- 『ホロニック(完結)』 作者:不伝 / リアル・現代 サスペンス
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全角78178.5文字
容量156357 bytes
原稿用紙約238.95枚
とある一つの街で起きた殺人事件をきっかけに、"俺"は犯人と善悪をぶつけ合う。
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■ プロローグ ■
その公園には人間が一人だけいた。
年の頃は十六くらいの少女。
だが身なりは漆を塗ったように黒い男物のスーツ。ポニーテールの黒髪がスーツと同化していて、一瞬見ただけではどこまでが髪なのか判別しづらい。平日の夕方だというのに彼女以外の人間がいないのは、天候故だろう。
少女はささくれの酷い木造ベンチに腰を下ろし、ある一点を見つめていた。鋭い双眸からは、その先の変化を絶対に見逃さないという強い意志が見受けられる。
「さぶ…」
豪雪だった。まだ降り始めて間もないので、積もっていると言えるかどうか微妙な量しか地面に雪は存在していなかったが、吹雪き方は尋常ではなかった。少女の肩の上は既に真っ白だ。
少女が組んだ足を入れ換えようとしたとき。見つめていた一点、マンションの一室の扉が軋みつつ開いた。
「――!」
少女は立ち上がり、扉を見つめたまま肩に下げた鞄から片手で黒い塊を取り出した。
「間違いない――」
黒い塊を右手に持ち、肘を伸ばし、その対象へ先端を向ける。少女は寸隙も置かずに引き金を引いた。
「…………」
無音だけが響いた。
少女は憑き物が落ちたように両眼を緩め両手をだらりと下げた。そしてベンチに再び腰を下ろそうとした。が、
「――!」
茫漠とした何らかの気配を感じ取ったのか、少女は先程までの気概に満ちた表情と姿勢を持ち直し、公園の入り口へと目を向けた。
■ 第一章 邂逅と更改 ■
「いくらなんでも一週間はかわいそうだと思わないわけ?」
俺の正面の席でサラダを食いながら刈安は嘆いた。元陸上部だけあって中々ガタイがいい男なのだが、彼の前のテーブルにはサラダとドレッシングのボトルしか存在してない。この高校の学食でサラダのみを食べているのは普通ダイエット中の女子か、極度の菜食主義で有名な英語のスティーブン先生くらいのものなので、中々かわいそうで、中々笑える。
「なぁ刈安。自業自得っていい言葉だと思わない?」
「思わねぇっよ!」
叫びながら机をバンと叩く刈安。その拍子に彼の隣に座っていた上級生のコップの中身が微量零れた。知ーらね。己の腕力をもう少し過信すべきだなコイツは。
「あ、あはは、先輩! このゆで卵のスライスで何卒!」
椅子に座ったまま上半身だけの土下座をする刈安を2秒睨め付けた後、先輩はサラダ上の全てのゆで卵を掻っ攫って口に放った。それで満足したのか先輩は己のうどんに興味を移す。
「お、俺の唯一のタンパク質が…」
負けずに睨み返せばいくら先輩と言えども刈安の迫力に怖気づいて微量のウーロン茶を諦めてくれて、刈安もゆで卵を失わずに済んだ可能性は十分にあったろうに。そうしなかったのはつまり刈安はそういう男だということだ。極端に暴力を恐れる大男。
報われない男よ。それと野菜にもタンパク質はあるんだけどな。
「てめー無視してカツカレーがつがつ食ってんじゃねーよ!」
「テストの点に負けた方が、負けた科目数だけ昼飯奢るって言い出したのは刈安のほうだろ」
カツカレーうま。この世で一番旨いものは人の金で食う飯だと聞いたことがあるが、世界一の格言だと思う。
「だってお前中間考査の時、全部赤点スレスレだったじゃんよー」
「まぁね。恨むなら俺をカモにしようと決めたお前の前頭葉を恨みな」
「ちっ」
舌打ちは刈安の癖だ。悪癖とまでは言わないが、その容姿の所為で偶にリアルに怖いから即刻止めて欲しい。
早々にサラダを食い終えた刈安は席を立ち、セルフサービスのお茶を淹れにいった。
辰砂学園の食堂にはなんと全三十種類ものお茶が用意されている。日本茶だけではなく紅茶やジャスミン茶の類のものまであり、わざわざお茶を飲むためだけに授業の中休みに生徒が訪れるほどの人気ぶりだ。
「なのに抹茶を淹れてくるところが刈安だよな」
「あ?」
「なんでもない」
抹茶を飲んでるときの刈安はなんとも言えない顔をしている。どこが旨いのか俺には一生分かりそうもないが、こんなに幸せそうに飲んでくれる人がいるなら抹茶も生まれてきた甲斐があるってものだろう。
「そういやまた起きたみたいだな、例の連続銃殺事件」と刈安。
食事中の俺に向かって近所で起きている殺人事件の話をしてくるのは刈安なりの仕返しなのかと思ったが、こいつにそんな高度な皮肉は使えない筈なので普通に応える。
「あぁ。今回の被害者さん、うちの向かいに住んでるんだよ」
「マジで! 警察とか凄いのか?」
「食いつきすぎだ。警察はまぁいるけど、今回で4人目だからな。新しい手掛かりもないみたいだし、夕方には落ち着いてると思うよ」
ここのところ異常な頻度で起きているこの街での銃殺事件。頻度だけではなく、色んなところが異常だった。
まず一つ目に被害者の脳に残された銃弾が未曾有のそれだと言うこと。何処の国にも出回っていない完全オリジナルの黒い銃弾。4人目の事件に使われた銃弾の情報はまだニュースでやっていなかったが、九分九厘同じものだろうと、今朝ニュースキャスターが言っていた。
二つ目に目撃者どころか銃声を聞いたものがゼロだということ。スナイパーと言えば人に目撃されないのは当然とも言えるが、銃弾の角度から射撃は道路や公園などのなんでもないところから行っている可能性が高いという。サプレッサーを装着していたら音はほとんど消音されると思われがちだが、実際は指向性の高い高音域のみが減少されて低音域はほぼそのまま聞こえるらしいので、銃声を聞いた人が皆無なのは一番の異常と言ってもいい筈だ。
そして三つ目に被害者は全て素行が良くない人間であるということだった。一人目の被害者の男性はDVが酷かったと、事件後にご夫人が話していた。二人目は万引きの常習犯だったというフリーター。三人目はホームレスの爺さんで、毎日のようにゴミ漁りをしていたらしい。
それ故にこの事件の犯人、一部では崇められていたりする。
異常の数が異常な事件だからか、未だ容疑者が全く完全に不明らしい。4人も被害者が出ておいてこれでは、警察の威信も相当失墜しているだろう。
「なんか冷めてるな…お前」
「そうか? まぁ他人事だしな。今回の被害者さんは向かいに住んでたけど、挨拶すらしたことないし。あと例の法則通り、あんまり善良な人間ではないみたいなんよ。酒癖が悪くて、頻繁にご夫人と子どもに当り散らしてたらしい。一人目の被害者さんと似てるかな。まぁ俺は素行が良いから全然関係ナッシーング」
両手で野球の審判のようにセーフのジェスチャー。
「わかんねーぞ。何しろ五日間で俺の財布から三千円も持ってったお前だからな」
「今日はまだ四日目だけどな」
「ちょっとは慈悲の心で誤魔化されたフリとかしてくれてもいいだろ!」
両手で髪の毛を掻き毟って悔しがる刈安。本当によく動くなこいつは。俺のジェスチャーを見習って、もうちょっと落ち着いて欲しい。
「カレー旨かったよ。さんきゅ」
「あーどうも。俺のサラダも中々にフレッシュで危うく生まれ変わったら草食動物に生まれ変わりたいと思うだったぜ…ってそうだ! 今日は話したいことあったんだよ!」
「お前ん家の愚妹の話なら聞き飽きた」
「ちげーよ! つーか人の妹を愚妹とか言うなよ!」
「んじゃまたバイトの話か?」
そこで珍しく刈安は複雑な表情をした。単純なだけが取り柄なのに。
「んーまぁそうなんだけど、ちょっと今回はヤバめな話なんだよね」
お前の持ってくるバイト話はいつもヤバめだろうとは、毎度世話になってる身の上なので言わない。以前に出会い系サイトのさくらのバイトを紹介してもらったときはかなり稼がせてもらったしな。女のフリして男とメールするのは中々スリリングで楽しかったし。少し良心が痛むけど。
刈安が俺の顔の側まで身を乗り出して来た。
「耳打ちしなくちゃいけないくらいヤバいのか」
「あぁ、下手すると捕まっちまうかもしんねぇんよ」
…………ほほう。
「言ってみな」と、取引を持ちかけられた裏社会のトップをイメージして言う。
「や…実はさ、―――」
■ ■
放課後。
バイトの件で俺は刈安と電車で移動中だった。試験明けということで授業は短縮日程に組みかえられていて、まだ昼の一時だというのに辰砂学園の生徒は俺たちを含めて皆フリーダムだった。やはり平日の昼間となると電車もがら空きで、健康優良児の俺たちでも座ることが許されるぐらいに席も空いていたが、二駅で降りるので二人して立っている。
刈安に持ちかけられたバイトは、新薬のモニターだった。確かに危険だが、割と有名な高額収入バイトだし合法だ。どこに逮捕の余地があるのかと刈安に尋ねたところ、何でも薬品会社の正式な治験ではなく、アウトローな薬学博士の個人研究室で行う、許可が下りているのかどうかも怪しいバイトらしい。そんなところで作られた薬なんて服用するのは御免だと一度は断ったが、給料の額を聞いて気が変わった。刈安の話によると数年前から不定期的だが何度かモニターを募集して同じようなことをしてきたらしいので、安全性の方は少しだけ信用できそうだし。行ってみてその博士と対面してから決めることとした。
しかし犯罪だったとしても捕まるのはその博士であって俺たちではないのではないだろうかと思った。法律のことなんて六法が何かも知らないのだけど。
そんなことを考えていると、いつの間にか目的の駅に着いたみたいだった。
「空五倍子博士のところに行く前に、ちょっと俺んち寄っていいか?」
刈安はホームの階段を降りながら、そう提案してきた。
「……と、ごめん。ナニブシだって?」
「空五倍子博士だよ、ウ・ツ・ブ・シ。俺たちが今からいくトコの博士の苗字。さっき電車内で言ったろ」
なんとも幅を取る名前だった。
「寄るのは構わないが、お前んちここから近いのか?」
「ああそういやお前は俺んち来たことなかったな。博士の研究所のすぐ近くだよ。いい機会だから遊んでくか? っと言いたいとこだけど、時間指定してたから急がねーとマズイんだった」
刈安は携帯の画面を見つめてそう言う。
「急ぎの用じゃないんだったら先にバイト終わらせてから、帰りによればいいんじゃないか? 説明聞いて薬飲むだけだからすぐ終わるだろ。早く終わればお前んちにお邪魔できるかもしんねーし」
知らないフリをしたが、恐らく刈安の用というのは弟妹の世話だろう。母子家庭の長男なので、短縮授業で昼には帰ってくる時くらいは昼飯を任されるのである。
「んー、まぁ一応妹の方は焼きそばくらいは作れるからなぁ」
「十分じゃねぇか」
焼きそばというのが料理としてどのくらいのレベルのものなのか知らないから、刈安の妹の料理スキルがどの程度なのかというのも勿論分からないが、少なくとも即席ラーメンしか作れない俺よりかは遥かにマシなのだろう。
「何の問題があるってんだ?」
「…はぁ。お前なぁ。他でもない自分の妹が火傷するかもしれないんだぞ?」
「…………はいはい」
シスコン――
それは女姉妹に対して、強い愛着を持つ人物のことを指す俗語。システムコンポのことではない。
刈安は若干本気で怒気を含んだ視線を向けてくるので、強くバカにするとぶん殴られそうで怖い。かといって突っ込まなければ、もし第三者に会話を聞かれていたら俺までシスコンに理解のある奴と思われる可能性があるから中々悩みどころだ。兄妹同士で仲良しやってる分には全然構わないが、しかし俺に関係のあるところまでシスコンを持ってこられると、それはちょっと困る。
「でもさ。今回は仕方ないだろ?」
「…んー、まぁそれもそうか。ごめんよ愛歌」
刈安が自宅方面と思われる方角の空を眺めながら祈祷した。
因みに妹の愛歌ちゃんは10歳で、本来なら4年生として小学校に通うべき女の子だが、わけあって現在は通っていない。
「じゃいくか。ってやっべ! 時間間に合わねぇ」
急ぐぞ――と続けて、刈安は足を速めた。というか軽く走り出した。俺はこの辺りには住んでいないし、電車に乗って遊びに来ることもあまり無いので、ギリギリ同じ市内とはいえ地理が全く分からない。見慣れない住宅街はほとんど迷路だ。刈安を見失っては困るので仕方なく俺も走る。元陸上部と万年帰宅部ではやはり基礎体力が全然違うようで、俺は真冬だというのにすぐに汗たらたらになってしまった。風景を楽しむ余裕もなかったが、それでも重そうな灰色の雲が空を侵食し始めていることには気付いた。雨か雪か。雨具を持っていないので後者であってほしい。俺が帰宅するまで降ってくれないのがベストなんだけど。天気予報くらい見とくべきだったか。
そんなことを考えながら5分くらい走っていると刈安が制動距離ゼロで停止した。
「…………」
正直バテバテです。
「大丈夫か?」
ケロっというオノマトペを口に出して上位存在をアピールしてくる刈安を蹴り倒す余裕もなく、俺は曲げた両膝に両手をついて俯く。明日はデラックス味噌カツ定食1200円を頼むこととしようか。しかしたった5分でこれとは、我ながら情けない。
「着いたぞ。ここだ」
刈安が前方を指差す。頭だけで見上げるとそこにはジャングルが広がっていた。
うそーん。
「この全体が研究所の敷地なんだよ。博士の趣味なのか分かんないが、このプチ熱帯雨林を通過しないと辿り着けないんだ」
言いながら、刈安が門の脇に備え付けられているインターホンを押す。熱帯雨林というが、この糞寒い二月の気候では木々も元気がない。ビユーンというちょっとむかつくブザー音が鳴って数秒後、ギーという金属音と共に門扉がギリギリと軋み動き出した。
「どうぞ〜」
門扉が完全に開ききる前に、インターホンに備え付けてあるスピーカーから入域を促す声が掛かった。「行くか」「ああ」みたいなやり取りを首から上の動作だけで終え、俺たちはジャングルの深部にある研究所へと歩き出した。
「そういえば刈安。なんでこのバイト初めてなのにそんな詳しいんだ?」
「あ、言ってなかったっけ。俺は一回投薬終えてんの。今日は二回目の投薬と一回目の投薬から現在までの体調の変化等の報告、兼血液検査だな」
「なるほど」
食堂で聞いた話だと薬は所謂抗うつ薬らしいが、大丈夫なのだろうか。
抗うつ薬というのはまぁ言うまでもなくうつ病患者が服用するもので、多くの副作用の例があることから専門医の厳正な判断に基づいて処方されなくてはいけない薬だ。近年ではハッピードラッグとかで割と健康な人が服用するケースが増えているらしいが。しかし超が付くほど前向きな刈安が抗うつ薬なんかを服用して、空五倍子博士は参考になるのだろうか。いや冗談ではなく。何か裏がある気がしてならない。
「そんな顔すんなって! 別に体調悪くなったりなんかしねーから!」
刈安が俺の不安顔を別の意味で受け取ったらしい。まぁそっちも不安じゃないと言えば嘘になるけど。
「俺はまだやると決めたわけじゃないぞ。まずはその空五倍子博士と対面してからだ」
顔で中身を判断するのは得意だ。過去に小学校教諭の猥褻罪を顔の胡散臭さから読み取って心中で予言していたほどの男だぜ俺は。心の中は読めずとも性格くらいは見抜いてみせるぜ。
そんなこんなで1分近く歩いて漸く玄関に辿り着いた。研究室の入り口を玄関と言っていいのかはわからないが、その入り口の扉を開けようと取っ手に手を伸ばしたら、触れる前に開いた。
真っ先に目に映ったのはどでかい観葉植物の数々だった。ジャングルにするなら庭だけにしておけと危うく口に出して突っ込みそうになったが、追って視界に入った背の高い金髪美人のせいで、そんなことは直ぐに忘れてしまった。
「…………」
金髪美人は無言で奥に行くことを促す。
それにしても…
「いやぁ、空五倍子博士ってえらい美人なんだな」
「彼女は助手だよ」
…いや分かってたけどね。ちょっと期待してみたのさ。
金髪美人にナビゲートされ、硬い廊下をコツコツと音を立てて進む。金髪美人はやはり後姿も金髪美人で、研究室に不相応な髪の長さも迷わず許してしまうほどだった。しかし束ねるくらいはしないと、怒られたりしないのだろうか。
廊下はそれほど長いワケでもなく、20メートルくらい歩くと一番奥の部屋まで辿りついた。個人研究所なんてこんなものだろう。
コンコンと金髪美人がドアをノックする。寸隙も置かずに「どぞ〜」という先刻スピーカー越しに聞いた濁声が聞こえてきた。
ガラガラ。
金髪美人が扉を横にスライドさせた。中にいたのは空五倍子博士と思われる男性一人だけだった。
「どうもどうも。こっちの君は会うのは今日が初めてだね?」
「はい」
空五倍子博士と思われる男性が右手を差し出してきた。別に握手をすることは吝かではないのでこちらも右手を差し出す。
「この研究所の主で、今回新薬のモニターを依頼した空五倍子醍醐郎です。よろしく」
パーマがかかった少し長めの黒い前髪を左手で分けながら、空五倍子醍醐郎博士は短い自己紹介をした。後々考えるとフルネームを漢字で書くのがとてつもなく面倒臭そうな名前だったが、この時はそのことについて驚いたり突っ込んだり笑ったりする余裕が無かった。その理由は空五倍子博士が、どう贔屓目に見ても二十代後半くらいにしか見えなかったからだ。別に変なイドラを持ち合わせていたわけではないが、意外だと思わざるを得なかった。一見ひょろっとした体型を白衣で包んでいるが、握手をした右手にはそこそこの筋力を感じさせたので、恐らくは脂肪が殆ど無いのだろう。整った顔立ちに長方形のレンズをした眼鏡を掛けている。博士の髭と言ったらボサボサの無精髭を連想させるが、空五倍子博士のそれはなんともダンディーな黒髭だった。簡単に言うと誰も嫉妬しないほどのイケメンだった。
まぁどうでもいいか。
「はじめまして、煤竹圭次です」
空五倍子醍醐郎の手は酷く乾燥していた。
■ ■
「じゃあこの三日間、特に体に異常は無かったんだね?」
「はい」
なんだかんだ言って俺は結局、薬を服用した。呑んだらその場ですぐにギャラが貰えるという魅力にやられたわけではない。決してない。刈安を見る限り安全面の方は割と大丈夫そうだし、空五倍子博士のファーストインプレッションはまぁいいものではなかったけど、薬で人をどうこうすることに悦びを見出すような変態には見えなかったし。
しかし刈安と違って俺は普通の体の人間だからなぁ。刈安の体に異常が出なくても、俺には出るかもしれん。昔から少し虚弱体質なところあるし。ちょっと怖い。
空五倍子博士の開発した抗うつ薬の名前はミコトちゃんというらしい。誰だよという突っ込みと人名かよという突っ込みのどちらでいくか少しの間逡巡したが後者にした。どうやら空五倍子博士はこれまでに開発した薬全てに人名、というか日本の女性名をつけているらしい。
止めとけばいいのに刈安のバカが「他に何て名前をつけてるんですか?」なんて訊くから、空五倍子博士は硝子ケースに入った薬の数々を指差しながら、彼女は何々ちゃんでこっちの彼女が何々ちゃんでと説明を始めてしまった。訂正しよう。やはり変態だこの人。俺としては部屋の隅のパイプ椅子にちょこんと座っている金髪美人の名前の方を先に知りたいわけだが、空五倍子博士は硝子ケースに入った女子達の紹介を終えると満足したらしく、ミコトちゃんの服用についての説明を再開してしまった。
そして今は刈安が診断等を受けている。
「本当かい? 些細なことでもいいんだ、何かないかい?」
「んー、強いて言えば無性に家に帰りたくなります。特に今とか」
「ハハハ。うまい皮肉を言うね。分かった。長引いて悪かったね。じゃあこの薬呑んだらもう帰っていいよ」
ナイスプレー刈安。いや待てお前のせいで長引いたんだよやっぱ死ね。
「それと煤竹君」
「はい?」
空五倍子博士は椅子を回転させて刈安から俺の方へ向き直った。
「さっき言い忘れたけど、無いとは思うがもしかしたら副作用が出るかもしれない。何でもいいから、何かあったら直ぐに僕のところにくるように」
「了解です。刈安帰るぞ」
「おう」
錠剤3つを一口で呑みおえた刈安と研究室を後にした。扉を閉めるときにチラッと金髪美人の方を除いたが、俯いたままでこちらに視線を向けることはなかった。結局名前分かんなかったなぁ。今度来たときに訊いてみよう。
研究所を抜けるとそこは雪国だった。
「…えー」
「研究室には窓が無かったから気付かなかったな…まさかこんな吹雪いてるとは…」
積もってはいないので雪国というのは少々誇張表現が過ぎたが、もう一時間もこの調子で降れば間違いなく雪国だろう。
「傘ないし…走って帰るか」
「そーだな。というかこの吹雪じゃ傘もあんまり意味ないだろうな。どうする?俺んち寄ってくか圭次」
「いや、遠慮しとくわ。でもまぁ傘貸してもらえると助かるんだが」
頭と肩くらいは守れるだろう。
「分かった。じゃあ俺んちすぐそこだから、走るぞ」
刈安が行きよりもやや遅めで駆けていくので俺も走る。多分雪で足が滑らないようにスピード調整してるんだろう。幸い風は追い風のようなので行きよりは数段楽だった。さっき通った住宅街なのだろうが、バテバテで走っていたので覚えていない。
団地が見えてきた辺りで刈安が停止した。
「うちあそこのマンションだから、ちょっとそこで待っててくれ」
「近いなおい」
まだ走り始めて一分も経ってない。まぁ重畳なんだけど。
刈安が指差した方向にある屋根つきバス停のベンチに座った後奴の方を見ると、もうマンションの中に消えていた。速過ぎだっつうの。もしかしたらスピード調整は俺のためだったのかもしれんな。
吹雪は全く止むつもりがないらしい。それどころか段々強くなってるんじゃないかと思う。
周囲には誰もいない。吹雪く音だけが耳を通過する。
「……疲れた…」
走ったからではなく、ずっと人と接していたから。まぁ走り疲れも無いと言ったら嘘になるけど。
「……やっと一人か」
他人と長時間接していられない。この場合の他人には刈安も、というか自分以外の全員が含まれる。幼少時から治らない極度の一人好き、というよりは他人が苦手という方が近いか。他人嫌いだってんならまだマシだが、なまじ人と話すのは好きなので困る。どうにかならないもんか。
「にしてもすげぇ雪だな」
団地に一台の自動車が入ってきた。走行音も雪に掻き消されていて、視覚でしかそれを認識できない。自動車は駐車場に行かずに停車して助手席から一人の中年女性を降ろすと再び動き出して駅のある街の方へと消えて行った。
助手席から降りた豪奢な格好をした中年女性は団地の北端に聳える極めて高価そうなマンションの方へ歩いていく。
「…………」
もし今俺があの女性の持っている鞄をひったくったらどうなるだろう。周囲に人が全くいない上に猛吹雪で数十メートル先は真っ白で見えない。女が助けを求めようが悲鳴を上げようが風の音に掻き消されて誰の耳にも届かないだろう。その上今ここに俺がいることは刈安ぐらいしか知らないから、後々犯行の容疑者に俺が挙げられる可能性は少ない。
「なーんてな」
刈安のやつまだかなぁ。傘取りにいくだけで何分待たせんだ一体。まぁここのマンション高そうだし、セキュリティとかで面倒なのか。
「ん?」
刈安が消えていったマンションの隣に公園があった。まぁ団地に公園なんてよくあることだ。よくないのは、その公園に人の気配があったこと。
「この猛吹雪の中、公園で何やってんだか」
俺は興味本位でバス停を離れ、公園を覗いてみた。
公園というのは誰しも何かしらの思い出があるものだと思う。俺も大衆に漏れず昔よく一緒に遊んでいた人間が居た。俺が唯一一緒に居て苦にならない存在。もう二度と会うことは無いであろう架空の肉親。そういえばあの人は鉄棒が異常に得意だったな。始めて来た公園なのになぁ、何でこうも思い出すのか。
そんな風に回顧しながら、俺は公園に足を踏み入れた。
人生の岐路なんてものは実はいくらでもあって、その中でも特に大事な選択かどうかなんてのは、全ての樹形図の葉を体験でもしない限り分かる筈がないのだ思う。だけどそれでも敢えて自分の人生に最大の分岐点を置くとしたら、やはりここだった。
その公園には人間が一人だけいた。
年の頃は十六くらいの少女。
■ ■
家に帰ると妹が男に殴られていた。
家にいる筈のない男が家にいて。
殴られる筈のない妹が殴られていた。
頬は赤く腫れ。
額から血を流し。
瞳から涙を流し。
嗚咽を漏らしていた。
その瞳は俺を見て。
助けを求めていた。
絶対に求めていた。
助けてやる。
殺してやる。
だけど俺には。
どうせ俺には。
無理無理無理。
見ないでくれ、そんな目で。
求めないでくれ、その目で。
そうだ。
俺は傘を届けなくちゃいけないんだよ。
じゃあな妹。
ガチャ。
頭に何かが突き刺さる。
血の匂いがした。
■ ■
撃たれた。見紛うことなく、刈安が。
銃声はしなかったが間違いない。あのベンチ前にいる女が、マンションの扉から半身を乗り出した状態の刈安の頭部を狙って射撃した。刈安の体は直ぐに倒れ伏して見えなくなった。これが射殺以外の何だって言うんだ。目撃したことが犯人にバレたがこれはもうどうでもいい。
「何やってんだよお前…っ」
刈安を撃ったその拳銃で、女は今度は俺の方に銃口を向けてきた。鋭い両眼で睨めつけられる。平生の俺なら無条件で謝りそうなほどの眼力だったが、俺の体は友人が撃たれていても尚そうする程、腐ってはいない。
「ちっ…めんどくさいことになったわね。秤を確かめなくちゃいけないのに」
何言ってんだコイツ。団地の公園から堂々と拳銃ぶっ放してる女の言葉なんて理解したくもないし、連続暗殺者の主張なんて俺如き凡人に理解できるものではないと思うが、今はそんなこと言ってられない。
「お前がこの街の連続銃殺事件の犯人だな?」
「そうよ。あんたも殺されたくなかったら帰んなさい」
女は何の躊躇いもなく肯定した。それはこんなところで俺みたいな一高校生に捕まるわけが無いという自信の表れか、はたまた単に正直なだけか。
……刈安の所に駆けつけたいが、今はとにかくコイツを逃がさないことの方が優先だ。マンションのセキュリティを突破できるとも限らないしな。
「断る。悪いがお前を警察に突き出してやる」
俺はそう言いつつ、飛び掛る為に小さく屈んだ。相手が飛び道具を持っている以上、この距離は俺に不利なだけ。隙を見てあいつの右腕に飛びつければ、腕力では圧倒できる自信がある。
「けいさつぅ? ハッ! あんなバカ集団呼んでどうなるのよ。そんなもんに頼ってるから人間の醜悪さは減らないのよ」
「知るかそんなもん! 人殺し以上にバカで醜悪なやつはいねーよ!」
摺り足で少しずつ女へ近づく。そして一気に踏み込んで――!
「…フン。面白いことを言うわねぇ―――っっ!」
なんだ?
俺が今正に飛びかかろうとした時、女が銃口を俺に向けたまま勢いよくマンションの方を振り返った。自然と俺の視線もそちらへと移る。そこにはフラフラと立ち上がる刈安の姿があった。
「撃ち損じた…あたしが…」
吹雪のおかげで弾道がうまく定まらなかったのか? だけどラッキーなんて言ってられねぇな。くそっ! マンションにいる人は気付いてなくてもおかしくないが、半開きになってる刈安の自宅からは視認できる筈だ。何故誰も駆けつけない。少なくとも刈安の弟妹は自宅にいる筈だ。
「……!」
女が銃口を刈安の方に向け直した。
再射撃――!
「伏せろ! 刈安!」
俺の声が届いたのかどうか分からないが、刈安は確かに身を伏せ、壁のおかげでここは完全に掩蔽地となった。
だけどあれはきっと意識が途切れた所為…迷ってる暇はない!
「…ちっ! ――っ!」
刈安のマンションに向けて走る俺を女が追ってきた。銃口は再び俺の方を向けている。だがもう遅い! マンションの中に入ってしまえばあの無音銃でも無闇に発砲はできない筈だ。
俺は滑り込むようにしてマンションに飛び込んだ。案の定一発も発砲してこない。もしかしたら既に何発か撃っていて無音と吹雪の所為で俺が気付いていないだけかもしれないが、被弾してないなら同じことだ。
体勢を立て直しマンションの階段を駆け上がる。セキュリティ云々は杞憂だったようですんなり入ることができた。吹雪といい、一瞬神が俺に味方しているのかと思うほどの僥倖続きだったが、よく考えたらこんな目に遭ってる時点で俺も刈安も大不幸だ。セキュリティが手薄なんてのは不幸中の幸いでしかない。更に言えば刈安宅が5階に位置しているっていうのはどう考えても不幸中の不幸だ。一体何がどうなってる。
女は相変わらず追ってきているが既に銃口を下に向けて走っているので恐らくは俺を撃ち殺すよりも俺より早く刈安に追いつくことを優先したのだろう。
3階…4階…
刈安の住んでいる5階に到着した。直後――
「ぐぁ!」
誰かが俺の背中を斜め上から踏み倒した。マンションの廊下に突っ伏す。
追いつかれたか。日頃の運動不足が祟ったな…
「残念だったわね。あんたは勇気と実力が釣り合っていないみたい」
同じ高さから、刈安の目が見えた。死んだような両眼でいながら、悔恨を浮かばせた双眸が見えた。側頭部からの真っ赤な流血よりも、その瞳から零れている透明な涙の方が俺を惹きつけた。
銃口が刈安の頭部に向けられる。気付いたら俺は刈安と銃口の間に屈んでいた。
「どういうつもり? そんなことしても死人が一人増えるだけよ?」
「何故殺すんだ」
息も切れ切れで、語尾のイントネーションを上げる余裕もない。
「……分かったわ。あんたのその釣り合わない勇気と覚悟に免じて、少しだけ話をしてあげる」
ガチャリと撃鉄の音が響く。女は銃口をこちらに向けたまま、静に話し始めた。
「そいつの心に眠る悪意、それが既に60%にまで膨れ上がってるわ。3日と経たない内にそいつは犯罪を犯す。あたしはそれを止めにきた。あたしには人の心に巣食う悪意の占める割合が分かるの」
「…………」
なんだそれ――と言いかけて止める。信じる信じないの問題じゃない。この女はそうと信じきっているんだから、嘘でもホントでも話を合わせてその上で解決しなくちゃ意味がないんだ。しかし悪意の割合か。素行の悪い人間ばかりが狙われてるのはそういうこと。
刺激しないように言葉を選ぶ…つもりだったが、そんな余裕もない。
「それがどうした? 仮に刈安が3日後に犯罪を犯すとして、それをあんたが殺人で止めるんじゃあ同じことをあんたがしてるだけじゃないのか?」
意識しなくても語気が強くなる。
「そうね。だけど殺人犯が殺されるのと罪のない一般人が殺されるのとじゃあ、全然違うでしょ。釣り合わないわ」
殺人犯…?
何で犯罪が殺人にまで発展するんだよ。
「刈安は確かに悪意に満ち満ちていると言っても過言ではないほどのワルだ。カンニングはするし遅刻常習犯だし女教師をストーカーするし。だが殺人をするほどバカじゃないし、優しくない奴じゃない。それに悪意が60%くらい含まれてたって、そんなの人間なら珍しくもなんともないだろ」
「確かに悪意が60%くらいだったら普通殺しはしないわ。けどコイツの場合は別。その悪意の内の90%以上が殺意なの。さっさと摘んでおかないと一般人が巻き込まれて大変なことになる可能性があるわ」
「…………」
殺意…?バカなそんなワケあるか。3日以内に殺人を犯すような奴が妹の火傷を心配するわけないだろ。友達の体調を気遣って走るスピードを調節したりするわけないだろ。やっぱりコイツはただの妄想狂だ。話をしていても無駄――
「………うっ」
「――!」
刈安が小さく呻き声を上げて起き上がった。額を押さえながら、ゆっくりと。
「どきなさい少年! タイムオーバーよ」
俺は女の命令を無視して刈安の方を向き、体を支えた。
意識を取り戻したのか…?
「大丈夫か? 頭は動かさずにそこで寝ていろ!」
「どけって言ってんでしょ!」
拳銃を握る女の手は震えていた。明らかに寒さの所為ではない顫動。
「……撃つなら俺ごと撃つんじゃなかったのか?」
「――っ!」
覚悟は出来ていた。全くもって女の言うとおり、実力と全然釣り合わない覚悟。だけど覚悟はそれだけで確固たる存在だ。他のものと釣り合うとか釣り合わないとか、そういうものじゃない。覚悟が一つの全体なんだ。
「あんたの悪意は20%弱…平均よりは多いけど一応常人……」
女は少し目を伏せて、震えたままの唇でそう言った。
「でもどうしても退かないって言うんなら、撃つ。悪意の無い一般人が殺される可能性ができるくらいなら、撃つ」
それはまるで自分に言い聞かせているかのようだった。女は今度は確りと俺を見据えて、ハッキリとした口調で、堂々とした気迫で、だけど悲しい顔をして、言った。
「お願い退いて!」
「断る」
俺も女の目を確り見据えて峻拒する。覚悟、恐怖、逡巡、焦慮、憤怒。女の目には様々な感情が渦巻いているように見えた。
「お願いしたいのはこっちだ! 刈安が心に持ってるっていうあんたの言う悪意、それを俺が犯罪に走る前に消し去って見せる! だから見逃してくれないか!」
「無理よ! 殺意が50%を超えて何も起こさなかった奴なんて前例が無い!」
「………くっ」
……ここまで何とか耐えてきたが、もう限界だった。基本的には下手に出ることでいざこざを解決する臆病者の俺だが、それは頭の悪いバカにだけ通じる手だ。こういう理論武装した知識経験バカには通じないと改めて分かった。
大きく息を吸い、叫喚。
「っるせえんだよ! ふざけんな!!」
「……え」
「人間誰だって悪意くらいあんだよ! 殺意だって害意だって何だってあんだよ! でも耐えてんだろうが! 戦ってんだろうが! 頭ん中の理性と! 刈安の場合その殺意がちょっと理性よりもレベルが高くて勝つのが難しいってだけだろうが!」
自分でも驚くほどの馬鹿でかい怒声で捲くし立てる。
「どうしても勝てないそんな強い殺意なら誰かが一緒に戦えばいい! 一番ダメなのはその戦闘に関係ないところから横槍を入れることだろ! 本気で戦ってる人間の邪魔をすることはどんな犯罪より重罪だボケ!」
何故か分からないが、このときの俺は彼女の能力や予言していること、その全てを信じていた。信じた上で信じていなかった。刈安が殺人なんてする筈ないと。
俺の啖呵がマンションの住人に聞こえないか少し心配になったが、誰かがくればそれはそれで良かった。と思ったらホントに来た。刈安の家の隣人のおじさんが心底迷惑そうな顔をして玄関から上半身を乗り出した。何故か女はそのことを全く危惧していなかったのか、人が現れて初めて、焦燥の表情をその半泣きの顔に浮かべた。
「くっ…分かったわ。後日キッチリ殺りに来るわよ!」
そう言って女は階段を降りていった。
刈安の隣人のおじさんは状況を全然理解していないらしく、
「早く追いかけて謝った方がいいぞ。あんな可愛い娘そうそういない」
と場違いな台詞を吐いた後に側頭部から血を流して倒れている隣人の存在に気付いたらしく素っ頓狂な悲鳴を上げた。
■ ■
中学一年生の時に鰻の骨が喉に刺さって三日間そのままにしていたが、煩わしさに耐え切れず耳鼻咽喉科に訪れたことがある。そこで鼻から内視鏡を入れるという屈辱を受けて以来病院という病院を避けてきたが、高校一年生の今冬約三年ぶりの病院に訪れ、現在とある病室のとあるベッドの前にパイプ椅子を設置し腰掛けている。まだこの病院内に入域して三十分も経過していないが、既に七回程あの時の辱めをフラッシュバックしてしまっている。このことを目の前に横たわっている同級生の患者に話した。
「鼻から内視鏡入れた程度でなーにが屈辱だよ。お前プライド高すぎ。俺なんか腸検査でケツから内視鏡入れたことあるぜ?」
「…そうか。俺はてっきりお前は童貞だと思っていたんだが、すまない」
「あれを俺の初体験にするなよ!」
というのは5分前のやり取りで、今は二人して沈黙している。刈安は先程からずっと無味乾燥な病室の天井を眺めている。そんなに面白い天井なのか? と白々しく茶化そうと思ったが、何やら真剣に考え事をし始めていたので黙る。人の思考を邪魔する趣味は無いので、俺も何か考えることとしようか。そうだなぁ、一昨日の事件のこととかどうだろう。
女があの場を去った後、隣人のおじさんは役に立ちそうに無かったので携帯で救急車を呼んだ。幸い弾丸は刈安の側頭部を掠めただけで脳に支障はなかったそうで、数日入院すれば良いだけとなった。因みにマンションの壁に突き刺さっていた弾丸は、やはり黒色のそれだったらしい。警察の人に犯人の目撃について訊かれたときは、吹雪いていたのでうっすら人影が見えた程度で分かりませんと答えた。今考えると、刈安が撃たれた時は警察に突き出してやるとか何とか威勢良く宣っていたのに、何故俺は嘘を吐いたのだろうか。あの女が捕まってしまえば俺が刈安の悪意を消沈させる必要もなくなり、刈安が殺されることもなくなるというのに――って何あいつの言ってること信じてるんだ俺は。でもあいつはまた現れるだろう。刈安を殺すためではなく、悪を摘除するために。偽善だとは思うが、悪い行為だなんて思わない。寧ろ俺は今回の件が起こるまでは、この事件の犯人に憤慨などしていなかった。衷心では応援さえしていた節がある。だから俺は向かいの家の主人が殺されたって、そのことについて食堂で刈安と話していたって、常に冷静でいられたつもりだ。それが友達が被害にあった途端これだ。まさか俺があんな風に刈安のことを守ったり啖呵を切ったりするとはな。鼻に内視鏡の次に想起したくないシーンだ。つまり俺はあの女にもっと素行の悪い人間を殺してくれと思っていた反面、友達が殺されかけたことに対して憤っているわけだ。あんまり覚えてないが、あの時言った悪意を持つ者への弁護は、自分の主張を否定していたか若しくは嘘を吐いていただけということになる。だからきっと警察にあの女の情報を与えなかったのは俺のせめてものレジスタンスだ。ここで警察に全て話してあの女が捕まったりなんかしたら、俺は偽善者にすらなりきれないまま一生半端者だ。確かめなくちゃいけない。あの女にもう一度会って、俺がどっち側の人間なのか。
「…………」
なーんて珍しくかっこいいこと考えてみたけど、俺がどっち側かなんてもう答えは出ている。目の前の友人の命が奪われることが俺にとっての正義である筈が無い。あの時の勢いに任せた恥ずかしい台詞たちは全部本音だ。残念だが一昨日までの俺よ、お前は間違っている。
あれ? じゃあやっぱりあの女の件は警察に任せておいた方がいいんじゃん? 一昨日までの愚考の否定は事件が終わってすぐに終えていた。なのに何故俺は警察に彼女の情報を与えなかった。意味分からん。
「なぁ、何で俺狙われたのかな」
「さーな」
刈安は視線を天井に向けたまま、唐突にそう言った。
因みに刈安は撃たれてからの記憶が無い。頭に何かが突き刺さって気付いたら病院だったらしい。俺とあの女のやりとりを見られていたら何と言って誤魔化そうかと真剣に考えていたというのに記憶が無いとはな。まぁ思い返すのも恥ずかしいような言い訳しか思いつかなかったし、辻褄が合ってなかったら色々困るしな、助かった助かった。
「俺って素行悪い?」
「ああ」
「やっぱかぁ」
ん、まずいぞ。刈安が偶に入るマジモードに切り替わっている。こいつは変に気にしすぎるところがあるから、このままでは俺更正するとか言って付き合い悪い真面目君になってしまう可能性が大いにある。ただでさえ入院で後一日分の学食の奢りを諦めなくてはいけないというのにそれは無いぜ。
「俺の方が悪いってーの。お前が狙われたのは、俺を狙おうとした犯人が一緒にいたお前と間違えたんじゃねーの?」
アドリブで慰めるのには慣れている。
刈安は暫くポカンと口を開けて何とも言えない表情をしていたが、突然「ちっ」といつものようなちょっと怖い舌打ちをした。
「ふ、なんだよそれ」
苦笑い気味だが更正は諦めてくれたようだった。
■ ■
今日で三日目。
なのに何故?
膨らむどころか凋んでいく。
昂ぶるどころか萎えていく。
悪意。
ムカつく。
良いことなのに良くない。
あの男の所為?
あの男の御陰?
何故かアイツとダブったあの男。
あたしを庇って死んでいったアイツ。
全然似てないのに。
だけど。
その所為で撃てなかったのは事実。
その所為で手が震えていたのも事実。
その所為でムカついているのも事実。
何故何故何故。
分かんないことばっか。
有り得ないことばっか。
既にあんな数値まで落ちている。
もしかしたら本当に…
■ ■
「まるでこの街は悪意に好かれているようだね」
「…………」
■ ■
「明日から春休みに突入するわけだが、フライング休暇を満喫中の刈安様は何かご予定とかあるわけ?」
「フライングね。号砲は間違いなく俺に被弾したけど」
事件から一週間が経過した。あの女は三日以内に刈安が殺人を犯すとかなんとか言っていたが、やはりそんなことはなかった。だが嘘を吐いていたようにはどうしても思えない。少なくとも彼女自身は彼女の言う悪意を見抜く能力を信じているだろうと思う。にも拘らずこうして刈安は俺と暢気にくっちゃべっているし、七日間毎日ここに来ているがとても殺人を犯すような気概が見えないのは何故か。やはりただの妄想狂だったのだろうか。だとしたら死んでいった人があまりに報われない。報われる殺人なんて在りはしないのだろうけど。
「そういやお前明日で退院だったな。良かったじゃん、これでやっと妹とも会えるな」
「……あぁ」
…ん?
「どうした。あんまり嬉しそうじゃないな」
「そんなことねーよ。一週間も会ってないのは初めてだからな、今にも泣きそうだ」
「ちょっとは弟も構ってやれよー」
そうか、そういやご家族の見舞いは全然見ないな。刈安のとこは母子家庭でお母さん忙しいからなぁ。ここの病院刈安の家から遠いから、流石に小学生と3歳児だけで見舞いになんてこれないだろうし。
「そういや圭次、今日って空五倍子博士のとこに行かなくちゃいけねー日だよな?」
「ああ。俺さっき寄ってきた。一応お前の分の薬貰ってきてんだけど、止めといた方がよくないか?」
「んー別に外傷に影響はないだろ。大丈夫大丈夫。後で呑んどくからそこ置いといてくれ」
…………。
「血液診断とかはできれば明日来てくれだってさ」
「了解」
因みに俺はこの一週間何の副作用も出なかった。正直不安だったんだが、これであんだけ金貰えるんだったらやってよかった。
鞄から薬を取り出してベッド脇のテーブルに置く。
「じゃあ俺もう行くわ」
「ああ。色々サンキューな」
立ち上がりパイプ椅子を片す。この一週間の見舞いで何故か仲良くなった同室の他の患者さん達に挨拶をしてから、病室の扉に手をかけた。
「あのさ圭次」
「ん?」
急に話しかけてきたのは勿論刈安。振り返らないままに話を聴く。
「なんで毎日見舞ってくれるんだ?」
「…………」
「万年クールなお前らしくないじゃん。そんな献身的に接しられたって俺はお前に惚れたりしないぜー?」
「アホか。責任感じたからだよ」
振り返って言う。嘘ではない。なのに何で後ろめたいのか、分からないわけではないが何故か誤魔化したくなる。
「じゃあな」
「おう」
病室を出て後ろ手にドアを閉める。
俺らしくない…か。万年クールなんて言ってたが、自分でそれを意識したことなんて無いし、あんまり多くの人間と接するのが苦手だから避けていたら、勝手にそう思われていただけだし。対人状態で俺らしさなんて出るわけ無いんだ。いつだって。
階段を降りて病院を出る。色彩中央病院と書かれた馬鹿でかい看板を通り過ぎ、病院の敷地から出る。上を見ると本当に一週間前にあの猛吹雪が来たのかと疑いたくなるほど、雲のない綺麗な星空で染まっていた。
「責任ねぇ」
駅へ歩きながら独りごつ。嘘ではないが、真相ではない。若干無意識でやってたところもあるが、やはり俺はあの女の言うことを信じていたんだろう。だからあれは見舞いじゃなくて見張りだ。俺は友人が殺人を犯さないように監視していたんだ。悪意を消し去ってみせるとかなんとか言っといて、やってることはただの束縛。身の回りに食物を置かないダイエットと同じだ。
「ひでぇ奴だよなぁ」
我ながら最低だと思う。
俺が自責と自虐を頭の中で繰り返しながら紺青の空の下を歩いていると、やがて色彩駅が見えてきた。色彩市には駅が3つあり、その内一番大きいのがこの色彩駅だ。上ると上色駅、下ると下色駅という何とも分かりやすい構造になっている。俺が住んでいて辰砂学園があるのが上色、刈安が住んでいて空五倍子博士の研究所があるのが下色となっている。
駅前の自販機で缶コーヒーを買おうとしていたら、後ろから野太い声がかかった。
「おい兄ちゃん、色彩中央病院ってのはここを真っ直ぐでええんかいの?」
はい―と答えながら振り返ると、親子と思われる二人の人間が手を繋いで立っていた。一人は40代くらいのオジサン。そしてもう一人は小学五年生くらいの少女。
額の傷が気になった。
■ ■
圭次はいつも韜晦している。いつものことだから別段気にすることでもないが、今日のそれは一層隠せていなかった。何を隠しているのかはよく分からないけど、隠していることはバレバレだ。いや、何を隠しているのかも本当は大体分かる。恐らくは、俺を見舞う理由。毎日毎日来る癖に、殆ど会話をせずに帰っていく。まるで俺を監視しているかのように。気持ちが悪い。あいつの善意が不気味で気持ち悪い。ただでさえ気分が悪いというのに。
「何故お前が来るんだ!」
俺の気分をこれ以上毒すな!
「なんだ今日は自棄に威勢がいいじゃねぇか悠平。頭に響くぜ?」
「黙れ糞親父、もう面会時間は過ぎてんだから帰れよ!」
病院の屋上には周りにここより高い建物も無いので、風がよく通る。3月上旬の風はまだかなり冷たくて、余計に俺を苛々させる。
「んなことは分かってるさ。23時が面会時間内だと思う程俺も馬鹿じゃねぇよ。態とこの時間に来たに決まってるだろうが糞息子」
「くっ……」
うぜぇうぜぇうぜぇなもう。なんなんだコイツは。何でお袋と別れた後も俺達に干渉してくるんだよ!
…決まってる。嫌がらせ以外に何があるってんだ。
「お前はもううちの人間じゃない。うちのマンションに来るな。愛歌と遼平にも二度と近づくな」
お前の居場所はもううちにはねぇんだよ!
「今日は本当に威勢がいいな。屋上とは言え病院だぜ? あんまりでけぇ声出すと先生とか他の患者さんに聞こえちまうぜ」
「黙れ! 用件があるならさっさと言えよ!」
俺は俺の持ちうる限りの威光を込めて親父を睨めつけた。こんな見栄えだけの迫力をこいつは恐れたりしないということは重々承知していたのに、それでもそうせずにはいられないくらい、俺はキレていた。
「おいおい殴り合いでもする気かよ。お前が俺に勝てないことは二年前に実技付きで教えてやった筈なんだがなぁ」
言いながら親父は腕まくりをした。
「知るか下衆野郎! とにかく愛歌と遼平には絶対に近づくんじゃねぇ!」
ああうぜぇうぜぇうぜぇ!
なんだこの溢れてくるあいつへの怒りと苛立ちは!
「そんなこと言われても愛歌は俺に会いたがってたぜ? なぁ愛歌」
―――え?
「………はい」
後ろを振り返ると3メートルくらい先に見慣れた小学生くらいの女の子―――愛歌がいた。着ているワンピース、履いている小さい靴、両サイドで縛った髪型、全て俺の知る見慣れた愛歌だったが、額にある傷とその悲しそうな表情は、今生見た覚えなど一秒だって無かった。
「愛…歌…」
なんでなんでなんで。
お前はこんなところに居ちゃいけない。愛歌――お前は俺が守ってやるから!
「愛歌ー。こっちへ来い」
そう言われると愛歌は、言われるが侭に親父の側へと小走りで寄っていった。
「よーしよーし」
まるでそこが定位置とでも言うように愛歌は親父の真横について、まるでそれが当然とでも言うようにグシャグシャと頭を撫でられていた。
バチン。
愛歌はいきなり叩かれた。
「なっ、何やってんだてめぇ!」
「愛歌。頭を撫でられた時はもっと嬉しそうな顔をしろと言った筈だ」
「………はい」
なんだこれ。まるでペットじゃねぇか。いや、ペットだって最近じゃもっとマシな扱いを受けている。
「なんだ悠平怖い目ぇして。愛歌が叩かれるのがそんなに嫌か?」
返事はしない。ただ睨む。さっき以上に精一杯の鋭さをもって。
「どうしても止めて欲しいんなら、手始めにそこで土下座して、さっきまでの父親に対する侮言を謝罪してもらおうか、かっかっか」
愛歌は引きつった笑顔を浮かべていた。
それが決定打だった。
俺の中にある何か―――曰く形容しがたい何かが―――
圧倒的な熱量を伴って一気に膨れ上がってゆく、熱膨張のような感覚―――
「殺す! ぶっ殺す!!」
そしてほとんど溜めもなく、その何かが、爆発した。
「ハッ! お前が俺に腕力で勝てるわけ…ぐぉっ!」
俺は親父の顔面に向けてドロップキックをした。喧嘩や殴り合いの類であればいきなりこんな捨て身の技を使ったりしないし、顔面を正面から両足で蹴るなんてことは、いくらムカつく相手でも気が引けたりするものだ。だけどこの時の俺は明確な殺意をもって、ただ単純に殺しにいった。武器なしで殺せる最も簡素なやり方を選んだ。だからこそ親父は対応できなかったに違いない。
「死ね! 死ね! 死ね!」
俺は地面に突っ伏した親父の頭をただ只管踏みつけた。ずっと。横腹に跳び膝蹴りが飛んでくるまではずっと。
「ぐぉ…」
俺は思わぬ闖入者にこれまでの人生の中でハイエンドの怒りを感じた。
「誰だてめぇ! 邪魔すんじゃねえ!」
「そこまでだ親友」
そういえば跳び膝蹴りはこいつの得意技だったっけ。
■ ■
屋上に出てみたら何やら息急き切って地団駄を踏んでいる刈安がいたのでとりあえず俺の得意技で掣肘してみた。しかし踏みつけていたのは地面ではなく、先刻駅の自販機前で道を尋ねてきたオジサンだった。
白々しく現状について考えてみたが、本当はまぁ大体把握している。俺は間に合って良かったと思いながら同時に、あの女の予言が当たっていたことに白々しく驚いていた。
しかし友人が言った次の一言で、俺は現状の深刻さと異変を理解する。
「どけ圭次…どかないとお前も殺す」
「――え?」
殺す…?俺を…?
どういうことだよ。このオジサンが刈安の何らかの恨みの対象になっているんじゃないのか? その怨恨がこのオジサンとの会話か何かによって触発されて、それで刈安はこんなにキレてるんじゃないのか?
「どけっつってんだろうが!」
「うっ…」
その鋭い目つきに一瞬怯んだ。その隙に脇腹を中段蹴りされた。
「…っ!」
元陸上部のインフロントキックには然しもの俺も耐え切れず、崩れるようにその場に片膝を付く。
「親父の前から離れろ。二秒間退かなければお前ごと蹴り飛ばす」
そのときの目は俺の知る刈安の目ではなかった。まるでただの悪意の塊のようで、最早人間の目ですらないように思えた。人間誰しもその気になれば人を殺すことなんて簡単にできる、とかなんとかそういうニュアンスの言葉をどこかで聴いたことがあるが、その言葉を考えた人はきっと、今の刈安のような人間に対峙したことがあるのだろう。
もういい。刈安の怨恨対象が誰だろうと、俺にはこいつを沈静させる以外の目的があってここに来たわけじゃないんだから、そうするだけだ。しかし親父だと? このオジサンが刈安の親父なのか? …刈安の家は確か母子家庭の筈。まぁいいか、今はそんなこと。
「どかねぇよボケ」
なんか似たようなシーンが先週あったっけな。被害者が加害者に変わってるけど。
ドスッ。
案の定蹴られた。顔面を多分思いっきり。俺は何とか耐え切って、座標をそのままにもう片方の膝をつく。二発目が来たらちょっとキツ…
ドスッ。
休憩挟まずに来たか。
だがそこで意識が途切れなかったのは、やはり俺は刈安に生きて欲しいと思っているからだ。悪意を持つ人間を殺すことを悪と考えているからだ。
チラリ、と屋上の入り口の上にある貯水タンクに座っている女を見る。ポニーテールに黒スーツ。その女はいつでも遂行できるようにするためか、右手に持つ拳銃を構えていた。焦点は勿論刈安。
女の方を見るときに、偶然視界にもう一人人間が写った。ここからでは暗くてよく見えないが、恐らくはこのオジサンと一緒にいた額に傷のある女の子。
このオジサンが刈安の親父ってことは、もしかしてこの子が刈安の妹か?
「…………」
俺は無言で立ち上がった。
「やっと退く気になったか圭次」
刈安は唇を吊り上げて不適に笑――おうとしていたが、どうみても無理をしていた。恐らく俺を蹴ったことに対して多少の罪悪感と後悔があるのだろうことが伝わってきて、少し嬉しかった。
「ちげーよバーカ」
「あ?」
三度目の蹴りが飛んできた。分かっていたことなので今度は避けられる。
挑発にはすぐに乗ってくる刈安の性格を逆手にとってわざとそういう風に言ったが、こうも分かりやすく乗ってくるとはな。そういうところも敏感になってるのか? どうでもいいか。
行く先を無くした刈安の足は親父さんの腹部にクリーンヒットした。続けざまに飛んできた下段蹴りも避けると、今度は親父さんの胸元に命中した。
「落ち着け」
そう言って俺は屋上の隅の方で震えている女の子を指差した。親父さんが心配だが今はとりあえず無視だ。
「あの子、お前の妹なんじゃないのか?」
「…………」
どこまでも分かりやすい動揺が、手に取るように伝わってくる。
「お前、親父さんを殺すことで妹が喜ぶと思ってんのか?」
そう言った瞬間、刈安の目が更に鋭く俺の目を刺した。
「思ってるよ! この糞親父が何をしたかも知らねークセに勝手なこと言ってんじゃねぇ! やめろ! その諭すような口調!」
…なるほど、この舌打ち癖を除けばどうみても温厚な刈安がキレる理由と言ったら妹関係しかないと思っていたが、そういうことか。憶測でしかないけど、それならばあの子の額の傷にも、悲しそうな表情で刈安を眺めているのにも、得心がいく。
「ああ知らねーよ。だが俺がお前の妹なら、お前が親父さんを殺すことを好まない。どんな理由があろうと絶対にだ!」
「知るか! 圭次は何も分かってないからそんなことを言える! 愛歌は今までずっと陰湿な虐めから直接的な暴力まで耐えてきたんだ! それから開放されることが嫌なワケがあるか!」
虐めと暴力――
その言葉で俺の頭の中に一つの疑惑が浮上する。
もしかして愛歌ちゃんが去年から学校に行かなくなったのはそれが理由なのか?――
刈安は昔その理由を、学校の環境に馴染めないからと、俺に説明した。俺はそれをクラスメイトか何かの虐めと解釈し、刈安はそれをオブラートに包んで言ってくれたのだと思っていた。だけどそれは俺に真相を掴んだつもりでいさせる為に吐いた嘘なんじゃないか? 本当はこの刈安の父親による虐待――
「…………」
でも…それでもやはり俺のすべき行動は変わらない。愛歌ちゃんは可哀想だけど、可哀想だからこそ、ここで刈安のバカを制さなければいけない。
だから俺は厚かましく言い放つ。
「分かってないのはお前の方だ」
今まであまりの迫力に直視できていなかった刈安の目を、今度は確りと見据えて続ける。
「俺が好まないと言ったのは親父さんが殺されることじゃない。お前が親父さんを殺すことを好まないと言ったんだ。他でもないお兄ちゃんが殺人犯になることを、実の妹が喜ぶワケ無いだろうがボケ」
「――っ!」
「お前が愛歌ちゃんの火傷の心配をしたのと同じように、愛歌ちゃんだってお前の事を第一に心配してくれてんだよ。そうでなかったら黙ってお前の親父の暴力を受けてるわけねぇだろうが!」
愛歌ちゃんが不登校になってまで、虐待を受け入れていた理由――
それは恐らく――
「全部お前のためなんだよ!」
「…………」
恐らく愛歌ちゃんは、言うことを聞いていれば兄には手を出さないと脅されたのだろう。全く兄妹揃って仲睦まじいこと。本気で相手のことを想うのだったら、相手から想われることを避けることは不可能だというのに。自分だけ相手のことを想って、相手に自分のことは気にしないでなんてのは、我侭この上ない。そんなことが出来るくらいなら、そもそもそいつは相手のことを想ってなんていなくて、相手を想っている自分に酔っているだけの勘違い野郎だ。相手から想われることを喜べて初めて、相手のことを想っていると言えるんだ。
でなきゃ俺なんて――とっくに幸せになってるっつうの。
「それなのにお前は愛しき愚妹をまだ苦しめようってゆうのか? そんなのでヒーローお兄ちゃん気取ろうなんて、ちゃんちゃら可笑しいぜ」
3秒の沈黙の後、刈安は体を支えていた糸が切れてかのようにその場に両膝をついた。俯いていて表情が分からないので、一応臨戦態勢(受けるだけだけど)を取っておこうと思ったが、白々しいので止めておく。今の刈安に殺意が無いことはあの女でなくても分かる。蹴られたこめかみ付近がズキズキと痛むのを耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。刈安の親父さんの顔を覗き込むと、白目をむいて涎を垂らして気絶していた。脳に支障が無ければいいんだけど、ここは病院だし、すぐに治療に向かえば大丈夫だろう。
とりあえず医者を呼んでこようと思い屋上の入り口へ向かう第一歩を踏んだとき、蚊の鳴くような声で刈安が呟いた。
「人の妹を愚妹とか言うなよ…」
苦笑い気味だが殺人は諦めてくれたようだった。
■ ■
翌々日。
春休み早々俺は自宅付近の公園に一人で座って日向ぼっこ。
いつかの団地前の公園と違いこの公園は遊具などがあまりなく、というか錆びれた鉄棒と滑り台と俺の座っているベンチくらいしかなく、おまけに雑草が伸び放題でお世辞にも居心地が良いと言える場所ではないので、あの時とは違い快晴だというのにこの公園には俺しか存在していなかった。
刈安は傷害罪で逮捕された。友人が逮捕されて嬉しいわけはないんだけど、まぁ銃殺事件の被害者第五号に選ばれなくて済んだし何より殺人犯にはならなかったのだから、俺も刈安も、そしてあの女も、ベストな選択をしたのだと思い込むことにしよう。
刈安の両親は約一年前に、父親の酒癖の悪さ、仕事への怠慢などが理由で離婚した。その後のことを俺は全く知らなかったのだが、父親は母親の居ない時間に偶に刈安宅を訪れ、主に愛歌ちゃんに虐待をしていたらしい。その際に嫌がった素振り態度を母親に見せたり言いつけたりだとかした場合にはこの家庭をぶち壊してやるからな、と脅迫していたらしい。愛歌ちゃんは自分が耐えていれば幸せな家庭を保てるのだと必死に我慢していたのだろう。一方刈安は昔から父親に逆らう毎に怖い目に遭わせられトラウマができていたらしく、この事件が起きるまで父親には絶対服従の姿勢だったらしい。このこと全てを俺はあの事件の後に刈安から直接聞いた。両親も弟妹もいない俺にはよく分からなかった。
「…………」
あの親子喧嘩に飛び入る3時間ほど前。
俺は自宅最寄の上色駅に着いた。そこから20分くらい歩いた所にある自宅に帰宅すべく歩いているとき、ある異変に気付いた。
「誰だ」
言いながら振り返る。がそこには誰もいない。正面に向き直ると、額に冷たくて硬い何かが当たった。寄り目にしてよく見ると、それは拳銃だった。
「どうして分かったの?」
その拳銃の持ち主が俺の進行方向に悠然と立っていた。あの女だ。
「俺が一人でいるとしたら、こんなに疲労感を感じる筈ないからな」
そう言うと女は不思議そうな顔をした。無理もない。この持病を人に理解してもらおうとも思わない。
「どーせ撃つ気はないんだろ? 気分悪いからその拳銃さっさと閉まってくれ」
拳銃突きつけられて冷静でいられるほど俺も悟っちゃいない。
「バカにしないで。あんたの悪意が先週より少しだけど上がってるわ。まだまだ常人の域だけど、ムカついたら撃つ」
先週はいかにも暗殺者って感じのイメージだったが、今の彼女は年相応のちょっと強気な女の子程度の気迫しかなかった。しかしムカついたら撃つって何だよ…。俺はお前の機嫌取りの為に生きてるんじゃねーっての。悪意が上がってるのだってきっと電車が込んでてちょっと苛々してたからだぜきっと。
「人来たらどうすんだよ。夜9時とはいえ一応住宅街だぞ」
「大丈夫。職業柄人の気配には敏感だから。多分一番近くにいる通行人は向こうの角を曲がって八十メートル先を歩いてる男」
「へー。性別まで分かるのか」
「そこは勘よ。気配が暑苦しいからきっと男だろうってだけ」
気配が察知できる。よって私の犯行は目撃者ゼロなのよってことか。とてもアドリブの嘘とは思えないし、妄想にしては説得力が有り過ぎるな。
いや待てよ。目撃者なら一人だけいるじゃないか。
「俺は?」
「へ?」
思わず吹出しそうになるようなマヌケ面だった。
「俺はあんたが刈安を撃ったのを目撃してんだけど。何で俺がいる前でやった?」
よもや寒さで感覚が麻痺してたなんて言うつもりじゃあるまい。
「……それが何故かあんたの気配は分かんないのよね。あんたホントに人間? 人気ってもんが全然無いわ」
そこで何故かこの女は紅くなった。はい? 照れるとこじゃねーだろここ。人のことボロくそ言いやがって、という怒りが沸いてこなかったのは少なからず自覚があったからなんだけど。
それにしても気配に敏感な人間と気配の無い人間か。何とも皮肉な邂逅だな。
「んで用件はいつになったら話してくれるんだ?」
「……あんたの友達、ここのところどんどん悪意が減っていってるわ」
「そうか」
俺の監視も徒労ではなかったようだ。しかしここ数日の刈安は悪人どころか普段より大人しい感じがしたんだけどな。よくよく考えたら仮にあいつが良からぬことを企んでいたところで、院内じゃ実行可能な犯罪なんてそんな無いだろう。真っ先に看護士にセクハラという低俗なことを思いついた俺の方がよっぽど悪人だぜ。
「一度は58%にまで高騰した殺意も、30%代にまで消沈した」
「そうか。じゃあ刈安をターゲットにするのは二度とよしてくれな」
連続銃殺事件そのものを止めてくれと言えなかったのは何故だろう。やはり俺の心の隅ではまだ黒い何かが根付いたままなのだろうか。それとも未だにしまってくれない拳銃に怖れているだけなのだろうか。
「…それは約束できないわ。というか多分無理」
「え?」
そこで漸く女は俺の額から銃口を離してくれた。額に丸い銃口の跡が付いちゃったりしてたらやだなぁと思いおでこをさすろうと上げた右手が途中で止まる。関節が痛い! のではなく、女の言葉によっておでこをさすることの優先度が失墜したのだ。
「彼の現在の悪意は68%。その内殺意が占めている割合は90%…全体の約61%。何が彼の悪意を触発したのか知らないけど、これは相当危険よ。さーてあんたはどうするの?」
「え……」
突然のカミングアウトに思考が追いつかない。漸く女の言っていることを理解したときには既に続きを語り始めていた。
「悪意がこれだけ急騰するには他者の干渉しか有り得ない。つまり彼の前には人間がいるということ。殺人に於いて必要なのは"殺"意と"人"間だけ。さっさとしないと間に合わないかもしれないわよ」
俺は走った。
表面上は彼女の言ってることは半信半疑という俺設定も忘れて走った。
というのが一昨日の傷害事件に俺が居合わせた理由と真相。
「……回想しゅーりょー」
顎が外れるくらいの欠伸をしながら両腕を上げて伸びをする。
今思えば何であの女は俺にわざわざそんなことを教えに来たのだろう。そんなことをしても何の得にもならない筈だ。あのときは盲目的に信じてしまったが、冷静に考えれば嘘を吐いている可能性もあった。真実を吐くことの方が可能性は高かったにしても、意味が無いことに変わりはない。
あの女に関しては不明なことばかりだ。その不明は一人で公園のベンチで考えたって解けるわけもなく。
伸び放題の雑草がジーンズの内に入り込んで足首を刺すのが気持ち悪いので、そろそろ帰るとしよう。
と思ったら件の不明少女が現れた。公園の入り口を抜け、真っ直ぐにこちらに向かってくる。俺は反射的に逃げそうになったが堪える。しかしエンカウント率の高い女だな。
女は俺の前で立ち止まった。挨拶代わりと言わんばかりに額に拳銃をつきつけてくる。
「よく会うわね少年」
白々しい。
「そうだな少女」
女は銃を鞄に仕舞うと俺の隣にあるベンチに座った。俺の座っているベンチにはもう一人分座れるスペースがあるのに向こうに座るというのは果たして遠慮しているのか恥ずかしいのか避けられているのかまぁどれでもいいか。
「何用ですか」
「お礼を聞いてないわ」
「は?」
「あたしはあんたの親友の暗殺を諦めてあげたのよ。こんなのはミズモリとしては異例中の異例なんだから」
何を言い出したんだこの女は。
少なくとも俺は殺されないのが普通だと思っているので謝礼をする気は更々無い。この女もそのくらいの事は分かっていると思うんだがまぁいい。ミズモリってなんだ。
「ミズモリっていうのはあたしみたいに人間の悪意を殺ぎ落として街の平衡を保たせることを生業としている人のことよ」
「……へー」
人の心中を無許可で読むなよ。というかこんな奴が他にもいるのか。堪ったもんじゃねーな。
「でも銃殺事件が起きてるのって色彩市だけじゃん。ミズモリのいう悪意ってのは色彩市にしかないわけ?」
「得物に銃を使うのはあたしだけだからね」
「けど未解決の殺人事件自体、滅多に起こるわけじゃないだろ」
「…うーん」
言うかどうか迷っているらしい。まぁミズモリってのにもルールとか掟があるんだろうし、諦めるか。
「…これはミズモリの真相と言ってもいい程の情報なんだけど、まぁ教えてあげるわ。けど多分理解できないと思うわよ」
「バカにするなよ、俺は結構な読書家だからな。理解力には自信がある」
「そういう問題じゃないんだけどねぇ」
女は不承不承といった感じのまま話し始めた。
「ミズモリは担当の街の平衡に成功したら、その街の真意秤というところに行くの」
「何だそれ。どこにあるんだ?」
「一般人には行けないところよ」
顔には出さないが、そのとき俺は銃口を離してもらえた時よりも安堵した。女は「人間には行けない」ではなく「一般人には行けない」と言った。つまり彼女は人外ではなくあくまで変人なのだ。何故それが俺の安堵に繋がるのかは分からないけど、やっぱり俺は安堵していた。
「真意秤は常にその町の善意と悪意を天秤にかけている。悪意側に拠りすぎてる秤をできるだけ平衡に近づけることがミズモリの役割であり、使命」
「まぁそれは何となく察しがついてた」
納得はしてないけど。殺した人間の悪意は秤から消失するってことか。
「ある程度悪意を摘み除いて、もうこのくらいでいいかってなったら、ミズモリは真意秤の悪意の秤皿から追い出されたある悪意を持ち出し、今度は善意の秤皿に乗せるの」
「死んだ人間の悪意か?」
「違うわ、あたしの殺意」
…そうか。この女だって人を何人も殺してるんだ、殺意なくして人を殺せるはずない。
「で、あたしの殺意を善意の天秤に乗せたらどうなると思う?」
「分かるわけねーだろ」
というかそもそも死んだ人間の悪意をどうこうできるのかよ。仰るとおり読書家の俺でも理解できませんわ。
「完結した悪意に質量は無いから、秤の動きに変化は無い。けど体積はあるからその意は確実に善意と昵懇の間柄となる」
さーて今日の晩飯何にすっかなー。
「聞け」
「痛いです」
テンプルに思いっきり右ストレートを食らわせられた。
「ここからがあんたの知りたいことになる。善意と打ち解けた悪意は再び現実に存在することになる。正当性をもって」
「いや意味わかんない」
頭が痛くなってきた。
「つまりあたしの殺しはこの世界に打ち解けてしまうの。あたしはあと二、三人分の悪意を殺いだらこの街での狩りは終えるつもりだから、あと一週間くらいしたらあたしの殺人は正当化されるわ」
…………
「無かったことになるってことか?」
「違うわ。あったけど、あったから何?っていう風になるわけ。誰もミズモリのした殺人に関心が湧かない」
「意味は分からないが最低だってことは分かったよ」
なんだそれ。人を殺しておいて許されようなんてのはどんな悪意よりも悪質じゃねーか。何が街の平衡だよ。
「…あんた先月に隣の市で起きた連続絞殺殺人覚えてる? 4人が犠牲になった」
「あ? それがどうしたんだよ」
「…言ってて気付かないの? 4人が絞殺されたんだよ?」
「ああ。だから何だよ」
何言ってんだホントに。桑染市で殺人事件が起きたのなんて皆知ってる。人が4人死んだってだけだ。取り立てて話題にすることではないだろ。
「こんな風にミズモリの犯行は何れ正当化されるの。今あんたはあたしを責めてるけれど、直ぐに何でもない出来事として記憶に残るわよ」
「あのことがミズモリと何の関係があるってんだよ」
そこで女は何故か悲しそうな顔をして、その後にしかめっ面で俺を睨んだ。
「やーっぱあんたダメだわ。ダメだけど、まぁチャンスをあげる。あんたの狡猾な優しさに免じて」
「は?」
女は立ち上がって大きく伸びをした。
「あんたが友人くんの暴走を止めたとき、最後の二発の蹴りはわざと避けたでしょ」
…………
「そりゃ無意識に避けられるほど俺は喧嘩慣れしてないしな」
「そういうことじゃないわよ。白々しいわねホントに」
「お互い様だろ」
確かにわざと避けた。わざと避けて、親父さんにヒットさせたんだ。まさかあそこまで綺麗に入るとは思っていなかったけど。
「傷が顔面の踏み跡だけだったら警察は多分殺人未遂と取っちゃうからねぇ。腹部やら胸部にも傷を作っといて、親子喧嘩っぽくしないと傷害罪にはならないもんねぇ」
「かもなぁ」
…嫌味ったらしい女だ。
女は地面に爪先を立てて足首をグルグル回すストレッチをした後、先程入ってきた公園の入り口に向けて歩き出した。
「さて。あたしは新たな悪意を探しに歩き回るとするわ」
「あ」
そうだ、俺は言わなくちゃいけないことがあるんだった。ミズモリだか何だか知らないが、人を殺すことが許される人種なんていない。
「おい!」
立ち上がって女の背に向けて怒声をぶつける。今すぐそんな仕事を辞めろ。殺人を止めろ。そう言わなくちゃいけない。
「何よ」
…………
「名前は何てゆうの?」
笑い事ジャナイヨ俺…情けねぇ。
「朽葉よ、あんたは?」
「煤竹圭次です」
じゃあね圭次、というと女は公園を出て住宅街に消えて行った。最後にチラリと見せてくれた笑顔はとてもじゃないが暗殺者の顔には…見えた。とっても邪悪な笑みだった。わざとなんだろうけど。白々しい。
何故あの時俺は止めろと言えなかったのだろうか。対殺人犯ということに怖気づいていたわけでは最早ない。となるとやはり俺はこの期に及んでまだ悩んでいるのだろうか。本当の悪がどちら側なのかについて。いや、そんな筈は無い。俺は刈安の暴行を止めたときに既に決めていた。…じゃあ何でなんだよ。最近思考ループの頻度が高いな俺。
まぁ今回は、
「朽葉ねぇ…」
どうしても名前を訊きたかったからということにしておこう。ファーストネームなのかファミリーネームなのか分からないが、これは次に会ったときの最初の話題ということにしておこう。
というかまだお礼を言って無いのに帰ったら、本当の用件がそれじゃないの…バレバレじゃねぇか。まぁお礼を聞きに来たなんて理由、今時小学生でも騙されないし、あれはわざと言ったであろうことくらい明白なんだけど。
■ ■
「しまったお礼聞き忘れた」
まぁいっか。あいつ馬鹿そうだし、バレてないバレてない。
「…………」
あの男と別れた後、あたしは予告通り街を徘徊している。人通りの多い所を中心的にかれこれ4時間くらい。
「はぁ…どうしたんだろあたし」
もう10日間殺しをしていない。あの男、煤竹圭次に会ってからは一度も。
「はぁ………」
あっちのアパートの二階に悪意の気配がする。この距離じゃ精密な割合は分からないけど、65%弱くらいかな。あそこの丘からなら角度が丁度良いし、この天候ならこの間のように撃ち損じる心配も無いだろうし。窓が開いていたら対象が外出するのを待たずとも十分狙える位置…。
「……別にいっか。この寒い中窓開けてるわけないし」
こんな調子。殺意が沸いてこない。4時間歩いていて既に二人ほど悪意のそこそこ育ってしまっている人間を察知したが、適当な理由を付けてはスルーしている。
あれだけ憎かった悪意が目の前にあるというのに、半年前は狂戦士の如く目に映る悪意を根こそぎ摘んでいたというのに、今はこの体たらく。あの頃のあたしなら人気を気にせずアパートに乗り込んでまで射殺していたと思う。あたしはあの男のように悪意を持つ人間を殺すことを悪だとは思っていない。あの男が友人の、えーと、刈安だっけ?の殺意を消沈させた後だって、それは変わらない。ケースバイケース。そんなことはあの男だって分かっている筈で、全ての人間の殺意をあんな風に消沈できるわけないのだ。
「…………」
だからアイツも死んだんだ。何故か煤竹圭次と被るアイツ。全然似てないのに。いや、謎だらけのとこだけは似てるのかな。
でもだったらやっぱり可能性は全て潰しておくべき。悪意は持つこと自体が悪で、実行のするしないは関係ないんだ。ずっとそう信じてきたし、今だってそれは間違ってないと思っている。公園であの男を見つけたとき、もう一度こいつと会って話せば自分の信仰に自信が持てると思って近づいた。案の定あたしはあの男の考え方に虫唾が走った。だからあたしは変心なんてしてないと確信をもって言える。けど悪意が再興する可能性のある筈の刈安少年を撃ち殺す気にはどうしてもなれないのよね。
「はぁ…」
まぁ一度20%以下にまで消沈してしまえば、それはもう殆ど常人と同じ確立なんだけど。
俯きながら歩いていると人にぶつかった。
「あ、すみませ……っ!」
ぶつかった何者かに殺意を感じて、私は反射的に間合いを取った。
得物を取り出すために鞄に手を突っ込み、対象を見据える。
「…なんだ…緋色か」
そこにはよく見知った顔があった。
「私の殺意は確かに気取り難いけど、こんな至近距離に来るまで気付けないってことはやっぱり不調中のようね、朽葉」
「うっ…」
やっぱり様子見に来たのか…。よりによって緋色に見られるとは。
「何があったのか知んないけど、この街の悪意が原因不明の異常増殖中なのはあなたのよく知るところでしょ。早いとこあと20人くらいぶち抜いちゃいなさいよ。そのトルスちゃんで」
「トルスにちゃんを付けるな」
あたしの銃のこと。
あたしだって殺せることならさっさと殺してしまいたい。この異常発生区域の一掃には自分から名乗り出たのだ。本来なら橡さんが直々に担当するようなトコを無理言ってやらせてもらってるのだ。これ以上迷惑はかけたくない。けどできないのだ。殺意が沸いてこない。
「ごめん、もうちょっとだけ時間頂戴」
合掌して頭を下げる。緋色の前でこれをするのは何回目だろう。
「……まぁ橡さんには私から言っとくわ。でも早くしないと悪意が実行に移されちゃうわよ。あんたの嫌いな…ね。もしもその時までそうやって渋っているようだったら、私がここの担当代わるから」
「…ありがと」
緋色は何だかんだ言って優しい。あたしと同い年の癖にいっつもタバコふかしてるし真っ赤な髪してるしすぐ殴るし酒豪だけど。
「…分かるよ。揺らいでるんだろ?」
「え?」
「私も昔あった。昔って言ってもそれ程昔じゃないんだけどね。急に人殺しが嫌になったんだ。あの時はもうミズモリとして生きていくのは無理かなって思ったんだけど、ある一人の少女に目を覚まさせられてね。今はこうして無事復帰してるよ」
「…そうなんだ」
ミズモリやってれば誰にでもある症状なのかな。音楽家が急に曲作れなくなったりするのと同じなのかも。けどスランプって抜け出せないままの人もいるみたいだし、あたしは緋色みたいに復帰できるのだろうか。
「んじゃ、頑張れよー」
そう言うと緋色は背を向けて歩き出し、商店街の人ごみに消えて行った。
■ 第二章 韜晦と解答 ■
俺に両親はいない。勿論俺という存在があるのだから最初からいないというわけではなく、きっと俺が生きてきた十六年間のどこかで死んだのだろうと予測される。白々しいか。まぁ母親は事故で死んで、父親はそのショックで自殺というよくあるケースでこの世を去り、一人っ子な俺は祖父母の家に引き取られたというわけで、今はその祖父母と居間でテレビを見ながら寛いでいる。
「しっかしこのCMしつこいなぁ」
爺ちゃんはさっきからこの調子でテレビに映るあらゆることに突っ込みを入れている。祖父母といっても二人ともまだギリギリ50代なので滅茶苦茶元気だ。
「圭次ぃお昼ごはん何がいい?」
「別に何でも」
婆ちゃんは俺の名前を独特のイントネーションで呼ぶ。俺が質問に答えると婆ちゃんは炬燵から抜け出して台所へ向かった。
「…………」
あの事件から今日で一週間、あの女…朽葉と初めて会ったときからだと二週間か。あの日以来殺人事件は起きていない。朽葉はもうこの街を去ったのだろうか。まだ居るのならここ最近事件が起きていないのは悪意のある人間というのが中々見つからないからなのだろうか。殺意なんかは別としても窃盗とか軽い詐欺とかくらいなら考えてる奴はいっぱいいると思うんだけど。あれ? 何で俺こんなこと考えてんだよ。朽葉が色彩市を離れたなら俺の知り合いが殺される可能性は激減するんだから、重畳じゃないか。
「はぁ…」
「なんだ考え事か? 珍しい」
「別に」
折角の春休みだってのに悩んでばっかりだなぁ。まぁ学生時代は悩むことが大事だと倫理の先生あたりが言っていたので遠慮せずに悩むこととしよう。ああ悩ましい。
「圭次ぃお客さんよ」
「え?」
うちの呼び鈴は故障してるのか知らないが音が小さいので、今の俺のように考え事なんかしてると聞き逃すこともしばしばだ。
「誰だよこんな時間に」
「いや昼の1時だけど」
婆ちゃんの突っ込みをスルーして玄関に向かう。午前に外出して帰宅して、その後二時間以上炬燵でぬくぬくしていたのが原因だろう、体がとてつもなくだるい。
摺り足で玄関に到着する。
そこには見知った同級生…というか幼馴染の顔が一つ。その顔は俺の顔を見るとにっこりというオノマトペが聞こえてきそうなくらいに、にっこりな笑顔で微笑んだ。
「なんだよお前か」
「お前かって…誰を期待したんだよ」
「…………」
確かに。俺は一体誰の来訪を期待していたというのだろうか。謎だ。白々しいけど。
「何か用?」
「用が無くちゃ来ちゃいけないのか?」
「ああ」
当然だ。
恋人でもあるまいし。いや恋人でもダメなんだけど。
「ちょっと僕の買い物に付き合って欲しいんだけどさ」
「…またか」
さて緑青夏子。
趣味は古本屋での大量買いとそれを読むこと。それも一度にハードカバーを数十冊買ったりするのでこのように度々荷物持ちに駆り出される。因みに一人称が"僕"の上男子な話し方なのに、性別が女なのはわざとだ。俺が昔「無個性だよね」と言ったのにショックを受けたらしい。一人称ってそんな安々と変えられるものなのかと思うがまぁ勝手か。
「な、頼む。どうせ暇だろ?」
「生憎俺は悩み事で超多忙だ」
「なんだよそれ」
なんだろうね。ホント。
「ごちゃごちゃ言わないで来いよなー」
「?」
何かいつになく強引だな。夏子ってこんなやつだったっけ。まぁいいか。
「不承不承」
言いつつ玄関を出る。夏子は話しててつまんなくはないし、買い物に付き合うくらいなら例の持病も耐えうるだろう。春休み前のアレ以来運動ゼロの体には丁度いい負担かもしれない。
空は午前中に出掛けたときに見たものよりも暗んでいた。雲多し。
「可憐な女の子とのデートにつっかけは無いんじゃない?」
夏子は一旦俺の全身を舐めまわすように眺めた後、俺の足元を凝視してそう言った。
男口調で話すならキャラも男になりきれよと思うが、夏子は表面ボーイッシュを決め込んでいるらしい。
「可憐? 女の子? デート?」
「いや二つ目の疑問はおかしいだろ!」
お笑い好きの夏子らしい神速の突っ込みが入る。モーションを入れること自体はいいんだけど、チョップは少し昭和過ぎやしませんか夏子さん。
「それとつっかけだけじゃない! なんだそのセンスの無い上着は!」
「なんだ今日はヤケにキレっぽいな」
ファッションチェックはいつものことだが、ここまで全身を使って否定の意を表してくるのは珍しいを通り越して異様だ。
「ああ悪い、何かイライラしてて」
「へー、まぁ俺の持病よりはマシだろう」
「確かにな」
「うっせぇ」
俺の他人苦手症を唯一知っている人間だけに楽に話せる。それだけにこの疲労感が余計に鬱陶しい。どうせ人と接するのが苦手なら、いっそのこと一匹狼症ってな感じに一人大好き! みたいな風になれば良かったのになぁ――とは思わない。なんてゆうか、そんなことになったら、色々とな。
「学校とか毎日疲れながら通ってんの?」
「いや、授業中とかは教室全体から見れば人一人なんて空気だからな。人に意識されてなければ大丈夫だ」
「ややこし」
「うっせぇ」
駄弁りながら歩くこと二十分。
俺達は市内最小手なんじゃないかと思うほど鄙びた古本屋『コモト屋』に到着した。店名が"古本"の読みを変えただけなのかは目下不明。そしてコモト屋の来客は今日も勿論零。ここには夏子に誘われて過去三度来たことがあるが、俺達以外の客が居たことは一度も無い。
「なんでここ潰れないんだろうな、夏子」
「さぁねぇ」
二人して白々しかった。コモト屋が潰れないのは夏子の大量買いの御蔭ということにしておこうと前回来たときに夏子と決めておいた。と言っても数万円程度の買い物を数ヶ月毎に行う程度ではやっぱり潰れない理由にはならないか。立地場所が悪い所為でもあるだろうなぁ。ここ超裏通りだし。まぁ店長の婆さんに直接訊くのもなんだし別にそんな気になってるわけでもないので、夏子の御蔭でいいや。
「買う本大体決まってるのか?」
「全然」
夏子はそう言って颯爽とコモト屋にエンターした。俺も後を追って入店する。それを知らせるブザーも何も鳴らない。万引き常習犯もこの無防備さを見たら、逆に警戒して踵を返しそうだ。
夏子は棚と棚の間が右肩と左肩の間くらいしかない通路で器用に本を物色している。こういう時に話しかけると怒るタイプの女では無いのだが、彼女が本を選んでいるときの顔を見るととても話しかけづらくなる。だから俺は芸能関係の本でも読みながら暇つぶし。横目でチラリとレジを見ると、店長の婆さんは目前に新聞を開いたまま眠りこけていた。一体どこまで無防備マスターなんですか。
「…………」
コモト屋は通路の狭さとは裏腹に、というか引き換えに、店内は意外と広い。つまり陳列されている本の数が半端じゃないのだ。何故客の入りは悪いのにこんなに本が集まるのか不思議で仕方ない。30分ぐらい不思議がっているとレジの方から俺を呼ぶ声がしたので向かってみると、そこには平置きの本タワーが二つばかり建立されていた。
「ナンデスカコレ」
「本塔」
「本当?」
白々しい。
■ ■
「どうして?」
■ ■
両手に紙袋を提げコモト屋を出て数分、俺と夏子は喫茶店の中に居た。因みに両手に提げているのは俺だけで、夏子は片手に提げてるのみだった。俺が購入したわけでも無いのに俺が多めに持つっておかしいだろと狭量な不平を述べると、夏子は力のある男が二つ持つべきだと尤もな返答を返してきた。予測できていた返答だったので用意していた皮肉を言ったら、股間を掬い上げるように蹴られた。だったら僕僕言ってんじゃねぇよと。
「いやー買った買った。ここは僕のおごりだから、じゃんじゃん遠慮して頼んじゃって」
夏子は皮肉を言ったときの不機嫌な顔はどこえやらなニコニコ顔で言った。
「遠慮さすのかよ」
俺は両手の紙袋をフローリングに置き、手提げの紐が食い込んでいた指の第二関節あたりを案じつつ座席に着き、通りすがりの店員を呼び止めホットコーヒーを注文した。
「あ、僕は大砲パフェで」
どんなパフェだよ。というかまだ3月初旬だというのに寒くないのだろうか。
当然大砲パフェよりもホットコーヒーの方が早く届いたので、一足先に俺はそれを飲みながら、両サイドの紙袋を見下ろした。
物理的に読みずらそうな装丁の本が平積み二列で置いてある。一番上にある本はテレビで紹介されているのを割と最近に見たことがあるような気がする。俺でも知ってるような新書が既に古本屋に並んでいるとは、コモト屋も中々侮れない。
「全部ハードカバーか?」
言って、爪を弄るの必死になっている夏子の方に興味を移す。
「え、うん。でも前に買った奴まだ数冊読んでないんだよなー」
「そうなのか」
そういえば前回駆り出されたのが今年始まって直ぐくらいだったか。あの時はお年玉全部使ってたなぁ確か。本の他に金の使い道を知らないのかこいつは。
「そういや今回の資金源はなんなわけ?」
そう言うと、待ってましたと聞こえんばかりのニンマリ笑顔が俺の視野を支配した。夏子は「ふふん」と不適に笑いながら嬉しそうに語りだした。
「実はな。中々うまい即日手渡しのバイトを見つけてしまったのだよ圭次くん」
「ほう」
うまいバイトね。俺も今朝3度目の服用に行ってきたばかりだけど。まさかな。
「しがない圭次に紹介してやろうか?」
夏子は狭いテーブルに身を乗り出して、ニンマリ笑顔を崩さずに提案してきた。以前にも一度、夏子にバイトの紹介を受けて一日だけ行ってみたことがある。中々に良い条件だったのだが、なんとこいつは紹介料を徴収しようという吝嗇な奴なのだ。もうその手には食わない。
「ん、俺は間に合ってるからいいや」
「ちぇー」
夏子のやっているバイトというのがどのくらいうまいのか知らないが、空五倍子博士のトコ程ではないだろう。寧ろこっちから紹介してやりたい気持ちもあるが、一応刈安に口止めされてるし、黙秘しておこう。まぁ今回は夏子の出費もそこそこに抑えられたわけだから、当分こいつも金には困らないだろう。
そんなことを喋っていると厨房入り口の方から何やらどデカイ円柱の硝子容器にクリームとフルーツを限界まで詰めた、正しく大砲のようなパフェが運ばれてきた。
「こちらが大砲パフェになります」
何だかその存在感の所為で俺のコーヒーまで甘くなってしまった気がする。夏子よ、お前は喋り方なんて変えなくても、一人称なんて変えなくても、十分個性的だったんだな。
■ ■
「なぜ?」
■ ■
夏子は大砲パフェの食事を3分で終わらせた。俺達は喫茶店を出た後、共通の帰路についていた。俺と夏子の家は比較的近いので、殆ど見送る必要性もない。俺の家の二階の窓から夏子の家が見えるほどだ。だからこうして買い物に付き合わされ、帰宅に付き合わされるわけだけど、だからこそできるだけ寄り道は止めて欲しい。
帰路についてたのは五分前の話。
今はその正規ルートから外れて、俺と夏子は路地裏にいる。表には商店街があるので、賑々しいおばちゃんたちの声がいくらかここまで届いてくるが、その声がこの場の雰囲気を明るくしたりはしない。
「で? 反省したわけ? お兄さん」
ここには俺と夏子の他に、もう二人ほど人間が居た。スキンヘッドと茶髪ロン毛の強面の男二人。今夏子はスキンヘッドに右足を乗せて左手で茶髪ロン毛を引っ張っている。
「圭次、あんたも一発くらい殴っとけば?」
「遠慮しとく」
要するに商店街を歩いていたら、この二人の男に絡まれたわけだ。だが別にそこまで怪しい二人ではない。格好は十分すぎる程怪しかったが、このスキンヘッドと茶髪ロン毛は俺達を喝上げしたわけでも暴行したわけでもなく、店に連れ込もうとしただけだ。それは確かに多少強引な接客だったが、まだ何もしていないと言えばしていないので、そこまでキレるのもどうかと思うが。
俺は壁に凭れかかってそれを静観する。
「反省してます」
「もういいでしょ?お姉さん…」
顔に似合わず、男二人は乱闘開始1分からこんな感じだ。
「ああ?」
顔に似合わず、女一人は乱闘開始直後からこんな感じだ。
ドスッ、バコッ、という格闘ゲームでしか聞いたことの無いような、クリーンに肉体を貫く気持ちの良い音が鳴る。
夏子の逆鱗に触れたスキンと茶ロンはこの調子で袋叩きにも拘わらず、彼女は一向に止める気配がない。夏子が拳法家だったことを久しぶりに思い出したが、しかしこいつは素人は殴らないんじゃなかったか。まぁ主張なんて割と曖昧なもので、ひょんなことであっさり変わったりするもんな。俺みたいに。
「おらおらおら!」
夏子は今までに見たことの無い形相で殴っては蹴り、殴っては蹴る。男達は先程まで微妙に抵抗していたのが、段々と赦免を請うようになり、そして呻き声以外何も口にしなくなっていった。
「どうして?」
斜め後方、建造物の隙間から、唐突にそんな声がした。振り返るとそこには十六歳くらいの少女。黒スーツにポニーテール、肩から提げた小さめの鞄からは既に黒い鉄の塊が覗いている。
「朽葉…」
俺がその人物の名前を口にすると、その人物は怒りの表情に顔を歪ませた。
「この悪意の塊が…っ!」
「…?」
「あたしの名前を呼ぶなっ!」
え…?
俺が…悪意の塊?
「何言ってんだ…俺は何も」
「その通りよ!お前は何もしていない!」
朽葉は既に銃を手に取っていたが、銃口をこちらに向けてはいなかった。
「目の前を悪意が横行しているというのに、その焦燥や怒気が全く感じられない表情! そいつはお前の友達なんじゃないの! 悪意と理性の闘いに、あんたは手を貸して一緒に闘ってあげるんじゃなかったの!」
朽葉は一気にそれを捲くし立てた。
「教えてあげる。今そこであたしの存在にも気付かずに愉快気にリンチしてる女…悪意65%。主意は叛意」
叛意…謀反心か。
「そしてあんた…悪意50%…」
「え…」
俺に悪意…バカな。俺は人を傷付けたくもないし謀反心だってない。
「主意は無意。最も例外で最も悪質な悪意」
無意…意志が無いってことか?
「なんだよそれ…それの何処が悪なんだ」
「悪よ。その証拠に目前の悪意を見過ごしてるじゃない、この間のあんたなら絶対にそんな風に壁に凭れかかって眠たそうな顔してられない筈よ!」
なんだえらい必死な女だな。
「…古本屋に居たときから尾行してたわ」
「ストーカーかよ」
しかし前回のように気付けなかったな。悪意に感覚まで支配されてたってか?
「彼女、店員のお婆さんに値切り交渉を断られてどうしてたっけ?」
「うるさい、とか何とか言って強引に希望値だけ置いて本掻っ攫ってったな」
「喫茶店のパフェをできるだけ残さずにお食べくださいって言われてどうしてたっけ?」
「命令するな、とか何とか言って殆ど食べずに残りを店員に投げつけたな」
「それ見てどうも思わないわけ?」
「別に?」
「ホントにそれでいいの! 煤竹圭次!」
「ああ」
「――っ!」
別に教唆したわけでもない。俺の何処に悪意があるっていうんだ。
朽葉は大きく溜め息を吐いた後、俺を見据えて鼻で笑った。何故か分からないが俺はそれに無性に腹が立った。立っただけだけど。
「アイツに似てるなんて思ったあたしがバカみたい。こんな男ならアイツの方が百倍マシね。緋色。どうやらあたし思ったよりも早く復帰できそう」
「?」
何を言ってんだこの女は。まぁどうでもいいか。横目で見た夏子は既にリンチを終え、疲れたのかそこにへたり込んでいた。男達は気絶していたようだが、命に別状があるほどの外傷は無いように見えた。
視線を朽葉に戻すと、彼女は右手の拳銃を夏子に向けて構えていた。
「こいつの次はあんただから」
そう言って拳銃に付けられているロック装置のようなものを構えた手の人差し指で外し、指をそのまま引き金にセットする。朽葉は目を細め、対象を見据え、引き金を引いた。
「……止めろ!!」
反射的に口と体が動いた。俺の意志に反するように。無意に逆らって跳躍した俺の伸ばした右手は確かに彼女の右手を掴んだ。
が、それも発砲後の出来事。銃口からは煙が少しだけ出ていた。
「あ…ぁ…え?」
既に俺の体から無意は消えていた。その意が心を占めている時は気付かなかったが、無くなって初めてここ数日間の俺の行動言動の不自然さに驚く。口の上ではあーだこーだ言っていても、殆ど機械的に喋っていた。人のすること言うことに興味が湧かない日常だった。酒の飲みすぎで記憶が飛ぶなんてーのがあるらしいが、そんなもんじゃなかっただろう。
「どう? 目が覚めたかしら」
朽葉は気障な笑みを浮かべて言う。何故こんな余裕ぶっていられるのかと言うと、夏子に飛んでいったと思われた銃弾は夏子の横を通り過ぎ、コンクリの壁に突き刺さったからだ。要するに俺はこの狡猾な女にハメられたわけだ。しかし悪意ってのはこう簡単に憑いたり落ちたりするものなのか…?これじゃあまるで呪いじゃないか。
「どうして本当に撃たなかった?」
「撃ってたらあんた友達を殺されたショックで発狂して、あたしを殺しそうだからね」
洒落になってねぇ。
「そうじゃない。仮に俺が発狂してもお前に殺意を持っても、俺も撃てば万事解決じゃねぇか。これまでのあんたの話を聞いてると、それがミズモリとしての義務なんじゃないかとすら思うんだが」
「…………」
「それにそもそも俺を諭そうとした所から謎だ。古本屋で強奪する前に撃てばいい。喫茶店でパフェを投げつける前に撃てばいい。男をリンチする前に撃てばいい話だろ」
「…ま、まぁね」
「?」
話したくないのだろうか。それにしても、ここまで饒舌に話せるようになったのは無意が消沈した証拠なのだろうか。
「それにしても刈安だけに留まらず俺と夏子まで悪意を秘めていたとはな…」
「…あんたには話しておこうかしらね」
そう言って朽葉は鞄に拳銃を仕舞う。乱れたポニーテールを直しながら、朽葉は改まって話し始めた。
「あたしが来る以前の色彩市の悪意は取り分けて悪質なものが多い現存最悪の街だったわ」
「ひでー言われようだな」
いやまぁ俺もその原因の一つだったんだけど。
朽葉は俺を無視して続ける。
「この一ヶ月で特に悪質な悪意の高い人間を七人殺して、そろそろかと思って真意秤に行ってみたら殆ど悪が減っていなかった」
「え?」
「現在進行形でこの街には悪意が増殖しているの。何が原因か分からないんだけど、あんた達を殺すより、身元とか経歴を調べた方がいいと思ってね」
うんうん、と自分で肯く朽葉。
それは一向に構わないんだけど…
「七人? 七人殺したのか?」
「ええそうよ。ニュースには三人分出ていないけどね。遺棄する余裕があったから」
「なるほど」
―って何納得してんだ俺。まずいな、こいつの殺しはもう仕方がないものと考え始めてる俺がいる。だがやっぱりそれは許せない。だからこそ無意が心を占めていたさっきまでの俺が信じられない。まるで病気。若しくは何者かに操られていたかのようだったときの俺が。
「それで今、異常増殖についてミズモリの調査係が一つの仮説を立ててる」
調査係ねぇ。
「その仮説っていうのが悪意の感染」
「感染?」
「そう。それだと説明できる、というかそれくらいでしか説明できないの。何らかの特異な悪意が人に感染する類のものなのか、若しくはミズモリ側の世界の誰かが、人為的に人に感染させているのか。心当たりは無い?」
悪意の感染…。確かにそれだと意識を取り戻したかのように悪意が退いていった俺も、やはり人が変わったようにそこでリンチをしていた夏子も説明がいく。
そして俺と刈安と夏子…無意と殺意と叛意…悪意の種類はバラバラだけど俺達三人に共通していること…辰砂学園?ノンノン。夏子に於いては不確かだが、あれしか無いんじゃないだろうか。
「心当たり…あるよ」
「えっ?」
よっぽど意外だったのか朽葉は目を見開いた。説明が面倒くさいな。でも今更やっぱり知りませんなんて言っても白々しいだけだし、ここは刈安とそこにいる夏…
「圭次その女誰?」
… 夏子が割と冷静さを取り戻した状態で、俺の隣に立っていた。朽葉に目でサインを送る。こいつの悪意は下がってるのか?と。下がってはいるけど、まだまだ殺害レベルよ。一時的に落ち着いているだけ。と言われてる気がしたのでとりあえず安心する。夏子には刈安の時みたいに介抱する必要がありそうだ。
「ねぇ誰なの? 見ちゃったんだったら口止めしておかないと」
マズイ。
「いや、この女性は夏子の闘いっぷりを見て感動した、そこの男達の回収役さんだ」
夏子の叛意を刺激し無いように言葉を選んだが、何かが完全に間違ってる気がした。
■ ■
「だから婆さんのことも考えてやれって!」
「嫌だ! この本はこの値が最も妥当だろ!」
「だったら差額は俺が出してやるから!」
「それじゃあ圭次に借りができちゃうだろ!」
朽葉がこの路地裏を出てからずっと、俺と夏子は舌戦を繰り広げている。が、俺からすればこれは、デパートでこれ買ってこれ買ってと駄々をこねるガキを諭している親のような気分だ。俺の主張は夏子が代金を払わなかった分の本をコモト屋に返しに行くか、差額分を支払いに行けという至極まともなもの。しかしこの女は現在、命令には逆らうことしかできない天邪鬼と化している。「この本は絶対に返しに行くな」と命令すれば返しに行くかもしれないが、それだと夏子の更正のエクササイズにはならない。夏子には渋々コモト屋まで引き返してもらわなければならないのだ。ならないのだが…
「僕は絶対に本を返すつもりも差額を支払うつもりもない!」
の一辺倒で、取り付く島も無い。
仕方が無い。できれば使いたくなかったが、あの手を使うほか無いようだ。
「夏子…」
夏子の両肩に手を置き、体を寄せ、近距離から彼女の目を見据える。夏子の身長は俺よりも15cmくらい低いので、多少俺が見下げる形となる。
「な、なんだよ…」
何もしていないのに既に面食らったような顔をしている。夏子は俺の顔が近いからか、若干寄り目にしている。
「頼む。俺のために…コモト屋に戻ってくれないか?」
目を細めて精一杯カッコつけて言ったが、果たして効くのだろうか。だがこれが効いてしまったら、それはそれで困るし、いよいよもってあの女の言うことを信じなくてはいけない。
二秒の沈黙の後、夏子は一度コクリと首肯してから
「は、はい」
と裏返った声で答えた。
朽葉がこの路地裏を去る直前。俺の苦しい言い訳を全く疑うことなく信じきってくれたこのバカの御蔭で、朽葉が口止めにボコられることもなくなり、しかも朽葉にのびて転がっている男二人の処理も押し付けることができた。その際、去り際に俺に耳打ちさえしてこなければ完璧な締めだったのだが。
「あの子あんたに惚れてるわね」
「――っは?」
「なに素っ頓狂な声出して。好意を読み取るのは不得手なんだけど、そんなあたしでもハッキリと分かるくらいあの子の好意は大きいわよ」
なんてこと言うから論争…というか口喧嘩をしているときも本気になれなかった。
「そんなことを俺に言って何が狙いだ」
「中々聡いわね。そこに付け込めばあの子の悪意を消沈させられるんじゃない?」
「は?」
「つまりもっともっと惚れさせて、心の成分を好意で埋め尽くしちゃえば?」
「…えげつねぇ」
笑顔でとんでもないことを言う。
「でもそれが一番簡単に悪意を消沈させられる介抱でしょ」
ということで、俺は試行のつもりで少しちょっかいを出してみたのだが…
「じゃ、じゃあ僕これ返してくるな」
俺から目を逸らして頬を紅潮させてそんなことを言われてしまっては、どんな朴念仁でも期待してしまうさ。ましてや俺は中二病まっさかりの童貞高校一年生っ。まぁこういうのって大概が勘違いで痛い目見るだけなんだけど。
「あ、ああ。行ってらっしゃい。俺ここで待ってるな」
夏子は買った量の3分の1くらいの本を紙袋に入れ直し、俺の言葉に返事をしないまま足早に路地裏を抜けて行った。
「…ふぅ」
何時間かぶりの完全一人。誰からも意識されていない時空を満喫しつつ、考えるのは夏子ではなく朽葉の方。
あいつは撃たなかった。いくらでもある射撃のチャンスを全て棒に振った。御蔭で生を感じていられる俺がそのことについて文句を言うのは我ながらどうかと思うが、やはり不自然だ。一度目の刈安の時は闖入者が現れたからという理由で納得できるし、二度目の刈安の時は一応俺との口約束がある。朽葉が義理堅い性格なのかは知らないが、任務よりも約束に重きを置いたと考えれば、それ程不自然なことではない。
でも今回は十割不自然。俺と夏子を撃たなかったのは何か話せない理由があるのかもしれない。銃弾を切らしてた、とかそういう恥ずかしい理由を話してドジっ娘だと思われるのが嫌なのかもしれない。だがあの耳打ちについては完全に蛇足。"悪意を消沈させられる介抱"だと?
そんな台詞…そんな台詞はまるで…
「まるで俺じゃねぇか」
何故か声に出して言いたくなった。
また一つ悩み事が増えた。
「しかし…」
夏子が俺に惚れている…か。思わず頬がニヤけてしまいそうにならない。信じられないからだ。白々してるわけではない。夏子の顔を近距離で見た時、薄っすらと化粧をしていることに気付いた。希望的観測をするとすれば……止めておこう。しかし仮に朽葉の言うことが正しかったとすると、俺はそれに付け込むことをよしとするのか。俺は夏子のことが好きだが、付き合ったりとかそういうことをするつもりは今のところ無い。とすると…
「がぁーもう…!」
思考強制終了!こんなことを考えても無駄だ無駄!とんだ勘違い野郎になるところだったぜ。これはあのポニーテールの嫌がらせに違いない。それならわざわざ俺に耳打ちしてきたことにも肯ける。危ねぇ。
俺が一人悩み事に耽っていると、何者かがコツコツと靴音を立てて路地裏に入ってきた。一瞬夏子が帰ってきたのかと思ったが、いくらなんでも早すぎる。それにあいつはコツコツなるような女性らしい靴は履いていない。万年スニーカーだ。とすると誰だ?
「誰何!」
かっこつけて言ってみたが返答が無い。マズイな、冗談が通じないタイプか。
ボロい建造物の隙間から見えるシルエット。靴音が近づくに連れて、輪郭が明瞭になってくる。そこから現れた人物は、俺から3メートルくらいの距離にある埃の絡みついたごみバケツの蓋に座った。
真っ赤なロングヘアーに暗澹たる虹彩。滅茶苦茶怖そうなお姐さんだった。
「君はこの路地裏の守衛でもやってるのか? ふふ」
さっきの俺の冗談には確り乗ってきてくれたらしい。言い方は刺々しいけど。でもそれは乗っかってくれただけで俺の質問の答えにはなっていなかった。もう一度言ってやろうかと思ったが白々しいので止めておく。恐らくだがこの女は…
「ミズモリだ」
俺の思考のタイミングを計ったかのように女は答えた。
「ほほう、水森さんとな?」
「ふふ、白々と」
一々寒気がするほど刺々しい口調の女だったが、その笑い声だけは妙に女の子だった。勿論俺はその漆を塗ったような黒スーツには見覚えがあるが、だからと言ってミズモリだと確信できる程の要素ではない筈だ。それを白々呼ばわりとは失敬な。確信してたけど。
「私は緋色という者だ。自称朽葉の姉貴分だが、あいつから聞いて無いか?」
「初耳です」
「そうか…」
ホントに悲しそうだった。
しかし緋色さんね。外貌は一見大人っぽいけど、二十歳くらいか?
「私は朽葉と同じで16歳だぞ」
またもや心中を読まれた。ミズモリに読心術があるなんて聞いてないぞ、朽葉。というかあいつも16だったのか。まぁ確かに朽葉はそれくらいに見えるけど、この人はとても16には見えないな。というか胸ポケットに洋もく入ってませんか?
「んで用件だが、折り入って頼みがある」
「頼み…ですか」
タメ口にしようかと思ったが何となく敬語。しかしまた頼みか。
「そう露骨に嫌そうな顔をするな。これはきっと君の利にもなる」
だとしても、それが頼み事である限り断りたくなる要素がある筈だ。
「君は何故、"心当たり"を朽葉に話さなかった?」
「…………」
緋色さんは依頼ではなく、質問を開始した。それもいきなり核心を突く、全てを見透かしたかのような気味の悪い質問。詰問と言ってもいい。
「空五倍子醍醐郎が殺されるのが嫌だからか?」
「―っ!」
そこまで辿りついてるのか。白々しい女だ。
「どうしてだ? もし彼がこの悪意異常発生の首謀者なら、君は彼を憎悪するのが自然だ。彼の所為で友人の命を奪われそうになり、今日は己の身も―だ。そうだろ?」
「…………」
「というか私は九分九厘、彼が犯人だと思っている。この一週間、色んな方面から独自の調査に取り掛かったが、辿り着くのはいつもとある高額収入バイト」
投薬―、感染―、そして事件が起きた日はいつも―
「事件が起きた日はいつも、そのバイトの日、即ち」
僕と緋色さんは声を揃えて言う。
「「投薬した日―」」
額を汗が伝う。理は通っている。通ってはいるんだけど。
「で、何故君が朽葉に対して黙秘したのかは教えてくれないのか?」
「……お察しの通り、空五倍子博士の命が奪われるのが嫌だからです」
本音だ。どんな悪人にだって法以外で殺される義務なんぞ無い。権利だって無い。
緋色さんはそこでほんの数秒、黙祷した。そしてまるでスイッチを入れ替えたかのように、意識を再起動させるかのように、パッと目を見開いた。
「君の主張は分かった。そう考える理由も概ね理解しているつもりだ。だからこそ私は君に頼み事を一つする」
「…………」
「空五倍子醍醐郎の殺害、ひいてはこの街での殺害全てを許して欲しい」
「……は?」
それは全くの予想外だった。どうしてか、本当にどうしてかは分からないが、俺は空五倍子醍醐郎の悪意の消沈を、介抱を、頼まれるのだと思っていた。しかもそれを強く期待していた。それが殺害の許諾…?
意味が分からない。
「俺に許諾を取って何になるんですか! そんなもん俺に黙って勝手にやってしまえばいいじゃないですか!」
何故か俺はキレていた。分からないことに腹が立っている…わけではない。
「いや、そもそも俺に黙るとか話すとかそういうことじゃない。俺はミズモリでも何でもない唯の一般人だ。俺が何と言おうと勝手にやってしまえばいい。あんたらが本気を出せば、仮に俺がそれを邪魔したとしても何の弊害にもなら無いだろ!」
何故だ…何故俺はこんなに腹が立っている…全く恥ずかしい限りだ。
だけど緋色さんは俺の怒号を確りと黙って聞いてくれていた。
「確かに…」
彼女はそこでやっと口を開いた。
「確かに君がこの依頼を断っても、他のミズモリがこの事実に気付き、時期がずれど空五倍子醍醐郎は殺されるし、君の抵抗は何の意味も無いだろう」
「…………」
「だが私が頼んでいるのはそういうことではなく、もっと個人的な…私情からなんだ」
私情…緋色さんには全然似合わない言葉だった。彼女に会ってまだ数分の俺が言うのは失礼極まりないけれど。
「朽葉が君を撃たない理由を知っているか?」
「…知らないです」
「気を持たせるのは好きじゃないから先に言うぞ」
別に気なんて持ってねぇよ―とは言わない。
「朽葉は死んだ兄貴にお前を重ね合わせてる」
俺は今日何度目になるか忘れるほど言った「は?」を口にした。
「半年前の話になるんだけどな、あいつは実の親父に母親と兄貴を殺された。兄貴はフリーターで親のスネ齧って生きてるようなダメ人間だったんだけど、最後の最後に、妹を庇って死んでいったんだ」
色々突っ込みたい所もあったが、俺は暫く静聴することにした。
「まぁここからは私の憶測でしか無いんだけど。私の憶測は確実に当たるから、確定事項だと思って聞いて」
「はい…」
えらい自信家だなぁ。
「朽葉が兄貴について話すときは、悪態を吐きながらもいつも笑顔なのよ。ほんといっつも悪口ばっか言ってるけど、大好きだったのはバレバレ。ミズモリになったのだって、きっと兄貴を殺した"悪"という概念が許せなかったからでしょうね。んで、朽葉の話を聞いてるうちに、大体どんな奴だったか掴めてきたんだけど――」
「俺に性格がそっくりだと、そう言いたいんですか?」
「ビンゴ。性格だけじゃなくて、喋り方と考え方まで似てる」
…なるほど。ありがたい偶然だ。
「しかも君は刈安悠平という名の友人を、殺人犯から庇ったそうじゃないか?」
「殺人犯っていうか、あんたの仲間だけどな」
「あぁ。ここで質問だ」
なんだか白々しい質問の予感がした。
「自分を庇って死んでいった兄貴の為にミズモリになった朽葉が、友人を庇って身代わりになろうとしている兄貴に似た人物を、己の手で殺せると思うか?」
案の定白々しかった。
「罪を許さぬが為に悪を討つ事を決意したのに、気付けばやっているのは同じこと」
「…………」
なるほど、あの顫動はそういうことか。
だけど、それじゃあ半分だ。
「でもそれは刈安や夏子を撃たなかった理由にはならない筈です」
「その通りだ。ふふ。朽葉のオーバーラップは想像以上だということだよ」
「……?」
緋色さんはニヒルな微笑を浮かべて、まるで朗報を伝えるかのように言った。
「あの子は君に嫌われるのが嫌なのだよ」
■ ■
半年前―
ミズモリの創始者であり総指揮官であるあの方から、緋色という記号を授かって約三年が経過しようとしていた、梅雨の某日。私は灰桜町という、取り立てて珍奇なところのない平凡な田舎町に担当を移された。私はミズモリとしては優秀な方だと、自負…自惚れていたし、フィールドワークの方もそれ専門のミズモリであるあの爺さんに引けを取らないくらいに上手かった。だからこそ数週間前までは都市を丸ごと任されていたりした。都市は外を歩いている者が多いから、暗殺は難しい。その街での仕事を完全に終わらせるまでは、真意秤での最終処理―ミズモリの殺意を善意の秤皿に乗せて、その殺人を正当化させること、それができない。だから殺害が露呈すればうまく逃げなくてはいけない、警察から。だから都市での仕事はハイレベル。ハイリスク。…私もそのリスクを背負って仕事をしていた。数週間前までは。それが現在は灰桜町という、悪意などあるのかと疑いたくなるような平和な街。要するに左遷だった。
しかしこの灰桜町、勿論悪意が蔓延っているからこそ選出されたのだ。安寧秩序なんて大概が皮相的なものだ。というか悪意が往々にして安寧に掩蔽されているだけなのかな。悪人ですよ、なんて態度を取りながら街を彷徨するような人間なら、そもそも悪人にはならない。仮になったとしても派手な実行には移さないタイプだろう。披瀝することに悦びを見出す稀有な変態も居ることには居るが、殆どが悪意を『隠して』いる。同じ事を「鋳型に入れたような悪人はいない―」なんて言い回しをしている作家が居た気がするが、寧ろ鋳型に入れたような悪人がこっちだと私は思う。
話が逸れたが、その隠れた悪意をあぶりだして殺すのがミズモリの役目であり使命だ。だが、私はその時理由もなく殺人をすることに嫌気が差していた。三年も続けていたので食傷した―というわけではない。悪意のある人間は死んだ方がいい、というミズモリ共通の思想は初心から変わらず抱いていたつもりだし、悪人に対する憎悪感も変わらずだった。なのに人を殺したくない。
「病気だ」
このことを仲の良いミズモリに話すと、そう言われた。まぁそんなわけで、ミズモリとして使い物にならない私はルーキーさながらの扱いとなった。
灰桜町―
リハビリにはもってこいの、清新な空気と自然に囲まれた綺麗な街だった。行ったことないのに、何故かオーストラリアのような街だと思った。
私はとりあえず街を彷徨った。
彷徨えば彷徨うほど街に悪意が多いという事実が信じられなくなった。
犬を追っかけまわして遊んでいる子どもたち、商店街で立ち話をしているおばさんグループ、公園で肩を寄せ合っている男女、本来ならどこにでもある風景なのだろうけど、ミズモリが来るような街では珍しい光景だった。大袈裟か。
悪意には多少の伝染効果がある。
教唆とか共犯の誘いとか、そういう曖昧なものだけど、確かにある。そしてそういうのは往々にして仲の良い者通しの間で起こりやすいのだ。灰桜町民のような。
私はこの街に暫く滞在した。
その間何人か悪意のある者にも遭遇した。だがやはり私は殺すことが出来なかった。理由は分からないまま、私は三人の人間の悪意の膨張を見逃した。
三人の内の一人が強盗をした。
犯人の男は刃物で店員を脅し、現金を数万円奪って逃走した。腹が立った。犯人に対してではない、殺せなかったことにではない。『この程度の罪しか犯さない人間』の命を、奪おうかどうか悩んでいた自分に対してだ。そして昔、何人もの『この程度の罪しか犯さない人間』を私が葬ってきたことに対してだ。
確かに悪意は死すべき。
だけど…そこまですべきか…?
ミズモリになった人間の多くが暗い過去を持つ。私もその例に漏れない。ある事件をきっかけに、私は全ての罪と悪を許さないと誓った。だが、このときの私はこの有様。翌日に逮捕された強盗犯の「娘を遊園地に連れて行ってあげたかった」という理由を聞いて衷情からかわいそうだと思う始末。これじゃあまるで私は善人じゃないか、と思った。偽善だろうと悪だろうと、私欲で悪を討ってやると誓ったときの私は、もう存在していなかった。
私はそれからも暫くの間、灰桜町で過ごした。
少なくともカーナビよりはこの街の地理に詳しい自信があった。行きつけのラーメン屋ができた。街の子ども達に顔を覚えられた。楽しかった。
私はミズモリを止めようと思った。
ミズモリにクビはない。だから私が一ヶ月もこの街に滞在しておきながら死者ゼロのこの状況が上にバレても、私はこの街の担当であり続ける。この街がよっぽどの悪で染め上げられていない限り、担当を代えられることもない。ミズモリというのは結構ルーズな集団なのだ。だから私はのんびりと、中途半端に、ミズモリとしてこの街に滞在していた。
そして事件は滞在から40日が経過した頃に起きた。
私がいつものように街をうろついていると、一見の二階建て住宅から圧倒的な悪意を感じ取った。暫く殺しをしていなかったので、住宅の目の前を通るまで気がつかなかった。感覚が衰退しているのに自覚があった分、それでいて尚感じ取れる程の悪意の禍々しさに、一瞬怯えてしまった。悪意の中でも極めて刺々しいソレ。間違いなく殺意だった。
私はミズモリを止める。
もう殺人はしない。
理由はまだ不明瞭だけど、悪意を悪と思えない。
だからしない。したくない。
体は不正直だった。気付けば私は玄関の戸を蹴り破り、殺意の震央へと駆けていた。
一瞬見ただけで大体理解できた。
咽喉を刃物で引き裂かれてテーブル上に仰向けになっているのが、恐らくここの一家の夫人。テーブルは真っ赤に染まり、端からポタポタとその赤が滴っている。廊下に出た私の目の前に屈んでいる少女と青年。少女は嗚咽を漏らしているので生きているが、その目の前で腹を抉られている青年の方はたった今死んだように見受けた。そしてその青年の前に立って、その手のナイフを今度は少女に向けて振り下ろそうとしているおっさん、正真正銘殺意の発信源だった。
私は0コンマ1秒で左ポケットから得物を取り出した。
刃渡り2センチメートルの超短剣――愛剣ジャクシー。
3秒後、この敷地内に生存しているのは私と少女だけとなった。泣きじゃくる少女を慰めようと、私がその少女に近づいた時、驚くべき言葉を聞いた。
「許せない…っ!」
なんと強い少女だろうと…それ以上のことは普段の私なら思わなかったろう。
あの時の自分を思い出したりなんかしなかっただろう。
許せない、その言葉は私がミズモリに入る直前に口にした言葉と同じだった。
私は少女から事件のことについての詳細を聞いた。
兄貴は少女を庇って死んでいったらしい。あと数秒早く、私がここに駆けつけていれば、きっと助かっただろう。いや、母親のほうも助けられただろう。私の所為だということは十分すぎる程分かっていたし、いつかはこういうことも起きるだろうと思っていた。だけど覚悟はできていなかった。自分の失態で命が奪われる、そのことの重さと悔しさと申し訳なさを、私は痛感した。
「すまなかった!」
私はそのとき、生まれて初めて土下座をした。謝ることは自己満足だというのが、嘗ての私の主張だった。しかし謝らずにはいられなかった。
私は間違っていた。少女が許してくれたので、私は決意を新たにミズモリに復帰することを心中で誓った。悪意は悪。字面は僅か4文字のそのスローガンを久しぶりに思い出した。私は少女に感謝した。成り行き上ミズモリの説明をしてあげると、案の定少女は私に懇願してきた。
「緋色さん! あたしを仲間に入れて!」
「…"さん"はいらないわ」
後にこの少女は朽葉という記号を授かった。
■ ■
自室で布団を引っ被って、考えるのは夕方のこと。
「はぁ……」
少しは息抜きになるかと思って出掛けたのに、余計に悩み事を増やして帰ってきてしまった。
緋色さんは俺を殺さなかった。後から戻ってきた、まだ悪意の潜んでいる筈の夏子のことも見逃した。俺と敵対して朽葉に嫌われたくないからだそうだ。緋色さんはミズモリとしての使命よりも朽葉との関係に重きを置くらしかった。本来、俺にとってそんなのはどうでもいいことこの上ないのだけど、そうも言ってられない。もし緋色さんがそうでなければ、俺はあの人に殺されていたのだから。俺は一々危うい。そろそろ神に生かされてるのではないかと自惚れてもいいと思う。
緋色さん曰く、朽葉に俺に嫌われたくないという自覚はないらしい。その所為で酷く自己嫌悪に陥ってるらしいのだが、俺の知ったことか。あいつは俺に嫌われたくないんじゃなくて兄貴に嫌われたくないだけだ。
つまり頼み事の真相はそういうこと。
緋色さんはこれから空五倍子醍醐郎を事情聴取し、場合によっては殺害、できるだけ身柄確保を優先する、だから俺にはそれを恨まないで欲しい、朽葉を蔑視して、彼女をこれ以上混迷の苦痛に陥らせないで欲しい、そしてできれば今後一生の、ミズモリの犯行を許容して欲しい、とそういうことだ。
全くもって無理な相談だ。
だってそれはつまり怒るなってことだ。怒りをぶつけるなってんならまだしも、感情そのものを制御できる筈がない。いつかまた朽葉に会ったとき、俺はやっぱり好意的接することはできないだろう。ましてや相手は心の成分が分かるミズモリだ。疎意・隔意なんてあっさり悟られるんじゃないか?
だから俺はそれを断る…筈だった。
「…………」
緋色さんは対価を出してきた。
それはそれは最低に最高で、俺の知る限り最上の対価だった。
本意じゃない。
けど人間なら誰しも、何に変えても譲れないものが有る筈だ。
俺を取り巻く全てから優先される、絶対的事象。
ホロニックから隔絶される、唯一無二の例外。
そういうものが、有る筈だ。
だから俺はこう言った。
「わかりました。だから早く空五倍子醍醐郎をぶっ殺してください」と。
■ 第三章 心中と衷心 ■
そして空五倍子醍醐郎は死んだ。
具体的に説明する必要も無い。緋色さんが空五倍子博士の研究所に出向き拘束、悪意異常増殖について糾弾するも否認を続ける空五倍子に、これ以上の詰問は意味を成さないとして刺殺。それだけのこと。
悪意異常増殖の犯行が空五倍子博士の手によるものだと断定できる証拠は何一つなかったらしいのだが、そんなものはミズモリに関係が無い。彼を殺して異常増殖が防げたら、ほらね彼が犯人だったでしょ?、で済み、もし違ってもそれは真犯人探しに移らなくてはいけないという意味しか持たない。以上のことは緋色さんの口から直接聞いた。
「それで悪意の増殖は止まったんですか?」
俺は自室に一つだけある窓に向かって訊いた。
「止まったには止まったが」
勿論窓には口も舌もないので、返答をしたのは窓越しの誰か。
そしてその誰かは窓を開けて進入し、俺のベッドに腰掛けた。
「まだ殺して3日だ。増えてはないけど、安心するには早い」
「さいですか。では薬の解析の方は?」
「そっちは低迷だ。ただの抗うつ薬としか思えないそうだ」
あれから毎日律儀に俺の自室に訪れる某ミズモリ。緋色さんだ。何故緋色さんがこんな小汚い部屋に足繁く通うのかというと、この街の悪意の状況を伝える為――ではなく、とあるお願いをする為だ。それは前回のようにシリアスな頼み事ではなくて、我侭且つお節介極まりないお願い。
「で、今日は朽葉が下手な殺人をして警察に囲まれたときの話だが――」
そして今日も緋色さんはそのお願いを成就させるべく、俺に情報提供してくる。最初にそのお願いを聞いたときは「はぁ?」としか言えなかった。嫌ですの一辺倒で諦めてくれると思っていたのに、ご覧の通りしつこい。当然、一人でいることのできる貴重な夜の時間を毎夜侵されているのだから、そろそろ頭にくる。
「あのですね、緋色さん」
話の腰を折ると、決まってこの人は嫌そうな顔をする。分かっていて折る。
「朽葉の話をいくらしたところで、俺は彼女のことを好きにはなりませんよ」
昨日よりも二割増の怒気を含んで言った。
昨日よりも三割増の「あ"ぁ"?」が返ってくる。
緋色さんが俺にしたお願い、それはつまりそういうこと。とにかく朽葉のことを好きになって欲しいという、自由権ガン無視のお願い。緋色さんは朽葉の良い所を知って欲しいという気持ちで朽葉の話をしているみたいだが、甚だ迷惑だ。
「そんなことを言われても、俺は感情操作なんてできません」
「だからとりあえず自分に嘘吐いて好きだと思い込めって。そしたら色々と崩壊するから」
「色々って何ですか…」
ゲシュタルト崩壊のことを言ってるのか知らないが、そんな自己暗示までかけて俺が朽葉を好きにならなくてはいけない理由が無い。いやまぁ理由はあるのだろうけど、それは俺には無関係な一方的理由だ。
「対価はあげたろぉ?」
「あれは空五倍子博士の殺害を許すことに対しての対価です」
「ちっ」
某前科一犯の大男とは全く雰囲気の異なる舌打ちをして、緋色さんは朽葉のデビュー戦の話を再開した。何を言っても絶対に最後まで話していくので、もう最近は諦めて清聴することにしている。
「…………」
だけど毎晩朽葉の話を聴いているうちに、ミズモリのことについてよく分かった。一般人である俺に、そんな裏社会の情報を与えていいのかと思ったが、どうもミズモリはそういうところにルーズならしい。と言ってもミズモリについての知識なんて、俺が知っていて何の役に立つわけもない。役に立たないと分かっていることを聞くのは本来退屈な筈なのだが、小説を読み聞かされているようで、不覚にもちょっとだけ面白かった。
20分くらいが経った頃。
「――ってなわけで、間一髪私が助けに入ったわけ。めでたし」
「なんか気持ち悪いんで"めでたし"は言うなら二回言ってください」
朽葉を好きになって欲しいのなら、朽葉の良い所話せばいいのに、いつにも増してアホ丸出しの話だった。
「じゃ、そろそろ帰るかな」
「おやすみなさい」
俺はさっさと帰れと言わんばかりに、カーテンと窓を開けて促す。そこで俺は訊いておかなくてはいけないことを思い出した。
「そういえば、件の朽葉は今どうしてるんですか?」
「…あれ以来まだ殺人をしていないわ。そろそろ感覚が衰弱してる筈…はっきり言ってかなり危ない状況よ」
「衰弱?」
緋色さんは一瞬ためらった素振りをしてから答えた。
「ミズモリは暫く殺人をしていないと、気配の察知とか悪意の読み取りとかの感性が鈍ってくるの。特にあの子はピストルっていう飛び道具が得物だから、遠くからそれができないといけないというのに」
なるほどね…
俺にとっては重畳だ。
緋色さんは窓から外へ出る。丁度そこは屋根の上になっているので、まっ逆さまということはない。
「あ、そうそう。覚えてるよね、明日だからな?」
「はい」
屋根から静かに飛び降りた緋色さんは、去り際にそう言って暗闇に消えて行った。
窓とカーテンを閉めて、電気を消す。俺は本来夜1時には寝るのだが、緋色さんが朽葉の話をしにここへ来るようになってからは、2時前後に就寝となっている。
「明日か…」
快晴だといいんだけど。
■ ■
「いいか? 他のお客さんも皆公平に待ってるんだよ! お前だけが優先されるわけないだろ!」
「うるさい! 僕は直ぐに乗りたいの! その気持ちが他の人より強いから優先されるんだよ!」
時は昼過ぎ、場所はクリムソンパーク。
それは色彩市から3つ市を跨いだところにある割と大きな遊園地であり、まだ建設されて一年ちょっとしか経っていないため、最近雑誌などでも特集されたりしている、この近辺では唯一誇れる観光名所だ。
西半分がゆったり回れる天国コース、東半分が血も逆流するような絶叫マシンが立ち並ぶ地獄コースになっているという何とも珍しい遊園地である。どちらも楽しみたい人は遊園地を徘徊しているタクシーに乗って、天国と地獄を行き来するという、どこかの宗教からクレームがきそうなことをしなくてはいけない。タクシーと言っても勿論、公道を走っているあれではなくて、着ぐるみがドライバーを務める、カラフルに彩色されたキャラクタータクシーである。
天候は俺の希望以上の快々晴に見舞われた。4時間しか寝てないがあまり眠気が無いし、日曜日なのに客も思ったより多くない。これで一緒に来たコイツがこんな我侭娘でなければ、俺は快哉を叫びたいところなのだが、世の中そう甘くない。
「僕は絶対に今すぐ乗るの! わ・かっ・た?」
緑青夏子――
心のイニシアチブが"叛意"であるちょっと可哀想な16歳の女の子。さっきからとても16歳とは思えないような駄々を捏ねているが、れっきとした16歳。
俺の"無意"は、あの路地裏事件のときのショック療法で安全圏まで消沈したそうなのだが(緋色さん情報)、この我侭娘はまだ不安定らしい。完全に嘗ての夏子を取り戻すには、気遣いや思いやりを知ってもらうことが一番と考えて、本日このクリムゾンパークでのデートと相成った。刈安の時は"殺意"だったが、夏子はただ人に逆らいたくなるだけだから、それほど危険視するものではないと思うのだが、改めて考えるとコモト屋でのアレは脅迫罪とか強要罪とかになる。コモト屋の婆さんが許してくれなければ、夏子は逮捕だ。俺はもう友人が逮捕されるのを見たくない。だからこうしてデートにこじつけて俺は夏子の矯正をしている。しているのだが――
「あの、今から僕と圭次がこれ乗るので、降りて貰えますか?」
意味不明すぎる夏子の発言に、ジェットコースターに乗りこもうとしていたカップルは目を点にしている。もうなんか滅茶苦茶恥ずかしい。子連れのお父さんじゃないんだからさ…。
俺は夏子を無理矢理引っ張ってベンチまで連れてこさせた。勿論、去り際にすいませんをこれでもかというくらいに連呼した。幸い係員とお客さんは怒るというより呆れていたので最悪のケースは逃れられたけど、恥ずかしさは余計に増えた。
「あのな夏子、いい加減にしろよ? また同じことしたら俺帰るからな?」
「え、えっ」
夏子は係員さんの「40分お待ちください」の命令に"叛意"を刺激されて、反射的に乖背した。一度や二度なら俺も「本当にしょうがないなぁ夏子は」で済ますところ…いや済まさないけれど、注意するくらいだ。だが今のこれで本日3回目の駄々。そろそろ俺も本気で頭にくる。
「分かったか!」
「う、うんうん! 分かったもうしないから! しないから、帰んないでよ!」
男口調が微妙に崩れていた。……本当に分かってんだろうか。しかし夏子の"叛意"は中々落ちない。俺の"無意"があのときのあれだけで根こそぎ持っていかれたのが信じられないな。もしかしてこいつは元々こういう性質で、薬はそれを手伝っただけなんじゃないだろうかというしょうもない疑惑が浮上してきたので無理やり脳内モルグに滅却させて、近くにあるアトラクションをざっと眺める。
「よし分かった、じゃああれ、並ぼう」
「うん!」
それから暫くは夏子は大人しかった。いや大人しくはなかったんだけど、係員にも俺にも特に逆らったりはしなかった。だけど恐らくこれも一時的なもので、完全に消沈させる為には+αが必要なんだろう。
頭が痛い。
+αを考えるのに頭を使っているからでも、もしかしたら−αなんじゃないだろうかという疑念と闘っているからでもなく、さっきからきついアトラクションに乗りまくりだからだ。俺と夏子が廻っているのは、勿論地獄コースの方で、もともとこういうのが得意でない俺はちょっとヤバイ。いくらなんでも落下系を三連続というのは人間の娯楽を超越している。死後の世界なんて全く興味が無かったが、こんな頭痛と眩暈に見舞われるのなら地獄なんてのは絶対に御免だ。今まで色んな人に迷惑をかけてきましたが、どうか神様俺を天国に連れて行ってください!
だから休憩しようという俺の提案に夏子が逆らわなかったのは、色んな意味で兆しだった。
「あぁー」
ベンチに座ってソフトドリンクを飲むことが、こんなに気持ちのいいことだとは知らなかった。隣でソフトクリームを舐めている夏子も、サイクロンコースターに乗っていたときのテンションを今では大分蒸発させている。
「…………」
3メートルぐらい先のゴミ箱に中身の無いカップを投げ入れて、立ち上がる。ゴミ箱を見ずに投げたため、カップはゴミ箱の淵に当たって落ちる。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん」
カップを拾って捨てる。大人のマナーだ。いやまぁ子どもにも守って欲しいマナーだけど。というか投げ捨て自体がマナー違反か。
「どこいくんだ? トイレあっちだよ?」
歩き出した俺の背中に、夏子の声がかかる。
「あぁ、ちょっと向こうのトイレに行って、ついでに売店で何か買ってこようかと思って」
「ふーん」
そこ動くなよ、と言ってから俺はトイレへと向かった。夏子の奴俺の指示に背いたりしないだろうなと若干懸念したが、ここ数時間のあいつを見る限りそれは無いだろうと思い込んだ。
夏子から数百メートル離れた位置にあるトイレに到着した。俺は用を足さずに、まっさきに鏡の前に立った。
「…………」
水道水を顔に浴びせる。3月の水はまだまだ冷たくて、これからすることの覚悟を決めるにはもってこいだった。備え付けてある紙のタオルで手と顔を拭き、俺はトイレを出て売店へと向かった。
あまり多くのものは売っていない小さな売店。しかも日が暮れてきたこの時間帯なので、客は皆無だった。濡れた手が風に当たって冷たいので、両手をポケットに入れたまま、俺はカウンター前に立った。店員は一人。
「いらっしゃいませ」
「煤竹圭次です」
俺が名乗ると、店員は大きく仰け反って驚いた。素知らぬフリをしようとしたみたいだが、俺が気付いているのに気付くと、すぐにその白々しい顔を崩した。だけど、俺も人のことを言えないくらいには驚いていた。緋色さん、どうやらそこそこ信用の置ける人のようだ。
「圭次か…何故ここが分かった?」
その台詞は明らかに店員が客に発するものではない。当然だ。俺達は店員と客ではないのだから。
「まるで知っててここに来た、みたいな言い方をするじゃないですか――兄さん」
煤竹圭一。俺、煤竹圭次の実兄。いるはずのない実兄。
「白々しい」
兄さんは投げつけるようにそう言った。俺にとってそれは褒め言葉だとも知らずに。
「ここが分かった理由はいい、何故ここに来たのか、それを言え」
「結論を急ぐ、兄さんらしい台詞ですね」
二人して刺々しかった。
売店前のスペースは冷たい風が吹き抜ける。
「寒いだろ、話なら中で聞こう」
兄さんにいざなわれて、俺は売店の中に入った。一般人の入っていい所なのかどうか分からないが、責任は全部兄さんにあるので、俺の知ったことではない。店内にはストーブがあったが、カウンターは開け放してあるので、そこまで暖かくは無かった。
「それで話は何だ?」
俺が扉を閉める前に切り出してきた。
「せっかちですね、本当に」
「その敬語止めろ。虫唾が走る。それと"兄さん"って呼ぶのも止めろ。俺はお前の兄貴じゃねぇ」
実兄ではあるが、俺も兄さんも幼少の頃から一人っ子として育てられた。だからそれは尤もな主張とも言えた。小さい頃はあんなに仲良くしていた兄弟も、今じゃこうしていがみ合うだけ。
「別に用という用は無いんですけどね、ただちょっと確認したいことがありまして」
「…確認?」
敬語を止めなかったことに対しての突っ込みは無かった。一瞬確認という言葉に怪訝そうな顔をして、兄さんは何やら売店のメニューを整理し始めた。
俺はもったいぶるのが好きではない。だから単刀直入に核心を突いた。
「母さんを殺したのはあんただろ?」
「――!」
兄さんの手から商品が滑り落ちた。
「動揺しすぎです。もし俺が当てずっぽう言ってたらどうするんですか」
確信はあったけど。何年も前から。
「…………」
兄さんは無言で商品整理を再開した。
十年前――
俺がまだ幼稚園にいるとき、当時小学五年生の煤竹圭一は、親戚でも何でもない家に養子に出されることになった。最近になって知ったのだが、理由は金らしい。昔、煤竹家はかなりの貧困家庭だったらしく、子どもを二人も養う金が無かったのだ。このことは俺が生まれてくる前から分かっていたことなのに、母さんは俺を堕ろさなかった。そのこと自体には感謝しているが、それが仇となって兄貴を養子に出すしかなくなったことを考えると、やはり俺は生まれてくるべきではなかっただろうし、きっと親も後になって後悔していたに違いない。
それ以来、兄貴は他人の家庭で一人っ子として育ち、俺は実母の下で一人っ子として育ったのだ。と言っても、会うのはそれ以来というわけではなく、小学校の頃まではよく親に互いの家に連れて行かされて、遊んでいた。表面上は。いくら小学生とはいえ、養子の概念くらい少しは理解している。一見捨てられた人間と一見大切にされている人間が、仲良く遊べるはずも無いのは明白で、だから恐らくは――
「自分を捨てた母さんが許せなかったのか?」
相変わらず無言で商品整理を進めている兄貴の背中に向けて言った。
母さんは事故死――ではなく、他殺だったということか。転落死というのは、意外とその辺が曖昧だったりするからな。当時中学生の兄さんが、事故に見せかけるように計画的犯行を画策していたとは思えない。あれは姦計と言うよりも思い付きだったんだろうと根拠もなく思う。偶々運が味方して誰にもバレなかっただけだ。神は往々にして悪に味方する。
「…………」
兄さんは口を噤んだまま、商品の整理を続けている。
…神が悪に味方することがあるのなら、果たしてあのポニーテールや赤髪ロングは善となりうるだろうか、というまた根本的な疑問が浮かぶ。俺は無神論なんてカッコいいことを語るつもりは無い。無神論者以外の者の前では神は存在するのだから、善人を救いたいのならミズモリとしては神を無視できない筈だ。なればこそ、どうしてミズモリは徹底して善に味方するのか……どうでもいいか。あの女にこのことを言ったら神の代行をしているのよとでも言うのだろうか。
俺が変な、本当に変な疑問を頭の中で巡らせていると、漸く兄さんが口を開いた。
「……ただ捨てられただけなら、俺は殺しはしなかったよ」
兄さんは唐突にそう言った。低く曇った声で。
「俺は売られたんだ。知ってたか? 母さんはうちの義母から裏で金を貰って、その対価として俺を差し出したんだ」
「え……」
初耳だ。金と子どもを引き換えた…あの母さんが?
「信じられないかもしれないが、これは本当だ! どうだ笑えるだろ! だから俺はあの糞母を突き落としてやったよ! これで満足か圭次!」
「…………」
兄さんは狂ったように笑っている。
裏金…。だけどそれは。
「兄さん、でもうちはそれだけ…」
「分かってるよ!」
怒声を張り上げて、俺を睨みつける。
「経済的に仕方ないことだって言うんだろ? 分かってるよ! 親父があんなだったからさ! 貧窮生活を抜け出すには仕方ないってことだろ! 知ってるよ! だけどそれでも親子っていうのはさ! 寄り添って耐えていくもんじゃないのかよ!」
尤もな意見だった。だけど、それでも殺人が許されるわけはない。許されるわけがないから、誰にも許されようとしない覚悟でするんだ。
兄さんは商品をまとめていたロープを取り出して俺に襲い掛かった。
「どうやって確証を得たか知らねぇが、お前はここで殺す」
仰向けに倒される。腹の上に兄さんが膝を立てて乗り上げ、それだけで十分苦しい。あっという間に俺の首がロープで締められる。抵抗はしない。
「随分潔いじゃねぇか。実は俺は母さんよりも真っ先に、お前を殺したかったんだ」
「…………」
ロープが締め上げられる。呼吸ができなくなってきた。
「お前が養子に出れば良かったんだ! 普通長男じゃなくて次男が出るべきだろ! なんで俺だったんだよ! なんで! なんで!」
それは兄さんの方が愛されていたからだよ―
愛しているからこそ、貧しい生活の中に捕らえておきたくなかったんだ―
幼少の頃から忌み嫌われていた――俺とは違って。
首が絞まっていて最期にそれを言ってあげられないのが惜しかった。横目で窓の向こうを見て、確かにそれがそうしたことを確認する。俺は半分意識的に、半分無意識的に、体の向きを大きくずらした。バランスを崩した兄さんは床に肘を付く。
兄さんが元居た場所に、弾痕が残っていた。床には黒い弾丸が転がっている。
遠くには懐かしいポニーテールが見えた。
■ ■
「対価…ですか?」
俺が「嫌です」を貫き通していると、緋色さんが戦法を変えてきた。
「そう。もし空五倍子醍醐郎の殺害を許してくれたら、いい情報をやる」
「ほほう。それはそれは興味ないですな」
殺害に見合う対価などあるものか。
そもそも俺は"情報"というものが嫌いだ。
「お前はお兄さんを探してるんじゃないか?」
「…………」
緋色さんは俺を無視して続ける。
「君のお兄さん、とある場所で働いているんだが」
煤竹圭一………
「この街じゃあないんだけどな、某市でコンスタントに悪意が高いことで私たちの間でマークされている。殺さないといけないレベルの悪意ではないがな」
「…………」
恐らく殺人犯である兄…
俺がずっと探していた…
「どうする?」
この偶然に頼らなければ、もう兄さんには会えないかもしれない。
俺は解決しなくてはいけない。あの事件を。
「わかりました。だから早く空五倍子醍醐郎をぶっ殺してください」
■ ■
「何故助けたの?」
「久しぶりの再会だと言うのに、いきなり質問ですか」
夏子とクリムソンパークで花火を見た後、予定通り彼女を家まで送って、やっとこさ一人になれましたと思った矢先に、電柱の影に潜んだ朽葉に声をかけられてしまった。
「白々しいわよ」
そいつはどうも。
「もしやとは思っていたけど、まさか本当にあたしの尾行に気付いているとは思わなかったわ」
「…………」
何故か朽葉はいつもより二割増くらい元気に見えた。
今日はもう疲れたので、俺は完全黙秘を貫き通すこととした。
「あんたはあの男に殺されそうになって、その犯行をあたしが止めようと射撃したのに、あんたはそれに気付いて、あの人の位置をずらした。そうでしょ!」
「さぁなぁ…って何すんだよ!」
膝を思いっきり蹴られた。
「なんであの男を助けたの! あたしが殺さなきゃあんた死んじゃうじゃない!」
「いや生きてるし…」
あの後まぁ色々あって、俺は何とか生き残った。兄さんは弾痕を見て震えていたので、置いてきた。去り際に射殺されるかもしれないから隠れといて、と言った俺に対しての返事は無かった。もう俺を殺そうとはしてこないだろう、きっと。
「なんでよ! なんでよ!」
「ぎゃーぎゃーうるさい」
朽葉は本当に怒っていたのだが、どうしても真相を教えてやる気にはならない。俺だって最初は殺してやるつもりだったんだ、あの親殺しの兄貴を。自分で手を下せば、あそこは遊園地だ、何らかの証拠が絶対に残る。だから朽葉に撃ち殺して貰おうとしたさ。わざと気に障るような口調で挑発して、俺に殺意を向けてくるように仕向けたさ。目の前で兄貴に似た人物が殺されそうな状況は、ミズモリとしても朽葉としても見過ごすわけにはいかない、そのことを知っていて企てたさ。だけど…
「……一応兄さんなんだぜ?」
「…え? なんて言ったの?」
「うるせぇ」
俺は結局何をしにクリムソンパークへ行ったのだろうか。自分で自分が分からない。客観的に見れば緋色さんから貰ったせっかくの対価を、完全に棒に振った形。だけど不思議と悪い気分じゃない。
「ま、これでお前もミズモリとして復帰できるわけだ」
「――!」
ここ一ヶ月殺人ができなかった朽葉。それは朽葉の兄貴に似ているという俺の、ミズモリを全否定する考え方に反発して嫌われたくないからという理由から。今日朽葉はクリムソンパークにて、未遂に終わったものの、殺害をしようとした。射撃をした。こっちとしては勝手にてめぇの兄ちゃんに重ねてんじゃねぇよって感じなんだが、まぁ俺がこういう形で協力できるならやってやらんこともない。
「やっぱり…緋色の仕業か」
これは俺の独断先行なんだけど、緋色さんの仕業ということで納得してくれるなら、それに越したことは無い。というか俺と緋色さんが面識あるのはバレてるのか。
俺の自宅に到着した。ほんの5分かその程度の会話。今日はいつも以上に一人で居る時間が少なかったので、俺は割と疲れていたのだが、この時間は何故か妙に心地よかった。決して口には出さないけれど。
「じゃな」
「…………」
振り返らずに後ろへ手を振る。朽葉は何も言わずに去っていった。
さてと。
漸く、本当に漸く一人になれる。自室に入ったら真っ先にベッドにダイブをしよう。
祖父母に帰宅した旨を伝えて階段を上る。三秒後の足の安否も保証できないほどに、俺はフラフラだった。自室のドアを開けて鞄を机に放り投げる。
今日のように色んな振り回され方をして心身共に疲弊した日というのは、悉くネガティブになりがちだ。だから俺は心中の心中では、ある程度予見していた。この自室のドアを開けた先に更に何かが待っていることを、予見していた。畏怖していた。そして悪い方向の予感というのは、これまた悉く的中するものなのだ。
ダイブする筈のマイベッド。そこには先客がいた。
「よう、おかえりー」
血で染め上げたかのような真っ赤な長髪に黒スーツ。ご存知緋色さんの登場だった。
「ちくしょー!」
俺は叫んだ。それはもう近所迷惑になるくらいに。
「な、なんだ急に。何かあったのか?」
たった今、あったんだよ!
俺の絶叫についての会話はそこで終わった。止むを得ない。できるだけ早く用件を聞いて済ませて帰っていただこう。
「用件は、何ですか? 朽葉のお話ならもう結構ですが?」
「そう恐い顔するな。今宵はちょいと一つの質問と一つの報告に来た。まずは質問の方からさせてもらおうか」
「なんですか?」
俺は本当に心の底からカリカリしていた。まさかさっきの朽葉と同じ質問はしてこないだろうな。
「君は何故助けた?」
本当にしてきたよ…
「それはですね、まぁ一応兄なわけで…」
「そうじゃない」
…………
「君は何故"朽葉を"助けたんだ? と訊きたかったんだ」
……なるほど。
「まるで朽葉が俺をつけることを、俺が予め知っていたかのように言いますね」
自分でも気分が悪くなるほど白々しかった。
緋色さんは大きく溜め息を吐いた後に、罪を告白するかのように言った。
「悪かった。君は全部気付いていたんだろう? 許せ」
「許しましょう」
朽葉を俺の監視に付けたのは他でもない緋色さんだ。俺はあの瞬間までは、兄さんを殺してやるつもりでクリムソンパークへ出向いた。結果的に俺、というか朽葉は、俺の兄さんを殺すことをしなかったとは言え、俺は殺意満々で出掛けたのだ。悪意を読み取れるミズモリが、前日の夜にも俺の目の前に現れておいて、それに気付かないわけが無い。十中八九俺の殺意は実行に移される前に殺ぐべく、監視をつける。それが人の多いクリムソンパークに於いて俺が尾行を知ることのできた理由。
「君が朽葉の尾行を知っていたのはいい。何故朽葉を助けた?」
「言ってる意味がよく分かんないんですけどね」
これは別に白々しくしているわけではない。どれのことを指して言っているのか分からないのだ。
「もし朽葉があのまま君の兄貴を撃ち殺していたら、きっと朽葉はこれまで以上の自己嫌悪に陥る」
「…………」
「だってそうでしょ? 私は朽葉に"煤竹圭次の監視"を頼んだの。もし君が誰かを殺すような素振りを見せたときに朽葉に君を殺させようとしたの。それが何やらその煤竹圭次が殺されそうになっているという一見意味不明状態。でももし君の兄貴を朽葉が撃ち殺してしまったら、恐らく彼女はすぐに気付くわ。これが煤竹圭次の策だということに。何故なら朽葉が君の殺意対象を殺してしまったら、君の殺意は著しく低下していくから」
…………
探偵に追い詰められていく犯人というのは、こんな気分なんだろうか。
「嫌でも気付く。自分が煤竹圭次の殺人計画の幇助をやらされていたことに」
「……分かりました。大正解です。もういいでしょ?」
どんな屈強な犯人でも、ここまで言われたら自供するだろう。
「しかしよく考えたものだよ。狡い男だな君は。しかしだからこそ不思議なんだ。この非の打ち所の無い、君だけは確実に利となる作戦を、君は中止した」
「だからそれは兄さん――」
「兄の為。それもまぁあるだろう。だけど私の読みだとそれは、理由の多くても3割程度だと考えている」
勝手な人だ。憶測だけでそんな………………そんな核心を突いてくるなんて。
「朽葉の為――なんだろ?」
「…………その通りです」
あの時、俺が首を絞められて死に際を初体験していたとき。確認するように、合図を送るように見た、窓越しの朽葉。彼女は遠い建物の上に伏せて、拳銃を構えていた。相当の距離があったにも関わらず、何故かハッキリと見えたのだ。その双眸に浮かぶ涙が。緋色さんは、朽葉は兄貴を撃ち殺した後に、俺の作戦に気付くと言った。だけど俺にはあのとき既に、朽葉は気付いていたんじゃないかと思う。ま、俺の妄想だけど。
「ふふ、君も漸く朽葉が好きになってきたようだな」
「は?」
「だってそうじゃないか。君は朽葉を悲しませたくないが為に、兄貴殺しの作戦を諦めたんだ。あんな完璧な奇策は、今後一生めぐり合えないぞ? 朽葉に君を殺させて全て解決という手もあったんだが、それは諦めてやる、ふふ」
緋色さんは本当に嬉しそうだった。意味が分からない。大体俺が朽葉を好きになったり、朽葉が俺を殺したりして、一体何がどう解決するっていうんだ。
「そういえばもう一つだけ訊いてもいいかい?」
「………じゃあ次会ったときは質問ゼロですよ」
「君は朽葉が撃たないことを想定していなかったのか?」
俺の返事はスルーですか。
「俺は朽葉を信じていましたからねぇ……」
「ポケットにナイフ仕込んでおいてよく言うよ」
「…………」
白々しい女だ。本当に白々しい。
ポケットに手を突っ込んでいたのは、寒いからだ。決して、もしもの為にいつでも切りつけられるようにポケットの中でナイフを握っていたわけではない。因みに銃撃後にロープから抜け出して逃走できたのもそのナイフの御陰では決して無い。
「それじゃ、私はそろそろ帰るとするよ」
緋色さんはそう言ってベッドから腰を上げる。
「え、何か一つ報告があるんじゃなかったんですか?」
「…………」
自分からふっておいて言わないってのはどうなんだろう。
「……どうしても聞きたいかい?」
「まぁ気になりますし。というか言うつもり無いなら、報告があるなんて言わなきゃよかったじゃないですか」
「別に言うつもりがないわけじゃない。…分かった。教えよう」
緋色さんは窓枠に腰掛け、ただ事実を口にした。
「悪意の異常増殖が――再開した」
「――え」
一瞬。ほんの一瞬だが、思考が停止した。
この街で起こっていた悪意の膨張。それは悪意のある人物の意識の落差から、一般的な性格や環境からくる悪意とは別物、つまり感染のようなものであると考えられた。そしてそれは数々の状況証拠から、空五倍子醍醐郎による薬の所為であると判断され、彼は殺された。
「……そ…んな」
だがそれが違った――
空五倍子醍醐郎が殺されても、何も変わらなかった――
「うわあああああああああああああああああああああああああ」
俺は叫んだ。さっきよりも強く強く、叫んだ。そしてそのまま崩れ落ちる。
俺がもっとも恐れていた事態。それが現実となった。俺は人を殺したんだ。
「やっぱり真相はそっちか。君は、お兄さんの命なんてどうでも良かったんだな?」
その通りだ。これ以上無い大正解を緋色さんが口にしてくれた。
要するに俺は大義名分が欲しかっただけなんだ。親を殺した兄さんは確かに憎い。だけどそれは無差別殺人と言うわけではなく、怨恨が招いた結果だ。母さんを殺したその後は、普通の兄さんなんだ。完結した悪意とでも言うべきか。つまり俺は兄さんを恨んでいるし、死んでも構わないと思っているが、殺しても何の解決にもならないことくらい分かっている。だからそんなことはどうでもいいんだ。
だが悪意増殖の犯人は違う。俺と刈安と夏子を巻き込んで、刈安の親父とコモト屋の婆さんと路地裏の男二人を巻き込んだんだ。これからも起きる可能性がある。この街の人間が仕組まれた悪意によって、不幸に落ちていく可能性がある。野放しにはできないんだ。
それなのに俺はミズモリの役目を全否定し、どんな悪人も法意外で死ぬことなんて許されないと自分勝手な正義を投げつけていた。だけど俺はそんな自分が嫌だった。理想的で信じていたい条理が、俺は嫌いだった。だから俺は緋色さんが空五倍子醍醐郎の殺害の対価を出してきたとき、心の底から快哉を叫んだ。こじつける対象を、緋色さんが俺に差し出してくれたんだ。だから俺はそれに乗った。
俺の知る限り最上の対価だったと偽った。
本意じゃないと偽った。
俺を取り巻く全てから優先される、絶対的事象と偽った。
ホロニックから隔絶される、唯一無二の例外と偽った。
俺にとっての兄さんの情報とはそれほど大事なものなのだと、偽ったんだ。
これで空五倍子醍醐郎を殺せると、これでこの街は救われると、そう思った。胸が抉られるように痛んだ。欺瞞に満ちた自分に反吐が出た。だけどそれで皆が救われるなら、俺は喜んで最低でいようと決めたんだ。なのに――
「冤罪――」
空五倍子醍醐郎は関係なかった。
俺が皆を救うには、最低でいるだけでは足りなかった。
それどころか犠牲者を一人出しただけで、皆は救われず、俺が唯一人最低なまま。
「俺は一体何をしていたんでしょうか――――」
「…………」
窓の外を見ている緋色さんに訊いたわけではない。
数十秒の沈黙の後。緋色さんは俺を一瞥もせずに、窓から去っていった。
俺は一晩中泣き崩れたままだった。
開け放したままの窓から入ってくる3月のまだ微妙に冷たい風が、体を冷やした。
■ ■
深夜三時―
私は寝床としているホテルには向かわず、一人夜の街を歩いていた。
「…………」
かけてあげる言葉ならいくらでもあった。
恐らくは空五倍子醍醐郎は悪意増殖に無関係ではない。私が彼を殺したにも関わらず、未だに悪意が増殖していることは確かだが、その程度であっさり崩れるほど私の集めた状況証拠は少なくない。それに悪意が増殖するのには間があった。それまで逓増していたこの街の総悪意が、空五倍子醍醐郎を殺して昨日までの3日間は確かにそれが止まった。ここまでくれば空五倍子醍醐郎が関係していない可能性はゼロだ。
なのに私はそのことを煤竹圭次に伝えなかった。
何故か。
「我ながら、らしくないな…考え事なんて」
こんな風な独白だって久しぶりだ。
きっと煤竹圭次はもう決めているのだろう。自分の意志を理想を主張を。目標を決めたら後はそれに向かって突き進むだけ…なんていう綺麗事は有名だけど、実際そんなことできるわけがないのだ。煤竹圭次もそれを悩んでいるんだろうと思っていた。
「……一体何をしていたのか、か」
煤竹圭次が最後に言った言葉。自分勝手なことを言わせてもらうと、彼の気持ちはよく分かる。私だって空五倍子醍醐郎を軽々に殺してしまったことには、自分を蹴り飛ばしたいくらい申し訳ないと思っている。誤殺は本当の殺人対象を探さなくてはいけないという意味しかもたないなんていうのは、ミズモリとしての模範であって、あたしの感情ではない。
空五倍子醍醐郎には共犯者が居て、その共犯者が今も悪意の増殖を続けているのだとしたら、彼の殺害には意味がある。私は決して無駄なことをしたわけではない。だがもし空五倍子醍醐郎がただの傀儡だったとしたら、最悪の場合私は罪の無い一般人を、いや被害者を殺してしまったことになる。"あの方"ならそんなことはケースバイケースだと言って気にも留めないだろうけど。
強くない私たちは、一体どうすれば抜け出せるのだろう。
「あれ? 緋色っちじゃん」
突然前方から声がかかる。"あの方"のご登場だった。
■ ■
クリムソンパークであたしが撃ったのは、圭次のお兄さんだったらしい。翌日に緋色から聞いたので、きっとその通りなのだろう。ということは、圭次はお兄さんを殺そうとしていたわけで、本来ならあたしは相当怒っていた筈だ。何故怒るのかは分からないなんて白々しいことを言うのはもう止めにする。あいつみたいだし。
あたしはアイツと圭次を重ね合わせてる。
アイツは筋金入りの偽善者だった。性善説を心の底から信じていて、その癖人の悪事は絶対に許さない変人だった。そんなアイツに似た圭次だからこそ、復讐の為に兄殺しを企図するというまるでミズモリのような行為には、頭にくる筈だった。少なくともアイツが似たような行為をしたら、あたしは自分のことを棚に上げてムカついてただろう。だけど圭次が兄殺しを企図したことには、怒りというより悲しみが溢れてきた。何故かは分からない。不明は何よりも怖い。
「…………」
約2時間、あたしはいつか圭次にミズモリの秘密を語った公園のベンチに座っている。あの日以来毎日ここに来ていることを、圭次は知っているのだろうか。
「………?」
人気は無いのに人影があった。尤も、あたしはもう既にミズモリとしての気配察知の能力を、人よりちょっと凄い程度しかもっていないんだけど。だけどそれでも、その人物の人気の無さは異常といえた。
「よう。クリムソンパーク以来だから、4日ぶりってところか」
「……圭次」
圭次の態度はまるであたしがここにいるのを知っていたかのようだった。
つかつかとこちらへ近づいてくる。
「何か用?」
できるだけ冷たく聞こえるように言った。
「お前はミズモリとしての活動をしろ。俺はもうそれを止めないし。それをすることでミズモリを軽蔑したりしない」
「え―――」
あたしよりも何倍も冷たく、圭次は言った。
「何それ…」
あたしがミズモリとしての活動をしていないことが知られている――ことはいい。恐らく緋色に言われているだろうことは察していたのだから。
圭次はあたしの隣に設置してあるベンチに――腰掛けなかった。
「俺はてっきり、お前はクリムソンパークでの一件で悪意のある人間を撃つことの大切さを再確認したものだと思っていたんだが、そうじゃないみたいだから言いに来た。それだけだ」
「――っ!」
何それ。なんでこいつはこんなこと言ってられるの…
「俺はお前の兄貴とは違う」
「――!」
緋色が吹聴したんだろうけど、今はそんなことどうでもいい。どこまでも冷たく言い放つ圭次に、わけの分からない怒りが沸々と湧いてくる…
「じゃあな」
そう言って圭次は公園を出て行った。その背中に投げつけてやりたい言葉はたくさんあった。でもあたしは何も言えなかった。その言葉の全てが、正真正銘ただの自分勝手な感情でしかなかったから。
離れていく圭次の姿からは本当に全く人気を感じ取ることができなかった。
まるで人間ではないみたいに。
■ 第四章 正義と犠牲 ■
もう白々しているのには疲れた。
今日で全て終わりにしよう。そう決めて家を出た。電車に乗って、この一月の間に起きた非日常を思い起こす。寧ろ非日常なのは朽葉と出会う前の俺の世界だったのだろうけど、そんなことはどちらでもいい。
刈安悠平という名の俺の友人が、一人の女の子に撃ち殺されそうになった。そしてその女の子は近頃世間を賑わせていた銃殺犯で、後に朽葉という名前があることを知ることになった。善意の傲慢さを学んで、己の希薄な正義を認識した一つの事件。思えばあのときから既に決まっていたかのような、今日の俺の決意。
一つのエゴイズムに満ちた理屈を思い出す。
罪という字に含まれている網頭という部首には、"網にかける"という意味があるのだそうだ。民を網にかけることが罠であるように、非を網にかけることこそが、罪なのだそうだ。逆に言えば網にかけさえしなければ、非は非のままであるということ。端的に言えば、捕らえられて逃れようのなくなった非にだけ"罪"というレッテルが貼られ、断罪が行われるのだ。以前の俺ならその正鵠を射た理屈に感心していた。今ではそんな理屈は漢字の部首とつくりをバラして説明している以上の意味は無い。尤も、その理屈が俺にとって感心の対象であろうが漢字の構造を表したものであろうが、どうせ頭の中の問題でしかないのだけど。
問題はあの特徴の無いオジサン。一見全てを見透かして語っているようにも、しかし全く的外れなことを言ってるようにも見受けるあのオジサンが、何故あの状況で俺にこの理屈を話したかだ。俺にとってそんな理屈が何の意味も持たないことくらい、仮に意味を持ったところで何も起きない、起こさないことくらい、分かっている筈なのに。どうにも癪だ。
そんなことを考えていると、無情にも電車は目的の駅に着いた。迷わず降車して駅を出る。この地域に来ると高確率で何かに巻き込まれていたが、巻き込むのは今回が初めてだということに気付いて自嘲気味に笑う。
某所へ向かいながら、あくまで寒いのでポケットに手を入れる。準備は万端じゃないくらいが丁度いいというのは俺の爺ちゃんの持論であり、爺ちゃんの言うことを鵜呑みにしないというのは俺の持論だ。ポケットに突っ込んだ掌の中に、握り心地のいい感触を残しておくのも悪くない。
いつかのように僅少な体力を惜し気もなく使うような真似をしなかったので、到着するまでに三倍の時間を要した。
「…………」
主を亡くした今も、それは変わらずに聳えていた。
そうなっているのが当然であるように開け放してある門を、俺はただそうすることが当然であるようにくぐった。鬱蒼としたジャングルを歩む。夕方だというのにこの庭はいつもの如く暗溝のように薄暗くて、その不気味さが異様なほど今の自分に相応し過ぎて、そして悲しかった。
建造物の前で立ち止まる。このスライド式の扉を目前にして、未だ尚冷静でいられる自分が怖かった。所詮そんな存在なのだと再認識したところで、もうそれ以上無いほどの覚悟を、今となっては確実に実力と釣り合っていると自負できる覚悟を、補強することには何の意味も無い。
スライド式の扉というのは案外開くのに力がいる。その扉を開くために込めなければいけない力の大きさは、何処かその先へ踏み出すことの重さを思わせた。その扉を開くために込めなければいけない力の向きは、何処か自分の愚かさを思わせた。
取っ手を握ったまま、別に緊張もしていないのに深呼吸をする。
「…………」
さあ終わりを始めよう。
タッタッタッタッタッタッタッタッ
右手に込めた力を横にスライドさせようとしたとき、心地よい存在感が、猛スピードで俺に迫ってきていた。足音が急停止した後、ゆっくりと振り返る。
そこには朽葉が、ただかっこ悪く存在していた。
「はぁ…ぁ…はぁ…はぁ…っ……」
俺を指差して何かを言おうとしているようだが、肺に酸素を充填するのに忙しくて困難なようだった。朽葉は右掌を俺の方に向けて「待った」の意を表してきたので、俺は暫くの間彼女の回復を待つことになった。数秒後。
「させないわよっ!」
「何をだ」
唐突の主張に、俺は大袈裟に冷静を気取る。そうでもしないと、笑いが零れそうだったからでは、決してない。
「あんたは……梔子涼を殺す気でしょ」
何のことだ? とは言わない。白々しいのは止めにしたんだ。
「……へー。梔子さんっていうのか。あの人」
空五倍子博士の助手である金髪美人。てっきり外人だと思っていたのだけど、ハーフか何かなのかな。まぁ十割どうでもいいことだ。
「そうだ。俺は梔子涼を殺しに来た」
ハッキリと。できるだけ白々しさを払拭して言った。
「梔子涼は件の悪意異常増殖の犯人だからな」
梔子涼――
恐らくは彼女が悪意異常増殖の、現在の犯人。
緋色さんが俺の前で空五倍子醍醐郎殺害の話をする機会は何度かあった。それはそれは事細かに説明をしてくれた。気分が悪くなるくらいに。だがその話の中に金髪美人の助手の話は微塵も出てこなかった。つまり直接訊いたわけではないが、緋色さんが空五倍子博士を殺しにいった時、恐らく彼女は不在だったんだ。
梔子涼が犯人なら全て辻褄が合う。
悪意を宿させる薬の存在を知っていて、且つそれを所持している可能性がある者。彼女が犯人なら、空五倍子博士の死後、悪意が増えるまでに3日の間があったことにも納得がいく。だけどそれは―
「状況証拠でしかないんだけどな」
今の俺にはそれで十分だけど。十分たる理由があるのだけど。
「梔子涼は犯人だけど」
漸く呼吸の落ち着いた朽葉が、ゆっくりと話し始めた。
「空五倍子醍醐郎も犯人。真犯人は空五倍子醍醐郎であって、梔子涼は彼の遺志を継いだだけ。空五倍子が梔子の傀儡だったわけでも、二人で仲良く共犯していたわけでもなくって、空五倍子の個人研究で開発した人の心を揺らす薬を、彼の死後に梔子が利用しただけなの」
緋色から聞いたんだけどね――と、朽葉は付け加えた。
「そうか。それは良かった…本当に良かった」
俺の間接殺人は無駄じゃなかったんだ。確かに皆を救えていたんだ。ただその先に、更に敵が待っていたというだけで、俺はちゃんと偽善者になれたんだ。
「だから圭次は梔子涼を殺さなくっていいの!」
「…………」
なるほど。だからそんなに一生懸命走ってきてくれたのか。全く兄貴想いな奴だ。
だけど――
「それは違う」
「え?」
俺は梔子涼を殺す。どんな真実が判明しようと。
「あんたは責任を果たす為に、誤殺を償う為に、今度こそは真犯人を確実に仕留める為に、梔子涼を殺しに来たんでしょ? 緋色から聞いたわよ…。もし本当に誤殺だったんなら、あんたのその気持ちは真犯人を確実に殺すまで晴れない。分かるわ。でもそうじゃなかったのよ? 圭次は圭次の正義を貫き通した! 確かにそれは人を利用して、あまつさえ自分は大衆の正義を掲げたままでいながら間接的に人を殺す、ちょっと卑怯なやり方だったかもしれないけど! 梔子涼がこの事件の残滓でしかないことが分かった今なら、あんたが直接手を出すようなことしなくていいじゃない! そんなのはあんたの正義じゃないでしょ! そういう傲慢で横暴なやり方は、あたし達ミズモリの役回りよ!」
朽葉は一気に捲くし立てた。
なるほど正論だ。たが間違っている。
「朽葉。お前が何と言おうと、俺は梔子涼を殺しに行く」
「――っ!」
確かに俺が自分の手で殺人する必要は全く無くなった。けどそれは必要が無いだけで止める理由にはならない。朽葉が俺を止める理由にもならない。
「昼間、言ったはずだ。俺はお前の兄貴とは違う」
ただ俺は現実を告げる。
「お前の兄貴なら人は殺さないだろう。人殺しを許さないだろう。だけど俺は俺だから、俺が殺すと言ったら、俺は殺すんだ」
朽葉は畏怖と怒りで調合した表情を浮かべる。今にもどうしてそんなことを言うの? と言い出しそうな表情だったが、朽葉は何も言わなかった。
「俺は今日薬を呑んだ」
「――え」
「20錠――空五倍子博士に生前こっそり貰っていた分、全てをだ」
朽葉は顔を真っ青にして、2歩後ずさる。
「どう…して……そんなこと…」
「自信が無かったからだ」
確実にあの金髪美人を殺す自信。明確な殺意をもって殺す自信。
「俺は一度冤罪かもしれない人間を、間接的に殺した。梔子涼にだってその可能性は十分過ぎるほどあると言える。空五倍子博士が冤罪でなかったことが分かった今となっては、何の意味も無いことだがな。だから殺すのが怖かった。俺には梔子涼を殺す為の殺意が足りなかったんだ」
ここまで言えば分かるだろう。そう思い、俺は話を切り上げた。
「俺はもう行く」
再び取っ手に手をかける。朽葉はこちらを見たまま、何も言ってこない。
「正直早く殺したくてうずうずしてるんだ、じゃあな」
朽葉にはもう人間の心の成分を読み取る力は殆ど残っていない。ただでさえ人気の薄いと言われている俺の心の内は、朽葉には読めなかったようだ。
扉を開いて奥に進む。研究室の部屋にだけ電気が点いていた。ノックなどしない。研究室の扉もスライド式だが、玄関のそれよりも軽く開いた気がした。
案の定――――そこには梔子涼が存在していた。
「……来ると思っていたわ」
俺はそのとき初めて、梔子涼の声を聞いた。
俺は無言で彼女に近づく。
「俺はあんたを殺しに来ました」
「でしょうね」
梔子涼は髪を掻き分けながら、今はもう亡き空五倍子博士のデスクの方を見やる。
「……あの人が何故、この街に犯罪者を増やそうとしたか分かる?」
犯罪者を増やす…ミズモリが言うところの悪意増殖を、梔子涼はそう形容した。それは形容というほどのものではなかった。事象をそのまま日本語にしただけの表現だったが、端的に事象を表していた。
俺が分かりませんと即答すると、梔子涼は薄く笑ってから続けた。
「あの人は法律が嫌いだったのよ」
……法律だって空五倍子博士のことは嫌いだろう。
「法律は人を縛る。多くの人はその束縛が逆に自由を生んでいるのだと思い込んでいるけど、本当は自由の上端を勘違いしているだけ。具体的な意味もなくただ法律を守らなくてはいけないという心ある人間たちの所為で、人格は死んでいった。法律なんか無くったって、人間は個々で確りと断罪し合う。殺人をすればそれを許さぬ者が復讐をして、詐欺を受ければそんな手口があるのかと学ぶ。法律を受け入れた優しい人間の所為で、世界は囚われてしまったんだ…と、これがあの人の哲学よ」
「…………」
正直言っていることの半分は理解できない。だけどその半分が俺にとって共感できるものであろうとそうでなかろうと、俺がこれから梔子涼を殺すことには何の関係も無いだろう事は分かった。どんな正義から生まれた理屈が空五倍子醍醐郎にあったって、もう殺されてしまったのだ。潰された正義は正義じゃない。正義じゃないから潰されたのではなく、潰されたから正義ではないのだ。
「あなたは何故、その遺志を継いだんですか?」
「……殺されるため、よ」
さっきから梔子涼の物言いは、まるでミズモリの存在を知っているかのようだった。
「分かっていたわ。あの人の言うような正義が、この世に存在することが許される筈がないわよね。いつか天誅が下るだろうと思っていたわ。まさか君みたいなヒトの形をした存在から下るとは思ってなかったけど。どうせなら神話に出てくるような悪魔に殺される方が、私には相応しいと思うんだけどね」
以前、研究室の隅で無言で佇んでいた彼女からは想像できないくらい饒舌だった。
どうやら俺を、空五倍子博士を殺した存在と同一と考えてるようだ。だけど俺はミズモリでは無いし、勿論神話に出てくる断罪神や悪魔などでも無い。いや、悪魔ではあるのかな。
「残念ながら俺はそんな神秘的な存在じゃないんですよ。ただの殺人犯です」
「……そう」
俺が真実を告げても、梔子涼はちっとも動揺したりしない。寧ろそれこそ私に相応しい最期だわと言わんばかりの態度だった。俺はそれが癪に障った。
会話は止めにする。右ポケットからナイフを取り出す。
さぁ終わりを終わらせよう。
バコッ
側頭部に強烈なフックが入った。
勿論それは梔子涼のパンチではない。彼女の弱そうな足腰では、俺をこんなにもぶっ飛ばすことはできないだろう。それこそは朽葉。先刻完全に精神を折った筈の女。俺は空五倍子博士の遺物であろう研究器具を乗せたワゴンに衝突し、様々な金属音を鳴らしながら仰向けに倒れる。
「あんたは殺しちゃダメなの!」
清々しいほど傲慢な台詞だった。
ぶつけた頭部をさすりつつ、俺は視覚でその存在を再確認する。全身を黒のスーツで纏い、長いポニーテールを靡かせて、朽葉はよく分からない表情をしてそこに立っていた。
「この女はあたしが殺すの! 誰にも手出しはさせないわ!」
ギロッと、何故か赤く腫れた両目で俺を睨みつける。
対象を目前にして殺すだの殺さないだの言うのはどうかと思ったが、当の梔子涼は全く動揺した風もなく、パイプ椅子に腰掛けたまま目を瞑っていた。まるで執行を待つ死刑囚のように。
俺は立ち上がり、足元に散乱した器具を足で避ける。その中から倒れた拍子に手から離してしまった自前のナイフだけを手に取り、再び朽葉に視線を移した。
「お前が梔子涼を殺してしまうと、行き場を無くした俺の殺意はきっと無差別に人を襲うぞ。それでいいのか?」
「――っ!」
苦痛の表情の奥に、確かに決意を見受けた。
「あたしがあんたの殺意を消し去って見せるわよ―――!」
朽葉は大きく声を張り上げて、いつか俺が骨導音で聞いたものにニュアンスが酷似した台詞を言った。
俺はこんな恥ずかしい台詞を叫んでいたのか。聞く立場になって初めて気付かされたな。だけど―
「それは無理だ。刈安の時とは違う。俺は二十錠の薬を飲んでるんだぞ?」
「無理じゃない! あたしがあんたの理性と一緒に戦ってあげる!」
これもいつか俺が言った台詞。分かっていて言っているのかそれとも無意識に口から出ているのか知らないが、俺の主張を俺にそのまま返したって、俺は反省も動揺も、勿論自己嫌悪だってしない。何故ならあれは嘗ての俺だからだ。
「無理だ。俺はもう殺しの衝動を抑えられない」
さながら下った罰を告げるように――俺は言い放つ。
「…む…り……じゃ……ない…よ」
朽葉は蚊の啼くような声でそう言うと、目を拭った。
「…………」
仮にそれが可能だとしても、もう何も変わらないんだよ。
正義というのは、そんな甘いもんじゃないんだ。自分の正義を貫き通すには、人より多くの犠牲を払うしかない。朽葉がミズモリとしての正義を掲げるのなら、ここで迷ってちゃいけないんだ。だからさっさと俺を――
「あたしはあんたを殺したくないの!」
泣きながら、漸く朽葉は本音を教えてくれた。そしてそれを言うということは、俺が暗に示した二者択一に気付いているということ。
俺を殺して兄貴を断ち切り、生粋のミズモリとして生きていくか――
俺を生かしてミズモリ失格となるか――
「…………」
俺は無言でナイフを逆手に構え、梔子涼の喉元に向けてそれを斜めに振り下ろした。
躊躇など無い。無いのは躊躇だけではないけれど。
「――く」
手首を捕まれる。
当然それは梔子涼の手ではない。まだナイフの切っ先も触れていないが、既に彼女は死んだように安らかな顔で俯いている。
「………邪魔をするな」
冷酷に、酷薄に、命じる。
俺の手首を握っている人間は、朽葉は、覚悟を決めたようだった。
「―――っ!」
朽葉は俺の手を大きく振り払い、肩に下げた鞄から愛銃を取り出す。トルスちゃんだっけか。いつか緋色さんが俺の部屋で話していた気がする。
遊底を限界まで引き、手を離す。弾丸が薬室に送り込まれ、ガチャリと撃鉄の音が鳴る。朽葉は覚悟を秘めた視線を俺に向け、銃口を向け、そして躊躇なく引き金を引いた。銃声は鳴らなずとも発射される弾。窓の無い研究室には、皮膚を突き破り頭蓋骨を割る音だけが虚しく響いた。
梔子涼は死んだ――
これで二人目だ。俺が間接的に殺した人間。助けようと思えば助けられた人間を助けなかった。これで終わりは九割終わった。
再びガチャリという音を立ててブローバックする拳銃。トルスちゃんはセミオートマチックらしかった。いっそ全自動拳銃なら良かったのにと思う。
「―――あたしはミズモリ。もう見失わない」
朽葉は俺を確りと見据えて言う。もうその瞳に涙は無い。
「あたしはあんたを殺して生きる」
「…ああ。そうか」
俺が殺されることを受け入れていることに、朽葉は驚かなかった。それはきっと俺の心中を見抜いているわけではなくて、悪意のある人間が抵抗しないことは殺人を手際よくできるという、ミズモリとしての意味しかないからだろう。梔子涼を殺すことによって、取り戻してきているんだ。ミズモリとしての志を。
だから早く俺を殺すんだ――お前が完全に自分を取り戻す前に―
「…あたしはね、圭次」
「…?」
朽葉は銃口を俺に向けたまま、ゆっくりと語りだした。
「兄貴の影なんて、とっくに取っ払ってたんだよ?」
「…………」
猶予など――ないと言うのに。
「あたしがあんたを殺したくないのは、兄貴に似ているからなんかじゃない」
「…………」
分かったよ。分かったから――
「公園で正義をぶつけ合って咎めあえたのが――嬉しかったから」
「…………」
さっさと俺を―――
「ずっと不安だったあたしの行いを――っ!」
――しまった!
「殺せ――! 俺をさっさと撃ち殺せ――!」
破綻する――俺の計画が――
俺の最期の正義までも潰されてしまうのかよ。
犠牲なら払ったろうがっ! いい加減救えよっ! 俺を!
カコン
朽葉の手からすり落ちた銃が、地面と触れ合い音を奏でた。
俺の心を盗み見るように、朽葉は俺の目を凝視した。
「殺意なんて……無いじゃない……」
■ ■
森の中。
空五倍子研究所の庭とは比較にならないくらい森々とした密林。主に学生の間で"死に森"と呼ばれているその森は、色彩市の果てに存在していた。その通称から容易に想像できるように、割と有名な自殺名所になっていて、あまり自ら近づこうとする者はいない。そんな不気味な森の中を、俺は真昼間から一人で歩いていた。鳥の啼き声一つ聞こえない深閑とした森の中で、ある人に会って話というのを聞く為だけに俺は歩いていた。
指定された場所に到着すると、そこには既に黒スーツの人間が二人ほど居た。一人は血で染め上げたかのように赤い髪をしている長身の女。闇のような虹彩がこんな森の中でもはっきりと分かる。
そしてもう一人は……知らない男だった。初老の男性、それ以上言うことが無いくらい何処にでもいそうな、平凡過ぎるおじさんだった。
「…こんにちは。遅くなりましたかね」
軽めの白々しい挨拶をする。遅刻なんてしていないのは分かっているのに。
「君が煤竹圭次くんか。成る程、希薄な気配をしているな」
知らない男の方が先に反応をした。取りようによってはえらく失礼な物言いだった。初対面の人間にそんなことを言われて腹が立たないような男ではないつもりだったが、状況が状況なのでスルーを決め込む。
「私から紹介させて頂こう。この方はミズモリの創始者であり、全指揮権を握っている、言ってみればボス、橡様という」
ミズモリのボス…
見た目はどうみてもただのオジサンだが、言われてみると確かにミズモリらしい刺々しい雰囲気を感じる。ミズモリと自称する人間には二人しか知り合いがいない俺が言うのもなんだけど、普通の人間では決して持つことのできない何かが、確かに感じる。
「どうも橡です」
俺のあまりよろしくない視線を感じてか、男は名乗った。
「こんなところまで足を運ばせて悪かったね。儂は真摯に話をするときは空気が清新な所でないとダメなんだ」
俺にはとても清新な空気とは思えない。それくらいこの森は胡散臭いし、事実少し腐臭のようなものを感じる。何処に自殺者の死体が転がってるかも分からないのだから当然だ。
「こういう森に来ると、人間の悪意など感じずに済む…」
……なるほど。
だけど人間のマイナス意識に支配されてそうなこの森も、ある意味人間の悪意によって構成されたものなのではないだろうかと思う。自殺者なんて他人との何かによってそれを決めているケースが一番多いのだから。
「あ。それと様付けは止めてくれと言った筈だよ? 緋色っち」
「…………」
状況が状況なのでスルーを決め込む。
珍しく頬を赤らめた緋色さんは、一つ咳払いをして本題に入った。
「あー…じ、実はな。橡様がこの事件の真相を掴んだらしいのだよ」
用件に入ることで誤魔化したつもりらしい。
「だから様付けは止めてくれ、緋色っち」
「そうですよ緋色っち」
殴られた。俺だけ。
まぁそれはともかく、真相ね。
「それを俺に伝えてどうするつもりですか?」
「白々しいわよ。私が責任を感じていることくらい分かるでしょ?」
「勿論です。でも感じた責任を果たす必要がどこに?」
俺が空五倍子博士の冤罪に苦しんでいるのは、完全に俺個人の問題だ。俺自身は緋色さんには責任が無いと思っていることくらい、緋色さんなら分かりそうなものだけど。
「果たす果たさないは私の勝手だからな。それより橡さ…んの話を聞け」
「えー、緋色っちが話してよ」
「それじゃあここまで橡さんが来た意味がないじゃないですか!」
まるで怠慢な主と律儀なメイドさんみたいな光景…ではなかった。
「儂は噂の煤竹くんを一目みたいだけだったから」
「…もう」
不承不承といった様子で緋色さんは真相とやらを語りだした。それはとても嬉しい真相だったが、俺の未来をどうこうする内容のものではなかった。次第に滔々と語りだした緋色さんだったが、俺の興醒めした態度に感づいたのか、橡さんが突然「もういいよ」と言って緋色さんを制した。
「もういいよ、緋色っち。彼はどうも覚悟ができているようだ」
「…え? どういうこと?」
緋色さんが尤もな疑問を口にした。
「君は間接的に罪の無い人間を殺したかもしれないから…あんな自己嫌悪に陥ってたんじゃないのか?」
「…………」
そのことについての真相は墓場まで持っていくつもりだったんだが。どうせ俺が押し黙ってても隣の男がバラすだろう。
「君はどっちでもよかったんだね? 煤竹君」
それみろ。
「空五倍子醍醐郎が犯人だろうと無実だろうと、人を殺した自分をどの道許すつもりは無かった」
そうだろ?――と橡さんは続けて、ニヤリと笑った。
大正解ではないが概ね合っている。厳密に言えばどっちでも良かったわけじゃない。そりゃあ空五倍子博士が犯人だったんなら、それに越したことは無いのだから。
「な! じゃああの夜の私の前での慟哭は演技だったというのか!」
「そんなことはないです」
それに慟哭なんてしてない。
「俺は本当に悲しかったんですよ。ただちょっと大袈裟にリアクションはしましたけどね」
どこまでも白々しく。
「……なんで……そんな」
「いいかい? 緋色っち。煤竹君は――」
俺がどう話そうか決めあぐねているところを、橡さんが横取りした。
「空五倍子醍醐郎の誤殺を、許されない理由としたかったんだ。仮に空五倍子醍醐郎を殺すことを容認したことそのものを自分が許されない理由としてしまったら、そのことがとある女の子に漏れたときに、その子を自己嫌悪させてしまうからね」
自己嫌悪――
自分が好きな兄が人を殺したことへの後悔と忸怩に苛まれて自殺。そして自分はその殺人を正当なものだと思っている。この決して両立することの無い排他的論理和のような真理に、あの純粋な女の子が悩まない理由は無い。
まぁ実際は本当の兄貴ではなくて、思考形態とかが似てるってだけならしいけど、多分あいつは俺の考えは兄貴の考えってな感じに思ってるんだろう。緋色さんの話が正しければ自惚れなんかじゃない…と思うんだけど。
「……な…」
緋色さんは絶句していた。それは真相そのものに驚いたのではなく、その真相が意味するところを察しての、絶句だった。
「君は死ぬつもりなんだな?」
「はい」
即答した。躊躇うくらいなら、決意しない。俺は許されざることをしたから死ぬんじゃない。責任を取るとか、死んでお詫びとか、そういうことじゃない。
「まさか自殺なんてするつもりじゃ、ないんだろう?」
「勿論です」
俺が死ぬ理由は、自殺をする理由ではない。
「そこでちょっとお二人の力をお借りしたいのですが――」
俺は自分を殺す計画を立てた。
最後の最期くらい、兄貴のように、お前を庇って死んでやろうじゃないか。
俺が全ての説明を終える頃には、緋色さんも真面目に聞いていてくれた。彼女にはあの子に適切な情報だけを漏らしてもらわないといけない。簡単だが重要な役。まさか俺に殺人のきっかけを作ってしまった緋色さんが協力しないわけが無いと最初から分かっていたが、緋色さんが承諾してくれたとき、俺は最高の安堵をした。
「煤竹君――」
説明を終えて森を去ろうとしたとき、橡さんが声で俺を引き止めた。
「正義というのはね、往々にして上手くいかないものだよ」
「? …はぁ」
橡さんはニヤリと笑った。緋色さんは俯いていた。
■ ■
奇しくもあの男の言う通りになった。
「殺意なんて……無いじゃない………」
そりゃそうだ。俺は二十錠どころか一錠だってあの薬を呑んでいないのだから。大体一つ呑めばあれほど悪意が膨張する危険な薬を、空五倍子博士が二十錠も俺に預けておくわけがない。それに膨張する悪意は選べない。何らかの決定基準があるのかもしれないが、少なくとも二十錠呑んだら一つくらい"殺意"が混じってるだろうとか、そんな曖昧な判断で実行することではない。
「どういうことよ!」
朽葉が怒鳴る。これまでにないほどの怒声と涙を込めて。
気付かれてしまった。間に合わなかった。
朽葉にはもう人の心の成分を見抜く能力は殆ど無い。長らくミズモリとしての殺人をしていないからだ。ましてや気配の希薄な俺だ。読み取れるはずが無い。それは昼間に公園で話したときに、俺の"作意"に気付かなかったことで確認済みだった。だからさっきまで、俺には殺意が無いということに気付かれなかったんだ。殺意があるように見せかけることに成功していたんだ。なのに。梔子涼を殺すことによって、ミズモリの能力が回復してしまった。緋色さんは10分は戻らないだろうと言っていたのに。朽葉はほぼ一瞬で嘗ての自分を取り戻してしまった。その所為で―
「答えなさいよ――!」
破綻した。
梔子涼を殺そうとしている俺を朽葉に殺させて、俺の死と引き換えに朽葉にミズモリとしての自我を取り戻してもらうという――おせっかいな一つの計画が、今終わった。
その計画には二点のオプション的なメリットがあった。
一つは朽葉に兄貴の影を断ち切ってもらえるという点。俺を殺すことによって、兄貴の復讐ではなく、全人類の為に、ミズモリとして活動することができるようになるかもしれないから。欺瞞と偽善に満ちた存在として、ミズモリ然として生きていけるかもしれないから。
二つ目は俺の為。これはもう――態々言うことではないか。
本当に何だったんだろう。俺は何故生きているのだろうか。
俺が3分くらい地面にへたり込んで朽葉を無視していると、部屋にひとつしか無い扉が開き、奥から二人の黒スーツが入ってきた。形容は必要ない。橡さんと緋色さんだ。
「はは、やっぱり生きていたか煤竹君」
確定していたことのように、橡さんは言う。緋色さんは俺を一瞥した後、顔を背けて口を押さえていた。
「良い言葉を教えてやろう」
場に全くそぐわない口調で橡さんは言った。絶対に良い言葉ではないだろうなと確信できた。
「価値のある正義というのはね、簡単には失せないのだよ」
「…………」
苦笑するしかなかった。
■ エピローグ ■
「いくらなんでも三千円はかわいそうだと思わないわけ?」
俺の左の席でサラダを食いながら刈安は嘆いた。
「別にぃ、なぁ圭次」
俺の右の席から夏子は同意を求めた。俺たち三人は喫茶店で一つのテーブルを囲んでいる。ここはいつか夏子が大砲パフェという生クリームとフルーツで作られた尖塔を店員に投げつけるという愚行を起こした喫茶店なので、正直入るのに相当勇気と覚悟が必要だった。運悪く当時の店員もいたが、にこやかな笑顔で接客をしてくれた。店員教育がよく行き届いているようで、こちらとしては大変助かる。まぁそういうことで俺たち三人はテーブルを囲んでいるわけだけど、別に鼎談ってわけじゃない。仲良く昼飯を食って、馬鹿話をしているわけだ。
「ポーカーで負けたほうが昼飯代出すって言ったのは刈安だろ?」
「そーだそーだ」
俺はたらこスパゲッティを咀嚼しながらテーブルをざっと眺める。ホットコーヒーと杏仁豆腐とグラタンとサンドイッチと大砲パフェとオレンジジュースと、そして俺がただいま口に運んでいるたらこスパゲッティ。俺と夏子だけでこれだけ注文している。刈安の前にはサラダとドレッシングのボトル。また机をダンと叩いて立ち上がらないか不安でしょうがないが、もう刈安はそんなことはしないだろう。
「うー……」
そう唸るだけ。俺はお前の所為で散々振り回されたんだ。たかだか数千円でチャラにしてやるんだから安いもんだろうがこのシスコン。
「うんめー」
夏子は大砲パフェにがっついていた。既にサンドイッチを平らげておいてこの余裕である。一辺医者に腹を診てもらったほうがいいんじゃないか。まぁまたそのパフェを店員に投げつけさえしなければ、夏子の腹のことなんてどうでもいいんだけど。それにさっき店員にできるだけ残さずお食べくださいの常套句を言われても、何でもない顔で「了解でーす」と言っていたこと考えると、その心配は無いと言えよう。尤も夏子の"叛意"は数週間前から片鱗を全く見せなくなったんだけど。かと言って本当に"叛意"が消失しているかどうかなんて今更確認のしようがない。
俺は死ぬのを止めた。
あの計画が破綻して全てが朽葉にバレてしまった以上、俺が死ぬ理由は俺にしか関係ないことだけになるわけだし、それにもう俺の正義の復旧は不可能だからだ。致し方なく空五倍子醍醐郎と梔子涼を殺して、俺は殺人を許さない人間のまま死ねたら最高の最期だったんだけど、こうして生き永らえておいてその正義を掲げるのは白々しいにも程がある。けどそれは俺の性分なわけだし、変えろという方が無理があるのだ。だから俺はこれからも白々しく安い正義を撒き散らしていこうと思う。心の底ではあのポニーテールのように、酷薄なリアルを眠らせているけど、決して表には出さない。
あのポニーテールと赤髪ロングと、それとあの無個性なおじさんは、この街を去った。そりゃそうだろう。この街には殺人を絶対に許さない果敢な少年が、今日も街を徘徊しているのだから。あの時は奇跡に驚いて本質を見失ってたけれど、よくよく考えてみると俺は嵌められたんじゃないかと邪推してしまう。もし緋色さんが、朽葉がミズモリとして人を殺したときの能力の回復時間を正確に教えてくれていれば、俺は何か他の策を練って朽葉に殺されていたんだ。もし緋色さんが真の解答を知っていて、それでいて俺に嘘を吐いたのだとすれば、それは奇跡なんかじゃない。だけどそれは完全に後の祭りだし、それに仮に他の策に出ていたとしても、俺は生きていたような気がしてならない。何千通り何万通りの可能性を把握しておいたところで、無意味な気がしてならない。あの男の言に則って言うとすれば、俺の正義も捨てたもんじゃないのかもしれない。
もしまたいつかバッタリと街で会うようなことがあれば、俺はすかさず被害者を守り、奴らを咎めるだろう。あのときのように。心の底にどんな邪悪を飼っていても、それが俺の正義だから。例えその邪悪が時に片鱗を見せても、俺はきっと本心じゃないんだと嘯くだろう。白々しく。誰が何と言おうと、俺が何をしようと、俺は俺の正義を掲げていく。あんな過去があったけど、せめて口の上くらいは俺を善人ぶらせてくれてもバチは当たらないだろ。だから俺は今日も友人たちに言ってやるんだ。
「もう二度とあんなことすんじゃねーぞ」って。
-
2008/04/23(Wed)00:25:46 公開 /
不伝
■この作品の著作権は
不伝さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
処女作です。
新参者ですが、宜しくお願いします。
08/03/29 完成
08/04/23 加筆修正・誤字の修正