- 『ブラックオパール』 作者:神風 / ショート*2 未分類
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原稿用紙約7.65枚
毎朝必ず通る場所に、必ず同じ風景がある。
その場所は高速道路下の短い橋で、その下を流れる川はまるで泥水かのように濁った色をしている。空気も悪く、息を吸うと思わず顔をしかめてしまう。そういう場所に、ある一人の男と一匹の犬が住んでいた。古く汚らしい荷物を多く載せた台車の横に毛布に包まって寝そべっているその男は一般的にホームレスと呼ばれている。しかし、その男はまるで宝石のような深く澄んだ目をしていてホームレスなんて呼び方は似つかわしくないと私は思った。だから私は勝手にその男のことを『オパール』と呼んでいる。真黒な瞳をしているのに時に輝いた赤がその瞳の中に見えるような気がして、まるでブラックオパールのようだと感じたのだ。そのオパールの隣にはいつも一匹の犬が寄り添っていた。その犬の瞳もまた強く輝いている。私は一目見たときから、この犬の賢さに気がついていた。毛並みは長く、その色は薄茶だ。いつもオパールから離れることはない。気だるそうに寝そべっているように見えるが、私がすっと毎朝その横を通り過ぎるときに少しだけ目線を上げて見つめてくるのだ。必ず毎朝その犬と目が合う。そういうわけでこの犬とのアイコンタクトは私の日常の一部になった。『元気?』と目で訴えかけると、『少し今日は眠い』と瞬きをしながら返答してくれる。『寒いね』と少し口角を上げると、『でも良い朝だ』と尻尾を一回振ってくれる。いつのまにか私はこの犬のことを友達だと思うようになっていた。
ある日いつも通り仕事を済ませ帰路につくときのことだった。行きと同じ橋に差しかかったとき、薄茶の尻尾が何度も振られているのが視界に入った。少し小走りでそれを追うと、あの汚らしい台車をオパールが懸命に押している姿がそこにあった。そしてあの犬が台車に取り付けられたボロボロの紐を口に咥え引っ張っている。小さな身体をフルに使って懸命に引っ張っている。オパールも後ろから『もう少しだぞ』と話しかけながら台車を押す。オパールはすでに息が上がっているのか舌を出してハァハァと呼吸を合わせ、それを真似するかのように犬も真っ赤な舌を出しハァハァと呼吸を乱している。私はただじっと一人と一匹の姿を見つめた。そして後ろからゆっくりと着いて行く。他の歩行者はノロマな彼らをどんどん追い越していくが、何故か私にはできなかった。彼らを追い越すことなんて、できなかった。『がんばれ、がんばれ』と密かにエールを送り続ける。彼らは汗まみれで、とても汚かったけど、とても輝いていた。少なくとも、私にはそう見えた。
同じような朝、同じ橋の上で薄茶の尻尾を見たので、またいつもと同じように犬の横を通り過ぎるとき目配せしようと私はワクワクしていた。しかし、今日はいつもと様子が違った。オパールの存在はなく、犬だけがポツリと道路に寝そべっている。そして私が通り過ぎる瞬間も、通り過ぎた後振り返っても、犬は私の方を一切見なかった。薄茶の尻尾が冷たいコンクリートに垂れていて、振られることもなかった。
どうしたのだろう。体調が悪いのだろうか。
私は気になって、その日の仕事は小さなミスを一杯犯した。
帰り道、会社から出ると小雨がシトシトと降っていた。朝の天気予報では雨が降るとは言ってなかったのに。溜息一つ溢して、念のため持ってきておいた折畳みを広げ同じ道を辿っていく。あの橋に差しかかって、自然と彼らの姿を探してしまう自分に気付いて苦笑した。実際に話したこともない彼らがこんなにも気になるなんて可笑しな話だけど私にとってはとても重要なことに思えた。
しかし、そこにはオパールどころか犬の姿さえ消えていた。
古く汚らしい台車だけが荷物ごと取り残され、雨粒がビニールシートを弾いている。
胸騒ぎがした。雨が、私の体温を奪っていく。
オパールが死んだとわかったのは、数日後のことだった。
私がいつものようにあの橋に差しかかると、2台のパトカーと数名の警官がいて、何やら何かを取り囲んでいた。私が何かと思い近付こうとすると、激しい犬の鳴き声が響き渡った。まさか、と思い背伸びをして覗くと、そのまさかだった。最近見ていなかったけど、間違いない。あの薄茶の尻尾に真黒な瞳は、あの犬だ。あの犬が警官に囲まれて、そして滅多に鳴いたところなど見せたことがなかったのに、警官に吠えかかっている。警官が触ろうとすれば噛み付く真似をする。よく目を凝らせば、その犬の背後には汚らしい台車。そこに乗せられた荷物は、よくオパールが包まっていた汚い毛布だけだった。その毛布を取ろうとする警官に吠えかかっているのだ。 警官の困ったような声が少し聞こえた。
「おまえの主人は、もういないんだよ」
すーっと自分の体温が低下していくのが感じられた。
オパールが、もういない。それが一体何を意味するのか。私は瞬時に理解する。
あの犬が、吼えるのをやめた。
薄茶の尻尾を冷たいアスファルトに垂らして、警官の目をじっと見上げる。
強く、深い、真黒な目だった。それはまるでブラックオパールのような底知れない悲しみを携えた瞳の色だった。主人の瞳とそっくりだった。
私は見ていられなくなって、その場所から足早に過ぎ去ろうとした。その瞬間、あの犬と目が合う。一瞬犬の瞳が優しいものに変わって、真黒な瞳の中に赤い光を見たような錯覚に陥った。
いつも、この場所で、この犬と会話をした。私達は友達だった。
だけど、今は聞こえない。この犬の声が聞こえてこない。あんなに意思疎通できた筈なのに。
もう、きっと出会えない。私達は、此処で永遠の別れをすることになる。
この犬の行き先は、きっと大好きな主人のオパールの隣なのだから。
そっと目を伏せて、私は歩く。振り返ることは、しなかった。
目頭が熱くなって涙が込み上げてきても、私は歩き続けた。
あのブラックオパールの瞳が 頭にこびりついて離れない。
離れ、ない……
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2008/03/19(Wed)15:19:49 公開 / 神風
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■作者からのメッセージ
約2年ぶりの投稿です。
ブラックオパールという宝石が好きで衝動的に書き上げたものなので
至らない点など多々あると思います。
ご指摘・アドバイスなど頂けたら幸いです。