- 『ヘンゼル不在』 作者:模造の冠を被ったお犬さま / 童話 リアル・現代
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全角5702文字
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原稿用紙約17.8枚
後戻りできない、とはどういう状況を指すのだろう。時間はいつも一定方向に流れているからやり直しなんてもともとできるはずがない。自分ひとりではいつも同じ方向に進んでいるのに、向こうからやってくる人がいて、一度すれ違ったらもう会えない。振り返ってその後ろ姿を見ることはできるけれど、それは徐々に小さくなっていつかは見えなくなる。やり直したいのではなく、時間軸に記された一点を永遠に感じていたい気持ちをそう呼んでいるのです。時間を距離や空間で比喩してみても、それはやはり比喩でしかない。その人にもう一度会いたいのなら振り返るだけではなく、来た道を引き返して追いかければ間に合うかもしれません。でもこれは、過去に戻ることもできず追いかける未来も与えられなかった彼女のお話です。
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ヘンゼル不在
「ふたりにお話したいことがあるのです。放課後の時間を空けていただけますか」
もぐもぐとスパゲッティを頬張っている汲子と苦虫でも噛み潰すような顔でイカリングを千切ろうとしているキリは、私の言葉に逡巡と困惑の顔を浮かべました。
「なんだろうね。気になるね」と汲子が自然に小首をかしげ、
「だが、好い話ではなさそうだな」とキリがうなりました。
朝から話をしようとしていたのに、昼食の時間まで言い出せずにいました。躊躇している間に、打ち明けたい話があることを、ふたりは先に感じ取っていたようです。こうしていま話を切り出すことができたのは、会話の中に促しの間合いがあったからのように感じられます。
「そうですね。悪いニュースです」
良い報せか悪い報せかは、ふたりからしてみれば瞭然だったのでしょう。いくら放課後まで隠そうとしても、どうしてもそのぐらいは顔に出てしまうだろうことはわかっていました。話があると言った直後に凶報が見抜かれているのなら、いざ話し始める段には内容が具体的に知られてしまっていて、それでいて知らんぷりを決め込んでもらえるのかもしれませんね。
「キリっ、それ。玉子は私が食べるって言ったじゃん」
「お前は箸からこぼれた滓にも所有権を言い張るのか。とんだ食い意地だな」
「お米の一粒にも七人の神様がいるんだから。食べ物の恨みは怖いよ!」
「用法が間違っているし、神の単位は柱だ。人じゃない」
「人でなしなんだね」
「お前がな」
放課後の時間に話すと言うことは、とりもなおさず“放課後まで話さない”ということです。授業の合間というせわしい時間ではなく、あとに用事を控えていないゆったりと時間を割いて話をしたいという私の心情を汲み取ってくれたのか、この話は放課後まで封印されることを暗黙のうちに定められました。
「往支路さんはいますか? 往支路初さん」立て付けの悪い教室のドアが開かれると、そこには教頭先生が立っており、さらに開かれるとなじみの顔が現れました。
「お嬢さま」
ドアに注視していた私と、教室内をくまなく見渡しているはずの使用人エイスは時間差もなくほぼ同時に目が合い、彼はすたこらと教室に侵入してきます。褐色の肌に色素の薄い頭髪。あといくつか歳を重ねれば間違いなく美青年になるであろう風貌を備えている。
「お嬢さま」
「なんの用でしょう」
「昨日の件で至急、お出で戴きたいことがあります」
「昨日……さて、なんのことでしょう。私はこれから午後の授業を受けなければならないのですよ」
「ここでは口が憚られます。──さあ、来て下さい」
「授業より大切なことですか」
「そうです」
「学生である私にとって学生の本分たる学業より大切なこととは、いったいなんのことでしょう」
「戯れはよしましょう。車を着けてあります。行きますよ」
腕を引かれてつんのめる。ここまで強硬な態度で出てこられるとどうしようもありませんね。抵抗できてもこのぐらいが関の山でしょうか、なんとも情けない身上です。
教室を出るとともに教頭先生とすれ違い、その放心ぶりを見せつけられました。おそらく、校内においてここまでれっきと事情に関与できなかったことは初めてのようです。よい経験となりましょう。
汲子は笑顔で、キリは歯噛みするように見送ってくれました。
「申し訳ありませんでした」
ルームミラー越しに謝るエイスは沈鬱といってもいいほど憔悴した顔をしていました。
「私とあなたがどんな関係か言いなさい」
「往支路家の令嬢と往支路家に仕える使用人です」苦もなく一息でそらんじる。
「そう」
正しい。どこも指摘するところがないほど正しく、それがとても──悲しい気持ちにさせる。
「私が自由にできる時間は少ない」
「恐縮しています」
「豊かである、とはどういう状態を指すのでしょうね」
「幸せである、に似た状態であると思っています」
「いつも同じ答えしか言いませんね。私はどう? 幸せかしら」
「わたくしのことで気分を害されていますが、それ以外はおおむね幸せそうに見えます」
彼は正直だ。もしこれが打算的でオイリッシュな追従者だったら、同情したふりをして私の境遇を嘆くでしょう。眉間に皺を寄せたことがないような天真爛漫な人間でも、生きていれば悩みがある。悩みを言い当てて理解者になろうとすることは容易い。理解者のふりさえすれば相手から迎合してくれる。歓待してくれます。
「金銭的な──物質的な豊かさは幸せなのではなく、不幸を摘み取っているだけ。そんな意味の言葉を、あなたに言った覚えがあります。聞いた覚えがありますか」
「覚えはあります。よくわかりませんでした。今でもまだ、わかりません」
「エイスには友達がいますか」
「なかなか連絡を取る機会がありません。まるで非常用袋のような存在です。初さまには汲子さまとキリさまがいますね」
「これから行くところに友達はいますか」
どこに連れて行かれるのかは知らないけれど、どんなところに連れて行かれるのかは予想が立ちます。
エイスがあそこまで強硬な態度をとったのは、あの人たちからの指図でなければ考えられないことです。
「現在進行形の友達はいません」
「私とあなたは主従関係だったかしら」
「そうです」
「違うわね。あいだに往支路家を通してでしか主従関係で結べない。もっと直接的な繋がりはないかしら」
「なにを言おうと、なにを言わせようとしているのですか?」
「人物相関表には私とエイスの間に線が引かれていません。いまこの線を引いたとき、エイスならなんて名付けるでしょう」
黙考しているのだろう、静かな時間が車窓の風景とともに流れる。
「……友達」
「百点満点。たいへん佳くできました」
いぶかしんでいるような顔がルームミラー越しに見えます。ルームミラーを通さずに見た彼の頬はほんのり染まっている。
「ねえ友達、ドライヴをしましょう」
鏡に映るのは苦々しい顔。
「申し訳ありませんが、これは遊びではないのです」
「この状態をドライブ中と言えなくて? 固いのね」
「もしお嬢さまとわたくしが友達の関係になることができるのだとしたらそれは、わたくしが往支路家の使用人を辞めた後です」
「それなら私は、往支路家のお嬢さまを辞めようかしら」
頭だけで足りなかったのか、ハンドルを切る腕まで固くしてしまいました。エイスのドライヴィングテクニックは一流のはずでしたのに。
「不幸ではないというだけで、私は幸せなわけではないのよ」
孤児の彼は薄く笑った。
車は、ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだような森の中を走っています。
「お連れしました」エイスは旧式のノックを交える。
扉が開きます。「初、どうここ? 好いところでしょう。自然がたくさんあって、空気がおいしいのよ。お母さんも仕事の疲れをすっかり癒してしまったわ」
「そうですね、良いところです」
「初も気に入ると思ってたわ。実はこの家、初が4歳のときに書いた絵をもとにデザインしたのよ」
「そうでしたか、夢のようです」
「うんうん。これからはここで親子三人、親子水入らずで暮らすの」
「お母さま、学校はどうするのですか。近くにはないようですが」
「いいのよ。学校なんて行かなくても。ここでゆっくりと過ごしましょう」
煉瓦でできた暖炉には薪がくべられ、オークのダイニングテーブル上にクロスが、二脚のチャーチチェアの間に一脚の小さなチェアが並べられ、ドクタキャビネットの中身はカントリードールやアンティークラジオやアロマポットや硝子の小瓶、壁にかけられているのは振り子時計やドライフラワーリースや箒や車輪、天井からウッドシャンデリアが諸々を照らしています。
まるで箱庭療法の中に入ってしまったようです。
「来ていたか、初」階段を下りてくるお父さまの姿はいつもと変わりありません。
「二階にお父さまの書斎があるのよ」
「はい、お父さま。先ほど着いたばかりです」
「お前はこれからここで暮らす。必要なものは揃っている」
変わらない表情の中に有無を言わせない権威が込められています。その表情に底知れなさを見る人間は多くいますが、本意とは違う命令を下しているために、それが表れないように顔を変えないのだということを私は知っています。
「その言い方では、まるで一緒に暮らさないみたいではないですか」
「そうなるだろう」
「三人で暮らすように言われたわ。あなたは裏切るの?」
「誰をだ。法は特例を認める。命は例外を許す。現に、いま仕事が入った。出かけなければならない。泊りがけになるだろう。ふたつの命が干渉し合い互いに実行不可能なとき、新しい命が優先される。基本的なことだ、なにもいま始まったことではない」
「あなたは娘と仕事のどちらが大事なの」
「娘だ。だから仕事をしている」
扉が開いて閉じる。そのわずかな時間にお父さまが通り抜けました。
「お父さまのことは気にしなくていいわ。それより……ィキ」
キ。急に立ち止まるのでどうしたのかと思っていると、お母さまの視線の先に小さな虫がいるのをみつけました。
「お母さま、ティッシュボックスはどちらでしょうか」
「そこよ、そこ」お母さまは指を向けますが、そちらも虫のいる方向だったのですぐに手を引っ込めました。「あ、ダメ。やめなさい。汚いから手を触れてはいけません。棚に殺虫剤があります。それを使いなさい」
「お母さま、テーブルに噴霧することになります。食事をするテーブルに殺虫剤を撒いてしまいますが、よろしいのでしょうか」
「替えればいいわ。さっさとして」
「お母さま、テーブルは依頼して替えを運ばせるとしても、それまで虫の死骸がそこにあることになります。よろしいでしょうか」
「もうなんでもいいわ。早くなんとかしなさい」
ティッシュをとり、虫を包む。窓から放つ。
窓から外を見ると、車が一台停まっていました。私が乗ってきた車です。来たときにはお父さまのベントレーが停まっていました。それが走り去るエンジン音は聞いたばかりです。お母さまも私も車の運転はできません。
私は外に出て、車に駆け寄りました。パワーウィンドウが開きます。
「見つかってしまいましたか」
「なにをしているの」
「すぐに呼ばれると思ったので待機していました」
「あなたの代わりに私の手が汚れたわ」
「それはどういう……」
「初、どうしたの。そんなに慌てて、面白いものでも見つかったのかしら」
お母さまは心配するような顔で、身体は外に出ないように呼びかけました。車が停まっていることに疑問を抱いていないか、使用人がここにいることを疑問を抱いていないのかどちらかでしょう。
私はそんなお母さまのもとに帰りました。
エイスは慣れたようにパワーウィンドウを閉じます。事情に関与できないことに慣れて、事情に関与しないように振舞います。
「石鹸でよく手を洗いなさい。そしたら、ベリーパイを食べさせてあげるわ」
喜べ、と顔に書いてありました。
「ベリーパイ。おいしそうですね」
「だったら早くなさい。腕によりをかけて作ったお母さんお手製パイよ」
「はい」
手を洗う。
「ちょうどうまく焼けているわ。ほら、座って」
ダイニングテーブルにはクロスが外されていました。キッチンから甘い、甘ったるい匂いが漂ってきます。
「いただきます」
「召し上がれ」
ベリーパイは甘い。漿果の芳醇な酸味が混じっているとはいえ、それは甘さを引き立てる材料にしかならないほどとにかく甘い。
「久しぶりだわ。学生時代以来かしら。懐かしい」
「お母さまの料理をいただくのは久しぶりです」
「お母さんもおばあさまの手料理を食べたのはずいぶん昔のことね。いつだったかしら……。そうだわ。体調を悪くしたとき、お粥を作ってくれた。二十年前の話ね。あのときのお粥、砂糖が入っていたのよ」
子供に甘いものを食べさせようとするのは遺伝なのでしょうか。
「甘かったけれど、とてもうれしくて、すぐに元気になったわ」
そう言って私を見やります。お母さまは一口も口をつけていない。
「おいしいです」
「そう。もっと食べていいわよ」
ふた切れ目に手を伸ばします。
「ねえ、初。お母さんはあなたのためならなんでもするわ。あなたは安心して療養しなさい」
「お母さま、私の病気は治りません。余命も宣告されました」
「あんなのは嘘だわ。信じてはダメ。お母さんが信じるのはあなただけよ。あなたはきっと良くなる。治ると思えばきっと治る。そうでないはずがないもの」
それで治るような時期はとっくに過ぎています。もうどうしようもない、引き返す道が鎖されたことを確認したから今日、ふたりに話しておこうと思いました。その機会ももう鎖されてしまったのでしょう。帰ることができません。
ベリーパイの匂いが充満しています。
「あなたを産むとき、お母さんは痛くて痛くて泣き叫んだわ。みんながそうしてお母さんになっていくなんてとても信じられなかった。でも、あなたが産まれたときお母さんは報われた。救われたのよ。疲れていて力なんて残ってなかったけど、あなたの顔を見たらいくらでも湧いてきたわ。私はこれからこの子のために生きていかなければならない。この子を守って育てて、そのためならなんでも犠牲にできる。なにを差し出しても構わない。なにを売り渡しても構わない。この身が張り裂けたって構わない。あなたはお母さんの大事な宝物、たったひとりの娘だもの。
もっと食べて。あなたのために焼いたのだから。
初、あなたが病気に負けるなんて考えられない。お母さんは初を応援しているわ。初の代わりに病魔と闘うことができるなら、お母さんは喜んで代わってあげる。なんでもできる。なんでもするわ。初、あなたのそばにはいつもお母さんがいることを忘れないで。お母さんはいつでも初の味方なのよ。どうかそれだけは忘れないで。どうかそれだけは覚えていて」
病気になると唾液が甘くなるのはなぜでしょうか。
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■作者からのメッセージ
『緑』『蝋燭』『車』による三題噺です。
三題を与えられると構想が湧くのはよいのですけれど、それをなかなか形にできないから不満が溜まります。ただでさえ、ネタを忘れてゆくというのに。
この物語は運よく水子にならず、ちゃんと産まれることができた稀有な例です。愛しています。どうかあなたも愛してください。
さあ、別の物語を書かなくては。