- 『8コース』 作者:波 / 未分類 未分類
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原稿用紙約20.25枚
全国大会に出場した俺は、超有名選手の田伏と並んで泳ぐことになった。彼が7コース、俺が8コース。有名校の実力ある選手に比べたら、まぐれで準決に残ったようなものだ。でも、俺は8コースのイルカになって、彼らに一矢報いる! 明日もここで泳ぐために!
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通路の薄暗い蛍光灯は、次第に光を失ってゆく。
ひたひたと一列に並んで、俺達はその眩い場所を目指し、ゆっくり進んでゆく。全国高校水泳競技大会と書かれた日程表が壁に貼り付けられている。
肩をぐるりと回してみた。肌にスウェットスーツが汗で纏わりつく。それは至極不快で、緊張感と同じくらいに体を縛り付ける。
もう一度、反対の肩も回す。キンと顔の筋肉まで硬直して、能面のように表情のない強張った顔になっているだろう。手をぶらぶらさせても、ぴりぴりと登ってくる緊張の束縛は容易には解けそうにない。
俺の前を行く田伏浩二(たぶせこうじ)が、通路で見送るコーチらしい人に檄(げき)を飛ばされている。彼はこくりと頷き、両手の拳をぐっと握り締め気合を入れたようだった。
田伏は7コース。俺は8コース。つまり予選のタイムは俺が最下位で何とか通過。田伏はその一つ前の速いタイムということになる。それは、本当のところ信じられない事だった。まだ準決勝だというのに、ベストタイムを更新し何とかぎりぎりに残った無名の俺と、隣同士のコースで泳ぐなんて、全国の田伏を知ってる人は驚きを隠せなかっただろう。それも、もしかしたら予選落ちの憂き目に遭うところだったなんて。
俺のようにまぐれで残ったような選手ならまだしも、有名選手が予選落ちだなんて、大変な番狂わせになるところだった。
前を歩く田伏の背中は、肩の筋肉が隆々と盛り上がって、本当に激しいトレーニングを積んできているのが解かる。厚い胸板が呼吸をする度に体を引き上げ、無駄な肉のない美しい逆三角形のフォルムに、日に焼けた頑丈な皮膚を纏っている。
「泳ぐために生まれてきた天才スイマー」という見出しを、彼を取り上げたスポーツ雑誌で見たことがある。既に中学のときに学生の選抜の強化選手に選ばれ、海外の試合も常に参加し、日本中に期待を持たせるような記録を作ってきた。こんなインターハイの試合など、流していても勝てるだけの実力を持っているはずだ。
しかし、昨日の予選の後、俺が偶然に見た彼は、水泳界を将来背負って立つ天才スイマーとは似ても似つかぬ姿だった。
彼は誰もいなくなった狭いシャワー室の中で、頭からシャワーを浴びたまま呆然と立ちすくんでいた。肩を落とし、俯いた顔にその両方の目は見開いてはいたが、全く何も映してはいないような感じがした。勿論俺が入ってきたことも気付いていなかった。ただ「はあ……、はあ……」と長い息を吐いている。知らぬふうを装って、俺はシャワーを使い出したが、暫くその呼吸は続いて、その後『ダンッ』と壁を叩く音がした。
俺は驚いてそっと彼の様子をカーテン越しに覗いた。すると、その後姿は、壁に両手で拳を叩きつけて、肩を震わせていた。そして、小さな声で、
「すみません……皆さん」
と呟いた。
その瞬間、俺は、ぞくっと寒気がした。この同じ歳のたかが高校生の吐く言葉とは思えなかった。ただ、驚いて彼の後姿をじっと見つめた。その背中には、きっと俺の理解の範疇を超える、厳しいものを背負っているのだろう。誰に対して謝ったのか、それは定かではないが、予選落ちになるかも知れないという現実の前で、彼は茫然自失となり、信じられないほど憔悴しきっていた。もはや、彼ほどに期待を背負った選手は、自分のために泳いでいるのではないのだ。それは、俺のような水泳が好きだなどと気楽に構えている無名のやからには、理解する事など出来ない情況があるのだろう。
あれは、きっと誰も知らない苦悩に満ちた彼の姿……。
俺は、シャワーの音を聞きながら、そっとその場を離れた。きっと、予選の結果が出るまで、彼の苦しみは続くのだろうから。
かくして何とか田伏も俺も予選は通過した。きっと彼は本当に胸をなでおろしただろう。
だから、今日の彼は一段と気合を入れて泳ぐはずだ。
薄暗い通路が突然眩しいほどの光に晒された。開け放たれた扉から、体を浮かせるような反響した歓声がどよめいて来る。俺達は一列になり、その明るい場所をプールサイドまで進んでゆく。
「田伏く〜ん」
至るところから、彼に声がかかる。田伏は軽やかに歩きながら、長い手を突き出してガッツポーズをしている。
流石に慣れた様子で、スター田伏浩二はかっこよすぎる! たった一人で参加した俺には応援なんて、先生とマネージャーと両親くらいなもんだ。皆、受験のための夏期講習で忙しいから。
――――「ただ今から、男子フリースタイル200メートル、準決勝を行います。第一のコース、湘南高校川瀬裕也君……」
湿ったプールサイドに、コースに沿って並んだ。一コースから選手が次々と紹介される。勿論、田伏の他にも強豪の有名校から当然のように勝ちあがった選手達が、高々と自分の紹介に手を突きあげ、頭を下げる。その度に観客席から歓声が上がる。
――――「第7のコース、関東大付属高校、田伏浩二君」
やはり一番歓声は大きい。田伏は笑顔で手を振り、そしてゆっくりお辞儀をした。
次は、俺が呼ばれる。緊張しながら一歩前に進み出た。
――――「第8のコース、向陽北高校、牧野一樹(まきのかずき)君」
「一樹! 頑張れ!!」
大きな声が応援席から聞こえた。驚いて振り向いて目を凝らして見る。
「一樹く〜ん! がんば〜!!」
最前列で、小さな集団が俺に向かって手を振っている! それは両親とクラスメート……。皆、夏期講習だから、こんな遠い会場まできてはくれないと思っていた……。担任のモグラに似た大山先生が立ち上がって、何やら叫んでいるが、観客席の歓声にかき消されて聞こえない。しかし、皆必死で俺を勇気付けようとしてくれている。それは間違いない。
俺は、体が熱くなるのが解かった。つま先からしびれるように体に力が漲る感じがする。どうせ一番のろまの無名のラッキーな準決だなんて、諦めている場合じゃない! 俺のために、俺をはげますために、こんな遠い会場まで来てくれたんじゃないのか!
応援される――これは、すごいことだ。体中に否応なしに、力が漲ってくる。皆のためにも、いい試合がしたいと思った。負けたくない! 闘志がふつふつと湧いてくる。
そして、俺は「全国」へ来ているという事を改めて思った。何十万といる高校スイマーたちの頂点の大会を泳げるという幸運を今手にしているんだ。田伏を始め、後の一流の選手達と競える幸運を!
8番目の無名の俺は、サイテーの記録を引っさげ、まぐれで準決に残った。でも、負けたくない! この闘志をむき出しにした7人のスイマーたちに、8コースのイルカになって、一矢報いてやる!
俺は隣の田伏を見た。彼の集中した顔は凛として美しいほど澄んでいる。
しかし、俺も負けない! この素晴らしい男に挑戦する。彼の姿はあまりに俺からは遠いところにある。でも、俺が良い泳ぎをして彼に応える事が、今は礼儀だと思っている。彼を追って追って追いつく! 死んでも離されない!
目の前に沈黙する、照明に照らされた広い澄んだプールを見つめた。向こうサイドまで、俺のコースは誘うように延びている。
『ピ――――ッ』
スタート用意の笛が鳴り響き、プールサイドも観客も一瞬で息を止めるような、静かな緊張感に飲み込まれる。
始まる!!
スタート台に足を掛ける。びりっと電気が通るように筋が張る。肩を大きく回して、両手をぶらりと力を抜いて前に下げる。 そして丸めた背筋と曲げた膝を固定して、リズムを取るため唇を動かす。スターターが合図のピストルを頭上へ掲げる。
「用意……」 1、2、3……。
『バア――――ン!!』
ザザア――――ン……。
静かな水面をつきやぶって、一瞬に白い水しぶきが上がる。ゴーグルを圧迫して眉間に痛みを感じるほど、重い水圧が腕の動きを妨げた。
「俺はイルカだ!」
沈む体を細く長く伸ばし、膝のしなりを生かしてドルフィンキックで水中を蹴る!
「お前はキック力がある。いいか、スタートとターンでスピードに乗れ!」
コーチの言葉が頭を過ぎる。
滑らかに俊敏に俺の足はイルカの尻尾のように、纏わりつく水を叩いて体を前へ押しやる。そして、水を呼吸と一緒に吸い込む寸前で、水面にジャンプするように浮き上った。
「しめた! トップを取った!」
前を見た俺の目には、澱むように静かに孤を描いて広がる水面があった。素早く腕を振り下ろす。まるで清らさをかき乱すように腕で水面を叩く! 伸び上がって一掻きすると、沈んだ体の上を水が激しく流れてゆく。そして、1、2、2、と足のキックを合わせて俺は、堂々とトップに躍り出た。
200メートルは50メートルを二往復。得意なターンは三度ある。初めの100で飛ばしすぎると、後の100が続かない。
しかし、俺は躊躇わなかった。ただ、もてる力を全て出す。いや、それ以上の何かに縋らないと、きっとこれで最後の試合になる。うまく波を捕らえた体は思うようにスピードに乗ってきた。
50のターン!
体を回転させて水中で丸く縮まるように力を溜め、その一瞬に力を解放した。体は水しぶきを上げて水中に没したまま、またスピードを上げそのまま、水面に浮かぶ。まだトップだった。後ろに激しく上がる水しぶきを見る。
「このまま泳ぎ切れば、田伏に勝って、決勝へ進めるかも知れない!」
一掻き一掻きに力が篭る。呼吸に顔を上げると、天井の照明が顔を流れる水に、朧な光を放ち滲んで見える。
その時、ザッと俺の直ぐ横に水のしぶきが激しく上がった。
「田伏!!」
日に焼けた腕が小さく孤を描き、肩まで浮き上がった背面の状態から、そのまま水の中へ落とされる。力強い泳ぎだった。俺より何倍も厳しく鍛えられた肩の筋肉は逞しく強い回転を生んで、ゆったりした泳ぎの源になっている。
ザバ、ザバと一呼吸ごとに、彼は俺から離れようと激しく波を立てる。隣同士のコースで競り合うと、お互いの立てる波が呼応して呼吸がし辛くなる。顔に波を何度もかぶった。
100のターン。
ドルフィンキックでぎりぎりまで潜り、頭がしびれる感触に溜まらず水面に飛び出す。大きく口を開け、あえぐように息を整えた。田伏は、半身俺の前に出ていたが、またほぼ並ぶ。負けない! しかし安定した彼の泳ぎは腕が回るごとに、俺を突き放そうとスピードをあげる。がむしゃらに田伏を追った。顔を潜らせている時間が長くなったが、ここで引き離されたら、彼のスピードについてはいけない! 追って追って追うしかない!!
150のターン。
「ラスト――ッ!!」
誰かが大声で叫んだ。その声が、何故か親父の声に聞こえた。
「一樹。いつまで泳いでいる気だ! お前来年大学受験だぞ! もういい加減にして、勉強に集中しろ」
親父は部活で遅くなった俺に、いつも同じことを言った。
確かに親父の言うとおりだ。皆、夏期講習や、予備校やと受験一筋にやっているのに、何の特にもならない部活に精を出してる俺が歯がゆくて仕方なかったのだろう。
だから、今日、本当に応援に来てくれたのには少々驚いた。
水泳を続けたい気持ちはずっと持っている。でも、親父を説得するほど、その気持ちが強いかというと、そうでもない。俺にしても、今回全国へ出られてここまで泳げたのは奇跡に近いと思っていたし、それ以上水泳に、人生をかけるほど魅力を感じていた訳ではない。
ただ、泳ぐ事が好きだというだけだ。それはきっと、ゲームが好きとか、本が好きとかと変わらない感情なんだと思う。
必死で練習に汗を流した訳でもなく、こうして大会に出られたのは、マジでただ幸運だったからだ。だから、出場した事を振りかざして水泳を語る気など毛頭ない。
田伏たち、有名選手と俺は違う。言うなれば彼らの引き立て役といったところだ。
――――俺は、ここに来てからも、そんな気持ちを持ったままだった。でも……!
腕の振りが急に重くなった。
キックする足がリズムを失くしてくる。
今迄、軽く浮いていた体が沈みがちになった。あえいで呼吸を繰り返す。田伏から起こってくる波に飲まれそうになる。
彼は気付くともう体一つ分、俺の前にいた。力強い腕のスクロールも全く変わらない。同じリズムを刻んで、乱れのない泳ぎ。
流石だと思った。俺に比べたら、信じられないような練習を自分に課して来たのだろう。才能だけで、この泳ぎを維持するなんてことは無理な話だ。
あのキック。あのスクロール。あの持久力!
離れてゆく彼を見ながら、俺は何故か感動していた。田伏の力強い世界に通じるあの美しい泳ぎに……。
俺も泳ぎたい。 彼のようにトップで、もっと速く、もっと力強く、もっともっと泳いでいたい!!
諦められなかった。もうきっと体力は限界に来ている。体が水の抵抗に押し流されてしまうほど、力が入らない。目の前が霞むほど意識が混沌としてきた……。それでも懸命に手足をバタつかせて、気力を振り絞り田伏を追った。 明日も明後日も泳ぎたい。そのために負けられない。頭の中にはその事だけが、渦巻いている。
ザザ――――ッ!
手にタッチした感覚があり、俺は側面に縋りつくように体を起した。
途端に大きな歓声が渦まくのが耳に入ってくる。
隣のコースで田伏が歓声に応えて笑顔で手を振っている。
俺はコースのしきりに体を持たせてゆっくり浮いた。息を荒く吐いて、ゴーグルを外し、顔を明るい天井へ向ける。
――――終わった。俺の全国。体が悲鳴を上げるほど、全力で泳いだ! 何故か目頭が熱くなった。それは、悔しさと……、なんだろう?
電光掲示板にトップに田伏浩二の名前があり、タイムの表記の後に「大会新記録」と書かれていた。田伏はなんと7コースで大会新をたたき出したのだ。俺は、ガッツポーズの彼に心でエールを送った。やはり彼は本物の天才スイマーだ。
そして、途中で失速した俺はやはり8コースのイルカだった。自己ベストは少し更新したが、8番目の記録だ。
プールから上がろうとすると、隣の田伏が俺を呼び止めた。
「牧野君!」
彼はとても嬉しそうに笑って、頬を赤らめている。
そして、見つめる俺に、
「有難う! 大会新が出せたのは君のお陰だ。俺酷いスランプでずっと迷いながら泳いでいたんだ、実は……」
と、恥ずかしそうに言った。
「俺のお陰だなんて、そんな事、何故?」
「本当さ。君がスタートから飛ばしていくから、俺、必死でついて行ったんだ。ターンも早いしすごい泳ぎだったよ。負けたくないって思って、本当に今迄みたいに配分を考えたレースをする余裕がなくなった。最後は死ぬかと思うくらい辛かったけどね。でも、お陰で、頑張れた! ありがとう! なんか、思いっきり泳いで吹っ切れた気がするよ」
と、田伏は口角をきゅっと締めた。
「次は、きっとインカレで対決しよう。待ってるよ!」
水の中から手を出して、田伏は爽やかに笑った。俺もその手をぐっと握り締め、笑いかけた。
控え室で着替えを済まし、俺は一人通路へ出た。まだ残りの競技に会場は沸いているらしく、歓声が通路に溢れている。
「一樹!」
通路の出口で、親父とお袋とコーチが待っていた。
「頑張ったな。いい泳ぎだった」
と、親父は笑って言ってくれた。俺はくっと背筋を伸ばして、親父を見据えた。そして、
「親父、俺、水泳やめない! H大の体育学部を受ける。そこでもっと強くなる!」
と、はっきりと告げた。
親父は全く変わらない笑みのままで、
「そうか、解かった。頑張れよ」
と言って、肩をポンと叩いた。
外に出ると、クラスメートが思ったより沢山待っていてくれた。
「一樹、惜しかったなあ! でも良くやったよ」
「うん、私感動しちゃった! 田伏にちっとも負けてないんだもん」
友人達は口々に俺を労ってくれた。
「次は、大学行って、インカレだな。頑張れよ! 世界水泳に出るまで」
その言葉に、皆じっと俺の返事を待った。
「ああ、勿論! オリンピックにだって出てやるさ!」
その時、室内の会場から、またどよめきが起こった。皆、思わず会場を振り向く。
俺はそれが、自分に向けられたエールのように感じた。
目にははっきりと、全国大会のコースが浮かんできた。あの静かな水面を、歓声で揺らせるのは、次は俺だ!
真夏の降り注ぐ日の光の中で、俺は拳を空に向かって突き上げた。
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2007/10/28(Sun)00:54:20 公開 / 波
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