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『死神と読書』 作者:三上 / リアル・現代 未分類
全角8168.5文字
容量16337 bytes
原稿用紙約23.85枚
死神と読書


1.

 わたしはそれを、死神と呼ぶことにしている。
 それがわたし以外の人に見えていないということに気付いたのは、数年前。それがもたらす効力に気付いたのは、二年前。わたしの近くに立っていたその人がそれに背中を押されるように道路に飛び出して、車に轢かれ死んだのを見たときだ。
 それというのは、人に聞かれても説明することは出来ない。それは大体、人の肩から背中、頭にかけてを陣取るように存在する。背後に立っているような大きさの時もあれば、申し訳なさそうに頭に乗っているだけの時もある。モヤというものを詳しく知っているわけではないが、黒いモヤのようなものだ。煙とも言える。ただし、絶対にそのどちらでも無い。生きている人間誰もに付いているわけではなく、今までわたしが付いているのを見たのも五人しかいない。
 半年前、わたしはそれが小さな点である頃を見た。わたしの知り合いの背中に付いていた黒い点。最初は洋服の汚れかと思ったが、次の日には染みのように広がって、次の週には背中から独立したモヤのような存在になっていた。まだ大きさは小さかったけれど、わたしはそれがそれであることを確信した。一月経って、それは知り合いの背中を覆い隠す程の大きさになった。そしてある日その黒いモヤから黒い二本の腕が伸びて、知り合いの肩を軽く押した。わたしのおばあちゃんは転けて、頭をコンクリートに打ってそのまま亡くなってしまった。
 わたしの他にそれが見えている人は恐らくいないだろうから、それに呼称は無いのだろう。だからわたしは、その黒いモヤを死神と呼ぶことにしている。よくわたしの読む小説に出てくる。それよりはちょっと意味不明で、ちょっと礼儀や思慮に欠けている存在に見えたけれど。
 しかし、だからわたしが陸奥峰(むつみね)さんに興味を持ったというわけではない。

 改札を通り、駅の時計を見ると既に五時半を過ぎていた。わたしは少しだけ急ぎ足になり、駅前のショッピングモールの方へ向かう。夕方の都心の駅はいつもより若干人通りが多く、寒気と人の熱と暖房が駅の構内でぐるぐると混ざり合っていた。
 わたしは駅前のショッピングモールの、その入り口横にあるスターバックスに入る。屋外の空気を切り捨てるようにがらりと雰囲気が変わって、シックな調子の店内はちょっとした高級感も感じた。いつもの窓際に座って本を読んでいる陸奥峰さんを見つけ、にこやかな店員の前を通り過ぎて歩み寄る。
 制服姿のわたしが横に立つと、陸奥峰さんは読んでいた本を閉じ、テーブルに置いた。わたしを見上げ、腕時計で時間を確認し、またわたしを見る。
「珍しいな。残念ながら五時十分だ」
「すみません、ちょっと遅れちゃいました。……座っても良いですか?」
 陸奥峰さんは何かを言う代わりに、向かいの席側に置いていたカフェ・モカを自分の方に寄せた。わたしは椅子に座り、少しだけ息を吐く。陸奥峰さんはヘッドフォンを外し、テーブルに出していたiPodを足元の鞄に入れる。
 陸奥峰さんが読んでいた本を見て、わたしは何となく尋ねた。
「新刊ですか?」
「いや、文庫版だ。本屋に行ったら見つけたから、買ってみた」
 本を見つめるわたしの前で、陸奥峰さんはその本も鞄にしまう。着々と荷物をまとめると、ポケットから携帯電話を取り出した。
 じっと画面を見つめて操作する陸奥峰さんの顔を、わたしはじっと見つめる。陸奥峰さんは思い出したように眼鏡も外し、また携帯を見る。テーブルに置かれた眼鏡にわたしの興味が移り、無意識に指が伸びそうになったところで、陸奥峰さんが音を立てて携帯を閉じた。陸奥峰さんを見る。
「幡生(はたぶ)が、また電車を逃したらしい」
「確か前もそういってましたよね」
「今日の君に言う権利は無い」
 言葉に詰まって、思わずすみませんと唸るように言う。陸奥峰さんは少しだけ面白そうに笑った。
「責めているわけじゃない。俺の言い方は口癖だから、殆ど気にしない方が良い。かの宮本武蔵だって、時間にはルーズだった」
「それとこれとは少し話が違う気もしますけど」
「実際の宮本武蔵は、そんなに遅刻したわけじゃないらしいからな」
 陸奥峰さんは恐らく、人の話を半分以上聞いていない。
「結局幡生さん、どうするんですか?」 
「次の電車に乗ったから、そろそろ来る、らしい。……あれか」
 ふと窓の外を見て言った陸奥峰さんの視線を、わたしも追いかける。雑踏の中でも目立つ金茶髪が私たちに気付いたようで、大げさに手を振ってきた。わたしは軽く会釈をし、陸奥峰さんは大した反応も返さずに立ち上がる。幡生さんが椅子に掛けていたコートを羽織るのを見て、わたしも続けて席を立った。
 陸奥峰さんがカフェ・モカを手に店外へ出、わたしもそれに続いて出ると、待ちかまえていたかのように幡生さんが癖のある金茶髪を撫でながら近づいて来た。以前に会ったときよりピアスが増えているような気がして、以前より金茶髪が明るくなった気がする。幡生さんがポケットに手を突っ込むと、じゃらじゃらと音がした。
「ごめんごめん、本当はオレの方が一時間早く来て、イズミにカフェ・モカと春ちゃんにスコーンを奢ってやる予定だったんだけどな」
 とか何とか言いながら、表情に反省の色は殆ど無い。陸奥峰さんはいつものように笑う幡生さんの言葉を無視して、わたしにカフェ・モカを持たせると、また鞄からiPodを取り出した。ヘッドフォンを首に引っかけたところで、わたしからカフェ・モカを受け取りながら幡生さんを見る。
「飯、行くか?」
「行く行くー。春ちゃん、何か食べたいものある?」
「特にないです」
「じゃあ、丼食べようよ。三階のさ」
 言うと、幡生さんはさっさと踵を返し、ショッピングモールの方に向かう。じゃら、じゃら、と幡生さんが歩くたびに規則的な音がする。陸奥峰さんはヘッドフォンを耳に当てながら、その横に並ぶ。わたしもついて行こうとして、暫く立ち止まってその二つの背中を見た。
 陸奥峰さんの背中にいる死神が、以前に会ったときより大きくなっている気がする。


 店内に流れているのが好きなバンドのアルバムの曲だと気付いてから、幡生さんはずっと機嫌が良い。にこにこと箸を割って、嬉しそうに「いただきまーす」と合掌し、リズムに乗って肩を揺らしながらツナマヨ丼を口に運ぶ。その横で陸奥峰さんは、何も言わずに幡生さんがセットで頼んだミニうどんに手を付けている。しかし、陸奥峰さんのつま先は、さっきからずっとテーブルの下でリズムを踏んでいる。間違いなく陸奥峰さんは気付いていない。
 わたしはというと、そんな二人を向かいから見ながら、お茶を飲んでいた。お腹は減っているけれど、せっかく貰ったお小遣いは温存したいので、なにも注文していない。店員さんが注文を聞きに来たとき、幡生さんはさっさと自分の注文を済ませた。わたしはその時メニューを見ていたけれど、幡生さんはにこにこと「以上です!」と店員さんに言った。わたしはなにも注文していない。
「あ、そうそう」
 ツナマヨ丼を半分食べたところで、幡生さんが自分のバッグを膝の上に乗せた。ごちゃごちゃとしたアクセサリがいくつも付いているそれに、陸奥峰さんが無表情で幡生さんと自分の椅子との距離をあける。
 幡生さんが分厚いクリアファイルを、テーブルの上に出した。突然テーブルの面積を奪ったそれに、陸奥峰さんが無表情でうどんを避ける。暫く幡生さんはファイルを漁って、一枚のルーズリーフを取り出した。
「これこれ、また書いてみた」
「歌詞か」
「そうそう。一応二番まで書いてみたんだけどさ」
 幡生さんからルーズリーフを受け取った陸奥峰さんは、うどんをわたしの方に寄せ、ちょっとわたしを見た。わたしは「あ、ありがとうございます」と小さく会釈して、うどんを自分に引き寄せ、新しい箸を割る。幡生さんはそのやりとりを全く気にせず、陸奥峰さんの手にあるルーズリーフを覗き込む。
 陸奥峰さんと幡生さんは、よく駅前で歌っているストリートのバンドだ。寧ろユニットなのだろうか、二つの差はわたしにはよく分からない。とりあえず、水曜日と土曜日、駅前で二人で歌っている。
 ボーカルは主に陸奥峰さん、たまに幡生さんがギターを持ってきた日には、幡生さんがギターを弾いたりもする。けれど基本的には二人で一緒に歌っている姿が多く、タンバリンも叩かず二人で一つの楽譜を見ながら歌う。その構図はなかなか面白く、そして珍しいもので、駅周辺の割と多くの人が二人を知っているだろう。
 ――わたしが二人に出会ったのも、今日のような水曜日だ。ちょっと気が向いて帰りとは反対方向の電車に乗ってみると、二人が駅の方を向いて歌っていた。その歌を聴いていて、二人が最後の曲を歌い終えても暫く立っていたら、いつの間にかわたしは二人を取り巻いていたオーディエンスの最後の一人になっていた。帰ろうかな、と何となく思っても何故か足が動かずにいたら、不思議そうに陸奥峰さんに「いつまで立っているんだ?」と声を掛けられた。確かそれが最初だ。その日はさっさと帰った。
 その次の週も聴きに来ると、今度は幡生さんに「あ、またいるー」と手を振られた。更に次の週、少し早めに来ると、準備をしている陸奥峰さんが居た。そしてその日、陸奥峰さんの背中に死神が付いていることに気がついた。
 わたしに気付いた陸奥峰さんに、今度はわたしから話しかけて、暫く会話していたら遅れて幡生さんがやって来た。そしてその日の演奏が始まり、終わる。
 その次の週もう一本早い電車に乗ると、駅の雑踏の中で、陸奥峰さんに後ろから声を掛けられた。「スターバックスに付き合わないか?」と言われ、陸奥峰さんの後をついてお店へ。名前を教えてもらい、自己紹介をしたら、やっぱり遅れて幡生さんが現れた。「イズミナンパしてんの? 生意気!」と滅茶苦茶なことを言って、幡生さんはわたしに名刺を渡した。名刺を見てわたしは初めて、二人のコンビ名を知った。『ラッシュ』。
 そんなこんなで、既に二人と出会って一月ほど経過している。
 楽しそうに歌詞について自分の意見を述べる幡生さんと、それについて無表情で鋭い指摘を入れる陸奥峰さん。こういう光景も、何度か見た。わたしは何となくの流れで二人と共に歩き、何となく陸奥峰さんに付いている死神を見守っている。
 わたしが出会った頃より、死神は確かに大きくなっている。けれどこれがいつまで大きくなるのか、わたしには検討も付かない。わたしは陸奥峰さんに付いている死神が気になって、この二人と、寧ろ陸奥峰さんと一緒にいるのだろうか。自分の行動の理由すら、未だにはっきりとしない。
 幡生さんがツナマヨ丼を食べ終わり、わたしもうどんを食べ終わる。陸奥峰さんがレシートを持って立ち上がった。
「出るぞ」
 わたしも立つが、幡生さんが「えっ」と陸奥峰さんを見上げた。
「ちょっと待ってよ、あと一曲で『涙の戦い』なんだけど」
 きっとお気に入りの曲なのだろう、幡生さんが言った曲名に、陸奥峰さんがちょっと考えるような顔をした。わたしも陸奥峰さんを見る。
 陸奥峰さんは腕時計を見て、冷静に言った。
「もう時間だ。早く行くぞ」
「えー」
 反論を背中で跳ね返して、陸奥峰さんはさっさとレジに向かう。幡生さん分の代金を払って、店の外であるショッピングモール構内へ。吹き抜けとなっている空間の、手摺越しに陸奥峰さんは一階を見下ろす。わたしも横に並んで手摺りにもたれる。それを見て陸奥峰さんも手摺りに触ろうとしたけれど、静電気に顔を歪めて手を引っ込めた。
 遅れて幡生さんが出てくる。ずっと何かの歌を口ずさんでいる。


2.

 この二人が並んで歌う構図が珍しいのは、この二人の外見があまりにも相反しているからではないだろうかとわたしは時々思う。
 エレベータを待っている今もそうだ。良識のある好青年を絵に描いたような陸奥峰さんと、夜中にコンビニの前で座り込んでいる不良を絵に描いたような幡生さん。特に陸奥峰さんなんて顔が整っている方だから、すれ違う人がちょっと顔を見ては、その隣に立つ幡生さんに気付いて嫌そうな顔をする。逆に幡生さんを注視していたミニスカートの女の人は、陸奥峰さんを見て「うわ、ウザそう」と呟きを漏らす。それらは結構わたしにも聞こえる。
 実際に、音楽と本以外については、二人はまるで趣味が合わない。好きなテレビ番組も、よく読む雑誌も、一番通う服屋さんも、全部違う。聞けば、大学も違うらしいし、それどころか幡生さんは学校に通って居らず、アルバイターをしているらしい。
 そんな二人がどうやって出会ったのかは、わたしは知らない。けれど、そんな二人が、音楽と本に関してほぼ共通の意見を持っていることは知っている。
「だからその人の新刊がさあ」
「まだ読んでいない」
 いつものように会話が繰り広げられる。そこでエレベータの扉が開き、わたし達は乗り込んだ。一番最初に乗った幡生さんは壁に背もたれ、続けて乗った陸奥峰さんが一階のボタンを押す。わたしが乗り込むまで陸奥峰さんは開のボタンを押してくれていて、わたしは軽く頭を下げる。
「ねえねえ春ちゃんはさ、その本知ってる?」
 動き出したエレベータには、わたし達三人以外乗っていない。面白そうに話しかけてきた幡生さんに、わたしは「はい?」と気の抜けた返事を返した。陸奥峰さんが補足的説明を付け加える。
「主人公が死に神、とかいうありがちな話らしい」
「死に神?」
「ありがちとか言うな。イズミだって読んでるじゃん」
「世間一般的に言うとありがち、ということだ。俺の趣味については今のところ関係ない」
「お前が言う本の説明、ってとこで、お前の主観入りまくりじゃん。小説にありがちとかよくあるとか付けてどーすんの。独創性なくして小説無いよ」
「独創性に溢れた小説ばかりが売れるわけじゃない」
 陸奥峰さんの意見はいつも冷静だ。
「小説は、世の中の誰もが思っていることを如何に個性的に書けるかどうかが問題なんだ。独創性だけで作れる世界はない」
 一理あるな、とわたしは思った。けれど幡生さんは気に入らなかったらしく、小学生のように口を尖らせてそっぽを向く。
「イズミと話したらこれだから楽しく無い」
「たまには会話しないという選択をしてみろ。俺もその方がずっと楽だ」
 幡生さんが更に顔つきを険しくする。本当に小学生のように見えてきたその表情を見ながら、わたしは幡生さんの言っていた本のことがずっと気になっていた。
 死神、死神。これは何かの皮肉なのだろうか。

 灰色のタイルの地面に、鳩の糞がぼつぼつとアートしている。この時間帯は、ショッピングモールの影の中に放り込まれて、冬に来ると特に肌寒い場所だ。
 駅前広場に出ると、二人がいつも歌う所にはすでに厚狭(あさ)さんがいた。いつものように目立つボーダー柄の服を着ていて、こちらに気付くと大袈裟に手を振ってきた。幡生さんが調子に乗って振り返し、陸奥峰さんもちょっと手を挙げる。わたしも軽く会釈をする。
 厚狭さんは、ストリートで歌う二人の“追っかけ”を自称する、綺麗な女の人だ。いつも綺麗な髪の毛を緩くウェーブさせて、肩に垂らしている。センスのとてもいい人で、服装の一つ一つに細かく気を配っていることが、お洒落靴をローファーしか持っていない私でさえ分かる。今日も、首元のアクセサリーと目をキラキラさせながら二人に笑った。
「こんにちは。今から演奏準備?」
「勿論。楽しみにしててねー」
 幡生さんが自慢げに言う。厚狭さんの姿が見えると、幡生さんは途端に上機嫌になる。それは厚狭さんも同じらしい。
 厚狭さんは陸奥峰さんとも少し話をしていた。しかし、幡生さんよりは声のテンションが落ち着いていて、陸奥峰さんと並んでも不思議と馴染んでしまう。ぱっと見、厚狭さんは陸奥峰さんと正反対のタイプに見えるのに、会話する時々で自分を切り替えてしまうのだから驚きだ。
 二人の会話する様子を見ながら、わたしはいつものベンチの横で折り畳んでいた譜面台を立てる幡生さんに聞く。
「厚狭さんって、いっつも聞きに来てるんですか?」
「そうだよ。うん、よく考えたら本当にいつでもいるな」
 譜面台を立てると、幡生さんは陸奥峰さんのバッグの横にしゃがみ込んだ。勝手にバッグを開けて、楽譜を選び始める。歌う曲はたまに前々から決めているらしいけれど、大体その場で歌いたいものを幡生さんが適当に選ぶらしい。
「厚狭ちゃんはさ、イズミがお気に入りなんだよ。いっつも話してるもん」
「幡生さんも話してるじゃないですか」
「オレはいいの。オレには春ちゃんが居るもん。イズミがどんなことイチャイチャしてても、オレは構わないの」
 どうしてそこでわたしの名前が出たのかは不思議だったが、尋ねる前に幡生さんがベンチに楽譜を出した。コピーしたもの、手書きのもの、様々にある。一瞬覗いた陸奥峰さんのバッグは、白と五線譜でいっぱいだ。
 幡生さんが出した楽譜の量がいつもよりも遙かに多くて、思わずわたしは聞く。
「それ、全部歌うんですか?」
「まさか」
 一センチ近くの厚みを持つ重なりを崩し、幡生さんが楽譜を物色し始める。暫く唸っていたが、やがて低い姿勢からわたしの方を見上げてきた。
「春ちゃん、何聞きたい?」
「えっ」
「たまには需要に応えることも必要かなって」
 そんな質問を今までされたことがないわたしは、面食らった。楽譜なんて、中学の授業以来殆ど触ってもいない。ピアノを習っていた事もないし、音符の見方なんて、ドレミファソラシド以外、シャープもフラットも何だったかさっぱり覚えていない。
「いいですよ、そんなの」
「遠慮しなくても良いって」
 遠慮じゃないんです。
 笑いながら楽譜の束を差し出してきた幡生さんに、何も言えなくなってしまう。考えあぐねていたら、ふと頭の端にとあるメロディーがよぎった。
「あの、こんな曲ありますか」
「ん?」
 話し込んでいる陸奥峰さんと厚狭さんには聞こえないように、幡生さんにだけ聞こえるように、とあるメロディーを口ずさむ。別に旅ではないけれど、恥は掻き捨てだ。
 それを聴いて、幡生さんはとても驚いたようだった。目を見開いて、「なんで知ってんの?」とまず一番に聞かれた。
「この曲、最近歌ったっけ?」
「いえ、いつ聞いたかは覚えてないんですけど」
 それどころか、本当に陸奥峰さんと幡生さんが歌っていたかどうかさえ怪しい。暫く驚いていたけれど、幡生さんはまた笑った。金茶髪をがりがり掻く。
 幡生さんはまたバッグに手を伸ばした。さっきよりも長い間中身を探り、一枚の薄っぺらい楽譜を取り出す。楽譜と言うよりも紙切れと言った方が表現に正しいような気がする程くたびれきった紙で、片面にしか五線が書いていない。しかも、言ってしまうと何だけれど、とても線が汚かった。明らかにシャーペンで書かれたものだ。
「まさか覚えられてるとはなー」
「なんて歌ですか?」
 わたしの質問に答える前に、幡生さんはその楽譜をじっと見て、殆ど鼻歌のようにメロディーを流す。さっきのわたしよりも正確で、安定した音だ。
「曲名はねえ、まだ無い」
 「春ちゃん付けていいよ」とついでのように言われて、わたしが暫く何も答えられないでいるうちに、幡生さんは立ち上がった。
「イズミー、ナンパ終わった?」
「誰の何がどうしてナンパだ」
 厚狭さんとまだ話していた陸奥峰さんは、それでも素早く幡生さんに返答を返す。幡生さんはよれよれの楽譜を振って、「今日歌う歌これねー」と笑った。陸奥峰さんが目を細めてそれを睨めるようにし(かなり視力が悪かったはずだ)、何の楽譜か気付いて、先程の幡生さんと同じように驚く。厚狭さんは不思議そうに二人を見ている。
 陸奥峰さんは珍しく、本当に驚いたようだった。
「それ、歌うのか。なんでだ?」
「えーっとね、春ちゃんのリクエスト」
 陸奥峰さんがわたしを見た。何故か、居心地が悪い。


2008/01/24(Thu)21:59:13 公開 / 三上
■この作品の著作権は三上さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
以前からとっても間が空いてしまいました。じっくりじっくり書き進めて行きたいと思います。
また、分かりづらいかと思ったので、更新ごとに話数で分けて行きたいと思います。今回は二話目と、一話を部分修正しました。
よろしくお願いします。
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