- 『ヒカの見た空、あの日の空 3』 作者:甘木 / リアル・現代 未分類
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全角20692文字
容量41384 bytes
原稿用紙約64枚
しに神ヒカと蒼馬神の使い太郎冠者は今日も今日とて厭魂(えんこん)を求めて走り回っていた。そんな時、斎木美南瀬という女性と出会った。美南瀬は普通の人間には見えないはずの太郎冠者を見ることができる不思議な人間だった……。
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【1】
「まってください…………はあ、はあ…………まってくださいです」
高い塀に囲まれた家が続く昼間の閑静な宅街を、ライトブルーのワンピースを着たミドルティーンの少女と色とりどりの派手な水玉模様の道化服を着た五十センチほどの人形が疾走している──もし誰かがこの光景を見たら、白昼夢か自分の頭がおかしくなったと思うかもしれない。が、幸いと言うべきだろう人影はなかった。
「ま…………まってください…………です」
ワンピースの少女・ヒカが走るたびに光沢感のあるリボンが大きく揺れ、キラキラとした輝きを四方にまき散らす。
「ヒカ、右だ! 右に回りこめ!」
塀の上から飛び降りた道化服の人形──太郎冠者──が木製の身体とは思えない滑らかな動きでヒカの後を追う。
「まってください…………はあ、はあ…………ネコさん、まってくださいです…………はあ、はあ」
ヒカの一メートル前を黒い仔猫が鉄砲玉のように凄いスピードで駆けていく。
「ネ、ネコさん、とまってください…………はあ、はあ…………ネコさん、しっぽきらせてくださいです」
「尻尾じゃねえ。尻尾についている厭魂(えんこん)だろう!」
「はあ、はあ…………そ、そうです」
仔猫は自分の身体よりも大きな厭魂を尻尾の先にくっつけていた。バスケットボール程に大きくなった厭魂が尻尾の先に付いているのに、まるで重さがないかのように気にしている様子はない。たとえ仔猫に厭魂が見えたとしても逃げるのに必死で気にする余裕はなかったろう。だって、後ろからはニッパーを持った人間と小さな人間(本当は人形だが)が追いかけているのだ。逃げることだけで精いっぱいのはず。
「もうすこしです…………とどきそうです…………えいっ!」
前屈みになったヒカがニッパーを突きだす。
と、仔猫はニッパー攻撃(?)を身をよじってかわし、ヒカの頭を踏み台にして飛び上がり、駐車中のトラックめがけて一直線に駆けていく。
「いたい…………です」
ヒカが頭を押さえて目を潤ませる。それでも自分の使命は忘れていないようで、ヒカは猫を追いかけようとニッパーをにぎりなおす。
「ヒカ、ちょっと待て」
太郎冠者はヒカにストップをかけ、腕を組んでブツブツと小声でつぶやく。
……ヒカはとろいからこのままじゃどうやったって猫にゃ追いつけない。こんなことにダラダラと時間を使えるほどヒマじゃないんだ。しょうがない、やりたくはないがこうなりゃ奥の手だ。
「ヒカ、俺様を猫に向かって思いっきり投げつけろ」
「なげるですか? ネコさんを?」
「猫じゃねぇ。俺様を猫に向かって投げるんだ」
言葉の意味が理解できないのか、ヒカは何度もトラックの下に隠れ様子をうかがっている仔猫に目をやる。
「いいかよく聞け。おまえが俺様を猫に向かって投げるんだ。投げられた俺様が猫にしがみついて押さえるから、その間におまえは厭魂を切るんだ」
「はい…………です」
返事はしたもののヒカは小首をかしげている。
「本当に分かったんだろうな?」
「なげるです」
ヒカは両手で握り拳をつくって、うん、とばかりに大きくうなずいた。
だいじょうぶなのかよ……心許ないな。ま、ここでグダグダ言ってていても埒が明かないしヤルしかねぇな。なんとも言えない不安感をぬぐいきれないまま、太郎冠者はヒカに言い含めるようにゆっくりと言う。
「いいかヒカ、猫がトラックの下からでてきたら俺様を思いっきり投げろよ」
「はいです」
うなずいたヒカは太郎冠者を握りしめ、トラックを見つめ続ける。仔猫もトラックの下から動こうとはしない。
「ネコさん、でてこないです」
「見たところあの猫は毛並みが良い。たぶん飼い猫だ。なら、いずれ家に帰るためトラックの下から出てくるはずだ。しばらく辛抱しろ」
「はいです」
…………。
「でてこないですね」
「そろそろ出てくるはずだ……たぶん」
………………。
春の終わりの陽を浴びながらトラックを見つめる──同時にトラックの下から発せられる刺すような視線を感じながら。緊張感ばかりが高まり動くに動けない。いうならば真昼の住宅街で千日手。
この膠着状態を打ち破ったのは一羽のカラスだった。
くぁわぁ!
間抜けな鳴き声とともにカラスがヒカのリボンめがけて、いや、キラキラ光る素材に惹かれて急降下してきたのだ。
「ひゃぁあ!」
ヒカの叫び声と同時にトラックの下から仔猫が飛び出した。
「カラスと遊んでる場合じゃねぇ。早く追うんだ!」
「は、はいです」
カラスを恐れてしゃがんでいたヒカが走り出す、
「ネコさん…………まってください」
腕をぐるぐる回して。
「や……やめろ…………目が……目が回る…………」
太郎冠者の悲愴な訴えも仔猫の追跡に集中しているヒカの耳には届かない。
トラックの下で休憩できたのか仔猫はさっきよりも足が速い。跳ねるような足取りで家と家の間にある路地に飛びこむ。
ヒカも角を曲がり、
「ネコさん…………ひゃっぐ!」
柔らかいものに激突。ぶつかった拍子にひっくり返り、と、同時に太郎冠者を握る手が離れる。
「わわわーーーっ!」
ヒカの手から飛び出した太郎冠者は仔猫に向かって一直線に──などという都合のいいことはなく、勢いよく全然見当違いの方向の電柱に向かって一直線。
「いでっ!」
太郎冠者の声とともに「ぺきっ」と妙に軽い音が響く。
「ビックリしたぁ。突然ぶつかってくるんだもん。おっぱい打っちゃったぁ」
「おはな…………いたいです」
「キミ、大丈夫? ケガしてない?」
道の真ん中で大の字になり鼻の頭を押さえるヒカに、白い腕と朗らかな声とが降ってきた。
「だいひょうふ…………でふ」
「ほら、つかまりな」
「はひ…………でふ」
ヒカは差し出された手につかまり、左手で鼻を押さえたまま立ち上がる。
「急に飛び出してきちゃ危ないだろう。私だったからよかったけど、車だったらケガじゃすまないよ」
「ごめんなさいです」
「ううん。気にしなくていい。私は目が見えないから、気付くのが遅れたのも悪かったんだ」
深々と頭を下げるヒカを白い手が優しくなでる。
手の重みが離れ、顔を上げたヒカの目の前には背の高い女性の姿があった。
はき古し色褪せたストレートジーンズに濃紺のキャミソール。さらに白い男物のシャツを羽織っていた。そのシャツは大きな曲線を描いている──痩せすぎと言うほどではないが細身の体つきなのに胸が見事なまでに大きい。その胸に似合わずシャープさを伴った整った中性的な顔立ちで、それに合わすかのように髪もショートにしている。背筋をぴんと伸ばし凛とした空気をまとわらせている。
そしてなによりも目を惹くのは、彼女のかけている真っ黒いサングラスと右手に持った白い杖。
「ま、お互いケガなくって良かった」
そう言いながら、サングラスの女性はヒカに顔を向けて、
「ん? キミって変わった色をしてるね。初めて観る色だ……」
つぶやき、まるでヒカを見極めようとするかのように顔を寄せる。
無遠慮に見つめられるのが恥ずかしいのか、ヒカは半歩後ろに下がってうつむく。
「本当に珍しい色だなぁ」
ヒカはどうしていいのか分からず、ついてもいないホコリを落とすためワンピースをパタパタとはたく。
「おーい、ヒカ。遊んでないで俺様を助けろ」
太郎冠者の存在を忘れていたのか「あっ」と小さく声を漏らし、キョロキョロと辺りを見回しだす。
「どこを見てやがる。こっちだ!」
声に導かれ顔を向けた先、サングラスの女性の三メートルほど向こうに太郎冠者がいた。
「あし…………ないですよ」
「うるせぇ! おまえが見当違いの方向に投げたせいだぞ!」
腹の下からなくなった上半身だけの太郎冠者が、まるで匍匐前進をするように腕だけでずりぃずりぃと進んでいた。
「…………きもちわるいです」
「黙れ! 思いっきり電柱にぶつけやがって。身体が折れちまったじゃねか。おまけに下半身はどこかに吹っ飛んでいって見あたらないし……この身体、気に入ってたのによ」
「それは、ざんねんです」
「お・ま・え・が・言うな!」
にじり寄ってきた太郎冠者がヒカの足元から怒鳴る。
「は、はいです…………ごめんなさいです」
太郎冠者はすくみ上がって頭を下げるヒカの靴に寄りかかる。
「ちっ! どこかで新しい身体を手に入れないとはなしになんねぇな」
「たいへんですねぇ」
「だから、おまえが言うな!」
「はいです」
「あはははは。漫才みたい」
太郎冠者とヒカの掛け合いは笑い声に中断された。
「ねえ、あんたたちが人間じゃないことは観れば分かるけどさ、あんたたち何?」
「おまえ、俺様の姿が見えるのか?」
驚きと言うよりも得体の知れないものを感じて太郎冠者の声が低くなる。
「ん? 観えるよ」
「ヒカはともかく、この俺様が普通の人間に見えるわけがねぇ……」
「ふーん。あんたヒカちゃんって言うんだ」
サングラスの女性は太郎冠者の問いに答えずヒカに顔を向けた。
「はじめましてです…………わたし…………ヒカです」
ヒカは両手を揃えてぺこりと頭を下げる。
「初めまして、私は斎木美南瀬(さいき・みなせ)、二十一歳、独身です」
美南瀬はヒカのまねをして両手を揃えてぺこり頭を下げる。
「あっ、はいです」
つられてヒカがまた頭を下げる。
「これはこれは御丁寧に」
美南瀬も頭を下げる。
「わ、わ、わ、わ。こ…………こんにちわです」
あわててヒカがお辞儀を返す。
「重ね重ねの御挨拶恐れ入ります。改めまして……」
「ねぇちゃん、あんたヒカで遊んでるだろう」
お辞儀しようとする美南瀬を太郎冠者の言葉が遮る。
「あっ、わかった?」
美南瀬は悪びれる風もなく笑みを浮かべて舌を出す。
「たいしたタマだな、あんた」
「うん。よく言われる」
「おい、おい。いまのは褒め言葉じゃないぜ」
「分かってるよ。でも、オモチャを見つけたら遊びたくなるのが人情じゃん」
はぁーっ。太郎冠者は溜息をついてヤレヤレとばかり首を振る。思爾神(しにがみ)をオモチャにするヤツなんて初めて見たぜ。なによりも俺様を見ても──動いてしゃべる人形を見たらびびるだろうふつう──動じる様子もない。なんだよこの女?
「あんた何者だ?」
太郎冠者は睨みつけるような目で美南瀬を見上げる。表情には怖れもなければ気味悪がる様相もない。ただ、ニコニコとしているだけだ。
「私は人間だよ。単なる全盲の美女さ。で、あんたは何さん?」
「俺様は太郎冠者だ……ん? あんた全盲って言ったよな。全盲でどうして俺たちが見えるんだ?」
「んーどうしよう。説明するには時間がかかるんだよね」
美南瀬は白い杖をブラブラさせながら口をへの字にする。
太郎冠者と美南瀬の会話に入れずにいたヒカは、美南瀬の白い杖の動きにつられキョロキョロと首を左右に動かしている。
ブラブラ。キョロキョロ。ブラブラ。キョロキョロ。ブラブラ。キョロキョロ。
「めが…………まわるです」
情けない声と共にヒカがへたりこんだ。
「おい、ヒカ!」
「ヒカちゃん大丈夫?」
「ぐるぐる…………するです」
ヒカは頭をフラフラせさて弱々しい声で答える。
「ヒカちゃんの具合が悪そうだし、ここで会ったのもなにかの縁だし、あんたたち私のアパートに来る?」
「おい、俺達が人間じゃないことは分かっているんだろう。それでもいいのかよ」
「いいんじゃない。私もヒマしてたし、あんたたちは悪そうな色をしてないし、なによりあんたたちといると楽しそうだからね」
美南瀬は楽しげに口元を緩ませている。社交辞令ではなく本心で言っているようだ。
「変な女だな、あんた」
太郎冠者は呆れた声でつぶやく。
「あはははは。よく言われるよ。さ、アパートは近くだから私についてきて」
ヒカを立ち上がらせた美南瀬は、左手でヒカの手を握り、右手に持った白い杖を突きながら背筋を伸ばしてスタスタと歩きだす。
「ちょ、ちょっと待てよ。俺様を置いていくんじゃねぇ」
上半身だけになった太郎冠者はあわてて匍匐前進を始める。
「おまえら足早すぎるって……俺様は足がないんだぞ……待てって!」
二人の女性の後をずぅりずぅりと追いかける足のない人形。もしこの光景を見た者がいたら、新たな都市伝説が生まれることだろう。
【2】
そういや、女の部屋に入ったのは初めてだな……テーブルの上に置かれた携帯電話にもたれて太郎冠者はぐるっと居間を見回す。
十畳ほどの部屋の真ん中に置かれたソファーと背の低いテーブル。部屋の隅にはもう使わないだろうに出しっぱなしになっている温風ヒーターと、活躍までにはあと一ヶ月は待たなきゃならない扇風機。壁際にはミニコンポが置かれ、FMラジオから軽快な音楽が流れている。あとは何もない。装飾品と呼べるものがまったくないのだ。
ずいぶん殺風景な部屋だ。女の部屋っていうのはもっと華やかなもんじゃねぇのか? 初めてだから比較のしようがないが、人間というものが身の丈以上の物質を溜めこむことを至上の歓びとすることを考えれば、やはりこの部屋は閑散としていると言っていいだろう。
ま、ヒカは思爾神のくせにガラクタをやたらと溜めこんでいるけどな。ヒカときたら行く先々で目についた綺麗な石だの空瓶だの捨てられた本だのを拾ってはバッグに詰めこみやがるから俺様の寝場所が狭くなってしかたがない。そろそろ、ガラクタを整理させないとダメだな……って、いまはヒカのことはどうでもいいんだ。太郎冠者はヒカの横に置かれたバッグを一瞥して視線を台所にやる。
「なんだか、がらんとした部屋だな」
「そう? こんなもんじゃない。ベッドや洋服タンスは隣の部屋だし、私の趣味の物は『乙女の秘密の花園。ここを覗く者に永遠の呪いあれの部屋』に押しこんであるからね」
居間の脇に据え付けられた台所から美南瀬の声が返ってくる。
「なんだその物騒な名前の部屋は?」
「名前の通り。私の趣味のものが置いてあるから覗いた者は誰あろうと私の呪いを受ける、私以外禁制の乙女の秘密の小部屋」
「ワケわかんねぇ。あんたが乙女かどうかのコメントは控えるが、凄いネーミングだな」
というか、他人に見せられない趣味ってどんな趣味だよ……どうも正体が掴めない女だ。魔女がいるとは思わないが、この女なら笑いながら呪いの一つや二つかけても不思議じゃねぇ。太郎冠者は美南瀬が普通の人間とは何か違うものを持っていることを感じていた。
「触らぬ神に祟りなしと言うけど試してみる? 断っておくけど私の呪いはハンパじゃないよ。トンカチで叩いて、包丁で切り刻んで、フライパンで炒めちゃうからね。それでもいいなら覗いていいよ。あはははは」
カチャカチャと食器を鳴らす音と共に笑い声が響く。
「そりゃ呪いじゃなくって肉料理だろう。触らぬ神ねぇ……ここに本物の蒼馬神の使いと思爾神がいるんだけどよ」
太郎冠者はひとりごちて、もう一度首を巡らす。女の部屋に入ったことはないが、男の部屋には何度か入っている。その記憶からこの部屋には何かが欠けているという感じがしてしょうがない。
そうか! いままで見てきた人間の部屋には必ずテレビや本や雑誌があったんだ。
「この部屋にはテレビも本も無いんだな」
「そりゃ無いよ。私は目が見えないんだから本も雑誌も読めないもん。まあ、点字で書かれた本は読めるけど、あんまり読まないからね。テレビは目の不自由な人向けの音声放送をやっているけど、やっぱつまんないから必要ないんだ。ところでさぁ、飲み物淹れたけどレモンとミルクどっちがいい?」
「レモンと言いたいところだが、腹から下がねぇからな。俺様はいらねぇよ」
ちっ! 舌打ちのような音が聞こえ、美南瀬がお盆を持って台所から出てきた。
「ヒカちゃん大丈夫? ココアつくったけど飲める?」
甘い匂いに惹かれたか、グッタリとソファーに沈んでいたヒカが身体を起こす。
「あまい…………すきです。ココアだいすきです」
「そう。よかった。熱いから気をつけてね」
ヒカにココアが入ったカップを渡すと、美南瀬はクッキーを盛った皿と薄手のカップを太郎冠者の前に置く。
「せっかく淹れたから香りだけでもどうぞ」
「すまねぇな……って、どうしてコーヒーにレモンが浮かんでるんだ!」
「だってレモンって言ったじゃない。それに私、紅茶を淹れたとはひとことも言ってないよ」
美南瀬はニコニコしながら自分用の昆布茶入り湯のみを握っている。
これは冗談なのか? それとも嫌がらせか? 楽しそうな表情の美南瀬を見上げて太郎冠者は溜息を漏らした。
「レモンかミルクって聞かれたら普通は紅茶を想像するだろう」
「それは思考が硬直している証拠。もっと柔軟な発想力を持たなきゃ。それにさ、レモン入りコーヒーも案外美味しいかも。ちょっと飲んでみない?」
「冗談じゃねぇ。どう考えてもあわないだろう!」
太郎冠者はカップから立ちのぼるコーヒーの匂いとレモンの匂いが混ざり合った、得も言われぬ苦酸っぱい匂いに顔をしかめる。
人間ってヤツはどん欲な生き物だから海のものだろうが山のものだろうが、食材にしてさまざまに組み合わせて色々な味を作ってきたし、それが美味いことも認めるさ。だけどよ、コーヒーというものが飲まれるようになって何百年もの歴史があるんだろう。その中でコーヒーにレモンを入れるというレシピが生き残ってこなかったんだから純粋にマズイって証明じゃないのかよ……。
「怒りっぽいのはカルシュウムが足りない証拠だね。そうだ、レモンの代わりに煮干しを入れようか」
「だ・か・ら…………台所に行くんじゃねぇ!」
「あはははは。遠慮はいらないよ」
「遠慮じゃない!」
「あはははは」
朗々とした笑い声を残して美南瀬は台所に行く。
美南瀬の笑い声に混ざって小さな声が──無理やり笑い声を押さえこんだようなちょっと苦しげな声が聞こえる。声の方に視線をやると、ヒカがカップを両手で抱えて前屈みになって小刻みに身体を振るわせている。
「ヒカ、おまえも笑うんじゃねぇ!」
「ヒカちゃんも落ち着いたみたいだしさ、あんたたちの正体を話してよ。さっき『しにがみ』って物騒な名前を言っていた気もするけどさ」
ソファーの上であぐらをかいた美南瀬は腕を組む。
「しにがみって聞こえたんなら、あんたの耳は正しい。ここにいるヒカは正真正銘の思爾神(しにがみ)だ。ただし……」
太郎冠者は言葉を切って美南瀬を見上げた。その顔には好奇心が満ちあふれている。
まただ。太郎冠者は予想通りの表情に可笑しさを覚えた。いままでにも蒼馬神の使いである太郎冠者の姿を見ることができた人間はわずかにいた。そしてその人間すべてが思爾神の話しを好奇心いっぱいで聞きやがる。ひょっとして並はずれた好奇心を持った人間だけが見ることができるんだろうか……まあいい。ならば好奇心を満足させてやるさ。
「ただしだ、あんたが思っているだろう死神とは違うぜ。あんたが想像した死神は人間の魂を刈り取る神様だろう。だがヒカは人間の想いを刈り取るんだ」
「想いを? 意味わかんないなぁ」
美南瀬は首をかしげ眉間にしわを寄せる。
「人間は感情に左右される動物だ。色々な感情を日々刻々と垂れ流している。その中でも恨みとか憎しみとかの負の感情が一番タチが悪い。普通の感情なら時間と共に空に昇華して消えちまうんだが、負の感情だけは澱のように地上に留まり他人の負の感情を吸収しながら育っていく。俺達はそれを厭魂(えんこん)と呼んでいる」
「負の感情が溜まって厭魂?」
「信じられないだろうが本当のことだ。この厭魂を刈り取るのがヒカの役目なんだよ」
「大変そうな仕事だね。でもさぁ、そんなのほっとけばいいじゃん」
他人事のように言いやがってよ。これだから人間ってやつは……太郎冠者は美南瀬を見上げ肩をすくめた。
「そうもいかねぇんだよ。厭魂は色んな場所にくっついて負の感情を糧にでかくなる。で、あるサイズまで育つとフラフラと空中を彷徨いだすだ。それが人間に取り憑いた時、人間は破壊衝動に駆られ自分自身や周囲のものを壊す。ほら、通り魔事件とか無差別殺人とかあるだろう。たいていが厭魂に取り憑かれた人間が起こしたもんなんだ」
「怖いね……」
「ああ、怖いぜ。だからそんなことが起こらないように、ヒカたち思爾神が日々厭魂を刈り取っているんだ。今日だって猫にくっついた厭魂を追いかけていたんだぜ。あとちょっとで猫を捕まえられるという時に、あんたにぶっかったんだ。なぁヒカ、そうだよな」
「ふへ?」
クッキーを目一杯に口に入れたヒカが、リスのように頬を膨らませて顔を上げる。
「俺様が説明しているのに、暢気に喰っているんじゃねぇ」
「ふぁい!」
ヒカは全身を使って噛み砕くかのように、頭を小刻みに上下させてクッキーを咀嚼する。
「すまねぇな。ヒカはバカだから甘いものには目がないんだよ」
「ううん、気にしないで。でも、女の子にバカはひどいんじゃない」
「いや。ヒカは本当にバカだぜ。お上品に言えば軽度知的障害ってヤツだ。と言うか、バカじゃないと厭魂を処分できねぇんだよ。厭魂は臍の緒と呼ぶ紐みたいもので物にくっついている。臍の緒で物にくっついている時に思爾神の道具で切り離せば厭魂は消滅させられるんだが、この臍の緒を切った時、厭魂に蓄えられた恨みとか憎しみという感情が切った相手に向かって吹き出す。まともな頭を持ったヤツがその感情に触れたら、負の意識を読みとっておかしくなっちまう。だからバカじゃなきゃできないのさ」
「ふーん、そうなんだ……」
美南瀬は納得し切れていない顔で言葉を濁す。
「でも、ヒカちゃんはえらいよ。だって私たち人間のために、毎日厭魂を刈り取っているんでしょう」
「はいです。にっぱーでえんこんきるです」
バッグの中からニッパーを取りだし、ヒカは誇らしげにそれを掲げる。
「ヒカちゃんカッコイイ! 正義の味方だぁ! パチパチパチパチ」
パチパチと口で言って美南瀬はヒカに向かって手を振る。
ヒカは恥ずかしげな笑みを浮かべ「ほめられたです」と言ってもじもじしている。
どうもヒカとコイツは変に波長が合うようだな。ヒカの扱いに関しては俺様以上じゃないのかよ。と、太郎冠者は素直に感心してしまった。
「凄い。凄い。正義のヒロイン、ヒカちゃん」
「えへへへへ」
「いよぉ日本一! パチパチパチパチ」
「えへへへへ」
ヒカはうつむいて盛んにスカートの裾をもにゅもにゅとさせている。
「いよぉ宇宙……」
「ストップ! おまえら、いい加減にしろ。話しが全然進まねぇじゃねぇか」
太郎冠者がテーブルを叩く。
「女の同士でじゃれあっているだけなのに…………冠者んは硬いなぁ。こんなことで怒るなんて女の子にモテないぞ」
美南瀬はチッチッと指を振る。
「俺様がモテようとモテまいと大きなお世話だ……って、冠者んってなんだよ?」
「だって『太郎冠者』って言い方は硬くて他人行儀じゃん。だから親しみやすさをこめて『冠者ん』としてみました」
ナイスでしょうと言って美南瀬は胸を張った。
「俺様の名前を勝手に変えるんじゃねぇ」
この名前は蒼馬神から直々に頂いた由緒あるものなんだぞ、それを『冠者ん』だと? この名前のどこに親しみやすさがあるんだよ。言い古された言葉だけど、近頃の若い者が考えることは本当にわかんねぇ……。
「かじゃん、かっこいいです」
「でしょ、でしょ。いいでしょう」
「はいです。いいです」
「ヒカちゃんなら分かってくれると思ったんだ」
「はいです。かじゃんです」
「でしょう。この言い方だとそこはかとなく気品を保ちつつフレンドリーさを兼ね備えているでしょう」
「はいです。きひんです」
「なにが気品だよ。頭が痛くなってきた」
太郎冠者は頭を押さえて力無く首を振る。
妙に疲れた表情を浮かべる太郎冠者に反して、ヒカと美南瀬は「ねーっ」などと言い合いながらきゃいきゃいと騒いでいる。
誰かこいつらを何とかしてくれよ…………
ヒカと美南瀬の騒ぎが沈静化してきたのを見計らって太郎冠者が口を開いた。その声には疲労が混ざっている。
「そろそろ本題に入るぞ。もうおちゃらけはなしだ」
太郎冠者は美南瀬、ヒカと順番に睨みつける。
「あんたは何者だ?」
「人間だよ」
「そりゃ見れば分かる。じゃなくって、どうして俺様が見えるんだ? いやその前に、あんたは自分を全盲と言いながら見えているようなそぶりもあるし、いったい見えているのか見えないのかどっちなんだ?」
「んー難しい質問だね」
美南瀬は腕を組んで渋面をつくる。
「医学的に言えば私は全盲だよ。生まれてから一度もこの目で物を見たことはない。でも、私には色や形が観えるんだ。正確にいえば頭の中にイメージが浮かぶんだよ」
「どういうことだ?」
視力や聴力を失っても気とかカンで気配を察し、健常人のように暮らせる人がいることは太郎冠者も知っている。でもそれは武術の達人だったり、何十年も修行した坊主のようなごく一部の人間だ。が、目の前にいる美南瀬にはそんな気配は感じられない。
「私の目には先天的に視神経がないから、この眼球は単なる飾りみたいなものなんだ。この目じゃ色も形も光も感じない。でも、中学校三年生の時に私の頭の中に色や形が浮かんでくるようになった。だからヒカちゃんも冠者んも観えるよ」
「オーラとか生命エネルギーというものを見ているのか? それともヘビやコウモリみたいに熱とか超音波で認識してるのか?」
「さあ私には理由は分からないよ。少なくてもご先祖様にヘビやコウモリはいなかったと思うけどね」
美南瀬は肩をすくめる。
「だったらヒカはどういうふうに見えてるんだ?」
「ヒカちゃんはね、大きさは私の肩ぐらいで、柔らかい輪郭をしていて、山ほどのバターを盛ってメイプルシロップをいっぱいかけた焼きたてのパンケーキの色をしている」
「は? なんだそりゃ。パンケーキにメイプルシロップ? サッパリ分かんねぇよ。ヒカは思爾神だから変なふうに見えるのかな……だったら猫や犬はどんなふうに見えるんだ?」
「猫は日向で咲いたタンポポの色と楠の大木にとまったチョウみたいな色。犬は春の公園の芝生の色にお祖父ちゃんが大事にしていた万年青の色がポツポツとついているよ」
「あ? そりゃあ犬は緑色ってことか?」
腕組みをした太郎冠者は頭を傾けて尋ねる。
「緑色と言われても、私は全盲で緑色を見たことがないから分からない。だから猫も犬もいま言った色としか表現できないよ」
美南瀬はサングラスをコツコツと指で突きにんまりと笑う。
「そうかもしれねぇけどよ」
太郎冠者は「分からねぇ」とつぶやいて自分の道化服に描かれている緑色の水玉模様を見た。確かにこれは緑色というものであると誰かに教えてもらわなければ色なんか識別できないだろう。ましてや、この女はいままで自分の目で色を見たことはないのだからな、表現がおかしくなるのはしょうがないのかもしれねぇ。
「ネコさんもイヌさんも…………あたたかいいろです…………ぽふぽふいろですね」
「あっ、ヒカちゃんには分かった。そうなんだよ。猫も犬もぽふぽふして思わず頬ずりしたくなる色なんだよ」
「はいです…………ぽふぽふいろです」
「そうだよね」
「はいです」
美南瀬はヒカの手を握って嬉しげに身体を上下させる。ヒカも美南瀬の動きに合わせるように上下しながら、リズムをつけて「ぽふぽふ。ぽふぽふ」と楽しげに繰り返す。
「はぁ……おまえらバカだろう」
溜息混じりに太郎冠者はひとりごちる。
「あっ、失礼な。冠者んなんて動物園のキリンの色と熟れすぎて地面に落ちる寸前のイチゴ色をしているくせに生意気だぞ」
「俺様はそんな色なのかよ」
「きわどいけど、なかなか個性的な色だよ」
「それ褒めてねぇだろう」
「うん」
前髪を掻き上げ美南瀬はにまっと笑う。
「本当にくえねぇヤツだな……」
「へへへへ」
美南瀬は小鼻をかきながら変な笑い方をする。
「あれ、冠者ん反応無し? つまんないなぁ。もっとかまってよ」
太郎冠者はしばらく無言で美南瀬を見つめていたが、何かを思いついたようにうなずいた。
「やっと、あんたの扱い方が分かったぜ」
こいつを相手にするにはこいつの戯れ言にはいちいちつきあっちゃダメなんだ。こいつはガキと同じでその場のノリで楽しむクチなんだな。だから軽口に反応すればするほど調子づかせるだけだ。つきあっていたらこっちがイライラしてバカをみるということだ。
「もう、あんたの戯れ言には反応しないぜ。ちゃっちゃと要点だけ話せよ」
「ひどい言い方だなぁ」
「中学三年生の時にイメージが浮かぶようになったって言ったな。その時何があったんだ?」
太郎冠者は不満げに鼻にしわを寄せる美南瀬を無視して尋ねる。
「交通事故」
さっきまでの軽口とは変わり、美南瀬は素っ気ない返事をかえす。
「交通事故? どんな事故だったんだ?」
「…………」
美南瀬は口を閉ざしたまま真っ直ぐ前に顔を向ける。不機嫌さとも悲しみともつかない表情を浮かべて。
喘ぎたくなるような重い空気がこの部屋を支配した。時間にすればわずか一分にも満たない時間だったのかもしれないが、何十分にも感じられるほどの息苦しさを与える雰囲気だった。さっきまで美南瀬と一緒に騒いでいたヒカでさえ、表情を曇らせて上目遣いに美南瀬の表情をチラッと眺めては顔を下に向けている。
「変なこと聞いて悪かったな。言いたくないんなら話さなくっていいんだぜ」
重圧に負けたのは太郎冠者の方だった。
「ううん。気にしないで。いままで言っても信じてもらえそうもなかったし、結構辛い事故だったから話さないできたけど、いい機会だから話すよ。ヒカちゃんや冠者んの参考になるかもしれないしね」
「そうか……すまない」
交通事故が美南瀬にとってとても辛く、語ることも苦しいことは表情を見れば容易に読みとれる。なのに今日初めて会ったばかりの俺達に話させるのだ……太郎冠者は頭を下げた。
「私のお父さんはプロカメラマンだったんだ……」
美南瀬の父親・斎木貴臣(さいき・たかおみ)はプロカメラマンだった。山岳写真が専門で若手写真家として将来を嘱望されていた。しかし、山岳写真だけで食べていくとができる人間などほんの一握りしかいない。残念ながら貴臣はその一握りではなかった。ふだんはアウトドアショップで働き、時間をつくっては年に何度か一週間も二週間も山に入って写真を撮るという生活。これではふつう家計が立ちゆかないが、幸いなことに母親の悠紀子(ゆきこ)が小説家として成功しており、一般サラリーマン家庭より余裕はあった。
「私が中学三年の夏、お父さんの写真展が開かれることになったんだ。お父さん、凄く喜んでいたよ。今までも小さな会場で個展を開いたことはあるけど、こんどは新聞社が主催した本格的な写真展だもん。格が全然違うんだ」
「親父さんも一人前の写真家と認められたわけだ」
「うん」
美南瀬は声を弾ませる。まるで自分のことであるかのように自慢げで嬉しそうな表情だ。
「でも、お父さんは自分の写真展を見ることはできなかった……」
と、すぐに表情をこわばらせ、吐息をつくように言葉を吐き出す。
「写真展の初日、私とお兄ちゃんはお父さんが運転する車で写真展会場に向かったんだ。そして信号待ちしていた時、何かがひしゃげるような音と同時に私の肩に衝撃が襲ってきたんだ……」
後から知ったことだが、貴臣の車の前には鋼材を積んだトラックが止まっていて、緊縛が不十分だったらしく信号が青になりスタートした弾みで鋼材が滑り落ちたのだ。数トンもある鋼材は後ろに止まっていた車のフロントガラスを破りドライバーを押し潰した。
「何? と思ったら助手席に座っていた私の顔に温かい液体が降りかかり、後部座席にいたお兄ちゃんの叫び声が聞こえて……ここで私の意識は途切れた…………」
美南瀬の声が小さくなり、つぃっと消えた。
「災難だったな」
太郎冠者の言葉に美南瀬は小さくうなずく。
慰めるかのようにヒカが膝の上で握り拳をつくる美南瀬の手に自分の手を重ねる。
「かなしいですか…………だいじょうぶですか」
「ヒカちゃん、ありがとう。大丈夫。私はもう大丈夫だよ」
美南瀬はヒカに向かって微笑み、すぅぅっと息を吸った。
「意識を取り戻した時、私は病院のベッドの上にいた……」
崩れた鋼材によって後続車や対向車を巻きこむ大事故となった。死者一人、重軽傷六人。死者は鋼材に直撃され圧死した貴臣だった。後部座席にいた兄の雅章は鋼材に足を挟まれ両足の大腿骨骨折の重傷。助手席にいた美南瀬は右腕のヒビと右肩亜脱臼だったが、貴臣の血を全身に浴びていたため救急隊員は瀕死の重傷だと思ったそうだ。
「その時だよ、私の頭に初めてイメージが浮かんだのは。私のベットの横に塊を観たんだ」
「かたまりですか?」
ヒカが小首をかしげる。
「うん。塊があったんだ。凄く驚いた。いままで観るという経験がなかったから、自分がおかしくなったのかと思ったよ……その塊が私に声をかけてきたんだよ。それは、お母さんの声だった。そこで初めて塊がお母さんだってことが分かったんだ」
「ふーん。それじゃ観えるようになった切っ掛けは事故と考えるべきなんだろうな。でも、頭を打ったわけじゃないんだろう。なんで急に観えるようになったんだ。あんたはどう考えているんだ?」
太郎冠者の質問に美南瀬は首を振る。
「わからない。でも今はお父さんが命と引き替えに私にこの力をくれたと思っているよ。だって視神経がないんだもん、急に観えるなんてことは生物学的に有り得ないんだからさ」
「親父さんの最期のプレゼントか……」
ガキじみた考えだが、太郎冠者にはこれが一番しっくりくる答えに思えた。
「うん」
大きくうなずいた美南瀬の顔には喜びと困惑が混ざったような複雑な表情があった。
「観えることになったことは嬉しいけど……でも、お父さんが生きていてくれた方がもっと嬉しかったかな」
美南瀬は寂しげな笑みを浮かべる。黒いサングラスの下から一筋の水が流れる。
太郎冠者もヒカも口を閉ざして握りしめた美南瀬の手を見つめる。
「しめっぽくなっちゃって、ごめんね。ちょっと気分を変えるために飲み物を淹れてくるよ。ヒカちゃんはまたココアでいい?」
「はいです…………ヒカもてつだうです」
ヒカはうなずき立ち上がる。
「俺様はいらないからな。もう変な物持ってくるなよ」
「分かっているって。同じネタは使わないよぉ」
「ちょっ、ちょっと待て。またなにかするつもりか?」
美南瀬は答えることなくヒカを急かせて台所に向かった。
【3】
「なあ、色に関しては今まで見たことがないから普通の表現ができないのは分かったけど、形とか厚みとかはどうなんだ?」
太郎冠者は大トロにぎりを抱え上げてイクラの軍艦巻きの上に載せる。
「ねぇ、気に入ってくれた? やっぱりお客さんお寿司は定番だよね」
ソファーに深く腰かけた美南瀬がにんまりと笑う。
「さっき、おふくろさんを『塊』って表現したけど、やっぱり普通の人間のようには見えないのか?」
「美味しそうでしょう。食べてもいいんだよ」
美南瀬は太郎冠者の言葉にこたえず、にまにまして太郎冠者の周りに並べた寿司を勧める。
「誰が喰うか! てか、喰えねぇだろう!」
太郎冠者はカッパ巻きを放り投げ美南瀬を睨みつける。
美南瀬は新しい飲み物を持ってくると同時に、リアルに作られたにぎり寿司の蝋細工を太郎冠者の前に並べたのだ──どうせ食べられないんだから見るだけでも楽しんでね。と。
「いやいや『心頭滅却すれば火もまた涼しい』と言う言葉もあるし、気合いと根性さえあれば美味しく食べられるかもよ」
「蝋細工の寿司を食うために心頭滅却する趣味はねぇ。それより、あんたには世の中がどう見えているんだ」
声のトーンを落とし、美南瀬の顔を真っ直ぐ見つめる。
「世の中ねぇ……」
太郎冠者の声に怒気が混ざってきたのを感じたのか、視線を向けられるのが居心地悪いのか、美南瀬はふぃっと顔を背ける。
「うーん、どう言ったらいいかな。生きている物は比較的形も大きさもハッキリ分かるし、今まで触って感じていた形とほぼ同じなんだ。だから観ることに慣れるまでは塊って感じだったけど、色々なものを観て慣れたら形や大きさに違いが分かるようになって違和感はなくなった。だけど、無機質の物はハッキリとは分からないんだ」
「無機質? 生き物以外ってことか?」
「うん。外に出ても家やビルなんかは触ってみないと、だいたいの大きさが分かるだけでのっぺりとしていて厚みもなければ色も軒下のクモみたいな色しかない。でも触れば生き物ほどじゃないけど色の違いも分かるし、立体感というのかな大きさというか厚みみたいなものは観えるんだ。だから不自由はないよ」
ほら、こんなふうに無機質だってちゃんと観えているんだよと言って、テーブルに置かれた携帯電話を手に取る。
「便利だな」
「便利と言えば便利だけどさぁ、最初は戸惑ったというか、観えることが怖かったんだよ。自分の頭がおかしくなって幻を観ているんじゃないかと思って本気で心配したんだから……それに自分が本当に観えることが分かってからも苦労したよ。だって観えることを他人に伝えたくっても、観えるものを表現しようにも私には色も形も知識がないから上手に言えないんだ。言葉としてリンゴは丸くて赤いとか空は広くて青いって知っていたけど、実際にリンゴを観てもどれもこれも微妙に形は違うし色だって違う。それに私が観ているリンゴの色が赤という色と本当に同じものなのかさえ確信が持てないんだ」
喉が渇いたのか、美南瀬は二杯目の昆布茶をくっと一気に空ける。
「言われてみればそうかもな。リンゴは赤いって言っているけど実際には黄色いリンゴもあれば緑色のリンゴもある。それに赤いリンゴだって赤味が濃くって黒っぽいのもあれば、薄い赤色のヤツだってある。改めて言葉にするとしたら難しいよな」
「あかいりんごはあまいです…………でも、みどりいろのりんごはすっぱいです」
ヒカが握り拳をつくって会話に乱入してきた。
「みどりいろのりんごは…………だめです!」
仔猫を追いかけていた時よりも真剣な表情で力説する。
「緑色のリンゴはダメなの?」
「はいです…………だめです!」
ヒカは握り拳をつくったまま大きくうなずく。
「どうしてなの?」
「えっとぉ…………えっとぉ…………みどりいろは…………」
考えが上手くまとまらないのか、ヒカは口の中で言葉をモゴモゴとさせている。
「だいぶ前のことなんだがよ……」
助け船を出したのは太郎冠者だった。
「緑色のリンゴを食った時、酸っぱかったらしいんだ。それ以来、緑色のリンゴは酸っぱいものだと思いこんでいるんだよ。なにせコイツの口はお子ちゃまだから酸っぱいとか苦いとか苦手なんだよ」
太郎冠者は小バカにしたような口ぶりでヒカを指差す。
「酸っぱいのはそれはそれで爽やかさがあって美味しいと思うけどなぁ」
「そうだろう。ま、ヒカには絶対分からないだろうけどさ」
「みどりいろのりんご…………だめです!」
酸っぱさを思い出したのか口をすぼめながらヒカが手でバッテンマークをつくる。
「そうなんだ。わ、わかったよヒカちゃん」
ヒカの勢いに圧され美南瀬は曖昧な表情でうなずく。
「コイツ、意外と頑固なんだ」
「そうみたいね」
「……だいたいのところは解った」
ヒカの闖入で話が逸れてしまったが、どうにか話しを戻して聞きだした結論としては、美南瀬が観えるものは生きているものがメインで、無生物は触らない限り大きさや形も朧気にしか認識できないようだ。また、生物も小さすぎたり距離が離れていると判別はつかないようだ。それに本などの印刷物やテレビなどの映像は触っても観えないらしい。
「ま、それだけ見えれば十分だろう」
「うん。観えるようになってからは道を歩いていても人とぶつかることもなくなったし、昔の全然見えなかったことを考えるとすごく便利。だから、この力は重宝しているよ。でも、信号機とか解らないから杖は手放せないけどね」
美南瀬は素直に嬉しさを顔に出している。
「ところで、あんたが観えることは誰か知っているのか?」
「いちおうお母さんとお兄ちゃんには伝えてあるんだけどさぁ……どうも信じていないようなんだ」
美南瀬は肩をすくめ渋面をつくる。
「しんじてもらえないですか? ヒカはしんじているです」
ヒカの言葉に美南瀬は、ありがとうねと言って小さく頭を下げる。
「ほら、いままで色とか知らない私が説明しようとしても上手く説明できないし、他人とか物にぶつからなくなったのも単に勘が鋭くなったように思われているようなんだ。それに伝えようとすればするほど、お母さんなんかは私が事故のショックで混乱していると心配するんだよ。だから途中から面倒になって勘が鋭いってことにしたけどね」
「それが賢明だな。俺様も結構長いこと人間界いて色々な人間を見てきたけど、あんたみたいな事例は初めて見たからな」
「やっぱ、私は特別な人間なんだ。ひょっとして宇宙の滅亡を救うために、この力を与えられた美女戦士だったりして……ヒカちゃんと冠者んを連れて私が数々の敵と戦うのよ。戦いの途中で冠者んは私の身代わりになって無惨に爆死して、私とヒカちゃんは悲しみを乗り越えて新たな戦いに赴くのよ。燃えるシチュエーションでしょう?」
太郎冠者は大きな溜息を吐き出す。
「なにが宇宙を救う美女戦士だ。というか、俺様を勝手に殺すんじゃねぇ……しかしよぉ、身体障害者っていうものはもっと上品で真面目なヤツが多いと思っていたけど、あんたを見てると分からなくなってくるぜ」
「それは差別だぞ。障害者だからといっても普通の人と変わらないんだからね。私たちは目が見えないとか歩けないと言う個性があるだけで、他はみんなと変わらない普通なんだからさ……ま、そんな偏見は冠者んだけじゃなくって普通の人も持っているけど、本当にやんなっちゃうよ」
「俺様が悪かった。すまん」
太郎冠者は器用に身体を立てると深々と頭を下げる。
「でも、あんたはやっぱ普通じゃねぇよ」
頭を上げた太郎冠者の声には殊勝さはなく、からかうような響きが含まれている。
「なによ。どこが普通じゃないのよ」
「俺様が見えるだけでも十分普通じゃないが、得体のしれない俺様たちをわざわざアパートまで連れてきてくれるなんて変人の極みだろう」
「失礼だなぁ。私は変人じゃないよ。私は姐御肌で面倒見がいいんだよ」
何が自慢なのか解らないが美南瀬は腰に手を当て胸を張る。
「姐御肌ねぇ……俺様には単なるもの好きにしか見えないけどな」
太郎冠者は小声でつぶやく。
「ん? 何か言った?」
「い、いや、何も言ってねぇよ。それより姐御肌のあんたに頼みがあるんだけど、いいか?」
「何?」
「あんた人形かぬいぐるみを持ってないか?」
「人形? そんなものどうするの? ひょっとして冠者んって人形フェチなの?」
美南瀬はザザ虫やコウガイビルを見た人のような嫌そうな表情を浮かべる。
「違う! 誰が人形フェチだ! この身体が壊れたから代わりの身体がいるんだよ」
「なーんだ。そういうことね」
少しばかりつまらなそうな声をにじませつぶやく。
「で、持っているのか? いないのか?」
「関節が動くような人形は持ってないよ。ぬいぐるみも実家に置いてきちゃったしなぁ」
「べつに関節は動かなくてもいいんだ。俺様が入れば例え金属や石でできた置物でも関節が動くようになるんだ」
「そう、凄いね。だったらいくつか有るはず」
「できれば人間型のものか、手足がついているものがありがたい。やっぱ手足がないと色々と勝手が悪いんだ」
「そうだろうね」
美南瀬はちょっと待っててと言って立ち上がり『乙女の秘密の花園。ここを覗く者に永遠の呪いあれの部屋』へと入っていく。きっちり閉められたドアの向こうから「あれ? これじゃないなぁ」とか「ここに置いたはずだけど」などと言う声が漏れてくる。
興味を抑えきれないヒカが「あったですか?」と尋ねながら『乙女の秘密の花園。ここを覗く者に永遠の呪いあれ部屋』の前をウロウロする。が、美南瀬の呪いが恐ろしいのかドアを開けようとはしない。
「あったですか?」
「ヒカちゃん、もう少し待っててね……………あった! これ、これ」
喜色を含んだ声と共に『乙女の秘密の花園。ここを覗く者に永遠の呪いあれ部屋』のドアが開く。出てきた美南瀬は左手に大きなバッグを抱え、
「冠者んあったよ!」
バッグをぱんっと叩く。
「どんなのですか? どんなのですか?」
ヒカがバッグを覗きこもうとすると、美南瀬は「冠者んが先だよ」と言ってバッグを抱えて見せない。
「冠者んに似合いそうなのが二個あったよ。だから冠者んに選んでもらおうと思ってさ」
美南瀬はにぃぃと笑うとバッグに手を突っこむ。
「まずはこれだぁ!」
叫び声と共に赤茶色の物体がテーブルに置かれた。
「何ものにも屈しない硬質ボディ。長いヒゲは男らしさの証。たくましさと繊細さを併せ持つ上腕。これでどうだ!」
「おい……これを俺様にどうしろと?」
「ん? カッコイイでしょう」
「ああ、ある意味、機能的でカッコイイとも言えなくはないだろうさ」
太郎冠者は疲れた声で答える。
「わぁ、ざりがにさんです」
「ヒカちゃん違うよ。これはザリガニじゃなくってロブスター」
テーブルの上には体長五〇センチはあろうロブスターの剥製が鎮座していた。
「ろぶすたーさんですか…………ざりがにさんでないですか?」
「うーん、本当は私もザリガニとロブスターの違いって分からないんだけど、くれた人がロブスターって言っていたからね」
「ザリガニだろうがロブスターだろうが関係ねぇ。俺様にこんな身体に入れって言うのか」
「うん。ハサミがついているから攻撃力も今よりアップ間違いなしだよ」
「つよそうです」
ヒカは恐る恐るといった感じでロブスターのヒゲやハサミを指で突いている。
「なにが攻撃力アップだ。この俺様が節足動物甲殻類の身体に喜んで入ると思ったかよ……しかし、ロブスターの剥製なんてよく持っていたな」
「うん。同じ大学の水産学部の友だちらもらったんだ」
「ふーん。あんた大学に行っているんだ。見かけによらないもんだな」
「失礼だなぁ。これでも私は優秀なんだぞ。福祉学部の期待の星と言われているんだ。成績だって」
美南瀬はいちばーっん、と言って人差し指を立てて高く掲げる。
ヒカがすごいです、すごいですと言って拍手する。
「で、どう? 気に入ってくれた?」
「次の物を見せろ」
「ロブスターってカッコイイよね」
「次を見・せ・ろ」
「この触覚のラインなんてセクシーだよね」
「次だ!」
「冠者んって空気読まないよね」
「空気は吸うものであって読むものじゃねぇよ。だからさっさと次を出せよ」
太郎冠者はテーブルをべてぃべてぃと叩き催促する。
「次はお勧め度二〇〇パーセントの絶品だよ。ちゃんと人間型だし凄いオプションも付いているんだからね」
美南瀬はバッグに手を入れたまま動きを止める。何が出てくるのか我慢しきれないヒカが美南瀬に近寄る。太郎冠者も上半身だけの身体を伸ばすように前傾姿勢になる。
「じゃじゃーん!」
満面の笑みを浮かべて美南瀬がバッグから人形を取り出した。
「す、すごいです…………」
「こ、これは……………………あんた、オタクだったのか?」
そこにあったものは──金髪のポニーテール、猫耳付きのベビーフェイス、スイカのような巨乳、折れそうな細いウエスト、パンパンに張ったお尻とシッポ、長い足──二次元オタクの願望というか妄想が具現化したようなフィギュアだった。
「違うよ。アニメ同好会の男の子がくれたんだよ。無機物は形がハッキリ観えないけど、複雑な形だから触っていて面白いんだ。で、こっちは気に入ってくれた?」
「こんなものに入るくらいなら、手も足もないダルマに入った方がまだマシだ! 他にはないのかよ」
「実家に帰ればぬいぐるみぐらいあるけど、ここにはこの二つしかないよ。どうする?」
美南瀬はフィギュアをロブスターの横に並べる。
「きゅ、究極の選択だな。可動性を考えれば人形(ひとがた)であるフィギュアなんだろうけど……さすがにこれは俺様の理性が」
「おにんぎょうさん…………かわいいです…………おっぱいおおきいです…………しっぽあるです…………かっこいいです」
ヒカはフィギュアが気に入ったようで、やたらと勧めてくる。
「このフィギュアはプレミア品らしいよ。マニア垂涎の逸品だよ。冠者んに絶対似合うよ。迷ってないでこっちにしちゃいなよ。ほら見なよこの曲線美。全世界の女性の憧れの身体だよ」
美南瀬ものってやたらと褒めまくる。さらにロブスターを太郎冠者から離しながら、フィギュアをさらに前に押しやる。
「だぁぁ、うるさい! うるさい! 誰がそんなものに入るかよ! とっととロブスターをよこせ!」
「えーっ」
「えーっ」
と、同時に不満の声があがる。
「ヒカ、なんでもいいから早くロブスターを持ってこい!」
「は、はいです」
太郎冠者の怒声にヒカは飛び上がるようにしてロブスターをつかみあげる。
「……ったく、人形以外に入るのは久しぶりだぜ。しかし、よりによって節足動物かよ。脚が多いから慣れるまで面倒なんだがな」
ブツブツ言いながら太郎冠者はヒカが置いたロブスターに手をかける。
「ね、ね、身体を入れ替えるのに必要なものはないの? それとも呪文とか唱えるの?」
「は? なに言っているんだ?」
太郎冠者はロブスターのハサミを振り上げ、前屈みになって身を乗り出す美南瀬の鼻先に向ける。
「あれっ? ロブスターがキリンとイチゴの色になっちゃった。ひょっとしてもう身体を入れ替えちゃったの?」
「ああ」
怠そうな太郎冠者の声が返ってくる。
「なんだか肩すかし。もっと劇的なシーンがあると思っていたのに……あっという間に換わっちゃうんだもん。つまんないな」
「うるせぇな。簡単そうに見えるかもしれないがな、エネルギーをメチャクチャ使うんだからな。ヒカ、俺様は寝るからバッグをよこせ」
「冠者ん、もう寝ちゃうの?」
「身体を換えると疲れるんだ。俺様はしばらく寝させてもらうぜ。悪いがヒカの相手を頼むぜ。なに、面倒だったら放っておいてもだいじょうぶだ。ヒカは独りで遊んでいるだろうから」
太郎冠者はギクシャクとした動きでバッグをよじ登り、おやすみと言う言葉と共にバッグの中に入りこんでいった。
つづく
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■作者からのメッセージ
この作品は20071031にある「39個目の『ちくしょう』と、しに神【上・下】」という作品の続編になります。続編と言ってもほとんど関係ないです。この作品単体でも分かるように書いてあります。
前回の更新から間が空いてしまいました。日々の雑用に追われて東奔西走の日々+体調不良でやっと今日更新できました。
しばらく空いてしまうと書き方を忘れますね。おまけに今回までは説明が中心だからどうも書きづらい。次回以降は動きを中心に書けると思うので、作者としてはヤマを一つ乗り越えたような気分です。
次回以降は新生太郎冠者がどのような動きを見せてくれるのか……作者である私にも見当がついていません(ダメじゃん)。とにかく太郎冠者がシャカシャカと這いずり回ってくれるシーンを一日も早く書き上げられるように頑張ります。
今回は前作と違って少し長くなりそうなので5〜6回に分けて投稿するつもりです。
感想や御意見など何でもいいのでいただけると嬉しいです。