- 『キミがキミであるために 最終章〜エピローグ 修正』 作者:チェリー / ミステリ アクション
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全角138304文字
容量276608 bytes
原稿用紙約408.9枚
榊冬慈は平凡な高校生。平凡な人生で、平凡な生活で、平凡な人間として過ごしていた彼だがある日、大切な人緒方時子を交通事故で失ってしまう。すると翌日から不可解な出来事が起こり、平凡だった全てが平凡ではなくなっていく。世界をどう受け止めていくのか、彼は問われていく。
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今年はいい年だ。
断定なんて出来ないだろうけど、最低でもいい年だろう。
榊冬慈、十七歳。星の数ほどいる平凡な人間のひとりで、抜きんでることなく平凡な生活をしている。家族は働きマンの母・小枝子と妹・凛子との三人暮らし。母は県外やら海外やら慌しく行き来するため実際は俺と妹との二人暮しと言ったほうが正しい。自分で言うのも何だが家庭は中の上かな。そこそこ裕福かもしれない。まあ平凡な枠の中に納まっているがね。平凡とはいえ少し違うことは父が小さい頃に亡くなったってくらいだがこれも全人口の中には同じ環境の人間はごろごろといるだろう。
今年は去年よりも幸せに過ごせそうだな。断定なんて出来ないだろうけど、幸せに過ごせる自信はある。なぜかというと高校に無事入学でき、一ヶ月が過ぎた現在、友人関係も良好、勉学も支障なく遅れをとらずに学べている。
何よりも嬉しいことはひとつ。
「毎日が楽しくありますようにってわがままを祈ってたら罰当たりかな?」
小さな顔、うっすらと赤らめた頬、二重の瞼、その整った顔立ちは美しくも寂しげさを訴えてくる。
彼女の名前は緒方時子。この人生が俺の物語とすれば、彼女は物語のヒロインというところ。俺のつまらない物語を盛り上げてくれる大切な人だ。上目遣いの彼女の視線に不覚にも俺は心臓の鼓動が脈動し、目が合うや反射的に目を逸らしてしまった。
寂しげさを訴えてきたのは緒方時子という女性は俺が知る限りでは人一倍の心配性で、神様やら幽霊やら何かと信じているから、本当に罰が当たるのかもとか心配しているのではないだろうか。
「罰当たりなんかじゃないさ、罰当たりだとしても、俺が一緒に罰当たりになって神様に訴えを起こしてやる」
「あはっ、頼りになるね冬慈くんは」
ポニーテールの黒髪を撫でて照れを誤魔化す時子。照れたり誉められたりすると必ず髪を撫でる。
小・中学と一緒に過ごして見つけた彼女の癖のひとつだ。おかげで彼女の心中を手に取るように察することが出来る。
「あ、二人とも罰当たりになったら死んだとき一緒に地獄行き?」
ああ、天国も地獄さえも時子の世界じゃ、当たり前に存在しているのだろうな。俺は時子の中身なんて見るとかそんな芸当は出来ないが見なくても時子は今会話している通り、中身を見ずともわかることはロマンティックとファンタジックが溢れるかわいい奴なんだというのは確定されている。
現実を常に見ている俺とは違って、時子から見える世界はきっと楽しいものなんだろうね。どこか目を凝らせば幽霊が漂ってるかもしれない、悪いことをすれば神様に怒られるかもしれない、俺の世界とは大違いだ。
「そうだな。でも一緒なら怖くは無いよな?」
「うん!」
太陽のように輝く笑顔。
そんなに嬉しかったのかな?
今日もこうして過ごしていくその日。たとえ時が過ぎようとも二人の間は何も変わらないだろうと思ったその日。交差点で信号待ちをする間、時子は軽やかな歩調で隣から正面へと移動する。再び合間見る上目遣いをし、小さな唇が開く。
「ねえ、冬慈くんは私のことどう思う?」
この時、何かが変わるのかもと思ったその日。
「どう、……って」
付き合いが長いにも関わらず俺達は彼氏と彼女っていう関係にはなっていない。多分、了承は得ていないけど何時の間にか俺達はそんな関係になっていたのではないだろうか。でも付き合おう、なんて言ったことはなく、言われたことも無く。
自分たちの性格上から発言するに至って強大な恥ずかしさともしも、とかいう場合の不安があるからか、時子の場合はもしも、という場合の不安が大きいだろう絶対に。付き合おうの一言が一瞬にしてふたりの関係を崩してしまうのではないか、この不安は強大である。
しかし一段階上がってもいいのではないだろうか。そうだろう? 六年間もの間俺は胸の中に秘めつつ言い出せずの一言をそろそろ開放しても良いんじゃないかな。きっと時子も同じ事を考えているはずだ。
心臓の鼓動が先ほどよりも激しく脈動する。今この瞬間を帰路と察し、逸らしかけた視線を彼女の瞳一線に固定し、はっきりと言おうとした。決め言葉は「好きだよ、付き合おう」だ。
「す……」
今まで胸に留めておいた一言。いつか必ず言おうとした一言。その時、交差点で何かが起きた。
耳に叩きつけるような不快音。何かが勢いよくぶつかる衝撃、風が震えて肌に、走る振動は足から伝わってくる。
交差点へと視線を移すと車両が何台も複雑に接触していた。接触してなお走る、というよりも滑走している車両。
危険を察知し冬慈は時子への返事よりも手を差し伸べてこの場から離れようとしたとき、目の前でそれは起きた。事故を起こした一台の車両が、彼女をまるで子供が無邪気に振り回す人形のように跳ね飛ばした。確かに何かが変わってしまったその日。
たった一言だ。たった一言……。
その一言は伝わることなく空に溶け、時は彼女を置き去りにして過ぎていった。
第一章 時は最悪、世界は最低
心の中にぽっかりと空いた喪失感、俺の世界にあった大切な一欠けらはもう繋ぎ合うことはない。
目が覚めると同時に涙が溢れ、昨日のことが輪廻の如く頭の中を巡っている。気がつけば一睡もしていない。枕は涙で濡れて、瞳からは拭っても拭っても溢れる涙の雫ばかり。嫌でも頭の中を巡る記憶が涙の雫の勢いを緩めることをさせなかった。心臓停止を知らせる機械音、涙を流し悲痛を訴える父母の泣き声、これが夢であって欲しいと現実から逃れようとしても、もう逃れられない。大切なものが無くなった世界とずっと付き合っていかなければならない。胸が、苦しい。瞼の火照りが止まない。
「にー。そろそろ起きないと学校だけど」
扉越しに聞こえる凛子の声。放っておいて欲しいよ。聞こえない振りをしみてる。凛子は一度起こしにくればあとは何もしてこない。二人の間での約束事だ。一度だけ起こしにくるからそれでも起きなかったら自分の責任ね、と凛子の提案に渋々了承したのだから。だからこれを利用してあえて返事をしなければあとは放置状態。今の俺には助かる。
今日はどうしようか……。
学校へ行くのは社会的に義務という言葉に値する。当然のこと、それを踏み外せば教師という存在によって俺は散々これからの世の中について説教を受けることになる、が……行ってどうする? 時子はもういない。
隣の席に座っていた時子。授業中彼女のそばにいられるだけで幸せだった高校生活。葛藤すること数十分、悩んだ挙句結局足取りは自然と学校へ向かっていた。葬式はいつやるのだろう、きっと担任から報告がなされるため確認はしておきたい。確認したら、そそくさと帰ろうと思う。今日は真面目に一生徒として授業を受ける気にはなれない。明日は? と聞かれるとそれもどうかな。明日も、明後日も、明々後日も、いつまでも授業なんて受ける気は起きないかも知れないね。
空は快晴、風も涼しい。気持ちの良い朝だと何時もなら空に笑顔を向けて深呼吸でもするのが常だったが今日からはそんな気分には決してなれないだろう。毎朝待ち合わせして、何時も健気に待ってくれている時子に会うのが楽しみで駆け足で待ち合わせ場所へ向かう日々は二度と来ない。クラスにも馴染み始めたのに、時子がいないのならば楽しいなんて気持ちは沸くはずもない。これからの高校生活で、喪失感を抱きながら過ごすとなると苦痛の日々になるだろう。
今にも喪失感で押しつぶされそうで、足取りが歩くたびに錘を乗せられるかのように重くなっていく。父が亡くなってからの二度目の喪失感、物心がついている今の喪失感のほうが大きい。誰かが言っていた。生とは死の始まりである、と。そして生があるうちは必ず死を見る、と。仕方が無いことで、自然の成り行きってやつで、誰にも止める事はできなくて……。小さい頃は思ってた、「父さんは帰ってくるの?」と母さんに問いかけた、今思うと幼稚さゆえに残酷な質問。母さんは「いつかきっと帰ってくるからね、それまで良い子にしてるのよ」涙ぐんで言っていたのを鮮明に憶えている。俺は真に受けて小学校時代は真面目にしてたっけな。
仕方が無い。ああ、仕方が無かった。確かに仕方が無いかもしれない。どうしようもなかったかもしれない。でも、一言で全てが片付くこの世界が俺は大嫌いだ。
「……いない、よな」
予想通りと言えば予想通り。待ち合わせ場所の公園の前には誰も居ない。それはすでに当然のことになってしまい、これからもずっと誰かが待ってくれることなどない。俺が遅れるたびにしるしとして置かれていた小石がそのまま残っていた。入学以来待ち合わせに遅れた回数は十回くらいか。公園前のバス停に設置されているベンチの下。小石は綺麗に並べられている。
涙腺を刺激する光景だった。それを見るだけで涙するなど周りから見れば理解に欠ける行為かもしれない。俺はそのまま素通りして足取りを学校へ向けた。
「やあ、今日も無愛想だね冬慈」
教室に入るや長い黒髪をさらりと揺らせて女性にしては堅苦しい口調でいきなり失礼な言葉をぶつけて話し掛けてきたのは、中学以来の付き合いである米崎と、
「というよりもだるそうな冬慈だ」
最近仲が良くなった南雲。だるそうなのはお前も同じだろうに。あくびをして、さらに目を擦っての発言じゃないだろう。俺は励まされたり同情されるのはあまり好きではないので昨日のことは言わない。どうせホームルームで担任が昨日のことを説明するだろうから今は意味の無い足掻きかもしれない、が時間稼ぎぐらいはしたいな。
少しの間だけでも一人になりたいからね。こんな中、助かったことがひとつ。俺の表情は常に無表情であったのが不幸中の幸いというところか誰も俺が悲しんでいる様子など気づかないようだ。というよりも何時も悲しそうな、落ち込んだ表情に見えているんじゃないのだろうか。特技はポーカーフェイスと自負していたが心配だな。このクラスで俺の笑顔を見た奴はいないだろうし、俺の印象は暗い、影が薄い、無愛想、そんなところだろう。気にはしないけどね。
今日は時子と一緒に来ていないことに疑問を持たれなかったため俺は何も言わず席に座り、隣の席に視線を向ける。隣の席は空席のまま。わかってたことだけど、これからもずっと空席だ。毎朝同時に席について時子が面白おかしい話をしてくれることはない。最近時子が話していた話題といえば、幽霊の私生活はどうなってるのか、だったが迷走していたのが面白かった。もう、聞けないのかな。
「冬慈、大丈夫かい?」
机の角を一点に見つめていた俺の目の前に米崎の顔が大画面で現れる。眉間にしわを寄せて心配そうにしている。
「米崎は今日やけに静かな愛しい冬慈が心配らしいぞ」
「な、何をいってるんだ! 僕は今日の冬慈は元気がないな、って思っただけで……」
相変わらず米崎の僕という一人称は彼女の容姿と一致しない。口調をもう少し女らしくすればモテるだろうに。それにしても無表情の俺の内心を感づくなんて、もしかすれば周りから見ると今日の俺は元気が無く見えるのだろうか、それともただ単に米崎が鋭いだけなのか。
「冬慈ならいつもと変わらないじゃん、だるそうっていう意外何にもない気がするけどね。それともお前、冬慈の事――」
「……南雲」
米崎は一言言うと笑顔を南雲に振りまく。それが警告を意味していることを察したのか、南雲は表情を引きつらせて肩身を狭くした。毎度毎度、こいつらは夫婦漫才みたいだな。
ホームルーム始まりのチャイムと共に二人は蜘蛛の子散らすように駆けて席に戻る。担任の女教師夏木が扉を開け、教卓に立ち、いよいよ知らされるのかと思ったが、夏木教師はこう言うだけだった。
「さて、今日も欠席者無し、だ。出席したからには授業はきちんと受けるように」
欠席者無し? どこに目をつけているのか、どう見ても隣の席は空席だ。俺は夏木教師が意図的に報告はまだせんと隠しているのか、空席の見逃しなのか、それとも……。一瞬、馬鹿げた事を考えた自分を恥じた。
それとも、の続き。昨日のことは全て夢で、時子は今日何事も無く、遅刻しましたとか言って教室に入ってきてくれるのではないか。
所詮この世は神もいなければ何も無いつまらない現実。期待しても何も起こらない、変わらない、変えられない。これからに向き合うため、あえて言おう。
「先生、隣の席の時子。いないですよ」
「……隣の席か? あー、……榊。お前まだ寝惚けているようだな。その席は誰もいないぞ? 時子ってこのクラスの生徒でもないし、誰かと勘違いでもしたかい?」
手に持ったボールペンで寝癖を整えようとしてるところから寝惚けているのは先生のほうなんじゃないかな。
「だから、緒方時子ですよ」
「緒方、緒方……。いや、名簿にはいないし私もクラスの生徒くらい全員憶えているからなあ。ほれ見てみ」
夏木教師は俺へ歩み寄り、クラスの名簿帳を俺の目の前で広げて見せた。秋山、一戸、上田、……加藤。あるはずの場所に、名前はなかった。
「おいおい、どうしたんだい?」
空席の向かいに座る米崎は振り返って苦笑いで見つめてくる。俺は何か変なことを言っているか? そんなことは絶対に無いはずだ。
「ぼくの後ろの席は以前から空席だったじゃないか。緒方時子なんていないよ?」
「な……」
言葉を失った。どういうことなのか。緒方時子はいない? 以前から空席?
「わかった? 寝惚けてるんなら顔でも洗って来なさい。許可するわ」
言われるがままに俺は席を立ち、廊下に出る。
……唖然、というよりも驚愕、というよりも、混乱、いや全部が混じってると言ったほうが正しいか。名簿表にも載っていなかった彼女の名前。米崎の言葉は以前からいなかったとされている緒方時子という存在。クラスの生徒達も俺への視線は疑問に満ちていた。元から存在していなかった?それならば俺の記憶はどうなる? あいつと過ごした五年以上もの記憶。時子の笑み、泣き顔、怒った顔、正確に鮮明に焼き付いている。携帯電話には画像も保存されている。俺は携帯電話を開いて画像を見た。
「馬鹿な……」
自分から絶望という穴に飛び込む行為をした。画像は確かに残されていた。でも、違和感さえ残るように彼女が映し出されていた部分は切り取られたように何も無くなっていた。背景に雪景色だけを残した画像、二人で一緒に撮った画像は俺が一人で写されている。これでは寂しい野郎の写真もいいところ。残されたたったひとつの思い出なのに、彼女の姿はどこにも残されていなかった。
顔を洗う必要は無い。俺は教室に戻り、自分の席につく。
「目は覚めたか?」
夏木教師は半ば心配そうに見つめてくる。今まで孤独なんて感じなかった教室が、孤独感で満たされているのはなぜだろう。
「大丈夫、です……」
言葉は嘘。大丈夫なんかじゃない。表向きの笑顔が欲しかったが俺は笑えない。口元をわずかに歪ませるくらいしかできないが今は逆にそんな作り笑いが周りに変に思われそうだったからあえて作り笑いはしないでおく。平然と授業をする生徒達。なぜ一人欠けたことに気がつかないのだろう。彼女の存在はそんな小さいものじゃなかったはずだ。
仲が良かった米崎。時子が怖い話が苦手なのを知っていてよく怖がらせようと話をしてからかっていた南雲。それが今日になって誰一人と彼女の存在に気づかない。
昨日時子は死んだ。確かに時子はもうこの世には存在しない。でも、存在していたという事実、記憶、思い出を俺達は覚えているはずだ。今日からは時子がいない生活を過ごすしかない、過ごすしかないからこそ今にも溢れそうな涙を我慢して俺は登校し、少しでも悲しみを紛らわすためにこいつらと会話をして、むしろどこか悲しみを癒して欲しいからこいつらを求めていたのかもしれない。それなのに、緒方時子という存在自体が消えて、俺はさらなる孤独を押し付けられることになるなんて……。でもひとつだけ確かなことはある。
緒方時子は存在していたんだ、昨日までは。
「なあなあ、冬慈。朝のアレ、なんだったんだ?」
放課後、南雲が疑問系が収束したような表情で俺に話しかけてくる。朝のアレ、といえば昼休みにはちょっとした話題になってしまった榊冬慈の寝惚けた発言。いるはずもない緒方時子がいた、と話していたなんてクラスでは笑い話にも発展していた。とはいえただの寝惚けた発言として笑い話になっただけで俺は苛立ちを覚えることさえなかったが。
「なんでもない。もういいだろ?」
瞼が熱くなる。時子との思い出が脳裏を駆け巡ってしまう。絶望とはこういうことを言うんだろうな。大切な人が死んで、さらに周りには記憶からも消されているとなると行き場を失ったこの胸の中に纏う想いは切なく燃え上がっている。
「しかし冬慈が寝惚けるなんて驚いたよ。常にポーカーフェイスを保っている君も抜けた部分があるんだね」
ポーカーフェイスは保ちたくて保ってるんじゃないが言われても仕方が無いか。
「緒方時子ねえ……どっかで聞いたことはある感じはするんだけどなあ……」
「僕もそんな気分だ。だけどまったくわからないし、しかしどこにでもありそうな名前だからただの思い違いかな」
二人は頭を抱えて思い出そうと眉間に懸命にしわを寄せていた。
「思い違い……? いや、時子はいたんだよ!」
二人は完全に忘れたわけじゃなかったようだ。
俺は奮起して二人に問い詰めた。
「んー、まあどっかにはいる名前だろうしな」
「……いや、すまない。わからないな」
帰結へと辿りつくことはなく、俺は愕然を何度も味わう。二人は時子をすぐ忘れてしまうくらいな最低な人間では絶対にない。それなのに思い出せないとなると何かが起こっているとしか考えられない。誰かが時子の存在を消し去った。そうとしか思えない。四人で入学式以来、意気投合して笑い合ってた日々。そりゃ付き合いは短いさ。それでもお互い色々なことを知り合い、学び、短い間にすでに堅い絆さえできてただろう。何かが起こっている。でも、何が起こっている? 周りがまるで緒方時子に対しての記憶喪失状態は俺には理解不能だ。
しかし今は考えるはよそう。考えてもどうなるってわけでもない。これから一つずつ一人で確かめるとしよう。確かめて、どうなるってわけでもないけどな。俺はただ単に緒方時子という存在が確かにあったという証が欲しいだけかもしれない。今日は時子の家に寄ってみよう。今は、何も考えずに会話に専念するとするか。
「そういえばね、僕が聞いた話じゃ明日転校生が来るらしいよ」
沈みかけていた空気を盛り上げるため米崎は新しい話題に切り替えた。
「転校生? 男? 女?」
「女だ」
「おお、それは嬉しいね!」
南雲のことだ。男だったら残念はお知らせになっただろう。
「君は本当に素直な人間だね。男だったら嬉しくないくせに、女だったら嬉しいときた」
「ふん、男が転校してきても俺に何の利点はない」
断言までしやがった。胸を張って、鼻を鳴らしてどうしてそんな自信を持ってそんな言葉を堂々といえるんだろうな。南雲は一度全人口の男子に謝罪をしたほうがいいだろう。
「なら席は冬慈の隣か。羨ましいなあ」
「俺の隣……」
正直な話、転校生なんて来て欲しくない。たとえ有名人が転校してきたとしても俺の隣に座るというのならば却下だ。
「嬉しいのかい?」
米崎の問い、
「全然まったく微塵も」
即座にきっぱりと答えた。
「まあ君は南雲と違って浮つかないか」
米崎は冷たい目線で南雲を見る。まあ先ほどの発言を聞けば誰でもそう見たくなるだろうね。
「な! 俺を何だと思ってるんだよー!」
「女たらし」
米崎は俺と同じように即座にきっぱりと答える。米崎には俺も同意できる部分はあるな。
「そ、そんなんじゃない!」
図星な部分もあるんじゃないか? 表情が強張ってるぞ。
「ならなんだと言うんだい?」
いいぞ米崎。どんどん追い詰めてやれ。
「あー……。あれだ、一人でも多くの女性を愛する紳士――」
「では転校生が巨漢だとしても?」
「うっ……」
痛いところをつかれたようだ。南雲は要するに愛する紳士と豪語するが面食いもいいところ。こいつ自身顔はなかなかいいのでこんな性格じゃなかったらモテているだろうが。入学当初は女子生徒に話しかけられたりしていたのが見られたが性格を悟られるや離れていく女子達も暫し。女性を愛するといっても一人の女性を愛せないために浮気性な南雲に愕然とした生徒もいたな。南雲と米崎が付き合えばうまくやっていけそうな気がするがそれは言うまい。
「じゃ、俺はここで」
「ん? そっちは帰り道が違うし、遠回りでは?」
「いや、寄るところがあるからまたな」
さしかかった十字路。俺は帰り道を変更した。二人と一緒に帰りたかったのはやまやまだが確かめなければならないことがある。いつもならふたりの対応は違った。俺と時子との帰り道。それすらももう二人の記憶からは消えているようだ。俺が足を進めたのはもちろん時子の家。住宅街に入り、しばらく歩くこと数分。
緒方という札がかかった一軒家。ブザーを押す手が震えてる。でも、押さなければならない。ボタンを押し、対応を待つ。
『はい、どちら様でしょうか?』
ボタンの上部分にあるスピーカーから聞こえる女性の声。
何度も聞いたことがある時子の母親の声だ。
「すみません、榊です。こちらに……時子はいますか?」
心臓の脈動が、早まる。
唾を飲んで、返事を待つ。
『ええ……と、榊……さん? あの、こちらに時子という人はおりませんけど、どこかとお間違いではないでしょうか?』
「そんなはずは……緒方時子、って覚えていませんか? ここに住んでいたあなたの娘、緒方時子ですよ!」
『時子……。いえ、存じません。やはりお間違いになられているのではないでしょうか?』
「俺もわかりませんか! 榊冬慈ですよ!」
『……申し訳ありませんが存じ上げません』
時間の無駄だったようだ。俺の足取りは当ても無く何処へ向かわれていく。緒方時子なんて最初からいなかった……なんて絶対にそんなことはない。俺の記憶、ふたりの思い出、ベンチの下にある遅刻した印、時子という存在を確定させるには十分だ。
君が居ない世界が、静かに過ぎていく。
君が居た世界は、静かに消えていく。
もう何がなんだか……わからない。
「今日からこのクラスの一員になる転校生を紹介しよう」
迎えて欲しくない翌日が来てしまった。
座って欲しくない隣の席が今日埋まる。
「そいじゃ、入ってきてくれー」
クラスの生徒の視線が扉に向けられる。俺は別に興味もない。見る必要は無いね。
小さな歩調の足音。男子生徒がおぉ、とか声を揚げている。さぞ美人なのだろう。
「事故紹介どうぞー」
「……はじめまして。緒方時子だ。よろしく」
はは、米崎よりも口調は堅苦しい。
……って、名前はなんだって?
「ははぁ、なるほど。君はもう転校生が来ること知ってて昨日は呆けたんだね」
米崎の言葉がよくわからん。
「榊ー。お前が昨日言いたかったことはこれだったんだなー? 友達かー?」夏木教師の言葉もよくわからん。その前に名前をもう一度確認させてくれ。机に向いていた俺の視線はようやく向けられた。
「と、時子……!?」
夏木教師の隣に立っていた一人の女性。小さな顔、うっすらと赤らめた頬、二重の瞼、ポニーテールの黒髪……。思わず腰が上がった。こちらを見つめてくる視線。見間違えるはずはない。彼女だ。時子だ。あの時と変わらない姿、同じ制服、そして同じ名前。しかし周りは時子をまるで初対面のように見ている。彼女は自己紹介も不完全のまま(俺には自己紹介なんて必要は無いが)俺の隣の席に座った。
「時……子?」
姿形はどこから見ても時子だ。心の底から込み上げる感情。涙が出そうだった。時子は生きていた。そうだ、あんなことが現実なわけない。時子は死んでなかったんだ。
「冬慈、よろしく」
でも……何か違う。雰囲気も、口調も、俺が知っている時子とは全然違う。まず時子は俺を君付けで呼ぶし、彼女はいつも笑顔を見せてくれる。この時子は俺と同じくらい無愛想な表情で、視線は冷たく感じた。
「時子……だよな……?」
「ああ、緒方時子だ」
時子だけど、時子じゃない。そんな感じがする。
「あの、僕は米崎香奈。よろしくね」
「ああ、よろしく」
米崎は気づいていない。クラスも。冷静になれ、冬慈。現実を受け止めるために登校したんだろう?時子が転校してくるはずが無い。このクラスにずっといたんだから。
「無駄なことは言わないほうがいい。お前の頭を疑われるからね」
小声で俺に言う時子。俺は確信する。こいつは時子ではない。そして何にしても今考えることはこいつは時子なのか、ということではなく何者なのか、というのが重要だ。なぜ時子を装っているのか、何が目的か。こいつがみんなの記憶から時子という存在を消したのだろうか。放課後になるまでには時子はクラスに馴染んでいた。彼女の口調とは裏腹に表情は明るい。時子のような笑顔とまではいかないが。それにしても気になることはまだまだある。
時子の母でさえ存在を忘れていたのに彼女は一体どこで生活しているのか、俺が気になるのは帰り道、どこへ帰っていくのかということだ。どこに帰るのかで彼女の正体が掴めるかもしれない。尾行でもしようか、それとも一緒に帰ろう、とか誘ってみるか。いや後者は無理だろうな。
「おい貴様。帰り道付き合え」
「え……?」
「二度は言わん」
願ったり叶ったり。こいつから誘ってきやがった。
「米崎と南雲も誘っていいか?」
「いや、二人きりがいい」
どうやら話すなら二人でのほうが都合が良いらしいな。
「わかった」
米崎と南雲には急用がある、とだけ言って俺はこいつに校門で待ってるように伝えて支度をした。いきなり転校生と二人で帰るとなると誤解を受けかねない。それにクラスでは俺とこいつは知り合いって印象に持たれている。そりゃ時子とは知り合いだけど、周りは時子の記憶なんて残っていない。あるのは今日転校してきた、ってことだけ。校門へ行き、俺は周りを警戒しながら時子と合流する。
「遅かったな。女性を待たせるなんて愚の骨頂だ」
無表情のまま感情が乗っていない口調。
「すまん」
紡がれる会話は以降無く、黙々と俺は歩き出す時子についていく。向かわれるのは街の方向。何が目的なのか、不安が膨らむ。たとえば、だ。こいつが地球外生命体で、人間に違和感無く紛れるためにみんなの記憶から自分が移り変わる存在の部分だけ消して紛れ、しかし記憶が残っている人間がいたら抹消しよう、とか。
……馬鹿か俺は。
でもこいつが時子であって時子じゃないのは確かだ。
「聞いて良いか?」
俺よりも少し前を歩いていた時子は立ち止まり、振り返る。
「内容にもよるが」
「お前は、誰だ?」
緒方時子、という返事は来ないだろう。絶対に。
「不躾な質問だな」
不躾で結構。
「質問はそれだけじゃないだろう? まずはゆっくり話でも出来る場所が欲しいんだが」
「わかった。ならどこか入ろう」
俺は近くの喫茶店に視線を移した。彼女はそれを理解して頷き、俺達は喫茶店で会話を再開する。
「さっきの質問だけど……」
ゆっくりとコーヒーを飲む時子。やはりどこからどう見ても時子じゃない。時子はコーヒーなんて飲まないからね。
「私が誰か、ということか。まあ言うならば私は何者でもないが、人間は私を『神』と呼ぶ」
「か、神……? そんな馬鹿な……。だって見た目は――」
「緒方時子?」
先に言葉を拾われ、俺は口篭もる。
「確かに緒方時子だろう。しかしそれはこの器の名称だ。例えば私が今、口にしているコーヒーとかいうもの。これはコップという器の中に存在するコーヒーだ」
つまり器の中は別物、と言いたいのか。では器の中身が『神』というわけか。だけど話が行き過ぎている。現実じゃ考えられない。神なんて自分達人間が作り出した幻想だ。俺の常識の中はそう言っている。
「考えられない、ありえない、非現実的だ、そんな言葉でまだ見ぬ世界を否定してもらっては困る」
「でも……いきなり言われたって……」
「信じられない?」
また先に言葉を拾われる。
「では緒方時子はどうなった? お前が見たものは夢だったか?」
「……」
あの日のことははっきりと覚えている。わかっている。時子は今こうして目の前にいても、あいつは死んだということを。
「なら、あんたは時子の体を使って何をしたいんだ? それに、どうして事故を起こしたのに体は無傷なんだ?」
「うむ。まずはこの体のことだが、神々の力を持つ者がこの地区に在住しており、治癒の力を持つ者に体を修復させてもらった。ちなみに私の力は記憶に関する力だ。これはお前がすでに感じているだろう」
周りが緒方時子という記憶を失っていたこと。それがこいつの力か。しかし神々、って神は何人もいるんだな。いや、貧乏神とか色々神にも種類はあるんだし当然といえば当然のことか。
「なんで記憶を操作する必要があったんだ?」
時子の姿をしているのならば支障はあまりないはずだが。
「それは存在を食らう者が原因だ。私と似た力を持つ者でな。存在していた、という形を喰らい、生き長らえる奴がいる。おそらく緒方時子の死亡後に存在が食われたのだろう。そのため周りは緒方時子という存在を認識できないでいた。私はなんとか修復しようとしたが記憶修復できたのはお前くらいだ」
だから俺以外忘れていたのか。とはいえこんなことが現実にあることが信じられない、が今は信じて話を理解することがこれからの岐路にかかっているのではないか。聞くだけでは駄目だ、自分から解決へ導かなければ。
「なら、皆が時子を忘れたのは君の力じゃないんだな?」
「そうだ。私は記憶を忘れさせても存在を忘れさせることは出来ない。存在は現実にも影響するため緒方時子に関する情報は全て消される。私には出来ない芸当だ」
名簿に書かれてなかった時子の名前。あれはそういうことか。
「そして私が器に入ってまで人間の世界へ来たのは近々ここで何かが起きるということが危惧されているからだ。ちょうど空になった器があったため失礼ではあるが借りさせてもらう事にした」
「大迷惑だ」
鼻でふん、と笑い、
「結構。私には義務があるので優先度は譲れん」
何様のつもりなのか、いや神様ではあるが今はそんな冗談は置いといて、彼女にとって人間とは所詮そんなものなのだろう。
「でも何かが起きるって……何が?」
「それがわかったら苦労はしないぞ馬鹿野郎」
馬鹿野郎とか言われた。
「私以外で神海(カミウミ)から神々がこの地区へ来ているようでな」
「神海?」
始めて聞く単語。神々についての物語などよく漫画や小説などで目を通したことはあるが神海という単語は出てこなかった。まぁ想像で作った物語だ、ノンフィクションなど求めるものではないのだろう。著者にとってそれがフィクション、読者にとってノンフィクション。そのバランスが魅力を呼ぶのではないだろうか。
「ああ、まずは神海の説明からしようか。神海は我々の世界であり、神は海のように広大ということから我々世界は神海と呼ばれている。人間はこの神海をシンカイと呼んでそこから神の世界、神界と付けたようだがな」
俺にとってはやはり神海というよりも神界のほうが定着はある。でもやはりこんな小さい常識さえ彼女達神々にはまったく通じないようだな
「お前達の世界で幽閉されている犯罪者が一斉に脱獄した、という感じだな」
溜息をついて彼女はコーヒーを口に含む。彼女の無表情から出てくるどこかしらの余裕が今は本当に危険なのか実感がいまいち掴めない。
「とはいえ神々が相手ではない。幽閉された神々はすでに実態を失っている。力のみが幽閉されていたため実際に相手をするのは神々の力を持った人間というところだ。私と違って神々の記憶は受け継がれていないため相手は付け焼刃も同然だ」
「でも、それが俺に何の関係がある? 俺は時子を失って、今こうして目の前にいても中身は違う。周りは誰も時子の事を思い出せない。こんなことをされて怒りを感じるが、俺が一番怒りを感じているのは君にだよ!」
彼女の眉間にしわが刻まれる。
「時子の体を勝手に借りて、俺の前に現れる! 時子に対しても、俺に対しても侮辱に値するぞ!」
店内にいる客がこちらを見ているのはひしひしと感じるが、知ったことではない。今こいつに怒りをぶつけないでいつぶつける?
「失礼した」
「はっ! それだけかよ!」
「私とて嫌がらせするためにこの体を使っているわけではない。この体でなければならなかったのだよ」
コーヒーを口に運ぶことを止め、そっとテーブルにカップを置く。真剣な眼差し。なぜ時子でなくてはいけなかったのか。理由を言われたとしても俺は納得しない自信はある。
「この体は我々の所有物であり、創造物である。緒方時子は、十年前に死亡したために我々が創造してやったのだからな」
「死亡……って、そんな馬鹿なことがあるか! あいつは二日前まで生きてたじゃないか!」
「声が大きい。周りに聞かれるぞ」
わかってる。わかってるけど、自分を抑えることなんてできない。
「十年前、緒方時子は病によって倒れ、その時に肉体と魂は分離したのだ。事実上それは死を意味するが、魂は死を迎えなかったのだよ」
俺にはそんな非現実的な知識はないからもっとわかりやすく説明して欲しいな。
「迎えなかったというよりも否定したということのほうが正しいか。魂は死を拒絶し、神海へ行かずこの世界の大気中に残っていると自然消滅を迎えるはずが、そのままの状態で漂っていたのだ」
幽霊みたいな話だな。
「幽霊、か。そういったものに近いが、違うな。幽霊とは魂の残像だ。ほとんどが壊れた自我が一人歩きしているだけで魂とはまったく違う存在だ」
なるほどね。
「だから我々は緒方時子の魂に注目した。現実に留まり続ける生への執着。そこで契約を交わした」
「契約?」
「ああ、肉体はすでに死を迎えているが我々が新しい器を与える代わりに、二度目の死を迎えたら器は渡せ、とな」
となると、時子が死亡したとき、契約通りとなったわけか。文句は言えないが、納得は出来ない。
「そしてこの世界に漏洩した神々の力。我々は力を回収するにはこの世界では実態が無いため不可能だった。だから契約通りになった緒方時子の体を利用させてもらった」
「時子は、死んでどうなったんだ……?」
生まれ変わりとか、そういう経由になってしまったのか。もう本当にあの時子に会える日は来ないのか。この世界がどうなるかなんて俺には関係無い。ただ、俺は時子に会いたい。目の前にいる中身が違う時子じゃない、笑顔が似合う時子に……。
「わからん」
「わからん、って……。どういうことだよ?」
「緒方時子の存在が食われたために我々は彼女の魂の所在が掴めないのだよ。しかし魂が残っていたとしても神海で転生されるか、現実世界では残像が残っているか、それとも魂喰らいの力を持つ者に食われたか。どうあれお前が望んでいることはありえないだろう」
望んでいること。ああ、そうだろうな。時子の魂はまだあって、いつか元通りの時子になってくれるのではないかという願い。結局は現実を受け入れるしかないということか。当然のことだろうけど、受け入れようと思っていたけど、やっぱり俺は弱い。どこかで期待している自分がいる。
「では、ここからが本題だ」
「……」
気力が一気に抜けた。話すなら勝手に話してくれ。俺は三点リーダを醸し出すぐらいしかできないからな。
「……」
こいつも三点リーダをぶつけてくる。とりあえず一人にしてくれれば光栄だね。
「店長、ケーキ一つ」
暢気にデザートを注文か。女らしいところもあるんだな。
「おお、これはなかなか美味そうだ」
運ばれたモンブランのケーキ。見た目も味もここのケーキは絶品だ。ってケーキの評論して俺は何をやりたいんだ。
「んむっ!?」
俺の口の中にケーキが飛び込んでくる。
「どうだ、美味いか?」
お前も何がしたいんだ。
「では本題に入ろう。先ほど言ったが神々の力が漏洩している。私はそれを回収せねばならんが、寝泊まりする場所が無い。ということでお前の家に居座ることにさせてもらう」
「おい! 勝手に決めるな! 承諾してないだろう!」
「ならば問おう。お前は一人の女性が路上で寝ているところなど見たいか? それも緒方時子の姿をしているのだぞ?」
痛いところをついてくる。
「ああ、そうか。お前はそういう人間か」
半ばこれは脅迫だ。言ってることが強引で無茶苦茶すぎる。
「では私はそこらで眠ることにしよう。まあ気にしないでくれ。お金も無く私が衰弱してもどうせお前には関係無いのだろうからな。ちなみに神と謳われる私とて器に入っていれば死を味わい、魂も末路は神海だがね」
ケーキを頬張りながら言う台詞じゃないな。
「ああ、まだ五月か。夜は冷え込むな」
でしょうね。
「凍死は無くても風邪は引いてしまうな」
でしょうね。
「風邪を引いてもまだ路上で寝泊まりしていたら衰弱して死んでしまうな」
「……わかった。わかったからもう……」
「わかったとは?」
お前もわかってて聞いてるだろう。
「俺の家で寝泊まりすればいいだろう!」
「おお、さすがだな。では遠慮無くそうさせてもらおう」
遠慮はしてほしい。これからどうなるのか、それはわからないけど、最低でもひとつ、確定されている。今年は最悪な年だ。断定は出来ないけど、最悪な年には違いない。一人にさせてほしいという願いさえも通じない世界に、自分を神と言っているこいつ。俺が望んでいる神なんて本当に存在はしないのだろう。救いがあったとすれば、中身はどうあれ時子と会話できたことは正直嬉しかった。
……それだけだ。
第二章 仮面
母さんがいないことは好都合だ。
普通の家庭なら高校生が同居なんていう環境を許す母親はいないだろう。ましてや家に女性を連れてくることもまずいのではないだろうか。でも反抗してみたい部分はある。俺は母さんがそんな好きじゃないし、いつも家を空けて仕事中心なんて家族をどう思っているのか知れている。
母さんにとって仕事とは家族よりも優先。仕事と家族はどっちが大切なんだよ、と聞けば答えは決まっているから聞きたくは無いし、聞こうとも思わないね。どうせ家族を養うためだからとかいう適当な言い訳をするんだから。学校行事に来てくれたのは小学生三年生以来無いし俺が思うに母さんとの絆なんて冷め切ってる。凛子も考えは同じなんじゃないかな。母さんが作ってくれた味噌汁の味なんてとうに忘れたし、今じゃ凛子と共同で作っている味噌汁の味、まあ悪くは無い。凛子は料理が巧いからね。時に俺の嫌いなシチューを作り、それを得意料理としてしまったのは最悪だったが、目は瞑ろう。共同で家事をしているとはいえ俺のほうが働かない時間が多いし。
さて、玄関の前まで来てしまったがどうするべきか。凛子に内緒で今俺の隣に居る緒方時子(中身は違うが)を入れるか、いっそのこと凛子に打ち明けて堂々とした同居生活を送るか。候補は前者だな。凛子は母さんと連絡を取り合っているため母さんに同居の話はすぐに漏れるだろう。まあそれもいいんだけど。反抗期ってやつかなこれが。
「ここが貴様の家か」
珍しいものを見るような目で俺の家見る時子。そこらの家とは変わらないだろうが、こいつにとってはどんなものも珍しいのだろう。喫茶店でもメニューを見て運び込まれたものに一々訳のわからない関心をしていたのだからな。それほど神海とかいう世界とこの世界は違うのか。一度行ってみたいが、それは死んでからになりそうだ。
「ではでは」
言下に時子は玄関の扉を開ける。
「ちょっと――」
突然の行為に俺の制止も当然遅れ、全てが手遅れにされた。
「……にー。この人誰?」
扉の先にいたのは凛子。制服姿ではなく私服で、片手に財布を持っていることから夕食を買いに行こうとしていたのだろう。最悪のタイミングだ。
「私は緒方時子だ。今日からこの家に住まわせてもらうのでよろしくな」
よろしくな、じゃない。
「あー……」
凛子は言葉を失い、暫しの時が経過する。烏の泣き声が妙に切ない。
「凛子、これはだな。彼女が困ってるっていうから俺の家にしばらく居候させてやることにしたんだ。だから、誤解はするな。母さんにも報告はしなくていい」
凛子の表情が冷め切っている。かなりの誤解を受けたようだ。今の言葉も墓穴を掘ったかもしれない。報告はしなくていい、なんて落ち着いてから話せば良かった。
「む? 私は何か変なことを言ったか?」
とりあえず黙っててくれ。話はそれからだ。
凛子は俺と時子の顔を交互に見ては、『そんな馬鹿な、月と鼈だよ。この二人が付き合ってるはずない』
みたいな表情をして苦笑いしている。どうせ俺は無愛想な根暗だよ。以前の時子と一緒に歩いていたときも同じ顔してたし、毎度毎度こいつは俺が女性と一緒に居ることなど信じられないようだ。
「しょ、食材はもう一人分買っておくから!」
はっと我に返って凛子は買い物に行こうと靴を履く。
「お、おう。行ってらっしゃい」
ここは無駄な弁解は控えておこう。適当な嘘を考えておかないと。
凛子の背中を見送って、俺は頭を抱えて溜息一つ。
「む? 溜息をするとは。疲れているのか?」
ああ、おかげさまで。
「疲れたときは、あれだ……、んーと、あれだ」
何か考えているようだけど、思い出せないようだな。
「ちよこれいーとを食べるといいらしいぞ」
チョコレートな。何はともあれこいつを隠して生活するという難しい方法は避けれたが、代償は大きい。もしかしたら隠して生活したほうが代償も無く楽だったかもしれないな。俺は家に入り、トイレや洗面所、風呂場などを案内し、部屋に戻りベッドへ倒れこむように横になった。
「しかし家が広くていい身分だな」
台所に置いてあったジュースを勝手に飲んでくつろぐ時子。以前の時子でさえ入れることができなかったが嬉しくはない。中身が違うとやはり感情は複雑だ。以前のままなら俺は時子と日が暮れても話をし続けていただろうに。今では堅苦しい台詞が耳にはいってくるだけだ。以前のままでいてくれたら、どんなに嬉しかったことか。
こいつに会って話を聞いて、最初は時子が戻ってくるかもとか淡い希望を抱いていたけど、俺の願いはきっと叶うことはない。人は死ねばそれで終わり。そんな宣告をつきつけられた気分だ。それでも俺がこいつを時子と呼ぶのは心のどこかでこいつが時子の変わりになってくれることを、時子だと思いつづけることで気が楽になっていると思いたいだけなのかもな。見た目だけ時子だからといって以前の時子は生きているわけじゃないけど、こいつを見ていると時子は生きている、なんて錯覚したいのか、こいつの姿に落ち着いている自分がいる。
中身は違っても見た目は時子。最悪だな俺って。時子の好きという感情は見た目だけに向けられてたのか、いや、決してそんなことはないけど、こいつを見ていると、やっぱり落ち着く。こいつを俺が思っている緒方時子と思えば、今見えているジュースを飲んで意外と美味しかったのか笑顔を見せる姿が、緒方時子は死んだという事実を薄めてくれる。そんな気分になれる。受け止めないと……。現実を拒みつづけても何も意味は無い。
「それにしても神海は家に住む者が少ないし外のほうが居心地はよかったが、こちらの世界は外の居心地が悪いな。大気が息苦しい。家という存在が極楽に思えるわ。あまり外の空気は入れないでくれよ」
まるで渋柿でも頬張ったような表情からどれほど大気が息苦しいかが想像できる。
「ああ、わかったわかった」
地球は環境問題とかで大変だからな。神海がどんな環境かはわからないけどさぞ居心地はよさそうだ。外が居心地いいなんて地球じゃ南極やハワイがいいところ。日本内なら沖縄ぐらいだろう。
「居心地が良いからといって家の中はあまりうろつかないでくれよ。頼むから」
こいつと凛子はあまり接触させたくはないから俺の部屋で生活させたほうが良いだろう。凛子に変なことを言われてはたまらないし。でも、誤解を招くのも避けたいからどこか他の部屋が空いていればそこに放りこむんだけど、母さんが仕事で使っていた資料や本などが詰め込まれた物置と化した部屋に入れるのも人間として考えものだ。すぐに片付けられるわけでもないし、しばらくはこの部屋に居させよう。こいつも興味を引くものいっぱいあるようで部屋から出る気配も今のところないし。
「ほほう、なるほど」
カチャカチャ、と彼女がいじっていたのはテレビのリモコン。なるほどとか言ってもテレビが動作することは無く、適当にボタンを押して使いなれた気分にでもなっているんだろう。ようやくテレビの電源がつき、彼女はビクッ、と肩を上下させた。
「おおお!? 知ってるぞ! これがてれびだ!」
発音が少々アメリカ人みたいになっているがテレビで間違いないね。
「ああ、テレビだ」
「これが日々起こったことを報告する装置であろう? 最近起きた事件は確認する必要があるから常にこうしておいてくれ」
なるほど。ニュースで情報収集するつもりか。でも夕方はただの番組が放送されてるからニュースの時間になったらでいいだろうに。
「今は関係無いやつしか放送してないから、その時間になったらでいいだろう?」
「う、うむ……。し、しかしだな! こういうものも見ておかないと」
テレビが見たいだけだろうお前は。それにしても、そろそろこいつを時子と呼ぶのは止めておこうか。中身が違うのだろうし、本当の名前はあるのだからこれから生活するに当たっては時子でいいだろうけど二人で居るときは名前を区別したほうが彼女にとって良いのではないだろうか。
「なあ、あんたの名前はなんていうんだ?」
ベッドから上体を起こして俺は口を開いた。テレビに夢中になっていた彼女がテレビから視線を離す。
「私は緒方時子だが?」
緒方時子になりきるのは結構だけど、中身はまったくなりきってないね。
「それは器の名前だろ。あんたの名前だよ」
はっとしたような表情をする。本当になりきっていたつもりか?
「私自身の名前か。今は緒方時子なんだけどな……致し方ない。ルウだ」
何が致し方ないだ。
「じゃあルウって呼ぶよ」
「結構」
暫しの時を経て夜七時。
嫌々俺はルウを連れ、食卓へと足を運ぶ。部屋で食べれば良かったが、ルウの頭はどうやらネジが何本も足りないらしく、皆で食卓を囲んだほうが飯はおいしいとか言い出したために俺は今食卓へと向かっている。普通は空気を読んで部屋で食べるとかさ、そういう気配りをしてくれないかなこいつは。凛子と会ったときの様子を見ただろうに。ルウ自身も何を考えているんだか、まったく考えが読めない。食卓に三人が揃い、それぞれ席につく。
「………………」
会話無くちらちらと凛子はルウを見ては食卓に広がる唐揚げや野菜炒めに手を伸ばす。問題の主ルウは、得手勝手に大根入りの味噌汁をすすっている。少しはこの空気に気付いてくれないかな?
「うむ、これは美味い! 何が入っているんだ?」
一点の曇りが無いような笑顔。
「そ、それは大根入りの味噌汁で……」
その笑顔に凛子は圧倒されて恐る恐るで答えている。初対面でこうもおかしなテンションをされては対応に困っているんだろうな。俺とは正反対の性格で明るい凛子だが明るく接するか、それとも俺といる時のような極力話さず、でいるか。俺がいるから気まずいのだろう。
「だいこんか! ほほう、美味いのう。見事!」
どこの殿様だあんたは。
「凛子、部屋はどこもやっぱり空いてないよな?」
「うん、あたしも確認したけど母さんの物がいっぱいあって寝れるスペースはどこも無いよ」
人が住める部屋ははやり空けれないようだ。空けれたとしても埃だらけで到底住めるものではないだろう。俺の部屋に住まわせるしかないか。布団は母さんのを使わせればいいし。
「あの……、時子さんのご家族はどうしてるんですか?」
凛子は先ほどと同じく恐る恐るルウに聞く。どうもルウには臆しているようである。俺の友達ということからなのか、それとも彼女とでも思っているのか。どちらにせよこの二人が親しくなるには時間が掛かりそうだ。
「家族、か」
ちらり、とルウが俺に視線を送る。これは、俺に誤魔化して言ってくれという合図なのか。どうあれ俺が代わりに答えたほうがいいかもな。ルウに答えさせるのはボロが出る可能性だってあるし。
「ああ、時子は家族と喧嘩して家出してるんだ」
苦しいがこうしとこう。何週間も居座ることになったらその都度また適当なことを言っておけばいいだろう。母さんは半年くらい仕事が長引くとか言っていたからその間は大丈夫だ。母さんが帰ってきたとしても二日くらいしたらまた家を空けるだろうし、その期間だけ隠していればいい。
「そういうことだ」
何が可笑しかったのか、鼻で小さく笑うルウ。俺の苦労も知らないで暢気なことだ。
「あー……そうなんだ」
薄らと見られた凛子の笑顔。
母さんを毛嫌いしている俺と重ねて見えたのかもしれない。似たもの同士ってか。
「うむ、ではこれから同じ屋根の下で過ごすことになるため私はキミと近しくなりたい。キミの話を何でもいいから聞きたいな」
凛子がルウに馴染んでくれるか、心配だったが大丈夫のようだ。ルウはなかなかコミュニケーションが巧い。やっぱり神となると相当の歳を取っているのか、流暢な会話で引っ込み思案な凛子を引き込むのは流石と言いたい。俺なんかは凛子と会話しても途中で会話が止まり、それから何も話すことなく話されることなくで途切れ途切れな会話以外まともな会話は無かったな。それもこれも俺が口下手、無愛想なのが原因だろうけど。
俺はしばらく黙々と食事することにする。俺が会話に入っても今更凛子の事を聞いて会話を弾ませれるはずも無く、ルウと凛子を仲良くさせるためには適切な手段であろう。二人が馴染んでくれれば過ごしやすくなるし、何よりも俺は家の中で凛子の笑顔をあまり見たことは無いからな。凛子が俺に面白い世間話をしても俺はいつも無表情で返すために凛子は寂しげにしている、というよりも俺が一方的に寂しくさせてしまっているのだろう。どうかルウが凛子の良い話し相手になってくれれば家の中でも明るく過ごしてくれるのではないだろうか。
それに女性同士なら凛子も話しやすいだろう。俺は、テレビでも見てるか。
その後、なぜか世の中がどうしてこんなに駄目なのか(駄目と決めつけているが俺には頑張ってるほうに思えるぞ)二人で討論を延々と交わしているため底無し流砂の如く時間が掛かりそうだと見て俺はルウを部屋へ連れ戻した。まだまだ話し足りないのか、部屋まで押しかけようとした凛子を強引に俺は追い返し、疲れた反面、凛子の意外な一面を見れて少し嬉しい。あいつが何十分も話している様子は初めてだった。兄としては失格だな。でも凛子が好きな話題を自分からするのはできそうにもない。世の中の不況や社会のあり方、凛子は政治化にでもなりたいのか、やけに詳しかったな。おそらく父さんが政治化を目指していた影響か、凛子は父さんの本でも読んでいたのだろう。
頭の中にメモしておかなければ。凛子は社会系の話が好き、と。
「なかなか面白い奴じゃないか」
ルウはルウでこっちの世界のことを知らないにも関わらず凛子の意見を否定したり賛成したりでよく口が回るもんだ。
「俺には聞いてるだけしかできなかったけどね。あんな話によくついてこれたな」
「まあな。この世界とて神海とは対して変わらないからな。神海の世界も良い方向へ循環などしていない。この世界と重ねてみれば同じ事よ」
同じ事、か。神海の世界も大変なんだな。俺はルウの布団を敷き、目覚まし時計のセットをし、消灯もして後は寝るだけぐらいしかない時間を目覚し時計の針が指し始めたために布団へ入った。ルウは布団で眠るという風習は初めてなのだろう、掛け布団の上に寝転んでいたが俺の動作を見て掛け布団の意味を察し活用して潜り込み、予想外の心地良さなのかクールな印象とは裏腹に無垢な子供のような微笑を見せて瞳を閉じている。こうして見れば時子を思い出す。授業中うっかり眠ってしまった時子は楽しい夢でも見ていたのか、今とまったく変わらない微笑を見せていた。
緒方時子は死んだ。でもこのルウは緒方時子でもある。とはいえ器が緒方時子という名称で中身は別人だけど、一応死んだことにはならないのかな。正確に言えば緒方時子という魂が死んだということ。だからたとえ器が緒方時子であってもそれはもう違う。
わかっていても彼女の声、彼女の笑顔、彼女の姿、聞いているだけで、見ているだけで、俺の心の中に渦巻いていた喪失感が緩和されている。自分の中で何度も確認しているように、俺は時子の外見が好きだったわけではない、けど彼女を見ていれば時子は死んでいないなんて思いたい部分があるのか。心の中で時子は死んでない、今こうしてちゃんといるじゃないかって思っているつもりでいることで気を楽にさせたいのかな。
目を閉じている彼女の表情は心臓の鼓動を刺激させる。こうして見れば二日前の出来事なんてまるで夢みたいだ。でも夢だったなんて思っちゃいけない、でも夢であってほしかった、その繰り返しだ。でも、でもと一体何回同じ事を考えていたのだろう。考えても何も変わらないのに、変わって欲しいという無駄な願い。願っても何も変わらないのはすでに味わっている。願って何か変わるのならば二日前に時子は死んでいなかったのだからね。そんな中、一つだけ理解したことは神様は居ない、っていうのは間違いだったくらいだ。
こうして見ると世の中を俺は一部しか見ていなかったのが実感できる。俺のすぐ近くには神とか名乗る奴が心地良く寝息を立てているし、神海の存在も聞かされた。世界は意外と広いな。
「もう寝ちまったかな?」
寝息からすでに夢の中へ飛び込んでいったとは思われるが一応のため確認だ。
「……」
返事は無し。寝入るのに時間は掛からないタイプのようだな。神々の力を回収するとか言っておいて全く暢気なものだ。
「時子……」
言えなかったこと。もう遅いけど、言おう。
「好きだよ、付き合おう」
なぜ長い間一緒に過ごしてきたのに言えなかったのか。切っ掛けを待っていては遅すぎたんだ。切っ掛けは自分から作らなければ何時か見逃してしまう。二日前に戻りたい。戻ってまずは帰り道を変更して、事故の遭った場所は避けて、そんでもって俺は言ってやるんだ。「好きだ、付き合おう」ってな。
「馬鹿だな俺は……」
時は進むけど戻ることは無い。二日前に多くのものを置き忘れたようだ。まどろみ数分、瞳から溢れた涙を拭って俺は眠りに落ちた。
次の日、俺はルウと一緒に登校し、授業を受けるわけなのだが果たしてこいつは無事に学校生活を送らせることなどできるのか、不安が募る。
「そういやお前って、授業とか受けたことあるのか?」
ずっと机の角を見つめ、鉛筆を指でくるくると回しているルウに俺は見かねて聞いてみる。教師の声は絶対耳に入っていないだろうね。何を考えているのかわからないけど一応時子としての振る舞いはして欲しい。
「……む?」
俺の声さえも耳に入っていなかったようだ。
「だから、授業とか受けたことあるのかって」
「じゅぎょう? なんだそれは?」
そうか、授業という言葉すら聞いたことが無いか。
「今やってることだよ」
「ああ、アレの話を聞けということか?」
アレ、と指差した先にいたのは夏木教師。教師をアレ呼ばわりとは良い身分だな。あ、良い身分といえば良い身分なのか、なんて言ったって――
「これでも神なんだもんな……」
「こ、こ、これでもですってぇ……?」
おっと……思わず口に出してしまった。ルウは眉毛をぴくぴくとさせて俺に怒気を放っている。これでもって言ったのはさすがに失礼だったか。でも致し方が無いじゃないか。神のくせに授業もまともに受けれない、人の家には勝手に住みつく、得手勝手もいいところだ。
「最低限、時子としての生活はしてほしいんだけど。これじゃあ皆に不真面目な時子として印象を持たれるよ」
そんな時子は見たくない。ルウは鼻をふん、と鳴らし胸を張って、
「時子は時子。私は私だ」
と豪語した。
そしてあくびを一つし、机に突っ伏す。転校生がこんな様子でいるのは問題過ぎる。授業を受けているような姿勢だけでも保っておきたい。
「なあ、なんでこの街で何かが起きるって断言できたんだ?」
俺は彼女の耳元で周りには聞こえないように囁いた。話を振れば起きてくれるかな。それに聞きたいことは山ほどある。昨日はルウは凛子ずっと話していたために聞けなかったからな。思惑通り、ルウは上体を起こす。別に眠かったわけではないのだろう。退屈だから突っ伏して時間を過ごそうなんて考えていたに違いない。
「答えは簡単なこと。この街に住む何者かが神々の力を引き寄せたのだからな」
首謀者はこの街の何処かにいるということか。犯罪者が潜んでいるようで怖いな。
「喰らいの神々と鬼の力、数は十と聞いている」
「そ、そんなにいるのか……」
単純に考えれば十人もの犯罪者がこの街にいるということ。身近にいるかもしれない、いつ食われるかもわからない。他人事ではないのだろうな。
「力は説明せんでもいいだろう。面倒だ」
それは重要なことだから説明くらいは添えて欲しいが。一度話が途切れるとルウはまた机に突っ伏して寝る姿勢へ移行する。もう放っておこう。時子は時子。こいつはこいつってのは正しいことだ。外見は時子でも、中身はルウ。重視すべきは中身。時子としてのってのは俺の願望からの言葉だったかもしれない。
キイイイイイイイイィィィ――
その時、耳鳴りのような音が耳に飛び込んでくる。
耳鳴りとか完全に違う、奇怪で今までに聞いたことが無い音だ。ルウは先ほどとは違い、勢い良く上体を起こした。
「近くだ」
「くそっ、気分が悪くなるなこの音」
ルウの表情が冷静なものから一変する。音に対して、ではないようだ。
「聞こえたのか?」
聞こえないほうが可笑しい、とは言いたいが教室内の生徒は皆普通に授業を受けている。可笑しいのは俺のほうなのか?
「聞こえたけど、……どうかしたか? それに何の音だ?」
「いや、何でもない。今のは誰かが力を解放したのだ。行くぞ」
行くぞって今は授業なのですが。
「大丈夫だ。教室を出ても彼らから私達が教室を出たという記憶を消し、代わりに教室にずっと居たという記憶を摩り込ませればいいだけのこと」
そうか、ルウは記憶を操作する力を持っていたんだった。今思えば便利な能力だな。そこに居たという事実は無くても記憶を残せばあたかも事実としてクラスの生徒たちは錯覚する。たとえ今大声で叫んだとしてもルウが記憶を操作すれば無かったことにもなるのだろう。
こうして俺達は教室を堂々と出ていくことに成功する。笑ってしまう光景だ。俺達が堂々と教室を出て行くのに誰も咎める事はしない。米崎と南雲の頭でもつついてやろうか。いや、そんなことしてる場合じゃないんだけどね。
「ルウ、さっきの音は近くから聞こえたけどもしかして学校敷地内にいるのか?」
足並みが早まっていくルウを追いながら聞いてみる。
「そうだ、これだけ近いと場所も断定できる。この学校の裏だな」
「てか俺も行く必要はあるのか?」
これから何が起こるかはわからないが、俺はきっと役に立ちそうにはないっていうことはわかる。なら俺がついていく理由はあるのかが疑問である。彼女達のように力を持っているわけでもないし、ましては俺の運動神経は良いわけでも無いため足手まといになるだけではないだろうか。鬼という奴も居るようだし見ただけで足腰が無事に直立していられる自信はないね。
「お前には捕獲した力の入れ物になってもらう」
「……どういうことだ?」
「私が捕獲した力を自身へ取りこむとその度に私の能力と混ざり合ってしまうから能力が変化すると扱いづらくなるのでな。闘わないお前にはそんな心配もない。安心しろ、力を入れたとしても使わなければ何も無い」
そんなこと言われても困る。
「力を使ったらわかっているだろうな?」
俺を睨む前に承諾を求めるぐらいはしてくれないかな?
「待て、まず俺が力の入れ物になるって承諾してないだろ? 巻き込まれるのは絶対に嫌だからな」
俺は普通に生活したい。命を落とすようなことには絶対に巻き込まれたくない。
「もうすでに巻き込まれているだろう? それにお前の周りに犠牲者は出したくはないだろう?」
それはそうだ。でも心の準備が出来ていない。簡単に入れ物になる、なんて言えないけど確かに周りで犠牲者が、米崎や南雲が犠牲者となるのは避けたい。
「……お前には素質があるしな」
「素質?」
ふと足を止めてルウはそう言った。
「……憶えてるか?」
表情は少し悲しげに、彼女の言葉は重く感じられたが何に対して憶えているかと聞いたのか検討もつかない。明確に話してくれればいいんだけど。
「憶えて……いないだろうな」
俺の返答も待たずにルウは勝手に判断して止めた足を再び走らせる。一体何を聞きたかったのか。彼女の少ない言葉だけでは何もわからなかった。俺は何か忘れていることでもあったのかな。ならお前の力で思い出して欲しいんだけどね。それぐらいは出来ると思うんだけどなあ。学校裏には人影は無く、風にそよぐ木々の音ぐらいが流れるように聞こえていた。花壇ぐらいしかない殺風景な学校裏に人が来るというのも珍しいから当然といえば当然の光景。
「誰もいないな」
「いたほうがよかったか?」
「そんなことない」
ほっとした。何事もなければそれでいい。これ以上俺の生活を、俺の人生を狂わせるのは避けたい。決して俺は望んでいるわけでもないし神海とか、神々の力とか、俺が関わる必要のない世界なのにどうしてルウは引き込めたがる。ただ、時子の存在を食らった奴に対しては存在を食らったからといって死んだというわけではないとしても許せない気持ちがある。そいつを見たら一発殴ってやりたいね。
「奥だ」
ルウは迷い無く走っていく。奥は建物の裏口の影になって見えないがたしか焼却炉があるくらいでほかは何も無い。そんなところに人がいるわけないだろうなんて俺は思いつつもこのままルウを放っておくのも何なので仕方なく後を追った。
二つの影がそこにあった。ひとつはこの学校の制服を着た生徒、紺のスカートや胸部の膨らみから女子生徒のようだ。表情は妙な一角の生えた仮面を被っていて素顔が見えない。仮面から鬼でも想像させるがわかることは肩をすっぽりと隠す黒髪、仮面が頭の大部分を隠しているため髪型もそれくらいしかほとんどわからず、長身で痩せ型くらいか具体的にわかることといえばそれくらい。この学校にはそんな体系の生徒は数え切れないほどいるため誰かを断定などはできない。襟には何年生かわかるバッジがあるはずなのだがここからでは遠くて確認は無理だろう。俺の視力はそんなに悪くはないがバッジの小さなローマ数字を確認できるほどいいわけではない。
もう一つの影は、幼い子供。学校敷地内では場違いな存在だ。フリルが目立つピンクの洋服、腰まで伸びた銀の髪、純粋そのものの無垢な表情、こんな子がどうして学校にいるのか。ルウはまだ出ていかなかった。二人の様子を見るつもりだろう。聞く耳を立て、じっと物陰から二人を観察する。
「私のかわいい恵那。おなかがすいたでしょう? ここにはいっぱい食べ物があるからね」
仮面越しの曇った声。個人を断定することは出来ない。恵那というのは幼い少女の名前らしい。外見は外国人みたいな派手さがあるが妙に名前は日本人っぽい。仮面の少女は恵那を溺愛するように頬擦りし、頭をやさしく何度も撫で、まるで母のような抱擁感を醸し出していた。恵那の同じ視点でいられるよう足を折ってしゃがみ込み、瞳をより近く直視できるように鼻がつきそうなくらい顔を近づけている。
「今日はいっぱい食べましょうね、人間なんて死んでもいいのだから」
「食べ……る」
恵那の笑顔に、背筋が凍る。彼女達の会話、それは人間を食べるという意味を成していた。まるで人間を餌のように、軽い命と見ているような口調。
「貴様らは何様だ? 人間を軽んじて見るなど、神にでもなったつもりか?」
すかさず出ていったのはルウ。俺はどうしようか。出ていっても役に立つとは思えない。これから何をするのかというと闘いのほかないだろう。当然その中に飛び込むのは凡人の俺にとって戦場へ飛び込むということ。死と隣り合わせになるかもしれない。むしろ死ぬかもしれない。出ていかないほうが安全といえば安全だ。
心臓の鼓動が危険を察知して激しく脈動する。だけどルウ一人で行かせるのは男としても状況を見てもさせてはならないだろう。もしも誰か見ていたら真っ先に俺は腰抜け扱いにされるだろうし、ニ対一という状況をみすみす行かせるわけにはいかない。といってもだ。出ていった瞬間に俺が殺されるような状況は勘弁してほしい。
まあ結論から言うと俺は出ていくんだけどさ。ルウの影を踏みながらだけど。
「神……そうね。私達は神になったのかもね」
仮面の少女は恵那を抱きしめて言う。こちらには動揺さえもしていない。妨害は予測済みということか、それともどんなことがあっても乗り越えられる自信があるのか。
「先ほどの会話は聞かせてもらった。魂喰らいか、姿喰らいか、それとも鬼のどれかか。恵那とやら、お前の力は返してもらおう」
恵那はルウを見つめ、何も言ってこない。代弁するように仮面の少女が答えた。
「返してもらう? 違うわね。これはもう恵那のものだからあなた達に所有権など無いわ」
「では力ずくでも返してもらうぞ」
「出来るものなら……ね」
ルウの右腕が光る。光は形を纏い、徐々に大きく膨れていった。俺もよく知っているものだ。ゲームとかでは必ず出てくる武器、殺傷能力が高いもの。
「その余裕はいつまで持つかしら」
それは彼女の身長ほどもある漆黒の斧。刃に彫られている華を象る装飾が斧には似合わないがこれは彼女の意思で彫られているのか。ずっしりとした重みが見て取れるが重さを感じさせないような、見た目ほど重くは無いのか彼女は軽々とそれを片手で持っている。彼女の力は記憶を操作するのみかと思ったが武器を出すことも出来るようだ。先ほど聞いた耳鳴りのような音がまた耳を刺激する。
「物騒ねえ。恵那はあんなの真似しちゃだめよ」
こくりと恵那は頷く。こうしてみればなんのそこらと変わらない少女だが――。
「う……ん。食べ……る」
恵那の右手の爪が鋭く伸び、刃のように変化し、左手は禍禍しい黒い光を放ち始める。
「魂を削る右手に、魂を食らう左手か」
ルウは言下に恵那の懐へ飛び込んだ。仮面の少女はさっと後ろへ退き、恵那はルウが振るった斧を爪で防ぐと同時に左手を振るう。攻撃はすでに予測済みの如くルウはそれをかわし、爪を振り払い斧で再度攻撃。
風切り音の後に衝撃音。ルウの斧は地面を割ったが対象は斬れていない。銀の髪がはらりと風に乗って地へ落ちる。紙一重でかわしていたようだ。斧の尺が完全に把握できているような、何歩下がれば攻撃を受けないかと熟知している動き。
「うん、上手上手♪ あの女を食べたらご褒美あげちゃう♪」
まるで楽しむかのように見ている仮面の少女。棒立ちして足腰が震えている俺とは正反対だ。
「ご……褒美」
恵那は口元をにやりと歪ませ、爪を振るう。さすがにルウが不利ではないだろうか。巨大な斧では俊敏な攻撃を全ては捌ききれない。右手の爪で連続して攻撃し、左手で強力な攻撃を最後に振るうというボクシングでいうワンツーパンチに対してルウの攻撃は一撃必殺と言わんばかりの大振り。
加勢すべきか。いや、加勢して何になる。加勢したところで爪に刺される未来しか思い浮かばない。
するとそこへ仮面の少女が俺へ近づいてきた。
「さて、キミは何なのかな? あの女は神の力を持ってるようだけど、キミも神の力を持ってるの? ええ……っと、確か榊冬慈だったかしら?」
俺の名前を知っている。同じ一年生か?
「あんた、誰だ?」
襟を見てみると英数字でTと書かれている。一年生だ。
「質問を質問で返さないで」
一年生の誰か、ということだけでもわかれば上出来だろう。返答はどうするべきか。ここはあえて神の力を持ってる、と言って彼女を警戒させるべきか、それとも正直に言って危害を加えることは普通に殴ることぐらいしか出来ない凡人だと主張するべきか。
「お、俺は……」
それよりもまず自分の身を心配しなければならない。いきなりこの仮面の少女が襲ってきたら震えた足でどうやって逃げればいい。
「冬慈! その女から離れていろ! 気が散る!」
ルウの喝が耳に飛び込む。
「あら、私は何もしないわ」
とは言うが十分に危険人物であることには変わりない。俺はルウに従ってゆっくりと仮面の少女から距離を置く。
「ちっ!」
ルウは俺の真上を通り過ぎるように跳躍した。仮面の少女に気を取られていたため何時の間にかすぐ近くで戦闘が行われていたことを知る。爪がルウを追って真上を通った。伸縮自在のようだ。恵那は跳躍などせずとも攻撃できることを理解させるような姿勢でいる。接近戦のルウとは違い接近・遠距離戦に対応できる恵那。距離を置くのは逆に不利となる。なら接近戦、なのだがそうなると右手と左手の絶えない攻撃を捌かねばならない。相性が悪すぎる。
「冬慈! ぼやぼやするな! 離れろ!」
「え?」
その時、俺の袖が掴まれた。恵那が一瞬して距離を詰めていたのだ。
「食べ……ていい?」
全身を駆け巡る悪寒、冷や汗が額から滴る。
くそ、足が震えて動けない……。
「駄目よ恵那。まずはあの女から」
「わかっ……た」
恵那はぱっと手を離してルウへ向かっていく。安心したはしたけど束の間かもしれない。もしもルウが倒されれば俺が食われることになる。運が悪いことにルウは苦戦している。食べられるのが少し遅くなっただけかもしれない。
「さあこっちだチビガキ!」
引き付けてくれていることを理解し俺は物陰へ逃げ込んだ。ルウは斧を振り回し、爪を弾き、遠からず近からずの距離を保っていた。一番警戒するべきなのは左手。もしも左手に触れられたら死ぬのではないだろうか。
黒い光が触れた地に根を張っている植物は茶色に変色し、枯れている。対象が人ならば想像を絶する。
ルウは斧を大地へ振り下ろした。ずん、と音を立てて大地にめり込み、勢いよく振り上げる。
「自慢の爪で防いでみろ!」
なるほど、関心させられる。斧で直接攻撃をするのではなく物を飛ばして攻撃をする方法。これなら近づかなくても攻撃を与えられる。さらに爪は細い。小さな飛礫となった石や土を防げるはずはない。
「あ……」
小さな声をあげて恵那は全身に飛礫をくらう。
「え、恵那!」
仮面の少女は恵那を咄嗟に抱きかかえる。これは形勢逆転というところか。
「ごめんね! まだ魂を少ししか食べてないのに闘わせちゃって……。今度力をつけたらこの女を食べようね」
恵那はこくりと頷く。一度退くらしい。俺にとっては早くこの状況が終わって欲しいと思っているから願ったり叶ったりだ。
「次があると思うか!」
斧を突きつけルウは睨みつける。すると仮面の少女達の周りの景色が、不可解にも歪み始める。直接そのものが歪んでいるというよりもその空間が歪んでいるような、説明しがたい状態だ。
さっと斧を引っ込め、ルウは二、三歩後ずさりする。
「空間喰らいめ……」
次元が違いすぎて彼女達の遣り取りについていけない。何が起きているのかわからないがどうやらまた戦闘が行われることはないようだ。
「あはっ、それではまた会いましょう」
歪んだ空間は漆黒の光に包まれ、光は徐々に小さくなり元の景色へと戻ったときには仮面の少女達の姿は無くなっていた。
「はあ、厄介だ。ああ厄介だ、面倒なくらい厄介だ」
厄介厄介呟くルウ。お前が厄介だと思っていることはわかった。
「何だったんだ今の奴らは」
恵那とかいう少女は魂喰らいらしいことはわかった。でも仮面の少女は何者なのだろうか。
「それがわかったら苦労しない。少なくとも空間喰らいと手を組んでいること、チビガキが魂喰らいっていうことくらいしかわからん」
斧を地へ突き刺し、ルウは腕を組んで溜息をつく。
「なあ、その武器は?」
武器も出せるとは聞いていなかったから聞いてみる。にしても随分女性には似合わない武器だ。これをぶんぶんと振り回しているルウはまるでゲームのキャラクターだな。
「ああ、私の記憶の力を具現化したものだ。そもそも昔は神の力は全て物として存在していたから驚くことでもないぞ」
「物として?」
「もう十年以上前になる。三神器としてこの世界に初めて神の力が現れてからは。まあそのせいで争いが起こったとされたがな」
「抗争?」
空を見上げ、ルウは瞳に懐かしむような視線を宿し、続けて口を開く。
「三神器を三大家がそれぞれ所持し、世界のために力を使うべきだったが三神器全てが揃えば人間を蘇らせたり、強大な力を手に入れられたりすると知らなければ己の為に使おうとして争いが起きることもなかったろうに」
この時、俺は淡い期待が膨らんだのを自覚した。
三神器全てが揃えば人間を蘇らせる、という言葉。時子が頭の中に浮かぶ。もしも三神器がまだこの世に存在しているのならば時子を生きかえらせることが出来るのではないか。
「それによって多くの死者を出す結果となった。その時、雛花という女性の体を仲間が修復していたのを憶えている。三神器抗争最後の犠牲者だったらしくてな」
そういえばその事件、覚えているかもしれない。
ニュースでも何らかの抗争による事件として大量の死者が出たという報道がされていた。当時はヤクザ組織の衝突として片付けられたが、まさかそれが三神器とかいう物の争いだったとは知る由も無かったな。
「その人は今はどうしてるんだ? それに三神器も」
三神器についての興味が沸いてくる。
「その後抗争は治まったが三神器に関する人間は何者かに皆殺害されたと聞いている。そして三神器は所在知れず。三大家にしか三神器は使えないようにしてあるから三大家が一人残らず殺されたため三神器が使用されることは無い」
淡い期待が消沈する。
三神器があれば時子は生き返るのではないかなんて考えて、期待した挙句三神器はもう使用できないなんて。馬鹿みたいなこと考えたな、自分らしくない。所詮世の中はそんなに思い通りになんていかないし甘くも無いんだよな。
今はこれからのことを考えよう。
「まあそんな昔話はどうでもいいがな。仮面の女とチビガキがまったく厄介だ。仮面の女からは力を感じなかったがおそらくチビガキを媒体として宿らせて発動させているからチビガキは魂を食らえば食らうほど力をつける」
あの少女達を思い出すだけで足がまた震えてくる。
次に会ったら死ぬかもしれない。もしもルウが居ないときに会ってしまったらと考えるだけで背筋から体中に宿していた悪寒が体中へと走る。
「三神器の時みたいな争いはまた起きるのか……?」
「さあな」
俺に余計な不安を募らせないためか、曖昧な返事をするルウ。
「では、じゅぎょうってやつをまた受けに行くか」
彼女は斧に手をかけると斧は光の結晶へと変化し、消えてしまった。あれほど大きな物が一瞬にして消えてしまうとは、便利な武器だ。どこでも出し入れ可能というわけか。
「緒方時子らしくな」
ルウは俺に嫌なニヤケ面を見せ付けてくる。俺が時子としての生活をして欲しいなんて言ったのが勘に触ったのか、自らの足で教室へ戻っていく。彼女の背中を見つめながら俺は思う。
踏み出してしまった領域、死と隣り合わせの世界、日常というものがどれほど平和で甘露なものだったか。今更引き返す事などできないのはわかっているけど、怖い。怖いけど、ルウと一緒にいるだけでどうしても感じてしまう時子が死んだ事実の緩和。何度もそれに縋り付きたくて結局俺は逃げることはしない。
俺が危険を承知でルウと一緒にいるのも時子と同じ姿の彼女を見ているだけで内心に纏う安心感を、時子は死んでないっていう錯覚を得て浸りたいだけかもしれないけど、自分でもわからなくなっている。わかることは俺っていう人間は情けないってこと。
ルウの背中を追う俺は、時子の背中を追っていたのかもしれない。
第三章 兆し
仮面の少女は一年生だった。
この日俺のクラスでの欠席者は二人。一人は俺が良く知る南雲(時々南雲は遅刻するため後で出席してくると思うが)と、もう一人は神無月綾香。ここ最近体調不良を訴えて今日で三日目の欠席だ。クラスでは目立つ存在でも無く極々どこにでもいる生徒。強いて言えば成績は優秀、スポーツもそこそこ、見る限りでは友人関係も幅広く聞く話によると頼りになる生徒だとか。悪い噂は無いし仮面の少女とは結びがつかない、がそうだからこそ疑っておくべきだろう。悪い噂が無い奴ほど疑っておけ、探偵物のドラマや漫画などを見ているときに俺がいつも思うことだ。
他のクラスにも欠席者は一人くらいいるだろうからまだ疑うのは早いかもしれない、まずは今日の欠席者を全員把握することが第一だ。それを確認するに職員室へ行き、欠席者が記されている掲示板を見れば済むためさほど苦労はしないだろう。だけど、不安が押し寄せるばかりだ。次はいつ襲ってくるのか、もしかしたら米崎や南雲が巻き込まれるかもしれない、自分は死ぬかもしれない、考えることは全て良い方向へは行かず低迷し続ける。
今日の授業はどれも頭の中に入らず、俺は窓の外を見て見た目だけの平凡な風景に心を癒していた。
「おお! これがしゃーぺんか! 面白いな!」
「ふふ、そんなに興味を持つなんて、僕にはキミが面白く思えるよ」
隣に座るルウは先ほどまで戦闘を行っていたとは思えないほど妙な高揚を見せていた。米崎と暢気にシャーペンで盛り上がっていていいのだろうか。今ごろ魂喰らいはこの街を徘徊して人々を襲っているかもしれないというのに。例えるならば犯罪者を目撃したにも関わらず誰にも知らせず放置しているということ。これではある意味共犯者だ。遺憾の意を感じ、憤りさえ覚えるが俺には力が無い。ルウは俺に素質がある、とか言っていたが俺は武器も出せるわけではなく神の力があるわけではない。魂喰らいを止めたいがどうしようもないのだ。
それにしてもルウは俺の何を見て素質がある、なんて豪語したのだろうか。あのときの言葉が脳裏に浮かぶ。
『憶えているか?』
何に対して言ったのかは今だわからない。過去に何かあったのか、頭の中をぐるぐると探ってみても俺の人生は平凡以外何も無い。たとえ何かあったとしたなら、俺の人生はすでに平凡ではないはずだが、彼女が現れるまでは平凡そのもの。きっと彼女の勘違いだ。断言できるね。
昼休みになり、米崎とようやく登校してきた南雲、それにルウとふたつの机を合わせて四人で昼食を摂ることにする。
「おっとっと。難しいなこれ」
俺は凛子に頼み込んでルウの分も弁当を作ってもらったためルウは俺と同じ弁当をいただくわけだが、箸使いが何とも不器用だ。神っていうのは箸も扱ったことが無いのか、箸を横にしてそのまま鷲掴みで秋刀魚をつついている。まるで子供だな。せっかくの秋刀魚がぐちゃぐちゃになってる。これでは食欲も半減ってところだがルウにはそんな概念も無いようだ。無邪気に秋刀魚の欠片を箸で掴むたびに喜んで口に運んでいる。清らかさえ感じさせる以前の時子とは違いすぎて現実から目を逸らしたくなる。
ちょっとした不安は俺とルウの弁当が容器以外まったく同じということから南雲達に気付かれたら変な誤解を受けそうだがルウの弁当だけ母さんが使っていた渋い容器にしたのが正解だったのか、今は気付いていない様子。でも箸の使い方に関しては二人は不思議そうに見ている。日本人が箸を扱い慣れていないという状況に小さな疑問を抱いているようだがまあ箸の持ち方が独特な人間はどこにでもいる、二人は笑みを浮かべていた。
俺はご飯と秋刀魚を口に運び、凛子の奴、料理の腕が上がったんじゃないかななんて思っていた頃。
「そういえばさ、時子ちゃんと冬慈ってなんだかすごく仲良くない? アノこともあったし二人ってどういう関係?」
ふとした南雲の質問が皆の耳へ入り込む。さりげなくちゃん付けなんてしやがって。アノことはやはりルウの転校前日での出来事。何度も思い出させないで欲しい。俺は口篭もることで時間を稼ぎ、言い訳をどうしようか、嘘をつくのも友達に対しては気が引けるし、かといって何か言わないと変な噂が広がりかねないと試行錯誤を繰り返していた。早く何か言わないとルウがまたややこしくさせることを言うかもしれない。
「南雲、質問が直接的過ぎると僕は思うけど」
米崎はさすがといったところ。俺がその質問は気まずいから察してくれと言わんばかりに放っていたオーラを感じたのか、話題を変えようとしてくれていた。
安心して秋刀魚をまた口へ運んだとき、せっかくの気配りを台無しにする言葉がルウから放たれる。
「ふむ、関係か。屋根の下を共に過ごす仲じゃないか? 強いて言えばな」
喉を何事も無く通るはずだった秋刀魚の一欠けらが口から飛び出そうになった。
「おい! 何が強いて言えばだ! 変なこと言ってんじゃない!」
「と、冬慈……」
声を揃えて俺の名前を呼ぶ二人の表情は青ざめていてしばし硬直していた。俺の隣には不思議そうな表情で二人の顔を交互に見つめるルウ、一度こいつの頬を引っ叩いてやりたい。
「あ、弁当の中身も一緒じゃない……?」
配置は違えど種類は誤魔化せない。
「ま、まさかもうそんな関係なのかい?」
米崎さえも質問をし始めた。
「だな、冬慈」
だな、じゃないぞこの野郎。ルウにとっては単に住まわせてもらってるという感覚で言っているだろうがそれはタイミングも言い方も悪すぎる。これ以上ルウには話させないほうが良いだろう。
「いや、こいつは勝手に俺の家に住んでるだけだって」
「ど、どんな経由でそうなるんだよ」
それはさすがに言えないがここはひとつ二人には申し訳無いが嘘を言うしかない。俺はルウの足を軽く蹴り、自分に任せろという合図を伝える。伝わったかどうかはわからないけどな。
「家族の事情ってやつだ。こいつとは親戚みたいなもので親に頼まれたんだよ」
後でじっくりとお灸を据えてやりたいよルウには。こいつのせいで親友に嘘を言う羽目になるわ、俺の人生は滅茶苦茶にされるわ、これから先が思いやられるよ。
俺はもう一度ルウの足を軽く蹴った。
「あ、ああ。そういうことなのだ!」
慌てた様子でルウは言う。一応、合図は伝わったようだ。もしも合図が伝わらなかったらきっと俺はルウの足を思いきり蹴飛ばしていたがそうならなくて良かった。
「あの、私も混ぜてもらっても構いませんか?」
するとそこへ現れたのは神無月綾香。今日は欠席のはずだが、鞄を下げていることから今来たようだ。中途半端な時間に来たため昼食を終えたグループがほとんど、彼女と仲の良いグループは教室内にいないことからすでに体育館でも行ったのだろう。となると一人で黙々と昼食を摂るよりもどこかのグループに混じったほうが良いのは必然的。もしも彼女が仮面の少女であってもこうするのは当然か。
彼女の言葉は俺へ直接話しかけたものではなく、おそらく一番仲が良い米崎に対してのものと見受けられる。俺はあまり話もしたことがないためここは米崎に対応を委ねるために視線を送った。
「どうぞ、むさ苦しいけど気にせずに」
むさ苦しいとは俺と南雲のことか。
「綾香ちゃん、体調はもう大丈夫なのかい?」
神無月が椅子を持ってこちらに混じり、座るや南雲が早速声を掛ける。お約束というものだな。本当に女性には目が無い。
「ええ、熱も下がりましたので午後からだけでも出席はしようと思って」
肩をすっぽりと隠す黒髪をぽりぽりと掻く神無月。似ているところは髪型、が仮面の少女の特徴は髪型ぐらいしかわかっていないため髪型一つで結び付けることは無理やりすぎる。仮面越しの声と彼女の声とはなかなか結び付けることは難しい。そもそも口調も違うし彼女はやはり仮面の少女ではないのか。
「えっ……と、そちらの生徒は?」
神無月の視線はルウへ。ここ最近欠席していたためルウが転校してきたことは知らないだろう。仮面の少女ならば初見はつい先ほど、仕草や表情からは疑う要素など無く初対面であると強調せんほど自然な様子。演技だとしたら大したものだ。
「始めまして。緒方時子だ。よろしく」
転校してきた時と変わらぬ挨拶。どうせ挨拶なんて慣れていないのだろう。自己紹介は『始めまして。緒方時子だ。よろしく』というセットしか出てこないに違いない。
「始めまして。かみなづき綾香です。漢字は神の無い月と書きますけどかみなづきです」
あまり親しみも無く彼女に関しての記憶といえば俺が覚えているのはこれだ。名前を見て誰もが『かんなづき』と読むであろうが実は『かみなづき』と言う事。それならばまだしも彼女は自己紹介をする時必ずこの説明は欠かさず付け加えている。よほど『かんなづき』と間違えられたのだろう、『かみなづき』ですと答えるのもうんざりなのか、俺なら最初にかみなづきです、と言われてなら以後間違えないが、まだ馴染んでいない生徒は名前を見て『かんなづき』なんて言うのも致し方が無い。
「かみなづきか、変わった名前だが、凡なるものではないため愛着は沸くな」
「あは、ありがとう」
満面の笑みを浮かべる神無月。
「米崎さん。あとでノートを見せてくださいませんか? 遅れた分を取り戻さないと」
「うん、いいよ。キミに頼られるとなんだか嬉しいな」
口調は仮面の少女とはやはり似ても似つかない。無邪気で内面に恐ろしい部分さえ感じさせた口調、それと違って彼女は聖女の様。同年代にも敬語を使い、他人の気配りも怠らない誰が見ても完璧と言える存在。学年の生徒会長も務め、生徒、教師からも慕われ信頼されている。彼女に仮面を被せたとしてもあの仮面の少女になるなど想像はできない。疑う余地はないか。
「俺も授業に遅れ気味だから綾香ちゃんとノート一緒に写そうかな〜?」
鼻の下は伸びていなくとも内心は伸ばしているだろう南雲。ノートを写すなんて所詮神無月と一緒にいたいための口実に過ぎないのは見え見えである。髪をさらりと撫でて格好良く見せているがある意味では格好悪い。
「南雲、お前に見せるなんて言ったか?」
「なっ!? お前綾香ちゃんには見せて俺には見せないなんて差別だぞ!」
「差別で結構だね」
また夫婦漫才みたいな口論が始まる中、関係無い俺達は食事を続けることにする。隣で行われている口論を物ともせず、神無月は学校にある購買で買ってきたと思われるアンパンを食べて笑みを浮かべていた。アンパンが美味しいのか、口論が面白いのかは定かではないが幸せそうだ。
「それって、おいしいのか?」
ルウはパンに興味を示し、じっとパンを見つめ始めた。パンというものを見るのも初めてのようだ。家には一応あるが食パンくらいで棚の中に置いてあるため未知の食べ物に遭遇という感じか。くだらないがルウなら仕方が無いな。
「ええ、食べたことないのですか?」
「うむ、白米は知ってるぞ!」
そこは自信を持って言うところではないと思うな。
「アンパンっていうんですよこれは。一口食べてみます?」
そう言って神無月は一口分を毟り、ルウへ差し出す。遠慮無くそれを口に放りこんでルウは一言。
「アンパン……美味い! もっと!」
本当に遠慮無い。
「ええ、いいですよ」
神無月も神無月で拒まずまた毟り、差し出す。ルウが癖になる前に次は俺が拒んでおかないと。
「美味い! もっ――」
「時子。弁当を食べろ」
俺はルウの言葉を強引に遮って阻止する。予測していた通り癖になってまた求めるためこの悪循環を打破しなければ神無月のアンパンは丸ごとルウの胃の中へ入ってしまうだろう。それにしても弁当はほぼ空になっているというのにアンパンまで手を出すとは食欲の底が知れない。明日からの弁当はもう少し量を増やしたほうが彼女の為にも、周りの為にも良いだろう。
「ちっ、厳しいのぅ……」
「厳しくない。お前が自分に甘いだけ」
頬を膨らませて渋々ルウは弁当に手を伸ばす。
そうだ、それでいい。
空が朱に染まる時間。
今日は米崎達と帰宅しようかと思っていたが、ルウに呼び止められて二人で帰宅することになった。二人でなければ話せないことがあるのだろう、その節を言うならば神無月のことか。
「で、話っていうのは?」
「うむ。あの神無月のことだがな。疑わしいと思い私は奴に直接触れて深部まで記憶を読み取ることにしたのだ。途中誰かさんに邪魔されたがな」
誰かさんとは俺のことだな。とはいえ俺が思うにルウはただ単にアンパンを食べたかっただけだったと思うが。
「へえ、触れれば詳しく記憶を読み取れるのか」
彼女は記憶を司る神、忘れかけていたが神なんだもんな、と自分に言い聞かせる。見た目が時子だとこんなにも変わってしまった世界がまるで何事も無かったかのようで拍子抜けだが、仮面の少女との遭遇や戦闘が俺の世界観を変えていることは事実である。
「そうだ、決してアンパンなどにはな……つられてないぞ!」
その一瞬の間が説得力を皆無にさせたよ。ルウには不安を抱いたことは無いのだろうか。緊張感がまるで感じられない。俺も言えたものではないが内心をもしも知られたとしたら大笑いでもされるのではないだろうか。
ポケットに手を突っ込み、下を向いて話を聞こうとしたところにルウは俺のポケットへ手を入れて言う。
「まあそんなに怖がるな」
俺の記憶が読まれたのか、ルウは薄らを笑みを見せている。
「お前は私が守ってやる」
温もりが手を伝う。柔らかく、暖かい感触。彼女の掌が少し心を軽くした気がする。
「……心強いよ」
不覚にも心臓の鼓動が激しくなったが何も考えまい、言うまい。俺はさっとルウから手を離してまたポケットへ突っ込む。顔を逸らしてあたかも歩道の反対側にある店が気になっているかのような素振りを見せるが俺はただ顔を見せたくないだけだった。顔が赤くなっていたら何を言われるかわからない。
「結論から言うと、神無月は仮面の少女ではない」
逸らした顔を元に戻し、ルウの瞳を直視する。
「そう……なのか?」
「ああ、記憶を探ってもチビガキのことは出てこないし、午前は白服のじじいにぺちゃくちゃ言われてたらしい」
白服のじじい。多分医者だと思われる。ということは午前は病院にいたという事、当然仮面の少女とは違う人物となるが、何かが引っかかる。特徴や体型には類似点が多いし完璧過ぎるからこそ疑念を絶つ事は出来なかったが、安心した部分もある。クラスに危険な人物がいないならばこれから教室にいる間は緊張感を張り詰めなくていい。
「それで、これからどうするんだ?」
「うむ、どうするも、動くにも動けないな。敵は魂を食らって力をつけるだろうがおそらく私から力を探知されぬ距離で行うだろう。それに空間喰らいの協力もあるとなっては逃げられるのは至極当然」
被害者を出すことは止められないということ、悔しいが彼女にも、俺にも止める力は無い。ルウは表情に出さずとも腕を組んで溜息をつく仕草から不機嫌なのは見て取れる。
「つまり、次に会うのは魂喰らいが力をつけた時だ」
次が無ければいいと願うがそれはもう避けられぬこと。俺は逃げることも選択肢にはあるが、そんなことはしない。親友が犠牲になったらと想像すれば他人事ではない。今はルウを避けて遠くにいるようだが次に会うときは身近に現れる。いつ、どこで遭遇するのかさえわからないし、すでに魂喰らいは力をつけているかもしれない。安心するよりも警戒を強めたほうが賢いと言えよう。
まずは敵をより良く知ることが重要である。
「仮面の少女は鬼の角が生えたような仮面をつけてたけど、鬼とかじゃないのか?」
鬼を見たことは無いが、角が生えている印象はある。一番典型的なのは昔から伝わる豆まきの主役、赤鬼と青鬼。まさかあんな鬼ですと主張しているような存在で見た目がはっきりしているものならば世の中に現れたらスキャンダルだ。
「鬼といっても角が生えている奴がいれば生えていない奴もいる。力を発揮するときだけ角が生える奴など多種多様だが、あの仮面については他にも鉄仮面や奇妙な仮面などを被る者達がいると聞いたことがある」
「仮面は一人じゃないのか」
想像もしたくない。ただでさえ不気味な者達だというのに他にもいるとなるとそれらが集まったときの風景はさぞ不気味だろう。
「うむ。仲間にも正体を曝さず神の力に関する事件では必ず現れているらしく、鬼の力や神の力などあるかは不明だ。力を発動してくれればいいのだがあの仮面の女は魂喰らいに任せきりだしな」
力を隠しているのか、はたまた力など持っていないのか、まだ仮面の少女を鬼と断定するのは早いな。むしろ仮面の者達と思ったほうが良いかもしれない。わかっていることは同じ学校に通う同学年の人物ということだが、授業を終えて放課後に職員室へ今日の欠席者の表記を覗きに行った所他のクラスでの欠席者は無し。授業中に抜け出した生徒や保健室へ行った生徒ならば表記は無いため今度は保健室の先生にでも話を聞きに行かなければならないだろう。
「ひとまず、きっさてんへ行こうか」
「ケーキ食べたいだけだろ?」
「い、いや、そんなことは無い……ぞ?」
図星だな。
「はいはい」
拒む理由もなく、ちょうど以前に入った喫茶店があるため俺達は喫茶店へ入り、金銭感覚の無いルウはケーキを何個も注文して俺の財布を苦しめることになるとは知る由も無かった。
「ふう、お腹いっぱいじゃ」
もうすでに日が暮れて辺りを漆黒が包み込んでいた。まだ時期は夏に入っていないため風が些か冷たい。夏服の生徒が増え始めたからといって夏服にしたがまさか日が暮れても外を歩くことも無かろうと高を括っていたのが失敗に至ったようだ。最近は雨が降ることもあり風も冷えていた。肌寒い風が小さなテロに思える。
「しかし……寒すぎる。こちらの空気は吸えたものではないし寒いし、どうなってるんだ?」
ルウは俺よりも寒く感じているようだ。神海の世界では日本のように春夏秋冬ははっきりしておるまい。そもそも春夏秋冬があるのかすら怪しいものだ。
「春とはいえ夜だしな。こんな時間までお前がケーキ食べてゆったりするからだよ」
「それはあの店に言ってもらおう。おそらくケーキを餌に人間をあの場所に留まらせる罠というものではないのかあれは」
喫茶店にそんな罠があったら今ごろ店の中は人で溢れかえっているさ。それにそうなったとしたらあの喫茶店は多からず少なからずの人数だからこそ静かでゆったりした雰囲気が味わえるわけで人が多いときは俺は入らないだろうな。
それにしても今回は喫茶店で重要な話があると思いきや、彼女の口からは何も出なかったのが気がかりであると同時に俺の不安は募るばかりだ。こうなったら彼女が話すのを待つよりも、自分から切り出したほうがいいだろう。
「なあ、聞きたいことがあるんだけど」
隣を歩くルウはゆっくりと俺の顔を覗くように見て、口を開いた。
「不安か?」
記憶喰らいの神だから思考を読みとっての発言、ではないようだ。俺の顔にまるでそう書いてあったかのような彼女の仕草に俺は頬を擦ってみたくなったがもちろん何か書いてあるはずもあるまい。
「正直、ね」
「……まあわからんでもない。ただな、考えていたのだよ。お前には力を収める器として私の補助をしてほしいが、お前が嫌ならば今後の戦闘にも支障が出るし、ああは言ったものの結局、私自身がお前を我々の戦場へ引き入れるべきか悩んでいる」
彼女は俺に選択の余地を与えている。どう答えるか、答え次第で俺の人生は一変するのは至極当然。普通ならあんな命も落としかねない世界に飛び込むなんて自殺行為だし、俺は世界の中で数え切れないほどいる一般人の一人。飛び込んでも無駄死にする可能性は大きいね。
でも、他人事じゃないんだ。身近に危険な者が存在している。誰かがやってくれるから大丈夫、まさか自分が狙われることもないだろう、自分は楽しい生活を送るさ、なんて考えていて親友が殺されたら手遅れだ。
「ルウはどうなのさ。俺には素質があるとか言っておいて、本当のところただの自信をつけるための誉め言葉だったのか? それとも本当に俺には素質があって役に立つのか?」
後者はおそらくありえないと思う。まだ会ったばかりでお互い何も知らないのに彼女が俺に素質が有るか否かを見極めることなどできるはずがなかろう。彼女と過ごした時間、していたことは何の変哲の無い日常生活そのもの。なにをどう見たって素質があるかなんてわかりっこないはずだ。
「どちらでもあったよ」
しかし予想とは違い彼女の言葉は俺に理解しがたいものだった。
「……どちらでも?」
思わず聞き返す。だってどちらでもなんてどういうことか全然解らん。何を言いたいんだルウは。
「神の力を発揮すれば独特の波長が真空を伝っていく。本来それは神の力を持つものにしか察知できないが、お前は音を聞き取ったのだ。人間のお前がだ」
確かに音は聞こえていた。変な耳鳴りとは違う音。でもそれだけでは判断なんてできないだろう、聞き間違いかもしれないし、俺の耳が変なだけかもしれないし。
「それと私は補助する人間がどうしても必要だったということもある。そのために覚悟が知りたかったのだ」
いや、そうか。だから俺に素質がある、なんてことを言い、俺に素質が有ろうが無かろうがまずは補助する補助の確保を重視しての発言だったのか。そして素質があればさらに有利なのだろう。素質が無くても力の器としては役に立つし、それよりもルウが望んでいたのは危地に足を踏み入れる覚悟、力の素質よりも俺自身の素質を見定めていたのかもしれない。補助する人間の意思が駄目なら彼女も危険に身を晒されることになるとでも考えていたのか、結局俺はついて行くことになったんだけどルウにはどう思われているのだろう。嫌々言っていたから前者? 最後まで逃げずにいたから先ほどの会話では後者になる? 計り知ることは難しかったからどちらでもあったってこと?
「あの時失礼ながらお前の記憶を読み取らせてもらった」
「……おい、本当に失礼な奴だな。プライベートだぞ」
「うるさいな、減るもんじゃないしいいだろう」
まあ減るなんてことはないけどね。でも記憶を覗くのはどちらにせよ失礼だと思うけど。
「お前があの時考えていたことはお前の仲間達が身の危険に晒されるという恐怖。普通とは違う恐怖の得方だった」
何かわからないが誉められているのかな。
「足りないものは自信だ。お前は人一倍不安症のようだからな」
ええ、人一倍不安症だよ。
「だから、どちらでもあると言ったのだ」
「なるほどね。でも今の聞いてもっと不安になった」
力の無い俺がそんな素質だけ見られても神の力を持つ奴らに敵うわけはないことは変わらない。これから危地へ何度も飛び込むかもしれないし、もしかすればすでに俺の寿命は秒読みになってるかもしれないしな。
「だから私が守ってやる。お前は神の力を体内に宿せば力を使えるしお前自身が戦うこともできるし、それまでは心配するな」
「え? 力を使っても良いのか? というよりも大丈夫なのか?」
別に力を使いたいなんていう考えは無い。むしろ俺の中に神の力が入れられればどうなるのか、不安に不安を上塗りされた気分に陥るだけだ。
「私の許可を取れば使って良い。大丈夫だ、とは言いかねないがね。力を使うには体力も消費するしお前には辛いかもしれない」
それなりのリスクは払わされるくらいは当然といえば当然だが、気が進まないね。得体の知れないものを使用するなんて何が起きるかわかったもんじゃない。例えるなら人が始めて煙草の喫煙や飲酒を試みることに近いかもしれない。なんらかの害を恐れてなかなか手を出すことが出来ない、そういうものだろう。
「でも今は無力も無力、そこらの小石と変わらんからしばらく昼行灯になっとれ」
小石扱いに加えて昼行灯とは酷いな。まあ合ってると言えば合ってるから反論はしないんだけどさ。
「敵は、何時来るかな……?」
「さあな、そんなに不安そうな顔をしていても致し方あるまい。笑っていろ、ほれ、にーんまりと」
わざわざルウは俺の目の前に立ち、満面の笑みを見せた。彼女の笑みが羨ましい。俺にはこんな笑顔を表現できない。
「……笑顔を作れないんだよ、俺は」
ルウを退けて俺は歩く。俺が人生で最も辛いことは、笑顔を作ってみろ、とか笑えとか言われることだ。笑いたくても笑えない。心から笑っていても、表情には決して出てこない。無表情という仮面が俺の顔を包み込んで笑顔を押さえこんでいるんだ。どうしようもないことさ。小さい頃から変わらない、俺が強いられたルールのようなものだ。
「作れない……とは?」
後ろから聞こえるルウの声。どこかか細く不安そうに聞こえる。
「小さい頃にな、ある日俺は鏡を見て気付いたんだ。笑ってみても鏡は無表情の俺しか映さないことにね」
ルウから言葉が発せられることはなく、俺は続けて口を開く。
「一番笑顔を見せたい人がいなくなったからかな。でも、それから時子と出会ってまた笑顔を見せたいって思う人がいたから、ちょっとはマシになったんだぜ。口元とかさ」
ただ、口元だけ歪ませてるから気持ち悪いニヤケ面になることは俺にとって蛇足なので言わないがね。母さんを嫌いになったのも、時子と出会ってからの発言がきっかけだ。
『笑顔を取り戻すためにあの子とお付き合いなさい。笑顔は社会にとっても有利な武器よ』
笑顔が戻れば社会にとって有利になる、就職でも武器として役に立つ。母さんにとって笑顔は武器、温もりなど持っていないのだ。母さんの笑顔は嘘の仮面。俺は母さんの笑顔を見るたび苛立ちを覚える。だから笑顔が嫌いな部分があったのかもしれない。
「……私にはお前の笑顔を作らせることはできないか?」
俺の袖をルウがやさしく掴む。なんだと思いルウを見ると、彼女は上目遣いで俺の視線をじっと見つめてくる。こうしていると彼女がまるで時子のような、いや外見は時子なんだけどさ、心から時子のような、そんな気がして淡い思い出が蘇ってくる。
「できないよ、きっと」
でも内面の時子は、時子という魂はもうこの世には存在しない。時子は存在喰らいの犠牲となり、たとえ魂が残っていたとしても魂喰らいの餌食になったか、神海へすでに行き転生されたか、ルウは俺が望んでいることは無いと断言した。だから、俺は目の前にある光景が示す錯覚に陥り現実逃避したい感情を押し殺してあえて冷たく接することにする。
「そうか……。そうだよな、私は緒方時子にはなれないものな」
「なりたいのか?」
場の空気が少し重くなるのを感じ、俺は口調を躍らせて立てなおしを図る。
「私が憧れるもの、それはなにかわかるか?」
俺の質問を跳ね除け、彼女は質問をし返してくる。何の意図か、会話の流れから考えるに人間についてのことか。ここは一応曖昧な返事をしておこう。
「んー……なんだろうな」
「それはな、人間という生き方だ。私は人間の器に入れても人間になれるわけではない」
ルウは胸に手を当て、時子の体を羨ましがるかのように目線を落とす。
「器に入っていれば力の効力が薄れるため喰らいの力で力を蓄えなければならないし、ましてやずっと続けることなどできるわけがない。人間に危害を加えることになれば神海から神々がやってくるしな」
言わば車が走るためにガソリンを補充しなければならないってことか。彼女の場合は記憶を食らうことで力を蓄えるのだろうが、クラスの生徒達から蓄えたに違いない。でも危害を加える、ということには値しないのか。時子の存在が無くなった今、時子の記憶など価値はないということなのだろうか。
「緒方時子の器に入っている今、私は人間として過ごしていたい、人間としてやれること。そう、お前が笑えるようにしてやることぐらいしたいな」
神である彼女達は人間に憧れるが故に時子の器に入っている限り人間としての生き方を目指したいようだ。人間の俺には理解などできるものではないが、わかる気がする。何かが何かへ憧れを抱く気持ち、俺が笑顔を持つ人達への憧れ、貧しい者が豊かな者への憧れ、病弱な者が元気に走り回る者への憧れ、憧れとは誰もが持っているもの、人の数ほど憧れの数があるだろう。
「憧れだけじゃ、なれるわけでもないさ」
「だな。所詮私は緒方時子という人形繰りをしているだけだ。さあ、無駄話はよして帰るか」
無駄話、……か。
翌日、日常に些細な変化が起きた。
まあ気にすることでもないんだが、昼食を一緒に食べるメンバーに神無月が加わったことだ。神無月は時たま欠席が見られ、そのためかクラスにはまだ馴染めてないところがあった。会話が弾むので楽しいが、その反面、疑念は晴れない。敵状視察、スパイ、なんて考えるがそもそも学校内でルウが大胆な行動をするはずもないし、したとしてもルウのことだ。記憶を操作するに違いない。
神無月を仮面の少女と思わなければとてもいい女性だ。
「神無月、その食べ物を私は食べたい」
まるで英語の本に載っている参考文のような口調でルウはまた神無月に迫る。今度はコンビニのおにぎりだ。ラベルは梅干と書いているが、ルウにはそれがどんな食べ物か理解は出来ているのだろうか。とはいえ俺はルウに説明なんてするはずはない。彼女が梅干を口にしてどんな反応をするのか少し楽しみなのでね。
「ええ、どうぞ。でも大丈夫かしら……?」
「む? 何がだ?」
当然神無月の不安にルウが理解を示すことはない。
「ああ、大丈夫、こいつはなんでも食べれるから」
代わりに答えてやる。ああ、俺って親切な奴だ。
「む、そうだ。私は何でも食べれるのだ」
と豪語してルウはおにぎりを口にする。
「うぐぅっ!?」
口をアヒルのようにしてルウは身悶えた。やはり初めて梅干を食べたのだから想像以上の味にさぞ驚いただろう。
「これは……聞いてないぞ、冬慈……」
「ああ、教えてないぞ」
とまあ、昼休みはこんな感じ。何気なく過ごせている日常が嘘のようだ。敵もまだ来ないのはわかっているとはいえ不安がまだ心の中を纏う中、こんな日が過ごせるのは嬉しいこと。でも敵は必ずやって来る。それを忘れてはいけない。常にこうしている中でも気を引き締めていかなければならないだろう。平和呆けなんてしている余裕を持ち合わせることはしてはならないけど、俺という奴は……ルウにつられて心が踊ってやがる。
放課後、南雲達の誘いを断り俺はルウと一緒に帰宅することになる。神妙な面持ちでついて来い、なんて言われると俺は南雲達に断りを入れるしかなかった。今回は真剣な話、つまり神々についての話になりそうだし南雲達と話をするなんてことは当然できない。
「で、話はなんだ?」
随分と歩いたものだ。街中とはいえ人通りの少ない通り。高校生など通るはずも無い場所だ。周りは高層ビルや小さな商店ばかり。飲食店はあるも店内を覗けば中年の男性が一人寂しくラーメンをすすり店長は新聞を広げて煙草を吹かしている。そんな店を入る気にはならないね。
「うむ、生徒たちの噂を聞いたのだ。ここらの空きビルに角の生えた幽霊が出るというな」
「……ああ、角女ね」
この平輪街の七不思議としても聞いたことがある。どこにでもある話さ、幽霊がいるとか、魔物が住んでるとか、空きビルがあれば誰もが噂をつけたがる。そして尾鰭がついて話は拡大、口コミでどんどん広がっていつしか七不思議、ということだ。角女は特に最近噂になっているが、なんとも噂を広めた奴は暇人に思えるね。
それを間に受ける人間がいるから七不思議は消えない。現に俺の隣にいるわけだ。
「角女、というのが鬼だとしたらどうだ? それも最近なんだってな噂が広がったのは」
ようやくルウが足を止めたのは随分と罅が目立つ空きビル。窓なんか一つ一つご丁寧に罅が入ってやがる。さらに日陰に建っているため夕方前なのに空きビルだけ夜を迎えていた。まさかここに入る気じゃないだろうな。
「そうだけど、何も噂を間に受けるのはどうかと思うけど……。まさか噂を全部確かめる気じゃないだろうな?」
「何も全部を確かめるわけじゃないさ。特徴が一致した噂があれば足を運ぶ。それにこれは重要なことだ。その鬼が仮面の女と繋がりを持っている可能性だってある。仮面の女と魂喰らいのチビガキが一番不便に思っているのは死体の始末だからな」
魂を食らった後に残るのは死体、それをどこかに隠すとなるといつ見つかるかわかったものではないし、確かに簡単に始末できるものがあれば楽だ。そのために鬼が処理するということで繋がりを持っている可能性は高い、というのか。いやしかし言われてみれば説得力は十分。それに仮面の少女が出た場所とここは遠からず近からずの場所だ。歩けば学校だってあるし都会もある。もしも角女が鬼だとし、ここにいるとなると敵のつもりで考えればこれほど条件の良い場所に住む鬼を利用しないことはない。
行くぞ、とルウは空きビルにずかずかと足を運ぶ。ギシギシと鳴る扉を開き、ビルへ入っていった。
俺は一度空きビルを見上げて、一呼吸してからルウに続いていった。いや、怖いというよりもこれは不法侵入に値するのではないのかな、と思っただけだ。断じて、怖くないぞ、……うん。
「はぁ、空気がまずい」
ルウは口と鼻を掌ですっぽりと覆い、しかし嫌々せず進んでいく。
一階は見渡す限り何も無い。当然と言えば当然だ。一応空きビルと表記してビルを引き取ってくれる人を待っているようだがこんなぼろいビルを誰が欲しがるだろうか。足を踏み入れた靴の跡があるがおそらく大した用もない奴ばかりだろう。落書きが見られたり窓が破られたりで光が幾つも射しこむ始末。床はガラスの破片と辺り一面埃だらけ。電灯もあるにはあるが、スイッチを押してみても反応は無し。よく見れば天井の電灯がほとんど壊されている。無法地帯だな。
「二階も探すのか?」
「ああ、全部見るぞ」
ルウはさらに二階への階段を見つけるや悩むことなく階段を駆け上がる。足早にしなくても何かが見つかることもないと思うが。
「はぁ……」
溜息の後俺も後を追う。こんな場所に一人で残されたらたまらない。
二階もまったく同じ風景。違うといえば二階の窓は空きビルと表記されている看板によって窓から射す光が少ないことくらい。
「むう、当たりのようだぞ」
ルウは俺に視線を送り、目が合うや今度は床に視線を向けた。
「これは……」
それは幾つもの真新しい足跡。同じ形から一人だろう。素足でここらを歩いているようだが、なぜ一階にはこの足跡が無かったのか。まさか本当に幽霊とかそういうものか、と思ったが二階に足跡を残す幽霊なんて変だ。大きさは男性のものよりも小さく思える。女性、いや少女か。歩幅の狭さが物語っている。
さて、なぞなぞだ。なぜ一階には無く、二階にあるのか。ルウは部屋をくまなく探している間俺は壁に寄りかかって考えることにする。
一階はこの足跡が無かったことから足を踏み入れた事実は無い。素足で歩くのはあの荒れた一階では考えられず、靴の足跡等は多々見られるもどれもこの足跡より一回りニ回りは大きいし土足で大丈夫なのに二階でわざわざ靴を脱ぐこともあるまい。では一階を利用する必要は無い? 二階でずっと暮らしている? いや二階で暮らしているのならば食料確保のために一階へ降りて外に出ることは避けられない。足跡が無いのならば後者の考えは却下。
まだ情報が少ない。三階は利用しているのか確かめよう。
俺は振り返って三階へ続く階段を見てみる。三階へ続く足跡は無し。階段へは近寄ってすらいないようだ。では二階を好んで利用している、ということかもしくは二階でなくては駄目なのか。この階と他の階との違い、あるとすれば光。二階の窓はごらんの通り看板で光が射しこまない。わずか一つだけの窓からしか光が射しこんでいないため夜のような階だ。ここの住人は光が嫌いということ、となるがヴァンパイアというオチではないだろうな。しかし角の生えた幽霊がいるはずだ。角の生えたヴァンパイア、なはずは無いし俺には鬼という印象が強い。
「ああ、あったあった。随分と食べ散らかしているな」
ルウは何かを見つけてそれを拾い上げた。
白い棒……ではなく、
「骨……!?」
気味も悪からずにルウは拾い上げているが骨に間違い無い。短めのところから動物の骨かもしれない。それでも触りたくはないけどね。
「うむ。人間や動物を好んで食べるからな。しかし鬼の中でも光を嫌う特性を持つ鬼となると厄介だ」
「厄介……とは?」
溜息混じりにルウは口を開く。俺に説明をするのが面倒ではなく、本当に厄介なのが伝わる。
「鬼の中でも変わった鬼がいてな。白目と黒目が逆に染色したような眼をしている者で光が嫌いだとか。なんでも生命の流れを見る目でその分、光が邪魔で眩しいために住む場所は光が射さない場所を選ぶらしい」
特徴も、二階を好むのも辻褄が合う。鬼が住んでいることには間違いはないだろう。その事実を知るとなんだか周りが恐ろしく思える。暗闇が歪んで見えたり、小さな音でもびくつく俺がいた。なんて小心者だ俺は……。
「一階に足跡が無いことから、おそらく二階から出入りをしているのだろう。鬼のことだ、跳躍力も半端ではない。二階の暗闇が気に入っているようだし、待っていれば来ると思うが、こんな時間に出歩くのは不自然だな……気付かれて逃げたか……?」
逃げたなら逃げたでいいんだけどね。早くこの場所から離れたいよ。
「しかし、収穫は大きいぞ」
「どうしてだ? 鬼なんていないぞ?」
ルウはにやり、と意味深な表情をして床に手を触れる。すると手が光りだした。
「かすかだが、魂喰らいの気が残っている。まだ気を消すくらいの器用さはないよう――」
と、ルウはすぐさま立ち上がり、俺のほうへ全力で走り、どうしたのか問い詰める間も無く、考える間も無く飛び込んでくる。
「ル、ルウ!?」
刹那、窓が割れ、破片が床に落ちるよりも早く何かが侵入したと思いきや俺の立っていた場所まで床を削り、破片を撒き散らす。おそらく何者かの攻撃。
「誰じゃ、わしの塒を荒らしてる奴は」
いや、むしろ荒らしてるのはあんただと思うが、威圧されて反論なんてできない。
頭には赤い二つの角、白く長い髪、白髪かと思ったがかすかな光に反射するところ白銀と言った方が正しいか、見た目は少女のようだが口調や雰囲気は長い年月過ごしたような風格を感じさせる。
「鬼、か」
「いかにも」
殴りつけた床に腕がめり込んでいた。直接攻撃を受けていたらと思うとぞっとする。ゆっくりと鬼は腕を抜き、ルウに視線を送る。俺はもうすでに彼女の眼中には入っていないようだ。
「む……? その声……」
「お主……もしや」
ゆっくりと二人は距離を詰める。戦闘が始まるのか、俺は彼女らと相反して後ろへ下がり距離を置いた。あんな攻撃を見せられてはまず考えるのは逃げ道の確保。階段近くへ行く事にする。どうせ戦力にはならないんだ。出切る事は全力で逃げること。
「キスイか?」
「……姿形は違うが……その魂の流れ、ルウか?」
……戦闘は始まらない。雰囲気が和んだ気がする。窓から射す光が鬼の顔を照らしたその表情は無垢な笑みが映されていた。想像していたものよりも人間そのものの顔つきだ。黒く染まった目もその笑みで恐ろしくは見えない。名前はキスイ、らしいが二人は名前を言い合っているところから知り合いなのか。神なのに鬼と知り合いとはますますルウがわからない。一体ルウは何者なのか、神ということはわかっているが詳しいことは実際知らない。
「おお、久しい。人間界に来ていたとは聞いておらんぞ」
「別に。こっちの世界で神々の力を回収しに来ただけだ。お前こそ、こんな場所で何してるんだ? 神海の鬼族の里に帰らないでいいのか?」
「いいさあんな場所。どうせ神々と喧嘩する日々だ」
世間話に花を咲かせているのか、会話は絶えない。俺には話の内容についていけないためしばらくじっとしてるしかない。ああ、凭れる壁が冷たい。
「あの、どういうことか説明してくれないか……?」
「おお、そうだった。こいつはキスイ、神海と人間界を放浪する暇な奴だ」
肩を抱き合い、あっはっはと大笑いするルウ。どうやら敵ではないようだ。
「暇とは言うのぉ。人間界の食べ物が好きなのでな。今日は豚の丸焼きを食したのだ」
では先ほどの骨は豚だったのか。紛らわしいな。それにしても小さな体のどこに豚一頭が納まったのだろうか。
「それに近くには中華街ってのがあるから食後の運動がてら先ほどまで見て来たのだ。いい匂いがするのぉあの場所は」
「……人間は食べてないだろうな?」
ルウの視線が厳しくなるが、キスイは笑みで返した。
「はっはっは、人間なぞ食っても腹は膨れるが得はない。調理する人間を減らすのはわしとて嫌じゃ」
人間を食べない鬼、か。それならば無害であろう。鬼でも俺が想像している鬼とは違う奴がいるんだな。これから出会う鬼が皆こんな可愛らしい鬼なら話は早いのだがそう巧くいくまい。
「そうか、それと一つ聞きたいことがある。魂喰らいとの接触はあったか?」
先ほどルウが言っていたこと、魂喰らいの気が残っているということはここに魂喰らいが来たはずだが、俺達と同じくキスイが留守だったために魂喰らいは一度帰ったのか、いやそもそも何の用で来たのかが重要だ。
「魂喰らい……ああ、あのガキか。仮面の女も来たぞ。なんでもこれから世界を変える同士を探しているとか」
「世界を変える……?」
俺はルウと口を揃えて声に出す。
世界を変える、とは具体的にどういうことなのか。彼女達の持つ力は良い方向へ世界を変えるには適していない。人を襲い、魂を食らうことで何が世界を変えるというのだ。人が死んで世界など変わるはずは無い。
「それで、返事はしたのか?」
「もちろん、ノーだ。がしかし諦めが悪い奴でな。また返事を聞きに来るらしいぞ」
いつ来るのかはわからないもののいいことを聞いた。これならこの場所を見張っていればいつか仮面の少女も現れる。魂喰らいも必ずついてくるだろう。
「そうか、では返事は曖昧にしといてくれ、次までに考えておくと長引かせてくれればありがたい」
「了解了解。その代わり、なにか美味しいものでも持ってくることじゃな」
キスイは懐から袋を取り出すと、中から肉まんを出してそれを頬張った。中華街を見てきたついでの買い物ってところか、しかしどこからお金が出てくるのだろう。まさか人から盗ったんじゃないだろうな。
「さて、修理修理」
割れた窓にそこらに転がっている板を貼り付け始める。こうなるのなら窓を壊さなければいいのに。
「キスイ、思ったのだが靴くらいは履かんか? 靴がないから一階を歩けないのだろう?」
「靴は嫌じゃ。素足のほうがわしは涼しくていい。それに大地などほとんど足をつけることはないしな。ここらは高い建物が多いから飛び移り甲斐があるわ」
なるほど。ビルからビルを飛び移って行動している彼女にとってここの一階は行く必要が無いというか行くことも無いのか。ビルからビルを飛び移るのも日陰を好んでの行動だろう。
「して、そこの無愛想な男は何者だ?」
ようやく俺の存在がピックアップされる。無愛想は余計だけどね。彼女達が会話している中、俺の存在はもはや凭れる壁と一部になっていたに違いない。話が終わって『あ、なんかいる』みたいな反応がちょっと複雑な気分にさせる。
「ああ、忘れてた。奴は榊冬慈。しばらく一緒にいることにした」
忘れてたとは正直な意見ありがとう……。
「ふーむ、そうかそうか、そうなのか」
キスイはうんうんとニ、三度頷き何かに納得する。絶対に何か誤解しているだろう。
「変な誤解はするな。さて、また来るからな。暇だったら冬慈の家にでも来るがいい。ご馳走があるぞ」
「ふむ、ご馳走につられて今度行くぞ」
「おい、勝手に決めつけるな! うちだって大変なんだからな」
豚の丸焼きを食べるような奴だ、こいつが家に来たら食費が火の車になることは予測するまでも無い。
後日、角女の話に尾鰭がついて『角女と二人の幽霊』になったのは世間がアホだということがよくわかる。二人の幽霊は角女と動物を食べているだとか話が拡大していくが二人の幽霊が誰かは、言うまでもないだろう。
断章『米崎幸村』 1
今夜の風は冷たい。鉄仮面が冷えて顔全体が冷たくなってたまらない。特に今いる場所は風も強く髪が靡くたび変な髪型になっていないか不安が煽られる。人ごみを避けて廃棄されたビルの屋上で待ち合わせしたのは失敗だったが、鉄仮面を被って街中をうろつく訳にもいくまい。コートを着てきたのが不幸中の幸いといったところか。
「あら、早いのね」
後方からの声、僕はガルゼと認識し振り返る。仮面を被り素肌さえ見せぬとも言いたいような分厚いレインコート。寒さには苦手とは思えないが外見に少しは女らしさを見せてもいいと思うね。まあ素顔も本名さえ知らない仲だから女さえも疑ってしまうが、女に違いないことは確かだろう。
「時間には神経質なもんでね、遅刻は絶対にしないさ」
彼女一人、それ以外の人影は無し。警戒は極力しなくても良いだろう。
「用件は何?」
仮面の裏で溜息混じりに話していたのが聞き取れる。それほど彼女には急用はあるはずが無いのだが、世間話くらいはしてもいいと思うのに。とはいえ世間話は彼女にとって無駄話。僕は本題をさっさと言う事にした。
「最近キミの動きが不審でね」
「不審? どうして?」
彼女は腕を組む素振りが白をきり、誤魔化しを見せようという姿勢に見える。
「その仮面、以前は角なんて付いていなかったのに何のつもりだ? 鬼へのアピールか? それに神の力は我々が所持し神海への協力が義務付けられているはずだが?」
これは餌を撒いただけ。彼女への言いまわしはあたかも危険因子とされている神の力を所持、もしくは何かを媒体にして利用していると決めつけているが僕はそんなことを確認した覚えは無い。答えがわからぬなら答えを知るものに聞くのが道理、彼女から聞くに限る。
「あら、その言い回し、まるで私が神の力を隠しているみたいじゃないの」
「そう言っているとしたら?」
なかなか餌に食いつかない。彼女も僕に真実を簡単に話すほど馬鹿ではないだろう。真実を話して得をするのはこちら、彼女には神の力の損失しか残らない、が神の力を所持していなければ僕の信頼度が下がるだけでそれくらいの損失ならば何の支障は無い。
「ねえ、ヴェリはこの世界をどう思ってる?」
質問しているのはこちらのつもりだが、彼女が質問を質問でぶつけてくることは何の意図があるのか、いや、深く考えるのはよそう。あえてその質問に乗ろうじゃないか。むしろ僕への返答の意を込めた質問だ。彼女は黒、僕はそう判断した。
「……世界か。腐りきって無駄なことを繰り返す意味の無い世界、かな」
彼女の内心を読んで最低な印象を伝えたわけではない。これが僕の本音だ。
「ならあなたはなぜ世界を守ろうと神海に協力してるのかな? 不思議ねえ」
確かに、こんな世界に力をつくしても僕は表向き世界に何も尽くしていないとされて誰にも知られず時間の中にまどろみ消えていく。神の力が流出して世界が危険になったから力を回収するために神海と協力している自分、先ほどの台詞とは矛盾が生じていることはわかっている。
「大切な人達がこの世界にいる限り、僕は守りつづけるだけだ」
「はあ、なるほどね。あなたってなんだかよくわからない人」
よく言われる。嫌いなものを好きと言う変人みたいなものだしね。世界は嫌いだがこんな世界を懸命に生きる人達は嫌いではない。単純にそういうことだ。
「でも、これでわかった。ヴェリは一緒に来てくれないってことがね」
彼女は空を扇いだ。僕の言葉を聞いて何かに諦めたような、そんな感じ。
「私、“ノーデンス”から離れるわ」
ノーデンス、それは僕達が所属している神海の協力者が集まった組織、それを抜けるということはただ事ではないし、簡単にできるわけがないのだがそれを知っていてなお言うとは何か大きな理由があるということだが、ならば神の力が絡んでいると自然に答えは出てくる。そしてこれから神の力を使って何をしようとしているのか、意図や目的はわからないが力を使って何かを起こすことは予測せずともわかる。
「そんな簡単に決められることじゃない」
「そうね、でもそうしないといけないの」
彼女は仮面を取った。レインコートのフードが深く、見えるのは鼻から下、深夜の漆黒が彼女の表情をはっきりと晒さないが滑らかな輪郭、艶やかな唇だけは伺える。何をするのかと思いきや、彼女は僕の鉄仮面を突如外し、唇に唇を重ねた。
静寂。ぽつり、と雨の音がひとつ鳴り、それに続くようにまたひとつ、またひとつとゆっくりと雨が降り始める。二人の間には雨の音がはっきりと聞き取れるくらいの静寂が包み込んでいた。口付けが終わり、彼女は鉄仮面を僕にまた被せた。
「新たな名を携え、それぞれ個人を詮索すること無かれ。皮肉ね、こんなにも近くにいるのに本当の名前すら知らないなんて」
彼女が呟いた掟はノーデンスのもの。新たな名をノーデンスの最高位エリス・ノーデンスから与えられ、それぞれは本名を名乗ることは許されない。個人を詮索すれば場合によっては処罰もしくは除名もされる。個人の詮索をさせない意図は仲間意識や差別を持って感情に左右されることが任務に影響するためというらしいが、僕には理解できない掟だ。幹部になれば仮面をつけて素顔まで隠せなんて指令まで下るし、ノーデンスは何をさせたいのか、所属していて何一つ理解しがたい。
「行くのか?」
「うん、ヴェリと会うのはこれで最後」
彼女は背を向けて歩き始める。僕に止める術はあっても彼女の意思を止める術はない。
「もしも次に会うことがあっても、きっと敵同士。だから……さよなら」
彼女はゆっくりと歩き始め周りの空間が歪みだす。もはやこれは空間喰らいと手を組んでいることがわかるが、僕はあえて何も言わない。今彼女はノーデンスという正義から背を向けた、けれども僕は彼女が悪だなんて決して思わない、いや思いたくない。彼女は漆黒の光に包まれて消えていく。この光の中に飛び込めば彼女と一緒に歩んでいける。簡単なことだけど、今の僕には出来ない。もう今止めなければ次に会うときは敵同士。それでも、止めることは許されない。
ガルゼは静かに消えていった。
「僕はさよならなんて言わないよ、絶対またキミに会うから」
彼女との出会いは二年前、ノーデンスの新入りとして神海から流れてくる神を追い返す任務をしていたが、ノーデンスの誰もが苦戦する悪神を一度に数体も撃退したという報告があり名を聞くようになった。ある日、僕の住む地区で鬼が出没し始めたとき彼女とパートナーを組まされ、仮面を与えられると同時に仮面の二人組みとして僕達は名を広め信頼し合い、いつしか信頼以上の関係になってたと思う。
「会うから……」
プライベートでは絶対に会うことが禁止されてるけど、任務があれば会える。可笑しいよな。任務は無いほうが良いのに、僕は携帯電話が鳴って任務と知ると高揚していた自分に気付いていた。闘いが好きなわけじゃない、ただガルゼに会いたかったからだ。
結局、本名さえも聞くことができずにこの恋は終わったわけなんだけど。
「あ〜あ、行っちゃった」
「あっちぅが思うにノーデンスを裏切るってのもありだっと思うなぁ、なんちゃって〜」
どこから出てきたのか、現れたのは二人の神。空気を読んで欲しいね、場の雰囲気台無し。
「……うるさいチビ猫、黙れ馬鹿犬」
チビ猫の名前は咲姫(さきひめ)、馬鹿犬の名前は瑠紺華。命名は僕、なかなか良い名前だとは思ってるけど二人を見てると宝の持ち腐れって言葉が思い浮かぶ。
二人は神海、ノーデンス両方から許可を得て僕が従えている神だ。妖怪の類ではあるが妖怪の器を越えて神という存在である、一応ね。今じゃ神も形無し、ペット扱いで僕は率いている。
「絶対さっきの告白だったよね?」
声を躍らせて言う咲姫。耳を上下に動かしている様子が僕の気に障る。
「うん、でも振られちゃったです。あっちぅはハッピーエンド期待してたのにです」
なんか残念がる瑠紺華。ズボンの後ろからはみ出してる尻尾が左右に激しく揺れてるのはどういう意味なのかな? 今までわくわくしながら見ていたのか、ハッピーエンドなんて僕が期待したいくらいだ。ノーデンスがある限り僕は彼女を見逃すくらいしかできることはないのだから。
「でもそしたらうちらは神海からもノーデンスからも敵になっちゃうんじゃない?」
「あーそれは却下りたいですねぇ。あっちぅ却下りたいです」
こいつらは僕に喧嘩を売っているのか? そもそも却下りたいってなんだよ、日本語まだ憶えてないのか? あっちぅはなんか口癖になっていたから気にはしなかったけど徐々に日本語がおかしくなってるぞ瑠紺華。それに今の一部始終全部見てたのに止めにも来なかったのはキミ達の仕事振りが良くわかる。
「おい、キミ達。神海に帰りたくなかったら黙ってくれ」
「あ、怒ってる。絶対怒ってる」
「あっちぅもそう思いまするです」
まだ口を閉ざさないか。
「よかったな。僕は今非常に機嫌が悪いからキミ達を神海に送るよりも切り刻むことにするよ」
僕は背中に常時装備している刀を取り出した。毎日磨きをかけて漆黒でも黒く光る美しい刀、名は漆黒刀。斬ろうと思えば石でも簡単に切れる代物さ。
「あ、あの、その、さっきのは前言撤回で……」
「あ、あっちぅは黙りまするです……」
咲姫は三本の猫の尾をふりふりと、瑠紺華は犬耳を元気無く下げてあとづさる。さあて、彼女達をどうしてくれようか、まずはその苛々させる尻尾を一つずつ毟ってやろうか。それとも頭についてる今話題の猫耳と犬耳(犬耳は話題か解らんが)をちょん切ってやろうか。
「切り刻む前に一つ、どうしてキミ達はガルゼを見逃した?」
肩をビクつかせて咲姫が答えた。
「そ、それはですね、ガルゼは良い人だし、うちらは貴方様の指示なくては動けないものでして……」
うんうん、と瑠紺華が同感だという風に頷いた。普通なら裏切りを見せれば即刻連行か抵抗するならば殺害も認められている。彼女達はもちろんそれを知っているが、あえてそうしなかったのはやはりガルゼを連行したり刃を向けることなんて彼女達も出来ないのだろう。僕も彼女達も処罰ものだけど、誰も見ていないなら暗黙の了解といこう。もしも最初からこいつらがノーデンスに報告する気も無いことを知っていたら僕はガルゼについていったかもしれない。
僕は刀を背中へ戻す。ほっとしたように顔を見合う咲姫と瑠紺華。冗談のつもりだったんだけどな。
「あ、それと主。神の力が発動された場所の特定ができましたです」
僕は自分が最悪な奴だと思う。さっき失恋したのに、任務の話になるとそちらを優先している自分がいるからだ。仮面を被ればそれが僕の生きる道、地球が太陽の周りを回ってるように、僕は任務を中心に回っている。体が、頭がもうその行為に染み付いているからだろう。でも、こう考えてみようかな。ガルゼは近いうちに神の力を使って何かするはず、その時僕が誰よりも先に彼女に会えば誰かが彼女を殺害することもない。ノーデンスは仲間同士の連絡を極力取り合うことがないからこれか賭けだけど、多分僕はたとえノーデンスの者がガルゼを殺害しようとしたら止めるだろう。
明日にでもガルゼはノーデンスの無断脱退で捜索されるし、僕は呼び出されるだろう。その時にはさらに神の力の無断所持、悪神との協力による共犯扱いでガルゼは悪神扱いの指名手配に跳ね上がる。そうなれば無論、生死問わずの指名手配だ。
でも僕が先に見つける。見つけて、どうしようかなんてわからないけど説得はするだろうね。
「そうか、場所は?」
以前に二つの神の力が同時に発動したという現象の場所を二人に特定するよう任を与えていたが予想よりも特定は早かったようだ。発動した神の力の残り香とでも言おうか、それを嗅ぎ付けることくらい彼女達には朝飯前かもしれない。もっと難しい任を与えてひいひい言わせればよかったかな。
なんか楽してそうだから後でご飯を出すときにキャットフードとドッグフードの中に山葵でも入れておこう。僕からのささやかなプレゼントだ、大いに喜んでもらおう。
「西都高校敷地内でありますです」
僕の通ってる学校……!? いや、器や媒体を用いればどこに神がいてもおかしくないが、まさか僕の学校だとは……。灯台下暗しとはこのことだ。
「つい最近には転校生が一人、今年からは教師も二人追加されております」
「その日、午前の欠席者は二人いますが午後までには登校してます。教師は授業を行っていたため力を使用した疑いがあるのは欠席者二人かと。しかし授業を抜け出した生徒や――」
「もういい、次に神の力を使ったら僕が斬ればいいことだ。明日からお前達も学校に張りついて神の力を察知したら報告しろ」
二人に説明させると長くなりそうなので僕は一方的に一番単純な結論を出して話を絶ち切る。
「でも主がそばにいないとそれは有効じゃないです」
「西都高校は僕の通ってる学校だよ。ノーデンスに明日から学校に張り込むって報告しておいてくれ」
学校に現れた神が悪神扱いにされている喰らいの神か、それともただの動物神などが力を偶然発揮しただけなのかは定かではないが、手っ取り早い方法として全部調べればいいだけのこと。
「あれ? 主って高校生でしたっけ?」
「それも二年生です。学生の割にはちっちゃいし、咲姫のこと言えないです」
僕の身長は百六十センチほど(いやそれより満たないけどね実際)、そりゃ一般高校生の身長と比べたら背は低いほうだけど、キミ達はすごく気に障る言い方をするね。
「キミ達、おしゃべりが過ぎないか?」
咲姫は聞かれまいと瑠紺華の耳元で囁き始めた。
「二人いる妹より背が低いらしいよ」
「それは可哀想な領域に達しますです」
が、声は漏れに漏れている。僕だって小さくなりたくてこんなに背が伸びないわけじゃない。神様に「背が伸びますように」ってお願いしてもそれは馬鹿らしいことだ。背を伸ばす神はさすがにいないだろうな。そんな能力の持った神がいたら絶対に懇願していただろうね。
「黙れ馬鹿野郎! 早く行けよ! ほら! ノーデンスに報告しろ!」
「主が怒ったー」
「怒ったですー」
蜘蛛の子散らすように逃げていく二人。ようやく一人になれて僕は溜息をついた。彼女達といると会話だけで疲れさせられる。
しばらくして僕はある場所に向かった。
廃棄されたビルからは近い位置にある。住宅街に入るため僕は仮面を外し、刀は見えないように服の中へ隠した。右肩に妙な突起したしわがあるが深夜ならなんとか隠せるだろう、人はいないし、警官も巡回するには遅い時間だ。
住宅街に、僕は古道に入る。長い階段の先には森林に囲まれた左右に狐の銅像が一体ずつ並べられて聳え立ち、今にも崩れそうな建物が現れた。一応鐘もあるし、賽銭箱もある。毎回まだ神社と呼べるものになってることを確認するのが僕の日課だ。
「また来たの?」
「また来てやったぞ美坤」
狐の尻尾、狐の耳、ごらんの通り狐の神である。
「ほら、いつもの頂戴」
美坤は手を差し出し、僕は懐からいつものを渡してやる。別に大した物じゃない。ただの煙草だ。手に入れるのはかなり骨が折れる。まだ未成年であり、もう少し身長があればコンビニでも誤魔化せて購入することは容易いだろうが僕の身長は悔しいが正直に言おう、背が低いのだからね。近くにある古い自動販売機で購入するしかないが最近では自動販売機も年齢確認が厳しいためにできれば禁煙を勧めたい。
「あ〜これが無いと生きていけないわ。はいお代」
美坤は賽銭箱に手を突っ込み、僕に小銭を渡す。人様のお金なのにと思うが皆こいつに願い事をして賽銭箱にお金を注ぎ込んでいるんだ、こいつの物といえばそうか。
賽銭箱に腰を下ろし、煙草を吹かし始める美坤の隣へ僕も腰を下ろす。罰が当たるかなと思っちゃうけど隣の神が座ってるんだ、僕だって良いだろう?
「それで、今日はどうしたの? 口数も少ないし」
溜息一つ、僕はその後に口を開いた。
「振られちゃったよ。……長い間、想い続けてたんだけど初恋って実らないものだね」
煙草の煙を吐き、美坤はその後に口を開いた。
「そっか、深くは聞かないけど貴様の事だ。どうせ振った相手はガルゼ、理由はノーデンス絡みというところか」
美坤は勘が鋭い、というよりも鋭すぎる。さすが僕の百倍以上生きている神だ。
「ノーデンスなんて抜けちゃえば一緒にいれたんじゃないの?」
簡単なことを言ってくれる。
「僕の家は父や母なんていないから二人の妹を養うにはノーデンスから支援を受けないといけないし、何よりもノーデンスを指揮している奴が一応母だからね」
小さいときに父と母は亡くなったためにエリス・ノーデンスが孤児院から引き取り、僕達を育ててくれた。恩はあるけど最近は理解できないことも多いし、エリス・ノーデンスは血が繋がってないとはいえ親だが仕事のこととなると嫌な気持ちを抱いてしまう。普通の家族としても同じことがあるかもしれない。
「ふぅん、ノーデンスを抜けることは家族を裏切ること、かぁ」
「そういうこと。でも家族……なのかな。僕は母さんって呼んだ事無いんだ」
仕事ではエリス様と呼ぶことが義務付けられているし母さんなんて呼べない。家に帰ってくることは何度かあるが呼んだことは一度も無い。妹達は親しんでいるため母さん、と呼んでいるけど僕は心のどこかでそう呼ぶことを自身の何かが拒んでいるような気がする。いつも呼ぼうとして喉から出てこない簡単な一言。 母さんは僕達を家族と思ってくれているのだろうか、僕をノーデンスに入れたのは駒扱いしているからではないだろうか。重なる疑惑が僕と母さんの間にある壁を徐々に厚くしている。
「そろそろ帰るよ。煙草もほどほどにしときなよ」
「それは無理よ、次はもっと美味い煙草頂戴ね」
手を振る美坤に溜息をついて僕は神社を後にした。
今日は家に妹達しかいない。母さんはいないことだし母さんがいない日は父さんもいない。ゆっくり帰ってもうるさく言われる心配は無い。色々とあったし夜風をゆっくり味わいたい。
どうかこの夜風が、僕の心の中に渦巻く気持ちを、掻き消してくれますように。そう願う。
第四章 無力で塗りつぶすか、否か...
目が覚めても瞼が重く、体は全身をだるさが覆いつくし、昨日の疲れからなのか、今日はここ最近一番の目覚めが異様に悪い。加えて腹部に何かが圧し掛かっていて体が動かなかった。金縛りではなく科学的根拠に基づいた重みである。
「お、重い……」
寝ている間に物が落ちて被さったのか、寝相の悪さから毛布が腹部に集中してしまったのか、それにしては重い。カーテンの隙間から射す光が眩しく目を開ける事はまだしたくないため腹部に圧し掛かるものを頭の中で思い浮かべる。多分、ニ、三枚重なった毛布だろう。俺は寒がりであり、まだ春の夜は冷え込むため毛布を多すぎと思われるくらい掛ける。
瞼越しに毛布が腹部にあると想定して俺は手を伸ばした。さらりとしたものが指と指との間を通り、想像した毛布とは一致せずさらに手を伸ばして正体を探ってみる。次はこつん、と硬い物が爪に当たった。先が尖がっていて、もはや完全に毛布ではないことを把握した。
手を引っ込めて俺は恐る恐る目を開ける。横向きにまるでぬいぐるみのような、
「むぅ……」
外で鳴く鳥の声にも掻き消されそうな声で嘆き、ぬいぐるみが喋った!? ……なんていうことは考えてみると有得ず、妙なのが被さっていた。角の生えた、白い髪を垂らした物……というよりも人で間違い無いようだ。
顔を覗きこむと、昨日に出会ったキスイだった。やれやれ、と俺は思い溜息一つ。怒鳴って起こそうかと考えたが寝顔が心地良さそうで何も言えない。しかしなぜここに、それも俺を敷布団のようにして寝ているのか、寝起きで冴えない思考を朝日に目を向けることで無理やり冴えさせ昨日まで思考を逆行させる。
明確な時間は覚えていないが、昨日深夜だった。ルウが窓を開け、手を振り出すと窓の外から現れたのがキスイ。何事かと思いルウに聞くと、俺の家の位置を大体教えたため暇ならいつでも来て良いと俺に許可無く約束をしていたらしい。手を振っていたのは家の目印となる合図のようだ。
それから二人は世間話をし合うや、俺が買っておいた菓子を勝手に食べては笑い合い、静かに読書でもしてようと思っていた俺は集中もできず、かといって話に入ることも出来ないためにちょっとした孤独感を味わい、テレビをひたすら眺めているしかなかった。
何時寝たのかは覚えていない。目が覚めた場所はテレビの前、掛け布団の代わりにキスイが俺に被さって寝息を立てていた。
「おい、……ちょっと」
「……むぅ」
声には反応するがまだ夢見心地といったところ。
「重いんだけど」
「……うぁん」
肩を揺さぶってみる、が起きることはなかった。ルウは俺のベッドで心地良く眠っている。何時俺のベッドがお前の物になったのか、無理やり起こしてでも聞きたいね。とはいえキスイが俺に乗っかっているため身動きが取れない。それほど重いというわけではないが、問題は角。動かそうとすれば角が腹部にめり込んで痛い。頭を動かそうとも目を覚まさせたらさぞ目覚めが悪いだろう。反発されて角で刺されたら洒落にならない。いくらルウの知り合いとはいえまだ鬼という印象が恐れを心に滲むため下手なことをして激怒されることは畏怖に値する。
馬鹿らしいが俺が印象に思っている鬼は何かと嫌なことをされたら齧り付いたり、爪で引っかいたり、と暴力的な印象が強い。可愛らしい鬼であっても例外ではない。
恐る恐る、キスイをゆっくり静かにとどかしてみることを試みた。
「う〜……」
少しの揺れでも眉間に縦皺が刻まれる。冷や汗が額から頬へ滴るも焦らず、足元へ移動が完了する。あとは頭を支えながらそっと足を引いて、ようやく開放された。
朝の準備もあるし起き上がろう、と手をついたときべちゃり、と何かに触れる。床が濡れているようだが、何だろうこれは。濡れている跡を辿ってみるとキスイの口元に到達する、と同時にこの液体は涎だと察し俺はさっと手を引いた。やれやれ、朝からなぜこんな目に遭わなければいけないんだ。
この部屋で着替えをするのは些か抵抗があるため部屋を移動してから着替えをする。着替えを終えても二人は目を覚ますことは無く、時刻はまだ針が七時を刺したところ、無理に起こさなくても余裕はある。着替えを終えたところで凛子と会い、「昨日なんか騒がしかったけど、どうしたの?」なんて聞かれたがキスイのことを話すわけにはいくまい、「テレビを見てたよ」と一応嘘ではないことを言いその場を逃れた。部屋に凛子が入ってくることはないためキスイが大暴れでもしないかぎり知られることは無いだろう。俺と凛子の部屋は二部屋ほど離れている。声が届くこともあるまい。
部屋に戻るとまだ二人は夢の中。キスイの涎は先ほどよりも大量に溢れていた。俺はルウの肩を揺さぶり、夢の中から現実へ引き戻そうと試みるが、昨日は何時まで起きていたのだろう、なかなか起きることは無く不機嫌そうな表情をして寝返りを打つ。そろそろ起きないと学校も危ういため、ここは強引に起こすことにしよう。
「ルウ、学校だよ」
掛け布団を剥ぎ取り、上体を起こして支え、左右に揺さぶってみる。
「む……おお、ヨワキム……」
「ヨワキムって誰だよ。ほら、支度」
まだ寝ぼけているようだ。髪も飛び散ったような髪型になっていて女性らしさの欠片も無い。寝癖直しのためにある俺の櫛でまだ夢うつつのルウに代わって髪をとかしてやる。時子の時はこんなこと一度も無かった。ただ髪を触ったりしたことはあったけどとかしてやったことは経験が無い。今思えば滑らかで痛んでいないのが知識無くともわかるような艶やかな髪だ。日光に照らされて煌く黒髪、中身は違えども体は時子。こうして今も触れていられるのが嘘のようだ。
「あ、…………冬慈」
ようやく気が付いたようだ。
「ほら、学校」
「……おぉ」
ひ弱な声をあげてようやくルウは起床した。
キスイを起こすのに手間がかかり遅刻しそうになったのは予測済みのことである。
米崎の隣の席は空席、そういえばそこは神無月の席だったなと思い俺は席についた。体は弱いほうらしく周りから聞いた話では中学校の時、欠席と遅刻が目立つ生徒だったとか。それでも成績は優秀、人格も人に好まれるため彼女をクラスの輪から突き放す生徒はいなかったようだ。まあ触れ合いの時間は少なくても彼女の人格は十分に伝わる。そばにいて場が和む生徒であるため、彼女が座っていた席を見るといつになく寂しい。
一時間目の授業は国語、教師は毎度毎度説明が長ったらしいと有名な奴だ。国語が一時間目にある時は遅刻者は何かと少ない。なぜかというとこの国語教師は遅刻に対して怒鳴り散らすわけではないが、説明が長ったらしいということが問題なのである。俺は遅刻したことはないが、他の生徒が遅刻したとき国語教師は遅刻とはどのような漢字の形式でなどと説明(むしろそこからは説教である)をし始めて授業がなかなか進まない。一部は国語の時間に誰か遅刻して欲しいと願う者もいる。誰かが遅刻すればその間隠してある漫画本を読み始める生徒や携帯電話をいじりはじめる生徒がいるためいわば毎回欠席者がいるたびに授業中、手抜き出来る機会を可能性は秘めているのだ。
願う者の一人は南雲。空席を見るやちらちらと教室の扉ばかり見て授業に集中していない。そしてもう一人は、俺の隣。
「つまらーん」
恐らく昨日であろう、シャーペンなど持っていないはずだが、手に持っている米崎からもらったものであろうシャーペンをくるくると回していた。無駄に器用だな。いとも簡単に何回も指で回っているが俺には到底出来ない芸当だ。どこで憶えたのだろうか。
「とってもつまらーん」
つまらんつまらんと郭公のように鳴いて集中できない。
「わかったから、静かにしてく――」
「あー……ふー……」
俺の言葉を跳ね飛ばすあくび。どうせ話は聞いてなかっただろう。とはいえ無理に授業をさせるつもりは無い。所詮彼女は神の力を回収しに来ただけだ。力を回収したらこの世界、現世とでも言おうか、現世には用が無くなると同時に時子の器も不必要となるため、彼女はどうするつもりなのだろうか。もしも器から離れたら時子の体は空になる。ならば体は死体となるのか……? 俺は不器用にシャーペンを回して考えてみるもシャーペンが指から飛びぬけてしまう。ルウでも出来るなら俺もやってみれば意外とできるのではと思ったがやってみても無理のようだ。
「あの、申し訳ありません! 遅れました、おはようございます! 失礼します!」
そこへ慌てふためいて教室へ入ってきたのは神無月。「やった!」と南雲は声をあげてリラックスし始める。他の生徒も何やら携帯電話を取り出したり、机にうつ伏せる生徒もおり、一瞬で真剣な教室が体たらくな風景へと変貌を遂げた。
「まったく、遅刻というものはだな……」
そして国語教師のお説教が始まった。
「であるからして――」
五分後も教師の口は止まることが無く時間が過ぎる。
「というわけだから――」
十分後も変わらず、
「つまらない話が無駄に長いな」
ルウはいつもよりも退屈を得ていた。
「そうだ。おい冬慈、面白いことしてやろう」
ルウは声を顰めて無垢な微笑みを見せてくる。悪戯を考える子供のような表情に嫌な予感が全身を駆け巡る。
「な、何するつもりだよ……?」
「私の能力をな。見てろ」
ルウは国語教師に指を指すと、その指はかすかな赤い光を放っていた。近くでしかわからないようなとてもか弱い光だ。指差す先には国語教師がいるため彼に何かするのだろうと俺は国語教師をじっと見つめることにする。
「だから……」
すると国語教師の口が止まった。
「あー……何を話そうとしたのかな、ん? 神無月、いつからいた?」
「え……? さっきからずっとですが……」
目が点になる国語教師と神無月。
「ああ、そうだったか。しかし何立ってるんだ。早く座りなさい」
何をしたのかわからないが彼女に答えを聞くほどでもない。
「記憶を操作したんだな……?」
「ああ、操作したというよりも今は食したというほうが正しいな。面白いだろ? あの顔見てみろ、状況に把握できず口をぽっかり開けてるぞ、はっはっは!」
面白いと言えば面白いが何ともあくどい悪戯だ。された様子はわからないがきっと何か言おうとして思い出せないもどかしさと、突然時が過ぎたような感覚に戸惑っていることだろう。記憶を操作することはある意味体感時間を飛ばすことが可能なのだろう。今まで感じた時間を忘れてしまうのだから時間が跳ばされたような感覚とある意味では同じなのではないか。
そして食した、ということだが彼女は今日朝ご飯を済ませたには済ませたが喰らいのことで話していたことを俺は思い出した。人間の食べ物も腹は膨れるが、能力は別の空腹感が
国語教師の顔を見て笑いたくてもこの沈黙の中声を出すのは気まずいために笑いを堪えるルウ。この悪戯は関心できないので今一度だけにさせよう。
「でも誰かに探知されたりとかしないだろうな? 仮面の少女とかさ?」
「無論、心配は無い。今は些細な力を使っただけだ。探知できるほどでは無い」
それなら良い。彼女は日々力を蓄えているらしいが、それも人にはただの度忘れ等でしか認知されないため喰らいといっても言葉ほど危険ではなくむしろ無害なものであろう。だが毎日のように力を使っているため敵が探知して来るのではと不安が募るが探知されないほど些細ならばこれからも気にすることはないだろう。
俺も度忘れすることがあるが、まさか俺からも記憶を食べているのではあるまいな。
こうして再び授業が再開され、今日は長い説教が無いのかと生徒たちは一斉に溜息をついて授業を受ける。授業を受けることが普通は正しいことなのに溜息をつくとは、何とも不真面目な奴らが多いクラスだ。米崎も振りかえって「説教が短いなんて珍しいこともあるんだね。はぁ、今日は楽できないや」と溜息混じりに言うし、皆国語の時間+遅刻者がいる=楽が出来るというなんともだらしない方程式を携えているのではないだろうか。俺は国語教師の説教ほど退屈を与えられるある意味の拷問を聞くことさえしたくないため楽ができるということは考えていない。
とはいえ授業を真剣に受ける姿勢へ自ら突っ込むのも気が向かないため、ぼちぼち遅れない程度に指を走らせて耳は小声で話をする米崎と神無月へと傾けられた。
「どうしたの今日は?」
「今日はまた病院へ行っていましたのですが、バスに乗り遅れてしまって」
一体週何回の頻度で通院しているのだろうか。それほど体が弱いのに欠席は何度か見られるも学校へ通いつづけているのはよほど真面目なんだな。成績優秀、人望も厚く容姿は上の上。体が弱いこと以外は完璧だ。
「そうなんだ、でも今日は運がよかったね。またあの長い説教が始まるのかと思ったんだけど」
「ええ、私も覚悟してましたが何だか度忘れのような様子で先生は話終えてしまいますし、何が何だかわからないですけど助かりました」
「まあ先生も歳なんだろうね」
「ふふ、お若く見えて意外とお歳なのでしょうか」
外見から国語教師の歳を予想するならば二十代後半といったところか、なのに米崎の言いまわしはもうすでに腰曲がりの爺と言いたいようで国語教師に同情してしまう。しかし若いのに歳よりのような口調(主に説教での口調)がそう言われても致し方が無い部分はある。
「そういえば、昨日の夜なんだけど、街にいなかった? 声かけたんだけど聞こえてなかったようでさ」
「街……ですか? えーと、昨日はずっと家にいたので行ってはいないですよ?」
「おかしいなぁ、ほら、その手首にしてるブレスレット。ハートが半分になってるアクセサリーつけてたの憶えてるんだ。人違いだったかな」
「ブレスレットですか!?」
ふと神無月は声をあげた。何事かと皆が神無月を凝視し、神無月は周りに気付いてさっと頭を伏せる。会話が再開されたのはしばらくしてからのことである。
「その、ブレスレットについていたアクセサリーはハートが左半分の形になっているものですか?」
「あ、……多分、そうだと思う。妙に印象に残ったから」
ここからだとなんとか見える。左手首につけているブレスレット、アクセサリーがぶら下がっているがハートの形は右半分部分の物。それにしてもブレスレっトが何だというんだ。やけにブレスレット、それもアクセサリーのことを聞いてくる。
「右手首に……つけてました?」
「うん、右手首だったね。でもどうしたの?」
「あ、いえ……」
訝しげにして黙り込む神無月。アクセサリー、か。仮面の少女はブレスレットをしていたか、それはよく憶えていない。あの状況だ、ブレスレットに目がいくほど余裕はあるはずもないが、次に仮面の少女が現れたときブレスレットが正体を暴くひとつの要素として加わったのはちょっとした進歩だ。ただブレスレットをしている者がもう一人いるような気がしてならない。神無月の問い詰めた様子、それはお揃いのブレスレットをしている者を知りたげな様子。
お揃いのブレスレットをする関係となると、彼氏等が思いつくも米崎の話では神無月と似ている女性、では家族関係、姉妹もしくは双子であろうか。だが姉妹がブレスレットをしていて何か悪いというわけではない。神無月と仮面の少女が結びつかず神無月の家族関係に仮面の少女がいるかもという推測を立ててみただけだ。神無月の妹か、それとも姉か、双子の可能性もある。しかし早すぎで、行きすぎた推測かもしれない。俺は声しか聞いていないし外見も身長などくらいだ。服装はこの学校の学生服だったがどこでもそれは手に入れられるであろう、そのためにもブレスレットは大きなヒントである。
放課後、一緒に帰ろうと周りを誘うも米崎は女生徒達との約束があるとかで、南雲は最近知り合った女友達に会うとか。なら致し方ないがルウと帰宅しようと思ったのだが何やらキスイとまた話をするようで結局一緒に帰ってくれる人は無し。
それぞれの背を見つめ俺はちょっとした孤独感を背負いながら一人玄関へ向かった。
「あ、榊さん」
玄関で靴を履いていた時、神無月もちょうど帰宅のようで隣で靴を履いていた。やはり一人でいると周りに目がいかない。今日は帰ってからどうしようか、靴を見つめて俺の意識は途方無く漂っていたに違いない。
「おお、神無月も一人?」
「ええ、友達は皆部活動ですので何時も一人で帰宅です」
神無月も部活でもしてみれば? と思ったが彼女に運動系の部活は無理だろうから俺の言葉は喉から出ることはなかった。文化系は一応あるにはあるが、この学校の文化系はろくなものが無い。俺は運動系が苦手だから他を探してみたが結果は溜息がつくだけ。彼女もその口だろうか。
自然と俺は神無月と帰宅。孤独感が軽くなったな。それに良い機会だ。彼女には聞きたいことがある。話題として家族関係を聞いても不審には思われないだろうし、まだお互い良く知らない。
「そういえば、神無月さんは姉や妹とかいる? 俺は妹がいるんだけどなかなか会話が繋がらなくてね」
妹と巧く会話できるにはどうすればいいか、アドバイスを求めるといったところ。
「私には、……姉がいました」
姉、姉妹というわけか。ではその姉が仮面の少女の可能性は高い。声も似ていたことも繋がる、がしかしこれは自身が仮面の少女と結びつきを絶つ為の布石かもしれない。姉という存在を出して視線を逸らせるのが目的、とも考えたが、いや……彼女が仮面の少女なら俺やルウを見て正体がばれていないとわかればなんらかの行動は起こすはす。そういった素振りもなく関係も遠からず近からずを保っているのはおかしい。
「お姉さん? へぇそうなんだ。同じ学校に通ってるの?」
では姉が仮面の少女であり彼女は何も関係の無い白、そう思ったほうが今は良い。無駄に詮索を歪めるより素直に状況を受け止めたほうが良さそうだ。
「いえ、姉は三年ほど前から行方がわからなくて……」
行方は知れず、か。まあ仮面の少女であるのならば家族の元に身を置くなどしないだろう。追われる者となるのならば家族とは邪魔な存在。家族を捨てれば弱みは消える。
「……そうなんだ」
「でも、沙耶華は……どこか近くにいる気がするの」
姉の名前は沙那華というらしいな。近くにいる気がする、とは家族としての絆からそう感じるのか、どうあれ彼女の言葉は信じて損は無いだろう。こういう勘は良く当たる、ってね。
「あ、ごめんなさい。話がずれちゃいましたね。妹さんと会話をするならやはりその年代の話題を知ることが大事じゃないでしょうか」
仮面の少女らしい人物は沙那華、とはいえ声以外確信は無いし、俺の隣で肩を並べて歩いている彼女もまだ可能性は否定できない。それに沙那華は行方不明、動こうにも動けないな。
「そうか、わかった。色々と雑誌でも見てネタを探してみるよ」
と、言ってみるも俺はそんなことをする必要は無い。笑顔さえ作れない表情だ、会話が弾んでも凛子が笑みを見せて笑みを返す、ということもできないのだから頂点へ届かず転げ落ちて会話は終了が予測できている。凛子との会話はぽつりぽつり、世間話や母さんの愚痴の言い合い、ちょっとした会話で今は十分なのである。笑顔が作れたら、きっと変えようと頑張っていただろうが。
「あら? なんでしょうかあれは?」
街に入ったとき、神無月は何かに視線を向けた。視線を辿り俺もその先を見ると野次馬が群がっている。何かあったような騒がしさ、誰もが不安そうに互いの顔を見合い話をしていた。
「なんだろうな? 行ってみるか」
遠くから聞こえる救急車の音。徐々に音は近く大きくなっていく。
野次馬の中を潜る様に進んでいき、ようやく野次馬の向こう側が見える頃、窮屈な間に揉まれる神無月を見かねて俺は手を引いてやる。何があったのだろうか、神無月と一緒に覗いてみると、そこには一見普通の飲食店があるだけ。飲食店の店員など複数が外に出ていることからガス漏れでもあったのかと印象付ける。
「あ……」
神無月は何かを見つめ、声を失った。何を見ているのか、俺も先ほどと同じように視線を追う。
視線の先には、店内の床に被せられている布、そのふくらみから死体があったのだろう。何人もいる。そして、誰もいない店内にひとつだけ、人影が存在していた。手足は鋼鉄が包み、金色の長髪の小さな少女。重装備が人々を寄せ付けたがらないほどに重々しく畏怖を抱かせる。背中を向けて表情は伺えないが体つきがまだ幼いように思える。
「もしかして、あれがG.o.t.か……?」
詳しいことはわからないが、警察組織とは異なる組織であり、機械技術を駆使して行動するある意味武装集団だとか。数年前から悪化する犯罪の対策として設立され凶悪犯罪には必ず現れては武力で鎮圧する一応正義の味方。警察よりも地位は上らしく、マスコミもその存在を大いに取り上げていたのはニュースを見てよく憶えている。それほどの技術を持っているのならば社会のために使って欲しいと俺は思うね。排気ガスを撒き散らす車両や未だに貧富の差が見られる街、ここは大型ディスプレイを引っ下げた高層ビルが立ち並ぶ綺麗な街だが、少しあるけば以前足を運んだ貧相な街並みが現れる。そこは今俺達が歩いているフリーウェイという整った道路とは違い朽ちかけたコンクリートが多々見られる目も向けられない場所だ。おかげで営業している店はほんの少し。足を運ぶ気も起きない。
「あの中をよく歩けますね……」
口元を手で覆い、あまり視線を向けたくないようで何度か視線を落とす神無月。確かにあんな中にいられるのはよほど慣れている人間でなければ無理だろう。それにしても血痕が見られず弾痕も無く武力による事件ではなさそうなのになぜG.o.tが出てきているのかが疑問に思う。
ようやく救急車が到着し、警察も現場を検証のためにKEEP OUTのテープと、東京県警と書かれた大きな布類で完全に現場を見せまいと覆い尽くす。
「にしても、なんかごつい手足だったな」
「ええ、テロリストにも対抗できるらしいのでそれほどの武装なのでしょうか」
まるで誰かが描いたロボットのような手足、殴られたり蹴られたりしたらひとたまりも無いだろう。
「あんなのがここらに出るようになったとは、ここらも物騒になった証拠かな」
「正義の味方と良く賞されるのに、身近で見ると何だか複雑ですね」
「ふん、それは失礼」
すると目の前に現れたのは先ほどのG.o.t。ちょうど現場から出てきたようだ。話も聞かれたに違いない。正面から見ると本当に幼い少女だ。十四、十五くらいしか歳はいっていないのではないだろうか。日本人、ではないようだが日本語を話しているのはハーフか。青い二重の瞼、潤いある唇、白い肌、完璧と思わせる整った顔立ちは魅了させるが、手足の重装備を思わせる鋼の塊(仕組みはよくわからないが)、歩くたびに機械音を発し、指は関節が動くたびに機械音を鳴らし近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。服装は大胆、腹をぽっかりと見せ、胸元も強調するかのように水着のような服装をしている。目のやりどころにとても困る。
「退け」
鋭い眼光を飛ばされ、言われるがまま道を開ける。野次馬も左右に別れる。ガチン、ガチンと特異な足音を鳴らして道路に止まっているG.o.tと書かれた大型車両へ乗り込むと大型車両は大きく傾いた。体重はどれほどあるのだろうか。
「聞かれちゃいました……ね」
「ああ、聞かれたね」
野次馬はこれ以上何も見れないことに飽きたのか、人々がそれぞれ彼方へ足取りを見せる中、静かに何かが起きはじめる。
「そこの女、止まれ」
野次馬の流れに乗って俺達も帰路を目指すところへ、何者かが俺達を、正確には彼女を止める男性の声。 振りかえると妙な仮面を被った人物が立っていた。連想するのは仮面の少女、だがそれとは異なる妙な感じ。そう、仮面の少女は人目を避けるように学校裏に現れたがこの仮面の人物は堂々と人前に現れている。人前に出ることは避け、表情を隠すために仮面を被る、犯罪者のような立ち振舞いを印象付けたがこの人物は平然と人前に出てはまるで周りの視線を気にしていない。
長身、赤い仮面、仮面の中心にはビー玉のようなものがついているがそこから外界を見ているのだろうか。皮製の上着にズボン、若い男性ファッションを思わせる。声も若々しいことから実際若い青年であろう。
「あの……?」
神無月は面食らったように驚き、言葉も続かず俺の服の袖をぎゅっと握った。
「質問はするな、我々と共に来てもらおう」
「おい、いきなりなんだあんたは」
まったくもって怪しい。ここは素直に言うことを聞くのは無能だ。
「質問はするなと言ったろう? 聞こえなかったか? 本当に日本人か? それとも馬鹿か? はたまた阿呆か?」
質問はさせないくせに赤仮面の人物は質問し放題。勘に触るな。でも近くにG.o.tがまだいるんだ、下手な行為はできないはず。周りの野次馬は状況を判断できず距離を置いてひそひそ話で我関せずと言ったところ。冷たい人達だ。
「さあ、来い」
すると強引に神無月の手を掴む。
「おい! やめろよ!」
「うるさいな、貴様はこいつの何だというんだ?」
うっ、と言葉が喉で痞える、がそれもおかしい話だ。
「それを言うならあんたもこいつの何だってんだよ!?」
「質問はするなと言っただろう!」
話にならない。言っていることが滅茶苦茶だ。
「おい、騒がしいぞ」
ようやく気付いてくれた、先ほど見かけたG.o.tに所属する少女。
「ふん、G.o.tは黙っていろ。お前、確かラヴアとか言ったか。ノーデンスからの指示だぞ?」
ノーデンス、聞かない単語が交わされた。会話から何らかの組織であると同時にG.o.tよりも地位が上であるという言いまわし。どれほどの組織なのだろうか。
ラヴア、というのか彼女の名前は。見掛けによらず名前も可愛らしいじゃないか。ただ、赤仮面の人物の言葉に表情は苦味でも飲まされたような渋い顔をしてしまっていた。
「はっ、ノーデンスだと? そんな指示私は知らんな、それよりもこの街でやりたい放題する貴様らには関心がいかぬ。私の両腕もお前を殴り倒したいと言っているぞ?」
ラヴアの両腕が機械音を発し、まるで手の骨を鳴らすガキ大将のような表情へと変化する。
「おお、殴ってみろG.o.tの犬が」
「ああ、殴ってやるさノーデンスの犬が」
野次馬もこの状況を面白がって集まる中、気を紛らわされずに膠着する。完全に二人の間に俺達は見えていないようだ。さらには赤仮面の人物は神無月の手を離してラヴアに集中する。
チャンスだ。俺は神無月の手を引いてその場から全力で逃げ出した。
「あ、貴様ら! 待て!」
「貴様も待て!」
「ラヴア様! 指示があるまで待機との――」
「うるさい!」
何者かの抑止も跳ね除け、ラヴアも追ってくる。
人ごみの中を裂いていくように俺は神無月を連れて全力で走った。全力で走るなんて体育以外無く、慣れないことにすぐ呼吸は荒れる。こんな世の中だ、鍛えておくべきだったと思うが時すでに遅し、後悔の念など今は抱いている場合ではない。やばい雰囲気だったし面倒事には巻き込まれたくは無い、彼女も嫌がっているしとにかくやることは一つ。走れ、走れ、走れ、走れ、走れ!
振りかえらずとも追ってくるのはふたつの足音。一つは機械音、もうひとつの普通の足音。ラブアはあの見た目だ、俊敏さは無いだろうが赤仮面の人物は運動不足の俺よりも当然足は速いだろうが、地の利を生かしていくしかない。ここらに住んでいる人々しかわからないような道なら追いつかれないはずだ。そうだ、あの空きビルが立ち並ぶ街の通りならうまく撒けるかもしれない。小さな小道もあるため逃げるには良い場所だ。
「逃げるな!」
無理な話である。
「死にたいのか!」
無視だ無視。今は逃げることだけに専念しよう。
その時だ、後方から聞こえる何かが壊れる音、振り向くことはしないが、赤仮面の人物が何かしようとしているようで野次馬や、通りすぎる歩行者が後方を見ては驚愕を顔に出していた。気になる、が絶対に振り向かないぞ。
さらに、歩行者は逃げ出す。何が起きているのか、一度だけ振り向いてみるか。俺は恐る恐る振りかえった。
そこには赤仮面の人物が追いもせず立っていたのだが、別に歩行者が逃げるほどでも無い。ただ、赤仮面の人物の姿勢が妙であった。野球のピッチャーが全力投球した後の姿勢のようになっており、何を投げたのかと思うがここは街中、道端に落ちている空き缶や石ころなど投げるものは腐るほどあるだろうがそれで歩行者が逃げ出すだろうか。
「あ……」
神無月の呟きと共に俺の疑問はすぐに解消された。
上空を何かが通りすぎ、大きな影が俺と神無月を通りすぎる。慌しく歩行者は誰もが上を見上げて一目散に逃げ出し、俺はその視線につられて上を見てみた。
それは、――車両。
赤仮面の人物が投げたのは空き缶や石ころなんて類ではない。先ほどの何かが壊れる音、それは道路に止めてある車両を怪力などという言葉の範囲を超えた力で持ち上げ、俺達の進路目掛けて投げたのだ。耳を叩くような騒音と共に目の前へ車両が落下し、あと二、三歩走っていたら下敷きになっていたと背筋が凍る。
さらには走行中のトラックに飛び出し、トラックを掴むやなぎ倒しラヴアの進路を遮断。やることが滅茶苦茶だ。
「さぁ、来い」
赤仮面の人物はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
どうするか、逃げる、としても進路は遮断されている。ビルの中へ入るか、いや周りの人達を撒きこみかねない。
「なぜ……なぜ私を追うのですか?」
神無月は勇敢にも赤仮面の人物へ対峙する。
「質問はするな、と言いたいところだが答えてやろう。ノーデンスはある人物を追っている。ノーデンス幹部・黒仮面ガルゼだ」
「それが……?」
「貴様、白を切るつもりか? ガルゼ!」
ガルゼ、俺が追っている仮面の少女を指しているのか。では俺の敵である仮面の少女とは神無月、という結論に至る。
本当に? そうなのか……? 俺の考えでは沙那華が仮面の少女だと思っていたが、神無月がわざわざ沙那華という架空の人物を出して俺をだますとは思えない。
「し、知りませんそんな人!」
「はっ、エリス様からすでに顔写真は頂いてるんだ、お前が白を切ろうがこちらは顔をもう知ってるんだよ」
もしも彼女が仮面の少女ならここで空間喰らいを使ってこの場から逃げるのか、それとも魂喰らいを呼んで戦闘するのか、彼女を見極めるには良い機会である、だろうが俺が今考えていることはどうやってこの場をやり過ごし、逃げ出すかということ。
「すでに重罪に重罪を重ねて生死問わずで良いと報告は受けている、望むなら闘ってやる」
「な、何を言っているのかわかりません、人違いです!」
肩を振るわせる神無月。違う、仮面の少女ではない、そんな気がする。
そこへ、銃声が響いた。赤仮面の人物は首をさっと傾けると、赤仮面にうっすらと傷がついていた。
「またG.o.tか」
赤仮面の人物は隣に聳え立つ高層ビルを見上げた。
「そこまでだ、これ以上はG.o.tとしてお前と止めさせてもらう!」
高層ビルの壁は垂直であるにも関わらず銃を構えて立っていたラヴア。よくみると足が壁にめり込んでいた。トラックにより進路を塞がれたためビルの壁を走っていたようだ。おそらくあの機械の足であってこそ成せる技、恐ろしいほどに単純な力技ではあるが機械技術の進歩を見せられているようだ。あんな技術をとりあえず俺の部屋のテレビに注いで欲しいね。壁に足跡がついているのは珍風景に思えるが今は笑っている場合でも笑える場合でも無いだろう。
「ノーデンス直々の任務だ、お前らの仕事よりも重要なのだよ、その小さい頭に叩きこみな」
「そうか、なら私は気にしないでくれ。銃が暴発してお前の頭に当たるかもしれんがな馬鹿野郎め」
あの二人が言い合っている間にどこか進路を確保しなくては。
「神無月、この隙に逃げよう」
「はい、ですが……」
何か気になることでもあるのか、その場に留まりたがる神無月。おそらく赤仮面の人物が言った言葉が気になっているのだろう。エリス、というのは誰かわからないがその人物から顔写真を頂いているとのこと。そして顔写真を元に神無月に接触。
もしかしたら、沙那華とは神無月のただの姉ではなく、双子の姉ではないのだろうか。お揃いのブレスレット、神無月は左手首につけているが、彼女は米崎との会話で右手首につけているかと問い質していた。なぜ右手首につけていたのか、それはお互い誰かを把握させるため、つまり双子の姉か妹かの区別。
だったら、神無月は沙那華として、つまり沙那華は仮面の少女ガルゼであり、その彼女と誤解されて追われているということ。そうじゃないとしても、今は神無月を連れて逃げたほうがよさそうだ。ノーデンスという組織がどういったものかは知らないが、G.o.tにも堂々と逆らえるような組織、まともな組織ではなさそうだ。地位はあるようだが肝心の組織を構成する者がこうも無茶苦茶だと組織と呼ぶにも抵抗がある。
「G.o.tの犬は黙ってろ!」
「ふん、私が貴様らに逆らおうとも、貴様らが私に逆らうことは許さん」
ラヴアの銃は依然として赤仮面の人物へ向けられている。膠着状態の今なら逃げることは可能。
「おい! お前らも動くな! あとでじっくり話を聞いてやる!」
すると腰に付けていたもう一丁の銃を取り出し、左手で構えてこちらへ向ける。これでは、こちらも身動きが取れない。
次第に思うことは、大変な、なんていうか説明はしづらいが現実では絶対に味わえないようなことに巻き込まれている、でも現実はよく見渡せば何も変わっていないなんて思ってた、いや思いたかったという一種の逃げが、徐々にどうあがいても今ある風景が現実であるんだと突きつけられている気分だった。ルウが来てからもう俺の平凡な日々は急展開してジャンルが変わってしまっている。
一度は味わってみたいスリルのある生活、映画やドラマを見て影響されて望んでもいざ体験すると俺の足の揺れは収まらない。
「くそ……」
逃げることだけ考えて、心底情けないな俺は。無力、それが全て悪いんだ、この場を切り抜けれるような力があれば、……いや、望んでいるうちは手に入らない。自ら動かなければ手に入ることは無い。
「残念、君は力も持ってないのね。綾香をうまく逃がしてくれると思ったんだけど」
そこへ、神無月の声が、……いや神無月は俺の隣に立って何も言っていない、神無月と同じ声。そう、沙那華の声が聞こえてきた。
「沙那……華?」
神無月は辺りを見回す。ラヴアも、赤仮面の人物も辺りを見回し声の主を探していた。
「あら、こんにちわ。赤仮面ロルリエ。それと……G.o.tのラヴアだったかしら?」
神無月の目の前の空間は突如として歪み、そこから現れたのは仮面の少女。
「どういうことだ……?」
赤仮面の人物ロルリエはさぞ驚愕しただろう。神無月をガルゼだと思い込んでいたのに、ガルゼは神無月の目の前に現れたのだから。ガルゼは二人いる、そんなはずはない。そういうようなたじろぎを見せた。
「貴様が、この騒動の原因か?」
ラヴアの銃口はガルゼへ向けられた。ガルゼは、銃口を向けられても危機感を感じること無いステップを利かせた歩調でゆっくりとラヴアへ寄っていく。
「この騒動? ああ、なんだかトラックが倒れてたり、映画のワンシーンでも撮ってるような風景のことね? それならロルリエに言ってよ、こいつは限度を知らないんだから」
そして振り返り、今度は俺の目の前へ歩み寄る。
「それにしても、君は無力ね。これじゃあ綾香が危ないじゃない」
前かがみになり、両手を腰に当てて冗談交じりで怒ってるぞとも言いたいような態度と口調。俺は弁解も出来ず口篭もることしか出来なかった。
「沙那華……なの?」
神無月はそっとガルゼへ、恐る恐るだが寄っていく。仮面が神無月に威圧感を与えているのだろう。近寄りがたいのはわかる。
「綾香、久しぶりね。まだ付けてくれたんだ、これ」
ふとガルゼ、いや今は沙那華と言ったほうがいいか、彼女は右手首のブレスレットを神無月に見せた。
「うん、私達の絆だから……」
沙那華は仮面を取った。その素顔は神無月そのもの。双子とはこうも顔が似ているのか。本当に近くで見てもそっくりだ。
「そう……ありがとう」
「それに、その制服、ちゃんと着てくれたのね?」
「うん、せっかく綾香が用意してくれたんだもの、普段着としても着ちゃうわ」
「ねぇ、沙那華は今はどうしてるの? それにその仮面……」
神無月の問いに、沙那華は何も言うことはなかった。
仮面を被り、答えたくないと言いたげに背を向けた。
「ロルリエ、一般市民を巻き込むなんてノーデンスの失態ものね。あの女もカンカンよ?」
「はっ、お前を差し出せばチャラだ」
「なら残念。ここで私は御暇させてもらうわ、またね、ばいばい♪」
手を振り、余裕を見せる沙那華。空間喰らいがいるのだ。ここから逃げることは容易いだろう。
「まて貴様!」
ラヴアは二丁の拳銃を沙那華へ構えるが、すでに空間喰らいは事を起こしていた。
沙那華の周りが、いや俺達の周りも歪み始めている。俺達も一緒に移動する気なのだろう。好都合だが敵に助けられている感じが複雑だ。
歪んだ視界はまるで日が落ちて夜へ変わるように漆黒へと変化し、大地までも無くなり、立っているのに足をつく場所が無いという言いようの無い感覚に陥る。
「心配しなくていいわ、学校にでも送ってあげるから」
俺への言葉では無いだろう。敵同士と認知しているのだ、今の言葉は神無月にかけたもの。辺りを見て不安にしている彼女を少しでも気を楽にさせようとしているところが最初にあった刺々しさをも感じるものが一切消えて姉としての姿を描いていた。
「学校は楽しい?」
「……うん、友達もいっぱいできたんだ。でも、沙那華がいないから……ちょっと寂しいかな……」
沙那華と話しているときはいつもの敬語を使うことなく肩の力が抜けたような口調の神無月。普段は、いやきっと二人の間では綾香は敬語など使わないのだろう。
「綾香、私がどう過ごしてるか、何をするのか気になる?」
「……うん。隠し事は無し、でしょ?」
「そう、隠し事は無し、よね。でもごめん、これだけは秘密。でもね……」
沈黙。タイミング悪くここで視界は徐々に光を射し、漆黒の空間は毎朝見かける学校の風景へ象られていく。
「あ、もう着いたようね。私はまた行くから、ここでばいばい。えっと、榊くんだっけ? 君も綾香を守れるくらい強くなってよね」
「……ああ」
敵から駄目だしを受けるのもなんだかな。
「沙那華! お願い! 戻ってきて――」
神無月の声が届くことなく、辺りは完全に学校の風景になり、沙那華の姿はもう消えていた。
その後、いつもの帰り道を通らず遠回りをして念のため神無月を家まで送ることにした。あの赤仮面のロルリエという人物にいつ遭遇するかもわからない、その時のために俺が手を引いて逃げるくらいはしてやらねばなるまいからね。
心の中でどこかこう思ってた。ルウが助けに来てくれるんじゃないか、って。でも神の力を持ってるやつが力を発動しないとルウは探知してすぐに来てくれるなんてことは無く、あの時淡い期待をどれほど抱いていようと現実的に無理なことは無理。ならばせめてルウが来てくれるまでなんとかする、くらいはやらなければならないがそれも出来ないほど俺は無力だ。もしも目の前に魂喰らいが来たら、おれはどうするか。ルウが助けに来てくれるまで祈っている? それとも逃げ出す? 逃げるだけでは寿命を縮めるだけだ。戦えるくらいの力、ほんの少しでいい、力が欲しい。
今日はそんなことばかり考えていた。もしも友人達と一緒にいて敵に遭遇したら、そう考えると守るための力が必要だ。
「あの……今日起きたことはなんだったんでしょうか……?」
世の中が本当はどうなっているのか、俺もあまり知らないが何も知らずに過ごしてきた人達には今日の出来事はまるで漫画のような世界に飛び込んだようなもの。ここはどう答えるべきか。俺もG.o.tやノーデンスという組織との接触は初めてだったがルウの存在のおかげでこんなことがあっても不思議じゃない、っていう感覚はあった。ただ空間移動体験っていうのか、そんなことも体験すると頭の中がうまく回らないだろうね。
「全部夢だと思って忘れるのが一番だよ」
「……夢、ですか」
疑問系ではなく、自分に言い聞かせるような言葉。
まぁ無理な話だ。夢だと思っていられたら彼女の足取りはこれほど重いはずない。一歩一歩が何かを引きずるような足取り。現実と非現実の狭間でも歩いているようだ。今でも俺はこれが現実か、非現実か本当にわかっているのかが自分で思って疑問に思う。
「俺も、世の中がどうなってるかなんて全然わからない。つい最近少し知っただけだしな、でも君は世の中の全てを知ってはならないし知る必要も無いさ」
俺が言えるのはこれくらいだ。知らぬが仏。まったく、名言も名言だな。
「……でも、沙那華のいる世界を、私は……」
知りたいだろうな。沙那華が今どう過ごしているのか、何をしているのか、なぜ仮面を被っていたのか、どうして一緒にいてくれないのか、今神無月がどう思っているのかなんて手に取るようにわかる。
俺は神無月の震える肩にそっと手を置いた。少しでも不安が和らげば、いいけど。
「沙那華は……戻ってきますか?」
「さあ、わからないな……」
「また、沙那華に会えますか?」
「さぁ、わからないな…………」
そして沈黙。質問にはすまないが俺が答えられることは何一つ無い。
「私も……同じ世界に立てば……会える」
神無月は俺に視線を向け、無言になる。まるで俺の知っている世界を全て教えろ、と訴えているようだ。同じ世界の土俵に立ち、沙那華に会うつもりであろうが命を落とすだけなのは目に見えている。俺がこうして生きていられるのはルウがいるからであり、俺一人の力で乗り越えているわけではない。今日なんてルウがいないだけで人生最大と言ってもいい危機に見舞われたのだから。
「神無月、お前はこの日常から離れないほうが良いさ。俺が上から言える立場でも無いけどね。俺は守られているからこそこうして生きていられるけど、そうじゃなかったら今ごろ死んでる」
「でも、……でも! 私は沙那華のことが心配で!」
「お前が死んだらどうするんだよ! 沙那華に会える以前の問題だ!」
いかん、一向に引かない神無月に思わず声を荒げてしまった。
びくっ、と肩をくすめて神無月は視線を落とした。
「……」
そして再び沈黙。謝ろうかとも思ったが空気が重くて口が開かない。
「……お願いです。沙那華がもしも道を踏み外すようなことをしたら、正してあげてください」
「やるだけ、やってみるよ」
沙那華が俺の話をまともに聞いてくれるかも怪しいところだ。なんていったって敵同士だし。でも神無月のことを話せば少しは耳を傾けてくれるかもしれない。傾けたところで俺の命の保証はまったく無いわけだがね。
「あ、私の家、ここです。送ってくれてありがとうございます」
軽く会釈をし、視線を落としたまま神無月は家の門を潜った。にしても、ずいぶん大きな家だな。本当に今風というか、純白に塗られた三階建ての建物、大きな庭、それも整えられた芝生に池は日々手入れを欠かさず行っていることが感じられる。俺の家よりもすごいな。
「神無月、今日のことは忘れたほうが良い。無理なことかもしれないが忘れたほうが君のためだ。明日からはいつもと同じに過ごして、今日の出来事や今日の話題を俺に問い掛けることは一切しないでくれ」
神無月は背を向けながら首を縦に振り、重い足取りのまま自宅へ入った。あの背中を見ているだけで罪悪感を感じてしまう。
俺もそろそろ帰路を目指すとするか。時刻はすでに夜の七時を指している。
神無月の家は街から少し離れたところ。このまま街を通って俺の住む住宅街へ一直線に進めば早いのだが、今日は街を通る気にはなれない。騒動にもなっているだろうし、神無月の自宅へ向かうまでに何度サイレンの音を耳にしたことか。それが俺たちが原因なのだからある意味逃亡中の凶悪犯になったような気分だ。
遠回りしてようやく学校へ着いた頃、
「冬……慈……! はぁ……ふぅ……」
息を荒くして走ってきたのはルウ。探してくれていたのか、俺の顔を見て安心して肩の力を抜いていた。
「ルウ……」
息を整える間もつかず、ルウは口を開いた。
「実は、今日、力の発動があって、……はぁ……ふぅ」
「ああ、わかったからとりあえず息を整えろ」
素直にルウは息を整えようとガードレールに腰を降ろしてしばらく深呼吸に専念する。よほど走っていたのだろう。
「力の発動は俺の目の前で起きたよ。今日、神無月と帰宅してたら色々あってね、G.o.tとか、ノーデンスとかに遭遇したり、それに仮面の少女とも会ったよ、巻き込まれてたところ助けてもらった形になった」
「助けて……もらった?」
こんな時間だ、家に帰りながらの方が効率が良い為ルウの重い腰を一旦上げさせて、自宅に向かいながら俺はルウに一連の出来事を全て話した。
「……なるほど。ノーデンスという組織は知っているが、G.o.tはよくわからんな」
G.o.tはさすがにルウでも知らないだろう。こちらの世界の俺でもよくわからないんだ。
「ノーデンスってどんな組織なんだ?」
「こちらでは政府と繋がっていて政治力があるらしく、人間に知られぬよう神を使い悪神を鎮圧する組織、だ。」
ふぅん、と関心する間にルウは言葉を付け足す。
「私達が知る表向きのはな」
「……表向き?」
「ああ、裏では悪い噂しか聞こえない。政府を意のままにして政府自体を操作し悪政とも言いかねないこともしているとか……。ま、噂だがな」
確かに、あの暴れっぷりはノーデンスの悪い面が丸見えも良いところだ。それも赤仮面ロルリエはどうせ捕まらないというようにG.o.tを挑発していた。
「だが元からこちらに住んでいる神を従えて力を高めているところが何か企んでいるような気がしてならないのだよ私は」
俺の第一印象からすると、ノーデンスは正義と言い難い。何か企んでいても不思議ではないくらいね。ただ一つ思い当たること、「でも悪神を鎮圧するなら一応味方ってことじゃないのか?」と俺は質問してみる。一応ルウとは同じ同業者のようなものではないだろうか。
「まぁ……一応な」
ため息混じりにルウは呟く。同業者だが、納得はいかないようだ。話を聞いてればその気持ちはわからんでもない。
「それと、…………すまぬ。私がついていれば危険な目に会わなかったものの、私のせいで……」
「な、何畏まってるんだよ。謝ることなんてないさ、俺が無力なのがいけないだけだ……」
それでもルウはしょんぼりして自分に自責の念を感じているようでとぼとぼと歩いていた。……俺がルウのように立ち回れれば良いだけだし、ルウにはルウの都合がある。俺がちゃんとしてればいいだけなんだけどなぁ。
どうしてルウがこんなにも俺の心配をするのか、俺が神の力を納める器としての役割だからなのだろうか、とはいっても器なんてほかにも探せばいるだろうしそんなに俺の重要さは無いはず。ルウってよくわからないな。時子とは違って、本当に考えていることがわからない。
自宅に着き、倒れこむように俺は布団へと飛び込んだ。生きている、布団の温もりを得て実感。
「冬慈、ごはんはいいのか?」
「……ん。いらない、ルウは食べてきなよ」
「なら私もいらない」
「そっか」
両者空気にはなれず、ってか。ルウは落ち込んで食事も喉を通らないことなんてそんなにないはずだけど。
俺は壁に貼ってある写真を見つめた。その写真には存在喰らいのせいで時子がすでに写っていないが、確かにそこにいたという事実は消えていない。俺と、米崎と、南雲と、時子。四人で固まってこれからの学校生活にって記念に撮ったものだ。前に米崎と時子が屈んで、後ろに俺と南雲が立って撮ったはずだが前には米崎しかいない。
「時子……」
戻りたい。あの頃に。
「む?」
床にうつ伏せてテレビを眺めているルウが反応。
「いや、ルウを呼んだわけじゃないよ」
「……そうか」
ルウは視線をテレビに戻して溜息。ふと、俺はルウを見て思いついた。
「なぁ、ルウは記憶を操作する能力を持ってるんだよな?」
「ああ、そうだが?」
再度ルウはテレビから俺に視線を移す。う〜む、表情はぱっとしないが一応ルウってすごい奴なんだよなぁ。
「なら、俺が覚えている時子の記憶。もっと鮮明に思い出すこと……なんて出来ないか?」
すると表情は疑問に満ち始める。おかしな行動だろうな、ルウにはわかるまい。誰かを失ったとき、一番大切にしなきゃならないものは形見とか物ではない、想いだ。
「……出来ない、わけは無いが?」
「時子との思い出を……振り返りたくてね」
死んだ人のことはあまり深く胸に抱かないほうが良い、その先を歩めなくなるから、と昔教えられたことがある。でも俺はずっと想っていたい、こんな不安な時には特に時子のことを考えて心を楽にしたい。
「お前の為にはなると思わないが、……やってやろう。一番鮮明に思い出すなら少し寝たほうがいい、夢を記憶の再生媒体として活用するからな」
夢の中で時子との記憶が再生されるわけ、か。
「ああ、わかった」
ルウはの額に手を置き、しばらく念じるように目を閉じ、そのまま硬直する。その間俺は眠りにつこうと瞼を閉じて待つことにした。今日は色々とありすぎて疲れも溜まったからこのまますぐ眠れそうだ。とはいえ中途半端な時間に眠ると深夜に起きてしまうのは俺の妙な癖だ。あぁ、目が覚めたらシャワーを浴びて、胃に何か詰め込んで、歯磨きでもしよう。
まどろむ間も無く俺はいつしか眠りについた。
断章 米崎幸村 2
ようやく授業も終わり、日直やら掃除やらを済ませてあとは帰るだけとなった放課後。
「兄さん、僕は今日、友達と帰るから、遅くなったら夕飯係りお願いね」
「……了解」
学校で香奈が話し掛けるのは珍しいな、と思ったが夕飯係りを任せるために話してきただけだったようだ。
「今日、……あの人達は?」
「どっちもまたいないよ」
あの人達、っていうのは父親と母親のこと。香奈は父さん、母さんなんて呼ぶことは無い。血が繋がっていないからではなく、心が繋がっているということが問題だろうね。家に帰っても普通なら迎えてくれるはずの父さんと母さんは僕達にとって家にいないことが普通なのだ。
現在父さんと母さんは別居中であり、母さんが居ない時は父さんが家に来てくれることが時々ある。まぁ時々っていう範囲は半年に一度。それでもいつ家にいるか僕達には定かではないので香奈は毎日同じ質問をする。香奈が苦手としているのは父さんのほう。僕にとっては能天気でそこらにでもいる父親って感じだけど香奈には苦手意識が根付いているようだ。母さんのほうは、というと同じく香奈は苦手意識を持っているようだけど父さんほどではない。女同士だからってのかな? 小さい頃は母さんによく遊んでもらったことからかもしれないけど、僕にはよくわからない。母さんの本当の姿を教えたら尻尾を巻いて逃げそうだな。……教えないけどね。
「そっか、じゃ。僕は行くから」
「香奈、あとな、自分を僕って言うのやめたほうが良いんじゃないか? 女の子だろ?」
僕は男だから良いとして(青年と言える歳にもなって僕という癖が直らないのはよくないのかもしれないが)、香奈は女の子だ。誰に似たのか、というと僕自身以外原因は無いだろうけど、まさか香奈も僕呼びが直らないとは思ってもいなかった。
「もう! 兄さんったらいきなりなんだい?」
「その口調も、いいかげん直したほうがいいと思うよ?」
兄妹そろって僕呼びとなるとなんだか恥ずかしいんだよね。加えて香奈は堅苦しい口調。これでは好意を持つ男性もそうそう現れないだろうに。容姿は良いんだから、女性として自分をそろそろ見つめ直したほうがいいと僕は思うね。
「僕は僕! 兄さんは兄さん!」
「そうだけどさぁ……」
「僕は僕!」
「まぁ……だけどさぁ」
「兄さんは兄さん!」
「……だよね」
強引な攻めを受けることが出来ず結局僕が挫けて終わり。香奈には口喧嘩でも勝てる気がしない。一度小さい頃喧嘩した時なんか香奈はぐーで殴ってきて僕をぼこぼこにしてしまったしね、口喧嘩程度は勝てるようになりたいと思ってもこのありさまだ。僕ってなんだか、兄としてどうなんだろう……?
「じゃ! またね! はい! これ食費! 今日はハンバーグで!」
「……うん」
数枚の千円札を手渡され、香奈は不貞腐れながら背を向けて急ぎ足で帰っていく。よほど苛っとしたのだろうか。今日は家に帰ったら顔を合わせづらいなぁ。
「あはっ、尻に敷かれてやんの」
香奈の背を見つめていたところに後ろからクラスメイト芳月乃美祢が僕の肩を叩いてくる。
「妹っていうのは面倒で困る……」
「うんうん、わかる。年頃になるとほんとね、大変だね、面倒だね、かわいくないね〜」
頷きながら同感という風に眉間にしわを寄せ、渋い顔を見せる。僕よりも苦労してるんじゃないかな彼女は、と思ったけどここで一つ、妙なことがある。
「……って美祢は妹いたっけ?」
妹がいるとは初耳だが、
「うんにゃ、いないよ。あたしの兄ちゃんと兄ちゃんが言ってた」
だよね。兄が二人いるって言ってたの覚えてるけど妹なんて聞いたこと無いもんね。
「さぁて、一緒に帰ろうかぁ、妹ちゃんとも一緒に帰れなかったし、あたしが代わりになってやんよぉ」
肩をぽん、と叩かれ同情された気分を味わいながらも僕は結局こいつと一緒に帰ることに。……別に香奈と一緒に帰りたいわけじゃなかったんだけどなぁ。
「あたしが思うにさぁ、年頃の女の子はもっと労わって接したほうがいいと思うんだぁ。あたしだって兄ちゃんと喧嘩したときなんか翌日謝罪とケーキとぬいぐるみ貰った事もあるしさぁ」
「……」
「何かプレゼントとかしたことあるぅ? 誕生日以外でさぁ。時には妹ちゃんのために尽くすのもいいと思うんだぁ。あたしはそういうのがあったから喧嘩しても兄ちゃんを嫌いになることはなかったしさぁ」
「……」
「まぁでもねぇ、難しいよねぇ、兄ちゃん側のことはわからないけど、妹側としてはね、そういう家族愛っていうのかなぁ? そんな感じのが欲しいわけよぉ」
「……」
「あたしはやっぱり兄ちゃんに指摘されることなんていっぱいあったさぁ。でも兄ちゃん達はちゃんとあたしのために時にはプレゼントしてくれたりねぇ、良いところあるから成り立ったわけでねぇ」
「……」
「さっきの会話聞いたところだと、なんだかぎすぎすしたのを感じるわけよぉ。もっと指摘するだけじゃなくて誉めることも忘れず、妹ちゃん中心で物事を考えてみるってのも一つの手だと思うわけなのよねぇ」
「……うん」
本当にこいつは喋りだしたら止まらない。僕の返事を聞くことも無く一人で喋って自分で結論を見出してしまう、が一理ある。僕も香奈の欠点ばかり見て良い所なんて見ようともしなかった。僕が望む妹であれ、と思うばかりに香奈の個性を潰す事しかしようとしてなかったのかもしれない。香奈は唯一血の繋がった家族だ。ここは彼女の意見を素直に聞き入れてプレゼントの一つは買ってみようかな。
「なぁ、美祢はそのお兄さんたちからプレゼントされたものの中で何が一番嬉しかった?」
「う〜ん、形に残るものよりも想いが感じられるものがよかったね。食べ物とか、さぁ」
食べ物か、……無理な話ではない。料理をすることなんてこんな生活ならもうすでに慣れているし自分ではなかなか料理の腕は巧いほうだと思う。
その時、道路を妙に低速で走る高級さを漂わせるリムジンが通り、美祢は「すんごい車〜」なんて興味を持っている中、僕はどこかで見たことがある車だと記憶を辿っていると僕のすぐ隣で歩く程度の速さまで速度を落として窓が開かれた。
「はろー、幸村♪」
ひょうきんな口調で中から顔を出したのは米崎恵理栖、僕の母さんだ。黒い整ったスーツに身を纏い、仕事中に思えるのだが、
「……何してるんだよ」
という疑問。
「見ての通り、息子に会いに来たんだけど?」
「幸村のお母さん?」
小声で聞く美祢に僕は黙って頷いた。
「彼女かしら?」
「あ、芳月乃美祢と申します」
「どうも♪ 母の恵理栖です、こんな息子ですがどうぞよろしく」
ぺこりと頭を垂れて畏まる母さん。
「なにがよろしくだよ」
「あら? 違った? セックスフレンド?」
「ええええええ!?」
「あ、あほか! 何言ってるんだよ! もういいから帰ってくれ!」
母さんは見ての通り、品の無い冗談が大好きだ。こんなだから香奈によく怒られるし、母親なのか子供なのか僕には疑問に当たる。とはいえ香奈にとっては明るい母親というのは心の安らぎにはなる。問題はこの品の無い冗談を一回の会話で必ず話すのを直して欲しいと願うばかりだ。
「そうはいかないのよね。今日はお母さんと一緒に帰りましょう〜♪」
運転していた執事が車から降り、ご丁寧にドアを開けて頭を下げる。加えて「どうぞ、幸村様」なんて言われると美祢にはどう思われるかが心配だ。
「ね、ねえ、幸村の家ってすごいの?」
小声で聞いてくる。僕は平凡な家庭に住むごく普通の高校生を貫き通したかったが、変に大富豪なんて思われると気が参ってしまう。
「いや、母さんの仕事関係上のことで家庭は普通」
なんとも苦しい言い訳だ。「な〜るほど」と一応は納得してくれたが誤解は避けたいな。普通の高校生、これは僕が望む現在において理想の姿なのだから。
「美祢ちゃんも乗ってかない?」
「え? あ、そのっ」
「まぁ、乗っていきなよ」
ということで妙な帰宅になった。車内には僕、隣には美祢、向かいには母さんが座り、白ワインを口にしている。
「幸村のお母さんって若いね……」
先ほどから僕には囁き声、美祢は母さんを前にして些か緊張気味に見受けられる。
「そうか?」
その声に僕も囁き声で返答。母さんが人前に現れることは少ないが、運良く母さんと出会った人は必ず言うことだ。「お宅のお母さん、若いねぇ」、「お母様、お若いですわね」、「いやぁ、若い!」。最初は絶対そう言う。そのたびに僕は「そうか?」と返答するのがお約束だ。とはいえ、若いと言いたい気持ちはわかる。妻子持ちにも関わらず息子の僕でさえ母さんは若いと思えるし、探しても見当たらないしわ、整った顔立ち、女性誰もが望む完璧と言えるすらりと流麗さえ感じる体型、カールをかけた黒髪、二十代……いや十代と言われても誤魔化せるかもしれない。
僕が小さい頃から母さんの容姿は変わらず、とはいえ母さんは若い頃に僕と香奈を引き取ったので現在は三十代、それくらいなら化粧で賄えれるだろうがスタイルを維持しているのは脱帽もの。
「学校生活はどう? うまくやっていけてる?」
「ぼちぼち」
「美祢ちゃんはどうかしら?」
「あ、はい! 充実してます!」
少々硬くなっている美祢に微笑を浮かべながら、母さんはなにやら意味深な視線を送っていた。僕と、美祢を交互に見て、次に窓へ。白ワインを口にしてふふふ、と何を考えているのやら。
「若さって良いわね、青春万歳」
横目でちらりと僕を見て口を開き始める。
「母さん、何を言いたいのかわからん」
「いろんな方面で喜ばせてあげないとね〜」
「母さん、少し黙っててくれないか?」
「あら酷い」
これ以上母さんの口を無法地帯にしておくと会話の品が下がってしまう。美祢は顔を引きつらせて笑っているし、少し居辛い場の空気になってしまったじゃないか。
「あ、ここです」と美祢は言い、車両が止まる。
「じゃ、またね美祢ちゃん」
なんだその意味深な発言は。まぁいいけど。
「明日またな」
手を振ってなんとか笑顔で帰ってくれる美祢を見て少し安心。先ほどの会話で精神的に疲れてないか心配ではあるがね。
そのまま車両は出発し、向かう先は自宅、だろうがそれは普通の家庭の帰路である。
「で? 一緒に帰りたいから来たわけじゃないよな?」
母さんの意図なんて見え見えすぎる。どうせ仕事の話。そうじゃなきゃ滅多に人前へ出てこないのにわざわざ学校近くまで僕を迎えに来るはずは無い。親子愛? そんなものがあったら母さんは毎日家にいて家事をして、息子達を迎えてくれるはずだ。
「話が早いわね。これを見てほしいわ」
懐から出してきたのは一枚の写真。手渡されて僕は写真を見ると、一人の少女が写っていた。肩までかかる艶やかな黒髪、うっすらと朱に染まる頬、潤んだ唇、つぶらな瞳。整った顔立ちで年齢は十五か十六ほどか、同じくらいの歳に見える。第一印象は綺麗な少女、そしてどこかで見たことのある少女。
「ノーデンスに所属している子よ。とはいっても幸村は顔を見たことはないわよね。素性を知ることは禁令だけど、今回は別。突然ノーデンスを辞めると報告を受けてそれから行方不明よ」
確信した。間違いない、これはガルゼだ。
「私には一言も無し。つまりは許可を得てないので無断脱退、加えて報告によると神力を所持し、隠してるとか」
僕は報告していないが咲姫と瑠紺華には何か聞かれたら正直に話せとは言ってあった。彼女らの報告によるものだろう。
「さらに妙な情報もあったから彼女を本部に留まらせるよう本部に言ったんだけど彼女が最後に本部から出るとき警備が止めたところで何人か負傷もさせたみたいよ。死亡者も出たみたい」
ガルゼは何かを企んでいる。それは誰にも止められることではないほどの志なのだろう。止めるのならば容赦は無し、そんな気持ちが伝わってくる。恐れさえ感じてしまうよ。
「名前は私の管理するデータを見ればいいのだけれど、何者かに彼女のデータだけが消されてるのよ。私も最初の頃しか目を通してなかったからよく憶えてないけど、彼女らしい人物が幸村と同じ学校に通ってるらしいのよね」
「僕と同じ学校……? まさか?」
「そのまさか。名簿から名前は神無月綾香。一年生よ、だからわかってるわよね?」
ああ、そういうことか。僕は目を伏してその言葉の意味を噛み締めた。わかっている、死亡者まで出したのだから生死問わず。前線で悪神と戦闘している僕ならなおさらその役を背負うには適任である。
「と、言いたいところだけど実はロルリエにもう任せてるのよね」
「ロルリエ……だって?」
仮面の一人、赤仮面ロルリエ。仮面に選ばれているとはいえ人格はあまり誉められたものではない。乱暴、口悪、彼の第一印象は? と聞かれたら僕は間を置かずそう答えるだろう。
「な、なら僕が行く。奴にはそんな任は向いてないだろう?」
「あら、幸村。あなたは駄目よ。パートナーとしてガルゼと組んでいたのだから今回はこの件に関して一切の関与を禁止します」
「なんだって!? なら僕は何のためにノーデンスに存在してるんだよ!」
母さんは何もかもお見通しのようだ。僕がガルゼを助けようとしていることまでも見通しているようにワインをかざし、泡立つワインの中から僕を見ていた。さながら水晶から僕を見通し占う婆。ワインの香りを楽しみ微笑するところから正しくは魔女といったところか。目の前の魔女は言う。「パートナーとして、でもそれ以上の絆が出来ていれば任務に支障をきたすでしょう?」僕は「部下を、息子を信用しないのか?」と魔女に問い掛ける。
魔女はワインを一気に飲み干し、煙管を取り出して喫煙し始める。喫煙をするならば素直に煙草を買えばいいのだが、母さん曰く煙管のほうが煙草よりも美味いらしい。とはいえ喫煙者の領域に対する好みだ。僕には理解することなどほど遠いことであろう。
僕への返答はいかにと思うがその仕草がすでに返答ということなのか、それならば僕は母さんを信用することはできない。
「お母さんはね、幸村が危ない目に遭うのは避けたいのよ」
ふぅ、と煙を吐いてそう言う。魔女め、そんな言葉では揺るがないぞ。
「それにガルゼはもう人を殺してるのよ? 悪神も従えてるし、報告では空間喰らい、魂喰らいも従えてるらしいじゃない」
「そんなこと、どうだっていいだろ? 僕だって今まで悪神との戦闘は経験している」
「喰らいの神との戦闘は未経験でしょ?」
痛いとこをつかれた。悪神とは何度も戦闘をしているが言われるとおり喰らいの神との戦闘はまだ。どれほどの力を持っているのか、どのような能力なのかは想像するくらいしか詮索はできないが今の僕は喰らいの神には勝てないと言いたいのか、魔女はこれ以上の反論はないだろうと予想してかワインを注ぎ煙管で一服。
何か反論してやろうと僕は脳裏に言葉を紡ぐが魔女を言い包めるほどの威力を持った文章を作れず視線を窓の外に放り出して腕を組んで溜息をついた。
そろそろ夕焼け。空は朱に染まり雲も滲むように色が染まっていた。思い浮かぶのはガルゼ。今どこで何をしているのか、わかることは同じ空の下にいることくらい、同じ大地の上にいることくらい。……確信はないけど。
僕の視線を戻させたのは道路を走る音くらいしか響いてこない車内に流れた携帯電話の音楽だった。今話題の歌手が歌っているいわゆる着メロってやつ。母さんはそういう面でも若いといえる。
母さんは打って変わって真剣な面持ちへと代わり、電話に出る。しばらく電話の対応をし、電話を切ると、母さんは僕に言った。
「飲食店で魂喰らいによる事件があってね。死者が十二名、対応はG.o.tがしているらしいわ。ちょっと面倒なことになったわね」
日本政府武装鎮圧組織G.o.t。主にテロリストに対して動くはずなのだがなぜG.o.tがはたから見れば飲食店でのガス漏れではないかと所見で思う事件に首を突っ込んでいるのだろう。母さんはもうすでに事件を知っていたことからノーデンスの部下達を現場に送っているはずだが、現場はG.o.tが押さえているようだ。これでは悪神のことを理解していない彼らがいるため動きづらい。
「それと、ロルリエがガルゼと接触して現在追ってるらしいわ。G.o.tと揉み合いにならなければいいけど」
「あいつは被害を出しすぎるから、絶対揉み合いになるだろ」
煙管を吸い、悠長に煙で輪を作る母さん。そうなっても良いということか。どうせノーデンスのほうが権力があるのだろうし、心配は無いのだろうけれど。
「G.o.tはラヴアが出てきてるらしいわ。ノーデンスの機械技術を与えてそれの実験台となった子よ」
「ああ、あの子か……」
まだ幼い子だが、ノーデンスとG.o.tが共に協力し合うためある意味での生贄となった人物だ。ノーデンスは技術を与え、G.o.tはその技術を実用し結果を報告する。そうして新たな兵器が誕生するわけだ。悪い言い方ではあるが。
今ラヴアが実験台となっている兵器は人が自ら機械をスーツのように装着し、神経は機械へ直接リンクすることで自在に機械を操り、超人的跳躍や怪力を可能とする【マキナ】と呼ばれるもの。ノーデンスの部下でも実験はできるだろうが、母さんはあえてG.o.tにその技術を与えてG.o.tと表向きの和解をする反面、動きを見やすくするために協力したのだろう。腹黒ってのは母さんのために出来た言葉じゃないのかな。僕はそう思うね。
「幸村はこの件に関しては何も干渉しないで自分の任務に専念しなさい。通ってる学校の敷地内で神の力が発動されたらしいじゃない。幸村にその件は全面的に任せるわね」
「ああ、わかったよ」
「それと、お母さんは今日も帰れないから、香奈によろしくね」
「……ああ」
家まで送ってもらい、今日も寂しい自宅へと僕は帰る。母さんはそのまま本部に行くようで一応車を見送ってから自宅へ入る。せめて香奈が帰ってくるまでに夕食を作って迎えてやりたい。父さんも母さんもいないのが当然の家族。それならば僕ぐらいは香奈を迎えてやろう。
いつか家族四人で毎日過ごせる日々がくればいいけど、きっと叶わぬ願いだろう。
後の報告で、神無月綾香はガルゼではなく、双子の妹であるとの報告を受けた。資料を洗っても神無月の姉についての情報は無く、現場にいたロルリエの話からガルゼの名前は沙那華。任務からは外されても僕は一人で彼女について調べよう。沙那華を救えるのなら危険など取るに足らぬことだ。
窓から広がる広大な夜空に存ずる月を見上げて僕は決心した。
第五章 交響曲の始まり
目が覚めたとき、涙が溢れていた。
まだ目覚めて間もないためか、夢の記憶は鮮明に憶えている。文化祭で時子と一緒に学校内を何度も回ったこと、学校帰りに新しいデザート専門飲食店が開店したため長蛇の列にかまわず並んだところ日が暮れた頃にようやく入店できて二人で笑いながらデザートを頬張ったこと、時間にしたらどれくらいだろうか。夢は脳が感じ取っているために時間軸が無いらしく、俺には目が覚めたとき、何年も時が過ぎたような感覚に見舞われていた。まだまだ思い出は溢れるほどにまるでコンサートのアンコールのように繰り返し脳内で再生されるが、一度心の中に納めよう。
俺の胸元に倒れるような体勢で眠っている時子、では無くルウがいて、目を覚まさぬようそっとルウをベッドに戻して、しばらく俺はルウを眺めていた。月夜に照らされて魅了をも醸し出す彼女の寝顔。寝息もかわいらしい。時子の姿をしているために好意さえ抱いてしまいそうだ、が好意を抱き関係を築いても時子ではないという事実が俺の心に纏わりつく時子への想いが邪魔をしてルウに時子らしく振舞うよう束縛をしてしまいそうな自分が予測できる。ルウに求めているのは想いではなく時子という存在。行き着く先はそれなのだ。
部屋を出てシャワーやら食事やら歯磨きやら済ませてコップ一杯表面張力さえ起こりそうなくらいに汲んで食卓の椅子に座る。水を喉に流し込み、渇きが癒される。寝起きは必ず水を一杯分飲まなければすっきりしない。
「冬……慈」
いつの間に目を覚ましたのか、ルウがさぞ重たそうな瞼を擦りながら俺の元へ歩いてくる。まだ微量ほど残っていたコップの水をそのまま口に運び、ルウは小さな落ち着いた溜息をついた。
「起きたのか」
「お前がいなくなっていたから……」
すると俺が起きてからすぐに目を覚ましたようだ。悪いことをした。起こさないように気を配ったつもりだし、熟睡していたと思ったんだけどな。
隣の席へと腰を下ろし、まだ眠たそうに細目をしているルウはもう一杯水を要求してきたためコップに水を注いでルウにやり、俺はシャワーやら歯磨きやら何も詰め込んでいないために鳴り出した腹の虫を黙らせるべく軽い食事を摂り、あとは眠るだけとなったのだが、ルウは食卓に上体が倒れるようにして寝てしまっていた。やれやれ、何をしたくて起き上がってきたのだろうか。その後、また俺はルウをベッドへ運ぶことになり、もう寝るだけというだけなのに面倒な存在に溜息をついた。
それから暦上でそれから三日ほど経過した時のことだ。神無月はあの出来事があったためか、それまでは欠席していたが今日は来ていた。とはいえ表情はどこか不安さを見せており、また何かに巻き込まれるのではないかと危惧しているかのようであった。無理も無いな、俺はルウという頼りになる存在があったが、彼女は誰にも守られていない。
「さて、今日はちょっとした留学生を紹介するわ」
夏樹教師は満面の笑顔を振舞いながら教室の扉へ、さながらマジックで脱出ショーを成功させたことを証明するアシスタントのように手を差し伸べた。
「聞いてないよね、留学生が来るなんて」
振り返って米崎が言う。噂も無いし、教師も机を用意するとか素振りも見せていなかったからあまりにも唐突な発言だった。
「りゅうがくせい……とはなんだ?」
ルウが堂々と俺に聞いてくるが、俺は「他の国から来た人」とアバウトな説明をして流し、扉の奥に待っている留学生にちょっとした期待を抱く。残念ながら窓は透明度が無いぼかしのかかったもの。そのため留学生の素顔は見えないが、シルエットは見える。その輪郭から背は小さめ、髪は少し長めだが肩にかかる程度。情報はそれだけで十分、留学生は女性と確定されたのだからね。南雲も何を考えているのか定かではないがにやにやしてシルエットに多大な期待を寄せているようだ。
扉がゆっくりと開かれ、クラスの生徒達の熱い視線(主に男子)が集中。現れたのは留学生とあって髪の色は金。わずかな陽光にさえ反射し輝いて美しい。細い手足も外国人あってのスタイルだが、身長は低い。まあそれも我侭な要求だ、身長が高ければモデルのようではあるが外国人誰も背が高いとは限らない。
「さ、榊さん……」
ふと神無月は驚愕に満ちた表情で俺を見る。震えた指で留学生を指差し、口をぱくぱく。一体どうしたというのだろうか。
「ラヴア・ノスチーティルです。よろしくお願いします」
流暢な日本語と同時に、俺に驚愕を与えた。
「な、な……」
なんだって、という言葉も紡げない。顔を見て思い出すのは三日前に出会ったラヴアというG.o.tに所属している少女が留学生としてこのクラスにやってきたのだから。ルウと出会ったときとまったく同じ状況でデジャヴすら感じる。
「いやぁ、とりあえず突然の留学だから席が無いわけなんだけど、用意はしてあるからどこに置こうかな」
そうだ、空席はもう無い。この事から学校側も突然のことだったようだ。どこか裏で操作があるようにも思えるが、となると神無月についてであろう。三日前のことは表向き交通事故として処理され大胆に報道はされていない。しかしG.o.tは神無月についての一部始終は掴めているはず、俺はただ神無月をクラスメイトとして守っていたと見えていたであろうためただの生徒としか見られていないが神無月はどうやらG.o.tが重要視しここまで手を打つくらいに対応をしているのではないだろうか。
ルウにラヴアの正体を説明し、その間神無月の近くの席ではラヴアの席が配置される。神無月のすぐ後ろに位置付けられるようで、今まで神無月の近くの席にいた男子生徒は文句をたれながらも教師の権力的命令に反することもできず席を渋々移動する。どうして神無月の後ろに座るのか、誰もが疑問に思うも「留学生だからクラス全員の様子を一瞥できる位置のほうが良いだろう」というよくわからない説明に納得せざるを得ず、小さな席替えが終わる。ラヴアにとってはこれも計画通りといったところなのだろうか。神無月の監視に来たとも思えるし、そのためには席も神無月を観察できる場所でなくてはならない。事前の担任とも交渉があったのではないか。権力そのものが匂われるがG.o.tという組織、俺には詳しくわからないが難なく学校に手続きを取れるくらいだ、それなりに周囲を簡単に変えてしまえるくらいの権力はあるのだろう。
その日はもうラヴアの話で持ちきり。俺にとっては耳に蓋をしてしまいたい気分だ。休み時間ごとに何かと女子生徒らがラヴアを取り巻き、南雲ら男子生徒は遠めで眺めるだけという状況が続き、そんな中神無月はというとラヴアをちらりと見て、その後反復作業のようにして俺を見る。どうしろというのか、聞いてもどうしてほしいか具体的な言葉は返ってこないだろう。
放課後、予想通りといえば予想通りか。ラヴアは神無月を指名し、不安がる神無月は俺を指名、俺も不安なのでルウを指名。ということで四人で帰宅。
「以前は失礼しました。今回私がこの学校に留学という形で現れたのは、神無月綾香。あなたを保護するためです」
初見の時とは違い、口調は優しささえ感じられ、荒々しい様子しか見ていなかったためか、礼儀正しく頭を下げる様子は関心さえ呼ぶが、神無月は危険な目に遭ったことを思い出しているようで、苦味でも味わったような引きつった表情をして「そ、それは……どうも」と俺にぴったりと身を寄せて歩く。
「問題はノーデンスがどういった目的なのかということ。ノーデンスとG.o.tは協定を結んではいるが私にとっては関係は無い。独自に貴方を保護させていただく」
「ほう? 貴様はG.o.t所属らしいがその行動は組織を裏切ることになるんじゃないのか?」
こういう話は好きなのか、ルウはにやりとして口を開いた。何か企んでいるようにも思えるが、いまいちルウの考えることはわからない。
「私は今の組織に納得はしていない。奴らはノーデンスからの利益を求めるだけの木偶であるため、上層部は近いうちに皆辞表を書かせるため今組織を駆け巡っています」
ルウは目を半分閉じるように細目、わずかに唇の端を上げて腕を組んだ。
「そうか、期待してるぞ」
期待してるって何を期待しているんだよ。悪巧みを考えるガキ大将みたいな顔をしやがって。
「あ、あの、保護というと具体的にはどういったことを……?」
少ない口数しかできなかった神無月が萎んでいる士気を奮い立たせるかのような小さな勇気を放つが如く口を開いた。
「それについてですが、あなたの住む場所の近くに私は住むことにし、いつ何が起こってもすぐ駆けつけれるように対策はとっています。あなたを監視するような立場にしてしまい申し訳無いですが、これは重要なものなので」
「了承する前にそんなにやられても神無月には困るだけじゃないか?」
犯罪者からすると、所謂捜査令状を持ってこいということだ。それに今日会って「あなたを監視します」と言われて「はい、そうですか」と了承する人間はいないだろう。いるとしたら相当のナルシストぐらいだろう。
「ノーデンスの強攻さを見たでしょう?」
ああ、まじまじと見させてもらったしその強攻さを体験させてもらった。目的のためなら何をしたってかまわないという立ち回りが、車を投げてくるなど人間離れであり常識離れである行為をなんとも思わずにしてくるのだからね。
「いまこうしているうちにまた彼女が狙われるかもしれない。ですから失礼ではありますがまずは保護を優先させていただきました。今日はご家族の方に説明するため同行しているわけです」
彼女の言葉にも一理ある。ノーデンスのロルリエは神無月を任務の対象では無いと沙那華の存在によって理解はしたであろうが、神無月を利用して沙那華を呼び出そうとする方法を使うかもしれないし、精神的な攻撃を加えるべく神無月を狙ってくるかもしれない。俺も危惧していたし、神無月にとっても助かる話ではある。
「それに誰かが危ないとき、あなたは承認を得てから助けますか?」
「……いや」
いちいち了承を得ていたら手遅れになる、ということか。
「よかったじゃないか、綾香。ラヴアは頼りになる存在だぞ」
自身の身が危ないことを再び悟ったのか、神無月の表情は多少青ざめていたがルウが言葉をかけたことによって表情にかすかな笑みを見せた。
「了承はしていない、と言ってもご家族には先ほど部下が連絡をしたので具体的なことを話して納得の上での了承を得ようとは思っています」
「綾香はどうなんだ?」
ルウは神無月の顔を覗き込んで問う。俺も気になる質問だ。
「わ、私は……正直不安ですので保護してくれるのなら有難い事ですが……」
保護してくれる、というのなら断ることをしても得は無いが、神無月はその言葉の先に沈黙を置いて訝しげな表情をする。
「何か差し支えることもあるでしょうが、あなたの身の安全を保証するためにも保護は必要ではあると思います」
「……わかりました。よろしくお願いします」
本当に納得しているのだろうか。心情を知りたいが知ったとしても、所詮俺には何も出来ないことはかわりない。無力とは人を束縛するね。
「あと、私の携帯電話の番号を教えておきます。あなたにも何があるかはわからないので」
ラヴアは一枚の紙切れを差し出した。小さな可愛らしい文字で携帯電話の番号が書かれている。俺も念のためラヴアに電話番号を教える。個人として話す話題も無いだろうが、これからの日常、何かと巻き込まれそうな予感があるし。
二人と別れ、ルウと帰路を共にする中、ふと俺は夢のことを思い出した。隣に歩くルウ、彼女を見ていると夢と重なって時子が本当にいるような、そんな錯覚に囚われる。実際は緒方時子という人物が隣を歩いているのだからそうではあろうが、中身は違う。ルウという存在が緒方時子として隣にいる、つまりは緒方時子というのは肉体の名称。最初に説明されたことと同じだ。例えば中身が見えないボトルがあるとする、これは何かと問われたら誰もがボトルと答えるが、実際のところボトルの中を出せば水が入っているというような、見た目だけがボトルであり中身は水である、ちょっとした引っかけ問題みたいなものだ。ルウは緒方時子という器に入った存在。俺が想っていた緒方時子という純正なる存在はすでに亡きものとなっている。
夢の中では、時子は俺の隣をいつもどおり歩いて、笑顔を振り撒いてくれて、それだけで幸せを感じるくらい存在は大きかった。今の時子はというと、中身が違うため真意に好意を抱くことはどこか時子を裏切ることになるのではないか、と誰にも咎められる事は無いにせよ神のみぞ知るというものか。彼女を時子として接することは抵抗がある。ただルウを見ていると時子は死んでなんかいないと何度も思いたくなるが、所詮戯言でしかない。
「昨日はいい夢見れたか?」
揶揄でもしているのかと思ったが、ルウの表情は寂しささえ感じさせるような、いつも笑顔を見せていた時子が見せたこともない表情をしていた。
「まあ、それなりに」
「昨日、夜中に起きていたのは……?」
一体どうしたというのだ。別に大した事も無かったが。
「それは別に気にすることでもないさ。俺は中途半端な時間に寝ると夜中に起きる体質なんでね」
「そうか」
素っ気無い返事。
「しかし、ラヴアが綾香を守ってくれるから少し気が楽になった」
返事を聞いてこの話はもう無しというようにルウは神無月のことに切り替える。
ルウもやはり神無月を守ることについては難しかったようだ。一人で俺や神無月を守るには体が二つなければさすがに無理なこと。キスイに手を貸してもらうのは? とも考えたがキスイと神無月を会わせてみて神無月がどう反応するかだ。まず人外の者として把握し、畏怖し、悲鳴をあげ、卒倒するという段取りが用意されているに違いない。そうでなくてもそのどれかには当てはまり、人生のトラウマにもなりかねないね。俺だって最初見たときは恐怖で足が竦んだし、まぁ悲鳴や卒倒はすることなかったが、どうか卒倒して目が覚めたらいつもの平凡な現実になってほしいという現実逃避は考えてはいたね。神無月は見た目や感じた程度の判断だけど、そういうものには弱そうだしキスイとは会わせないほうがいいな。
「これで私も気兼ねなく戦いに専念できる。近いうち沙那華という奴や魂喰らいも動くだろうが、目的がいまいち掴めないな」
「目的……か。そういえば三日前に起きたレストランでの事件は何か関係は?」
「ああ、あれか。皆変死ということから魂喰らいが起こしたことのようだがあの大胆さからして力はすでにつけたというアピールだろう」
なら敵は近いうちにやってくるということか。しかしほかに目的があれば俺達のことは構わないこともありえる。邪魔をするかもしれない危険分子と認識されているだけで、まさに言葉どおり触らぬ神に祟りなしと戦闘が避けられることもあるかもしれないが、どうあれルウは神の力を回収しなければならない。戦闘はこちらからでもするべきだろう。すでに犠牲者は出ているのだから。
「そのアピールは我々に向けられたものかどうかはわからないが」
「……そうだな」
ルウは一呼吸置き、顔を上げると廃墟街の方を見る。
「どうも引っかかる。キスイのところへ行くか」
キスイは相変わらずあの廃ビルにいた。俺にはこんな場所で過ごすことなど耐えられないことだが、キスイにとっては俺の生活が耐えられないようだ。何が耐えられないか、比較するならば俺の部屋はベッドや本棚、テレビにテーブルなどさまざまな生活用品ともいえる物が狭い室内に詰めこめられているがキスイの塒は寝床さえも無く、気持ち良いくらいにすっきりしている。キスイにとって現代人の普通である生活空間はさぞごちゃごちゃして狭く感じるのだろう。
それは良いとして、さてどうするべきか。神の力の話をするかと思いきやルウとキスイはまた世間話に花を咲かせて俺が入る余地なし。座る場所も無く、そこらへんの残骸を隅に寄せて座れる場所を確保し、あぐらをかいて座るも砂に乗っている感覚がとても寂しい。友達らと会話してる中、友達が自分にはわからない会話をし始めて自分以外で盛り上がっている、そんな感じだ。
「なあ、そろそろ話を戻さないか?」
思い切って話を切り上げさせてみる。
「おお、そうだった」
本当に忘れていたわけじゃないだろうな。冗談だろうな。忘れてた、なんて思っていたのならば一度頭を叩いてお前の頭の隅に追いやられている今話し合わなければならないことを強引に呼び起こす必要があるね。
「ほむほむ」
ほむほむじゃなくてさ、その右手に持ってるあんまんを早く食べて話を変えて欲しいな。
「キスイ。魂喰らいと、沙那華というお前が以前会った奴についてだが」
陽気な表情がようやく消えて安心した。このまま世間話を続けられたら話にも入れないし、窓から空でも眺めようかとも考えてしまったよ。
「うむ。魂食らいの力はわしも感じた。この辺りに住むものも、遠方の者もあれほどの力ならば察知したじゃろうな」
遠方の者を見つめるように、ルウは窓の外を見つめた。廃棄ビルだらけで視界は遮られているが、何か見えないものを見つめているような気がした。
「世界を変えると言っていたようだが、実際の目的は何だと思う?」
キスイは買物袋に入った大量のあんまんを口へと運ぶ一連の反復作業を止め、眉間にしわを刻み口の中に残っているあんまんをよく噛んで喉に流し込んでから答えた。
「神々の力が多量に衝突することによって起こる現象――」
「神衝現象か……」
また聞きなれない単語が出た。俺はただ聞いているだけにしたほうがいいらしいな。考えること、それが俺の誇れる武器といったところか。地味だなぁ。
「神はこの地区だけでもかなりいるな」
「犬神、猫神、狐神、司神系が二人と、魂喰らいに空間喰らい、姿喰らい、そして記憶喰らいのお前、私がここらで力を確認できたのはこれくらいじゃ」
キスイは指で数を数えながら言う。五まで数えて折り返して、指を三つ折る。合計八人だが俺には多いほうなのか、少ないほうなのかはわからない。
「神海から来た悪神の力を所有している者達もおそらくこの地区に留まっていると考えたほうが良いし、人数はそれ以上か」
深刻そうな重い溜息。この地区にいるなら力の回収もトントン拍子にできるんじゃないか? と言おうとしたがその溜息に俺の言葉は喉から押し返された。代わりにどういう状況なのかを俺にわかりやすく説明してもらうよう要求してみる。
「簡単に説明するとじゃな、神海とこの世界の大気は違うため神が集中して力を解放するとまずいことが起きるということじゃ」
はいはい、なるほど。
「特に十人以上がこの地区にいると思って構わないからな。一対一ならまだしも複数となるとどれほどのものか……」
神衝現象というものがどんなことを起こすのか教えて欲しいな。
「力の波紋がぶつかり合って国一つが吹き飛ぶと思え」
簡単に言うけど、それは大変な事だろう。
「でもルウと魂喰らいでの戦闘じゃそんなことは起こらなかったじゃないか」
冗談であって欲しいために否定の意を込めて問い掛けてみる。
「それくらいなら大した事は無い。たとえ全力で戦ったとしてもな。だが多数が同時に全力で力を出せば、一瞬で――」
ルウは手を握り、俺の目の前でばんっ、と言って手を勢い良く広げて神衝現象の恐ろしさを伝えた。十分すぎるほど伝わり、俺の血の気は逃げるように引いていく。
「ただしそれは過去の話じゃ。今ではそんなことができるわけは無いが、……意図的に起こすことが可能とは聞いたことはある。何か、条件が必要らしいが」
「お……おいおい。それじゃあ……」
もしも沙奈華がその条件を知っていれば、つまりは可能ってことであり、まさに実行へと移そうとしているのではないか。
嫌なことを聞いた。知らぬが仏という言葉の意味をこれほど噛み締めることになったのはいつ以来だろうか。外国が日本に核爆弾を落とすかもしれないというくだらなくも信憑性がある書き込みを見たときと同じような気持ちだが、こちらのほうが本当に起こりえるというリアリティが俺の心を締め付ける。
「ノーデンスは知らんじゃろう。神海でも強大な神が複数ぶつかり合った時に時々起こるくらいの現象だ、この世界では一度も起きたことがないじゃろう」
キスイもルウと同じように重い溜息をついた。あんまんには手を伸ばす気分ではないのか、袋を閉じて傍らへ放り投げる。
ノーデンスで思ったことはひとつ、ルウから聞いた話ではノーデンスは悪神を鎮圧する組織なら、「ノーデンスに教えてやれば協力してくれるんじゃないのか?」と聞いてみた。協力してくれる人が一人でも増えるならありがたい話ではないか。ただしあのロルリエとかいう奴は一緒に手を組むことはしたくないが。
「奴らのことは絶対に信用しないほうが良い。お前が身を持って体験しているだろう?」
まあ、それは確かに身をもって体験しているからね。
「それに奴らは沙那華を追っているんだろう? 教えずとも阻止する形にはなるだろう」
ルウはどうしてもノーデンスと関わりたくないようだ。俺もあまり関わりたくは無いが、しかしこの地区全ての危機なのだ、協力してくれるのならばたとえ敵であっても一時的でもいいから手を組んだほうが良策だとは思うがな。
キィィィィィィィィィィ――
突然の耳鳴り、――いや違う。神の力が発動されている。それも以前感じたときよりもかなり音が大きい。
「冬慈! キスイ!」
ルウの喝とも言えるような大声にようやく俺は体を動かし、ルウへ寄っていく。身を寄せて警戒せねばならない。キスイも立ち上がり、両手を広げると爪が鋭く伸び、八重歯が牙へと化し、見た目そのものが本当の鬼と呼べる姿へと変貌する。
空間が歪み、現れたのは二つの影。
「こんにちわ、元気にしてた?」
一人は仮面を被った少女沙那華。
「こん……にち……わ」
そしてもう一人は、独特の口調で健気にも頭を下げる魂喰らいの少女恵那。以前よりも人間的な雰囲気が見られる。これは成長したというべきなのだろうか。服装は以前と同じもので、頭を下げていた様子を見ると思わず可愛らしいと思ってしまうが、気を抜いてはいけない。こう見えてもこの少女は人の魂を喰らう神の力を得ているのだ。
二人の存在を確認するや、ルウは斧を力で出し、二、三歩歩み寄る二人をこれ以上近寄るなと言いたげに斧を突き出す。足取りは止まるが、二人は斧に臆することも無く、堂々とした様子。戦闘をする気で来たわけではないのだろうか。
沙那華は仮面を取り、素顔を見せる。
「ふう、もう仮面を被る必要も無いわね。正体はばれちゃってるし」
そのまま仮面を捨て、場の空気が静謐から緊迫へ変わっていくのを肌で感じ、俺は自分の心臓の鼓動がこれほど大きく聞こえることに自分が今恐怖を抱いていることを感じた。
「そちらから来てくれるとはありがたいな」
「ふふ、貴方達は私に協力してくれそうも無いし、ここで芽は摘んでおこうかなって思ってね」
目的を果たすためにまずは邪魔者を始末するために来たようだ。では、すでに目的は実行されかけている、もしくは実行されているということか。だがそうだとしたら俺達に構う必要は何だというのだろう。俺達を無視して目的を実行してしまえば空間喰らいもいるだろうし、どうあれ逃げることもできるはず。
「やってみろ!」
「わしとて気が短い! お主らが神衝現象を引き起こそうとするならここで命を絶つこと已む無し!」
ルウとキスイが飛び出した。同時に、沙那華は後ろへ下がり、恵那が前へ出て右手の爪を鋭く伸ばし、刃のように変化させ、左手を禍禍しい黒い光を放ち戦闘態勢へ移る。
左手でルウの斧を受け止め、右手でキスイの両爪を受け止める。力には力、爪には爪、と戦い方を熟知している印象を受ける。以前とは違い、二人を相手にしても恵那は力負けさえしないくらいに力をつけているようだ。
「だが二対一!」
「不服ながら多勢に無勢も致し方無し! 義のために果てよ!」
左右に分かれ、一度に防がれないよう交互に攻めていく。ルウとキスイは過去に一度共に戦ったことのあるようで息がぴったりだった。そんな様子を見て俺は、ああ、こいつらは本当に人間じゃなく、神という存在で俺が入り込める余地なんて無いんだなと悠長なことを考えていた。
恵那は二人の攻撃をものともせず、ルウの斧を紙一重でかわし、倒れこむかと思いきや右手の爪で上体を支えてキスイの攻撃までもかわし、あわよくばルウとキスイの同士討ちさえも狙う動きに二人は思わず顔を見合わせて距離を取った。恵那は距離を詰めることなく余裕さえ見せるように上体をゆっくりと起き上がらせて体勢を持ち直す。
「こりゃあ……」
「……一筋縄ではいかないな」
会話を聞いて冷や汗をかいてしまう。はらはらしている俺とは正反対の様子で見守るのは沙那華。恵那が負けることは考えられないとばかりに余裕の笑みを見せている。その笑みに気が触るのか、ルウは何度か沙那華を睨み付けては、また戦闘の気を逸らさぬように恵那に視線を戻す。
「じゃがまだ子供だ! 持久戦には耐えられるか!?」
キスイは休むこともせず恵那に向かっていった。
「待て!」
ルウの静止も聞かず、両爪を振りかざす。
ふと、嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「――持久戦なんて必要ないわよ。喰らった魂を一瞬だけ爆発させれば事は終わる」
恵那の左腕に纏う黒いオーラが瞬時に爆発するように放出され、キスイに黒いオーラが一閃。キスイから、何かが飛ばされ、俺の足元に転がってくる。
――それは、角だった。
キスイの頭に生える二つの角、右に生えていた角が痛々しく折られたのだ。
キスイはまた距離を取るが、額からは血が流れている。致命傷を狙ったのだろうが、キスイは上体を瞬時に逸らして避けたのだろう、狙いどころから心臓を一突きしようとしていたのではないか。
傷は異様だった。黒いオーラがまだ纏わりつき、傷を広げようとしているようで、見ているだけでこちらも痛くなってくるが、キスイは痛みを意に介している暇も無いという風に軽く深呼吸し、鋭い眼光を恵那へ放った。
ぴとん――。
キスイの額から流れる血がゆっくりと床へ落ちる中、
ぴとん――。
二滴目が落ちる中、場の空気が重くなる。
ぴとん――。
三滴目が落ちる中、呼吸することすら忘れてしまうほど、空気が凍りつく。
「魂喰らいとの戦闘は我々も初めてなのを忘れていたか、奴の力は未知数。神海では幽閉されて能力さえも詳細まではわからないのだからな」
沈黙の中、キスイにルウは冷静に声を掛けた。
「……ああ、そうじゃった」
焦りを見せていたのだろうか、二人での攻撃をせず単体での攻撃のために反撃をされたのだろう。そのために先ほどルウが静止を求めた、ということだった。
「だ、大丈夫か?」
傷口は尋常ではない。黒いオーラは小さくなっていくも傷口は広がっていっている。
「あんまんを食べれば治るわい」
んな馬鹿な。
「そ、そういうことにしとく」
横目でこちらを見て、にやりと笑みを見せるが内心はどうなのだろう。本当にあんまんを食べて治るのなら今拾って食わせてみようか。……そんなんで治ったら苦労しないか。
「しとくんじゃな」
流れる血を拭うこともせずキスイは対峙する。先ほどの攻撃で気を引き締めることになったようだ。
鮮血は天井に付着し、キスイが後退した時に床へ付着して素っ気無い空間が徐々に血生臭い空間へと変化し始めていた。俺の心も変化し始め、証拠に両足が震え始めた。
「初々しいわね」
そんな俺を馬鹿にするように沙那華は言う。
「……」
だが俺は何も言えない、口を開く気分でも無いし、馬鹿にされているとわかっても反論などできなかった。
「さて、恵那。そろそろお願いね」
沙那華が恵那に向かってそう言ったのを、妙な笑みを見せたのを俺だけが見ていた。何を企んでいるのか、伝えなければと思ったが、この戦闘中、ルウ達に話し掛けるのは隙を作ることになってしまうのではないか。緊迫しているこの中を踏み出すだけで足手纏いになる俺が入り込める余地があるはず無い。
ルウはキスイと同時に攻撃を仕掛ける機会を伺っていた時、恵那は戦闘体勢を崩して静かに頷いた。
「また……近い……うちに」
恵那の呟きは俺と沙那華の耳にだけ届き、恵那の黒いオーラがこの空間全てを包んだ。目晦ましか――。
「ただの目晦ましじゃ、ないのよねぇ」
気が付いたとき、俺は理解した。
黒いオーラが薄れていくと俺がいた場所は廃ビルではなく、見たことも無い場所。風が強く吹き、まともに目を開くことさえ難しい。空が眺められるため外のようだが、辺りは見慣れぬ風景だった。とはいえ目の前すぐ近くに街が見え、後ろは森林が見えることからそんなに遠くへは行っていないことがわかる。廃墟街とは目と鼻の先だが開拓のために工事が所々進められているいずれは街の一部へとなるだろう場所。
「ここは十年ほど前はこの街を牛耳っていた人が建てたビルなんだけど、今じゃすっかりただの街で一番大きな廃ビルになっちゃったのよね」
朱に染まっている空がもうすぐ漆黒へと変わりゆく中、沙那華は静かにそれを見守るように恵那と眺めていた。空の美しさに心打たれているような、気持ちよさそうで、純粋な笑顔。彼女が今この景色一体に見える風景を全て破壊しようとしているなんて到底思えない。
「さっきの力の発動でこの地区の神は皆警戒しているはずだわ。今恵那もずっと力を解き放ってるからもうすぐ皆来るでしょうね」
そうか、この地区全ての神を挑発してこの場所へ集めるつもりか。
「この世界で育った神はどうせ神衝現象を知らない。あとは力の解放を待つだけ」
「神衝現象を行ってどうするつもりだ。神無月も死ぬことになるんだぞ」
目的はこの街全てなら神無月も巻き込むことになるが、それも想定してのことだろう、何か手は打っているはずだ。それならば目的は街全体ということになるが、一体街を破壊してどうするつもりだというのだ。
「大丈夫よ。空間喰らいがちゃんとやってくれるから。綾香のことを心配するなんて、あなた好意でも抱いてるの?」
「いや……」
考えろ。考えるんだ。今俺が出来ることはそれだけだ。ルウとキスイをおびき出すための餌として俺はここにいる。ならば彼女は俺に手を出すことはしない、が役割を終えれば用済み。それまでは考えることぐらいしか出来ない。
ノーデンスとかいう奴らもきっと力を察知してここへやってくるだろう。当然、神も必ず連れてくるが、同時に沙那華にも危険ではないか。恵那は自分の身を守れるとしても沙那華は神の力を身につけている素振りは無い。空間喰らいで逃げるとしてもそれでは何がしたいのかわからない。今わかることは彼女が神の力を多人数で同時発動させて神衝現象を引き起こそうとしているということ。引き起こさない場合はそれはそれで恵那が容赦無くルウ達を始末するだけだ。どちらにしても行き着く先は厳しいもんだ。ルウ達は俺を助けるためにやってくる、ノーデンスは沙那華を捕まえるためにやってくる。これではもはや思う壺。一度に邪魔者を始末できる機会であり、街を破壊する機会でもある。
けれど、成功率は低い。ルウ達が俺を助けることだけに専念してそのまま戦闘を避ければ、ノーデンスも神の力の発動は神衝現象というものを引き起こすと知れば途端に計画は潰れる。こんながさつな策を実行するとなると本当の目的は神衝現象を引き起こすことではないと思える。
それに、だ。街には神海から来た悪神が潜伏しているが、神の力を発動するにはここにいなければ街ごと吹き飛ぶことになるだろう。沙那華は自分に危害が加わることを恐れないことから神衝現象を引き起こすには核となるものが必要なのだろう、恵那が先ほどから力の解放をしているのはその核としての役割を果たし、つまりは核の周りは危害が加わらないということ。だがここで又一つ疑問が浮かぶ。なぜ安全な場所へわざわざおびき出す必要があるのか、神衝現象で邪魔者も一緒に消してしまえばいいはず。何かがおかしい。
「さて、綾香も呼ばないとね。空間喰らい、頼むわ
近くに空間喰らいがいるのだろうか、沙那華は周りを見ずに言うため視線を追ってその位置を把握することは出来ない。
空間が歪み、神無月を呼び出すようだ。
「ちょっと周りに人がいるようね。面倒だけど頑張って」
辺りを見回してもいるのは恵那だけ。空間喰らいは果たしてどこにいるのだろう。
すると、胸ポケットにしまっていた携帯電話が鳴り始める。こんな雰囲気の中で電話に出るのは、気まずい。映画でよくある、人質になっている人物の携帯電話が鳴り、冷や汗をかくシーンを思い出した。ああ、こんな感じなんだなと映画に感情移入していると、
「あら、出ていいわよ?」
映画とは違い、ずいぶんと沙那華は良心のある発言。俺は人質扱いでもなさそうだ。素直に応答するのも何なので沙那華から少し離れよう。
携帯電話を取り出し、画面を見ると相手はラヴア。そうか、神無月が目の前で消えたのを目の当たりにしたか、それとも神無月がいなくなったことに困って居所を掴もうと多人数に要請を求めるのどちらかであろう。
「もしもし?」
『さ、榊冬慈ですか? 神無月綾香がいなくなったのですが、どこへ行ったか心当たりはありませんか!?』
用件は後者、目の前で消えたのを目の当たりにされなくてよかったが、さてどう答えるべきか。心当たりはずばりある。今俺のところへ来るのだからね。
そこへ俺の携帯電話を沙那華が取り上げる。まずいことを言ったわけではなく、沙那華はラヴアに何か話したいようだ。
「こんにちわ。改めまして、綾香の姉である沙那華と申します。綾香なら今こちらに来ますよぉ? 場所はね、この街で一番高い廃墟の高層ビルって言えばわかるわよね?」
街で一番高いのはこの高層ビルに違いない。ほかはどこもこのビルには敵わず、比べるとどれも低く思える。この街で一番高いビルは? と聞けば誰もがこのビルを言うだろうな。今の時代、地上から伸ばすよりも地下へ伸ばすほうが盛んであるため過去の産物となったこのビルを越す高さのものは街で作られることは無いだろう。
「じゃ、そういうことで、バイバイ♪」
携帯電話を切って俺に手渡し、「ごめんね、勢いで切っちゃった」と笑顔。なんだか陽気になった神無月と話している気分だ。
そして神無月が空間喰らいによってこの場へ現れ、沙那華は言う。
「さあ、私達の交響曲を奏でましょう、綾香……」
沙那華の不敵な笑みが、始まりを告げた。
断章 米崎幸村3
「お兄ちゃん、今日は香奈お姉ちゃんが帰り遅くなるから夕飯係りお願いだってー」
扉越しに聞こえるのはもう一人いる妹の茜。香奈と違って僕に突っかかってくることも無く、素直で良い妹だ。何よりも自分を僕と言わないしね。
「茜は手伝ってくれないのかー?」
扉越しなので少し声を上げて言う。茜はいつも扉越しから話し掛けてくるが、男の部屋っていうのが苦手なのかな。家族なのに僕の部屋に入ったことは一度も無い。用があるときは扉越しで、それが普通になっているが僕は引きこもり扱いなのかなと時々不安になることがちらほら。
「私は今から塾なのー」
茜は家族で一番勤勉。週四日は塾に通い、自宅でも勉強は欠かさないが、目指している名門高校は特に無いとか。僕が通っている西都高校は僕がいるっていうだけでそこにするとも言い始め、宝の持ち腐れもいいところだし、茜は三つ下。入学する頃には僕はすでに就職か進学でもして学校には当然居ない。それでも西都高校にするというのだから茜は変わっている。
「ああ、わかった。いってこーい」
とたとたと階段降りる小さな音を聞いて茜がいなくなったことを確認して僕は視線をパソコンに移した。
やはり、何度調べても神無月沙那華についての資料は見つからない。ノーデンスが現時点で所有している資料から彼女の名前で検索もしてみたが一致する人物は無し。ノーデンスの資料が不足しているということは考えられない。毎日政府から転送される資料を欠かさず更新しているのだ、これほど正確な資料の塊は無いだろう。それなのに一致する人物は無し、となると【神無月沙那華は日本では存在しない】という結果になるが、ありえない話だ。神無月家についても調べたが妻は外国での出産暦は無し、日本で十五年前に神無月綾香を出産、とあり双子を出産したという資料も無し。病院もわざわざ調べたが結果は同じだ。初めから存在していない、なんて絶対に無い。それともガルゼは沙那華では無いのか……いや、それもありえない。ロルリエの話では神無月綾香がガルゼを沙那華と言っていたのだから。
「いやぁ、鰹節って素晴らしい」
「どっぐふーどっていうのもおいしいです」
「何言ってるの、鰹節食べてみなさいよ」
「え〜!? あっちぅ嫌です。鰹節は無理です」
それにしても、こいつらは本当にうるさい。ここは僕の部屋だというのにやりたい放題だ。そこらに散らかる鰹節のカスと空き袋、ドッグフードの空き箱なんか馬鹿の瑠紺華が開け方もわからず強引に両手で左右に引っ張るものだから予想するまでも無く縦に真っ二つ。中身が飛び散って「人間の作ったものは開けるときいちいち散らかるです」と明らかに自分が悪いのに人間が作ったからと言い訳して落ちたドッグフードを摘んでぽりぽり食べていた。
「おい、散らかさないでくれよ。ここは僕の部屋なんだから」
「いやぁお気遣い無く〜」
耳を上下に振って寛ぎ始める咲姫の頭へ鉄拳制裁をしてやり、僕はまたパソコンに目を通した。
「痛〜い!」
咲姫は床にごろごろと転がって被害拡大。鉄建制裁は失敗のようだ。
「あ、あっちぅは黙りますです……」
瑠紺華は身の危険を感じて縮こまってくれたので良し。
パソコンからノーデンスの端末へ繋ぎ、痕跡を残さずにするにはなかなか神経を使う。パソコン系統は得意分野であるが、ノーデンスのセキュリティーは尋常じゃない。加えて僕は任務から外されているのにそれを無視しているのだからこの時点で処罰は確定、さらに無断で端末に接続したとなると処罰に処罰が重なりどうなるやら。
神経を集中させようと深呼吸したその時、
「あ、……主。神の力を察知しましたです! おそらく廃墟街辺りです! 神の力が二つ、……これは、以前に感じたものと同じ力です!」
瑠紺華が窓へ走り、言う。一度に二つの力が察知されたとなると交戦中かもしれない。廃墟街なら一般人が巻き込まれる心配は無いが、被害が拡大するとその恐れも出てくる。本部からの連絡は五分以内で来るはずだが母さんは僕に任務を与えることは考えられない。ガルゼについての任務を外されている最中だ、悪神にガルゼが絡んでいるかもしれないという可能性があるため、家でおとなしくしてもらいたいのが母さんの本音だ、意図的に連絡は来ないだろう。
以前に感じた力と同じということは西都高校で発動した神と同一人物ということか。西都高校には神無月綾香が通っている。ならこの神の力はガルゼが絡んでいる可能性は大きい。
「本部からの連絡は無いようですけど、どうしますか?」
どうするかだって? そんなの聞く必要は無いよ。もう無意識に僕はパソコンの電源を切り、天井裏に隠している刀と仮面、そしてコートを取り出して着替えていた。確信は無くとも、やるべきことはひとつ。とにかくガルゼと会える可能性があるのならば向かうのみ。どんな処罰を受けようが、僕を止めさせることは愚行だ。
「行くぞ。結界を張ってくれ」
一般人に見られないよう、結界を張っておくことは忘れてはならない。夕方に黒いコートと仮面を被った奴が歩いていれば普通に通報されるだろうし、咲姫や瑠紺華を見られるのは一番まずい。上級の神なら神の力を持たない人々に見られないようにできるものの、こいつらは神としては幼い。美坤ほどの神ならできるし、何よりも人間に化ける事だってできる。こいつらを一度美坤に預けて鍛えてもらったほうがいいかもしれないな。
家を出てまだ人通りの激しい時刻、その中を堂々と歩くのは妙な気分だ。透明人間になったような、そんな感じがするけど人とぶつからないように歩かないといけないため、透明人間の苦労もわかる。
「主、また神の力を察知しましたです。それも複数です!」
「まるでさっきの発動を合図に共鳴しているような……そんな感じ」
複数が力を発動して親玉を匿う作戦だろうか、今までにこんなことは一度も無かった。何を企んでいるんだ……。
「どうしますか?」
全て構っていたら日が暮れて朝になってしまいそうだ、ここは最初の奴を優先したほうがいいだろう。
「最初の奴だけ追う」
「了解です!」
瑠紺華は神の中でも変わった性質を持っている。神の力を察知する場合、普段自然に出ている微弱で察知されないほどの神の力と波長が絡まり感じ取るため察知するまでは時間がかかるものだ。近い場所ならすぐに察知できるだろうが、遠方で発動されれば普通の神はなかなか察知できない。だが瑠紺華は鼻で察知する。犬の嗅覚は馬鹿に出来ないが、本当だ。鼻で神の力を察知するため微弱ならまだしも、少しでも力の発動を感じ取ればすぐに察知できる。僕にとっては心強い存在である。馬鹿だけど。
廃墟街の近くまで来たところで、瑠紺華は鼻をくんくんさせる。
「……神の力がひとつ、一瞬で移動したです。発動者は、ここじゃないぽぃです」
「空間喰らいか……」
ならばガルゼもいるようだ。空間喰らいとは手を組んでいるようだが、今追っている力は何の神だろうか。以前ガルゼと会ったときは力を持っていなかったし、短期間で神の力を手にしたとは思えない。ならばもう一人神の力を持ったものが同行しているようだ。
「近くにはまだ神の力を持った者がいますが、どうしますか?」
思うにガルゼを止めようとして戦闘になったのだろう、悪神ではないようだし何か悪いことをしたというわけではない。構う必要は無い、ガルゼ優先である。
「それは構わなくいい。それよりも空間喰らいによって転送された神を追う」
「わかりましたです。少し離れたところへ、行ったようです。……えーと、あそこです!」
瑠坤華が指差した場所はこの街では誰もが知っている廃ビルだが、なぜあんな場所へ移動したのだろうか。僕達の気配に感づいて移動したのか? いや、結界によって相手が意図的に探っていなければ、ましてや戦闘中に感づくことなど出来るはずは無い。戦闘中に何かがあったのか、ならば戦闘をしていた奴も一応接触してみたほうがよかろうか。
考えていると、そこへ煙草の臭いが漂い始めた。苦い顔をする瑠坤華は即座に鼻を抓み、僕をにらみ始めた。いや、僕は煙草なんて吸わないぞ、ましてや体臭が煙草臭いわけではないはずだし、でも周りは煙草吸う奴ばかりだしな。いやいや、しかし今更臭いが漂うはずはないだろう。
「やあやあ、今日は一段とぴりぴりする日だねぇ」
ああ、犯人はこいつのようだ。
煙草を加えて数秒は煙を吸い込み、ゆっくりと大量の煙を吐く美坤。普通の喫煙者もこんなに長く吸い込むのだろうか。
「美坤、こんなところまで来るなんて珍しいな」
「おばばの美坤です」
「煙草臭い……。おばばの美坤め……」
美坤はすかさず煙草を吐き捨て、咲姫と瑠紺華の尻に蹴りを入れて、さらに逃げ出そうとする二人の尻尾を掴み、耳をかじってお仕置きをする。吐き捨てられた煙草はきちんと火種を消して僕は完全に消えたことを確認してポケットへ。ポイ捨てはいけないよ、美坤。
「あぎゃー!」
「うぎゃー!」
嗚呼、なんとも可哀想な光景だが、ちょっとすっきりする。毎回二人には手を余してしまっているので躾てくれる美坤が中学の時などでよく見た叱る時は叱ってくれるしっかりした教師を思い出す。
「幸村、あんたこいつらの躾はきちんとしないさいよ」
まるで生徒会長に忠告する教師のようだ。
にこにこしてはいるが、どうも「おばば」と言われた事に腹が立っているのだろう。僕は別におばばと二人に吹き込んではいないが。
「ああ、わかったわかった。それはいいとして、なんでこんなところまで来たんだ」
二人の尻尾はまだ掴みながらも美坤は言う。
「これほど神の力が発動されていると、少しこの地区が危ないわ」
多方面でこれだけ神の力が発動されているとテロが起きているのと同じ状況だし、危険なのはわかる。
「神衝現象って知ってる?」
「神衝……」
と咲姫が、
「現象……?」
と、瑠紺華が言い顔を見合わせる。
「あんたたちそれでも神なの? さあて、この頭の中に何が入ってるのでしょうね〜?」
瑠紺華の首にチョークスリーパーを決め、必死でタップする瑠紺華の顔を見てなにやら満足げに顔を覗いている。
「なんであっちぅだけー!」
と、次はほっとしていた咲姫へすかさず飛び掛り、今度はコブラツイストを決める。プロレス通なのか、テレビなんて見れる環境じゃないはずなんだけどな。どこかで覗き見しているのか、美坤ならどこへもいけるし十分可能なことだろうが。
待っていても仕方ないのでコブラツイスト中に説明をしてもらうことにしよう。
神海でも強大な神同士がぶつかり合った時に起きる現象であり、強大な力がぶつかり合うと力の波紋により衝撃波が起こる、と思えばいいらしく説明をしている美坤の表情は深く深刻そうであった。その表情から見て僕は単純な想像ではあるが街が吹き飛ぶのを想像すると、「お前が今想像しているものが現実に起こると思え」と言われ、自分の想像がこれほど恐ろしく思ったことはなかった。目的は神衝現象を起こすことなのだろうか。
「だが強大な力を出すには現在の神には無理な話ではあるが方法はある。多数で意図的に起こし核となる役割が常に力を放出して円を描くように他の者は陣を張り、力を徐々に放出していき、一気に力を放出すれば円の中心で爆発が起こる」
ならば街の中心部を狙って一気に壊滅を狙うつもりなのか。
「阻止する方法は?」
「簡単なこと。円の陣を組んでいる神をそれぞれ倒していけば良い、がそれじゃ時間がかかりすぎるから核を倒すしかないだろう」
ならば核を倒したほうが良さそうだ。しかしこれほど神の力が発動している中で核を見分けるにはどうするべきか。
「核と言っても、これだけ力を発動していると……」
「――いや、あの廃ビルだ」
僕には確信があった。神衝現象を起こそうとしているのはガルゼだろう。以前会った時、僕は忘れていない。ガルゼは何かを企んでいた。これから成す事の重さをガルゼは僕に伝えていた気がする。だから、あんな別れ惜しむようだったのではないか。
「なら行ってこい。私は、お前をさっきから監視している奴を片付けるとするよ」
ようやく美坤は咲姫と瑠紺華を離し、懐から煙草を取り出して咥え、火をつけて傍らに建つ廃ビルの陰に視線を向けた。
「監視……?」
「気づかないとはお前もまだまだだな。ほら、出てこい」
人影が一つ、影から現れて溜息をつく仕草をして歩いてくる。
「まったく、数が減るのを伺ってたのにな」
ロルリエだった。母さんの命令だろうか、僕を監視してたということはガルゼと会わせないためだろう。
「お前は任務から外れているのに、これは処罰ものだぞ。さあ、来てもらおうか」
どうしても会わせたくないようだな母さんは。僕がガルゼに手を貸すとでも思っているのだろうか。それならば母さんは僕のことを何一つ理解していない。
「断るよ」
「そう言うと思ってたぜ」
刹那、ロルリエは距離を縮め、怪力を生む腕を振るってくるが、そこへ美紺が間に入りロルリエの腕をいとも簡単に掴んだ。どこから怪力を止める力が出てくるのか、そんなことは言葉一つで片付けられる。
「なっ……!?」
意表を衝かれたロルリエに、美坤は鼻白んで言う。
「何を驚いている? これでも私は神だぞ?」
やることも無いように残った片腕はふらりとして反撃をするかと思いきや、煙草に手を伸ばし、美坤は余裕を見せて喫煙を続ける。
「さあ、行け。どうせお前が撒いた種だ。自分で摘んで花でも咲かせろ」
そうだ、僕があの時ガルゼを止めていれば全ては起こりえないことだったんだ。
「ああ……そうだな。行ってくる!」
咲姫と瑠紺華を連れて僕は廃ビルへ向かった。
道中、背後から聞こえる破壊音から、相当激しい戦闘が行われているであろうが僕は後ろを決して振り向くことはしない。まだ心の中には迷いがあった、不安があった、……特に恐怖は心の中を激しく走り回っていた。けれど、美坤の言葉に背中をどんと押されたような、そんな感じがした。
「主、ノーデンスには神衝現象のことを伝えたほうが良いのでは?」
普通なら伝えるべきであろうが、僕は現在進行形で任務に反しているのだ。連絡したとして、素直にガルゼを追うかどうか。まずは僕の身柄を確保するかもしれない。そうなると面倒だ。連絡は一応しよう、だが明確なことは伝えないでおいたほうがいいな。
「伝えるには、伝えるよ」
僕は携帯電話を取り出し、連絡先をノーデンス本部ではなく、母さんに指定する。
『もしもし。幸村、どうしたの?』
母さんはいつも通り。同じ口調、同じ発音で落ち着いた声をしていた。
「今、ガルゼを追ってる。目的もわかった。神衝現象だ」
一旦沈黙を置き、
『……でしょうね』
「わかってたのか!?」
説明をしようとしたが、必要ないようだ。ならなぜノーデンスを動かさないんだ。手遅れになるまえにガルゼを見つけ出さなければ取り返しのつかないことになるのは予測すらしなくてもわかること。
『ロルリエが保護してこの地区から離れさせる予定だったんだけどねぇ』
「母さん! この地区を守る気は無いのか!」
これだけ人間性に欠けていたとは思わなかった。家にも帰らず、家族で食事をしたことなど無く、それでも僕は我慢していたのに。
『私でも手がつけられない状況、とだけ言っておくわ。だから、幸村。一度本部へ来なさい』
それは親としてなのか、組織としてなのか。僕は問いたくなったが、返事をすること無く電話を切った。話しているだけ時間の無駄だ。神衝現象のことは把握しているようだし、何よりも手を出さないというのならばなお僕が動くしかないようだ。なぜ黙って街が吹き飛ぶのを見過ごすつもりでいるのか、母さんの意図がわからない。母さんはおそらく本部にいるようだが、本部は地下にある。そのため本部なら安全だということで僕を本部へ呼び出したいのだろう。災害時用に安全なシェルターも設備されていることは知っている、この街でどこよりも安全なのは知っている、でも僕は絶対に行かない。
僕が行くべき場所はひとつ。ガルゼの所だ。
最終章 キミがキミであるために
私は何故こんなにも恐れている?
この地区が吹き飛ぶかもしれないから?
――そうじゃない……。
神の力がこんなにも肌で感じるから?
――そうじゃない…………。
キスイが負傷してこちらが不利であるから?
――そうじゃない!
「わしでは止めることは無理かもしれん。かと言ってお前一人で行くのは死地へ飛び込むと同じ。……一度ここから離れよう」
足が震える。腕の力が抜ける。心臓の鼓動が激しく脈動する。額から汗がにじみ出る。呼吸が荒い。足が、腕が、体が、全てが重く感じる。何を考えればいい? 何をすればいい? 私はどうすればいい?
「冬慈は連れていかれたがわしらをおびき寄せるための囮だろう。あやつには悪いが、罠と知って行くのは無謀じゃ」
胸がすごくもやもやする。何だろう、攻撃を受けた憶えは無いのに。
ぎゅっと締め付けられるような気がする。何だろう、力の干渉を受けた憶えは無いのに。
「一度ここは引き、なるべく力を使わず肉弾戦を得意とする神を集めて神衝現象を触発させずに攻めるのが有効な手じゃ」
キスイの言っていることは正しい。この地区の人間全てを非難させることは不可能だし、かといって魂喰らいのあのチビガキや沙那華とかいう奴を放っておくことも出来ないが今の我々には戦力的に阻止することは難しい。一度引いて戦力を補充すれば神の力を回収できるかもしれない。
「お前の役目は神の力を回収することじゃったな。この地区の人間を守ることでもないし、ここは一番有効な手で行くべきじゃ」
「駄目だ……」
「何を言っとる。たかが人間一人のために死地へ飛び込むのか?」
たかが人間一人……。
「人間は死しても生まれ変わる。じゃが、我々は死すれば無に帰り、大気と一つになる。量るものが違うじゃろう」
「駄目だ…………」
私は何を言っているのだろう。
「神の力を優先すべきじゃ、わかっておるだろう? 魂喰らいの力を回収すれば大分楽にはなるじゃろう? そうすればお前も――」
「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!」
なぜこんなにもキスイの言葉に反発してしまうのだろう。
「おいおい……わかってるじゃろう?」
わかってる……いや、わかっていないかもしれない。……迷っている? 迷っているのか私は。どうなのだろう、何をするべきなのか、何を優先するべきなのか、何が自分にとって良いことなのか、役目? 回収? 私は今自分で本当にそのことを考えて迷っているのだろうか。何故こんなにも胸がもやもやして、役目のことを考えれば胸がぎゅっと締め付けられて、手が震えて、足が震えて、何だろう。役目のことを考えれば体全体に嫌なものが循環していくような気がする。
「ルウ、……お前は魂喰らいだ」
ああ、そうだ。私は魂喰らいだ。
「だが、今のはお前は本当に魂喰らいとして、ルウとしてきちんと考えておるのか? 器の気に当てられたか? そんなことはあるまい」
キスイの言葉に、どうしてきちんと言葉を紡げないのだろう。何も言えない、簡単なことだろう、ルウ。しっかり言うんだ。『魂喰らいとして、ここは神の力を優先しよう』。ただそれだけだ。
「魂くら……」
どうして……どうして言葉が詰まってしまうんだ。
「お前がお前であるためにしっかり判断しろ! その器の名前ではなく、自分の名前を言ってみろ!」
私が私であるために、そうだ……。私は緒方時子ではない、ルウだ、魂喰らいルウ……だ。
「……」
でも、声が出ない。キスイ、わかっている、溜息なんかつかないでくれ。そんな目で私を見ないでくれ。「まさか、人間に憧れを抱いたわけじゃあるまいな」
胸が、一瞬ちくりとした。
「神のお前が、……なぜあの男がそれほど大切なのだ? たかが人間なのに」
また、ちくり、ちくりと胸が痛む。なんであいつの顔が浮かぶのだろう。
「この馬鹿野郎! むしろ馬鹿神め!」
キスイが声を上げると共に、私の頬に拳がめり込む。
「っあ! ……う」
痛い。口を少し切ったようだ。それに不意打ちとあって何も攻撃に対して防御せず力を抜いていたため軽い脳震盪さえ感じる。
痛い。でも、胸の痛みとは違う。
「馬鹿神!」
そんなに何度も言われるとさすがに腹が立つ。
「うるさいな! この馬鹿鬼!」
反撃の拳をキスイの頬へめり込ませてやった。
「やったな! 馬鹿神め!」
「ふん! 知らぬわ馬鹿鬼め!」
ひたすら頬へ、何度も何度も殴られては殴り返して、疲れるまで殴って、飽きた。
「……」
「……」
この沈黙が、痛みが、私の頭をすっと冷静へと導いてくれた。
「ふぅ……まぁいい。お前に任せる」
キスイは胡坐をかいてあんまんに手を伸ばした。こいつのせいで無駄な体力を使ってしまったがまあいいさ。おかげで大分落ち着いた。
「私にもくれ」
了承の言葉を聞く前にあんまんを一つ頂く。断られる前に取れば頷くしか道はなかろう。あんまんを口の中に頬張るのは良いものの、所々口の中を切ってたため痛いが、あんまんは美味い。温かくは無いが。
「奴は、この街を破壊して何か得となるものがあるかが疑問なのじゃが、目的はほかにもありそうな気がするのぉ」
確かにこれだけ神々や神に関する人間が集中する都市で神衝現象を起こすのは無謀そのもの、だがノーデンスが動くかは微妙なところだ。G.o.tはというと神の力に対しての知識は無さそうだしただの武力として戦力になるだけ。それでも神の力の解放は抑制せざるを得ない戦いになるため良い援軍にはなるだろう。ラヴアはこの騒動に気づくかは疑問だが、しかし沙那華とかいうあの女は必ず綾香を安全な場所へ移すため接触はあるはずだ。
なら、なおさら沙那華は無謀そのもの。目的は他にあると見てよさそうだ。
「この地区でなければならない理由があるのかもしれないな」
「ふむ、わしもそう思う。ならば、この地区で起きた三神器の件が濃いな」
だが考えても仕方が無い。時間は止まってはくれないのだ。ともかく今は行動するべき。
「キスイ、行くぞ。力を辿っていけば場所もわかるし、近いからすぐ着くだろう」
「結局、こうなるんじゃな。ふん、いいわい」
「……キスイ」
ひとつ、言い忘れていたことがあった。
「なんじゃ?」
「今の私は、……緒方時子だ」
だから助けに行く。単純なことだろう? なあ、冬慈。
「沙那華……。私はこんなこと望んでないわ」
神無月は胸に手を当て、沙那華が何をするのかは理解していないだろうが、何か大変なことをすることを悟り、それを止めるよう哀願するような視線で沙那華を見つめた。
「忘れたの? あの日、あの場所で、あの時に、私達は願い、望み、誓いあったじゃない」
沙那華は神無月の元へ歩み寄り、額が触れ合いそうなくらいに顔を近づける。神無月は口篭もり、じっと沙那華を見つめる。
「こんな世界、変わってしまえばいい。綾香が願ったじゃない。いじめられて、母さんには虐待されて、父さんには逃げられて、良い事なんてひとつもない」
「で、でも! 父さんは帰ってきてくれた! 母さんはもうお酒をやめて私を殴ることなんてしない! 高校に入っていじめもなくなった! 私は……私は今幸せ!」
そんなことがあったのか……。神無月の中学時代も家族の事情もまったく知らなかったが、それを表に出さない彼女はとても強い存在ではないか。いつも笑顔でクラスの生徒や教師までも慕って俺のクラスではアイドルのような存在の彼女は、だからこそ笑顔を絶やさず皆に悟られないようにしていたのかもしれない。
「幸せ? いつか崩れるかもしれない幸せなのに?」
「そんなの、決まってないわ!」
神無月がこれほど声をあげるのは初めて見る、が表情は悲痛に歪ませて見える。忘れたい過去を呼び覚まさせられたからか、握る手が強く、硬くなっていた。
「わからないわよ、母さんは最低だからね。私のことも認めてくれなかったじゃない。だからね、今力を手に入れるの、それで全部真っ白にしちゃおう? こんな世界、作り直しちゃおうよ」
だからといってこの世界を滅茶苦茶にするつもりか。自己中心的な奴の範囲を超えている。
「いつか崩れるかもしれないからって、そんなことで良いのか?」
反論するには些か勇気がいるが、ここは思い切って言ったほうがいい。説得で全てが収まるとは思えないが、言うだけ言ってやる。どうせ俺の命はこいつの天秤次第だ。自分で天秤を傾ける行為をしているのはわかっているが、俺がここにいる意味を終えればおのずと天秤は傾くのだからね。
「ふぅん。なら、あたなはどうなの?」
人をまるで差別するような視線を向けてくる沙那華。一度その視線に言葉が喉で押し返されるが、気合でなんとか言葉を逆に押し込んでやる。
「崩れないようにしなければならないだろう? 崩れるの経験しているなら、もう崩れたくないと自分で頑張るしかないんだよ、自分次第で人生は何度でも変えれるはずだ!」
自分でも言っていることはよく理解していなかったが、なぜだろう。時子のことがずっと頭の中から離れない。
「そうかしら? なら綾香はもしもまたそうなりそうだったら、どうするの?」
「私は……」
「また逃げて私に泣きつく?」
「そ、そんなこともうしない! 私はこれから立ち向かうわ! 逃げてばかりじゃ何も変わらないもの!」
彼女の瞳から涙が流れ、頬を伝い流れ、心の中に溜め込んでいたものを全て吐き出すように先ほどよりも大きな声で、沙那華にぶつける様に言う。それでも沙那華は臆することなく堂々とした態度を崩さない。
「変われるの? 私がいなくなっただけで慌てふためいて探してたんでしょ?」
普段そんな様子を見せないため俺にはわからないが、沙那華を心配する気持ちは米崎と会話していた神無月を思い出すとよくわかる。沙那華とおそろいのブレスレットをしていることから彼女にとって沙那華が大きな存在であるのは確かだ。
「そ、それは……」
だからこそ言葉に詰まるのだろう。それでも彼女は現状をどうにか改善したいという気持ちがどこかあるようだ。沙那華無しでも生きていられるようにすること、いや、沙那華を求めてしまう心に克己することか、どうあれ何かに打ち勝ちたいという強い克己が感じられる。
「綾香は結局私がいないと駄目なのよ」
沙那華は短い溜息をつき、神無月の頬に手を当てて涙の雫を拭った。
「違う! 私は沙那華に頼らなくても頑張れるわ!」
その手を跳ね除け、神無月は睨んで啖呵を切る。
「頑張れる? 毎日不安でしょうがないのに?」とさらに続けて「私を探して救いを求めてるのに? 逃げたいと思ってるんでしょ? 楽になりたいんでしょ? 私が全部真っ白にして不安を解消させてあげるのよ? だから、無理して頑張らなくていいのよ?」
違う、邪説だ。神無月を誘惑させようとしているに違いない。
「神無月、惑わされるな!」
「あら、惑わせてはいないわよ?」
どうだか。言い包めて邪説を正しく聞こえさせたいのではないか。
「こんなの、あまりにも馬鹿げてる! まるで子供の考えじゃないか!」
「そう、子供の考え」
沙那華はこの重い空気の中、静かに笑みを見せた。悪戯をしようとしている子供のような、無垢さえも伺える。
「ある日、とっても可愛らしい少女がいました」
突然、沙那華は童話の絵本でも棒読みするような口調で話し始めた。
「その子は学校で毎日いじめられて、頼りは家族だけ。でもお母さんの会社が倒産して、お酒に浸るようになって少女を叩くようになり、お父さんは家を出て毎日が地獄そのものになっちゃった」
そうか、神無月のことを言っているようだ。遠まわしの揶揄? それとも神無月を内面から揺さぶるつもりか。
「やめて!」
聞きたくない、と神無月は両手で耳を塞ぎ、表情を苦痛に歪ませる。彼女の言葉が神無月の過去を呼び起こしているのだろう。それでも沙那華は止めない。
「そんな中、私を生み出して、私に頼るようになったのよね?」
生み出して、確かに彼女はそう言った。
「生み……出した?」
聞き間違いじゃない、妙な言葉を俺はオウム返しのように口に出す。どういうことなのだろう。生み出した、というのは不可解だ。双子の姉なんだろう? なら生み出したという表現はおかしい。言い回しはある日突然生まれたように聞こえる。
「そう、綾香がどうしようもなくなっちゃったとき、私が出てきて綾香の代わりに解決してあげるの。私は何も感じないからね。綾香にとっては便利だったでしょう? いじめられても私は何も感じない。叩かれても私は何も感じない。逃げたいときに逃げれて綾香はいいよね」
「何が言いたい」
答えられない神無月の代わりに俺が応答する。
「あ、そうそう。この話にはまだ続きがあるの」
だが華麗に流された。俺の質問くらいには答えて欲しい。
「ある日、少女の中に生まれた別の少女は不思議な力によって少女の中から出ることが出来ました。二人の少女は喜び合ってその日は朝までお話をしたのですが、お母さんに見つかってしまいました。二人は同じ顔だというのに、お母さんはすぐに本当の少女を見分け、もう一人の少女を家から追い出してしまいました、とさ」
神無月の中に生まれた別の人格、それが彼女なのだろう。つまりは二重人格ということか。神無月が現実から逃れたいが為に沙那華を作り出し、辛い時は交代してもらうための人格。それほど現実が辛かったのだろう。家族関係も崩れ、学校生活も光が見えず、今想像しているよりも辛い生活に違いない。もしも俺がその立場だったら、と思うと……考えたくもないな。
それと、不思議な力と彼女は言ったが、それが神の力なのだろうか。人格を現実へ引き出すような力、か。ルウは喰らいの他にも違う種類の神が居るということをルウと出会った当初、俺が質問攻めをしたときに話していたためそういう力を持つ神がいても不思議ではないだろう。
「そうよ……。沙那華……私があなたを作り出したのよね」
神無月は立ち上がり、憔悴さえ見られる表情で沙那華を見つめた。その瞳に何を抱き、何を感じているのか俺にはわからない。
「私が死ねば、沙那華も消える……」
そして、神無月は走り出した。まさかと思い咄嗟に止めようとしたが俺の手をすり抜けて神無月は踵を返して一直線に走り出す。飛び降りる気だ! 沙那華を止めるべく心中するきなのだ。
俺も神無月を追って走り出すが、止めようとしたときにバランスを崩して走り出しが遅れてしまいすぐさま追いつけるか、正直難しい。
ひとつ気になるのは、沙那華は微動だにせず追わないことだ。
「予測済みの行動よ」
神無月は、何かにぶつかり倒れこんだ。彼女の目の前には何も無いはずだが、何かにぶつかったのだ。俺か駆け寄り、彼女の上体を起こしてやると同時に先ほどのような行動に走らないよう、手をぎゅっと掴んだ。震えて力が完全に抜けた手。彼女の覚悟が温もりと共に伝わってくる。勢い良くぶつかったために鼻から多少の出血、ポケットに入っていたティッシュで拭いてやるが、一体何にぶつかったというんだ。目の前は何も無いのに、音さえも聞こえた。岩のようなものを殴ってみたらそんな音が聞こえるのだろう。
「実は貴方達の周りには空間喰らいが幽閉空間を張っててね、触ってみればわかると思うけど、中からじゃ貴方達ではどんなに頑張っても壊せないわよ」
言われて周りに触れてみると空間に透明な窓でも貼り付けたように何かが阻んでいた。とても硬く、無機質な感触が肌に触れる。それを辿って形を調べてみると四角形のようだ。角がきちんとある。広さは大体六畳ってところか。透明なためいまいち把握しづらいが。
「う……」
「神無月、大丈夫か?」
頭も倒れたときに打ったようだ。意識ははっきりとはしていないが徐々に取り戻しつつある。
「痛っ……。わ、わたし……」
望んでいたものとは違う光景に、神無月はただうろたえて辺りを見回した。そして、目の前に触れて、自分が何にぶつかったのかを確認する。
「何……これ……」
幽閉空間、っていうやつらしいが、説明してもピンと来ないだろう。
「沙那華がやったの!? 出して! 出してよ!」
「出したら綾香は何をするかわからないからね、そこでこの街が消えるのを見てて♪」
悔しいがこうなってしまうと俺達には何も出来ない。ルウ、キスイ、彼女達に託すしかないが、キスイは負傷している。絶望的かもしれない。それに沙那華は俺を拉致してまで彼女達を誘っているのだ、何か罠を仕掛けているかもしれないし、完全にこちらが不利だ。
だけど、今は祈るしかない。俺に出来ることはそれだけだ。
「あら、来たようね、ヴェリ」
「ああ、ガルゼ。……いや、沙那華と言ったほうがいいのかな?」
現れたのは、黒いコートに全身を包み、仮面を被った背が低めの声から青年と思われる人物。その風貌はノーデンスを連想させる。おそらく関係者だろう。沙那華はヴェリと言っていたが、外国人にしては流暢な口調、ロルリエのように記号のような名称と考えていいだろう。
「いやぁ、ガルゼ。久しぶり〜」
「あっちぅもいるです」
その背後から陽気な様子で現れたのは、猫の耳を生やした少女と犬の耳を生やした少女。見た目はどこぞのアニメ系でいわゆる萌えをしている都市を思い浮かぶがここは明らかに違うだろうね。神の一種だろうか。
「咲姫、瑠紺華。戦闘態勢を取れ。あそこにいるのは魂喰らいか、空間喰らいのようだ」
「あの二人はどうしますか?」
俺達のことか。
「一人はガルゼと同じ顔です」
「おい、俺達は敵じゃないからな」
敵と思われたらとても厄介だ。俺は声を出して伝える。
「だそうです」
「あの二人の周りに何か結界のようなものが張ってありますね。ここは助けたほうがよろしいかと」
うん、そうしてほしい。
「まずは、沙那――」
「待ってくださいです! 二つの力が接近してますです!」
二つの力……。ルウとキスイか!?
「ふう、次から次へとやってくるわね」
そのとき、床が揺れ始める。地震? と思ったが揺れは次第に強くなっていき、地震とは違い横揺れや縦揺れも無い。このビルを勢い良く上がってきているような、そんな様子。
そして、沙那華のすぐ下の床にヒビが入り、沙那華はとっさに背後へ飛び、同時に床が破壊された。飛び散る破片の中、二つの影が現れ、着地。
「やれやれ、思った以上に人やら神やらいるな」
「にぎやかなのは好きじゃが、こういうときはなんとも好めんのぉ」
ルウとキスイだ。
「何者だ!」
「まず貴様が名乗れ」
「そうじゃ。無礼じゃぞ?」
こんな状況でもこいつらは……。そんなこと言い合っている場合じゃないだろうに。
「僕か、ヴェリ。そしてこの馬鹿二人が咲姫と瑠紺華だ」
「馬鹿とは何ですか!」
と猫耳の神が咲姫、
「馬鹿じゃないです!」
そして、犬耳の神が瑠紺華のようだな。
あいつらもあいつらでさっきからコントでもしているのか、神というのは変な奴らしかいない。
「そうか。人間界に住む神のようだな」
お互い神とはいえ面識は無いようだ。神海と人間界の神とは繋がり合っている存在でもないのだろう。
「神海の神と会うのは初めてですわ」
「初めてです」
まじまじとルウを不思議がる様子で見つめている。ああ、そうか。神といってもルウは今時子という器の中に入っているから見た目は人間だからな。
「私はルウ、こいつはキスイ。お前らは敵か? 味方か?」
律儀にルウは自己紹介を返して、大胆な質問。
「敵か味方かの判断は沙那華に対してと思えばいいのかな?」
仮面の人物ヴェリは背中から刀を取り出し、緊迫が走る。
「ああ」
「それなら、沙那華の敵と思えばいい」
つまり俺達には心強い味方の出現だ。
「ふん、そうか。それはありがたいが、邪魔はするなよ。あいつはまず私に喧嘩を売ってきたのだからな。それと神の力は極力しようするな。武器くらいは練成してもかまわんが」
「ああ、わかってる。神衝現象にあてられるんだな?」
「そうだ」
ルウは沙那華へ睨みをきかせ、次に俺へ視線を向けると、笑みを見せた。安心しろ、口に出してはいないがそう言われた気がした。
「そっちこそ」
「でも味方だよ?」
「味方ですー」
手を組むというよりも、個人個人で戦うという感じ。どうか一緒に戦って欲しいが。
「いやはや、敵が増えちゃった。さて、恵那。神衝現象までどれくらいかかる?」
「……千二百三十六秒」
ややこしいが約二十分か。
「そっか、なら彼らを片付けてからやりましょうか」
「……うん」
恵那はこくりとうなずき、集中を解いてゆっくりとこちらへ歩き出した。
「さあて、私はどうしようかな?」
沙那華は余裕を持って、恐れ多くも背を向けて歩き出した。
その油断を見逃さんと咲姫、瑠紺華、ルウ、キスイが同時に飛び出した。
「戦おうかな?」
沙那華は何も無い空間から、空間喰らいが転送したときのように空間が歪み、細長い物が二本出ると沙那華はそれを掴んだ。両手が塞がっているため鞘は強引にそれを振ることで抜く様子から刀だ。
咲姫と瑠紺華が光る槍で、ルウが斧で、キスイが爪で、多数による攻撃を、沙那華は刀で全て防いだ。
「むやみに動くな! 咲姫、瑠紺華」
「もしも二人ずつだったら、一人は怪我してたわね」
沙那華はいつも見ているだけなので彼女自身は戦う力など無いものと思っていたが、刀を使い自ら戦うとは驚いた。
「一応、不利だからね。本気出すわ」
沙那華の隣に恵那が並ぶ。ルウ達は一度距離を取り、体勢を立て直すようだ。
「多数に無勢、ってやつかな。なら恵那は鬼と咲姫達を頼むわ。恵那なら大丈夫よね? 鬼は負傷してるし」
「うん……大丈……夫」
それが合図となったのか、恵那は瞬時に距離を詰め、咲姫と瑠紺華に両手を振るう。キスイは間一髪で反応し、距離をとったが、咲姫と瑠紺華は瞬時のことで反応できなかったのか両手の攻撃を受けてしまう。
「うぐっ!」
「痛いですー!」
だが、ダメージは浅いようだ。見るとキスイが二人の服を引っ張っていたおかげで直接の攻撃は受けなかったのだろう。
「馬鹿者どもが! しゃきっとしろい!」
喝を与えて、キスイは反撃。咲姫達も追撃をせんと高く跳躍し、正面と上面から同時攻撃。
「遅……い」
キスイの爪を恵那は左腕で払いのけると、宙に爪が舞う。残像を残しながら高く、爪は何度も回転し、その爪の先にいた咲姫達をさらに恵那は右手の爪で一閃。
それでも屈せず、キスイは瞬時に残った爪で一回、二回、三回、四回――。それ以上は目で追うことの出来ない速さだった。
しかし全てかわされ、キスイの割れた爪が地へ着く頃には恵那の反撃が、キスイの腹部を捕らえた。
「うぐっ……は……」
キスイの口から血が一滴、続くように、二滴。
「がふっ……」
膝をつくと大量の吐血をした。
「やはり……わしの体力じゃ無理だったか……」
腹部を左手が貫いていた。
「キスイ!」
駆け寄ろうとするルウだが、沙那華が通さんと立ちはだかる。
「あなたの相手は私よ?」
「くっ……」
咲姫と瑠紺華は一閃によって頬や腕に怪我を負っているが、浅い。しかし一人やられたことが精神的な重圧を受けているのだろう。着地し、すぐさま攻撃へ転換することは出来ただろうが、恵那の左手が放つ黒いオーラが近づくことさえ恐れてしまうような威嚇となっていたのだ。
「幽閉……」
「!? 咲姫! 瑠紺華! そこから離れろ!」
ヴェリは何かに気づいたようだが、遅かった。
ほんの一瞬だ。咲姫達の周りが歪んだのは。それが今俺達が捕らえられている幽閉空間と同じものなのだろう。
「ふう、これであとはキミ達だけね。さあ、かかってこないの?」
先ほどから対峙していたルウ達。一見二刀流の沙那華だが、腕前は不明。そのためか警戒はいつも以上にしているようだ。
ルウ達に視線を釘づけにされていたとき、俺の袖をか弱い力で神無月が引っ張った。
「あの……時子さんはどういった人なのですか……? それにこの状況……」
神無月にとって、この状況はどう見えているだろうか。俺でさえ、理解しようと必死に脳みそが働いているのだからね。現れた神と思われる咲姫、瑠紺華、そして仮面を被ったヴェリという人物。神無月はさらにキスイもどういう人物なのか、理解を求められるためまったく飲み込めていないだろう。
こういうときは、答えは一つ。
「知らないほうがキミのためになる」
「……そんな」
納得は出来ないだろうが、納得してもらわねばなるまい。神無月が知る世界でもないし、俺も知るはずのない世界だ。世界はこの地球、目の前に見えている光景全て。世の中は表面だけ見ることで、これが世界の全てだと思っている。思うことで不安も軽減されるのだ。彼女が本当の世界を知って不安を募らせることを俺はさせたくない。
再び、ぎゅっと俺の袖を今度は強い力で引っ張る。輪から外されている気持ち、というのかな。知りたくても知ることが出来ず、ただ見ているだけという抑制を彼女に押し付けるような気分で罪悪感が胸をつつく。
そのまま会話を続ける気分ではなく、俺はまた視線をルウ達に戻した。
が、すでに戦闘は始まっているようだ。
「さあ、さあ、二人で来るっていっても拙いコンビネーションだと一人半ってとこね!」
両手の刀を振りかざし、ルウは斧で、ヴェリは黒い刀で受けるだけという防戦一方な戦闘だった。恵那は咲姫らが幽閉空間から出れないことを確認すると、のろい足取りでとことこと沙那華の元へ行き、ようやく構える。よかった。キスイにはこれ以上手を出すことは無いようだが、あの出血はまずい。どうにかここから出れればいいのだが、人間かつ凡人の俺には無理な話だ。わかっていながらも、俺はこの見えない壁を殴ったり、蹴ったりしてみるわけだが。
沙那華はちらりとこちらを見て失笑。それもわかっていることだ。
「おい貴様! しゃきっと動け!」
「お前こそ!」
ルウとヴェリは相性が悪いようで、互いが攻めるたび言い合いが交わされる。
言い合っている場合じゃないだろう。キスイのことも心配だし、沙那華はなぜここへ誘い込んだのか、それをルウが理解しているかはわからないが、そういう可能性くらいは感づいて欲しい。声は聞こえるようだが、この状況、俺が声を出して気を散らせることはさせたくない。機会を見て話したほうがいいな。
お互い、睨み合っている中、容赦無く沙那華と恵那は襲い掛かる。
沙那華の刀をルウは斧で受け、火花が散る。耐久度の違いからか、沙那華は極力武具のぶつかり合いをさけて刀を滑らせるようにしてルウ自体を切ろうとしているが、さすがと思う。ルウは斧の大きさ、重さなど感じさせない動きで一太刀、一太刀叩きつけて受けるようにし、刃毀れどころかそのまま折れてしまうのではないかと沙那華は時折刀に視線を向ける。
斧と刀では不利、そう悟ったのか、対象をヴェリへと変え、代わりに恵那が沙那華が下がると同時にルウへ襲い掛かる。お互い言葉を交わさずとも分かり合っているかのような動き。
対して、
「おい、あいつは私がやる! 邪魔だ!」
「沙那華はお前にやらせん! そいつと相手してろ!」
肩をぶつけてまた言い合い。見てられない……。
その間も猛攻は襲い掛かる。
恵那は爪でまずルウを威嚇、どうやらヴェリを障害物としてルウの移動範囲を限定させるつもりのようだ。
沙那華は刀でヴェリを同じように威嚇し、次第にルウとヴェリは肩を、背中をぶつけて動きを悪くさせていく。そして、ルウが躓いたとき、恵那の爪が捉えた。
「ぐ、あっ……!」
辛うじて頭を傾げて避けるが、額から耳へ大きく損傷した。頭を一突きするつもりだったのだろう。咄嗟の判断が無ければあの世行きだ。
「ヴェリ、余所見してる暇があるの!?」
一瞬だ。ヴェリが反射的か、ルウを助けようとした時、ヴェリの肩から胸にかけて刀が一閃される。片方の刀は押さえれても、もう片方は一瞬の油断が判断を遅らせたのか、空へ向けられて血飛沫が飛ぶ。
「ああ! 主!」
「やられたです!」
絶望的、いや、そんなこと考えてはいけない。……けど、これではただただやられるのを待つだけだ。
「さて、これくらいなら私一人でも大丈夫だわ。恵那、また力を集中させて。神衝現象を他の神々が待ってるわ」
恵那はこくりと頷き、その場を離れる。俺達の背後へと行き、邪魔しようにもこの幽閉空間と俺達が盾となる役割を果たしている。幽閉空間から回りこんでいくにもヴェリは負傷、ルウも額から流れる血で視界が不安定だ。
「交響曲って、いつも戦場に流れてるよね」
沙那華は場の雰囲気とは違い、穏やかな口調で口を開いた。
「刀のぶつかり合い、大地を蹴る音、肉を斬る音、血の流れる一滴一滴。それがリズムを取ってくれてるようでね」
「何を……」
「言ってる……?」
ルウとヴェリは怪我を負いながらも次に来る攻撃を備えていたが、突然話し始めた沙那華に呆気に取られたのか、疑問に満ちた表情でルウは沙那華を見て、ヴェリは膝をつきながらも一度高く構えていた刀を少しだけ低く構えた。
「戦いは落ち着くわ。私は生きてるんだって、唯一実感できる」
「そうか、だがその実感も長くは続かん!」
ヴェリの傷を見て戦闘をさせられないと判断したのか、立ち上がろうとした彼をルウは止めて沙那華へ向かった。
「待て!」
「怪我してる奴は引っ込んでろ!」
一見、蹂躙、辛辣さえ思わせるがきっとルウの判断は正しい。負傷した彼が戦闘に参加しても次は命を落とすかもしれない。
斧を振りかざし、沙那華へ勢い良く振り下ろす。沙那華はそれを刀で受けず、後ろへ引いて避けた。同時に、刀を回し、砕いたコンクリートの飛礫を弾いていく。以前に恵那と対峙した時に対処法は学んでいるようだ。
沙那華は即座に受けから攻めへ転換し、ルウへ両刀を左右による攻撃で行う。斧がコンクリートにわずかながらめり込み動きが鈍くなるも、ルウは一度跳躍してそれを避け、残された斧はどうするのかと思ったその時、斧は光の粒子となって散り、ルウの手元が光ると斧が再び現れ、振り下ろされる。
「なっ!?」
そのような斧の使い方に俺も、沙那華も意表をつかれ、沙那華は避けるのは無理と判断して両刀を交差してかざす。
武具が接触し、火花が散る。
金属が砕ける音がし、何かが宙に舞う。
わずかな光に反射し、それが刀の破片だと認識したとき、俺が意思を誘ったのは沙那華。彼女は一体どうなったのか、後ろ姿からは何も変わっていない。
「ちっ……」
ルウが舌打ちをし、沙那華は距離を取り、ルウをじっと見つめる。額からは血が流れており、かすり傷程度しか与えられなかったようだ。それでもあの威圧感、殺気、一度は死期を悟らせられた攻撃に彼女の呼吸は荒く、表情は酷く臆しているように見られた。
右手に持つ刀を見て、無残にも長さ半分以下だけしか残っていないことに武具としての機能を見切りつけたのか、刀を捨て、左手の刀を両手で持って一刀流へ変更する。
「どうした、来い!」
刀を捨ててすぐ反撃することは出来ただろうに、十分といえるほど距離を取ったということは警戒をさらに強めたということか、それとも表情通り臆したのか。額から滴る血を拭い、沙那華は動きを止めていた。
すると、表情が笑みを見せた。
余裕? いや違う。何かを企んでいる、そしてそれが成功しつつある。そういった表情だ。誘いに乗ってルウはここへ来た、罠と知っていて。その罠が今成功するというのならば、ルウに何か起こる。
「ルウ!」
考えられることは幽閉空間。なぜ最初からしなかったかというときっと沙那華が近くにいれば一緒に閉じ込められるからだ。
「――そうか!」
ルウも気づいた。沙那華は戦闘を目的としていない。ルウを、神々を閉じ込めることが目的のようだ。そのために反撃はせず、距離を取ったに違いない。
ルウは走り、沙那華へ距離を詰め、斧を投げるが、
「戦いに集中しているのも駄目よねぇ」
斧を軽くはじき、ルウは目の前に手を出すと見えない壁の存在に気づき、閉じ込められたことを認識する。
「くそ!」
「ありがとう。これで目的が達成できるわ」
残されたのはヴェリただ一人だが、とても敵うとは思えない。
「沙那華……神衝現象を起こして何の意味がある」
ヴェリは刀を握りながらも、傷の痛みに圧されて膝はついたままだった。
「意味……かぁ。綾香が救われるなら、どうでもいいわ」
「私はそんなことされても救われない! だからやめて!」
神無月は何度も幽閉空間を叩いて出ようとするが、無常にも空間は彼女の手を傷つけるだけだった。
「これから先、限りない希望が待ってるの。だから、我慢してよ綾香」
「限りない希望……か。沙那華、こんな方法でしか、希望を望むことは出来なかったのか……?」
沙那華は視線を落とし、何か言葉を捜すようにしていた。「そう……ね」と寂しげな呟きをし、踵を返してヴェリに背を向ける。
「でも、綾香のためなの」
「本当にそう思っているのか?」
沙那華は返答をしなかった。胸に手を当て、何を仕出すと思いきや、胸が光だす。市井をちらりと仰ぐように見て、
「恵那、そろそろよね?」
「……うん」
神衝現象の準備が出来たのか、いやしかしまだ恵那の体には薄っすらと青白い光が見え、神の力を解放して集中している様子。そろそろという様子には見えない。
「神衝現象が目的ではないな?」
ルウが口を開く。俺と同じ疑問についての質問だ。
「そう。……気づいてたようね。それでも来たってことは、よほど彼が大事なのかしら?」
「……ふん! 戯言を!」
扉を拳で叩くも、触れて壊れていないことを確認してルウは無駄であることを知る。もう、誰にも止められない。俺は街が吹き飛ぶ光景を想像し、妹の凛子を思い出した。今はどうしているのだろう。街から偶然離れていることもあるまい。また、大切な人を失ってしまう。誰でもいい、彼女を止めてくれる人はいないか……。
沙那華は胸の光へ手を当てると、光が手の中へ移り、火照るように、灯るように光は一度消えかけた明るさを再び蘇らせる。
「この力は貴方達がいないとね、駄目なの」
今度は幽閉空間がそれぞれ光りだす。俺達を閉じ込めている幽閉空間だけが光らないということは神が幽閉空間に入っていてこその条件なのだろう。ならば本当の目的は彼女の手の中にある何かわからないが、それを発動やらするのだろうか。
「力を少し分けてね」
手をかざし、ルウと咲姫、そして瑠紺華の体から青い光が放たれ、
「くっ……」
「あぅぅ……」
「力が……抜けるです……」
それぞれの力を吸い取っているようで沙那華の手の中へゆっくりと吸い込まれていく。そして、恵那の体から放たれていた光が二倍、三倍もの大きさへ膨張し、目にも止まらぬ速さで手の中へ。
光と光がぶつかり合った瞬間、光は直視することさえできないほどに発光し、
「まさか……三神器か!?」
ヴェリは見て取れるように焦燥していた。まだ傷の痛みがあるはずなのに刀を手に取り、彼女を止めるべく立ち上がろうとする。
「無理しないほうがいいわよ」
驕慢さえ思わせる表情に、
「無理してでも……!」
ヴェリは全身全霊を注ぐように刀を床に差し、重点を刀へ集めて膝を立ち上げようとした。その間も光は妙な発光を見せる。
「今この三神器の欠片に神の力同士ぶつけて神衝現象を起こしてるんだけど、空間喰らいで抑えてるところなの。邪魔するとここが吹き飛んじゃうわ」
「我々をここへ誘い出したのは三神器を神衝現象で覚醒させるためか!」
ルウはここへ誘い込んだことをまさか三神器のためだと思ってはいなかったようだ。俺も、自分の推測では神衝現象をちらつかせて神の力の使用を抑えらせることで戦闘的有利な立場になって一気に邪魔者を始末すると考えていた。妙な引っかかりを感じたが、以前聞いた三神器のことなんて頭の隅に追いやられていたし神衝現象で三神器が使えるようになるなんて聞いていないから考えもしなかった。
「そう、私が街に神衝現象を起こすならここにいる必要も無い。遠からず近からずの距離で隠れてすればいいこと」
気のせいか、先ほどから揺れを感じる。それも、沙那華の手にある光から波紋のように揺れが広がっているような。
「欠片が覚醒すれば、このビルの真下に隠された三神器が呼応し、覚醒すれば三神器が欠片に融合を求めて目覚めるの。これだけは近くなければ駄目なのよね」
「……三神器は過去に情報は全て抹消されたはずだ。僕でさえ名称しか知らないというのに、誰から聞いた?」
「誰でもいいじゃない」
続けて、
「今は三神器が目覚めるのを見守りましょう」
光が、まるで太陽光のように光を増して視界が全て白に制圧される。白というのは、普段あまり不安や悪い方向へのイメージは沸かないものだがしかし、胸に纏うこの不安は広がる光景を黒にも染めてしまいそうだ。目を閉じても、光はわずかににごるだけ。その濁りが不安を写し出しているように感じる。
光が引き、ようやく直視できなかった光景が徐々にはっきりと視界を象っていく。
「ああ、これが神の目とも呼ばれた三神器ね……。ひとつが手に入れば他のもすぐね」
俺が知っている三神器とは名称が違うが、それは人間の解釈や想像が変えて伝わったのか、実際に存在していた時代は何十年、いや何百年という単位だ、どう伝わってもたいした事は無いか。俺が知っている三神器はそれぞれ鏡、玉、剣の形を想像するが、おそらく玉が彼女の持っている物だろう。名称はやたら長い名前だったが思い出せない。憶えておく必要も無いことだったし。
「さて、あとはこの街を消して、三神器で世界を変えていくだけだわ」
ルウは幽閉空間の中、見えない壁に手を当て、眉間にしわを寄せて力を込めているようだった。それは神の力を発動しようとしているのか、沙那華は自覚を促した。
「空間喰らいの能力は強力よ。幽閉空間の場合、外側より内側のほうが防護壁が強いんだから、触ってみてわかるでしょう? それに、力を発動すればこちらは神衝現象を発動しやすくなるわよ?」
言われて、ルウは手を下ろした。
沙那華を睨みつける瞳が、悔しさを訴える。
「いい、事を聞いた……」
ふと、倒れていたキスイが弱々しい小さな声をあげ、顔を上げた。俺が捕まっている幽閉空間の見えない壁に手を当てる。
「キスイ、何をするつもりだ……?」
沙那華は三神器に視線を虜にされ、恵那は集中してこちらには気づいていない。
「外側のほうが、防護壁は……弱い……か」
上体を上げ、見えない壁に爪を立てる。
「無理するな、怪我してるんだろ」
「今無理をしないで、いつするんじゃ……」
左手で右手首を掴み、両手が光を帯びる。全ての力を右手に集中させているのか、右手の爪は黒い光を纏いまるで恵那の左手が放つ黒い光のようになっていた。
「この幽閉空間を壊すことができたら……斧を取れ……」
「わ、わかった」
頷いてはみるが、心臓の鼓動が高鳴り、足腰が震え、まともに動けるかわからない。だがやらなければ、街が消え、三神器で次は街どころではなくなる。
行動する前に、ひとつ。
「神無月、この空間から出られても自殺なんか考えないでくれ」
彼女には自殺なんてしてほしくない。誰かが沙那華を止めればいいことだ。簡単なことではないが。
神無月は静かに頷き、そのまま視線を落とす。
「はぁぁぁあ!」
キスイは黒い光を幽閉空間へ纏わせ、幽閉空間はガラスが割れるような音を発し、確認のため触れてみるとそこは何も無いたた空を掴むだけだった。
「消えた……」
「い……け……」
キスイはそのまま上体を地に伏せた。キスイのことが心配だが、やるべきことがある。神無月にキスイを任せ、俺は走り出した。
先ほどの音で沙那華は気づき、俺が幽閉空間から出ていることに意表を疲れて硬直していた。それが好機と見込んで俺は恐怖に臆していた全身を奮い立たせ、足腰に気合を集中させ、斧を拾い上げた。
かなり重いが、弧を描いて振り回せば重点が切っ先に移動して苦にはならないはず。だが、対象はどうするか。沙那華、彼女にこの斧を振るうのか……。
「冬慈! この空間に!」
ルウが、俺に言う。沙那華はようやくして何をするのか把握し、俺に三神器を向ける。
「うおおおおおおおおおおお!」
重さゆえ持ち上げて走ることができず地面を滑り火花を散らしていた斧が、体を回転させることでふわりと浮き、俺は懇親の力を込めてルウへと振り回す。対象が見えないとルウに当たるのではないか、そんな不安があるもルウの自信に満ちた表情を見て不安が一掃される。
斧が、見えない壁にぶつかり、割れるような音をここにいる全ての人の耳に届く。
「あつっ!」
反動で倒れ、俺はどうなったのかすぐに閉じかけた眼を再び開く。
「よくやった、冬慈」
ルウは、幽閉空間から出て斧を拾い上げた。
「ふぅん、キスイは殺しておけばよかったかなぁ。ま、でも貴方達が出てきて三神器にどう戦うっていうのかな?」
「古来より血族、神族のみが使用していた神の兵器。貴様に扱えるか?」
「やってみなきゃ、わかんないわ」
「恵那、そのまま集中してて。私がやるから」
集中を止めようとした恵那、彼女も戦闘に参加するとなると不利だが、沙那華は三神器を手にしたことで恵那と共闘しなくても十分と見たのか。
「この戦い、私の力全てを注ぐ!」
ルウの全身に青い光が纏う。
「待て……! 俺も!」
ヴェリは立ち上がろうとするが、
「お前はあの二人を助けてやれ、外側からならその刀でも何度か太刀を入れれば壊れるはずだ」
ヴェリの返答を聞かず、ルウは走り出した。
「あはははははははははははははははははははは――!」
沙那華は高笑いをし、三神器を胸に。
「私に応えて! 三神器!」
胸の中に三神器が溶け込むように消えていく。
ルウの斧が、沙那華へ。
しかし、沙那華は武器を持っていない右手でそれを受ける。斬れずに、血も流れず、明らかな変化を遂げていた。
体が変貌し、沙那華の髪が青白く長くなり、体全身に刺青のようなものが走る。加えて、禍々しい黒い光を纏い、それが羽のように模られる。瞳の色も青く、そこにもう沙那華の人間らしい姿は消えていた。
「これが……三神器の力か」
沙那華は体を見て、髪を撫でて高揚し笑みを見せた。
左手に持っている刀が、異形ともいえるものに変化し、ただ斬るための道具が、より苦痛を与えるようにまるでチェンソーのような刃先へ変わる。
瞬時に、斧を払いのけ、刀を振るう。刀の軌道が以前とは比べ物にならないほど速い。
払いのけられたと同時にルウは後退していたものの、腹部が血に染まっていた。
「よく、胴体を真っ二つにされなかったわね」
刹那、沙那華はルウの目の前へと移動し、次の太刀。
斧を振るう余裕も無く、ただ受けるための盾としか間に合わなかった。折れるまでとはいかないが太刀は斧をかなりえぐっていく。
欠片が、落ちるよりも早く、もう一撃。
今度は、斧の刃が粉々になる。
それでもルウは構わず斧を振るうが、そこに沙那華はすでにいない。
後ろへと回り沙那華の左手から光が放たれ、ルウは体を反転させて対応しようとするが、右肩に光が接触。
「あぐぅっ……!」
ルウの左肩に煙がたち、衣服が焼ける。
「ルウ!」
思わず声を上げて、俺はどうすればいいのか必死に考えた。今駆け寄っても命を落とすだけ。何も出来ないのが率直な答えだが、何か出来ることを必死に考えていた。
ヴェリは、幽閉空間を壊すことよりも沙那華を止めるべくその場に留まっていた。彼も、何も出来ないことを悟っているのか、刀を手にしていながらも足を動かせずにいる。
「僕はただの人間だ……。あんたは何か力を持っていないのか?」
「いや、何も……」
そう、ただの人間だから、何も出来ない。
「ひとまず、彼女達を助けよう!」
考えたくはない。ルウが倒されたとき、次は俺達。幽閉空間に閉じ込められている彼女達を助けておかなければ逃げ延びれない。
「わかった」
俺はヴェリの肩を掴み抱えて咲姫と瑠紺華の元へ。
「ああ、主。無理しないでください」
「主だけでも逃げてくださいです!」
「そんなこと出来るか! 黙ってろ、今壊すから」
ヴェリが刀を振るい、幽閉空間に太刀をいれるが、びくともしない。彼は負傷しているため、懇親の力を込めても全力は出ないのだろう。
俺は刀を貸してもらい、何度も太刀を入れる。
「冬慈さん!」
そのとき、神無月が俺を呼んだ。
「こちらへ!」
まだ幽閉空間は壊れていないが、仕方なく俺は神無月の元へ。
「この人が……」
キスイ、彼女は瀕死ながらも何か俺に伝えたいようだ。
俺は耳を傾け、キスイの声を拾う。
「お前は力を回収する器……。力を得るんだ……」
首に下げている石が見える。それをキスイは手にとり、俺の胸へ。力を回収する器、ルウが俺に言っていたな。神の力を回収するために器が必要だとか。自分では力が変化してしまうから俺がその役割になってもらうと説明は聞いていたが、今すぐとなると心の準備が……。
「時間がないんだ……」
キスイはルウへ視線を向け、俺も見てみると防戦一方で体中が傷だらけになっていた。
「あとは……そいつに聞け……とんだじゃじゃ馬じゃが……」
そいつとは?
問いかけする間も無く、辺りが突如変貌する。
「あー……目が覚めた。あなただれ? 今何時? 朝? 昼? 夜?」
目の前で大きな欠伸をして、辺りをきょろきょろと見ては挙動不審にして俺へ質問の連打を浴びせたのは、一人の少女。床にまで伸びている長い赤髪、ぼろぼろの布で衣服として成り立っているのかわからないがそれを巻いて、目のやりどころには困ってしまう。外見は幼いが、どうも口調が大人らしい。
「俺は……榊冬慈。今は大体六時くらい、夜のね」
「そうか、さかきとうじ。ここへ来たということは、貴方は力を求めているの?」
唐突で率直な質問。でも今は迷っている暇も無いし、俺にとっては良い。心の迷いがあるが、ルウが、街が、凛子が、全て失ってしまう。ただ、自分が変わってしまうようで、言葉が出ない。
「まだ決意を決めている段階なの? ルウも、街も、凛子も失ってしまうのはわかっているだろう?」
「なっ……!?」
心が読めるのか? 口には出していない疑問が、
「読めるというよりも、ここは貴方と、私が交わる精神空間。時間の焦りもあるだろうが、ここは時間という概念に縛られない。ゆっくりしていてもかまわんよ」
彼女には完全に筒抜けのようだ。だが、彼女の思考は読み取れない。これはどういうことなのだろう。しかし今はこんなことを考えている場合じゃない。
「……そうか。力といっても、その……」
「力を手にしても、貴方自身が変わる事を望まぬなら私は考慮しよう。武具等の形として力を引き出せるようにすればいい。一体となることはしたくないのならばそれでいい」
金の瞳で、じっと見つめてくる。彼女が自由を得られるのかはどうかとしてわからないが、キスイが俺に託したんだ。どうあれ彼女の力を借りるしかない。
「別に、お前が不利益と思えば私はいつでも出て行こう。不安は感じる必要は無い。私とお前は共生することになるだろうが、お前の意識が乗っ取られるわけでは無い」
みんなを守るためなら、今はどうでもいいんだそんなことは。
「どうやら、答えはもう導いているようだな」
「……ああ!」
「では、赴くとするか。私の名前はイタカ。神約成立だ」
彼女、イタカが微笑みを見せると、視界は元に戻る。神約、それが手を組む名称らしい。
本当に時間が経過していなかったようだ。キスイはまだ何かを話そうと口を開きかけていた。
「キスイ、神約は終わったよ」
「……そうか。あとは……任せた」
キスイは力尽きるように目を閉じた。
「キスイ!?」
悪い冗談は止して欲しい。俺は思わず死を連想したが、辣腕と神無月がキスイの呼吸や脈を確認すると、
「脈は……あります。大丈夫です、死んではいません。気を失ったようですが、早くしないと出血が……」
キスイの傷口は神無月が制服を破いて応急処置をしていたが、傷口が深いところは出血が激しい。病院へつれていくとしても、鬼のキスイを見て人々はどう思うか。今はこの戦いを終わらせることを優先するしかない。キスイもそれを望んでいるはずだ。
「なんとかしてみる」
「そんな、どうやって……?」
どうやって、か。俺にもわからない。自分自身、何も変わっておらず、力を得た実感も無い。
彼女は言っていた。武具等の形として力を引き出せるようにすればいい、と。
『想像しろ、さすれば創造される』
どこからか聞こえてきたのは、彼女の声だ。直接心に響くような声。どうやら俺にしか聞こえていないらしく、神無月は何も反応を示していない。
俺は言われたとおり頭の中で武器を想像してみる。欲張っても得はない。勇者が持っているような剣、そんなものは俺にとって武器というよりは玩具。拳銃、いやシンプルなものでいい。
右手が光を帯びる。光が指の先へ伸び、手には暖かいような、何かがかぶさるような、妙な物がゆっくりと流れているのが感じられた。光は伸び、形が現れてくる。
「そ、それは……?」
「なんとか、できるもの……かな?」
一本の刀だ。色までは想像していなかったため全部白く素朴なものだが、一応刀である。
『あとは斬るだけ。簡単なものを作ったな』
短い間に複雑な武器を想像するわけにもいかないしね。心の中で言う。
『それもそうだな。あとは、やるべきことをやれ』
イタカとは心の中で会話ができるようだ。
俺は神無月にキスイを看てくれるよう頼み、その場を後にした。
やるべきこと、……俺はルウの元へ。
「と、冬慈!? 何をしてるんだ! 下がっていろ!」
すでに体中が傷だらけになっていた。それでもルウが戦おうとするのは、俺達を守るために違いない。
「イタカと会ったよ」
「イタカ……そうか、やつと神約したのか」
「あはははははははははは! 今度はあなたが戦うの? いいわ! おいで!」
沙那華は邪心に塗れた笑みに表情を染め、高揚していた。
人間としての彼女はもう望めない。
『奴は三神器の力に溺れたようだ。倒すのではなく――』
『……救う』
『そうだ』
そう、俺は沙那華を倒すために刀を手に入れたのではない。みんな助けるんだ。ルウ、キスイ、神無月、ヴェリ、咲姫、瑠紺華、凛子、街も、みんな救ってみせる。
『ルウの手を掴め』
『ルウの?』
『奴もわかっているはずだ』
なんだろうな。説明する時間は無いのだろうが、ちょっとした説明くらいはしてほしい。
「ルウ、手を」
「……ああ、そういうことか」
ルウは抵抗無く俺の手を掴む。爪が割れ、血に塗れている痛々しい手を強く掴むことなど俺には出来なかったが、ルウ自身が強く握ってくる。
「さあ! 行くわよ!」
沙那華が異型の刀を構え、余裕の足取りでゆっくりと近づいてくる。
『私の力をルウへ送り、ルウも私へ力を送る。神衝現象と違い力と力を融合させるのだ』
沙那華は近づいているというのに、ルウは目を閉じ、静かに呼吸を整える。
「目を閉じちゃって、死ぬ覚悟でも決めたの? 私そんなに優しくできないからねー! あはははははは!」
足が震えてくるのを、俺はどうしようもなく止めることは出来なかった。こういう危機は、男がしっかりしていなきゃいけないってよくあるが、現実に目を向けるとそれは到底無理な話であり、俺が今考えていることといえば、死んでしまったらどうなるのだろうというまだ確定していない未来に自ら終止符を打って死後の世界に希望はあるのか、ルウでも面倒見てくれるのか、時子に会えるのかということだった。
刹那、ルウは斧を消し、刀を握る俺の手に空いた左手で手を添える。沙那華が刀を振り上げ、振り下ろされる寸前、俺とルウは一緒に刀を上げ、二つの刀が交差する。
「信じろ、冬慈」
そう聞こえた。
交差する時に抱いていた不安は、その言葉により一掃され、俺はルウと握る刀に全てを委ねた。
死期を抱くと、時間がゆっくりに感じるなんていう話、今まさに時間がゆっくりと流れている。刀がスローモーションで軌道を描き、しかし今の状況には死期というものは微塵も感じない。
「負け――」
両者の刀が火花を散らし、
「ない!」
一本の刀が宙へ舞う。
「…………」
沙那華の刀が残像を残して宙を何回も回転し、粉微塵に砕けていく。
同時に沙那華の肩から腰へかけて、
「これで――」
「終わりだ!」
俺達の刀が一閃する。
「嘘……」
沙那華は血飛沫をただただ見つめ、傷口を手で覆うが両手を朱が全て染める。そのまま仰向けに倒れこみ、戦いの終止符が打たれたことを俺は実感した。
恵那も、集中をやめて沙那華へ駆け寄る。
「……」
口をぱくぱくさせ、何か言いたいようだが、言葉も出ないようだ。罪悪感を感じてしまうのをどうしても否めない。それでも、これがするべきことであり、彼女を止める必要があったのだ。
恵那はこちらを向き、初めて心情を表情に表した。俺達へ怒りを見せる。思わず刀を向けるが、抵抗がある。
「いいの、……恵那。もういいの」
そんな恵那に、沙那華は抑止する。恵那はこくりとうなづき、沙那華のそばで座る。
「……やはり、沙那華。貴様我々を殺すつもりはなかったのだな?」
ルウは刀から手を離し、沙那華のそばへ。
殺すつもりはなかった、どういうことなのか。
『戦う必要は無いな。では武具を引こう』
『そう、みたいだ』
刀が消え、俺も沙那華のそばへ行く。
「沙那華!」
ヴェリが俺よりも早く駆け寄り、沙那華を抱かかえた。彼にとって、沙那華は大切な人なのだろう。沙那華の傷口を塞ごうとコートをわざわざ刀で切って沙那華の傷口へ当てるも、
「私は助からないほうがいいのよ……ヴェリ」
「何言ってるんだよ!」
沙那華の胸元が光り、光を帯びる三神器が出てくる。光は徐々に失われ、見た目がただの石となり、ころんとその場に落ちた。沙那華は元の姿へと戻り、ヴェリは沙那華の頬を何度も何度も撫でては仮面の下から涙が流れて滴る。
「私と戦闘をしていてわかったが、お前……致命傷などまったく攻めてこないし、妙な違和感があったよ」
「そう……。私達を見てる奴がいるのよ……。私が貴方達を殺し、三神器を持ってこられるかをね……」
辺りを見回そうとしたところへ、沙那華が、
「探さないように、そのまま私に問いかけるような素振りをしてて」
注意を促し、俺は視線を沙那華へ固定する。
「私が現実世界へ出れるようになったのは、そいつのおかげ。その代わりに、私は三神器を手にし、この街を破壊しろと言われたの……。そうしなければ、私は綾香の中へまた戻ることになる……」
「今まで一部としていたものを個々にし、また元の器へ戻せば、二つの魂が今度は一部になれずに不安定で危険な状態になるな」
「そう……、でも私は綾香の住む街を破壊することなんて出来ない」
沙那華は市井を一瞥した。彼女も俺と同じ気持ちだったのだろう。守りたい、その気持ちが彼女の涙を浮かべた表情からよく伝わる。
「沙那華……」
神無月がキスイに肩を貸しながらもなんとかやってくる。俺は代わりにキスイを抱えて神無月と沙那華とが話を出来るよう気配りをする。話したいことは山ほどあるだろう。もう限りある彼女の命、短い間だけでも二人の間に出来た壁を砕く時間を与えたい。
「綾香……私は駄目な姉だったね」
「そんなことない! 綾香は世界で一番やさしい姉さんよ!」
綾香の瞳から、涙がこぼれ、頬を滴り沙那華の手へ落ちた。その手にはブレスレットがしており、神無月は手を握り、離れ離れになっていたブレスレットが今ようやくひとつへとなるように添われる。
「さっきは酷いこと言って、ごめんね……。本当は、綾香を守るためなら私は何でも耐えられた。綾香が好きだから……」
「私は……ずっと沙那華に頼りっぱなしで、駄目な妹よ」
「違う……。綾香は私の可愛い素晴らしい妹よ……」
今にも泣きそうな神無月は、涙を必死に堪えていた。彼女の言葉一つ一つを聞き逃さないよう、心に刻むよう、耳を傾け、俺達も言葉を発することをせず静かに二人を見守っていた。
「限りない希望……そんなの私には元々無かったのよ。でも、綾香にはあるわ……」
「沙那華にもあるよ! お願い! 生きて!」
しかし沙那華は首を横に振る。
「それは駄目なの……。私自身、もう三神器を使って体はぼろぼろ。それに、綾香のためには私は消えなきゃ……」
「絶対嫌!」
「ごめんね……。私の最後の我侭を聞いて……」
体が徐々に透明になっていく。これは、彼女が能力によって現実世界へ来たためなのか。
「沙那華!?」
「ルウ、あなたのことは調べさせてもらったわ……どうか、綾香から私のことを――」
「承知した」
どういうやり取りなのか、把握した。ルウの能力は記憶を司るもの。神無月の記憶から沙那華のことを消すよう彼女が頼んだのだろう。残酷だが、それが神無月の今後のためにも仕方が無い。今日のことも含めて、彼女には忘れたほうが良い。もう巻き込むだけ巻き込んだのだ、これ以上巻き込むことは避けるためにも、記憶を消すことは必須。
「恵那、もうお別れだけど、ルウの言うことを聞いてこれからは好きに生きなさい」
恵那はこくりと頷き、涙を見せた。
「ヴェリ、今までありがとう。あなたのこと、好き……愛してるわ」
「ああ、僕も愛してる」
彼も、大切な人を今なくしてしまう。ふと俺は時子のことを思い出し、ヴェリの心情を察するとどうしても胸が締め付けられる思いになる。どうしてだろう、涙が出てきそうで、時子の笑顔が、思い出が、ずっと浮かび上がってくる。
「もともと、人として生まれてこない私は、神海へ行けるのかな……。ねぇ……恵那。私に魂は……あるのかな……?」
恵那は、沙那華の頬に触れ、目を閉じた。
「……」
目を開け、
「ある……」
彼女の言葉に、沙那華は安堵の表情を見せた。
「よかった……。でも……私は生まれ変わりたくないわ。未来永劫、神無月沙那華として、大切な心はここに置いてく」
神無月の頬へ、手を寄せる。
沙那華の体が、もはや透けて実体もつかめないほどになっていく。
「沙那華!」
「……限りない未来はここにあったのね……。ああ、なんだか眠くなってきた……。最近寝てなくてね……今日は、ぐっすり……眠れ……そう」
沙那華はそういい残し、深い眠りにつくようにゆっくりと瞳を閉じて、体からは光の粒子が放たれて消えていった。残された衣服も、最後には残ったものの瞬時に砂となり、風に乗って、そこにはもう何も残っていない。神の力によって現実世界へ出現できた者の末路なのか、それでも……、それでも彼女には魂があるのだ。神海へと送られ、転生されるだろう。
どうしてだろう、こんなに辛く感じるのは。
神無月の慟哭、ヴェリは空を仰ぎ、しばらくして踵を返した。幽閉空間は解かれ咲姫と瑠紺華を連れて静かにその場を去っていった。
救うべきものを救えなかった。証拠に神無月の慟哭がその場に響き、誰もが口を開き喜ぶことなどすることはない。俺は街を、ルウを、凛子を守ったけど、切なさだけが残る。何がいけなかったのか、何が悪かったのか、そんなのは確証を持って言えない。言えるとしたら、この現実世界に蔓延りつつある神の力。俺の人生も、時子の人生も、神無月の人生も神の力によって人生は大きく変えられ、神の力が悲劇を生んだ。
「救えなかった……」
何のために力を得た?
何のために俺は刀を握った?
倒すため? 違う……。
「冬慈。それでも、我々はやるべきことをした」
「でも……!」
いや、ルウに八つ当たりしてもしょうがない。彼女としても、同じ気持ちのはずだ。俺が怒りを抑えずに当り散らしても何も解決にはならない。
ルウの表情を見て、俺はさらに気づく。
まるで凋落のように、先ほどの覇気はどこにもなく、酷く憔悴しきったように瞳は力なく潤いだけを見せていた。
「守るためには何かを犠牲にしなければならない。彼女はわかっていたからこそ、自分を犠牲にして、綾香を守った、街も、皆も。我々が守ったのは、己の命だけかもしれないな……」
沙那華はどんな気持ちで戦っていたのだろう。結局は、ここへルウ達をおびき寄せたのも、自分を殺してほしいからだったのではないか。神衝現象を起こすための核は恵那が行っている。つまりは沙那華が防衛に失敗すれば自ずと神衝現象も失敗へ繋がれる。
「沙那華に頼まれたことをせねば……」
ルウは神無月のそばへ。慟哭を聞きながらもこれからする残酷と言われても仕方が無いことにどうしてもルウは抵抗があるようだった。それでも、神無月のために、これからのために記憶は消さねばならない。
ルウは、俺へ視線を投げた。本当にこれが正しいことなのか、本当に記憶を消していいのか、これが神無月のためになるのか、伸ばした手は神無月の体に触れず、しばらく宙を掴むような素振りをしては戸惑っていた。
「ルウ……」
視線を落とし、神無月の肩に手を当てた。
「綾香。我に記憶を委ね、しばしの眠りにつけ」
「…………え?」
白い光と共に、全ての終わりを告げた。
時刻はすでに深夜と言っていいほど。凛子は今頃何をしているのか、気になるところである。九時過ぎとなるとさすがに晩御飯はラップにでもかけて冷めてしまっているだろうが、もう少し早めに帰れなかった俺への罰として温めずに食そう。
街はいつもどおり。騒然と歩く人々が波のように歩いている。沙那華のおかげでこの街は今日も、変わらず平和に今日を歩んでいる。限りない希望、沙那華が望んでいたもの。でも、俺達は沙那華に与えられたんだ。沙那華が自らの命を賭していなかったら、この街の限りない希望が、歩む人々一人一人の持つ限りない希望が摘まされていた。感謝してもしつくせない。
さて、あれからの状況についてだ。
あれからはラヴアがやってきて、眠っている神無月と、もはや沙那華を失って抜け殻状態へとなってしまった恵那、そして重傷を負っているキスイを、ラヴアの指揮する救護班によって運ばれていった。キスイについては説明のしようがない存在ではあるが、彼女は飲み込みが早い、というよりもそういうものが実際に存在していることをすでに理解はしていたようだ。ノーデンスのことを調べているうちに存在についてわずかではあるも理解はしていたという。
救護班がいるのだから一緒に行けばいいものの、ルウは変わっている。止血だけ済ませて血は拭い、しかし服の血痕が目立つため俺は上着を貸したが、そのまま家に帰るという。こうして俺達は今街中を歩いているわけだ。ルウは歩くたびに眉間のしわを歪ませて痛みを我慢しているようだった。止血はしても痛み止めを打ったわけじゃないから、全身の傷口をあちこちと突かれながら歩いているのと同じだろう。想像するだけで痛々しい。
「これは、どうするべきだろうか」
ルウは手に持っている黒く染まった球体――三神器を手にしていた。数年前の事件、今回の騒動も三神器が関係している事件を起こす時限爆弾を携えているような気分だ。だからこそ処理が困る。どこかに隠そうか、破壊しようとも考えたがルウ曰く現状で三神器を壊すことは不可能らしい。では、隠すという案だがもしも近くで三神器が発動されれば呼応してしまうためそれも駄目。では、どうするかということなのだが……。
「やはり、お前の器にいれるしかないか」
「……おいおい。最初は神の力を回収するための器って言っておいて次は三神器を入れるのか? 俺は何でもかんでも入れれる便利な箪笥じゃないんだ」
「だが、わかってくれ。私だって三神器が絡むとは思ってもいなかったし、私の器には入れるわけにもいかんだろう。私自身の能力が変化すればやりづらいしな。お前の場合はイタカがきちんと管理してくれるはずだ」
想像してみる。場所はあのイタカと会った空間だ。そこにイタカが一人。そして三神器がイタカに手渡されたとする。外見は子供、内面はわからないが、何か子供っぽい印象がある。なら、キャッキャと三神器を使って精神世界で恐ろしい波動でもぶっ放して喜ぶイタカを想像するが、考えすぎか。
「まぁ……わかったよ」
「よしっ」
と一言言ってルウは俺が心の準備をしている間に三神器を颯爽とした態度で入れて、
「よしっ!」
再びそう言う。
「何がよしだよ! 入れるならちゃんと入れてくれ!」
三神器が体内へ入ってくる感触というのはとてもではないが言い表せるものではなかった。今までにない経験だ、それは言い表せることなど不可能であるが、たとえるならば石だと思っていたものが、体に当たったと思ったらゼリーのような感触だった、ってな感じ。
「ははっ! 心の準備をしてる時間など無意味だろう? どうせ受け入れなければならないしな」
それもそうだ、と俺は仕方なくため息交じりに「まぁ……」と一言。
「……しかし、今日は疲れたよ。冬慈」
ルウは肩を寄せて、俺の肩に頭を凭。よほど疲れたのか、全身の疲れを吐き出したいかのような溜息をついて少し足取りを遅くした。俺よりも疲れているんだ、足取りは合わせてあげよう。
「結局、ばたばたして恵那からは力を回収できなかったし、私も思った以上に負傷したし、世の中うまくいかないものだな」
ずいぶんとルウらしくないことを言う。それほど疲れたのだろうか。
「うまくいく世の中だったら、誰もが夢見ることを忘れてしまうよ」
「それもそうだな」
軽く笑い、会話が途絶える。
今日は会話する気分でも無い。ルウは空を見続けながら、行き先を俺に委ねる。こんなに新鮮な気持ちで空を見上げるのはいつ以来だろう、俺はルウと一緒になって空を見上げて足取りは自然と止まった。今日の天候は悪くなかったおかげで雲ひとつない星がひとつひとつ輝いて見える空だった。月は満月――ルウは空というよりも、月を見ているようだ。
魂喰らいについては、恵那があんな様子だ。もはやこれ以上の悪用される心配は無いだろう。とりあえずは安心といえるが、それは束の間かもしれない。まだまだこの街には喰らいの神がいるのだ。三神器を持っている俺に襲い掛かってくるかもしれないが、それは俺が三神器を持っているという情報が広がればの話だ。それでも、沙那華が三神器を解禁したことでこの街に少なくとも三神器が存在するということは知れ渡っているはず。この街に喰らいの神やほかの神も、三神器が揃うまでは居続けるであろうが、ルウにとって状況は良い方向に向いているのではないか。俺という囮がいればルウは襲ってくる神を倒し、力を回収できる。そして三神器も保持できたのだ。
それなのに、表情が思わしくないのは、やはり沙那華と神無月のことか。
彼女はどんな気持ちでいるのだろう。俺は力を得たといっても所詮一般人から大してはみ出ているわけでもない。人の記憶を読めるはずもない。今どんな気持ちなのか、聞かずに知る方法があるのなら、と思う。神無月の記憶から、沙那華についての全ての記憶を消すことは、辛かっただろう。人の思い出を消すなんて、内から知れずに傷つけるのと同じ。それでも、沙那華が頼み、神無月の今後のためには記憶を消すしかなかった。そうでなければ神無月はこれから沙那華を失った心の傷を抱えて生きていかなければならない。これから、自分の知らなかった本当の世界で、新たな恐怖を抱えて生きていかなければならない。知らぬが仏、まさにそうだ。笑えないけど。
「私のしたことは、正しかったかなぁ……」
ルウの遠い視線で見る瞳には、今日の出来事が映し出されていた気がした。
「仕方が無かったよ」
「仕方が無い……か」
仕方が無い、そんな言葉で片付けるのは酷く切ないが、それしか言えない。
「自分自身の記憶を消せば楽になる、よくそう思うよ私は」
「そんなことするなよ」
「わかってる」
ようやく街を抜け、住宅街に入り自宅まで目と鼻の先ほど。肩をかすらせて歩く通行人ももう無く、あたりの人気は皆無へとなる。
ルウは足を止めた。
「なぁ、冬慈。私は誰だ……?」
突然の質問、これは何か意味を持っているのか。詮索してみるも、ルウの意図がわからない。ただ、答えは彼女がルウということ。それ以外、……そうだな。緒方時子、か……。
「私は、自分の記憶を消せば、緒方時子になれるのかな」
そういうことか、と俺は思う。
自分というものを消して人間を望んでいるようだ。視線は地に伏してしまっている。精神的な疲れが見える瞳。
「お前を助けに行くとき、私は緒方時子として望んだ。あいつなら絶対にそうすると思ったし、私自身……」
「ルウ……君は自分が嫌いか?」
「大嫌いだよ」
失笑しては、視線は俺を見てくれない。冗談でもなく、本心から言っているようだった。そうそう、自分のことをこうもはっきりと言える人間なんていないだろう、俺だけが思っていることかもしれないが、少なくとも周りにはいない。
「だからこそ、私はお前を緒方時子として助けにいくことを決意したのかもしれない。緒方時子になりきることで、自分から逃げれると思っていたのかもしれないな……」
続けて、
「私は、どうありたいのか、わからないよ。冬慈」
「君は……君が君であるために、逃げちゃ駄目だ」
「私が……私であるために……?」
ルウは顔を顰めた。
「なんていうか……説明できないけど、時子になって逃げるなんてそれは君が君として死を迎えることになるんじゃないか?」
しばしの沈黙。
重くなっていく空気。夕方から何も食べていないため腹の虫が騒ぎ始めたが、俺は腹部に全身の力を集中させて黙らせた。
「冬慈」
沈黙を破り、ルウは俺を呼んだ。
「私は、……私として生きてみるよ」
「君が時子になりたいのなら、二人でいるときでも時子って呼ぶようにするよ」
俺はルウが時子として生きることに少しうれしさを感じていたのかもしれない。あの時と同じだ。時子は生きている、そんな錯覚にとらわれたい気持ち、それにすがりたい気持ちがまだ心に纏っている。
「いや、いいんだ。私は私なりにやってみるよ」
「……そうだな」
「私が、私であるために……」
ルウに時子を望んじゃいけない、ルウも時子を望んじゃいけない。人は決して他人にはなれないのだから。もしも他人になれたのならば、それは自分という存在を捨てるということ、つまりは死と同じことなのだ。だから、望んじゃいけない。
「君が、君であるために……」
こうして、長い長い一日が終わった。
遅い夕食は、心の底から味わうことが出来そうだ。
エピローグ
ここ二日は空に雲が駆けることはなかった。
こうも太陽がぎらぎらと陽光を刺さるように肌へ照らしてくると心は清々しいが次第に衣服が汗によって肌へべったりとくっついてくる感触に不快感を覚え、これが何日続くのかと想像するだけで暗澹たる気分になる。なるべく学校へはゆっくりと、しかし早く教室へ入り机へ座って窓から入り込んでくる風に当たりたいために少し足早には自然となるものだが、今日は最初から全力で駆け足だ。隣で眠そうに瞼を擦っては、欠伸をひとつ。首をこきこき鳴らしてくしゃみをひとつ。だらしない塊が隣を走っているわけで原因はこいつだ。最近は色々あったし、疲れが抜けていないのはお互い様だが、遅刻しないために早起きはしてほしい。
「はぁ、学校というものは疲れるな」
疲れないために睡眠をとることは必然だが、とりすぎはよくない。
「朝急ぐのが学校というものだし、なんとも面倒だ。ああ、面倒だ」
急がないために早起きをするのが普通だと思うんだけど、考えてみれば行き着くものじゃないのかな? ほんの十分くらいだ、たったそれくらいの時間を短縮するだけで朝は歯磨き、洗顔、朝食をきちんととって歩いて学校へいけるものなのだが、彼女にとって朝というものは忙しいという印象で固められているようだ。それを溶かすべく俺は昨日目覚まし時計を購入したわけだが、どうしたものかな。目が覚めたら目覚まし時計が真っ二つになっていたのは誰のせいかな。ついでに目覚まし時計を置いていた机が真っ二つになっていたのはなんでかな。
結局、遅刻は逃れられたものの体中が汗まみれで俺は不快感をこれ以上無いというほど味わい、それを緩和すべく窓を全快にしてしばらく風に当たって放心することになった。
「おはようございます。榊さん、緒方さん」
一時間目までまだ時間がある。わずかな時間全てを俺は風に当たることに専念していたが、クラスメイトが話しかけてくる。誰かという詮索は必要ない。この口調はただ一人。
「ああ、おはよう。神無月」
「うむ、おはよう」
あれから、神無月はごく普通の生徒となった。ルウのことも、神のことも、沙那華のことももう憶えてはいない。これが、彼女にとって良いことなのだ。俺は自分に言い聞かせる。これからまた神の力によって巻き込まれることがあるだろう。彼女は俺達の住む世界にいてはいけない。沙那華も望んでいただろう。
「どうか、……しましたか?」
「ん? ああ、いや、なんでもないよ」
無意識にじっと彼女の顔を凝視していた。
「いやだなぁ、何女の子の顔見てるんだよ」
そこへ米崎が絡んでくる。
「なんでもないって。考え事してたんだ」
「神無月について?」
さらに南雲が。
「違うことをね」
「あやしいなぁ」
「あやしいねぇ」
「あやしいのぉ」
米崎、南雲、ルウまでも声を揃えて言う。面倒なので俺はそっぽを向いて風に当たる。いつまでもこんな平和が続いてほしい。ふとそう思ったのはなんでだろう。米崎も、南雲も俺やルウといる限りいつ巻き込まれるかわからない。今こうして学校にいるときでさえ俺は三神器と共にある。そのため敵が時と場所など考えずに襲ってくるかもしれない。だからこそ三神器は誰にも知られてはならない。この何気ない時間が、ずっと続けばいい。
何事も無く、今日の授業は終了。
明日は、明後日は、どうなるのか、不安なんて拭っても拭ってもあふれるばかりだ。
放課後、ラヴアが俺を呼び出した。ルウも一緒に来て欲しかったようだが、授業終了合図と共に姿を消したことからキスイのところへ行ったのだろうか。俺を置いていくということは至極私用のことなのだろう。
今日学校にいたか、疑問のところだがラヴアの授業態度は石像そのもの。教師に当てられるまで何も言わず、左右の席に座る生徒と無駄話をすることもない。そのためにいるかいないか意識しなければ確認できなかった。クラスでは一躍浮いた存在で休み時間は何人かがよく話しに来るが、ラヴアから話しには来ないため俺達とラヴアが学校で話すことは皆無と言ったほうがいい。一応留学生だ。それなりの素振りは見せているのだろう。
「神無月綾香のことについてですが」
大体話は予測がついていた。
「沙那華というものは最初、精神科ので診断結果によると二重人格から生まれた人格だったらしく、時を重ねるごとに人格ははっきりと区別され、二つの精神が共存していたようです」
「なるほどね。それが神の力によって、体から離れたってわけか」
「そういうことだ。私は神の力のことはまだあまり知らないが、そうとしか考えられない。沙那華という人格が誕生した原因は幼いころの虐待、虐めによるもの。現在は精神的治療のためと、もともと体が弱いらしくそれも合わせて通院しているようですが、精神的治療はもう必要ないですね」
沙那華はもういない。それがはっきりしたんだ。とはいえ神無月にとってはどう感じているだろうか。もともと一つだった精神が二つへとなり、さらに肉体から分離された沙那華という存在、双子とまで神無月は錯覚するほどの絆だったんだ。沙那華が消えた今、神無月の心にはぽっかりと空いたような喪失感だけが残っているのかもしれない。
「なお、キスイに関しては今日治療を終えてすでに施設から抜け出してしまったようです。さすがの回復力もさることながら、私達では手がつけられないほどやんちゃな人ですね」
「まぁ……そうだね」
「あとノーデンスのこともあるので、私はまだしばらくこの地区へ残り神無月綾香の保護も兼ねて残るつもりです。それと、恵那についてですが今のところ放心状態で何も聞けない状態でして、医師もしばらく様子を見たほうがいいとのことでした」
ノーデンスがもう神無月のことを襲うことはないと思うが、ほかの神が襲うかもしれない。沙那華だと勘違いしてやってくるかもしれないし、三神器の所在を知るためにあの状況を見ていた神がやってくるかもしれないため、気は抜けない。ラヴアがこれからまた神無月を守ってくれると考えれば、気が楽になるというものだ。
「そうだ、君はこれから神のことについて深く調べたりするつもり?」
「無論、もっと知らばければならないので」
なぜこんな質問をしたのか、それはラヴアもあの騒動以来神やその力について興味を持ったかもしれないと思ったから。
「危険なことに足を踏み入れないように、気をつけてな」
「もう、踏み入れているとは思いますが」
ふむ、確かに。
「それに、色々と問題は残ったまま。私はこの地区を全て真っ向に改善しようと思います」
ラヴアの瞳に宿る決意が、少し俺の心に勇気を与えてくれた。
「おおーい! 冬慈! キスイんとこいくぞー!」
そこへやってきたのはルウ。
妙に上機嫌のようだが、キスイの怪我が治ったことを確認でもしてきたのだろうか。肩を上下に揺らせて息を弾ませていた。
「では、私は帰ります。何かあったら連絡してください」
律儀にラヴアは頭を下げて踵を返し、丁度良くやってきた車両に乗り込み去っていった。
「キスイも怪我が治ったばかりだってのに……まったく」
まぁしかし今日は平和だ。
今からルウとキスイのところへ行って、その後は家に帰って凛子の夕食を食べて、そんで寝る。
明日は平和だろうか。
学校へ行って、何事も無く過ごせる日々。そんなものはもう望めないのかもしれないけど、わずかな時間でも充実したい。
隣にいるルウは頬を緩めて空を見上げていた。雲ひとつ無い青空。今日も、明日も、この青空のように変わらずいてくれてほしいとただただそう願う。
ルウを見て、君が君であるために、ただただそう思う。
明日もきっと雲ひとつ無い青空だ。
完
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■作者からのメッセージ
ようやく終りました。いやぁこれで第一部は完であります。しかし文脈もなかなか上達することがなく、最後まで進歩のない小説で申し訳ありません。次は第二部なのですが八月中旬には頑張って投稿できるよう頑張ります。ではでは。最後までありがとうございました。
4月2日、UP
4月30日、UP、修正・加筆
5月8日 UP
5月26日 UP
6月8日 修正
6月22日 UP
6月29日 修正
7月7日 UP
7月8日 UP
8月2日 UP