- 『青春カントリー 一〜三話中』 作者:ゾークしろねこ / リアル・現代 恋愛小説
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全角33013.5文字
容量66027 bytes
原稿用紙約102.75枚
また夏が来た。このド田舎で過ごす夏も今年で四年目だ。俺の隣には相変わらず阿呆のシンジがいるし、今年もまた妙な冒険に付き合わされるのだろう。しかし、夏休みまであとニ週間を切ったある日、美少女転校生がやってきた。嬉しいイベントだね。だけど、そいつの髪の毛は真っ赤でおまけに信じられないくらい五月蠅い。今年の夏は、妙な転校生も絡んできたことだし、今までとは一味違う夏休みになりそうだった。
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1
空を見上げる。
雲ひとつ無い、青く塗りたくった空。これでもかと言わんばかりに、強烈な日差しをさんさんとアスファルトに降らす太陽。
七月に入り、いよいよ夏の到来を肌で感じるようになってきた今日この頃。夏を制する者は受験を制すという言葉があるように、世の中の受験生は躍起になって勉強をしている事だろう。
夏といえばスポーツの季節でもある。我が校でも、運動部の連中は夏季の大会に向け日々練習に励み、青春を感じているのだろう。
そのような青春、大いに万歳である。しかし、日々のんべんだらりと生きている俺のような高校生にとって、夏休み前のこの僅かな期間はかったるいことこの上なかった。
「暑ぃ……」
呟くと同時に、汗が頬を伝って地面に落ちた。それは、ジュッという音を立てアスファルトに染み込んでいく。
今さらになって否応無く思い知らされた事なのだが、俺の通う天草高校への通学路には日陰が無い。
車なんて滅多に通らないのに一丁前に舗装された道路。そして、そこに沿って民家が何軒か建っている。高校に入学して三ヶ月、この平凡な風景にはいい加減見飽きた。
コンビニすら無いド田舎の癖に日光を遮る木々は無いのか、温暖化防止に貢献しやがれ、と心の中で文句を言っても照りつける太陽の日差しは一向に弱まってはくれなかった。
喉乾いた、炭酸飲料飲みてぇ、と欲望を膨らませつつ舗装された道路を歩く。
暑さに加え、つい三日ほど前から休む事無く鳴り響いているセミの声が、これまたダルさを増加させる。
どうしてこう田舎のセミは元気がいいのか。鬱陶しい事この上ない。セミの声を聞くと夏を感じますねえ、などと言う某蚊取り線香のキャッチフレーズには疑問を感じる。
まあ、何にせよ一銭の得にもならないようなどうでもいい事を考えつつ歩を進めていると、ぽんと後ろから肩を叩かれた。
「おーっす、こーちゃん。相変わらずヤクザ真っ青の極悪面してるねぇ」
「生まれつきだアホ」
ただでさえ暑いというのに、存在そのものが暑苦しいと言っても過言ではない奴が現れた。
右肩に薄っぺらい鞄を引っ掛け、俺にウインクしてくるような人間は一人しかいない。
「シンジ」
「何かな?」
俺は肩に乗っているシンジの左手を払い落とした。
「うざい」
「あぁん、こーちゃんのいけずぅ」
シンジはくねくねと体を揺らしながら、わざとらしい女口調で答える。
この気持ち悪い男、三神シンジは――我ながら非常に情けないと思っているのだが――俺の唯一の友達だった。
何の縁があってか、俺とシンジは中学三年間ずっと同じクラスで家も近い、いわゆる幼馴染ってやつだった。
幼馴染という言い方は確実に誤解を生みそうなので、腐れ縁とでも言っておこう。
いや、ここは世間体を繕うために知り合い以上友達未満と言っておくべきか?
まぁ、何にせよ俺とシンジは一緒に行動している事がほとんどなので(そのせいでホモ疑惑か一時期蔓延したという最悪な記録もある)周りからは無二の親友だと位置付けられている。
「そういえばさ、俺っち今年の夏は決めるつもりなんだけどっ!」
シンジが活き活きとした声で言った。
「そうか、頑張れ」
「ちょ、ちょっと待った! おかしいよね? 俺、まだ何を決めるかっていう重要な目的語言ってないよね!?」
シンジは大げさに突っ込みのリアクションをしつつ叫んだ。そのオーバーな動作は見ているだけで疲れるプラスこの季節では暑苦しい事この上ない。
「どうせまた下らない事だろ? 去年は心霊スポット巡りだったから、今年は宇宙人でも見つけに行くのか?」
毎年、夏休みが近づくと、シンジは下らない計画を立てては俺を引っ張り回していた。
中学一年の時、伊勢海老を釣って魚屋に売りつけようという計画に誘われ、近所の川に出向いた事があった。
いくらなんでも近所の川に伊勢海老はいないだろう。しかし、当時の俺は純真無垢な少年だった故に、シンジの言葉を全く疑っていなかった。
結果、俺とシンジは足を滑らせ、見事に溺れかけた。その時はたまたま近くで釣りをしていたおじさんに助けられ、九死に一生を得たのだが、後で警察の人や叔母さんにめちゃくちゃ叱られた。
そんな感じで、中学二年の時はツチノコを見つけるとか言って畑を荒らし、これまた説教と飯抜きとゲンコツという厳しいお叱りを受けて終わった。
三年の時は、心霊スポット巡りと称して深夜の森をうろうろと歩き回ったのだが、途中で道がわからなくなり不安と恐怖で涙目になったという悲惨な結果で終わった。
……といった調子で、俺とシンジは見事に『岩崎町のいたずらコンビ』という不名誉な通り名を付けられてしまい現在に至る。
「子供だなぁ、こーちゃんは。俺ら青春真っ盛りの十六歳よ? 人生に一度しかない十六歳の夏だぜ? ドゥーユーアンダースタン?」
シンジはちっちっち、と舌を鳴らしながら指を振った。十六歳だろうと八十歳だろうと、全て人生に一度しかないだろと思ったのだが突っ込むのは面倒なので黙っておいた。
「俺っちは考えたんよ。やっぱ、十六歳の夏といえば女の子だよ! 女の子! 身も心も開放的になるこの季節に繰り広げられる男と女のラブロマンス……。ああ、青春万歳!」
シンジは両手を空に掲げ、一人で盛り上がっている。ああ、こいつはもうダメだ。手遅れだ。ただでさえ阿呆なシンジが、この暑さにやられて超阿呆になってしまった。
「シンジ、病院まで付き添ってやろうか?」
「こら! 人をダンボールに捨てられた子犬を哀れむような目で見るな! 俺っちは正常だっつーの!」
自覚症状すら無いらしい。これは重症だと素人ながらに分析しつつ、まぁこれ以上苛めるのは可愛そうなので、仕方なく会話に付き合う事にした。
「で? 女が何だって?」
「うおっ! 出ましたよ、このモテ男特有の余裕。何、その俺は不自由してないぜムフフと言わんばかりの態度は! この人類の敵が!」
シンジは俺を指差しながら言った。やっぱり会話に付き合うべきではなかったと後悔し、俺はため息をついた。
「別にモテねーよ。彼女とかいた事ねーし」
俺は投げやりに答える。
「うが――! そんな事言ってごまかしたつもり!? 俺っち、こーちゃんが中学三年間で何人に告白された知ってるもんね! 五人だよ、五人! こーちゃんはこの十六年の人生の中で五人もの乙女を虜にしてるんだよ!? これでもモテないと言い張るつもりっすか!?」
シンジはぎゃあぎゃあとセミの大合唱よりもやかましく騒ぎ立てるので、俺は両手で耳を塞いだ。
早く学校につかねえかなぁ。これ以上、シンジの大声を聞いていたらこっちが参っちまう。
「別に好きでも無い奴に告白されても困るだけだって。自分の好きな人に好意を持たれて、そこで初めてモテるって言えるんじゃねーの?」
告白される事自体は、そりゃあ相手が自分に好意を持っているという訳だし、少なからず嬉しかった。
だけど、喋った事も無い人から告白されるのは、全くもって意味が分からなかった。どうして自分を好きになったのかと彼女らに聞けば、揃って「カッコいいから」とか「優しそうだから」とか、そんな薄っぺらい理由を口にするのだ。
上っ面がいいから、人を好きになるだなんて俺には理解出来なかった。
だから、告白されても俺は断り続けた。
シンジは大きくため息をついて、乾いた笑みを浮かべた。
「ちぇ。俺っちもそんなカッケー台詞言いてぇよ。神様は不公平だなー」
でも、と言いシンジは続ける。
「こーちゃんは好きな人見つけりゃ万事オッケーって事じゃん? 青春は待っててもやってこない。だから今年の夏はアクティブに行こうぜ!」
親指を立て、シンジはそう言った。
俺はきらきらと輝くシンジの目を見て、こりゃあ何を言っても無駄だ、と早々に諦め前を向いた。
立ち並ぶ民家の先に、少々薄汚れた白い校舎が見えてくる。
あと二週間もすれば夏休みだ。学校から開放されるという喜びと、シンジの計画に対する不安とがしっとりと混じった微妙な心中だった。
「あ、そういえば期末テストどうしよ……。俺っち何も勉強してないや、ヤバイ」
言われて、そういえば期末テスト一週間前だったという事に気付き、俺の気分はやや落ち込み気味となった。
田舎で生まれ育った若者が都会に上京し、田舎の高年齢化が進むという事態は岩崎町でも例外ではないらしい。
事実、岩崎町では高校を卒業すると大半の若者は都会へ出て行ってしまうし、それに伴って少子化も進み年々学校も少なくなっていた。
岩崎町にある残り数少ない学校の一つである天草高校は、俺らの代ではやっとこさ三クラスだし、次の代からは二クラスに減らされるらしい。
ここよりも更にそういった過疎化が進んでいる町はいくらでもある。テレビが映らなかったり、嵐の翌日、土砂崩れで町から出られなくなったり、そういった場所に比べれば岩崎町はまだマシな方だろう。
しかし、いずれはここもそうなってしまう運命なのかもしれない。魅力的な観光スポットがある訳でもなく、森に囲まれた小さな町だ。
いつか、ダムの底に沈んでしまうような、そんな暗い未来さえ見えてしまう。
「そのうち母校が無くなるかと考えると、やっぱり寂しいねぇ」
シンジは教室の窓から外を眺めながら、老人のように言った。
「みーんな都会に出て行っちまうもんな。俺っちの姉貴も高校卒業したと思ったら都会の大学に行っちまうし。都会ってそんなにいい所なのかねぇ?」
「さあな。でも、少なくともこの町よりずっと刺激があるんじゃないか?」
岩崎町にあるものと言ったら、電車なんて滅多に通らない駅に、商店街と畑と森と林、後はせいぜいカラオケに喫茶店くらいだ。
天高く立ち並ぶ高層ビルもないし、ブランド物を取り揃えているデパートも無い。
若者が華やかな都会に出て行くのも頷ける。
「でもさあ、俺っちは結構好きなんだよね、この町」
シンジは頭の後ろで手を組み、椅子を漕ぎ始める。
「都会って皆が言うほど魅力的な所だって感じないんだよね。何ていうか、華やかに見えるけど、それは夢みたいな物で掴める物じゃないっていうかさ……そんな感じ。それに比べたら、ここの方がよっぽど安心できるよ」
珍しく、シンジは真面目な表情を浮かべていた。シンジは、普段おちゃらけてるくせに、時々ふっと思い出したように真面目な話をする。
「俺もそう思う」
俺もシンジと同じ考えだった。
実際に都会に行った事は無いので、あくまで憶測なのだが、俺は妙に納得していた。
こういう話の時だけ、俺とシンジは考えが一致する。だから、俺達は友達なのかもしれない。
シンジはにひひ、と悪戯な笑みを浮かべた。
「やっぱそうだよな! 都会都会って、最近の若者は都会に行けばスーパースターになれると思ってるのかねー? おじさん悲しいよ。皆、もっと故郷に愛を持たなきゃ、愛。愛は世界を救うんだよ」
お前も若者だろ、と突っ込もうとしたが、担任の森田先生が教室に入ってきたのでお喋りは打ち止めとなった。
天草高校の古株で、今年五十五歳になる森田先生は、いつも通りの明るい調子で出席を取り始めた。
うちのクラスの総人数は、僅か二十三名なので出席の確認はすぐに終わってしまう。その後、少しばかりの連絡事項とテストが近いから勉強しろ、というお決まりの小言を言ってホームルームが終わる。
「あ、それと今日、うちのクラスに転校生が入ってくる事になった。桜井さん、どうぞ入ってください」
その一言で、教室中にざわめきが起こった。
いつも通りのテンプレートなホームルームで終わるのだろうと思っていた矢先、突然の不意打ちである。
こんな次期に転校生とは急な話だ。まさか訳アリの不良生徒ではあるまいな。
頬杖をついてそんな事を考えていると、誰かに背中をつつかれた。俺は後ろを向いた。
「やべぇよ、こーちゃん。転校生だよ。しかも女子っぽいよ。これってもう神様が俺達にラブロマンスを仕向けているとしか思えないよ」
シンジは興奮した様子で言った。ああ、ただでさえ暑さでおかしくなっているのに、さらに刺激が加わって色々とだめになってる。
俺は「そうだな」と適当に受け流し、再び体を前に向けて頬杖をついた。辺りの連中、特に男子がまだざわついていて、森田先生がなだめている。
やがて教室の扉が開き、見知らぬ女子生徒が緊張の面持ちで姿を現した。
その姿を見て、教室のざわめきは一層大きくなった。
その理由は、まず第一に転校生は女子だった。これだけで男子一同は歓喜である。第二に、めちゃくちゃ可愛かった。
ぱっちりとした愛くるしい大きな瞳が、まず男子一同を魅了した。肩にかかる程度の髪はまるで小川のせせらぎのように整っている。肌はこのド田舎には不釣合いなほど白い。ここまで条件が揃えば完璧である。男子一同はもはや転校生の虜だ。
そもそも転校生というものは、ただ他の学校から転入してきたというだけなのだが、何故か好奇心をくすぐる魅力がある。
大半の男子は、すでに頭の中で美少女転校生とのラブロマンスを妄想している事だろう。
しかし、一つだけ異様な点があった。
教室がざわめいた理由として、何よりも大きかったのは、その真っ赤に燃えるような髪の色だった。
髪を染めるといった風習が薄い田舎にとって、それは余りにも異質だった。
彼女は教卓の前で立ち止まり、こちらを向いて仁王立ちをする。教室は静まり返り、二十三人の視線が彼女に集まった。
まるで太陽がそこに在るかのようだった。そう思えるほど、彼女の赤い髪は存在感を放っていた。
沈黙が流れる。彼女は相変わらず仁王立ちしたまま、真っ直ぐ、かつ鋭い目つきで俺含め二十三人のクラスメイトを見つめている。
よく見ると、彼女の膝は震えていた。そして、いよいよ第一声を上げようと思ったのであろう。彼女はゆっくりと口を開ける。
果たして、どんな美声なのか。どんな性格なのか。と、クラス中の男子が耳を傾け、期待しながら言葉を待った。
「は、初めましてぇぇぇ! 私はっ! そ、そのっ! 桜井ミサキと申しますですっ! はう、何か変だ。その、どうぞっ! よろしくっ! お願いしまぁぁぁ――――すっ!」
静まり返っていた空気が、爆発した。
その小さな体のどこから出したのか、驚くべき大音量で放たれた自己紹介にクラス全員が耳を塞いだ。その声は教室中を駆け巡り、反響し、校舎が震え、窓から見える大きな木が揺らいだ……ような気さえした。
キーンという耳鳴りがする。隣のクラスにも影響があったのか、がしゃん、という椅子の倒れる音が廊下を伝わって聞こえてきた。
「あ、あれ……? あの、皆さん大丈夫ですか?」
今度は大分控えめな声で、彼女――桜井は言った。
すぐ隣にいたせいで、その大音量に思い切り直撃した森田先生は何とか立ち上がり
「さ、桜井さん。あまり大声を出されると心臓に悪いので、控えめでお願いします……」
腰を抑えながら、刺激しないよう優しい声で言った。
桜井は、顔を真っ赤にしながら慌てて頭を下げた。
俺と勘のいい連中数名は、危険を察知し耳を塞いだ。
「す、すいませんっ!」
再び空気が揺れる。二度目の爆撃を至近距離で受けた森田先生は、びくっ、と体を震わせふらふらと数歩後退したのち、倒れこんでしまった。
一瞬、何が起こったのかわからず、ただただ呆然とする俺含めクラス全員。
しばしの静寂を挟んで、我に返った誰かが森田先生の元に駆け寄った。
「せ、先生! 大丈夫ですか!?」
「心臓チェックしろ! 今のショックで止まったかもしれないぞ!」
「保健委員、保健室の先生呼んできて!」
蜂の巣をつついたかのように、クラス中がてんやわんやの大騒ぎとなった。
「シンジ、行くぞ!」
「え? あ、ど、何処へ?」
「保健室だよ! 俺ら保健委員だろうが!」
まだ事態が把握できていないのか、呆然としているシンジに声を掛け、俺は立ち上がる。
教室を出る際、ふと後ろを振り返る。その赤い髪とは対照的に顔を真っ青にさせ、慌てふためく桜井が視界に入った。
こりゃ、とんでもない奴が転校してきたもんだ……。
俺は今後の高校生活に不安を膨らませながら、地面を蹴り、全速力で保健室へと向かった。
外では、俺達を笑っているかのようにセミがミンミンと鳴き続けていた。
真っ赤に染まった髪の色と恐るべき大声で、桜井ミサキはたった一日で天草高校の有名人となった。
あの後の経緯を少しだけ話しておこう。桜井の殺人的大声を受けた森田先生は、結論から言うと命に別状は無かった。
ただ驚いて腰を抜かしてしまっただけだったのだ。保健室のベットに横たわった森田先生は「年には勝てんなぁ」とぼやいていた。
保健委員である俺とシンジは、森田先生の様態を保健の先生から聞き、教室の皆に伝えるよう指示された。
「それにしても、すげぇよな……桜井ミサキさんだっけ? 流石の俺っちもあの声には度肝を抜かれたぜ」
保健室を出ると、シンジは心底驚いたような顔を浮かべそう言った。確かに、あんなに身長も小さく体が細い女子が、応援団真っ青の大声を出したら誰だって驚く。
「それに、あの赤い髪の毛。俺っち赤髪の人なんて初めて見たよ。いくらウチの高校が自由な校風だからって、赤に染める奴はいなかったしなー」
自由な校風、それが天草高校の教育における基本方針だ。
何でも個性を重視するとか規則で学生を縛らないだとか、まぁそんな感じで緩いのだ。うちの高校は。
そもそも全校生徒合わせて二百人にも満たない高校だ。荒れる事も無く、平和でどこかのんびりとした雰囲気が漂っている。
そりゃあ先輩達の中には金髪や茶髪に染めてる人もいるけれど、それもほんの一部だし、学校側は個性だと言い干渉はしないのだ。
「都会で流行ってるんじゃねえの? 赤とか、緑とか」
「おじさんにはよく分からんのぉ。まあしっかし、彼女は可愛いし似合ってるから有りだな! 胸も結構でかかったし……ふひひ」
顎をさすりながら、シンジはセクハラオヤジみたいな事を言っていた。当然、俺はそんなお下品な会話はシカトした。一緒にいる俺の品位が下がるからやめてほしい。
その時、不意に誰かが廊下に現れた。ばたばたばた、と激しく足音を立てながらこちらに近づいてくる。
その足音の主へ視線を向けると――
「うひゃあああっ! ちょ、ちょっとどいてぇ――!」
燃え盛る炎の塊が、俺達を目掛けて猪突猛進してくるではないか!
いや、違う。あれは炎ではない。赤い髪だ。桜井ミサキだ。桜井が手をばたばたとさせながら一直線に突っ込んで――。
「うぎゃあっ!」
「はうっ!」
桜井の頭突きが、俺の胸部にクリーンヒットした。
あまりに強烈な打撃だった為、一瞬息が止まった。そのまま重力に引っ張られ、俺の体は背中から床に叩きつけられた。
「いってぇ……」
「さ、桜井さん! 大丈夫!? あ、あとこーちゃんも無事?」
「おいコラ……なんだ、その、扱いの、違いは」
呼吸を整えながら、ゆっくりと上半身を起こす。背中が少し痛むが、幸いにも頭は打ってないようだ。
ふにょん。何やら妙な感触のモノが右手にあった。柔らかいゴムボールのようなモノが、俺の右手の中にすっぽりと納まっている。
何かと思って、強く握ってみる。
「ひゃうっ!」
それと同時に奇妙な声が聞こえた。俺はもう一度それを握った。
「きゃあっ!」
……嫌な予感がする。俺はゆっくりと、視線を前方へと向けた。
そこには、俺の下半身に覆いかぶさるように倒れている桜井の姿があった。そして、俺の右手は桜井の胸をしっかりと掴んでいた。
つまり、さっきから右手に触れているこの柔らかいモノは……あぁ、アレだ。
さてさて、最悪状況だという事を把握した所で、誤解されないよう納得の出来る言い訳をすぐにしなければ。
あれだ、不慮の事故ってやつだ。そもそも突っ込んできたのはコイツだし、俺だって触りたくて桜井の胸を触ったわけじゃない。
なーんて、理屈をこねても女って奴は感情的なのよね。
桜井が手のひらを思い切り振りかぶる。
「い、いや――――っ!」
瞼の裏で火花が散った。ばちんっ! という小気味いい音が鳴り響く。案の定、桜井は俺の頬に強烈な平手をぶちかました。
頭突きされた上に平手打ちって、そりゃ無いだろ。何と言う仕打ちだ。俺が何か悪い事をしたかっ!
「いってぇ……」
頬をさすりながら、まだ俺の足にまたがっている桜井を睨みつけた。
桜井は、そんな俺の様子を見て、自分が何をしたのか把握したらしく慌てて頭を下げた。
「あ、ご、ごめんっ! つい手が先に出ちゃって……」
「何でもいいから、早くどいてくれ」
そう言うと、桜井は顔を赤くしながら立ち上がった。俺も立ち上がる。そして、桜井はおずおずと遠慮がちに俺を見た。
「ご、ごめんなさい。全速力で走ってたから急に止まれなくて……そ、その上思いっきりぶっちゃって、本当にごめんっ!」
申し訳無さそうに謝罪する桜井。何だか、俺の方が悪者みたいに思えてきた。
「まぁ、お互い怪我はしてないみたいだし気にしなくていいよ」
「そうそうっ! 最初の激突はともかく、平手で殴られたのは、こーちゃんがセクハラした自業自得だしね。桜井さんはなーんも気にしなくていいよ!」
シンジが横から会話に入ってくる。お前は俺のマネージャーか?
「そ、そうかな? そうだよねっ! うん、じゃあお互い様と言う事でいいかな? いいよね?」
「……」
あはは、と桜井は笑い、続いて、ダメ? と上目遣いで訴えてきた。俺は苦い顔を浮かべ、やがてどうでもよくなり頷いた。
「ありがとっ! 君、見た目はちょっと怖いけど優しいんだね!」
明らかに一言余計だ! と喉まで出かかったが、桜井の悪意の無い微笑みを見て言葉を抑えた。
恐らく、本人も余計な一言を言ったと言う事実に気づいてないだろう。俗に言う天然というやつだ。
「それより、お前急いでるんじゃないのか?」
「ふぇ?」
俺は話題を変える。コイツと話していると疲れるので、俺はさっさと逃げ出したかった。
桜井は、うーん、と考える仕草をし、そして答えが出たのかポンと手を叩く。
「そうだっ! 早く森田先生に謝りに行かなきゃ! それじゃ、えーっと……誰だか分かんないけど、ほんとごめんねっ! それじゃ、さらば!」
機関銃のように早口でそう言うと、桜井は風のように走り去っていった。
残された俺とシンジは、互いに目を合わせ呆然とする。
「……嵐のような奴だったな」
「だね。でも、俺っちああいうタイプ、結構好きかも」
俺は制服についた埃をはらい、ため息をついた。
僅か数分の出来事だったのだが、二十五メートルのプールを一気に泳ぎ切った後のような疲労感が体を包む。
「そういえばさ」
シンジが、頭をかきながら言う。
「森田先生、また腰抜かしちゃうんじゃね?」
直後、さっきまで俺達のいた保健室から「本当にすいませんでしたっ!」というヤツの叫び声が聞こえてきた。
振動が空気を伝わって、廊下にいる俺達まで届く。
「森田先生、大丈夫かな」
「今年から担任替わるかもね」
シンジは肩をすくめながら、そう言った。
これが、嵐のような赤い髪の女、桜井ミサキとのファーストコンタクトだった。
この時はまだ、俺達があんなことに巻き込まれるとは思いもよらなかった。
ちょっと……いや、だいぶ濃い転校生だな。まぁ深く関わる事も無く、お互いただのクラスメイトとして終わるのだろう、なんて思っていた。
しかし、それは甘い考えだった。甘すぎた。ミルクとチョコレートの三倍ミックスくらい甘すぎた。
この時点で俺と桜井とついでにシンジの運命は決まってしまったのかもしれない。
やれやれ、どうして今年はこうも波乱の夏になってしまったのか。
きっと、厄年だったに違いない。
2
桜井ミサキが転校してきてから、五日が経った。
転校初日から多大なインパクトを見せ付けた桜井は、早くも注目の的となっていた。
十分休みになると他クラスの男子が見学に来るし、昼休みになると桜井は毎日のように質問のシャワーを浴びていた。
ちょっと、いやかなり個性的な赤い髪の美人転校生。人を集めるキャッチフレーズとしては十分過ぎる出来だった。
当然、お近付きになろうと早速アタックを仕掛ける輩も多かった。
ひっきりなしに話しかける者。花束を渡し運命がどーのこーの言いながら愛の告白をする者。LOVEと書かれたシャツをブレザーの下に着て遠回りな感情表現をする者。
なんともまあ、日常では見ることの出来ないユニークな光景が引っ切り無しに見れたので、退屈はしなかった。
ちなみに、シンジは自作のポエムとやらを作ったらしく、それを手に持って「俺っちの愛を伝えてくるぜ!」と言い放ち桜井に群がる狼の群れに飛び込んでいった。
数分後にはボロボロになって戻ってきたんだけどな。
しかし、五日もするとようやくほとぼりが冷めたらしく、桜井の周りに群がっていた男子は忽然と姿を消した。
恐らく、ほとんどの奴らが特攻し敗れ去ったのだろう。桜井の事だから、例によって大音量で「ごめんなさいっ!」と次々に断ったのかもしれない。
思ったよりガードが固い……というより、当の本人はそんな色恋沙汰どころでは無いらしく、どちらかと言うと部活に興味があるようだった。
陸上部やら野球部やらサッカー部やら(ちなみに、後者二つは男子専用の部活である)を見学して回っているらしい。
「ここ五日間、話題はその転校生一色でしたよ」
俺はお茶を注ぎながら、とんでも転校生の事を叔母さんに話した。
急須から碗へと茶が落ちていく。緑茶特有の良い香りが漂ってきた。
「へぇー。それはそれは、何だか楽しい事になってるみたいね」
和室に座っている叔母さんは、落ち着いた声で言った。
俺は茶の入った碗を片手に持ち、よっこいしょと一言呟いて座布団に腰を下ろす。
「全然、楽しくなんかないですよ。この間なんか、他クラスから来た男子が桜井の事で言い争いになって、危うく殴り合いの喧嘩になるところでしたし」
熱々の茶をふーふーと冷ましながら俺は言った。
「あらあら。でも、そういう若さっていいわ」
「叔母さんも、そういう時期があったんですか?」
ようやく丁度いい温度になったので、俺は茶を啜りながら聞いた。
「ええ。私も、まだやんちゃだった頃はよく喧嘩したものだわ。男の子を取り合って、髪を引っ張り合ったり、爪で引っ掻きあったり……」
どこか遠くを見ながら、思い出に浸っているのだろうか。叔母さんはふうとため息をついて「あの頃は若かったわ」と呟いた。
一見、温和そうな叔母さんにも、そんなバイオレンスな過去があったのか。うーん、女性って怖いね。
「その時、私が勝ち取った男の子が小太郎さんなのよ。若い頃の小太郎さんは、野球部のエースで、それはもう全女生徒の憧れの的だったの。今でも十分格好いいけどね、ふふっ」
結局、行き着いたのはいつものノロケ話だった。
聞いているこっちが恥ずかしくなり、俺はとってつけたような笑みを浮かべ立ち上がった。
「それじゃ、夕食の買い物に行ってきますね」
時計を見ると、もう夕方の五時だった。小太郎おじさんが返ってくるのが午後七時頃なので、そろそろ夕食の準備をしなければならない。
我が家での家事は、一通り俺が担当している。
最初のうちは、子供なんだからそこまで気を使わなくていいと言われていたのだが、やはり居候をしている身としては甘える訳にもいかない。
「車に気をつけてね。それじゃ、行ってらっしゃい」
下駄箱で靴を履いていると、叔母さんが後ろからそう言った。
小学生じゃないんだから。と思いつつ、俺は元気良く返事をして玄関の戸を開ける。
きっと、叔母さんから見たら俺はまだ子供なんだな。まぁ、毎年シンジと餓鬼っぽい悪戯をやってるし、仕方ないか。
この年になってまだそんな風に見られてると思うと、我ながら情けないと感じるのだが、しかしどこか嬉しい気持ちもあった。
夏の日照りが少しずつおさまり、昼間の暑さが嘘のように心地よい空気が体に触れる。
夕日に照らされたアスファルトは、オレンジ色に輝いてどこか哀愁漂う姿に見えた。どこかの家に備え付けてあるのか、ちりん、ちりんという風鈴の音がと聞こえてくる。
道を歩く人影は、相変わらず少なかった。買い物帰りの主婦や、自転車に乗ったおじいさん。犬と一緒に走り回る子供。その後ろから、母親らしき女性が小走りで少年と犬を追いかけている。車道には車一台走ってない。
俺は、そんな夕暮れ時の風景が好きだった。何もかも平凡に、穏やかに流れる町並み。それは、変化の無い退屈な風景かもしれない。
しかし、変わらないからこそ、眺めていて安心できるのだ。
この町に来る前は、母が死んで色々とどたばたしていたせいもあってか、今の俺にとって変化の無いこの小さな世界は、めちゃくちゃ居心地が良かった。
学校に行って、シンジと馬鹿な事をやって、家に帰ったら飯を作って、おじさん、叔母さんと談笑しながら食卓を囲む。
ずっとずっと、その繰り返し。多少の変化はあるだろうけど、このまま大きな事件も無く時が過ぎていって、気付いたら大人になっているんだろうか。
「ふぅ――」
息を吐き、続いて大きく吸い込んだ。そして、自分の頬をぽんぽんと叩いた。
町を歩いていると、時々こうやってノスタルジックな気分に浸ることがある。
いかんいかん。今はやるべき事があるんだ。早く買い物を終えて食事の準備をしないと、おじさんの帰宅に間に合わなくなっちまう。
「今日は……なんとなくカレーでいいかな。最近食べてないし」
適当に今夜のメニューを決めると、俺は必要な食材を頭の中に浮かべる。
ニンジンはまだ残ってたな。ジャガイモと牛肉は無かったような気がする。後、忘れちゃいけないのがカレーのルーだ。
ルー無くしてカレーは作れまい。そんな事は誰でも知っている常識なのだが、中学生の時にルー無しカレーを作ってしまった経験があるため、今でもカレーを作る際にはルーだけは忘れないように気をつけている。
ぼんやりと空を眺めながら、商店街へと続く滑らかな坂道を歩く。
夏の風物詩であるひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。セミの鳴き声はうるさくて嫌いだが、ひぐらしのそれは嫌いじゃない。
ひぐらしの鳴き声が、夕暮れ時の涼しい風を運んできてくれるような気がするからだ。
俺は、夏の一日の中で、ほどよく静かな夕暮れ時が一番好きだった。
「誰かぁぁぁ――――それ、止めてぇぇぇ――――!」
そんな考えは、聞き覚えのある叫び声で打ち砕かれた。
ひぐらしも驚いて鳴き声を止めてしまうような大声が、坂道の遥か上の方から降ってくる。
「な……!?」
顔を上げた視界の先に飛び込んできたのは、ものの見事に平和に浸っていた俺の気分をぶっ壊してくれた。
坂道を勢い良く下ってくるそれが自転車とかだったら、別に何でもない事だった。しかし、ありえないスピードで坂を下ってきたのは車椅子だった。
大きな二つの車輪が、どこかに飛んでいってもおかしくないくらいの勢いで回転し、その車椅子に乗っている少女は振り落とされないよう必死に手すりに掴まっていた。
そして、その背後から車椅子を追い走っているのは、あの桜井ミサキだった。
赤いショートヘアを、遠方からでもわかるくらい揺らして一身腐乱に車椅子を追いかけている。
とにかく、ただ事では無いと思った。
転がり落ちるように坂道を走る車椅子は、いつ倒れてもおかしくないくらい不安定だった。そりゃそうだ、車椅子はレース用の自転車のように高速回転に対応できるほど柔軟な器具ではない。
そして、不可思議な事が一つ。車椅子に乗っている当の少女は笑っていた。自分が危険な状態にあるにもかかわらず、まるでジェットコースターを楽しむ子供のように笑っていたのだ。
意味がわからない。最近は車椅子で坂を下る遊びが流行っているのだろうか。そう考えると、このスリルがたまんないッス! とか言っている老人が今日のニュース辺りで報道されてもおかしくない。
いや、危険だろ! と俺は自分自身に突っ込み、訳の分からない考えを否定した。
「何やってんだよあいつは!」
俺はごちゃごちゃとした考えをさっさと振り払い、地面を思い切り蹴った。暴走する車椅子へと一直線に向かう。
両手をがむしゃらに振るい、車椅子の軌道上に先回りし、そこで立ち止まった。
車椅子に乗った少女の顔は、突然進路上に立ち塞がった俺を見て驚きの表情へと変わる。
「あ、危な――――いっ!」
坂の上から、桜井が大きな声を張り上げた。
危ないなんて承知の上だバカヤロウ。俺の貧弱な脳みそじゃ、これくらいしか止める方法が思いつかなかったんだよ!
「きゃああっ!」
車椅子の少女が小さく悲鳴をあげる。
寸前まで迫った車椅子に、俺は体ごとぶつかっていく。
強烈な痛みが、膝の辺りに広がった。
「ぬおりゃあっ!」
ずざざざざっ! と音を立てながら、俺は車椅子に押されつつ後退する。
下り坂で勢いのついた車椅子は中々その速度を落とさなかったが、重心を低くし無理やり押さえつけると、徐々に減速しやがて停止した。
何とか転ぶ事無く止まったか……。俺は息を切らしつつも、大事に至らなかった事に安堵した。
「だ、大丈夫か……?」
車椅子に座っている少女へと視線を向け、声を掛ける。
人形のような、可愛らしい女の子がそこにいた。
俺は大の年下好きという訳ではないのだが、それでも目の前にいる少女の小動物的可愛らしさには息をのんだ。
胸の辺りまですらりと伸びた黒髪は、まるでどこぞの芸術品のように美しく、水晶のような黒い瞳はきらきらと輝いて見えた。
思わず護ってあげたくなるような儚さを纏った少女が、そこにいた。
少女はぽかん、と口を開けていたが、やがてギャグ漫画を読み終えた子供のようにお腹を抱えて笑い始めた。
そして、次に出てきた言葉は「ありがとう」でも「助かった」でもなく、
「あははっ! すっごい面白かった――!」
そんな事を言いやがった。満面の笑みで。
「アホか! 全然面白くねえよ! お前、危うく大怪我するところだったんだぞ!?」
思わず怒鳴り声をあげる。もし、あの速度でバランスを崩しでもしていたら、車椅子から少女は投げ出され硬いアスファルトに叩きつけられていただろう。
しかし、少女はきょとん、とした表情を浮かべ
「お兄ちゃん、何でそんなに怒ってるの?」
本当に何もわかってないような口調で、そう言った。
「あのなぁ、もし俺が止めてなかったらどうなってたと思う? 人間ってのはそんなに頑丈に出来てないんだぞ? ちょっとした遊びのつもりが、大惨事に発展する事だって……」
「あ、お姉ちゃんだ! お――い、お姉ちゃ――ん!」
俺の説教には耳も貸さず、少女は後ろを振り返り、こちらに向かって走ってくる桜井に手を振った。
少女の視線を追い、俺もそちらへと顔を向ける。そこには、もうすっかり見慣れた赤い髪があった。
桜井はイノシシを連想させるような猛ダッシュで少女の元へ来ると、息を切らしながら少女の肩を掴む。
俺は耳を塞いだ。
「千夏、大丈夫っ!? 怪我は無い!?」
「うん。この通り、全然大丈夫だよ」
こりゃ驚いた。少女は桜井の大声を至近距離で受けたにもかかわらず、平然としているではないか。
桜井は「よかった」と胸を撫で下ろした後、隣で呆然と立ち尽くしている俺に気付いた。
「どうも助けてくれてありがとうございましたっ! えーっと、あれ? 君は確か……」
礼を言いながら頭を下げ、俺の顔を見た瞬間、桜井の言葉はそこで途切れた。
「えーっと……」
桜井の口からは、二の句が出てこない。
こいつと関わると面倒臭い事になること間違いなし(おまけに今は買い物の途中だ)なので、何も言わず立ち去ろうと思ったが、自己紹介くらいはしておこうと思い口を開けた。
「秋山浩太」
「え?」
「俺の名前。同じクラスなんだから、名前くらい覚えておけよ、桜井」
桜井は納得したような表情をし、ぽん、と手を叩いた。そして、俺に向かって指を指す。
人に向かって指差すのはいささか失礼だぞ桜井。
「こーちゃん!」
「……その呼び方は出来ればやめて欲しい」
「じゃあ、浩太?」
いきなり呼び捨てかい、と思ったがこーちゃんなんて呼ばれ方するよりはマシだろう。俺はしぶしぶ頷いた。
ちなみに、こーちゃんという恥ずかしい呼び名はシンジが発案したものだ。
シンジは未だにその呼び名で呼んでくるが、中学の頃はともかく、高校生にもなってこーちゃんと呼ばれるのは恥ずかしい事この上ない。
「この人、お姉ちゃんの彼氏?」
千夏と呼ばれた少女が、俺と桜井の顔をを交互に見て言った。
桜井は顔を真っ赤にしながら、手をぶんぶんと振る。
「ち、ちちち違うよっ! やっ、全然違うからっ! 胸とか揉まれたりしたけど、この人はほんとにただのクラスメイトで……」
後半の説明は余計だ桜井。
「変態さん?」
千夏が半目で俺を見る。やめろ。その軽蔑するような目つきはやめろ。悪い事などしていないのに、何故か罪悪感が沸いてきて心が痛むだろうが。
「断じて違う」
俺はきっぱりと否定した。
桜井の胸を揉んでしまったのは事実だが、あれは不慮の事故というやつだ。
そりゃ、俺は一般的な性欲は持ち合わせているが、変態などでは断じてない……と思う。
「じゃあ、痴漢さん?」
「それも違う! というか、名称が変わっただけで意味はほぼ同じだぞ」
必死に否定する俺を見て、千夏はきゃはは、と口に手を当てて笑い出した。
「必死になっちゃって、おっかし――! 変な顔――!」
このやろう、わかっててやってたな……。
「こら! 千夏! 助けてもらったのに、からかっちゃダメでしょ!」
「だってー、このお兄ちゃんイジリがいがあるんだもーん」
俺を指指す千夏。こら、人を指差すのは失礼なんだぞ。って、前にも誰かに同じ事をやられたような気がする。
「おい、この生意気な奴は誰なんだ?」
怒ったら負けだ。俺は愉快そうに笑う千夏を無視し、桜井に問う。
「えっと、千夏は私の妹です……ごめんなさい」
申し訳無さそうに俯きながら、桜井は言った。
「桜井千夏、十歳でーす。よろしくね、こーちゃん」
千夏はぶい、とピースサインを作った。
なるほど、何となく納得出来る。纏っている雰囲気が似ていると感じたのはそのせいか。
「で、桜井よ。どうして車椅子が坂をあんなスピードで下ってきたのか、その経緯を詳しく説明してもらおうか」
まさか車椅子の限界を試したかった、などと言う馬鹿げた理由ではあるまいな。
そのまさかだった。
ただ、それを発案したのは千夏の方で、桜井……(いや、苗字が同じだとややこしいのでミサキと呼んでおこう)がちょっと目を放した隙に車椅子による一人坂道レースを始めてしまったそうだ。
スリルを求めたい年頃なのはわかるが、それにしたって危険だろ。
「……と言う訳で、私の不注意だったの。本当にごめんなさいっ! そしてありがとうっ!」
「わ、わかった。わかったから大声を出さないでくれ」
耳を塞ぐ。全く、こいつの喉はどんな構造してるんだ?
それはさておき、俺は悪戯小娘の方に視線をやった。
「お前、危ないとか思わなかったのか?」
「ぜーんぜん。だって、お姉ちゃんがついてるもん。お姉ちゃんは、私がピンチになったらすぐ助けてくれるもんね?」
ミサキの裾を掴み、千夏は自慢げに言った。
「いやいやいや、さくら……いやミサキ、さっき思いっ切り助けを求めてたんだけど」
誰かー止めてーって。
「それでも頼りになるの! だからちょっとくらい無茶しても大丈夫なの!」
千夏は頬を膨らませ、鋭い目つきで俺を見る。子供特有の屁理屈。こうなっては反論しても無駄だと思い、俺は黙り込んだ。
会話が途切れる。ひぐらしの鳴き声が、また聞こえ始めた。
夏の夕暮れに。坂の真ん中に佇む俺と赤髪と車椅子の少女。第三者から見たら、不自然すぎる光景だろうな、と思った。
「じゃ、俺は買い物の途中だから」
特に会話する事も無くなったので、俺はおいとますることにした。
十四歳の誕生日に叔母さんから貰った、銀色の腕時計を見る。時刻はもう五時半を周っていた。
「待って! 浩太、その足……」
ミサキがしゃがみ込み、俺の右足に触れる。見ると、皮が擦り切れたのか、少し血が出ていた。
心配そうに俺を見上げるミサキ。その表情が妙に色っぽくて、俺は思わず目を逸らしてしまった。
「こ、こんなもん怪我の内に入らないから大丈夫だって。唾つけときゃ治るから、気にしなくていいよ」
そう言うと、ミサキは俺の右足の太股を、その小さな手のひらで掴んだ。そして、ジーパンの上から大腿四頭筋(要するに太もも)を揉んだ。続いて、ミサキの手はアキレス腱に伸び、再び揉む。
あまりにも自然にそんな事をするもんだから、俺は一瞬、何をされているのかわからなかった。
少し考える。なんだこれ、マッサージか? 何でマッサージを? 意味が分からない。
千夏と目が合った。千夏も、クエスチョンマークを頭に浮かべていた。
いい加減居たたまれなくなり、俺は疑問を口にする。
「おい、さっきからお前は何を――」
「凄い……」
ミサキが俺の質問を遮るように、感嘆の声をあげる。
「なに、この自然な筋肉……すごくたくましい……んっ……大腿四頭筋も、あっ……大腿二頭筋もしっかり鍛えられてる……それに、やっぱりあのバネは……」
「み、ミサキ?」
ミサキは息遣いを荒げ、ぶつぶつと何か呟き、俺の足を触り時折揉んだ。
その異様な姿を見て、背筋に寒い物を感じた。何かやばい雰囲気だ。とにかく、今すぐ離れなければ。
そう思った瞬間、ミサキが凄い勢いで顔を上げた。獲物を見つけた猫みたいに大きく見開かれた目が、俺を捉える。
その瞳には、じりじりとした熱いモノが灯っていた。俺は蛇に睨まれた蛙のように、その場で硬直してしまう。
「浩太って何かスポーツやってた?」
「え? い、いや、ずっと帰宅部だけど」
「嘘!? じゃあ、何か特別な訓練とか受けてた? まさか、幼少時に軍隊経験有り?」
そんな波乱万丈な人生は送ってきてないぞ。
「俺はどこぞの諜報員じゃない。お前はさっきから何が言いたいんだ?」
ミサキは立ち上がると、俺の足に視線を向けつつ、やがて何の前触れも無く俺の手を握った。
女性特有の柔らかな肌触りが、手のひら全体に伝わる。唐突な行動に驚き、何のつもりだろうとミサキの顔を見ると、彼女の真っ直ぐな瞳が俺を捉えていた。
混じりけの無い宝石みたいな瞳に、俺の姿が映っている。そこに秘められた美しさと迫力に、思わず唾を飲んでしまう。
「お願いがあるの」
俺の手を握ったまま、ミサキは唇と唇が触れてしまいそうなくらい近くまで、顔を寄せてきた。
彼女の温かい吐息が肌に触れる。無意識のうちに、心臓の鼓動が激しくなった。
「な、何だよ?」
俺は動揺を悟られないよう、精一杯威勢を張った声で言った。
ミサキの背後で、千夏が両手で目を覆い、しかし指の隙間からしっかりとこちらを観察しているのが見える。
「私とっ……! その……」
一拍置いて、決意したような声が放たれる。
同時に、ミサキの手がより一層強く俺の手を握る。その力はどんどん強くなり、徐々に手に痛みが生じてきた。
その握力は、女性のものとは思えないくらい強い。
……ぐおお! ちょっと待て、手が痛い! もげる! 何を言おうとしているのかわからんが、とりあえず手を解放してくれ!
「一緒にぃぃぃっ!」
おまけに、お得意の大声の第一波が俺の鼓膜に大打撃を加える。
離れようにも、手を握られていて逃げる事が出来ない。
もはや、この後の展開は容易に予想できた。できたからこそ、俺は恐怖で泣き叫びそうになった。
ミサキがすーっと息を大きく吸い込む。そんな小さな体のどこにそれだけ入るんだと思うほどそれは続き、一瞬の間を空けてそれは放たれた。
「走ってくれえええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ――――!」
空気が震撼するほどのそれは、獣の雄叫びに近かった。
ミサキの後ろにいた千夏も、目をぎゅっと瞑りながら耳を塞いでいる。
俺も耳を塞ぎたかった。塞いだとしても聴覚が無事でいられたかどうかわからないというのに――何と言う最悪の状況――俺は手を握られていた。
よって、ミサキから放たれた竜の咆哮の如きそれを、俺は真ん前の一等席でくらってしまったのだ。
「がはっ……天使が……見える……お迎えが……」
魚眼レンズを通して見ているかのように、目の前の光景がゆらゆらと歪んでいく。
「あ、あれ? 浩太? 浩太――っ! あわわ、だ、大丈夫っ!?」
ミサキに胸倉を掴まれ、激しく上下に振られる。
死人にムチを打つとはこういう状況を言うんだろうな。
「浩太……逝きまーす……」
「ちょっ! 逝っちゃダメ――!」
もう、どうにでもしてくれ。
投げやりな思考の中、聞こえるのは耳の中を走るキーン、という嫌な音だけだった。
で、その後俺がどうなったかというと、一文で表すならば、非常に面倒な事に巻き込まれてしまった。これに尽きる。
順序立てて話そう。まず、俺の健康状態だが、不幸中の幸いというべきか、あの咆哮を受けたにもかかわらず俺の聴覚は無事だった。
自分でもよく鼓膜が破れなかったものだと驚いている。千夏曰く「お姉ちゃんの大声なんて、三日もすればそれなりに耐性出来るからだいじょーぶ。最初はちょっとキツイけどね」……と、いうことらしい。
じゃあ何か。俺の耳は着々と鍛えられてるってことなのか。大声に対する耐性。何とも実用性の無いスキルだ。
それはさておき、ミサキはあの時、俺に何を『お願い』したかったのか。俺の意識が戻った後、詳しく聞いたのだが、
「マラソン大会、ねぇ」
ベットに寝転がりながら、ミサキに手渡されたチラシを眺める。
そこには大きく『第三回岩崎町カントリーマラソン』と書かれており、走るコースや概要が載っていた。
このマラソンイベントは、地元の商店会が年に一度開いている地域復興イベントだ。三人一組で一人十二キロ、計三十六キロを走りその順位を競う。
とは言っても、所詮は地域のイベントだ。今年で三回目となるマラソン大会だが、出場者はほぼ固定されており、商店街のおやじさんや、若い者には負けんと意気込む老人。そして、地域貢献という理由で近所の高校からかき集められた運動部の連中若干名といった内訳だ。
しかしながら、基本的にこの時期はどの学校の運動部も夏季の大会に向けて猛特訓をしている。その為、全国を夢見る運動部は例外なくこのマラソン大会を毛嫌いしていた。
そうした考えもあってか、毎年どの高校でも強制参加のはずれクジを引くのは、レギュラー落ちした部員かやる気の無い運動部の人々と相場が決まっている。
もちろん、希望すれば自主参加も出来る。特に高校生は若いからといって歓迎されるし、世間ウケもよくなるかもしれない。
が、当然の如くマラソン大会にわざわざ自主参加するような酔狂な高校生はいない。
だってそうだろう? こんな暑い時期に、そんな面倒臭いイベントに参加するのはまっぴらゴメンだと考えるのが一般的だからだ。
そして、俺もそう考えるうちの一人な訳で。
「絶対やらねぇ……。何が楽しくてじーさんばーさんに混じってマラソンしなきゃならんのだ」
俺はチラシを無造作に投げ捨て、寝返りを打った。
ミサキの頼み事というのは、一緒にカントリーマラソンに出場してくれないか、というものだった。
もちろん、俺は即決で断ったのだが、
「筋肉のバネ、柔軟性、瞬発力。どれをとっても、浩太には走りの素質があると思うの! だから、お願いっ! チームメンバーの一人になって!」
と言って、何度断ってもしつこく食い下がってきたのだ。
ミサキの熱意と勢いとしつこさに押され、つい「考えさせてくれ」と言って、何とかその場から逃げおおせてきた次第である。
まあ考えるまでも無い。適当に他を当たってくれとでも言ってキッパリ断ろう。
「浩太、入ってもいい?」
部屋の外から、叔母さんの声が聞こえた。
俺はむっくと起き上がり、ドアを開ける。
「何か用ですか?」
「部屋のお掃除をしようと思って。少しだけいいかしら?」
叔母さんは時折、このように抜き打ちで部屋の掃除をしに来る。
俺の部屋はそれなりに片付いているとは思うのだが、お菓子の食べカスなど(そのほとんどはシンジが落としていった物だ)が残っていると虫が湧くので部屋掃除はこまめに行われる。
ちなみに、叔母さんは大の虫嫌いだ。だから何度言っても、掃除だけは頑として譲らなかった。
自室を抜き打ちで掃除されるというのは、思春期の男子としては中々致命的である。主にえっちな本とかビデオとかが見つかった時の気まずさといったら……その場で首を括りたくなるような重苦しい空気になるのだ。
そういった経緯を経て、自室の場合は一言声をかけてから掃除をするという決まりが我が家には出来ていた。
「適当でいいですよ。シンジの奴は最近部屋に来てないし、食べカスはほとんど無いと思いますから」
「ダメよ。食べカスが無くても、不潔にしているとアリやゴキブリが出ますからね。今回も、細かい所までお掃除します」
叔母さんは腰に手をあて、絶対に引きませんと言わんばかりに胸を張った。
相変わらず、変なところで頑固な人だ。普段は融通が利くんだけど、逆に引かない時は絶対に引かないのだ。
「あら? これってカントリーマラソンのチラシじゃない。浩太、この大会に出場するの?」
叔母さんは床に落ちていたチラシを拾い言った。
「いや、知り合いに誘われたんですけど……まぁ面倒だし出ないと思いますよ」
「あら、どうして? いいじゃない、マラソン。おっ、優勝商品は商店街の割引券ですって。叔母さんも出ようかしら」
叔母さんが、商品欄を見て目を輝かせた。
年の割には若く見える叔母さんだが、流石に十キロを走り切る姿は想像できない。
途中で「もうだめぇ〜」と座り込んでいる姿なら、十分想像できるのだが。
「あ、何よその目は〜。こう見えてもね、学生時代は持久走のタイムも学年トップだったんだから」
力こぶを作って俺に見せる叔母さん。
俺はどう反応していいのか分からず、乾いた笑みを浮かべてごまかした。
「浩太はいっつも外で駆け回ってるんだから、体力には自信あるでしょう? 女の子にカッコいい所をアピールする絶好のチャンスじゃない」
「こんな大会で優勝しても、せいぜい商店街のおばさん方にもてはやされるだけですよ。それに俺、競争とか苦手ですし」
順位を競えば、必ず勝つ者と負ける者に分かれてしまう。
俺は、そういう競い合いが好きじゃなかった。勝者が感じる優越感は、それはもう心地よいものなんだろうけど、敗者が感じる惨めさは、言葉で表せないくらい辛い。
だったら、最初から競わなければいいのだ。平和が一番、競争なんてものはごめんだ。
「もー、それでも男の子なの? 男だったらぬくぬくぬるま湯に浸かってないで、ドーンと物事にぶつかっていかなきゃきゃダメよ」
「すいません。夏はクーラーでヒンヤリ、冬はコタツでまったり、春はお布団にくるまってぽやぽやするのが大好きな人間なので」
そう言うと、叔母さんは大げさに肩をすくめた。
とにかく、この話は断ろう。ミサキも帰宅部の俺なんかより運動部の誰かを誘えばいいのに、と思った。
「待ってよ――――! 浩太ぁぁぁ――――っ!」
背後から放たれる叫び声。俺はそれから逃げるように、右へ左へと校内を走り回る。
「イヤだ! てか、いい加減諦めろっ!」
「浩太じゃなきゃダメなんだよぉぉぉ――――!」
「誤解を招くような言い方をするな――!」
放課後。誰よりも早く教室を抜け出し、廊下を走る俺とミサキ。周囲の奴らは、すれ違いざまに興味深そうな視線をこちら目掛けて投げかけてくる。
ヒューヒュー、お熱い事で。よ、伊達男! などなど、明らかに誤解の混じった言葉も飛んできた。
あの車椅子事件から三日。俺はしつこく追い回してくるミサキから必死の思いで逃げていた。
追われている理由は、言うまでも無くカントリーマラソンの件だ。
確かに俺ははっきりと断ったのだ。特に挑発めいた風にも言ってないし、気に触るような言い方をした覚えも無い。
ただ、俺以外の奴を探してくれと、そう言って丁重にお断りしたにも関わらず、あいつは、ミサキは肩を震わせて
「お願いだぁぁぁぁぁ! この通り、頼みますっ! 何でもするっ! だから、一緒に走ってくれ――――!」
と言って、土下座までしたのだ。ヤクザも真っ青になるような大声をあげながら。
たかが商店会主催のマラソンなのに、何故そこまでするのか、俺にはわからなかった。ついでに言うと、俺に拘る理由も。
とにかく、そのあまりにも突拍子の無い行動に、俺は思わず怖くなり謝りながら逃げたのだ。
あれから三日。出場申込書を片手に持ったミサキからの逃亡生活は、今も現在進行形で続いている。
いくらなんでもしつこすぎるだろ。めちゃくちゃだ、桜井ミサキという女は。
「だからっ! 何度も言ってるようにっ! 他の奴をっ! 探せっ!」
息を切らしながらも、俺は必死に訴える。だが、その髪の色のように燃える様な闘志を瞳に浮かべたミサキは、諦める事無く、むしろその言葉に焚きつけられたかのように速度を上げる。
「浩太しかいないの! 他の人じゃ、たぶん、勝てないっ! 優勝、出来ない!」
「なんだそりゃ……! そんなに商店会のっ! 割引券が、欲しいのか!?」
一段飛ばしで階段を上る。昔からシンジと駆け回っていたので、足には多少なりとも自信があったが、それでもミサキを振り切る事は出来なかった。
二階を抜け、三階の廊下を走り抜ける。疾風のように駆け抜ける俺とミサキを見て、上級生は皆それぞれ驚きの表情を浮かべている。
「くおらぁ! 廊下を走るな!」
と、廊下の前方に熊が立ち塞がった。
いや、違う。あれは天草高校の教師陣の中でも比較的若く体格もいい山田先生だ。
まずい、捕まったら少なくとも一時間はみっちりお説教をくらっちまう。俺は咄嗟に進路を変更。再び階段を駆け上っていく。
「っと、しまった!」
うちのようなちっぽけな高校に四階なんて無い。つまり、俺が辿りついたのは逃げ道の無い屋上だった。
鉄製の扉を開けると、眩い光が視界を真っ白にする。そして、肌を焦がすような熱風が吹き抜けた。
手で日光を遮り、うっすらと目を開けると開放的な空間が広がっていた。
雲一つ無い広大な空が見える。太陽に照らされた白い校舎や、外に出たせいか一層うるさく聞こえるセミの鳴き声。
それら全てが、いきなり目の前に飛び込んできたもんだから、何だか急に別世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。
ああ、夏だなぁ。
「は、はうあっ! 何でそこで止まってるのぉぉぉ――――!?」
「は?」
思わずぼうっと呆けてしまっていた俺の思考は、声のする背後を振り返ってようやく我に返った。
階段を上りきる直前にジャンプしたのだろう。そこには、こちらに向かって跳んでくるミサキの姿があった。
ああ、またかよ。と、妙に冷静な思考の俺。スローモーションで流れる光景をまるで他人事のように眺め続ける。
口を大きく開け、驚愕の表情を浮かべながら突っ込んでくるミサキ。空中を舞うミサキと、ばっちり目が合った。
そして、ミサキは俺の体を覆うように――例えるならばプロレスのフライングプレスだ――墜落した。
「どぼくじゃぁっ!」
と、意味不明な言語を放つのは俺。
「あうぎゃっ!」
少々遅れて、ミサキの悲鳴。
弾丸のように突っ込んできたミサキに、俺は成す術も無く紙切れのように吹っ飛ばされた。
「いってぇ……」
最近、何だか吹っ飛ばされてばかりのような気がする。
俺は背中にじーん、と広がる痛みを感じながら、小さくため息をついた。
「ご、ごめんっ! 私、その、またやっちゃった……」
目を開けると、申し訳無さそうにこちらを見下ろすミサキの顔が目に入った。
こんなに可愛らしい風貌をしているのに、どうしてこうも猪みたいに止まる事を知らない性質なんだろうか。
「いいからどいてくれぇ……ぐっ」
「だ、大丈夫? どこか怪我したの!?」
ミサキは、俺の頬に手を当てながら言った。
「いや……重い」
「うっ……」
俺の正直な要請に、ミサキは表情を歪めつつもおずおずと体をどけた。
大きく深呼吸しながら上半身を起こす。続いて、腰や肩を回して各部の点検。背中、異常なし。手足、異常なし。頭、百×百は千。あれ? ……たぶん、異常なし。
「あの、あの、だ、大丈夫?」
「おかげ様で少し頭が良くなったような気がする」
俺は思い切り嫌味ったらしく言ってやった。
しかし、ミサキはきょとん、とした表情を浮かべる。
「そうなの? よく分かんないけど、怪我が無くてよかったぁ」
ダメだ。天然に皮肉は通じない。てへへ、と褒めても無いのに何故か照れたように笑ってやがる。
「とりあえず……落ち着いて話すか。いつまでも鬼ごっこやってたら体が持たん」
「うん」
俺は立ち上がり、屋上へと足を進めた。
後ろから、慌ててミサキもついてくる。
まだ日は沈む様子も無く、ギラギラと太陽光線が強かったので日陰になっているところに腰を下ろした。
ミサキも俺の隣にちょこん、と膝を抱えて座る。
人気の無い屋上は、ただただ静かで、自然の奏でる音だけが辺りに響いていた。
夏風が吹いた。ミサキは風に靡く赤い髪を押さえる。俺が見ている事に気付くと、顔を少し赤らめて俯いた。
「それで」
俺は話を切り出す。
「どうして、俺なんだ? お前、さっき走ってたときに言ってたが、優勝を目指すなら運動部の連中の方が俺なんかよりずっといいだろ」
とりあえず、単純な疑問をぶつける。しかし、ミサキは首を横に振り、答えた。
「ダメだったの」
消えそうな声。
「全部の部活をあたってみたけど、どこもカントリーマラソンの話をしたら、渋い顔されちゃって……」
それは、まぁそうだろうな。いくらミサキみたいな可愛い女子に頼まれたとしても、カントリーマラソンはそれを差し引いても十分ダルい。
おまけに、運動部となれば今は夏の大会一直線だ。レギュラー落ちした部員はもうマラソン強制参加の枠に入ってるだろうし。
「じゃあ、別に運動部じゃなくてもいいじゃないか。そこら辺のおばちゃんにでも話持ち掛けてみろよ? 喜んで参加すると思うぜ」
「ダメなの。それじゃ、優勝出来ない。優勝しなくちゃ、意味がないの。一位になってやるって約束しちゃったから」
いつもの様子からは想像も出来ないような、弱々しい声でミサキは言った。
その横顔はどこか寂しげで、まるで世界に一人取り残された人間のように孤独感を醸し出していた。
「約束って……?」
聞いてはいけないような気もしたが、普段の騒々しいミサキとはかけ離れた、寂しげな表情が気になったので聞いた。
ミサキは少し黙り、やがてその小さな顔をこちらに向けた。
「私の妹……浩太は知ってるよね、千夏。ほら、車椅子の」
俺は小さく首を縦に振った。
「あの子ね、本当は歩けるんだ」
ミサキは俺から視線を外し、どこか遠くを見つめながら言った。
どういうことだ? と尋ねる前にミサキは話を続ける。
「でも、千夏は歩く事を怖がってるの。リハビリをさせようとすると、泣きじゃくって暴れるの。痛むはずの無い足が痛むんだって。お医者さんに聞いたら、幻覚痛って言って怪我の後遺症による心理的なものなんだって」
ミサキは、いつも通りの明るい口調で話す。まるで、昨日の夕飯が何であったとか、そんな世間話を話す時みたいに。
急に頭がくらくらした。夕暮れの坂で出会った千夏の姿が頭に浮かぶ。
「だから、私はあの子に歩き出す勇気をあげたくて……色々やったんだけど、今のとこ、全部大失敗。ほら、私ってドジだから何やってもうまくいかなくて」
俺の表情が曇っている事に気付いたのか、ミサキは笑顔を俺に向ける。しかし、その笑顔はどこか哀しさを含ませていた。
「この赤い髪もね、千夏が落ち込んでた時に黒髪が陰気臭いって言われて……あ、千夏は普段、そんな事言うような子じゃないんだよ? だけどほら、やっぱり入院生活が長いと気が滅入っちゃうもんね。それでイメージチェンジというか、情熱の赤にしたら元気になってくれるかなって思って」
ミサキは恥ずかしそうに赤い髪に手を当て、言った。
穏やかな風が、俺とミサキの間を流れていく。
そんな理由があるなんて、考えもしなかった。都会で流行ってるんだろうなあ、なんて考えていた自分が、物凄く幼稚に思えた。
とんでもない奴だよ、お前。すげぇよ。妹の為に髪を染めるなんて。もし校則の厳しい学校だったら、退学になるかもしれないんだぞ?
「でもね、私は諦めないの! この髪が赤く燃え上がっている限り、絶対に諦めないっ! おんどりゃーっなめんなこんちくしょーって感じ!」
ミサキは唐突に立ち上がり、いつもの大声で叫んだ。そして、握り締めた拳をせいっぱい空高く掲げる。
その姿が、まるで正義のヒーローみたいで可笑しかった。
バカだよ、お前。底抜けのバカ。そして、俺みたいにだらだらしてる奴とは比較できないくらい器がでけぇよ。
「はは……あはははっ!」
自然と、笑いがこぼれていた。
ミサキがむー、と頬を膨らませて俺を見る。
「あー、笑ったな? 私は真剣なんだからねっ!」
「悪い悪い」
「……で、改めてお願いしますっ! その、私に協力し……むぐっ」
俺は手のひらでミサキの口を塞ぎ、言葉を止めさせる。
もう、心の中で俺の考えは決まっていた。女の子ってのは、ずるいよな。あんな顔見せられたら断れる訳ないじゃないか。
「わかったよ。協力する」
「ふぇ?」
手のひらの中で口をもごもごと動かすミサキ。
俺は手をどけてやり、ミサキの頭を撫でてやった。
「今年のカントリーマラソン一位の座は、俺達で奪ってやろうぜ」
瞬間、ミサキの表情は打ち上げ花火みたいに、ぱあっと輝いた。
そして、目頭に薄らと涙を浮かべ、力いっぱい抱きついてきた。
「うわぁぁぁんっ! 浩太、ありがとぉぉぉ――――っ!」
いつもの大声が炸裂する。が、俺の耳にも耐性がついたのか、多少の耳鳴りはしたものの苦痛ではなかった。
それよりもだ。女子の柔らかい体が密着しているというこの状況は、その、俺から平常心をどんどん奪っていくので精神衛生上よろしくないのだが。
ミサキの年の割には大きい胸が(Dカップか!?)制服越しに伝わってくる。
顔が熱いのは、このクソ暑い気温のせいだけじゃ無さそうだ。
「ミ、ミサキ。オッケー。お前の感謝の気持ちは十分わかった。わかったから、離れてくれ」
どぎまぎしながらそう言うと、ミサキも冷静さを取り戻しばばばっと体を離す。
湯気でも出るんじゃないかというくらい、真っ赤に顔を染めながら「やだ、私、ご、ごめんなさい」とか呟くミサキ。
そんな反応されたら、こっちも恥ずかしくなってしまう。俺は頭を掻きながら、ふと屋上の出入り口に視線をやる。
「ちょっと、押さないでよ」
「バカ、見えねーって。今、いいとこなんだから」
「ほほう。桜井ミサキと秋山浩太か……。ガードが固い者同士、波長が合うのだろうか。ふむふむ」
そこには、扉の影からこちらを覗く野次馬が数名いた。
俺はため息を吐きながら、やれやれ面倒な事に首を突っ込んじまったな、と改めてそう思った。
3
ミサキと鬼ごっこをしていたせいで全く気付けなかったのだが、夏休み前の悪魔が学生に牙を向く時間がやってきた。そう、期末テストが始まったのだ。
ここ数日、俺はミサキに追い掛け回されていたせいで、全く勉強をしていなかった。おかげで、久々に一夜漬けをするハメになったのだ。
睡魔が襲い掛かってくる中、ちゃんと勉強していれば難なく解けただろう問題が(本当だぞ!)頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
朦朧とする意識を根性で支えながら、ペンを握って答案に答えを書き込む。
睡魔と一進一退の攻防に何とか打ち勝ち、テスト初日の三時間を無事乗り切る事が出来てさあ帰って寝ようと思った矢先。
それはラブレターと呼ぶにはあまりにもお粗末な状態で下駄箱に突っ込まれていた。
「放課後、昼ごはん食べたら兜神社に集合ね(はぁと)……?」
下駄箱に貼り付けられたルーズリーフを手に取り、そこに書かれている文字を読む。
あまりにも一方的な召集令状。こんなモンを人の下駄箱にガムテープで貼り付けるような奴は、一人だけしか思い当たらない。
私の推理によりますと……犯人はあなたですね、ミサキさん!
と、頭の中で推理漫画おなじみの台詞を思い浮かべつつ、俺はがっくりとうな垂れた。
帰ってぐっすり眠れると思ったのに……。しかし、この間、協力するとはっきり言ってしまった次第、断るわけにもいかないだろう。
「こーちゃんっ。一緒に帰ろうぜぃ」
背中を叩かれたので振り返ると、きらんっ、と言う効果音と共に星のエフェクトが出てきそうなウインクが飛んできた。
うわっ。思いっきりシンジウインクをくらっちまった。今日はもういい事ないな。
「ちょっとちょっと! その渋すぎるコーヒーを一気飲みした時みたいな表情は何!? そんなに俺っちと二人きりで帰るのが……嫌?」
少し甘えるようなシンジの口調に、思わず気分が悪くなった。
「帰る」
「わわっ、待って。冗談だよ冗談。もう、こーちゃんはすぐ真に受けるんだから」
俺はミサキからの召集令状をポケットに入れ、さっさと靴を履き学校を出る。瞬間、もわっとした熱気が体を包み込んだ。
肌がじりじりと焼けるような嫌な感覚を覚え、ついでに額からは汗がじんわりと浮かび上がってきた。
外の気温は完全にピークに達しており、太陽はもはや殺人的としか思えない日光を放っていた。
その暑さ故か、蜃気楼が発生し空気がゆらゆらと揺れて見える。
俺はますますグロッキーな気分になりつつ、その灼熱地獄へ足を進めた。
ああ、クーラーが恋しい。涼しい部屋でカキ氷ブルーハワイ味が食いたい。バニラアイスでも可。
「そういえばさ、こーちゃんあっちの方はどうなってるの?」
「あっちの方?」
シンジはにやぁ、と実に嫌らしい笑みを浮かべた。
「ほら、ミサキちゃんに求婚を迫られてるって話」
「……」
頭が痛くなってきたのは、たぶん睡眠不足のせいだけじゃなさそうだ。
「そんな根も葉もないような噂、どっから出てきたんだよ……」
大方、予想は付くが、俺は念のため聞いた。
「あれ? 違うの? クラス中、いや学校中の噂だよ。赤い髪した転校生が難攻不落の浩太にアタックしてるって。婚約届け片手に追いかけられてたらしいジャン」
「あれは婚姻届けじゃねえ! ああもう、どこから突っ込めばいいのやら……はぁ……」
噂ってモンは予想以上に厄介だという事が分かった。皆、伝えていく際に面白おかしく勝手に改造するもんだから、広がれば広がるほど話は大きくなっていく。
だってそうだろう? スキャンダルは派手じゃなきゃ面白くないんだから。そしてそのネタにされた俺は、今後、学校内で非常に肩身が狭くなる事間違いなしだ。
そもそも十六歳じゃ男は結婚できないだろ、などと言う小さな矛盾を突いたところで意味は無い。
おまけに俺が難攻不落ってアホか。また俺とシンジのホモ説が浮かび上がってしまうではないか。
「だーっ! なんでこうなるんじゃー!」
「う、うわっ。こーちゃん、気を確かに!」
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟る。ああ、クソ。世の中なんて滅んでしまえっ!
家で帰って不貞寝しようと思ったところで、ミサキからの召集令状を思い出す。
……そうだ。いい事を思いついたぞ。噂を払拭できるいい方法があるじゃないか。
「なあ、シンジ」
俺は足を止めて、シンジの腕を掴む。
無意識のうちに、俺の表情はにんまりと笑顔を形作っていった。
「うん? な、何? その悪魔みたいな微笑は」
有無も言わさぬよう、俺は力を込めきっぱりと告げた。
「昼飯食ったら、兜神社に集合な」
昼飯は適当に茹でたソーメンで済ませた。
十五分ほどで十分な量を平らげ、三十分ほど昼寝をする。
完全とまではいかないが、動き回れる程度に体力が回復した所で俺は出発する事にした。
「あら、お出かけ?」
靴を履いていると、叔母さんが声をかけてきた。
「ちょっと兜神社に行ってきます」
「シンジ君と遊びに行くの? また警察のお世話になるような悪戯しちゃダメよ」
叔母さんは、突き刺さるような鋭い視線を向ける。
釘を刺すような言い方に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「ははは……。大丈夫ですよ。それに、今日はシンジと二人だけじゃありませんし」
「あららー? もしかして、これ?」
顔を緩ませて、にやにやとしながら小指を立てる叔母さん。
学校の連中といい、叔母さんといい、どうして皆そっちの方向にもっていこうとするのだろうか。
「違います」
学校だけならまだしも、家に帰ってきてまでからかわれるのはキツイので、俺はきっぱりと否定した。
「あらあら、照れなくってもいいのに。そっかぁ、こーちゃんにもようやく彼女が出来たのかぁ」
「だから違いますって」
「こーちゃん、女の子に受けそうな顔してるもんねぇ。今度、うちに呼んでよ。叔母さん、どんな子か見てみたいわ」
「近所迷惑になるので呼びません」
「で、どこまでいったの? 手は繋いだ? もしかしてキスはもう済ませたの?」
「……行ってきます」
会話のキャッチボールが成り立っていないので諦めた。叔母さんは「ね、ね、どうなの?」心底楽しそうに質問を続けている。
居た堪れなくなり、俺はいつものように乾いた笑いでごまかしつつ逃げるように家を出た。
兜神社はうちから歩いて十分ほどの、森に囲まれた場所に位置していた。
途中、喉の渇きを潤す為に、神社の階段前にある自販機でコーラを買う。木々に囲まれた道にぽつんと置かれたそれは、妙に辺りの風景とマッチしていた。
ふむ、ここから見える風景をスケッチしたらいい絵が描けるんじゃないか、などとコーラを飲みながら考える。
題名は、人類の滅びた世界にたった一つ取り残された文明の証。なんてどうだろう。小さな賞なら金賞くらい取れそうだ。
「おー! こーちゃんだ!」
神社の方から、俺を(あだ名で)呼ぶ声が聞こえた。
振り返り、神社へ続く階段のてっぺんに視線をやる。車椅子に乗った千夏が、こちらに向かって手を大きく振っているのが見えた。
無邪気な笑顔を浮かべている千夏の後ろには――毎度毎度思うのだが――ひときわ異彩を放っている赤い髪の女、ミサキが立っていた。
俺は手を振り返し、階段をゆっくりと上る。
「おそいおそいおそーいっ! こーちゃん、もっと急いで!」
「こらっ、千夏!」
急かす千夏と、それを叱るミサキの声が降ってきた。はいはい、今行きますよっと。
境内に入ると、そこにいたのは麦わら帽子を被った千夏に、私服姿のミサキそしてシンジだった。
「お、やっと来たかー。誘っておいて遅刻とはけしからんぞ、こーちゃん」
「昼飯はゆっくり味わって食う派なんだよ」
突っ掛かってくるシンジを軽くあしらい、拝殿の屋根下に出来た日陰に入る。
「あの、来てくれてどうもありがとうっ!」
「うん?」
ミサキが深々と頭を下げる。
いちいち大げさな奴だな。ただ呼び出されたから来ただけだっていうのに。
「いいから、さっさと本題に入ろうぜ」
「入ろうぜぃ!」
グッと親指を立てる千夏。
「……何でお前もいんの?」
「ひどっ! なに? 私だけ仲間はずれ? こーちゃんはお姉ちゃんと二人きりでちゅっちゅしながら逢引きしたかったの?」
「ちょ、ちょっと千夏」
ミサキの顔がトマトみたいに赤く染まった。
「それはありえない」
「えぇっ!?」
一転してショックを受けたような表情で俺を見るミサキ。
「……とはいいつつまんざらでもない。むしろ好きな方だ」
「や、やだ。もう」
両手のひらを頬に当てるミサキ。
「……の反対」
「なっ!?」
反応する速度が段々向上してますね、ミサキさん。
「……の反対の反対の反対のそのまた反対って感じかな」
「ど、どっち!?」
「知らん」
いい加減、キリが無いのでそこで止めておいた。
「あー、暑い暑い。ここだけ妙にあっついわー」
千夏は白いワンピースの胸元をぱたぱたと扇ぐ。
どうもこのませたお嬢ちゃんは、話を色恋沙汰にもっていきたいらしい。
俺はふう、と一息ついて千夏から目を逸らし、本題に入る。
「俺をここに呼んだのは当然マラソンの件で、だろ?」
「うん。あのね、このマラソンの募集要綱見たんだけど、参加するにはあと一人メンバーが必要みたいなの」
ミサキはスカートのポケットからチラシを取り出し、俺に見せてくる。
「あと一人か。うーん、ミサキ、誰か当ては無いのか?」
「えーっと……私は転校してきたばかりだから、お友達も多くないし……」
ミサキはしょんぼりとした表情を浮かべ、申し訳無さそうに俯く。
「おぉい」
うーむ、困ったな。あと一人、足が速くて体力のありそうな奴はいないだろうか?
「これじゃあ参加資格を満たせないな。要綱によると、募集は明後日までだろ? どうする?」
ミサキはうぅ、と情けない声を出し、チラシと睨めっこする。
ふと、俺の頭に叔母さんの顔が浮かんだが……ないな。とても叔母さんがそこらの高校生(しかも運動部)と同列の体力を持っているとは思えない。
「もしもーし」
ああ、もう。さっきからうるさいな。
「何だよ」
「あの、こーちゃん。さっきから俺っちの事忘れてない?」
隣に突っ立っていたシンジは、自分の顔を指差しながら言った。
ミサキと千夏が、シンジの方へ顔を向ける。
そして声を合わせて一言。
「誰?」
「今さらっ!?」
手を大きく振るい、突っ込みをするシンジ。ああ、リアクションは大きいのに存在感が薄いって色々可愛そすぎるぞ。
ごほん、とシンジは咳払いし、改まって言葉を紡ぐ。
「俺の名は高橋シンジ! 岩崎生まれの岩崎育ち、今が旬の十六歳! 趣味はアウトドア全般で、ただいま絶賛彼女募集中なんでよろしく!」
シンジは右手でVサインをつくり、左手を腰に当てて自信満々に言った。
全員が束の間、固まる。
ミサキは引き笑いを浮かべ、千夏は物凄くどうでもよさそうな視線をシンジに向けている。
ひゅーっと、夏なのに肌寒い風が吹いた。
ううむ、一瞬で空気を凍らせるとは流石だ。これぞシンジマジック。
「はい、ごくろうさん。それじゃ、最後のメンバーをどうするか話し合うか」
俺がそういうと、我に返ったのかミサキが両手を叩く
「そ、そうだねっ! まずは参加資格を満たさないとっ!」
「異議なーし」
手を勢いよく上げる千夏。
「ちょっと待った――! 」
ただ一人、シンジだけが異議を唱えた。
大げさに手を振り上げ、顎を突き出し、何故か片足を上げている。
そのボディーランゲージに思わず千夏がひっ、と小さな悲鳴をあげる。
傍から見たら完全に子供を驚かしている変質者だぞ、シンジ。
あまり関わりたくない光景だが、放置していると何をしでかすかわからないので、俺は冷静に対応した。
「ん? どうした、シンジ」
「いやいやいや! さっきまでの流れから色々推測すると、俺っちが呼ばれた理由はそれじゃないの!?」
言いながら、シンジは俺に詰め寄ってくる。近い近い近い、鼻息がかかっとるわっ!
続いて顔をミサキ達の方へ向ける。女子二人はげげ、こっち見るな、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「それってどれだよ」
再びシンジの顔が俺の方へ向く。
「いや、だから、こーちゃんとミサキちゃんは、そのカントリーマラソンに出場するつもりなんでしょ?」
「ああ」
だから顔が近いって! 俺はさり気無く後ろへ下がり、シンジから距離を取る。
「で、メンバーが一人足りないと」
「そうだ」
と、ここでシンジの表情が自信気な笑みに変わる。シンジは顎をさすりながら、
「なるほどね。ふふっ、俺っちに声を掛けるとは流石こーちゃん、見る目があるねぇ。ま、普段だったらそんなロマンスの欠片も無いイベントには参加しないけど、ミサキちゃんと一緒に走れるなら参加してあげてもいいけどっ!?」
「…………」
一同、再び絶句。
ウインクしながら親指を立て、きらきらと瞳に希望を溢れさせているシンジのその姿は、まるで……その、何と言うか
「せ、生理的に気持ち悪いんだけど」
「え?」
こら、千夏! そう言うことは例え小声でも本人の前では言っちゃいけないって小学校で習わなかったのか!
フォローを求めてミサキへと視線を向ける。が、ミサキも引き笑いのまま固まっており、なおかつ一層シンジから距離を取っていた。
「ま、まぁまぁ。わざと無視してたのはいつもの冗談だよ、シンジ。で、どうかな? シンジはちょっと素行に問題ありだけど、体力に関しては申し分ないと思う」
仕方ないので、俺が助け舟を出す。
千夏が「本気なの?」と目で訴えかけてきたので、小さく頷く。
ミサキの方は、シンジの派手な動きに若干引きながらも、その足の筋肉を見てまぁ納得はしているようだった。
「浩太がそこまで推薦するなら、う、うん。よしっ!」
ミサキはグッと拳を握り、決心したのかシンジに歩み寄って手を差し出した。
「よろしくね、シンジ君! 優勝目指して、一緒に頑張ろうっ!」
「ぶふぅっ!」
「きゃあっ! な、何っ!?」
差し伸べられた手を見て、何の前触れも無くシンジは馬の鳴き声みたいに鼻をならし唇をお猪口みたいな形にする。
そして、そのまま両手を大きく広げ空を仰いだ。
「感動したっ……! 彼女いない暦十六年……女子の手すら握った事の無いこの俺っちに……誰もが心惹かれるといっても過言でない美少女のミサキちゃんが、握手を求めて手を差し伸べている……! その事実に感動した!」
一人、感動で盛り上がるシンジ。その表情は、目頭に涙を浮かべ、まるで幾多の苦難を乗り越えついに山頂に達した登山家みたいに感動と喜びに溢れている。
そんな当の本人とは正反対に、周りの空気は一瞬で氷点下に達していた。それはもう、バナナで釘が打てそうな勢いで。おいおい、今は七月だぞ? シンジマジック、恐るべし。
「ねえ、こいつ本当にチームに入れるの?」
麦わら帽子の下で渋い顔を浮かべる千夏が、シンジを指差す。
こいつを推薦したのは間違いだったかな。やっぱり、もう少しまともな奴を探した方がよかったのかもしれない……。
「くおらっ! 年上の人をこいつ呼ばわりするんじゃない! というか、ずっと気になってたんだけど、このちびっこは誰!?」
「や、変態に名乗るほど私の名前は安くないから」
千夏が、ぴしゃりと手に止まった蚊を叩くように言った。
「変態!? こ、こんのチビスケっ! この紳士道免許皆伝とまで言われた俺っちを、こともあろうに変態扱いですとぉっ!?」
紳士道って何だそりゃ。そんなもん聞いたこと無いぞ。
「こんな幼い子供に怒鳴りちらしてる時点で、紳士もクソも無いと思うんですけどぉ」
千夏の鋭い突っ込みが炸裂する。物凄く正論だ。
「な、な、なっ……! う、ぐ……ぎぎ……」
その言葉に反論が思いつかないのか、シンジはわなわなと手を震わせながら、しかし言葉になっていない何かを呟く。
小学生に言い負かされる高校生。何かもう、色々と救いが無いな……。
「し、シンジ君。千夏はね、私の妹なの」
「妹ぉ!?」
ミサキの言葉に、シンジは信じられないといった様子で答える。
明らかに動揺しているシンジに、千夏は大きくため息をついた。
「ねぇ、こーちゃん。この変態、本当に使えるの? 体も細いし、頼り無さそうだし、なーんか頼りない感じ」
「まぁ、体力は有り余ってると思う」
今でこそ帰宅部でだらだらとしているシンジだが、中学の頃は野球部のエースだったらしい(ビックリするくらい下手くそなので本当かどうかは定かではないが)
そして、暇があれば俺を誘ってキャッチボールや鬼ごっこなどをして日が暮れるまで遊んでいるのだ。少なくとも、並の運動部連中より体力はあるだろう。
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■作者からのメッセージ
連載小説を投稿させていただきます。ゾークしろねこと申します(呼び辛い名前ですいません……)
田舎の夏を舞台にした青春小説が書きたくなり、思わず筆を握ってしまいました。
批評及び感想を下さると泣いて喜びます。ええ、そりゃ泣き叫びますとも。
辛口甘口中辛、どんな味でも自分の肥しにさせていただきます。
ではでは、これからよろしくお願いいたします。