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『Butterfly Tale』 作者:宵千 紅夜 / リアル・現代 未分類
全角24564文字
容量49128 bytes
原稿用紙約75.15枚
 家出少年のナギがゴミ捨て場で出会ったのは、ゴミのように捨てられた少年、タテハだった。 しばらく共に行動するうち、何気なく話したことでぶつかり合うが、価値観の違いを受け入れ親しくなっていった。 楽しい日々を過ごすのだが、ちょっとした冒険のつもりで探検した地下でタテハのつらい過去の話を聞く。 幸せを、ただそれだけを願う少年たちの物語。
 鴉がちいさなゴミ袋の山をつついている。明け方のゴミの小山の隣にある、ゴミは回収車のくる時刻の30分前に捨てましょうという看板はいつ見てもむなしかった。少年が鴉を追い払う。
「しっしっ、俺の飯が減るだろ!!」
 鴉は不満なのか馬鹿にしているのか、一声鳴いたあと、上の電線にとまって彼を見下ろしていた。ナギは気にせずゴミ袋に手をかける。すると、いつもとは違うものが現われた。
「足…?」
 ナギがいぶかしんで頭にあたるであろう位置のゴミ袋をどけた瞬間、黒い羽根を振りまいて鴉が一斉に飛び立った。バサバサという黒い羽音が、やけに心臓に響いた。もし彼にも羽があれば、一緒に飛んで逃げたかもしれない。ゴミの中から現れたのはナギよりも少し幼いくらいの男の子。異常ではあるが、たったそれだけの存在に寒気を覚えた。ゴミの小山から現われた少年の顔は日の出前の白んだ空に照らされて、ひどく不気味なほどに白く見えた。
「…お…おい、死んでんの?」
 おずおずと手をのばす。細い肩が伝える暖かさが少年の緊張を和らげた。白い少年はゆっくり目を開いて彼を見た。黒い髪と目が整った白い顔立ちを引き立たせていて、ある種の幻のようであった。白い少年はゴミの山の中から立ち上がり、服の汚れを払う。真っ白い上着は不思議なほど汚れていなかった。
 白い少年は汚れを払い終わると、ふわふわと視線をさまよわせた。
――まるで白い蝶だ…
ナギはしゃがみこんだまま聞いた。
「こんなところでなにやってんの?」
 答えはない。
「俺はナギ。お前の名前は?」
 白い少年はナギのほうを見てしばらくしてからぽつりと答えた。
「タテハ」
 風が吹けば飛ばされそうなか細い声で答え、またタテハは目線をさまよわせ始めた。みれば見るほど奇妙だった。なんでこんな所にころがっていたのかもわからない。どうしていいかわからず、しばらく少年たちは黙っていたが、ナギはやおらゴミをあさり始めた。
「変な名前…」
 ナギがそうつぶやくと、タテハから明らかにむっとした雰囲気が伝わってきて、彼はクスッと笑った。
「なんだ、人間じゃないかと思ったけど、普通じゃん?」
「なんだよそれ…」
 タテハが少しいじけたように言って、それからはそのまま立っていた。ナギは腹が満たされると、ゴミを処理してから聞いた。
「行くところとかあんの?」
 タテハは首を横に振った。「よし」と言うとナギはタテハの右手をとり自分の右手と握手をさせ、ぶんぶんと振る。きょとんとした顔でタテハはナギの顔を見た。
「浮浪児仲間。よろしくな」
 手を離したあとも、タテハは不思議そうに自分の手を見つめていた。歩いていたナギは振り返って呼ぶ。
「ほら、行くぞ。いつまでそうしてるんだよ」
 タテハは黙ってうなずくと歩き始めた。

 出会ってから一週間、彼らは特に互いのことについて尋ねなかった。橋の下で寝泊りしたり廃ビルで雨をしのいだりしなきゃいけないということは、それ以前に何かがあったということは明らかだ。それを聞こうとすることはあまりにも不躾だったし、それくらい無関心のほうが彼らにはちょうど良かったのだ。
 彼らは大きな橋の下の巨大下水道跡に寝泊りしていた。ぼろきれに包まっているナギが、もぞもぞと目を覚ました。タテハはいない。ナギがあたりを見回すと、入り口のほうからタテハが歩いてきた。
「あ、ナギ」
 いつもどちらとも無くふらふらといなくなるのだが、いつの間にか二人は一緒にいる。
「また散歩、か?」
「うん」
 それだけ。たったそれだけのやりとり。また、それだけで十分な関係だった。
「そ。じゃ、俺、メシくってくる」
 ナギはタテハの脇を抜け、ゴミ捨て場に向かった。
 彼はいつものように鴉を追い払い、ゴミをあさった。
 何気なく地面の隅を見ると、ゴミ山の脇に白い蝶が死んでいた。いや、まだ生きてはいるのだが、蜘蛛に捕まり、ただバタバタともがくことが許されるだけだった。
 ナギは、ふとタテハを思い出す。
――そろそろ…なんか話してやってもいいかな…。
 ある程度腹が満たされると、ナギはゴミ袋の口を縛りなおして橋へ戻った。
 彼が戻ると、タテハは川べりに座り込んで川を眺めていた。
「おもしろい?」
 ナギが聞くとタテハはフルフルと首を横に振った。
「なら、ついて来いよ」
 そう促すと、ナギは彼がついてくるのかどうかあえて確認せずに、早足で目的地に向かった。その早足は、あたりが明るくなるにつれてだんだんと速度を上げ、最後には疾走に変わっていた。
 少し経ち、町外れの廃マンションに着く。太陽はもう半分以上見えている。急いで窓ガラスが外れている窓から侵入して階段を駆け上がる。息が上がってきている。やっと屋上に着き、彼はその場にしゃがみこんだ。目的地だ。あとからついてきていたタテハは息を切らしながらも目を見張った。
 朝焼けに染まった街並みがタテハの目に映る。夕焼けとは違う優しい輝きから、タテハは目が離せなくなった。
「なんでこんな場所が放置されているの…?」
「さぁ?」
 彼らはしばらく景色に見入っていたが、ナギが口を開いた。
「ここは俺がこの町に来たときからこんな状態。俺がこの町にきたのは二、三年前。あの時は本当に死ぬかと思ったよ。所持金なんてはなから少ないし、すぐになくなった。それからゴミを漁るようになったんだけど、その頃はどれなら食っても大丈夫だとか区別つかなくて、当然腹こわす。今じゃあ、どってことないけどな」
 タテハは黙って町を眺めている。ちらりと様子をうかがい、ナギは続けた。
「今考えれば、もう少し慎重に金を使うべきだったな。十三、四歳のガキじゃ働けないし。あ、今も身分がしっかりしてないから働けないんだけどさ。まあ、あの時は何も考えずに出てきたくらいだから、そんなことにも気がつかなかっただろうな」
 朝焼けはいつの間にか無くなり、眼下はただの朝の町になっていた。しゃがんだタテハを気にしないようにしながら、ナギはしゃべる。
「親は二人とも働いててさ…二人とも俺にはあんまりかかわってこなかったんだけどさ、父さんのほうのおばあが死んでから全部変わった。父さんも母さんも、俺によくかまうようになって、いろんな物買ってくれたりさ。でも、父さんも母さんもなんだか仲がよくなくて。そのとき気づいたんだ。二人は離婚するんだなって。そして俺は、そのあいだで取り合いされてるんだなってね。そう分かったら、なんか全部下らなくなって腹立って…家出したんだ」
 タテハは顔を膝にうずめたまま動かなくなった。
「聞いてるのかよ?」
 ナギは取り繕うように笑いながら言ったが、その返事の反応はとげとげしいものだった。
「だから…?」
 顔をうずめたままそれだけ。ナギはひきつる頬を抑え、タテハの顔が上がるのを願った。
「なに怒ってるんだよ。そんな…なぁ」
「怒ってないよ」
 うつむいたままの沈黙が二人の間に敷き詰められた。ほかの言葉を探そうとナギは必死にもがくけれど、沈黙が過ぎ去ることはなかった。
「なんだよ! もう好きにしやがれ!」
 ナギは空気に耐えかねて怒鳴り、その場から走り去った。
 マンションの下まで来たとき一度上を見上げたが、タテハの姿は見えるはずも無く、すぐにナギは走り出した。
 それからナギは橋の下に戻って半日を過ごした。座り込んだままのナギの頭で、怒りやら後悔やらがグルグルと走り回って消えない。時間が経てば経つほど心臓の辺りが重たくなっていった。
 ナギは舌打ちをして立ち上がり、仕方なく町を歩くことにした。一人はいつものことなのに、いつもよりむなしい感じがする。
――おばあなら…今の俺を見てなんて言うかな…。
 きっと、謝りなさいだとか色々なことを優しく諭してくれるのだろう。ナギはかぶりを振った。
――…でも、もういない。
夕暮れ時の町を歩き、いつの間にか小さな公園に行きついていた。薄暗くなる公園のベンチに一人の老婆が座っている。
「こんばんは」
ナギと目が合うと老婆はにっこり笑って挨拶してきて、彼は戸惑った。
「え……あ…コンバンワ…」
そのまま、隣に座るように優しく促されて、ナギはためらいながらも彼女に従うことにした。隠れるように生活しているという理由もあり、大人と話すのはかなり久しぶりのことだった。
「あなた、この辺に住んでいる浮浪児さんでしょ?」
 びくりとして逃げようとするナギを制して、老婆は「ふふっ」とやわらかく笑っていった。
「そんなにおびえなくてもいいのよ、無理に捕まえたりしないわ。最近はあなたのおかげか、カラスが減ってゴミが荒らされないって喜んでいる人もいるのよ」
 あいまいにうなずきながら、ナギは黙って彼女の話を聞く。
「世界は時々、ひどく不条理に見えることがあるかもしれないけど、あなたが怯えながら生きなければならないほど、ひどくはないわよ」
 老婆は優しく諭す。ナギは少し懐かしいような感覚を覚えた。
「俺みたいなの、危ないとか思わないの?」
 おずおずと聞いてみるが、彼女は首を横に振った
「私が子供の頃なんて、家出はよくあったもの。問題はそのあとちゃんと家族と向き合えるかどうかよ。今の子は可哀そうだと思うわ。親や世の中に不満を感じても妙に冷めた目で見ていたり、諦めていたり。殻の外も同じだと決め付けて生きているけど、同じ所なんてないのにね」
 分かるような、分からないような言葉に、ナギは頷いた。奇妙な空間だった。夕暮れのベンチに老婆と浮浪少年。だけど、悪くないなとナギは思った。
「俺、けんかしたんだ。…普通に話をしていただけなのに、なんかいつの間にかそいつは怒ってて…どうしたんだって聞いても答えてくれなくて、俺も腹たって…。どうにでもなれって思ったけど…今は後悔してる」
 それを聞いていた老婆は優しく微笑んだ。
「そうねぇ。他人と感情を共有することは難しいわ。それぞれの人はそれぞれの暮らしのなかで築いたものさしでしか物事をはかれないから、自分ではなんともないと思っていることでも、相手には触れることすら許せない琴線だったり」
 老婆の言葉はナギに深く突き刺さってきた。自分も何かタテハの気に触ることを、それもとても嫌なことをしてしまったのだろう。ナギはベンチの背にもたれ、ぎゅうっと膝を縮めた。
「俺、どうしたらいい…?」
「償うべき相手がいることはとても素晴らしいことよ。後悔しているのならちゃんと謝って、自分も相手のものさしを受け入れるべきよ」
 老婆はにこりと微笑んで、優しくナギの頭を撫でた。
「大切な相手なら、共有はできなくても理解はできるはずよ」
 それを聞いてナギはベンチから立ち上がると、強くこぶしを握った。
「俺、謝りに行く」
 老婆は優しく頷くと「あ、そうそう」と付け足した。
「あんまり家族に心配かけちゃだめよ?」
「ありがと。でもまだ当分は無理みたいだ!」
 走り始めていたナギは振り返り、老婆に大きく手を振って叫んだ。
「おばあさん、なんかあんた、俺のおばあに似てる!気持ちがすっきりした、ありがとな!」
老婆は笑って手を振り返した。
 ナギは日の落ちた町を一目散に走った。半日たった今、あの廃ビルにまだタテハがいるとは思えなかったが、彼はとにかくそこから探そうと決めた。そして、息を切らして屋上まで上ったとき、ナギは目を疑った。朝と同じ位置に白いものがうずくまっている。
「た…タテハ?」
 声をかけるとタテハは首をあげた。
「ずっと…一日中ここに?」
 ナギは立ち尽くすしかなく、振り向かない頭がコクンと頷くのをただ黙って見ていた。夏の終わりの風が吹き抜けてゆく。訪れた沈黙を壊すための言葉を持っていたはずなのに、ナギは何も言えなかった。
「ナギ…あのね、優しい言葉より、暴力や暴言のほうがよっぽど信用できるんだ。裏表がないから。だから無関心も心地よかった。でもね、いきなりナギのこと聞かされて驚いたの」
 ただナギは「うん」と頷き、タテハの隣に座った。少し、距離を置いて。
「まるで、だまって決めた陣地に勝手に踏み込まれたような、そんな気持ちになって…」
 見ると、タテハはぽろぽろと涙をこぼしながらしゃべっていた。ナギは話を聞くしかできなかったが、タテハにとってはそれで十分だった。タテハはナギの方を見ずに続けた。
「僕には…ナギが踏み出してきた一歩が怖かった。でも、ナギがいなくなってからわかったんだ。…一人はもっと怖い。…それでも、謝りたくても、どこに行けばいいかわからなくて…」
「俺も、謝りたかったんだ。ごめんな」
 タテハは涙でぐちゃぐちゃになった顔で「うん」と頷く。そしてまた沈黙。ナギとタテハはついに互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
 ひとしきり笑うと二人はどちらともなく話し始めた。お互いに距離を探りながらの会話だったが、それでも彼らには大きな一歩だった。

 町の東端の山のふもと。そこにはどこぞの違法業者が運んできたのか、または心無い市民が捨てていくのか、たくさんの粗大ゴミが山を作っている場所があった。ナギとタテハは器用にその山の上を歩き、埋まっているものを掘り返していた。
「ナギ、これなんてどう?」
 タテハが古い毛布をガラクタの間から引きずり出して言った。ナギはそれまで引っ張り出していたガラクタを放置して、タテハのところに歩いていく。
「うん、まあ、これくらいの汚れならいいな。布類はあるにこしたことはないし」
「まだ布団みたいなのもあるよ」
 えへへとタテハはうれしそうに笑いながら、奥にある、煎餅のように薄くなった布団を引きずり出す。残暑がなくなれば、一気に秋の寒さが訪れる。家も暖房設備もない彼らには、寒さをしのぐための入念な準備が必要だった。ふと、ナギは近づく音に気がついた。
「パトカーだ! タテハ、隠れろっ!」
 とっさに身を低くしてナギとタテハは瓦礫の影に隠れる。家出の浮浪児という身分のため、ナギは警察をひどく警戒していた。はじめのうち、タテハは慣れずに、隠れるのに時間を要していたが、今ではナギと同じようにすぐに物陰に隠れることができた。少し顔をのぞかせてナギがあたりを見渡し、危険が去ったことを確認する。ほっと息をつき、ナギとタテハは物陰から出た。
「とりあえずこの布団と毛布は、夜に取りに来ることにしよう。こんな大きなもの抱えてたら、隠れたり逃げたりできないからな」
 ナギがそういうとタテハは頷き、また別のガラクタを掘り始めた。ナギも土の見えない地面に目をやる。蝉の声はとうの昔に聞こえなくなっている季節。気の早い鈴虫が鳴いていた。
 しばらくガラクタをあさっていると、タテハが何かを拾ってナギのところにパタパタ駆け寄ってきた。
「ナギ、懐中電灯! 電気つくよ!」
 そういうタテハが持っていたのは確かに懐中電灯だった。かなり古そうなもので、ごつい。
「それが…どうかしたのか?」
 ナギは嬉々として言うタテハに、首をひねって聞いた。懐中電灯の何がうれしいのか、タテハは目を輝かせていた。
「地下! もっと奥まで行ってみない?」
 どうやらタテハが言っているのは、ナギたちが住んでいる地下下水道跡のことらしかった。この町には巨大な地下道がある。元は下水道として作り始められたものらしいが、どういったわけか工事は途中で放棄されて、その存在は住民から忘れ去られ、巨大な地下道だけが残った。ナギも一度だけ奥までいってみようとしたことがあったが、中が暗く足元もおぼつかないために断念した。
「夜まではまだ、時間けっこうあるし」
 確かにタテハの言うとおりだった。それに実のところ、ナギはそろそろガラクタあさりに飽きてきた頃だった。
「よし、探検だな」
 そういってナギとタテハは、競うようにいつもの橋の下まで駆けていった。

 高さ三メートルほど、幅は四メートルほどの下水道跡。水は通っていない。当たり前なのだが、昼間なのにもかかわらず下水道跡はうす暗かった。呼吸をするたび、湿っぽく埃っぽい空気が肺に侵入する。ナギはタテハが掘り出した懐中電灯をともす。
「何があるんだろう…」
 後ろにぴったりと立つタテハは、ナギの袖をつかんでいた。タテハの背後には半円状に切り取られた光が見える。入り口であり、出口でもある。懐中電灯の光はその正反対の方向に円形の黄色っぽいあかりを落としていた。
「怖いのか?」
 ナギは袖を離さないタテハを見てにやりと笑った。
「こ…こわくなんかないもん」
 それでもタテハはぴったりとナギにくっついたまま袖を握っている。ナギはずっと続くコンクリートの道の先に懐中電灯を向けてみたが、黒い空気は懐中電灯の明かりなどたやすく飲み込んでしまうため、足元を照らしながら歩き出す。
 奥に進むほど空気はより湿気を増し、よどんでいった。出口の明かりが見えにくくなるあたりで、通路は別の道につながる。T字路になっていて、通路の奥の半分ほどは水がたまっていた。
水際までいって懐中電灯で照らしてみると、どうやら通路とは別に水を通すために段差がつけられているようだった。そこに、雨水か下水かはわからないが水がたまっている。流れはひどく穏やかで、もしかしたら流れていないのかもしれない。どちらにしろ、濁った水でしかなかった。ナギは懐中電灯で右を照らし、次に左を照らす。どちらにも水に沿うように、コンクリートの道がつなげられている。
「右と左。タテハ、どっちがいい?」
 当たり前だがどちらも暗く、遠くまでは懐中電灯で照らすことはできないため、先は判然としない。
「どっち…?」
 タテハも右、左とみるが、先など見えるはずもない。タテハがナギの袖を離したそのとき、ナギはちょっとした悪戯を思いついた。そして、持っている懐中電灯の明かりをいきなり消し、タテハから少し離れる。タテハが飛び上がる姿が見えるようだった。
「な…ナギ! ナギ!」
 今にも泣きそうな声でタテハがナギを呼ぶ。それでもナギは笑いをこらえて壁際に潜んでいた。
「ナギっ! 悪ふざけはやめてよっ!」
 もうそろそろいいかな、とナギが思い始めた頃、首の辺りに違和感を覚えた。
「わぁ!」
 ナギは叫ぶと、それを引き剥がしてでたらめに投げた。懐中電灯をつけると、コンクリートの地面に黒い影が動いて逃げていく。
「く…クモか」
 ナギはドッとあふれた汗をぬぐった。懐中電灯が消えていたからか、ついて安心したのか、タテハは涙ぐんでいる。
「ナギの馬鹿…」
 タテハはそういう言って水を覗き込むと、真っ暗な液体にタテハの白い影がぼんやりと映った。
「あ…」
 水鏡のタテハがしゃべったような気がして、ナギは一瞬飛び上がった。だが、実際にしゃべったのはもちろんタテハ本人で、地面に手をついて水を覗き込んだ格好のままナギを呼んだ。
「ナギ…これ…」
 タテハが見ていたあたりをナギが照らすと、そこの一部だけに色がよみがえる。少し濁った水。地面はごみかヘドロで境界があいまいになっており、汚らしい緑と茶色が共存していた。その中に何か白いもの。
「…猫、かな?」
「…犬かも…」
 白いものは明らかに何かの小動物の骨だった。完全な形でそろっているわけではない。ヘドロに埋まっていたり、なにかどろどろの黒いものが絡み付いていたり、どこが足でどこが背なのかもわからない。しかし、ナギとタテハには確かに小動物のあごの骨の辺りが見えていた。細長い骨も何本か見て取れる。
「流されて…溺れたのかな…」
「捨てられたのかも」
 ナギは懐中電灯を動かさずにタテハのほうを見た。じっと骨を見て動かないタテハの横顔は濁った水に反射した光を受けても、白かった。
「いらないから水の中に、ぽいって」
 まるで石ころでも捨てるように、犬を水に捨てる誰かの姿がナギの目蓋に浮かんだ。石のように動かない犬はボチャンと水の中に落ちて、ヘドロに取り巻かれていく。
「なぎ」
 ビデオの早送りのようにズルズルと、水を吸って膨張した犬が腐って崩れていく。捨てた誰かは、ずっとずっと興味もなさそうにその場に立っている。
「ナギ、あっちに行こう」
 タテハに呼ばれ、ナギはびくりと肩をゆらした。タテハはその白い手で左のほうを指差して、ナギのほうを見ていた。ナギは頷くと、水に落ちた弱々しい満月を眺めた。不安な満月の真ん中で、犬のあごの骨は左のほうに先を向けていた。
 左に曲がったが、特に何もなかった。コンクリートの地面は薄汚いし、隅にはクモの巣が張ってある。道は少しカーブしていたりするだけで特にかわり映えはなかったし、相変わらず通路の半分ほどは水で占められていた。そして、いくつかかどに当たり、曲がったとき、ナギとタテハの目の前にはコンクリートの壁が立ちふさがった。水路のほうを照らしてみると、水とコンクリートの壁に少し隙間がある。
「水路は続いてるみたいだな」
 後ろにくっついているタテハは、こくりと頷いた。
「ドア、開かないかな…?」
 タテハは袖から離れるとコンクリートにはめ込まれたような鉄の扉を見上げる。全体が錆び付いて、塗料はほとんどはがれている。懐中電灯で扉を上から下まで照らしてみると、鍵らしきものが見えた。かなり古い南京錠で錆が侵食している。
「壊せたら開くかも…」
 ナギは何か手ごろなものは無いかとあたりを探してみるが、コンクリートと水しかない。持っているものと言えば懐中電灯。それでは、いくらもろくなっているものとはいえ、鉄に勝つなんてことはできない。
「ナギ…これ」
 そういってタテハが差し出したのは、崩れたコンクリートの塊だった。どこから見つけたのか、確かに壁を照らしてみれば崩れている部分もあった。
「よし、やってみっか。ちょっと離れてろ」
 タテハが頷くと懐中電灯を預け、ナギはコンクリートの塊で何度も鍵を打ちつけた。ザリザリとコンクリートと鉄錆が落ち、とうとう本体が力を失って鈍い音をさせながら地面に落ちた。
「開いた」
 タテハがナギに駆け寄り、ナギは恐る恐る扉に手をかけてゆっくりノブを回した。ちょうつがいが錆びきっているのか、ちょっと押したくらいでは開かない。ナギは思いっきり力を入れて扉を押した。すると頑固なちょうつがいは、ひどい音を立てて先への道をゆずった。
「うん、開いた」
 ナギがタテハから懐中電灯を受け取って、一歩先に進む。固唾をぐっと飲み込むと、こめかみから頬に冷たい汗が流れた。今までのところとは何かが違った。今までよりも空気が重くて湿気ている。前方は頑丈そうな鉄格子で完全に道がふさがれ、水路のほうも鉄格子が嵌められていた。一歩を踏み出すのも重たかった。おそらく気付いているからだろう。湿気とカビ以外の強いにおい。
「あれ…」
 タテハはナギの後ろでそれを指差した。水に半身をつけ、鉄格子に背を預けているそれを。最初に水路の先を見たとき、ナギに見えなかったわけではない。見たくなかったのだ。
「な…なんだよこれ…」
 人であった物。そうだった。水を吸い腐り、先ほどの犬のように醜く崩れた人だった。水から半身が出ているため、腐臭は漂いたいように漂っている。ナギは口元を押さえるが胃が激しい拒絶を示し、寂しい胃の中身はわきの水路にうち捨てられた。吐くものが無くてもむせながらナギが地面に這いつくばっていると、タテハは静かにその人だったものに一番近いところまで歩く。
「た…タテハ?」
 だらだらと気持ちの悪い汗をこぼしながら、ナギが声をかける。タテハは通路のぎりぎりの所にしゃがみこむと、水から何かを拾った。それは空き瓶で、中には小さな紙切れが入っているようだった。
「ナギ、懐中電灯貸して」
 不思議そうに瓶を見つめるタテハがあまりに自然に言うので、まるでそこには死体などなく、ナギが感じているにおいも不快感も嘘のように思えた。懐中電灯でタテハの手元を照らすと、タテハは瓶を空け、紙を取り出して読み始めた。
「わたしは生きるのにつかれてしまいました。かぞくはやさしいし、ともだちもやさしくしてくれます。でも、もう生きていたくないのです。みなさんさようなら…」
 最後は日付と名前でしめられている。まるでタテハが自分自身の遺書を読んでいるかのようだった。嫌な汗は収まったが、ナギは背中が薄ら寒かった。
「かなり前の…物だな…」
 タテハは黙ったままだった。しばらくナギが、タテハの様子を伺うと、タテハは蚊が鳴くような声でつぶやいた。
「自分で自分を殺したら…誰が許してくれるの」
「え?」
 何を言っているのか、ナギにはよくわからなかった。タテハは瓶と遺書を落とした。自分から捨てたのかもしれないが、力なく両手を下げ、遺書と瓶は水の中に沈んでいった。
「誰かを殺すのはいけないことだよね。殺しちゃったら許してもらえないし…。でも、自分が自分を殺したら誰が自分を許してくれるの? …この世界には神様が現れて許してくれるなんて奇跡は起きないんだから」
 ナギは何もいえなかった。ただただ、ぐるぐると罪と謝罪と贖罪がまわり続けていた。
「ナギ」
 タテハに呼ばれてナギはハッと意識が戻った。呼ばれなければいつまでも立ち尽くしていたかもしれない。
「ナギは前、ナギの話聞かせてくれたよね」
 タテハは懐中電灯の小さな明かりの中で、沈んでいった遺書を眺めるように水際にしゃがみながら言う。その肩は小さく震えていた。
「今度は、僕の話を聞かせてあげる…」

 テレビで流されるニュースは、いつも遠い世界の話。切り取られた世界は全てどこか偽物っぽかった。そうだと思っていた。ではこれも偽物なのだろうか。タテハはテレビの前で固まった。
「タテハ…どうしたの?」
 アゲハがタテハの肩をゆすり、やっとタテハは我に返った。
「タテハ、だいじょうぶ? どうしたの?」
 タテハが覗き込むアゲハを強く抱きしめて泣き出すと、アゲハはタテハの背中を優しくなでた。
「あげはっ…っあ…あ、のね…」
 テレビはまだ先ほどと同じニュースを垂れ流している。ぎゅうとアゲハに抱きつき目の前を塞ぐ。それでも耳は塞げなかった。
「ニュースにっ…ニュっ…スの…」
 パチンと音がしてテレビは黙った。アゲハがチャンネルを置くと、タテハをなだめる。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ…」
 アゲハはタテハを強く抱きしめた。

 母親は優しく、家は広くてすべてのものがあった。外に出るようになるまではそこが二人の世界のすべてだった。けれど門の外にも世界があることに気づき、アゲハとタテハはしぶる母親を説得して外に遊びに行く権利を得たのだ。何時にまでは戻るように、どこだかまで行ってはだめだとか、色々と散々言い聞かされたが、外は楽しかった。
「アゲハ! いぬ!」
 公園についたとたんタテハは駆け出し、茶色いポメラニアンの頭を撫でていた。リードを持っている女の子は困った顔をしていたが、周りを見渡してから口を開いた。
「きみさ、あのカベのおうちの子?」
 タテハはまだ犬をいじっていたが、顔をあげる。気がつくとアゲハが後ろに来ている。アゲハはあまり印象のよくない顔をして、女の子のほうを見て答えた。
「そうだったら、なに…?」
 タテハはきょとんと小首をかしげ二人を見上げた。女の子が珍しいものでも見るようにじろじろと二人を眺め回した後、笑いながら言う。
「ねぇ、ほかのひととあそんだことないんでしょ? あそんであげようか?」
アゲハは嫌そうな顔をしていたがタテハ二つ返事で受け入れた。女の子はタテハの着ている服が可愛いから着てみたいというと、とりかえっこをして遊んだ。
 犬とたわむれたり、公園の遊具で遊ぶのは、アゲハとタテハの二人きりで遊ぶのとはまた違い楽しかった。しかし、遊ぶのはいつも他に人がいないときだけで、女の子はよく服のとりかえっこをしたがった。
「タテハ…今日もあそびにいくの?」
「うん。アゲハはあの子きらい?」
 玄関で呼び止められたタテハが振り返ると、アゲハはタテハの袖をつかんだ。
「おれ、あの子いやだ」
 アゲハは母親のいない前でだけは自分のことを『おれ』と言った。アゲハが袖を強く握る。タテハは袖を握っていたアゲハの手を握ると、優しく笑った。
「じゃあさ、おわかれだけ言いにいこう?」
 これで最後だよ、とタテハが言うとアゲハはうなずいた。
 少し早く行った公園は、いつもと顔ぶれが違った。いつも遊んでいる女の子がなにやら他の子たちに話して笑っている。アゲハはタテハの腕をひっぱり、影に隠れた。誰も二人には気づかないらしく、話の続きを言い合いながら笑っていた。
「えりかちゃん、ほんとにあのカベのおうちのこたちとあそんでるんでしょー?」
「そうだよ、タテハとアゲハ」
「おれのかーちゃんいってたぞ。あのいえのかーちゃんはキチガイなんだって」
「なにそれー」
「あたまおかしいってことだってさ」
「うっそー、こっわーい」
 きゃははは
「それなのにあそんでるの? そのこたちもあぶないんじゃないのー?」
「あははー、あそんであげてるだけだよ」
「えー、やさしいじゃん?」
「だって、あのことあそんであげると、かわいいようふくをかしてくれるんだもん」
「そのためー?」
「そうだよ。じゃなかったら、だれがあんなきみわるいおうちのことあそぶの?」
「そうだー。それに、かわいいふくきておんなみたいだけど、あいつらっておとこらしいぞー」
「それなのにおんなのこのふくきてるのー?」
「ほんとだよ、あのこたちおんなのこじゃないよー」
「えー、やっぱりキチガイのこどもはキチガイなんだー」
「きもちわるいねー」
「そういったって、えりかちゃんだってそのこたちとあそんでるんじゃん?」
「ふくのためだよー。じゃなかったらあそばないしー」
「いえてるー」
 あははははははははははははは
 心が悲鳴を上げていた。どちらともつかない。アゲハか、タテハか。二人ともだったかもしれない。アゲハはタテハの腕をひっぱり、来た道を走って戻り始めた。タテハはアゲハに引っ張られながら、もう片方の腕で何度も涙をぬぐった。勢いよく走り出したから、公園にいた子たちに見られたかもしれない。それでもかまわなかった。もう公園には行かない。
「はっ…アゲハ、アゲハ。もうだいじょうぶだから歩こう? ね?」
 そういうとアゲハはスピードを落とし、だんだん、だんだん遅くなり、ついには立ち止まった。それでもアゲハの手はタテハをつかんだまま離さない。タテハはあいている袖で涙をぬぐった。
「……タテハ…。ごめんね」
 泣かなかったアゲハは、今泣いた。
「もっと…もっとはやくに気づいてたら、タテハをっ…泣かせないですんだのにっ…ごめっ…ね……」
 アゲハはタテハをつかんでいた手を離して、涙を拭いた。拭いても拭いても流れてくるのか、アゲハは両手でなんどもぬぐった。
「アゲハのせいじゃないよ。アゲハははじめから、あんまりよく思ってなかったでしょ? それなのに、気づかないであそんで…ごめん」
 アゲハがゆっくり振り返る。同じ顔がもう一つ、向かい合って同じく泣いていた。真っ黒い服の兄のアゲハと、真っ白い服の弟のタテハ。
「タテハのせいじゃない」
 泣きながら、アゲハは笑いかけた。
「アゲハのせいでもないよ」
 タテハも笑う。鏡合わせのように、二人は一対の存在だった。

 タテハは真っ黒な水を覗き込みながら震えていた。話に続きがあったのかもしれないが、小さな自らの体を強く抱きしめながらうずくまるタテハを、ナギは見ていられなかった。
「タテハ、もう出よう?」
 闇にうごめくべきは蝶ではない。外に、光のあるところに行きたかった。ナギはタテハの手を引き、懐中電灯の弱い明かりでひたすら走った。鼻にはまだあの匂いがこびりついて離れない。湿ってかび臭い空気を抜けてもナギは走った。
 すずしい風が肺に満たされたころ、ナギは河原の草原に倒れこんで空を見上げた。空はもう茜色に染まり、夜を連れてこようとしている。タテハもナギの横に座り込んだ。
「なぁ…タテハ。幸せになる権利はあると思うぞ」
 そうつぶやくナギを、タテハは不思議そうに見つめた。
「どっちのほうが幸せだ? 兄ちゃんといたときか? 今か?」
 空を眺めたまま、ナギはぼんやりと尋ねた。タテハも同じように空を見上げる。
「どっちも。だけど、アゲハは好き」
 手の届かない世界で雲が風に流されてゆく。風は心地よかった。
「そっか…。いつかさ、幸せな場所に戻れたらいいな」
 それは願いというよりも、祈りに近かった。ナギもタテハも目を閉じて風を感じていた。
 夕暮れ時の沈黙に、静かな心地よさを感じていたのだが、降って湧いた声にタテハは転がるように倒れた。
「タテハ! タテハだ! やっぱりタテハだ!」
 声の主に飛びつかれ、タテハは目を白黒させる。
「あ…アゲハ? なんでここに?」
「当たり前だろ? たった一人の兄弟なんだから! おれはタテハのいないところでなんて生きていたくない! タテハ、ずっとずっと一緒だよ」
 そこまで一気にまくし立ててから、黒い服の子は「ところで、これ、何?」とナギに向かって指差した。一方、差されたほうは差されたほうで固まっている。ナギはもとより、タテハも勢いにのまれてしまったようで、互いに顔を見合わせた。
「え…えーと」
 ナギは目を泳がせつつ言葉を探った。依然タテハにしっかりと抱きつく子。黒い髪は肩すぎで切りそろえられ、黒いレースのリボンで二本に結ばれている。上等なノースリーブの黒のワンピースで、下には白いブラウス。どう見積もっても、いい家柄のお嬢さんといった感じの子供だった。
「タテハ…この子は一体…?」
 すかさず答えてきたのはアゲハと呼ばれた子だった。
「は? ばかじゃねーの? 今の会話聞いてなかったのかよ? その耳はかざり?」
 『これ』扱いの後はバカ呼ばわりである。ナギは散々だと思った。アゲハの抱擁から解放されたタテハはフォローするように言った。
「アゲハだよ。話したよね? 僕の双子のお兄ちゃん。アゲハ、この人はナギ。僕のこと助けてくれた人」
 吹き抜ける風は嫌味のように心地よかった。ナギはタテハの言葉が脳にしみこんで、その違和感を理解するまでしばらく時間を要したと思う。ナギはやっとのことでタテハのほうを見て、アゲハを指差し言った。
「お姉ちゃん」
 タテハは首を横に振り訂正する。
「お兄ちゃん」
 ナギも話に聞いたことには聞いたが、やはり目の当たりにすると違和感が倍増する。タテハと同じで、整った顔立ちなだけに、余計違和感があった。アゲハは興味なさげにふらふらとその辺を歩きまわっている。
「まあ、カテイのジジョーってやつだよ」
 アゲハはひらりと優雅に振り返ると、にやりと笑って付け加えた。
「おれらのママはイカレてるんだ。それこそ、自分の子供を捨てちゃうくらいにね」
 アゲハはなお饒舌に続けようとしたが、弱々しくすがるタテハに、やさしい表情で首をかしげた。
「だめだよ、アゲハ。アゲハは家に帰らなきゃ。じゃないと…」
 アゲハは安心させるようにタテハの手を取り向かい合った。
「じゃないと殺される? でもね、おれはタテハのいない人生なんて考えられないんだ」
 まだ何か言いたそうにタテハは口を動かしていたが、言葉は出てこなかった。ナギは流れがつかめず、少し離れた所から話に割り込んだ。
「なあ、実の母親なんだろ? …そんな、殺されるとかってさすがにおかしいだろ?」
 タテハはただうつむくばかりで返事がない。アゲハは鼻で笑った。
「言ったろ? おれらのママはイカレてるの。なんならすべて話してやろうか?」
 だが言葉はくことなく、高飛車な黒い影は凍った。黒い長い影が遠くから歩いてくるのが見えた。この影はおそらく二人にもはっきり見えているに違いない。ゆるいウェーブのかかった長い髪である以外は、逆光のためよく見てとれない。影はある程度近づくと止まり、ゆったりと両手を拡げた。
「アゲハちゃん、みーつけた」
 「さあ、戻っていらっしゃい」と影は無言でそう告げたが、アゲハもタテハも凍りつき一歩も動けない。アゲハは先ほどの欠片ほども威勢がなく、だた震える声で「マ…ママ」とだけつぶやいた。
 ナギは事情をすべて理解したわけではない。それでも、その場の空気の異常さだけは理解していたように思う。ナギは二人の手を取り、走り出していた。長い影は悲鳴に似た絶叫でアゲハの名を叫び続けていたが、振り返らなかった。いや、振り返れなかったのかもしれない。振り返れば粘着質の空気がナギまでも侵食してしまいそうだった。ただ、その場から逃げ出したかった。

***

七月十八日
サナちゃん、誕生日おめでとう。お医者様が言うには、私もあなたもいたって健康。ちょっと予定日より早かったから不安だったけれども、無事に生まれてきてくれてありがとう。二六〇〇グラムで少し頼りない女の子だけれど、元気なあなたの泣き声を聞くと、私も元気が出てきます。



七月二八日
おうちにきてますます元気に泣くサナちゃん。ミルクを飲んでぐっすり眠る姿もかわいらしいけれど、泣いている姿もかわいらしいです。今日はパパが沐浴させようとしたら泣き始めて、大変でした。お湯が熱かったのかな? ごめんね。


(以後、しばらくサナへの愛情の言葉が書かれた日記が続く)


十二月二四日
どうして どうして どうして どうして どうして どうして
サナちゃんが死んだ
いつもなら泣き出す頃に泣かなかった。見に行くと冷たくなっていて…。
なぜ?何か私が間違っていた? どうして?
うそ。
サナちゃんが死んだなんてうそよ。
なぜ

警察に事情聴取された。主人も仕事を休んだ。

どうして?

ねえ、サナちゃんは?

十二月二五日
街が賑やかで耳に障る。
サナちゃんが死んだ原因はわからないという。乳児突然死症候群というのだそうだ。
そんな名目なんてどうでもいい。
サナちゃんが死んだ。
外がうるさい。
壁がほしい。
塀でも作ってもらおう。
今度主人に相談して、高い、丈夫な塀を


(それ以降は、しばらく書かれていない)


三月二二日
子供ができた!
病院にも行ってきたから間違いない。妊娠3か月になるそうだ。
サナちゃん
サナちゃんが戻ってきてくれたに違いない。
はやく、サナちゃん、またあなたに会いたい。

一月十六日
やっとまた会えたね、サナちゃん。
双子だったということは、もう一人生まれてくる子のためにおなかの中にいてあげたのかな?サナちゃんはやさしい子だね。
パパも喜んでいるわ。でも、パパはあなたがサナちゃんだってことには気づいていないのかな?名前を考えてあるといっていた。
『アゲハ』と『タテハ』
せっかく一緒に生まれたんだから、その名前もいいかもしれない。
今度はママのそばからいなくならないでね、アゲハちゃん、タテハちゃん。


(その後、アゲハとタテハの溺愛ぶりがうかがわれる日記が数年分続く)


八月十五日
主人が、仕事の都合で海外に数年住まなければならないかもしれないとのこと。でも、この家を手放すのも、そのまま置いて行くのも忍びないと思う。そうなれば主人だけで単身赴任ということになる。
どうしよう、アゲハちゃんとタテハちゃん、パパと会えなくてもさみしくないかな?
…ここを離れたくはない。
大丈夫よね。



三月二〇日
主人はアメリカに向けて発った。
当分はママとアゲハちゃんとタテハちゃんだけだけれども、大丈夫。
誰にもこの平和は壊させない



五月六日
アゲハちゃんとタテハちゃんが泣いて帰ってきた。
あとをつけていたことがあるから、事情は分かっている。外で一緒に遊んでいた女の子のせいだ。
いつかこういう日が来るのではないかと思っていたけれど、本当に来てしまった。
だからといって、アゲハちゃんとタテハちゃんに外に出られない不自由な思いをさせたくはない。
なんでこう邪魔が入るのだろう。ただ、幸せな生活を送りたいだけなのに。
なんで…

五月七日
邪魔をするものがいけないのだ。
この幸せは、誰も邪魔させない。
そのためにも、邪魔をする存在は取り除かなくては。



七月一〇日
邪魔なことが多すぎる。
どうもタテハの様子が最近おかしい。
二人ともかわいい女の子のはずなのに、タテハが言うことをきかないことが多い。
自分は男の子だと言い張る。
そんなことはない。
サナちゃん。
そう、そんなことはありえない。
サナちゃんの一卵性双生児だもの。

両方とって幸せが壊れるなら、私はサナちゃんだけで十分。
邪魔なものはいらない。
となりの市なら捨てても大丈夫だろう。

***

 表紙には『知朱の日記』と書かれている。『ちあや』と読むんだとアゲハが言っていた。厚い日記帳を持ったまま、ナギは立ち尽くしていた。内容は冷静な文章でつづった、ただの少しばかり不幸な女性の日記とも読めなくはないが、先ほどの空気を知ったあとでは、背中を伝う気味の悪さを気のせいだとごまかすことはできなかった。
「うそ…だろ?」
「嘘じゃないよ…」
 アゲハが言ったのかタテハが言ったのかわからない。二人とも逃げ込んだ廃ビルの壁に背を預けて座り込んでいた。
「読めない字も多いけど…となりの市って書いてあったから。それを手がかりにタテハを探しに来た。家を出てから二日になる」
 アゲハがぼそぼそとつぶやく。タテハは座り込んだまま地面を眺めて言った。
「アゲハ。アゲハは帰りなよ…。僕は捨てられたけど、ママはまだアゲハの事大好きだよ」
「やだ」
 アゲハの答えは端的だった。
「おれはタテハと一緒じゃないといやだ」
 そう言ってタテハの袖をぐいとつかむアゲハに、タテハは力なくほほ笑んだ。皮肉だとナギは思った。ナギとアゲハと一緒にいるという、タテハの幸せの条件は満たしてあるはずなのに、どうしようもなく辛かった。木の板がはめ込んである窓から冷たい風が吹き込んだ。
「ねえナギ…。僕たちって何のために生きてるんだろう…?」
 いきなり振られた会話に、ナギは日記を取り落とした。答えが思いつかない。ナギは日記を拾い上げ、アゲハに返した。
「何のため……だろうな」
 アゲハがポシェットに日記をしまうのを見てから、ナギは天を仰いだ。いつもとは違う天井だが、そこに天はない。目に映るのは、ヒビと汚れの目立つコンクリートの天井だけだ。ナギは自分の過去を振り返っていた。
 家出をしてから二、三年がたつ。両親が離婚の話でもめていたのが嫌だったし、急にへんに優しくしだしたのも気に入らなかった。だから家出をしたのだ。しかし、最初はここまでするつもりはなかった。親友の家に二三日泊って、それから友達の家を渡り歩いた。しかし一向に家族の反応はなかった。泊っている友人の家に連絡が入るでもないし、電柱や交番に訪ね人の張り紙が出るわけでもなかった。そして両親の関心のなさを悟ったナギは、町を出ることに決めたのだ。
 何を求めていたわけではないが、町を出ても何もなかった。ナギは自分が何を求めていたのだろうかと、ぼんやりと考えた。だが、やはり答えらしいものは見つからない。結局ははじめからそんなもの無かったのかもしれない。何かを求めていたり、探しているふりをしているだけなのかもしれない。
「それでもさ…死にたくないだろ? 生きたいから生きる。それの何が悪いんだよ」
 アゲハはナギを見上げた。
「生きたいから…」
 それでも、その眼の光りはすぐにうつむいてしまった。
「そんなの無理だよ…だって、ママは…」
「寒いね…」
 不意にタテハがつぶやく。このビルが風通しのいい場所に建っているせいか、寒いという言葉を聞いたせいか、ナギも寒さを感じた。
 ポケットに昔拾ったライターが入っていることを確認する。ナギはアゲハの方を見るが、目が合うことはなかった。
「少し燃やせるもの探してくる」
 タテハは心配そうな顔をナギに向けたが、ナギはタテハの前にしゃがみ込んで言った。
「大丈夫、大人から逃げるのは得意だから。もし見つかっても、俺一人ならなんとかなる」
「もしここが、ママに見つかったら?」
 聞いてきたのはアゲハだった。確かに、その可能性もある。ナギは考えを巡らせた。逃げることができ、隠れることができる場所。
「地下。あそこなら大丈夫だろ?」
「え、でも……」
 タテハはためらっていた。確かに、懐中電灯は河原に放りっぱなしだし、中は一度見ただけだ。
「大丈夫、今日見ただろ? 懐中電灯は河原にあるから拾っていけばいい。それにそんなに複雑じゃないから、一度通ったことがある俺ならタテハが隠れてても探しにいける。な?」
 タテハはしばらく迷っていたようだが、小さくうなずいた。それを確認し、ナギは外に出ようとした。
「ナギ」
 小さく。それでも確かにしっかりと響く幼い声で、タテハはナギを呼び止めた。
「生きたいと思うことは……間違っていないよね」
 暗い廃墟にうずくまる白い影は、黒い影にぴたりと寄り添ったまま動かない。
「大丈夫。間違ってなんかいない」
 ナギは、確信なんて翅の重さほども持っていなかったが、紡がれた言葉はコンクリートの壁に響き、思いに余韻を落として消えた。それから訪れた沈黙に、ナギは外へ出た。
 闇は濃くなってきており、身を隠しながら行動するにはちょうど良かった。
 ふと一瞬だけ、残酷な考えがナギの頭をよぎる。このまま逃げてしまえば、自分はこの異常な逃避行から逃れられるのではないかと思った。子供の無力さというものは、痛いほど感じてきた。これからどれだけ続くかもわからない、追われる恐怖。相手は壊れた母親。ナギは他人だ。
 手頃そうな枯れ枝を見つけ、拾おうと手を伸ばす。そのそばに、翅がぼろぼろになった白い蝶があった。
 ナギはぴたりと止まった。蝶の死骸は、その壊れた翅を風にただ遊ばせていた。
 ナギは枯れ枝を拾うと、またほかの燃えそうなものを探し始めた。握りしめた枯れ枝がチクチクと手のひらに刺さって痛い。
 迷うなんて今さらだった。あの日、タテハの手を取ったときからすべては決まっていたに違いない。ナギの手の中で、枝がポキリと音をたてた。


 静かな廃ビルのなかは、ひどく寒かった。しばらく二人は肩を寄せ合い縮こまっていたが、タテハは顔をあげた。
「アゲハ…僕、ちょっと物を取ってくる。アゲハはここで待ってて」
 タテハがぱっと立ちあがると、アゲハも立ち上がった。
「え…やだ。おれも行くよ」
「大丈夫、すぐ戻ってくるから」
 タテハはそう言って、アゲハを残して行こうとするが、アゲハはタテハについて行く。
「いやだ。一緒じゃなきゃ嫌だ」
「でも…」
 タテハは振り返りアゲハを見た。
「二人の方が安全だよ」
 アゲハはタテハの手を握り、離さない。
「…うん。わかった。アゲハも一緒に行こう」
 向かい合う顔は同じ。何が違うのか。いつから違ってしまったのか。二人は手をつないで歩き始めた。
 夕闇はすっかり夜の闇へと姿を変えていたが、無機質な街灯が義務的にアスファルトへ明かりをばらまいていた。明かりの届かない橋の下に二人の姿はあった。河原で懐中電灯を探したのだが、見当たらなかったため、あきらめることにした。あまり長い間外にいるのはよくないと考えたためだ。
「タテハ、何を取りに来たの?」
「毛布。ガラクタの山には別の毛布とか、ふとんがあったんだけど、ふとん抱えて走れないから。それに、この橋の方が近いし」
 そう言って、タテハはナギが今まで運び込んだものの中から使い古しの毛布を引っ張り出した。
「あった」
 ほかにも使えそうなものがないかと探したが、暗い中ではつぶれた段ボールや木箱があることくらいしかわからなかった。アゲハも一緒になって何かないかと探した。
『みつけた』
「え…」
 タテハは持っていた毛布を取り落とした。息をする音すら聞こえてきそうな痛いほどの沈黙。その声は、この場に響くにはあまりに適さないものであり、絶対にあってはならないものだった。
『さあ、さなちゃん。帰りましょう』
 アゲハもタテハも、動けない。橋の上の街灯から少しだけ降ってくる明かりでは、顔が見えない。夕闇に見た影と同じだが、闇に浮かぶ影はその圧力を増していた。
『ねえ、どうしたの? 帰りましょう?』
 知朱がじわじわと近付いてくる。アゲハが震える声で訊いた。
「た…タテハも一緒…?」
「何かの間違いよっ!」
 タテハとアゲハの肩がびくりとはねた。それでも、小さな足はどれも動こうとしない。小さな二つの存在は、その手のぬくもりを覚えている。その手で行われたことを知っている。その愛情の大きさを知っている。その狂気の大きさを知っている。
 それは夕方のニュースだった。いつもの変わらないニュースに、見たことあるものが混ざっていた。子供たち三人の写真。
『本日未明、深山市で児童二人の遺体が発見されました。児童らは昨日から行方が分からなくなっており、捜索していたところ、川岸で倒れているところを発見されました。付近は水深が深く、立ち入りが禁止されている所で、遊んでいるうちに誤って転落したのではないかとの見方が強まっています。また、同市内ではマンションの6階から児童が転落死するという事件も起きており、事件と事故の両面から捜査を進めているとのことです。次のニュースです――』
 画面には無邪気に笑う子供三人の写真が再び映り、すぐに次のニュースに移った。タテハは知っていた。昨日帰ってきた母の服は少し濡れていた。雨なんて降っていない。その時、なぜか初めて母の笑顔を怖いと思った。
 それでも、彼らは母を愛しているのだ。知朱は叫んだ。
「サナちゃん。タテハなんて子は私の子じゃないわ。何かの間違い」
 今度は先ほど叫んだことが嘘のように、やさしく笑って言った。
「さあ、帰りましょう」
 踏み出した知朱の一歩に、アゲハは小さく、だが確かに後ずさった。影はゆっくりと近づき、小さな二つの心臓は破裂しそうなほど脈打つ。
「い…いやだっ!」
 すべてのものが動くのをやめた。
「さな…ちゃん?」
 アゲハは歯を食いしばりながら、肩で激しく息をしている。次第に激しい呼吸は涙をこぼし始めた。
「おれはいやだよっ! 俺は…生きたい。タテハと生きていたい!」
 その瞬間、知朱の叫び声がコンクリートを震わせた。なんて叫んだのかはわからないが、とにかく震動がすべてを包み込み、アゲハに絡みついた。なすすべもなく倒れるアゲハの首に、知朱の細い指が強く絡みつき、絞め上げた。
「どうして? ねえ、どうしてうまくいかないの? 幸せになりたいと思ってはいけないの? サナちゃん? サナちゃん!」
 叫びが絡みつくようにアゲハの首を絞め、アゲハはバタバタともがいた。ただ、バタバタと。
 バタバタと。

 ゴッ
「きゃあっ」
 ゴツッ ガッ ゴッ ゴッ ゴツ ズチャ
「ゲホッ…た、ては」
 グチャ グチャ
「タテハ」
 グチャ   グチャ
「タテハ!」
 グチャ    ゴトッ

 コンクリートの塊はドロドロになって傍らに落ちた。アゲハはまだ喉が痛そうに咳込みながら、座り込んでいるタテハを強く抱きしめた。
「タテハ…もういいんだ」
 静かになった闇で、ただアゲハはタテハを抱きしめていた。

 廃ビルがもぬけの殻だった時、ナギは背が寒くなり、とにかく地下下水道がある橋の下へ急いだ。ナギは夜の闇が、こんなに冷たいものだと感じたのは初めてだった。息が切れても走った。とにかく走った。河原に着いたとき、まず懐中電灯を探した。なければタテハが拾ったという可能性が高いのだが、長く伸びた草の陰には古びた懐中電灯がごろりと転がっていた。ナギは懐中電灯をつかむと橋の下に向かった。その闇はいつものように静かに落ち着いていた。だが、その中に小さな影の塊があり、確かに息をしていた。
「タテハか?」
 影は答えない。懐中電灯はあまり外で使いたくなかったのだが、入口の端くらいまでしか明かりをとどかせない街灯では先が見えず、ナギは懐中電灯をつけた。ぱっと円形に照らされた二人は、何も反応をしなかった。
「タテハ、アゲハ。いたなら返事くらいし――」
 異変を感じ、立ち止まったナギは言葉を呑んだ。そこに白い蝶はいない。ただだらりと両腕を下げてコンクリートの壁を見つめるタテハと、それを強く抱きしめるアゲハ。タテハの横には、ぬらぬらと光をはね返す崩れたコンクリートの塊。そして、タテハの前、アゲハの後ろには、動かないもの。
「わぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 ナギは叫んだ。とにかくでたらめに叫んだ。そうでもしないとその空間にそれ以上存在できないような気がして、とにかく叫んだ。
「なんっ…なんなんだよ! どうして…どうしたんだよ! タテハ! その…血! 血がっ! 顔とか袖とか石とかに、血がっ! タテハっ!」
「黙れっ!」
 アゲハがぴしゃりと、水をかけるように一度怒鳴った。その声に、ナギはガクリと肩を跳ねらせ懐中電灯を取り落とした。
「叫んでいいのも泣いていいのも、タテハだけだ…」
 ナギは震えながらも懐中電灯を拾う。心臓はまだ落ち着いていないが、ナギはいくらか冷静さを取り戻しつつあった。
「じゃあ…なんでアゲハが泣いてるんだ」
 アゲハは赤い目でぽろぽろと静かに涙をこぼしながら、ぬぐおうともせずに言った。
「タテハが泣かないからだ」
 アゲハはきつくタテハを抱きしめた。タテハの頬には跳ね跳んできた赤が、いくつも筋を作って滴り落ちた跡があった。赤い涙のようだった。そう思ったとき、タテハはゆっくりと首だけナギの方に向けた。
「なぎ…僕は、間違っていたのかな」
 タテハは力なくつぶやくと、またもとのように向き直り、アゲハに抱きしめられたまま自分の両手を目の前に掲げて眺めた。黄色っぽい明かりに照らされた両手は赤黒く、未だぬらりとしたものにまみれていた。
「アゲハと、それにナギとも一緒に居たかった。それだけだった…それだけで…これで幸せになれるはずだった…」
 静寂に、どこかで水滴の落ちる音がこだました。
「でも……僕はママのことも大好きだったんだ…」
 ナギは地面に明かりのついた懐中電灯をそっと置き、タテハとアゲハの背に腕をまわした。二人についた血が移ったとしても構わなかった。ただ、やっとこぼれだした大粒の涙を受け止めてやりたかった。
 しゃくりあげながら泣くタテハの頬を、涙が何度も血の跡をぬぐって流れていった。それでも、こびり着いた血は流れようとしなかった。その頬を、アゲハが自分の袖で拭ってやる。
「これがもし童話なら…神様ってやつが降りてきて、許してくれるんだろうな…」
 ぽつりとナギがつぶやいた。
「ねぇ、ナギ…生きる意味って…なに?」
 タテハの言葉に、ナギは腕に力を込めた。
「わからない。でもな、生きているやつはみんな汚いんだよ。自分のことばっかり考えて、周りのものに気づかないで、他人を蹴落として…。生きているやつの手はみんな血にまみれている。結局何が本当の幸せだったのかもわからない。それでも生きるんだよ。…いや」
 ナギは目をつむった。
「生きなきゃいけないんだ!」
 ナギは顔をあげて二人を見た。
「血にまみれても……?」
 アゲハが顔をあげた。
「罪を背負っても……?」
 タテハが顔をあげた。ナギは深くうなずいた。タテハとアゲハは互いに顔を見合わせ、少しだけ微笑んだ。それは今にも壊れそうな微笑みだったが、確かに、そこに宿るものはあった。
「生きよう…タテハ」
「うん…生きよう。この、残酷な童話を背負って」
 タテハはひらりと立ち上がった。アゲハも立ち上がり、出口の方に歩きだした。ナギもそれに続く。暗い地下下水道から出ると、東の空がぼんやりと赤かった。
「ナギ」
 河原でタテハが静かにナギをよんだ。
「警察に、いこう…?」
 タテハとアゲハは二人でしっかりと手をつないでいる。それがタテハたちの選んだ答えなら、ナギに何も言うことはなかった。ナギは道を案内するように前を歩く。
「…ごめんね」
「巻き込んだとか思い悩むなよ? それよりも、もっと頼っていいんだぞ? これからも、大人になってからだってさ」
 優しく笑いながらナギがふりかえると、タテハは伏し目がちに微笑んだ。
「おれたちのことなんて…きっと忘れちゃうよ」
「そんなこと言うなよ」
 ナギが拗ねたようにそう言うと、タテハが小さく「ごめん」といった。

 しばらく歩くと、駐在所の前にたどり着いた。駐在所の中には蛍光灯が灯っており、人の気配があった。ナギが横開きの戸に手をかけて開けた。
「ナギ、ごめんね。許してね。ナギは巻き込まない」
「これは俺たちの罪だから、俺たちだけが背負う」
 そう聞こえたかと思うと、ナギは振り返る間もなく、駐在所の中に押し込まれた。二人に押されたため、勢いあまって床に転げるナギをみて、それまで机に向かっていた駐在所の男が駆け寄った。
「きみっ――」
「タテハ! アゲハ!」
 ナギはすぐに起き上がり二人を追おうとするが、男には逃げようと暴れているようにしか見えないらしく、なだめるようにナギを抑えた。
「君は…ナギくんだね。羽野ナギくん」
「うるさい! タテハとアゲハが!」
 男は二人の姿を見ていないのか、暴れるナギをなだめるだけだった。
「ずっと前から捜索願がでている。ご両親が心配しているよ」
 その言葉で、ベンチに座って笑いかける老婆の姿がナギの頭をよぎった。とたん肩から力が抜け、言われた言葉がゆっくりと頭の芯に響いた。両親が心配している。おとなしくなったナギを見て、男はやさしく笑いかけた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「両親って……父さんと…母さん? 二人とも、一緒なのか?」
 男は頼りがいのある笑顔で力強くうなずくと、ナギを椅子に座らせた。
「二人とも、離婚していない…昔と同じ家で…待ってる?」
 頬に冷たいものが流れる。いつの間にかナギは泣いていた。そして、涙は送り届けられる車の中で眠りに落ちるまで、ずっと止まらなかった。
 家に着いたとき、母親には死んだと思っていたと泣きつかれ、父親には怒鳴られ、それでもよく帰ってきたと言われた。ナギは泣いて謝った。何度も何度も謝った。その謝罪に、タテハとアゲハへのものも含まれていることは、ナギしか知らなかった。

 ふわりと横切っていく蝶を、ナギはぼんやりと眺めた。
「おとーさーん」
 風船を手に駆け寄ってくる子どもに、ナギはハッとした。風船を手に、ナギに飛びついてくる子どもを抱きかかえると、ナギは頬を緩めた。
「どうしたの、あなた?」
「おとうさん、見て見て! ふうせんもらったー」
 優しい笑顔に囲まれ、ナギはきつく胸が締め付けられる。子供を肩車して妻の手を握り、頭の上ではしゃぐ子供の示す先に歩きだした。
 あの頃のナギは家に帰ってから、タテハの事を知るすべがなかった。しかし、後日新聞で小さな記事を見つけた。深山市に住む母親が死体で発見されるという事件。その母親の子供二人が殺害したと言っているという。よく知っている遠いところの事件だった。
 タテハと別れてからだいぶ経ち、ナギは大人になっていた。今では妻と子供がいて、どこにでも転がっているような家庭を築いていた。それでも、その幸せをかみしめずにはいられなかった。休日に家族でちいさな遊園地に来て遊ぶ。それだけのことが、ナギにとってはこの上なく上等な幸せだった。
「わっ」
 ナギたちが歩いていると、後ろから小さな子供がぶつかってきた。ナギが振り返ると、小さな男の子はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
「僕も、ごめんなさい」
「い…いや、大丈夫、気をつけるんだよ」
 その姿に、ナギは息を呑んだ。5、6歳の双子の子供。謝ると二人で仲良く駆けて行った。とても幸せそうな笑い声を残して。
「おとうさん、こんどあれ乗りたい!」
 ぺちっとおでこを子供に叩かれるナギを見て、妻がクスッと笑った。ナギも、一緒に笑った。
 事件に続報はなかった。それでも、ナギは確信していた。血にまみれ飛べない蝶でも、苦しみ、悩み、強く生きて幸せを見つけたのだと。そう確信していた。
「忘れていないよ…」
「えー? なにか言った?」
 頭の上で子供が楽しそうに笑った。
「何も言ってない。ほら、走るぞ。競争だ」
 そういってナギは子供を肩からおろし、一緒に走りだした。どこにでもある幸せな景色を胸に刻んで。
2008/01/25(Fri)00:46:31 公開 / 宵千 紅夜
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■作者からのメッセージ
初投稿で至らないところも多いかと思いますが、よろしくお願いいたします。

練り足りないと思いつつ…
気になる点は日記部分と効果音セリフのみの部分です。
書き方やいい方法があればご教授願います。

現代物にしてはリアリティに欠けるという感もあります。
その点についても何かありましたらよろしくお願いします。
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