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『Mother and I  〜お母さんと僕』 作者:いおり / リアル・現代 未分類
全角8201.5文字
容量16403 bytes
原稿用紙約23.05枚
母子家庭の一人っ子の僕に、ある日災難が降りかかる。頼みの綱のお母さんが、どうやら強盗に占拠された電車の中に閉じ込められているらしい。やたら男らしいし、愚痴っぽいし、まともに御飯作ってくれないし。はっきりいって不満たらたらなお母さんだけど、僕にとってはたった一人の家族。僕は防犯用催涙スプレー片手に、夜の駅に向かって駆け出していった。
     

        1

 平日六時半から始まるアニメは、大抵僕のお気に入りだった。
 だから前の番組が終わるとCMの間にあわててトイレへと駆け込み、食べっぱなしにしていたお菓子の袋やゲーム、漫画、友達と競って集めているカードなどなどを、僕は時間と追いかけっこで片付けた。けれどその前の番組だってぎりぎりまで見ているのだ。時折ゴミ箱に入れ損ねて少しだけ残っていたお菓子の残骸を周囲にばら撒いてしまったりもした。するとオープニングテーマからしっかり見るのをモットーにしているのに、僕は風呂場前においてある掃除機を出さなきゃならなくなる。
 友達に言わせればテッシュか何かでさっとまとめて捨てればいいじゃん、というところらしいのだが、それがどうも上手くいかない。ウチの居間にはやや毛足の長いカーペットが敷かれていて、暖かく座り心地は良いものの、一旦絡んでしまうと小さなゴミは沈んで取れ難くなってしまう。それに僕の目が悪いからかお母さんが特別神経質な人だからか、ごまかしはすぐにばれて、いつもお母さんの不機嫌に直結してしまっていた。古いとはいえウチはアパートの二階だったし、蟻がここまで列をつくるなんて全然思えなかったけれど、母子家庭の一人っ子、つまり僕にとっては唯一の家族であるお母さんの機嫌を損ねると非常に後が辛いことになるのだ。
 いつもは気楽な二人暮らしをエンジョイしていて不満に思うことなんてほとんどないのに、そういう時だけ僕は思う。フォローしてくれたり、間に入ってくれる家族がいるって事は、きっととても幸せなことなのだろうと……。

 その日も僕は何とか片付けを間に合わせ、前半十五分をきっちりと堪能することができた。
 自分で言うのもナンだが、なかなかに正確で無駄のない、良い仕事であったように思う。そして見ていたストーリーの展開にも大満足し、再びCMが始まるのを確認すると僕は鼻歌交じりに立ち上がった。幾つか頼まれていた手伝いの仕上げに、お湯を沸かしておかなければいけなかった。
 必要なのは、二人分のインスタント味噌汁とお母さんが食後に飲むコーヒー分。大した量ではないから、手間も時間もかかりはしない。最初から大きめな音量で見ていたから、台所と続きになっている居間からは進行状況が十分推測できるだけの音が漏れていたし、僕はやかんを火にかけると椅子代わり使っていた蓋付きのゴミ箱にのんびりと腰掛けた。
 か――。
 炎に包まれた底から、やや高い唸り声が上がりはじめた。
 だんだん段々と、それは切迫した音に変わってゆく。僕は小刻みに震える青いゆらめきを眺めながら、ご機嫌だった気分が次第に重くなっていくのを感じていた。僕はお母さんのことを考え始めていた。
 そろそろ電車がつく頃かなぁ……。
 振り返ると柱に掛けてあるお母さんお気に入りのミッキーマウスの手形の時計が、六時四十二分を指していた。いつも五十五分過ぎ――丁度エンディングテーマが終わる頃に、玄関からすぐ正面にある階段をカツカツと響かせてお母さんは帰宅するのだ。
 ……今日はどんな声で帰って来るだろう?
 第一声は決まって「ただいま」だった。
 ここのところ酷く寒い日が続いていたから、冷え性のお母さんが上機嫌で言うことはほとんどなかった。でも問題はその後がどう続くか、だ。
 僕が聞いてもどうしようもないような、上司や同僚に対する文句の日は良い方である。手を洗ってうがいして、買ってきたお惣菜をテーブルに並べながら、お小言が始まったら最悪だ。口に出すのも不愉快な何かがあったのだろうと、黙って推測するしかない。逆に学校のことなど、聞いてくる日は上機嫌だった。でも更に良い事があった日には、かえって厄介なことになる。台所の換気扇の下でタバコを吸いながらビールを飲み、延々とその話を繰り返すのだ。酔いが回ってくると僕の都合もお構いなしで絡んでくるから、本当に性質が悪い。
 一番上と、一番下と。具合が悪くなければいいというのが僕の本音だった。働いて育ててくれるのは本当に有難いと感謝していたけれど、色々な意味で素直なお母さんがその日あった出来事を家にそっくり以上に持ち込むのだけは止めて欲しかった。僕は短い溜息をついた。
 その時。
 ふっ……とCMが替わったのか終わったのか、テレビの音が聞き取り難いほど小さくなった。
 あれ?
 お湯はまだ完全に沸き切ってはいない。
 水が多かったかなぁ、と思いながらも僕は慌てて火を止めた。手早くポットに注ぎ、居間へと向かう。ま、何か言われたら早めに沸かしたからとでも言えばいいや、といった具合だ。
 ところが画面を一目見た僕はがっかりしてしまった。映っていたのは楽しみにしていたアニメの続きではない。見慣れぬオジさんが報道フロアとかいう落ち着きのないところを背景に、緊張した面持ちでしゃしゃり出ているのだ。
 何だよ、ニュースかよぅ。
 腹立たしさに、僕はチャンネルを変えようとした。
 ところがリモコンを向けた次の瞬間、僕は大きく目を見開いて、そのクソ面白くもない筈のニュースに釘付けになってしまった。
 交番とコンビニを左右に従えたような改札出口。カメラが切り替わりクローズアップしたのは、かなり見覚えのある駅前の風景だった。
 でもまさか全国には同じような駅も多くあるだろうし、封鎖の為テープが張られたり警官や報道関係らしき人達がごった返したりしていたから、暫くは見間違いかと思い眺めていた。しかしカメラがロングショットになり周囲を一周すると、ポストや使われているのをみたこともない張り紙だらけの公衆電話の位置、ロータリー中央の花壇の中から両手を空に翳す少女の像と、次々僕の記憶と符合するところが現れたのだ。
「……現場は報道規制が敷かれ、現在も緊迫した空気が流れております。只今甲東線は塩見駅を中心に上下線とも運休しており、事件の解決までは復旧の見通しがまるで立たないといった状況です」
 甲東線塩見駅。
 うおっ、ビンゴ!
 そこはウチから歩いて十五分ほどのところにある駅だった。出かける際には僕も、そして電車通勤をしているお母さんは平日毎日利用している最寄り駅だ。
 そんな近場で何が起こったというのか。
 番組は現場からスタジオへとかわり、回りくどいコメンテーターが何やら喋りだしたから、僕は急いでチャンネルをかえた。
「事件発生は今から約一時間前です。まずは現在現場となっている甲東線塩見駅から二駅離れた西元本町駅、駅前銀行が強盗に襲われたことから始まりました。四人から六人とみられる犯行グル−プは拳銃と爆発物らしきもの所持し、現金を要求しておりましたが強奪に失敗。人質を取ると逃走し、十八時五分発の通勤準急甲東本町行きを占拠した模様です。ただ今当該電車は犯人グループからの指示により塩見駅手前のトンネル内で緊急停止しており、全車両に乗っている方たちはまだなかに閉じ込められているということですが、先ほど犯行グループの一部が車外へ逃走したという情報も入りました」
「斉藤さん、それは正確に逃走したということなのでしょうか? 何か別の目的があっての行動ということはないのでしょうか?」
「あっと失礼致しました。詳しいところはまだ確認取れておりません。停止した車両から停止直後に二人ほどが下車したのを目撃したという証言があったということのようです。県警本部も三十分ほど前に捜査員の増員を要請し、必死に行方を追っておりますが、こちらにも未だその後の情報はありません。また車外に降りたとみられる一人は身長百七十センチほどで黒っぽいジャンパーとニット帽を被り、もう一人は灰色の作業服のような上下を着た百八十センチを超える大柄な男で、それぞれマスクや眼鏡等で顔を隠していたということです。近隣住民の皆さんは……」
 そこまで聞いて、僕はテレビを消した。
 は? うそだろ?
 冗談としか思えなかった。こんなにも自分に近いところで速報としてメディアに報じられるような大事件が起こるなんて、とても信じられない。
 半信半疑のまま、僕は居間の窓を開けた。白い息を吐きながら上半身を乗り出して、耳を澄ましたり眺めたり。流石に何かわかるほど近くもないのに、暫くはしつこく駅の方を窺ってみた。しかし特に変わった様子もなく、聞こえてきたのは隣近所の話し声と、犬の鳴き声。そしてウチの台所の掛時計からの、やたら暢気なミッキ−マウス・マーチだけだった。
 七時ちょうど。
 どくん、と。心臓が大きく鳴った。
 お母さんは元々丈夫なほうで、多少の風邪を引いても必ず仕事へ行く人だった。外せない学校行事や僕が病院へ行かなければならないほど具合が悪くなったときを除いて、休んでいるのを見たことがない。そのかわり残業はまったくしなかった。用事があって帰りが遅れるときは、必ず前もって電話をくれていた。そのお母さんから、今日は連絡もない。
 やっぱり本当だったんだ。巻き込まれたんだ……!
 急いで窓を閉めると、僕はランドセルの中に入れてあった携帯電話を取り出し、リダイヤルをかけてみた。もしもお母さんが犯人と同じ車両にいて、この電話が犯人を刺激することになったらどうしよう。そう思うと手は震え、途中何度か躊躇して、切ったりまた掛けなおしたりを繰り返してしまった。けれどプップップッという接続待ちのあとは結局《お掛けになった電話番号は……》と続き、その後は狂ったように何回も試みたものの、結果は同じ圏外であった。
 役立たずと乱暴に電話を投げつけて、僕は蹲った。かつてないほど状況は緊迫していて、言い表しきれぬほど困り果てていて、色々考えなければいけないはずなのに、頭の中は真っ白なまま凍りついてしまっていた。溜息をこぼし、ぼんやり過ごしていたさっきまでの日常が嘘のようだ。
 僕の出来る唯一の連絡手段――携帯電話。それが駄目なら他に安否を確認する手段なんて、ない。どうせ子供が警察に問い合わせたって、あのニュースの様子じゃ碌に取り合ってももらえないだろう。僕にはこんな時相談にのってもらったり、不安を訴えたりできるようなところだってなかった。
 途方にくれるって、こういうことだったんだ……。
 僕はふと、以前お使いで財布と地図をカバンごと落とし、挙句に迷子になった時のことを思い出した。ここに引っ越してきたばかりの頃、確か夕飯に食べるお弁当を買いに行ったときのことだ。お母さんは部屋を片付けながら心配してくれていたけど、僕はそれくらい出来るよと大人ぶって笑ってみせた。まだ携帯電話は持っておらず、土地勘もなく、交番もなく、日も暮れて、手をつないで幸せそうに通り過ぎる親子の姿を避けるように俯いて歩いた。そのうち足も疲れて、喉も渇いて、ぼろぼろになった僕は細々と灯る街灯の下にひとり立ち竦んでしまったのだ。寂しさと恐怖と不甲斐なさで僕の心はいっぱいだった。けれどそんななかでも、ちゃんとわかっていることもあった。周りに誰もいないのなら、泣いたって騒いだって何も変わりはしないのだということ……。
 今も同じだと、僕は思った。それに子供の僕がわが身も省みず外に飛び出したところで、周りに迷惑や心配をかけこそすれ、これっぽっちも事態を好転させることなんて出来はしない。
 先走っちゃだめなんだ、今は待つんだ……待つしかないんだ。
 僕は一生懸命自分に言い聞かせた。――冷静であれと、精一杯、念じた。
 
        2

 それからの二時間は悪夢のようだった。
 事件は完全な膠着状態に陥ってしまったからか、緊急特番は無情にも通常番組へと変わってしまっていた。今までの人生の中でこんなにもニュースを必要としたことなんてないのにと、僕はテレビ局を恨めしく思い、果てはいじめか嫌がらせでも受けているような気にさえなっていた。暫くは慣れない静寂に耐え切れず、テレビはつけたままでいたものの、いつも始まると叱られるほど笑い転げていたお笑い番組もちっとも面白くない。それどころか不愉快通り越して怒りたくなってくるから、さっさと消してしまった。
 ストーブの微かな音が響く沈黙の部屋で、僕はただじっと身を縮めていた。座布団にうつ伏せて、時計も出来るだけ見ないようにしていた。けれど否応なく三十分毎に例のお気楽な曲がかかってしまい、大体の時刻は常に把握していたように思う。こんなに胃に穴が開くんじゃないかと思うほど気を張っているのに、お腹が鳴りだす自分が不思議だった。

 朝御飯の残りのメロンパンを牛乳で流し込み終えると、僕はランドセルの上に置いてあるダウンジャンパーと電話を交互に睨みつけた。もう限界だった。駅へ行こうか、それとも警察に電話を掛けてみようか……。どちらを選ぶにしても躊躇いが消えたわけではなかったのだが、とにかく何かしないことには、おかしくなってしまいそうだった。
 ああもう嫌だ……どうしたらいいんだよぉ……。
 ついつい情けない呟きがこぼれる。もうこの際十円玉でも投げて決めてしまおう。そう思った時、窓の外から灯油の巡回販売とは違う、高いトーン声が小さく響いてきた。
「……の容疑者数名が、この周辺に潜んでいる可能性があります。安全のため、外出を避け、戸締りを御確認ください。繰り返します……」
 それを追うように、低速で走る車の音も聞こえてきた。どうやらパトカーが警戒を呼びかけながらパトロールしてまわっているらしい。僕はもしかしたら自分が今まで動転していて聞き逃していただけかも知れないのに、沸々と怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 遅すぎる。事件直後ならともかく、そんなこと今更言われなくてもわかっている。
 こんなところを悠長に走っている暇があるなら、一人でも多く現場に行って、さっさと事件を解決して欲しかった。早くお母さんが戻ってこられるようにして欲しかった。窓を開け、僕は叫ぼうとした。
 ばかやろぉ! お母さんが帰ってないのに、戸締りなんかできるか! と。
 だが瞬間、出かかった言葉を飲み込んだ。
 パトカーに手を振り駆け寄る小さな人影が目に入ったからだ。下の部屋から漏れ出た光とライトに、薄紫のカーディガンと特徴的な姿勢のシルエットが照らし出された。
 一階に住んでいるおばあちゃんだ。
 こんな時間にどうしたというのだろう。僕が驚き眺めていると、おばあちゃんは咳なのか、叫んでいるのか、それとも泣いているのか、まったく判別つかない奇声を上げてパトカーの前に立ち塞がった。そして降りてきた婦警さんの足元に転がるようにして縋ると、身振り手振りを交えて、必死に何かを訴え始めたのだ。
「おっ落ち着いてください、どうされたんですかっ?!」
 勢いにのまれたのか、婦警さんもうわずった声をあげた。それでも一生懸命なだめたり背中を擦ったりして、暫くは言わんとすることを聞き取ろうと努力していたのだが、何しろ当のおばあちゃんが限界にきてしまっている。息も絶え絶えで「むすこが……むすこが……」と言ったきり言葉が続かない。隣の奥さんも含めた何軒かが何事かと顔を出したりもしていたが、時間をかけないことにはどうにも埒が明かないようで、その内には皆そろそろと部屋に引っ込んでしまった。
 ……ずっと胸の中にあった小さな罪悪感が、ずきんと痛んだ。
 僕は、おばあちゃんが息子さんと二人きりで暮らしているのを知っていた。
 息子さんはまだ帰っていないのだろか。ショッピングカートを小さくしたようなカゴを杖代わりに、よろよろ買い物に行くおばあちゃんが、パトカーの音を聞いて必死に飛び出してきた様子が浮かんだ。それとも息子さんを心配して、この一月の寒空の下、しかも強盗犯がうろついているかもしれない外でずっと待ち続けていたのだろうか。
 どちらにしても僕は叫ばなくて本当に良かったと思った。
 そして到底おばあちゃんには敵わないと思った。
 僕はお母さんの事ももちろん心配はしていたけれど、お母さんにもしものことがあった時どうしたらいいのか、可能性でしかない未来の自分の事も考えていた。あのおばあちゃんが息子さんを思うように、百パーセントお母さんの事を思っていたわけではない。今でもここから動かないと決めた一時間前の決断を、僕は間違ってはいなかったと思っていたけれど――でもだからといって。既にある程度の自己保身と計算高さを持ち合わせた僕が、子供だからと安全なところに隠れて、外では対応が遅くても上手くいかなくても何かを必死にしている人達がいるのに不満だけぶちまけていいわけがない。それに自分が動くことも儘ならないおばあちゃんやお母さんがいないだけで何もわからず泣き続ける小さな子ならともかく、僕は人並みには丈夫で、こんなふうに考えられるくらいには大人になっているのに、後ろめたさを理屈で押し殺して僕はどこまで待ち続ける気なのだろう……。
 部屋に下がり窓に鍵を掛けながら、僕はうな垂れていた顔を上げた。目の前のガラスに映るしょぼくれた自分の目をしっかりと見つめ直すために。
 そして強く唇を噛み締めると、眠りから覚めた頭の中が、ようやく氷を振り払って動き始めた。

 ニュースの後半。僕は半分上の空だったから、実際どのくらいの人が今も電車に閉じ込められているのか、正確な数字を知らなかった。けれど人質が多ければ多いほど、警察だって手がまわりきらなくなるだろう。泣いて土下座して頼んだって、おばあちゃんの息子さん一人を、僕のお母さん一人を、特に気にしてくれる筈もないのだ。警察にとって百人なら百人、その中の一人であるだけ……。
 でも僕にとってはたった一人のお母さんだった。たった一人の、家族なのだ。
 わがままで結構横暴で、外面ばっかり良いAB型だし、お酒を飲むし、タバコも吸うし、絡むし、煩いし、でも放任だし、週に一度か二度しかまともなご飯作ってくれないし、やたら男らしいし――でも。
 僕のお母さんだ。
 掴んだジャンパーの袖に僕は勢いよく腕を通した。そして座布団の横で転がっていた携帯電話を拾い上げると、ランドセルの横に引っ掛けてあった防犯ブザーと一緒にして、ポケットの中に仕舞い込んだ。後は下駄箱の上においてある携帯用の催涙スプレーを持っていこうと思っていた。それはいつだったか防犯のためにとお母さんが買ってきたものだ。本当は果物ナイフを護身用にしたいくらいではあったけれど、そんなものがポケットからはみ出していたら僕が補導されるに違いなかったし、転んだ拍子にカバーでも外れて自分が怪我したら目も当てられない。
 よし。
 僕は襟を立て、上がるところまでファスナーを押し上げると勢いよくドアを開けた。
 目の前に連なる幾つもの屋根。その上には冬特有の澄んだ深い闇が広がり、無数の星々が力強く瞬いていた。幸い強い風はふいていなかったものの、空気は窓際で感じたよりずっと鋭く僕の身体に突き刺さり、剥き出しの頭部は一瞬のうちに髪先まで強張ってしまった。息をしただけで乾燥し荒れていた鼻にツンとした痛みが走る。
 それでも僕は怯むことなく階段を下っていった。どんなに寒くても、走りだせば芯まで冷え切ってしまうことはない。そう思い胸を張った。きっと人生にはどんな些細な理由の為であれ、浅はかな結末を迎えようとも、走らなきゃいけない時が来る。僕の場合、きっと今がその時なのだ。
 家を飛び出したことで僕自身に何かあったら、正しく馬鹿そのものというように他人の目には映るのだろうが、後悔する小利口者より後悔しない愚か者に僕はなろうと思った。
 アニメのオープニングテーマが頭に過ぎる。
 お約束の熱血ヒーローよろしく、僕は駆け出していった。





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2008/02/09(Sat)00:23:21 公開 / いおり
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■作者からのメッセージ
初投稿です、宜しくお願いします。

当初予定していたお話があまりに長くなってしまいそうだったので、短めのお話に切り替えての投稿です(^^;
本当はこのお話も全て書きあがってからアップしたかったのですが、幾つか不安に思っていることがありまして、御意見御感想がいただけましたら訂正変更のうえ、是非後半の参考にさせていただきたいと思います。
宜しくお願いします。
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この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
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