- 『敗者』 作者:佐紀 / ショート*2 未分類
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全角11008文字
容量22016 bytes
原稿用紙約29.95枚
短編ですね。目線は主人公かな。。
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僕は念願の夢を叶える手前となり、とある薬を創り出した。
真っ白な研究室の中、僕の手が震えた。夢を叶えそうになる瞬間、そして目の前にある薬のおかげだ。誰にだって、こんなことはある。野球であと一回だけ勝利すれば優勝になるとき、人気のゲームの発売日にアリの大群のような大行列の先頭にいるとき、果てはあと一点とれば勝てるサッカーの試合など。
実際に、そう。いま僕の目の前にある薬は僕の苦労の結晶でありこれは勝利でもある。反対に失敗であれば後を追う暇もなく後ろへ転がっていく、敗北は許されないのだ。
時計は僕の視界の届かない外の明るさ、暗さを示すかのように短い針は真右に向いていた。三時頃、夜中だ。
今の季節はひぐらしのなく頃だ。蝉に混じり慌しく騒音を激奏するがその音は僕の家の中には届かない。街灯は僕の住む地域が田舎に近いため少ないというわけではなく、限りなく、無い。地方の市役所が星を観光名所にしよう、という理由に街灯をほとんど取り除いたからだ。
夜中には寄り添いあったスターダストが街灯の代わりに空を目もくらむような光で満たしていた。
だが僕がそれを目の当たりにすることはない、見たいという気持ちはない。今はしないし、できない。
丸一日、寝ずに研究に没頭していたため少しの気の緩みでソファに横たわった。飾りとしておいてあった鏡を見る。そこには色素欠乏症で幽霊のように白い肌が自らの存在を曖昧にしていた。研究室自体、白で埋め尽くされていたため同一色とみなされたらしい。
部屋は広い、僕が閉所恐怖症であるから複数の部屋を一つにまとめたからだ。カーテンは締め切りで、研究道具一式と、パソコン、ソファ、エアコン、他にティーカップなどだけでパッと見た感じは引きこもりのニートを連想させる。だがこの部屋、もとい研究室は白の調和がとれ、かつ細菌処理が行き届いているのかホコリは見当たらない。
僕はすぐ横に目をやる。そこには一人の少女がいた、僕の妹である智香だ。智香は足と目が不自由で車椅子に身体を預けている。今は真夜中であり、起きるのには辛い時間だ。それを示すかのように智香の小さな寝息が聞こえ、僕の心は和らいだ。智香は僕と同じような色素欠乏症ではないが日焼けをしていないために肌は白かった。その肌の白さと長く伸びた黒髪が対照的で長い前髪から覗く瞼のラインが強調されていた。1カラットのダイヤモンドの中で乱反射する光のように微かではあるが切れ味のよい、鋭い光があった。
これで瞼が開き、中から覗く黒い瞳が見えれば僕も何一つ心配することはないだろう。智香は、目や足が不自由であってもほとんど僕に迷惑をかけることはなかった。
(外へ行きたい……)という願望を自らの胸のうちで打ち消したからだ。僕が智香を外に連れ出すことはそれだけで多大な苦労をすることになる。智香はそれを危惧していた。
一方の僕にも、智香を外に連れ出したい気持ちがあった、だがそれは今の研究の時間を潰すことになる故に、智香は外に行くことに嫌々をした。その所為で、智香は家にこもりっきりになり、研究の邪魔になるからといって別室でラジオを聴く日々が続いた。
不意に眠気がさし、意識が薄れてきた。だがまだ寝ることはできない。僕はこの研究成果を試さなければならないのだ。
僕はこの日のためだけに生きてきた。僕のしなければいけないのは研究、研究、それだけだった。そしてそれしかできない。
過去に父親は心不全で突然死した、莫大な財産を残して。母親は自らの子供である智香の出産の際、医師の手術ミスで他界した。不運なことに、智香は生まれながらにして目と足の自由をそのとき失った。
父は偉大な数学者であり、学会でも噂が絶えないほどで著書を多く残した。多くの印税を財産に残したが、それの多くは遺産分配の時にほとんどを搾り取られた。父の残した著書の印税などは息子である僕らには貰う権利などはなかった。
あるのは、だだっ広い邸宅と、少しの財産だけだった。
それも、もうすぐ大人になる頃には財産は底を尽きているだろう。時間はない。
僕には父と同じように才能がある。数学でも著書を多く残すほどの創作意欲でもない、科学を探求する好奇心だった。
そして、季節に対する興味も失せてきた。年中研究室にこもりっきりで室内の温度を一定にしているからだ。そして、季節の関心をなくし、今が何日なのか、何月なのかすら忘れていた。
結果、僕は社会に溶け込むことのできない廃人と化した。僕には研究するしか、やること、できることがないのだ。自分でも分かってる、そろそろ人とのコミュニケーションをしなくてはならないことを、社会に溶け込むために。ただわかっていても行動に移せないんだ、と自分に言い聞かせている。ただ、それでも行動を実行しないのは『やりたくない』、人と会話したくないという一心から、だと思う。今だって、外には出ていない。その理由の一つがそれにあたる。
僕が今、研究している成果を学会で正式に発表すれば僕の実力は認められる。そして、財産が底を尽きることもなくなる。
まだ意識がコントロールできるので、僕は眠気を覚ますためにインスタントコーヒーを入れに足を運んだ。別に台所に行くわけではない。台所自体、この家になく、今いる部屋と同化していた。
「ん……、んあ」僕の傍らで微かな音が聞こえた。
智香が僕の足音に反応して、大きい欠伸をした。智香が起きるときの癖で、首に手を当てているところが見えた。
「起こしたかい?」智香が大きくノビをしているのが見えた。
僕は小さく悔やんだ。智香が夜に起きることは多いが今日のことは珍しい。夜に起きるといっても早朝と時間帯が同義の頃であり、今のような深い夜に起きるところを見るのは初めてだった。「いや、兄さんのせいじゃないです、車の音がちょっと……」と智香が言い訳をするが、それが嘘だと僕でもわかる。智香は、僕に迷惑をかけたくないし、後悔をさせたくないという、他人への気遣いが多いことが僕はわかっていたからだ。
僕は耳をすました。この邸宅のすぐ近くには高速道路で車が走っているが、僕の耳には聞こえない。超・低周波音だ。普通は人の耳には聞こえないのだが、智香は幼少から耳に頼っていたため音には敏感で聞こえるようだった。ただ、智香が夜に起きるのは単にやることがなく、夜は八時九時に寝て夜とも朝とも区別がつかない時間に起きるからだった。
そのことから智香が騒音を聞いても大して気にしないことはかなり前に分かっていた。
騒音は主に夜に聞こえやすい。というのも昼と夜では地面の温度差があり、夜は地面が空の空気よりも冷えるからだ。音は同じ性質の物体を直進するという性質があるが、同じ物体でも温度が違えば屈折もする。わかりやすく言えば低温の方に向かう性質をもっている。そのせいで夜の間は発せられた音が空に行くわけではなく、その多くが地面に沿っていくことがわかる。現に昼間に騒音の苦情が少ないのは音が空にいくからだ。
「今は夏ですから」智香は僕に小さく響く声で言った。僕にはそれが何故かわからない。僕は季節を感じることを拒むどころか、外に出ることさえない。智香も同じように家にこもっているはずなのに……。智香はくすくすと微笑を顔に浮かべると共に、その理由を僕に言った。
「夏休みのお盆の夜はみんなが一斉に家に帰るからですよ、お盆の夜はゴールデンウィークよりもみんなが高速道路を使うんです」
へぇ、と僕は納得した。高速道路を走る車のエンジン音や、タイヤが地面を走る音は超・低周波であり、その音は響きやすい。高速道路の騒音の苦情が絶えないのは音が回折するからだ。回折というのは低い音によくみられる性質で、障害物の陰にも音が響くというものだ。高速道路の柵を越え、この邸宅にその音が響いたらしく、その所為で智香は起きてしまった。
「智香、喜んでくれ! 研究していた物が今できた!」
これで、平穏が手に入る。元はといえば、智香と静かに暮らすために研究を始めたことだ。これが学会で認められなければ、この邸宅を売り払い、惨めな生活が始まる。それだけは避けたかった。
「まぁ、それはよかったです」智香は柔らかい笑顔を見せた。僕は微笑み返そうとしたが智香の目が見えないことを思い出し「あぁ」と同じような柔らかい声を返した。僕らの会話手段は音でしかないことの表れだった。僕から智香の笑顔が見れても智香からは見えない。コミュニケーションの一方通行だった。
だが僕は一方通行にしない、視覚で受け取ったものを音にして返すことにしたからだ。
僕はインスタントコーヒーをカップに注ぐと蛍光灯の電気を落とし、代わりに車のフォグライトにも似たランプの明かりを点けた。
僕が研究していたもの、それは覚醒剤だ。覚醒剤といっても単なるそれではない。普通は中枢神経を興奮させ、害を及ばせるが、それとは違う。無害のものだ。そして、その覚醒剤の目的は超・低周波音を聞き取ることで要は「聞こえない音を聞く」という試みだ。僕の予想によれば副作用はない。覚醒剤を入れた注射器を血管に流し、それが脳に届くと音感をつかさどる側頭葉を刺激することで、他には集中力を高める効果がある。
そしてそれがつい先程、完成したわけだ。
あとは、そう。実験だ。試行、そして実験結果をまとめ、学会に報告するだけ。やっと今までの苦労が報われる。そう思うと眠気が冷め、インスタントコーヒーを飲む必要がなくなった。
足もとに地面を感じない思いで研究机に向かった。目が血走っていたので目薬を差すとますます眠気は失せていった。そして、研究机の前のイスに腰を下ろす。
さて、と僕は眼前の赤い液体を見つめた。血の色みたいだった。これが、もうすぐ僕たちに莫大な益金をもたらす液体……。そう思うと微笑が顔に浮かんだ。口元までにやけ、あまり人に見られたくない表情になった。
「もうすぐだから、もうすぐこの焦りを葬ることができるから」
僕は祈る思いで智香にいった。すると智香はそれに反応して微笑み、返事を返した。
「あの、そうしたら、一緒に遊べますか? 一緒に、外にも行けますか?」
「あぁ、行けるとも、夏の暑さだって、冬の寒さだって感じられる。そうだ、今なら蝉の鳴き声も聞こえる、あと少しだ、もう少し、辛抱してくれ」
外にはいつでも行ける。だが、それは自由が手に入ってからだ。もし僕が外の世界に出ればたちまち研究する意欲は失せるだろう。その前にこの研究成果を学会に報告しなければ、自由のために。
あと少し、あと少しで自由が手に入る。僕は被験体を探した。あとは被験体で実験をして実験結果をまとめるだけだ。
机の小ケースに目をやる、そこにはモルモットやはつか鼠がいた。どこかもの欲しそうにこちらを見ていて、僕は目を逸らした。
小動物では意味がない。これは聴力を試す実験なんだ。人間がやらないと意味がない。
「智香……頼みがあるんだ」僕は、いい被験者を見つけた。「なんですか? 兄さん」
だがすぐに僕はかぶりを振った。だめだ、智香では意味がない。もしかしたら智香に異状が出るかもしれない。そもそも、智香は既に低周波の音が聞こえているではないか、これではまともな実験結果は得られない。となると残りは……。
僕しかない。僕はビーカーに入っている赤い液体を注射器に詰めた。注射器を上に向けて気泡を取り除く。その時、手が異常なほど震えた。まさか自分が被験者になるだと? そんなこと、あってはいけないのに。
ガーゼを取り出し、消毒液に浸すと、手の間接部付近をそれで拭いた。その涼しい感触で冷や汗が吹き出た。
死ぬかもしれない……僕はそんな畏怖を覚え、手が震えるどころか、足まで震えた。だが、頭をふり、その思いを打ち消す。
大丈夫、大丈夫。僕の研究は慎重であり、間違いなどはなかった。だから死ぬこともなければ後遺症も残るはずはない。
手元に目をやると、やはり赤い液体が注射器にあった。フォグライトの光を浴びて不気味に煌いた。その光に視覚を叩かれ、一時はそれをこわすことさえ考えた。だがこれは希望の光、僕らに希望をもたらす液体なんだ。
僕は意を決し、注射針を血管にさした。色素欠乏症の腕にプッ、と注射針が刺さる。そして徐々に親指の力を注射器に入れ、赤い液体を自らの体内にめぐらせた。
つ、と注射針をゆっくり抜くと、注射器の中身は空になり、それを僕は乱暴に研究机に放った。
「これで、これで自由が手に入る」僕はソファに横たわり、手で目を押さえた。大きな脱力感が僕に襲い掛かり、欠伸をもらした。
睡魔が僕を襲い、意識が遠のいた。
欠伸をするときの僅かな音を聞いたのか智香が「おやすみ」と小さく囁いた。
僕はソファに横になり、寝ることにした。別に朝起きたときに結果を書けばいいだけ、持続時間は半永久的なのだから支障はない。
ゆっくりと意識がなくなる、足から神経をなくし、残るは頭だけが現実世界から切り離されないままになった。ゆっくりと、もう自制のきかない身体全体が眠りの世界に向かおうとしたとき、突如に異変が起きた。
ぐぉぉぉお、と文字に表せないほどの擬音が耳に響いた。異常なほどくぐもり、今までにきいたこともない音であり、この音を例えるのならば、これは……
死神の声。
すぐに思い浮かんだ直感的な例えだ。テレビで見た話だが、西アジアの火山付近の民族で、「死神の声」と崇められている音があるらしい。それは火山の割れ目からでる超・低周波音がたまに聞こえる周波数になった頃に聞こえる音だった。超・低周波音を発するには巨大な振動板が必要になる。それはオーディオにも関係することで、低音を出すには大きなスピーカーが必要になるのがいい例だ。それを知ったとき、僕に戦慄が走ったのだ、火山自体、巨大な振動板だということに。
僕は部屋のドアノブを回し、部屋を出た。そして、トイレの中に入った。別に便意が催したわけではない。
「あああああああぁッ!」そして、叫んだ。この叫び声が智香に聞こえないようにだ。余計な心配はさせたくなかったからで。
不思議なくらい、その音は響いた。死神の音は脳震盪を起こすほどに鼓膜を揺らし、耳を槍で突き刺すような感覚が僕を襲った。
瞼を大きく開き、目が血走った。色素欠乏症の手と足、更に言えば身体全体がガタガタと振るえ、歯がかみ合わなくなった。両手で耳を押さえた。そして、不意に気付く。気付きたくなかったが、否応なしに人生から地獄に突き落とされるような恐怖感が、脳髄を突き刺した。
トイレの中、狭い、暗い。
トイレのスイッチは部屋の外に備え付けられていた。そして、狭いことが閉所恐怖症の僕の恐怖心を駆り立てた。
「ぁ……ぁ……」もう、叫ぶことさえできなかった。微かな嗚咽が喉を振るわせた。
そして、死神の声が容赦なく響く。僕の背中に誰かがいるような感覚が脳内に走った。
「そこか!」振る向きながら手を振った。だが、虚しくそれは空をきった。
「どこだ、どこだ! いるんだろ? 姿をあらわせよ!」当然のことながら誰もいない、超・低周波音が思考をかき乱し、冷静さを破壊した。あたかも簡単に。頭の中におかれたガラスの骨董品が、中心からパリーンと四方に細かな粒になって四散した感じだ。触れたら指が切れる。ショットガンのように細かい弾丸だ。
死神の声は、高速道路の車が発する音だ。超・低周波音である死神の声が柵をすり抜け僕の家に入ってきた。邸宅には細かい孔が開いたスリットとグラスウールなどの防音効果を持つ遮蔽物があった。壁は密度が高くて重厚であり、音を通さない。いかなる外界とも邸宅内を切り離していたはずだった。
だが、死神の声はそれを無効化した。
透過損失というのをご存知だろうか。音が物体を通過することを透過というが、その時にいくらかの音を失って物体に吸収されて熱となる。透過損失は音が物体を通るときに失われる音を指すのだ。そして、透過損失を示すとき、どのような情報が必要になるのか、
簡単に言えば「面密度×周波数」。
透過損失が低いほど、音は物体を突き抜ける。そして、この場合は「超・低周波音」であるため、透過損失は著しく低い。そしてグラスウールや孔の開いたスリットも、低周波の音にはあまり効果を示さない。
だとすれば……防音効果をもつ、いかなる遮蔽物も無駄だ。
死神の声は邸宅の壁を突きぬけ、グラスウールをすり抜け、再び壁に入ると四散した。別の物質に入るときに屈折したのだ。そして四散した死神の声は散り散りになっても壁を伝い、やがて、トイレにたどり着いた。行き場を失った音も反射を繰り返し、やがてはトイレに集束して、行き着いた。
僕は、四方、いや空間全体から串刺しにされた。地面からも、頭上からも、壁からも。
その全てに死神の殺意が込められていた。暗闇で何も見えない僕を、狭い空間でただただ見えない敵に震える僕を、楽しむかのように死神の声は鎌を振りかざした。
「やめろ、やめてくれ! こんなのはもう……たくさんだ!」トイレのドアを蹴破り、智香のいる部屋に戻った。僕はフォグライトに照らされる空間に目まぐるしく視界を回すと研究机にある注射器が目に入った。
僕は注射器を手に取った。そして右手で右の耳たぶを鷲摑みにすると、引きちぎった。
どくどくと血が流れ、顎を赤く染め、頬を赤く染め、そして耳の中を赤く染めた。耳の中が赤い液体で満たされ、恐怖が一瞬にして揺らいだ。耳が遠くなり、安心感が訪れる。
だが手元に滴り落ちた赤い液体を見ると、恐怖心が脳を突き刺した。血液が、あの覚醒剤である赤い液体と同色だったからだ。
くそっ! 耳なんてなければいいのに!
僕は夢中になり、左手に持つ注射器を右手に移した。そこには赤い液体がなかった。それが唯一の救いで、逆手に持った。そして。
注射針を耳の中にさした。勢いよく、頭ごと貫きそうな勢いで。だが、痛みはない。痛覚が耳から既に根こそぎ剥ぎ取られていた感じだ。最初から神経が通っていないような。耳に押し込んだ注射器自体、空気のような感覚で空振りのようだった。だが空振りなどない、これは野球とかなんかじゃないからだ。
鈍くもするどい音が頭蓋骨を通して反対の耳から脳に伝わった。クサ、と軽い音を立てると、注射針は鼓膜を突き破った。その瞬間に右の耳からは完全に音が消えうせた。だが僕はそれに気付かない、左耳がまだ生きているからだ。右耳が死んでいることを確認することには時間がかかった。
注射針を引き抜き、僕は今にも白く染まりそうな目で、それを捉えた。元々入っていた液体の色と同色のそれが、針にうっすらとしずくを作ろうとしている。
途端に、不安定な感覚が僕を襲った。別にバランスを崩したわけじゃない、今更になって気付いたのだと、自分でもわかった。
迫る音、迫る痛覚。右耳から顎にかけて真紅の液体が流れ落ちた。僕はそれを右耳に手を当てるときに気付き、手を小刻みに震わせた。自分の、意思で。やってられない、こんな、こんなに痛くて怖いのに、そう思った。
よくある感情表現だ。泣きたいときに泣けないことが辛いように、痛いとき、恐怖を覚えたときに体で表現しないとそれが余計に体を蝕もうとするからだ。
自分の意思で汗を噴き出した。もはや恐怖と痛覚から逃げたい一心だった。白衣の下からでも、自分が汗まみれになっていることがよくわかる。頭皮からも、毛根の一つ一つからも汗が吹き出ていた。ただ……自分でも驚いたのはこれが全て『自分の意思』によるものだということだ。自分でも知らなかった、これだけ、自分が恐怖と痛みに怯え、逃げたいと本能で感じていたことに。一般的にはこれを防衛本能とでも言うのだろうか、だが僕は認めない。これは逃げているのだ。恐怖から、痛みから、そして、信念から。
その時、研究机の上のインスタントコーヒーで満たされたカップが、小刻みに揺れた。
火山だ。火山活動。途端に僕の白い肌が青白く目覚めた。
たしか、この邸宅の遠くには火山があり、たびたびこうした不気味な現象が起きる。超・低周波音だ、それで物体を小刻みに震わせる現象が多く報告されていて、当然これも音だった。
「あああああああぁッ!」
いっそう恐怖感が増す。まるで銃殺刑を受けているような痛みと、死刑囚が絞首刑に怯えながら過ごすような恐怖が、僕を襲った。
その叫び声に気付いたのか既に眠り込んでいた智香が起きた。「兄さん? 兄さん?」と怪訝な顔で尋ねてくるが、それは聞こえなかった。どうやら、火山による音は聞こえないらしかった。
僕の気分は心臓をえぐられたようだった。吐き気がして口を押さえる。だがそれを我慢して、震える手で右手の注射針を左手に持ち替えた。
あと一つ、あと一つでこの耳を、この音の根源を壊せば、破壊すれば僕は自由が手に入る! この痛みが、この声が。あと一つで!
そして、逆手に持った注射針を、耳の位置にそえ、針を鼓膜に向けた。まだ手が震えている。あと少し、あと少しで自由になれる。地獄のような世界から、耳の中で残響する死神の声から。
僕は、最後の力を振り絞り、手に勢いをつけ、鼓膜を破って耳を壊そうとした。だが、それはできなかった。突然、死神の声よりも大きい声が鼓膜を叩いたからだ。
「兄さんッ!」
空間を切り裂くような声に僕の手は止まった。針が、耳の皮膚に少しだけ刺さり、血がツー、と滴った。
僕の目が点になった。智香が、不自由な足を引きずって、音だけを頼りに僕に近付き、ズボンを掴んでいたからだ。僕は注射器を落とした。
「どうしたんですかっ! いったい! 私は心配で、どうしたのかと……!」
僕は混乱から解放されたように智香に視線を向けた。愁嘆で顔を歪め、くっきりした目元の瞼が境目をなくしていた。そこから見えるのは、砕け散ったダイヤモンドだった。ゆるぎない硬さを誇るダイヤモンドが粉々に。
そして気付いた。僕が今、耳にしているこの声は智香の声。僕と智香の唯一の会話手段だ。
そして僕が壊そうとした耳は、智香との唯一の会話手段だった。
僕が赤い液体を作った理由はなんだ? お金を得るためだろ?
兄妹、二人で静かに暮らすための。智香のためだろう? 僕が研究していた理由は。本末転倒じゃないか。
「兄さん、聞いて?」
僕は座り、智香の口に左耳を近づけた。「あぁ、きくよ、きく、智香の声だ」僕の頬にとめどなく流れる涙を拭いきれず、床に小さなしずくがおちた。
「さざ波の音だよ? 聞こえる?」
ザァー、ザァー、と少しノイズのかかった音が聞こえた。よく聞いてみると、それは火山による超・低周波音だった。死神の声。
「私ね? 低い音、好きなの。心を癒して、みんな変な音っていうけど、私は違うと思うの」智香のやさしい声は左耳の中を優しく響き、反射を繰り返しながら鼓膜にあたり、いつかの春に覚えた優しい風のように身体を包み込んだ。「あぁ、聞こえるよ、聞こえる。優しい音だ」
僕は、智香を抱きかかえると、車椅子まで運んだ。床が右耳の鮮血によって染められながらのことだ。
「ねぇ、兄さん? 研究は成功したの?」
「あぁ、成功した。もう外に行けるよ」僕は嘘をついた。自分でも分かってる……、この研究が成功でも、失敗でも、智香には成功と告げることが。
「ほんとに?」智香は半信半疑で聞く。「あぁ、本当だ。今から外に行こう、そろそろ鳥が泣き出す頃だ」
智香は静かに頷き身体をあげようとした。だが足が不自由なため僕はそれを止め、車椅子を押してあげることにした。
成功した。実験は成功だ。だが、僕はこの成功を学会に報告しないだろう。僕の研究成果は人の役に立たないからだ。
科学は、人の役に立つためにある。人が作り出した道なのだから。全ての道の根本を辿れば、結局は自分のため、人のためであることには変わりない。
僕のそばには智香がいた。僕の目的は智香と静かに暮らすこと。僕は研究の目的を刺し違えるところだった。人のため、自分のためにやるはずが、「自分のため」を損失するところだった。だとすれば、人のためとは言えない。学会に発表したところで、跳ね返されるのが関の山だろう。当たり前だ、人を殺そうとした物なのだから。
僕は玄関の扉を目いっぱいにあけて、外へ智香の車椅子を押し出した。
鳥のさえずりが聞こえる。蝉の鳴き声が聞こえる。肌に感じるのは夏の暑さ、忘れかけた季節だった。拭いきれなくなった涙が智香の長い黒髪に落ちた。全てが懐かしい……、それどころか全てが初めて味わうような感覚だった。朝日が肌を焦がそうと全力で光を浴びせていた。色素欠乏症の真っ白な肌に日光があたり、生気のない肌でも煌いて見えた。
「ねぇ、兄さん? 次はなにをやるの?」
智香は怪訝な顔で聞いてきた。だけど、その顔には笑顔が戻りかけていた。
「そうだなぁ、とりあえず……」僕はもう右耳を気にしない、いくら鮮血が滴り落ちても智香の頭上に落ちることはなかった。水と油のように混ざり合わず、どこかに消えた。
僕はこのとき、気の利いた言葉を言いたかった。僕が長年研究したものは、人のためではない。そして、智香は他人へ気遣う性格がある、だとすれば、人の役に立つものを望むだろう。
少しだけ、考えた。少しだけ、息を吸い込んだ。僕は、なんでもない、本来の目的を智香に言うことにした。
「人の役に立つもの、地球温暖化を食い止める方法にでもしよっかな」
智香の顔に笑顔が戻った。1カラットのダイヤモンドが復元するかのように、ますますそれは輝きを放った。
「ねぇ、智香、目をあけて?」
「え? なんで?」智香は不思議そうな声に疑問符をつけた。「いいから」
僕は智香の目の前に回りこみ、開かれた瞳と向かい合った。
そこにあった、ブラックダイヤモンド。その中で光が乱反射して白と黒のはっきりした色を示していた。そこに朝日が射す。白目と黒く、澄んだ瞳の色合いが、智香の黒髪と肌の色を示すようで、僕は視界でその色を確かめた。たとえ、目が不自由でも瞳は見える。
別に、それが本来の目の目的ではない、だが僕は見入った。今まで失いかけたものがあるような気がして。
「うん、きれいな瞳だ」
僕は、智香に視覚で受け取ったものを音にして返すことにした。
戻そう、本来の目的に。理念のもとに修正しよう。僕の人生は転びかけていた。
僕は『いま僕の目の前にある薬は僕の苦労の結晶であり、これは勝利でもある。反対に失敗であれば後を追う暇もなく後ろへ転がっていく、敗北は許されないのだ』と書いた。
だが実例では失敗から学び、勝利を手にした人もいる。失敗をばねに階段を上がる人もいる。諦めきれない夢は消えるか、実を結ぶかの二択しかない。
だけど、信じたい。諦めた夢よりも諦めない夢のほうが輝いていると。夢が実を結ばないとしても。まだ見えない光明のように。
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2008/01/20(Sun)13:16:07 公開 / 佐紀
■この作品の著作権は佐紀さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
こんにちは、佐紀です^^;今回は短編ですねー。
前の長編のプロット「ネコ耳と執行者」もよろしくです^^ストーリーはいいので。。宣伝っぽくなりました。
ありがとう、読んでくれた方に、これまでにもまして。