り終え、屈みながら少しだけ窓から外を覗いてみた。鉄柵に囲まれた屋上が見える。片隅に四角い缶と水道があるだけの、これぞ屋上といった作りの空間。
そこで林檎と誠司、同じぐらいの年の青年が鉄柵にもたれかかって、黙りこくっている。ネコ科の大型肉食獣の名を冠したブランドのジャージズボンにTシャツ姿の青年は、たぶん王城高屋であろう。
誠司はやや憤りを隠しているように、高屋は煩わしそうに、林檎は二人を宥めているかのように、向かい合う。
重苦しい沈黙に耐えられなかったのか、高屋がおもむろにズボンのポケットから白い小箱を取り出し、中に入っている白い七センチばかりの細い棒を咥えた。今度は握り込むように手を添えながら棒に近づけていき、小さな火を棒の先端に灯す。
逐一、細かいことを説明せずとも、遠目に見てもそれがタバコであることぐらいイェーチェにだって分かる。宗谷や響が、何を好き好んで吸っているのか分からない異臭を漂わせるあれだ。もっとも、法律上では未成年であろう高屋が口にして良いものではないはずなのだ。
「さてさて、どうしたものか」
扉の影に顔を隠し、独りごちる。
別に、本人の健康に関してイェーチェが口出しするようなことではないのだが、
『コンビニに屯している若者を、不用意に注意しないでください。貴方の身が危険です』
などと県警の掲示板にポスターが貼り付けられているので、ここで出て行くのはあまり得策ではなさそうだ。
けれど、イェーチェには三人の姿を見過ごせなかった。
正当な教育理念など学校の教師に任せておけばいい。
それでも、
「心配してくれる仲間の言葉を、無碍にするのはどうかと思うぞ?」
呆れ口調で、扉を開けながら呟く。
『――ッ!』
イェーチェの唐突な登場に、三人が同じような顔をする。
イェーチェは気にせず続ける。
「どんな事情があるのかは知らん。お前が自身を滅ぼすのも、勝手だ。けど、まだ手を差し伸べてくれる仲間がいるなら、その手を掴み返すのも勇気ってもんだろ」
説教など、イェーチェに似合ったものではないのだろう。半分は自分に呆れながら、少し気恥ずかしい言葉を紡いでゆく。
「……お前には関係ないだろ。どこのどいつだか知らねぇけど、いきなり現れて勝手に説教してんじゃねぇ」
おっかなびっくりといった感じに、高屋が言い返してくる。
「あぁ、関係のないことだ。私の説教なんぞ、聞いても聞かなくても同じだ。そうだな、似合わないことは止めにしよう。チキンレース、そいつで勝負をつけようか?」
イェーチェが嫌味な笑みを浮かべて提案する。
やはり三人は、怪訝そうに見つめ返してくる。
いきなりチキンレースなんて言われても、バイクなんざこの屋上には置かれていない。なまじ置かれていたとしても、チキンレースを楽しむほど広さなど持ち合わせていないのだ。
「目ぇ瞑って、柵の外でも綱渡りするのか? 自慢じゃねぇけど、そう言った勝負なら自信あるぜ」
高屋が負けじと苦笑を浮かべる。
「ちょっと……止めてください先生。高屋君も……」
林檎が落ち着かない感じで止めに入る。
「そいつを使う」
しかし、林檎の声など気にも留めずイェーチェは隅に置かれた缶と水道を指差す。
「その缶の中身、何か分かるか? アルキルアルミニウムって言って、ちょっとした危険物だ。水に触れるだけで、ボンッと行くぜ」
指でそれっぽいジェスチャーをしながら、説明する。どこか危ない匂いのする説明に、林檎と誠司が顔を強張らせる。
高屋は、面白そうじゃん、とタバコを屋上から投げ捨てた。
こうして、割に合わない根性の見せ合いが始まる。
「これだけあれば、足の一本は吹き飛ぶかな」
缶から少し粘度と異臭のある液体を適量床に零し、五メートルほど間を空けた水道の蛇口を捻る。後は、イェーチェと高屋がアルキルアルミニウムの液体を踏みつけ、徐々に流れてくる水に恐れをなして先に足を除けた方の負け、と言うルールでのチキンレース。
ちなみに、負けた方が勝った方の言うことを何でも一つだけ聞くという罰ゲーム付だ。
横並びになったイェーチェと高屋が睨み合う。頭二つ分は差のある二人だが、その根性の据わり方は高屋にも負けていない。
少しずつ、一秒に数ミリしか動かない水が、今の二人には津波の如き濁流に思える。命こそ取られないだろうが、その波は足の一本を奪い取ってゆく。
春先のまだ暖かい日差しの下で、どれだけの時間が経っただろうか。やけに、暑く感じる。流れてくる水は、まだ一メートルほどの距離がある。
水の動きからすれば既に十分近くだが、暑さによる疲労以外は二人ともまだ余裕があった。
「これ、結構臭いな……」
気化した液体が陽炎を立ち上らせ、鼻腔を突く臭いに高屋が顔を顰める。
「危険物ってのはこんなもんだ。どうする、降りるなら今だけだぞ?」
「馬鹿言うな。女に度胸で負けてりゃ、こんなところでサボったりなんかねぇよ」
イェーチェの忠告に、高屋が生意気を通り越して呆れるまでの意地っ張りで答える。一メートルを切った辺りから、足が震え始めているのが見て分かるというのに。
横目に捉えた二人、誠司はイェーチェの意図に気付いたのか静観し、林檎は今にも飛び出して講師と友人を突き飛ばさんばかりに体を小刻みに動かす。それだけで、出会ってあまり経っていなくても三人の性格が把握できた。
分かりやすく纏めるなら、
「高屋が気の荒い戦士。勢いだけで前に突っ込んでゆく猪突猛進タイプ。誠司が知識豊富な参謀役。ただ、まだ人心掌握術には長けていない。林檎が心配性のお姫様。賢くても皆の身を案じることしか出来ない、箱入り娘か」
ファンタジー的な要素に当てはめる形になる。
「……何か言ったか?」
イェーチェの分析に、高屋があざとく反応してくる。
「いや、何も」
軽く誤魔化す。
忠実すぎることなく主君に仕える戦士と、戦士を動かす参謀、皆を労い奮い立たせるお姫様。バランスの取れた三人だが、一つだけ欠けたものがある。
言うならば、三者を纏め上げて正しい道に導く賢者、であろう。
などと分析をしていると、いつの間にか水が五十センチの距離を切っている。
四十五、四十。
『…………』
近づく爆弾のスイッチに皆が固唾を呑む。
三十、二十五、二十。
屋上に水が飽和し、排水溝に吸い込まれ切れなくなり速度が上がる。一気に残り五センチのところまで迫ってきた。
五、四、三、二、一。
「ッ!」
アルキルアルミニウムに水が触れるか否かのところで、高屋が足を離して飛び退く。
そして、イェーチェの足を液体の上に残したまま水が接触した。
『…………』
林檎と高屋が起こりうるはずの惨劇から目を背ける。
が、何も起こらない。爆発どころか、何かが弾けるわけでもなく、どこかで鳴く鶯の声だけを残して沈黙が続く。
「……? えっ……?」
高屋が、訳が分からないと言った感じに間の抜けた声を出す。
イェーチェの勝ち誇ったような薄ら笑いを見て、やっと自分が騙されていたことに気付くのだった。
「ま、まさか……全部、嘘だったのかッ?」
嘘というのは、少し語弊がある。
「これが戦略って奴だ。相手の虚を突いて、自分が有利な方向にことを進める。戦略ってのは、欺くことじゃなくて欺き返すことなんだよ」
相手が何らかの策略を練っているのを見越して、その策略を逆手に取ってこそ敵を騙せるである。
「さて、約束通り私の言うことを一つ聞いてもらおうか。何、簡単なことだ――」
ニヤニヤと不適に微笑みながら、飛び退いた拍子に尻餅をついた高屋に詰め寄る。
「――私の授業にはちゃんと出ろ! 何も全てでなくてもいい。せめて、私の授業にだけは顔を出せ。そして、二人を安心させてやれよ」
鼻先がくっ付かんばかりに顔を近づけ、厳しくも優しく、諭す。
「ッ!」
すると高屋は、変に固唾を呑んで顔を背ける。
「分かったよ……。あんたの授業に出てやるから、離れてくれ。暑苦しい」
食い下がるかと思えば、素直に了承して溜息を付く。
高屋を授業に出る約束をさせて、どうだと言わんばかりに他の二人に振り返る。
と、そこで林檎がイェーチェの胸に飛び込んできた。
「うおっ! なっ、何がどうした……?」
「どうしたじゃありませんよ! すっご〜く心配したんですから! 嘘だったからいいものの、本当の爆弾だったら怪我だけじゃ済まないんでしょ……?」
胸の中でゴチャゴチャと怒鳴り散らし、可愛い顔をクシャクシャにしながら泣きじゃくる林檎。
「あぁ〜、すまん。けど、分かっただろ? お前は賢くても、世の中のことをほとんど知らない。アルキルアルミニウムが固体で、これがベンゼンって言う塗料の希釈剤だなんて知らなかったから、心配しなくちゃいけなかったんだ。
もしそんな心配をしたくないなら、勉強以外のこともやったほうがいいぞ。もう、皆を見守っているだけってのは嫌だろ?」
「……はい。私も、皆と戦いたいです……」
イェーチェに諭され、林檎は泣くのを止めた。
林檎が胸から離れると、踵を返して足元を見る。さて、この水浸しになった屋上をどうするか。放っておけば、自然と乾いてゆくだろうか。
などと事後のことを考えつつ、背後に誰かが立つ気配に振り向く。
林檎が今度は高屋を説教している中、誠司一人だけがジッとイェーチェを睨みつけていた。
「どうした? お前も、私に言うことでもあるのか?」
「いえ、ちょっと聞きたいことが色々と。少し突っ込んだことになるので、答え難いことなら答えないで良いのですが」
「何が聞きたい?」
それが彼の性分なのか、それとも年齢云々を切り捨ててイェーチェを教師として見ているからか、どうも回りくどい言いようする。
何を聞いてくるのかと心持身構えてみる。が、誠司の第一声にイェーチェは改めて自分の奇抜さに気付かされる。
「その格好は、何かのコスプレのつもりですか?」
「はぁ?」
「ですから、イェーチェ先生の格好は何か既存の視聴覚文化の一キャラクターを模倣したものなのか、と聞いているのです」
言い尚なさなくても、誠司の質問の主旨は理解できる。
ただ、誠司のような人間がそんなことを聞いてくることに驚いたのだ。
「また出ちゃったね……」
「あぁ、誠司の悪い趣味が出ちまったな」
いつの間にか側に来ていた林檎と高屋が、呆れ口調で言い合う。二人の台詞で、イェーチェは理解する。
人間は見かけによらず、誠司と言う青年は優等生顔の、俗に言うオタクなのだ。何にどこまでのめり込んでいるのかは知らないが、アニメやら漫画といったものに偏った執着心を持っている特殊な人種なのである。
「……なるほど、な。しかし、私はそっちの方面の話は疎い。この服装だって、昔のか……友達に選んでもらったものだから、どうしてこれなのかは知らない」
「ほう。昔というのは、いつどこの友人なのでしょうか?」
更に突っ込んでくる。
本音を言えば、あまりこの話には触れたくはなかった。決して戻ってはこない過去、決して現代では味わえぬ幸せ、決して未来には繋がらない想い。
「MITの同級生で、仲の良かった友人だよ。二度と会えるか分からない奴でな、唯一のプレゼントがこの服だった。あまり似合わないみたいだが、出掛けに着られる服はこれしかなくてな……」
形として残っている思い出は、たぶんこの服しかない。それでも、形のない思い出ならそれ以上に持っている。既に忘れてしまいたい思い出なのに、今でも忘れられずに覚えている自分が浅ましいとさえ思ってしまう。
手すりにもたれかかり、青い空を見上げて黄昏る。
「そうですか。貴方が、彼の有名なイェーチェ=ワイ……」
「はい、そこまでだよ、誠司君。そうだ! 今日はこれで講義は終わりますよね? せっかく昼から時間があまるんだから、新しく出来たデパートに買い物へ行きませんか?」
誠司の台詞を中断させて、林檎がそう提案する。
新しく出来たデパートと言うのは、たぶんあれのことだろう。ニュースなんかで見たが、確か今日に開店してオープニングセレモニーをするという情報は聞いている。
「おいおい、あぁいうところは一ヶ月ぐらい人で混むだろ」
「良いじゃない。イェーチェ先生だって、一張羅じゃ可哀想でしょ?」
確かに高屋の言うことも正解だが、林檎も譲ろうとはしない。
誠司はどちらでも良さそうな顔で話の行き先を見守っている。どうやら、イェーチェの決断次第と言うことらしい。
答えは決まっていた。
「せっかくのお誘いだ。これから騒がしいお前らを相手するなら、一日ぐらい遊んでも罰は当たるまい」
彼らと仲良くなることに異存はない。楽しめる時に楽しまずして、何が人生だ。
そんなこんなで、イェーチェは新たなる出会いを噛み締めるために一時の遊戯へと乗り出した。
建物を飛び出していく四つの影を見つめ、安堵したかのように佇む二人。
「一件落着ですね。まさか初日からこんな活躍を見せてくれるなんて、招き入れて正解だったかも知れませんね」
「そうね。この調子なら、大丈夫だとは思うけど……」
「どうしたんですか? なんか、乗り気じゃないみたいですけど」
「いえ、ちょっと不穏な話が持ち上がってるから、巻き込まれなければいいんだけど……ね。もしかしたら、また私達が動かなくちゃいけないかも知れない」
「一難去ってまた一難ですか。人の知らぬところで、平和の続かない世界ですね。いつになったら、僕らの戦いも終わるんでしょうか」
「終わりなんかないわよ。人がいる限り、平和と混乱は永遠と対比の関係を続けるわ」
二人の話が続く中、子供たちに愉快な笑い声だけが静かに響いていた。
――地球が回るのはなぜ?
それは当然の理だから。
――命が生まれて死んでゆくのはなぜ?
それが自然の摂理である故に。
――じゃあ、私が人を殺すのは?
それもまた、普遍の原理だからさ。
そう、彼女は人を殺す。
まるでそれが、彼女にとって生きることを意味するかのように。
だから、彼女は生きるために人を殺し続ける。殺せぬようになった時、それが彼女にとっての死の訪れ。
どれだけ殺したのか、と聞かれても答えられない。両手の指だけでは数え切れないほど、殺した。
――でも、貴方達は、これまでに何回呼吸をしたかなんて数える?
数えないだろう。
彼女にとって、人を殺すというのは呼吸をするのと同じぐらいの価値しかない。食べるために多少のお金は貰うが、今では有り余るぐらいになってしまっていた。
果たして、これから後どれだけの人間を殺すだろうか。戦争で一人の兵士が殺す数よりも、多いと思う。
物心が付いた時から殺しの道具を握り、血に塗れて生きてきた彼女に、躊躇いや後悔はない。周囲の人間が呼吸をするのを躊躇わないのと同じだから、後悔なんてせず殺し続けられる。復讐も怖くはなかった。自分にせよ、誰かにせよ、傷つけられれば報復を受ける。けれど、それが当然だと分かっていれば何も恐れるものはない。
彼女は死を恐れることもない。死ぬことに恐怖を感じさせしなければ、どんな状況でも人を殺すことが出来るから。
己の意思もなく、私情も挟まず、淡々と殺し続けるだけの人生。昔も、今も、これからも。
「つまらない……」
一時期の娯楽に身を呈しても、それが特別な感情を植えつけさせるものではない。
行き交う雑踏を眺めていても仕方ないのだが、しばらくの逗留を考えて買い込んだ雑貨をベンチに置き、自分も鎮座して背もたれに大きく腕を広げる。
誰も頼りにしない彼女が、唯一頼るものは情報。それがなければ、依頼された獲物を捕食することが出来ないから。それでも信頼しているわけではなく、獲物の棲み処を聞き出せば用はない。『新月の狐』の名に恥じぬよう、切り株の後ろに隠れて姿を現すまで待てば良い。一週間ぐらいで狩りが終わることも、一ヶ月ぐらい掛かることも、一日で終わることも、と全く定まらない。
依頼さえ受ければ、獲物がどこの誰かなんてことも考えずに殺す。極悪非道の罪人であろうと、善良な一般市民であろうと、ある意味で差別の無い世界に生きている。
依頼人に対しても、同じだと言えよう。例えば、どこかの国の警察が犯罪組織の総帥″グル″を殺す依頼をしてきたこともあれば、世界的な大富豪が敵となる人物を殺す依頼をしてきたし、無一文の子供が自分の両親を殺すように頼んできたことも、ある。
国家的な殺し、個人的な依頼、そんな人間の闇を見ていると自分なんてまだマシな方だと思えてしまう。
そう言えば、世の中の自分を知っている人間は、全員殺されると思っている者もいるが、誰これ構わず殺しているわけではないのだ。依頼を受けた獲物は当然として、自分の狩りを邪魔する人間――SPや用心棒など――は前者よりも多い。後は、たった今、目の前に現れたそいつみたいな奴だ。
最初に出会ったときよりも成長してはいるが、見覚えのある顔を見つける。
その時湧き出したのは、“狩りたい”と言う脅迫概念にも似た感情だけだった。
『personal data10』
『name:Ringo siraki』
『class:Student』
『blood:O』
『age:17』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:157』
『weigh:42』
『like:ショッピング』
『hate:虫全般』
『(勉強に関しての抱負)』
『personal data11』
『name:Seizi minaduki』
『class:Student』
『blood:AB』
『age:17』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:169』
『weigh:54』
『like:アニメ、漫画等諸々』
『hate:特になし』
『(既存の視聴文化に関してのうん蓄)』
『personal data12』
『name:Seizi minaduki』
『class:Student』
『blood:B』
『age:17』
『birth:Not clear』
『cons:Not clear』
『height:172』
『weigh:57』
『like:静かな場所』
『hate:人混み』
『(特になし)』
そんな、今日は割りと多いデータの更新に目を通しながら、アンリは手持ち無沙汰に佇んでいた。
しばらく騒ぎのなかった県警が、久しぶりに出場することになったのだ。警察関係者や、消防の防火服が慌しく駆け回る。
別に殺人やら強盗事件が起こったわけではない。それでも、この辺りで考えれば異常な事件でもある。浄水場の汲み上げパイプが破損するという、器物損壊事件。
日常茶飯事とは言う無かれ。
事故や、パイプの耐久性に問題があったのではなく、なんらかの爆発物によって人為的に破壊された形跡が見られる。それだけで、十分に事件性はあった。
それでも、そうした事件にアンリのような臨時の仮警察が手を出せるわけもなく、事情聴取や目撃者探しに駆け回る宗谷達、爆発の残骸処理に精を出す消防の人間を眺めながら、
『今日は皆と遊んでくる。遅くなると思うが、心配するな』
と言うイェーチェからのメールを読むことしか出来ない。
それが嫌だとか、何か仕事をしたいという欲求はないのだが、何も出来ない自分に嫌気がさす。
「ホント、困ったもんだよ。こんな悪戯して、何が面白いのかね? 修理する間、この辺りの数百世帯が断水しちゃうんだよ……」
「今のところ、破損したパイプの破片以外、それらしい爆発物の残骸は見つかっていません。いったい、どんな爆薬を使ったのか、時限性なのかも分かりませんね」
等々、浄水場の職員のボヤキや鑑識の話を聞きながら、暇暇と現場を歩き回るアンリ。
「あまり現場を荒らすなよ」
などと宗谷に注意されつつ、パイプから滔々と排出される水が作る泡と戯れたりする。
傍から見れば遊んでいるだけに見えるが、これでも少しは捜査に協力しようとしているのだ。
悪戯にしては少し爆発の威力が強すぎるような気もするし、こんな悪戯をしても得になりえることなど一つもない。
「爆弾魔気取りの馬鹿による悪戯で決定ですかね」
目撃者探しから戻ってきた友哉が、呆れたようにアンリの考えとは反対のことを口にする。
快楽的犯行なら、二度か三度目の犯行で逮捕も出来よう。ただ、やはり一時的な快楽犯として片付けるには引っかかるものがある。
「そこの土手を通りかかった散歩中の小母さんが、近くで一時間ばかりキャンピングカーが停まっているのを見たらしい。ただのキャンプ先を下見にきただけか、休憩に停まったのか、はっきりとはしないが当たってみるべきだな」
「白で小型のキャンピングカーとのこと。アウトドアをするには不向きなこの辺ですからね、検問に直ぐ引っかかるでしょう。まあ、別段珍しいわけでもないですから、当りが引けるかは分かりませんが」
目撃情報を整理しながら、宗谷と友哉が口々に言い合う。
これまた、おかしな情報だ。
悪戯でこんなことをするなら、目立つキャンピングカーなど使わないし、何気なく爆弾を仕掛けて逃げ去ったほうが安全だろう。
「後は鑑識さんと消防さんに任せましょう」
そう言って、手早く帰ろうとする友哉。
自分の考えどう伝えようかと悩みあぐねていると、宗谷が優しく肩に手を置いてくる。
「分かってるよ、これが何か実験的な事件だってことぐらい。けどよ、ことが起こるまで俺達には待つしか出来ないんだよ。悔しいことに俺達警察は、予防薬じゃなくて医者の使うメスと同じなのさ。患部を切り取ることしか出来ないメスは、病気が動きを見せるまで手術は出来ない」
優しく口にしたのは、全く宗谷らしい台詞だった。ここにイェーチェがいたら、呆れるか苦笑するかしていたに違いない。
「宗谷さん……」
「呆れることにこれも仕事だ。出来る範囲のことはやらなくちゃ、また給料を減らされたら困る。だから、奴さんが何をやりたいのか分かってやるつもりも、無意味な戯言に付きやってやるつもりもない。それと同じぐらい、俺達が奴さんに伝えることなんて何もないのさ。
俺はやることだけやっておけば、それ以上なにも頑張らなくていいと思ってる」
要するに、犯人が動きを見せるのを待て、と言いたいのだ。そっちの方がグダグダと悩まずに済むし、それでも捕まえられないのならば犯人の方が一枚上手だった、で諦められる。
宗谷は、命知らずの男ではない。一番生きることを大切にして、無謀なことに手を出さない長生きタイプの人間。しかし、馬鹿げた犯罪だけは許さない。あの事件の時、警視庁の制止を振り切ってまで海底ホテルまで乗り込んだように、最も誰かを愛さず、最も誰かを守りたいと考える矛盾したお馬鹿さん。単純に、何が誰にとっての幸せかを、認めてしまえる単細胞。
イェーチェの酷評を借りれば、それが宗谷の全貌だ。
「似ているんですね……」
宗谷に聞こえぬよう、アンリが呟く。
確かに、宗谷は似ていた。この世で最も愛しく、最も憎い人に。
たぶん、彼にとっての幸せを問えば、そこにあるのは自分ではなくあの人なのではないか。そう思えて、真実を伝えることに躊躇いを感じてしまう。
「さて、そろそろ帰るか。もうこんな時間か。戻ってもやることもないし、このままどこかに……」
「それ、職務怠慢ですよ? イェーチェさんはイェーチェさんで、仕事先の生徒さん達と遊びに行っちゃったし」
アンリが呆れる。
呆れながらも、もっと仕事以外でどこかに出掛けたいと我侭な自分が出てきてしまう。
「それじゃあ、今日が開店日のデパートに行きましょう!」
「本当に行く気か? 一ヶ月か二ヶ月ぐらい、待っても良いんじゃないか? あまり人混みは好きじゃないんだが……」
アンリが言い出すと、宗谷は渋る。
買い物なんて近所の商店街で十分だ、と言い出す始末。先刻送られてきたデータの、誰かさんに似た性格だ。
それでも、アンリは食い下がって宗谷を強制連行する。
まさか、自分達の安易な決断が開幕の宣言をするとは、今の二人に知る由などなかっただろう。全てが台本によって決められたことであり、役者が舞台裏から舞台へと姿を現し、道化達は惨劇の結末も知らずに愉快なタンゴを踊りだす。
泣いていた。
少女は、大粒の涙を円らな碧眼から零し、小さな嗚咽を上げていた。
周りの宥める声も、多くの人目など気にすることなく、心の傷を一滴の小さな雫で癒そうとする。その場の誰が、まさか子供のように泣きじゃくる少女の姿を考えただろうか。
「えぐっ、ひぐっ……うぅ〜」
金髪に顔を隠し、ゆっくりと歩みながら嗚咽を吐き出す。
「イェーチェ先生……泣き止んでくださいよ」
ボブカット調の少女が、イェーチェと呼んだ少女を宥める。
イェーチェも、傍らにいる少女の声が聞こえていないわけではない。それでも、一度決壊したダムは、水を枯らすまで流れ続ける。
後ろで付いて歩く二人の少年も、どうすれば良いのか悩みあぐねる。幾ら遊びだからと言って、あんなものを見せた自分達が悪いのか。それとも、イェーチェの異なった感性が悪いのか、判別のしようがない。
「どうして……なんでだよ?」
イェーチェが少女に問う。
問われたところで、少女――白姫林檎に答える術はない。それが、万人によって決められた一つの物語である、としか答えられない。
「仕方ないだろ、あれがあれそのものなんだから」
代わりに答えるのは、少し不良ぶった容姿の少年だ。人口の染色剤で茶色に染めた髪をクシャクシャと撫で、呆れたように言う。
イェーチェにも、それぐらいのことは分かっていたのだろう。かと言って、傷付いた心が癒えるというわけでもない。
不良少年は思う。イェーチェは賢く、この中では誰よりも大人である、と。しかし、イェーチェは大人ぶった子供、子供びた大人、なのだ。自分達のように、完全な大人になりきれていない年頃の少年少女ではなく、年齢というものを通り越したところにある人生としての大人。今、目の前にいるのは、年相応の子供。
人類という木に生った果実は、年月を重ねて徐々に成熟してゆく。その中で、やはり他の果実よりも早く成熟してしまうものもある。ただ、それは小振りで形が悪く、甘みも汁気もない果実だ。
そんな果実がどうなるのか、ちょっと植物を育てたことのある者になら分かること。剪定という名の、排除。
それでもイェーチェは、未だに剪定されず人類の木に生り続ける。誰かがもぎ取るか、腐って地に落ちるかするまで。
「俺達とは、違うのか……」
不良少年こと王城高屋が呟く。
その呟きを聞き逃さなかったもう一人の少年、水無月誠司が不気味に口元を吊り上げながら声をかける。
「どうした、浮かない顔をして。先生のはちょっとした病気だよ。癪が治まれば、直に泣き止む」
「そういうことじゃない。俺は……いや、なんでもない」
「?」
いつもは言いたいことは素直なほど口にする高屋が、妙に言い淀むのがおかしい。
まあ、高屋がイェーチェのことを知らないのも無理はなかろう。日々、暇な時はパソコンに向かい合う僅かな人種だけが、時として隠しておきたい過去に触れてしまうのだから。
「勝手に人の過去を詮索するのは良くないことだが、彼女のことを少しだけ教えてやろう。彼女は、まだ物心も付かぬうちに、両親に捨てられて孤児となったのさ」
誠司の説明に、なるほど、と納得する。
両親の顔も知らず、一人――孤児院か施設の仲間はいただろうが――で生きてこれば、自分達のように恵まれた子供よりも早く成熟するだろう。しかし、それが唐突な環境の変化――頼れる人間が現れたり――なんかがあれば、その生長が止まり不恰好な果実のまま木に生り続けてしまう。
納得したところで、更に誠司が続けてくる。
「孤児院にいた頃、彼女は独学で人類でも稀に見るとあるプログラムを作った。どんなプログラムなのかは様々な噂が飛び交っているが、それが功を奏したか、それとも不幸の始まりか、一人の資産家に養女として引き取られた」
良いことではないのか、と詳しいことを知らない高屋は早とちりする。
「まあ、慌てるな。その後、彼女はその天才振りを認められ十四と言う幼さでMIT――マサチューセッツ工科大学――に入り、何らかの確執を経てあの事件に巻き込まれた」
MITというものがどんなところか詳しくは知らないが、テレビなどにも取り上げられていたので驚きながらも、小首をかしげる。
あまり世間様に詳しくない高屋には、誠司の言う「あの事件」と言うものが分からない。
「確か、君の父上も県内の海底ホテルのパーティーに参加していたはずだが、何も聞いていないのか? いや、君が聞いているわけもないか……いや、済まない」
高屋の鋭い眼光に、一瞬たじろいで言葉を中断させてしまう。
高屋の、といっても彼自身が妾との間に出来た不義の子であるため、父親が外務省高官としてどんな仕事をしているかなど知らぬ。
触れてはいけないところに触れてしまい、少し険悪な空気が漂う。
そんな空気を、今まで泣きじゃくっていたイェーチェの怒鳴り声が霧散させる。
「ネトラレだって、男の子なんだよ!」
唐突に、彼らが何をしていたのか知らない人間には、訳の分からない怒鳴り声を上げる。ちなみに、彼らが見てきたのは、先週ぐらいから劇場化されたドラマである。
内容を簡略すると、ネトラレという不思議な特異体質を持つサラリーマンは、恋する女性を誰かに寝取られてしまうという。一応、ラブコメディとして銘を打ったドラマなのだが、どうもイェーチェの感性では涙物のドラマになってしまうらしい。
先刻声を張り上げた台詞は、ネトラレの友人が言った一台詞である。
閑話休題。
まあ、彼らが来ているのは言わずと知れた、中央空港付近に出来た『セントラ・ルバベル』という大型デパートだ。
壁の全面をガラス張りにし、床もガラス張りにされて観賞用の回遊魚が泳ぐ姿が見られる。一本の主塔から枝分かれするように幾つものテナントがあり、彼らが最初に立ち寄ったシアターや飲食店、ブティックなどがドーナッツ状の通路から渡り廊下に伸びている。ガラス張りにされたドーナッツ状の通路が五階、屋上には季節柄オープンされていない遊泳施設がある。廊下を支える柱には、全面ガラス張りの所為で温室化してしまうのを避けるため、魚の水槽用にも使える冷水が流れているらしい。
有名どころのテナントを集めた上、様々な娯楽施設を詰め込んだ人口のツリーハウス、それがこの『セントラル・バベル』の全貌だった。
「来てみてよかったですね。思ったより人も少ないし、色々と買うにはお誂え向きじゃないですか」
林檎がキャピキャピと騒ぐ。
少ないとは言え、一階から五階に二十を超える雑踏が行き交えば、嫌でも進むのがゆっくりになる。流石に人波に飲み込まれるということはないが、一日で全部を回ろうとすればそれなりの時間はかかるだろう。
「一日で全部なんて無理ですよぉ〜。服を買って、ちょっと遊んだら十分です。今度来るときの楽しみは、取っておかないといけませんからね」
と言う林檎の顔は、全部回りかねない浮かれ顔をしていた。
そんな買い物に度々付き合わされるのか、後ろで歩く二人の男子も呆れて溜息を吐く。
しかし、この雑踏の中で彼女に出会ってしまったのは不幸の何物でもない。
裏の世界に詳しくない三人だからこそ、唐突に立ち止まったイェーチェの心境を理解できるわけもなく。五メートルほど前にあるベンチでだらしなく腕を広げ頭を百八十度反り返らせている美女を、凝視するイェーチェの小刻みに震える体が何を物語っているのか、一割も読み取ることなどしない。
「……人違いだ!」
ただそれだけ言い放つと、イェーチェが進行方向とは反対の階段に向かって駆け出す。『脱兎の如く』の言葉に恥じない、見事な逃亡っぷりである。
「えっ? な、なに……?」
「おいおい、どうしたんだよッ?」
「カール=ルイスも顔負けですね」
三人が口々に声を上げつつ、逃げ行くイェーチェを追う。
その横を一つの黒い影が駆け抜けていったことに気付くのは、ありえない方向からベンチの美女が飛び出してきた時だ。
横手には転落防止用の手すりがあるが、落ちれば十メートル下の大理石の床に頭をぶつけることになる。潰れたトマトでも予想できる展開を知ってか知らずか、細い手すりの上を走る美女が黒いロングヘアーをなびかせる。
人混みに遮られて速く走れないイェーチェに、美女が追いつくのも時間の問題だ。それに、振り向いた瞬間に目の前を通りかかった清掃員にぶつかるというミスまで犯す。
「ふぎゃっ!」
尻尾を踏まれた猫のような声を上げて、バケツやモップを乗せたワゴンと共に激しく転倒するイェーチェ。
石鹸や清掃道具が散らばる中、美女に続いて三人もイェーチェの元に駆けつける。
道具を拾ってあげるべきだったのかも知れないが、逃げ出すイェーチェが只ならぬ様子だったので通り過ぎ様に会釈だけをする。
清掃員は怒るわけでもなく、清掃道具を拾ってそそくさとその場を去ってゆく。
「な、なんで、お前がここに……?」
「久しぶりに再会できたと思ったら、ずいぶんなご挨拶ね、泥棒猫ちゃん」
起き上がろうとするイェーチェを、美女が嘲笑に似た笑みを浮かべて見下ろす。
美人なのだが、可憐清楚と言うには程遠く、どこか取っ付き難いそんな美女。服装を含めて黒尽くしだからか、背中から漂わせるオーラと呼べるものが常人のそれではない。ゆっくりとベストの下に滑り込む腕も、名刺を取り出そうとしているわけでもなさそうだ。
イェーチェの怯え様から、美女が自分達の教師を仇なす存在だと三人も気づく。高屋が美女の肩に手を置いて、不穏な動作を止めようとする。
「おい、俺達の先生に何の用だ? 変なことしようとしたらお――」
全てを言わせるよりも早く、美女の全身が激しく運動する。
「ばっ! かっ」
同時にイェーチェが飛び出す。
振りぬく腕と、腰の回転運動だけを利用した横薙ぎの一撃が、間一髪のところで高屋の鼻先を掠めて行った。
振りぬかれた銀光は高屋の皮一枚にも触れなかったが、急激に対流した気圧が巻きこすカマイタチで小さな切り傷を作る。
轟ッ。などと言う、バットを振った時に出るような音を、イェーチェと大して変わらない華奢な腕で、五十センチほどの何かを振り抜いたところで起こせるものだろうか。
「チッ」
小さな舌打ち。悔しいわけでも、残念がるわけでもなく、ただ床に倒れるイェーチェと高屋をからかうための物だ。
まったく一瞬の出来事に、林檎が全てを理解して息を呑めたのは全てが終わってしばらくしてからだった。
「いきなり何をしやがる! そんなもん振り回して、どうなるか分かってるのか?」
イェーチェに押し倒されなければ鼻が削ぎ取られていたかも知れないというのに、高屋は懲りることなく美女に突っ掛かる。美女が握る、刃渡り三十センチばかりのコンバットナイフなどには怯えることなく。
「生意気な餓鬼。餓鬼は嫌い。男も嫌い。でも、男の子はもっと嫌いよ」
踵を返した美女は高屋を見下ろし、どこか焦点の定まらない目をしながらブツブツと呟く。
美女の手中でクルクルと、ペン回しでもするかのように弄ばれるナイフが、怖い。
――怖い?
違う、これは怖いという感情ではない。
――人が、圧倒的な力に出会ったとき、感じるものは何だと思う?
それは恐怖や悲しみではなく、理不尽さ。不条理。
決して常人には届くことのない力、高み。空想の化け物とは違い、見慣れた人間として見るならば、死や異形への嫌悪ではなく己の無力さに嘆く。
それが、銃やら殺戮兵器などではなく、どこにでもあるナイフ一本で感じさせられる目の前の美女は、いったい何者だろうか。
「高屋、お前は黙ってろ……。狐、お前の家業は暗殺だろ。こんなところで、堂々と真昼間からドスなんぞを抜くな。街のゴロツキでもあるまいに」
美女から高屋を庇いながら、狐と呼んだ美女を睨みつける。
今にも泣き出しかねない表情で、その圧倒的な力に立ち向かおうとする自分達の講師。
「間違えないで。何度も言ってると思うけど、私は暗殺なんてしない。するのは『殺し』だけよ。夜に忍び込んだりするのは、見張りが手薄になってたり、忍び込みやすいから」
律儀に訂正する狐。それでも、大勢の野次馬の中で騒ぎを鎮められるようなフォローでもない。
やはり、まともの仕事の人間ではなかった。
だが、一つだけ言えることは、狐がナイフという接近戦の武器だということだ。
「いつまでその重い図体を乗せてるんだ? 女の子は退いてろ。喧嘩ってなら、ナイフとだってやりあったことはあるぜ」
軽口にするほど重くはないイェーチェの体を押しのけ、拳を構えて向かい合う。
「た、高屋君……!」
林檎が目を剥く。
「男が女を守ろうと立ち向かうのを止めるのは野暮と言うものだ」
現状において、全く冷静さを欠かない誠司。
ちょっと格好をつけてみたが、立ち上がるだけで体力の全てを奪い去られたような気分になる。
街の不良がバタフライナイフを振り回しているのとは異なる、猛獣の前に放り出されたウサギのような自分。
「私に拳を向けるってことは、それなりの覚悟が出来てるってことよね?」
狐が確認を取ってくる。
馬鹿な高屋でも、それが何を意味するのかなんて分かりきっている。今更拳を引いたところで、狐は確実に自分の体を刺し貫くだろう。
そう思うと当時に、狐が動く。
馬鹿げた感想だとは思うが、走馬灯なんてものを初めて見た。冗談のように遅く間合いを詰めてくる狐の前を、僅か十七年の思い出がぼやけて見えるのだ。
幼稚園の頃、初めて誠司と喧嘩をした時のこと。小学生に上がって、林檎をからかうガキ大将を誠司と一緒に懲らしめたこと。中学生で、隣町の高校生不良グループを病院送りにした事もある。高校生になってから、敵も少なくなったつまらないスクールライフを堪能もしていた。
「今年も、田舎のばあちゃんっちに遊びに行きたかったな……」
もっと言うべきことはあったと思う。けれど、二人に迷惑をかけたことも、林檎に心配かけ続けてしまったことも、謝れなかった。
切り裂く、と表現するには生温すぎる、鉱物を抉るような音を立ててナイフが突き出される。一瞬、目の前が真っ暗になる。
胸部を襲う衝撃に、体が軽く後方へ押される。
バタフライナイフで腕を少し切られたときもそうだが、思ったよりも痛みはない。後々、ジワジワと痛みが傷口でうずくのだ。
それにしても、胸をあの勢いで刺されたというのに、手で突き飛ばされたぐらいの痛みしかないものだろうか。死は苦痛からの逃避だと考える人間もいるらしいし、脳から分泌されるイルカみたいな名前の物質が痛みを和らげるとも言う。
色々と考えてみたが、やはりおかしい。衝撃のあったところを手で触ってみても、血のようなものは手に付着しない。
それに、ぼやけた視界に映る林檎や誠司の顔が、涙目ながら笑っているようにも見える。
「人が死に掛けてるってのに、笑ってるんじゃねぇーよ……」
ボソボソと文句を言ってやると、二人の顔がムッと破顔する。
「何を言っている。どこも怪我をしていないくせに、死んだ気になるな。死者への冒涜だぞ」
「先生のおかげでもう少しマシになると思ったのに、全然治らないじゃない!」
「まあ、そう怒るな、林檎嬢。馬鹿と恋の病につける薬はない、と昔から格言がある。二つが揃えば、癌よりも厄介な病気になるのだよ」
「でも、これなら、一回ぐらい死なないと治らないかも……」
相変わらず、二人の言い返しは辛辣だ。
二人の物言いからして、どうやら自分はまだ生きているらしい。いったい、刺される瞬間に何が起こったのだろうか。
またイェーチェに庇われたというような様子でもなく、起き上がってみれば一人の男の前で呆然と佇む彼女の姿が見える。ワナワナと震えるイェーチェの全身。呆れたように、手すりの下を眺める男。
「誰?」
高屋が二人に聞くが、
「さぁ? イェーチェ先生の知り合いかな?」
「お前を助けてくれた恩人でもある」
正確な答えは返ってこない。
「恩人だぁ? それより、あの女どうした?」
「逃げたよ。あの巨人さんが高屋君を突き飛ばして、女の人の腕を受け止めたら、振りほどいて逃げちゃった」
視線を手すりに向けて説明する林檎を見れば、男がなぜ階下を見て呆れているのか分かる。人混みを掻き分けて行ったわけでも、忽然と姿を消したわけでもなく、階段も使わずに十メートル近くある階下へと飛び降りたのだ。
「人間業じゃないな……。まさか、またアレ、なんてことはないよな?」
高屋の感想を男が横取りしながら、イェーチェと何かを話している。
「どうして宗ちゃんが、ここに……? あぁ、アレじゃない。奴は、あまり再会したくない顔見知りだ」
「お前、顔見知りに命狙われるようなことしてるのか? それに、響さんの名前を出しただけで逃げちまったし」
イェーチェと見知らぬ男の話を聞いているのが、何故か胸糞が悪い。
「今は謎の巨人さんのことより、この騒ぎをどう収めるか、が重要だ」
無視の出来ない要因ではあったが、誠司に言われて気付く。自分達は、とんでもないことに巻き込まれてしまっていたのだ。
「はいはい、ありがとうございました、エキストラの皆さん。お客様方もお楽しみいただけましたか? 今日のオープニングセレモニーは六時から行われますので、こぞって参加してください」
どう騒ぎを収めるべきか、無い頭を抱えていると、人混みを割って見覚えのある人物が姿を現す。外国訛りのあるその人物を、ここにいる誰もが知っているだろう。
「このデパートの創設者、エドモント=バイロン氏だな」
誠司がその名前を口にする。
どうやら、この騒ぎをオープニングセレモニー前の余興として片付けるつもりらしい。オープン初日から問題など起こせないのだろうし、自分達では考え付かない上手いやり方だ。
そうして、助け舟のおかげで野次馬達は安心しきって散ってゆく。おっかなびっくりの騒ぎは収束を見せ、皆が安堵したところでその声は掛かる。
「エキストラの皆さん、こちらで僅かなお礼が用意してありますので、どうかお受け取りください。控え室の方までご案内しますね」
唐突な申し出だったが、こんな騒ぎに巻き込まれたのだから多少の謝礼は貰っても悪くはない、と安易な発想で顔を見合わせる。
「俺も行ったほうがいいのかね? ちょいと用事があるから、出来るだけ早く終わらせたいんだが」
「宗ちゃんも関わったんだから、ここで一人だけ抜け出すというのは怪しまれるだろ。色々と話さなくちゃいけないこともあるみたいだから、一緒に行こう」
やはり、宗ちゃんと呼ばれた男――桂木宗谷とイェーチェが話してをしているのが気に入らない。しかし、イェーチェの言い分も確かなので一緒に来ることを許した。もちろん、高屋の勝手な許可ではあるが。
まさか、自分達が惨劇の舞台に乗せられたなどとは知らず、道化達の嘲笑が静かに響き渡る。
三章・ラン オブ ザ バベル
――回れ、歌え、踊れ。
お前達は、私が用意した舞台の上で演じれば良いのだ。道化は、手足についた糸の動くままに働くべきだ。
そう、お前達はタダの道化ではない。操り人形であり、私が造り出した傀儡なのである。
『こちらセントラル・バベル管理室です。どちら様でしょうか?』
傀儡が、生意気にも主人の名を問う。
「こんにちわ。私は……そうだね、火食い親方とでも名乗っておこうか」
『はい? 申し訳ありませんが、悪戯なら電話を切らせていただきますが。ご用件は?』
傀儡の癖に質問が多い。
「これは悪戯や冗談じゃないよ。私が、現代に蘇ったバベルの塔に、神に代わって天誅を下そうと思う」
本当だ。私は、神の座に近づこうとする愚かな人間に天罰を下すつもりだ。
『何を言っているのか分かりませんが、これ以上おかしなことを言うようなら電話を斬りますよ』
嫌だね。主人の言うことを聞かない傀儡は、必要ない。
「君では話にならない。もっと偉い人に代わってくれないかな。そうだね、この塔の責任者なんかが良い。バイロンさんといったかな」
『……分かりました。今お取次ぎしますので、少々お待ちください』
早くしたまえ。傀儡如きが主人を待たせるな。道化は道化らしく、観客を喜ばせていれば良い。
しばらくして、ついに念願の彼と話せる。
『バイロンです。どちら様でしょうか? こちらとしては、このような電話は遺憾に思うのですが』
「久しぶりですね、バイロンさん。僕のことを覚えているかな? 十八年も前のことだけど、忘れられていると少し悲しいよ」
『その、声は……!』
ハハハ。その驚いた声は、本当に愉快だ。
二度と聞くことは無いと思っていたのだろうけど、僕はまだ生きている。そして、今でも貴方を恨んでいる。
『なぜ、お前が日本にいるッ? 何が目的だッ! 復讐か、それともリーテシアを取り戻しに来たのか?』
「強いていうなら復讐だよ。彼女は、元気にしているかな?」
素直に答えてやった。そして、私は自分の言葉を後悔した。
『……娘は、死んだよ。お前と引き離してから、ノイローゼになって病院で息を引き取った。最後の最後まで、お前と子供の名を呼びながらな……』
そんな馬鹿な。
信じたくは無かった。それでも、声音だけでそれが嘘ではないことぐらい分かる。
「そうか……。でも、仕方の無い話ですよね。自業自得だ。決めたよ、これは貴方への復讐と彼女への手向けにしよう。神に代わり、私が鉄槌を下す。正確に言えば二つの人形、プルチオネルラとアルレキーノが、ね」
『何を言っているんだ。私を恨むなら恨めば良い。だが、他の者には手を出すな!』
そんなに怒らないで欲しい。
確かに恨んでいるのは貴方だけだが、貴方を殺したところで私は満足しない。例え無関係な命を奪ったとしても、貴方から全てを取り上げて、多くの不幸を生み出しながら伸し上がった地位から引きずり降ろす。
「もし多くの命を救いたいのなら、私とのゲームに勝てば良い。手段は問わないけど、プレイヤーだけはこちらで指定させて貰う。今、塔の中で騒ぎを起こしている少年少女達に、僕の仕掛けた人形を見つけさせてください。それと、塔の中にいるお客さんを避難させたり、指定したプレイヤー以外が人形を探しても、ドカンッと行くからね。それでは、タイムリミットは今から二時間。ちょうどオープニングセレモニーが始まる時間だけど、貴方への復讐にはお似合いのゲームだと思っている。それでは、健闘を祈る」
『ふざけるッ――』
そこで私は電話を切った。
君たちは傀儡だよ。そして主人は私。
ゲームはもう始まっている――。
電話に内蔵されたテープレコーダーの声を聞き終え、イェーチェ達が唖然とする。
お礼が貰えると喜んでついてきてみれば、糠喜びどころか出鼻を挫かれてしまった。
「これが、つい先ほど掛かってきた電話の内容です。聞いての通り、犯人は誰なのかはわかっています。奴はどこかに隠れ、私たちを嘲笑っているのでしょう」
バイロンが顔を強張らせて言う。
いつの間にか、自分たちがとんでもないことに巻き込まれていることを知る。あの狐さえ出てこなければ、こんなことに巻き込まれずに済んだというのに。
「アンリにねだられて来てみたら、今度は爆弾探しかよ。待てよ、騒ぎに関わった俺達以外ってことは、逸れたまんまのアンリにはことを話せないってことか?」
「そう、なるんでしょうね。ところで、なぜ爆弾が仕掛けてあると思ったんですか?」
宗谷と誠司がボソボソと話している。
林檎はことの重大さに放心して、高屋は額に青筋を浮かべて怒りを抑えている。イェーチェに限っては、既に爆弾を探す準備をしていた。
爆弾と限定したのは、犯人の言動からなんらかの爆発物であることを推理したからだ。プルチオネルラ、アルレキーノと犯人が名づけた、謎の爆発物。
「火食い親方……どこかで聞いたことのある名前なんだけどなぁ〜」
イェーチェが頭を捻る。
こうした犯行の場合、犯人の仮名などが爆発物の隠し場所を示すヒントになっていたりする。
「何にせよ、デパート内をくまなく探せば何か見つかるだろ? 電話が掛かってきてからもう三十分を過ぎてるんだぜ、早くしないと間にあわねぇ」
高屋が焦るのも無理は無いが、無暗矢鱈に探して見つかるとは思えない。
テナントのどこか、それともデパートの外部か、大まかな場所さえまだ見当が付いていないのだ。
それに、
「お前らはここに残れ。宗谷と私で探す。お前らにまで、危ない橋は渡らせない」
「おいおい、馬鹿言うんじゃねぇよ。たった二人で、どこに仕掛けたかも分からない爆弾を探すってのか? それに、外に出ちゃいけないなら探しても探さなくても同じだろ」
高屋が食い下がる。言いたいだけ言うと、今度は宗谷に向き直って言葉を続ける。
「こいつが誰なのかは知らねぇーけど、こいつが探して俺達が探しちゃいけないってのは、贔屓ってもんだろ……」
口調がいつにも無く不機嫌だが、なんと言われてもこればかりは譲れない。いや、ここで止めたところで、高屋は勝手にデパートの中を歩き回るだろう。
どうするべきか、アイコンタクトで宗谷に縋ってみる。すると、宗谷が信じられないことを言い出す。
「やりたいなら、やらせておけば良いだろ? どうやら自由参加みたいだし、俺はパスさせて貰う。こういったお宝探しは得意じゃなくてね。それに、仕掛けた本人に聞いた方が手っ取り早い」
そういう性格だとイェーチェは理解していたから良いものの、他の皆は呆れて物が言えないみたいだ。
まあ、宗谷の言い分も一理ある。
犯人がイェーチェ達を指定したということは、どこかで騒ぎを見学していたに違いない。電話に周囲の喧騒が入っていないので、双眼鏡か何かを使って視認できるぐらいの距離だと予想する。そして、二つのルールを課した以上は今でも犯人がデパートの中でイェーチェ達を監視していることは明白。
「分かった、お前らを止めたりはしない。けど、それらしいものを見つけても無暗に触るなよ。時限性ってことと、任意で爆発できるってことは犯人との会話で分かったが、もしかしたら振動センサーとかもついている可能性がある」
「オッケー。分かれて探すのが早いけど、そうなると連絡を取り合う物が必要だな」
そう言われてみると、イェーチェは携帯電話なんてものを持っていない。高屋達はもちろんのこと、宗谷だって持っている便利なアイテムを持っていないというのは悔やまれた。
すると、バイロンがそれを持ってきてくれる。ポケットラジオのような、イヤホンが伸びる小さな箱。
「万引き防止に店員達が持つトランシーバーなのですが、一定の周波数にしておけば貴方達だけで会話が出来ます」
「それは助かります。よし、時間が無い今、無駄に手間をかけるわけには行かない。私は五階と四階、誠司は二階、高屋が一階で林檎が三階だ。何かそれらしいものがあったら触らず、ポイントを連絡しろ。くまなく探しても何も見つからない場合は、怪しい奴を探して宗谷に知らせるんだ」
適当に役割分担をして、イェーチェは管理室を飛び出してゆく。
「不良みたいな奴、ちょっと話がある」
三人も出て行こうとしたところで、宗谷が高屋だけを呼び止める。
「あぁ? あんたも早く爆弾魔を探しに行けよ。時間が無いのは分かってるだろ?」
「もちろん、お前に言うべきことを言ったら探しに行くよ。でも、こいつだけは言っておかなきゃならねぇ」
高屋の不機嫌そうな台詞に、宗谷は呆れたように答えた。
そして、高屋の襟首を掴んで顔の近くまで引き寄せる。
「お前があいつのことをどう思ってるかなんて知らん。だがな、あいつを守るために命賭けようなんて考えるなッ。死ぬ覚悟でじゃなぇ、生きる覚悟があるなら守れ。死んで守れる奴はいない。生きているから守れるんだ。死んで誰が愛せる? 死んで誰に愛される? 生きているから誰かを愛せて、生きているから誰かに愛される、ってのを忘れるな!」
「…………」
自分に似合わない説教だと思い、宗谷は高屋を放して逃げるように管理室を出て行った。
残された高屋は忌々しげに宗谷の背中を睨みつけるが、その言い分が正しいということは理解できた。頭では分かっているのに、気持ちでは納得しきれず小さく舌打ちする。
直ぐにそんなことをしている場合ではないのを思い出して、高谷は分担を任された二階へ向かう。
――タイムリミットまで一時間と二十三分――
イェーチェは駆ける。
円形に広がる床を蹴り、喧騒と人波を掻き分けてバベルの塔を駆け巡る。
テナントは一階ごとに十個ぐらい、トイレが百八十度回るごとに一つ。イェーチェが五階と四階を担当した理由は簡単。喫茶店や飲食店といった、人の出入りが激しく、鞄のような荷物が置かれていても大して気を向けられないテナントが多いから、だ。四階も、シアターやゲームセンターなどの人混みになる娯楽施設が寄り集まっている。
一階はテナントこそ無いが、オープニングセレモニーが行われる会場になるため舞台などが設置されている。そのため、高屋のような時折鋭い感を発揮する直感型のタイプが一番働きやすい場所なのだ。爆弾が隠せそうな場所、爆弾をカモフラージュできる場所、そうしたところを徹底的に掘り返してゆく。
誠司が担当する二階は生鮮食材売り場になっていて、魚介類や生肉類といった種類ごとに枝分かれしている。誠司のような知識と観察力に長けたタイプなら、その中から怪しい存在を見つけ出せるだろう。三階のテナントはブティックや紳士服売り場が多く、林檎のような女子高生がテナントを見て回っても怪しまれないからである。
もし四人とも爆弾を見つけられなければ、後は宗谷が最後の頼みとなる。
「喫茶店か。すみません、ここで荷物の忘れ物とかはありませんでしたか? 大きいのでも小さいのでも、中身を見ていない鞄とか袋とか」
「さぁ、そういったものは……」
五階で最初に回った喫茶店、ファーストフード店では何も無かった。
残るはレストラン形式の店がいくつかだが、全ての客から荷物の所有を確認するのは時間が掛かりすぎた。全てを回って、客に尋ねるだけでタイムリミットの三分の一を消費する。
男子トイレにまで乗り込んで個室やらを確かめたのが恥ずかしかった、と言うのは余談である。
「クソッ。全部ハズレ。次、四階!」
四階にもシアターやゲームセンター、電化ショップといった爆弾を忍ばせそうな場所が多い。
「ここでは荷物を預かったりしてませんか?」
「はぁ、色々と預かってはいますが、何か忘れ物でも?」
最初に回ったシアターでは、館員の妙な仕事意識が邪魔で荷物の確認に手間取る。
「忘れ物じゃないが、預かっている荷物を全部確認したい」
「しかし、プライバシーの問題などもありまして、明確に貴女の荷物であるもの以外は……」
「急いでるんだ! 責任はバイロンさんが取ってくれるから、早く見せてくれ!」
そんなやり取りに時間を食った上、ハズレと言う悲しい結果だった。
ゲームセンターを回っても見たが、クレーンゲームの景品を掻き回したり両替機の中を探しても見当たらない。終いには自動販売機まで開けても、それらしいものは仕掛けられていなかった。
「残るは電化ショップか……。後何分残ってる?」
『後四十分ほどです。こちら誠司。二階にはそれらしいものは見当たらず、林檎も特に何も無かったと。高屋も一階を組まなく探したみたいですが、セレモニーに使われる機材以外は何も無い、とのことです。もちろん、機材の出所は確認済みです』
イェーチェの独白を聞き取った誠司が、現在の状況を説明してくれる。
もしここで電化ショップでもなければ、探す場所など残っていない。掛かるであろう時間は予想で二十分前後。残り二十分でもう一度全部を回る時間は残っていないのだ。
「見つかってくれ……。ここであってくれ!」
祈る。これで、イェーチェが神と言う人間の作り出した偶像に祈ったのは二度目だ。
犯人の言動から爆弾は二つ。
核爆弾か水爆でも使わない限りは、電化ショップにある小物の類でデパートを吹き飛ばす威力は無い、はず。ゲームのカセット、携帯電話、パッケージが透けているものは排除し、パソコンやテレビなどの精密な周辺機器も後回しにする。
「忘れ物の類は無くて、在庫の中に余計なものも紛れていない。冷蔵庫や電子レンジみたいなところにも、ない……」
限りなく可能性を絞って探したが、結果は言わずもがな。爆弾の形なんてたかが知れているというのに、犯人は巧妙にイェーチェ達から隠した。
『こちら誠司です。地下駐車場があるというので三人で探しましたが、やっぱりありません。屋上のプールにも……。もしかしたら、僕らは犯人にからかわれたんじゃないでしょうか?』
誠司の入電に、イェーチェが小首を捻る。
からかわれたということは、本当は爆弾なんてものは無い、と言いたいのか。ただ戸惑う自分達を見て嘲笑いたいがために、こんな回りくどい悪戯を考えたのかも知れない。
『いや、そいつは無いな。お前らは知らないだろうが、俺達がここへ来る前に爆破事件があった。浄水用のパイプに穴を開けるぐらいの爆発だったが、もしその犯人と同一人物なら必ず大きなことをする』
誠司の話を聞いていた宗谷が、悪戯という可能性を否定する。
宗谷はまだ、犯人を見つけていないようだ。この不特定多数の人間が混み合う中で、バイロンから預かった十八年も前の写真の人物を見つけるのは、流石に至難の業と言えよう。写真に写る男はまだ若く、外国人ではあるがどこにでもいるような顔をしている。空港に近いデパートゆえに、外国人は予想以上に来客していた。
残り二十分を切ったところで、意外な人物から入電があった。
『バイロンです。犯人から、金髪の女の子に……』
まさか、犯人が直接話しをしてくるとは思っていなかった。
このギリギリになって、爆弾の隠し場所のヒントをくれるつもりなのか。それとも、最後の最後で自分達の頑張りを揶揄するつもりか。
だが、イェーチェの予想は大きく外れていた。そしてそれは、命がけでこのデパートの客を助けようとしたイェーチェ達を裏切る。
『伝言だけではありますが、犯人はこう言っています。貴女だけはこのゲームから降りて外に出ることを許す、と』
「はぁ?」
いったい何を言っているのだろう。
もちろん言葉の意味は分かるのだが、犯人は何を思ってそんなことを言い出したのか。
『たぶん、どこかで貴女を見ている犯人も、思っているんでしょう。あなたが、私の娘のリーテシアに瓜二つ、だと。私も、初めて見た時は、娘が生きているのではないかと錯覚したぐらいですからね……。けれど、娘が生きているわけが無いし、年も全く違う。確かに、娘は私の目の前で息を引き取りましたよ……』
犯人である男が、バイロンの娘と愛していたこと。バイロンが二人の仲を引き裂き、『新月の狐』に殺しを依頼したこと。様々なことを、聞かされた。
冗談じゃない。ただ、自分が、犯人の愛した女性に似ているからといって、自分だけ助かる手段を提案するなんて。確かにバイロンのやったことに憤りを感じないわけではないが、それ以上に犯人がやろうとしていることは卑劣なことだ。
「……犯人に伝えてください。爆弾を見つけた暁には、お前の陰険な顔を引っ張りだして糠味噌に漬けてやると、ね」
それは、どこかで自分を見ている犯人に直接言い放ったものだった。
少し前なら警察に引き渡して終わりにしようと思っていたが、自分自身で蹴りをつけなければ気が済まなくなる。
『そう言えば、バイロンさんは犯人について詳しいようですが?』
イェーチェの怒りを悟ってか、誠司が話題を変えようとする。
そう言えば、バイロンは自分達より犯人のことを知っている。
『詳しいというほどではありませんが、娘が好き合っていた男です。娘から聞いた話ぐらいは、幾らか覚えていますよ』
「それじゃあ、犯人の男は爆弾を作れるような人間でしたか?」
『さぁ、娘が言うには、大学で化学の教授をやっていたと。私も殺しの依頼をした時、身元を調べたので間違いはありません……』
バイロンの答えに、フッとイェーチェの頭を何かが過ぎる。
化学者、火食い親方、爆弾、浄水用パイプ、新月の狐、バベルの塔、ガラス張り、塾の講師、ベンゼン、警察。様々な追憶から可能性を探る。
排除と再生が繰り返されるイェーチェの脳内で、一つの結論が導き出された。
「そういうことか! 爆弾なんてものは無いんだ!」
『爆弾が無い? やっぱり、僕達は犯人にもてあそばれていたんですか?』
イェーチェの出した結論に、皆の息を呑む声が重なる。
「違う。犯人の言動に欺かれていたんだよ、爆弾が仕掛けてあると。爆弾なんて無くても、このバベルの塔を爆破することは出来るんだ!」
皆はイェーチェが何を言っているのか分からない様子だ。
それでも、イェーチェはその結論を信じて駆け出す。とある場所の位置をバイロンから聞いて。
――タイムリミットまで残り八分――
イェーチェは駆ける。
円形に広がる床を蹴り、喧騒と人波を掻き分けてバベルの塔を駆け巡る。
テナントは一階ごとに十個ぐらい、トイレが百八十度回るごとに一つ。イェーチェが五階と四階を担当した理由は簡単。喫茶店や飲食店といった、人の出入りが激しく、鞄のような荷物が置かれていても大して気を向けられないテナントが多いから、だ。四階も、シアターやゲームセンターなどの人混みになる娯楽施設が寄り集まっている。
一階はテナントこそ無いが、オープニングセレモニーが行われる会場になるため舞台などが設置されている。そのため、高屋のような時折鋭い感を発揮する直感型のタイプが一番働きやすい場所なのだ。爆弾が隠せそうな場所、爆弾をカモフラージュできる場所、そうしたところを徹底的に掘り返してゆく。
誠司が担当する二階は生鮮食材売り場になっていて、魚介類や生肉類といった種類ごとに枝分かれしている。誠司のような知識と観察力に長けたタイプなら、その中から怪しい存在を見つけ出せるだろう。三階のテナントはブティックや紳士服売り場が多く、林檎のような女子高生がテナントを見て回っても怪しまれないからである。
もし四人とも爆弾を見つけられなければ、後は宗谷が最後の頼みとなる。
「喫茶店か。すみません、ここで荷物の忘れ物とかはありませんでしたか? 大きいのでも小さいのでも、中身を見ていない鞄とか袋とか」
「さぁ、そういったものは……」
五階で最初に回った喫茶店、ファーストフード店では何も無かった。
残るはレストラン形式の店がいくつかだが、全ての客から荷物の所有を確認するのは時間が掛かりすぎた。全てを回って、客に尋ねるだけでタイムリミットの三分の一を消費する。
男子トイレにまで乗り込んで個室やらを確かめたのが恥ずかしかった、と言うのは余談である。
「クソッ。全部ハズレ。次、四階!」
四階にもシアターやゲームセンター、電化ショップといった爆弾を忍ばせそうな場所が多い。
「ここでは荷物を預かったりしてませんか?」
「はぁ、色々と預かってはいますが、何か忘れ物でも?」
最初に回ったシアターでは、館員の妙な仕事意識が邪魔で荷物の確認に手間取る。
「忘れ物じゃないが、預かっている荷物を全部確認したい」
「しかし、プライバシーの問題などもありまして、明確に貴女の荷物であるもの以外は……」
「急いでるんだ! 責任はバイロンさんが取ってくれるから、早く見せてくれ!」
そんなやり取りに時間を食った上、ハズレと言う悲しい結果だった。
ゲームセンターを回っても見たが、クレーンゲームの景品を掻き回したり両替機の中を探しても見当たらない。終いには自動販売機まで開けても、それらしいものは仕掛けられていなかった。
「残るは電化ショップか……。後何分残ってる?」
『後四十分ほどです。こちら誠司。二階にはそれらしいものは見当たらず、林檎も特に何も無かったと。高屋も一階を組まなく探したみたいですが、セレモニーに使われる機材以外は何も無い、とのことです。もちろん、機材の出所は確認済みです』
イェーチェの独白を聞き取った誠司が、現在の状況を説明してくれる。
もしここで電化ショップでもなければ、探す場所など残っていない。掛かるであろう時間は予想で二十分前後。残り二十分でもう一度全部を回る時間は残っていないのだ。
「見つかってくれ……。ここであってくれ!」
祈る。これで、イェーチェが神と言う人間の作り出した偶像に祈ったのは二度目だ。
犯人の言動から爆弾は二つ。
核爆弾か水爆でも使わない限りは、電化ショップにある小物の類でデパートを吹き飛ばす威力は無い、はず。ゲームのカセット、携帯電話、パッケージが透けているものは排除し、パソコンやテレビなどの精密な周辺機器も後回しにする。
「忘れ物の類は無くて、在庫の中に余計なものも紛れていない。冷蔵庫や電子レンジみたいなところにも、ない……」
限りなく可能性を絞って探したが、結果は言わずもがな。爆弾の形なんてたかが知れているというのに、犯人は巧妙にイェーチェ達から隠した。
『こちら誠司です。地下駐車場があるというので三人で探しましたが、やっぱりありません。屋上のプールにも……。もしかしたら、僕らは犯人にからかわれたんじゃないでしょうか?』
誠司の入電に、イェーチェが小首を捻る。
からかわれたということは、本当は爆弾なんてものは無い、と言いたいのか。ただ戸惑う自分達を見て嘲笑いたいがために、こんな回りくどい悪戯を考えたのかも知れない。
『いや、そいつは無いな。お前らは知らないだろうが、俺達がここへ来る前に爆破事件があった。浄水用のパイプに穴を開けるぐらいの爆発だったが、もしその犯人と同一人物なら必ず大きなことをする』
誠司の話を聞いていた宗谷が、悪戯という可能性を否定する。
宗谷はまだ、犯人を見つけていないようだ。この不特定多数の人間が混み合う中で、バイロンから預かった十八年も前の写真の人物を見つけるのは、流石に至難の業と言えよう。写真に写る男はまだ若く、外国人ではあるがどこにでもいるような顔をしている。空港に近いデパートゆえに、外国人は予想以上に来客していた。
残り二十分を切ったところで、意外な人物から入電があった。
『バイロンです。犯人から、金髪の女の子に……』
まさか、犯人が直接話しをしてくるとは思っていなかった。
このギリギリになって、爆弾の隠し場所のヒントをくれるつもりなのか。それとも、最後の最後で自分達の頑張りを揶揄するつもりか。
だが、イェーチェの予想は大きく外れていた。そしてそれは、命がけでこのデパートの客を助けようとしたイェーチェ達を裏切る。
『伝言だけではありますが、犯人はこう言っています。貴女だけはこのゲームから降りて外に出ることを許す、と』
「はぁ?」
いったい何を言っているのだろう。
もちろん言葉の意味は分かるのだが、犯人は何を思ってそんなことを言い出したのか。
『たぶん、どこかで貴女を見ている犯人も、思っているんでしょう。あなたが、私の娘のリーテシアに瓜二つ、だと。私も、初めて見た時は、娘が生きているのではないかと錯覚したぐらいですからね……。けれど、娘が生きているわけが無いし、年も全く違う。確かに、娘は私の目の前で息を引き取りましたよ……』
犯人である男が、バイロンの娘と愛していたこと。バイロンが二人の仲を引き裂き、『新月の狐』に殺しを依頼したこと。様々なことを、聞かされた。
冗談じゃない。ただ、自分が、犯人の愛した女性に似ているからといって、自分だけ助かる手段を提案するなんて。確かにバイロンのやったことに憤りを感じないわけではないが、それ以上に犯人がやろうとしていることは卑劣なことだ。
「……犯人に伝えてください。爆弾を見つけた暁には、お前の陰険な顔を引っ張りだして糠味噌に漬けてやると、ね」
それは、どこかで自分を見ている犯人に直接言い放ったものだった。
少し前なら警察に引き渡して終わりにしようと思っていたが、自分自身で蹴りをつけなければ気が済まなくなる。
『そう言えば、バイロンさんは犯人について詳しいようですが?』
イェーチェの怒りを悟ってか、誠司が話題を変えようとする。
そう言えば、バイロンは自分達より犯人のことを知っている。
『詳しいというほどではありませんが、娘が好き合っていた男です。娘から聞いた話ぐらいは、幾らか覚えていますよ』
「それじゃあ、犯人の男は爆弾を作れるような人間でしたか?」
『さぁ、娘が言うには、大学で化学の教授をやっていたと。私も殺しの依頼をした時、身元を調べたので間違いはありません……』
バイロンの答えに、フッとイェーチェの頭を何かが過ぎる。
化学者、火食い親方、爆弾、浄水用パイプ、新月の狐、バベルの塔、ガラス張り、塾の講師、ベンゼン、警察。様々な追憶から可能性を探る。
排除と再生が繰り返されるイェーチェの脳内で、一つの結論が導き出された。
「そういうことか! 爆弾なんてものは無いんだ!」
『爆弾が無い? やっぱり、僕達は犯人にもてあそばれていたんですか?』
イェーチェの出した結論に、皆の息を呑む声が重なる。
「違う。犯人の言動に欺かれていたんだよ、爆弾が仕掛けてあると。爆弾なんて無くても、このバベルの塔を爆破することは出来るんだ!」
皆はイェーチェが何を言っているのか分からない様子だ。
それでも、イェーチェはその結論を信じて駆け出す。とある場所の位置をバイロンから聞いて。
――タイムリミットまで残り八分――
イェーチェ達が爆弾を探し、宗谷が爆弾魔を探して駆け回っている頃、そんな騒ぎなど知らずに一人の女性は道に迷っていた。
言わずと知れたアンリ。
外の駐車場にセダンを停めて、少しデパートの中を歩き回っている内に人波に呑まれて宗谷と逸れたかと思えば、彼を探して歩いていればいつの間にか見知らぬ地下に来ていた。
普通なら地下駐車場だと分かった時点で引き返すのだろうが、不思議なものを見たので追いかけてみた。
「あれ? こんなところに猫さんがいますね。どうしたんですか?」
地下駐車場で見つけた一匹の猫が、何かを咥えてアンリの前から走り去る。
白い塊。たぶん、手に平サイズの楕円に近い長方形の固形物が、袋に入っていた。ズルズルと引きずるように走り去っていたので、金属よりは軽く木材よりは重い何か。
猫を追いかけてその固形物の正体を確かめようとした。なぜ、そんな気になったのかはアンリ自身にも分からない。
ただ、勘というものが働いたから。
自分がアンドロイドであることを知りながら、勘などというものを信じるのが馬鹿らしいとは思う。それでも、経験と知識から生み出される直感的思考はアンドロイドであっても感じるときは感じるのだ。
だから猫を追って地下駐車場の奥まで来てしまい、気がつけば自分がどこにいるのかが分からなくなる。まさか、爆弾を探しに来た誠司達と擦れ違っていることにも気付かず。
イェーチェもここへ来ているはずなのでメールを出してSOSを送ろうとしたが、地下という電波の悪いところではアンリのネットワークが繋がらないことを知る。
「携帯電話並の性能なんですね、私って……」
落ち込むアンリ。
このままバッテリーが切れて動けなくなり、地下で永遠にコンクリートとして生きるのではないかと心配になる。が、まずそれは無かった。
車が止まっている以上は誰かが通りかかるはずだし、空気による自家発電が切れても一日は保てる予備バッテリーが内蔵されていて、それでも駄目なら巡回にきた警備員か誰かに拾われるだろう。見過ごされたところで、次の日には確実に救出される。
などと考えていると、先刻の猫が車の下から飛び出してきた。
「あれ、猫さん、あなたが持っていたものはどこに置いてきたんですか?」
「にゃぁ〜」
問いかけても、返ってくる答えは決まっていた。
「すみません、バウリンガルとかニャウリンガルは内蔵されていないんです。人語を話してください……と言っても無理ですよね」
「なぁ〜。ゴロゴロゴロ」
頭を撫でながらキャッチボールにならない会話をしていて、懐かれてしまう。
もし、この猫を飼いたいと言ったら、宗谷は許してくれるだろうか。ハムスターぐらいなら良いかも知れないが、猫や犬は無理か。
「ごめんなさい。アパートでは飼えないと思います。優しい飼い主さんが見つかると、良いですね。飼い主ではありませんけど、宗谷さんは良い人ですよ。イェーチェさんも、県警の皆さんも」
いったい、自分は猫なんかに何を話しているのだろう。
一人が寂しくて、頭がおかしくなってしまったのかも知れない。猫も、一匹だけこんなところに迷い込んで寂しいのではなかろうか。
「そろそろお外に出ましょうか。それほど広いわけではありませんから、歩いていればきっと出口は見つかりますよ」
「なぁ〜?」
そう言って、アンリは猫を抱きかかえて歩き出す。
薄暗い、蛍光灯の僅かな明かりだけが足元を照らす道を進む。まるで、自分が歩む人生を体現するかのような道だった。
自分のいる場所は分かっているのに、どこへ向かえばいいのかも、向かう先に何があるのかも、分からない。見上げても、見下ろしても、振り向いても、前を向いても、確かな出口の無い迷路。生まれたばかりは一本だった道も、いつかは二つに別れ、三つに別れ、四つ、五つ、と徐々に増えて行き、最後には同じところをグルグルと回る迷路になっていた。自分の求めるものを追えば、大切なものが別のところからやってくる。何が真実なのかを疑っていると、疑っていたものが真実に思えてしまう。光明が差したかと期待を抱いた次の瞬間には、再び暗闇の中に突き落とされる。いつかは同じことを繰り返し、異なることに不安を抱いて自分からその場に留まろうとしてしまうのだ。
『立ち位置が変われば、物の見方は変わる』
なんて偉そうに説教したのが恥ずかしいほど、本当は自分の立ち位置を変えることに恐れを抱いている。なのに他の皆は、留まることを知らず、立ち位置を変えることに楽しみを抱いていたりする。
それはもしかしたら、自分が意思を持つ物と言う存在だからか。それなら、ちゃんとした人間になれば考え方も感じ方も変わるだろうか。そう、童話のピノッキオのように、空色に髪をした女神様に頼んで人間して貰えば――否、それは無理だ。
ピノッキオはただの童話で、現実的に物が人間になることなんて不可能なこと。夢を見るのは寝てからにしろ、とあの人は言うだろう。
そして、その夢は直ぐに覚める。
「にゃぁっ!」
「あっ!」
唐突に猫がアンリの腕から飛び出し、文字通りあっという間に角の向こうへ姿を消してしまう。慌てて追いかけてみたが、行き止まりになったそこに猫の姿は無かった。
隠れるような場所は、隙間の開いた『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の向こうぐらいだ。入っていいものだろうか。もし誰かに見つかったら、叱られるかも知れない。
「猫さん、出てきてください。こんなところに入ったら、怒られちゃいますよ……」
扉に向かって話しかけるが、猫の鳴き声は聞こえない。
仕方なく、少しだけ扉を開いて覗き込んでみる。
揚水用ポンプが繋げられた幾つもの機械が轟々と唸りを上げて、冷却装置らしき機器に細い目の管が通って様々な方向に枝分かれしている。デパートを冷やすための冷水を流す機関室だろう。
それほど広くは無いはずだが、猫の姿が見当たらなかった。ただ、奥の方に作業着を着た誰かがいる。側に置かれた清掃道具から見て、清掃員だろう。
「あのぉ〜」
「――ッ?」
猫の居場所と出口を聞こうと声をかけたら、思った以上に清掃員が肩を震えさせる。
「だ、誰ですか? ここは関係者以外が立ち入っちゃいけないって書いてあるでしょ」
「すみません。ちょっと、道に迷ってしまって……。後、猫さんがここへ入って来ませんでしたか?」
「猫? 猫なんて見ていないけど、出口なら角を曲がって真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がれば外に出られるよ。仕事の邪魔だから、早く出て行ってください」
猫を見ていないのはおかしいと思ったが、清掃の邪魔をしては申し訳ないと機関室を出る。出口も分かったし、猫は気付かないうちに機関室を抜け出したのかもしれない。
アンリは安堵して、教えられた通りに道を進む。思ったより簡単な道順だ。
「迷っていた私は、何だったのでしょうか? まるで、あの猫さんに……」
誘われていたかのような、と言いかけて口を噤む。
目の前から歩いてくる女性に惹かれてしまう。
目つきこそ少し険しいが、黒いアンダーシャツに隠されたボディーラインは女性の意識として作られたアンリでも羨ましく思える。黒一色の野暮ったい服装ではなく、もっと着飾ればほとんどの男性を虜に出来てしまうだろう。
擦れ違う女性を横目に、アンリは疑問を抱く。
女性も道に迷った口か、行き止まりであるはずの機関室へ向かって歩いてゆく。しかし、道に迷ったなら先に出会ったアンリに道を聞けばいいだけのはずだ。
「あの、その先には機関室があるだけですよ。デパートに戻るなら、私が案内しますが? 機関室には清掃員さんがいるだけで……」
「その清掃員に用事があるの。貴女、私の邪魔をする? それとも、このまま黙って通り過ぎてくれる?」
アンリの台詞を有無も言わさず遮り、初めて出会ったにしては傍若無人な物言いをしてくる。
もちろん、清掃員への用事というなら止めはしないし、邪魔をする理由などあるわけがない。ただそんなことよりも、アンリは言い知れぬ悪寒を感じて答えることなく早足で女性から離れようとする。
女性はそのまま角を曲がり、姿を消す。それと同時に、千客万来と言わんばかりに最も会いたかった人達が駆け込んできた。
「宗谷さん! イェーチェさんに……エドモント=バイロンさんまで? それから、他の三方は……」
「アンリ、こんなところにいたのか? いや、それよりも機関室はどっちだ? 後三分しかないんだ!」
再会を喜ぶ暇も無く、イェーチェが捲くし立ててくる。ちょっとばかり悲しかったが、機関室の方向を指差す。
「訳は分かりませんが、機関室には清掃員さんがいるだけですよ? それと、おかしな女の人が一人……」
「その清掃員に用事があるんだ。まさか、その女は黒一色の服装だったか?」
言いかけて、今度はイェーチェにまで言葉を遮られる。
「やっぱり、今日は全然理解の出来ないことが多すぎます。知り合いのようですけど、黒一色でした……」
イェーチェ達はそれだけ聞くと、宗谷さえも再会を喜んでくれず機関室へ向かってしまった。
アンリの話しを聞いてくれるのは、猫だけか。まったく、今日という日はアンリの自尊心を傷つけてばかりだ。
そのままデパートで買い物をしてきても良かったのだが、イェーチェ達がなぜここへ来たのか気になったので引き返す。
「ついに見つけたぞ、火食い親方。いや、アレキサンドロ=フレミィー!」
イェーチェが機関室の扉を開き、中に居る清掃員に突っかかる。
「なるほど、清掃員なら怪しまれずデパート中を歩き回れるよな。でも、どうして機関室にいるってわかったんだ?」
不良のような格好をした少年がイェーチェに問いかける。
「聞いてたろ。この男は、化学者だ。化学者なら、火薬意外にも爆発性の危険物の取り扱い方は分かっている。先入観の所為でずっと爆弾だと思っていたが、禁水性で可燃性ガスを発生させる物と発火性の危険物を合わせれば、デパート中を流れる冷水を利用してデパート全体を爆破することぐらいは出来るんだよ」
「それで、パイプの中に爆発物を放り込める機関室にいると当りをつけたんですか」
イェーチェの説明に、眼鏡をかけた少年が納得する。
どんな経緯があったのかは知らないが、目の前に居る清掃員――アレキサンドロがデパートを爆破しようとしていた爆弾魔で、イェーチェ達が彼を探していたことは理解できた。
ならば、アレキサンドロの前に佇む黒尽くめの女性は何者だろうか。手の中で形が異なる二本のナイフを弄び、無視されていることに苛立っているような顔をしている。
アンリの疑問に答えてくれたのは、アレキサンドロだった。
「十八年ぶりだね、バイロンさん。そして、殺し屋『新月の狐』……」
殺し屋と言った。確かに、はっきりとこの耳で聞いた。
「先に見つけたのは私よ? 用件を伝える順番としては私が最初でしょ。死体ぐらいは譲ってあげるから、そこで指を咥えて見学していなさい」
殺し屋の女性は、イェーチェ達の意志にも意を介さず一つの目的だけを目標に動いている。ただ、アレキサンドロを殺すことだけ。
もちろん、イェーチェがそんな物言いをされて怒らぬわけが無い。
「私達は屍に群がる猛禽類じゃないぞ。十八年経った今でも、バイロンさんの依頼を遂行するつもりなのか?」
「それは無いはずだ。ロサンゼルスで取り逃がした後、依頼は取り消したはず……」
ならばなぜ、この殺し屋はアレキサンドロを殺そうとする。
「別口で、この男を殺せって依頼があったのよ。デパートで働く清掃員だとは聞いたけど、まさかこいつだとは思わなかったわ」
その言葉を最後に、話を続けていても埒が明かないと思ったのだろう、有無を言わさずアレキサンドロへ切りかかる。
が、アレキサンドロが風前の灯にもなりながら不敵な笑みを浮かべた。
「君達は勝負に勝った。しかし、ゲームには負けたんだ。タイムリミットだ、バベルの塔が崩壊する」
その台詞と同時に、地下全体が大きく揺れる。
既に約束の二時間は過ぎていて、パイプの中に流された爆発物はその猛火を発していたのだ。浄水場のパイプを爆発させた時のように、石鹸のような溶解性の固形物に固めて時限爆弾に変えた物。
今頃は、破損したパイプの水がデパート全体を沈めているだろう。
殺し屋は急な振動に体勢を崩し、イェーチェ達も揺れの大きさに四肢を使って踏ん張るしかない。爆発のタイミングを知っていたアレキサンドロだけが、まんまと突破口を見つけて逃げ出した。
走って逃げるだけなら足にしがみ付くぐらい出来ただろうが、清掃道具を運ぶワゴンを押してモップを振り回されては手も足も出ない。
「クソッ! バイロンさんは客を避難させて、私は奴を追いかける。宗ちゃん、悪いけど狐の足止めをお願いできるか?」
イェーチェが、殺し屋と宗谷を見比べて尋ねる。
「あ〜。犯人探しだけでも時間外手当が欲しいってのに、殺し屋の足止めまでやれってか? 冗談じゃねぇ、本当に足止めだけだからな!」
愚痴りながらも宗谷は、アレキサンドロを追おうとした殺し屋の前に立ちはだかる。
その間にイェーチェと三人の生徒達は地下の出口に向かう。走り際に、不良少年が宗谷に言った。
「俺に言ったあの台詞、あんたも守るんだぞ!」
返事はしなかったが、「早く行け」と言わんばかりに手を上下に振る。
「邪魔をするのね。貴方があの響矢にどんな体術を教わったか知らないけど、足止め程度で済むと思わないでね」
「そう言えば、あんたは響さんのことを知ってるみたいだな。ちょっと教わった技を見せただけで、驚いていたよな。響さんに比べれば全くの初心者だが、鉄火場には慣れてるんだぜ!」
二人が同時に動こうとした時、彼らは誰の断りもなしに姿を現した。
一発の銃声が響き、銃弾ではない何かが殺し屋と宗谷の前を通り過ぎる。
「ホールドアップ! 悪いけど、日本の警察機構が関わるべき事件じゃないわ。アレキサンドロも私達が追っているから、あの娘と一緒に手を引きなさい」
フルフェイスの防護マスクと防弾ベスト、軍隊さながらの装備をした集団が殺し屋と宗谷、その場に残ったアンリを取り囲む。
誰だろう、彼らは。どこかで出会ったことがあるのだが、思い出せなかった。
その言葉を伝えられるまでは。
「久しぶりね、アンリお嬢さん。気になっていたかも知れないから、これだけは教えてあげる。オッド=ワイルズマンは、収容された病院で息を引き取ったわ」
防護マスクの中でも透き通るように響くアルトボイスが、失われていたアンリの記憶を蘇らせる。
あの日、星空の下で見た全ての光景、宵闇の中で失った確かな真実。
「あぁ……ッ。止めて……私の、中に、入ってこないでえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!」
否応無く瞼の裏に染み付いた老人に死に行く姿。もう、決して排除することの出来ない悲しみの影。
腹部を襲う優しい衝撃だけが、一時の安息を与えてくれた。
「こいつらが何者かは知らない。けど、今は寝ていろ。イェーチェには、俺から伝えておくから……」
どうして、この集団と出会うときはいつも気絶させられるのだろうか。出来ることなら、もう一度、この記憶を消して欲しい。
宗谷の声を最後に聞きながら、アンリは眠りについた。
男が退いた。
あの墓泥棒の小娘に足止めを頼まれたみたいだが、さっき擦れ違った女を寝かしつけるために道を開けてくれた。その代わりと言って、今度は軍隊被れの集団が立ち塞がってくる。
先ほどの銃弾は本物ではなく、下に転がっているものを見れば分かる通り暴徒鎮圧用のゴム弾“ラバーブレット”だ。無論、一発目は威嚇のために放ったもので、今度撃ってくるものは確実に自分をノックアウトするための物だろう。
しかし、彼女には本物だろうが偽物だろうが関係ない。どちらであっても、取るべき行動は変わらないのだから。
「動くな。分かっているだろうが、こんな武器でも当たり所が悪ければ死ぬ。死ななくとも、この距離なら骨の一本は確実に持っていける」
決まり文句を吐き捨て、軍隊被れの一人が牽制する。
舐められたものだ。ほぼ殺傷能力ゼロの非殺傷武器で、自分を止められるとでも思っているのか。
「当れば痛いでしょうね。少しぐらいは怯むかもしれない。けど、当れば、の話ッ!」
十数丁分の銃口を向けられながら、彼女は邪魔者達に牙を剥いた。床を蹴り、前衛で中腰になる一人へ向かって肉迫する。
「何ッ? くッ!」
まさかこの状況で接近してくるとは思っていなかったのだろう、狙われた奴が慌てて引き金を引く。
焦ったにしては胸へ吸い込まれるように放たれるが、距離と銃器の精度による賜物であろう。銃火器については詳しくない彼女でも、有名どころの銃の名前ぐらいは分かった。
そいつが使っているのはAK‐47と呼ばれるアサルトライフル。各国の軍隊やゲリラが使う『小さな大量破壊兵器』の異名を持ち、反動こそ大きいものの初弾の精密さは他の銃火器より優れている。
だが、言ったではないか。当れば十分なゴム弾も、当らなければ無意味。それは実弾も同じ。
「フッ!」
裂帛の気合と共に、胸を目掛けて飛び込んできたゴム弾をナイフで切り落とす。湾曲刀“ショテール”を小さくしたようなナイフは裂くことに優れ、石か鉄でもない限りは易々と物を切り裂く。
フルバーストにしなかったのは間違いだ。
次弾が放たれるよりも早く間合いに踏み込み、もう一本のコンバットナイフで防弾ベストを貫いて胸に突き刺す。防弾ベストの厚さが心臓へ達さなかったが、動きだけを止めて銃に手を伸ばし引き金を引く。
『なグハッ!』
驚く暇も与えず、連射したゴム弾で周囲の前衛の軍隊被れどもを薙ぎ払う。これも防弾ベストのおかげで骨折はしないだろうが、人間の体を寝かしつけるには十分だった。
貫いていたナイフを引き抜くと、倒れた一人を踏み台に後衛へ詰め寄り、腹部を抉り首筋を引き裂いてやる。噴出す鮮血が頬を撫で、体を駆け抜ける快感に思わず顔がほころんでしまう。
墓泥棒娘ほどの身軽さは無いが、獲物の急所を狙う的確さは一撃入れる隙があれば敵の動きを止められる。殺すという明確な目的を持って武器を振るえば、響矢のような摩訶不思議な体術も必要ない。
まだ生きている奴を盾にする非情さ、敵の武器を逆手に取る狡猾さ、それらは喧嘩の常套手段だ。いや、これは殺し合い“けんか”だ。
喧嘩と違うのは、怪我で済むか死ぬかの違いだけ。邪魔をするなら大人は当然のこと、女子供だろうと容赦はしない。
「ちなみに、男は嫌い。むさ苦しいだけで、まだ女の方が殺した時が綺麗だわ。特に、貴女みたいな高潔な女なら、私を悦ばせてくれる。殺す時も、抱いた時も」
最初の威嚇を放った女の前に、狐は降り立つ。
女性愛主義“レズビアン”でありながら加虐趣味“サディズム”的な思考。趣味と言えるものが無い彼女が持つ、数少ない嗜好といえばそれぐらいか。
女の顔が防護マスクの中で引き攣る。
「これまでの奴“殺し”は、ただの余興って訳ね……。ホント、殺り合いたくない相手だわ」
「つれないことは言わないでよ。愉しみましょ、今宵のパーティーを」
「えぇ、分かったわ。始めましょうか、死神の舞踏会“デス・ダンスパーティー”を!」
その会話を開戦の合図に、二人の美女が踊り出す。
決して華やかな会場ではないが、血生臭い舞踏会をするには邪魔者がこないだけ打って付けだ。パーティードレスの代わりは黒装束と防弾ベスト。素敵な音楽の代わりに、二本のナイフと銃声のぶつかり合う音色が響き渡る。
女軍人は、AUG又はステアーという銃火器を使ってきた。普通ならば反動を軽減するためのスティックが銃身と本体の根元辺りに引き金と並んでいるはずなのだが、女軍人が使いAUGは側面にスティックがついている。側面についたスティックを握り、トンファー――棒をトの字に組み合わせた攻守に優れている武器――のように振り回す。戦車や象に踏まれても壊れないと言われる頑丈さは、そうした使い方に適当と言えた。ナイフで切りかかっても、コンクリートの壁にぶつけても、壊れないのだから。
接近すれば振り回し、間合いを取ればゴム弾が飛んでくる。女軍人にとっては実弾でなかったことが悔やまれるだろう。まあ、当る前に切り落とすのだから狐にすれば似たり寄ったりだが。
狐が振るうナイフを受け止め、棒状のトンファーよりも広い銃尻が目の前を掠める。防御を掻い潜った二つの斬撃が防弾ベストを裂く。一進一退の攻防が続き、二人のダンスにその場の皆は魅了される。地下に流れ込み始めた水に足を取られる様子も見せず、水の上で踊っているかのようにも見えてしまう。
「こんなに燃えたのは初めてよ。この後、ホテルにでも行かない?」
「喋ってる暇があるの? 悪いけど、そのお誘いは断らせて貰うわ。そっちの趣味は無いからね。美味しいお店で、一緒にたこ焼ぐらいなら食べてあげる」
彼女達に緊張感というものはなかった。
ただ踊りなれた円舞曲“ロンド”に合わせて、身を翻しステップを踏んでいるだけだ。舞踏会の夜に出会った、シンデレラと王子様と代わらない。しかし、それを見た意地悪な姉と母は、羨ましいとは思わないだろう。地下に斬撃が響き渡る、血と水のパーティー会場など羨ましくもない。
唐竹に振り下ろされた一本目のナイフが銃身を滑り、繰り出される蹴りをもう一本で牽制する。蹴りが唐突に軌道を変えて足を払いにくると、飛んで避けずに倒れた勢いで横に転がって間合いを取る。
飛んで避けていれば、足払いの反転を利用して立ち上がった女軍人がAUGで延髄を持っていっただろう。
「あら、もう少しでその細い首を刈って上げたのに」
「残念。まだ、死神には召されたくないわ。代わりに、私が貴女を冥府に送って上げる」
「それもお断りよ」
立ち上がったところへ軍人女が追撃してくる。銃弾は通じないと理解したのだろうか。
再び肉迫した二人の凶器が、残響を周囲に振り撒く。ナイフとAUGが火花を散らしてぶつかり合い、焦げた鉄の匂いが鼻腔を突く。一度、二度、三度、目にも止まらぬ斬撃の応酬が続く。
直線的だが、一撃ごとに空気を抉るかのような銀光。円運動を利用した素早く鋭い白線。
「焦らさないでよ。貴女なら、直ぐにでも私の背後を取れるでしょ?」
狐の言う通り、背後を取れば延髄へ銃尻を叩き込むのは容易だろう。女軍人には、それが出来る舞踏の技術がある。
けれど、そうしてこないのには訳があった。
女軍人の目的は自分を捕獲することではなく、この場で足止めすること。故に、たち位置を変えてしまう技は使えない。狐の瞬発力があれば、背後に回られた瞬間にAUGの攻撃範囲から逃れられる。
じれったい防壁ではあるが、逆に狐には好機でもあった。
「もう少しこうやって踊って居たいけど、魔女の魔法は十二時までしか続かないの。だからごめんなさい。また踊りたいなら、ガラスの靴を届けに来てくださいませ、王子様」
「ヌケヌケと殺し屋風情がシンデレラ気取り? まあ、私が王子様でも貴女みたいなシンデレラにはガラスの靴なんて届けたくないけどね」
舞踏曲は最後の一節を迎える。
二人のステップが止まって間合いを取り合う。
背後を取ってこない以上、女軍人が踏むステップに単調さが見られてくるからである。横薙ぎのAUGが避けられると、腰を折って唐竹に振り下ろしてくる。
どれほど素早い攻撃でも、その瞬間に背中を見せる隙が生まれるのだ。
半歩、ギリギリで横薙ぎを避けられるだけ身を引き、腰を曲げた瞬間に前へ出る。そのタイミングでナイフを振り下ろせば、女軍人ほどの戦闘のプロならば避けずに肉迫する。ナイフを避けて背中で腕を受け止めるつもりなのだろうが、前に出たところで円運動が停止することも当然。
振り下ろした側のナイフを手放し、女軍人の腕を掴みながら跳躍する。背中合わせに飛び越えられる程度で良い。
「しまっ!」
気付いた時には遅く、狐は背中を飛び越えて二度程のバク転で間合いを開いていた。したたかにも、手放したナイフを空中でキャッチしながら。
女軍人が引き金を引くが、これまで撃った弾数を数えていたかのように、狐は放たれることの無い銃弾を待つ。狐は、踊りの途中で取り出していた投擲用ナイフを投げつける。避けるかAUGの回転でナイフを払い落とすかの隙に、殺せなかったことに対する僅かな憂いを秘めた微笑を投げかけて地下の出口へ駆けた。
舞踏に魅了されていた皆が制止する暇も無く、狐は地下の舞踏会場から姿を消す。
「なによ、ガラスの靴のつもりかしら……」
女軍人が投擲用ナイフを拾い上げ、溜息を吐く。
「取り逃がして何を言っているんですか……。犯罪者一人に、少し遊びが過ぎますよ、姉御」
魅了されていたことを棚に上げて、仲間の一人が文句を言う。
暴徒や犯罪者なら何人も鎮圧してきた彼らだが、犯罪者という枠組みにはまらない狐を捕まえることは出来なかった。
「アンリを頼む。あんたらで駄目なら俺が出来るとは思えないが、易々と人殺しを見逃すわけには行かないからな」
宗谷はアンリを軍隊被れに預け、狐を追って走り出す。
走る宗谷の背中に、女軍人の声が掛かる。
「私達に預けてもいいの?」
「一度は助けた顔だろ、今更何かしようなんて思わないはずだ。それに、もし何かしたら、俺が直々に殺してやるよ」
走りながら宗谷が答える。
その答えを聞いて、女軍人が呆れたように言い返す。
「その台詞、この子が起きてる時に言ってやりなよ。喜ぶわよ」
そして、宗谷が更に言い返した。
「お断りだね」
そこまで言い終わることには、もう宗谷の姿は見えなくなっていた。
見送った女軍人の最後の台詞は、
「ホント、乙女心の分からないお馬鹿さんだわ。あんな男を好きになる女は、幸せになれないこと確実ね」
だった。
「姉御のような女性を好きになる男も、また然り」
男の台詞が聞こえたのか否か、後は追跡部隊に任せ、女軍人はその場を撤収する。
アンリは、撤収間際に爆発を聞きつけてやってきた外の警官達に預けられる寸前で意識を取り戻し、宗谷達を追った。
四章・血は水よりも濃く、愛は炎より冷たく
地下でそんな舞踏会が行われているなどとは知らず、イェーチェ達はアレキサンドロを追う。いや、知っていたところで、命がけの舞踏会になど出たいとは思わないが。
しかし、阿鼻叫喚と言うのはこんな情景を言うのだろうか。
孤児として生まれたイェーチェでさえ、まだ裕福な暮らしをしてきたのだと思える。
今のところ死者は出ていないが、流れてくるガラクタやガラス片で怪我をする客は居た。大量の水が流れ出してくる上、暴徒と化してしまった客によって救出が間々ならない。
ここが本当に日本のデパートなのかと疑いたくなるが、今はアレキサンドロを追って階段を上るしかなかった。
「エレベーターとエスカレーターは水の所為で止まるし、流れが強くて走ってる気がしないな」
高屋が、バシャバシャと水を蹴りながら愚痴る。
走っているつもりでも、それこそ徒歩程度の速度しか出ない。
空を飛べればもっと早いのかも知れない。しかし、人間が科学の力を使わず空を飛ぶことなど出来ない。
そんなこと分かっているのに、無理と分かっていても両手をバタつかせながら飛び跳ねてみたかった。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えたくなるぐらい、イェーチェは焦っている。その焦りを抑えながら水を掻く作業が、じれったく苛立たしい。
なぜこんなに焦っているのだろうか。
たぶん、爆弾騒ぎに巻き込まれたこと以上の何かが自分を囃し立てているのだ。気付いていながら言葉にするのが口惜しい、口に出そうとすれば何だったのか忘れてしまう小さなこと。
それにだ、アレキサンドロの逃走経路も知らないのにイェーチェは迷わず屋上へ出る道を進む。どういうわけか、イェーチェにはアレキサンドロの考えが手に取るように分かる。
何らかの犯罪心理に基づいたものではなく、他のもっと曖昧な意識だ。自分がアレキサンドロの脳の一部になったかのように、思考の一部を読み取る。
下から外に出れば、爆発を聞きつけた警察に捕まるのがオチ。ならば上に逃げて何らかの手段を講じる。警察か、報道のヘリコプターに偽装した仲間に救出させる、のが手っ取り早い。そのヘリコプターには武器が積んであり、追跡してきた警察のヘリを打ち落とすことも、未来でも読めるようになったぐらいに分かってしまう。
「後一階上ればいいだけなのによ、なんか水の量が増えてねぇか?」
「屋上には遊泳施設があるんだ、一番水の多い場所だからだよ。けど、まだあいつは逃げない。私達がたどり着いたところを、お宝を盗んだアルセーヌ=ルパンの如く悠々と逃げるつもりだ」
「そんなことまで分かるのか? まだ家族の考えを読むなら不可能じゃねぇーけど、他人のことなんて分かるのかよ」
未だに信じられないと言った様子で、高屋が怪訝そうな顔をする。それでもこうして付いてくるということは、十分にイェーチェの言葉を信じているのだろう。
水の流れに足を取られないように階段を上り、屋上の扉の前に着く。自動ドアになった扉が開き、男子用と女子用の更衣室へ別れた道が現れた。どちらから行ってもアレキサンドロのところまでたどり着けるだろうが、概念的に男と女で別れてしまう。
待ち伏せしてイェーチェと林檎を人質に取る可能性は、皆無。更衣室の出口とは正反対の端に佇み、自分達を出迎えるはず。
もちろんその読みは当り、アレキサンドロはドーム状になったガラス窓の前に居た。
「やっと追いついてくれたね。しかし、残念ながら、君達はゲームにも勝負にも負けるんだ――」
「空の上まで、君達は追ってこれないだろ。と言いたいわけか」
アレキサンドロの考えを先読みして、台詞を奪い取る。
アレキサンドロは驚いたようにイェーチェを見るが、何故か納得したように苦笑を浮かべる。彼も、自分と同じなのだ。こうして追ってくることを分かっていて、思考を読まれているのを知りながらその通りに行動した。
お互いに考えを読み合って、抗うことの出来ない運命の台本の通りにことを進める。忌々しいことではあるが、全ては既に決められていたことなのだ。
「それでは、また会えることを祈るよ」
塔の下からヘリコプターが上ってきて、徐々にガラス張りのドームが開き始める。
ヘリのローターが巻き起こす突風が吹き抜け、髪の毛を滅茶苦茶に扇ぐ。
捕まえるならば縄梯子が下ろされるまでの間だが、イェーチェ達は動かなかった。いや、動けなかったと言うのが正しい。
動こうとすれば、ヘリに乗ったスナイパーが引き金を引くであろう。この距離ならば、一歩でも動いた瞬間に額を銃弾が貫く。それを知ってか知らずか、ただイェーチェが動かないからか、三人もその場を動かない。
イェーチェは、今にも動きたかった。アレキサンドロの元に駆け寄り、最後の別れを伝えたかった。
でも、今動けば自分だけではなく後ろの三人もスナイパーの射線に入ってしまう。
だから、今にも泣き出しそうな――演技などではない――表情で、アレキサンドロに問いかける。
「なあ、最後に聞かせてくれ。なんで、私を爆弾探しに選んだんだ? あの時ぶつかったところで分かってたんじゃないのか?」
「……何のことかな。私は、君のことなど知らない。君をゲームのプレイヤーに選んだのは、ただの気まぐれだよ」
アレキサンドロの答えは、つれないものだった。そう返してくると分かっていて、聞いたのだから傷付きはしない。自分だって、彼と同じ立場ならそう答えていたから。
ならば、最後にこれだけは言わせて欲しい。
「私は恨んじゃいない。事情が事情だから、な。あの夏の日に、赤ちゃんだった私は思っていた。二度と、あんたには会えないって。けど、こんな形でも出会えたんだ。元の関係には戻れないかも知れないけど、今なら言える」
三人には分からないだろうが、血は水よりも濃いのだ、直感で分かる。
その言葉を、最後に伝えたい言葉を、伝えようと口を開く。しかし、運命の女神は非情だった。
言いかけたところで、アレキサンドロが首を横に振った。
何で、言わせてくれない。なぜ、それぐらいで噤んでしまう。
同じ血を分け合った者同士だからこそ、言葉にしなくても伝わるものがあったからかも知れない。
自然と涙が流れた。
駆けて行って、胸に飛び込みたい気持ちを抑えながら、イェーチェは静かに泣いた。
「さようなら、私の最愛の――」
ドームが完全に開き、近づいたヘリの音が無残にもその言葉を掻き消す。
違う、自分はそんな名前じゃない。あんたから貰った名前はずっと昔に忘れてしまったよ。今は、イェーチェ、それが私の名前だ。
思えば十八年。二人の間を別つのには、十分すぎる年月だった。
例え命を狙われていたからと言って、見知らぬ田舎町のバス停に置いていくなんて酷過ぎるとは思わないのか。いや、血を分けた者なら、己が死んだところで幼い命だけは守りたいと思うだろう。それが未来永劫の別れになったところで、必ずどこかで生きていると信じて別れる。
けれど、アレキサンドロは己の不幸に酔ってしまったのだ。自分と同じように、最愛の娘と生き別れ、最愛の女性を失った不幸に、陶酔して自己の生き方を失ったに過ぎない。そう、海底ホテルの事件までのイェーチェと同じように、誰も信じることが出来ず自分の力だけで不幸を打開しようとして、酔い潰れてしまった。
それでも、イェーチェは多くの仲間に目覚めさせられた。アレキサンドロのように、酔ったまま眠りに就くことはなかったのである。
「もう、眠りから醒めてもいい頃だろ?」
もう何も言うことはない。
「別れの際に涙は必要ないよな。手を振って、別れるとしよ……おい、どういうことだ?」
懇情の別れをしようとしたところで、要らぬ水を差す馬鹿野郎がいた。
ドームが開いても縄梯子が降りてこないことを怪訝に思ったのだろう、アレキサンドロがヘリに向かって振り返る。
まさか、目の前にそんなものを突きつけられているとは夢にも思わなかっただろう。
イェーチェや後ろの三人を狙っているなら分かるが、なぜスナイパーはアレキサンドロをライフルで狙っている。見間違えや距離感の問題ではなく、明らかに銃口はアレキサンドロの頭部に狙いを定めていた。
ローターの音が五月蝿いというのに、彼らの会話が分かる。
「See you Mr.Flemy(さようなら、フレミィさん)」
「冗談は止せ。君達はあいつらの指示で私を助けにきたのだろ?」
「I have not received such an instruction.(私はそんな指示受けていない)」
イェーチェの予想が見当違いで、あのヘリに乗っているスナイパーは警察か特殊部隊の人間で、爆弾魔を狙撃しようとしているだけか。
「そんなことあるか! 何者か知らないが、あんたは見限られたんだよ!」
自分の考えを全力で否定し、声にならない言葉でアレキサンドロを呼ぶ。
早く逃げろ。逃げて来い。
だが、そんな声はアレキサンドロには届かない。
イェーチェは駆け出したが、世界の全てがスローモーションで動く。ゆっくりとライフルの引き金が絞られる。どんなに急いで走っても、時の経過は全て運命の台本によって握られていた。
間に合わない。
そう思った瞬間に銃声が響き渡り、無情にも倒れ行く男の体。銃弾が地面を跳ねて、ガラスの一枚にヒビを入れた。
額に小さなナイフを突き刺され、ヘリから落下するスナイパー。
「私の獲物を奪わないでくれる?」
ただ一人、運命と言う名の輪廻から外れた女だけが、その世界から逸脱してそこに佇んでいる。
「うん? 娘っ子、あんたは何でそんな呆けた顔して寝てるのよ。そんなところで寝たら、風邪引くわよ」
相変わらずの毒舌のも、イェーチェは反論することが出来ない。普通なら、人を殺したその女に突っかかっているところだが、今回ばかりは感謝しておこう。
立ち上がり、アレキサンドロの下に駆け寄る。
「良かった……。こんな別れ方、私は絶対に許せなかった」
「どうやら、私は彼らに利用されただけのようだな。良く分からない連中だ。十八年も待たされたと思えば、利用するだけして殺そうとするなんて。いいや、こうして君に出会えたことには感謝するべきかな?」
殺されそうになって、よくもまあそんな物言いが出来るものだ。
やはり、血を分けた以上はどちらもどっちと言うことか。
しかしだ、まだ安心することは出来ない。ここに『新月の狐』がいる限りは、二度も三度も逃がしてはくれまい。
「さて、まだ殺すつもりで居るのか?」
だだし、少し時間を掛けすぎた。
狐に問いかけたのはイェーチェではなく、後ろから追ってきた宗谷だ。その上、なぜ故か警視庁のヘリに乗って空から登場する響。
「こんなところでお仕事とは、忙しい奴だな、お前も」
「私も、こんなところで会えるとは思っていなかったわ。あの時みたいに、また三人でやりあうつもり?」
イェーチェと響、狐の三人だけが知るあの死闘。まさか、またアレをするなんて冗談でも言いたくはない。
「もう血を見ることはなかろう。話は後でゆっくりしよう。今から梯子を下ろすから、皆乗り込め」
やはり響もアレを再現するのは嫌なのか、やんわりと断ってくる。
それに、この塔は今にも崩落してしまう。水圧で柱は折れ曲がり、神の天罰を受けてガラスにヒビが入り始めていた。
流石の狐も、響が居る前でアレキサンドロを殺すことはないだろう。降ろされた梯子を上る。
最初に三人の生徒達を上げ、次に狐とイェーチェ。続いてアレキサンドロが上ってこようとした。
その時、
「危ない!」
なぜ、アンリまでここへ来たのだ。
そんな疑問よりも、別のところに目を向ける。
眉間にナイフを刺されながら、まだ死に絶えていなかったスナイパーが銃口をアレキサンドロに向けていた。
『新月の狐』並に仕事を忠実にこなそうとする。
アレキサンドロは梯子を上っている途中で、どこにも逃げ場がなかった。
「チッ!」
咄嗟の判断だったのだろう、それが自殺行為にも似た行動などとは考えず、宗谷がスナイパーとアレキサンドロの間に飛び込む。
きっと古い西部劇のように、愛用のコートの中に鉄板か何かを忍ばしているに違いない。現実主義者であるイェーチェが、ほぼゼロパーセントに近いことを考えたのは、これが初めてだった。
一言、「ふざけるな」と怒鳴ってやりたかった。
誰に向かってというわけでもなく、強いて言うならこんな無謀なことをした自分に。
「――さん! ――やさん!」
誰かの呼ぶ声が聞こえるが、目の前に霞が掛かって顔が分からない。
僅かにローターの回る音がするものの、フワフワと宙を浮かんでいるような感覚だけを背中に感じる。
ここはどこだろう。
自分は誰だろう。
確か、撃たれそうになった爆弾魔を庇って、ライフルの銃弾を胸の辺りに受けたのは覚えている。
それから一瞬意識が飛んだかと思えば、いつの間にかヘリの中みたいなところに居て、次は映画の場面が切り替わるように白い天井の下に寝ていた。
口にはマスクのようなものが宛がわれ、もう一度眠りにつきたいぐらい気持ちのいい布の感触が背中にはある。しかし、それを許さぬかのように、ピッピッと留まることを知らない電子音が耳元で響き、手が痛いほどに握り締められていた。
「宗谷、さん……」
第一声は、聞き覚えのある声だ。
黒い髪を幽霊みたいに垂れさせて、顔を涙でクシャクシャに濡らした女性。
「アンリか……? ここは、そうか、病院か。俺は、一度死に掛けたのか」
ようやく自分のした馬鹿さ加減を思い出して、ボソボソと酸素マスクの中で呟く。
無論、そんな言い様をアンリが聞き逃すはずもなく。
「何を言ってるんですか! 宗谷さんのしたことは、何の意味もなかったんですよ」
怒鳴り声の意味が分からない。
自分の行動に意味が無かったということは、考えられる可能性は一つ。
命を懸けてまで守ろうとした命が、その意を介さずに失われたということ。
「じゃあ、イェーチェはどうしてる……? そうだよな、この世で唯一の肉親を失ったんだ。こんな様の俺にも合いたくないぐらい、落ち込んでるだろうよ」
一度ぐらいは、自分であの生意気な小娘の鼻を圧し折ってみたかった。圧し折るといっても、比喩的な意味で泣き面を掻かせてやりたい、と言う意味だが。
そう大人気ないことを考えていると、誰かが病室の扉を開く。
響か、もしくは県警の誰かが見舞いにでも来てくれたか。自分で酸素マスクを取り外し、首を扉へ向ける。まだ痛む身体をアンリが優しく留めさせ、立ち上がって病室の出口へ向かう。
「私は、お医者さんを呼んできますね」
そう言って、入ってきた人物と入れ替わるようにしてアンリは出て行く。
擦れ違いに、予想外の笑顔を浮かべた少女の姿がある。なぜ、イェーチェは自分を嘲笑うようにして見つめている。
「ホント、お前は感情表現の仕方が間違っているぞ……」
宗谷が呆れて言うと、イェーチェが少し怒った。
「あんな無謀なことをした宗ちゃんには言われたくないな。皆がどれだけ心配したと思ってる? ほんのちょっぴりだ。蟻の涙ぐらい、どうせ直ぐに元気な顔を見せるんだろ、って笑いあってたよ。それに、宗ちゃんって単純だよね。ちょっとアンリに演技を頼んだだけで、すっかり騙されちゃうんだから、さ。全部、嘘の嘘の嘘の嘘ッ! これだけは感謝しておく、助けてくれてありがとう! じゃあ、フルーツの盛り合わせぐらい持ってきてやろうと思ったけど、元気な宗ちゃんの顔を見たらそんな気も失せたよ。だから今度会うのは退院してからだぜ」
唐突にイェーチェが捲くし立ててくる。
宗谷にはイェーチェの内心など読めないが、僅かながら分かることがある。いつものようにからかうつもりなら、イェーチェはそんな捲くし立て方はしない。どこか余裕のない、忙しなく走り回る大晦日の蕎麦屋のようだ。
それと、嘘の嘘の嘘の嘘は、嘘である。
アンリに演技を頼んだということも、こうして笑って自分の前に姿を現したのも、全部嘘なのだ。
「なあ、前にも言ったよな。楽しければ全てよし、って。けど、今そんな顔をして本当に楽しいのか? お前が強がりなのは知っているが、言いたいことがあるなら言えばいいだろ。こんな状態じゃ、何を言われても怒る気になんかならねぇよ」
イェーチェに、自分の言葉は伝わっただろうか。
どんなに強がりを言ったところで、本当の楽しさと言うのは手に入れられない。ちょっとぐらい、強がらずに本当の自分をさらけ出してもいいではないか。
「…………」
イェーチェが俯いて押し黙る。
そうだ、そのまま思いの丈を全てぶつければ良い。震える小さな体が、何よりも物語っているのだから。
「あんな男でも、最後の肉親だったんだ。なのに、助からなかった。宗ちゃんが助けようとしてくれたのに、君の胸を貫通した弾があいつに当った。宗ちゃんの所為だって言いたいわけじゃない。結果的には、梯子から手を離して何十メートルも下の地面に激突したことによる転落死だ。それも、あいつ自身が屋上から飛び降りて、の。あいつは、ずっと自分の不幸に酔っていただけで、酔いから醒めたくなかったんだよ」
どうして、そんなことを言う。
そんなことを言いに、ここへ来たわけではないはずだ。
「私も同じなんだよ。ただ自分の不幸に酔いたいだけの、馬鹿な小娘なんだ。だから、今だけは、こうしていてもいいんだよね……?」
イェーチェが、滑るようにしてベッドに近づいてくる。
そのまま、顔も見せずに膝を折り、宗谷の胸に顔を埋めた。薄いシーツを伝わる声にならない嗚咽と、割烹着に染み込んでくる涙が、イェーチェ自身の言葉をちゃんと伝えてくれた。
宗谷はただ、泣き止まぬ少女の頭を優しく撫でて、白い天井を見上げ続ける。
好きなだけ泣け。好きなだけ甘えろ。
例え世界が直ぐにでも壊滅したところで、ずっとこのままで居てやる。少女が泣き止んで、不幸という美酒の酔いから醒めるまで、この愚かな男の胸に縋るが良い。
――あるところに、独りぼっちのお爺さんが居ました。お爺さんはある日、喧嘩友達から一本の丸太を貰って人形を作りました。意思を持ち、悪戯好きの人形です。
人形にピノッキオという名前をつけて、お爺さんは自分の子供のように可愛がります。しかし、ピノッキオは悪いことばかりしていて、お爺さんの言いつけを守らず悪い猫と狐に騙されてしまいます。
騙されてしまったピノッキオは、沢山の冒険をして、沢山の経験を得て、とても良い子になりました。そんなピノッキオが出会った空色の髪の女神様が、人形から人間にしてくれたのです。
人間になったピノッキオはお爺さんと一緒に、幸せに暮らしましたとさ。
――それがキノッピオの冒険物語。
誰でも知っているような、童話の話だ。
果てさて、今思えば、どうしてピノッキオは人間になりたいと願ったのだろうか。子供心では分からない、物と人の違いに憧れたのかもしれない。
そう、病室を覗く彼女のように、人形では求めることの出来ない物を人間は持っている。どれだけ精巧に作られた人形でも、泣くことが出来て笑うことが出来て、良い事を考えられて悪いことを考えれても、人間にしかないものがあるのです。
――愛?
違う。どんなに情熱的な愛を持とうとも、それは炎なんかよりも冷たい形さえ無い物。
人形なんて、炎にくべてしまえば燃え尽きて灰になる。ピノッキオも、何度となく焚き木にされそうになったではありませんか。その度に、プルチオネルラとアルレキーノに助けられて、火食い親方から逃れられたのです。
しかし、人形には人形の、人間には人間の、絆と言うものがある。
ピノッキオはその人間の絆を得たいがために、人間になることを望んだのではないでしょうか。それは、お爺さんを鮫の中から助け出そうとしたように、お爺さんがピノッキオを自分の子供の如く思ったように。
それでは、人間になれたピノッキオは人間の絆を得ることが出来ただろうか。その問いは愚問。
物語はそこまでで終わっているのですから、その先のことは誰にも分かりません。
「では、私はこのまま人間の絆を得ることは出来ますか?」
女性が問う。
「さてね、望めば手に入るかもしれない。もしかしたら、手に入らないかもしれない」
男は曖昧に答える。
「私次第ということですか? それで、貴方は何者なのでしょう」
病室を覗いていた女性に、男はからかいを含んだ笑みを浮かべて声をかけてきた。
病室の男の知り合いだろうか。記憶にはなかった。どこかで見たような気もするのだが、男の知り合いとして紹介された人物のデータにはない。
「私の計画を破綻させた人物が、どんな人なのかを見に来ただけですよ。さて、そろそろお話が終わるようなので、私はこれで失礼させていただきます」
男が病室を指差すので視線を泳がせると、少女がこちらに向かって歩いてくるのが見える。しかし、直ぐに男の方を振り向く。
が、ほんの少しだけ気を逸らしただけなのに、男は廊下のどこにも見えなくなっていた。
「アンリ、そんなところでどうした? 医者を呼んでくるはずだろ?」
「あ、すみません。忙しいようでしたので、後でもう一度……」
出来る限り冷静に、その場を誤魔化す。覗き見していたことはばれていないらしく、少女は腫れた目を逸らす。
「そうか……」
少女が小さく生返事を返して歩き去ろうとすると、背中を向けたまま相変わらずの口調で言った。
「ちょっと響に呼び出されてるから、宗ちゃんのことをよろしく頼む。帰ろうとするなら、全力で取り押さえても構わん」
「分かりました。相棒の名にかけて、絶対に宗谷さんを逃がしません!」
イェーチェの命令に従い、奮起して病室に戻った。
自分も、少し宗谷に甘えてみようか、などと考えながら。
階段を上り、重い鉄の扉を開く。
薄暗かった踊り場に陽光が差し込み、少しだけ眩しかった。
風にはためく純白のシーツの向こうに、奴はいた。タバコの紫煙を吐き出し、下界を見下ろす奇術師。
「来たか。そんなところに突っ立ってないで、こっちにこいや。狐の方には話したが、あっさりとフラれたよ」
屋上にたどり着いたイェーチェに、奇術師が軽い口調で言う。
これからされる、危機への示唆など全く感じさせない。
『波紋の奇術師』とまで呼ばれた男が、果たして何を掴んだのか。『ネズミ喰らい“マウスイーター”』なる少女は、是非ともそれを聞きたい。
「こいつ見てみろ」
と、響が新聞紙の一束を放り投げてくる。
受け取ったイェーチェは、他愛のない見出しに一通り目を通してみる。そして、そこにあった不可解な見出しに顔を顰めた。
『中央都市デパート、セントラル・バベルのガス爆発事故! 原因は未だに不明』と、新聞の半紙を飾る見出し。
新聞紙を握るイェーチェの手が、無意識のうちに細かく震える。
『幸い死者は出ておらず、飛散したガラスの破片などで軽傷を負った客、一時的な客の暴徒化などで納まり、バイロン氏が見舞金を送るということで和解案が通る』
軽く内容を読んだだけでも、そこには爆弾事件のことは全く書かれていない。アレキサンドロの存在さえ、その新聞からは消え去っていた。
「どれもこれも、同じようなことしか書いていない。その上、警視庁のお偉い方から、これに関った重要参考人に緘口令が出されている」
冗談じゃない。もし響の言うことが確かなら、以前の事件と同様に全てを抹消したということになる。
以前の海底ホテルでの件は、それなりに大事なのでまだ納得がいくが、二度目にもなるテロ事件を抹消するなんて警視庁は何を考えているのだ。
「これ、偶然なのかねぇ〜。なんか、上様はこのことを皆に知られたくみたいなんだわ」
「警視庁が、事件自体を隠蔽しようとしている? まさか、アレキサンドロをけし掛けた奴らとなんか関係があるのか?」
響の含んだ物言いに、イェーチェが食いつく。
そう言えば、アンリの話によると、謎の軍隊が二つの事件に介入しているとのこと。
ならば、この二つの事件は別々の意志によるものではなく、同一の何者かもしくは組織のようなものが何らかの意図を持って起こしていることになる。
「しかも、警視庁の上層部にまで根を張ってな」
イェーチェの予想を読み取ったのか、響が言葉を付け加える。
「狐は? あいつは、そいつらから依頼を受けたんだろ? なら、顔か何かを見てるんじゃないのか?」
「どうも、即金で一億をドンと振り込まれたらしい。殺す相手が、デパートの清掃員として働いてるという情報付で、な。遥々、ロシアの極寒の地からやってきたんだとよ」
ロシア云々などはどうでも良いが、そうなると狐も何らかの意図によって誘い込まれたということになる。狐がイタチの巣に鼻を突っ込んだところで、そこにいたのはイタチなどではなく猛毒を持つ毒蛇だったのだから。
狐本人は、自分を恨む何者かの復讐だと思っているらしいが、敵は復讐とは異なる意図で彼女を罠にかけた。
イェーチェがこの事件に巻き込まれたのも、アレキサンドロの気まぐれによるものなのか。
「ふむ。こっちから出向いてやっても良いんだが、名刺も出さない奴にワザワザ会ってやるほど義理堅くないんだよな、俺は。まあ、今は俺の気のせいぐらいに思って忘れておけ。無暗に動いて、俺達にまで毒蛇を差し向けられちゃ困るから、ね」
やはり、響は割と日和見のようだ。
しかし、それなりにことを起こしてこれば阻止するつもりでいる。今は、こっちから出向くよりも相手が顔を出すのを待つのが得策だろう。
「分かった。この件は、宗谷にも伝えたほうが良いか?」
「あいつ、生きてたのか。悪運だけは良い奴だなぁ〜」
冷たい言い様ではあるが、安堵した表情が喜びを物語っていた。
しばらくは安静にしていなくてはいけないだろうし、一、二週間もすれば中央都市にあるこの病院から転院もできるだろう。
「あの男のことは、良いのか? 一度はお前を捨てた奴でも、肉親だったことには代わりないだろうが……」
響が気遣いなんてものをしてくるのが少し可笑しくて、イェーチェは苦笑を浮かべながら答える。これを隠すために踵を返し、太陽を眺めるフリをしながら答える。
「大丈夫だ、もう吹っ切れたよ。私は、昔のことをいつまでも恨んでいるほど心の狭い女じゃないし、不幸に酔い続けたあいつが自分の手で引導を渡したんだから……」
太陽が眩しい。
そろそろ、初夏がこの街にもやってくる。
「で、狐はもうどこかに帰ったのか? また変な依頼を受けて、どこかでナイフを振るうつもりなのかね」
振り向いて、響に聞く。
響は二本目のタバコを咥えて、また下界を眺めていた。下には駐車場があるだけなのだが、何が見えるのか、イェーチェも手すりに寄ってみる。
そして、そこに見えたものに大慌ててで屋上から下へ降りて行く。
階段の手すりを飛び越えたところで看護婦を驚かせ、危うく点滴を押すお婆さんにぶつかりそうになりながら、病院を出た。
病院の駐車場には、立ち去る狐の背中と、顔を真っ赤にしながら立ち呆ける少女がいた。
何を話していたのかは知らないが、狐が林檎としばらく話した後に体を寄り添わせ、ボソボソと耳打ちしている姿を屋上から見たのだ。
「おい、あいつに何を言われたッ? ま、まさか……」
「先生、私、目覚めちゃいそうです……」
イェーチェの問いに、林檎が体をふらつかせながら答える。
やはり、か。
「あいつぅ〜、林檎にまで手を出すつもりか……」
イェーチェがギリギリと歯を噛み合わす。
経緯としては、林檎が不動産会社の社長とコンサルティングの娘だと知り、どこかに寝泊りできるような安い物件はないかを聞いていたらしい。林檎は探してみるつもりらしく、見つかった暁には遊びに来ないか、と誘われたようだ。
その立ち去り際に耳打ちした台詞が、
「お礼はベッドの上でも良いかしら? 日本のリンゴは、美味しいって聞いたから食べてみたいわ」
である。
高屋と誠司は何をしている。
大切な友人が悪い――タバコやお酒よりはマシだが――道に進もうとしているのに、止めずに帰ってしまったのか。
周りを見渡すと、車の陰に二つの人影を見つける。
「俺、二度とあの女には近づかない」
「僕もお断りですよ」
駐車場の隅で体を寄せ合い、恐怖に震える二人。
いったい何があったのか、二人はイェーチェの尋問に口を割らなかった。それでも、気丈な高屋と冷静沈着な誠司が恐れるのだから、それなりの脅しをかけられたのだろう。
「それにしても、大変な一日だったよな……」
「一日で、凄い冒険をしたけどね」
駅までの帰り道のこと、高屋と林檎が口々に言う。
誠司がどこかで手に入れた新聞を眺め、小さく鼻を鳴らしている。
「爆弾テロのことは、どこの新聞でも書かれていませんね」
やはり、真っ先に三人の中で誠司が最初に気付く。
高屋と林檎は新聞を読まないのか、誠司の言葉に怪訝そうな顔をする。イェーチェも、不安を隠せぬまま横目で三人を見る。
イェーチェの横顔に気付いた誠司が、しばし上目遣いに夕暮れの空を見上げてから言う。
「きっと、皆の不安を煽らないようにしたんでしょうね。イェーチェ先生は、僕達にちゃんと言い含めるよう、刑事さん達に言われてませんか?」
「あ、あぁ、狐のことで忘れてたよ。そうそう、このことは胸に仕舞っておいてくれよ。下手に騒ぎを起こしたら、警察の迷惑にもなるからなッ」
誠司の気遣いに、慌ててイェーチェが取り繕う。
「分かってるよ。こんな話、どこの誰が信じるかってぇ〜の」
「そうだよね。でも、私は少し楽しかったよ。あの爆弾魔の人は、悪い人でも可愛そうだけど……」
高屋と林檎が承諾する。
初夏を知らせる風が、誠司の手から新聞紙を取り上げてゆく。
新聞紙を目で追うイェーチェが、夕暮れの街を歩く狐が、屋上で紫煙を吐き出す響が、
『どうやら、この国にとんでもないバグ――敵――塵芥“ごみ”――が混ざり込んだらしい』
思い思いに呟いた。
――とあるフリーの記者の取材メモ――
四月三日 18:53時 中央空港付近の大型娯楽施設『セントラル・バベル』にて、大規模なガス爆発が発生。どうやら冷却装置に使われるガスが引火したらしく、温室化を避けるためにデパート内へ流す冷水のパイプが破損。デパート内は大惨事に見舞われ、流れ出た冷水でガラスなどが四散して軽傷者が数百名に及ぶ。また、暴徒化した客が他の客を殴るなどし、数人の重傷者が出たとのこと。しかし、不幸中の幸いわいにも死者は一人も出ていない。
警察はこれを事故として処理し、デパートの建設者であるエドモント=バイロン氏は負傷者に見舞金を送ることで事故については和解したらしい。しかし、事故の数時間前におかしな出し物があったり、誰かが屋上から飛び降りた、などという噂も飛び交っていることから、ただの事故ではない可能性も見えてくる。
そして、私は重大な話をデパートの清掃員から聞き出せた――(メモはここで終わっている)。
終章・未来へ歩み続けるということ
ロサンゼルス某墓所。
そこに、彼女の姿はあった。
ウナジで二つに分けて纏めたブロンドヘアーを揺らし、碧眼を閉じて墓石の前で祈る少女。
墓石には『リーテシア=バイロン、アレキサンドロ=フレミィー、ここに眠る』と刻まれていた。
墓石に向かって黙祷を捧げる少女は、二人の間に生まれた本当の娘。幼い頃に捨てられたが、決して愛されていなかったわけではない。一言では語れぬ不幸があり、少女は十八年間もの間、両親の顔を知らずに育った。
けれど、今ではそんなことさえ感謝したくなるぐらい、多くの仲間を手に入れたのだ。
「生きている時に、こう呼びたかった。ありがとう、お父さん、お母さん」
黙祷を捧げ終えた少女が、目を開いて感謝の言葉を紡ぐ。
例えその言葉が聞こえていなくても、少女はそれだけで十分だった。神に祈ることはせずとも、死者に弔うことはする。
それが、生きて未来を歩むということなのだから。
少女が立ち上がったところで、背後に誰かが立つ。
振り向かずとも、誰であるかはわかる。
「お祈りは済んだかね、リーチェ」
ここで会う約束をしていた彼が、少女の名前を呼ぶ。
厳格な顔立ちに口髭を蓄えさせた男の名は、エドモント=バイロン。少女の母であるリーテシアの父親にして、少女の祖父に当るはずの人物。
そして、エドモントが手に持っている小さな壺には、少女のもう一人の祖父に当る人物の遺骨が入っていた。祖父というよりも養父である男の遺骨だが、少女の家族であったことに代わりはない。
どこかの誰かが、ワザワザ養父の遺体をエドモントに届けたのである。『弔ってやってください』と簡潔な文章を添えて。
「リーチェの手で、これを収めてやってくれ。私には縁“えん”も縁“えにし”もない人物だが、孫を育ててくれた方に感謝したい。リーチェを拾ってくれた孤児院にも、僅かだが寄付金を送っておいたよ。それと、院の皆がリーチェに会いたいと言っていた、と伝言を頼まれている」
少女がエドモントの話を聞き流しながら、骨壷を受け取って墓石の下のスペースに収める。
これで彼らは、天国にいけるだろうか。
そう考えて、少女は自嘲の笑みを漏らす。
今まで神などというものを信じなかった自分が、天国や地獄を信じるのが可笑しかった。そんな都合の良い自分が馬鹿馬鹿しくて、考えるのを止める。
この世に天国も地獄もないのなら、それで十分だ。死ねばその先に未来はなく、生きているからこそ先の未来に進める。だから、両親も養父もこの墓石の下で安らかな眠りに就いているであろう。
「暑いな……」
少女がおもむろに空を仰ぎ、眩しい陽光に手をかざす。
ロサンゼルスも既に初夏が訪れて、眩い煌きを大地に降り注がせていた。
「車の中で話そう」
墓所の外に停められたリムジンに、エドモントが少女を促す。
確か、エドモントは爆弾テロの件で日本への企業進出に失敗して、ロサンゼルスで隠遁生活を営んでいる。まあ、元々は衆議院議員から天下りして企業家になった身、大人しく老後の余生を楽しむことをお勧めしたい。
「ところで、一つ聞きたいことがあるんだ」
リムジンに乗り込んで直ぐ、少女は自分の祖父であるにも関らず、エドモントに無礼な口調と問う。
エドモントは気にした様子もなく、スコッチにバーボンを注ぎ、オレンジジュースを入れたグラスを少女の前に差し出す。
「日本の警察にも訊かれただろうが、本当にあんたを恨んでいる人間に心当たりはないのか?」
「別にないわけではない。しかし、私を恨んでいる人間など五万といるよ。エドモントもそうだった。だろ? 今更、なぜそんなことを聞くのかね」
怪訝な顔をしてエドモントが問い返してくる。
確かに、政治家時代からその狡猾さで多くの人々を不幸にしてきたエドモントだ。恨みを持っている者などアメリカ中に溢れるほどいるだろう。
しかし、だ。アレキサンドロも恨みを持つ者の一人だが、何者かにけしかけられた節が見られる。『新月の狐』に殺しの依頼までした上で、『セントラル・バベル』を破壊することだけを目的としていた。
「デパートごとあんたを殺そうとした可能性は否めないが、悪魔でもそいつらはデパートを破壊することが目的だった。そして、自分達のことを知っているアレキサンドロまで殺して口封じしようとしたんだ。あんたを殺せば早いものを、なぜそんな回りくどいやり方をする?」
「私を殺したいのではなく、悪魔で私に日本への企業進出をして欲しくない、ということか」
年老いても狡猾な鷹は健在か、なかなか鋭い。
バーボンをダブルで呷り、高級そうな葉巻を吹かす。老いてもその瞳に輝きを失ってはいない。
下手をすれば、自分達がアレキサンドロを捕まえようとしなくても、この男なら一軍隊を呼んで制圧できるのではなかろうか。
「あまり買いかぶらないでくれ。私兵の一小隊や一中隊は持っているが、SP程度の護衛にしかならんよ」
少女の考えを読んだのか、エドモントが苦笑を浮かべて言う。
「まあ、『新月の狐』が相手では、私の私兵など犬ッコロも同じだろうが」
「猟犬よりも狡猾な狐、ね。まるでシートン動物気に出てくる傷“スカー”みたいだな。いや、アレは狼だったか」
どうでも良い話だった。けれど、こうしてつまらない話をするもの悪くはない。
フッとリムジンの車窓を覗き、仕方なさそうに少女が立ち上がる。
「折角こちらに招待していただいたが、そろそろ帰らなければいけないみたいだ」
「何だね、孫に再会できたというのにもう帰ってしまうのか。殺しを依頼した私が言える義理ではないが、もう少し再会を噛み締めたいものなのだが……」
自分も、一日ぐらいは話し明かしたい。十八年間の積もる話を、祖父に色々と聞かせてやりたかった。
しかし、新たなる客人が少女に囁くのだ。
「残念ながら、言われてしまったよ。これ以上詮索するな、とね」
リムジンから降車した少女が、ボディーに突き刺さった一本の矢を引き抜く。一枚のタロットカードが添付された、アナログなメールである。月の絵が描かれたタロットカードで、偶然か意図的にか、ちゃんと正位置で突き刺さっていた。
どうやら、敵の忠告らしい。
「後数センチずれていたら、ガソリンのタンクを貫かれてたぞ。ずっと、私達のことを監視していたのかねぇ〜」
墓所を見渡しても、そこに人の姿は見当たらない。怪しい車両が逃げ出す様子もなく、生暖かい風だけが青葉を揺らす。
忠告された以上は、長居は無用だろう。
「さようなら、リーチェ。また、会えるだろうか?」
歩き去ろうとする少女に、エドモントが声をかけてくる。
「あぁ、機会があればまた来るよ。その時は、酒でも飲んで語り明かそうじゃないか」
少女は踵を返し、杯を呷る真似をしながら笑って答える。
そして、前を向いたと思えばまた振り返る。
「言い忘れていたが、私は『Ryateche“リーチェ”』じゃなくて『Yateche“イェーチェ”』だよ。バス停で拾われた時に、一文字掠れていた所為でリーチェがイェーチェになってしまったが、今の私はイェーチェだ。それ以上でもそれ以下でもない」
少女――イェーチェはそれだけを言い残して、初夏の風が吹きぬけるロサンゼルスの街を後にした。
後の余談ではあるが、胸に弾丸を受けた宗谷が一月ほどで自宅療養に移る。
今回の事件については、犯人の欲求として仕方のないことだったので、首を突っ込んだことは不問とされた。しかし、持ち場を放棄して勝手に出かけたことは、一週間の減俸を言い渡される。臨時警官であるアンリも同様だったが、再び彼らに平和な日々が戻ってきたのは確かである。
月日は流れ、夏が訪れる。
宗谷は六月にもなる頃には完治し、また鉄火場へと足を踏み入れて減俸やら謹慎を幾度となく受ける。
アンリは宗谷が無茶をしないように見張り、日々を心労と楽しみで疲弊する。
イェーチェは相変わらず塾の講師を続け、三人の生徒兼友人と笑いながら夏休みを迎えた。
響は警視庁の熊谷と情報を交し合いながらも、とある事件を追って隣県を渡り歩く。
狐の行方はどこか。
それは、宗谷が自宅療養に戻った頃に分かった。
自宅療養を許された宗谷が懐かしのボロアパートに戻ると、彼が借りている部屋の隣の隣――要するにイェーチェの隣の部屋から、女性が白い肌と黒い髪を覗かせる
「何で、この女がアパートにいるんだ?」
宗谷は、女性が風呂上りにバスタオルを頭に被っただけのほぼ全裸で出てきたことさえ気にせず、目を丸くして問う。
「しばらく前に、事件が終わって一週間したぐらいに引っ越してきたんです。最初は、イェーチェさんと追いかけっこを愉しんでましたけど、今ではずいぶんと落ち着いたんですよ。大家さんがいなかったら、今頃このアパートが殺人事件の現場になっていたところです……」
唖然とする宗谷に、どうでもいいことまで説明するアンリ。
どうやら、林檎という少女が見つけたのがこのアパートらしく。寝泊りが出来る範囲で格安の物件がここだけだったとか。
「貴方達がいると知ってれば、断ったんだけどね……。真っ赤で可愛いリンゴちゃんの見つけてくれた家だから、仕方なく住まわせて貰ってるわ。とりあえず、よろしく」
ちゃんとした名前など知らぬ殺し屋の女性が、つけんどんな挨拶をして顔を部屋に引っ込める。大家の婆さんも、この女の素性を知ってか知らずか、部屋を貸すのもおかしいのではないだろうか。
「家賃さえちゃんと払えば、犯罪者にでも貸してやる。って豪語してましたよ……」
「何を考えてるんだ、あの婆さんは……」
アンリと宗谷が呆れて呟く。既に、波乱万丈な療養生活が始まりそうだ。
こうして、季節は移り変わってゆく。
秋が訪れるまで、彼らは平和な一時を過ごしたのだった。それまでにあった小さな事件は、また後々話すことにしよう。
――Last Partner/Stampede the Towar of Babel/―― 完
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2008/08/29(Fri)10:29:02 公開 / 暴走翻訳機
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■作者からのメッセージ
前作ラスト パートナーの続編です。
前作を読んでいないと話の繋がりが分からないとは思いますが、登場人物等の設定はある程度事細かに描いていくつもりです。
まだ長い付き合いになるとは思いますが、どうかよろしくお願いします。
訂正
前作『ラスト パートナー』で、『新月の狐』が『漆黒の狐』と表記されていた間違いをここで訂正させていただきます。大変申し訳ありませんでした。
何故かパスワードを受け付けず、前作の訂正が出来ないためここに書かせていただきます。それでは、続きをお楽しみください。