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『成華高等学校生徒会付執務特務機関・『ゼロ』[完結]』 作者:無関心ネコ / SF アクション
全角159753.5文字
容量319507 bytes
原稿用紙約485.9枚
 成華高等学校にて疑惑の自殺事件が発生。自校の利益を守るため、生徒会の自治委員会は密かに結成されていた執務特務機関『ゼロ中隊』を召集。集められたメンバーは事件の全容を明らかにしようとするが、彼らは次第に何者かの複雑な思惑の深みにもぐりこんでしまう……    未成年の未成年による未成年のための本格的ポリティカルサスペンスを目指しました。

 その校舎の屋上には、二つの影がオブジェのように佇んでいる。
 夕闇が迫るオレンジ色の世界の中で、一つの影が、落下防止用の手すりに向かって、不自然なくらいゆっくりと歩み寄る
 屋上の手すりに、手をかけた

 全身を小刻みに震わせながら手すりを乗り越えた彼女は、見下ろした先の地面に吸い込まれるように感じて、あまりの恐怖に足がすくんだ。宙を漂うような、ふわふわとした感覚に、意識が遠のく。
「ビビッてないでさぁ」
 背後から男の声――もう一つの影だ――がした。ライターを擦る音、男が加えているであろう、タバコに、灯がともる音――
 怖い
 怖いよ
「俺、この後も用事詰まってんだわ」
 事も無げに、男は言う。彼女はがくがくと震える膝に、何度も「震えないで! 一歩前に進んで!」と心の中で投げかけていた。涙が浮かぶほど、懸命に、必死に、悲壮に
「……だからさぁッ!」
 男の怒声。びくりと体が震えた。小さく悲鳴を上げる――あぁ、自分の声じゃないみたい、誰の声だろう、どこからの声だろう――
「時間ねぇつってんだろ!? 遅れたらどうすんだよ!? あぁ!? テメェが早く死なねぇからだぞッ!」
 足の震えが全身に回る。頭の中が真っ白になる。怖い、こわい。落ちるのが、高いのが、男が怒鳴るのが

怖 い

「……ごごごめっなさっ……」
「あぁ?」
「ごめ……なさっ……ごめ……」
「ごめんとかいいからさぁ……さっさと」
 彼女は一歩、前に踏み出した
 重力はあっさりと、支えを失った彼女を地面に引きずり込んだ。まるですりと掃除機にでも吸い込まれたかのように、屋上から彼女の姿は消えた
 その背後
 ぽっかりと空いた、彼女がいたその場所を、男は見ていた。まるで「ふと時計を見たら四時四十四分でした」みたいな顔をして、あっさりと、そこを見ていた。サングラス越しの目は、何の感慨もなくただ淡々と。タバコの煙を肺いっぱいに吸い込む余裕さえあった

 頭蓋の砕ける音

 存外、生々しさのない、非現実的な音だった
 男は咥えていたタバコをつまみ、口から盛大に煙を吐き出した。彼女がいた場所を横目で見ながら。
 そして彼はマナー良く、タバコを携帯灰皿に押し込み、入れ替わりに携帯を取り出した。手早くボタンを押す、それを耳に押し付け、ぶつっという音と共に通話状態になると
「死んだ」




 その日の成華高等学校、一年A組での授業は現代社会から始まった。
 熱弁をふるうのは勤続ちょうど十年を迎える殿山なる教師で、彼は滅多な事でもないとジャージにサンダル履きで授業を行い、その語り口は芸人のように滑らかという、典型的な中年教師だ。授業参観日にだけスーツを着てきて「先生いつもとちがーう」などと生徒に指摘されると「お前ら内緒だって言っただろ!」と突っ込んで笑いを取るようなべたっぷりである。

「いいかーじゃまず今日やるとこを簡単な言葉で説明するぞ。きょうやるとこはな、お前達のことだ。お前達子供が――おっと、勘違いするなよ? 子供っていうのは法律的にって事で、先生達が子供扱いしてるわけじゃないからな――いいか、一言で説明するとだな、『お前達子供の社会が大人の社会とは大きく違う』っていう事を今日は勉強するんだ。小難しいことが苦手な奴はこれだけ覚えたらもう寝てもいいぞ。たーだーし、遠田、お前は寝るなよ。寝ていいのは内申が四以上の奴だけだ」

 文句をぶーたれる生徒達を「うるさいうるさい。この世は学歴社会なんだよ」と殿山はを手を振って鬱陶しそうに黙らせる。黒板にさらさらと年号を書くと、その横に一文を書き連ねる。

「――――はい。今の子供社会っていうのをずーとたどっていくとだな、20XX年8月10日な。この日まで巻き戻されるわけだ。じゃこの日何があったか、わかるか? そこでマニキュア塗ってる黒ノ目――何があったか……そう、アジア大戦の終結だな。お前達のお爺さんお婆さん、もしかしたら、お父さんお母さん達が戦ったり経験したりした戦争な。おいおい黒ノ目、マニキュア再開すんな。ふてぶてしい奴だな」

 再び板書に戻り、その下に文字列を書く。『アジア平和維持機構』。

「はい。じゃこれが何かわかる人――っていうとお前ら手を挙げないんだろ。わかってんだよ。昨日『日曜洋画劇場』を見た人手を挙げろ。はい、柚葉。お前。日曜の夜にぼさっとして映画なんて見てんじゃないよ。先生が高校生くらいの頃はな……ん? お、そうだよくわかったな。その通り、アジア平和維持機構っていうのは、アジア大戦で疲弊した各国が恒久的平和とアジア共同圏を目的として作った組織なんだ。教科書最後の方に索引があるからわからん奴は後で引いとけよ――さて」

 板書に戻る。アジア平和維持機構設立に矢印を一本引いて、その先に『日本では大量の外国人流入。政治システムの刷新』矢印を引き『文化対立や民族対立でテロ・暴動が頻発し政治不安定に』と記す。

「アジア平和維持機構はアジア各国に共同圏を目的として色々とやったんだ。各国の政治体制を整えたり、経済基盤を作ったり、アジア国籍の外国人同士が自由に国を行き来できるように。だけどなかなか上手くいかなくてな、日本じゃ大失敗だ。外国人反対運動が起こったり、同じ流れでテロや暴動がたくさん起こったんだ。それに政治システムを変えた事に不満を持つ人も多かった。いわゆる革命を求めた人もいたりなんやらで戦後の混乱期に突入してしまった。結果的に戦後十年で首相が四回も替わって、候補者が五人も暗殺されちゃったんだ。ひどい話だねぇ――――と! ここからがお前達の話だぞ! 遠田起きろ! こっから重要だぞ!」

 板書に移る。年号に、『アジア平和維持機構が刷新要求』と書き、刷新要求を丸で囲み、そこから矢印を引いて『平和の礎(子供)を政治的に独立させ、混乱期から守る要求』と書いた。

「いいか遠田! このアジア平和維持機構からな、お前達を保護しろって『要求』が来たわけだ。まぁいやらしい話で『要求』と言いつつ『命令』なんだけどな。で、それに従ってお前達は民族主義とか、国粋主義とか、限定主義とか、右翼とか左翼とか、とにかくそういうのから綺麗さっぱり遠ざけられたんだ。何言ってるかわかんない? お前ら政治の話学校でしか聞いたこと無いだろ? そういう事だ。先生達以外の大人が子供に政治について話したら重罪なわけだ。この他にも、子供が犯した犯罪は刑事罰に問われないってのもあって――――遠田! おい! 寝るな! これなんだこれ!? んん? こういう法律なんて言うんだ!?」

 生徒の一人がむにゃむにゃ言いながら周囲に聞いて回り、隣の黒縁めがねの隣の生徒から答えを聞くと、「みせいねんしゃほごほーby益田」と呟いて再び突っ伏した。

「そう! 未成年者保護法だ。――益田、遠田のキン○マを三十秒に一回握ってやれ――。さて、この未成年者保護法だが結果的に悪名高い法律になってしまった。なぜか? 大人の社会と子供社会を決定的に隔絶したのは、この法律だと言われてるんだ。――おっほー遠田、目ぇ覚めたか?」

 教室の一角で遠田の獣のような叫び声があがり、殿山はにやにやしながらそう言った。女子生徒は「やだー」などと言いながら笑い、男達は皆一様に内股になった。

「さ、遠田も起きたところで話をクライマックスに進めるぞ。大人からの手が加えられなくなった子供社会はどんどん暴走していったんだ。特にその頃は各学校間の独立志向が無くなってきてる頃でな、子供達は自分からいろんな学校と提携を結んで、部活やサークル、イベント活動なんかを、技術的にも、組織的にも高いレベルへと高めていってたんだ。今は文化祭なんて一週間くらい全国の学校が一斉にやるだろ? それも自主映画はCGやら爆発やら使い放題な奴だったり、理化学研究部は最新ロボット技術を応用した発表なんてやったりして。この間も五校ぐらい連合したパソコン部がなんとかっていう大ヒットゲーム開発したろ? あんな感じに、集団のとして協力し合う事で、大人社会顔負けの社会を作っていったんだ。お前達内側にいるからわかんないかもしれないけど、これは凄い事なんだぞ? 先生が高校生くらいの頃はまだ文化祭なんて自分たちの学校だけの内輪なお祭り騒ぎくらいだったんだ。それも蟻の行列程もおもしろくもない金魚すくいみたいな出店をクラスで出すみたいな――おもしろくないだろー? お前ら幸せだよこんな時代に生まれて、と! 言いたいところだが!」

 殿山がびしっと指を突き立てた。

「同時に問題も起こったんだ――柚葉寝るなよー――そういう組織力を悪用して、でかい悪事をする奴らが子供の中にも出てきた。今みたいな大規模な文化祭なんかだと大枚な金が動いたりするからな、そういう利権に絡んだ奴らが抗争始めたりして。よくニュースで言ってるよな? こういうのを『子供達の大罪』と言います」

 赤文字で大きく『子供達の大罪』と書き出すと、ぐるっとそれを囲んだ。

「こーなってくるともーはっちゃけ放題だ。マフィアみたいな組織がいくつもできてシノギを削るようになったり、ITを駆使して巧妙に大金を得たり、仕舞いには人を殺しちゃったり、犯罪まで大人顔負けになってきてしまったわけだ。しかも大人はそれに手を出せない。さっき言ったよな? 保護法があるからだよ。それに力で抑えようとすると暴力で返ってくる。教員暴行事件や地域課警官殺害事件が相次いだわけだ。恐ろしい時代だがやってきたもんだ――――が、しかし悪も長くは続かない! この世はいつも諸行無常ときたもんだ!」

 ばばば! と黄色文字で『子供達の大罪』の横に小さくVSと書くと、その横に青文字で『高等公安』と書いた。

「犯罪が子供達の手による物なら、それを取り締まるのも子供の手で。面目ないが八方ふさがりなった先生達大人の代わりに、子供社会の方から悪い奴らを取り締まってやろうって動きが出てきた。そういう子供達は集まって、自分の学校に生徒会隷下の公安組織――ま、要するに警察みたいなのを作ったわけだ。あんまり大きな声で言えないが、それを取り締まる法律もない。だから彼らは自主的に、かなり自由に悪い奴らを取り締まって、警察に引き渡した。子供同士でやると不思議と反発も少なかったから、大人の方もそれを認める事にした。ん? なんだ益田?」

 めがねの生徒が手を挙げて、質問した。うちの学校にもあるんですか? その子供警察。

「んーそれがまだ無いんだな。ま、それだけこの学校が平和だって事だ。できたらできたで先生達も忙しくなるんだよな。生徒会と連携を取って行き過ぎた取り締まりがないか監視しないと行けないし、大人社会の方の公安委員会にも色々報告書が――ま、無いなら無いに限るよ、うん」

 その時、教室に低いうなるような音が響いた。生徒達は音の根源を探してキョロキョロしだしたが、すぐにそれは収まってしまう。彼らは顔を見合わせて、きょとんとした。

「おいおい誰だ携帯端末の電源入れっぱなしなのは? まったくお前らは、学校でしゃべって家でもメールして、授業中にまでおしゃべりする気か? そういうのは生き甲斐の無くなったジジババになってからやりなさい――ったく。はい。じゃ教科書78ページから読んでもらおうかな。今日は九月の八日だから……足して十七番。ほら、さっさと読め」

 不幸な十七番が不満たらたらに立ち上がって教科書読み始めると、窓際の一番角の席にいた男――黒瀬完爾は、ポケットの携帯端末をさりげなく取り出して、その画面を眺めた。無表情にそれを読み取ると、「先生、トイレ」と立ち上がる。顔を向けた殿山は「先生はトイレじゃないがそんなくだらない漫談をしている間に君が限界を迎えたら困る。行ってきなさい」とあっさりと許可し、黒瀬はそれにニコリともせずにうなずくと教室を出て行った。






 黒瀬完爾が「メンバー」に選ばれたのは「戦術・戦略的思考に優れ、かんいに期待できる」からだった。
 子供社会が複雑になって、暴力沙汰も一筋縄でいかなくなってから数年目。黒瀬が通う成華高校にも公安部隊が必要になったらしい。黒瀬は運悪く――いや、もしかしたら幸運にも――その新設公安部隊のリーダーに抜擢されたのだ。秘密裏に。
 黒瀬は放課後、いつも蔵書室にこもって本を――『クラセヴィッツ』や『マキャベリ』、『孫子』や『電撃戦という幻』なんて文字が踊る本を読みふけっているような、ちょっと個性的(と言えば個性的な)生徒だった。リーダーに抜擢されたのはその辺りの事をかぎつけた誰かの差し金だろう。
 しかし黒瀬自身はリーダーなんて大役をこなせるとは思っていなかったし、こなそうとも思っていなかった。話を持ちかけられた時、黒瀬は二言目で断った。その後の交渉にも断じて応じなかった。そもそも戦略や戦術とリーダーシップは全く関係ない要素だ。黒瀬はリーダーなんてまっぴらだし、誰かを悪い奴だと決め込んで警察のまねごとをするのも嫌だった。
 それでも彼はいまだ、チームのリーダーとして収まっている。なぜか?
 蔵書室である。
 黒瀬にとって放課後の蔵書室は、学校生活の中で唯一肩の力を抜ける場所だったのだ。誰しもどこかで自分を偽っている物で、それを煩わしく感じるものだが、黒瀬も同種の煩わしさを感じていた。
 あのオレンジの斜陽が差し込む蔵書室で、一人読書にふけながら、わき起こってくるぶつけようもない、理由のない怒りを、空想のようにふくらませる。そういう時間が、黒瀬には必要だった。黒瀬がチームに入るのを断ると、その時間は『蔵書室の一般生徒入室禁止』という形で生徒会によってあっさり奪い取られた。まるで麻薬を軽い気持ちでやっていたジャンキーが薬の供給を絶たれたかのように、黒瀬はそれに異常なくらいの喪失感を味わった。
 蔵書室が閉鎖されたその翌日に、黒瀬は自らチームのリーダーに収まることを自分から願い出た。後から考えればそれは、あまりに軽率で、運命的な選択だった。
 






「予算不足でもはや虫の息のお前らに朗報だ」

 夕刻迫る薄暗い生徒会室。
 部屋の中央に一人立つ男。彼を囲むようにU字型の机が設置され、そこには生徒会役員のお歴々が軒を連ねていた。若い男女が、四人。ぐるりと黒瀬を取り囲んでいる。
「『子供達の大罪』が発生した可能性がある」
 ファイルを読み終わった黒瀬に、右手に座ったオールバックの男がそう声をかけた。黒瀬は視線だけを彼に向け、しかしすぐにファイルに視線を戻す。
「未確認の情報ですが、幾つかの友好校の生徒会から今回の件に我が校の生徒が関わっていると情報がありました――聞き覚えは」
 黒瀬の真正面に座った少女が冷徹な声色でいった。小柄で、ニコリとでも笑えば可愛げのありそうな――しかし全く笑わない少女だ。ところどころ外はねがあるセミロングの髪をしていて、前髪をパールホワイトのピンで留めている。大きな瞳が繊細な鉱石細工のようで、滑らかで深いラインに囲まれて、黒目は黒水晶のように深い漆黒の光を湛えていた。
 彼女は名を清浦小春といい、その肩書きは生徒会書記である。
 小春の問いかけに、黒瀬はあっさりと首を振った。
「真実はどうあれ、この時勢にそういった情報が流れているのがまずい」
 再び、右手の男が黒瀬に声をかけた。
 目つきが鋭く、髪型はなんとオールバック。目元のしわと浅黒い肌――強固なまでの意志の強さが人相にはにじみ出ていた。
「近く全国一斉文化祭も開催される。それが終了するまでに噂を払拭する明確な証拠と報告書が出来上がらないと、この学校の名誉も信頼も、他校との友好関係も総崩れだ」
 黒瀬は返事もせず、ファイルを何度かめくっている。そんな彼に、小春は再び声をかける。
「今回の件――本校屋上から投身自殺した女性についての情報は一切制限されています。現場を警察より先に押さえられなかったのが響きました。ある意味、『子供達の大罪』を――子供達の関わりを匂わせれば、彼らも手を出しにくくなったでしょうが」
 小柄で比較的可愛らしい容貌の彼女が、無表情にそんな物騒な事を言う。無論、彼女のセリフに限らず、彼らの会話は本来の高校生が言い放つセリフではない――のだが、今のご時勢、これくらいできなくては生徒会役員は務まらない。
 黒瀬の方も特にそれを咎めるような事を口にしたりはしない。ただ黙々とファイルを読むと、視線を小春に返し。
「全国一斉文化祭までに、自殺した女とこの学校の生徒のかかわりを否定する証拠を提出すればいいんだな」
 鋭い、刃のような声で呟いた。
「よしっ」
 黒瀬の左手で、パンッと手を打ち鳴らす音がした。
 そこにいるのはのっぽでメガネの生徒会会計・松平ノブ、そして小柄で可愛らしい少女、生徒会副会計・櫻木桜である。手を打ち鳴らした松平は、神経質そうな目を、ねめつけるように男に向け
「てめぇのとこの組織には大枚はたいてんだ、それだけの『価値』を見してもらおうじゃねぇか」
「おかげさまでまた赤字ですから!」
 松平は一ミリも男から目を逸らすことなく、「うるせぇ」と呟いた。無論、その言葉の向かう先は黒瀬ではなく、傍らで元気に目を輝かせている桜である。
 向橋が咳払い一つした。
「……いいか、高等公安委員会から助成金が降りないとお前達の――あー……」
「チーム『ゼロ』」
 黒瀬がぼそぼそと答えた。向橋が大きくうなずいて
「そうだ。チーム『ゼロ』はあと二ヶ月で維持できなくなって解体だ。ただしこの件を上手く解決すれば、高等公安委員会から承認される」
 黒瀬は浅く頷いて返した。
 黒瀬の真正面で腕をゆるりと組んでいた小春が凛とした声で言った。
「黒瀬莞爾さん」
 真正面でファイルを閉じていた彼が、その声に顔を上げる。
 莞爾、とはにっこりと微笑む様を指すが、彼の目はもう長らく全く笑っていない陰りがあった。先ほどまでの喋り口も平坦で機械的。
 常は無口で、無表情で、ただ意志の強そうな瞳をじっとどこかに見据えている。ショートの黒髪に、骨格や挙動、呼吸の仕方まで、どこかシャープさを漂わせる。誰でも初対面の者が彼を前にすれば、居住まいを正し、背を伸ばしてしまうだろう――そういう雰囲気が漂う男だ。
「成華高校生徒会、清浦小春の下に命じます。直ちに『部隊』を動かし、この件の『真実』の調査報告を提出してください。例によって、正式な文書での命令は出せません」
 黒瀬は彼女の言葉に僅かな間、何の感慨も浮かべていないような目を向けていた。しばらくすると、首肯もせずに
「了解」
 呟いた


 彼は生徒会室を出ると、廊下を西に向かう。中央階段を昇って、五階に到着。まるで引きつけられているかのように、そのまま自然な足取りで廊下を西に向かった。
 その突き当たりには、こじんまりとしておんぼろな扉がある。扉の上には教室名の記されたプレートがあり、こう書かれていた。
『蔵書室(基地だそうです)』
 当然のように『(基地だそうです)』は手書きで、おまけに横に小さくハートマークが書いてあった。


「遅いっ!」
 扉を開けた途端、さっそく女の罵声が飛んできた。黒瀬が声の方を見やると、そこにいたのはやたらめったらに眉を吊り上げた、色白の美人だった。
 まるで北欧神話から扉してきたような容貌。
 母方が北欧の血を引いているという彼女の顔つきは文字通り日本人離れしている。ミステリアスな雰囲気をかもし出す、色白で目鼻立ちのすっきりした顔立ち、うっすらと開かれた相貌は黒目の色素が薄く、視線の先はどこか遠くを見つめているようで、唇はふっくらと霞みがかったような色合いの桜色、まつげが長く、眉毛がくっきりと曲線を描く。肢体はグラマーではないが出てるところは出て、引っ込む所は引っ込んでいてバランスが良い。足がすらりと、制服の短いスカートの下から伸びている。夕方のぬるい風に、彼女の山吹色の髪がさらさらと揺れる。後ろで緩く結わい、こめかみ横の髪を長くたらしている。そこには赤色の紐が二、三本結び付けられていた。
 名を七原清音という
「あんたが呼んだんでしょ!? なんで一番遅れくんのよ!?」
 性格はいたって横暴で、清楚はかけらもない。バンバンと机を叩き、やたらめったらにカリカリしていた。
「き、清音ちゃん、机割れちゃう……」
 横で慌てて彼女をなだめるのは市ノ瀬華だ。
 くりくりした目、ふっくらとした唇、栗色の髪はショートで毛先がふわふわとあちこちにむかって遊んでいて、頬はほんのりと桃色、小柄で、少し力のある者にならすぐに抱き上げられてしまいそうなくらい華奢だ。ちなみに至って常識人であるのにもかかわらずいつも何かに慌てている彼女のクラスでのニックネームは「シマリス」である。
「……見ろよ、ほら、ラスト一枚だぜ」
 そんな二人にも、入ってきた黒瀬にも、『我関せず』でトランプに興じているのは高校生という年齢にもかかわらず立派な髭を生やした男――九頭である。焦げ茶がかった髪に人差し指を食い込ませ、もう片方の手につまんだトランプをいわくありげに対戦相手にちらつかせている。
 机を挟んで対面に座っている対戦相手は
「はい、ジョーカー、2」
 あっさりと手札を手前の山に放り込み、最後の一枚を九頭に見せ付けると
「……ハートのエース」
 嫌になるくらいの間を持たせてカードをひっくり返し、その絵柄を見せた。そのままひょいと山の中に放る。詰まるところ、彼は逆転勝利したわけである。
 その名を、高木砂也という。
 少年のような柔らかな骨格といたずらっぽい相貌、二重のまぶた、くせのある栗色の髪、『馬鹿笑い』よりも『微笑』が似合う、実に「いい男」だ。楽しげに細められているその目の奥には、大人びた強かな光が見え隠れしていて、それがまた彼の異性的な魅力を引き立てていた。
「なんでだ、ありえねぇ……」
 してやられた九頭はラスト一枚のカードをぽろりと手から落とす。そのまま崩れ落ち、頭を抱え
「借金が……」
「五万くらいじゃないかな」
 砂也はあっさりしたもので山を纏めるとサクサクと混ぜ合わせ、
「また口先三寸で詐欺してくれば? この間みたいに、二十万くらいぱーっとさ」
「簡単に言うな。あれは綿密な計画と類まれな俺という頭脳が遺憾なくその力を発揮しないとだな……」
「普段から空気吸うみたいにヤクやってるくせしてよく言うよ」
「そ、それは見つかって以来やってねぇって! それにあれは軽い奴でな、スピードとかラッシュとかと比べたら……」
「借金のかたに詐欺して薬キめて――ははは、そこまで行ったらもう人間として終わりだよね あっはっはっ」
「うんだとてめぇ!!」
「なんでもなーいよ」
「スカし野郎が!」
「ヤク中―」
「うるさいなお前ら、トランプは紳士のゲームだぞ」
 額突っつき合わせてにらみ合う(砂也は穏やかな笑みを浮かべていたが、それは間違いなく挑発という名の微笑だった)二人の額にぶっとい手が差し入れられ、両者は強引に引き剥がされた。二人の間ににょきっとごつい顔が出てきて
「もっと平和的にやれ。理知的な大人の態度でな」
 そう言う男の躯体はあまり『平和的』ではなかった。
 黒人総合格闘家並のごつい体躯、盛り上がった肩の筋肉、冬服をまくった腕からは俊敏さを損なわないほどの筋肉がバランスよくつけられ、服に隠された腹筋も足も、筋骨隆々で引き締まっている。目は一重だがどこか優しさがあり、しかしその片目は真っ赤に充血していて、そのいかつい顔にさらに強烈なアクセントを残す――街のチンピラには総じてケンカを売られ、しかし『その手の連中』からは一目置かれるような、そんな男だ。
 名を石田勘八という。
「……」
 そして全ての事象から我関せずで窓際に立っている小柄な少女が一人。手元の端末を弄りながら、斜陽を頬に受けている。時折銀縁の眼鏡をくいと上げ、一人の世界に入り込んむ――メガネの奥にあるのはアーモンド形の愛嬌のある眼で、よく見ると眼の下に小さな横一線の傷跡がある。クスリとでも微笑めば少女らしくて可愛らしいだろうに、彼女にはそんな気がさらさらないのか、厳しい視線を手元のディスプレイに落としている。薄い唇が、緩く『へ』の字型に閉ざされていて、どうやら年中そういう形をしているらしい。さらさらとセミロングの黒髪が揺れる。窓からオレンジの陽光がさせば、華奢なその姿は儚げでなかなか画になった。
 名を由乃日和という。
 以上男女五人。
 まさしくコントのように彼らは好き勝手に自分のやりたいことをやって、騒ぎ立てて(静寂を構築する者もいる)いた。見事に力のベクトルがバラバラである。彼らを冷然と眺めながら、黒瀬は呟いた。
「チームの延命が決まった」
 一斉に全員が黒瀬に目を向け
「え!」「ぅえ!?」「マジ!?」「へぇ」
 最初に日和と華、清音が驚きの声を上げて、砂也が感嘆した。九頭が大いに感心したように
「ぅおーすげぇ交渉してきたの? あの会計イガグリ頭と? あのちっこい女の方?」
 勘八が笑いながら黒瀬の肩を叩く。
「さすがリーダーだな。これ以上のリーダーシップは無い。なっはっはっ」
 黒瀬はそのどれにも反応せず、手にしていたファイルを机の上にぶちまけた。トランプの山にそれが覆いかぶさり、
「仕事がある」
 引き潮のように喧騒が遠のいた。
 彼らは各々、先ほどまで自分がとっていた中途半端な姿勢で、しれっと突っ立っている黒瀬を眺めた。総じてぽかんとした顔をしていて、「ヤバイ」と「うわっついに来たか!」の中間くらいの表情を浮かべている。
「何それ……なんかそのファイル凄い分厚いんだけど。凄いめんどくさそうなんだけど」
 全員を代表するように、清音が呟いた。繊細な目を大きく見開き、ぱちくりしている。
「ほっ、初任務か」
 勘八が「どーんと来い」と言わんばかりに腕を組んで笑った。その後ろの窓際では、日和がやはり目をぱちくりしている。
「マジかよ……うわホントに来ちゃったか」
 九頭が額に手を置いて天を仰いだ。向かいで砂也が「あちゃー」と小さく呟いている。
「あぁ……上手くできるかな……」
 華は眉尻を思いっきり下げて、弱々しく呟いた。気落ちしているのか、どんどん身が縮こまっていく。
「……やる気を出せ。存続が掛かってる」
 黒瀬があまり抑揚がない声で呟いた。
「あんたが一番やる気なさそうだけど」
 清音がじと目で黒瀬を睨んで、黒瀬はそれにしれっとした目を向けた。
「俺はやる気だ。任務に失敗すると二ヵ月後には解体だからな」
「必要ないから解体されるんでしょう」
 日和がメガネを外しながら言った。その表情は無感動そうなものに戻っている。
「ふーん、ま、いいけどさ、結局何すればいいんだっけ、俺たち」
 砂也が気の無い感じに質問。
 黒瀬はひとまずと全員に着席を促し、自分は窓際の一番奥の席に向かった。全員の顔を見渡すと、傍らからファイルを取り出し、
「……色々報告する事はたくさんあるが、まず始めに今回の任務を総じて言うと」

 悲鳴

 甲高い悲鳴、絹を劈くなど生ぬるい、脳に針が差し込まれるような悲鳴が彼らの部屋に一瞬で近づき、ボサッという鈍い音が窓の外を通り過ぎる、同時に一瞬で現れて一瞬で消えていく、黒い影――――悲鳴は一瞬で遠ざかり――

 数秒の間

 頭蓋の砕ける音

 再び、呆けたような数秒の間があった。まるでそれが息を吸い込む時間であったかのように、次の瞬間には階下から再び悲鳴が――先ほどとは別の人間による――上がった。どやどやと喧騒が溢れ始め、「おい大丈夫か!?」「うそっ、死んでんの?」「なにこれヤベェ……」と、ぽつぽつとした声が漏れてくる。

 一方、蔵書室でファイルを片手につっ立っていた黒瀬は、後ろを――たった今、黒い影が『落ちていった』窓の向こうを――眺めていた。
 彼はゆっくりと顔を元の位置に戻した。案の定、そこには唖然を通り越して呆然としてる男女五人の姿があり
「……自殺事件を追う」
 呟いた。





 由乃日和がチームに選出された表向きの理由は「情報集積・処理能力に長け、冷静沈着に判断を下せるから」だった。
 日和自身はそのことを知らなかった。後から黒瀬に話を聞いて「誰が考えたから知らないけれど、うまい言い訳を考えつくなぁ」と感心してしまった。そんな物は全部嘘だったのだ。
 日和にはもともとそんな能力は無かったし、冷静沈着でもなければ自主的に判断なんて下せない。周りの流れについて行けず、気づけばいつも悪い方向へ。戸惑っている間に、また流されて、流れの本流にまで流れ着いてしまう。
 全てはチームに自然と入り込むための言い訳だったのだ。情報集積・処理はチームに入るのが決まってから身につけたものだし、冷静なのはコミュニーション不全の言い換えだ。
 そんなにチームに入りたかったのか、というと、そんなはずはない。日和は他人との煩わしい、嘘くさい友人関係なんて大嫌いだったのだ。できることなら、ずっと自分だけの世界にこもっていたい。誰にも邪魔されないところで、一人静かでいたかったのだ。
 だけどそうはいかない理由があった。血を分け、人生を隔てた姉妹、双子の姉だ。
 生徒会書記の役職に就き、秘密裏に公安部隊を設立した彼女――清浦小春は日和の姉だ。
 小春はチームを創設した事を誇りに思っていた。同時に「いつ裏切られるや知れない」とまん丸の目を警戒心でじっと細めていた。小春は根っからの正義の人だ。真っ直ぐだからこそ、敵も多い。たとえ自分の下にあるチームでさえ、心の底から信じるには至らない――至れないと、そう話していた。
 日和は彼女のために、その目に成り代わったのだ。常にチームを警戒し、僅かな変化も見逃さない。つまりチームがきちんと小春の言う通り、小春の言いなりになるよう、内側から監視する役割――――
 スパイである。
 こうして日和はチームの一員でありながら、誰も信頼できないという二重生活を送ることになった。姉が味方を信用できなかったのと同じように、日和もまた、チームを信じられなかった。
 だけどそれでもよかった。姉は味方を信じられなかったけど、自分を信じてくれた。
 私を信じられるから、チームを安心して自らの正義に役立たせることができる。
 私は正義のミカタ
 彼女のミカタ

 それで、よかったのだ。




 成華高等学校は『清純な交友関係』を一つのセールスポイントにしている。
 生徒達は様々なレクリエーションを通して友愛を深める。他の学校と比べ校外学習が多いし、クラス対抗の球技大会などのイベントも多い。月に一回は何かしら議題を持ってディペードをして、結果互いの価値観を認め合う。教員は生徒達の交友関係をしっかりと把握し、クラス分けには社会心理学的な見地を導入する事で――――
「綺麗事ですね」
 成華高等学校図書室の一角。朝の静謐な空気の漂うそこに、人の姿はほとんど無い。転寝をしている図書委員がいるカウンター。誰もいない学習エリア。誰も利用しない個室AVシアター。列を組んだ本棚にも人影は無く――――ただ、窓際に二人の影があった。
「……広告だからな」
 窓際、腰までの高さの低い本棚が並び、その上にラップトップ型の端末が二つ置いてある。それを操作する日和と、その横でファイルを眺めている黒瀬の二人だ。
「だからっていい加減ですよ。入学してくる生徒はそれを信じてるんですから。これを知ったら怒るんじゃないですか……笑うかもしれませんけど」
 日和は眼鏡越しの目を一方のディスプレイにむけ、コンソールを叩いている。水の透けるようなディスプレイには幾つかの作業タスクが並び、幾何学的ともいえる数字群が流れている。常人にはおよそ理解不可能な情報の群れだが、日和は淡々とその大きな瞳で数字を追っていた。
 方やもう一方の端末には真っ黒なデスクトップの中にデフォルメされた『黒猫』がちょこんと座っていて、暇そうに欠伸をしていた。
「ナビ、インフォメーション」
 日和がぽそりと呟く。猫はぴくんと目を見開き、髭をピンと伸ばした。慌てて画面から出て行き、コミカルな動きで何かを――HTTPファイルを引き出してきた。
 黒瀬が顔を寄せる。
「……これは?」
 HTTPファイルは幾つかのホームページや画像データをまとめたものらしい。ずらりと写真や新聞記事の切り抜きのような文面が並んでいる。
「ネットワーク上に落ちていた最近起きた自殺関連のデータです。ナビに関連のありそうなものをピックアップして貰いました」
 ディスプレイの端にいた黒猫がのそのそと真ん前に来ると、自慢げに顎を持ち上げて髭を伸ばした。「偉いだろ」と言っているらしい。猫の正体はバイオコンピュータを利用したナビゲーションシステムだ。デジタルデータのみならず、アナログデータも参照する事ができて、使用者の様々な手助けができる。限りなく人間に近い助手のようなものだ。
 黒瀬は日和に目を移し
「関連……昨日の自殺か。自殺の原因は交友関係の行き詰まりだったと向橋が言ってたぞ」
「それは嘘ですね」
 日和がナビに再びインフォメーションを促した。黒猫がまたぴくんと髭を伸ばし、HTTPファイルから幾つかの文面が取り上げられる。
「ここにピックアップした自殺事件はそれぞれ別個のものとして取り扱われています。各々に面識は無く、交友関係もありません。自殺直前までの生活環境はバラバラ、年齢は同一ではなく、自殺に共通する手法はありませんし、もちろん血縁関係もありません。ですが、一時期から一部の三流ゴシップ誌でこれらの自殺が『疑惑の連続自殺事件』として特集が組まれています――ナビ」
 ピピピ、と電子音。黒猫の目が赤や黄色に点滅し、ぴこん、とそれが終わる。HTTPファイルに並べられた新聞の切りぬきから幾つかの文章にアンダーラインがひかれ、抽出され、拡大表示される。
『――年三月・成華高等学校卒業』
『原因に苛烈ないじめがあり』
『――成華高等学校卒業生』
『有名高校の暗部か』
『成華高等学校卒業』
『止まらない自殺。いつまで続くのか』
『成華高校卒業生の――』
『自殺前に友人に告白。残虐な手口』
「複数のゴシップ誌が、これらの自殺者は成華高等学校出身者であり、自殺原因は過去の『同じ手法で行われたらしい』イジメにあると掴んでいます。ですが表向き、そういった情報は流されておらず、警察は自殺の原因を『交友関係』や『金銭トラブル』と発表してそこに関連性を言及しようとしていない。警察のそういった態度に、ゴシップ誌は色々と不穏な推測を上げています」
「だがゴシップ誌だからな。色々と騒ぎ立てるのが仕事だ。ここまでわかっていて警察が手を引くのはおかしいし――」
 と、そこまで言って黒瀬は口を閉ざした。僅かな思索。
「……そうか、『子供たちの大罪』」
 日和がうなずく。
「他校の友好校が今回の件に『子供たちの大罪』が絡んでいると考えたのは、これを掴んだからですね」
 日和は黒瀬を見上げ、
「何らかの形で未成年者が事件に関わっている。だから警察は未成年者保護法の下、事件自体の詳細がつかめるような情報を削除した。未成年者の保護を目的として」
「表向きは自殺者のつながりを隠して、実際にはその線で捜査を進めてるのか。犯人が尻尾を出したら内密に処理する気だな。……だがこのタイミングでこの学校の生徒が補導されたら、確実にスキャンダルとして周辺校で取り沙汰される」
「どの高校もそういった情報には敏感ですよ。文化祭前後は執政力を計る絶好の機会ですから。この高校が結んだ技術協力や友好条約の締結も、このままいったら破棄になるかもしれませんね」
「警察はそこまでフォローする気は無いだろうな」
 黒瀬は小さく唸り、黙り込んでしまう。ディスプレイの映像に刃じみた視線を向け、何かを思索している。
 日和は彼を横目で見ていたが、しばらくするとディスプレイであくびをしている黒猫に手を伸ばした。その顎の下に人差し指を差し入れ、小さく撫でてやる――もちろん、それは映像でしかないが、彼女の小さな手はそれをほのかに、本当の愛情を持って愛でている――
「日和」
 黒瀬がため息混じりに、ぽそりと呟いた。日和はそれに、事務的な目で返した。黒猫を撫でていた手をさっとコンソールに戻し、
「はい、何か」
「ケーキと焼肉どっちが好きだ」
 日和は「は?」とは訊かなかった。至極落ち着いて、コンソールに置いた手をピクリとも動かさずに、ディスプレイに向けていた目はじっと身動きさせず、たっぷり一呼吸分、間を空けて、
「――――は?」
 結局訊いた。
 黒瀬が手にしていたファイルを眺めながら、手近の椅子にどっと座り込んだ。
「小春が事件が無事解決したらケーキ食べ放題か焼肉食い放題か、どちらかを恩情で与えると言っていた。どっちが食べたい。お前達の意向にあわせる」
 日和は興味なさそうに
「そういうの、解決してから考えた方がいいと思います」
「先に言っておいた方がモチベーションが保てると思ったんだ」
 日和は一度、小さく咳払いした。ゆっくりと黒瀬のほうに顔を向ける――その目はじと目だった。
「……私が、食べ物に釣られて、やる気を出すと思ってるんですか」
「いらないのか」
 黒瀬は事も無げに言った。その目はファイルに向けられている。お陰で日和は「うっ」と詰まる姿を見られずにすんだ。
「――そ、そういうことじゃなくて、私は、与えられた仕事はエサなんてなくても、きっちりとやり遂げられます」
「それはわかってるが、『ご褒美』は無いよりあった方がいいだろ」
「だから、そういうことじゃないんです。今は真剣な、仕事の話をしてるんです。そこにケーキだとか焼肉だとか、そんな問題持ち込まないでください」
「ケーキか焼肉のどちらが好きかと聞いてるだけだ。お前、人に好きなもの聞かれるといつも怒って返すのか」
 黒瀬は真顔で言っていたが、対照的に日和の顔は一気に真っ赤に染まった。努めて無表情だった顔が怒りに崩れて、一気に振り返り――まるで静寂につつまれていた湖畔にスペースシャトルが突っ込んできたようなバカバカしい位の唐突さでもって
「素直じゃないって、言うな!」
 叫んだ。
「じゃどっちがいいんだ」
 黒瀬はそんな湖を前にしても平然と釣り糸をたらす釣り人みたいな顔で尋ねた。
「ケーキか? 焼肉?」
 日和は随分な時間、黒瀬を見開いた目で睨んでいた。振り上げた拳をどうすればいいのかわからない、といったところである。黒瀬はそんな彼女を無常にも無表情で見つめ返し、言外に責め立てる。
「……………………キ」
 だいぶ長い時間をかけて、彼女は呟いた。しかしあまりに小さく
「は」
「ケーキ!!」
 「はい、ケーキ」と、黒瀬はファイルに何事かさらさらとメモした。日和は真っ赤になった顔をぷいっと窓の方へ戻し
「種類はどんなのがいい」
「まだ答えなくちゃいけないんですか!?」
 すぐに振り返った。黒瀬はその怒声に平然とした顔を向け
「いいから言えよ」
 日和はぐっと詰まる。
「…………だったら、……を」
 また小さい。だが黒瀬がまた「は」と言う前に気配を察知し
「僕はモンブラン!」
 と叫んで、バッとコンソールに向き直った。何事かコンソールをがちゃがちゃと叩く。
「僕はモンブラン、か……」
 黒瀬が小さく呟き、さらさらとメモを取る。日和が彼女自身もよくわからない恥辱に怒り心頭なのにも関わらず、彼はしれっとしてしている。ついでに黒瀬は書き終わった後で
「……ふん」
 と小さく鼻で笑ったのだ。もちろんそんなことをすれば
 ドガッ
「何が面白いんですか!」
 と、哀れ本棚には日和の拳が叩きつけられた。
 クワッと再び顔を真っ赤に染めた日和の内心では、やっぱり自分でも良くわからない恥辱がニラニラと煮えくり返っている。とはいえ黒瀬はそんな事は知らないので、ファイルを見ながら
「いや、少し面白かったから」
 と、やっぱりしれっとして言った。日和はもちろんそれにも激昂し、その顔の赤さたるや頭から湯気が出ないのが不思議なくらいで
「ッだったら黒瀬さんは何を頼んだんですか!? どうせ焼肉でしょう! それで何か――そう、カ、カルビとか! カルビとか頼んだんでしょう!!」
 黒瀬はファイルを見終わったのか、幾つかの書類を挟むとトントンと机で叩いて中身を整えた。黒のバックパックにそれを放り込み、さっと立ち上がると、彼女をズイと見下ろして
「いや。俺はチャーシュー麺がよかった」
 と答えた。





 
「女じゃないお客さんが来てる」
 放課後、帰宅間際でざわざわと騒がしい一年三組の教室で、砂也はクラス委員長の渡辺にそう言われた。
 自分の席にべったりと座り、携帯端末でメーラーを起動していた砂也は、彼女の顔をぽかんと見上げ「え?」と聞き返す。渡辺はさらりと
「え? じゃなくて、扉のとこで待ってる」
 と言い残すと、彼女はショートの茶髪を揺らして去っていってしまった。砂也はそのあまりにそっけなさ過ぎる態度に「うーん……」と小さく唸ってしまう。彼女は砂也にとってクラスメイトでクラス委員長で、その上幼馴染を兼任している。砂也の中での彼女の立ち居地は結構微妙だ。
 まぁいいか、と砂也は唸るのを止めた。面倒事は深く考えないのが一番だ。さっさと扉に向かう。
 途中、遊び友達のユウが「カラオケいこぉよ」と腕に絡み付いてきたが、やんわりお断りした。長くなりそうだからだ。代わりにユウは渡辺に絡み付いて同じセリフを繰り返している。砂也はそれを尻目にさっさと扉へ向かった。
「砂也」
 扉をくぐって廊下に出ると、案の定、すぐ脇で待っていたらしい黒瀬が声をかけてきた。
「……マジげんなり」
 砂也が半笑いで――あんまり馬鹿笑いは好きじゃないのだ。かといって笑わないのも無理――呟くと、黒瀬は「そうか」とあっさりと返した。
「何? 何させる気……?」
 言外に乗り気じゃないことをアピールしながら彼はそう言ったが、黒瀬はそんなのにはお構いなしに言葉を続ける。
「例の自殺の件だが別の自殺事件と二つ繋がりがあることがわかった。一つはこの学校の卒業生。もう一つは在校当時イジメを受けていた経験がある」
「へぇーすげーじゃん。んじゃ、これで」
 肩にカバンを引っさげた砂也は彼に背を向けた。手近な女生徒にふらふらと歩み寄ると「帰りにファミレス寄らない?」と軽薄に声をかける。彼女とその友達数名は「えぇー? どうする?」とくすくす笑いながら顔を見合わせ、じらしながらも「しょうがないなぁ」という態度でうなずいて返し「ホントに? やったぁ、さぁ行こうすぐ行こう」と砂也は彼女達の背を押して
「手がかりをもとにして予測される次の被害者を特定した」
 黒瀬に首根っこ引っつかまれて引き寄せられた。ぐえ、と砂也が腹を押されたカエルのような声を出して、誘われていた女生徒たちはキャイキャイと笑った。砂也はアハハ……と苦笑いでそれを返し、首根っこを掴んでいる黒瀬をぐっと振り返る。
「何すんだよ離っせ!」
「俺とお前はアポが取れたその人物に今から会いに行く」
「一人で行けよ!」
「何のためにチームにお前がいるか考えろ」
「ムードメーカー!」
 黒瀬は鼻を鳴らし
「そんなのは抱えてあまる程いるんだよ」
「全部黒瀬で中和されてるよ」
「そうかよ。さっさと来い」
「いたいいたいわかったわかった自分で歩く!」
 黒瀬の腕を払って、砂也が自分で歩き出す。黒瀬はそれを疑わしそうにじと目で見ていたが、しばらくすると小さく鼻を鳴らして横並びに歩き出した。
「乱暴だよねー」
「そうは思わないな」
「いーや、乱暴だね」
「だったらそう思ってろ」
 砂也は小さくため息をついて両手を返して
「あーあ、怒っちゃったよ。すぐ怒るからなぁ黒瀬は――ってうわっ塚川だ」
 角を曲がって中央階段に入ろうとしたところで彼は足を戻した。ささっと壁際によると黒瀬に目配せする。黒瀬は不可解そうな顔をしながら階段に目をやった。
 女性徒を数名引き連れた教師が上から降りてきた。
「あぁ違うよ。需要と供給って言うのはイメージしてみないと。なんども演習して……」
「でもでも、ここの問題って」
「あぁ、この問いの意味はね……」
「ええ――そういう事だったんですかー?」
 ただれた教師というものは授業参観でもないと毎日ジャージを着てくるような節操の無さを見せるものだが、その教師は違った。しっかりとブランド物の(しかしシックな)スーツを着こなし、インナーシャツは清潔な純白で、ネクタイも色映えのするものをしっかり結び、銀縁メガネはレンズに傷一つ無い。そして顔立ちは目鼻立ちのすっきりした容貌で、さわやかだ。目は切れ長であまりやさしそうではないが、そういったネガティブな側面が他の魅力的な面と絶妙に混ざり合い、彼の悪魔的魅力を引き出していた。何より若々しい。あれほど若い教師を、黒瀬はこの学校で見たことが無い。
「知り合いか」
 黒瀬が小声で尋ねる。砂也はうんざりと言わんばかりに嫌そーな顔をして言う。
「塚川俊……担任だよ。こないだ俺に注意してきたんだぜ?」
 教師とその取り巻きは黒瀬の前をあっさりと通り過ぎ、階段を再び下に下りていく。取り囲む女子生徒のほうは、アイドルを前にしているような高揚感と、周りの女子生徒達への優越感を足して二で割ったような笑みを浮かべていた。
「くだらない事ばかりしてるからだろ」
 見送る黒瀬の背後で、砂也は角から頭をちょこんと出しながら
「してねぇーし。全然してねぇーし。なんて注意されたか知ってる?」
「学校に来い。休むな。無断欠勤するな。このままじゃ留年だぞ」
 砂也は全然無視して
「『女の子も程ほどにね』――――ったんだぜぇぇぇぇぇぇ?」
 身もだえしながら、ひねり出すように叫んだ。
「良い教師じゃないか」
 黒瀬はしれっとして言った。バッと角から飛び出した砂也は塚川の下りていった階下を指差し
「だってアイツもはべらかしてんじゃん! はべらかしてはべらかしてはべかりちらして――あ、この噂知ってる?」
 砂也はハッとしたように黒瀬に向き直った。黒瀬は「知らない」と返す。
「塚川って、あの取り巻きの女の子とたまに寝てるらしいぜ? 『お供え』って言ってさ、ああいう取り巻きの中の女が『自分だけを見てください』って身体を差し出すんだって。遠田が言ってた。黒瀬のクラスの」
 黒瀬はしばらく砂也の背後、下り階段を見ていた。胸元からタバコのパッケージを取り出し、それを口に咥え、火もつけずに空気を吸い込むと
「……お前、焼肉とケーキどっちがいい」
「え? 焼肉――カルビ!」
 






 
 繁華街の裏路地に地下に作られたバーがある。昼間は喫茶店だが、夜になるとカクテルなんかを出す店だ。流してる曲や、店の雰囲気がなかなか洒落が利いてる。そこが彼の――高木砂也の行きつけの店だった。しかし砂也はその店を気に入ってるというわけではない。むしろそういう気取った店は大嫌いだった。ではどうして毎日通ったのか。

 女を連れていたのだ。特に「深い所を聞き出したい」女。毎日違う女だ。

 彼の父親は女好きだった。とにかく女にだらしない。子供の頃、砂也が夕方まで遊びつくして帰って来ると、いつも父親と母親は女絡みでケンカをしていて、その声が怖くてまた遊びに出ていた。といってもそんな時間では誰も付き合ってはくれない。結局一人で砂を穿り返すくらいしかやることは無かった。
 おまけに父親は、ケンカだけじゃ飽きたらなかったらしく、冗談みたいに母親を刺し殺して逃げた。
 砂也がいつものようにケンカの声がしなくなってから玄関に入ると、リビングから父親が飛び出してきたのだ。暗い廊下に、リビングの光が静かに差し込んでた。かすれたような、腐った牛乳みたいな光だった。
 転がり出てきた父親は砂也を見るなり悲鳴を上げて、はいつくばって裏口から出て行った。残された幼い砂也はきょとんとしてるしかなかった。ただきょとんとして、だが言いようの無い恐ろしい予感に襲われた。それで、リビングに入ると、母親は倒れていて、気を失いそうなくらいの真っ赤な

 親父を殺す
 
 あの時から砂也の至高の目的はそれだった。父親はどうせ女のところに転がり込んでると思ってたから女を相手にすることを覚えた。他にも手がかりになりそうな人間をばれないように後ろから追ったり、証拠や弱みを握るために部屋に忍び込んだり、とにかく父親を殺す為、追う為のやり方は全部覚えた。殺し方はまぁ、覚えなくても大丈夫だろう。母親と同じやり方で、殺してやる。
 砂也がチームに選ばれたのは「探索・探偵に適性が有り、執念深く、事細やかな性格」だからだ。つまりはそう言う事だ。悪い冗談のようだが、父親を殺すために身につけた事が砂也に恩恵をもたらし、さらに父親を殺す事に邁進させたのだ。それは一応、望んだ事では、あったのだが。

 チームに入って最初に目に付いたのは黒瀬だった。他の奴らも結構な奴らだったが、黒瀬は特に変だった。とにかく目に付く。あまり喋らないし、あまりはしゃがないし、なのに目に付く。
 理由はわからない。だけどたまにふらっと見せるあの目つきがそうさせるのはなんとなくわかる。あの時から黒瀬は一癖ありそうな奴だった。





 成華高校の生徒が繁華街、と言うと、そこは大抵帝都駅周辺の駅前商店街を指す。商店街といっても地方のうら寂れた商店街とは当然一線を画している。駅ビルや百貨店ビルなどの背の高いビルが軒を連ね、青空は窮屈で、日の光はさえぎられている。人がごった返し、その身なりも背丈も年齢も皆バラバラ。人種まで違う時もざらだ。車が絶えずどこかでクラクションを鳴らし、客待ちのタクシーが列を作り、高架橋を新幹線が走る抜け、バス停には分刻みでバスが止まる。朝から晩まで人も車も途絶えないこの場所だが、平日夕方の今は、比較的人の数もまばらだ。もちろん、これから夜九時頃までは帰宅ラッシュなので、嵐の前の何とやら、である。
「待ち合わせってなぁん時だっけ?」
 そんな駅前、二・二六事件の英雄像の前で、黒瀬と砂也は待ちぼうけを食っていた。砂也の質問に黒瀬が答える。
「四時半」
「今何時?」
 砂也が駅前の時計塔を指差す。黒瀬はしれっと自分の時計を見て
「五時半」
「一時間って大きいとおもわねぇ?」
 黒瀬は小さくうなる。
「どうだかな……」
 日和との会話を思い出す。

 放課後、砂也と連れ立って日和の元に向かうと、彼女は二人にあからさまに嫌そうな顔を向けた後(日和は砂也が大嫌いだ。砂也は日和を気に入っているが)、駅前に行くように指示した。
「歴代のイジメ被害者の一人が話をしてくれるそうです。清浦副会長に許可は取ってありますので、さっさと行って下さい」
 さらに黒瀬の背負っていたバックパックの中身を勝手に抜くと、そこに何かやたらと重いものを押し込んだ。
「連絡を取る時はこれを使ってください。あまり駅前から離れないで」
 後で中を見てみると、軍隊で使うようなデカイ無線機が放り込んであった。なんでも彼女の自宅には各種通信用の中継点が自設してあるそうで、それを使って連絡をとるのだという。
 スペクトラム通信による秘匿性の高さと継続通信。それが狙いで――と、説明を受けたが、そういった分野に知識の無い黒瀬は大まかにしかつかめず、砂也は途中からさじを投げて「携帯でいいじゃん」と呟いて大いに日和の非難の視線を浴びた。おまけに彼女は
「寄り道しないでください。してもすぐにわかりますから」
 と冷たく言い放ち、うすうす感づきつつも、砂也が「なんで?」と聞くと、彼の胸元に何かを突っ込んで
「GPSと衛星写真で監視します」
 何かの当てつけのようにそう言った。


「あいつの彼氏になったら大変だよね、二十四時間、どこから見られてるかわかんない」
 砂也が胸元の小型マイクを指でこねくり回しながら呟いた。彼も通信機は持っているが、それは小型ので、近くにいる黒瀬としか連絡の取れないシロモノだ。「重過ぎるのはヤダ!」と彼がごねたのだ。
 黒瀬が胸元から携帯通信用小型マイクを取り出すと、しれっとして言った。
「今も監視されてるだろうな」
 砂也は「ははは……」と小さく笑った。小さく笑い終わって数秒経ってから、バッと黒瀬を振り返り、周囲をキョロキョロと見回し、夕刻色の空を見上げ、「うわぁー衛星レーザーはやめろぉー」と両手をブンブン振った。
 黒瀬はマイクのスイッチを入れる。手に巻かれたハンドスイッチを押し、マイクに向かって呟く。
「聞こえるか、黒瀬だ。待ち合わせ場所に相手が来ない」
 返事はすぐに来た。耳に取り付けた小型イヤホン(目立たないくらいの大きさだ)から割れた通信音で
『直接本人と連絡をとってアポイトメントを取り付けたんです。いないはずありません』
「なんだ日和怒ってないのか」と安堵していた砂也がぼやく
「でも居ないっての」
 ちなみに彼は受信だけなら黒瀬の大型無線機を仲介して受信できる。
 黒瀬は砂也に同調し、
「一時間以上待ち合わせ場所周辺を探してみたが、言われたような特徴のある女性はいない。もう一度直接女性に連絡をつけてくれ」
 しばらくの沈黙の後、
『……さっきから電話をかけてますが、つながりません。今もです』
「気が変わったんじゃないの? よくある事だぜ、ぎりぎりの瀬戸際になって『心変わりしました』って言い出す奴」
 黒瀬がうなずき、
「今、高木が『気が変わったんじゃないか』と言っているが俺もそう思う。根掘り葉掘り聞き出されたくない話だろう」
『けど、本人は話したがってました!』
 ムキになって非難するような口調で日和が言う。
『事情を話したら、むしろこれで終わらせたいって言ってましたし、こんな唐突に――』
「わかったけど今いないんだからしょうがないじゃん」
 砂也が肩をすくめながら言った。小春がさらに言い募ろうとする空気を察すると、黒瀬からハンドマイクを引ったくり
「わかったわかった。じゃ、電話じゃなくて直接本人に聞きに行こうぜ」
『で、でも彼女が住んでるのは大学の斡旋する女性専用のアパートで――そもそもなんであなたが指揮を』
「いーからいーから、黒瀬、行こうぜ」
『僕を無視するな!』
「あー急激な通信障害だーきこえなーい」
 砂也がどこか楽しそうに駆け出し、黒瀬も小さなため息と共にそれに続く。


『自宅の方へ電話をかけたら、彼女は独り暮らしで昨日から連絡が取れないそうです』
 件の女性の家へ向かう道すがら、日和からの連絡を聞いた。
「前日になって話すのが怖くなって、一晩迷った挙句友達の家に逃げ込んだ、とか」
 砂也が人差し指をくるくる回しながら言った。黒瀬は小さくうなって返す。
 ――二人は徒歩で、駅前から少し離れた、裏寂れたアパート群の中を歩いていた。時折トタン屋根の一軒家もあるような、都心部の所々にある、忘れられたようにぽっかりと残った、昔ながらの形を残す土地だ。女性の一人暮らしには『経済的には』ぴったりだろう。
「……ここのアパートだな」
 黒瀬がイヤホンを耳に押し当てながら、足を止めた。傍らの建物を見上げる。
 二階建てのぼろアパートで、全体的に錆が目立って茶色い。庭だったと思しき余暇地には雑草がぼうぼうと生え、いかにも貧乏学生向けな雰囲気をかもし出している。
「汚いなぁ……管理人とかいないの?」
「お前……本人を前にしたらその本音を言う癖は控えろよ」
「黒瀬も汚いなぁって思ってんじゃぁん」
 砂也が人差し指をくるくるさせて言った。黒瀬はそれを黙殺し、
「日和、部屋番号」
 無線からは冷静な声が返ってくる。
『203号室です』
「二階だね」
 砂也は言いながらあっさりと二階へ向かう階段に足をかけた。上から住民らしき若い男が降りて来て、担いだ大きな麻袋越しに彼を邪魔そうに見たが、砂也は全く躊躇することなく「こんにちは」と返して上っていってしまう。黒瀬が後に続きながら
「手馴れてるな」
 と呟いた。さっきからの発言もそうだし、見ず知らずのアパートへ赴いているのにもかかわらず躊躇した様子が全く無い。おまけに今、彼はポケットから銃身の無い拳銃のようなキーピックを取り出す。
「まぁねぇー現役だからさ」
 なぜかウキウキした様子で砂也はキーピックを手でもてあそびながら
「ぼろいなぁ、女の子のセキュリティって感じじゃないね」
 203号室に着くと、砂也は躊躇無くキーピックを鍵穴に突っ込んだ。昔の安っぽいつくりの鍵だ。彼は静かに押したり、引いたりして、手の感触を感じ取る。
「中に人がいたらどうするんだ」
 黒瀬が冷静に止めにかかるが、砂也は焦らず傍らを指差し
「電気メーター、動いてないよ」
 と呟いた。黒瀬が見やると、なるほど、確かに電気メーターの動きは緩慢を通り越してほとんど動いていない。
 黒瀬はしばらく砂也が鍵を弄っているのを見下ろしていた。
 唐突に呟く。
「お前、こういう事からいつ足を洗うんだ」
 砂也が不可解そうに彼に一瞬目をやり
「あぁん? だって俺がチームにいる理由ってこれっしょ?」
「それはいい。それは、別にいい。俺が言いたいのは、もっと……」
 黒瀬が無表情に言葉につまる。
 砂也はキーピックを弄る手を止めず
「……つまり『親父を殺すための当ての無い旅をどこまで続ける気か』――ってこと?」
 黒瀬はやはり無表情に
「……あぁ――近いな」
「……あるぴにすとっていうんだっけ? なんかさ、いるじゃん。そこに山があるから山登り、みたいな言葉がさ」
 かちゃん
 と、鍵が開いた。
「――そんな感じ。ん、開いたよ」
 砂也は制服の胸元に手を突っ込んだ。
「さぁて、これが役に立つかもね」
 引き抜くと、そこにあるのはリボルバーの拳銃である。シルバーのバレルが鈍く光る。
 スタームルガーのセキュリティシックス……かつて世界中の警察組織で正式採用銃とされた名銃である。装弾数六発、.357マグナム弾を使用する――のが本来の性能だが、無論、こちらは偽物である。発射するのは電池パックを改造して作った薬きょうに押し込まれた鉄球。それも弾性の強いゴムに包まれているため、決定的な殺傷能力はない。
 清音のお手製である。
 清音という女は奇妙な女で、あれだけ美人であるのに関わらずおしとやかさの欠片も無く、あれだけのスタイルであるのに関わらず大の男嫌いで、あれだけ容姿端麗であるのに関わらず放課後は理化学室にこもっては研究の真似事のようなことをしているような女なのだ。拳銃は彼女の研究の副産物だ。
 チームリーダーに納まった黒瀬の依頼により、はじめはオートマチックピストルを作ろうとしていた彼女だったが、実際には噴射ガスや漏れた化学エネルギーが上手く抜けず、暴発を引き起こしてしまった。何度か試してみるがことごとく失敗が続く。そこで構造が比較的単純なリボルバーで再度挑戦して仕上げたのだ。これはなかなかの出来栄えで、バレルとフレームがしっかりとかみ合わせてあったり、リアサイトに蛍光塗料が塗りつけてあったりと細やかな工夫が凝らしてある。
 たかが生徒会になぜ擬似拳銃が必要か? と世間一般の大人は思うだろうが、今は時代が違うのだ。強い組織力を脱法行為に流用する輩は、猟銃をくすねてきたり、工業高校の生徒と結託して殺傷能力を高めた改造ガスガンを使ったり、下手をしたらパイプ爆弾を製造してぶん投げたりとその暴走はとどまるところを知らない。非致死性の擬似拳銃なんて可愛いものだ。もちろん、チームのメンバーは錬度の違いはあれど、それを扱う訓練も積んでいる。黒瀬も砂也もだ。
「中に入ったら俺の判断を待ってる暇はないだろうが、滅多な事じゃ撃つな。それと、まだ抜くな」
 黒瀬が自分の腰の裏にもあるそれ――こちらは全体にマット加工を施したコルトパイソンだ――を確認しながら言った。黒い塗装が制服の影に紛れる。
「はいはい……あとこれ手袋。痕跡が残ると面倒だから」
 と、砂也が黒瀬に皮手袋をわたし、自分もまたそれを装着した。黒瀬もしげしげとそれを見ながら、装着する。
「用意がいいな……」
「うん。焼肉、食べたいからね」
 それが終わると、砂也は姿勢を低くしてドアノブに手をかけ
「じゃ、俺がドアを開けるから黒瀬が先に踏み込めよ」
 砂也がドアノブに手をかけたまま、黒瀬の顔を見上げる。
 腰裏に手を当てた黒瀬がうなずいて返し、
「――行けッ」
 小さく、鋭い掛け声と共に砂也がドアノブをひねって、ドアを開けた。
 ――――開けようとした。
「……あれ?」
「……おい」
 ドアは彼の予想に反し、ガタン、と大きな音を立てただけで開かなかった。
「あれ、あれぇ――おかしいな?」
 砂也がドアノブをがちゃがちゃするが、開かない。どうやら鍵がかかっている様だ。黒瀬があきれたように小さく息を吐き
「しっかりしろよ」
「あれぇ? なんでだろ」
「焼肉じゃなくてケーキにするぞ」
「えぇ? ケーキぃ? やだやだ、俺モンブランケーキとかだいっ嫌いなんだよねー……おっかしいなぁ」
 と砂也は再びポケットからキーピックを取り出した。鍵穴に突っ込み、ガチャガチャといじり、首をひねって鍵穴を覗き込み、またガチャガチャして、かちゃん、と鍵は開き――――目を細める。
「違うな。さっきはちゃんと鍵を回してる」
「何? だけどさっきは閉まってて――」
 と、黒瀬は言って唐突に気がついた。見上げる砂也と目を合わせ
「……開いてたのか」
「そうみたい。俺はわざわざ閉めちゃったのか。へー、一人暮らしの女が部屋に鍵をつけずに外出ね……」
 砂也がドアノブを掴みながら黒瀬を見上げた。黒瀬はうなずき、腰裏の拳銃のグリップに手をかけた。砂也もそれに続く。拳銃を片手に握り、もう片方でドアノブを握って
「――よし、行っけ!」
 砂也が扉を勢い良く開けた。黒瀬が姿勢を低くして突入する。
 バッサ、と部屋の奥で何かが蠢いた
 黒瀬は拳銃を素早く引き抜くと片膝をつき、銃口を向ける。ハンマーを押し上げ、引き金に指をかける。
 が、すぐに立ち上がった。視線の先にあるのは暗い部屋の中に光を取り入れている窓、そこにかかったカーテンだ。窓が開いていて、カーテンは風に揺れていた。
 黒瀬は片手で「奥に向かう」事を砂也に伝え、砂也がうなずいた。黒瀬は銃を構えたまま、じりじりと前に進む。
 通路の途中にトイレとキッチンがあり、奥には畳のしかれた和式のリビングがある。黒瀬は小声で砂也に
「お前はキッチンとトイレだ。俺はリビングに回る」
「逆が良い」
「さっさと行け」
「トイレなんて……トイレなんて……」
 砂也を手で払い、黒瀬はそっとリビングに向かう。
 リビングに入り込む。
 そこで足を止めた。
「……」
 黙ってそこを見下ろす。
 手早くキッチンとトイレを確認した砂也がその背後からやって来て
「――黒瀬ぇ、誰もいないけど。でもさっきまで人がいた感じ。台所にお湯を沸かした跡が」
 びくっと反応し、言葉を詰まらせた。足を止める。黒瀬の背後で、畳を見下ろす。
 頬を引きつらせ、言葉が出ず、一度唾を飲み込んでから
「何これ――やば過ぎ」
 その光景に、砂也が引きつった笑みを浮かべる。この状況を、笑い飛ばせるなら飛ばしてやりたい。
 黒瀬は目を細めて、努めて冷静にしゃがみこんだ。それに手を伸ばす。
 真っ赤なそれが黒瀬の人差し指にこびりつき、ねちゃ、と音を立てた。
 上から見れば、それは荒々しい筆跡の呪詛の言の葉に見えた。使われているのは墨ではなく、そこに狂気はあれど理性は微塵も感じられなかったが。
 畳一面に人を引きずり回したような血の跡が、大量にこびりついていた。
「……なんか本格しこーって感じだね」
 砂也が呟き、黒瀬が立ち上がる。開いた窓に向かい、外を見た。下を見ると脚立が倒れており、窓は鍵の部分が小さく割られていた。ご丁寧に、静音性が増すよう、ガムテープで補強してから割ったらしい。
「…………」
「な、黒瀬これ」
 砂也が机の上にある封筒を指差していた。黒瀬が近寄り、表面に書かれた文字を読む。
「『遺書』……」
「この『遺書』って文字、ついさっき書いた感じ。まだ乾ききってないね。それにこれ」
 傍らに視線をやる。黒瀬が見ると、壁に新品らしき畳とガラスが置きかけてあった。
「張り替えようとした、とか?」
「……誰かが侵入して、襲撃したのか」
 砂也が脂汗をたらしながら、黒瀬に目をやる
「それもさっきだ……」

 一瞬、黒瀬の脳裏に、記憶が弾けるようにフラッシュバックした

 そう、ついさっきの記憶だ。記憶ともいえない鮮明な映像が、明滅を繰り返しながら脳裏を駆け抜ける。そこにあった意味に、そこにあった真実に全身が総毛立ち、彼は目を見開いた。
 砂也がハッとして黙り込んだ黒瀬を、伺うように下から見上げて
「どしたの?」
 黒瀬は呆けたように呟く
「さっきの男だ」
「え?」
 バッと彼は砂也に顔を向けた。その人を飲み込むような表情に、怒声がかぶさる
「さっきお前がすれ違った男だッ!」
 言われた砂也は一瞬きょとんとして、「この男もこんなに慌てることがあるのか」とトンチンカンな感想を抱いていてから、バシッと電撃でも走ったかのように記憶がよみがえらせた。
 階段ですれ違った男
「あ……でかい麻袋担いでた!」
 こちらを迷惑そうに眺めていた男――くせ毛の黒髪短髪――夕方のこの時間にサングラスをかけ――不自然なくらい堂々と――そもそもなんで男がここに? ここは女性専用アパートなんだろ?――でっかい麻袋なんて担いでいて――麻袋?

 そんなものに、一体何を入れるというのか

 黒瀬が駆け出した
「日和!」
 足早に出口に向かい、胸元のマイクに烈火のごとき怒声を投げつける、慌てて砂也がそれに続き、
「衛星写真でこの部屋を出た男を確認しろ!」
 黒瀬は扉を勢い良く開け、手すりに飛びつき、夕闇の迫る町を見下ろし、そこに消えた男の残像を睨みつける。
「接触対象が殺された――犯人が死体を担いで歩き回ってるぞッ!」
 いつもどおりの変わらぬ町が、オレンジ色に染め上げられている。





『アパートを出て西に向かっています。六分二十八秒前の映像で確認!』
 アパートを飛び出した黒瀬達は、日和の通信にしたがってアパート前の道を西に駆け抜ける。
「確かサングラスをかけてたな!?」
 黒瀬が尋ね、横に並んで走っている砂也が
「緑のミリタリージャケット、インナーに白のシャツ、無精ひげ生やして十台後半、身長176センチ前後で男! アジア系!」
 と怒鳴って返す。
『本当に殺害されてるんですか?』
 無線から焦りを押し殺す日和の声が聞こてくる。黒瀬はマイクを引っつかみ
「生きてる人間が麻袋に突っ込まれて抵抗もせずに担がれるか!?」
『眠らせたのかもしれないですし……』
「眠っている女を連れて行くのにどうして血が床に散らばる必要がある!? 今は最悪の事態を想定して動く!」
「――ちょっと、あそこどっち!?」
 砂也が進む先を指差す。道が二股に分かれている。
「日和!」
『――南――左へ曲がってください。四分二十秒前の映像で確認』
 砂也が先行して曲がり角を失速することなく駆け抜け、黒瀬もそれに続く。犬を連れて散歩中の中年の女が「何事だ」とばかりに彼らを見送る。
 二人はあたりに目もくれず、風を切り、息を荒くして、先へ先へと――車の前に飛び出した砂也が急ブレーキをかけた車の鼻先にぶつかる、「バカ野郎死ぬ気か!?」というドライバーの怒声を背に受け、しかし彼はためらわずに体勢を立て直し、駆ける、さらに「糞野郎てめぇ待てコラ!」と追いすがろうとするドライバーの目の前を、車のフロントを飛び越えた黒瀬が駆けて行く、新たな無法者の登場にドライバーは「あぁぁぁ――!」と手垢のついた車と黒瀬を見比べて叫び声を上げる、が、黒瀬もまた構う事はない、足先が土を噛み、身体がぐっと前に押し出される、宙に浮く感覚と腕を振るう感覚、足裏がしっかりと地面を踏みつける力強さ――歩行者信号を無視した二人に、信号待ちしていた小学生達が「あぁいけないんだ――!」と指差して嬌声を上げる、先行していた砂也が仲睦ましげに手をつないでいるカップルの間を強引に引き裂いてその間を抜ける、カップルの手は離れ、女が悲鳴を上げて、男が怒声を上げて砂也に掴みかかる、と、背後から駆けて来た黒瀬がそれを引き剥がし、掌底で殴り飛ばした、「げふぅ!」と哀れな男は吹っ飛び、彼女が「ケンちゃん!」と悲鳴を上げるその声を背に、黒瀬達は再び走り出す
「次の十字路は!?」
 黒瀬はマイクに怒声を上げ
『待って下さい、拡大して探すのに時間が掛かってるんです』
「慌てるな、重い荷物を抱えてる、遠くへは行けないはずだ」
「はぁ、はぁ、はぁ……ていうか、なんで、こんな走ってんだっけ……」
 砂也がひぃひぃ言いながら失速し始める。横並びになるまで失速した彼の身体を黒瀬が支えてやり、さらにスピードを上げる。
『出ました! 次の角を右、四十五秒前に確認!』
「近いぞ、砂也頑張れ!」
「頑張ってないように見える……?」
 砂也の抗議の声を引きずって、黒瀬は駆ける。右へと曲がり、そこで急に腕を引っ張られた。がくっと身体が反動に揺れ、思わず後ろを振り返る。
 砂也が黒瀬の腕を引っ張っていた。さらに強引に引っ張る。角を曲がる前にまで戻った。
「ま、待てって……」
「何言ってんだ、待ってる暇なんてない!」
「いいや――はぁ――そうでも、ねぇよ、はぁ、はぁ」
 砂也が壁に張り付き、さっと角の向こうを覗き込んだ。黒瀬も手振りで引き寄せられ、それに続く。
「――――あの男」
 視線の先、道の遠くに緑のミリタリージャケットを着た男の後姿があった。あの背丈、間違いない。麻袋もしっかり担いでいる。
「よぉし、はぁ、はぁ、後をつけようぜ……はぁ、どこから来てるか調べよう」
 黒瀬は砂也のその提案にうなずいた。今すぐ捕まえたかったが、今ここで捕らえてもあの男一人が牢屋にぶち込まれるだけである。事件を内々の内に収めるためには話を聞く必要がある。警察の来る僅かな時間だけ話を聞いても仕方がないのだ。何故彼女を狙ったのか、イジメと自殺の因果関係について調べる必要がある。
「日和、男を見つけた。これから尾行する。衛星からも確認していてくれ」
『尾行って……』
「説明はしないが理由があってのことだ。できるかできないか」
『――はい、大丈夫です』
「結論は出た? よし、こういうのは俺に任せて――行こう」
 砂也が気合を入れるように手を擦り合わせて、角から出た。黒瀬がそれに続く。
 二十メートルほど離れた所に、荷物を抱えた男が一人歩いていた。歩調を合わせる。
「こっからは俺が先生だからな黒瀬」
「……仕方ないな」
「そうだよ、仕方ない仕方ない――」
「どうするんだ先生」
「あぁ――まず背中や顔を見ずに、手や足を見て。不意に振り向かれても怪しまれないから。それから定期的に左手、右手、左足、右足と視線を動かす」
「わかった」
「それから曲がり角を見かけたなるべくあいつに目を向けずに、曲がり角とか十字路の方を見るんだ。姿が見えたら曲がったって事で、見えなかったらまだ直進してるって事」
「了解」
「後はその場その場で――適当な事を話そう。男二人が黙って歩いてるのは目立つ」
 黒瀬は一瞬視線を泳がせた後、
「……なら、さっきの話だが」
 先ほど、アパートの部屋の前で砂也が話していた事を思い出す。冗談めかしていたが、黒瀬は少し引っかかりを感じていた。
「待った」
 砂也が胸元にパタパタと風を入れながら
「つまんない話はやめた方がいいよ。俺が嫌になって逃げ出す」
 黒瀬はちらりと砂也を見たが、すぐに監視対象の男へ視線を戻した。
「俺は面白い話なんて持ってないぞ」
「万人共通のおもしろい話題があるよ。噂話と、悪口、恋の話」
「……バカが好きそうな話だ」
「だって高尚な人間じゃないし――走って」
 男が曲がり、砂也と黒瀬はその後を追う。角で一度止まり、さっと砂也が顔を出す。
「少し待ってから出よーぜ。――で、どれが良い? 噂話? 悪口? 恋の話?」
 黒瀬は呆れたように
「どれでもいい」
「じゃ、黒瀬と日和ちゃんの話にしようぜ」
「何?」
「ジャンルは恋の話だ」
 黒瀬がなにかを言い募ろうとすると、砂也はさっと角から出て歩き始める。黒瀬も口をつぐみ、それに続く。
「日和は黒瀬の事を気にいってるね。あと俺も。間違いない」
 黒瀬は疑わしそうな視線を彼に向ける。
「あのタイプは自分から積極的にならない癖して構ってほしいってタイプだ。俺たちの中で最初に積極的になったのは黒瀬。次に俺」
「ストーカーみたいな考え方だな」
「じぶんが『そうだといいなぁ』って妄想を抱いててこんな事言ったらストーカーチックな考え方だけどさ」
 監視対象の男が足を止め、振り返る。唐突な事に黒瀬が視線の向け先に困窮すると
「右手のポスター」
 砂也の言葉に助けられ、視線を右手の壁にずらす。砂也はいかにもそれについて話しているかのようにポスターへ人差し指へむける。
「俺は別に日和が好きなわけじゃない。あの仕草とか表情の変化を見てみると、そう感じるんだよ」
「……」
「ほら、喋って。怪しまれるぜ」
 ばん、と砂也が黒瀬の肩を叩く。それもこちらを見ている男へのアピールのようだ。
「それに日和は――スパイの件があるし、黒瀬に感謝しまっくてるよ。わざわざ何でこんな事言うかわかる?」
「……他の話題は無いのか」
 砂也が「ははっ」と声を上げて笑った。演技くさくない、自然な笑い方だった。
「大した事じゃないじゃん。告白しろっていうだけだよ」
「なんだそれは?俺はそういうのは嫌いだ」
「だったら先手を打って断らないとさぁ。無駄な努力とかヤキモキさせるとかかわいそうじゃん。それに、華ちゃんもさ、毎日目ウルウルさせて……」
「何? なんで華が」
「待った」
 と、砂也の視線の先で、男が右手に折れた。
「――曲がるぞ」
「慌てずに行こう」
 砂也は今度は走って追いかけずにゆっくりと歩き続けた。黒瀬が追わなくていいのかと尋ねようとする。砂也は「よそ見して」と小声で呟き、さらにどんどんと歩調を速めていく。さらに曲がり角に到達すると
「真っ直ぐ」
 と直進してしまう。さすがに黒瀬も何か言い募ろうとしたが
「あそこのT字路にある安全ミラーを見て」
 と砂也に言われ、前方の左右確認用の安全ミラーに目をやった。そこには先ほど曲がったはずの男が、自分達と着かず離れずの距離を歩いているのが見え、黒瀬は大いに驚き、しかし驚いた表情をするわけにもいかず、何とか息を詰まらせるにとどめた。
「尾行かどうか確認したみたいだ――やっぱりさっき俺達とすれ違ったことで警戒してんだ。慣れてるよ」
 黒瀬は小さく息を吸い込んだ。肺いっぱいまで膨らませると
「――先生、いい腕だな」
「じゃ、告白する?」
「……人の感情を話の種にするな」
「誰でもやってることじゃん」
 黒瀬は肺いっぱいの空気を思いっきり吐き出した。ニヤつく砂也の顔を手で払って、マイクに口を寄せる。
「――日和、ここを真っ直ぐに抜けるとどこに着く」
『帝都駅前方面に向かいます。四車線の大きな県道がある場所です』
「バスか車に乗る気だな。ということはやはり味方がどこかに潜伏してるか……」
「電車に乗るのかも」
「大きな荷物を背負ってるから目立ちすぎる。対テロ警戒で駅構内は警備も厚いから、警戒心があるなら避けるだろう」
「じゃバスか車だ。乗る前に捕まえる?」
「いや、味方がいるみたいだからそこまで案内してもらおう」
「りょーかい。じゃ、タクシーで追おー」
 黒瀬は無線を手に取り、
「念のため華を呼んでおこう――日和、華をこちらに呼び寄せろ。単車に乗せてな」
『はい? ……そういうの、事前に言っておいてくださいよ。華に通信機器もたせてないですから、携帯電話ですよ? つながらなくても知りませんからね』
 日和は実に刺々しい答えを返してきた。黒瀬が砂也に目をやり、砂也は肩をすくめた。
「愛情ひょーげん、愛情ひょーげん」

 華は清音と同じく独特の偏重主義があるチームの一員だ。気が弱く、どこでもだれでも「可愛い」と称され、ニックネームは「シマリス」で、肩に触れられるだけで飛び上がるような性格なのに、彼女がこの世界でこよなく愛するのは大型バイク・四輪駆動車・その他ハイパワーな乗り物である。そもそも彼女がチームに入ったのはバイク通学がばれてその揉み消しを持ちかけられたからで、今ではチームに入った特権で堂々と登下校に二輪を転がしているのだ。もちろん、チームでの役割は「追跡・機動捜査」である。

 駅前に出ると、案の定男はタクシー乗り場に向かった。砂也は近くに駐車違反で止められていた車のバックミラーを弄ってそれを確認すると、手近なタクシーに向かい、一言二言の会話の後にタクシーに乗り込む。
「俺達も乗ろうぜ」
「その前に……日和、華と連絡ついたか」
『今連絡してます』
「そうか。逃走されたらどうするか……」
「でも反対車線はあんなんだよ?」
 砂也が指差す先にあるのは早くも渋滞し始めた下り車線である。
「こっちの車線もこれからどんどん混んでくるぜ。心配ないんじゃない?」
 黒瀬は僅かに思索したあと
「……いいだろう。よし、俺達も乗ろう」
 砂也は手近なタクシーにドアを開けさせると、後部座席に乗り込んだ。黒瀬もそれに続こうとしたが、ふと視線をタクシーのバックミラーに向けた。そこに映る、男の乗った黄色のタクシーを眺めながら
「……動かないな」
 黒瀬は目を凝らして、ミラーに映った車内の男を見る。その口元が、動いている。
「何を話してる……?」


「おっさん、アンタ刑事を乗せた事あるか」
 勤続二十四年、丸鳩タクシーの一運転手である壮年の彼は、後ろに乗った男が唐突にこう語りだした時、その長年の経験からどっちつかずな曖昧な態度をとった。「どうでしょうねぇ、普通、ないですよねぇ」と。
 話しかけて来た客は若いくせに態度は尊大で(背もたれに両手を大きく広げてだらりともたれかかっている)語り口は遠慮する様子がない。将来大物になるだろうが、客としてはあまり好感が持てる人物ではなかった。先ほどでかい麻袋を「後ろにおのせしましょう」と言って預かろうとしても「黙ってろよ」と返してきたような男だ。
 ただ、こういう輩はよくいるが、この男のように得体の知れない、底の知れない感じはしない。それはこの男独特の雰囲気だった。オークリーの真っ黒なサングラスが、その瞳を丸っきり隠しているからかもしれない。
「じゃその逆は」
 男はサングラス越しの目を天井に向けたまま言った。
「逆……と、言いますと?」
「犯罪者を乗せたことは」
 運転手は曖昧な笑みを浮かべ
「……お客さん、先に目的地を教えてもらっていいですかね」
 客の男はその言葉に覆いかぶせるように
「黙れゴミクズ。先にこっちだ」
 相手の事を考えてない、というより相手を完全に手中においているかのように振舞っている。わがまま極まりないのだが、それに全く悪びれた様子はない。
「……いいえ、ありません。どっちも。いつか巡り合わないかと思ってるんですがね」
 再び曖昧な笑みを浮かべて返すと、
「あぁ、そう」
 と客は呟いた。しばらくそれ以外の言葉を待っていると、背後でがさがさ、と動く音がし始めた。もういい加減目的地を教えてもらおうと彼は決心し、振り返る。
 男は傍らにおいていた麻袋のジッパーを開けているところだった。

 ぼぼちゃたたた――

 ――それは液体が床に落ちる音だった。麻袋から大量の液体が一気に床にこぼれたのだ。運転手の彼は驚いて文句を言おうとしたが、すぐに口をつぐんだ。いや、彼自身はそう思っていたが、実際には身体が硬直してしまって口が動かなかったのだ。
「今日がその日だ。人生最初で……最後の経験だといいな」
 男は深みのある、だが軽々しい口を利いた。
「お前は幸せ者だ。死ぬほど恐ろしいスリルで、そのなまくらな人生に激震を加えることができる。よかったな、生ゴミみたいな人生にも、美徳は生まれるって事だ」
 男は床にこぼれた血を――そう、どす黒く、紅い、こぼれたその血を――ブーツでねじり踏み潰す。その傍らには、青白い顔をして目をかっぴらいた女が、身動き一つせずに麻袋の中に納まっている。鬼気迫る表情でもなんでもない、ただ、目を大きく、大きく見開いたその女の顔。
 運転手は生唾を飲み込んだ。身体が恐怖で動かない。
 男が、麻袋の開いた口を、わしづかみにして大きく開いた。女の血に染まった上半身まで露になる。小さく悲鳴を上げた運転手の目に、手首からパラシュートナイフを引き抜いた男の姿が映る。
「逃げろ」
 そう、呟く。


 黒瀬と砂也がさらに二言三言口を利いた所で、後方から突然タイヤのスリップ音がした。耳を劈き、辺りの平穏を切り裂く、激しい高音の波
「――何だ!?」
 砂也が慌てて後ろを振り返る、男が乗っていたタクシーが後ろに止まっていた違法駐車の車を弾き飛ばして、バックしているところだった。衆目と小さな悲鳴を集める中、さらに後輪がスリップ、急加速して驚くべき事にUターンを始める。
「――ッ!? 逆走する気か! 砂也ッ!」
 黒瀬が叫ぶと同時に走り出したタクシーの元へ駆け出す。砂也は運転席を叩いて、「運転手さん! 後ろの車追いかけて!」と怒鳴る。「そりゃ無茶だよ」と返答が返ってくるが、砂也はさらに「早くッ」と声をかぶせる。
 逃げるタクシーへ向けて全速力で駆け出した黒瀬だが、タクシーは彼が追いつくよりも二歩も三歩も早く逆走を開始していた。追いかける黒瀬をあざ笑うかのようにタクシーはスピードを上げ、ぐんぐん引き離していく。
「砂也!」
 黒瀬がマイクに怒鳴ると、
『運転手がごねて逆走できてない! Uターンさせてる!』
「そんなのが間に合うか!」
 黒瀬は小さく毒づきながらマイクを切り、さらに走る速度を上げる、が、タクシーは平然と赤信号も無視していくので、全く追いつけそうもない。
 あの種のタクシーは帰宅ラッシュのこの時間、あたりにあふれかえっているのだ。見失えば探し出すのは不可能だ。
『黒瀬さん、車が逆走してますよ! 逃げられてるんですか!?』
 黒瀬は再びマイクを引っつかみ
「ああッ、俺が走って追いかけてる!」
『走ってなんて――そんな速度じゃありません、無理です! 砂也さんは!?』
「運転手を説得中だ! もう間に合わん!」
 逆走するタクシーはまったく躊躇することなくさらにぐんぐんとスピードを上げていく。向かってくる車を危なっかしく左右に避けながら、さらに、さらに加速、止まらない、うなるエンジン、帰宅途中の学生やサラリーマンが振り返り、その後ろから黒瀬が走って追いかける――走りづめで喉が焼け付き、胸が痙攣し始める
「はぁ、はぁ――くそッ 華は!?」
『留守電しか出なくて――うわ、えと、どうしよう……!?』
「落ち着け、はぁはぁはぁ――ッ、ぐ――お前がパニックを起こしてどうする!」
 言っている黒瀬も口を利くのがつらい――心臓が早鐘を打つ。噴出した汗が身体にへばりつき、内臓が飛び出るような吐き気がする。
『ああ、でも、どうすれば』
 腹の奥底から吐き出す。
「衛星写真は!?」
『高木さんに預けたGPS発信デバイスとリンクしてて――二人が離れてしまった時に驚いて見失ってしまって――』
「再検索は!?」
『ダメです間に合いません、見失います!』
「ッ!」
 黒瀬はどんどんと小さくなっていく車を睨みつけ、毒づく、動くのを拒否する足を無理やりに動かす、肺が熱を持ち、息が胸の奥に入ってこない、だが、構っている暇はない――タクシーはもはや点になってしまっていて
「危ない!」
 傍らで通行人の誰かが声を荒げた。手遅れだった。
 黒瀬の視界は反転し、気づいたときには足元をすくわれてボンネットに乗り上げられていた。全身に鈍痛が走る。だがそれを意識する前に後頭部をフロントガラスに打ち付け、ショックで一瞬視界が白濁する。肺から息が押し出された。
 地面に叩き落され、仰向けに倒れる。が、熱に浮かされた黒瀬の意識は完全には無くならなかった。なんとか立ち上がり、再び駆け出そうとする、朦朧とする意識の中、無線で連絡を取ろうとして、マイクのコードが引きちぎれているのに気づく――
「兄さん、あんた動いちゃいかん! 誰か救急車救急車!」
 先ほどの声の主――ヘルメットをかぶった中年の作業員らしき男にその肩を押しとどめられた。黒瀬は振り払ってタクシーを追おうとする
 だが。
「――――どこだ」
 完全に見えなくなっていた。見失った。眼前にあるのは、裏通りを塞ぐように斜めに止まった乗用車一台。フロントガラスが割れていて、中から運転手が出てくる
「――大丈夫か? 急に飛び出て来るから」
 黒瀬の肩を掴み、座らせようとする。
「――どこだ――クソ――」
 荒い呼吸に揉まれながら、毒づきがもれた。腹の内が煮えくり返る。
 チャンスだったのに、手がかりだったのに、何のために俺達はここにいるのか、見逃したことで次の犠牲者が出たらどうする? 警察に引き渡せばよかった――そのチャンスを――逃した――
「クソッ!!」
 周りの手を振り払い、車のフロントに拳を叩き落した。派手な音がして、手から血が噴出す。痛みだけが残り、怒声もあたりの喧騒にもまれて消える――
 どこかで、もめる声がした。どうやら裏通りからの声らしい。「ダメだ、事故が起きてここは通れない」「でも――」「とにかく下がって、警察が来るまでここはそのままにしないと」さらに言い合いが続く。頭にガンガンと響いた。声にあわせて視界がゆがむ。思わず頭に手を当てて、低く唸ったところで
「うわっ! わぁ!!」
 男の悲鳴と共に獣の唸り声がした
 コンクリ詰めにされた大地が怒り狂って猛ったかのようだった。もめていた声が悲鳴に変わり、唸り声が一気に近づいてきて
 ハッとして顔を上げると眼前の車が激しくバウンドし、何事かと目を見開いたところで車を踏みつけた影が飛び出してきた
 空の夕日を遮って、真っ黒な馬が――違う、馬並みに馬鹿でかい大型バイクが、道を塞いだ乗用車を乗り越え、飛び越えてきたのだ。爆音が轟き、唖然とする周囲を尻目に、地面に舞い降りる
 サスペンションが大きく軋む音と共にバイクは道に二度リバウンドしてから黒瀬の眼前で横滑りして止まった。
「な――そうか、華!」
 黒瀬は頭を振って、再びエンジンを吹かそうとした小柄な運転手に怒声をぶつける。運転手はすぐに振り返って
「むぁ――」
 フルフェイスのヘルメットに口をふさがれ、慌ててそれを引き剥がし、
「――ぷっは、あ、あ、黒瀬さん!」
 栗色の髪がふわりと舞い、上気した華の柔らかそうな肌が夕日を背に輝いた。
「大丈夫ですか! しっかり……ケガは?」
 華がバイクを降りて黒瀬に走りより、倒れている黒瀬の額にグローブ越しの手を置いた。目にいっぱい涙を溜めて、泣きそうになりながら身体のあちこちをまさぐっている。目をやると、彼女は全身をごついプロテクトギアで覆っていた。
 その手を払い、黒瀬は身を起こそうとする。
「乗せてくれ!!」
「そんな、ダメですよ!」
 と華がその身体を押さえた。
「いっぱい怪我してます、動かないで!」
「そんな暇はない!」
「死んじゃいますよ!」
「今さっき死ぬほど後悔してたところだ!」
「ホントに……ダメですってば!!」
 強引に駆け出そうとすると、華が身体ごと思いっきり抱きついてきて、地面に引きずり倒してきた。柔らかな身体が押し付けられ、軽い身体が乗りかかってくる。息の掛かりそうなくらいの近さで――本人もここまでしてしまったことに戸惑った表情を浮かべ、頬を桃色に染め上げた。
「あぁ、の、ダメ、です……ここで、あの、横になっててください!」
 華はパッと立ち上がると、傍らのバイクに飛びつき、
「私が追いかけます!」
「ダメだ、一人で行かせられるか」
 黒瀬は身を起こし、頭を振りながらバイクの後ろに乗る。華は動転したのかあわあわと両手を振って何度も振り返り
「そんな……ダメです! 背中、背中なんて――だって、二人乗りって」
「いいから早く出せ!」
「だって、だって、そう! ヘルメット! ヘルメットもしてないじゃないですか!」
「ヘルメットなんてどうでも」
 とそこまで言ったところで黒瀬は肩をつかまれた。振り返ると作業員の中年がいて
「兄さんどこ行くつもりだ、動いたらいかん!」
 黒瀬はその男を――男の頭を見た。





 一之瀬華がチームに配属されたのは当然のように「機動力がある」からだった。
 全国の高校には生徒会とそれに連なる自主的な治安機構があり、その中にはさまざまなプロフェッショナルが存在するが、華のように「運転技術」という点で卓越した人材というのは珍しい。やはり無免許運転自体が法律違反なので、公然と配置するわけには行かないのだ。
 えてして彼女は貴重な存在としてチームに迎え入れられることになる。もちろんそれは丁寧にお出迎えされて、というわけではなく、「入念に手回しをされて」という意味である。ほとんど謀略に近い形で、華はなし崩し的にチームに押し込まれたのである。
 しかしだからといって華はそれが嫌で嫌で仕方が無かったわけではなかった。むしろ少しうれしくなったくらいだった。希望をひしひしと感じる――なんだか発展するような気がしたのだ。
 黒瀬莞爾である
 実は華と黒瀬は入学当初から顔見知りだった。それも入学式からの縁だ。華と黒瀬は入学式に華の失敗からちょっとしたスペクタクルに巻き込まれた間柄で、華はその時の経験から黒瀬に感謝と、憧れのような感情――これを恋と呼ぶかどうかは華にもわからない――をずっと抱いていた。
 だが黒瀬の方はそれを覚えていないらしい。無事に入学式を終えた後、廊下ですれ違ったりしても彼は完全に華のことなど視界に入っていなかった。何度か声をかけようと思ったが、その度に「誰だ」と言われるのが怖くて躊躇してしまっていた。
 結局、黒瀬にとっては華を助けた事など大それたことではなく、当たり前の事でしかなかったのだ。当たり前のように困っている華を助けた。だから当たり前のように華は「たくさんいる人の中の一人」でしかない。それは特別なことじゃなかったから。
 うっすらとそれを感じ取っていたから、華は彼の事を考えると胸が苦しくなった。だからこそ、チームに誘われた時、そのやり方が酷い謀略だとわかっていながらも、素直にうなずいていたのだ。
 今はとりあえず、幸せだ。近くにいればもしかしたら――――





 逆走するタクシー内で、運転手は血走った目でハンドルを右往左往させている。後方の男に必死に語りかける
「も、もういいでしょう! 逆走なんて、止めましょうよ!」
 しかし男はまるで遊覧船にでも乗ってるかのような優雅さで外を眺めるだけである。目の前をびゅんびゅんと通り過ぎる車にも、時折車体を掠めて響く恐ろしい高音にも、彼は無関心そうにただ、外を眺めるばかりだった。
「お願いですから、どこか――」
 ざり、と無線が音を立てた。運転手がハッとし、受信機が割れた声を伝える
『七号線で暴走車、えー――七号線上り現在通行規制中、向坂IC、殿橋IC封鎖中ぅです――えー繰り返しますぅ、えぇ、七号線で暴走車、上り規制中、向坂IC、殿橋ICは現在使用できません、どうぞ』
「この道です!」
 運転手が叫ぶ。
「この道の先が封鎖されてるんです!」
 男は何も言わなかった。ただ黙って、窓の外を見ていた。
「このままだと検問に突っ込みます!!」
「黙って進め」
 男は呟くだけだった。
 もうどうなっても知らないぞ、と、がたがたと震える腕に力を込め、運転手はアクセルを踏み続ける。


「見えました! あそこです!」
 タクシーを視界に捕らえた華は背中に捕まっている黒瀬――その頭には『安全第一』と書かれた黄色いヘルメットをかぶっている――に声をかけた。黒瀬は猛烈な風に目を細めながらも、うなずいて返す。
『偽の交通情報は流しましたが、スピードを下げるような様子はありませんよ!』
 接続しなおしたイヤホンから日和の声がする。黒瀬は胸元に手を伸ばし、バタバタと揺れる学生服をわしづかみ、そこにあったマイクに
「いいぞ、そのまま流し続けろ! 迷ってはいるはずだ!!」
「黒瀬さん、距離つめますよ!」
 華はその身体をぺたりと車体に押し付け、姿勢を低くとり、安定した体勢をとると、躊躇することなく追い上げを開始した。黒瀬はその身体をしっかりと抱きとめ、同じく姿勢を低くとる。
 おりしも目前の信号は赤、周囲の車は減速し、逆に加速する華と黒瀬は相対効果でそれがものすごい速さで自分に迫ってくるように感じる。が、彼女の頭の芯は冷えている、冷え切っている。自分がどう動けばいいか、意識の底の方で眠っていたもう一人の自分が、全部答えを出してくれている。
 彼女が操るバイクは、まるでパイロンを避けるかのように次々と、そして軽々と車の間を縫っていく。激しく左右に揺れ動ぐ。爆音と白煙を上げながら、彼女はロケット弾のように一瞬で道を駆け抜け、バイクとの間をつめる。
 彼女の操るワインレッドのバイクは、レースにも使われるビックバイクと呼ばれるジャンルのシロモノで、中でも『ドラッグレース』と呼ばれるクレイジーにスピードを求めるレースにも参加するような、筋金入りのスピード狂のバイクだ。
 その出力は桁外れの280psある。単純に通常の原付の五倍以上の出力があるのだ。そのあまりの加速とスピードにタイヤは急速に磨耗し、僅か数時間で使い物にならなくなる。そもそも長距離移動など考慮されていないのだ。
 体格のいい大人とて、素人では跨いで支えるだけで精一杯である。まして華のように自在に走らせるとなれば並みの体力ではきかないし、何より精神力が持たないだろう。ドラッグレースは四分の一マイルを八秒から六秒という速度で突っ走るだけだが、華は連絡を受けてからここまで、ほとんど休み無しで走り抜けているのだ。猛烈なスピードの副作用で、走っている間、身を押しつぶされるような空圧に晒されるのである。素人が乗ると「殴られたかと思った」と漏らすような圧力である。僅かに力を抜いたり、研ぎ澄ませた神経をすり減らしてしまってふっと気を抜いた瞬間、背後で大口を開けていた死神に食い殺される。
 彼女はそんな世界にいてなお、さらにスピードを上げようとしていた。
「(どうする、まずはタイヤを飛ばすか――)」
 黒瀬は腰の拳銃に手を伸ばし
「(いや、こいつは非致死性だぞ、走ってる車のタイヤなんか弾けない)」
 一瞬のうちに様々な選択肢が浮かび、それらは様々な理由で再び瞬時に淘汰されていく。そして残ったのは――――
「――よし、物理的に道を切断するぞ!」
「え――ぶっちぎり?」
 変えの唸り声に負けないよう、華が黒瀬に叫び返す。
「こちらの方が数倍早い! この先に回りこんで俺を下ろせ!」
「はい? な――何を――」
「人為的に事故を起こしてこの道を封鎖する! 横道に逃げた所を俺とお前で挟み撃ちだ! 日和ッ」
『は、はい!』
「この先どこか狭い横道を探せ! タクシーを追い込む!!」
 華は慌てて減速し、
「何言ってるんですか!? 事故を起こすって……何する気ですか!」
「道に飛び出すでもなんでもやり方ならいくらでもある」
「轢かれちゃいますよ!」
 黒瀬は振り返った彼女を見返し
「そうなったらお前一人で追い込んでくれ」
 絶句した華の背中を叩き、猛然と迫る風に怒鳴りつけるように叫ぶ。
「さぁ行けェッ! 回り込むぞ!!」


 成華高校近くの廃工場は生徒会の私有地になっている。正確には安全委員会会長の名義で登録されている。さらに言えば使っているのは生徒会でもなく安全委員会でもなく、六名の男女のチームで、今は三名の男女が占有している。
 中の施設はあらかた取り除かれていて、あるのはベニヤ板で区切って作った部屋や扉、通路である。擬似的に家屋内をつくっているのだ。自作の突入訓練施設、通称キルハウスである。
 今、狭い通路を全身黒尽くめの人間が二人、姿勢を低くして走ってくる。後方では一人が角から手にしたサブマシンガンを構えて二人を援護していた。
 サブマシンガン(SMG)はMP5――ヘッケラー&コッホ製のMP5A3だ。
 MP5A3はいわずと知れたMP5シリーズのスライドメタルストック装備型である。取り回しのいい全長500mmの銃身に様々なタクティカルアクセサリが装着でき、黒尽くめの彼らの手元の物はハンドガードにフォアグリップとLEDのフラッシュライトが装着されていて、さらに赤外線ライト、レーザーポインター、赤外線標的指示用ポインター、CQCドットサイトが各々の選択で取り付けられている。
 身につけているのは濃紺の戦闘服だ。アサルトスーツの上にCQCベスト、各種投擲弾とマシンガン・拳銃用のマガジンが括り付けられ、その下にはセラミックプレートが追加されたスペクトラム製ボディアーマー、手にはケブラー製のタクティカルグローブをはめ、太ももには拳銃用ホルスターが巻きつけられている。足は静音性の高いタクティカルアサルトブーツに覆われていて、顔には映画でテロリストがかぶってるようなノーメックス製のフード。首もとには細い首輪のようなU字型ワイヤーが巻かれていて
「目標の部屋に到着」
 先頭の大男が首元に手を伸ばし、ワイヤーについていたスイッチを入れた。声帯の振動を直接拾うスロートマイクでL.A.S.H.マイクと呼ばれるシロモノだ。同じく耳を覆うイヤーディフェンダーとあわせて静音性、受音性が高い。イヤーディフェンダーは銃声や爆音などの高音域ノイズをカットできる。
「ポインター、俺と一緒に突入、バックアップ、入り口を守れ。暗視装置オン」
 戦闘の大男が突き当たりの扉の前で姿勢を低くしたまま、ヘルメットに手を伸ばした。ヘルメットには一体型の暗視装置が取り付けられていて、それを目元にずらす。光増幅型の暗視装置で、一見小型・薄型の双眼鏡にも見えるが、周囲の僅かな光を電子的に増幅し、最適光量に調整するれっきとした高性能暗視装置である。さらにマイクロ赤外線照射ライトも取り付けられ、視界が確保しにくい場合は自ら不可視光源を発することも可能だ。
 大男は扉の横に張り付くと、MP5を仕舞い、肩に吊るしていたショットガンを取り出した。FN-TPS――12ゲージショットシェルを利用するタクティカルショットガンだ。
 肩づけに構え、扉のちょうつがいに銃口を向ける――扉の向かいに構えたもう一人の黒づくめにゴーグル越しの目を向け、頷き、相手が頷き返したのを確認すると
「――――――――突入ッ!!」
 ショットガンが火を噴いた
 ちょうつがいが吹っ飛び、さらにもう一つちょうつがいを吹っ飛ばす、支えの無くなった扉を向かいの黒尽くめが蹴り飛ばし、中に突入する
「動くなッ! 伏せろ!! 伏せろッ!」
 突入した彼は中で拳銃を構えている男に向けて怒声と銃口を向ける。つづいてショットガンの男が突入し、同じく怒声をぶつける。が、男は構えた銃を捨てない。
 ほぼ同時に、二人は銃をぶっ放した
 拳銃の男は一瞬で蜂の巣になり――板に張られた紙はぼろぼろに破れ飛んだ。支えていた板も吹っ飛ぶ。
「クリア! エコー7クリア!」
『周辺に敵なーし』
 扉口で廊下側を警戒していた最後の黒尽くめが、のんびりと呟いた。部屋の中の二人の下に歩み寄ると、フェイスフードを引き剥がし、「ぷっは」と息を吐いた。
「あっついーい! やってらんないわねー」
 黒尽くめの彼――彼女は、ほてった顔を手であおり、山吹色の髪をぶんぶんと振った。彼女は手近の壁のスイッチに手を伸ばす。ぱっと明かりがついた。
「おい、清音」
 ショットガンを構えていた大柄な男が、同じくマスクを外した。中から顔を出したのは片目が真っ赤に充血している勘八である。
「あのなぁ、もっとリアリズムをな――真剣さがだな――」
「やめてよ黒瀬みたいにさぁ」
「ていうか、その黒瀬はどこいったんだよ」
 どでっと地面にしりもちをついた最後の黒尽くめ――九頭がぼやいた。勘八が振り返り
「砂也と出かけていったきりだな」
「華までいなくなったし……」
 唇を尖らせ、小さな声で
「いつまでやってんのよ、こっそり遊んでんじゃないの……?」
「寂しがり屋の清音を置いてちまってなぁ」
 九頭がニヤニヤしながら言った。清音がぴくりと反応し、なんの躊躇も無く、手にしたMP5を寝転がる九頭にぶっ放した。九頭の周りで弾丸が飛び散り、彼は慌てて飛び上がる。
「うわぉぉぉおおおおおおおおお!?」
 勘八がいたって冷静に
「おいおい……やめろよ無駄弾を」
「何をやっとるんだ貴様ら!!」
 上方から声が飛んできた。清音が「ぁあ!?」と見上げると、一階を取り囲むように外壁に沿っている中二階の通路から、オールバックの男がこちらを物凄い形相で見下ろしていた。
「勘八! 生徒会の偉そうなのが紛れ込んでるけど!?」
 清音が腰に手を当てて仁王立ちしながら言った。対し、オールバックは腕を組んで返す。
「『偉そう』なんじゃない。『偉い』んだ」
「小物が肩書きもらって偉そうにするな!」
「どちらが『偉そう』か自分の身分に照らし合わせて考えてみたらどうだ、大物くん」
「はぁ!? ふっざけんじゃないわよ! ていうか似合ってないのよそのオールバック! べたべたして気持ち悪そう!」
「結構。お前はそうやって俺の足元から文句を行っていればいい」
「んーーーー、うがぁ! ばーかばーか!!」
「……ていうか誰だっけ?」
 九頭がぼそりと呟いて、勘八がオールバックを見上げながら
「向橋副会長だ」
「おい、お前、黒瀬はどこに行った」
 向橋が勘八に顔を向ける。そこにずいっと清音が割って入り
「人にモノ聞く態度じゃない!」
 勘八は彼女の肩に手を置くとあっさりと身体をどかし、悲鳴を上げて抗議する彼女を無視して
「砂也と出て行ったっきりだな。途中で華が呼び出されたが、どこにいったかまではわからん」
「じゃぁこれは連中のことなんだな」
 向橋は手に持っていたモバイルディスプレイを投げ落とした。九頭が「うぉっとっと」と慌てて立ち上がって飛びつく。
「あんだこりゃ?」
 九頭がしゃがんでディスプレイに目を落とすと、清音がその頭を押さえて上から覗き、反対側から勘八が「どっこらせ」と親父くさくしゃがんで覗いた。
 ディスプレイには民放のニュースが流れており、女性のキャスターが原稿を読んでいる。
『――で、これによる事故処理の影響で県道七号線上りが一車線通行になった他、付近のIRシステムが緊急展開されています。繰り返します、先ほど午後五時四十五分ごろ、帝都小津区向坂付近の交差点で、通行人一人を巻き込む横転事故がありました』
 ん? と身を乗り出した勘八と九頭の前で、画面には現場の映像が流れる。七号線といえば駅前の道で、見知った場所だ。案の定、見た事ある交差点で見事に乗用車が横倒しになって、車線をふさいでいる。
『これによる事故処理の影響で県道七号線上りが一車線通行になった他、付近のIRシステムが緊急展開されています。同じく県道七号線ではタクシーとバイクが逆送する事件も起きており、付近では高校生らしき人影が銃を撃っているのが目撃され、警察では関連を調べています』
「……こりゃぁ、やばくねぇか?」
 九頭が清音を見て、清音が困惑した顔で勘八を見上げる。勘八は「うーむ……」と唸って頭上を見上げ
「もう一度聞くぞ――黒瀬莞爾はどこに行った」
 向橋が三人を睨みつけていた。



 三十二分前
「いいぞ、ここで降ろせ!」
 華と黒瀬は先回りして日和が指定したポイントまで移動していた。滑り込むようにバイクは歩道に乗り上げて止まり、衆目を浴びながら黒瀬が飛び降りる。
「黒瀬さん! 危ないことしないでください!」
 ヘルメットを脱ぎ捨てて駆け出した黒瀬は、華の言葉など聞こえないように近くの交差点に向かう。
「それでね――きゃっ」
 赤信号を待っていた女子高校生を突き飛ばし、黒瀬は躊躇無く道に飛び出した。当然のように車はスピードを上げて走っており、そこに人がいることなど予想することも無く交差点に進入してくる――
『何してるんです黒瀬!?』
「黒瀬さん!」
 華が悲鳴をあげ、それが伝播したように周囲の歩行者が驚愕と悲鳴の声を上げる、黒瀬の姿を確認した車は急ブレーキを踏むが、当然のように間に合わない、タイヤはスリップし、激しい音とタイヤが焦げる真っ白な煙を上げながら、黒瀬に向かって突っ込んでくる
「――ッ」
 黒瀬はともあれば逃げ出そうとする膝に力を込め、奥歯を噛み締め、もはや目前に――ブレーキなんて利くはずも無いくらいの近さ――迫った車を睨みつける、鼓膜を劈くブレーキ音、悲鳴、注意を喚起する怒声、クラクション、華の叫び声、圧倒的な質量が迫ってくる恐怖にしかし、構うことはない
 英雄が英雄たるのは、ただ人より五秒だけ、恐怖を感じるのが遅ければいいと言う
 黒瀬の意識ははっきりとしていた。「逃げるべきだ」「逃げよう」「もう無理だ」と主張する本能よりもはっきりと、鋭敏に空気を感じ取り、身体をどう動かすべきか、瞬時に計算する――――
 腰から拳銃を引き抜く
 驚愕に目玉を押し広げる運転手へ向けて、突き出す
 引き金を、引いた
 それからの時間はまさしく一瞬で過ぎていった。
 バシッと言う音と共に車のガラスに放射状のひびが入る、運転手が何事かを叫び、ハンドルを一気に切る、車体が横向きになり、そこに後続の車が突っ込んでくる、車は横転し、さらに黒瀬に突っ込んできて、彼は反射的に歩道に飛び込んだ
 激しいクラッシュ音が終わると、交差点には見事に車が横倒しになっていた。壊れて鳴りっ放しのクラクションがやかましく響く。
「何……なんなの?」
 黒瀬の傍らで、突き飛ばした女子高生が身を起こして横転した車を見ていた。黒瀬は彼女に駆け寄り、ざっと様子を怪我が無いか確認すると
「え? え? なんです?」
 と混乱する彼女に
「救急車を呼んで、事故に巻き込まれて怪我をしたと言え」
「え? は、はぁ……」
「黒瀬さん!」
 華が今更ながら意識を取り戻し、バイクから降りて黒瀬に走りよろうとする。が、黒瀬は「戻れ!」と手を振り、
「横道に回って道を封鎖しろ! タクシーを追い込む!」
「黒瀬さん! 無茶しないでください!」
「いいから行けッ!」
 華が慌てて、バイクに飛び乗る。


「あぁ!」
 運転手が叫び声を上げる。前方を指差し
「ほら! ほら! ほら! もうダメだ!」
 前方で、一台の普通乗用車が中央分離帯に突っ込んで、斜めに車線をふさいでいた。上り片側一車線通行だが、通行している車は事故車に気を使って徐行している。当然逆走できる余地などない。
「どうするんです!?」
 男はやはり、ぼんやりとした表情で窓の外を眺めている。
「早くしてくれ! もう進めない、突っ込むぞ!!」
「曲がれ」
 運転手は助かったとばかりにスピードを落とし、次の交差点の右折に備える。
「違う」
 が、男はそれを制した。
「え?」
 その瞬間、突如男が身を起こした。鬼の形相をして、
「今だ! 曲がれッ!!」
 窓をびりびりと震わせるような怒声を上げ、同時に運転手の座るシートを蹴り飛ばす、運転手は恐怖に背を押され、反射的にハンドルを右に切った
 途端、縁石に乗り上げたような衝撃がタクシーを襲う。
「うわぁっぁ!」
 運転手が叫ぶ、車外からも絹を劈くような女の悲鳴が上がる、男の怒声が続き、混乱する人々が慌てふためいて逃げ惑い始める――
 アーケードに突っ込んだのだ
 夕方のこの時間、アーケードの客足はそう多くない。が、もともと狭い土地を利用して造られたその道に車が突っ込んでくれば、悲鳴と混乱、恐怖が混在したパニックを引き起こすことは避けられない。足の遅い年寄りや子供が轢かれる可能性も、平然と存在する。
「(どこの誰が追ってるのか知らないが)」
 突如激昂した男は、その始まりと同じく唐突に表情を緩めると、またシートにばったりと倒れこんだ。
「(これで裏をかいた――)」
 誰かが自分を追っている、というのは肌でぴりぴりするほど感じている。既にそういう情報を仕入れていたし、自分がこういったことに手を出して、誰にも見咎められずにやり通せるとは思っていない。
 先ほどの無線通信も、今、目の前で起きていた事故も、全部罠だろう
 おそらくは事故現場の前の十字路を曲がらせて、その先を封鎖しておくつもりだったのだ。あとはバックできないように後ろも押さえれば、完全に袋小路だ。
 だから十字路の手前でアーケードに逃げた。
 これがどんな成果を生むにせよ、相手の裏を取ったのは間違いない。
「(詰めの一手が一番大事なんだよ……だれだか知らない正義のミカタよぉ……)」
 男はぼんやりと窓の外を眺めながら、つまらなさそうな顔をした。
「あぁ! どいてどいて! 逃げてェ!」
 その前で、運転手は逃げ惑う買い物客に向かって何度もクラクションを鳴らす。スピードを緩めればいいだけなのだが、本能的に、今スピードを緩めたら後ろの男が何をするか分らないことはわかっていた。
 目の端に涙を浮かべ、「なんで、なんでこんなことにぃ」と呟きながら、通路に張り出していた商品の棚をふっとばし、商品の入ったカートにぶつかって、逃げ遅れた男をフロントに乗せ、そして振り落としながら、走る。アーチに囲まれたその場所に、野太いエンジン音が響き渡る。
 逃げ惑う人群れが、かき分けられる――さながら引き裂かれる布である。その作用点にあるのは一台のタクシーで――
「どいて! どいて! ど……!?」
 運転手が目を見開き、半口をあける。うわぁぁぁぁと悲鳴をあげると、ブレーキを思いっきり踏みつける。途端、車体に制動がかかり、反動で運転手はシートに押し付けられ、そしてその首にパラシュートナイフが突きつけられる
「うらぁ! テメ舐めてンのか!? アクセルを踏めぇッ!!」
 鬼の形相で怒鳴り声を上げるサングラスの男に、運転手はついに泣き叫び、前方に指を突き出して叫んだ
「前! 前! タクシー!!」
「ぁあん?」
 前方に目をやる。白色のタクシーが一台、アーケードの交差点を塞いでいた。
 車から運転手が転がり出てきて、後部座席からはその運転手に銃を向けて車から離れていく、詰襟姿の男の姿――一瞬だけ、ちらりと見えた横顔は、随分な優男だった
「(こっちにも手ぇ回されてたのか!?)」
「うわぁぁああぁぁぁぁああ!!」
 運転手がハンドルを右に切る、が、その両手にパラシュートナイフを握った手が覆いかぶさり、
「おらぁぁぁあああああ突っ込めぇぇぇぇぇぇぇえぇああああああ!!」
 強引に左に押し戻す、サングラスの男が鬼の形相で怒鳴る、運転手が抵抗し、ブレーキを踏む、が、
「おらぁぁあっぁぁぁ!!」
 その足にパラシュートナイフが突き立てられる、血がほとばしり、運転手が叫び声を上げ、ブレーキに置かれた足から力が抜ける
 男の乗ったタクシーが絶妙な角度で停車したタクシーに突っ込んだ
 激しい衝突音と破砕音、ガラスが割れて付近に飛び散り、フロントが大きくへこむ、しかし男の乗ったタクシーは止まらない、勢いを利用して強引に押し出すように斜めに突っ込んだのだ、そのまま車体は斜めを向く、交差点を左折には十分な角度、停車したタクシーを引きずって
 男の乗ったタクシーは、後輪を滑らせながらも一気にエンジンを吹かし、再び逃走を開始する、交差点を左折して。
「おらぁ!」
 男は雄たけびを上げた
「詰めが甘ぇって――」
 そしてすぐに息を飲んだ
 目前にバイクが止まっていた。二人乗りのバイク。
 道を塞ぎ、運転手がしっかりと車体を支えていて、しかしそんなものはこのタクシーのスピードで突っ込めば問題ではない、問題なのは後部座席の男が構えているモノ、黒い塊が握られていて、それはこちらに突き出されていて、あれは、あの形は、そう、間違いなく
「ぬぅぉぉぉおぉぉぉぉおおおお――!?」


 発砲


 一度引き金を引いたらもうためらわなかった。黒瀬の指は痙攣するように何度もコルトパイソンの引き金を引く、二度目、三度目、四度目、五度目――バシバシバシバシッとタクシーのフロントガラスにヒビが走る。が、車は止まらない、猛速の鉄の塊が、人を叩き殺すには十分な質量とスピードを蓄えた鉄の塊が、確実な殺意を抱いて、突っ込んでくる
「(最後の一発――)」
 黒瀬は――奇しくも彼もまた、鬼の形相だった――撃鉄を引き上げ、奥歯を噛み締め、ともすれば逃げ出そうとする足に力をこめ、逃げろ逃げろとうねって叫ぶ本能を脳の奥へと押しつぶす
「(確実に当てるッ)」
 フロントサイトを睨みつける、車を操る男へ、鬼の形相のその男へ、その脳天へぶち込むように、狙いを定め――――

 引き金を、しぼる

 最後の弾丸が放たれると同時に、バイクは急発進した。爆音と共にバイクはするりとタクシーの前面から逃れる。
 そしてタクシーはついにハンドル操作を誤り、道路脇の民家に突っ込んだ。
 木造の玄関を派手に破壊して、植木をへし折り、止めてあった自転車を踏み潰し、車体の半分を家の中へのめり込ませて――――ようやく止まった。
「――――っは、は、は、は、は」
 黒瀬が止めていた息を吐き出し、息を荒くする。「黒瀬さん!?」と振り返る華の肩に手をやり、体重を任せてしまう。身体の中が蠢いているように不快だった。
「やぁ黒瀬! 間に合ってよかったぜー」
 アーケードの方から、砂也がのんびり歩いてきた。彼の背の向こうではすっかり破壊されてしまった白いタクシーを前にして、運転手が呆然としてへたり込んでいる。
「はぁ、はぁ、――遅いぞ、何やってんだ」
「そーいう言い方ないよ。日和が『黒瀬が死んじゃうー』って言うから運転手脅してまで来たのに」
「もっと早く決断しろ。手数が無いせいで手遅れになるところだったぞ」
「そ、そうですよ! 黒瀬さん、むちゃくちゃして、私、私……」
「華、泣く前にヘルメット取ったら?」
「うぇ……あ、そっか……」
「砂也、こっちだ、行くぞ」
 黒瀬はバイクから降りると拳銃に弾を込めながら民家に突っ込んでいるタクシーに向かった。砂也が「もう疲れたから帰りたーい」と言いながらもそれに続く。
 タクシーの運転席では、サングラスをかけた若い男がぐったりと背もたれに倒れ掛かっていた。黒瀬は銃を向けながら近づき、扉に手をかけ、開いた。
 どさっ――と、その身体が外に倒れた。シートベルトに引っかかってなんとかとどまるが、完全に身体からは力が抜けていた。
「死んでんじゃないの?」
 砂也が疑わしそうにそう呟く。黒瀬は倒れたその身体に手を伸ばし、ジャケットを引っつかむと強引に顔を上げさせた。サングラスがずれ、その顔が露になる。
 女だった
 息がつまる。目鼻立ちがしっかりした、肌の白い女が、見開いた瞳孔の開いた目を、どこでもない場所へ向けている。口は半開き、首は鋭利な刃物で切られたように赤黒くぱっくりと裂けており、管のようなものが生乾きの血の中に埋もれていて
「よぉ大将」
 タクシーの後部座席が開いた
 黒瀬がハッとして振り返ったときには既に砂也の身体には改造された強力なスタンガンが押し当てられていて、バシッという音と共に彼は悲鳴も上げずに地面に崩れ落ちていた。そして拳銃を構えようとした黒瀬も、いつの間にか死角に入り込んでいた男に羽交い絞めにされ、一瞬のうちに首へパラシュートナイフを押し付けられている。
「おっとぉ! 動くなよそこの女ァ!」
 黒瀬の耳元で男は怒鳴った。バイクに跨っていた華がびくっと身を固める。
「まさかあのバイカーが女だったとはなぁ」
「――っ、華!」
 黒瀬がうめきながら、手にしていた拳銃を華に放った。彼女の足元にそれは転がる。
「おーおー、危険なんか顧みずに戦う一手を投じるたぁ素晴らしいリーダーだな、あぁん?」
「華! 早く撃てッ!」
「で、でも」
 華は身動きできない。元来彼女は気が弱いのだ。恐怖に身を絡み取られ、ちぢ込まるしかない。
「一歩でも動いたらこの男の鼻を削ぐぞ。歩いたら目を潰し、銃に触ったら首を裂く。それでも撃ちたいならご自由に。先に言っておくが、その距離から撃たれたら俺は確実にダウンする」
「バカ、撃たないとこいつの思う壺だぞ!」
「そうだ撃て、じゃなきゃ俺は逃げちまうぞ? あぁん?」
 華は拳銃と黒瀬を見比べている。その目には涙が浮かび、口元に置かれた手は、しかし、拳銃には伸びることは無い――――
 突如男の空気が変わり
「殺り合う覚悟が無いなら下がってろッ!! 頭を出すのもおこがましい!!」
 びくっと華は完全に気おされ、二、三歩よろめくと「わっ」と尻餅をついてしまった。肩を震わせ、ただ黒瀬を見つめるしかない。
「――クソッ」
 黒瀬の毒づきに男は笑みを浮かべ
「詰めの一手が一番大事なんだよ。最後の最後で逆転されるなんざ、よくある話だろ?」
「……お前は誰だ。イジメ被害者に何をした……!?」
「あいつは見ての通りだよ。俺のことならなんとでも。自ら最高の女を創り上りげたピグマリオンか、それに命を与えてやったアプロディテか……自由の地を求めて当ての無い旅を続けたヤハウェかもな? 便宜的に『理想を現実にする男』とでも呼んでくれ」
「ただの人殺しが……長くは逃げられない」
 男は鼻で笑い、
「冗談が通じないのはゴミクズ共の共通事項だな。それに俺を人殺しと呼ぶのも」
 遠くからパトカーの音が聞こえてきた。さらに車が近づいてくる音がする。
「俺を殺すなら殺せ」
「黒瀬さん!」
 地面にへたり込んでいる華が悲痛に叫んだ。
「だがもう時間が無い。お前は逃げられない」
「本当にそう思うか? 逃げ出したいのはお前の方じゃないのか」
「……俺にカマかけは効かない」
 くっくと男が笑い声を上げた。
「てめぇはゴミクズの中でも特にクズだな。俺の事を悪役か何かかと思ってるだろ?」
「人殺しだ」
「俺を捕まえて、インフラを潰したとしても、この問題は終わらない。より複雑で誰も手を出せない問題に発展するだけだ」
「……インフラ?」
「なんだ? 何も知らないのか。『悪さをさせるなら家の庭で』。悲劇を防ぐために喜劇を演出してるんだよ、俺はな――おっと」
 パトカーがアーケードから曲がってくる。中から警官がこちらを見ていた。
「もう逃げられないぞ」
「あぁ。もう逃げる必要も無い」
 パトカーが脇に止まる。中から警官が出てきて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。男は黒瀬を突き放し、地面に叩きつけた。胸を打ち、息がつまる。
「俺の事は追うな、クロセ」
 男は胸元から新しいサングラスを取り出し、立ち上がろうとする黒瀬を見た。その背後から警官が二人、挟むように現れ
「――っだと……!?」
 黒瀬に拳銃を向けた。警察正式採用銃、ニューナンブの38口径の銃口が黒瀬の額に向けられる。さらに一人、警官がパトカーから出てきて、タクシーの死体を回収していく。
「大人は大人の世界で手一杯だ。俺達は俺達で、自分達を守るしかない」
 男は背を向け、パトカーに向かっていく。
「待てッ」
 警官が一歩出て、改めて拳銃を向けた。かちゃりと音が鳴り、撃鉄が上げられる。
「ぐっ」
「さよならだクロセ。次に会う時は、全てが終わってるか、お前が死体袋に入ってるか……」
 男はパトカーに乗り込み、警官達も黒瀬に銃を向けながらパトカーに乗り込む。黒瀬が立ち上がる頃にはそれは急発進していて、アーケードを抜けて消えていった。
 黒瀬は舌打ちと共に華に走りより
「華! すぐに追うぞ」
 しかし華はへたり込んだまま黒瀬を見上げ、潤んだ目を向ける。
「ご、ごめんなさい黒瀬さん……ごめんなさい……」
 黒瀬の胸のうちに何か冷たいものがジワリと広がった。英雄が英雄たる条件。恐怖が遅れてくる――今更ながらに、黒瀬の胸の内に恐怖が広がっていた。
 視線をめぐらせる。タクシー付近に倒れている砂也が目に付く。意識を取り戻した様子は無い。
「――っ、クソ」
 歯噛みする。今度こそ本当に、パトカーのサイレンが聞こえてきた。





 生徒会室では向橋がオールバックに爪を立て、唇の端を噛んでうなっている。椅子に深く腰掛け、デスクにひじをつく。彼の苦悩のポーズだ。
 その前、デスクをはさんで向かいには、直立不動の姿勢をとった黒瀬が、無表情に突っ立っている。常時、彼はこの表情である。例え責任を感じていようが、いちいち表情に出してアピールしたりはしない。 
「大暴れだな、黒瀬莞爾」
 向橋がイラついた口調で呟いた。
 黒瀬は無表情で返す。向橋はしばらく睨みつけていたが、不意にため息をつくと手元の書類に目を落とし
「……安全委員会の会長に感謝するんだな。あの女がお前を随分庇う。それだけお前に期待しているということだ。それにお前達を叱っている暇も無い。文化祭は目前だ。今日を入れて一週間と五日。わかってるんだろうな、それまでに結果をだせなければお前のチームは即解散だ。特権も全員剥奪する。そうなれば、お前達は全員校則違反の咎で退学だ」
「この学校の権威も地に落ちる」
「わかっているならさっさとやれ。俺もワンストライクでアウトをとるような無能なアンパイアじゃない。今回の件については不問とする。責任は清浦にあるし、お前の責任を追及するかどうかも清浦に任がある」
 だが、と向橋は顔を上げ
「俺が助けに行かなかったら、お前達は今頃民放マスコミと大衆の無責任な正義感の餌食だ――未成年者保護法で刑事罰は追求されなくとも、お前達を締め上げようとする奴はそこいら中にあふれ返っているからな」
 黒瀬は表情を崩さず、じっと耳を傾けていた。向橋はその顔を見上げ、あきれたように息を吐き
「忘れるなよ――『神がやらなきゃ人がやる』候――お前には失望した」
 そう言い残すと、席を立った。部屋を出て行く。後には黒瀬だけが残った。


 生徒会室に耳を押し当てていた清音は、扉が急に開いたので「わっ」バランスを崩してしまった。向橋は姿勢を崩した清音を見下げ
「な、何よ」
「……心配ならしっかり首輪をつけておけ」
 そのまま歩き去ってしまう。清音は最初ぽかんとしていたが、すぐにわなわなと震えて
「ち、違う! バーカ! ふざけんなぁ!」
「どうした」
 遅れて出てきた黒瀬が不思議そうに清音に声をかけた。清音ははっとして黒瀬を見上げ、何か言いたそうにしたが、すぐに口をつむいで
「別に」

 黒瀬はあっさりと「そうか」と言うと、歩き出した。清音はそれに遅れてついて行き
「あ、あんたね、危ない事してんじゃないわよ。無茶苦茶やったって華が言ってたわよ」
「危ないことするのが仕事だろ」
「それはあたしも一緒なの! 一人で突っ走って、怪我して帰ってこないでよ」
 黒瀬は僅かに口をへの字に曲げたが、すぐに小さく息を吐いて
「……悪かった。心配かけたな」
「はぁ? 心配なんかしてないわよ! バカじゃないの!」
「だったらお前が怒る必要は無いだろ」
「だから勝手に行くなって言ってんのよ! あたしも連れて行きなさいよね! 大怪我して帰ってきたら後味悪いでしょ!」
「わかったよ。必要があったら呼ぶ」
 瞬間、清音はぐっと面食らったように首を引いた。足を止め、だがすぐに奥歯を噛み締めて、数歩先で足を止めた黒瀬を睨んで
「あんた自分勝手なのよ! 勝手に出てって、勝手に怪我して、『用があったら呼ぶ』って……あたしはコイン入れたらボール投げる機械じゃない!」
「しつこいぞっ、俺が連れ出してお前も怪我をしたらよかったのか!?」
 黒瀬が足を止める。低い声が怒鳴ると、まるで獣が唸ったかのようだった。
「うるさい! 怒鳴るな!!」
 だが、清音は負けなかった。踏ん張り、怒鳴り返す。
「待ってる方の身になれ! あたしはなんにも知らないで、テレビであんた達の事知って、怪我したあんた達をむかえに行って―――心配かけんなよ! バカッ!!」
 唇の端を噛み、少し……ほんの僅かだが目の端に涙のようなものが溜まっていた。黒瀬は無表情に冷水を浴びせたような顔をしていた。早朝の影が顔にかかり、小さく息を吐き、
「……あ!」と清音が叫んだ。片手をブンブン振って
「違う! 違う違う! 今の取り消し! 心配じゃなかった別に」
 顔を朱に染め、その顔を片手で隠して、首を振る。黒瀬は小さく唸って
「そうか」
 清音は手の間からちらっと目を見せて
「……なにが」
「……うるさいな、何でもだ」
 黒瀬は彼女に背を向けて歩き出す。清音は「何でもってなにそれ!? 言いなさいよ、ねぇ!」とその背を小さく引っ張りながらついていく。





 七原清音は大の男嫌いである。バカが嫌いで頭の良さそうな奴が大嫌いである。
 だからこそ、チームに入るのを一番嫌がった人材でもある。当初生徒会としては別に彼女でなくてもよかったのだ。技術開発や特殊機器運用の専門家は別の友好校――特に工業高校の生徒に委託するのが一般の生徒会のやり方で、成華高校のような進学校が自校の中からわざわざ選び出すというのは稀な事だ。
 彼女は誘いを突っぱねた。だから生徒会はあっさりと身を引いた。彼女は前述のような性格なのであまりに扱いにくかったので敬遠されたのもある。だが結局は彼女はチームに入ることになる。
 黒瀬莞爾である。
 黒瀬は清音の事を聞き及ぶと彼女を少々強引な方法でチームに引き込んだ。いや、その時点ではチームの一員でもなんでもなかった。誰かの下につくのを嫌がった清音のために、黒瀬は「協力」を頼んだのだ。つまりチームの外部協力者である。
 清音は黒瀬を胡散臭く思いつつも、熱心な(表情も言葉も冷静極まりないが、意外と黒瀬は『熱い男』だ)その勧誘に根負けしたように協力してしまい、さらに元々友人だった華や口の上手い九頭、底の知れない砂也やまるで兄のように振舞う勘八にうだうだと理屈ばかりこねている日和と触れ合う内、またもなし崩し的にチームに引き込まれてしまった。
 かといって彼女の男嫌い、バカ嫌いで『頭の良さそうなやつが大嫌い』が治った訳ではなかった。チームの中にいながら、どこかよそよそしい気がしていた。でもそれでよかった。本当の意味で『チームになろう』などとは、かけらも思っていなかったのだ。それは彼女に残った、理由のわからない意地だった。





「ところでさ、この仕事終わったらなんかご褒美もらえるらしいじゃん」
「…………誰から聞いたんだ」
「誰でも良いの! それよりさ、何食べに行く? あたしケーキが良いなぁ」
「今のところ焼肉が優勢」
「えー何それ? 貧乏くさぁい」
「ケーキも大して変わらないだろ。バイキングなんだから」
「高いところ行けば良いじゃない。いい所知ってるわよー、今度味見しに行こ?」
「お前の言う高い所は本当に高いしな……それにお前と二人というのが……」
「はぁぁぁぁぁ!? 何それ! 大喜びするところでしょ!?」
「大喜びする奴と行けよ……」
「黒瀬。怪我は大丈夫そうですね」
 理化学室の実験卓を挟んでぼんやりと会話していた黒瀬と清音へ、扉を開けて入ってきた小春が声をかけた。清音は腕に頬を乗せて、卓に突っ伏したそのままの姿勢で「うなん?」と呟き、黒瀬は立ち上がって、頷いて返した。
「よかったです。大怪我を負ったら、捜査がままなりませんからね」
 清音の眉が寄る
「ちょっと待ちなさい、あんた今のどういう事?」
 小春は清音にゆっくりと目を向け
「気分を害したのなら謝りますが、私が彼に求めるのはそれだけですから。あなたとは多少、立場が違います」
「――っんですって」
「清音やめろ」
 黒瀬が片腕で立ち上がろうとする清音を制し、小春と対峙する。
「何か用か」
「……先日はご苦労様でした。向橋さんは大変怒っていたでしょうが、私は彼とは考えを異にします。あなたは本当に良くやった」
「死んだかもしれないのによく言うわよ」
 清音が突っ伏したまま、ぽそりと呟く。黒瀬は首を振って清音をいさめた。
「ですが、結果を見ればこれは大きな失敗です。――これに見覚えはありますか」
 小春が胸元のポケットからハンカチに包まれたビニール袋を取り出す。受け取ると、その中には一発の弾丸が――擬似弾丸が入っていた。電池パックを改造し、中に火薬とゴムに包まれた鉄球が押し込まれている物だ。
「うちが使ってる模擬弾だ」
「昨日使ったものですね?」
「ああ」
「報告書によると、高木砂也が使用していた銃を喪失したとのことですが、その弾丸はそれに使われていたものですか」
 黒瀬は僅かに思索し、清音を振り返った。清音はむっとした顔をしながらも(黒瀬が小春の味方をしたのが気に食わなくて仕方が無いのだ)手を差し出した。黒瀬がその手に弾丸を放る。彼女はそれを入念に見ながら
「……当たり。昨日使ってた奴。ちゃんと調べたらわかんないけど、じゅっちゅ――じゅう――ちゅ?」
「十中八九」と黒瀬が冷静に呟き
「そうそれ、十中八九当たってる」
 小春はその答えに僅かに陰のある頷きを返すと、小脇に抱えていたファイルから書類を二、三枚黒瀬に手渡した。
「昨日深夜、本校の女生徒三名が暴行を受けました。深夜一時に二名、二時半に一名。殴る蹴るの暴行のほか、性的な暴行も加えられていました」
 清音が「……くそったれね」と胸を内を吐き出し、黒瀬は小さく唸った。
「倒れていた彼女たちの横にその弾丸が。一件につき、一発ずつです」
 黒瀬は僅かに目を細める。意味を考え、
「……報復?」
「おそらくそうでしょう」
「なになに? どういうこと?」
 小春が仲間はずれにするなとばかりに割って入る。
「砂也の使っていた銃は六発装填のリボルバーだ。アイツは一発も撃ってないから、全弾が敵の手に渡った。その弾丸は暴行事件の被害者の横に置かれていた」
「つまり敵は『自分達を妨害したのが成華高等学校の生徒だと知っていて』成果高校の女生徒に暴行を加え、『弾丸はその証』という事を言いたいのでしょう」
「弾は継続のメッセージだな」
 清音は変な顔をして悩んでいたが、十秒ほどすると「え」と呟き、さらに三秒ほどすると「ええ!?」と叫んだ。
「じゃぁ弾はあと四発残ってるから、あと四件は起きるって事!?」
「このまま捜査を続けたらそうするという事だろう。狙いは捜査の妨害だ。そうでなければわざわざメッセージを残すようなマネをするはずが無い」
「二件起こしたのはそこに繋がりがあることを示すため、ですね」
「なにそれ!? 回りくどすぎない?」
「それで十分だと踏んでるんだ。……どうする、こちらの身元が割れてる」
「捜査は続行します。ですがそれがあなた方である必要はありません。もしこの件から身を引くのなら、それで構いません。代わりにあなた方には囮なってもらいます」
「何それ、なんで!?」
 わめいた清音に腕を組んだ黒瀬が目を向け
「俺達が大人しくしている風を装って安全委員会の正規の委員に捜査を進めさせるんだ」
「身代わりって事!? そんなのダメ! 絶対ダメ! 認めらんない! 気に食わない!!」
 ドゲッと実験卓に両拳を叩きつける清音。黒瀬は腕を組んだまま小さく唸り、日和はそれを無表情に眺める。清音が叩きつけた拳を「いたい……」とさすった。
「確かに。気に食わないな」
 黒瀬は日和に目をやった。
「感情だけで動かないでください」
 すかさず日和もやり返す。
「大々的に捜査は続行する。これまでに自殺したいじめ被害者の近親者、それと残ったいじめ被害者に接触して、情報を収集する」
「えー! でもまた暴行事件とか起きたらどうすんのよ!?」
 清音がまたドカッと実験卓を叩く――こんどはちょっと調整して痛くない程度に。
「連中が『報復』のメッセージを送るなら、俺達は『不屈』のメッセージを返すまでだ。俺達は脅しに屈しない。断じてこの件を調査すると意思表明すれば、連中はやり方を変えてくる。おそらくは」
「直接攻撃」
 小春が手を置いた唇を開き、承知がいった様に頷いた。
「――そうだ、そこで被害を最小限にとどめてやつらに繋がる情報を得る」
「でもその連中っていうのがほーふくを止めなかったら? チョクセツ攻撃がすっごい強くて、負けそうになったら?」
「報復を恐れるなら手を出さないのが一番良い方法だ。でもそれじゃあ納得しない奴がいる」
 清音がむっとして腰に手を当て「黒瀬もでしょ」と返した。黒瀬はそれを黙殺して
「直接攻撃の方にはどうとでも対応はできる。飛んでくるのがわかっているなら紙飛行機だろうがトマホークミサイルだろうが、やり方さえまちがえなければ撃ち落とせる」
「核ミサイルだったらどうすんの?」
 黒瀬は事も無げに
「それなら撃った奴も破滅する」
「では対応方法は決まりましたね」
 日和が二人を眺めて言った。
「今後は大々的に捜査を継続。敵の出方を待つ。ですが忘れないでください。残ったイジメ被害者はあと一人。残り日数も多くはありませんよ」
「心得てる。あと二週間」
 黒瀬は腕を解いて、床においてあったバックパックに手を突っ込んだ。中から分厚いファイルを取り出し
「ちょっと何してんの?」
 清音がそれを咎めた。
「具体案を考える」
「その前にやることがあるでしょ」
 黒瀬が不可解そうな顔をすると
「皆に、話を、してくる、また、置いてけぼりに、する気!?」
 一言一言、噛み締めさせるように言った。黒瀬はなんとも形容しがたい――つまらないとめんどくさいを足して2をかけた様な――顔をしていたが、しばらくするとファイルをしまって、バックパックを背負い、扉に向かっていった。
「黒瀬」
 清音がその背に再び声をかける。黒瀬は立ち止まり、うんざりしたように
「まだあるのか」
「あたしも行くの!」
 清音がカバンに荷物を押し込みながら言った。黒瀬は呆れたようにそれを眺めていたが「扉の外で待ってるから」と言い残すと部屋を出て行った。
 清音はすぐに荷物をまとめると、扉に向かっていく。が、
「……何よ」
 日和が自分を見ていることに気がついた。日和は無表情に
「いえ。頼りになります」
「……何それ? 嫌味?」
「いいえ」
 清音は不可解そうで不満げな顔をしていたが、しばらくすると「べー」と舌を出して、部屋を出て行った。





 石田勘八が黒瀬に思うところ、それはつまり「はっきりしない奴だな」だ。
 なんと言っても黒瀬の得意技はだんまりの無表情だ。冗談を言うようになったのは最近で、それとてイライラしている時や集中している時は絶対に言わない。それどころか自分がどう思ってるかということすら、黒瀬は口にしないのだ。もちろん顔にも出ない。その傾向は昔から今まで、一貫して変わっていない。
 勘八はそれがもの凄く嫌だった。というのも、勘八はかつて虐められていた経験があり、その時最もいやらしい虐め方をする奴と黒瀬がだぶって見えたからだ。正面切って殴りかかってくる奴はまだいい。殴り返して打ち負かせば(それだって容易ではないが)、それ以降は絶対に手出しをしてこない。だがそういったいじめっ子の後ろで小さな声でぼそぼそと内緒話をする連中は違う。何があろうと絶対に怪我をしない位置から、じっとこちらを見下ろしてくるのだ。黒瀬の『はっきりしない態度』、『リーダーという立ち位置』、そして『彼は実際戦略としてそういった手段をとるだろう――という推測』の三つが重ね合わさって、勘八は当初黒瀬に不信感を抱いていた。最初の一ヶ月はまともに話も取り合わなかったくらいなのだ。チームで一番爆弾を抱えた関係だったと言ってもいい。
 ついでに出会いのタイミングが最悪だ。
 勘八の父親は虐待癖があり、勘八の目が真っ赤なのは彼に殴られたからである。そして体が筋骨隆々なのは、なにも虐待とイジメから身を守るためではない。いずれ虐待が自分から妹や弟、母親に向かうだろうと悟った彼が、父親を殺そうと決心し、身を鍛えたからだ。
 しかし幸か不幸か、高校に上がってすぐに父親は交通事故であっさり死んだ。後には鍛え上げられた勘八の体だけが残り、当時の勘八はひどい虚無感に襲われていた。父親がいなくなった時、勘八にはやろうと思うことが何もなかったのだ。自分が生きているのは結局は父親のためだったと思うと、向かう所のない怒りがふつふつと止めどなくわき起こった。黒瀬と出会ったのはそんな時だったのだ。
 そんな不仲が続いたある日、黒瀬は勘八に「メンバーに近接戦闘を教えてやれ」と命令した。勘八はもちろん嫌がった。勘八にとって暴力は父親の面影である。それを黒瀬に命令されてやるなんて、ますます嫌だった。
 しかし黒瀬は食い下がった。黒瀬は冷静なようでいて負けず嫌いだ。しかし勘八はそれも気にくわなかった。気にくわなかったので、こんなばかばかしいことを口走ったのだ。
「俺を倒したらしてやってもいい」

 後で九頭にその話をすると、彼は呆れかえって笑いもせず「古典文学だなそりゃ」と言っていた。

 得てして勘八と黒瀬は殴り合うことになる。それもルール無用の殴り合いだ。拳を覆うのは僅かにバンテージのみ。顔も目も剥き出しでの殴り合い。グラウンドで二人は対峙し、生徒達が物珍しがってみる中、コングもなしに殴り合いを始めた。黒瀬は意外にも格闘技の経験があるらしく、動きは俊敏でパリングやスウェーで勘八の連打を避け続けた。しかし決定的な一撃がない。それに体の線が細いのだ。一発決めるとそこからは決壊したダムのように体制が崩れ、連打を受けてぶっ倒れた。
 勘八はそれで快感を得るかと思った。憎らしい相手をぶったおしたのだ。自分が強い事が証明され、相手は所詮弱いことが証明される。それは快感の濁流だ。胸の内にあったごちゃごちゃした感情が、それで全部すっきりするだろうと、彼はそう思っていた。
 だが実際にはそうではなかった。胸の内に巣くうのはどこまでも広がる虚無感だけだった。鼻血を出して空を仰ぐ黒瀬を見ても、体からは力が抜けるだけだった。夏の白い熱気があたりを包む中、勘八はうっすらと幻覚を見た。自分が筋骨隆々でなくて、黒瀬は黒瀬でない。自分は小さな――虐待を受けていた頃の子供で、倒れているのは父親だった。
 きっと自分は、父親を殺したかったのではなく、愛して欲しかったのだろう。
 汗が噴き出ていて、息が荒く、喉の奥が熱く、殴られた節々が痛む。何故か泣きたくなった。何をやっているのだろう、俺は。何をしていたのだろう、あの時の俺は。
 勝ったのに泣いている勘八を見て、グランド中の視線が「意味がわからない」といぶかしげに交錯しあった。傍らで呆れかえりながら見ていたメンバーも、不可解そうに目を細めていた。ただ日差しばかりが暑く、樹木の影が明るい。黒瀬が立ち上がり、言った。
「二回戦だ」
 鼻血をぬぐい、口の中の血を吐いて、ぐっと視線をこちらに向け、拳を構えたのだ。勘八が涙していることなどに、些細な気を配ることもない。チームのメンバーが往生際が悪いとばかりに吹き出した。じゃんけんで負けて「三回勝負だ」と言うようなものだ。殴り合いの真剣さと、黒瀬の間抜けな発言っぷりの落差が、グラウンド中に嘲笑を誘った。
 勘八は「うるせえ」と呟いた。
 それは誰にも聞こえないと思われた。小さすぎるから。だが聞き逃さない男がいた。目の前で、うっすらと笑った。
 勘八は咆吼をあげて殴りかかった。そうだ、ここで終わるのなんかまっぴらだ。俺は負けたんじゃない。勝ちに行く途中なんだ。これからなんだ。

 これから二回戦が、始まるんだ

 気がつくと五勝一敗していた。勘八は約束通り、チームのメンバーに近接戦闘のなんたるかを教え込んだ。文句を言われる事も多いが、まぁ、挫けることはない。
 黒瀬も、あの時と比べたら、よく笑うようになった。





 黒瀬と清音が小春と話した翌日から、さっそく計画通り、いじめ被害者との接触が始まった。
 二名のメンバーが私服で接触、他のメンバーが襲撃に備えてバンで待機。という流れで、二名には初め、砂也と清音が選ばれた。が、
「……清音怒ってるな」
 バンの中でディスプレイに映った二人といじめ被害者の映像――バンには屋根に遠隔操作のできるカメラが設置されていて、それで喫茶店の中で話す三人を映していた――を眺めながら、勘八が呟いた。
 黒瀬は無表情にそれを眺め、九頭がニヤニヤしながら、その横では日和がインカムを装着してディスプレイを眺めている。ちなみに華は運転席でハンドルにもたれかかって待機中だ。
 ディスプレイの中では喫茶店の円卓をぶったたいて憤慨する清音の姿が映っている。どうやらいじめ被害者の苛烈ないじめ体験に共感して怒っているらしいが、当のいじめ被害者者の方(大学生の女性だ)が困惑してしまい、なだめている。
「人選ミスなんじゃないですか」
 日和が冷めた口調でそう言う。
「純粋に戦力で見たらこういう選択になる。なんであれ――」
「あ、砂也が余計な事言ったな」
 ディスプレイでは砂也が小さく笑いながら何か言っている。途端、清音がまた卓をぶったたいて、ついでに砂也の額をチョップでぶったたいて、椅子ごとひっくり返した。
「あーあー、色男は踊るのが好きだね……」
 九頭がくっくと喉を鳴らしながら笑った。勘八は真面目な顔をしようとして失敗して噴出し、黒瀬は真顔で、日和も無表情に、しかし呆れ顔で
「人選ミスなんじゃないんですか」
 黒瀬は答えず、九頭がまた噴出した。



 その日は襲撃もなく、それらしい動きも接触もなかった。
 翌日はペアから清音を除外し、代わりに九頭を導入した。九頭は説得や交渉が得意な文系タイプだ。特に相手から情報を引き出したりするのは大の得意なのだ。この手はお手の物である。
「なんであたしが引っこ抜かれるの? ねぇ、なんでよ……ねぇってば!」
 バンの中では清音がさんざんっぱら怒鳴っていた。朝からそうやって怒鳴られっぱなしの黒瀬はすっかり彼女を無視して
「今日は上手くいきそうだな」
「でも相手は女だからなぁ。男二人に囲まれるってのは……」
「見た限りは親身に話を聞いてるように見えます」
「ちょっと! 無視すんな!!」
 砂也と九頭はうなずいたり合いの手を入れたりと相手の言葉をするすると引き出している。実に上手い。会話というのは実は「続ける」のが一番難しい。砂也も九頭も相手を休ませない。休ませないから相手も話に夢中になり、話しにくかったであろう話もあっさりと話してしまう。
「よし、周辺警戒を怠るな。相当量の情報を引き出してるのを相手も確認してるだろうから、すぐに妨害に出てくるかも――」
「待ってください」
 日和がディスプレイを覗きながら平坦に呟いた。
「あれ、相手怒ってないか?」
「何?」
「あんた達、あくまでもあたしを無視すんのね……いいわ、まってなさいよ」
 ディスプレイには肩を震わせて頭を垂れ始めた相手の女性を前にして、九頭が何かを笑いながら話し、砂也がそれに合いの手を入れている。そして被害者の震えが次第に大きくなって行き
「あ」
「あ」
「……」
 勘八と日和が思わず呟き、黒瀬は頭を抱えた。被害者が九頭に水をぶちまけたのである。空のコップを震える手で卓に置くと、彼女はそのまま店を出て行ってしまい、九頭は水をかぶったまま顔に笑顔を貼り付け、砂也がそれをけらけらと笑っている。黒瀬は勤めて冷静に、無線を使って連絡した。何やってる、なんで怒らせた。
『でもほら、情報は入手したぜ?』
 九頭がどこか楽しそうにそう言って、後ろでは砂也が「九頭がマジかっけー」とけらけら笑っていた。黒瀬が頬を引くつかせていると、その後ろに清音が忍び寄り
『――――無視すんなぁぁぁばかぁぁぁぁぁ!!』
 拡声器で怒鳴り散らし、バンの中が騒然となった。



「――意外に良いコンビなんじゃないか?」
「……」
「二人仲悪いと思ってたけどねー結構ちゃんとやれてるじゃん」
「まぁ、一番の収穫はうるさいのがいなくなった事だな」
「ははは、それ、マジ、言えてる」
 翌日。バンには勘八、黒瀬、砂也、九頭がディスプレを前にして頭を突っつき合わせていた。一気に男くさくなった代わりに、ディスプレイの中には清音と日和という美形女子コンビが映し出されている。二人はやはり女性同士という気軽さがあるのか、相手に親身になって話を聞いているようだ。清音のご立腹は日和が制し、日和の無口癖は清音がカバーする。
「やっぱり良いコンビだな」
 勘八が感心して言って、九頭がうんうんうなずきながら
「画になるな、やっぱり。遠くから見てると二人とも美人だぜ」
 砂也がクスクス笑い、
「遠くから見てるとねー」
「失礼な奴らだなお前ら」
 と言いつつも勘八も口の端が上がっている。
「ここに華が加わるとまた違うんだよな」
「あーたしかに。また違うよね」
「なるほど。上手い事言うな」
「え? わた――はいっ、私の事、何か言いました?」
 名前を聞きつけて華が運転席から身を乗り出してくる。九頭はゆっくりと手を振って
「あー言ってない言ってない」
「うんうん言ってない言ってない」
「華が可愛いなって話だ」
 すかさず砂也と勘八が合いの手を入れる。華は見る見るうちに顔を赤くして、「あ、ありがとうございます……」と語尾をもにょもにょとさせながら身をちぢ込めてしまう。華が運転席に戻ると、三人は声を潜めて笑いあった。
「勘八、やるじゃん」
「なっはっは」
「よくやったよくやった」
「……おい」
 唯一真面目にディスプレイを眺めていた黒瀬が呟いた。他三人が今更ながらにディスプレイに目を移す。三人一様に「お」と声を出して目を丸くした。
 清音と日和の中が険悪なムードになってお互いにらみ合っている。相手の女性がなだめようとしているが、清音が何かを言うと日和が冷静に切り返し、それに頬をひくつかせた清音が怒りをこらえつつ(彼女なりに前回の反省の結果のようである)何か嫌味のようなことを言うと、やはり歯に衣着せぬ日和がぴしゃりと言い返し、清音は傍目にも内心噴火状態なのが見て取れるような顔をする。
「……あーダメだなこりゃ。相手のことなんか目に入ってねぇわ」
 九頭が「あらあら」と呟いた。勘八は唸りながら砂也を見て、砂也はひょいと眉を上げると肩をすくめた。
「……華、いるか」
「あ、はいっ」
 黒瀬の呼びかけに華が顔を出す。
「明日は俺とお前で出る」
「…………へぁあ!?」
「それが良いな。もう直々に行った方が良い」
「迷走し始めたな……」
 勘八がうんうんうなずき、九頭が腕を組んで半笑いで呟く。華は慌てて両手をブンブン振って
「いや、え? む、無理です! あ、でも、そういう事じゃなくて、でも、喫茶店で……そんな! む、無理です無理です! ダメダメ無理です!」
 とすっかり混乱して何が何だかわからなくなっていた。頭から湯気が出そうだ。
「ふられてんじゃん」
 砂也が笑いながら黒瀬の肩を抱き、黒瀬は額に手を置いてそれを振り払った。華はさらに混乱して「え、違――あ、でも、あ、う〜ん、わーん……」と涙目になっていた。



「俺はこういうのは全然ダメなんだが……」
 喫茶店の円卓で被害者の女性を前にして、黒瀬と勘八が座っている。黒瀬は真面目腐ってメモを取りながら話を聞き、勘八はカチンコチンになりながら。勘八の小声の訴えにも黒瀬は耳を貸さず、事務的な口調で話を続ける。
「……」
 勘八はやることがなくなってしまい、相手の女性が目を向けられるとぎこちない笑みを浮かべて返す。しかしそれはどう見ても威嚇か獰猛な笑みにしか見えず、相手は絶句してしまう。勘八はいたたまれなくなって身をちぢ込めて紅茶をすする。しかし熱いので飲めず、近くを通ったウェイターに「何か冷たくて甘いものを」とこれまたウェイターも困ってしまうような注文をする。ウェイターは四苦八苦しながらもいくつかメニューを口にするが、勘八はそれに適当に答えてしまう。
「お待たせしましたー」
 結果、数分後に届けられたメニューに勘八自身絶句する。
「ネコメイトスペシャルパフェです」
 バケツ大の器に入ったとんでもなパフェが円卓に置かれた。そもそもそれだけで円卓の大半を支配してしまうような化け物じみたその質量・存在感。店の各所からもクスクス笑いとある種の羨望のまなざしが注がれる。
「……く、黒瀬」
 じっとこちらを睨みつけていた黒瀬に、勘八は震える声で尋ねる。
「半分、食べるか?」



 そんなこんなで捜査は進んだ。予想していたような『報復』は確認できなかった。黒瀬が事前に向橋と安全委員会に根回しをして、生徒の登下校の監視を行わせたり、深夜パトロールを増やしたのが功をそうしたのかもしれない。
 いじめ被害者やその近親者の話からも有力な情報がいくつか手に入った。まず第一に彼女達は総じて、一斉文化祭の期間中に複数の男性に性的暴行を加えられている。第二に、性的暴行が加えられていた時間はおそらくぴったり十二時から二時までの間。被害者全員が「十二時」だとの声で襲われ「二時だ」との合図で放り出されたのだという。第三に、拉致の手法に共通する所が多々あった――等々、幾つかの共通点も見つかった。それに加え、彼女達は全員虐められた経験がある。
「これは性的暴行の――イジメのインフラ――のようですね」
 ある日報告書をまとめた黒瀬が小春に報告すると、彼女はそう呟いた。
「その意図するところはわかりませんが、毎年決まって同じ日に、同じ時間で、同じ手法を用いているのは、それがある程度、毎年稼動するシステムとして機能しているという事です」
「連鎖自殺の意味は、つまりそのインフラの隠蔽にあるって事か?」
「生徒会は二ヶ月ほど前からイジメ撲滅計画を実行していました。殺害……連鎖自殺が始まったのはちょうどその頃に重なります。この計画の妨害のために、連鎖自殺が始まったと見て間違いないでしょう」
「あのサングラスの男の意図で?」
「そう思いますか?」
 黒瀬は口をつぐんだ。わからない。わからないが、安易に首肯はできな伊野は確かだった。
「今年もあるかもしれません。調べておきます」
「全クラスのイジメられている生徒を探し出すのか? 誰も生徒会なんかに告げ口はしないぞ」
「それはやり方次第です。あなた達はこのインフラを『整備』した犯人を追ってください」

?が、しかしそこまでで敵の情報が途絶えてしまっていた。結局いじめ被害者が語るのはいじめの実態の話で、黒瀬たちが追っていた敵の情報などかけらも入ってこない。全く得体の知れない敵。手がかりはほとんど無く、期待できるのは相手からの接触、という消極的な展開が続く。
 既に一週間が過ぎていた。黒瀬はそろそろ次の一手を考え出していて、他のメンバーはそろそろいじめ被害者との対話に飽き始めていた。

「ちょっと息抜きしよう」
 砂也が岐路の途中でそんなことを言い始めたのは金曜の夜だった。全員で勘八の妹をカラオケ店に迎えに行く途中の事だ。
 黒瀬たちはイジメ被害者達と接触している間――つまり敵を挑発している間、勘八の家に居候させてもらっていた。敵からの襲撃に備えるためだ。いざという時、戦力は一点に集中していないとろくな反撃ができないからだ。
 環八の家を選んだのには理由がある。勘八の家は広くはないが父親が既に亡くなっており、母親は夜勤なので両親に迷惑をかけないで済む。他のメンバーは両親との折り合いが全く上手くいっていないのでダメだ。それに勘八には弥七郎と結衣という弟と妹がいて二人は彼らの事が大好きだ。何日でも居てくれとせがまれるくらい。
 ただ、その代わりに結衣達の安全も確保しなくてはならない。弥七郎は今華と手を結んでメンバーと一緒に歩いているし、夜遅くまでカラオケにいた結衣もむかえに行かなくてはならない。今はその途中だ。
「なぁ黒瀬―、息抜きー」
「何だ。くだらない事言うなよ」
 歩きながら、黒瀬がファイルを眺めながら呟いた。
「だからさ、せっかく結衣ちゃんを迎えにいくんだから、ついでに帰りにちょっと息抜きしていこう。例えば――」
「カラオケ」
 すかさず言ったのは清音だった。その声色はいつもの乱暴なものではなく、差し込むような鋭さがあった。途端、九頭、勘八、砂也の三人がピクリと反応し
「ダメだろ」
「他のにしておこう」
「絶対やだ」
 清音がばっと三人に指を突き出し
「なんでよ!? 前に遊んだ時は真っ先に賛成してたくせに!」
「あれは一生の汚点」
「そもそも賛成はしてない」
「トラウマになったし」
 あっさりと三人は低い声で否定した。清音は「うがー」と勘八に襲い掛かり、いつもなら相手をしてやる勘八は驚くほど素早い身のこなしで避ける。九頭と砂也はすでに逃げ出しており「ボーリングとかファミレスが良い!」「とにかく清音が歌わないところならどこでも良い!」「待ちなさいあんた達! 戻って来―――い!!」と清音に追いかけられ始める。
 それを日和と黒瀬は「?」と見送り、華も意味はわからなかったが、なんだか楽しい気分になってクスクス笑ってしまった。






 華は以前一度だけあったカラオケ大会――砂也いわく『レクリエーション』――には参加していない。黒瀬も日和も参加はしていないが、黒瀬は不可抗力、日和は元々頑として断っていた。では華はというと、彼女は当初はOKしたのだがカラオケ店を前にしたら逃げ出してしまったのだ。
 砂也に誘われた時は、「皆で遊ぶけど来るでしょ?」程度の誘いで、華は二つ返事で了解していた。なぜなら「黒瀬が参加する」と事前に九頭が華に耳打ちしていたからである。九頭は説得や交渉のプロである。
 しかし実際行ってみるとそこは地元高校生に大人気のカラオケ店だった。
 華はカラオケが怖い。それは「下手だったら笑われる」とか「歌うのが恥ずかしい」とかそういうレベルの問題ではない。もっと根源的な、生理的におぞましく感じるほどの恐怖だ。
 今でも明確に覚えている。よく「あまりにも恐ろしい体験をすると無意識にそれを忘れてしまう」というが、あんなものは嘘だと華は信じている。忘れられないからだ。あんなに怖かったのに、忘れようとすればするほど、夜、浴槽の中で思い出したりする。その瞬間自分に触れる全ての物に嫌悪感を抱く。鳥肌が立ち、胸の内に自分のものとは思えない熱い怒りがとぐろを巻き、目が見開き、全身が脈打つ――――
 華は学校の近くにカラオケ店があることも知らなかった。知ろうとしなかった。実際には通学路の途中にあるにもかかわらず、華の視界にそれは入っていなかった。それこそ、無意識に。
 そしてそれを目の当たりにしたとき、華の内にあの感覚が脈打った。ドクン、と全身が震えるのを感じた。メンバーが次々と店内に入っていく中、彼女は一人立ち尽くしていた。足が前に出ない。いや、その前に自分の前に地面があるのかすらわからない。身動きできない。全ての物が信じられず、自分に恐怖と嫌悪を抱いた。
 その様子に一番最初に気づいたのは清音で、彼女はいつも通り「なぁにしてんのよ? 早く行こ、ほら。あたし結構うまいんだから、聞くだけ聞いてみなさい」と彼女の手を引っ張った。
 思いっきり振り払った
 清音はひっぱたかれたような顔をして華の顔を見て、そんな表情一つにすら華は嫌悪感を抱き、親友にそんな感情を抱いてしまう自分に嫌悪した。最低だった。
 自分でも何を言っていたかわからないが、熱に浮かされたように言い訳の様な事を口走ると、そこから走って逃げ出した。清音が呼び止める声が聞こえたが、ごめんと心の内で叫ぶしかなかった。
 そのままどこへ向かったかはわからない。あちこちうろついて、どこかに頭を預けては泣いていた思い出が途切れ途切れにある。気づいたときにはぼんやりとファミレスの窓際の席に座っていた。なんで一人で座ってるんだろうと思ったら、自分の前にココアがコトリと音を立てて置かれた。ぼんやりと置いた手をたどると、黒瀬が無表情に自分を見下ろしていた。
「ふぇ……」
 その瞬間、何がなんだかわからない内にまた泣き出してしまった。黒瀬は「うっ」となにかにつまったような顔をして立ち尽くしていたが、しばらくすると向かいの席に座って慰めの言葉もかけずに黙ってこちらを見ていた。何か言われたとしても、華にも答えるような余裕はなかったから、むしろ助かったけれど。
 何度か涙の波が来て、止まったと思ったらまた泣き出してしまい、それがようやく収まって深呼吸しているとまた悲しくなって泣き出す、というのを繰り返した。黒瀬は華が泣き止むたびに「あ」とか「落ち着いたか」と切り出していたが、毎度毎度再び泣き出されてしまい、言葉を切った。無表情だが、困りきっているのが良くわかった。
 ようやく話ができるようになったのは最初に黒瀬を見てから二時間もたってからだった。「ごめんなさい」と謝ると、黒瀬はぼけっとした後、慌てたように「大丈夫か」「慌てなくていいから」「何か食べろ」といたわりの言葉らしきものを並べた。らしきもの、というのはそれを言う黒瀬が無表情で、それでいて内容がいまいち慰めになっていなかったらだ。黒瀬自身、そういう自分に苛立っているようだった。
 黒瀬は必死だったのだと思う。ずっと。
 十分もするとついに黒瀬は眉尻を下げて、ちょっとうつむいたりし始めていた。それでも言葉をかけるのはやめなかった。
 少しずつ悲しい気持ちが薄らぎ、じんわりと身体が暖かくなって、なんだかうれしくなり、最後にはおかしくなって笑ってしまった。黒瀬があんまりにも困っているから。そんな姿は初めてだった。華の中の黒瀬は、いつも冷静沈着で難しいことを考えていて、かなう所なんて一つもない、完全無欠なイメージがあった。それがこんなにも眉尻を下げているなんておかしくてたまらなかった。なんとなく、可愛いとまで思ってしまった。
 黒瀬はむっとしたようだった。が、しかし笑ったことで嬉しそうでもあった。ほっとしたような顔をして、胸元からタバコを取り出すと火をつけずに口に咥えた(どうやら口に何か咥えると落ち着くらしい)。
 そしてぼんやりと外をながめながら「同じ歳の女が泣くのは初めて見た」と呟いた。
 あ――やっぱりそうだったんだ。と思った。黒瀬はやっぱり必死で、自分は黒瀬を必死させていたのだ。
 自然と記憶が口をついて出た。小学生の頃、カラオケに連れ込まれてレイプまがいの事をされたと、至極シンプルに伝えることができた。
 黒瀬はしばらく黙っていたが、そうか、と小さく呟いて、そのまま黙り込んだ。華は伝えることができただけでも良かったので、それで満足した。黒瀬は嫌がることなく受け入れてくれた。それで満足だった。
「ごめんなさい、変な事言って……困らせちゃいましたね」
 華がそう言うと、黒瀬は最初ぽかんとした顔をしていたが、次第にむっとした顔になり、憮然として言った。
「困ってねぇよ」
 頑固親父が呟いたようだった。だからこそ、その声色には本気の色があった。華は一瞬だけ周りの音が聞こえないくらい、言葉につまった。だけどすぐに思い直し「ありがとうございます」と言った。だが黒瀬はその言葉に重ねるように
「お前が助けてって、言ったわけじゃないだろ」
 と呟いて返した。
 華は笑って返した。なんとなく、本当に一瞬だけだったが、「この人はすっごくおもしろい人なのかもしれない」と思ってしまっていた。
 そう黒瀬はいつも冷静沈着で難しいことを考えていて、かなう所なんて一つもない、完全無欠なスーパーマンなのだ。どこかそう思い込んでいたけれど、もしかしたら……







 学校近くのカラオケボックスの一室に、チーム・ゼロのメンバーと結衣、弥七郎の姿はあった。
「なんでぇ!? いいじゃん一曲くらい!」
 イジメ被害者との対話でフラストレーションがたまりに溜まっていたらしい清音が、思いっきり頬を膨らませて黒瀬に講義している。その横で黒髪を小さなポニーテールにして中学の制服を着た少女が一緒になって
「先生の言うとーりですっ、先生の歌が聞きたいです!」
 途端、九頭、勘八、砂也の三人がピクリと反応し
「バカ野郎! 死にたいのか!?」
「結衣、向こう見ずはやめなさい」
「結婚できなくなる呪いにかかるよ」
「喧嘩なら買うわよ!!」
 清音がテーブルを拳でぶったたいて怒鳴った。ポニーテールの彼女――結衣がおかしそうにクスクスと笑う。
 黒瀬は小さくため息をつきながら
「とにかくダメだ。カラオケなんてやってる暇はない」
「何で? イジメられてた女の話を聞く暇は一日で死ぬ細胞の量くらいあるじゃない」
「いつ襲われるかわからない」
「一週間経ったけど? いつ襲われるわけ?」
「わからないから勘八の家にまで泊まって――」
「あー黒瀬、黒瀬……ちょっと」
 言葉を連ねようとした黒瀬の肩を砂也が引っ張った。黒瀬は外に引っ張り出され、清音たちはその隙に歌う事を決めたのか中で歓声を上げた。黒瀬はそれを振り返りながら
「おい、危ないのはわかってるだろ。なんでよけいな事言ったんだ」
「違う違うそうじゃないって」
 砂也は視線だけを後ろに向けた。それだけで黒瀬は言葉を飲み込み、頷いて返した。
「ついてるのか」
「男二人。二十台。茶髪ロン毛と黒髪もっさりー。校門から出たところで後ろについて、それからずっと。皆に言っても良いけどあいつら気づかないフリするの下手糞だから」
 黒瀬は頷いて返し、
「よし、いいだろう、カラオケだ。様子を見るぞ」
「ねぇ、せっかくだからさ、ファミレスにしない? 清音のカラオケは拷問――」
 黒瀬は砂也の胸元に人差し指を立てて、無表情に言った。
「カラオケだ」



「もうそろそろいいんじゃない?」
 砂也が冗談めかしてそう言ったのは、なかなか歌おうとしない日和に清音が無理やり「森のクマさん」を歌わせている途中だった。
「も、もういいでしょう!」
 と感極まったように叫ぶ日和とそれをやりたい放題にいじくるメンバー(「まだまだ二番の真ん中まで!」「もう、だって――もうやだ、もう歌わない」「えー約束違反約束違反!」「じゃあ今日は日和のおごりだって事だな。よかったな華」「あはは……日和ちゃん、歌ってるとき可愛いね」「――っ! もう無理です! ダメだ! 絶対やだ!!」「まだ真ん中まで行ってなーい! じゃぁ一緒に歌う?」「うわっ、バカ野郎それはダメだ!」「うるさい黙れ!!」「やだ! 嫌だ! うたわなぁい!」)を、砂也が眺めていた。
「もう少し待て。連中は斥候で、手を出すのを待ってるかもしれない」
 黒瀬は烏龍茶片手に、両腕を振り回して暴れる日和を眺めながら呟く。
「どうかなぁ、今回のはそんなに学があるやつに見えないけど」
 黒瀬は真顔を彼に向け、
「だからだ」
 砂也は一瞬変な顔をしていたが、
「あぁ……バカだから突っ込まされてるのか。使い捨てってやつ?」
「俺達と揉め事を起こさせて、警察に補導せる。自殺事件の影響で拘留は長く続くだろう。それで文化祭までの日数を浪費させる」
「あぁ、そういえばレイプが起きるのって文化祭の間なんだっけ?」
 黒瀬は何かに思いをはせる様な視線を曖昧な場所に向け
「――文化祭初日、昼頃だ。開始と終了時間はきっちり十二時から二時」
「それじゃますます文化祭までに何とかしねーと……あ、それで文化祭まで俺達のジャマする気なのか。やり方がむっかつくなぁ」
「事を起こすのがあいつらの目的だとしたらな。それに自殺の誘発がどうかかわってくるのかがわからないが……」
「ていうかさ、自殺もそうだけど、今のこれだってさ、なんか遠まわしなやり方じゃん」
「勝利を得るのは確かに危険を冒した者だけだが、生き残るのは臆病者だからな」
「ふーん……よくわかんねぇー」
「良い奴は皆死んで、能無しばかりが生き残るって事だ――来たな」
 カラオケの音に紛れて着信音がした。黒瀬がポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、数秒操作すると
「よし、動くぞ」
「もういいの?」
「新聞部に頼んで周辺を確認してもらった。怪しい車も無いし、不審な集団も確認できなかったそうだ」
「あー新聞部ね、第二黒瀬部隊……」
 砂也がぼやいた。黒瀬と成華高校の新聞部には太い繋がりがあり、昔から事ある毎に黒瀬は手を借りていた。チームの人間を通したくなかったり特別な理由がある時の情報収集に利用するのだ。もちろんギブアンドテイクらしいが……。その事を知っている人間は新聞部を『第二黒瀬部隊』、黒瀬を『新聞部特派員』と揶揄している。
「あいつら来てんの?」
「いや、もう引き上げた」
「なぁーんかなぁ……そういうのと付き合ってるのってどうなの?」
「どちらも対等だと思っている内は大丈夫だ……よし、いいか。俺が二人を引き付ける。お前は連中から情報を入手しろ」
「お? 準備は良いけど、どうやって?」
 黒瀬は日和をいじるのに夢中になっている清音の肩をわし掴んだ。むっとして振り返った彼女の手から、デジカメを奪い取る。途端、彼女の顔がニンマリとして
「何? やっぱ黒瀬も撮りたいの?」
「な――」
 絶句する日和。華は口にしていたココアを吹きそうになった。
 黒瀬は手を振ってそれらを黙殺すると、デジカメを砂也に渡した。砂也は「おー準備良いねー」と満足そうに笑うと、まかせとけと親指を立てた。黒瀬はフリードリンクを注ぎに行く風を装って外に出て行く。何か騒ぎを起こす気らしい。砂也はその時を楽しみにしながら、顔を真っ赤にして「森のクマさん」三番を歌う日和をとりあえず撮った。






 かつてカラオケ大会が開かれた時、自らの意思で不参加だったメンバーがもう一人いた。
 由乃日和である。
 彼女はとにかく自分がスパイであることに負い目を感じていたし、それに義務感のようなものも抱いていた。「自分は隊を律することはあれど、一緒になって歌い騒ぐなんてありえない」――と、自分で溝を掘って、「あなたたちとは違う」と突っぱねていた。
 砂也や九頭はそういう態度をとる人間をあっさりとスルーしてしまう性格である。というより、集団の輪を乱す人間を排斥しようとするのではなく「居ない事にしてしまう」のは最近の子供社会の鉄則である。砂也や九頭に限ったことではない。
 つまるところ日和はクラスでも浮いていた。友達らしい友達はいない。孤高の人、と思われていた。
 それでも良かった。彼女にとっての一番は姉の役に立つことだった。両親が離婚し、母方に引き取られた日和の生活は嘘だらけだった。姉への忠誠心と言う愛情はその時の彼女にとって唯一嘘のない感情だった。
 日和の母親は元々男の子と女の子の二人の子を望んでいたが、小春と日和という女の双子を産んでしまう。母親は小春をより女の子らしく、日和を男の子のように育てようとした。それも酷い上昇志向の持ち主で、彼女達二人を苛烈な教育漬けにした。もともと折り合いのよくなかった夫――つまり小春と日和の二人の父親は、その事に苦言を呈し、母親はそれに猛烈に反発した。結局二人は教育方針以外にも違う所が多々あり、離婚してしまう。どういった経緯をたどったかはわからないが、小春は父親に、日和は母親に引き取られた。
 その後の小春の生活を日和は知らないが、おそらくはだいぶマシになったのだろうと思っている。日和のほうはだいぶ悪化した。母親は元来の歪んだ教育方針をより強めて行き、さらにエリートの男の子として育て上げようとした。一人称は「ボク」で、有名私立中学を卒業する頃には二ヶ国語をマスターしていた。それも母親の教育により、日和はそれらを「自分から望んだこと」だと倒錯した記憶を植えつけられていた。もちろん本心は違う。自分は女であり、言葉なんて日本語が話せればそれで良い。だが口は嘘をつく。ボクは、勉強するのが好きです。
 一方父親はわかれた後も日和の事を心配していた。養育費に加え、プレゼントや小遣いなどを母親経由で渡していたが、それは母親にストップされ、日和の手に渡ることは無かった。プレゼントは女の子らしいもので、小遣いには「自分が本当に欲しいものを買いなさい」とのメモ付だった。
 そんな日和が父親と再会したのは高校受験の真っ只中だった。その頃日和は完全にノイローゼ気味で、だが傍目にはしっかりした子を完全に演じきっていた。進学先はやはり帝都内の有名校。母親の指図で精神科にかかり、強引に心身不一致を診断されていた。つまり心は男だが身体は女という診断だ。嘘も突き通せば医者だって騙せるのだ。
 ――ある日日和は公園のブランコに座ってぼんやりしていた。その日は「心身不一致」の診断が下された日だった。心のどこかで、「医者はきっぱりと否定してくれるんじゃないか」と思っていた。あきらめつつも、なんだか腑抜けたようになってしまっていた。
 そこを父親が偶然通りかかる。彼は日和の目つきから「完全にまいっている」と感じ取った。当初彼はそれが自分の娘だとは思っていなかったが、近づくとすぐにそれと気づいた。彼の腹の底に元妻に対する怒りが渦巻いたが、それよりも日和のことが心配だった。
 彼は日和に色々と助言を与えた。そこそこの社会的ポストを持っていたので間接的に力も貸した。当たり前の生活を送れるよう、彼女らしく生きられるよう――高校も普通科の高校を用意した。そこそこの進学校で、バカも天才も集まるような学校。ごく一般的で、たまに逸脱した人間がちらほら。外国人を多く取り入れ、個性を尊重して差別意識が薄い。白羽の矢が立ったのは成華高等学校である。
 日和は最初、父親を「自分を捨てた男」だとしか思っていなかったので、大分誤解を呼んだ。しかしそこは小春がフォローした。双子の絆のなせる業か、二人は数年ぶりの再会にもかかわらず、互いを信頼しあっていた。父親はそれを笠に着て、普通の生活ができるようサポートをしていった。
 今では彼女は父親の用意したマンションに一人暮らしである。時々小春が泊まりに来て、家族らしい生活をしている。母親は父親を様々な方法で罵倒し、日和を奪取しようとしているが、その辺りは父親が何とかしている――もちろん、それだって日和は知らないが。
 つまる所、日和にとって唯一の家族は小春しかいないのだ。だからこそ、彼女への忠誠は絶対唯一だ。それを裏切ってしまったら最後、彼女の後ろに立ってくれる人は誰もいない。

 チーム結成後初のカラオケに来なかったことで、黒瀬は日和に思うところがあったらしい。もちろん出生の詳細などしらないだろうが、何かを感じ取ってはいたようだ。彼は何度か日和に気遣うような言葉をかけ、チームの一員らしく振舞えるよう手助けをしようとした。奇しくも黒瀬は彼女の父親と同じような態度をとっていた。
 日和は酷い言葉をぶつけてしまった
 嫌悪感があったのだ。その時になってもまだ、父親への誤解は解けておらず、その姿は黒瀬とダブった。自分と小春の仲を裂く『敵』のように感じていたのだ。
 その時は後悔もしなかった。当たり前のことをしたまでだった。たとえそれで嫌われても構わないと。
 そう、自分と黒瀬は、違う人間なのだから。






「……なかなか出ません」
 情報技術室――端的に言えばパソコン室の一端末を前にして、日和は小さく呟いた。その横に突っ立っていた黒瀬が小さく唸った。
 情報技術室は数年前に設置された新設の施設で、一応は私立である成華高校では設備はそれなりに金が掛かっている。最新型から一つ前くらいの機種が並び、OSソフトは差伸のものに更新してある。ずらりと四十台分並ぶ姿はなかなかに勇壮だ。ちなみに冷暖房が完備してあるので放課後は生徒のたまりになっていたりする。
「ハッキングを失敗してデータが歪んでるんじゃないのか」
 黒瀬がポツリと尋ねると、日和はむっと眉を吊り上げて
「セキュリティーホールは物理的に開けたんです。ありえません。絶対」
「一応確認してみろ」
「静かにしてくれませんか。集中できません」
 黒瀬は日和の背後で、彼女に見えないように視線を明後日の方向へ向けながら「そうか」と呟いた。表情は辟易としている。
 ディスプレイには人の顔の形をした3Dのワイヤーフレームが表示され、その横で膨大な量の写真がスロットのように流れている。黒瀬はそれを眺めいたが、しばらくすると手元の写真に目を移した。そこには茶髪でホストのような男と、黒髪でもっさりした頭をしたパッとしない男が映っている――砂也がカラオケ店で盗撮した二人組みだ。
 この写真から骨格をワイヤーフレームで抜き出し、さらに目や鼻といった特徴的な部分を他の写真と照合するのだ。空港や重要施設なんかで使用される「face it」システムだ。バージョンは3.2で、最新型である。無論、日和がP2Pやハッキングを駆使してくすねてきたものだ。
「今はどこの奴らと照合してるんだ?」
「七つの周辺高校を卒業生を中心に近いところから検索中です。今やっているのが最後になりますね」
「周辺校の人間じゃないのか……?」
「どうでしょう? 黒瀬さんに銃を向けたっていう警察官も気になりますけど」
 黒瀬が気がかりそうにふっと息を吐き、
「子供だけならまだしも、警察を敵に回すっていうのは骨が折れるぞ」
「もしそうだとしたら、あきらめるんですか」
 日和がちらりと視線を向ける。黒瀬は無言で返した。
「ここまで来てあきらめるなんて、意気地が無いですね」
 日和が苛立たしげに呟いた。黒瀬はやはり無言で返した。日和は冷たい視線を黒瀬に向け、ディスプレイの青白い光を返すその大きな瞳で彼を見つめると、冷然と呟いた。
「だんまりですか」
「終わったぞ」
 黒瀬は全然構わずに、顎でディスプレイを指した。日和が目を向けると、ディスプレイには「complete」 の文字が点滅している。が、しかし一致するものは無かったようだ。
「周辺校の生徒じゃないな……他に照合できそうな資料はないか?」
 日和は黒瀬にちらりと横目を向けた後、けほん、と咳払いをした。
「……色々ありますが、今のところは周辺校が有力だと思います。さすがに警視庁のデータベースには進入できませんし、それらしいのは無いですね」
「なら、無関係の人間か……」
「また手がかりが無くなりましたね」
「……」
「やっぱりあの時捕まえておくべきだったんじゃ――」
 黒瀬がぴくっと顔を上げて、「ん」と呟いた。日和がいぶかしげに「……なんです?」と顔をのぞくと
「卒業生の写真で調べたのか?」
「え? ええ。在学生のは入学時の写真で調べましたけど……」
「だとしたら入ってないんだな」
「何がです?」
「入学しても卒業しない生徒だよ」
「入学しても卒業しない……? 何ですかそれ……あ」
 日和が大きな目を見開いた。ぴっと人差し指を黒瀬に向け
「退学した生徒!」
「そうだ。入学した生徒で洗いなおせ」
 日和がうなずき、コンソールを動かした。再びソフトが起動し、今度はすぐに候補者が現れた。名前がピックアップされていく
「七人でました! 他に項目を加えて選別します」
「どうだ……」
 ぴぴ、とソフトが動き、素早く選別した。一人の男が残る。
「でました……けど、これって」
「どうした」
 日和は黙ってコンソールを操作する。一人残った男の写真が表示される。確かにあの茶髪の男と同じ――いや、少し若々しい――顔と上半身が映っていた。
「完全にこの男だな」
「そうなんですけど……」
 日和がさらにコンソールを叩くと、その上半身の写真がズームダウンしたように小さくなった。代わりにその姿が映っていた写真全体が表示される。それは入学時に桜の木を前にして撮ったクラス写真だった。そしてその桜の後ろには校舎が写り込んでいて、看板らしきものがそこに貼り付けてある。こう書いてあった。

『成華高等学校入学おめでとう』

「……うちの高校の生徒なのか」
 黒瀬が呟き、日和がためらう様にうなずいた。






 その後黒瀬がツテ――新聞部――を使って調べた所、男は間違いなくこの学校の元在校生で、二年前に退学しているという。
 名前は内藤カズ。逆算すると年齢は二十歳。二年次に留年し、その後しばらく通った後退学したらしい。当時のクラスメイトの話によると、絵を描くのが得意で、特に不良ぶったことは無かったらしいが、二学期の中期辺りから出席が滞り、三学期はほとんど来ていなかったという。最近の目撃談によると、柄の悪そうな連中と徒党を組んであちこちをふらついているらしい。
 その連中というのがくせ者で、なんでもドロップアウトした人間の掃き溜めなのだという。規模はOBも含めると数え切れない程で、実際徒党を組んで犯罪行為に手を染める者も多い。この付近で暴行や傷害といった「底の知れた犯罪」で捕まる二十歳以上の人間の大半がこのチームに所属しているという話もある。
『やり合うってなら腹を据えた方が良いだろうね』
 黒瀬に情報を提供したブン屋は電話越しにそう言った。
『失うものが無い連中だからね。横の繋がりばっかり強いのさ。それに友情とか、仁義とか、そういう「名前だけは綺麗そうなもの」を盾にして人を殴ったり金を奪ったり……まぁ社会のゴミって奴。掃除するなら一苦労すると思うよ。お勧めはしないね』
 黒瀬は礼を言って電話を切ると、チームのメンバーを招集した。






 九頭は初対面の黒瀬の事を得体の知れない奴だと思っていた。
 交渉や説得を得意とする九頭は、よく人の目を見る。じっと見るようなことはしないが、なんとなく焦点をぼかすようにしてみるのだ。そこに宿るのはその人の生き方であり、その結果である。どういう歴史を辿ってきて、今はどういう風に生きているのか、それをなんとなく掴むのだ。
 しかし黒瀬には目をあわせられなかった。常に何かを警戒しているかのように鋭い目をしているのだ。何かしら思惑のはらんだ視線がかすりでもしようものなら、後で何をされるかわからない――そんな目をされていては、伺うようなマネはできない。
 そこでそれとなく同じ時間を増やし、会話を積極的にしていくと、その剣呑さも次第に薄れてきた。だが、今度は色々な表情が見えて混乱してしまう。そう、あの無表情・無感情な目には、よく見ると様々な感情が溢れかえっているのだ。呆れている時もあれば笑っている時もある。悲しそうな時もあるし、嬉しそうな時もある。傍目には注意してみていないと全部「無表情」に見えるだろう。それくらい微妙だが、しかしはっきりとした違いがあった。
 そして何より、あの男は怒った時が一番生き生きしている。怒り狂った時の目は何かから開放されたような、本物の「ヤバさ」が溢れかえっている。こういう人間は九頭は嫌いであり苦手である。100%トラブルメーカーだからだ。
 だが黒瀬はどちらというと問題を小さく収めようとする人間で、自分から厄介ごとに頭を突っ込むようなタイプでもない。むしろトラブルメーカーなのは他の連中で、さらに言えば黒瀬は九頭をトラブルメーカー認定しているような節がある。口には出さないが、おそらくそうだ。
 つまり九頭の今までの経験上には存在しないタイプの人間なのだ。まったく、得体が知れない。
 逆に黒瀬の方は九頭をしっかり理解しているようで、上手く取り扱ってくる。九頭は自分自身をなかなかに曖昧な存在だと思っていたのだが――実際回りの人間は「九頭は本音がわからない」とよく噂しているくらいだ。
 何せ九頭はいい加減の極みのような男で、授業中に窓から逃げ出したり、一年の半分ほどを遅刻に費やしたり、平気で有りもしない話をしてウケをとったり、詐欺行為を働いて一財産儲けたり、遂には麻薬を吸ってる所を生徒会に御用にされ、それがチームに入る一因になっていたりと、プライドや規律などからは果てしなく遠いところにいるのだ。それでいて実は二期連続クラス委員長でもある。人の話を利くのが上手いし、騙すのも上手い。口が上手くて冗談が上手い。適当なことを言ってはなんとなく相手を納得させてしまう。そういった手腕が買われているのだ。さらに言えばなんだかんだで周囲からは「根は結構真面目」という評価をもらっている。実際、両親が教育熱心な家庭だったのである時機までは至極真面目な性格だったのだ。今のいい加減さはその反動ともいえる。
 しかしそんな九頭を黒瀬はあっさりと理解し、適正な距離をとってくれる。ますます意味がわからない。得体が知れない。
 そしてそんな意識がさらに180度よじれる様な事件が起きる。
 勘八とのマジ殴り勝負である。
 あの二人の間に何があったのかは知らない。知らないが、喧嘩をしている風ではなかった。あくまでも平然と、二人は殴り合いという結果に至ったようだった。
 理解の範疇外にあったものがさらに遠くにぶっ飛んでいったようだった。もはや意味がわからないというレベルではない。あの男は現代人の精神状態を逸脱した性格をしている。化け物だ。あの時、他の連中は笑い飛ばしたり気遣ったりとしていたが九頭だけはぼけっとするだけで何もできなかった。お前ら、よく普通に接しれるな。そいつは普通じゃないんだぞ。化け物なんだぞ。
 そんなこんなで九頭は黒瀬に対する態度をきめかねるようになる。いつでも曖昧な態度をとってしまう。笑えば良いのか冗談を言えば良いのか、それもわからない。しかし黒瀬は九頭のことをちゃんと理解しているようで、そんな状態にあっても適正な距離をとってくれる。九頭はそれに甘えつつ「やっぱ俺は集団行動苦手なんだよなぁ……チームなんてやめようかなぁ」などと思っていた。
 ある日日和がトラブルを起こした。いや、精確には黒瀬が起こしたのだが、結果的に話をややこしくしたのは日和だ。
 黒瀬はその日、小春に「日和をスパイとして使うのをやめろ!」と強く上申したらしい。日和がスパイじみた存在なのは九頭も薄々感づいてはいたので(だいたい名前が「小春」+「日和」=「小春日和」じゃないか)、その行為自体はまぁ、わからないでもない。義憤に駆られたか、日和に惚れてたか……どちらにせよ、私的な行動理由があったのだろう。しかし王子様が行動を起こしたからと言ってお姫様が必ず喜ぶかというと、女心は複雑なもので、そうでもない。日和は小春を責めてた黒瀬を思いっきりなじり、あまつさえ引っぱたいて逃げ出したのだ。直接その現場を見たわけではないが、それはもうすさまじい修羅場だった――と清音が話している。ちなみに最初に言い争いを見つけたのは華で、彼女が清音を呼び出し、それを偶然にも発見したメンバーがどやどやと現場に集まったのだ。
 逃げ出した日和を黒瀬は躊躇無く追いかけた。ほっとけば良いのに、と九頭は思っていたが、黒瀬はそうは思わなかったらしい。清音も直情的に追いかけ、華は清音につられて、砂也は面白がって、勘八は「しょうがない連中だな」と、九頭は一人残るのもなんなのでついていった。
 一番最後に追いかけたので、彼らがどこに行ったのかわからず、さんざんっぱら九頭は迷ってしまった。「何でこんな事をしてるのだろう」という疑念が頭に浮かぶと止まらなくなり「何で泣くんだよ、叩くんだよ」「意味わかんねぇ逃げ出すなんて」「やっぱりあいつらにはついて行けねぇよ」と不満がたらたらとなった。
 そして遅れること三十分、ようやく九頭は彼らに追いついた。疲れきって廊下にへたり込もうとしたら、廊下の奥――図書室の前で固まっている連中を見つけたのだ。九頭はでかいため息をつきながら固まっている清音達に近づいていった。「何やってんだお前ら」と辟易とした声で言おうとした。
 だが言葉にできなかった。なんとなく言葉を詰まらせ、黙り込んでしまった。
 清音達は図書室前からもう少し離れた、廊下の中腹ぐらいにいた。彼らは見ていたのだ。黒瀬が扉をはさんで、図書室に立てこもった日和を説得するのを。
 その後姿は見慣れた後姿だった。当たり前の高校生の背中がそこにあり、彼はただただ、扉の向こう側にいる日和に言葉を投げかけているだけだった。彼の意識は全て日和に注がれていて、自分が後ろか見つめられているなど少しも気づいていないようだった。
 その背中を見ていると、九頭は自然と思った
 あぁ、こいつ必死だったんだな
 黒瀬はいつも平気そうな顔をして面倒ごとをさっさと片付けていた。どこかスーパーマンなイメージがあった。九頭にもいつも適正な距離をとっていたし、他の連中にも信頼されていた。九頭はそれを化け物と呼んだし、他の連中もどういう名前をつけていたのかはわからないが、似たような感覚を抱いていたはずだ。
 黒瀬の必死な背中はどこも化け物なんかではなかった。ましてスーパーマンなどではない。黒瀬には黒瀬の限界があり、それを感じながら、それでも言葉を紡いでいた。その姿は痛々しくもあったが、九頭の中にあった黒瀬の姿にしっくりと収まった。そうなのだ。黒瀬という人間は、そういう人間だったのだ。なぜそれに、気がつかなかったのだろう。
 結局、あの日以降も九頭の中の黒瀬のイメージは何だかんだで「得体の知れない奴」である。なんとも言葉にし辛いし、完全に把握はできない。相変わらずに変な野郎である。
 だがそれは以前までの「得体の知れない奴」ではない。螺旋階段のように、一週まわって一段上ったような、そんな「得体の知れない奴」のイメージなのだ。







「……以上の情報から、今回の俺達の敵は大多数である可能性が高い。そして俺達は少数精鋭部隊であり、大多数の敵が待ち構えている状況には非常に弱い」
 東側蔵書室に集まったメンバーを前にして、黒瀬はファイル片手にそう言った。狭い蔵書室に設置された長机にメンバーが座り、一番窓際に近い席の前で黒瀬は立っている。
「簡単に言えば俺達はスナイパーみたいなものだ。一発の弾丸で確実に敵に致命傷を与え、追っ手が掛かる前に素早く逃げ出す。これが俺達のやり方であって、多人数の敵の張った罠に飛び込んだが最後、力押しで潰されるのが運命だ」
「圧倒的不利って言いたいんですか」
 日和が冷静に尋ね、黒瀬がうなずく。
「これから先、作戦を続行するにつけてこのネックはついてまわる。敵の情報は微かで、おおっぴらに行動すれば即座に力で潰されるだろう。ましてバックに警察機構がついてるとなると――」
 砂也がひょいと手を上げる。
「警察ってあれか? 黒瀬が銃向けられたってやつ。警察丸ごと俺達の敵なわけ?」
「警察機構が丸まる敵という事態は考えにくいでしょう。分割されたセクションか、個人的に協力している警官がいると考えるのが妥当ですね」
 日和が答えた。黒瀬はそれにうなずき、
「いずれにせよ、規模が知れないとはいえ『大人』が介入してきてるのが最大のネックだ。俺達は組織的な敵だけでなく、莫大な敵を相手にしてるかもしれない」
「ねぇ、さっきから聞いてると言いたい事ぼかしてるように聞こえるんだけど?」
 清音が何かを勘ぐるような口調で呟いた。他のメンバーも、同じ感覚を抱いていたらしく、黙り込んで黒瀬の言葉を待つ。黒瀬は無表情にそれを見返し、いつも通りの無感動な口調で言った。
「手を引くこともできる。辞退も受け付ける。俺達は新設の部隊で、ここまでの大規模戦は想定されていない」
 清音が「何それ?」と息巻いた。
「尻尾巻いて逃げろって言うの?」
「この状態で撤退するのは妥当な判断だ。むしろこのまま進める方が後々無策と嘲笑されるだろう」
「だから何が妥当なのよ? どこか妥当なのよ? だってここまで来て、ちょっと敵が多いから逃げましょうなんて、おかしいじゃない!」
 黒瀬は彼女の言葉にかぶせるように強い口調で
「敵は目的のためなら人殺しも平気でするような奴らで、その仲間らしき連中も後先なんて考えない追い詰められた奴等だ。俺達みたいに模擬弾なんか使わずに、何処かから盗んできた猟銃をぶっぱなすかもしれない。取り囲まれてナイフででも刺されたら、いっかんの終わりだぞ……! それにだって連中は、罪悪感も後悔も抱かない。社会のクズだからな。クズは自分がクズである事に気付かない」
 黒瀬の毒のある言葉に、日和は言葉に詰まって口をつぐんだ。黒瀬は無表情にそれを見て、僅かにためらい、しかしはっきりとした声で
「……それから敵はちょっと多いんじゃない。俺達が六人である事をかんがみれば、膨大な数の優劣がある」
 黒瀬が言い終わると、そこに沈黙が降り立った。
 メンバーの誰もが口を閉ざし、視線を何処かに向けていた。
 それぞれ腕を組んだり、うつむいたり、口元に指を置いたりして――何かに戸惑っている――――静かな数十秒が過ぎた
「断固拒否だな」
 九頭がぼそりと呟いた。黒瀬が見ると、ぐいと顔を上げ、
「俺達はスナイパーなんだろ? せめて一発、弾をぶち込むまでは俺はやる」
「例え話だ」
「でもお前がそう言ったんだ。いくらなんでも、逃げるには早すぎるんじゃねぇのか?」
 黒瀬の反論の言葉が僅かに詰まった。無表情ながら、数秒考え、そしてようやく反論の言葉を並べようと口を開くと
「――――そうね。そうよ」
 清音が呟くように言った。
「うん、そういう事よ。あたしもまだ何にもしてないし。今逃げるのはむかっ腹が立つ!」
「でも逃げ遅れたら全滅するかもしれませんよ」
 日和が冷静に言った。
「その時は華のバイクにつれてってもらえば良いじゃん」
 砂也が両手を頭の後ろに組み、ニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。華は唐突に名前を出されたことに動揺しつつも
「え? ――あの、ハイッ、それは任せてください。逃げ遅れるなんてさせません!」
「日和はどうするの? あたしはこう見えて寛大だから、参加しないって言っても別に責めないわよ」
「その代わり森のクマさんを歌ってもらおー」
 砂也が笑いながら言った。清音も笑い始め、日和は顔を赤くして俯きつつも
「わ、私は皆さんが途中で逃げないように監視します! それに私がいなかったら、この部隊はまともに動かない――わ、笑うな!」
「ははは、顔あけー」
「勘八は?」
 清音が尋ねると、勘八は腕を組んでしばらく考えていた。
「……そんな簡単に決めて良いのか?」
「簡単に決めて良いって?」
 勘八は気まずそうに息を吐き、しばらく口を閉ざした。頭をかく。僅かに視線が下を向き、
「……俺は貧乏だったから虐められていたし、親父の暴力癖で何度も死に掛けた。俺はそれに抵抗して、喧嘩なら何百回としてきた。だから黒瀬の言う事がなんとなくわかる。多勢に無勢じゃどうやっても怪我をする。無傷で勝とうなんて甘すぎる。人の闘争本能って奴を甘く見るべきじゃないな」
 僅かな間、静かな時間が流れた。
「怪我するからやめろって言うの?」
「後悔してからじゃ遅いんだ。俺はお前達が血反吐を吐いてのた打ち回る様子を見る勇気が無い」
「勘八がそうなって俺たちが見ることになるかも」
 砂也が軽口を叩くが、勘八は目もあわせずに
「そうだ。そうなるかもしれない」
「…………」
「いじめっ子達にリンチされてる時思ってたよ。一人で戦って一人で死ぬのは、思ったより怖い」
 また、静かな時間が流れた。今度の沈黙は長かった。
 黒瀬がファイルをカバンに納め始める。
「……勘八の言う通りだ。この状況では、例え勝てたとしても、無傷で帰るのは難しいだろう。戦うも勇気。だが退くも勇気だ。退くことで、また新たな展開が」
「ダメよ」
 黒瀬がファイルをしまう手を止め、顔を上げた。
 清音が僅かに俯き加減で、じっと机の一点を見ていた。黒瀬は諭すように呟く。
「清音、無理をしても必ずそれが報われるわけじゃない」
「危ないから、危険だから、今日はやめとこうって……じゃぁ誰がそいつと戦うのよ」
 黒瀬が目を細め、清音は叩きつけるように話し出す
「そんなの……皆、いつまでたっても、『今日はやめとこう』って言うに決まってるじゃない。そんなことしてる間にそいつらはやりたいように暴れまわって、全部終わって手遅れになってから、苦しんでたり、悲しんでたりする人を見ながら『しょうがない』って言うの?」
「それは綺麗事だ。怪我をしてからじゃそんなもの、何の役にも立たな――」
「綺麗事ッ!?」
 清音の拳が机に叩きつけられた
「何それ!? 何が綺麗なのよ!? 何かをしようとする時にはいつも汚れてなきゃいけないの!? じゃああんた達願い事が全部汚れるまで叶えようともしないわけ! それっていつよ!? いつ汚れるのよ! そんなのが逃げる言い訳になるのなら、全部今すぐ汚してやるッ!!」
 清音が肩を怒らせて黒瀬を睨みつける。黒瀬はそれを、無表情に受け止める。





 清音は勘八の妹にピアノを教えている。それは勘八の気まぐれで、清音の気まぐれでもあった。
 チームがいつも訓練に使っている廃工場に、なぜかはわからないがクラシックピアノがあって、初めて九頭の手によってそれが発掘された時、清音はそれを見て嫌悪感を示した。ピアノは父親に無理やり習わされた経験があったからだ。清音にとって父親という存在は「嫌悪」そのものであり、思い出すだけで脳髄を引きずり出したくなる。
 清音の母親はもういない。いや、いるが、『本当の』母親はいない。北欧系の血を引く母親は、父親と一緒にドライブ中、事故にあって死んだ。清音はその事実を翌年まで知らなかった。父親が事実を隠していたからだ。母親はデザイナーで、世界中を飛び回っていると教えられていた。だから清音は母親が近くにいないことを寂しくも誇りに思っていたし、会いたいと泣き喚くようなこともしなかった。北欧の女は我慢強いのだ。少し寒いくらいでは、泣き言を言ったりしない。母親からそう教えられていた。
 しかし翌年、彼女は母親が死んだことをあっさりと父親から教えられてしまう。なぜか。父親は再婚する気だったからである。再婚をするにつけて、さすがに娘に本当の事を話さなければ、他の女と引っ付く言い訳が立たなかったからだ。
 ショックどころではなかった。一年間の想いは全て何の意味も無く、無駄で、無価値だった。続いて父親は「今日から代わりのママが来る」とまで言い放ったのだ。
 代わりなんていないッ!
 そう叫んでも母親は帰ってこない。だから彼女は耐えた。北欧の女は我慢強いのだ。簡単に泣き言を言ったりは、しない。
 だが許せないことがあった。
 母親が死んで一年でこの男は再婚した。事故があった時、母親は死んで、なぜこの男だけ無傷で生き残った? どうして母親が死んだのに、こいつはこんなに幸せそうに笑ってられるんだ?
 助手席で死んだんじゃないのか。
 自分の隣で、自分の運転で殺したのに、一年たったら全部忘れて、笑いながら再婚するっていうのか
 以来、清音は男嫌いだ。特に権力を持っていて偉そうなのは――父親とダブるから。男だけではなく、父親に関連するものは全て嫌悪するようなった。高級外車、金持ち、上から目線の男、父親的な存在、権威のある存在、ごつごつとしたデカイ腕時計に、男の香水、そしてピアノ。
 九頭は驚くべきことに出会った瞬間から清音が昔ピアノをやっていたのを知っていたらしい。目を見て、手を見て、悟ったのだという――清音には信じられない話だが。だからピアノが廃工場で見つかった時、彼は真っ先に「清音に弾いてもらおう」と言い出した。そして清音が嫌がって無茶苦茶に彼を罵倒しているのを見て、勘八も清音がピアノを弾けるのを悟ったらしい。
 勘八の妹は音楽が好きでピアノを弾きたがったが、財政上の問題からそれはかなわなかった。そこで彼は清音に頼んだのである。「妹にピアノを教えてやってくれ」。
 冗談じゃない!
 と突っぱねようとしたが、勘八は直接妹を連れてきて頼んできたのだ。男嫌いな清音だが、年下の女の子に頭を下げられては無碍に断ることはできなかった。一人っ子だったので、歳の離れた友達に無意識にあこがれていたのだ。
 教えてみると不思議なもので、あれだけ抱いていたピアノへの嫌悪感はあっさりと首を引っ込めた。それよりも勘八の妹(名を結衣という)が教えるたびに上手くなり、彼女が喜んでいる様を見ていると、自分まですごくうれしくなってくる。もちろんそんな事口にしたりはしないが――。
 それに勘八には弟もいて、その弟も可愛い。いじめるとすぐ涙目になるが、すごく甘えん坊なのだ。弟に甘えられ、妹にピアノを教え、勘八と軽口を叩きながら夕飯を作ったりすると、なんだか自分が家族の一員になったようだった。
 そんなある日、勘八が「ちょっと一階でお客と話するから」と清音以下妹達を二階に追いやった時があった。ちょっと突っぱねるような言い方だったので、清音は内心むっとした。彼女は結衣達と頭を突っつき合わせ、ほんの悪戯心でそっと覗き見しに行った。
 勘八は誰かと話しているようだった。相手の声は男だった。口数の少ない相手だ。ぼそぼそと喋っては勘八の言葉を聞き、喋らなくなる。そしてまたぼそぼそと呟いては、勘八の言葉を聞く。
 そこでハッとした。声に聞き覚えがあったのだ。あの低い声のくせに鋭く刺さるような喋り口は、まちがいない……黒瀬莞爾だった。
 こんな所に居るのがバレたらまずい!
 何がまずいかわからないが、とにかく彼女は慌てて二階に戻ろうとした。戻ろうとしたが、しかしちょっと気になった。あんなに真剣な口調で何を話してたんだろう? それも、勘八にしか離せないような話なのか……
 そう思うとなんだか悔しくて(何が悔しいのか彼女もわからなかったが)少し部屋をのぞいてみた。黒瀬はそこで、僅かに俯き加減で、しかしあの無表情顔はいつも通りだった。話の内容は断片的でよくわからなかったが、小春や日和の名前がぽつぽつと入っていた。
 その表情は無表情だがどこか悔恨が見て取れた。実際彼自身「どうしてここまで放置したのか」「俺は甘んじていた」といった言葉を呟いていた。
 清音は父親が卑怯者だと思っていた。父親はあれだけの事をしておきながら自分のことしか考えていない、人の心をもたない悪魔のような卑怯さを持った男だと。だから男という生き物は全部、いざとなったら周りを見捨てでも自分ひとりで生き残ろうとするような、卑怯者ばかりなんだと、そう思っていた。
 ぼんやりとしていたが、黒瀬の姿に父親の面影はなかった。黒瀬は必死に何かを訴えていて、それは清音が長らく父親に求めていたものに似ていた。そのものだったかもしれない。
 後で聞いた話だと、黒瀬はその時、日和がスパイである件を話していたらしい。彼女がスパイで、それが彼女を苦しめている。だから小春に抗議しようと思っている。だが自分にも隠し事はあるし、おおっぴらに責めて良いものか? そんなような話だ。
 この件で黒瀬のことを好きになったかというとそうではない。ずっと誤解していたものがとれた。それだけだ。黒瀬は少なくとも卑怯者ではない。それがわかっただけだ。清音にとっては、それで十分だった。







「あの、私も、辞退はしません」
 黒瀬と清音の静かなにらみ合いが続いていた蔵書室で、華がおずおずと手を上げた。意外にも積極的な態度に、メンバーは僅かな驚きをもって彼女を見た。
 彼女はそれに動揺して、両手を振りながら
「だ、だって、結局黒瀬さんはやめないんですよね? だったら、その、足が必要になるじゃないですか」
 勘八が慌てて
「おいおい――待て待て、黒瀬は何だ、まさか一人でも行く気なのか?」
 視線が黒瀬に移る。黒瀬はしばらく黙っていたが、数秒過ぎると、ゆっくりとうなずいた。
「俺に責任がある。責任は果たす」
「……何だよ、無茶苦茶だぜ」
 九頭が呆れたように椅子にもたれかかった。
「皆には止めろ止めろって言っておいて、結局自分は一人でも行く気なのかよ」
「じゃぁ俺も参加ー」
 砂也があっさりと手を上げて、それを日和がとがめる。
「あの、簡単に決めるなって、今話してたばっかりじゃないですか」
「一人で戦って一人で死ぬのは怖いんだろ?」
「それよ」
 清音がぴんと指を日和に向けた。
「そうよ。黒瀬は一人にさせないわよ。少なくとも、あたしは嫌がってもついて行ってやるから」
 九頭がその勢い込んだ様に笑った。
「おー愛のある発言だな」
「はぁ? バッカじゃないの? あんたが愛なんて、耳がよじれるわ」
「んじゃぁその耳には引き千切れてもらうぜ。俺も黒瀬には愛があるから、ついていってやる」
 黒瀬が唸るように「やめろ」と言った。
「――俺は関係ない。自分の意志で決めろ」
「人から頼られると責任を感じて嫌になるのか?」
 九頭が含み笑いをしながら黒瀬に言った。黒瀬は頬をぴくりと引きつらせ
「他人のために死ぬような目にあっても良いのか」
「他人?」
 清音が黒瀬を見た。黒瀬はその目を見返し、清音は腕を組んで睨んだ。何か口にしようとして、開いていた口を、黒瀬が閉ざす。
「まぁなんでもいいが、そういうことなら俺は参加だ」
 勘八が手を上げて言った。腕を組んで周りを見渡し
「元々その気だったからな。それにお前らは目が離せん」
「あんたも都合の良い男ね……」
 清音が呟くと、勘八はなっははと笑った。
「じゃぁ全員参加って事で」
「だから待て」
「黒瀬さぁ、考え過ぎなんだよ」
 九頭が天井を見上げながらぼやくように言った。
「一人でできない事は皆でやればいいじゃねぇか……遠慮なんて、バカらしい。今更遠慮もクソもねえんだよ、さんざん引っ張り回しといて」
「そ、そうですよ黒瀬さん!」
 と華が勢い込んで
「がんばりましょう! 逃げる時には私がいますから、思いっきりやれば良いんです――危なくなったら、また後ろに乗せてあげますよ!」
 清音がぎょっとして眉を寄せ、華を見た。
「え? 『また』? あんた黒瀬と二人乗りなんてしてたの?」
 九頭が上半身をもどして華に顔を向ける。
「こないだ俺が乗せてってくれって言った時ダメって言ってたのになぁ」
「え? ぅえ? あ――あの……でも、あの時は緊急事態で仕方なくて……」
「しかたなかったんだって、残念だったねー」
 砂也がニヤニヤ笑って九頭の肩を叩き、九頭は「さわんなよ」とそれを払った。勘八が笑い出し、日和がため息をつき、再び彼らはいつも通りの喧騒を始める。
 それを前にして、黒瀬は頬を引くつかせていた。
 唸る。
 責任と感情のせめぎ合いだった。黒瀬は内心熱い男である。当然逃げの一手など大嫌いだ。そして同時に彼は戦略家・戦術家でもある。戦術的撤退が今の状況的には是だった。負けるかもしれない戦を仕掛けて勝ちを狙いに行くよりも、余力を残して勝ちを得るのが戦いの基本だ。ギリギリの状況の戦いなんて、戦略でもなんでもない。ただの愚か者だ。
 だが九頭の指摘は痛かった。
 黒瀬はいつも、チームのメンバーが傷つくのを極端に恐れていた。どこか他人行儀でもあったし、遠慮といえば、それはそうかもしれない。『傷つくならいつも自分が最初に』と思ってきたし、『そうしなければ誰も後ろについてきたりはしない』という彼なりのリーダー論がそこにあった。だがそれは結局言い訳で――そうだ、九頭の言う通りだ、自分は結局、誰かに嫌われたくないだけだ。誰かに怪我をさせて、その誰かに非難されて、嫌われるのが嫌なだけ。
 何の事はない。戦略や戦術にかまけた『逃げ』だ。本当に戦略を考えるなら、犠牲を真に受けてはいけない。本当に戦術を考えるなら、その場の状況から勝てる策をひねり出すべきだ。
 そして本当にリーダーなら、最も恐ろしい事に先頭に立って立ち向かわなくてはならない。嫌われるのが怖いなら、それに立ち向かわなくてはならない。
 それが本当の『傷つくならいつも自分が最初に』の意味だ。
「おい」
 黒瀬が呟くと、メンバーがそれぞれ笑ったり怒ったり、涙目だったり呆れていたりする顔を向けた。
 黒瀬は一度息を大きく吸い込んでから、
「……怪我しても知らないからな」
「望むところよ!」
 清音がニッと笑ってびしっと黒瀬に指を突きつけた。他の連中も乾いた笑いを浮かべながらも、黒瀬に頷いて返した。黒瀬はそれを順々に見返し、最後に『努めて』不満そうな顔をして鼻を小さく鳴らした。

 やってやる

「それで、具体的にはどうするんですか」
 日和が彼女らしく、冷静に呟いた。胸元から銀縁のメガネを取り出してかけると、傍らからラップトップのパソコンとバイオコンピューターを取り出し、机に並べる。横にいた清音が「あんたのお友達場所とるわねー」と言って、彼女から非難の目を向けられた。
 黒瀬は胸元からメモ帳を取り出すとそこに何かをメモし始め、
「砂也、この情報を流せ」
 書いた一ページを破ると、机の上を滑らせて、その紙切れを砂也に渡した。彼はさっとそれを抑えると、覗き込もうとする九頭からそれを隠しながら
「何これ?」
「欺瞞情報だ」
「肥満?」
 九頭が不可解そうに尋ねると、日和が盛大にため息をついた。九頭がいぶかしげに彼女を見て
「最近太ったの?」
 日和は一瞬で顔を真っ赤にすると
「な――太ってない!」
「あーそう――だって肥満で怒ったからさ」
「……ギマン情報です。人を欺く為の嘘の情報ですよ」
 九頭は日和の肩を叩き
「気にするなよ、大丈夫。痩せてるぜ。背は小さいけど」
「太ってない! 小さいって言うな!!」
「嘘を流すんですか? いいんですかそれって?」
 二人の喧騒を背にして尋ねる華に、黒瀬は頷いて
「例の『掃き溜めチーム』が集まりそうな所でその情報を流せ」
「あ、そっか。もう敵が誰なのかわかってたんだっけ。罠にかけるって訳ね、なんか良いじゃない」
 清音が目を輝かせ、手をワキワキさせた。その横で勘八が真面目腐った顔をして
「そんなに上手くいくか?」
「ふふん、そこは俺に任せておけって」
 砂也が見ていた紙をひらひらさせて言った。
「Nothing. Nothing. (楽勝楽勝)、俺の情報網を甘く見ちゃいけねーぜ」
「よし、砂也はすぐに動いて、他の者は廃工場に向かえ。反撃の準備をするぞ」
 了解! と一斉に返事が返ってきて、黒瀬は頷いて返した。メンバーはその息ピッタリな返事に互いに顔を見合わせて、一瞬後に笑い合った(清音や砂也が了解なんていうのは珍しいのだ)。照れ隠しのような憎まれ口をを言い合いながら、席を立って扉へ向かう。
「あ――おい」
 その背に黒瀬の声がぶつかった。彼らはそれぞれ頭に疑問符を浮かべながら振り返り、ファイルをまとめる中途半端な姿勢で固まった黒瀬を見る。彼は口をもごもごとさせた後、歯に何か挟まったように
「……その、ありがとう」
 と呟いた。
 メンバーの顔がやっぱりそれぞれ変わった。華は微笑んだし、勘八は頷いた。九頭と砂也は顔を見合わせて笑い、日和は目を丸くして頬を桃色に染めた。清音は変な顔をした後、口をもごもごさせて、
「――――っ! ぅわぁぁぁ!」
 いきなり持っていたカバンを黒瀬の顔面にぶン投げた。
 もろに受けた黒瀬は「わぶっ」と思いっきり仰け反って、ぶっ倒れる。華と日和が「はわぁっ?」「ふわ!?」と悲鳴のようなものをあげ、勘八が目をぱちくりさせ、砂也と九頭が言葉を失った後にまた顔を見合わせて大笑いした。
「なななな何してるの清音ちゃん!」
 華があわあわと動転して清音の肩を揺らし、清音は眉尻を下げながら
「なんか、むずがゆくてつい……」
「何がむずがゆいだ! 黒瀬!」
 日和が男言葉で怒鳴って黒瀬に飛びついた。彼の上半身を僅かに持ち上げ
「……のびてる」
 九頭が噴出し、砂也が久しぶりに馬鹿笑い。
「ぶははははははは! 鼻血だしてんじゃん!」
「あーははははははは!」
 清音がため息をついた。黒瀬が目を回しているのを見ると、緩く腕を組んで、口元に手を当てる『悩める貴婦人』なポーズをとりながら
「締まらない男ねー」
「お前のせいだろ」
 勘八が口元を持ち上げながら呟いた。






 窓をぶち破って全身黒尽くめの男達が飛び込んできた。
 事務机が並ぶオフィスに着地した男達は、一斉に素早く事務机の間を駆け抜け、ジャマな椅子を蹴飛ばし、デスクを飛び越し、書類が舞い散る中をサブマシンガン抱えて突撃する、口々に「動くなッ!」「武器を捨てろッ!」「地面に伏せろッ!」と怒声を上げ、それに反してデスクの影から飛び出してくる人影に容赦なくマシンガンをぶっ放す、炸裂音と閃光、人影がぶち抜かれ、『破片』が飛び散る――
 途端、ブーとブザーが鳴り、男達が立ち止まった。先頭切って飛び込んできていた黒尽くめの男がフリッツヘルメットとノーメックスマスクを片手で乱暴に剥ぎ取り、頭を振って汗を振り払うと
「遅いッ! 日和、記録はいくつだ!?」
 背後を振り返って怒鳴った。その姿は戦闘服姿の黒瀬であり、彼の視線の先では次々とヘルメットとマスクを剥ぎ取って息を荒くするチームの面々の姿があった。勘八と華は肩で息をする程度だが、清音や九頭はぜいぜいと片膝をついている。
『ヒット13、カウント7、2ブルー、5レッド』
 無線で答えるのはもちろん日和である。ヒットは標的に当たった弾丸数、カウントは沈黙させた標的数、ブルーは標的が出現してから2秒以内に倒した標的、レッドはそれ以上掛かった標的である。
「十秒でオールヒットさせるぞ、バックアップはアサルトチームが突入したら即時続いて後方警戒、アサルトチームの後ろの標的は全部ブルーに納める!」
 黒瀬が怒鳴って、再びマスクとヘルメットを被って部屋を出て行く。清音が激しく上下する形の良い胸を押さえながら
「はぁ、はぁ、ったく偉そうに……」
「お前がついてくとか言うからだぞ」
 その背を追い越して、じゃまな人型の標的の破片を蹴飛ばしながら九頭が部屋を出て行く。清音はその背に「あんたも言ったでしょバカー……」と元気なく呟き、さらにその背を勘八が追い抜く
「普段から運動してないからだな」
「うるせー体力バカー……」と清音が呟き、前かがみになる彼女の肩を華が抱いて、肩を貸しながら部屋の外へ向かう。
「大丈夫、まだまだいけるよ!」
「体力バ……意外と体力あんのねアンタ?」
「さぁ次だぁ次だー」
「なんか元気になってないアンタ……? ねぇ? 元気になってない……!?」


 あれから三日が経った。状況は僅かに上向きに変わりつつある。
 黒瀬達は僅か三日の間に集中カリキュラムを組んで、廃工場で室内戦闘技術を体得しようとしていた。実際三日目の今日に至っては彼らの腕は一世代前の警察突入部隊水準には至っていて(現代の特殊部隊はバイオデバイスやアームスーツを併用しているので比べ物にならない)、予算が下りない秘密部隊とはいえ非常に優秀な組織となっている。もともと個々の能力が秀でているのだ。情報統制は日和や清音によって高いレベルにまで上がっているし、近接戦闘は勘八が、部隊指揮は黒瀬が順当にこなしている。かといって圧倒的大多数に勝てる程かといえば当たり前ながらそれは無理である。しかし全滅するまでの何十秒かは稼げるだろうし、裏や側面を突いたりするチャンスは生み出せるだろう。
 砂也の方も順調だ。例の掃き溜めチームと繋がりのある人間にあたり、黒瀬から預かった欺瞞情報を巧妙に流す。時には自ら掃き溜めチームのうろつく場所に向かい、嘘と本当の話を交えて、その中に欺瞞情報を流した。成果は確認出来ないまでも、急速に浸透しつつあるのは感じるという。
 しかし全てが順当にいっているわけではない。順調に悪化している点もある。


「今回標的になるであろう人物が判明しました」
 訓練中、生徒会室に呼ばれて黒瀬が向かってみると、そこにいた小春は開口一番そう言った。
 「どうぞ」と小春が傍らのカバンから(カバンにはウサギのぬいぐるみがついていた。たぶんプレゼントだろう。そうとしか思えない)書類束を取り出し、その内の一枚を手渡してきた。受け取ると、写真の添付された個人データのようだった。いつぞやの向橋の報告書に似ている。
「……『柳田 柚葉』」
 目つきが柔らか。緩いウェーブのかかった茶毛。見事な愛想笑いを浮かべている女だ。
「昨日、駅前の本屋から苦情と相談が一件。この学校の生徒が万引きを働いたそうです」
「彼女が?」
「その質問には『いいえ』とも『はい』とも答えられますね。――こちらをどうぞ」
 もう一枚手渡される。同じような書類に、別の写真が添付されている。
 茶髪、少しふっくらとしており。目が小さくて黒瀬の目からは結構な目つきの悪さを感じる。不細工とはいえないが、けして美人とは言いがたい。自分をごてごてと着飾っていそうな女だ。
「『黒ノ目ユウカ』です。彼女が『最初の』万引き犯。購入していないはずの本を持って彼女が店の外で騒いでいるのを店員が見つけたそうです。その時はその場で店の奥で話をして、不問として処理したそうですが、翌日に別の生徒が『本当は盗んだのは私です』と店に来た」
「何?」
「別の生徒とは『柳田 柚葉』の事です」
 黒瀬は目を細めてファイルを眺め、しばらく思案した。
「『黒ノ目ユウカ』が無理やり『柳田 柚葉』に肩代わりをさせている」
「そういうことでしょう」
 日和が頷き
「黒ノ目ユウカは『明るくてリーダー気質がある』で通っていますが、実際は酷い癇癪持ちで、些細な事にいらだっては周囲に当り散らすんだそうです。それも一度標的にすると執念深く徹底的に苛め抜くそうで、確かに彼女の学年では一学期を追えた時点で五名の登校拒否者が出ています」
 黒瀬は不満げに目を細め、
「何だその女は――よく味方につくような友人がいるな」
「やり方は上手いですよ。私も見習うべきかもしれません。他学校の足の引っ張り合いに巻き込まれた時必要なスキルかもしれませんし」
 黒瀬が眺めていたファイルをずらし、いぶかしげな視線を小春に向けた。小春は可愛らしい顔を真顔にして「?」と尋ね返してくる。黒瀬は「……いや」と呟いて返した。
「……? 話を戻しますが、登校拒否者の内、因果関係がはっきりしているのは二名だけです。ですが向橋さんの追跡調査によると、あとの三名にも黒ノ目ユウカが間接的にいじめに参加していた節があるそうです」
 黒瀬は腕を組み、鼻の頭に人差し指を置いて擦った。小さくうなる。
「つまり、黒ノ目は例によって癇癪を起こし、万引きを柳田柚葉に肩代わりさせた?」
 小春は頷いて返した。
「それから、もう一つあります。五名の登校拒否者のイジメには、『黒ノ目 ユウカ』だけでなく、『柳田 柚葉』も参加していたそうです」
「まぁ……黒ノ目の腹心だったんだろう、そういう事はあって然りだが、自業自得というやつか」
 小春は首を振って返した。
「いいえ、然りではありません。自分もイジメに参加していたのは過去のイジメ被害者にも共通する要素です」
「本当か?」
「貴方がたが過去のイジメ被害者に接触した際の録音データを私なりに総轄した所、そういった結果が出ました」
 黒瀬は驚いて少し目を見開いて
「よく気がついたな」
「部下の至らぬところは上司が穴埋めします」
 小春はやっぱり真顔で返事を返した。黒瀬も真顔でしれっとして
「悪かった。二度目は無いようにする」
「絶対ですよ」
 小春はやっぱり真顔で、しかし異様なくらい大きな瞳に力が入っていた。黒瀬は一瞬つまり、それからゆっくりと頷いて返した。
「……二人の監視は向橋さんの委員長委員会と安全委員会が担当します。何かあればすぐに連絡を入れましょう。貴方方は捜査に専念してもらってかまいませんが、柳田柚葉が新たに被害者になるのは避けなくてはいけません」
「ああ、わかってるが……この『イジメのインフラ』を根絶する方が優先だと俺は思う。今回を逃したら来年もまた起こる――その時には俺達の部隊は予算不足で解散だ」
「もちろんです。貴方方の正式成立は私の悲願でもあります。そのためには『結果』が必要ですし、それが出せない組織は必要ありません。貴方方はより完璧な結果を出せるよう、努めてください」


 小春の元から黒瀬が廃工場に戻ると、ピアノの調べが聞こえてきた。
 黒瀬は腕時計を眺めた。時間は午後七時四十分。いつもならちょうど訓練が終わり、シャワーを浴びて順次休憩している所だろう。今日は趣向が違うらしい。
 入ってきた黒瀬に気づいた勘八が、空いている席へ彼を手招きした。勘八たちは即席の演習場を片付け、その真ん中にピアノを置いて、周りを囲むように簡易のパイプ椅子に腰掛けていた。欺瞞情報のバラまきから帰ってきたのか、砂也も混じっていた。
 もちろん、ピアノ奏者は清音である。彼女は静かなクラッシックを奏でていた。
「清音の機嫌が良くてな。二階で埃かぶってたピアノな、あれ引っ張り出して来たんだ」
 勘八が黒瀬の耳元で呟く。黒瀬は浅く、何度かうなずいて返した。かつて九頭が見つけ出して、清音が激しく拒否反応を示したピアノだ。清音はピアノに何かトラウマがあったらしいが、今こうして流れる調べは、人里はなれた湖畔の水面のように静かだった。
 緩やかな調べに、身体の疲れが同調して、ふっと無駄な力が抜けていく。全身が弛緩し、自然と呼吸が深くなった――
 そうなってみるとようやく、自分が随分とあくせくしていた事に気づかされる。
 四拍子だと思っていた思考や生活のリズムが、実は八拍子だった――といったところか。
「な、見てみろよ」
 背後にいた九頭がずい、と身を乗り出してきて、楽しそうに呟いた。
「ほら、意外な一面」
 顎で指す先を促されて見ると、日和が瞳を閉じて、静かに眠っていた。
 張り詰めていたものがなくなり、表情はすっかり柔らかくなって、どこか幼い穏やかさが漂っている。そこに突っかかってきていた面影は無く、どこまでも可愛らしい女の子だった。
「さすがお嬢様って感じ」
 傍らに座っていた砂也が、清音を見ながら感心した風に黒瀬にささやく。
「金持ちなんだよな?」
 黒瀬は僅かに思案し、
「七原の裏財閥だ。アジア大戦のPMC運用で主流を占めてる」
「へぇー……要するに金持ちなんだよな?」
「どちらかというと『ワル』だ」
「ふぅーん……まぁピアノ上手いからなんでもいいや」
 黒瀬は砂也を見て、砂也は黒瀬を見て笑った。黒瀬は真顔で嘆息しながら、緩くうなずいて返す。
 人に教えるだけあって、清音の腕は確かだった。つむがれる一音毎に、経験の裏打ちが聞き取れる。軽やかなテンポも緩やかなテンポも、重さを感じさせない。
 選曲はどうやらリラックスできるものを選んでいるようだった。砂也も九頭も勘八も、次第にまどろむように口数が減り、華は日和と頭を寄せ合って、すっかり眠ってしまった。
 普段の彼女だったら、自分が演奏中に寝かかっている人間など蹴り起こしているだろうが、黒瀬がうたた寝を始めてもそうするそぶりは無かった。彼女なりの慰労なのかもしれない。
 黒瀬が緩やかな誘惑に負けて、ようやくまぶたを下ろすと、彼女はより静かに、沈みこむような音を紡いでいく――――どこか母性の入り混じった――子守唄のように――――

 異音が混じった

 黒瀬の目がふっと開いた。
 見開く
 周囲に視線をやり、耳を済ませる。
「――清音……清音、清音」
 腰を浮かせた黒瀬の声に、清音が気がついた。黒瀬が片手を挙げ、首を振る。演奏中止。
 清音の手が止まると、同じくうたた寝を始めていたメンバーが眼を覚まし、何事かと周囲を見渡し、黒瀬に視線をやる。
 黒瀬は床に片膝をつき、じっと耳を澄ませる――かすかに、エンジン音が重なって聞こえた。乗用車なんかではなく、一度に人を十人、十五人は輸送できるような、大型車のエンジン音。
 廃工場の駐車場から聴こえる
 が、駐車場は入り口にチェーンをして封鎖していたはずだった
「――――侵入者か」
 黒瀬の呟きに、その場の空気がさっと張り詰めた。


 廃工場の駐車場に何台もマイクロバスが侵入し、乱暴にブレーキがかけられて停車した。そこから覆面をかぶった私服姿の男達がバタバタと降りて来る。次から次へと――足早に、さながら蟻の兵隊である。
 男達に混ざって、一人マスクをしていない男がマイクロバスから降りてきた。すっかり日も落ちたにもかかわらずサングラスをしていて、無精ひげが生えている――黒瀬達と追跡劇を演じたピグマリオンとも、アプロディテとも自称したあの男だった。
 彼は、あたりをふらっと見渡す。周囲の慌てた様子に、彼は興味の薄い視線を向ける。胸元からタバコを取り出すと、のんびりと口にくわえて、火をつけた。ため息のような紫煙を吐き出す。
 その彼に、傍らからあせったような声が飛んだ
「――なぁ、おい! どう思う? 中にホントに援軍なんていると思うか……?」
 育ちの良さそうな顔をした、しかし粗野で知性の感じさせないセミロングで茶髪の男だ。一見アナーキーなホストのように見える。が、割り切ったところを感じさせない、中途半端なプライドとそれを守るために身につけた底意地の悪さがにじみ出ていた。
 サングラスの男は煙を吸い込み、肺の中にそれを染み渡らせる。彼の背後では三台のマイクロバスにぎゅうぎゅうにつめられていた男達が、『装備』を片手に走り回っていた。
 茶髪セミロングの男が声を荒げる
「なぁ! おい、つ」
 げ、と続けようとして、彼はサングラスの男が放った見えない角度からの手に、胸倉を掴み上げられる、その横顔に強引に引き寄せられ
「ゴミが易々と口利いてんじゃねぇよ」
 ごみ、と呼ばれた彼――本名は内藤カズというがこの男は一度としてそう呼んだことは無く。せいぜいが「ゴミ」である――は反論の言葉をがなりたてようとしたが
「――――ッ!?」
 その首元につや消しの黒が塗りこまれたパラシュートナイフの刃が添えられていることに気がつき、口を噤む。
「だいたいうるせぇんだよお前の引っ張ってきた連中は……本当に『バカ』だな、どまん前の駐車場なんざに車止めやがって、テメェのスカスカの脳みそじゃ殺し合いなんざ鼻から無理なんだよ」
 柘植、と呼ばれかけていたそのサングラスの男の言葉端からは、苛立ちがにじみ出ていた。内藤は言葉に詰まりながらも、必死に体面を保って
「い、いきなり高等公安から援軍が派遣されたってんだぞ!? 質の良い連中より数集めないといけねぇだろ……!」
「何が高等公安だ」と、柘植はタバコをくわえ、煙をゆっくりと吸い込んだ。見下げたように周りを駆け回る男達を眺める。
「連中が出張ったってだけでバタバタバタバタ慌てやがって……」
「『だけ』って……わかってないのか!? 高等公安の事は生徒公安の総本山だぞ!」
「んなぁこたぁ知ってんだよクズ野郎」と、柘植は紫煙を吐き出す。
 高等公安とは『高等学校連合・公安委員会』の事だ。
 全国の高校生徒会が校内の秩序を保つ為に設置した保安・公安部隊――高等公安はその統合を図るために設置され、全国の部隊の指揮統括や、ROE(交戦規定)の基準の設定、部隊の配置に乏しい高校への部隊配備などを執り行っている。
 つまり善玉の大ボスである。彼らが腰を上げたとなれば、内藤達のような掃き溜めチームがどれだけ束になろうと、一日も掛からずに壊滅させられるのがオチである。
「そんな情報、よく信じる気になるな」
 柘植は吐き出すように呟く。
「そんな情報って、何がだよ?」
「高等公安が俺達のしている事を知って、わざわざ大部隊動かしたって情報だゴミクズ。 たかが辺境の私立高校のために連中が動くかよ……そもそも成華高校は高等公安と正式な繋がりもねぇんだ」
 柘植達は『高等公安の大部隊がこの廃工場を暫定基地にして、付近の掃き溜めチームを一掃しようとしている』という情報を聞いて、こうして奇襲に現れたのだ。強力な大部隊と対抗するには迅速な奇襲しか方法はない。相手が体勢を整える前に襲い掛かるのだ。
「で、でもよ、もし動いてたらどうすんだよ? 先に潰さないと俺達なんてあっという間に潰されちまうぞ……!?」
「てめぇらの事なんて知るか」
「お前――ふ、ふざけるな!? 俺達がいなくなったら、お前も終わりなんだぞ!?」
「お前だぁ?」と柘植の暴力的な視線が内藤に飛んだ。
「俺とお前が対等かなんかと勘違いしてんじゃねぇだろうな? テメェらなんざと一緒にするんじゃねぇよクズ野郎、あぁ? 俺はテメェらと協力してるわけじゃねぇんだ、テメェらゴミクズ共を『使ってやって』んだよ!」
「――なんだとテメェ、俺達は身体張ってんだぞ!? 調子に乗るなよ! 俺のダチに頭下げろ!」
 柘植はぐいと内藤の胸倉を掴んで引き寄せ
「その分良い思いさせてんだろ……ダチだのなんだの、くせぇゴミがバカの一つ覚えみたいに友情だの愛情だの口にするんじゃねぇよ」
 柘植はしばらく彼をにらみつけていたが、「つきあってられない」とばかりに視線を逸らし、彼を突き飛ばした。
「無能は権利ばかり主張するってな……テメェはゴミクズの鏡だ――おい、お前」
 激昂しかけた内藤を圧して制するように、彼は手近の男に声をかけた。男が返事をして立ち止まると
「二、三人つれて裏口押さえろ。それと周辺に見張りだ。2バディ、内外の両方監視」
「おい! 指揮は俺を通せよ!」
 内藤が巻き舌で怒声を上げると、柘植は「はいはい好きにしろよ」と手を軽く上げた。廃工場へ向かっていく。
 その背に舌打ちをしながら、内藤が立ち上がる。



 廃工場の門が左右に開き始めた。
 大型の搬入資材や業務車両を受け入れるための巨大な口が、ゆっくりと押し開かれていく。完全に開ききる前に、青白い月明かりを背したいくつもの人影が騒々しい足音と共に、左右に展開しながら廃工場の中に進入して来た。その手にはそれぞれ、改造ガスガンやボウガン、果てはバットや鉄バット、スタンガンまで、様々な凶器が握り締められていて――――つまるところ、それは『敵』を倒すための『武器』である。
 しかしそれが向けられるはずの標的の姿はそこにはなく、あるのはただ沈黙した暗闇だけだった。
「おい、いねぇぞ」
 柘植が後ろからあざ笑うかのように呟いた。
「欺瞞情報なんざつかまされやがって……なにが情報だ、どうせ噂話かなんかだろ」
「うるさい! 黙れ!!」
 先頭に立って中に入っていた内藤は、立ち止まり、焦って辺りを見渡す。が、暗闇に慣れない目は、人影どころか近くにあるものすら映さない。
「(くそっくそっくそっ……!)」
 彼には戦闘の知識など無い。もちろん不正規襲撃の手はずなど知るはずも無い。ただこの『計画』初期の段階から加担していたというだけでこれだけの大所帯を任されているに過ぎない。
 『闇夜に乗じて襲撃する』『強襲の際には静音性に留意する』『突入前に標的の所在をできうる限り把握する』『突入方法に工夫を凝らす』といった『口で説明されるまでも無い当たり前の基本事項』は頭に入っていない。
「(くそっくそっ、くそくそっ……! なんだ!? クソッ)」
 周りが見えない
 標的はどこに
 ここは『敵地』だぞ?
 なにやってる!?
 急げ!
 急げ!
 急げよ!!
 早く敵を
 このままじゃこのままじゃ
 ……敵はどうやって襲ってくる
 銃撃か
 殴りかかってくるのか
 まさか、ナイフで首を――?
 くそっ
 くそっ!
 くそっくそっ!
 クソッ!!
「ぅう……ぅぅ――!」
 額に浮かぶ汗、握った改造ガスガンは汗でぬめっていて、息が荒くなり、心臓が早鐘を打ち始める、口の中が乾く、唾液を飲み込む、嚥下が鈍い――
 周囲を走り回っていた男達も怖気づいているようだった。気配が伝わってくる。動揺し、視線をめぐらし、しかし、その目には何も映らない。そもそもこの廃工場はなぜ、これほど光が遮られて


 ――――――ぺし


 その音がしたのはちょうど、内藤の正面だった
 肺が痙攣したように息を吐き出し、のどから「ふひっ」と声が漏れる、が、唯一握った武器はしっかりと反応し、その切っ先を――改造ガスガンの銃口を音へと向ける

――――ぺし

「(なんだ――)」
 内藤の視界に、光が混じった
 それは「ぺし」という音と共に一瞬だけ視界に現れ、そしてすぐに消える――
 再びそれが現れた時、内藤はその正体に気づく
「(……ボール、か?)」
 それはうっすらと光る黄緑色の球体だった。ふっと空中に現れると地面に向かい、「ぺし」という音と共に跳ね上がり、またふっと消える
 はっとした
 違う
 人だ
『誰か』が光るボールを地面にバウンドさせている
「う、うご、動くなぁッ!」
 銃の安全装置を外し、内藤は叫んだ。腹の底から、しかし恐怖に押し出されて僅かに震えた声。
 闇に慣れ始めた目が、ようやくその人影を捉えた。
「(なんなんだよコイツは……!?)」
 異様な男だった。
 濃紺の戦闘服に身を包み、ボディーアーマー、ベスト、それにブーツ、ヘルメットまでかぶって、さらに顔はマスクで隠し、ミラーシェイドのゴーグルが目元も完全に覆い尽くす――無機質で人間らしさのかけらも無い、ただ「戦う事」にだけ特化したような――
 暗闇の中、薄明かりを漏らすボールを、無言でリバウンドさせ続ける。その男の姿は、言い知れぬ恐怖感を内藤の腹にねじ込んだ
「(何だコイツ――)」
 全身の毛が総毛立つ
「(……なんだこいつ!)」
 また、ボールが地面へと放たれた
「(なんなんだよコイツはッ!?)」
 

ぺし


「…………」
 内藤の背後でそれを見ていた柘植は、その『ボール』がなぜ『発光なんかしているのか』を冷えた頭で考えていた。その間、その目はボールから離れず、身動きもせず、尋常ならざるほどの集中力をもってしてそれをつぶさに観察し

 しまった

「見るんじゃねぇッ!!」
 怒声を上げる、
 だが遅すぎた警告だった
 次の瞬間、廃工場は百万カンデラの閃光と175デシベルを超える猛烈な爆音に包まれた



『よぉし行くぞぉッ!!』
 フラッシュバングレネードが炸裂すると同時に、勘八は怒声一閃、中二階の通路から身を乗り出した。眼下で呆然としている武器を持った男達――フラッシュバンの影響で完全に自失呆然としているのだ――に向けてMP5を構え、容赦なく引き金を引く。
 破裂音と黄金色の閃光が銃口から炸裂し、弾丸が次々とはじき出される、整然と弾は男達に向けて弾き出され、その生身の身体に食い込む、食い込む、食い込む――――骨を打ち、腹にめり込み、胸骨の間をすり抜け、内臓を叩き、咽喉を潰し、顔面を弾き、鼻をへし折って、血を撒き散らす――
 絹を劈くような悲鳴が上がった
 慌てふためく男達へ向けて、勘八は次々と弾を叩き込んでいく。その横には砂也、清音、華、九頭が一列に並んでいて、同じく身を乗り出して銃撃をくわえている。顔面のゴーグルに銃撃の閃光が鮮やかに反射する
『ホントに大丈夫なのかよコレ! 殺しちまわねぇだろうな!?』
 九頭の怒声を、その喉元に巻きつけられたLASHマイクが拾う、清音が銃撃を加えながら
『理論上はね』
『黒瀬が戻って来る!』
 口調は男っぽかったが、その声色は女である――清音の横で戦況確認をしていた日和が、右斜め前方に指を伸ばした
 そこには中二階へ上ろうとする黒瀬の姿がある――彼は敵のど真ん前でフラッシュバングレネードを(薄黄緑色のあのボールだ)を炸裂させていたのだ――暗闇の中で光を放ち、敵の注目を呼び、その眼前で炸裂させる、というトリッキーな欺瞞行為を成功させ、素早く退却しようとしていた彼だったが
『あっ』
 と、華が声を上げた
 早くも意識を取り戻した男が黒瀬に飛び掛かったのだ、彼は腰をつかまれ、さらにそれに気づいた敵数名がバットや鉄パイプを振りかぶって襲い掛かろうとする
『援護射撃ッ、一時の方向五秒間!』
 勘八の素早い指示の下、一斉に清音達が銃撃の向きを変える、見事に弾は黒瀬に迫っていた敵をなぎ払う
 その隙に彼は腰を掴んでいた男に膝うちを叩き込んで引き剥がすと、階段を再び駆け上り始めた
「うわっ!?」
 今度は九頭が悲鳴を上げる、彼は首をすくめ、マイクに手をかけ
『撃ってきやがった!』
 その叫びと同時に黒い影が九頭の側頭を掠めた、彼が振り返ると、背後の壁に深々とボウガンの矢が刺さっていた
『やっべぇ……!』
『慌てるな!』
 唖然としていた九頭の横に、黒瀬が滑り込んできた。太ももから拳銃――SIGのP226だ。もちろん非致死性――を引き抜き、身を伏せたまま銃撃を加える、炸裂音、悲鳴、怒声、逃げ惑う階下の男達――
 黒瀬はマイクのスイッチを入れ、
『伏せろ! 上下の角度差とこの距離なら当たらない!』
『ホントだと良いけど……!』
 砂也が身体を通路の床に押し付けて、黒瀬と同じ伏射の姿勢をとる、さらに銃撃を加え、
『本当よ、武器の精度が違うもの!』
 清音がそれに続き、華、九頭、勘八もさっと身を伏せてさらに一方的な銃撃を再開する



「――ちぃ!」
 上方から降り注いでくる弾丸の嵐、柘植は素早く手近な貨物コンテナの陰に飛び込んでその猛烈な勢いから身を隠す、顔を僅かに出して銃撃の源を確認し
「(ゴミがバカだったとはいえ、襲撃に気づいてから反撃に転じるのが早い)」
 に――と口元に笑みが浮かぶ
「(そうか――罠か)」
 リベンジマッチか
 上等だ
「内藤! 生きてるか!?」
 返事はない。が、僅かに頭を出して確認すると、ドラム缶の影で頭を抱えて悲鳴を上げているその姿が見えた。しかし銃撃の嵐はちょうどそこへ集中しており、少しでも身を晒そうものなら蜂の巣にされてしまうのは目に見えていた。それはその周辺に累々と連なってうめき声を上げている伏した男達を見れば一目瞭然であり
 柘植は同じくコンテナの陰で頭を抱えていた男の首を引っつかむと
「お前ッ、コイツを上から撃って来る連中にぶち込んで来い!」
 その手に拳銃を握らせ、コンテナの陰から引きずり出す、男は悲鳴を上げて戻ろうとするが、柘植はその腹を蹴飛ばし、
「さっさと行けオラ!」
 男は逃げようとしても無駄だと悟ったのだろう、「くそぉくそぉ」とかすれた悲鳴を上げながら、中二階で炸裂している閃光のに向けて引き金を引く
 途端、男に銃撃が向かい、「ぐげぇ」とカエルが押しつぶされるような声を上げて彼は崩れ落ち
 その傍らを、柘植が駆け抜けた
 男へと向いていた銃撃が慌てたように柘植に向かう――が、僅かに遅い。柘植は兆弾に後を追われながら内藤の元に滑り込むと、その胸倉を掴み
「てめオラァ! しっかりしろッ!」
「ひぅく! ひうぅ」
 内藤は声にならない悲鳴をかみ合わせた歯の根元から上げる。その首をぐらぐらと揺らし
「通信機をよこせ! ――通信機をよこせッ!」
 内藤は身をすくめながら、ポケットから携帯電話を取り落とした。レシーバー機能のある型だ。それを拾い上げ、
「おいテメェら聞こえるか! 今から俺が指揮を執る! 聴こえたか!? 連中ぶっ殺すぞ!!」



 ただ撃たれていただけだった男達の動きが変わった
「(……!? 立ち直りが早い!)」
 黒瀬は眼下の男達に激しい銃撃を加えながら、僅かに驚く。
 棒立ちだった男達が一斉に手近の遮蔽物に駆け込む、さらにその影から身を乗り出し、
 激しい銃撃が返ってきた
 黒瀬達が伏せている通路の鉄製の欄干に鉄球が――おそらくは改造ガスガンによってはじき出されたものだろう――ぶち当たり、脳に突き刺さるような金属音が当たりにばら撒かれる、華が悲鳴をあげ、九頭が怒声と共に頭を手で覆い、清音が「なめんなぁ!」と新たにフラッシュバンを敵に投げつける
 再び上がる閃光と大音響
 が、しかし反撃が止んだのは一瞬だけだった
 一瞬の後には再び鉄球が襲い掛かってきて、ボウガンの矢が風を切って耳元を通り過ぎる――明らかに先ほどとは反応が違う
「(あの男か……!)」
 猛火の中、脳裏に浮かぶ
 サングラスのあの男
 つい先ほども見かけた、フラッシュバングレネードの罠にもいち早く気がついていた、そしてあの男はサングラスをかけていて、しかも爆発の瞬間顔もそむけて耳も塞いでいて――
「(あの男が……指揮を執ってるのか!?)」
 ぎり、と奥歯を噛み締める
 腹の奥底から何かが熱い声を上げた

 奴をぶちのめせ
 のさばらせるな、叩きのめせ
 生かしておくな、逃がすな、弾をぶち込め

 今ここで、決着をつけろ――――!

『――――撤退準備!!』
 黒瀬は無線に怒鳴り込んだ。片手間に空になったマガジンを投げ捨て、胸元のベストから新たな弾倉を引っつかんで取り出し、MP5に叩き込む
『まだ行けるわよ!』
 清音の声が返ってくるが
『十分な打撃は与えた! 今はこっちが攻め込まれている、カウンターを受ける前に撤退するぞ!』
 九頭が苛立たしげに
『せっかく誘いに乗ったのによ!』
 その横で日和がデジカメをフラッシュさせて
『十分に情報も取りました! ここは撤退しましょう!』
 黒瀬が頷き
『砂也行けッ! ――各自方向、援護射撃!』
 黒瀬は弾丸をあらゆるところへぶち込み、敵をけん制しながら砂也に合図を送った
 砂也は「助かった!」と叫びながら、伏せている華達を飛び越え、通路の奥に向かう
 そこにはドラム缶で囲まれ、守られた扉がある。もう随分使われてないと思しき、赤錆だらけの扉だ。その上部には緑色のプレートがあり、『非常口』と書かれていた。
 つまり彼らの退路である
 元々敵に大打撃を与えて数名を逮捕したら即座に撤退する気だったのだ。非常口から外に出て、置いてあるバンに乗り込んで撤退する――そういうシナリオだ。
 砂也は扉に飛びつき、そのドアを押し開けようとした
「……あれ?」
 だが、扉はいつかの時のように、がちゃがちゃと音を立てるだけで開かなかった
「開かない……?」
 嘘だろと呟き、再び明けようとし、しかし開かず、蹴り飛ばし、体当たりし、
「なんだよこれ!? ――黒瀬、これ開かない!?」
 黒瀬は無線に舌打ちし、
『何……!? さっき開いてるのを――』
 確認しただろ、と?げようとして黒瀬は立ち上がった。そんな事を言っても開かないものは開かないのだ、行って確かめるしかない
 黒瀬が扉に駆けつけ、ドアノブをひねって押し開けようとする、が、開かない――いや、僅かに開くのだがすぐに閉まってしまうのだ
「(これは……!?)」
 砂也がハッとして黒瀬に顔を向け
「向こうから押し返されてる……! 扉の向こうに誰かいるんだ!」
「裏に手を回されたか!」
 黒瀬は無線マイクのスイッチを入れ
『清音ッ! 扉を爆破できるか!?』
『はぁ!? なにそれ!?』
『できるのかできないのか!?』
『――――ったく、お願いしなさいっての!』
 清音が素早く立ち上がって走りだし、それと入れ違いに黒瀬が清音のほうへ向かって駆ける。二人は見事に身体を半身にしてすれ違い、清音は扉へ、黒瀬は清音のいた位置にそれぞれ飛びつく。清音は扉に手をかけ、黒瀬はMP5をぶっ放した
『黒瀬! 弾が無い!』
 勘八が怒鳴る。彼はまさに今、最後のマガジンをMP5に叩き込んでいた。黒瀬は「勘八!」と胸元から自分も残り少なくなったマガジンを投げて渡す。
『階段を昇ってきてます!』
 日和が指を突き出した。その先には先ほど黒瀬が駆けて来た階段があり、そこに男達が殺到していた――手に手にバットや鉄パイプを持ち、雄たけびを上げて振り回している、口からよだれを撒き散らしているが、気にした様子は全く無い
「(興奮してる――ヤクか!? クソッ!)」
 黒瀬は内心毒づきながら、射撃統制を行うために声を張り上げる
「一時の方向! 階段! 一斉射げ」

 黒瀬の頭が弾かれた

 勘八はそれを横目で見て「撃たれた」と瞬間的にわかった。一瞬言葉を失い、
「――――黒瀬ッ!?」
「……大丈夫だッ!」
 弾かれた黒瀬の頭はすぐにもとの位置へ戻り、しかし彼は意識を保とうと何度か頭を振った。
「本当に大丈夫なのか!?」
「狙撃された! どこからだ……!?」
 黒瀬は視線を巡らせる、が、しかし狙撃手を発見する前に日和が叫んだ
『近寄ってきてる! 早く!』
 見ると先ほどの男達が階段を既に昇りきっていて、こちらに向かって駆けて来る、「糞ッ」と黒瀬が毒づいて銃を向けると
『黒瀬、撃った奴探せ!!』
 がばっと人影が銃口の先に立ちふさがった。それは立ち上がった九頭で、何を血迷ったのか彼は向かってくる男たちへと走って突っ込んでいく
『九頭やめろ!!』
「ぅぉぉぉぉぉおおおおおおおおお――――ッ!!」
 黒瀬の制止に構わず、九頭は先頭を走っていた男に身体ごと突っ込んだ。その背中にバットの一撃を喰らい、息を詰まらせる――が、足は止めない、止められない
「ぉどれりゃぁぁあ!!」
 勢いに任せて押し返し、ついには男達を階段際まで追い込み、突き落としてしまう。さらにその人群れに向けてMP5を向け
「おらおらおらおらおらおらぁぁぁ! どうだこの野郎ッ!!」
 引き金を引き、容赦なく弾をぶち込んだ。男達が悲鳴を上げ、叩き込まれた弾丸がボグ、ゴ、ギシ、とくぐもった音を立て、九頭はさらに弾を撒き散らそうとして

 撃たれた

 まるで横っ面を殴られたかのように九頭の顔は一瞬で横を向き、そのまま引っ張られたかのように後ろへ倒れこんだ。受身も取れずに、後頭部を通路の床に叩きつける
『九頭!』
『砂也、華! 勘八を援護!』
 勘八が叫んで九頭に走りより、黒瀬が素早く指示を出す。銃撃の応酬、猛火の中を勘八は駆け抜け、九頭の元に駆け寄り、その首えりを引っつかんで引きずってもどる
『って……』
『九頭、大丈夫か!?』
 黒瀬が無線に声を荒げ、九頭は苦痛にうめきながら
『黒瀬……ピアノ』
『何!?』
『撃ちやがった……野郎……』
 黒瀬はハッとし、眼下の空間の壁際に寄せられていたピアノに視線を向ける。
「……あそこか!」
 そこに確かに狙撃手はいた。アサルトライフル型のガスガンを片手に、ピアノの陰からしっかりとこちらに目を向けている。
 火力で押しつぶしてやる
『全員十時方向ピアノに向けて――』
『ピアノ!? ちょっと待ってよ!!』
 清音だった
 彼女は慌てて黒瀬達の元に走りより
『ダメ! 結衣にあげるって約束したんだから!』
 不幸にも
 不幸にもその瞬間、華は弾が尽き、勘八は九頭を引きずっていて、黒瀬はマガジンを交換中で、砂也は耳元を通り過ぎた鉄球に身をすくめていた、誰も彼女を守るためのけん制射撃を行えていなかった
「危ねぇッ!」
 一番最初にそれに気づいたのは九頭で、その声に黒瀬が振り返り、しかし既に彼女へ向けてボウガンの矢は放たれていて、華が「清音ちゃん!」と叫び、黒瀬が彼女を引きずり倒そうとし、しかし失敗し、清音は思わず飛んでくるボウガンの方へ顔を向け、その切っ先は確実に彼女の目を捉えていて、彼女は恐怖と驚愕に身を動かすことができず、矢はその目前にまで迫り、目を閉じることもできず
 そこへ腕が突き出された
「うがっ」
「わっ」
 清音はわけもわからないまま引きずり倒された。重い身体がその上にのしかかる。何か口にしようとした途端、その顔に生暖かい液体が降って来た。
「なに? え? なんなの!?」
『勘八!』
 黒瀬が怒声を上げ、清音の上に覆いかぶさっていた勘八――重さの正体は彼だったのだ――の肩を引っつかみ、非常口へ向けて引きずった。清音が混乱の中、彼を見ると、その背中には深々とボウガンの矢が刺さっていて、そこからは派手に出血していた。引きずられながら、その血の跡が通路に滴り落ちている。
 その紅さ
「――――勘八!」
 そこでようやく、清音は勘八が自分を助けようとして矢を受けた事に気がついた。しかしその事実は彼女を混乱のきわみに突き落としてしまう。「勘八! 勘八! ちょっと、ねぇ!? しっかりしてよ!!」と勘八に抱きつき、清音は悲鳴にも似た声を上げた。その表情は泣く寸前に崩れている。
「勘八! ねぇ! ねぇッ!!」
「清音! 清音!! ――落ち着けッ!」
 黒瀬が怒鳴り、清音を勘八から引き剥がす
「お前は非常口を爆破しろ、大丈夫だから、落ち着け……俺が何とかする!」
「でも、でも」
 黒瀬が目を剥いた
「しっかりしろッ! 勘八を見殺しにする気か!?」
 はっと、目を覚ましたように清音が息を飲んだ。唾を飲みこみ、その顔に意思と表情が戻る。慌てて立ち上がり、扉に向かっていく。
 見送った黒瀬は振り返り、
「砂也ッ、華ッ、マガジンはあといくつだ!」
通路の向こう側から攻めてくる男達に向けて弾をぶち込みながら叫び
「あと一つ!」
「これで最後です!」
 同じく閃光をばら撒いている二人が返す
「(もたないか……!)」
 黒瀬は倒れている九頭の胸元からマガジンを引き抜く――が、そこにあったのは僅か一本だけだった
「うわわ! もう弾がありません!」
 華が叫び、黒瀬は手にしていたそれを彼女に投げて渡す、彼女はそれを取り落としそうになりながら、危なっかしい手付きで何とか銃身に押し込むと、再び銃撃を開始する、が、せいぜい三十秒持てば良い方だろう
「リロードだ!」
 砂也がマガジンを捨て、ついに最後の一本を銃に押し込んだ、黒瀬とてマガジンは最早無い、残りは十発あるか無いかだ
「清音! まだか!?」
 黒瀬は背後に叫ぶ
 扉に張り付いていた清音は歯噛みしながら
「もう少しだってのに……! うわっ」
 扉が向こう側から僅かに開かれ、押し込まれる拳銃。
 ハッとする間もなく
「きゃぁッ!」
 銃弾が撃ち込まれる、
 二発、三発、四発、
 何発も何発も、
 兆弾が清音の頬を掠める、思わず身をすくめ、彼女は身動きが取れなくなった、銃口は悲鳴に反応し、扉脇で頭を抱える彼女に向けられ、
 その横をすり抜ける影
「ぬぉぉぉおおおおおおお――――――!!」
 影は雄たけび――そう、まさしく雄々しい獣の雄たけびを――上げ、扉に体当たりをぶちかました。扉はまるで鉄球でも叩き込まれたかのように鉄と鉄のぶつかる激しい音を立て、叩きつけるように締められる
「清音!!」
 影が叫ぶ
「――!」
 清音は声も無く叫んで返す、目の前にいる、血を流してもなお歯を食いしばって扉を押さえる勘八に目を見開いて、うなずく、ともすれば怖気づきそうな身体を奮い立たせる
「(負けてやるもんか……!)」
 扉のドアノブに、ペンライトのような棒を、それについたストラップで引っ掛ける。



 上方から襲い掛かってきていた猛烈な銃撃が急激に弱まると、柘植はその口元に凄惨な笑みを浮かべる
「チャンス到来だな」
 呟き、駆け出す、手近な男数名の肩を叩いて周り
「お前達はここで連中にぶっ放してろ! 他は上に上がって正面から叩き潰すぞッ!!」
 狂気の雄たけびが上がる、気違いじみたその叫びを上げる男達の目は血走り、口元からは涎が垂れ、顔面は血の気の失せたどす黒い青色に染まり、所々でうっ血が滲む――アッパー系の麻薬を使ったのだ。それは内藤が彼らを集めるために使った「えさ」だったものだが
「(ゴミの後先考えないやり口には呆れるが、今回だけは特別だ)」
 柘植は「行け行け! おらぁ、行けえ!」とけしかけながら、内心ほくそ笑む
「(命令系統がクズな連中を扱うには一度『バカ』にしちまった方がやり易いな……)」
 柘植はこういうやり方が大好きだった。扱う奴らは機械や獣のように単純で、考えるのは自分だけでいい。それが彼のやり方であり、他人との付き合い方だった。
「おらテメェら行くぞぉッ!」
 自身もまた、腰に横一文字で吊っていた、恐ろしいほど幅広のブレードを持つ軍刀を引き抜く。怒鳴り声を上げる
「しっかり殺せよッ! 息の根一つ残すなッ!」
 その口元から、笑みは消えない



「弾が切れた!」
 一番初めに弾を切らしたのは黒瀬だった。彼はすぐさま太ももに吊った拳銃を引き抜いて撃つ、が、通路をぎゅうぎゅうと迫ってくるのは三十数名の男達であり、その突進力を前にしたそれはほぼ無力に近い
『気をつけて、左側面から銃撃! 正面から近接武器を持った敵!』
 日和が視線をめぐらせ、無線に怒鳴り込み、
「あ……俺も切れた!! 拳銃も無い!」
 砂也が慌てて叫ぶ――他に方法も無く、MP5を敵の群れに投げつける、濁流のように迫りくる人群れに、それは一瞬で飲み込まれる
「清音ッ!」
 黒瀬が振り向きざまに叫ぶ、あと十秒の余裕もない、九頭が蹴り飛ばして急造したドラム缶バリケードをはさんですぐそこに、人群れは迫っている、もはや意思を宿していない目をしている男達は、撃たれても撃たれても、ゾンビのように執拗に、熊のように猛然と襲い掛かってくる、ドラム缶の列を乗り越えられたら、もはや障害物は何も無い、なだれのように襲い掛かってくる男達にもみくちゃにされ、その波が引いたとき自分達は確実に、五体満足にはいられない――――いや、殺される
 殺される
 華が必死にMP5を単発に切り替え、ピンポイントに撃つ
 最初にドラム缶に足をかけた男が顔面にそれを受けて仰け反って崩れ落ちるが、それを踏み越えてさらに二人の男がドラムに足をかける、黒瀬がその胸と腹に速射をぶち込むが、わずかにたたらを踏むだけで、さらに向かってくる、そして二人の相手をしている間に他の男達がドラム缶を乗り越えてしまい、
「――っ、弾が」
 華のMP5が沈黙した
「くっ――」
 黒瀬が苦悶の声を上げる、必死に脳を働かせ、打開策を練り上げようとし、
 鉄パイプが投げつけられた
「がッ!?」
 顔面に飛んできたそれを避けることもできず、もろに眼球で受けてしまう
「黒瀬さん!」「黒瀬!」
 華と砂也が叫ぶ、が、黒瀬は片目を押さえるだけにとどめ、空いた手で拳銃をぶっ放す数名が倒れるが、その上を後ろから来た男達が乗り越え、バットを振り回し突っ込んでくる
 止められない
「ひゃ!?」
 バットを振り下ろされたのは華だった、片腕で防ぐが、しかし全力を持って振り下ろされたバットはそんなものでは止められない、腕は振り下ろされた勢いで打ち落とされ、そのままバットが頭部に叩きつけられる。ヘルメットが派手な音を立て、華が膝をつく
「この!」
 砂也が男に組み付き、力任せに押し返す、体勢の崩れていた男はそのまま倒れるが、その横から鉄パイプを持った男がすり抜けてきて、砂也のわき腹にそれを振りぬいた
「ぐほっ」
 空気が肺からたたき出され、身体が捻じ曲がる
 しりもちをつく砂也の頭から、衝撃でヘルメットが落ちた
 鉄パイプをだらしなく持っていた男がそれを見て笑い、砂也の顔が蒼白になる
「や、やば!」
 ゆっくりと振りかぶり
「うおりゃぁぁああああああ――!!」
 派手な音と共に横っ面を九頭が殴り飛ばして吹き飛んだ
「掛かってこい! ほらぁ、来いッ!」
 九頭は撃たれた側頭を真っ赤に腫らし、血を流しながらも拳を構え、迫ってくる男達を掌底と蹴りのコンビネーションでなぎ払う
「九頭!」
 九頭は黒瀬の呼びかけにこたえる間もなく、正面から振り下ろされた鉄パイプを左腕でかすめるように受けながし、その持ち主の顎にアッパーを叩き込む、殴られた男が勢い余って通路から飛び出し、奇声と共に一階へ落ち、九頭の視界から消え
 木刀が突き出された
「ッ」
 落ちた男の背後にいたその男の一撃は、九頭の喉に突き刺さり、彼は「こぽ」と口から何かの音を発しながら崩れ落ちた
「九頭ッ!」
 黒瀬がしゃがんだ姿勢から飛び出すように立ち上がり、木刀の追撃――上から下への振り下ろしを両手で止める、その持ち主の腹に膝蹴りを叩き込むと、苦痛で前かがみになったその身体を見事にぐるりと回転させて床にたたきつけた――まさに合気の達人技のような一撃だった
 だがしかしその余韻に浸っている暇は黒瀬にはなかった
 視界の端に、自分を狙う狙撃手の姿が見えた
 一階、ピアノの陰に隠れていた狙撃手
「(しまっ――)」
 先ほど見つけていて、しかし動揺した清音と撃たれた九頭の相手をしていて倒し損ねた敵だった
 歯噛みする、なぜ先ほどしっかりと倒しておかなかったのか、こんなミスを残すなんて、後悔するが、しかしあまりに遅きに失する――――
 諦めると全てがスローモーションに見えた
 目前で鉄パイプを振りかぶる男
 その横から身を乗り出してバットを横振りする男
 ナイフを腰だめに構えた男がさらにその横から突っ込んできている
 視界の端では狙撃手が引き金を引き、
 全てが間に合わない
「伏せてぇぇぇッ!!」
 清音の声が聴こえた
 まるで暗い闇の底から一気に引きずり上げられるようだった
 突然全てがスピードを取り戻し、急激に空気の流れる音と銃撃の音が耳元で騒ぎ出し、視界の全てがズームダウンしたかのように遠ざかった――いや、違う、倒れているのだ――黒瀬は襟元に感じる強く引っ張る力と共に悟った――『自分は引きずり倒されている』――鼻先を狙撃手の弾丸がかすめ、一斉に襲い掛かってくる鉄パイプとバットとナイフが身体に触れる前に

 全てが爆発に巻き込まれた



 非常口の扉を押さえつけていた男二人――彼らは柘植に「裏口を押さえろ」と命じられた、二人だった――は、一瞬物凄い力で押し返されたと思ったら、いつの間にか宙を舞っていた
 遅れて爆発音が轟き、しかしそれが「爆発である」と認識する前に彼らは重力に引きずられて、中二階の高さから地面に叩きつけられ、内臓を穿つ激しい衝撃と共に意識を失ってしまった。
「早く! ずらがるわよ!」
 煙がもくもくと上がる吹き飛ばした扉の奥から、悪役のようなセリフを吐きながら飛び出してきたのは清音である。彼女は「早く早く!」と非常口につながっている急勾配の階段を駆け下りて行く。その後に砂也に肩を支えられた勘八と、口元を押さえて涙目になっている日和の手を引く華、最後に片目から血を出しながらも意識を失った九頭を背負った黒瀬が続いて飛び出してくる。
 彼らを追って、煙にむせる男達も飛び出してきた。が、再び爆発音が轟き、激しい衝撃の後に下り階段が中腹から崩れ落ちてしまった――清音が追って来れないよう、既に爆薬を設置していたのだ――彼らはうろうろと踊り場で動揺していたが、あきらめて建物の中に駆け戻っていった。中から回って追ってくるつもりだろう。
 日和が目を擦りながら
「小春が車で迎えをよこしたそうです――ほら、あそこ!」
 廃工場のすぐ横の道を指差した。狭い一般道に、一台のワゴン車が止まっている。車から人影が飛び出してきて、こちらに近づいてくる
「さ、こっちに早く」
 先頭を切って来たのは黒髪の優男だった。柔らかであるがメリハリのある顔つきで、場にそぐわない柔和な表情を浮かべている。モデルのように背が高い。成華高等学校の制服を着込んでいた。 彼は砂也から勘八を受けると、先導するように車に向かう。その背に砂也が声をかけた。
「お前ら誰!?」
 優男はこの状況にもかかわずのんびりと
「向橋の友達だよ。僕は聖人、彼は矢野君」
 優男――聖人が後方を顎で指し示した。砂也が振り返ると、小柄な男――目の下に色濃いクマがあり、頭髪がジャーヘッドに刈り込まれている――が、無言で黒瀬の背から九頭を担ぎ上げ、機械のような走り方でついてきていた。
 清音達も後に続く。が、ふと最後尾を走っていた清音が黒瀬がいない事に気づき、
「あれ、黒瀬は!?」
 後ろを振り返ると、黒瀬が片目を中腰になりながら片目を擦っていた。頭を振る――よく考えれば、彼は一度撃たれ、さらに顔面に鉄パイプを叩き込まれているのだ。頭への二度の衝撃は、ダメージが大きかったのかもしれない。
「黒瀬、アンタ大丈夫!?」
 清音が走りよろうとして、しかしその背を戻ってきた矢野が引っ張った。
「アンタは戻れ」
「でも――」
 誰かが息をのむ声が聴こえた
 それは車に乗り込み、追っ手も追いついてこないことでどこか安心しきっていた華が上げた、恐怖の声だった
「黒瀬さんッ!!」
 目に入った粘ついた血液を擦り取ろうとしていた黒瀬は、その『警告』を耳にした瞬間、全身を電撃に穿たれたかのようにびくりと震わせ、背中を一瞬で駆け抜けた冷たい感覚に目を見開き


「くぅぅぅぅぅぅぅぅぅろぉぉぉぉぉぉぉぉせえええええええええ――――――!!」


 振り返ると同時に身体が反応。右手で腰に吊っていた警棒を引き抜き、逆手に握ったそれを眼前に押し出す
 火花が散った
「よぉ黒瀬莞爾!! また会えてうれしいなぁッ!!」
 眼前で柘植が怒鳴り声を上げる、黒瀬は奥歯を噛み締める、二人の間にあるのは黒瀬が押し出した警棒と、それに猛然とたたきつけられた黒塗りの軍刀だけ。互いに押し出された二つの武器はギリギリと音を立て
「テメェを生かしておくと面倒だ!」
 柘植は軍刀を押し込むように振り、バックステップで間合いを一瞬で取り
「――――決闘といこうぜ、黒瀬莞爾」
 軍刀を口元に構え、笑みを押し隠し
「……」
 黒瀬は警棒を順手に構えなおし、片目から流れる血を手の甲でぬぐう
 同時に動いた



 事態を見ていた矢野はすぐさま清音を引きずって車に引き返す。抵抗する彼女を持ち前の腕力で強引に車に押し込めると
「車を出せ!」
「な――ふざけんじゃないわよ! 黒瀬を助けんのよ!」
「助けてる間に追っ手に囲まれちゃうだろうね」
 優男――伊瀬聖人と名乗った――がのんびりと言った。運転席でハンドルに顎を乗せながら
「ま、僕はどっちでも良いけど。早くしないと全滅してゲームオーバーだ」
 清音は言葉に詰まる。
 そうだ、周りを見渡してみればわかる。勘八は背中にボウガンの矢が刺さってうめいているし、九頭は意識を失い、砂也はわき腹に受けた鉄パイプの傷が痛むのか顔を青くしていて、日和はすっかり怯え、華は黒瀬が襲われていることに動揺しきって「早く! 早く助けに行かないと!」と叫んでいる――それは清音とて同じことだ。どの口で助けるなんて言えるのか。
「車を出せ……早く!」
 矢野が叫び、聖人はハンドルに顎を乗せたまま気の無い返事を返し、清音は歯噛みする。



 乱暴に振り下ろされた軍刀を黒瀬は精確に警棒で打ち返す、柘植がその勢いを利用して回転、逆からのトリッキーな一撃を黒瀬の首へ向けて放つ――が、寸での所で黒瀬は警棒を両手で構えて受け止める、柘植がさらにその反動を利用して半円を描くように逆側の首を狙おうとした、その瞬間の隙を突いて柘植の鼻先を警棒をもった手で殴りつける、
「ッとぉ――」
 柘植は仰け反り、鼻の穴から血を噴出しながらたたらを踏むが、その口元には笑みが浮かぶ
「ッだりゃあ!」
 距離をとった柘植は鋭く前へ突き出す前蹴りを放つ。伸び上がるような見事な一撃に、黒瀬は同じく、鼻っ面を打ち砕かれた
「――っぷ」
 蓄積されていたダメージもあわせて、意識を失いそうになる、が、後ろ足を踏ん張り、なんとか倒れることだけは避ける、しかし気づいたときには大降りの軍刀が上方から迫っていて
「ぐ」
 何とか警棒で受けるも、体制が崩れる。片膝をつきそうになった瞬間
「ぅらぁあ!」
 腹に鉛がぶち込まれたようだった
 柘植の膝蹴りは、がら空きのみぞおちに決まり、ふらついた黒瀬のコメカミに向けて素早く軍刀の柄が叩きつけられる
 黒瀬は声を上げる事もできず、しかし執念のようにへばり付く闘争本能に突き動かされ、地面をごろごろと転がる――――
 立ち上がる。
 霞む視界の先に、何とか距離をとった柘植の姿がぼんやりと浮かぶ。
「なぁ黒瀬莞爾」
 柘植が軍刀を手でもてあそびながら呟く
「お前はお前なりの正義感で俺を止めようとしてるみたいだが……」
 バタバタと足音に囲まれる。追っ手に追いつかれ、囲まれたのだ。
「柘植!」
 人群れの間から、茶髪の男が出てきた――しかしぼんやりとした視界の中でははっきりと顔は見えない。ホストのような軽々しさがあった。
 柘植は不快感を込めた声色で
「うるせえよゴミ――こいつの相手は俺がする、テメェは連中を追えよ」
「で、でもよ……」
 柘植がガバッとその男に振り返り
「さっさといけよこの無能がぁ!」
「……っ」
 茶髪の男がどこかに向けて駆けていくと、それに足音が続いた。
 音が遠ざかると、遠くで車が急発進する音が聞こえた。
「――なぁ、黒瀬莞爾」
 柘植が向き直る。
「そういう正義感ってのは誰か悪役を犠牲にしてできるモンなんだぜ――俺みたいなな」
 黒瀬は意識を保とうと頭を振る。しかし限界が来たようで、霞む視界は狭まり、痛みが遠ざかって夢の中を漂っているような感覚に陥る――ダメだ、ダメだ、と否定しても、意識はとどまってくれない。
「本当に正しいことをする奴は悪役扱いされるものなんだよ――お前みたいな自分勝手な正義感持った連中ってのを、俺は悪役として何人も見てきたんだ……。奴ら結局何を生み出したのかわかるか? あぁ?」
 鼻で笑う。
「何も――なんにもだ。綺麗事は結構だが、誰もそのために手を汚そうとはしない。綺麗事を成し遂げるためには綺麗な手のままではないられない……! だがッ、連中はッ、そんな事もわからないままッ、手前勝手な理想だけを口にしてッ、俺をッ 責め立てる!!」
 怒声が闇夜の静寂に響き渡り、そして沈黙の余韻を引き連れてくる。
 黒瀬は消え入りそうになる意識を荒い息と共に引き止め、歯噛みして耐える。
「……世の中の誰もが正義感なんてモンを欲しがってると思うなよ、見捨てられた連中には、俺が、必要なんだ」
 そして黒瀬は警棒を握り締める。
 肩から力を抜き、背を正し、半身の構えを取り――肌でピリピリと感じた。柘植が軍刀をゆっくりと構える。
 次で決める
 それは口裏を合わせたわけでもないが、二人が同時に決めたことだった。視線が交錯し、静かな時が流れ、風は揺らぎ、夕闇は深まり、僅かに星が瞬き、青白い月光だけがただ、いつものように地表に光を注ぎ
「ぅぉりゃぁぁぁぁあああああああああああ!!」
 柘植が軍刀を振り上げ、突っ込んでくる。
 勢いで潰す気だ――突進を真っ向から受けても体制は崩れ、次の一撃で頭を割られる、血しぶきが舞う、崩れ落ちると同時に光を失い、死ぬ
 黒瀬は動かなかった
 獣の咆哮のごとき怒声を、真っ向から受け止める、冷静に、ただ、冷静に、ともすれば失いそうになる意識を引き伸ばし、逃げ出そうとする足を地面に貼り付け、震えそうになる膝に力を押し込めて、ただ鼓動だけは、早鐘を打つ鼓動だけは止められない、押し隠そうとする怯えも弱さも、全て鼓動が物語る、お前は怖がっている、怖気づいている、逃げたいのだろう? 叫びたいのだろう? 膝を突き、頭を下げ、この殺し合いから離れたい、いつもの日常に、血も散らず、骨も折れない、いつもの日常に逃げ出したいのだろう? ほら、腕が震えだした、足の震えも止められなくなってきた、どうする? どうする? どうするどうするどうする? 
 ほら、もう目の前だ
「ッふりゃぁっぁあああああああああああああ!!」
 柘植が飛びかかり
 黒瀬は踏み込んだ
 柘植は突進の勢いと全体重を乗せた軍刀をただ一点、黒瀬の脳天に向けて振り下げる、全身の筋肉が収縮し、全てのエネルギーを軍刀の刃へ向け、その切っ先はその瞬間、骨をも切り裂く力を持っていて
 黒瀬の左手がその力をすり抜けた
 踏み込みと同時に突き出された左手は柘植の懐に飛び込み、そのまま耳元も通り過ぎて柘植の背後まで伸びる
「(死ねぇ!!)」
 その『外れてしまった掌底』で勝利を確信した柘植は目をらんらんと輝かせ、月の光を背にして、黒瀬の額に軍刀を叩きつけた
 つけたと思った
 僅か、瞬きの一瞬の出来事だった
 黒瀬が突き出した左の掌底は鞭の様にしゅるりと柘植の首に回り込み、その身体を強引に『引き寄せた』――柘植は自分の身をコントロールできない宙にいて、その引っ張る力をもろに受けてしまう、軍刀は黒瀬の額から狙いがそれ、さらに奥へ――何もない空中を穿つ、
 そして柘植の腹に警棒が差し込まれた
「げがっ――――ぁぁぁああああああああああああ!」
 深くめり込んだその切っ先
 だが、柘植はまだ意識を保つ
 らんらんと輝いた瞳は意思を持ち、軍刀をさらに深く振り下げる――そこにあるのは黒瀬の背中であり、軍刀は振り下ろす力を鉈のように存分に使って、その戦闘服を破り、ベストのベルトを破り、皮膚を裂き、肉を裂こうとして
 勝負が尽きた
 柘植の身体から『バシッ』と音がし、瞬間、彼は白目をむいて仰け反った。
 まるで電源が落ちたかのように柘植の身体から力が抜けた。軍刀は力なく黒瀬の背中に刺さるが、致命傷も負わせることなく地面に落ちる。
 がっくりと落ちた柘植の首が黒瀬の肩に乗る。
 黒瀬はその身体を引き剥がし、地面に落とす。
 死体のように転がった。
「……砂也の借りは返したぞ」
 息を荒くしながら――今更ながら、彼はずっと息を止めたいことに気づいた――黒瀬は警棒を握り締め、グリップにある小さなスイッチを押した。警棒の先端から小さく頭を出していた電極に青白い電流が『バシッ』と流れた。清音お手製のスタンロッドだ。
「つ、柘植!」
 先ほどの茶髪の男が、人群れを引き連れて戻ってきた。倒れている柘植を信じられないような目で見ると
「お前……!」
 震える手で拳銃を突き出した。さらに人群れに周りを取り囲まれる。
 さすがにこれ以上動き回る気は起きなかった。
 黒瀬は警棒を手から取り落とし、自分を取り囲む男たちの顔を順繰りに見渡した。年齢は総じて若く、だが三十台前後から十台後半までくらいのばらつきがある。皆、薬も抜けてきたのか怯えたような目をしていた。だが、数的な優位がその行動を鈍らせる事は無い。
「よし……よし、いいか、一斉に掛かるぞ」
 茶髪の男が逃げ腰でそう言った。じりじりと距離をつめる。黒瀬を包囲する円が、次第に縮まっていく。
 黒瀬はぼんやりとそれを見ていた。
 自分がこの後どうなるかは考えられなくも無かったが、それでもその瞬間は何も考えたくなかった。捕まえるなら早くしてくれ、とぼんやりとした頭で考え、遠くに聞こえるエンジン音もぼんやりしながら聞いたし、その音が急速に近づいてきて、人群れを引き裂いてワゴン車が突っ込んでくるのも、全部ぼんやりとした目で見ていた。
「乗って!」
 男達の悲鳴と怒声のど真ん中に突っ込んできたワゴン車から、日和が飛び出してきた。
 彼女は黒瀬の手を引いて車の中に強引に引き込む
 茶髪の男が何かを叫んでいる
「急いで!」
 運転席に陣取った華が、後部座席に叫ぶ。日和が手を引く力が強くなり
 背中を引っ張られた
「……く、ろせ……」
 ぶるぶると震え、片目を白目にしたままの柘植が、倒れたまま、黒瀬の背中を引っ張っていた。引きずられながらもしっかりと握り締めた手に力を込め
「く、……ろ、せ」
 その顔面にパンチが叩き込まれた。
 柘植は見事に顔を反転させ、身体ごと吹っ飛ばされて地面に這いつくばった。
 黒瀬はハッとしてパンチを叩き込んだ彼女――傍らで「信じられない」とばかりに目を見開いていた日和を見て、日和も彼を見返して
「…………急ご!」
 再び手を引いた。さらに中から矢野が手を出し、彼を引き込む
「よし! 車を出せッ!」
 矢野の怒声と車が急発進する。タイヤが土を巻き上げ、激しいスピン音を上げながら、完全に統制の失った男たちの間を突き抜けて、その場から一目散に逃げ出していった。







「アンタもよくよくついてない男ね……」
 検査やら何やらで一晩病院のベッドですごした黒瀬がちょうど玄関をくぐって外に出たところで、清音が声が声をかけた。彼女は玄関の真正面で腰に手を当てて立っていて、頬にはバンドエイドが張ってあった。
「お前はついてたみたいだな」
 黒瀬は片目に張ってある眼帯を引き剥がしながらそう言った。彼女の下に歩み寄る。
「ちょっと、それ剥がして良いの?」
「車に轢かれて打ったと言ったら『大袈裟にして保険金がっぽりもらえ』って強引につけられたんだ」
「ふーん……」
 清音はにっと笑って
「名医っているものね」
「まぁな……他の連中は」
「あいつら悪運強いから、みーんな元気してるわよ。一日掛かって検査されたのアンタだけよ」
 あの後すぐに黒瀬達は病院に運ばれていた。ただし全員バラバラの病院でだ。一斉に同じ病院に同じ高校の生徒が向かえば、さすがに怪しまれると黒瀬が判断したのだ。
 黒瀬は華や清音には猛烈に反対されたが、一番遠い病院に運ばれた。我先に病院に駆け込むようなマネは、リーダーとしてご法度だからだ。無論、清音も華も黒瀬のそんな考えはお見通しであり、「そんなのどうだっていいから今すぐ病院に行け!」と黒瀬をなじり飛ばしたのは言うまでもない。
「そうか、大怪我が無くてよかった」
 黒瀬は言いながら歩き出した。清音はそれについていきながら
「よかったじゃないわよ。最後にアンタが鉈男と殴り合ってる見た時は心臓止まったってーの」
「鉈じゃない軍刀だ」
「なんでもいいけど、あんなジェイソンみたいな奴とバカみたいに怒鳴りあって斬り合わないでよ」
「向こうが突っ込んできたんだ。俺がやりたくてやったんじゃない」
「ちょっと待ちなさい」
 清音がぐい、と黒瀬の前に歩み出た。黒瀬が「何だ」という前に清音の吐息がふっと掛かった。
 彼女が顔を寄せてきたのだ。瞳に黒瀬の影が落ちて、陰った顔が黒瀬を見上げる。
「嘘つくな。あんた警棒振り回してるときすごい楽しそうだったわよ」
 黒瀬は真顔で彼女を見返した後
「ついてない。楽しくない」
 清音は唐突に黒瀬の顔に手を伸ばした。さらに顔を近づけようとしてきて、思わず黒瀬は仰け反った。しかし彼女はさらにさらに手と顔を寄せてきて、遂に黒瀬がにっちもさっちも行かなくなると、「ぎゅっ」と呟きながら黒瀬の鼻をつまんだ。
「いたいいたい」
 ぐいぐいと左右に引っ張りまわす。
「ほぉら、鼻が伸びそうになってるわよー」
「いたいいたい」
「今度嘘ついたらホントに伸びるまで引っ張ってあげるからね」
 ぐいっと鼻をひっぱりながら、日和は手を離した。黒瀬は「いたた……」と呟きながら鼻を押さえ、清音を恨みがましそうににらみつけた。対し彼女は「文句あんの?」とばかりに腰に手を当てて仁王立ちして返す。
「……もういいだろ。車まで案内しろよ」
「『お願いします』は?」
「さっさとしろ」
「まーかわいくない!」
 清音は頬を膨らませながら駐車場へ向かった。そこにはバンが止まっていて、柔らかい午前中の光の下、チームの面々が思い思いの格好でリラックスしていた。後部座席では仰向けに寝っころがった砂也がトランプの手札を眺めていて、九頭はその奥で同じく手札を片手にニヤニヤと笑っている――どうやら勝っているらしい。勘八は後部座席のステップに座り、扉口によっかかっている。よく見ると目をつむっていて、寝てるようだ。一番奥の陰った席では、ディスプレイの青白い光が漏れている――日和だ。メガネをかけてコンソールを叩いている。どうも彼女は日陰が好きらしい。
「あっ、黒瀬さん!」
 運転席にいて唯一心配そうにそわそわしていた華が、黒瀬を見つけて飛び降りてきた。ととと――と駆け出し、黒瀬の前まで来ると涙目になりながら感極まったように黒瀬の胸に飛び込んできた。黒瀬は避けた。
「黒瀬さ〜ん……あれ?」
 彼女はすかして自分を抱きしめてしまい、不思議そうな顔で周りを見た。その背後で、黒瀬も清音もあっさりと彼女を置いてけぼりにし、バンに向かっていた。
「あ、黒瀬〜元気そうじゃん」
「お、青タンつくってやんの」
 砂也がつまらなさそうに、九頭が笑いながら言った。トランプ勝負の優劣によって機嫌に差が出ているらしい。
 二人の声に勘八が目を覚まし、目をぱちくりしながら
「ん……ぉお、大丈夫そうだな」
 と黒瀬を見上げて言った。
「……どうも」
 最後に日和が、ちらりとだけ目を向けて会釈した。
「勘八、背中は大丈夫なのか」
 黒瀬が声をかけると、彼は寝起きの顔をニヤリとさせて、背中を見せながらボディービルのように力こぶをつくってみせた。
「防弾チョッキ、意外と役に立つな。あの鉄板みたいなのを入れたのが利いて、たいして刺さらなかった。バンドエイドで済んだぞ」
「そっちよりも清音が扉吹っ飛ばした時に鼓膜が破れそうになったんだけどー」
 砂也が仰向けで逆さまの頭のまま、不満げに清音に目を向けた。九頭が「あ、俺も俺もー!」と元気良く手を挙げ、日和が奥の席から同意するようにちらりと目を向けてきた。
「ちょっと火薬の量間違えたのよ。ていうか、あたしのおかげであんた達ここでのんびりしてられるんだから、うだうだ文句言う前に感謝の一つ位しなさいよ!」
「はいはいありがとうございます神様清音様……」
 砂也がトランプで顔を隠しながらぼやいた。九頭がニヤニヤしながら
「願わくば次回からはもっとおしとやかにお救い下さるよう、かしこみもうしあげまつる……」
 清音は瞬時に顔を赤くすると、問答無用で手近の石を拾って九頭に投げつけた。「うごっ!?」と見事に九頭の額にヒットし、ついでに日和のディスプレイに当たって中からネコの「にゃごぉ!?」という悲鳴が。日和は慌てて「うわぁ大丈夫!?」とディスプレイに向かって叫び、砂也がクスクスと笑い、勘八はうわははと笑った。最後に華が今更に黒瀬に追いついて「どうして避けたんですか!?」とぷっくりと頬を膨らませた。
 相変わらずのでこぼこっぷりが、たった一日振りにもかかわらず懐かしく感じられて、黒瀬は思わず、目を細めた。



「画像データからフレームを抽出して検索をかけてみましたが、ほとんどの人物は特定できませんでした」
 メンバーは場所を近くの緑地公園に移していた。緩い丘や平地が続く、都心には無い自然らしい自然が残る場所だ。ちょうど近くに日当たりの良い場所があったので清音が行きたがったのだ。
 近所の子供たちが追いかけっこやサッカーをするのをぼぅっと眺めながら、彼らは思い思いに寝転がったり胡坐を書いたりしていた。
 日和は近くの木陰の中で相変わらず端末をいじり、
「唯一特定できたのはあのサングラスをかけた男です」
「あいつか……」
 根っころがって水色の空をながめる砂也が呟いた。その口調には、どこか含むものがある――以前の接触で、思うところがあったらしい。
「で? 何モンなのよあいつ」
 清音が膝をゆるく抱えながらそう呟いた。日和は至極冷静な視線をディスプレイに注ぎ、その大きな瞳に好けるようなコバルトブルーの色を映しながら
「……成華高校の生徒です。名前は『柘植 大輔』。現在年齢は十九歳。第三学年」
「おいおい、うちの学校の生徒なのか?」
 胡坐をかいていた勘八が驚いて日和を振り返った。
 足を伸ばして、ぼけっと子供がはしゃいでいるのを見ていた九頭が、へっと小さく笑い
「灯台下暗しってか? にしてもえらく近いトコにいるよな、俺たちバカみてぇじゃん」
「たちって言わないでくれる? あたしをあんたと一緒にしないでよね」
 清音がぽそりと呟いた。九頭は彼女に目だけくれてやったが、へっと小さく笑って返した。
「あの、でも、歳がおかしいですよね? 十九歳って、留年したんですか?」
 なぜか正座して、家から持ってきたという紅茶を紙コップに注いでいた華が、日和にそれを手渡しながら言った。日和は紙コップを両手でつまんでふーふーしながら
「……そうです。一年生時に一時出席日数が滞って、二年生にはなれませんでした。その後は担当教師が代わって、順当に昇級していきましたが……一年生時に出席日数が滞った理由ってなんだと思います?」
「イジメか」
 彼らの後ろで腕を組んで立っていた黒瀬が呟いた。メンバーがぎょっとして振り返る。
「なにそれ?」
 清音が整ったその眉を寄せて呟き、砂也がいぶかしげに
「だってアイツの目標って……」
 九頭が砂也と顔を合わせ
「イジメだろ? イジメのインフラ」
「あ、あのー……」
 華が恐る恐ると手を上げて
「ずっと聞きたかったんですけど、いんふらって何ですか?」
 日和がディスプレイから目を離さずに
「インフラストラクチャー。産業や福祉の社会資本です。この場合はイジメを誘発する社会システムの事ですね」
「??」
「要するに毎年自動的にイジメが起きるように仕掛けがしてあるって事よ――あたしもこーちゃちょーだい」
 清音が両手を華に差し出し、華は慌てて紅茶を用意してその手に渡した。
「はーなるほどー……あ、それならその柘植っていう人もインフレに巻き込まれたんですか?」
「そうかもしれないですし、そうじゃないかもしれません。今まで私達は被害者側からばかりインフラを把握していましたから、加害者側のシステムがどうなってるかはわからないんです」
「だが今加担してるのは確かだ」
 黒瀬は胸元からタバコを取り出すと、火もつけずに咥えた。遠くで真っ白に光る太陽に目を細めながら、誰にも聞こえないような小ささで
「自分がそうだったのにそうするのか……だっったらその目的は……」
「……あ――!」
 そんな黒瀬を見上げていた清音が、唐突に大声を上げた。傍らにいた日和がびくっと顔を挙げる。清音は再び唐突にふっと表情から力を抜き、ごろんと転がった。
「なんか疲れちゃった……文化祭来週の月曜からだっけ?」
「意外と早かったね三週間なんて」
 砂也がぼんやりと空を見上げながら言った。九頭も頷き
「半月もいらねぇと思ってたけどな」
「あっという間でしたねー」
「俺は少し腰が痛くなったな……」
 日和がじと目で全員を眺めて
「あの、皆さんもう終わるような雰囲気で話してますけど」
「だって今日土曜だから、後一日しかないじゃん」
 砂也がやっぱりぼんやりと空を見上げながら言った。
 沈黙と穏やかな時間が過ぎて言った。
 小鳥はさえずるし、風は青い草原を揺らして通り過ぎる。夏の通り過ぎるにおいがした。
「もしさ、もしだけどさ」
 寝転がり、目元を腕で隠した清音が呟いた。
「もしこのチームがさ、解散って事になったら、あんた達どうすんの?」
「ねぐらに帰る」
 九頭が即答した。即答してから、少し、視線をまわりにめぐらせた。
「……だろ? どーせ。清音は放課後化学室にこもって、華はバイクでドライブ、んで砂也はどっかで女に会ってだな、日和は図書室でまた調べ物だ、勘八は部活棟をまた占拠してミットぶん殴って、黒瀬はあれだ、蔵書室にこもって本読むんだよ。戦略とか戦術の奴」
「じゃぁアンタはまた旧校舎で麻薬吸うわけ?」
 清音が呟き、九頭はへっと笑って返した。
「まぁ……それもいいかもな。やる事もないし」
「……私は、それは、ちょっといやです」
 華がぽそりと呟いた。膝を抱えて
「せっかく皆さんと仲良くなれたのに、またバラバラなんて……」
「そういえば、考えてみれば、俺達これがなかったら集まる事もなかったんだよな」
 勘八が感心したように言い、その横で砂也がぼそりと呟く。
「だからこのチームがなくなったら集まる必要も無い」
「そ、そんな、だってせっかく皆……ねぇ、日和ちゃん」
 眉尻を下げて、華は助けを求めるように日和に目を向けた。日和は唐突に声をかけられたのに驚いて
「え? ――僕……私、は……その、別に……」
「ええー!」
 華が涙目になりながら彼女につめより、日和は「う……」と少し仰け反った。
「黒瀬は実際のトコどうすんの? やっぱ本読むわけ? あのせっまくてくっらい場所で」
 清音がニヤニヤしながらそう尋ねた。
 だが黒瀬はその質問に答えなかった。じっと遠くのほうに目を向けて、目を細めていた。清音はなんとなく黒瀬の視線を追う。
 そこには子供達がいた。追いかけっこから随分とエキサイトしたようで、今は皆、泥だらけになりながら取っ組み合っていた。でもそれは相手を倒そうと競い合っているというよりも、皆でじゃれあっているようだった。楽しそうに嬌声を上げて相手に抱きつき、草原をごろごろと転がり、ケラケラと笑う。
 顔中が笑顔だった。男も女も関係ない。彼らには隔てるものが無ければ、固執するような物も無い。ただ純粋に、相手が好きだから、絶対の信頼を抱いているから、そうしている。
「……黒瀬はなんでチームに入ったんだっけ」
 いつの間にかチームの誰もが彼らに目を向けていた。真っ直ぐ向けている者もいれば、こっそり盗み見るように見ている者もいる。そんな中で、清音はふとそんな事を聞いていた。
「蔵書室だ」
 黒瀬はきゃっきゃと騒ぐ子供たちの声に耳を澄ませながら
「あの部屋が俺には必要だ。だから協力してる。そうじゃなかったら俺は、ここにはいない」
「ふーん……」
 清音は抱えた膝に、顔を少しうずめた。
「じゃぁさ、今まで嫌々やってたわけ? あんな狭くて暗い場所で、一人で本読みたいからって、しょうがなくあたし達に付き合ってたんだ」
 それは小声の早口言葉のようだった。
「どうだろうな」
 惑うように、ぼそぼそと呟く。
「放課後一人であそこにいるのは心躍るわけじゃないが、俺には必要だった。だから『仕方なく』とは思っていた。お前達といるとなんとなく」
 そこで彼は何かを想ったようだった。
 心の中の何かと、語り合っていたのかもしれない。
「――――なんとなく、もう必要ないんじゃないかと思うようになった」
 風が一陣通り抜ける。梢を揺らし、草原にさざ波をしいて、はしゃぐ子供達の肌を撫でてから、黒瀬たちの髪を揺らした。
 彼らは一様に黙り込み、しかしそれは気まずい沈黙ではなかった。ただそこを共有する者だけがわかる、心地よい沈黙だった。





 MP5のストックを引き初弾を薬室に込めた。金属のこすれあうガチャリという音と共に、ストックを引く手に確かな感触が残る。
「今日で最後にするぞ」
 手にしたMP5をスリングで身体に固定した黒瀬は、蔵書室で自分と同じように戦闘服に身を固めたチームの面々に目をやった。彼らは各自、次々と装備を全身に纏め上げていて、部屋は物騒な金属音で溢れかえっている。
 彼らの背後には小春が一人、制服姿で椅子に座っていた。
 黒瀬は予備マガジンをMP5に取り付けたマガジンの横にガムテープで止めながら
「文化祭初日、例年通りやる気なら連中は今日、必ず動く。標的は一年A組、『柳田 柚葉』、彼女を囮にして実行犯を現行犯逮捕する。苦渋の決断だ、絶対に失敗はできんッ」
 「おぅ」と「はいっ」が混ざってメンバーから返ってくる
「清音、勘八のペアは突入体制を整えてC棟から教室を監視。砂也と俺は標的に張り付いて直接監視だ。日和は生徒会室で情報を統合してナビゲーション。九頭、華のペアは柘植の反撃に備える。突入の合図は俺が出す。慌てて飛び出すなよ」
「信用してるよー」
 と九頭。
 小春が全員の顔を見渡しながら
「イジメ被害者がレイプ被害を受けるのは、決まって正午零時から午後二時の間です。この時間帯は特に気をつけて下さい」
「作戦行動中、攻撃・反撃を受けてバディがダウンしたら生徒会室に撤退する。バディ行動中の撤退のタイミングは各自で決めるか、俺に聞け。ただし撤退の事実は俺に必ず報告しろ。チームで突入した際は俺の命令に従え」
「だけど、生徒会室に隠れても敵が窓を突き破って入ってきそうだがな」
 と勘八が思い出したように言う。
「可能性としてはあり得るが、廃工場の件で向こうも正面突破のリスクが高いのはわかっただろう。それに生徒会室は向橋の部隊と安全委員会が常時警護についてる。突入を強行した場合、安全委員会も反撃することになるから向こうはさらに大きな痛手を負う。下手には突っ込んでこれない」
「他に安全な場所もありません」
 小春が身も蓋もないことを言って、九頭が砂也を半眼で見た。砂也は肩をすくめて返す。
「それから柘植はこのインフラのコマの一人でしかない可能性もある。重ねて言うが、突入のタイミングは誤るなよ。もしバックに誰かいるとしたら、その尻尾も掴みたい」
「アンタが間違えなきゃ大丈夫よ。私の方は完璧だから」
 清音がにやっと笑って黒瀬に小さくピースした。黒瀬は真顔で返し、
「実戦と十分な訓練を積んでいるから理解していると思うが、本物の銃撃戦と俺達の戦闘は別物だ。使用する銃弾ではヘッドショットはしても相手を怯ませるだけで致命傷を与えない。狙いは必ず肺か腕、足。相手が倒れるか自失状態になったところでワイヤー錠で拘束、時間が許さなければ武器をできる限り引き離し、手足の関節に向けてバースト、人体駆動を破壊しろ」
「判断は直感にまかせていいのか?」
 勘八が腕組したまま尋ねた。
「俺が命令するか、バディのどちらかが危険と判断した場合のみ許可する」
「あの、間違って全然違う人を撃っちゃったりしたら……」
 華が恐る恐ると尋ねる。
「そいつが銃持ってなかったことに感謝すれば?」
 九頭が笑って言った。黒瀬は笑いもせずに
「抵抗が無ければそれで良い。気に留めるな」
「わ、わかりました」
 彼女はちょっと気を引き締めるように、ぐっと眉に力を込めた(それでも背伸びしている感は拭えなかったが)。
「他に質問は?」
 ヘルメットをかぶると、黒瀬は装備を完璧に纏め上げ、全身完全装備となっていた。ベストやマガジンはしっかり固定され、歩いたり走ったりしても音が立たないようになっている。太ももにつった拳銃も既に初弾が送り込まれていて、すぐにでも発砲できる。臨戦態勢だ。
 黒瀬は傍らで同じく装備を固めた勘八に点検を願い出て、勘八は彼の体の各部を叩いたり、揺らしたりして、しっかり固定されているか確認する。
「くーろせっ、はい!」
 そんな彼に、清音が元気よく手を上げた。黒瀬がいぶかしげに「何だ」と返すと、上げていた手を人差し指だけ突き立てて、据わっている小春を指差した。
「小春はなんで違う学校の制服を着てるの?」
 確かに、小春の格好はいつものセーラー服姿ではなかった。ワンピースにブレザーという別の学校の制服姿だった。どこか小洒落は隣の女子高のデザインだ。
「それはほら、文化祭だから」
 なぜかCQBベストを着込んでいた砂也が答えた。隣で拳銃にマガジンを叩き込んだ九頭が
「他の学校の男子生徒、父兄諸氏、イケメン大学生やイベントに来た芸人さん――そういう人達の目の保養となり、かつ同じ学校の生徒には『あ! 小春書記いつもと雰囲気違う……』というホロー効果で男心をくすぐろうというそういういじらしい女の性が……」
「違います」
 小春は眼鏡越しのぶれない目をまっすぐに見据えて
「友好の証として制服を交換することは良くあることです。それに、本校は派手でなければ制服の形状にはこだわらない校則を採用しています。問題はありません」
「え? そうなんですか!」
 華が驚き、その横で砂也は喜んだ。
「へーやった、明日からポロシャツにスラックスだ」
 九頭が胸元をパタパタとさせながら
「俺短パン」
「ジャージで」
 勘八がうむと続けると
「女子のみです」
 小春が釘を刺した。
「男女差別だろ」
 勘八が不満気に腕を組みながら言う。
「もういいか?」
 黒瀬が努めて冷静な――いや、ほんの少し苛立ちが隠せていない――声で尋ねた。清音が「満足でーす」とおちょくって返した。
「今更だけど、この格好で出歩いたらさすがに目立たないか?」
 九頭がバット手を上げて尋ねると、黒瀬は首を振って返した。
「一度開園したら衣装に着替えている人間は大勢いる。校舎を利用した鬼ごっこや第二体育館で行われるサバイバルゲームでも同じような格好をするクラスがあるのも確認済みだ。衣装としか思われない。ただし移動する場合はフードを必ずかぶって顔を隠せ。砂也はその服の上から魔法使いの格好をして偽装する」
「魔法使い?」
 砂也が大いに不満そうな顔で尋ねた。
「そういや制服着てる奴の方が少ないくらいって聞いたわね」
「私も王子様の格好しないかって言われましたー」
 華がはにかみながら言った。清音がいぶかしげな目をむけ
「お姫様じゃなくて?」
「なくて」
 華は首を振って返した。
「ま、お姫様って感じでもないよね」
 と砂也が呟けば、やはり九頭がぴっと彼に指を向け
「田舎から出てきた出稼ぎの召使さん」
 勘八がさらに二人を指差し
「それだ」
「もういいか?」
 黒瀬が尋ねた。砂也がしれっとして「うん」と返す。黒瀬は呆れて小さく嘆息し、もうどうでも良さそうな口調で
「他に質問は……」
「もし検挙できなかったらどうなるんですか」
 ヘッドセットを装着した日和が、真っ直ぐな視線を黒瀬に向けて尋ねた。緩みかけていた部屋の空気がす――と糸が引かれるように再び張り詰めた。チームの面々は黙って装備をまとめながら、もの問いたげに視線を交錯させる。
 黒瀬はしばらく思案するように無表情を装ってから、はっきりと言った。
「俺達は一ヵ月後に解散。来年はまた同じようにイジメとレイプのインフラが繰り返される。その頃には俺達はそんな事も忘れて、またレイプがあったのを知ることもできずに普段通りの生活を送る」
「させるかっての」
 清音がMP5のストックを勢い良くスライドさせて、派手な作動音を響かせながら言った。
「来年は皆で学校中歩き回って遊び倒すのよ、誰も不幸な目に遭うことも無くね」
「もしもの話だよ」
 砂也がにやっと笑って揶揄すると、清音は至極冷静な目を彼に向けて
「『もしも』も無いわ。絶対、今日、全部、あたしが、ぶっつしてやるッ!」
 勘八が笑みを浮かべて頷き、日和はへの字口を緩ませ、砂也はおふざけのように拍手して、華は一生懸命に頷いて、九頭は不敵な笑みを浮かべて天井を仰いだ。
 黒瀬は全くの無表情で腕時計を覗くと
「作戦を開始する」
 す――と顔を上げ
「――――行くぞッ!」
 柄にも無く怒鳴った。再び全員が「おぅ!」「はいっ」を叫んだ。
 黒瀬がかつかつと音を立てて部屋を出行き、メンバーがそれに続く。その得体の知れない、みなぎる力に溢れた足音が遠ざかり、
「あ! そうだ! そうよ! それにケーキが待ってるのよ!」
「ケーキ? 焼肉でしょ?」
「え……ケーキ……モンブラン……」
「ケーキってなんだ?」
「私も焼肉って……」
「なに? 俺は何も聞いてないぞ?」
「黙って歩け!」
 黒瀬の怒声が廊下に響いた。







『こちら黒瀬だ。全員その場で聞け――現在を持って、午前十時になった。現在の所柘植は確認できず。対象・柳田柚葉に異常なし。全員その場で現状を維持し、周辺の異常に留意しろ。繰り返す。全員その場で待機、周辺の異常に留意するように』
 文化祭は大盛況だった。
 雑踏と嬌声、ライブの大音量に、そのボーカルの怒鳴りつけるような歌声、景気づけの花火が派手にぶちあげらる炸裂音、太鼓に小太鼓、ウクレレにシンセサイザー、浪曲に演歌、J-POPにR&B、バンドジャズにアコギ、学校中に音楽が溢れ、ジャンルも文化も入り乱れ、和洋折衷なんて当の昔に通り過ぎた――怒涛のように放たれる『祭り』のBGM。グランド、校門、廊下に教室、地下室にまで老若男女問わず人が溢れ帰り、「今日は本能の大盤振る舞いだ!」とばかりに誰も彼もが騒ぎ立てる。お笑いイベントに参加して笑い倒すものもいれば、酒に酔って殴り合う者もいる、レスリング部との鬼ごっこでこの世の終わりを感じ取るものもいれば、演劇を見て感涙する者もいる。情報室では大人気同人ゲームの新作が後悔され、熱狂するゲーマーとそれに混じったゲーム会社の人事社員がヘッドハントを狙って目を輝かせる――時折ライバル会社の社員を見つけるらしく、無言の火花を散らしたりして。屋外プールでは真っ青な空の下デッキブラシホッケーが極めて真剣に開催されており、屋内プールでは女子水球が極めて不健全に開催中である。地下室では生徒会から隠れて酒を振舞う怪しいバーが開店。奇声と怒声、口説く男にじらす女が入り乱れて酒を喰らっている。グラウンドでは色とりどりの出店が所狭しと軒を連ね、焼きそばやらフランフルトやらたこ焼きやらお好み焼きやらたい焼きやらりんご飴やらイカ焼きやらホイル焼きやら果てはギネス挑戦の巨大パフェやらの匂いが混ざり合っている。おまけに誰が持ちこんだのか周辺地域のみこしが集まり、理屈なんて吹き飛んだおっさんやら大学生やらが喧嘩みこしを始めている。子供達は巨大な人気ゲーム・アニメキャラクターの人形に飛び掛り、その横では子供の教育に悪そうな女生徒の生写真を売っている写真部。その前を裸の男が全速力で駆けて行き、その後を安全委員会の生徒が「テメェ待てオラァッ!!」「手間ァ取らせるとぶち殺すぞ!!」と警棒を持って追い掛け回している。校舎端の武道場ではアクションものの自主映画が流されている。もちろんCGに火薬、血のりに特殊効果・特殊メイクまで使いたい放題の内容で、後にはヨーロッパ映画のごとき芸術映画が控えている。客は感涙したり興奮したりしんみりしたり大笑いしたりと大忙しだ。第一体育館ではライブに加えて各種スポーツ大会が開かれ、音楽にスポーツが入り乱れたトランス空間が生まれている。第二体育館では緊張感溢れる銃撃戦――もちろんエアーガンを用いたコンバットゲームだ――が繰り広げられている。「援護ぉ!」「うわぁ!」「よしだー! よしだがー!」「バカ野郎そいつはもう駄目だぁ!」等、ノリノリな参加者の怒声が溢れかえっている。所戻って校舎ではカップル専門の喫茶店に一人身専門の喫茶店(互いにいがみ合ってる)、カラオケルームにボウリング・ビリヤード場、ネイルアート・シール刺青、年代別ファッションショー、ネットルーム・漫画喫茶、絵画個展、同人漫画・雑誌・小説販売、やめときゃいいのにメイド・執事喫茶なんてのもあり、もちろん休みたい人にはシャワールームに仮眠室まで用意されている。有料のトイレまであるのだから現代高校生の商魂は逞しい。もちろんこれだけ集まれば商売だけではない。外国人も多い成華高校らしく、「豚を食うな!」「中東に愛の手を」「セックスの無い愛を!」「最後の審判は近い」「このまま民主主義に任せて良いのか!?」「資本主義に復讐を!」「○○党の陰謀を阻止しよう!」「アジア平和基金」「牛を大事に!」「屠殺は許されない」「ベジタリアン!」「歴史歪曲!」「憲法改正反対!」等々、かなり身勝手なプラカードをもった集団が歩き回り、対立するプラカードを持つ者同士は(「捕鯨するのは人類の敵。鯨は優しい動物」「捕鯨は正当な権利」)一触即発な所もある。その横を法衣を着た坊主の生徒が通りかかれば、入れ違いにシスターが十字架を首にぶら下げて歩いてくる。かと思えば演劇衣装なのか王様の格好をした教師が「ふぉふぉふぉ」と通り過ぎて、魔法使いが廊下の端で忍者と話しこんでいる。ライトサーベルを持った者同士はもう語り合う事も無く斬り合いを始めていて、その横をダー○ベイダーと帝国の白い兵士が……。猫の耳をつけた奴もいれば犬の耳をつけた奴もいるし、私服もいれば制服もいる。制服だって統一のものなどない。もしかしたらコスプレかもしれないし、演劇に使う衣装かもしれない。一ついえるのは誰も彼もまともな格好をしていないという事だ。
 生徒主催の出し物ではあるが、専門性の高い技術を結集した物や、理不尽過ぎたり、シュール過ぎたり、不謹慎過ぎたり、錬度が高かったりして、商業用なんて目じゃないぶっ飛んだものが多い。だからこその盛況であり、業者のヘッドハントである。
 とはいえこんな様子は成華高校に限った事ではない。他校との協力体制が整っているからこれだけの大騒ぎが出来て、専門性の高い出し物が出せるのだ。それはつまり、どの学校もほぼ同じくらいの水準の大騒ぎが出来るという事だ。もちろん地方には地方の良さがあり、都会には都会の良さもあるのだが。
 今日から一週間続く全国一斉文化祭は経済的には一大市場でもあり、さまざまな意思が混ざり合う、文化のカオスでもある。
『こちら砂也―。柳田柚葉がお化け屋敷に入ったよ。放っといていわけ?』
 そのカオスの最中。B党二階の廊下の端で、魔法使いの黒いローブに身を包んだ砂也が、壁際にもたれかかってシャーベットを食べながらさり気なく通信を入れた。ローブの中身は完全装備の戦闘装備だ。
『いや、待て。向橋からの事前情報どおりの行動だ。午前中、一時間程度お化け役でお化け屋敷をを手伝うそうだ』
 お化け屋敷を主宰している教室の向かいで、同じく魔法使いの黒いローブを羽織った黒瀬がさり気なく通信を入れた。二箇所ある入り口を二人で見張っているのだ。もっぱらのところ、柳田柚葉を監視中である。
『了解。じゃ中に入るのは止めとこうか。顔を見られそうだし』
『了解。C棟、向かいから中の様子が見えるか』
『みえなーい』
 清音ののんびりした声が返ってきた。
『俺と砂也で客の出入りをチェックだ。日和、お化け屋敷の届出は出てるか?』
『調べます……大丈夫です。出てます。正式な許可を取ったのが一件』
『よし、このまま待機だ。華、九頭、寝るなよ』
『ね、寝てませんよー』
『紅茶飲んでるから大丈夫だ』
『やめろ』
 黒瀬は通信を切った。ふと横を歩き売りしていた売り子からアンパンと牛乳を買って、それぞれ口に運ぶ。
『……ベタだなぁ』
 砂也があさっての方向を見ながらぼそりと呟き
『む――なんだ?』
 砂也は無線のスイッチが入っている事に今更ながら気づいて「しまった」と「ま、いっか」をあわせて二で割ったような顔をした。
『いーや、べっつにー』
『余計な事で通信を使うな』
『じゃしっつもーん。今日柘植は来なかったりして。インフラかなんかしらないけど、別に今日じゃなくても文化祭実行中だったらいつでも良いとかだったらどうする? 今日は来なかったりして』
 黒瀬はもそもそとアンパンを口に運び、口の周りに黒ゴマをつけながら
『もぐ……むぐ、だったら明日だ。明日来なかったら明後日、明後日来なかったら明明後日だ』
『うわぁ……げんなり』
 砂也はシャーベットの入っていたカップを設置されていたゴミ箱にぽいと捨てながら嫌そーな顔をした。
 それを黒瀬は横目で見ながら『……根拠は無いが、今日起こると思う』と呟くように言った。 砂也が「ん?」といぶかしげに
『なんでさ』
『根拠はないと言っただろ』
『…………』
 砂也がちらりと視線を黒瀬に向けた。それは一瞬だったが確かにじと目で
「……剣を合わた俺だからわかるって?」
『おい、あんまり口を動かして目立つんじゃない』
『はいはい先生……』
 砂也は口元もローブで覆って、再び監視に戻る。



『よくよく俺達って遅刻に縁があるよね黒瀬』
 一時間半後、砂也はぼそりとローブの下の口を動かした。その視線はお化け屋敷の入り口に注がれている。客の出入りはそれ程激しいわけではない。だから見逃すような事はない。柚葉が出て行くのを、である。
 一時間で終わるはずの手伝いがまだ終わってないらしく、彼女が出てこないのだ。
『……一時間程、だからまだわからない。成り行きで延長しているかもしれない』
『黒瀬気付いてないかもしれないから言うけどさ、ちょっとこのお化け屋敷おかしいと思わない?』
 黒瀬は一瞬だけ砂也に目を配りし、すぐに明後日の方向に目をやってから
『客の数が圧倒的に男が多い。カップルが入ってもすぐに出て行く。女もだ。そういうことか』
『そうそう。よくわかってんじゃん』
『何それ!? まずいじゃない!』と、唐突に清音がキンキンと叫んだ。砂也も黒瀬も思わず耳を押さえ
『叫ぶなよ』
『だって! だって! だって、それじゃぁもう中で……』
『もう中で「事」が始まってるかもしれない』
 九頭が後を継いだ。横で華が『ぅえー!?』と叫ぶ声も聞こえた。
 黒瀬は無表情に鼻を鳴らし
『どうだかな。だとしたらさすがに中に入ってすぐに出てきた生徒が通報するだろうし、仮に見えない場所でやっていたとしても、無関係な生徒を一度中に入れる理由が無い』
『俺もそれが気になってんだよねー』
 砂也が窓の外を眺めながら呟く――窓にはもちろん、お化け屋敷の入り口が写っている。
『それに一応、中で何かしてから出てくるような時間はあるし……』
『ふーん……ま、俺たちゃ黒瀬の指示に従うだけ出しな。あーアップルティーが美味い……』
 そう呟きながらも九頭は微妙に表情を硬くした。
「(まぁ、今の話し口だと実際に中で事が起こっていたとしても黒瀬はすぐに突っ込む気は無いな……関係者を出来るだけ多く検挙したいのか。何か吹っ切れてんな……)」
 九頭にそんな風に思われているとは知らない黒瀬は、腕時計を眺めながら
『日和、今正確な時間は』
『電波時計で十一時二十八分です』
『……インフラの中に時間まで含まれていたら残り時間はもう無いな。柳田柚葉の携帯番号はわかるか』
『はい、小春から預かっていますが』
『四十五分に電話をかけろ。連絡が無かった場合は――』
 その時、黒瀬のポケット震えた。黒瀬は『少し待て』と言い残し、ポケットから携帯を取り出す。携帯は現在、特定番号しか受け付けない設定なっていて、画面には『新聞部・フヒト』と出ていた。黒瀬は通話ボタンを押して耳に押し付ける。
「どうした?」
『あ、黒瀬? 僕だけど』
 声変わり前の少年のような声が聞こえた。
「それはわかってる。用件を短く伝えろ」
『せっかちだなぁ……じゃ、短く言うけど、校門で安全委員会と例の掃き溜めチームがもめてるよ』
 黒瀬の目がぎゅっと細まる。
「何?」
『入れろ入れないで大モメ。安全委員会はなんとしてでも入れない気みたいだけど……これって黒瀬のやってる事に関係あるんだろ?』
「……わかった。後で礼はする」
『ふーん、返事はしないのか。ま、別に良いけど。恩は売ったからね』
 この時間、このタイミングで例の掃き溜めチームが動き出す理由は一つしかない。まさか文化祭観光に来たわけではないだろう。連中は学校というものを嫌悪しているし、地域住民の鼻つまみ者だ。
 切れた携帯をポケットに押し込むと、黒瀬はすぐさまマイクを口元に寄せ
「日和、今すぐ電話をかけろ」
『え? どうしたんです急に』
「校門で例の掃き溜めチームが動き出した」
 日和が息を飲んで
『柘植の命令ですか』
「わからん。だがもう校門まで来てる。この時間とあわせて考えると――」
 途端、清音が勢い込んだ声で
『ほら! やっぱり中でもう起きてるのよッ! 今すぐいかないと――』
「落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない」
『落ち着いてるわよバカ! アンタこそ目ぇ覚ましなさいっ』
「突入は俺の命令を待てと最初に言っただろ。今現在、中でレイプが進行中とは考えにくい」
『どう考えたって進行中じゃない――進行中って……早く行かないと!』
 二人の論争を聞きながら、九頭は無表情に思う。
「(黒瀬……そいつは本心から言ってんのかそれとも……)」
『静かにしてください、これから柳田柚葉に連絡を入れます』
 日和の冷静な声がして、清音が「――っ」と喉まででかかった言葉を飲み込んだ。黒瀬はやはり、冷静なまま。
『無線につなぎますよ……今、呼び出し中です』
 全員が固唾を飲んだ。耳を澄まし、電話の呼び出し音を聞く。五回目のコールまでは、彼らも平静で聞いていられた。
 だがそれからは鼓動がはっきりと意識できるくらい脈打ち始め、十五回目のコールからはもはやコールとコールの間すら永遠の空白のように感じた。
 身体の芯からス――と体温が消えて行く。
 全身に冷たい汗が吹き出る。
 時間が酷く緩慢に感じられた。
 無機質なコール音は、ただ相手が「電話に出られない」事を伝える。
 電話の向こうがどうなってるかは教えてくれない。
 彼女はどこにいるのか
 どうしているのか

 ――――どうなっているのか

『――ん、ちょっと待って電話……はぁい、だぁれ?』
 ぶつっという通話音と共に黒瀬達は一斉に知らずに止めていた息を吐いた。平然と答える彼女の声に安堵し、同時に「だぁれじゃねぇよ、のんびりしやがって……」と理不尽な怒りが湧き起こる。
 しかし何はともあれ無事だったのだ。清音達は大いに安心したし、九頭は色々な意味で安心した。黒瀬の意見は正しかったのだ。その真意は、まぁ、この際問いたださなくてもいいだろう。
『あれ? ねーだぁれ? 答えないなら電話切っちゃうよー。……やん、ちょっと待ってよ……んー? わかんない。名前言わないの』
 黒ノ目は友人と一緒にいるらしく、電話の向こうでも誰かと話している。
『黒瀬さんどうしますか』
 日和が尋ねた。もちろん電話には入ってはいない。黒瀬は「そのまま切れ」と呟いた。
『わかりました。切ります』
『え? 何? だれ? 聞こえない……んもーちょっと待ってってば、どこ行くのー?』
 清音ががさごそと通信をいじる音が聞こえ、黒瀬も通信を切ろうとした、その瞬間だった


『んもう、痛いってば――――柘植くん!』


 黒瀬が目を見開き、全員が目を剥いて息を飲んだ。
 一斉に叫び出そうとし、だが黒瀬がその全てから先んじて
「九頭、華、援護だ! 勘八、清音突入しろッ!!」
 黒瀬がローブを脱ぎ捨てる。中から全身完全装備の戦闘服とMP5が飛び出し、黒瀬はそのまま、待ち受けの女生徒を突き飛ばして中に飛び込んだ。僅かに遅れてローブを脱ぎ捨すてた砂也がクラスへフラッシュバンを投げ込む
 爆発閃光
 黒瀬は閃光から目を逸らすと、怯むことなく、入ってすぐの真っ暗な暗幕を腕で振り払い、その先に突入する
「全員動くなッ!! そのまま地面に伏せろ! 伏せろッ!」
 その先は開けていた。お化け屋敷のような通路があるわけではなく、辺り全体を暗幕で覆った空間が、薄暗い乳白色の電灯に照らされているだけだった。空間にはソファーとデスクが暗幕で個室のように区分けされて並び、そこでは老若問わない男とコスプレした女生徒が座っていて、黒瀬の突入に目を丸くしていた。MP5の銃口下に装着されたLEDライトを向けると、その真っ白な光にまぶしそうに手で顔を覆って「なんだ? なんなんだ!?」と動揺の声をあげ、女生徒は総じて悲鳴を上げて逃げ出そうとした。扉に殺到する。しかし駆けつけてきた勘八と清音が銃を構えてその逃げ道を塞ぐ。彼女達はさらに悲鳴を上げる。
 黒瀬は動けないでいる男女を強引に髪を掴んで地面に伏せさせた。髪の薄い親父だろうが、大事に手入れされた女の毛だろうが、そこに区別など無い。思いっきり引きちぎるかのような勢いで地面に引っ張り寄せる。悲鳴と泣き叫ぶ声が部屋に満ちた。
 続いて突入していた砂也が窓を覆っていた暗幕を乱暴に引きちぎっていく。すると窓の向こうには向かいの校舎があり、その三階の窓から華と九頭の二人の狙撃手がこちらを狙っていた。
「クリアッ! エコー1クリア! 九頭、華そのままこっちに来い!」
 黒瀬が無線に叫びながら、MP5を仕舞う。手近な伏せている女生徒の頭を掴み、
「おいッ! 柘植はどこだ!? 柘植大輔はどこにいるッ!?」
 彼女は顔を涙でくしゃくしゃにしながら
「わかんない! わかんない!」
 と嗚咽と共に叫ぶだけだった。女らしさも可愛らしさもない。恐怖に怯える動物の姿がそこにあった。
「――逃げた奴は一人もいないだろうな!?」
 黒瀬は凶暴そのものの声で清音と勘八に怒鳴りつける。しかし二人は全く怯まず
「全員止めた!」
「誰も出てない!」
 と暴れる女生徒を地面に押し付けながら叫んだ。
 黒瀬は今度は手近の男子生徒の胸倉を掴んで無理やり立たせると、その身体をむちゃくちゃに揺らし
「柳田柚葉はどこにいったッ!? ここにいるはずだ!!」
「し、知らな――ぐぇ、知らない――!」
「嘘をつくなッ!」
 黒瀬は男子生徒を地面に叩きつけると、しりもちをついた彼によく見えるように薬室に弾を送り込み(初弾が床に転がり落ちた)その銃口を向けた。
「今すぐ答えろッ! どこに行った!?」
「ひぁぁ! 知らない! 知らないんだって!」
 引き金を引いた
 炸裂音と共に金色の閃光が闇を走りぬけた。男子生徒が悲鳴を上げてばたばたと後退する。彼の股の下に弾丸はめり込んでいた。
「次は無いぞっ! 柘植はどこだ!?」
「ホントに、ホントに知らないんですぅ!!」
「おーいおいおい! 何やってんの!?」
 遅れて入ってきた九頭が扉口で驚いて黒瀬に駆け寄った。黒瀬は彼を見て
「柘植と柚葉がいない」
「ホントに? 弱ったねこりゃ」
 黒瀬は拳銃の撃鉄をあげ、
「柘植と柚葉はどこにいるッ!? 言えッ!」
「あー! ちょっと待った待った」
 九頭が黒瀬の肩を押して部屋の端に寄せた。小さな声で
「ここは俺に任せて。適当にあわせろ、なっ」
 九頭はさっと振り返ると、ノーメックスフードの口元をめくった。大きく手を広げて
「皆さん! 怯えさせて申し訳ありません、我々の目的は貴方方の保護にあります。貴方方に危害を加える気はありません! 大丈夫です、落ち着いてください。……大丈夫です、大丈夫……」
 彼は次第に口調をゆっくりと、柔らかな声色に変えていく。それだけで部屋の騒然とした空気が僅かに変わった。
「――落ち着きましたか? 大丈夫ですよ、我々はしばらくこのままでいます。皆さんが落ち着くまでこうしています。だから慌てずに、ゆっくり呼吸をしてください……いいですか……お前ら動くなよ……」
 早くも何人かは戦々恐々とした状態から立ち直り、次第にゆっくりと深い呼吸をしながら説明を求めるような視線を、九頭に投げかけた。九頭は大きく頷いて返し、
「いいですね……ではそのままで聞いてください。我々はある重要な人物を追っていました。その過程の中でその二名の人物がこの教室にいることがわかり、私たちは貴方方に危害が及ぶと判断して突入しました――そうだよな」
 九頭は黒瀬を振り返った。黒瀬は僅かにためらった後、大きく頷いて返した。
「ですが今ここに、その二人はいないようです。そこで皆さんにお聞きします。柘植大輔という男と、柳田柚葉という人物に心当たりは無いでしょうか。ついさっき見たという方は?」
 誰も手を上げなかった。だんだんと落ち着いてはきていたが、まだ動揺が残っている女生徒もいる。九頭は近くの生徒にしゃがんで目線を合わせ
「こういった生徒を見ませんでしたか?」
 胸元から写真を二枚、取り出して渡した。作戦用の校舎の地図と一緒に支給された柘植と柳田柚葉の写真だ。
 尋ねられた女性とは写真を震える手でゆっくりと受け取って眺めたが、しばらくするとそれを返し
「わかりません……出たり入ったりはよくあって、私達皆、誘われて来たりしてるだけで、顔見知りってわけじゃないから……」
 九頭は大きく、何度か頷いて返した。黒瀬を振り返ると、彼は「芳しくない」という表情をしていた。
 ひとまず質問を変えてみる。
「では代表者の方いらっしゃいますでしょうか? ここはお化け屋敷だと看板が立っていますが、どうも違うようです。この店はどういった趣向のお店なのかお聞かせ願いませんか」
 すると一人の女生徒が足を震わせながら立ち上がり
「あの……この、この店は、あの、パブです」
「パブ……無許可パブですか?」
 九頭が尋ねた。パブなんてものを生徒会が許可を出すはずが無い。メイド・執事喫茶だって許可を出し渋ったくらいなのだ。女生徒はふるふると震えて頷いた。
 黒瀬は舌打ちし、無線のスイッチを入れる。
「日和、この店はお化け屋敷をダミーにした無許可パブだ。ここはお化け屋敷じゃない」
『――はい、こっちでも調べました。すみません、お化け屋敷で許可が出ている一軒は一年生のクラスでした……そのクラスは?』
 黒瀬は手近の生徒にここは何年何組だと尋ねる。返事はすぐに返ってきて
「三年D組だ」
『……すみません、そのクラスは、柘植の所属するクラスです。生徒会に提出した出し物はありません』
 黒瀬は「くそっ」と忌々しげに毒づくと、再び手近な女子生徒を締め上げ、「言えッ! どこにいる!? 言えッ!!」と怒鳴った。慌てて九頭が止めに入る。
「黒瀬やめろ……やめろって!」
 強引に引き剥がす。女子生徒はしりもちをついてあまりの事ににはいつくばって遠くまで逃げた。失禁していたらしく、その軌跡がぬれて残った。
「どこなんだ……どこ行った!」
 黒瀬は怒鳴り、しかしそれでどうとなるわけでもない。拳を壁に叩きつける。苛立ちと怒りで奥歯を噛み締めた。目の前にいたはずなのだ。
「(なのに、また、どうして逃げられる……!?)」
 ふと、黒瀬は叩きつけた拳に痛みがはいってそちらに目をやった。気付くとそこには枠に入った写真が飾ってあって、黒瀬はその写真を保護するガラスをこぶしで叩き割って手を切っていたようだった。血が滴っている。
「黒瀬さん、大丈夫ですか……?」
 恐る恐る、と華が黒瀬に近寄って尋ねた。しかし返事は無い。華はそっと視線を上げて、黒瀬の横顔を見上げた。
 黒瀬は壁を見ていた。手を伸ばし、その壁にかけてあった枠に入った写真を手に取った。
「……制服を交換するのは友好の証」
「え……あ、はい……あの、それが」
 黒瀬は黙って華に写真を見せた。そこには成華高校の制服を着た女生徒が微笑んでいる姿が写っていた。これはつまりご指名用の写真、というやつらしい。
「あの……? これが何か……」
 黒瀬は辺りを見渡し、ふと一人の女生徒に目をつけるとずんずんと近寄っていった。九頭が止めようとするが、それを軽く手で制してから、その目当ての女生徒の前にしゃがんだ。そして次の瞬間、彼女の胸を触った。
「な――ちょっと!」
 思わず清音が声を上げたが、しかしよく見ると黒瀬はただ触っているわけではなかった。――もちろん揉んでいるわけでもなく――彼女の胸ポケットに手を突っ込んでいたのだ。
 そこから何かを引っ張り出す。長方形で緑色の枠にかたどられた――生徒手帳だった。
「……九頭」
 中身を見ていた黒瀬は、それをそばで見ていた九頭に手渡した。九頭がいぶかしげにそれを受け取り、ひらく。中には写真と共に、名前が書いてあった。
『1年D組 43番 柳田 柚葉 (ヤナギダ ユズハ)』
「おいおい……どういうこったよ」
 黒瀬は怯えているその制服を着ている少女の肩を掴んだ。顔を覗き込む。
 その顔はどう見ても柚葉の写真とは別物で、髪の色も茶色ではなく真っ黒で、ショートカットだった。怯えたような目を向ける彼女に
「こいつに聞けばわかる」
 黒瀬はぼそりと呟いた。



 気がつくとどこかわからない部屋にいた。自分の周りを男子生徒が取り囲み、不安げな、迷うような視線を向けている。何がなんだかわからず、立ち上がろうとすると視界が歪み、膝が崩れ落ちた。
「柳田 柚葉だよな」
 ふと、一人の男が口を利いた。声の方を見ると、大きな扉を背にした男が――サングラスをかけた男がゆるりと腕を組んでこちらを見ていた。返事をしようとするが、朦朧とする意識とろれつの回らない口がそれを拒んだ。
「てめえの女の腐ったような友情を後悔しろよ」
 サングラスの男は淡々とそう言った。その口調は冷え切った刃のような鋭さがあり、柚葉は本能的に背筋を虫が這い上がるような恐怖を覚えた。しかし逃げ出そうにも、身体が言う事を利かない。サングラスの男の指示で、まわりでオドオドしていた男子生徒たちが自分を持ち上げ、先ほどまで自分が寝ていたらしいソファーに横たえた。スカートがめくりあがったが、誰もそれを直そうとはしない。
 サングラスの男は胸元からタバコを取り出すと、それを口にくわえ、火をつけながら
「本来なら、テメェじゃなかったんだ。黒ノ目ユウカがその役だったはずなんだが……」
 天井へ顔を向け、紫煙を吐き出す。
「どこで聞いてきたんだかな……。あの女、『自分の代わりを用意するから自分は見逃してくれ』ときた。ま、なんだっていいがな。俺は俺の仕事を順当にこなし、社会は是正され、多くの誰かは助かるわけだ……それで十分だとおもわねぇか? ぅん?」
 サングラスの男は笑ったようだった。しかし、それがはっきりとわかるほど、柚葉の視界は回復していなかった。まるで水中にもぐったように視界はかすみ、ねじったかのように歪む。
「もう一本くれてやれ。夢見させてやった方が本人も幸せだろ」
 男子生徒の一人が近寄ってきて、何かを――鋭い針のついた何かを柚葉の腕に刺し込んだ。
 直後、視界に色が混じった。フィルターを通したかのように青みがかったり、緑がかったり、赤みが混ざったりしたかと思ったら、今度は極彩色の渦がとぐろを巻き始める――
「……さて、もうすぐ時間だ」
 もはや声だけしか聞こえなかった。
「やりたいように、やれ」
 腕や身体をわしづかみにされるのはわかったが、それに何をしようともいう考えも浮かばなかった。ただ、祭りの楽しげな喧騒だけが遠い――



『ぅおーい! もう十二時になっちまうぞッ!』
 柚葉を探して廊下を駆けていた九頭が毒づく。
 焦りは九頭だけのものではない。清音も砂也も、華も勘八も、日和や黒瀬も、内心から沸き起こるたぎる様な焦りに怯え、怒り、冷たい汗を流して、奥歯を噛み締めていた。
 廊下の角を曲がり、邪魔な一般生徒や教師を突き飛ばしながら黒瀬はマイクのスイッチを乱暴に押し、
『日和ッ! 黒ノ目ユウカの予定はわからないのか!?』
 日和が焦った声で
『連絡は来て無くて……今安全委員会が校内を探しています』
『それじゃ間に合わないわよッ!』
 清音は階段を飛び降りながら叫んだ。全身完全装備の人間が華麗に空を飛ぶ姿に、周囲から驚きの声と歓声が上がったが、清音にはそれを構っている暇が無い。驚いて転んだ女子生徒の罵声が後ろから飛んできたが、無視して階段をさらに駆け下りる。
『あいつが柚葉の制服を交換したんだろ!? だったらあいつ、柘植の近くにいるのかも!』
 砂也が渡り廊下を駆け抜けながら怒鳴る。立ち止まって周囲を見渡すが、四方八方を格好も歳も違う人群れが歩き回っているのだ。一人の少女を見つけ出すのは容易ではない。舌打ちし、呟く。
「どこだよ……!」
 つい二、三分前まで、黒瀬達は例の無許可パブで柚葉の制服を着ていた少女に話を聞いていた。
 彼女は他の客の接待をしていると、唐突に女子生徒を連れた黒ノ目ユウカに「彼女と制服を交換してやってくれ」と言われたのだそうだ。件の『友好の証』だと思った彼女は、素直に交換したのだという。つまり柚葉は別の高校制服を着て出て行ったことになる。
『ったく! あんた達出口見張ってたんじゃないの!? 役に立たないわね!!』
 黒瀬と砂也は制服を着替えて、別の学校の生徒に偽装した柚葉を見逃したのだ。痛恨のミスだった。黒瀬も砂也も、無意識に『柚葉は今日成華高校の制服を着ているから、終日その格好だ』と思い込んでいた。それに彼女は入っていく時は一人で、出て行く時は男連れ――つまりカップルに偽装していた。ユウカが一人を見繕ったのだという。黒瀬達は出入りの激しい中、一人や女子生徒の集団にばかり目をやっていて、カップルにあまり注意を払っていなかった。男の影になって顔が見えなかった女子生徒も確かにいた。その中に、柚葉はいたのだ。
『仲間同士で責め合ってる場合か、言ってる間に周りに目をやるんだよ』
 勘八は屋上から双眼鏡をのぞいてグラウンドを見張っていた。とはいえグラウンドはあまりに人が多すぎて目が行き届いているとはとてもじゃないがいえない。
『体育館は暗いし広いしでわかりませーん! 聞こえてますかぁ!!』
 華がライブで熱狂している生徒達の横で泣き言を漏らす。暗い室内に轟音が轟き、レーザーが四方八方に蠢いている。生徒達が熱狂してジャンプするたびに床が地震でも起きたかのように揺れるのだ。その度に華は「ひゃんっ」とか「わっ」とか悲鳴を上げる。
「時間が無いか……!」
 黒瀬が駆ける先にプラカードをもった集団が向かって歩いてくる。『女性に正当な権利を』『男の暴力に屈するな』と書かれたプラカードで、老若問わない女性たちが廊下を塞いで歩いてきていて、近くを歩いていた男をとっかえひっかえに捕まえてはなにやら激しく主張していた。彼女たちの一人、恰幅の良い女性が黒瀬を見つけると、とつとつと説法を始め、「そんな格好をして走り回って、それが男らしいとでも思ってるのか? 今の時代は文化の時代であり、そのようなやり方は前時代的で」
「どけッ!!」
 黒瀬は情け容赦なく女性を殴り飛ばした。派手に鼻血を撒き散らし、地味な「ぅぶ」といううめき声を上げて、彼女は廊下の壁に叩きつけられた。周囲から「おおー」という男性諸氏の歓声を受けながら、黒瀬は無線に声を叩きつける。
『時間は!?』
『えと……十一時五十六分です!』
 黒瀬は僅かに目を瞑って思案した後、
『――ッ全員黒ノ目ユウカは諦めろ! 女子生徒のレイプが進行中と考えられる場所を近いところから当たっていけ!』
『どーいう場所よ!?』
『閉鎖的な空間、外部から監視されない場所、音が漏れない場所、考えられる可能性に当てはまれば全て見てまわれ!』
『この文化祭会場の中でどこにそんな場所があるってんだよ!?』
 九頭が怒鳴り返し、黒瀬もかっとなって怒鳴り返す
『探せッ! どこかに必ず――』
 と、そこまで言ったところで黒瀬は言葉を切った。
 一瞬呆然としてそれを見てしまう。
 視線の先に、楽しそうに男子生徒と歩いている黒ノ目ユウカの姿があった。
「――命令中止ッ! 中止だ!」
『はぁ!? なんなのよ!?』
「黒ノ目ユウカを発見した、B棟・C棟の渡り廊下、二人の男連れで成華高校の制服、クレープを手に持って移動中! B棟側から追い込む、誰か近い奴は!?」
『俺!』『あ! あたし近い!』
 砂也と清音が同時に答えた。黒瀬はそれを聞くと同時に走り出し、足元で立ち上がりながら「殴ったわね!? 遂に殴ったわね!? これは男性による人間としての権利を侵害する行為でこれこそ男性的な問題を暴力で解決しようという」と叫ぶ先ほどの恰幅の良い女性を蹴り飛ばして、一気に渡り廊下へと向かう。
 廊下の突き当りを曲がり、渡り廊下に乗り込んだ。人ごみを掻き分け、邪魔な人間を殴り飛ばし、僅かに開けた場所に出ると銃を構え
「黒ノ目ユウカぁッ!」
 楽しげに歩くその背に怒声を叩きつけた。
 彼女はワンテンポ遅れて振り返る
 黒瀬の姿を認めると途端に驚愕に顔を歪ませた振り返り――クレープを投げ出した――逃げ出す――
「砂也ァ!」
 すぐさま彼女の前に砂也が飛び出し、行く手を塞いだ。
 叫び声を上げてその脇をすり抜けようとする彼女を、砂也は見事に手を伸ばして阻止、思いっきり壁に叩きつける。
 黒瀬が追いつき、息を荒くして「何!? なんなの!? だれなのあんた達!?」と叫ぶ彼女にMP5の銃口を向ける。
 その背から黒ノ目と歩いていた男二人が駆けてきて、驚いた顔をすると
「おいなんだよ――! てめぇ! 何してんだよッ!」
 黒ノ目に銃を向けている黒瀬の胸倉へ手を伸ばし乱暴に揺らそうとする。
 その寸前に男の首に手が突き込まれた。、咽喉を鷲掴みにされた彼はうめき声と共に大きく仰け反る。
「下がりなさいッ!」
 駆けつけた清音が走りこんできた勢いそのままに男の首を掴んだのだ。その額に拳銃の銃口をつきつけ、そのまま壁際まで引き下がらせる。もう一人、黒ノ目と一緒にいた男がおたおたしながら駆けつけたが、清音が銃口を向けて「あんたも!」と叫ぶと、困惑しながらも壁に背中をつけた。
 黒瀬は黒ノ目の胸倉を乱暴に掴み上げて
「柳田柚葉はどこだ」
 黒ノ目は怯えて卑屈な目で黒瀬を見上げて
「知、知らない……あの娘の事なんて、今日は見てない」
 黒瀬は黒ノ目の胸倉を乱暴に揺らし、壁にたたきつけた。悲鳴が上がり、清音の抑えている男が「ユウカ!」と声を上げたが、清音が強く押し返した。
 黒瀬は黒ノ目に眼前で腕をまくり上げて腕時計を見せつけ
「あと三分だ――あと三分で全部手遅れになるぞ」
「知らない……知らないよ、なんなのよこれ……」
「何が起こるのかはわかっているはずだッ! 俺達がそれを止めてやる! お前も仮にも友人だったのなら、僅か一つでいい、柚葉の為にやるべき事をしてやれッ!!」
 黒ノ目の呼吸は過呼吸なほどに荒くなり、驚愕に見開いた目はアイシャドーが溶けて暗く縁取られていた。彼女はただ黙って黒瀬を見上げ、彼が見せつけた時計を見つめ、その秒針を見つめた。
 無為な時間が過ぎてゆく。彼女を救うための時間が。
 それは黒瀬達にとってはチームを守るための、彼らなりの『正義』を守るための時間だった。
 黒ノ目ユウカにとってそれは友人を救うための、『人間らしさ』を取り戻すための時間だった。
 秒針が一周しても、黒ノ目は黙り込んだままだった。視線は秒針がそらされ、彼女はす――と目をつむった。
 周囲が次第に騒然とし始める。黒尽くめの戦闘服姿の男達が生徒三人を押さえつけ、銃を片手に黙り込んでいるのだ。異様な光景に誰もが足を止め、それを見てまた誰かが興味本位に駆けつけてくる。
 黒瀬達はしかし、そこから一歩も動く気は無かった。
 秒針がまた、一周した。
 最後の一周が始まる。
「言え」
 黒瀬が呟く。彼の額は冷や汗に濡れ、瞳は焦りに大きく見開かれている
 時は刻一刻と過ぎる。秒針は止まらない。誰かのために秒針を止めるほど、時間は人生に寛大では無い。その一秒一秒にどんな葛藤と悲惨な結末が控えていようと、それはかわらない。
 黒ノ目が目を見開いた
 ゆっくりと――その僅かな間に、凝縮された数千の葛藤を抱きながら――口を、開いた
 残り時間、三十秒の事だった
「知らない」
 黒ノ目はそう呟いた。その瞬間、黒瀬はその目を怒りにたぎらせ、全身が総毛だった。拳を振り上げ、
『――本日は、成華高等学校文化祭にご来場いただき、誠にありがとうございます』
 振り下げ始めたその瞬間
『まもなく、第一体育館におきまして、校長先生による総評が開示されます。保護者の皆様、地域住民の皆様、ぜひ御参加下さい。繰り返します』
 黒瀬の拳は黒ノ目の頬から数ミリのところで止まっていた。黒ノ目は身を硬くし、ぎゅっと目をつむっていた。
 黒瀬の目は見開いていた。その目は目の前のものを見ていなかった。意識は全て、彼の頭の中を駆け巡っていた。
 その答えは、まどろむような思考を、横一閃に切り開いて飛び出してきた
「――――校長室だ」
 黒ノ目が目を開き、ぴくっと身動きした。黒瀬は彼女のその仕草で全てを悟り、その身を再び壁に叩きつけ「そうなんだなッ!?」と怒鳴った。
 黒ノ目は荒い呼吸の中に、嗚咽を混じらせていた。うつむき、肩を揺らしながら――頷く。
 黒瀬は無線に怒鳴り込んだ。
「日和ッ! 校長室は今開いてるな!?」
 日和が慌てたような声で
『え――あ! はい! 現在校長は第一体育館で総評を開いています! 校長室は施錠されていますが、十時から誰もいません!!』
 黒瀬が駆け出し、砂也と清音の肩を叩いた
「聞いたな!? 柳田は校長室だ! 行くぞッ!」
 三人は野次馬をかき分けて風のようにその場を過ぎ去り、後には地面に崩れ落ちて両手で顔を覆う黒ノ目と、それを奇異の目で見る野次馬だけが残った。


 口の中が気持ち悪い。押し込まれた舌を噛んだら、殴られた。上着は乱暴に引っ張りまわされ、引きちぎられようとしている。スカートは何とか手で押さえているか、それも半分以上は剥ぎ取られそうになっていた。そうしている間にもごく彩色に彩られた視界はぐにゃんぐにゃんとゆがみ、身体からは力が抜けていく
 なんなのこれ
 なんでこんなことになってるの、アタシ
 だって今日は文化祭で、ユウカと先輩のお店を回って、いっぱいおいしいものを食べて、いっぱい写真とって、誰かいい男の子を見つけて――
 楽しく、笑って、過ごすはずだったのに
 なんでこんなことに
 涙が滲んでくるのがわかったが、どうする事もできるわけも無い。全くの無力で、男達に組み敷かれていく。
「(せんせい――)」
 好きな人はたくさんいたが、こんな時に脳裏に浮かんだのは、最近好きになった教師の名前だった。
「(塚川せんせい……たすけて……)」
 完全に手からも力が抜けた。スカートが剥ぎ取られ、誰かわからない男の手が腰をまさぐる。気持ち悪い。だがそれに抵抗する力などもう残っていない。上着も剥ぎ取られた。それに男達が歓声を上げる。気持ち悪い。
「(たすけて……!)」
 渇望すればするほど、彼の顔は脳裏から薄れていった。もがくように彼の顔を強く思い出そうとするが、しかしそれは叶わない。何も思い出せなくなる。意識が極彩色に飲まれ、もう、すべてが、ておくれで
「……せ……んせ……」
「待て」
 男達の動きがピタリとやんだ。
 柚葉は閉じようとしていた瞼を、うっすらと開いた。自分を組み敷いている男達がそろって視線を横に向けている。ぐったりとする首を、何とか動かし、その視線を追う。
 そこにはサングラスの男がいた。男は大きな木枠の扉脇に腕を組んでもたれかかっている。彼は僅かにうつむき加減で、サングラスのつるを押さえて、位置を正した。
 静かに呟く
「黒瀬莞爾か」



 校長室の豪勢な木枠扉をブリーチ(爆破)して突入しようとしていた黒瀬は、その言葉にさっと手を上げて扉の取っ手に爆破装置を取り付けていた清音の動きを制した。
「扉から離れろ」
 扉の向こうから、男の――まごう事なき、柘植の声がした。
 清音が黒瀬を見て、黒瀬は壁際で黙って膝をついて、耳を済ませていた。
「……正門で暴れてるのは囮だぞ。こっちの本隊はもう私服で潜入してる。どういうことかわかるか?」
 扉の向こうで、柘植が小さく笑う声が聞こえた。
「ベタな方法で悪いがな、俺の命令一つで連中は所構わず暴れまわるって事だ。ナイフかバットか――ま、頭が悪いなりに効率よくたくさん殺せるよう、頑張るだろうよ」
 黒瀬は僅かにうつむいた。努めて静かな呼吸をして、思索しているようだった。清音はぎゅっと拳を握り締めて、そんな彼を見つめている。
「前に話したよな? 俺みたいな人間がいるからお前みたいな人間もいる。持ちつ持たれつなんだよ……俺たちの住む世界はな、正義感がのさばってれば皆幸せになれる程単純じゃねえんだ。警官は悪いことをしない極悪人を裁けない。俺達の世界を秩序立て、教え導くのは、古本屋に山積みされた小汚い本と、果てしなく個人的な恋愛体験に裏打ちされたポップミュージックしかないんだよ――ここは俺に任せろよ黒瀬。全部、上手く、まとめておいてやるよ」
 黒瀬は答えなかった。沈黙の、僅かな時間が過ぎた。
 清音はふっと不安に襲われる。黒瀬は向こう見ずな時もあるが、バカじゃない。卑怯でもないが、いつも良いことばかりするわけじゃない。
 彼は善意を自分でコントロールする事が出来る。必要があれば女の子の髪を引っ張るし、じゃまなおばさんだって殴り飛ばすのだ。相手が血を流そうが、泣き叫んでいようが関係ない。『その目標』の為なら、どんな犠牲だって、いとわない。そう、自分の正義感だって――――
「最後のチャンスだ黒瀬」
 扉の向こうから、穏やかな声がした。
「俺だってこんな事したくない。もっと穏便に済ませたいんだ……扉から、離れろ。次は無い」
 黒瀬はやはり返事を返さなかったが、しばらくすると立ち上がった。清音が懇願するような目を向けるが、黒瀬は首を振って、彼女の肩を引っ張った。
 そのまま、扉から離れる。清音が嫌がると、その肩を抱いて無理やり抱き寄せた。その無感動そうな目を、扉の奥の、その向こう側にいる男に向けて――――


 勝った
 うつむく柘植の内心にその言葉が沸き起こり、抑えきれない笑いの衝動が沸き起こった。彼はどうしようもなくおかしくなり、声を上げずに、ぐ――と、口元を持ち上げる。全ては思惑通りに進んだのだ。邪魔は入ったが、何のことはない。この扉の向こうで縮こまる奴を見ればわかる。ささいな邪魔だ。誰も自分をとめることはできない。口だけの正義感を振り回す奴など、自分の知恵と、度胸の前には、全て無力でしかないのだ。自分の声のない笑い声が扉の向こうに聞こえていないか、そんな愉悦に満ちた不安を覚えて扉の向こうに耳を済ませると、小さな呟きが聞こえた。


「――――突入しろ」


 柘植が目を見開き
 校長室の窓はぶち破られた


 ブラインドが弾き飛ばされ、正午の太陽にきらめいて舞い散るガラスと共に、黒尽くめの戦闘服に身を包んだ、華と勘八が飛び込んでくる。
「動くなっ!」
 素早くMP5を構えた華がその可愛らしい声を鋭くとがらせて叫ぶ。しかし男達は慌てふためいて一瞬逃げ出そうと腰を浮かし
「やめとけばいいのに」
 砂也の呟きが聞こえた。男達がはっと周りを見渡す。が、声の主は見当たらない。
「ケーコクはッ、したかんなぁぁぁぁぁ――――!!」
 割れずに残っていた窓からガラスを粉砕して弾丸がぶち込まれた。柚葉を組み敷いていた男達が次々と悲鳴を上げて倒れて行き、逃げ出そうとした男を
「少し痛いぞ」
 勘八が冷静にアッパーをたたき込んだ。しっかり乗った体重と腰の回転、そして年季の入ったそのパンチは、男の腹に数十センチめり込み、彼がその日食べた食事を床にぶちまけさせた。
 九頭と砂也が窓からすりと入ってきて、床でうめきながら立ち上がろうとした男の腹を、固いブーツのつま先で蹴り飛ばした。男は床を転がってさらに激しくうめく。
「おら床に伏せねぇと全員ぶち殺すぞ!」
「おとなしくしてねー」
 そう言いながら、九頭と砂也は元気よくハイタッチした。
 その光景を背に
「――ッ」
 柘植は腰から拳銃を抜き出し――砂也が奪い取られたセキュリティシックスのリボルバーだ――扉に向けて全弾撃ちまくった。
 扉の外で黒瀬が清音の肩を引いて地面に引き倒した。彼女が「きゃぁ!?」と悲鳴をあげ、弾丸がその近くに着弾する。清音の悲鳴を聞いた柘植は即座に銃を投げ捨て、扉に手をかけて脱出を図り

 爆発

 吹き飛んだ扉と共に柘植の身体は見事に宙を舞い、校長室の執務卓に背中から突っ込んだ。サングラスは吹き飛び、壁に当たってグラスが粉々に砕け散った。
 激しい苦痛のうめき声をかみ殺し、彼はしかし、挫けることなく立ち上がろうとした。
「諦めろ」
 カチャリ、と、その額にMP5の銃口が向けられる。柘植が顔を上げると、黒瀬が自分を冷然と見下げていた。窓際にぶら下がっているブラインドの影に陰った顔が、無表情をより酷薄にしていた。

 割れた窓から、祭りの楽しげな喧騒が随分近くに聞こえた。
 組み敷かれていた柚葉が呆然と身体を持ち上げて、柘植の額に銃を向ける黒瀬を見つめている。
 華はその身体をいたわり、優しい言葉を二言三言語りかける。柚葉は声も上げずに涙を流し、華の胸に倒れこんだ。彼女は静かに抱きとめる。
 九頭と砂也は背伸びを一つすると、床に転がった男達をワイヤー錠で拘束し始めた。まるで冷凍マグロでも並べるかのように、身動きできなくなった男達を部屋の端に転す。惨めな男達の姿が、ずらりと並んだ。
 勘八と清音は日和に「作戦成功!」と連絡を入れる。日和が『了解しました。はぁ……』と安堵のため息と共に返すと、二人は「いぇい!」と楽しげにハイタッチを決めた。

 全てが急速に終結へと向かっていた。

 黒瀬は終結を背負い、自分を見上げる柘植を見つめる。その目に誇るところは無く、哀れむところは無く
 ただ、静かに呟く
「俺にはったりは利かないと言ったはずだ」
 柘植は彼をじっと睨みつけていたが、しばらくすると奥歯を強く噛み締め、俯いた。





「派手にやったな」
 校長室の惨状を眺めながら、向橋は呟いた。彼の周りでは安全委員会の生徒が床に転がってうめいている男子生徒達を回収したり、吹き飛んだ扉の破片を集めたり、割れた窓を調べていたりする。
 同じくそれを眺めていた会計・松平ノブはニコニコしながら向かいに突っ立っている黒瀬の肩を叩く。
「だけどいい結果を出したじゃねぇか? なぁ黒瀬。報告書が出来たら真っ先に俺に渡せよ。すぐに高等公安に予算組み立てを頼んでやる」
 黒瀬は静かに頷いて返す。松平はその様子をいぶかしげに見ていたが、すぐにその傍らで副会計・櫻木桜が彼の手を取って
「すごい! すごいです! ホント言うと、だーれも皆さんには期待してなかったんですけど、こんなにカッコよく捕まえちゃうなんデッ!?」
 最後のは松平が彼女の頭を引っぱたいたために起きたノイズである。黒瀬は彼女に頷いて返すと扉を顎で指して「もう帰っても?」と短く尋ねた。向橋は「あぁ。好きにしろ。――報告書は早めに出せよ」と彼を見送った。


 黒瀬が廊下に出ると、突き当りに用意された横長のソファーにチームの面々が座っていた。近づくと、彼らは眠そうな目を擦り擦り黒瀬を見上げる。
「まさか素晴らしい訓示とお褒めの言葉をいただけるんじゃないだろうな」
 九頭が呟いた。黒瀬は真顔で彼を見つめ返したが、しばらくすると小さく笑った。彼らの間に自分もどっかりと腰を落とし
「それは省略しよう、俺も疲れた……」
 と息を吐いた。清音がだらんと頭を壁に預けながら彼を見て笑い、勘八は腕を組んで目をつむったまま鼻を鳴らした。日和と華はいつかの時と同じように、頭を突っつき合わせて眠っていて、砂也はその様子をいつかのカメラでこっそり撮っていた。もちろん彼も眠そうだ。
 終わったのだ。激闘の末の結末としてはなかなか地味だが、それでもこうして皆でソファーに並んでいるのは悪い気分じゃなかった。心地よい疲労感の中で彼らはまどろみ始め、そうしてゆっくりと、戦いの疲れを癒していった。
 黒瀬の携帯が鳴った。





 屋上へ続く階段を黒瀬達が駆け上る。「ったくよ!」「ふざけんじゃないわよ!」と口々に毒づきながら、最上階の扉を押し開いた。
「――っ!? 来ないで!」
 屋上のひらけた空間の中に、一人の少女のシルエットが浮かび上がっていた。彼女はフェンスの向こう側にいて、その行動の目的はそれだけで明白だった。
「待った! 待った待って! 俺達はもう君を責めるために来たわけじゃない!」
 九頭が慌てて彼女に声をかけるが、彼女はフェンスの向こうの僅かな空間をさらに後ろに後ずさりする。
「だめだよ……だって、アタシ、もう……あんな事して、もう、ダメだ……アタシみたいなの、死なないと」
「……大丈夫だ、柳田柚葉は助かった。お前に責任は無い」
 黒瀬は努めて穏やかな口調で語りかけた。ゆっくりと、その名を呼ぶ。
「黒ノ目ユウカ」
 夕方の光を背にして今にも飛び降りそうな悲壮な顔をしているのは、黒ノ目ユウカその人だった。歯をカチカチと鳴らして、その痙攣だけでそのまま落ちていきそうだ。
 黒瀬の携帯にかけた相手はまたも新聞部のフヒトだった。『屋上で自殺するって騒いでる女がいるけど、彼女って黒瀬が昼に銃で脅してた子だよね? やばいんじゃない?』というのがその内容だったのだ。状況から言えばそれはヤバイどころではなかった。
「……黒瀬、ここは俺が何とかするから、下にマット集めてくれよ」
 九頭がそうささやき、黒瀬は頷く。砂也と勘八を連れて階下に向かっていった。
「黒ノ目ユウカ、死ぬにしてもこれだけは言っておきたい。だから慌てずに、とりあえず聞いてみてくれないか」
 九頭は穏やかな口調でそう言った。黒ノ目は呼吸が荒くなり、震えも強くなるが、一応は飛び降りる事無く九頭を見つめる。
「まず死ぬ前に残したい言葉や何かを伝えたい人がいるだろ? 家族や、好きな人に」
 突然彼女はヒステリックに顔をゆがめて
「家族なんかどうでもいい! あいつら皆死ねばいいんだ!!」
「……そうか、悪かったな、それじゃあ、誰かいないのか? 誰も?」
「…………そんなのいい。あたしは皆に謝りたいから、死んで謝る」
「それはどうかな。君が死ぬ事で皆は困るかもしれないよ? 許しても、伝えられないし」
 黒ノ目は黙り込んだ。風が強くなってきて、彼女の髪を激しく揺らした。
「(まずいな……このままだと勝手に落ちて死んじまうぜアイツ)」
 九頭の内心は焦る。だがそれを微塵も感じさせない笑顔で彼は説得を続ける。
「黒ノ目ユウカ、謝るなら生きて謝ろう。死ぬならそれから、死んでもいいじゃないか。ちゃんと言葉で伝えないと、気持ちなんて伝わらないんだよ?」
「……」
「大丈夫。皆君がちゃんと謝れば、許してくれる。誰だって過ちは犯す。大事なのはその後なんじゃないのか?」
 黒ノ目が俯いた。「(まずいか……)」と九頭は背中に冷や汗を流したが、彼女は手で目をこすりつけて――泣いているだけだった。
「……み、んな、ゆ、ゆるして、く、れる…………?」
 九頭は大きく頷いて
「ああ、大丈夫。俺もついていくよ。ちゃんと君が心から謝ってたって説明してやる――ほら、柳田柚葉に謝りたくないか? 真っ先に謝るべきだろう?」
「……あ、あやまり、たい」
「ああ。俺が今すぐ呼んできてやるよ。生徒会にちょっと無理言ってな。でもそれだったらまず、君がこっちに戻ってきてくれないと、俺も眼が離せない」
 そこから長い間、黒ノ目は嗚咽を漏らすだけで黙っていた。だがしばらくすると意を決したように一歩前に進み、フェンスに足をかけた。
「慌てずに、そう――ゆっくりで良いんだ」
 九頭は安堵しながらも、穏やかに声をかけた。彼女の背後で目を白黒させていた華と日和、清音も大きなため息をつく。
 その時、彼らの背後で屋上の階段へ続く扉が激しい音を立てた。黒ノ目が音にびくついてバランスを崩しそうになり、九頭はそれに慌てた。清音は思わず怒鳴ろうと扉を開けた主へと振り返り
「――?」
 といぶかしげに目を細めた。九頭も怒り心頭で振り返り、背後にいた男を怒鳴りつけようとして
「柳田柚葉君ならさっき死んだよ」
 そこにいた教師――塚川 俊の言葉に愕然とした。砂也に「女の子も程ほどにね」と冗談めいた忠告を残し、柳田柚葉が間際にたすけてと願ったあの彼である。
 しかし今の彼には冗談をいうような様子もなければ、人を助けるような様子もなかった。メガネの奥では淡々とした、機械のような目が黒ノ目を捕らえていた。
「自殺したんだよ――友達に裏切られた事を悔やんでね。でもこれは自殺じゃない。君が殺したんだ。上手いやり口だよ、黒ノ目君。君は人を絶望に突き落とすのがとても上手い」
 彼はス――とメガネのつるを持ち上げながら
「まぁいずれにせよ――――君が謝るようなチャンスはなくなったという事だ」
 黒ノ目の目が絶望色に染まった。光が失われ、彼女はバッとフェンスから離れた。身体を震わせて、足を一歩、後ろに踏み出し
「黒ノ目ダメだッ!」
「あ――――」
 九頭が叫ぶと同時に、彼女は小さな声を残して屋上から消えていった。


 屋上から華と清音の悲鳴が聞こえると、ちょうど三階で向橋に事態を説明していた黒瀬達も何が起こったのかを瞬時に悟った。砂也が黒瀬を見た瞬間、黒瀬は――――





 砂也は黒瀬が動揺しているのを見た時がある。
 ある日砂也が蔵書室に向かうと、黒瀬が新聞を眺めていた。さすがに黒瀬とはいえ、そんな事は珍しい事なので、砂也はなんとなく彼を眺めていると、黒瀬が自分が入って来た事にすら気付いてないのに気がついた。
 彼は激しく動揺していたのだ。何の記事を読んで動揺していたのかは、知らないし、知るべきでもない。だが砂也がいつも黒瀬から感じていた違和感の正体が、その時やっとわかった。
 黒瀬は後悔と寂しさを抱いていたのだ。それは彼をずっと拘束していて、彼の言動、思考、意思全てに干渉していた。それが砂也に違和感を抱かせていたのだ。誰よりも消極的なようでいて積極的で、しかし時としてふっと弱気になる。そんな時彼は、どうしようもなくがんじがらめになっていたのだ。
 だけど彼は、時として誰もが驚くような事を平気でやってのける時がある。
 それはおそらく、からめとられていた『本当の黒瀬』が見せる、本当の彼の姿なのだ。そんな彼の姿はめったに見られないが、砂也はその瞬間の彼が大好きだった。誰もができないと思うような事を、無謀と勇敢さのギリギリのラインで掻い潜り、あっという間にやってのけてしまう。
 そう、それこそが黒瀬莞爾なのだ。





「黒瀬やめろッ!!」
 砂也が叫んだ時には既に黒瀬は駆け出していた。扉の開いていた傍らの空き教室に疾風のように駆け込み、窓際に駆け寄ると流れるような動作で手すりにカラビニをひっかけ、
 迷う事無くガラスを突き破って外に飛び出した。
 仰向けになって、空を見上げる
 屋上から落ちてくる重力で加速した重さ五十二キロの肉の塊を、両手を広げて待ち構えた
「馬鹿野郎……!」
 勘八が早口で呟くとともに駆け出し、
 砂也はふざけんなと思った
 目の前で空を飛び、空から落ちてくる少女を受け止めようとする黒瀬を、思いっきり罵倒したかった。「死んじまうぞ!!」と。目の前で起きていることはまるで漫画のようだったが、現実はそんなに甘くない。こんな事をして、全てがハッピーエンドに済むはずがない。現実をなめて掛かれば必ずしっぺ返しを喰らう。だけどそんな事は自分が言うことではなくて、いつもなら黒瀬が自分に言ってくれるはずの言葉だったはずで、今、黒瀬は――――
「黒瀬ッ!!」
 スローモーションのようだった時間は唐突に本来の時間を取り戻した。黒瀬の姿は窓から消え、彼の身体を支えていたたった一本のロープが引っかかった手すりが、ベキンッと音を立ててへし折れた。砂也が駆け寄る。


「――っはははははははは!」
 塚川は黒ノ目が屋上から消えると、けたたましい位の笑い声を上げて天を仰いだ。九頭は手すりに駆け寄る力もなく、片膝をつく。
「真の英雄は死を持って永遠となり神となって人を導く――黒ノ目君はすばらしい。素晴らしい英雄だ彼女は」
 呆然としていた清音が、その言葉に塚川を睨みつけ、胸倉を掴み上げる。
「わけわかんない事言ってんじゃないわよこの人殺しヤロウ!」
「人殺し? 僕が人を殺したの? 違うよ、黒ノ目君は自殺したんだよ。柘植と結託して柚葉君を陥れた罪にさい悩んで」
 華がハッとして彼を見つめる。
「先生が……先生がやったんですか……」
「柘植を使ってイジメ被害者を殺させたのはテメェか!?」
 九頭が怒声を上げて立ち上がると、塚川はゆっくりと首を振って清音の手を振り払うと、彼に近寄ってきた。
「違う。柘植を使ったのは黒ノ目ユウカだよ。僕は遺書を見つけただけ」
 胸元から白い封筒のようなものを取り出した。それを九頭の前に差し出す。九頭が見ると、そこにはペンで書かれた小さな文字で『私が死んだら見てください』と書かれていた。
「そこに事件の真相は全部書いてある。全ては黒ノ目君が柘植と結託して行った愉快犯罪。ミステリアスな事件を演出したが、しかしシナリオを書いていたユウカは柘植が捕まって急に怖くなり、自殺を図った――――」
「ふざけんなッ!」
 九頭は封筒を投げ捨て、塚川の胸倉に掴みかかった。
「ふざけてないよ。遺書にそう書いてあるから、そうなのさ。きっと柘植君も、そう証言してくれるよ」
「おい! 一体どうなってる!?」
 向橋が安全委員会の生徒を連れて屋上に上がってきた。
「こいつが黒ノ目を殺したんだ!」
「違う、彼らは勘違いをしているよ。僕は教室の机で彼女の遺書を見つけてね、心配になってきてみたらこれだよ……残念だ」
「ふざけんなよテメェ!!」
「だからふざけてないさ」
 向橋は眉をひそめて彼らの下により、地面に落ちていた遺書を拾い上げた。中を読み、九頭に尋ねる。
「……どうして塚川が殺したと?」
「……黒ノ目は自殺しようとしてて、俺が説得した……なんとか説得できたのに! コイツが急に出てきて『柚葉が自殺した』とか余計な事を言って――」
「柚葉が自殺した――? 彼女はこれから病院に向かうところだが」
 向橋が振り返ると、階段へ続く扉の置くから件の柳田柚葉がおそるおそるといった風に顔を覗かせた。唖然とした九頭が目を向けると、塚川は肩をすくめて
「勘違いだったかな?」
 九頭が完全に頭にきて拳を振り上げ、その瞬間華が「清音ちゃん!」と叫び、九頭のパンチよりはやく清音のハイキックが塚川の顔面に炸裂した。彼は派手に倒れこむが、しかし顔を手の甲で擦りながら「痛いな……」と微笑を浮かべて立ち上がる。
「まぁ殴りたければ殴れば良いさ。もちろん蹴っても良いけど……君たちは口が封じられているからね」
「はぁ!?」
 清音がいきまくと向橋がそれを視線で制し
「彼の言う通りだ。お前達は存在していないはずの部隊だからな。ここにいること自体、矛盾している」
「意味わかんない! じゃコイツ――この人殺しはどうなんのよ!?」
「どうにもならないさ。遺書を見つけたただの教師だからね僕は」
 塚川はフェンスにもたれかかり、口の端から垂れた血を舌でぬぐった。
「だから、『来年も続くんだ』」
「コイツ――」
「向橋さん! このまま放っておいていいんですか!?」
 九頭が毒づき、華がらしくもなく強く叫んだ。向橋は黙っていた。塚川はそんな彼らを見てうっすらと、笑う。空を仰ぎ、そよぐ風に気持ち良さそうな顔をしていた。
「……その笑い、俺も気に入らんな」
 向橋がぼそりと低い声で呟いた。塚川は彼に目を移し、「そうかい」とにっこりと笑った。向橋は怒鳴るでもなく、蹴るでもなく、もちろん叫ぶでもなく、真っ直ぐにその目を強い力で見返し、遺書を彼の前に差し出した。
「では、俺はこの手紙の内容が確かに真実を物語っているのか、本人に聞いて見よう」
 塚川の顔色が変わった。
「何?」
「英雄は死んで神になるだと? 違うな。神は英雄じゃないし、英雄はただの人間だ。特に、恐怖を押し付け、なすべきことをなす事ができる、な――下を見てみろ」
 塚川は慌ててフェンスから身を乗り出し、階下を覗き込んだ。そして言葉を詰まらせる。
 落ちていったはずの黒ノ目ユウカは、三階の教室からロープで吊るされた男にしっかり抱きとめられていた。
「なんだと……!?」
 驚愕に顔を歪ませる塚川に、向橋は「真実を語るなら今だぞ」と静かに言った。塚川は奥歯をぎりぎりと噛み締めていたが、しばらくするとふっと肩から力が抜け、小さく鼻で笑った。
「……まぁいいさ。ここで僕が力尽きても、僕が生きている限り、僕に続く人はいくらでもいるさ。むしろ刑に服す事で、僕は生きながら伝説となる」
 清音は元々彼を汚いものでも見るかのような目で見ていたが、その言葉の後では目を逸らし「狂ってるわ」と小さく呟いた。
 その彼女の横に、誰かが立った。清音がふと顔を見上げ横を見ると
「私、先生を許します」
 柚葉が塚川を真っ直ぐに見つめて、そう言っていた。
「先生の事が好きですから」
 華が唖然として、「あの……」と呟くが、塚川はそれをさも当たり前かのようににっこりと笑って、
「そうかい。ありがとう」
 と返した。
「ええ――どういたしまして」
 柚葉がにっこり笑って返す。その瞳には、輝きが宿っていない。


「柚葉は生きてるの――?」と引き上げられた黒ノ目は小さく呟いた。黒瀬は頷いてかえす。が、自分の体重に加え黒ノ目のけして軽くない体重、それに重力加速まで加えた重さをワイヤー一本で支えた身体の節々が痛み、苦痛にうめきながら壁際に倒れこんでしまった。その身体を勘八と砂也が支える。
「柚葉、生きてるのね!?」
「あー生きてる生きてるよ。代わりに黒瀬が死にそうだ」
「柚葉に謝らなくちゃ……」
 黒ノ目は混乱しているのか砂也の言葉なんて聞いていないかのように、うわ言のようにそう呟いた。勘八が呆れて「謝る相手を間違えてるな」と黒瀬にささやき、黒瀬はそれに弱々しく笑って返した。
 ふと、屋上から何か騒ぐ声が聞こえた。それは一瞬だった。黒瀬と勘八が目を合わせる。しかしその騒ぎはすぐに収まった。砂也は笑って「また黒瀬の出番かな?」と呟いた。勘八と黒瀬は砂也の相変わらずな軽口にふっと笑い、立ち上がろうとして

 男の絶叫が背後を通り過ぎていった。上から下に。

 砂也が振り返った頃には既に、いつか聞いたような頭蓋が割れる音が響き渡っていて、屋上から悲鳴と、毒付きが聞こえた。「行くぞッ!」と絶句している勘八の手を振りほどき、黒瀬が駆け出す。「おいていかないで!」とその背に黒ノ目が叫ぶが、彼らは構わなかった。


 彼らが屋上に着くと、華が顔を両手で塞いで泣いていて、九頭と清音、向橋が信じられないものでも見るように、誰も『いなくなった』空間を見ていた。
「先生、わたしゆるすよ……わたし……ははは……ゆるす、ゆるすよ……」
 彼女達の傍らには、ふらふらと踊るように揺れながら呟き続ける柚葉の姿があった。黒瀬は口を噤み、勘八は目を細め、砂也は震える息を吐いた。
 誰も動けなくなった屋上で、彼女だけがゆらゆらと揺れ動いている。その姿は深緑の森の奥で踊る妖精の姿のようだった。スカートと髪がふわふわと風に舞い、穏やかな笑みを浮かべる。あたりの現実感から乖離した、幸せそうな、少女の姿。
 そして小さく、呟くのだ。
「せんせいのこと……すきですから……」





「砂糖の入ってない紅茶とかけまして、今回の事件とときます――その答えは?」
 狭い蔵書室の大きな机を前にして椅子に座ってぼんやりしていた清音は、ぼんやりついでのようにそう尋ねた。向かいに座っていた勘八は眉をヒョイと上げ、傍らで座っている華に尋ねた。
「その答えは?」
「うぇ? えぇ? え、えと、えーと……」と華は動揺してしばし考えるが、無声映画のようにあたふたする。何かに耐え切れなくなったように目をぎゅっとつむると、正面に座って九頭とトランプをしていた砂也に両手をばっと突き出し
「そ、その答えは!?」
「ほら、九頭、何か言ってるよ」
 砂也は手札をいじりながら全く興味なさそうに呟き、九頭はカードを真剣に眺めながら
「パソコンオタク、どうなんだ」
 と背後の『彼女』に呟いた。ラップトップの端末を広げていた彼女は『カチン』と思いっきり目を吊り上げて
「それって僕の事言ってるのか?」
「け、喧嘩しないでくださぁい!」
 机をぶったたいた日和の怒鳴りっぷりに、華が怯えた。
 「じゃ、黒瀬、出番だぞ」と九頭はしれっと続けたが、その返事は無かった。ん? と九頭は顔を上げ
「あれ。黒瀬いないじゃん」
「さっき出て行ったぞ。用事があるんだと」と勘八が言い、九頭はしらけたように「こんな時に? まーたっく空気読んでくれるぜ……」と呟いた。
「あ、あの、その答えってなんだったの? 清音ちゃん」
 話がずれ始めたので肩をふるふると震わせ始めた清音に、華があわあわと慌てながら尋ねた。途端、清音は「ふっ」と口元をもたげると立ち上がり、窓際に歩み寄った。その様はなかなかに不気味で、華はなんとなく冷や汗を流してしまう。
 そして清音は窓際に放置されていた用途不明な拡声器を手に取ると、開けた窓の外に向かって
『後味わるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ―――――――――――――――――い!!!!』
 誰か暇な男子生徒が、遠くから「そうだぁ! 後味が悪いぞー!」と(たぶん意味もわからずに)叫び返した。清音は拡声器を向けて『ありがとぉぉぉぉ――!』と叫び返した。
「そんな事だろうと思ったよ」
 砂也が冷めた口調でそう呟き、九頭が
「砂糖の入ってない紅茶ってそりゃ主観じゃねえか」
 清音はコメカミに青筋を浮かべて振り返り
『あとあじがわるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ―――――――――――――――!!!!』
「だぁぁぁ――わぁったわぁった!」
 九頭が耳を塞いで叫んだ。清音は『い』と言いおわると、はぁ、と天井を仰いだ。
「ほんとに後味が悪いわ」
 ポツリと呟く。微妙な空気が部屋に漂う。九頭はあえて聞かなかったかのようにカードを一枚机に投げて、砂也はしれっと「ダウト」と呟いた。
 扉が勢いよく開いた
「やかましいぞ! 誰だ今叫んだのは!?」
 向橋だった。清音は目を丸くして扉の方を見ていたが、向橋の姿を見ると、露骨に「なんだ肌が黒いヤツか」とばかりに視線を逸らした。
「なんだその悪意のある反応は。例の調査報告書を持ってきてやったんだぞ」
「失礼します」
 彼の後ろから小春がいつものファイルを両手で抱えて入ってきた。
「……黒瀬さんは?」
「どっかに行ったわよ」
「そうですか……では、彼抜きで始めましょう」

 あれから一週間が経った。事後のややこしいことはすべて生徒会に任せっきりにして、チームの面々はいつもの日常にひっそりと戻っていた。文化祭を思いっきり楽しんだ後は、いつも通り授業に出席し、友達と語り合い、昼ご飯を食べる。放課後の射撃訓練のような荒々しい事とはしばらく距離を置いていた。それにチームのメンバーとも。今日は久しぶりの顔合わせだ。事態がようやく落ち着いてきたので、小春が事後報告をまとめるために蔵書室に呼び寄せたのだ。

 小春は席につくとファイルから書類を取り出し、眼鏡をかけた。書類を眺めながら
「今回の事件の調査報告書を読み上げるに当たり、初めに言っておく事があります」
「御託はいいから早く聞きたいわ」
 清音はつんけんしてそう呟いた。小春は顔を上げ、彼女を無表情に見つめる。数秒の沈黙の時が流れた。その冷たいとも取れる視線のまま
「そういうわけにはいきません。これだけは言っておかなくてはなりませんので」
 小春は無表情に部屋を眺めた。小春と清音が一触即発だと悟りおろおろする華、興味のなさそうな九頭や砂也、腕を組んでこちらを試すような目を向ける勘八に、姿勢を正す日和。
彼ら一人一人を眺めて
「皆さん――お疲れ様でした」


「屋上から転落して死亡した塚川の死は、柳田柚葉によるものと警察は断定。彼女を補導し、矯正プログラムに参加させました。柘植は重度矯正プログラムの処罰が下すことが決まり、その他レイプに参加しようとした数名も現在警察による取調べを受けています。その犯した罪の度合いにより、それぞれ矯正プログラムによる処罰が下されます。黒ノ目ユウカは、自主的な転校が決まりました」
 小春は眼鏡越しのその目を静かに書類の文字の這わせ、淡々とそう言った。清音達は不満そうだったり、やっぱり興味がなさそうだったり、なんともいえない顔をしたりしながら、それを黙って聞いている。
「また、警察の調べで一連の自殺事件は全て、柘植の手回しによるものが判明しました。柘植は過去のイジメ被害者を経済的、社会的に追い込み、時には直接手を下しながら自殺へと導き、間接的に殺害。直接殺害したのは黒瀬さん達が現場に居合わせた時のみです」
 向橋が身を乗り出し
「警察もその辺りから手をつけてたらしいな。――それから、例の黒瀬に銃を向けた警官だが、あれも過去イジメとレイプに参加したこの学校のOBだ」
「『レイプに参加した事をばらされたくなかったら協力しろ』――って感じに脅されたかな?」
 砂也が窓の外を眺めながら呟き、向橋は頷いた。
「他にも脅されてる人はいっぱいいそうですね……」
 「自業自得よ」と華の呟きに清音が冷たい返事を返す。九頭が身を乗り出して
「まぁそれはいいけどよ、そんな事より気になるのはあの塚川だよ。アイツは一体なんだったんだ? 結局目的も何も言わずに頭かち割って死んじまって……」
「奴が死んだ以上、これは推測だが、塚川俊の目的はイジメの撲滅だ」
 向橋が言った。清音が真っ先に「はぁ?」と呟き、メンバーは揃って不可解そうにぽかんと口を開いた。
「待ってよ待ってよ、だってアイツが全部仕組んだんでしょ? イジメも、レイプも」
「確かにそうです。ですがそれは彼にとっては手段の一部だったと思われます。先ほど、彼は過去のレイプに参加したOBを脅していたといいましたね」
「言ったけど?」
「華さんが言った通り、脅していたのは件の警察官だけではありません。レイプに参加した参加者全員を脅していました。その期間は、在学中にまで遡ります」
「在学中って……高校生脅してどうすんだ? 小金巻き上げるくらいしかできねぇだろ」
「いいえ」と小春は首を振った。「じゃあなんだよ」と言わんばかりの目を向けるメンバーに、小春は向橋と一度目を合わせた。向橋が頷く。
 彼女は顔を元の位置に戻して、言った。
「――イジメをするな、と脅していたんです」
 全員思考が追いつかなくなり、妙な間が空いた。
「……え? え、え?」
 華が頭に疑問符を浮かべて、目を白黒させ始めた。
「塚川俊の担当するクラスは毎年イジメが0です。一年生担当時にいじめが発覚したとしても、二学期が終わる頃にはその全てが沈静化されているんです」
 絶句して言葉を失っていた砂也が口をパクパクさせながら
「――――つまり、一学期に見つけたイジメを、イジメられている奴をレイプさせることで……」
 九頭が頷きながら
「イジメている側に弱みを作って――強制的に止めさせた……」
「はぁぁぁ!?」
 清音が意味がわからないとばかりに叫んだ。小春はその様を冷静に見ながら
「私達にもはっきりした事は不明です。不可解ですが、彼の経歴から察するにおそらくそういう事だと思われます」
 「経歴って?」と勘八が――彼だけは随分とどっしりと構えている――腕を組みながら尋ねた。向橋が頷き
「ああ。 ――塚川は若いように見えるが、あれで比較的ベテランの教師だ。既に九年、高校教諭として就業している。他学校で一年。この学校で八年だ」
 清音が呆れて
「九年って、あいつ幾つなのよ……」
 砂也が彼女に目をやり、短く答えた。
「32」
「32!? ふへー、全然見えなかった……」
「問題は一年で他の学校から飛ばされて来たってトコにありそうだな」
 九頭の呟きに、向橋は頷く。
「塚川は他学校で新任として赴任した際、ある問題を起こして弾かれたんだ。だがその問題というのを話す前にまず……おい日和」
 言われると日和はファイルから一枚の写真を取り出した。清音達が頭を突っつき合わせて覗くと、そこには色白の外国人らしい高校生くらいの少女が写っていた。少しやせて、衰えているように見える。
「誰だコイツ?」「ちょっと清音ちゃんに似てるかも……」「そういえばそんなふーに見えるかもねー」「……色だけだと思いますが」「うむ。それに清音はもう少し太――ふっくらしてるな」「…………」「ぬおっ!? 痛い! 痛い清音! つねるな!」
「彼女は塚川の娘です」
「娘!? あいつあんな顔して娘までいんの!?」
「正確には『義理の』娘だ。塚川の姉が出産し、塚川育てていた」
「……?? お姉さんが生んだのに塚川先生が育ててたんですか?」
 華がそう尋ねると、向橋は少し言いにくそうに口ごもった。言い難そうに顔を上げると
「塚川の姉はHIVキャリアーだったんだ。娘を産んで、すぐに亡くなられた」
 「HIV?」と砂也が首をかしげて、日和が淡々と言う。
「人免疫不全ウィルス、通称エイズウィルスです。後天性免疫不全症といって身体の免疫機能が次第に低下していく不治の病です。様々な合併症を引き起こし、場合によっては死に至ります。体液を解して感染して、キャリアー――つまり感染者となるんです」
「不治って言っても最近じゃ多剤併用療法っていって……要するに薬でだいぶ進行を遅らせる事もできるし、それも一日一回薬を飲むとかだから、糖尿病みたいな慢性症状扱いに変わりつつあるけど」
 清音がそう言い終わると、九頭が口を半開きにして彼女を見ていた。清音が「何よ」と唇を尖らせる。九頭は目をぱちくりしながら「いや……別に、清音って頭よかったんだなって思い出して」と口を滑らし、腹にパンチをもらった。
 砂也が手に顎を乗せながら
「で、姉がHIVキャリアーだった事が塚川に何の関係があるわけ?」
「あんたねぇ、話聞いてなかったの? 親がHIVキャリアーで娘を産んでから死んだって事は、エイズだった事を隠して生んだって事よ。当然、母親の血から栄養をもらっていた子供は、エイズに感染してるに決まってるでしょ」
 九頭が腹を押さえてもだえながら
「じゃぁ……塚川はエイズに感染した娘を育ててたって事か?」
「塚川の義理の娘は、親戚に当たっても施設に入っても養子の当てが無かった。キャリアーだからな……」
「当時、塚川俊と姉は絶縁状態でしたが、娘の話を聞いた塚川は彼女を引き取る事にしたようです。その理由はわかりませんが、縁者であるという事に加え、彼が人を教え導く仕事――教師であった事に理由があると私は考えています」
 清音は疑わしげに目を細めて
「とかいって、隠れて虐待でもしてたんじゃないの?」
「わかりませんが、おそらくそれは無いと思われます。彼の娘はエイズであることから社会的にも倦厭され、塚川はその差別に長年の間抵抗していたようですから。通っていた小学校に抗議に訪れたこともあったそうです」
「……なんか良い人に聞こえてきたんだけど」と砂也が苦笑いした。
「当時の彼は人がそう呼ぶに値する人物であったでしょう。塚川の娘は小学校から長期にかけて保護者からの差別、その子供たちからイジメにあっていて、塚川はそれを防ぎきれなかった自分に悔やみ、彼女の通う高校へ赴任したんです。コネを使って」
「だが、皮肉にもそれが娘をイジメの被害者にしてしまう原因になった――親子関係は隠していたが、目ざとい生徒がそれを見つけて、さらに娘の病状を知る。結果、娘を『血の汚い子』などと罵ってしまい、それが周囲に広まり、倦厭され、言葉の暴力を受け……彼女は引きこもりがちになる」
「塚川は彼女のために帆走しますが、元々父親である事を隠していたため、PTAや教育委員会などから『自業自得』と批判の矢面に立たされてしまいます。それがさらに、いじめに拍車をかける事になる」
「なにそれ? 自業自得って、むちゃくちゃじゃない」
 清音がすっかり塚川に肩入れして、憤慨した。
「当時はエイズに対する理解はほとんどありませんでしたから」
「まぁ、感染する不治の病気を持ってる奴と一緒に生活しろって言われてもなぁ。学校じゃ何があるかわかんねぇし」
 九頭のその言葉に清音はきっと睨みつけ
「ホントに何にも知らないのね、普通に生活する分には大丈夫よ」
「九頭さんのような意識の人が普通の認識です。そもそもキャリアーの為に正しい知識を覚えろと言われても、『なぜこちらから歩み寄らなくていけないのか』と考えるのが一般の人の意識ですから。それは否定できるものでもないでしょう」
「だってそうするしかないじゃない!」
「まぁエイズの社会問題は別としてだ。――――結果的に、塚川はその問題が原因で職を失ってしまう。そして娘の社会復帰に力を尽くそうとするが、それも果たせず……」
 向橋が言葉を切った。勘八と九頭、日和が目を細め、清音と砂也、華が頭に疑問符を浮かべていると、日和がその先を続けた。
「塚川の離職に責任を感じた娘は学校で投身自殺を図り、自らその生を終わらせました」
 なんと言っていいか、どう思えばいいのかもわからず、ただ腹の底に深く沈みこむような重さを感じて、彼らは口を噤んだ。結局は十六歳の少年少女であり、死に対して『大人の対応』ができる程彼らは強くは無かった。
「……今の話でわかったように、塚川は『イジメ』というものに激しい怒りと嫌悪感を抱いていたと思われます。そしてそのまま、新たにこの高校に赴任してきたんです」
「塚川はイジメを完全撲滅しようと考えた。それがイジメのインフラの正体だ。一人の女を犠牲にして、イジメを主導する生徒の弱みをつかみ、彼らを使って様々な工作を図る。結果、生徒間のパワーバランスをコントロールし、イジメが自然発生するのを防ぐ――黒ノ目ユウカも、お前達が介入しなかったら何らかの形で利用されていただろうな」
「そして今年の五月にイジメ調査を生徒会が執り行った。それによりインフラの発覚を恐れた塚川俊は、過去にインフラの犠牲になったイジメ被害者達を自殺に追い込んだ――」
「同じく、イジメによって学校から排斥された柘植を使ってな」
 向橋がそう言い終わると、日和は手にしていた書類をまとめ始める。ファイルにそれをしまうと、めがねを外して「以上で報告は終わりです」と締めくくった。
 ――やりきれない
 という、抽象的でいて、酷く感傷的な思いが清音達の胸中に浮かんだ。結局塚川の目的は、手段は別にしても、善良過ぎるモノだった。愛していた者を奪った敵を倒すため、塚川は苦肉の策を用いた。しかし結果的にそれは阻止され、突き落とされ、そして、阻止したのは――――
 唐突に清音がデスクを掌でぶったたいた。形の良い眉を吊り上げて
「……ふん。でもね、結局アイツはその……レ、レイプなんて事させてたのよ。柳田柚葉はどうなんのよ? 柘植に自殺にまで追い込まれた人達は? それに」
 まくし立てていた清音はふいに口調を滞らせた。何かを思いにはせるように、瞳をどこでもないどこかに向けながら
「……それに、子供はこんな事しても、帰ってこないわよ。死んだ人は何しても帰ってこないに決まってんじゃない。忘れるしかないのよ。あたりまえじゃないっ――なのに、助けられなかった事を人のせいにして、こんな事して」
 静かな時間が過ぎた。小春ですら、やるべき事は終わったのに、そこから動こうとはしなかった。じっと座って、真っ直ぐに視線を向けて、しかし何も言う事は無く、黙り込んでいる。
 砂也が椅子にもたれかかり、鼻で笑った。
「あいつ落ちてる時、何思ってたんだろーね」
 口調は苛立たしげに
「娘の事とかだったらさ、最低過ぎるよ、それは」
 華がその言葉にハッとして、窓の外を見た。心配そうに目を潤ませ、しかし俯いて、黙り込んだ。
 沈黙が再び、彼らの下に降り立った。


「しっつれーしまぁ――す!!」
 砂也が呟いてから数秒後、どげっと扉が勢いよく蹴り開けられた。
 所属する美術部からは「空気読めないにも程がある子」と定評がある櫻木桜がしゅたっと部屋の中に入ってきて、左右の手に乗せたピザの入れ物を万歳するように掲げると、にっこにこの笑顔で
「れっつぱーてーた――いむ!!」
 とはねる様な歓声をあげた。
「何がパーテーだ! どけおらっ!」
 その背を坊主でのっぽのメガネ男――松平がうっとうしそうに押して、ずんぐりむっくりと中に入ってくる。彼は両手どころか腕にもスーパーの袋を引っ掛け、背中には菓子の袋が溢れんばかりに押し込まれたバックを背負っていた。
「ちょっと。今お通夜やってんだから、パーティーならよそでやってくんない?」
 清音が苦悩のポーズをしたまま、じと目で二人を睨んだ。
「お前らの方こそよそでやれよ。俺たちゃお前達のためにこんな苦労積んでんだぞ」
「え? 何それ?」と九頭が驚いて言った。松平は「おりゃぁ!」と気合一閃、両腕にぶら下がっていた食材の山を机の上に放る。桜が「のぶちゃんすごーい!」と黄色い矯正を上げた。松平は九頭を振り返り
「黒瀬にここに運んでくれって頼まれたんだがな? なんだったか……えーと、たしか――事件が無事に解決したら、なんとか……」
「ご褒美ですよ! ご褒美!」
 桜が叫ぶとチームの面々が「あっ」と顔を見合わせて
「ケーキね!!」「モンブラン!」「やきにくー!」「焼肉だ!」
 日和と清音、華と砂也がぱっと表情を明るくさせて叫んだ。そしてお互い訝しげに目を向け合って
「ケーキでしょ?」「モンブランですよ」「焼肉じゃないんですか?」「焼肉だってば」
 「待て待て、何の話だおい」「俺も聞いてないんだが……」と九頭と勘八が困惑する中、四人はわめいたり、とつとつと論じたり、軽口を叩いたり涙目になったりして激論を交わす。
「議論中失礼しますが、貴方方はここで食事を取るつもりですか?」
 小春が冷静に彼らに尋ねる。すると華が「あ」と口に手を当てて彼女を振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「そういえば用意してくれたのは小春さんだったんですよね? ありがとうございます」
 小春はその可愛らしい顔を真顔のまま、頭に疑問符を浮かべた。
「意味がわかりません」
「はい?」
「あなたの問いは私が貴方方にその食材を提供したことを前提にした問いのようですが、私は貴方方にそのような行為をしたことはありません」
「え、ぇえ? だって黒瀬さん、小春さんからご褒美として焼肉かケーキの食べ放題って……」
「? 私はそんな指示を出した覚えはありません。そういった事実があり、ここに食材という結果があることからかんがみると、それは――」
「みっなさーん! こんなのも持ってきちゃいましたぁ!」
 勢いよく扉が開かれ、薄型のディスプレイを載せた台を引っ張りながら桜が入ってきた。その後ろからはなにやら大きな機材と、マイクとスタンドを担いでくる松平。
「近所の公民館から借りてきた……あぁおもてぇ。じじばば共がレクリエーション代わりに演歌歌う奴だから新しいのが入ってるかわからんが」
 その言葉端を聞いただけで清音が目を輝かせて
「それカラオケ!?」
 「何カラオケ!?」「カラオケだって!?」「バカなカラオケだと!?」と九頭・砂也・勘八がピクリと反応した。一瞬で互いの視線を巡らせると、桜が引っ張って入れようとしているディスプレイの台にバットとびかかり、それを押し返し始める。「え? なんですかぁ? おーもーい――!」と桜が困惑して叫ぶ中、清音は向橋からさっとマイクを引っ張って
「さぁ歌うぞっ 皆あたしに続け――!」
 と今にも歌いだしそうな調子でニコニコした。九頭・勘八・砂也は「てめぇなんで渡すんだよ!」「責任取れるのか!?」「もう手遅れだ……」と一斉に叫び、清音に蹴っ飛ばされた。
「……せっかくですから、勘八さんの妹さんと弟さんも呼びますか」
「あら、清音も良い事言うじゃなーい? うりうりー」
「わっ、やめろ! 揉むなぁ……うわぁ?」
「松平! お前責任もって清音の歌聴いていけよな!?」
「そうだ! 責任を取らんかッ!」
「そーだそーだ! 鼓膜破れちゃえばいいんだ!」
「お前ら何怒ってんだよ……俺先輩だよ?」
「……じゃぁ俺はここで帰る。貴様らあんまり飛ばしすぎるなよ」
「おぉっとぉ! 帰しはしないぜ! お前も清音の歌を聞いていけ! ジャイアンリサイタルをな!」
「な、なに? おい、やめろ……貴様、九頭……ぬぉぉぉ!?」
「あ、わたしも歌いまぁーす! ノブちゃんと一緒に!」
「皆さんここでカラオケは……」
「あ、電源コード足りないわよ、ねー焼肉プレートの電源がなーい」
「おぉ! 砂也見てみろよ、こんな所に霜降りの肉が……!」
「すっげー! 生まれて初めて見た……うわ、時価って書いてあるよ時価って、時価って!」
「む、チャーシュー麺?」
「……あ、ケーキだ。モンブラン……大きい……」
「む? なんでパフェが入ってるんだこれは?」
「皆さん、ここでは食事も……」
「あの、私……黒瀬さん探してきますっ」
 華が大はしゃぎする彼らに意を決したように話しかけた。彼らは自分達の喧騒にかまけながら
「そうね! いいわよ、行ってきなさい」「まぁ黒瀬いないと始まんないしな」「ん。早くしないと食べる物がなくなるぞと言っておけ」「……どうぞ。電話で連絡を入れておきますので」「……そう言いながら、少し気がかりな日和であったー」「――な!?」「え!? なにそれ? そうなの清音!」「ち、違います!? なんであんな、あんな……」「あはは、顔あけー」
 とそれぞれ勝手な事を言ってのけた。華は彼らにぺこりと一礼すると、慌てて部屋から出て行く。



 帝都から電車で一時間も揺られれば、すぐに都会の静寂からは遠く離れる事ができる。喧騒に疲れたら外に出ればいい。そこには穏やかな時間が待っていて、ただ静寂を友人と知っていれば、何の資格もいらない。静謐な空気に迎え入れてもらえる。
 なだらかな丘と木々に囲まれたその窪地には、故人が心穏やかに過ごす霊園があった。広くはないが、青い空と鮮やかな緑地、いにしえから根を降ろす山々に守られるようにひっそりと残る平地に、墓が十数個並んでいる。
 その内の一つ、比較的新しい墓の前に、花束が差し出された。本来なら霊前の花瓶にきれいに飾ってやるのが礼儀だが、差し出した彼にはそれほど細やかな配慮はできないらしい。少々雑な手つきで墓前に手向けると、手持ちぶさたにしゃがみ込んで、墓に刻まれた名を眺めた。
 その目をずらりと並ぶ墓へと流した。視線をずっと遠くの墓にまで向ける。
「……墓に入れば、誰も彼も同じか」
 胸元に手をやり、そこからしわくちゃになった煙草のパックを取り出すと、一本を口にくわえた。立ち上がる。
 煙草の火はつけずに、頬と草花を撫でる風を静かに受けた。
「……本当なら、墓を暴いて骨を砕いて飲み込んでやるところだが、今はそんな風に思わない。あの狭い蔵書室にいる間、十三年間俺の腹の底で蠢いていたモノを、どうやってあんた達に叩きつけてやろうかとしか、思ってなかったんだけどな」
 墓を見下ろす男――黒瀬完爾の表情はいつものように、やはり無表情だった。違うのは一つ、彼はいつになく饒舌だった。
「十年以上放っておいたんだ。そのままにしておけばよかったのに。余計なことをしたな。挙げ句にこの様じゃ、残された息子も笑えない」
 煙草を手につまみ、息を浅く吐き出す。その口から紫煙は漏れない。咳き込むような笑いが漏れるだけだ。
「いっその事このまま野ざらしにして、雑草に囲まれた小汚い墓にしておいてやろうかと思ったが、昨日、急に思い出したんだ。そういうの、気になるんだよ、俺は」
 彼は再び煙草を口にくわえた。肺に吸い込む煙はないが、彼は深く息を吸い込んだ。遠くの丘の上を、群れた小鳥が飛んでいくのを眺めていた。
「初めて人を殺したよ」
 つぶやく。
「聖人君子じゃないからな。とてもじゃないが人を殺すのは恐ろしいことだとは言えない。どこかではいつも当たり前にように殺し合っているだろうし、あんたの夫であり、俺の父親である男も、やっぱり当たり前のように人は殺しただろうし」
 また、咳き込むような笑い声を上げた。おかしそうに、咳き込むように言う。
「死んでみてわかったけど、俺が殺したのは随分いい親だったよ。それもホントの親じゃなかったらしいけど。あんた達も見習えばよかったんだ。あぁ、そうか、最後に死んだところは真似したのか」
 黒瀬はひとしきり笑うと、「……ふぅ」と小さく息を吐いて、荒くなっていた息を整えた。
 その瞬間の彼は至極冷静で、視線はどこかに突き刺さるかのように鋭かった。
「俺は親父に似たのかな。頭に血が上ったら、誰かを殴るのも、誰かが死ぬのも、全部どうだってよくなる。わかってるんだよ、あんた達が俺をあの狭いマンションに放り込んで出て行ったのだって、理由が――事情があったんだろ? わかってんだよ。どうだってよくなったんだよな、理由のためなら、事情のためなら、子供一人おいていくのだっていとわない。それくらいの理由が、事情があったんだろ?」
 黒瀬は視線をしっかりと墓石に向けていた。彼は相変わらず饒舌だったが、そこには確固たる意志が戻ってきていた。しかしそれはいつもの彼ではなく、誰か別の人間のような、冷たい意志だった。
 黒瀬はしばらく黙った。黙ってから、胸元からライターを取り出した。つや消しのマット加工と真っ黒な塗装が施されている、軍用のミリタリージッポーだ。
 彼は口にくわえた煙草に、それを近づけた。
 秋の風が吹き、彼はライターを両手で覆う。
 小刻みに揺れるライターを握る手。
 彼の視線から生気は失われ、暗く、のっぺりとした瞳が、光を反射せずにどこでもないどこかに目をやっていた。
 親指が緩慢に動く――それでも『じゅぽ』とライターに火は灯った。
 咥えた煙草の先端を――震える先端を――震える炎に近づけた。
 じりじりと燃える。焦げた煙草の匂いがあたりに漂い、黒瀬は一気にその煙を吸い込もうとして

「くろせさぁーん」
 声が投げかけられた。それも泣いている女の声だ。黒瀬はふと顔を上げようとして、その眼前に手を突き出された。驚いている間に加えていたタバコはすばやく取り上げられ、彼女の手の中へ。
「く、くろせざーん……」
「……何してんだお前」
 タバコをつまんでいたのは夏服のセーラー服に身を包んだ華だった。彼女はいつかのようにひたすら泣いていて、ちょうど彼女の背後にある夕日のように真っ赤になった目をぐしぐしと擦りながら
「ぐろせさーん……」
 黒瀬の手からライターも奪う。
「何なんだよ」
「タバコは……うぐ、だめです……」
 黒瀬は唖然と呆れの間くらいの表情で華を見ていた。華はやっぱり泣くばかり。ようやく口を開いたかと思うと
「あの、むかえに……むかえに来たんです。みんな、まってますから……」
「……なんで泣いてるんだお前」
「なんでも……えぐ、なんでもないです」
 華はぐしぐしと目をこすりながら、黒瀬に背を向けた。背を曲げながら、霊園の出口へ向かう。そこには相変わらずのマッチョな大型バイクが置いてあった。墓と周囲を囲む自然の背景には果てしなく似合っていない。
「どうやってここに来たんだ?」
「バイクでです」
「それはそうだろうけど、そうじゃなくて」
 「どうぞ」と、華は黒瀬にヘルメットを突き出した。思わず受け取ってしまう。
「はい、今度はちゃんとしたヘルメットですから……のってください……」
 黒瀬はもはや不気味さすら感じながら、華の言うとおり、荷台に乗った。華もえぐえぐと泣きながらバイクをまたいだ。
「……くろせさん」
「……なんだよ」
 自分から言い出しておいて、彼女はしばらく何も言わずに、えぐえぐと目をこすっていた。いい加減にしてくれと黒瀬は思ったが、泣き止めとも言えない。手持ちぶさたに辺りの風景を眺めるしかなかった。
 夕刻迫る山並み。深い陰影の刻まれた山並みが、どこか懐かしいような気分にさせる。黒瀬は都会育ちだが、こういう田舎の風景を眺めると、ふいに誰かが去って行ってしまうような寂しさと切なさがこみ上げてくる。見た事がないはずなのに。深緑の緑も、ひぐらしの鳴き声も、どこかで聞いた事があるような気がして、そよぐ風すら、旧友との再会と別れのような気分にさせる。変に感傷的な自分が気持ち悪い。しかし否定はできないのだ。わき起こる感情は、理性で否定できるものではない。それがわかっているから、黒瀬はその感情に、流されるように身を任せた。
「……黒瀬さん」
 華がそう呟いた時、彼女の声はすっかり泣き止んだ声だった。どこか冷静さも漂う卯くらい、静かな声色だった。
「なんだ」
 黒瀬は遠くの山間を飛んでいる鳥を見ながら、気のない返事を返した。
「……私がここに来たの、新聞を読んだからなんです」
「新聞?」
「砂也さんが言ってたんです。『黒瀬は昔、新聞読んでて動揺してた時あった』って。砂也さんは『やめた方がいい』って言ってくれたんですけど、私、その後その新聞見ちゃって、それで、私、あの、見たんです。あの記事」
「……なんの」
「あの、昔マンションに子供を置き去りにしてしまったお父さんとお母さんがいて、そのお母さんの方が何年もたってから『会いたい』って言って……それで、あの、うまく説明できないんですけど、法律とか、色々あって、結局会えなくって、そのまま、事故で……これも、事故かどうかわからないって、会えなかった本当の理由は法律だけじゃなくて、子供本人が、『会いたくない』って言ったからって、それで、お母さんショックを受けてて」
 華はあたふたとそう呟くと、結局そのまま、黙り込んだ。
 黒瀬は額に手を置いて小さくうなった。すっかり困り切ってしまったようなうなり声だった。
「あの、すみませっ……すみませんでした」
 華がまた喉をひくつかせ始めたので、黒瀬は大いに慌てて
「いいよ、いいから泣くなよ」
「でも……」
「お前勘違いしてるよ。いいから来いよ」
 黒瀬はバイクを降りると、再び墓場の方へ歩いていった。華は目をこすりながら、慌ててその後についていく。
 墓場の前に来ると、黒瀬はぞんざいにその墓を足で指し示し、
「いいか。こいつは確かに俺の母親だが、母親じゃない。もう死んでる。お前の見た記事の通りだ。事故で死んだ。自殺かもしれないが、俺の知った事か」
「…………」
「何に感情移入してるか知らないが、俺はこいつが死んだのなんか気にしてない。どこかで誰かが死のうが、見ても触ってもいないものにショックを受けろっていうのは無理な相談なんだよ」
「……じゃぁ何でこんな所まで来たんですか」
「時間ができたからだよ。最近は柘植の件でなかなか時間がなかったし。ようやく一区切りついたから、来たんだ」
 華はもどかしそうに身を震わせると、小さく叫ぶように言った。
「知った事無いなら、来る必要なんて無いんじゃないですか」
 黒瀬はそれにのせられるように、熱っぽい口調で返す。
「いいか? 世の中にはいろんな奴がいるんだ。親も色々だ。子供のために気が狂ってふざけた事件を起こす奴もいれば、子供をマンションに置き捨てる奴もいる。でも今はどっちも等しく死んだ。死んだ奴に何を思うまでもない。死んだんだ。俺は生きてる。だから俺は生きる。同情されて泣かれるような事は何も無いんだよ」
 黒瀬はそう言いきると、思わず大きくはき出していた息を、一度だけ深呼吸して、元に戻した。華はじっと黒瀬を見上げていた。大きな目だった。
「……何しに来たんだよお前。俺はもう、帰るからな」
 黒瀬はその視線から逃れるように彼女に背を向けた。なぜか心臓が強く脈打っていた。悪い事を見られたような気分だった。頭を振って、それを払拭する。すぐに熱くなる癖はどうにかして直さなきゃ行けないと思う。そう思う事で、怒鳴り返した理由付けをした。
「黒瀬さん!」
 背後から華の声がした。もう面倒な事はごめんだった。またえぐえぐと泣かれたりしたらたまらない。
 黒瀬は返事を返さず、さっさと霊園の外に向かった。
 携帯を取りだし、ここまで来るのに使ったタクシー会社の番号を呼び出す。コール音がした。一回。二回。三回。四回目の途中でぷつりという音がして、電話がつながる。
『はい、鳩丸タクシーで――』

「っぶぁっかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――!!」

 頭をぶん殴られたような叫びだった。事実、黒瀬は本当に殴られたように首をがくりと曲げてしまっていた。電話の向こうからは『え? なんですって? 馬鹿?』と困惑した声が聞こえてくる。
 黒瀬は困惑しながら、のぞき込むように、小さく振り向いた。
 華は顔を真っ赤にしながら肩で息をしていた。自分で何を言ったのかもわかっていないような上気した顔をしていて、目を見開いて、ただただ黒瀬を見ていた。
「――――っだ、だって! 黒瀬さん、『ありがとう』って、言ったじゃないですか! 九頭さんが言った時! 『一人でできない事はみんなでやろう』って言った時! 『ありがとう』って、言ってたのに!!」
 何が『だって』なのか、そういった説明は全部抜きだ。華はそう、あれでいて随分な体育会系なのだ。理路整然と言葉を述べるのなんて苦手で、ただ感情が爆発したら、その通り叫ぶ。思っていた事を全部はき出す。
「嫌な事があったら、言ってくださいよ! 助けて欲しいって、言えばいいじゃないですか! いっつも黙ってて、『なんでも一人でできます』って顔して、冷静ぶって、クールぶってて――全然、黒瀬さんなんて全然、頼りにならないんですから! 失敗ばっかり……全然、ダメダメなんですから!」
 黒瀬はむっとした顔していた。そして困惑していた。心臓の奥にあるものをわしづかみにされたような、沸き立つような、心底ムカつくような、変な気分だった。
「どーせ今だって悲しかったんでしょう!? いいですよ、泣けばいいです! どうぞっ!」
 そう叫びながら華は両腕を広げた。小柄な体を精一杯大きく広げる。顔は真っ赤で、恥ずかしいのか興奮しているのか。黒瀬は呆れかえって言葉も出なかった。目の前で彼女がやっている事が冗談か一人漫談かにしか見えない。胸に飛び込んで泣けと言う事か? なんだそれは? 馬鹿はどっちだよ?
「……顔拭いて帰れよ」
 結局黒瀬が言えたのはそんな一言だった。ここで気の利いた一言が言える奴なんているはずがない。そして一刻も早く彼女のその言葉から逃げ出したい。彼女に背を向ける。先ほどから困惑の声を上げている携帯電話に耳を押しつける。再び霊園の外へ向かい、
「黒瀬さん!」
 また叫ばれた。黒瀬は携帯電話の受音部分を押さえ、とりあえず立ち止まった。視線だけを背後に向ける。
 華は片手を突き出していた。相変わらずふくれっ面で、目も顔も真っ赤で、体も小さいままだったが、それでもだいぶ、落ち着いた声で
「みんな、待ってますから」
 黒瀬は頬を引きつらせて、もの凄く嫌そうな顔をした。もの凄く嫌そうな顔をしながら、携帯電話を見た。
「…………」
 ぱちん、と折りたたみ式のそれをたたんだ。自動的に通話も切れる。
 華を下からのぞくように見て、彼女はその目をまっすぐ見つめ返していた。
 秋の初めの涼やかな風が吹いて、彼女の髪を揺らした。彼女の大きな瞳は、沈みかけに一際輝くオレンジの光を映していた。
「……帰りましょう、一緒に」
 黒瀬はやっぱり、その一言にも嫌そうな顔して、一瞬だけ背後を見た。そのまま歩き出しそうにしていたが、結局振り返り、華の方へ歩いてきた。
 彼女の前に立ち、何も言わない彼女から僅かに視線をずらしながら、
「……スピードは60q以上出すなよ」
 ぼそぼそと呟くようにそう言った。華はそれに笑うでもなく、怒るでもなく、ただ彼の手を取って歩き出した。少しひんやりとした、小さくて、白い手だった。


 夕闇にかげる山間の道を、一台のバイクが駆け抜けていく。二人乗りで、むやみにハイパワーなビックバイク。速度は法定速度を遵守した、60qだ。

「もう校門も閉まってるだろうな」
「そうですね……学校に着いたら、どうやって入りましょうか?」
「……裏のフェンスから入るか。入学式の時みたいに」
「そうですね……て、ぇえ?」
「入学式の時、裏口から入った。フェンス乗り越えて入ったら、お前が泣いてた。良くなく奴だな、お前。泣くのは卑怯だぞ」
「――――ふえ……ええ? 覚えてたんですか?」
「お前の方こそ忘れたんじゃないのか? ずっと話そうと思ってたけど、お前、俺の事忘れてたみたいだからな」
「わっ忘れてません! そんなわけ、ないですよ――」
「へぇ、そうか。じゃぁ、これ覚えてるか? お前あの時スカートがな――――」
「わわっ! それはダメです!」
「なんでだよ? もしかして忘れてるんじゃないのかお前、だってあの時――」
「ホントにダメですったら! わかってて言ってますね? 怒りますよ、もう――――」


 沈みゆく夕日に向けて、タンデムのバイクが消えて行く――――<了>



2008/04/30(Wed)18:27:43 公開 / 無関心ネコ
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。無関心猫です。
話の方はずいぶん前に完成していたのですが、なんとも設定の締りが悪いので試行錯誤していてUPは遅れさせていました。ですが結局うまい言い訳が考え付かず(こういうのは考えれば考えるほどに詰まりますね……)ちょっと手を加えてそのまま出すことに(泣)もっとシンプルにいきたいんですがどうもいけませんね。
とはいえ、一応の完結です。製作期間は三ヶ月もかかってしまいましたので、次回作は一ヶ月くらいで300枚前後に纏め上げたいです。是が非にも!(この話は長すぎる!)。この話の続編プロットも山のように作ってあるんですが……そういうのはちゃんとしたものが作れるようになってからにします(笑)。
このような長々とした話にお付き合いいただいた方、本当にありがとうございました。皆さんのおかげでモチベーションも持続でき、客観的な目を作品に導入することもできました。もしよろしければ、近日中に発表すると思われます次回作にもお付き合いいただければうれしい限りです。重ね重ねになりますが、本当にありがとうございました。
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