- 『永遠へ』 作者:時永 渓 / ショート*2 時代・歴史
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全角3961.5文字
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原稿用紙約13.85枚
時折風に合わせて聞こえる笛の音。見上げた空で鷹が滑空しながら円を描いていた。
あの音色は彼の歌だろう。
目前は一面の緑色だ。
冬の終わりを告げる芽吹く木々の命の色。
その中で高島悠介は大きく息を吸った。
久しぶりの帰郷。
と、言っても前回帰ってきてから二ヶ月しかたっていない。
以前は冬の最中で綿帽子を被って今とは違う景色だったからかもしれない。
それと前は一人での帰郷だったが、今回悠介は一人ではない。
悠介の先をゆらゆらと揺れながら登っていく影があった。
小さな背中に波打ちながら流れる茶色く染められた長い髪が足を前に出されるたびに揺れている。
婚約者の春香である。
春香とは半年前に知り合いの紹介で知り合った。
「あと、どのくらい?」
そう途切れ途切れに言った春香は肩を上下させながら悠介を振り返った。
そうとう辛そうだがこれを言って大丈夫だろうか?
悠介は考えたが口に出してみた。
「今やっと半分だ。三十分はかからないよ」
「ええ! まだ半分?」
春香は肩をガックリと落とした。
悠介も内心は春香と同じだ。まだ半分。高校生の時はこのくらいなんともなかったんだけどな。そう思って小さく溜め息を吐く。
「やっぱりタクシーを呼ぼうか?」
春香は微かに笑った。
「大丈夫。自分で登ってこそなんでしょ? 私、まだ平気だよ」
ハンドバッグを持ち直すと春香は悠介が隣に来るのを待って並んで歩き始めた。
「お前妊娠してるんだからな」
腹はまだ小さいが春香は立派な妊婦だ。
お腹の子のためにも無理はさせられない。
「大丈夫だって」
春香は楽しそうに笑った。
「自分の体は自分が一番よくわかるんだから。それにこの子も頑張れって言ってくれてる」
そう言って腹に手をあてる。ひどく優しく、いとおしげに。
「無理するなよな」
悠介が言うと春香はニヤリと笑った。その顔がとても嬉しそうで悠介は少し恥ずかしくなる。
「ほ、ほら、大丈夫なら登れ! 早くしないと日が暮れるぞ」
にやける春香に顔を見られないように少し前を歩く。
火照る頬を風が優しく撫でた。
坂の先が消え、空へと変わった。
春香が小さく歓声をあげて悠介を追越して駆け出す。
「おい! だから走るなって」
悠介は後を追うようになだらかになった坂道を小走りに駆ける。
春香は腰の辺りまである金属の柵に手を掛けて遠くを見ていた。
「見て。凄い……」
春香の隣に並ぶ。
雲の切れ間から斜陽が差して、目一杯広がる海の、波の切れ間を白く輝かせている。
昔は感じなかった。こんなに世界は雄大で美しいなんて。
「はい。これ」
春香がハンドバッグから小さな包みを取り出した。
悠介はそれを受け取る。
「ハッピーバレンタイン」
ああ、今日は二月十四日、バレンタインか。忘れていた。
「ありがとう」
笑ってそういうと春香は照れたように頬を染めた。
「手作りだから。カカオの栽培って本当に大変なんだからね」
「そこから?」
悠介は苦笑いした。
「ほら、あたしの部屋に大きな鉢植えあるでしょ? あれがカカオ」
確かに春香の部屋には大きな鉢植えがある。
その鉢植えはとても立派な物で金色の紐が巻かれていて紙が付いている。明らかに観葉植物の名前が書かれた紙が。
「本当にありがとうございます」
悠介は恭しく頭を下げた。抑えようにも頬が弛む。
「ホワイトデー、忘れないでよね」
春香が口を三日月型にして笑う。
その姿にドキリとする。
とても、よく、似ている。
悠介はそう思った。
でも誰に?
わからない。
「悠介? どうしたの。顔色悪いよ」
春香が小首を傾げる。色素の薄い大きな茶色い瞳に男が映っている。
鼓動が早鐘を打つ。
何か、忘れている。
ホワイトデーのお返し? 違う。
大切なこと。……人。
もうそこまで出かかっている。
忘れてはいけないことがあった。
何か、とても、大切な、記憶。
春香、はるか、ハルカ……そうだ、遥!
同じ名前。春香と遥。
だから思い出した。
「なあ、俺の話を聞いてくれないか?」
渇いた震える誰かの声。
それが自分のものだと気が付くのに悠介は時間がかかった。
そう忘れていたんだ。遥のことを。
高校時代の恋人を。
「……うん。どうしたの? 悠介、何だか変だよ」
あいつとは違う春香のその声が忘れていた記憶の中の遥の声と重なり合う。
「ずっと忘れていたんだが高校時代、俺には遥という恋人がいた」
言葉は勝手に紡がれていく。心が勝手に口に出させている。
「え? ハルカ?」
春香が眉間に皺を寄せた。
「ああ。距離とか時間の遥かって書いてハルカだ。俺は今この時までずっと彼女のことを忘れていた」
春香が俺を見ている。何も言わず静かにまっすぐと。
「俺は遥が好きだった。当たり前だ、恋人同士だったんだから。遥も俺のことを好いていたと思う」
本当に仲が良かった。好きだった。彼女を愛していたし愛されていた。
「でな、はじめてのバレンタイン。あれは日曜日だった。俺達は会う約束をしていた」
今でもはっきりと思い出せる。待ち合わせ場所の春に近付く暖かい気候、空の色。
「俺は予定より少し早く、待ち合わせ場所に行った」
浮かれて、楽しみでしかたがなかった。
「だけど、時間になっても彼女は来なかった。どんどん時間が過ぎていったけど彼女は結局現れなかった」
悠介はただ待った。彼女が来ると信じて。
彼女は来ない。
当たり前だ。だってその時、彼女は――
「翌日、学校で彼女に文句を言おうとした。でも、彼女は学校にも来なかった。教室はやけにざわざわしていた。みんな俺をちらちらと見ていた」
みんな悠介を心配と好奇の入り交じった目で見ていた。囁き合う声がまるで今のもののように感じる。
「やがて担任が入ってきた。真っ黒いスーツに真っ黒いネクタイだった。担任は息を吸うと淡々と話をはじめた」
みな静まり返り、目を伏せていた。何も知らない悠介は担任を見つめる。
「内山遥さんが亡くなりました。そういった。女子が泣き始めた」
遥がナクナッタ。その時、悠介には言葉の意味がよくわからなかった。
後から新聞で知った。父親による無理心中だったそうだ。
「俺はどうして今まで忘れてた? あんなに大事だった人のことを? 怖い……遥を忘れたように、いつかお前を忘れるのが」
悠介の手が震える。
忘れたくない。春香を、忘れたくない。
怖い。あんなに大事だった人のことを忘れていたなんて。いつか春香と離れてしまった時、きっと同じように忘れてしまう。
手に温もりを感じた。
黙って話を聞いていた春香の手が悠介の手を優しく包んでいる。
「大丈夫。私はどこにも行かないから。だから大丈夫」
幼子に言うように春香は静かに言った。そして悠介の体は春香によって抱き締められた。
悠介の背中を春香の手がさするように撫でた。
手の震えが消えた。
「本当に?」
自分のものではないような幼い声。
春香は微笑み頷く。
「さ、行こう」
春香が悠介の手を引いた。
「どこへ?」
悠介が訊ねると春香が微かに頷いて歩きだした。
花と線香を買い、春香に連れられてやってきたのは山の斜面に創られた大規模な墓地だった。
「一度も行ってないんでしょ? 遥さんのところ」
悠介は黙って小さく頷く。
「場所は多分ここでしょ? この街の人はだいたいここにお墓を立ててるみたいだし。探せば見つかるよ」
小さく笑って墓石と墓石の間を春香は歩き回った。
悠介はただ花と線香を持って、その後を着いて歩く。春香はあちらこちらを見て回り時々悠介の姿を確認するように振り返る。
「あった! 内山遥!」
悠介を手招き、墓石を指差す。そこには内山家と彫られていた。
悠介が春香に花と線香を渡すと春香は手早く花を生け、線香に火を点けた。
「ねえ、悠介が遥さんを忘れちゃったのって、認められなかったからじゃない? 遥さんの死を」
言って春香は手を合わせる。
悠介もそれにならった。
「でも、もう大丈夫だよ。こうやって墓石に手を合わせて、受け入れたから。遥さんのこと、忘れない」
穏やかに春香が言った。
「ああ」
悠介は小さく答えた。
忘れないだろう。春香の言うとおり。
「ねえ。ホワイトデー、今欲しいんだけど良い?」
春香が思いついたと言うように掌を小気味よい音を立てて打った。
悠介が眉間に皺を寄せた。あげられるものは何もない。
そう思うと春香は笑った。
「大丈夫。変なことじゃないよ。耳、貸して」
悠介の顔は無理矢理春香に引き寄せられ、悠介はよろめく。
「あのね――」
春は駆け足にやってきて、雨に桜を攫われ、夏は足早に去っていった。
柔らかい日差しとたくさんの色に満ちた秋、悠介は病院にいた。
別にどこか悪いわけじゃない。
やっと、待ちに待ったこの瞬間。子供が生まれた。
「見て。可愛いでしょ?」
白い部屋の白いベッドの上、春香はいとおしそうにその子を抱いていた。
「ああ、そうだな。春香にそっくりだ」
そう言って笑う。
可愛い。悠介の春香の子供だ。
「ね、あの時の約束」
春香の真剣な眼差しがに悠介の瞳を覗いている。
「ああ、覚えてる」
悠介は春香から赤ん坊をそっと受け取る。
「やあ、こんにちは。今日から君は“永遠”(とわ)だ。遥かよりずっと長く、エイエンに幸せでありますように」
囁いて、赤ん坊の顔を覗き込むと小さな胸を上下させて眠っていた。
悠介と春香は顔を見合わせて笑った。
小さく寝息を立てる君にいつか一つの話をしよう。
飾らない俺らしい言葉で、俺と春香と遥のことを。
永遠という君の名前の由来を。
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■作者からのメッセージ
某所でバレンタイン小説を募集していたので二時間くらいで一気に書き上げたものです。
いまいちな出来なので批評、アドバイスお願いします。