- 『ばーれーばーれー』 作者:ベブ / リアル・現代 ミステリ
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全角31827文字
容量63654 bytes
原稿用紙約90.8枚
幼い頃に書いた落書きを、上京した町にある古びた扉に見つけた清市は、その扉を開けた。「どうして見殺しにしたの」と階下からの声は問いかける。そこで、ゲイである友人の失踪、観音菩薩を背負った10代のストリッパー、同棲相手など、対峙できなかった過去をなぞろうとするが。
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清市は、取っ手に手をかけた。
飴色に塗られた扉は鋼鉄で出来ていた。扉は、四方を縁取るようにビス止めされ、清市の腰の高さにL字型の取っ手が付いていた。扉には、「最後の扉」と書かれた木の札がだらしなくかかっていた。目の高さよりやや下に、バランスを崩し、斜め前方につんのめった格好でぶら下がっていた木の札は軽く、吹く風に時折あおられ、扉に打ちつけられてカラカラとなった。
九州から再度上京した三三歳の木月清市は、新聞の求人欄を見るたびに募集していた農業関係の業界紙に就職し、JR総武線の本八幡駅に近いアパートで暮らしはじめて三年が経っていた。
西友とミスタードーナツの間の道を駅に向かい、とらやの前を通って高架下を越え、直後に左に折れて駅前の映画館・オデオンザに行く途中にその扉はあった。
高架沿いには、昼間からオープンしているキャバレーチェーンのハワイ。二件置いて制服サロン、路地を挟んで女子大生パブが軒を連ねていて、ささやかな風俗街を形成していた。
総武線のホームからは、ピンク色をバックに、中尊寺ゆっこ風下着姿の看板が上半分だけ見えた。陽射しの下で見る看板は、所々ペンキが剥がれ落ちていかにも色褪せて見え、夜が抜けきらないままに昼を過ごすけじめのなさを恥じ入るかのように、どこか気まずい様子でそこに立っていた。
▽
十月半ばだというのに残暑の日差しが格別の意志をもったように照りつけていた。女子大生パブの並びにあった、その扉を見たのは初めてだった。扉はつい最近できたふうでもなく、何十年も前からそこにあったかのように古びた佇まいをもってそこに存在していた。扉に近づいてみると、幼い字で書かかれた落書きがあった。「せいいち、のはら、ばーれーばーれー」。清市は落書を見た瞬間、漠然としたなつかしさを憶えた、がなつかしさはすぐに驚きに変わった。とびらの落書きは、幼稚園の時に清市が書いたものだった。覚えたてのひらがなは、それぞれが意志をもっているかのように踊り、もどかしそうではあったがそこに止まることで文字を形作っていた。清市は落書きを見ながら、「今と大して変わらないな」とつぶやいた。成人した清市の字はきたなかった。
どうしてこんなところに、幼稚園の時に書いた落書きがあるんだろう、と考えながら扉を擬視した。しばらく落書きを見ていると扉の向こうからビョォーという風の音が聞こえ、扉がわずかに開いた。ほんの数ミリだったが確かに手前に開いた。清市は薄気味悪く思いながらも不思議に感じ、取っ手に手をかけ、軽く引いた。古びて見えた扉は、見た目通りの鉄の重みを清市の手に伝えた後、ゆったりとした速度で音もなく、滑らかに開いた。
中は薄暗かった。しばらく目を凝らして見ていると地下へ続く階段が見えた。踊り場と階段の中程には、低い天井から、布で皮膜したコードの先に裸電球がぶら下がっていた。今時、布製のコードにお目にかかる機会もなかったので、珍しげに眺めた。布製コードと壁の間に、破れた蜘蛛の巣がひとつかかっていた。踊り場と階段は今でいうフローリングだが、遠い昔の学校でみられた板張りと表現した方が馴染む。踊り場と階下へ続く階段には同じ板を使って腰板が張られていた。電球の光は弱々しく、下の踊り場の様子までは教えてくれない。全開になっていた扉が、ごくごくゆったりとした動きで閉まろうとして、清市の背中に触れた。閉まりかけた扉を腰で軽く押し戻し、左足から踏み入れて踊り場の中に全身を入れた。
ドゥ。階段の下だけを見つめていると開け放った扉が約束通り閉まる音がした。薄暗い裸電球の明かりに目が慣れるのを待つ。もう一度、下の様子をうかがっていると、階段の下の方からなま暖かい風が吹き上げてきた。風は湿り気を帯びていて重かった。重くて湿っぽい風は清市を見つけると身体にまとわりついた。まとわりついた風は、清市の身体に沿ってゆったりと流れた。舐めまわすように流れた風は、清市であるのを確かめた後、全身を覆いつくした。その後風は、清市の全身の毛穴から入り込んで骨にまで達した。途中風は、筋肉の隙間を通る時に勢いをなくしたが、後に続く風に押されて骨にまで達した。
清市は、今までに風の重みを感じたことがなかったので、狼狽えた。生まれて初めて感じた風の重みに気後れし、後ずさりした。しばらく佇んでいた清市の頭の中で、遠くなっていた記憶が広がり始めた。扉の中の重い風は、清市の想像を超えた時間を蓄えていた。遠い記憶の中身が何だったのかしばらくの間、思い出せずにいたが、風の重みが引いていくのに伴い、幼いころの風景が鮮やかによみがえってきた。仲良しの、のはらがいた。年少から年長までの三年間、いつも一緒に遊んだのはらは、おっとりしていた。清市は年中の時に自転車の補助輪を外して乗れるようになったが、のはらはとうとう在園中に補助輪をはずすことができなかった。幼稚園のうんていにはぶら下がるだけで三年の間、ついに前へ進むことができなかった。
だけど清市は、そんなのはらの存在をまぶしく見る瞬間があった。ある日、純白のタイツをはいて赤いレオタードを着こなし、アンドゥトォァのかけ声に合わせて踊る長山のはらの姿を遠くから見ていた。
のはらの母、長山ゆりが幼稚園の水曜日のお迎えの日に告げる言葉を、いつも遠い世界で起こっている不思議な出来事のように清市の耳は捉えていた。
「のはらは、今日はバァレイがあるからまた明日遊ぼうね」
三歳の清市の頭の中で、ばーれーがこだました。
清市は「ばーれー。ばーれーて何」。顔中を目にしてやーちゃんに聞いた。言葉を話すようになってからは、おかあさんと呼ばないままにやーちゃんと呼ばれていた多絵美は、「そうね、足を上げたり、飛んだり跳ねたりするのよ。おかあさんといっしょの体操みたいなものね」と大きな目の清市に説明した。
「おかあさんといっしょのときやる体操ならぼくもやりたい」と多絵美にねだってみたが、「ピチピチのタイツを履いてやるのよ。セイはきらいでしょう、真冬でも靴下すぐ脱いじゃうくせに」と一蹴された。
でも、ばーれーに興味をもった清市は一度見学に連れて行ってくれと多絵美にせがみ、ある日のレッスン風景をみることができた。ぎこちない姿で踊るのはらの姿がとてもまぶしく見えた清市は、幼い胸の奥の扉を開いてのはらの踊る映像を取り込みながら、「ばーれーばーれー」と呟いていた。
▽
風の重みが消えた後、清市は、佇んでいた。階段を下りていくかどうか迷っている清市の後ろで、総武線の電車が錦糸町方面に走る去る音がした。足蹴りでもされたように靴跡のついた腰板が二カ所でめり込んでいた。全身を取りまいた、けだるい風の感触が臆病な清市の足取りをさらに重くしていた。
地下へ降りる、階段の途中までの様子しか分からないことが、いっそう清市を怖じ気づかした。窺いしろうとして階段の下を目を凝らして見ていると、階段の下の奥のほうから突然、「お帰り坊や」という声がした。
驚いた清市は、階段の下の闇の奥に照らすような視線を送った後、大急ぎで右肩を回して後ろを振り返った。振り返った瞬間、再び階段の下から「お帰り坊や」という声。今度は清市の耳がはっきりと捉えた。
果てしなく続いているかのように見えた階段の下から聞こえてきた女性の声は、落ち着いたアルト。ふくよかな身体を連想させるバランスの取れた和音で構成されていて、清市の心にまで届いた。
はじめ、かすかに聞こえていた声が、二度目には確かに清市の耳が確認した。三度目の声がした時に清市は、声がする階段の下の方に向かって、冷静さを保った抑揚の効いた声で呼びかけた、「誰ですか」
大き過ぎることもなく、焦った様子でもなく、落ち着いた口調の声を出すことに成功した、と清市は思った。
続けて呼びかけた、「あなたは誰ですか」
呼びかけて数秒後に階段の下から声が届いた。
「私は誰でもないのよ」
今度は生暖かい風とともに清市の所に届いた。
”誰でもないのよ”とはどういうことだ。疑念が裸電球の光に混じってシャワーのように降り注ぐ。黄ばんだ壁の内側に塗り込められていた混沌が遊離し、今にも染み出してくるようだった。
清市は混乱する頭とは裏腹に沈黙に支配された踊り場で戸惑い、考えた。「そもそも、何故田舎にあるはずの、それも二五年以上前に書いた落書きが今、遠く離れたこの町にあるんだ」。清市は悪い夢でも見ているのかと思考を練り直し、右手で右頬をつねった。
つねりながら、つねるという型にはまった動作をとったことで置かれた状況を忘れ、後の扉と階段の下の方を見やり、左頬をほんの少し動かせてニヤつこうとした、が、緊張で頬が引きつりヒクヒクと二回動いただけだった。
清市は錯乱しそうな思考を修正するため、外に出てもう一度扉の落書きを確かめることにした。怖くもあった。
入る時と同じく静かに開いた扉の内側はやはり飴色に塗られていたが、近づいた清市の顔の輪郭を映し出す程度に磨き込まれていた。
外に出ると総武線の高架が目に入り、同時に陽射しが清市の鼻から上の部分だけを照らした。眩しそうに見上げて手をかざすと、指の隙間から駅のアナウンスが漏れてきた。
「現在、総武線は中央線の人身事故の影響により、上下線とも運転を見合わせております」。
「また中央線の人身事故か」
清市は、かざした手をそのままにして顎を下げた。右から走ってきた電車が上空を走り抜ける瞬間、プゥァーンと警笛を鳴らして左へ飛び去っていった。
「快速は動いているんだな」とひとりごちて、遠ざかる振動の中に車輪と線路がまき散らす轟音を聞いていた。振り返ると、入る前と変わらない落書きが残暑の陽射しに照らされてそこにあった。
清市は落書きを見つめ、萎えていた自身の記憶をよびもどそうとした。幼い字は清市の字に似ていた。五歳児の字なんてどれも似たようなものだと思ったが、落書きの内容が清市を語っていたので、自分の字だと確信した。
▽
扉の中にいた清市に、なま暖かい風とともに「どうしたの坊や」という声がやってきた。
なんだかそのふざけた言い回しに段々と腹が立ってきた清市は、少しいらだちながら「あんたは誰だ」と声が聞こえる方に投げてやった。
すると声は、「私は誰でもなく、私自身よ。私が誰であろうとあなたには関係ないわ。私の声をあなた自身の想像の世界の中だけに閉じ込めないで」とアルトで答えた。
清市は戸惑ったが、強めの口調で「どういうことだ。何故そんなことを言うんだ。分けが分からないじゃないか」と応じた。
すると女の声は、「何を言っているの。あなたは分かっているはずよ。ここへはあなた自身の意志でやってきたはずよ。扉の落書を見つけたのはあなただし、中の風の音を聞いたのもあなたよ。なにより、扉を開けたのはあなただわ」。続いた声は変わらない口調で答えた。
「どういうことだ」。
分けが分からない清市は、狭く蒸し暑い空間の中で目眩と息苦しさを憶え、板張りの床が抜け落ちるような感覚に襲われた。重心を失ってバランスを崩した清市は階段の下に吸い込まれそうになったが、咄嗟に両手を広げて左右の壁に押し当て、左足を半歩前に踏み出して身体を支え、踊り場に止まった。
清市は安堵感から溜息をついた。小指に痛みが走る。慌てて押しつけた時、右手の小指を壁に突き立ててしまい、痛めたようだ。
心臓の鼓動がこめかみを揺らしていた。荒い呼吸であることを耳で確認しながら、身体に平静が戻るのをしばらく待った。
「あぶなかった」と漏らした。
どういうことなんだと声に出さずに考えようとした次の瞬間、食道の奥の方が異物を捉えたようにするどく反応し、繊毛運動を増大させた。同時に食道から酸っぱさが、ジワリジワリと上がってくるのを認知した。吐き気に襲われた清市は、讃岐うどんの一団が、食道をすさまじい勢いで駆けのぼってくる気配を捉え、急いで左手で口を押さえた。嗚咽と同時に舌奥の辺りから酸味が口中に広がったかと思うと、次には未消化のうどんとだしが両頬を内側から押し広げ、口から勢い良く飛び出しそうになった。しかし清市は、それらの内容物を鼻を詰めて口の中に止めた。
ガード下の杵屋でいなりセットを注文したことを思い出した清市は、うどんと胃液の混じっただしの中を泳ぐご飯粒と、分断された揚げを舌先で確認した。
清市は右手を壁に押し当てたまま顔を俯せにし、鼻孔から激しく空気を出し入れして隔膜が落ち着くのを待った。清市は、タイミングを計っていた。口の中にたまった嘔吐物を胃の中に押し戻すタイミングを。
同じことが過去に何度かあった。飲めない酒を飲んで帰る途中、電車の中で吐き気をもよおし、胃から逆流してきたゲロを必死の思いで口中に止めたことが。
その時もやはり左手の力を借りなければ逆流してくるゲロの圧力に耐えることができなかった。右手でもよかったのだが、利き手の右手は身体を支えているか常にどこかに捕まっている状態で塞がっていたので、口を押さえる役目はもっぱら左手だった。そんなことまでしてゲロを押し返す必要はなかったのかもしれないが、多くの人の前でゲロを吐き、遠巻きからしかめ面で、「大丈夫かよ」とめんどくさそうに声をかけられるよりはましだと思っていた。
ゲロを吐いた奴のほとんどが後始末をせずにへこたれているか、その場からこそこそと逃げ去ってしまうことにも我慢がならなかった。ゲロを吐いた本人が始末している光景にお目にかかったことがなく、ゲロを吐くのは泥水状態か、よっぽど気分が悪い状態なのだと世間がみてしまうことにも疑問をもっていた。
清市が吐きそうになった時は、立っていられないほどの状態ではなかった。むしろ吐いてしまえばどんなにすっきりするだろうと考えたりしながら、ゲロを吐くなら相当気分が悪い状況を演じなければならないと冷静に分析していた。
ゲロを押し戻す機会はその後も二回ほどあった。こんなことを度々繰り返していると、習慣化してしまうのではないかという、不安がまた積もった。そんなことを考えながら鼻孔から可能な限り空気を取り入れ、喉をならして讃岐うどんの集団を胃の中に押し戻した。押し戻す直前まで口の中にある吐瀉物の映像が頭の中で拡がり、不快を極めていた。
半畳ほどの狭い空間をゲロでみたすことは避けられたが、無理に押しもどしたために何ともすっきりしない、とてもいやな気持ち悪さが残った。無理に飲み込まずいっそのこと全部吐いてしまったほうがすっきりしたのにと、前回と同じ後悔に襲われた。酸っぱさが残る喉の奥の部分の神経回路を閉じながら舌打ちした後、もう一度息を止め、喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
身体を支えていた右手を曲げて肘をつけ、上腕を壁に這わせながらゆっくりと壁によりかかった。右足を踊り場から一段滑り落とすように下とし、崩れるようにそのまま座り込んだ。
▽
階段の下の方から吹き上がってくる湿った風のせいで、扉の中はひどく蒸し暑かった。両膝の間に顔を突っ込んだ格好で座っていた清市は、大きく肩で息をした。全身に汗が滲む。首筋の汗が玉になってひとしずく、肩甲骨と首の付けねの間を流れ、乳首をかすめて腹部へと流れ落ちていった。汗の玉がふくらんでいく感触を肌が捉え、ほんの一瞬だけ過敏になっていた神経が解き放たれた気がした。その感覚に救いを求めるかのように、しばらく動かずにいた。
「どうしてそういうことを言うんだ」
高鳴る鼓動の合間をぬって清市はつぶやくように言った。
「はじめに”お帰り坊や”と言ったのはそっちだろ」
蒸し暑さともやもやと、讃岐うどんを胃袋の中に押し戻してイライラをため込んだ清市は挑発的に言った。
呼吸を整えるために大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。二度目に大きく息を吸い込んだ時、こんな所にいる必要はないという考えが、鼻から突入してきた空気に混じって右脳に到達した。
喉を突きだして靴跡の付いた天井を見上げた清市は、痛めた右手の小指を腰板の僅かなでっぱりに乗せて、一段降りていた両足を右足から順に踊り場に引き上げて立ち、体を反転させて外にでようとした。
取っ手に手を掛け、身体を扉に預けて押し開けようとした時、「また、そうやって逃げるの」と清市の背中一面に声が届いた。
「誰が、いつ逃げたんだ」、振り向いた清市は怒声を上げた。
踵を返して咄嗟に出た声は、一坪の踊り場の中で幾重にも反響し、逃げ場を探して果てしなく続いているかに見えた、階段下に突進して行った。
トレーナーの下を流れ落ちる汗がいく筋にも増殖していく。トレーナーの下のTシャツが、背中の汗を吸収して皮膚に張り付く。張り付いたTシャツが筋肉と同化し、清市の意志までも一体化させようとして身体の奥深くまで浸透を試みる。一体化の過程で内包していたいくつかの条件を気化させて優位に進めようとしたが、示された条件があまりにも常識的過ぎたため、清市は拍子抜けしそうになった。その条件とは、午前九時半までに出社することと、午後五時に社内のゴミを集めて回ることだった。
清市はとりあえず契約書を交わそとしたが、自由を奪われつつあるような感覚に耐え切れず、両肩を交互に、上下に大きく振れと意志を通して身体に命じようとした。しかし、働く意志の在処を探し当てることができずにただ佇んでいた。
同じ場面を幾度となく繰り返してきたような気がした。自己の存在を確認できずに、ごくありふれた要求に促されるままに従っていたことを。従うごとに簡便な希望が与えられた。簡便な希望はことあるごとに支給されたが、支給された直後に持っていたのかさえも忘れてしまうほどどうでもいいような内容だった。潔癖で豊かな生活を目指したが、いつしか清潔で快適な暮らしの方を選択していた。
▽
張り上げた声に応えた身体が酸素を要求し、早めの呼吸が続く。荒い息が踊り場にたまり、階段下へこぼれ落ちていく。流れる汗の数とスピードが増すのに伴い、確実に体温が奪われていった。声が聞こえる方を、急いで激しく見つめた。両眉の端を吊り上げ、眉間に皺を寄せて怒りを示すとともに、悔しさを表現してはいたが、否定できないいくつかの関わり合いが焦点の合わない映像となって清市の前で交差していた。
「どうして見殺しにしたの」
下からの声が再び淡々とした口調で言う。
「誰を見殺しにしたと言うんだよ、この俺が」
大急ぎでこれまで生きてきた時間をひっくり返しながら、平凡なサラリーマンの俺に人を見殺しにするような人生の場面があるはずないじゃないかとばかりに、確信に満ちた大声で叫んだ。
清市は動揺していた。言い終えた後で、記憶の奥底に沈め置いていたいくつかの光景を秒速で引っ張り上げた。”七瀬のことか、それとものはらか”。
確信などなかった。”そうだな、結局見殺しにしたようなものだな”と、浮かんだ二人の名前を手にして引き寄せながら言葉にせずに思った。
”どうして見殺しにしたんだろう”
記憶の壁に染み込んでいた情景が色彩を帯びて甦る。
”奴はゲイだったんだ”
清市は、頭蓋の中で吐き出した。
▽
七瀬幹生はある日突然いなくなった。以前、歌謡曲のバックバンドのアルバイトをしていた七瀬は、「松田聖子のバックでスィートメモリーなんかも弾いたな」と自嘲気味に話した。ジャズギターのセミプロとして食えない生活が続いていたが、業界誌でアルバイトを続けていたことから、いつのまにか正社員として居着いていた。
東京の大学を中退して運送屋で肉体労働を続けていた清市が体調を壊し、父の転勤先の神戸で療養した後、入社した靴の業界誌で出会った。七瀬は、社長の川西幸生と二人で一一二七部発行の月刊誌を支えていた。清市より一つ歳下の七瀬、それに製作と経理にそれぞれ女性がいた。七瀬とは、男性社員同士の関係が結ばれたことから、二人で食事をする機会も多かった。
フュージョン系ジャズが好きだった七瀬は、七〇年代のアメリカンロックを好んで聞いていた清市と話しが合った。休日の仕事に、清市の五年落ちのアコードで一緒に行く途中、ザ・バンドの「南十字星」のアルバムを聞かせた時には「フュージョンだね」と気に入った様子で聞いていた、感じがした。フュージョンだね、と言ったきり、それ以上のコメントを付け加えなかったため、実のところは気に入るほどではなかったのかもしれないとも思っていた。
身長一六九・三センチの七瀬は、一七〇センチに〇・七センチ足りないことがとても残念そうだった。
「あと〇・七センチで一七〇なのに。せめて一六九・五センチあれば四捨五入して一七〇センチと言えるのに」と、身長の話題になると必ず悔しそうにそう話した。
一七〇・三センチの清市は、身長を聞かれた時は一七二センチと答えていた。七瀬とは一センチの差しかなかったが、「やっぱりおおきく見えるよね」と七瀬に言われるたびに、「そうかな、そう変わらないんじゃない」、と言いながらも、顎を突きだし見下ろすように答えた。
いつも耳の半分ほどが隠れる位の長さの髪を、整髪料を使わずに朝、顔を洗うときの水を使って整えていた七瀬は、とても髪の毛が硬かった。市販の帽子はほとんど入らないほど頭の大きな七瀬は、寝起きのまま出社した時などは、頭の上に巨大な亀の子たわしを乗せているようで不気味でもあった。
左肩を落とし、いつもうつむき加減で歩く七瀬は、突然の雨の時は、額の上で水平に手をかざし、両眉で防波堤でも造るように盛り上げて、眼鏡の内側に雨が打ち込むのを防いだ。
二重瞼の目を引き絞る、雨の日に見せるその苦渋の表情は、普段の穏やかさとはあまりにもかけ離れていた。サングラス以外の眼鏡をかけたことがなかった清市は、その鬼気迫る表情がしばらくの間、理解できなかった。
上目使いに話す七瀬は、自分から人を傷つける言葉を吐くことはなかった。他人の中傷は、途中で「もうええやん」、で終わりにした。表面上の穏やかさとは裏腹に、時折、激しい感情を剥き出しにする清市とは対照的だった。
七瀬が何の連絡もなく出社しなくなって四日目、社長に言われるまでもなく清市は彼のアパートを訪ねた後、ストリップ劇場に行った。
清市にとっては仕事上での先輩だったが、同じ年代という気安さから自然に対等な会話が成立していた。ただ彼のアパートには遊びに行ったこともなく、二年が過ぎていた。
清市が七瀬と最後に会ったのは、いなくなる前の金曜日の夜、エルビン・ジョーンズのライブを一緒に見に行った時だ。
七瀬が通っていた三宮のジャズ喫茶トロイは、三〇坪ほどの店内に一〇〇人以上の客を詰め込んだライブを強行した。ライブはエルビン・ジョーンズの単身で行われた。ドラムだけのライブを見たことのなかった清市は、はじめ興味が湧いた。狙いはすばらしかったのだろうが、あまりにも客が多すぎた。ドラムの音は真ん中あたりにいた清市と七瀬にさえはっきりと届かず、後列の客からは罵声が浴びせられた。それでも最後まで強引にライブを進めたマスターは評判を落とし、多くの常連客を失った。その日珍しく怒った四角い顔の七瀬は、マスターに「聞こえへんやん」と喰ってかかった。
帰り道でも怒りが収まらない七瀬は、「せっかくのライブがだいなしや。マスターも普段は愛想が悪いくせに、今日は愛想ふりまいとったな。なんかがっかりやな」と清市に話すともなく、人通りの途絶えたサンロードを歩きながら早口でしゃべった。マスターの愛想の良さは、大入りのためと、大入りの客に対するお詫びの意味からだったのだろう。
エルビンの”ウー、アウー”という声しか印象に残らなかった清市が「うーん」と曖昧に返すと、「ストリップにでも行けへん」と脈絡もなく言って、清市を誘った。
七瀬との最後の夜は、新開地のストリップショーだった。商店街の賑わいを無くしてすでに二〇年近くになる新開地の古びたストリップ劇場は、週末だというのに清市らのほか客は三人だけだった。三〇ほどある客席に、舞台前の中央付近に三人が座り、一列空けた後に清市と七瀬が並んで座った。
何とも寂しい客入りに合わせるように、踊り子たちも気怠そうに踊った。最初に踊った二〇代後半とみられる踊り子は、最後のメリジェーンの曲しか記憶になかった。どうみても五〇代後半のおばさんの踊りは、誘われてあそこにしまい込んだ万国旗の一方を引っ張ったことで印象に残った。
ところが、最後の踊り子の背中一面に、色鮮やかな観音菩薩の入れ墨が彫られていたことで、客全員が引き込まれた。清市は、透き通る肌に彫られた艶やかな観音菩薩に圧倒され、ぎこちない踊りに付いて踊るみずみずしい観音菩薩と、ふっくらとしてあどけなさが残る踊り子の顔だけを交互に見つめていた。
男の背中一面の入れ墨は銭湯で何度か見かけたことがあったが、女の、しかもあどけなさをその表情に残す少女の身体に彫られた入れ墨を、目の当たりにしたのは生まれて初めてだった。
彼女自身の観音様をオープンにしている時も、まな板ショーの最中、なかなかいかずにいつまでもやってるオッサンの青白いケツを網膜から引き剥がして、彼女の目だけをのぞき込んでいた。
「どういうことなんだろう」
清市は考えた。「そんな若さで背中一面に入れ墨をしなければならないほどの決断を強いられ場面があったんだろうか」
踊る彼女の身体を透かし見る一方で、問いかけの答えとなりそうな反応を期待しながら彼女の目を見つめていた。
清市は彼女自身の観音様へ送る目線を下瞼の力を借りてかろうじて押し止めていたが、視線を受けた彼女は目を逸らし、戸惑いの表情を浮かべていた。まるで幼児が目を泳がせているような彼女の仕草に素早く反応した清市は、思考を停止させて目線を彼女自身の観音様に注いだ。
親指がすっぽり入る鼻の穴を膨らませて「すごいやろ」、と七瀬が言った。そう言えば、鼻毛も電気かみそりを突っ込んで手入れしていると聞いたことを思い出した。
「いくつだと思う」
とうてい二〇歳位にしかみえなかった清市は「二〇歳ぐらいじゃない」と答えた。
「十九やて」
ステージから目を逸らすことなく、座席の背もたれの上に右肘を置いて少し得意げに七瀬は言った。
「十九?、なんで知ってんの」
「一緒に飯食ったことがあるねん」
「いつ」。清市はあっけにとられながら、質した。
「昨日」
昨日!と清市はうわずった声をだしそうになったが、声になる前に七瀬が言った。
「二週間通ってんねん」
「二週間!」
今度はうわずった声が咄嗟にでた。
「一週間目に食事に誘ってん」。続けざまに七瀬が言う。
「どうやって」
驚いた様子を晒してしまったことで少し照れた清市は、問いかける前に一呼吸おいて声のトーンを落とす。言った後に口を半開きにして、とんでもないことをするやつだなというポーズをとり、左肘を座席の背もたれに置いた。
「こうやって」
七瀬は左手でお椀を持つ格好をして口の前まで持ち上げ、右手の人差し指と中指を突き立てて、中のごはんを口の中にかき込む真似をしてみせた。
一日のラストダンスの時に誘ったらしく、「外の方を指さして、待っとたら出てきてん」と眼鏡の奥の目を細めた。
清市も最後の踊りの時に、左手でお椀を持つ格好をして、右手の人差し指と中指を突きだしてお椀の中のご飯を食べる真似をした。素早く二回だけ。
▽
明石焼きの店で鏡子は、明石焼きを食べずにウーロンハイだけを飲んだ。
「明石焼き嫌いなの」
明石焼きが好きな清市は聞いた。
「あんまりな」
「メリケン粉がきらいなの」清市が聞いた。
東京にいた頃、友人が「メリケン粉って何」と笑いながら問い返してきたことを咄嗟に思い出し、鏡子の反応を伺った。
大正生まれの母が、メリケン粉と言っていたため清市も真似て呼んだ。実は、メリケン粉と小麦粉は別のものだとついこないだまで信じていたことを思い出し、鏡子に話そうかと迷っている時、おかしさがこみ上げてきて鏡子に笑いかけた格好になった。
「なんやのん」
長めの細い眉墨が勢いよく跳ね上がっている鏡子が、天井を二回ほど見上げて笑いながら返した。
関西では、”メリケン粉”が普段の生活の中で使われている言葉だったことを思いだして安堵し、カウンター越しにおやじの横顔を盗み見る。天井近くのテレビで阪神対中日の延長戦が続いている。清市達のほかには馴染み客らしい2人がサンテレビの完全生中継に見入っていた。
「なんでもない」
清市は、明石焼きを置いた後の形が丸く残った台を見ながら、京子の笑顔に応えた。戸惑ってはいるが底抜けに明るい鏡子の笑顔につられて、清市の口許もゆるんだままだ。
「お好み焼きもきらいなの」仕事以外では世間話を長々とする方ではなかったが、お好み焼きの好き嫌いが気になったことと、食事に誘った本当の理由を話す前にある程度の言葉を交わさなければという常識に従い、続けて聞いた。
「お好み焼きのほうがもっときらいや。とくにメリケン粉ばっかしのやつ」と、顔の真ん中あたりを思いっきりしかめた。
その表情に、背中に彫られた観音菩薩を重ね合わせて見入っていた清市は、たたえていた笑みを落とし、鏡子の顔の輪郭だけをぼんやりと眺めていた。鏡子の表情に警戒心はなかったが、ストリッパーと客という距離が置かれたままの状態に変化はなかった。
清市は客の立場で質問をし、鏡子はストリッパーのままで答えた。男に誘われた女が、特に嫌悪感を持ち合わせていない男に対して訊かれたことを答えていた。あこがれとか、ときめきに近い感情はなくても、互いに興味を覚えた者同士がかすかな緊張感を楽しむかのように会話を交わしていた。
「どないしたん」
鏡子の声でテーブルの上を漂っていた思考が清市に帰る。
「ごめん、ちょっと考えごとをしてた」。そう言いながら、頭の中で”ところで”という言葉を準備した。
「ところで、七瀬って知ってるよね」
顔面に笑みを張り付けておだやかな口調で訊いた。
「七瀬って誰?」。鏡子は聞いたこともないという風に瞳を開く。
名前は知らないのかと思いながら、「こないだ俺と一緒に見に来てた男だよ」
「ああ、七瀬さんっていうのあの人。ここで一緒にご飯食べたよ、おととい。今日はどないしたん七瀬さん、どうかしたん」。少しだけ身を乗り出して清市に尋ねた。
「いなくなったんだよ、三日前に。会社にも来ないしアパートも引き払っていて、何の連絡も無いんだ。前にあんたの踊りを一緒に見に来たとき、食事したって聞いてたから、もしかして何か知っているかと思って七瀬と同じ方法で食事に誘ってみたんだ」。説明する途中で、七瀬の失踪について鏡子は何も知らないことを確信した。
「一緒にご飯食べた時は、居なくなりそうな感じはなかったけどな。どこにいったんかな」。人差し指で下顎を縦にこすりながら、本当に心配そうにいった。
「どこかに行くとかいってなかった」
「ぜんぜん。そんな話なんか全然なかったわ。あの時話したのは、”ここではいつまで踊るん”とか”今度はどこいくん”とか”たいへんやな”とか世間話的なことばっかりやったな。そうか、行方不明になってしもたんか」。鏡子は頭を前後に軽く揺すった後で、目を揺らした。
「実は、今まで客と一緒にご飯なんか食べたことなかったんやけど、あの人とご飯食べよと思ったのは、何か同じ臭いがしたからや」
「同じ臭い」。清市は即座に訊いた。
「そうや、私らと同じ臭いがするねん。同じ空気が取り巻いてるていうかな。同じやねん、私らと」
「どこが、どういう風に同じなの」
「何か人に言えない傷をもってんねん」
「傷……」
「そうや、傷や」
「どんな傷なの」
「……」鏡子の言葉がつまった。
清市は、入口のガラス戸越しに見える外の様子を漫然と眺める。言いにくいことなのかと問いかけようとしたが、言いやすい傷なんてあるはずがないだろうという思いが浮かび、言葉にする気力が萎えた。
「何にもしらんの。あの人が悩んでること」
「どんな悩みだろう」
もう一度ガラス戸の外に視線を向けて、さよなら負けをした阪神の今日のポイントを解説しているテレビに戻して言った。
「あの人、ゲイやねん」
「ゲイ……」
驚いたほうが良かったのかと思いながら、何の反応も示さずに淡々とした調子でなぞった。
「あんまり驚かへんな。知っとったん」
知っていたが、「なんとなく分かってただけだよ」と返した。
七瀬が清市の運転する会社の車で仕事に行った帰り、車庫に入れた車の中でしばらく話しをしていたら、急に七瀬の手が清市の股間に伸びてきて慌ててドアを開けて外に飛び出したこと。インスタントラーメンの油も試したけどええでと言ったこと。大腸炎で入院したことがあると聞いた時、病気の原因を訪ねたら「知らん」と声を荒げたこと。腸を水道の水で洗ったら「気持ちええで」といったこと。その場ではよく理解できなかった七瀬のこの二年間の言葉が甦ってきた。それらの行為と言葉に清市は、明確な反応をすることはしなかった。反応できなかったと言ったほうが正確だったかもしれない。彼がゲイであると知った後、どのような接し方をすればいいのか。知らなかった時と同じ風に接することができるのか。瞬間的にそれらのことを考えた分けではなかったが、何も知らされない今の状態が面倒くさくなくて一番いいと直感的に判断したからだった。
三年続けた運送屋での肉体労働で体調を崩した後、完全に回復しないまま入社した清市は体力が衰えたままで、女に対する欲望が極端に低下していた。”女に興味はない”と七瀬に言ったことが、半信半疑ながら清市もゲイなのかと思わせたのかとも考えた。俺もゲイだと思われているのなら、否定する意味でも無視した方がいいだろうとも考えた。
「何となくでも知ってたんならなんで話を聞いてあげへんかったん」。鏡子が咎めるように言う。
「彼の口からはっきり聞いたわけじゃないし、そういえば遠回しにそんなことを言ってたなって程度のことだよ」。作り笑いの自分の顔が入り口の引き戸のガラスに浮かんで見えて、情けなかった。
「あんたは、傷なんかなさそうやもんな」鏡子がいつのまにか二〇歳を越えた顔で話していた。
「ゲイは傷なのか……」清市は呟いた。
「ゲイは傷やない、ただの性癖や。本人にとっては傷でもなんでもないけど、人がよってたかって無理矢理傷にしてしまうねん、誰かに意図的に傷つけられてできるんや。人によって傷にされるんや」。あどけない顔の鏡子の頬が紅潮している。
「問いつめてでも聞いた方がよかったのか」
「そうやない。あんたが何となく分かった時に受け止めてやったらよかったんや。”そうか”、って。それで黙って聞いててやるだけでええねん」
「そんなこと聞けるわけないだろ。ホモでもないのに。だいたい、興味持ってるように思われるじゃないか。そんな話はノーマルな人間とシャレで話すことだよ。ホモとホモの話をしたらシャレにならないだろう。普通は聞き流すか、告白されても、もういいじゃない、で済ませるよ」。
「何で、もういいじゃない、になるねん。他人と違うことで悩んでるのに何でもうええのん。自分の苦しみをやっとの思いで話したら、みんなもうええやんって言うねん。なにがええねん。他人が必死の思いで話してんのに何で聞いてやらへんの。あんたはどうしようもない傷といえるほどの傷はもってないねん。そやからそんなこと言えるねん」
口をついてでる言葉が加速度を増して清市に襲いかかっていく。清市は、「あんたの傷はなんだ……」と鏡子の口許においていた視線を目の高さまで上げて訊こうとしたが、止めた。
「あんたらも傷付けられたら、何とか立ち直るためにいろんなことをやろうとするやろ。私らも立ち直ろうとしていろんなことをやるんやけど、結局は傷を深めてしまうねん、優柔不断やから。あんたらは一時的に情に流されることはあっても、何度目かには振り切って向こう岸にたどり着いてるんや。分かってるねん、私らアホやから、永遠に向こう岸にたどり着けへんねん。いつまでも同じ場所で同じ間違いを何度も何度も繰り返してんねん。何度も何度も同じ間違い繰り返してると、もうどうでもええて思ってしまうねん。なるようになれってやつや。その覚悟を決めたから観音様背負ってるんや。あんた、私の目と観音様だけ見てたな。”何でそんな入れ墨してんねん”、て顔して」。鏡子が氷が溶けてグラス半分になった三杯目のレモンサワーを顔にぶつける勢いで持っていき、一気に飲み干した。
興奮して鼻の穴が収縮している鏡子を見ながら、背中の観音菩薩を思い浮かべ、鏡子の傷はなんだろうか、とまた考えた。阪神の敗因は掛布の不調にあったことがテレビの出した結論だった。常連客とおやじは、清市と鏡子をテレビの合間に見やった。
はじめ目で笑いかけていた清市も、おやじらの存在など眼中にないかのようにただ格子戸の外を行き交う人々を眺めるともなく眺めていた。
忙しく動く鏡子の視線が清市に戻って呟く、「そうかつらかったな。たいへんやったなて言うてやれや。もうそんなに苦しまんでええねん、ようがんばったなて言うてやったらええねん」。
そろそろ閉店だとおやじが視線を寄こしたので、少しの猶予をくれるよう、うなずいて返した。
漫然と鏡子の口許を見つめていた清市は、自分自身につけられた傷はなんだろうかと自問した。
▽
叔父と叔母に育てられたことだろうか。いくつかの会社を立ち上げて成功を収め、陰で人喰い虎と呼ばれた実の父、武元孝造の後妻、波江が清市の産みの母だ。武元の先妻は結核で亡くなり、娘の秋子は十九歳の時、白血病で他界した。清市の実兄、波江の長男として生まれた洋一も三歳の時、原因不明の高熱でこの世を去った。清市が波江の子宮に着床した時、波江はこの忌まわしい出来事から隔離した環境を与えることだけを考え、波江の妹夫妻、木月徳春・冴子に、一〇〇日を過ぎた清市を養子として出した。
それから二九年目の春、東京から引き寄せられるように実家に帰った無職の清市は、会社が人手に渡ってからも新事業に取り組む叔父夫婦である孝造と波江に付いて度々上京した。東京へ車で向かう三日の間、清市は孝造と波江が笑い通しだったのを、走行する車のボンネットの上に一人かけ離れて座っているかのような感覚で見ていた。
清市は長い間、徳春達との暮らしの中で、微かなズレが生じるのを感じていた。歩き方や話し方、食事の仕方、好みの服装・食べ物など、共に生活しながら修得した習慣をごく自然に受け入れ、過去において疑うことはなかったが、上京して一人暮らしをはじめ、社会と直に触れるようになってから微妙にズレるのを感じた。
それは、エスカレーターを昇降する時、手摺りに捕まって立っていると足下と僅かずつズレていくような感覚に似ていた。長いエスカレーターほど離れる度合いが大きくなり、終着点までに何度も持ちかえなくてはその場に止まっていられない、途中で面倒になって手摺りを放して立っている時のような、僅かではあるが確実なズレを感じていた。
こだわりとジレンマ、忠誠と喪失、実直な男が提示した道を歩みながら、けっして充たされることのない自我と対峙していた清市は、眠り続ける細胞を遠い記憶の枝葉に沁みつけていた。
農水省の外郭団体で役人然とした役回りのサラリーマン人生をおくっていた徳春には、三流大学を中退し、定職に就かずアルバイト生活を続ける清市が理解できなかった。
シンガーソングライターになるという馬鹿げた話に耳を貸すこともなく、酒に酔う度に「不肖の息子、おまえの人生も終わりだ」ときつく清市を非難した。さすがに、血のつながりについてははっきりと口にすることはなかったが、それでも言葉の端はしに自分とは違う存在であることを清市に印象付けようとした、「しょせん二代は続かない」と言って。
成人した後も養子のことについては誰からも聞かされることはなかったが、徳春のそうした態度がはじめ理解できなかった清市は、徳春と冴子は実の親ではないことを俊介が亡くなる前頃から漠然と思い始めていた。そう考えれば、辻褄が合った。幼い頃、活発な清市は数える程度だが激しく叩かれた。兄の聡は、対照的に大人しく従順だったとはいえ、一度も手を上げられたことがなかった。
それは兄弟が成人した後も同じだった。事業に失敗して借金取りから逃げ回りながらも金をせびる聡には決して怒ることはなく、子供をかばい続ける親であることを止めずにいた。
実の親ではないことは差別される理由として納得できたが、一人の人間として理解できなかった。差別されていることが分からなかった時には、徳春の実直な生き方と常に対話していた自分自身がいたが、それからは徳春を否定しないまでも認めることのできない頑なさが自分自身の中に芽生えた。傷といえるほどのものではなかったが、徳春の人間性の一面を知らされたことで冷水を浴びせかけられた気分だった。正直に言えば、生後一〇一日目から誠一を兄とは違う目で見ていたことを思い知らされ、知らずにいた幼い頃の自分自身が哀れに思えた。冴子の愛情が救いではあったが、「分け隔てなく育てているのに」と言われて戸惑った記憶が小学六年生の清市の中で燻っていた。
だから、親子として過ごした三〇年間を徳春にだけ語らせることはできない。聡と清市を同じ目でみることができないのなら、幼い清市を庇護するために今の自分がいることを徳春に告げたい。生活のほとんどの場面で注がれた愛情は等しかったものの、ある場面で慕い続けた愛情を踏みにじった事実は否定できないから。
清市にとってはこれが傷なのだろう。
▽
日付けが変わった商店街を鏡子と肩を並べて、北から南へ下りてきた坂を上っていく。ホルモン焼きの臭いが漂う坂の途中、くたびれた外壁とは裏腹にドアの向こうに透明な空気の存在を感じさせるカトリックの教会を見ながら鏡子が口を開いた。
「ごめんな」
横を向くと、清市の鼻の位置にある鏡子の額が正面に見えた。間近で見る目元に女性を感じた。
「いや、いいんだ」
ウルフカットの髪から甘酸っぱい臭いがした。
「あんまり気にせんといてな、酒のせいでなんか興奮したみたいや」
「ううん。俺のほうこそ余計なことを聞いたみたいだし」
「そやけどあの人のことはほんまやで、自分のことゲイて言うてたで。親しい人よりそうでない人の方が話しやすいことあるやろ、ましてや私ら何か訳ありの人生そのものやからな。訳ありが踊ってようなもんやからな。深い傷もってるもん同士は引き合うねん。私なんか観音様彫ってるから分かりやすいしな」。あどけない笑顔にもどった鏡子を商店街の水銀灯が照らし出す。薄明るさに照らし出された笑顔の中に寂しさが浮かんだのは、寂れた商店街のせいだけではなかった。
「背中の観音様すごいね」
「すごいやろ。しんどかったけどな、彫るの」
寂しさが確かに顔に溢れていた。その横顔を見て次の言葉に詰まった。
「もう少し歩けへん」と鏡子が誘う。
「いいけど、遅くなってもいいの」
「べつにかまへんよ。今のとこ変な男もくっ付いてへんしな」と言って舌を出し、いたずらっぽい目を向ける。
劇場の前にきた時、「出てくる時、もぎりのおっちゃんにご飯食べてくるていうて来たけど、もうちょっと遅くなるって言うて……」、全速力で走っていったので最後の言葉が聞きとれなかった。そんなに思いっきり走らなくてもいいのにと思いながら、ヘップサンダルで突然駆け出した鏡子の後ろ姿を、清市は呆気にとられて見ていた。ミニスカートとTシャツの上にショールを羽織って走り去る後ろ姿は、チラチラと覗く黒パンツが艶めかしく、翻るショールがまるで遊星仮面みたいでかっこよかった。
あっという間に帰ってきた鏡子と上ってきた坂を南へ向かってまた下り、新開地アーケードを抜けた所にある公園のベンチに二人で腰掛けた。水銀灯の灯りを頼りに清市がセイコーファイブを見て言う。
「もう一時か」
「まだまだ夜は長いで」
「いつも何時頃寝るの」
「踊りが終わって、ご飯食べたりおしゃべりしてたりしてたら四時頃になるな」
「ところで、七瀬みたいに誘う客は多いの」
「誘う客はけっこうおるけど、ほとんど行かへんな」
「どうして七瀬の誘いには応じたの」
「頭の中やることしか考えてないほかの客と違うことは一目で分かったし、私らと同じ目をしてたからや。二週間も毎日通ってくれてたしな」
「同じ目?」
「そうや同じ目や。どこか怯えたとこがあるんや。傷を持ってる目なんや……」
また”傷か”と思った。
「だけど、恐くないのか。知らない男についっていって」
「あの人のすがるような目見てたらほっとかれへんかってん。自分の弱さを隠さずに出してるから安心できるねん。弱さを隠して虚勢を張ってる人間が一番恐いやんか。自分自身をコントロールできなくなった時は手がつけられへんで。あの人は、自分の弱さを隠してなかったからな。一見すると暗い感じがして何を考えているかわからへんタイプやけど、目がしっかりしてるし、やさしい目をしてるねん」
「そんな舞台の上から暗い客席にいる客の表情や目の輝きまで分かるのか」
「分かるで。客の表情がよう分かるし、何を考えてるかもよう分かるわ。もっとも、ストリップ見に来てほかのこと考えてるやつはそんなにおらへんけどな。たいがいは、頭の中にスケベ虫が溢れかえってるだけやけどな」
「それもそうだな」
「俺も七瀬と同じ臭いがしたわけ」
「あんたはちょっと違うな。私らと遠くもないけど近くもないな」
「どういう風に」
「うーんそうやな。さっきもお店で言うたけど、私の顔と背中の観音様ばかり見てたやろ。あの人もそうやけど、スケベを剥き出しにしているほかの客とは違うねんあんたら。あの人ホモやっていうてたから、あんたもそうかなと思うてたんや最初は。そやけど違うたな。ただ、かっこつけてるだけのとこもあるけど、それだけでもないしな。何か思わせぶりにして、他の客とは違うぞっていうとこみせたかっただけでもないみたいやしな。遠いんや」
「何が」
「目が」
「遠いんや」
「私の顔を見てるけどみてへんねん。目を見てるけどみてないねん。ボーっとしてるわけでもないし、何か考えてる風やねん。どこか冷めてるし、悪い言い方すると、人を見下したところがあんねん」
「そうかな」、と言ってみた。
「ストリップなんか行ったことないやろ」
「今日で三回目だね。全部七瀬に誘われて行ってるな」
「そうやろ、自分から進んでいくタイプと違うもんな。女に興味がないわけでもないけど遊び歩くタイプとも違うもんな」
清市は黙って聞いていた。
「自分に正直過ぎるんや。そやから女と別れるのも早いやろ。あかんと思ったら絶対あかんもんな。自分の世界を充たすためだけに生きてるやろ。一見やさしそうやけど、女にとっては残酷な男や」
「そうかな」、とまた言ってみた。
「飽きっぽいのは確かだな」、と続けた。
「俺の回りの人間は大概そんなのが多いけどな」
清市は、少し口を尖らせて言葉を継いだ。
「いくら好きでも際限なく関わっていくと自分を失ってしまうじゃないか。最初はお互いのことが分からないから想像だけで自分の理想的な人間に仕立ててしまうけど、付き合っているうちにイヤなとこも見えてくるし、それがどうしても我慢できないことがあるだろう。そこを自分を殺して無理に我慢する必要はないんじゃないかな。そんなことをしたら自分を否定することになるだろ。いやなところだけど認めることができるんならいいけど、そうじゃなかったら別れた方がいいよ、男であれ、女であれ。自分自身を犠牲にしてまで誰かのために生きることはないよ」
「素晴らしいな。拍手したろか」、鏡子がゆっくりとした調子で両手を打ちながら言った。
清市はムッとした顔で睨みつけた。
「ほんまに女を好きになったことがないやろ。この女のためなら何でもしてやりたいと思った経験がないやろ」
「あるよ。だけどそんなものは一時的なもんに過ぎないだろ。世間的にもよく言うじゃないか」
「そうやな、世間的によう言うわな。あんたも世間を引き合いに出さな自分の気持ちが確認でけへんヤツか」
「……」。言葉に詰まった。そうなのかと自分自信に問いかけてみた。でも取りあえず否定した。
「そうじゃないけど……」
「そうじゃないけど、なんやねん」
「そうじゃないけど、そうしげる」
「そうしげるぅ?何が宗茂やねん、なめとんのか」
「ごめん、ごめん」、と鼻で笑ってみせた。互いの距離を取ろうとした。ひどく情けなかったが、それでもストリッパーを見下してみせようとして、諭すように話した。
「いや、だけど、自分自身を大切にしない奴は、誰かのために生きるなんてことはできないよ。誰かのために生きるとういうことは、誰かの幸せのために生きることだよ。相手に振り回されて一緒に泥沼にはまり込んでいくような生活を続けてるのはくだらない人間のすることだよ」。言ってる自分がとてもイヤなヤツに思えた。力なく言い終えた清市は、向かい側の水銀灯の下、暗闇に浮かぶブランコの下のくぼみを見つめた。
鏡子は暗やみの遙か向こうを見つめていた。
数秒間が過ぎた。数分だったかもしれない。おさまらない感情の中で口にした言葉を反芻していた清市は、嫌悪感が全身の血管を駆け回り、その場に静止することが最も困難な仕業だった。
沈黙がたまらず清市が口を開いた。「どうして刺青を彫るようなことをしたんだ」。言葉にしながら”なんでそんな余計なことを言うんだ”と自身に吐いた。
鏡子は、遠くからの声に耳を傾けているかのようだった。清市が触れたことのない世界にいるようだった。
清市は、遠くを見つめる鏡子の横顔を、京子と同じ姿勢にして盗み見たが、同じ視線を維持することができずに落とし、ヘップサンダルの先から覗いている、鏡子の親指より長い中指に視線を張り付けた。
いくつもの水銀灯が並んで異様に明るい公園を清市は見回した。
戦前・戦後を通じて新開地は、大阪・道頓堀、東京・浅草に匹敵する歓楽街として賑わいをみせたが、昭和二五年以降、市役所や新聞社などの中枢機能が三宮に移転し、市民の娯楽志向が変化するに伴い地盤沈下が進んだ。
明治時代に建てられた、映画館やスケートリンク、演芸場を備えた聚楽観や伝統ある大型劇場が相次いで閉鎖され、かつての赤線地帯・福原を抱える歓楽街としてのイメージだけが肥大し、商店街を訪れる客層も中高年男性が主体となる偏ったものとなっていた。小学一年生まで神戸で過ごした清市は、”ええとこ、ええとこ聚楽観”と歌った記憶をはっきりと止めていた。
「自分のことだけか」。ふいに鏡子が言った。
「なにが」
「自分の気持ちだけが大切なんか」
「人と付き合うということはそういうことやないやろ。相手の気持ちになって考えることと違うんか。どないしたら相手に喜んでもらえるかとか一生懸命考えて行動することと違うんか」
激しい鏡子の言いぐさが清市の神経を逆なでした。
「だから、言ってるだろ」と声を張り上げた瞬間。
「私な、部落出身やねん」
鏡子が言った。
「えっ」と小さく声を上げた。次の言葉が出てこなかった。驚くというより、どうしてそんなことを俺に話すんだという気持ちに支配された。
「部落って、知ってるか」
「詳しくはしらないけど」
「しんどいで、部落は、ほんまに」
「部落の人間とそうでないほかの人間とどっか違うところがあるか、知ってるか」。
清市は黙り続けた。
「知ってたら教えてほしいわ。私らの身体のどこにも部落の人間だけにある特徴なんかあらへんで。私の裸見たから分かるやろ。マンコも部落以外の女と変わらへんやろ。あんたの目の前でオープンしたやろ、な。今日、まな板ショーで上がってきたおっさんらは部落の人間かどうかしらんけど、部落以外の男ともちゃんとセックスできるで。今ままで何百人とやったかわからへんけど、部落以外の男の方が圧倒的に多いと思うで。ちゃんと二八日周期で生理もあるし、子供も産めるで、産んだことないけどな。血液型はO型や。そやけど献血はしたことはないわ。献血するとき血液検査するやろ、そん時”おまえ部落の人間やな”て言われるんやないかという気がしてな。おかしな話やろ。自分では同じ人間やと思ってるんやけど、やっぱり何か違う血が流れてるんやないかという気持ちがどこかにあるねん。あほみたいやろ」
かんべんしてくれと言いたかった。そんなことを俺に話さないでくれと、心の中で懇願した。
業界新聞で働いているけど、差別や不正や矛盾に対して特別な感情を持っているわけじゃないんだ。大学を辞めてまともに就職活動もしなかったけど、世間並みの生活に憧れをもっているんだと、怯えながら思った。鏡子の目を捉えることができず、下着の上に着たvネックのセーターが大きく開いた胸元に視線を当てて何か言おうとして考えたが、適当な言葉を探しだすことができず、視線を宙に漂わせた。
おまえの傷を俺に教えてくれたということか。部落出身は傷じゃないから、これから傷にされた経過について話してくれるということか。そんなことはどうでもいいんだよ。そんなことを聞いたところでどうにもならないじゃないか。俺が知りたいのは七瀬の行方で、知らないならもう二度と会うことはないよーーと声にならない声で訴えた。
「どうして俺にそんなことを話すんだ」。動揺を隠すように強めの声ではっきりとした口調で尋ねた。
「どうしてかて、べつに理由はないけど成りゆきやな」
「成りゆき?」
「そうや、成りゆきや。最初からあんたに話そうと思ってたわけやないで。そやけど、あんたの言い草が感に触るから段々と興奮したのかもしれんな。あんたが自分だけが分かったような言い方するからや」。突き放すように鏡子は言った。
「帰るわ」
鏡子は突然立ち上がると、怒り肩をさらに怒らせ、力強い足取りで新開地アーケードを劇場方面に歩きはじめた。
清市はあっけにとられたが、ほっとした気分で鏡子のくびれた腰から尻を見送ろうとした。左右に揺れる鏡子の尻を見つめながら、このままだとストリッパーに言いくるめられた情けない男で終わってしまうという思いが膨らみ、慌てて「送ってくよ」と声をかけた。
鏡子は「いらんわ」と言いながら、足早に歩いていく。
清市は、「違うねん」と関西弁になったことで少し照れて笑った。
「何が可笑しいねん、アホか」
「いや、そうじゃなくて……」、「そうしげる……」とつぶやいた。
鏡子の足取りがさらに速まった。清市は追いつこうとして歩幅を伸ばし、鏡子の踵をけ飛ばした。
「何すんねん、アホ」、鏡子の怒声を浴びる。鏡子の尻がさらに大きく振れる。
ミニスカートから伸びた足が、アーケードに等間隔で立つ淡い水銀灯の光に照らされて妙に艶めかしく映し出され、舞台の上の鏡子の姿と重なって見えた。
「ごめんな」
鏡子の後について新開地アーケードの坂を上りながら、カトリック教会に差し掛かっていた。
鏡子は答えないまま、前だけを見て足早に歩いた。清市は鏡子の背中に二度目の「ごめんな」をかけた。丸みを帯びた鏡子の後ろ姿が御影石のように強張り、清市を遮断した。劇場の前まできた鏡子は、開いていたドアにそのままの勢いで入り、奥に消えていった。入り口の前で立ち止まった清市は、鏡子が入る瞬間に三度目の「ごめんな」をかけた。
客席の入り口にかかるカーテンを払いのけた鏡子は、五列並ぶ客席の最後部に座り、荒い呼吸の中で背中をずらし、頭を背もたれの上に預けた格好で座った。暗い天井を見つめながら「何が”ごめんな”やねん、アホか」と吐き捨てた。「あやまればすむと思ううてんのか」、と言い放って唇を噛んだ。
▽
「ごめんな……」、交差点で信号待ちをしていた三つ編みの鏡子の耳に届いた。暗くて寒い中で六歳の鏡子は母と二人で立っていた。
「なにゆうてんのおかあちゃん、なにをあやまってんのん」
「なんでもないねん、寒いな」。近頃、口数が少なくなった、小刻みに震える鏡子の膝
を見やりながら、力の無い声をかけた。
細面てで目鼻立ちが整った静恵は、気づいた男達が通りすがりの視線を張り付けていった。鏡子ともども面倒をみようと声をかける男は後を絶たなかったが、頑なに拒んだ。
静恵が失業対策事業によって得た仕事は、道路工事現場での補助だった。スコップやツルハシなどの道具を片づけたり、掃除をする役目だ。朝八時から午後五時までの八時間労働で日給三〇〇〇円、一カ月七万八〇〇〇円の収入は、鏡子と二人の暮らしにとって十分とはいえないまでも、贅沢しなければ生活していける額ではあった。
だが鏡子は、母が仕事をしている日中、一人で過ごすことを強いられた。母の帰りを待ちわびながら就学前の五歳から、一人で家で過ごしてきた。
鏡子の父は、身体一つで稼げる仕事を求めて全国を歩いた。懸命に働いて一家を支えた夫の山路智之は、鏡子が三歳の時、交通事故で死んだ。正月休みの日に、鏡子へのプレゼントを買って帰る途中のことだった。大きなクマのぬいぐるみを欲しがっていた鏡子の喜ぶ顔を思い浮かべながら、横断歩道の手前で信号待ちをしていたところに、突っ込んできた酒酔い運転の乗用車に押し潰され、あっけなく死んだ。車と信号灯の支柱の間に挟まれて即死状態だった。抱きかかえるようにして持っていた大きめのクマも、とうていクッションにはならず、中綿が飛散し腹部のところで上下に切断された。表情を変えないクマの上半身を抱いた智之からそれを取り去るのは容易ではなかった。智之の両腕から離された、遺品となった血まみれのクマが鏡子に届くことはなかった。
智之が亡くなった後、生活を支えるために静恵は懸命に働いた。家に残された鏡子は母の帰りを待つ間、一人で過ごした。数十件が軒を連ねるすえた臭いが漂う彼らの居住区には、電気も水道も整備されていなかった。
居住区に一カ所だけある水道を汲み置きして使い、七輪を使って食事を作った。市の管理していた空き地に入り込み、家族が横になれるスペースを確保しただけの粗末な小屋が立ち並ぶ一画。それが静恵の帰りを待つ鏡子の住処だ。昼になると、隣のおばさんが昼食を作ってくれた。みんなが一様に貧しかったため、互いの不幸を庇いあうことで日々を暮らしていた。群棲することで貧しさの度合いを薄め、容赦のない非難を希釈した。
鏡子を支えようとする好意の中には、悪意も潜んでいた。おやつをくれ、遊んでくれるやさしいお兄ちゃんの手が鏡子の身体をまさぐった。口止めされていたというより、懸命に働く静恵に心配をかけたくないとの思いで鏡子は黙り通した。
家で待ち続ける鏡子を連れて6歳の誕生日にデパートに行き、テディベアを買って帰る途中、以前より口数が少なくなった鏡子の横顔を見つめて静恵は”ごめんな”とつぶやいた。
▽
結局、七瀬は見つからなかった。いわゆる両刀使いだった七瀬は、新開地に隣接する戦前の赤線地帯・福原にも馴染みの店を持っていた。連れられて一度だけ行った「女郎屋」にも、”ゲイが集まる”と仕事先で聞いていた新開地の映画館にも、行って手当たり次第に聞いてみた。借りていたアパートは引き払っていて、どこへいったのか分からず、何の手がかりもないまま時が過ぎ、それぞれの関係者の記憶の中で七瀬の占める割合が徐々に小さくなっていった。
七瀬が失踪して一年後、清市は父が定年で田舎に帰るのを機に一緒に帰って行った。
▽
目覚めつつある朧気な意識の中で清市は、安全剃刀を探した。手の届くところに剃刀がないかと、太股から少し離して投げ出していた右手を、刃先に触れた時に指先を切らないようにと、小刻みに力無くトットットットッと畳を叩き、慎重にごくゆっくりとした速度で弧を描きながら頭上まで運んだ。
くたくたに疲れて、うたた寝をしていた。目覚める前の白濁した空間に留まっていた意識が、確かに反対の手首を切るための剃刀を右手で探していた。けだるさが全身を覆い、隣のアパートの屋根に遮られて、一メートルの帯状にしか見えない空が暮れかかっていくのを、焦点が合わないぼやけた視界に映して、ただ眺めていた。爽快な五月の切り取られた空の下にいたことを、誰かに告げたくて声を上げようとしたが、右手以外の神経系統の存在を意識下に置くことはできなかった。
涙が溢れていた。どうしてこんなところでへとへとになって寝ているんだろう。疲弊した体躯の中で寂しさが増殖し、心細さで全身が押しつぶされそうだった。
初めて一週間も経たない運送屋の仕事が早めに終わって帰宅し、そのまま仰向けになっていたら、いつのまにか寝てしまったらしい。
高島平の紙流通センターデポから都内の印刷所へ印刷用紙を運ぶのは、肉体労働の経験のなかった清市にとってかなり体力を消耗する仕事だった。デポでは、二トントラックにパレット積みの菊版や四六版の用紙をフォークリフトで載せるが、配達先での荷下ろしはほとんど手作業だった。印刷用の紙を一連、肩に抱えて狭い印刷所の中を幾度となく往復する行為は、時に限界を超えるほどの疲れをおぼえた。
それでも、少しずつ慣れれていくとだろうとの思いで続けてみたが、疲労が蓄積していくだけで、五九キロの体重は半年後には五〇キロに落ちていた。スポーツは得意だったものの、元来、体力に自身があるわけではなかった。高校の頃、所属していたサッカー部は、ろくに練習をせずに紅白試合ばかりしている同好会のような存在だった。持久力のなかった清市は走り込みに力を入れることもなく、他校との試合の中で放つ機会の少ないシュート練習に明け暮れていた。結局、対外試合ではただの一度も勝てなかった。サッカー部の部長として基礎練習が欠けていたことは理解していたが、持久力のない清市の身体はハードな練習を率先してこなしていくことができなかった。それでもできる範囲で体力をつけるための練習を行おうと試みたが、結果的に部員を統率することができなかった。
▽
デポから主に都内まで、一日に二往復するのが清市の勤めるアラブ運輸が孫請けとして契約している仕事内容だった。
「運送屋の住み込み」。この条件で求人情報誌から仕事を探し、どうしてアラブなのか興味を惹かれて面接に行き、即決したのが二週間前。社長の顔がアラブの大統領に似ていたのが社名の由来と知ったのは、入社してしばらく経ってからだった。
大学を辞め、今の自分自身を保つため、なるべくなら一人で行動する仕事を探していた。人と言葉を交わすのを避けていたわけではなかったが、もてる肉体だけを使ってこなせる仕事をあえて選んだ。身体を酷使することでピュアな精神が保てると信じてもいた。有り体に言えば、生活する金を得るために言葉で取り繕うことをしたくなかった。与えられた身体を使って得られる対価で生きることが、自身を保つための唯一の方法だと愚かにも信じていた。
詩をつくり、曲を作るためにとりあえずの職業として運送屋を選択した。が、肉体が疲弊するに伴い精神の健全性も失われていった。
身に付けられるだけの勇気をまとい、誰の手も借りずに自身の力だけで生活をはじめる決意をした二十歳の清市は、自身が生身の姿を晒していることに気づかなかった。自己を持ち、日々を暮らしていくことだけに専念しようとしたが、ごく普通の人達との触れ合いで心根を抉られる日々が長く続き、さらには肉体の疲労が蓄積されていった。
頬がこけ、張りのあった皮膚が弛み、目尻に深い皺が刻まれた。いつしか鼻ひげを蓄えていた清市は、髪を長く伸ばし、目に困惑の陰を濃くしながら、懐疑をもって話した。気遣うためにかけられた言葉を咀嚼することができず、邪心をもって返すことに注力した。都会の雑踏から生まれる膨大なエネルギーを取り込むには、整った思考と意志を支える体力が必要なことを実感した。思いを言葉に換える作業は、体内にある核となるエネルギーが正常な状態に保たれてはじめて可能な仕業だと学習した。だが清市は、あえて寄せられた言葉を牽制に置き換え、蓄えた嫌悪を増殖させることで未知なる感覚を獲得しようとした。
▽
横たわったまま赤い暮れゆく空を眺めていた清市は、やがてくる闇を直感的に恐れた。目覚めている細胞を呼び集め、力を寄せて身体を立ち上げた後、蛍光灯の中央から下がるスイッチを乱暴に引っ張り、明かりを点けた。
勢いで蛍光灯が大きく回転しながら激しく揺れ、六畳の部屋の中を光が踊った。清市の影が壁際にあるファンシーケースに激突し、壁に跳ね返って踊る動作を数回繰り返した。影が落ち着きを取り戻し、足下に帰るのを待った後、蛍光灯の明かりを身体の深部で捉えたのを確かめて腰を下ろした。
見渡した範囲に剃刀はなかった。朧気な意識の中であっても、剃刀を探した感触が右手から去らずに止まっていた。瞼を閉じたまま蛍光灯を見上げ、白く濁る眩い明かりを受け止め、「蛍光灯を点けたぞ……」と呟いた。
「立ち上がって明かりを点けたぞ……」と、朧気な意識に刻みつけるように言った。
意識の底流で、手にできなかった剃刀にこだわりをみせた。
どうして剃刀がそこにあると思ったのだろう。
剃刀がそこにないから探したのだろうか。
あるはずのない剃刀を探すことで、目覚めようとしたのだろうか。
でも、あの瞬間剃刀は、確かに清市のすぐ側に存在していたはずだ。
そこにあれば使っていただろう、とも思った。
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シンガーソングライターになりたかった。そのために働いた。ストイックに働くことで憧れを持って見ていた魂に近づくことができると、愚かにも思った。
しかしシンガーソングライターになるための活動といえば、時折ライブハウスで歌わせてもらう程度だった。新発足するレコード会社がオーディションを実施した時にデモテープを作って応募したこともあったが、レコード会社から連絡がくることはなかった。自分自身の唄がどの程度なのか分かるぐらいの客観性は失わずにいたが、もしもの思いを断ち切ることができなかった。
そんな頃、長山のはらと再会した。清市がライブハウスで歌っていた時、客の一人として聞いていたのだ。歌い終わった後、のはらが清市に声をかけた。
幼稚園が同じだったのはらとは学区が異なることから、卒園後は一度も同じ学校に通うことはなかった。通学の途中に見かけることはあったが、互いに声をかけることはしなかった。清市は、幼稚園時代に抱いていたのはらに対するあこがれを変わらず持ち続けていたが、高校を卒業してからは、それぞれ東京の大学と地元の短大に進路が決まったことで、互いに見掛けることもなくなった。
短大を卒業後、東京近郊の福祉施設に就職したのはらは、地元の友達に聞いた清市の消息を頼りにライブハウスを訪ねて歩いた。清市の姿を見かける度にときめいていた心を確かめるために。
まばらな観客のほとんどが遠くに感じている清市の歌う姿を見つめながら、明かりが落とされた薄暗い客席に座って、熱い情意が爪先まで充満していくのを感じ、一人悦に入った。間近で見る清市が愛しかった。清市の傍にいつまでも居たいと思った。いつも清市の片側にいて同じ景色を見ていたい、と心から願った。同じ食卓につき、一つの鍋から取り出したおかずを伴に食べて語らい、体温を感じながら眠る。そうして清市と暮らすことを想い描いた。
「せーちゃん」
閉店後の出入口から少し離れた、街に同化した色をまとった街灯の下から声がやってきた。
日付が変わって間もない路上に佇む人影から聞こえた声に反応し、呼びかけとは反対方向への歩みを止め、街灯の下の朧気な空間を見つめる。遠慮がちではあるが意志が込められた声の在処を探り、記憶していた女の名前を思い浮かべた。
数年ぶりに会ったのはらは大人びて見えた。清市が抱いていたのはらの面影を、会えなかった数年間分のフィルターに透かしてみた。何が変わって、何が変わってないのかを探ろうとしたが、分かるはずもなかった。時は誰にも等しく訪れ、その使い方はそれぞれが担う。会わずに過ごした数年間はのはらのもので、清市のものではなかった。のはらも清市の知らない場所で多くの誰かと関わり合い、何かを身に付け、何かを捨ててきたに違いない、とひとり合点した。のはらの変化に勝手に戸惑いながら、遠慮勝ちに言葉を交わした。
のはら、と名前で呼ぶのも面はゆかったが、わずかな時を過ごすことでそれから解放された。のはらと付き合いだし、互いの思いを確かめた後は、離れていた時間を取り戻すように懸命に語り合い、愛し合った。互いの両親が健在であることに安堵し、幼かった頃の記憶から今日までの、言葉にできる情景だけを紡いで仕立て、拠り所にした。
新宿から電車で約一時間半の急行が止まらない私鉄沿線の駅に程近いアパートで暮らし始めた二人は、夢の中にいた。歌を作るため東京に居た清市は、生活費がなくなると働いた。ぎりぎりまで家に隠って曲を作り、いよいよとなるとアルバイトをして凌いだ。運送屋、測量助手、同伴喫茶のウェイターなど日払いを条件にして。
短大を卒業後、十八歳未満を対象とした障害者の施設に就職したのはらは、利益追求の運営方針に疑問を抱きながら一年を過ごした。短大進学の動機がそうした施設への強い思い入れとしてあったわけではないが、一般企業での仕事よりは障害者のための手助けをしたいという純粋な気持ちで選択したことに偽りはなかった。限度を超えていると思われる人数を受け入れ、十分な養護態勢がとれないまま追われて仕事をこなすうち、小さな志が疲弊していった。
清市への幼い頃からの淡い憧れは変わらず抱えていたが、現実の仕事をしていく上での難しさが郷愁となって、愛情を募らせたのだろう。歌い手になりたいという清市の志向を支えることが、自身の励みにもなると期待を寄せた。
しかし、現実味のない清市との暮らしは儚くもあった。一年が過ぎ二年目になっても清市の作った歌が評判となる気配はなかった。ライブハウスで歌うこともなくなり、三年目になるとアルバイトだけの生活になった。すでに転職して本屋でアルバイトしていたのはらは、そんな清市との暮らしに不安を憶えながらも、くったくのない若さで乗り切ろうとした。
▽
ところが別れは突然やってきた。実家に居所を連絡をしないままに引っ越し、二人で暮らし始めた三年目の春、以前のバイト先の友人から聞いて突然訪ねてきた清市の母親が、病的に痩せて変わり果てた我が子の姿に涙したことで。狼狽した清市は、のはらからの誘いで一緒に暮らし始めたと言い訳した。横で聞いていたのはらは否定もせず、そうなのかと問いかける視線を清市に向けただけだった。
生命保険の外交をしている叔母のところに行って、保険に入るようにと母から電話があったのは帰った三日後だった。契約のため受けた健診で、不整脈があるとの指摘をうけたが、健康状態は良好との診断書が作成され、契約を済ませた。どうして最初に病院での検診を勧めるのではなく、生命保険の契約をするのだろうという切ない思いをうち消しながら行った病院で、精密検査の必要を指摘された清市は、父の転勤先の神戸に帰って検査を受けることにした。
「もう帰って来ないの。私はどうすればいいの」
清市が身の回りの荷造りをしていた時、のはらは、以前使っていたタンパックスタンポンのレギュラーサイズの箱に、買ってきたばかりのスーパーサイズを取り出し、詰め替えながら言った。
結婚を考えたことがなかった清市は、「結婚でもするか」となかば投げやりに言った。
「結婚でも……ってなに」とあきれた顔を清市に向けたのはらは、「結婚でも、なら、いらないわ」と即座に言い返した。
その言葉に安堵した清市は、うつろな表情を保ったまま荷物の整理を続けた。
最近は付き合いがないものの、のはらの両親と顔見知りの清市の母からは、いたわりの言葉をもらいながらも、同棲については2人の問題だからと責められることはなかった。自身の両親であれば激怒したであろうという思いがある反面、切なる思いで接してくれる肉親と遠く離れ、他人の中で生きているという孤独感がいっそうとなってのはらに滲みた。
清市が神戸に行った後、一人残されたのはらはアルバイトを続けながらしばらく東京で暮らした。清市からは二〜三度連絡があっただけで、その後は途切れた。清市に対する憎しみより、自身の愚かさを嘆き、悲しみに暮れた日々を過ごした。
四年後、東京で暮らしていたのはらが病気に罹り、実家のある九州の病院に入院していた時、清市は見舞いに行った。
▽
おだやかな表情で清市を迎えたのはらは、「おかえり」と言った。
言葉を探しながら清市は、とりあえず「ただいま」と応じた。
のはらは美しかった。彫りの深い顔立ちと透きとおった肌に、目を奪われた。あの頃には、なかった憂いを浮かべていた。
「具合はどう」
「うん、いいわよ」
「せーちゃんはどう」
「よくなった」
「そう」
「ごめんな」
清市は、詫びた。
「何が」
「何がって……」
のはらは微笑んでいた。
「歌手になるの諦めたの」
「才能ないし、だめだよ」
「そうね。せーちゃんには無理だね。他人に優し過ぎるもんね」
のはらの言葉を受け止めた。
顔を上げ、しっかりとのはらを見た。
のはらを透して、開け放っていた窓の外の抜けるような青空が見えた。緩やかな風で素白のカーテンが膨らみ、三つ編みからはずれたのはらの前髪を揺らしていた。
「そうだな」と言った声が揺れた。
「ばかだよな」
「ばかだよね」
「ほんと、ばかだよな」
「もっと、私に優しくすればよかったね」
「そうだな」
“気づかなかったよ”と自分の中で言った。
のはらは、とてもきれいだった。
“きれいだよ、のはら”と言おうとした。でも、やめた。
あまりにきれいで切なくなった。
「ごめんな」と言った。
許してもらいたくて、「ごめんな」と言った。
小さく笑いながら清市の顔を見つめていたのはらは、「うん」と言って頷いた。
涙が溢れてきた。
あの頃に取り込んだ、バレーを踊る幼い頃ののはらの姿が浮かんだ。
“ばーれー、ばーれー”と呟いた。
入院していたのはらが亡くなったのはそれからしばらくしてだった。子宮筋腫で生理痛がひどかったのはらは、子宮がんになっていた。体調が悪かったのを押して働き、病院で検査した時はリンパ節にまで転移して手の施しようがなかったという。
▽
「やっぱり、俺が見殺しにしたようなもんだな」。階段に腰掛けていた清市が呟く。
”ヒュー”
階段の下の方で風の音が聞こえる。
”ヒュー”
階段の下からは風の音以外、何も聞こえない。
階段を、一段下りて立ち止まる。
”ヒュー”
また、一段下りる。
”ビュー”さっきより勢いよく、吹く風の音が聞こえる。
右腕を壁に押しあてて、身体を預けながら、もう一段下りてしゃがみ込む。先ほどまでのなま暖かい風は消え、凍るような冷たい風が清市の身体を吹き抜けていった。
骨まで冷えて凍えそうになり、両手で身体を抱え込む。ガタガタと震えながらも、知覚できる、はっきりとした思考が背骨を支える。
「もう、ええやん」
七瀬の口癖が思い出された。
冷たい風の量が増していた。腰板のわずかな出っ張りに指をかけて立ち上がり、また階段を下りた。相変わらず暗く、階下の様子は分からない。壁に手をつきながら、階段を一段ずつ下りていく。考えることを止め、ただ階段を下りていった。どれくらい下りただろうか、いつのまにか冷たい風が収まり、手を伸ばせば届きそうな低い天井に裸電球が灯る場所に着いた。板張りの床の四隅に砂がたまり、埃っぽい空気が漂っていた。
大人一人が立っていられる程度の空間に、古びた木の扉があった。所々に水が染みたような跡があり、部分的にカビが侵食していた。ゴルフボール大のくすんだ真鍮の取っ手は、取っ手としての機能を果たすのか疑問に思えた。
清市は、扉の染みとカビを避けてノックした。
トッ、トッ。
浅く二回、呼吸した。
応答はない。
もう一度、さっきより強く叩いた。
ドッ、ドッ
扉がガタッ、ガタッ、と揺れる。
やはり応答はない。
ドアノブをゆっくりと左右に回す。ギリギリと金属音が立った。
まだ活きてる。
改めて一定の力を込めながらゆっくりと左に回す。
すると、ガリッという音がしてドアが少し手前に開いた。
両方の手の平を、開いた扉の隙間に入れた後、ありったけの力で手前に引いた。
表面のカビが飛翔し、清市に降り注ぐ。
床の角に貯まっていた砂が扉に押されて舞い上がる。カビ臭い埃っぽい空気が充満し、咳き込んだ。
扉の向こうから目映い光が差し込み、同時に温かい風が吹き込んでくる。
半分開いた扉を背中に当てて押し開く。暗闇にいた時間が多く、眩くて目を開けることができなかった。
清市は、目を閉じたまま扉に身体を預け、目が慣れるの待った。
しばらく立っていた清市を、心地よい風が包んだ。
呼吸を整え、大きく息を吸い込んだ。
草の臭いがした。
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2008/01/24(Thu)01:09:26 公開 /
ベブ
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