- 『赤い薔薇』 作者:河灯 良平 / 恋愛小説 未分類
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全角3741.5文字
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原稿用紙約10.7枚
愛する女性を失った青年のその後。不安や疑問、葛藤などに戸惑いながら知る当時の彼女の心情とは……
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僕は防波堤に座り、波が打ち寄せる音と潮風を感じながら夕日を眺め、孤独を募らせる。
遥か遠くの水平線に少し姿を隠した夕日が空を茜色に染めている。先ほどまで群れをなしていたカモメたちは帰るべき場所へ戻ったのだろうか、今は一羽も見当たらない。
洋子はここから見る夕日がとても好きだった。金がない高校生の僕らにとってこの防波堤は慎ましくも、最高のデートスポットであった。いつも僕らここで手を繋ぎ、語り合い、幾度となく沈みゆく夕日を見届けた。
おそらく毎日同じ時間にランニングをする中年の男性に顔を見られるのが恥ずかしくて、その度に肩を寄せ合って二人で俯き、その時に近くで見る彼女の顔に僕は胸を高鳴らせた。その後に、顔を上げよ青年、と言うのが洋子の口癖だった。
そう言えば、初めてのキスもこの場所だったな、そう思い返して、笑みがこぼれる。同時に涙で目が潤み、万華鏡の世に重なった夕日が目の前を茜色に染める。
洋子がこの世を去ったのはちょうど一年前、自動車に轢かれてこの世を去った。即死だった。自動車の運転者からは多量のアルコールが検出され、逮捕された。私は洋子のあまりに理不尽な死に憤り、そしてまた洋子の死そのものを理解できずにいた。
彼女の死後、翌日に通夜が行われた。皆一様に沈痛な面持ちで参列し、その参列者に挨拶をする両親の目は赤く、生気を失い疲れ切っていた、そして僕を見つけると嗚咽を漏らしながら泣き崩れた。
棺の中の洋子は美しかった。彼女の短い髪は綺麗に整えられ、頬はほんのりと赤く化粧されており、口元は少し微笑んでいるようにも見える。しかし僕の好きだった彼女の大きな黒い瞳は、堅く閉じられた瞼によって、もう二度と見ることができない、そう思うと涙が溢れてきたが、遺体を前にしても彼女の死を受け入れることのできない僕が、心の中にいた。
夕日は先ほどよりも少し水平線に沈んでいる。まるで夕日が海面に溶けているようだ。
僕はダウンのポケットから一通の封筒を取り出す。真っ白な封筒に一輪の赤い薔薇が描かれている。僕はこの封筒を洋子から死ぬ直前に受け取った。当時、僕たちは高校三年生で、受験が終わり、僕は地元である福岡の大学へ、彼女は東京へ進学することが決まっていた。僕は離れ離れになる寂しさと不安を彼女にぶつけ、傷つけた。
彼女からの連絡はなくなり、僕は彼女への反省の念でいっぱいであったが、どうしても連絡することができなかった。
彼女と連絡を取らなくなってから一週間後、彼女は突然僕の家にやって来た。彼女は僕を見ると、これを読んで、とだけ言って、赤い薔薇が描かれた封筒を渡し、去って行った。その数時間後、彼女は轢かれた。彼女が轢かれたと知らされた時、僕はまだ封筒を開封してはいなかった。
そして、未だに開封できずにある封筒が僕の手に握られている。
洋子が僕へ最後に残した手紙が別れの手紙だと思うとどうしても開封することができない。彼女が僕を嫌ったままこの世を去った事が肯定されるのが何よりも恐い。そして、開封してしまうと同時に僕の心の中の彼女も消え去ってしまうのではないかと不安に捕らわれる。また、手紙を捨てることができないほど、まだ僕は彼女のことを愛している。
夕日はまた少し沈んでいる。僕は封筒を再びポケットにそっと入れ、立ち上がり、繋ぐ相手のない手をポケットの中にある封筒と重ねる。
防波堤を下りて、すぐ脇にある道路に戻る。それを待っていたかのように外灯が点き僕を照らした。数メートル歩いたところに小さな花屋を見つけて、ふと立ち止まる。
一年前にこの花屋はなかった。温かみのある木の外装をした店からは、柔らかい光が漏れている。僕は何気なく花屋の方向へ歩み始める。
花屋にはたくさん花が綺麗に陳列されている。しかし僕にはほとんどの花が何と言う名なのか分からなかった。入口の近くでぼんやりと花を見ていると、いらっしゃいませ、と一人の女の子が奥から近寄って来た。
ぱっちりした目で幼い顔立ちの彼女は、緑のエプロンの下に制服を着ている。近所にある公立中学校の制服だ。この花屋の娘だろう。
「この店は最近できたの?」
僕は女の子に訊ねる。
「そうなんですよ。先月オープンしたばっかりなんです。うちのお父さんが急に会社を辞めて、昔から夢だった花屋をやりたいって言いだしたから。もう家族は大変ですよ」
女の子は、ふう、と言いながら額の汗をぬぐう仕草をしたが、明るい表情からは家族が大変な様子は窺えなかった。
「それにしても、店の手伝いをするなんて、偉いじゃないか、一人で店番なの?」
「それがお父さんもお母さんも風邪で寝込んじゃって、それで私が店番しているの。困った親を持つと子が大変だわ」
でも店番代はばっちり貰っているの、そう言って舌をぺろっと出す姿が可愛らしい。
「仕事と急に辞めて花屋を始めるなんて、君のお父さんはなかなか凄い人なんだね」
「ちっとも凄くなんてないですよ、ただの変人です。何でもうちのお父さんは学生時代ずっと園芸していたみたいで、おかしいですよね。男の人なのに園芸なんて」
女の子は笑いながら、足もとの花壇に視線を落とす。そんなことないよ、と小さく言った僕の声は聞こえただろうか。
「私のお父さんはずっと花屋になりたかったらしいの。でも大学卒業して企業に就職しちゃって、それをずっと後悔していたみたい。それで就職した後も今までずっと花屋やりたいなって思っていたの。それでもって今頃花屋をやるって決めた理由が、お父さんはランニングが日課なんだけど、いつも防波堤で夕日を見ているカップルがいたんだって、そのカップルを見て、自分の青春時代を思い出したらしく、俺はあのカップルの彼氏が花をプレゼントしたくなるような花屋をやるんだ、って思い立ったらしいのよ。それを聞いたお母さんも、あなたが決めた事なら最後までお付き合いするわ、って、もう滅茶苦茶よね。子供もいるのに」
あの時のランニングの男性は、この子の親だったのか。彼の中では僕等の関係は続いていて、いつか僕ら二人がここに来るのを待っているのかもな、そんな考えが頭を過り、目頭が少し熱くなる。
ぼっとしている僕に女の子が、どうしました? と不安げに下から顔色を窺うように覗いていた。僕は慌てて、さりげなく眼をそっと拭う。
「おっと、ごめん。僕は君のお父さんの事を素敵だと思うよ」
「それは他人事だからですよ」
女の子は頬を膨らませて怒ったふりをしたようだが、嬉しそうだ。
「ところで」
そう言い、僕の顔を見て話を続ける。
「何かお花をお探しですか? まさかここまで来て買わないとは言わないですよね」
彼女のいたずらな笑顔はとても可愛い。何も考えずにこの店にやって来た僕だが、彼女にこう言われたら買わないとは言えない。今の僕に思いつく花はただ一つだ。
「赤い薔薇をください」
「赤い薔薇ですね。お幾つ用意しましょうか?」
「一本ください。百本と言いたいけど、そんなにお金がないから」
「お兄さん貧乏なんだ。金の切れ目が縁の切れ目って言うんだよ」
なかなかきつい冗談を言う彼女だが、花を扱う時の目つきは真剣だ。縁の切れ目か、洋子との縁はいつまで続いていたのだろうか。
僕に手渡された赤い薔薇には綺麗な包装がされていて、丁重にリボンまで付けてくれてある。女の子は後ろで手を組み、僕の顔を見て、ふふふ、と笑う。
「どうしたの?」
僕は堪らず訊ねる。
「赤い薔薇をプレゼントするなんて、お兄さんもなかなか恰好いい事するのね」
そして、女心を分かっているわ、と続ける。
「どういう意味?」
「あれ? お兄さん知らないの?」
「たぶん知らないと思う」
「赤い薔薇の花言葉はね、『あなたを愛します』よ」
女の子の笑顔が洋子と重なる。ありがとう、気がつくと僕はそう漏らしていた。涙に気づかれないように、代金を払い足早に店を出る。後ろから、ありがとうございました、と声が聞こえる。
僕は再び防波堤に戻り、腰を下ろす。波が打ち寄せる音と潮風は変わらず僕を包み込む。洋子からの封筒を取り出し眺める。
封を切ろうと力を入れるが、一抹の不安が指先に伝わり躊躇する。手元にある赤い薔薇を見て、短く深呼吸し一息に封筒の端を千切り、中の手紙を取り出して見る。
手紙を読み終えた僕は、嗚咽を漏らしながら泣いていた。洋子が僕を愛していてくれたという事実が僕の心を揺さぶる。同時に洋子が死んでしまった現実が重くのしかかり寂しさを募らせる。涙が手紙の上に落ち、インクを滲ませる。
「顔を上げよ青年」
洋子の声が背後で聞こえたような気がして、慌てて振り返る。しかし後ろには誰も見当たらない。僕は立ち上がり辺りを見回す。やはり誰もいないようだ。
すると、先ほど声がした気がした方向から突風が海の方へ吹き抜ける。その風に吹かれて横に置かれた赤い薔薇と手紙は僕が慌てて伸ばした手をすり抜け、舞い上げられて海に着水する。
夕日はすでに姿を隠してしまっているが、まだ僅かに水平線と空を明るく照らしている。
「洋子、分かったよ。ありがとう」
僕は顔を上げて歩き始める。
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2008/02/26(Tue)18:02:06 公開 / 河灯 良平
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■作者からのメッセージ
今回は綺麗な情景を思い浮かべながら、暖かい話を書こうと思って書きました。
手紙の内容は読者の想像任せにしてしまいましたが、皆様が考える手紙こそが本当の手紙であるような気がして、書きませんでした。
次回もよろしくお願いします。