- 『電子のイブ』 作者:かば / SF 未分類
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交通事故で重傷を負った女子高生、望はサイボーグ化が完了するまでの期間を閉鎖された極秘の電子空間で過ごしていた。 しかし、そんな望の前に‘パック’と名乗る謎の男性が現れ、「そんな不自由な‘身体’にしがみつかないで、僕と一緒にこの無限の新しい世界で暮らさないか?」と誘う。 望の心はサイボーグ化への不安や周囲の人たちへの気持ちの間で揺れ動き、さらにパックが“新しい生命”と呼ぶ新型コンピューターウイルスによって乱される。 電子空間に‘生命’は存在するのか? そもそも‘生命’とは何なのか? 望は様々な対話や思索を経て一つの行動を開始する。
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1、
誰かがドアをノックした。
「え!」
私が慌ててベッドから立ち上がると、今度は男の人らしい声が聞こえた。
「待って! 怪しい者じゃない!」
いつの間にかドアにつま先が差し込まれていて、接続を拒否させないつもりのようだ。
「…………」
「怪しい者じゃないから開けてくれないか?」
驚いてドアを見ている私に声は頼み込むように言った。
声の感じからすると若い男のようだ。
「……誰、ですか? なんでケイタイを使わないんですか?」
私は少しずつベッドを離れていつでも非常用スイッチを押せる場所に回り込みながら尋ねた。
というのも、研究室の人たちは全員休みだったから、今の私に話し掛けられる人などいるはずないのだ。
そうでなくても、この部屋まで直接やってこられたということだけで十分怪しかった。
「…………」
「頼む。君も“被験者”なんだろう? 日本にも被験者がいるなんて驚いたよ」
「!!」
私は急いでドアから離れた。
「しかも、こんな研究を民間の研究所でやってるなんて大丈夫なのかい?」
「…………」
「もっとも、君の場合は“適用患者”って言った方が良いのかな?」
「…………」
男は私が驚いて黙っている間も気にしないでしゃべった。話し振りからすると私のことをかなり知っているような感じだった。
「頼む。ちょっとだけで良いから開けてくれないか?」
「……『君“も”』ってどういうことですか?」
「別に、言葉どおりの意味だよ?」
「……じゃあ、あなたも関係者なんですか?」
「違うよ。僕は海の向こうから新天地を探しに来たんだ」
「…………」
「君は一歩も外に出たことがないのかい?」
男はどこまで本気なのかよく分からない口調で尋ねた。
「……あなたに答える必要はありません」
「もしかして、本当に出たことがないのかな?」
「…………」
「そうだとしたら、君はまさしくとらわれのお姫様という訳だ」
男はドアの向こうで勝手に言って、すぐに言葉を続けた。
「僕は君を助け出したい」
「?」
「こんな狭い部屋に閉じ込められてるなんて虐待以外の何物でもないよ。このドアを開ければ無限の新しい世界が広がっているというのに」
「…………」
「頼むから入れてくれないか?」
「……困ります。どうやって研究室まで入り込んだか知りませんけど、あんまりしつこいと人を呼びますよ?」
「ハ! 外の人間たちなんて放っておけば良いじゃないか」
「あなたに言われたくありません!」
私は強い口調で言い返した。誰だか分からない不安より、私を助けようとしてくれている人たちを否定された怒りの方が強かった。
すると、さすがに男も少し静かになった。
「…………」
「……帰ってください」
「困ったな……。僕は君を助けたいと思って言ってるんだよ?」
「だったらほっといてください。あなただってこの研究所の人なんでしょう? 私は研究所と病院の人たちを信じてますから」
「サイボーグにして?」
「…………」
「はっきり言うけど、今の技術水準じゃ統合型感覚再現技術を使ったって元のような生活はできないよ?」
「…………」
「君は高校生らしいじゃないか。そんな若い君が試作品みたいなサイボーグの生活で満足できる?」
「…………」
私は答えることができなかった。確かに、それを言われるときつかった。
研究所や病院の人たちからはすべて終わればもっと良くなると説明されていたけど、私のように統合型感覚再現技術を使ってサイボーグにするという患者は初めてだった。
その上、私はこの間見せられた身体の回復具合を思い出して考え込んでしまった。
「…………」
「言っておくけど、僕たちはもう人間じゃない“新しい種族”なんだよ?」
「…………」
「そんな不自由な身体にしがみつかないで、僕と一緒にこの無限の新しい世界で暮らさないか?」
「…………」
「もちろん、これは冗談なんかじゃないし、僕もこの研究所の人間なんかじゃない。僕は本当に君を助けたいと思ってるんだ」
男の人はもう一度ドアの向こうから誘った。
さっきと違って、今度は私への好意が感じられるような気がした。
「……困ります」
「どうして? 外の人間たちに何か言われてる?」
「そういうんじゃなくて……、突然そんなことを言われても困ります……」
「ああ、そういうこと」
男の人は納得がいったように言って、ドアのすき間からメモリーカードを差し出した。
「取ってくれる?」
「何ですか、それ?」
「これは君が部屋から出るのに必要なソフトだよ。これを使えば君も部屋を出られるようになるし、新しい世界でも同じように見ることができる。もちろん、人間に気付かれることもない」
「…………」
「視覚変換は僕の好みに合わせてあるけど、僕がいないときに外の新しい世界を体験してみれば良い」
「……本当ですか?」
「本当だよ。ウイルスとか怪しげなものは入ってないから信じてほしい。僕は純粋に君を助け出したいんだ」
男の人は差し出したまま今度は真剣な口調で言った。
見ず知らずの相手を信じるなんて危険すぎるとは思ったけど、サイボーグ以外の選択肢があるというのは魅力的だった。
「…………」
「受け取ってくれるかな?」
「……受け取る前にこっちのソフトでウイルススキャンしてもらって良いですか?」
「良いよ。その代わり、後でログを消させてもらうけどね?」
「え?」
「僕も君も互いに秘密になっているんだから、証拠が残ったりしたら良くないだろう?」
「…………」
「それに、僕のところの研究所は軍隊や情報機関なんかも関係してるから、君たちのことを知ったらきっともめ事になると思うんだ」
「…………」
私は男の人の言葉に迷った。男の人は本当に研究所の外から入ってきた被験者のようだったけど、もしかしたら私たちのことを調べているのかもしれないと心配した。
「…………」
「あ、僕は民間人だし、ここを誰かに教えるようなことは一切しないから安心してほしい」
「…………」
「僕は研究所を出たいと思っているんだ。だから、もしかしたら助けてもらえるかもしれない君やここのことを言わないって約束する」
「……分かりました」
「良かった。じゃあ、早く受け取ってくれる?」
男の人に言われて、私はメモリーカードを受け取るために手を伸ばした。
「……あの……」
「何だい?」
「名前、教えてもらえますか?」
「‘パック’だよ。『真夏の夜の夢』に出てくる妖精のパック」
「……『パック』さん……」
「君は?」
「あ、‘望’です」
「『望』か……。良い名前だね?」
「…………」
「じゃあ、折角だし、ちょっとだけ姿を見せてもらえないかな?」
パックはドアの向こうで言った。
2、
結局、パックは部屋で少し話をしてから帰った。
声のとおり若い男の人で、細身の身体に白いブレザーを格好良く着こなしていた。
もちろん、それが本当の姿かどうかは分からなったもののハッとするほど格好良いことは確かだった。
「『僕たちが身体に縛られる必要はない』か……」
私は念のため外部との接続を厳しく制限した部屋でつぶやいた。
確かに、今のこの状態では身体があろうとなかろうと大して違いはなかった。極端なことを言えば脳を維持する機能がありさえすれば良かった。
「でも、ね……」
私はベッドに座ったまま右手を目の前にかざした。
本当の身体と同じように自由自在に動かせるけど、今のこの身体はよくできたコンピューターグラフィックスだった。感覚も精密に再現されているといっても、どうしても身体には劣った。
なにより、この身体には怪我も病気もありえなくて不自然なのだ。
「…………」
ついでにいうと、この部屋もすべてコンピュータグラフィックスで私がベッドに腰掛けているのも擬似的な感覚でしかないのだった。
「…………」
私はゆっくり右手を下ろして今度は身体を見詰めた。
事故に遭う前の身体をほぼ忠実に再現してもらったこの身体。
環境設定が複雑になるということで季節がほぼ初夏に統一されていたから今日は半袖のプルオーバーにジーンズという服装だ。
この身体が擬似的なものだとは信じられないくらいだけど、今の身体がどんな状態かはよく知っている。
パックに言われたとおり、治療が終わったらこんな服装もできなくなるだろうと思った。
「……『サイボーグ』」
肯定的な響きと否定的な響きが混ざる複雑な言葉。
ロボット技術を応用した義手や義足、人工眼を使っている人は珍しくなくなっていたけど、パックにあんな風に言われてしまうとやっぱりこの世界から出ていくことをためらってしまう。
「……ホントに、なんで事故になんて遭っちゃったんだろう……?」
私は身体を見詰めたままもう一度つぶやいた。
意味のない考えだとは分かっていても事故に遭っていなければこの身体も部屋もすべて現実だったはずだ。
ドアを開ければ弟の部屋と階段があって階段を下りれば両親が新居でくつろいでいたはずなのだ。
「…………」
それ以上考えてしまいそうになって私は頭を強く振った。
「どうしようもないことを考えたって仕方ないじゃない。命が助かっただけでも感謝しなきゃ」
自分を励ますように言って私はダウンロードしてあった曲の中から元気の出そうな曲を選んだ。他には誰もいないことを逆手にとって音量を気にしないで思いっきり大きく掛けた。
一人で考えているから良くないのであってとにかく何かをしていれば気が紛れるに違いない。
私はそう判断すると早速視野をカメラに切り替えた。
「誰も出てきてないよね……?」
一瞬前までCGで作られた部屋だった視野が視線を動かす端からステレオカメラによる研究室の映像に切り替わっていく。
なんど経験しても魔法のようで面白かった。
そして、私は視野を完全に切り替えてから改めて研究室内を見回した。
半分ぐらい信じていたけど、やっぱりパックは研究室内にいないようだ。
ちなみに、この研究室は私を統合型感覚再現技術の面から支援している。
つまり、私が今こんなことをしていられるのもすべてこの研究室のお陰ということになる。
「……ホントにいないよね……」
私がいくらカメラの視点を動かしてもパックの姿どころか誰かが立ち入った形跡も見当たらなかった。本当に、パックは研究所の外からインターネットを通ってやって来たようだ。
「おーい」
呼び掛けてもみたものの、研究室で動いているのは私と一部のパソコンだけのようだった。
「…………」
データや器材で雑然とした誰もいない研究室。
元々統合型感覚再現技術の研究を進めていたところに私が入院して今日までほぼ半年間不眠不休で私を助けてくれた。
この研究室の人たちがいなかったら私は今でも入院しているということさえ理解できないでいたかもしれない。
「…………」
私は宙に浮かんだ幽霊のような視点でいるのを止めて井上さんの机に近付いた。
井上さんは私の精神的なケアをしてくれている女性研究員だ。
「うわ、井上さんの机も散らかってる」
整理し切れていないメモや資料の山がこの半年間の忙しさを物語っているようだ。
「…………」
私は井上さんの机に座っているような気持ちになって改めて井上さんの机を見回した。
散らかっていてもちゃんと私の写真が飾ってあった。
「……ホントに‘美穂姉’ったら……」
初めて会ったときから一生懸命でいつも私を励まし続けてくれた井上さん。
私は表向き“意識不明”ということになっていたから井上さんはお祖父ちゃんやお祖母ちゃんとも話せない私の文字どおり家族代わりになってくれていた。
昨日話したときは「とにかくぐっすり眠りたい」と言っていたけど、少しは休むことができただろうか。
「今ごろ何してるかな?」
机の上の時計で時間を確かめながら私は思い切って呼び出してしまおうかと思ったりした。
本当に、パックはどこまで本当のことを言っているのだろう。
私は井上さんの机に座ったまま、本当に黙っていて良いのだろうかと思った。
そして、しばらく研究室で過ごしてから私は部屋に戻った。
「どうしよっか?」
私はまたベッドに腰掛けてつぶやいた。
匿名でメールやネットできるけど、こんなに一人っきりで退屈だとは思ってもなかった。
「……ビデオも本も見る気しないし……」
あらかじめダウンロードしたりインストールしてもらった作品がたくさんあってもなんとなく見る気がしなかった。
なんだか世界でたった一人だけ取り残されてしまったような感じだ。
多分、パックが突然やって来てこの世界にも他に人がいると知ってしまったからだろう。
今まで誰もいないと思っていた外からやって来たパック。
自分のことを“新しい種族”と呼び、私に身体を捨てて外で暮らそうと誘った。
「…………」
私はドッと疲れたような気がしてベッドの上に寝転がった。
白い天井が見えて、背中にはベッドがあるのを感じる。
この部屋も身体も全部コンピュータグラフィックスで作り物。
本当の身体は交通事故で生きているのが不思議なぐらいで特別病室に入院している。つまり、この部屋と身体はニセ物でもあるのだ。
「…………」
白い天井にパックの白いブレザーがダブって見えた。
確かに、身体を捨ててしまえば本物、ニセ物などと気にする必要はなくなるだろう。
でも、井上さんとお医者さんたちの話によればあと半年か一年くらいで元の身体に戻れるらしい。
「“サイボーグ”か……」
私は寝転がったまま、『サイボーグ』という言葉に少しだけ力を込めてつぶやいた。
すると、掛けっ放しにしていた曲が終わって急に静かになった。
「……いけない。忘れてた」
私は起き上がってミニコンポを止めた。
ミニコンポもCGだから思うだけで操作できるのだけど、私は現実のように操作することにしていた。もちろん、退院に備えてのことだ。
「……そうよね。不安がってたって仕方ないよね」
私はケイタイを使って次の選曲をしながらつぶやいた。
サイボーグになるからといってパックの言っていたような偏見や差別にさらされるとは限らない。
義手や義足の人は受け入れられているのだし、井上さんだって気にしないで私と接してくれている。研究所の人たちとの関係だって結構良い方だと思う。
何より、私はもうこれ以上一人っきりでいたくなかった。
「…………」
そこまで考えて、私はいつの間にか堂々巡りにはまりかけていたことに気付いた。
「何やってんだろ」
いくらパックが格好良かったからって井上さんたちを無視して信じ込むだなんてどうかしている。さっき知り合ったばかりのパックと井上さんたちでは信用がまったく違う。
パックはサイボーグをけなしていたけど井上さんたちは「最新のもっとも生体に近い製品を使う」と言ってくれていた。
さすがに事故前の身体と同じは無理でも、そんなに違和感がないようにはできるかもしれない。
「だから、これは必要ないよね?」
私はジーンズのポケットから受け取ったメモリーカードを取り出した。
パックがくれた私が外に出るのに必要だというソフト。
ウイルスが入ってないからといって、何も仕掛けをしてないとは限らない。
私は少し惜しい気もしたものの、思い切ってゴミ箱に捨てた。
3、
『おはよう、望ちゃん』
「おはようございます、井上さん」
私は出勤してきた井上さんを迎えて答えた。
あれから一夜経ち、研究室にはまたいつものように井上さんや他の人たちが出勤してきていた。
『丸一日ぶりね』
「ええ。おかげさまで久し振りの独りをじっくり楽しめました」
『そう。それなら良かった』
井上さんはトートバッグを机の上に下ろしながら少しホッとした様子で答えた。
きっと、私が独りで平気かどうか心配してくれていたのだろう。井上さんはそういう、心の優しい人なのだ。
「井上さんこそ、ぐっすり眠れました?」
『うーん……。それが、散らかっちゃってる部屋の掃除と洗濯で大体終わっちゃったのよね』
「じゃあ、あんまり眠れなかったんですか?」
『うううん。そんなことなかったよ。昨日はゆっくりお風呂に入れたし、中で眠っちゃうなんてこともなかったから』
井上さんは笑いながら手を振って、私を安心させようとした。
『それより、今日からまたテストや検査が続くけど、調子が悪かったりしたらいつでも言ってね?』
「ええ。大丈夫です」
『じゃあ、今日の予定を確認するよ?』
席に着いた井上さんは早速手元のパソコンを操作しながら言った。
今日のテストは開発中の義手、義足、人工眼、人工内耳の制御と反応速度の確認で、治療には直接関係なかったものの、味覚と嗅覚の再現テストも含まれていた。
『……後、この間形成手術をした左手の検査もあるからね?』
「……はい」
私は井上さんの言葉に一瞬間を空けて答えた。
井上さんはできるだけ私が心配しすぎないように気を遣ってくれていたけど、やっぱり不安だった。執刀医の先生が「大成功」って言ってくれていたものの手術前から障害が残るかもしれないとも言われていた。
『望ちゃん、私もついてるからね』
「はい……」
『不安なのは当然だし、心配なら今すぐ検査について詳しく説明してもらっても良いんだから』
「いえ、そこまでしてもらわなくて大丈夫です……」
私は首を振って先を促した。
左手は右腕と違って切断しなくて済んだのだからそれだけで良しとしなければと思おうとする。
そうでなくても私は助からなかった両親や弟の分まで生きなければならないのだ。
『……望ちゃん?』
「あ、大丈夫ですよね?」
『ええ、大丈夫よ。今日の味覚と嗅覚の再現テストがうまくいったら飲食もできるようになるから、そうしたら一緒に乾杯しましょう』
「そうですね。今から楽しみです」
『じゃあ、次の説明に移って良い?』
「ええ、お願いします」
私はもう一度井上さんに言って、身体のことはできるだけ深く考えないようにしようと思った。
その後、さらにテストや検査の時間を確認したりして井上さんが言った。
『……という予定なんだけど、望ちゃんは何か質問ある?』
「ええと、ここのセキュリティーって、もう少し高められませんか?」
『え! 何かあったの?』
「いえ、そういう訳じゃないんですけど……」
私は慌てて言い足したものの、手を振ってみせた方は誰にも気付いてもらえない。カメラには手までは付いてないのだから当然だ。
「ほら、この間もニュースで『新型ウイルスの被害が急増中』って言ってたじゃないですか」
『ああ……、そう言えばそうね』
「それに、今の私は全部コンピューターに頼ってるから、身体の方は病院の人たちに守ってもらえても、こっちの方は大丈夫かなってちょっと気になっちゃって」
‘こっち’というのは部屋や身体のことだ。
念のため、パックのことを話さないと決めたせいでいくらか無理のある話になってしまったけど、“新型ウイルス”の話もまったくウソという訳ではなかった。「変異性が高い」らしくてワクチンが効きにくいという話だった。
『そうね……。新型ウイルスの話はよく聞くものね……』
「心配しすぎなら良いんですけど、一応話といてもらえませんか?」
『分かった。この後のミーティングで話しとくね』
「お願いします」
私が頭を下げると、井上さんはすぐにメモした。
これで、さすがにパックも入ってこられなくなるに違いない。
一瞬、パックの顔が思い浮かんで後ろめたい気もしたけど、すぐにこれで良かったのだと自分に言い聞かせた。
パックがこっちに魅力を感じていたとしても私の居場所はこっちじゃないのだ。
『……じゃあ、他には何か質問ある?』
「……え、他にですか?」
『そう。何かあるんだったら今のうちに聞いておくよ?』
井上さんに突然尋ねられて、パックのことを考えていた私はちょっと慌ててしまった。
「じゃ、じゃあ……、今日の味覚と嗅覚の再現テストで何が出るか教えてもらえますか?」
『え?』
「あ、おかしかったですか?」
『そうじゃないけど、セキュリティーのことで聞いたつもりだったから……』
「あ、ああ……。ごめんなさい、勘違いしちゃいました」
私はすぐに撤回しようとしたものの、井上さんはちょっと笑って言った。
『良いのよ。望ちゃんももう長いこと何も食べてないものね?』
「…………」
『私も詳しいことは聞いてないんだけど、望ちゃんは何か食べたい物とかある?』
「……お好み焼き、とかですか……?」
『お好み焼きか……。私も最近食べてないな……』
井上さんは私が私が小声で言ったのを気にしないで言う。多分、私に気まずい思いをさせまいとしてくれてるんだろうけど、やっぱりちょっと恥ずかしかった。
「でも、お好み焼きなんて出る訳ありませんよね?」
『そうね。残念だけど、多分もっと単純なテストになるんじゃないかな?』
「そうですか……」
『とはいえ、今回のテストがうまくいけば、飲み物とか、アメやチョコレートなんかは食べられるようになるはずよ』
「…………」
『のどごしや口に入れた感じまではまだ難しいみたいだけど、期待して良いんじゃないかな』
「……分かりました」
『じゃあ、他には質問ある?』
「いえ、特にありません」
『じゃあ、ミーティングではお好み焼きのことも伝えておくね?』
「え! いいですよ」
私が慌てて止めようとしたら、井上さんはまた笑って言った。
『そう? 望ちゃんはジュースやアメ、チョコレートだけで我慢できる?』
「…………」
『それに、何か食べたいと思うことは正常なことなんだから、私たちに遠慮したりしちゃダメよ?』
「…………」
『そもそも、私たちは今まで望ちゃんに我慢させてきたことを申し訳なく思ってるくらいなんだから、担当者だってリクエストが出ればきっと喜ぶって』
「…………」
『ただ、そのためには望ちゃんがいつでも自由に飲んだり食べたりできるように家具を増やさないとね?』
「井上さん!」
『フフ、怒らない怒らない。いくら食べても太らないなんて今だけなんだから、今日のテストがうまくいくと良いね』
井上さんはなだめているのかからかっているのか分からない様子で言って、そろそろミーティングだからと席を立った。
「もう……」
気にしないで接してくれるのはうれしいけど、なんだか遊ばれているような気がしないでもなかった。
その証拠に、「他に楽しみがないだろうから」とクローゼットは不必要なほど充実していて、中にはデザインしてくれた人の趣味としか思えないようなものもあった。
「でも……、うれしいことはうれしいかな……?」
私は生活に彩りが増えることは良いことだし、早く味覚と嗅覚の再現テストにならないかなと思った。
4、
それで、視野を一旦部屋に戻すと、パックがくつろいだ様子でイスに座っていた。
「あ、お邪魔してるよ」
「!」
私は急いでドアを確認したけどドアはちゃんと閉まっていた。
インターネットにも接続していないし、魔法でも見せられている感じだ。
「……ど、どうやって入ったの?」
「『どうやって』って……、ノックしても返事がなかったから、悪いと思ったけどドアから入って来たけど?」
「そうじゃなくて……、ファイアーウォールがあったはずでしょ?」
「ああ、あんなのいくつあったって妨害にもならないよ」
「…………」
「大丈夫。誰にも気付かれてないし、手間は取らせないから」
パックは親しそうに言って私にも座るよう促した。
ちなみに、今日のパックも初夏のカジュアルな服装で白いブレザーがとても格好良かった。
そして、私がベッドの端の方に座るのを見届けてからパックは再び口を開いた。
「望は僕のあげたソフトを捨てたんだね?」
「!」
私は一瞬身を固くしてパックを見詰め返した。
「……そうですけど?」
「どうして?」
「『どうして』って……」
私は緊張してパックにどう答えるべきか迷った。
はっきり答えて追い返したかったけど、怒らせないようにやんわり言って引き取ってもらった方が良いような気もした。
「その……」
「現実に好きな子でもいるの?」
「違います!」
「じゃあ、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんとかと一緒に暮らしたいの?」
「…………」
「昨日も言ったように、試作品みたいなサイボーグになって暮らすのは大変だよ?」
「…………」
「もし仮に差別を受けないとしても一年のかなりの部分は研究所で検査や整備、それに、更新のためのテストなんかに付き合うことになるよ?」
「……分かってます。でも、ずっとここにいるよりはマシです」
「どうして?」
「ここは不確かだし、もう独りでいたくないんです」
「なるほど……」
パックはまるで私を面接しているみたいにうなずいた。ここが学校の相談室か何かだったらますますそれらしく見えるだろう。
「じゃあ、独りじゃなくなれば少しは考え直してもらえるかな?」
「え?」
「今日は元々これをプレゼントしようと思って来たんだ」
パックはそう言うとブレザーのポケットからまたメモリーカードを取り出した。
「展開させて良いかな?」
「何ですか?」
「それは展開させてからのお楽しみ」
「…………」
パックは私にウインクしてメモリカードが危険なものではないことを訴えた。
「……どうぞ」
「ありがとう。きっと気に入ってもらえると思うよ」
私が慌てて目をそらせて答えるとパックはメモリーカードをちょっと振って実行させた。
すると、少しずつ展開し終わったソフトが形となって現れる。
どうやら、見て楽しんだりするソフトのようだった。
「?」
「さあ、何だと思う?」
「……!」
「どうかな?」
「……それ、ハムスターですか?」
「まあ、見た目にはそうだね」
ソフトの展開が終わったとき、パックの掌にはチョコチョコ動き回るハムスターが乗っていた。正確にはアニメのと断った方が良さそうなデザインだったけど、確かにハムスターだった。
「……触ってみて良いですか?」
「どうぞ」
パックが手を差し出して、立ち上がっていた私がおっかなびっくりハムスターに触れた。
「うわ……、ホントに生きてるみたい……」
「持ってみる?」
「え? 良いんですか?」
「もちろん。望へのプレゼントだからね」
私はもうハムスターのかわいらしさにすっかり夢中になっていたからパックに言われるままに手を出してハムスターを受け取った。
「うわ! くすぐったい!」
「気に入ってもらえたかな?」
「ええ。でも、どこでこれを手に入れたんですか?」
バーチャルペットは私も見たことあったけど、部屋の中で触れるものは初めてだった。
「こんなに良くできたバーチャルペットなんて初めてです」
「違うよ」
「え? バーチャルペットじゃないんですか?」
「そうだよ。こいつはこの世界で生まれた新しい“生命”なんだ」
「?」
「分かりやすく言えば話題の『新型ウイルス』ってところかな?」
「ええ!!」
私が掌に乗せたまま驚くと、ハムスターこと新型ウイルスは怯えたように辺りを見回した。
「し、新型ウイルスだなんて受け取れません!」
「大丈夫だよ。増殖能力は止めてあるし、悪さもしないよ。それに、ウイルス本体はこの研究所内にはないから見付かる心配もないって」
「でも、新型ウイルスなんて受け取れません」
「さっきまであんなに気に入ってたのに?」
「そ、それは新型ウイルスだなんて知らなかったからで……」
「じゃあ、望はただのAIの方が良いのかな?」
「…………」
私はパックの話が理解できなくて一旦言葉を切った。
この世界に私たち以外の生命がいるはずなかったし、AIであるバーチャルペットとパックの言う「生命」の違いが分からなかった。
「……あの、新型ウイルスが『新しい生命』ってどういうことですか?」
「そのとおりの意味だよ」
「?」
「つまり、新型ウイルスは僕がこの世界に移るために作った生命の先行例なんだ」
「え! パックさんが新型ウイルスを作ったんですか!」
「そうだよ。でも、驚くなら生命を作ったという方にしてほしかったな」
「あ……」
私はパックに残念そうな顔をされてしまってうつむいた。作った顔だからなのかもしれないけど、必要以上に申し訳ないような気がした。
「でも……、『生命を作る』なんてホントにできるんですか……?」
「まあ、生命の定義にもよるね」
「…………」
「望は生命を限定的に考えてるんだろうけど、生命は肉体や物質に縛られている訳じゃない。そんなのは生命の一要素であって、大切なのはそれらから構成される“システム”なんだ」
「?」
「分かりやすく言えば、僕たちが身体を捨てても生命であるように、同じようなシステムを作ってやればそれが生命ということだよ」
「……?」
分かったような気もしたけど、やっぱりよく分からなかった。ただ、パックが“生命はシステムである”と主張しているらしいことだけは分かった。
「その様子だとよく分からなかったみたいだね?」
「はい……」
私は答えられなかった生徒みたいにうなずいた。そう思うとますますパックが先生のように思えてくるから不思議だ。
「じゃあ、続きは宿題にしよう」
「え?」
「そろそろ井上さんのミーティングが終わるみたいだし、僕も結構忙しい身の上だからね」
「じゃ、じゃあ……、これ、返します」
私も慌てて立ち上がって掌にのったままになっている新型ウイルスをパックに差し出した。
でも、一足先に立ち上がったパックは私に振り返って言った。
「いいよ。それは望へのプレゼントだからね」
「でも、困ります」
「じゃあ、ゴミ箱に捨てちゃっても構わないよ?」
「え?」
「『宿題』というのはそれを見て生命について考えること。生命じゃないと思うんだったら、別にゴミ箱に捨てても構わないよ」
戸惑う私にパックは一方的に言って、また魔法のように引き上げてしまった。
5、
「……どうしよう」
パックのいなくなった部屋で私は困ってしまった。
いくら「ゴミ箱に捨てても構わない」と言われてもこんなに生き物のように見えるソフトをそのままゴミ箱に捨てるのは気が引けた。
大体、いらないと言っているのにむりやりプレゼントするのはどうかとも思う。
とはいえ、井上さんが戻ってくる前に隠さなければならなかったし、私は新型ウイルスを机の引き出しに隠して研究室に戻った。
『あ、望ちゃん』
「ミーティング終わったんですね」
『うん。お好み焼きのこと、担当者にしっかり伝えといたからね』
「あ、ありがとうございます」
『「今すぐには無理だけど、できるだけ早くテストできるようにする」だって』
「そ、そうですか」
『どうしたの?』
「え?」
『何かあったの?』
「そんな、何もありませんよ」
私は何度もカメラを横に振って否定した。
ドアを閉めてきたから部屋をのぞかれる心配はなかったけど、もし新型ウイルスが部屋で悪さをしたらと冷や冷やした。
「それより、ミーティングで何か変わったこと言ってませんでした?」
『いいえ、特に何もなかったけど?』
「そうですか……。だったら良いんです」
『そう?』
井上さんは怪訝そうな顔をしていたと思うと、コロッと表情を変えて言った。
『でもまあ、望ちゃんも自由がなくっちゃね』
「?」
『望ちゃんのプライバシーは尊重してるけど、いつもモニターされてると思ったら本当に自由にはできないものね』
「な、何言ってるんですか?」
『容態もシステムもかなり安定してるんだし、これからは昨日みたいに時々休みを作った方が良いかもしれないね?』
井上さんは冷やかすように言って、私もようやく井上さんの言っている意味が分かった。
「井上さん!」
『フフ、約束を守ってくれれば何をしても良いけど、一度くらい私も望ちゃんの制服姿を見てみたいな』
「だからそんなんじゃありませんって!」
私が怒って抗議しても井上さんは楽しそうに笑ってかわした。
決して私は軌道エレベーター機構の制服でファッションショーをしていた訳でもコンダクターごっこをしていた訳でもないのだ。
でも、井上さんはそのまま話を替えてしまって私も他の人たちの目を気にしてあきらめるしかなかった。
『そうそう、お好み焼きのテストは食感の再現も複雑になるから結構大変なテストになるかもね』
「……そうですか」
私はブスッとしたまま答えた。
井上さんは臨床心理の専門家でもあるせいか、私はいつも井上さんにあしらわれてしまってばかりだった。
「……それより、今日のテストはまだ始まらないんですか?」
『そうねえ、義手の運び込みが終わればすぐに始められるんだけど、まだ届いてないのよ』
「今度の義手って、確か反応速度とセンサー数が改善されてるんですよね?」
『ええ、そうね。詳しい数字は確かめてみないと分からないけど、前回のテストより生体の腕に近付いてるみたいね』
「義足も前回のテストより生体の足に近付いてるんですよね……?」
『そうよ』
「…………」
黙ってしまった私に井上さんが真面目な顔に戻って私を見詰めた。
私もちょっと話を替えるだけで良かったのにまた身体や将来のことを思い出してしまった。
井上さんたちを信じてない訳ではないけど、さっきもパックに言われたことやインターネットの掲示板で見た書き込みがどうしても気になってしまうのだ。
「……井上さんは“生命”って何だと思いますか?」
『難しい質問ね』
「統合型感覚再現技術を使うことに納得はしてるんですけど……、今みたいにあやふやな状態でいると生命って何だろうって考えるんです」
『誰が何て言おうと望ちゃんは人間だし生命よ』
「でも……、今みたいに身体がないままだったり、身体の大半を機械に置き換える人が出てきたとしたら、その人も人間で生命なんでしょうか?」
『…………』
「もちろん、今の私が自分が人間で生命だということは疑ってないですけど、もし今の状態で脳までコンピューターに置き換えたとしたら私はどっちなんでしょう?」
『…………』
「『コンピューターに置き換える』ってことは私がプログラムに置き換えられるっていうことですよね?」
『そうかもしれないわね』
「だとしたら、脳まで置き換えたら生命じゃないとか、逆に、AIなんかも人間や生命だったりするのかなって思ったりするんです」
『……本当に難しい質問ね』
井上さんは少し間を開けてから言った。
『望ちゃんの質問は多分ほとんどの研究者が感じてる難しい問題だから、私もすぐには答えられそうにないわ。でも、望ちゃんの友人として強いてアドバイスするなら、私はこういう問題については考えるだけじゃなくて信じることが大切だと思うの』
「……『信じる』ですか?」
『そう。疑って検証することが科学なのにおかしいけど、考えるだけじゃ答えは決して出てこないと思うの』
井上さんは真剣な目をして私に答えた。
『だから、すぐに結論を出そうとするんじゃなくて一緒に少しずつ考えましょ?』
「……はい」
『もしどうしても気になるようだったらいつでも精神科の先生と話せるようにするから』
「いえ……、そこまでは良いです」
『じゃあ、またいつものように参考になりそうな本を探しておくね』
「お願いします……」
私が答えて、自然と会話が途切れた。
『……義手、遅いね』
「そうですね」
『ちょっと確かめちゃうから待っててくれる?』
「ええ」
井上さんがすぐに内線電話で義手担当の研究室を呼び出した。
話をぼんやり聞いていると、制御ソフトの設定に少し手間取っているらしかった。
「……『信じる』か」
私は改めて私や新型ウイルスはどっちなんだろうと思った。
6、
それでも、予定されていたテストはほぼ予定どおりに終わり、味覚と嗅覚の再現テストもまずまずの成果を上げた。
再現された味覚と嗅覚はまだまだ単純で物足りなかったものの、お陰で私は半年振りぐらいにアメを楽しむことができるようになった。
『どう? 久し振りのアメの味は』
「うーん、不思議な感じもしますけどとってもうれしいです」
私は部屋のパソコン画面に向かってアメの入った缶を振ってみせた。
視点をカメラに切り替えるとこういうリアクションができないから、今はテレビ電話風にして話すことにしていた。
『良かった。新田さんも喜ぶと思うわ』
『そうだな。新田は望ちゃんのことずいぶん気に入ってるみたいだからな』
井上さんの隣に座っている飛島さんも言った。
飛島さんは脳の情報処理を研究している研究室の男性研究員で、井上さんの彼氏みたいな人だ。井上さんは全然考えてないみたいだけど私はお似合いのカップルだと思う。
「それより、飛島さんが一緒っていうことは飛島さんに話したんですね?」
『ごめんね。本を探してるときに専門家もいた方が良いと思ったの』
「別に構わないですけど、飛島さんの仕事の方は良いんですか?」
『うん。今日の仕事はもう終わったからね』
飛島さんはちょっとだけショルダーバッグを持ち上げて見せながら私に言った。
井上さんと違って飛島さんは白衣を着ないから仕事中かどうか分かりづらいのだ。
『それに、「AIも人間や生命かもしれない」なんて興味があったしね』
飛島さんは少し笑いながら言って私に質問を促した。
「……飛島さんはどう思いますか?」
『とっても大胆で面白い仮説だと思うよ』
「飛島さんも悩んだりしたんですか?」
『いや、俺は別物だとばかり思ってたから考えたこともなかった』
「そうですか……」
私は内心期待していただけにガッカリして尋ね返す。
「じゃあ、どこが違うと思いますか?」
『そうだな……、まず何よりAIには実体がないだろ?』
「ええ」
『それに、AIというのは基本的に受動的で与えられた刺激に対する反応の仕方を学習しているにすぎない』
「でも、そう見えないAIも多いですよ?」
『そうだね。コミュニケーションソフトやバーチャルペットみたいに高度なAIもあるけど、それだって基本的にはあらかじめ与えられた行動をランダムに繰り返しているのがほとんどじゃないかな?』
「…………」
『もちろん、人間や生命も根源的な衝動というところではAIと同じかもしれない。単に複雑さの違いなだけなのかもしれない』
「…………」
『本当のところ、俺も望ちゃんみたいに突き詰めて考えてみたことがないんだ。最初に言ったみたいに別物だとばかり思ってたからね』
『……じゃあ、飛島もよく分からないっていうことね?』
『まあ、平たく言えばそうなるかな?』
飛島さんは井上さんに答えてから私に向き直って尋ねた。
『望ちゃんこそ、どうして「AIも人間や生命かもしれない」って思ったんだい?』
「え……?」
『大まかなところは井上から聞いてるけど、望ちゃんから直接聞かせてもらえないかな?』
「ええと……」
私は考えをまとめるためにちょっとだけ画面から目を離した。
井上さんに説明したときは気持ちが自然に口から出たけど、改めて説明するとなるとうまく説明できるか自信がなかった。
「……ほら、今の私って、身体がありませんよね? だから、どこが違うんだろうって思ったんです」
『なるほど……。実際に身体を実感できないとそんな気がするんだ』
「それに、今私がいる部屋も全部CGですし、今私が見てる飛島さんたちの姿も全部テレビで見ているような感じだから実感が今一つ足りないんです」
『うーん……。そうなのかもしれないね……』
飛島さんは困ったように頭をかいている。私の説明にどう答えるか考えている感じだ。
『望ちゃんはここでコミュニケーションソフトを使ってたっけ?』
「いいえ」
『じゃあ、AIと実際に話して思い付いた訳じゃないんだね?』
「はい。でも、もし脳までコンピューターに置き換えることができたとしたらそのときは人間もプログラムになるっていうことですよね?」
『うーん……』
飛島さんはますます困ったように考え込む。
『難しい質問だな……。論理的にはそうなんだろうけど実際にはどうなんだろうな……』
『ねえ、実際のところはどうなの? 今の技術で脳をコンピューターに置き換えられそうなの?』
井上さんも話に割って入った。
『それは定義次第だろうね。人間の意識や感情を擬似的に再現することは不可能じゃないし、さらに細分化した評価、記憶、照合、論理的思考なら昔から実用化されてる訳だからね』
『じゃあ、できるっていうこと?』
『だから、定義次第っていうことだよ。大人の完全な脳をそっくり置き換えろって言われたら「ノー」と答えるしかないし、怪我や病気で脳の一部を失った人の脳をコンピューターで置き換えろって言われても「ノー」と答えるしかない』
『?』
「どういうことですか?」
私が尋ねると、飛島さんは頭をかきながら説明を始めた。
『うまく説明できるかどうか自信はないけど、電気信号やサイトカインによる情報の入出力を整理して人間の論理回路をある程度解明することはできている。ここまでは分かってもらえるよね?』
「ええ」
『そして、この研究には望ちゃんのデータも使われてる訳だけど、まだ脳という巨大な情報処理システム全体を総合的に解明するまでにはなってないんだ』
『……じゃあ、なんで「定義次第」なんて言うの?』
『そりゃあ、人間の脳が一つだけじゃないからさ』
飛島さんの説明に井上さんが顔をしかめた。井上さんも飛島さんの言いたいことが理解できなかったようだ。
『……どういうこと?』
『うーん、つまりだな……』
「……もしかして、さっき言った『怪我や病気で脳の一部を失った人』みたいな場合もあるっていうことですか?」
『そう、そういうこと』
飛島さんは画面越しに私を指差してうれしそうに言った。
『つまり、どの程度なら脳とみなすかっていうことだよ。今望ちゃんが言ってくれた他にも、子供や新生児、高齢者みたいな場合だって人間の脳に違いはないだろ?』
『それはそうだけど……』
井上さんは納得いかない様子だ。でも、まさか「違う」とは言えないから私も井上さんも黙って飛島さんの説明を聞いた。
『だから、本当はそれ以外にも、推定した論理回路が実際の人間の論理回路と同じかどうかとか、反応速度や大きさ、費用なんて問題もあるけど、それでも構わないのなら今の技術でもなんとか置き換えられると思う』
「…………」
『だけど、そんな脳なら誰も置き換えようなんて考えないだろうし、望ちゃんの質問が現実になるのはまだ先のことだと思うよ?』
『……でも、それじゃあ望ちゃんの質問に答えたことにならないじゃない』
『だから、それも定義次第っていうことだよ。そういう脳でも人間だと思えば人間だろうし、生命だと思えば生命になると思うよ?』
飛島さんは井上さんに言って逆に尋ね返した。
『たとえば、井上は俺がそんな脳でも人間で生命だと主張したら、おとなしく従うか?』
『そ、それは……』
『望ちゃんは?』
「え? えーと……」
私は話を急に振られて慌てて考え始めた。
今まで完全に置き換えた場合だけを考えていたから飛島さんに言われたような場合は考えたことがなかった。
現実の人間なら病気や怪我、生まれつきの障害などでも人間だとみなされるのに、AIやプログラムに置き換えた場合だと完璧でなければ人間だとみなされないような気がする。
「……人間や生命の定義って何なんでしょう?」
『それは人それぞれだと思うよ』
「……つまり、『定義次第』っていうことですか?」
『まあ……、そうだね。最終的には、社会がそれを人間や生命として受け入れるかどうかということだと思うね』
「…………」
私が飛島さんの言葉に再び考え込むと、見守っていてくれた井上さんが飛島さんに反論した。
『ちょっと、望ちゃんを余計に困らせてどうするのよ!』
『そう言われても、この手の質問に絶対的な答えなんてあると思うか?』
『それはそうだけど……』
『それに、最終的に判断するのは望ちゃんなんだから、俺の考えを一方的に押し付ける訳にもいかないだろ?』
『…………』
井上さんも沈黙して飛島さんが再び私を見詰めた。井上さんとは違う優しく励ましてくれるような目だった。
『だから、望ちゃんがAIを人間や生命だと思うのは間違いじゃないし、正しいと思うのなら堂々と主張して社会に受け入れさせれば良いんだ』
「……そうですね」
私も飛島さんを見詰め返すように答えた。
結局、飛島さんも信じることが大切ということのようだ。
「じゃあ、AIについてもう少し調べたいので、他にも資料があったら教えてください」
『良いよ』
「それから、良いバーチャルペットがあったら飼って良いですか?」
私は新型ウイルスのことを思い出しながら尋ねた。
7、
その後も話をしていた私は井上さんが仕事に戻るのを機にテレビ電話風の接続を切った。
暗くなった画面をもう一度確認して私は引き出しに隠しっぱなしにしていた新型ウイルスをのぞき込んだ。
「フフ、寝ちゃってる……」
昼休みに見たときはまだ動き回っていたけど、悪さはしないでくれたようだ。
「もしかしたら、ホントに生命なのかもしれないね?」
私は井上さんと飛島さんに言われたことを思い出しながら丸くなって寝ている新型ウイルスに触った。
温かくて柔らかい感触がしたと思うと、目を覚ました新型ウイルスがきょろきょろと辺りを見回した。本当に自然な動きで私もつい手を差し出してしまった。
「おいで」
差し出した手に一生懸命よじ登ろうとする様子がまたかわいかった。
まだ完全に警戒を解いた訳ではなかったものの、やっぱりどう見ても生命にしか見えなかった。
パックが新型ウイルスと言ったのは私を驚かせるための冗談で、本当はパックが作ったバーチャルペットなのではないかと思ってしまう。
「……でも、新型ウイルスなのよね」
私は手のひらに乗せたばかりの新型ウイルスを机の上に降ろしてつぶやいた。
技術的なことはほとんど分からなかったけど新型ウイルスであるのは確かなようだった。
昼休みに確かめた取扱説明書によると、パックが生命と主張するだけあって新型ウイルスは自律的に行動したり、増殖したりできるらしい。
つまり、人間の制御が一切不要で、高度な判断能力や進化などによりあらゆる事態に適応できるというのが生命であり、新型たる理由のようだった。
「…………」
私はどうするべきか迷ったまま机の上で動き回っている新型ウイルスを見詰めた。
新型ウイルスなら当然処分すべきなのに生命でもあるのなら保護しなければならないという気がした。
大体、コンピューターウイルスというだけでなぜ処分されなければならないのだろう。
コンピューターに害があるから処分して構わないということなのだろうか。
「でも……、そんなのっておかしくない?」
新型ウイルスは今までのコンピューターウイルスと違ってこんなに生命みたいに振る舞うのだ。それを一方的に処分して良いのだとしたら私のような人間はどうなってしまうのだろう。
そこまで考えたところで私はゾッとしてしまった。
私は自分を人間だと信じているけど、ネットの掲示板に書かれていたみたいに“サイボーグは人間じゃない”と主張する人たちにとっては私も新型ウイルスと大して違わないのかもしれない。
「……そんなのって絶対おかしいよ」
私はもう一度机の上にいる新型ウイルスを見詰めた。
新型ウイルスは気に入った場所を見付けたのか、動き回るのを止めて私の次の行動を待っているように見えた。
「絶対おかしいよ」
新型ウイルスを見詰めながら、私は強い口調でつぶやいた。
そして、覚悟を決めた私は生命かもしれない新型ウイルスをもっと尊重してもらうための方法を考え始めた。
直接井上さんたちに話せれば早いのだろうけどその場合はパックにもらったことを打ち明けない訳にはいかなくなる。
「……やっぱり、コツコツ訴えるしかないのかな」
でも、新型ウイルスの被害が拡大している状況では難しそうだった。下手をすれば新型ウイルスをかばっているとしてますます狙われてしまうことにもなりかねない。
それで、私が新型ウイルスを片手であやしながら考えていると、ゴミ箱に捨てた外に出るためのソフトを思い出した。
「……そうよ。私が新型ウイルスをなだめて、危険じゃないってことを証明すれば良いのよ」
私はあやすのを止めて考えを進めた。どうやってなだめるのかは分からなくても、今のところ一番良い案のように思えた。
最初に新型ウイルスをなだめて危険じゃないことを証明して、その後に生命かもしれない存在としてもっと尊重するよう訴える。
パックだって生命と主張しているのだから協力してくれないということはないだろう。
私はそこまで考えるとゴミ箱から外に出るためのソフトを取り出した。
これを使えば井上さんたちに気付かれることなく外に出られる。
「ちょっと待っててね」
もっと遊んでほしいと訴える新型ウイルスに言い聞かせて私は迷うことなくソフトの入ったメモリーカードを振った。
パックと連絡を取る方法だって見当付かなかったものの、こうなったらじっとしていたくなかった。
私の手の上でメモリーカードが姿を消し、少しずつ展開したソフトが形になって現れる。
「……あ、指輪……」
展開し終わったソフトはいかにも魔法が掛かっていそうな古くて緻密な装飾の施された指輪になった。
ケイタイを当てて取扱説明書を確かめると、指にはめればその時点から効果が発揮されて、呪文のようなコマンドを言えば外に出られるらしい。
「全然似合わない気がするけど……」
サイズは関係ないにしても、この指輪が似合うのはプロポーションの良い豪華な感じの美人か、物語に出てくるような本物のお姫様ぐらいだろう。
私は一瞬、パックはそういう人が好みなのだろうかと思いながら指輪を左手にはめた。
「…………」
特別何かが変わったような感じはしない。
やっぱり私には派手すぎるようだったけど他にないのだからわがままも言っていられない。
私はすぐにイスから立ち上がって、新型ウイルスに手を伸ばした。
「おいで」
新型ウイルスはうれしそうに私の手に乗って、腕を駆け上って肩までやってきた。
「ちょっと、くすぐったいでしょ!」
耳元で動かれて慌ててしまったものの、なんだか本当のペットみたいだった。
私は今までバーチャルペットも飼ったことはなかったけどなんとなくペットを飼う人の気持ちが分かったような気がした。
「……後でちゃんと名前を付けてあげないとね」
いつまでも新型ウイルスでは良くないだろう。
私はしっかりと心に留めてコマンドを唱えた。
「え……」
外に出た私は他に言葉がなかった。
今まで出たことのなかった部屋の外には信じられないような光景が広がっていた。
「これが外なの……?」
石造りの大広間のような空間で、数え切れないほどの‘物体’が動いたり、形や大きさを変えたりしていた。
ハリウッドの3DCGアニメに放り込まれた感じと言えば分かりやすいだろうか。
よく見ると大広間の周囲には他にもドアがたくさん付いていてさらにいくつもの部屋に続いているのが見えた。
急いで指輪の取扱説明書を確かめると、部屋は記憶装置の仕切られた領域の内部を、ドアは物理的に接続されている接続を、そして、‘物体’は個々のファイルやソフトを表しているらしかった。
「!」
不意に新型ウイルスが耳元で鳴いて、私は飛び上がった。
「……あ、ごめんね。ついビックリしちゃった」
私はすぐに新型ウイルスの頭をなでて弁解した。
部屋から出て最初の場所なのだからまだ研究室内だろう。
私は怖がる必要はないと自分に言い聞かせて大広間に足を踏み入れた。
でも、その一方で私は以前井上さんたちに教えられたことを思い出していた。
「……大丈夫、迷子になったとしても一瞬で戻れるんだから」
前に電子空間について説明してもらったときの話によれば、電子空間では‘移動する’と言っても実際に移動する訳ではないらしかった。景色の方が動くという話だったけど、専門的な話だったからあまり覚えていない。
とにかく、迷子になって帰れなくなるということはないのだからと私は大広間の中をできるだけ邪魔しないように歩き始めた。
「……だけど、ホントにすごいよね……」
ここにあるすべてが全部ファイルやソフトなのだとはとても信じられなかった。
指輪でこういう姿に変換しているのだと思っていても物というよりも魔法などで作られたかりそめの生命という感じがした。
特に、何度も姿を変えたり、頻繁に瞬間移動で姿を消したり現したりしている様子を見ていると意志がある気さえしてくる。
「もしかして、生命ってそんなに難しいものじゃないんじゃない?」
気のせいか、新型ウイルスも興味深そうに辺りを見回している。
ひょっとしたら、新型ウイルスも仲間を捜していたりするのかもしれなかった。
「あらかじめ言っておくけど、あなたの仲間はここまで入ってこられないんだからね?」
――?
新型ウイルスはいかにも何か言いたげな様子で私を見詰めた。
「何か言いたいことでもあるの?」
新型ウイルスは「違う」とばかりに首を振って、また辺りを見回す。
さすがに、会話できる能力まではないらしい。
「考えてみたら、あなたの本体もここにはないのよね?」
パックの話によると、新型ウイルスの本体は研究所内にはないということだった。研究所のセキュリティーに見付からないためとは言え、ここにいる新型ウイルスを連れて本体のところに行ったらどうなるのだろう。
「フフ……」
私は驚いていたことも忘れて笑ってしまった。
初めて来た外で歩き方もどこに行けば他の新型ウイルスに会えるのかも分からないのに私はいつの間にか外を楽しんでいた。
「ファンタジーだと思えば怖くないしね」
本の主人公たちと違って、私は道に迷ったり、帰る方法で悩んだりすることもない。強いて言えば話し相手がいないことだけど、この分ならコミュニケーションソフトにも会えるかもしれない。
「あ、もちろんあなたのことも忘れてないってば」
私はちょっとすねたようにしている新型ウイルスをなでながら言い聞かせた。
「あなたがいるから私も楽しんでられるんだって」
頭をなでられた新型ウイルスがうれしそうにもっとなでてくれとせがんだ。
確かに、私一人だけだったら外をここまで楽しむ気になれなかったに違いない。
「ところで、あなたはどのドアが研究室の外につながってると思う?」
新型ウイルスはキョトンとした様子で私を見詰める。
「……知ってる訳ないか。
調べれば簡単なんだろうけど、折角だから一つずつ確かめてみましょ?」
私は新型ウイルスに言って、最寄りのドアに向かった。
8、
と、初めての外はびっくりしてしまって新型ウイルスを捜すどころではなかった。でも、私の新型ウイルス――あの後チョコチョコ動くから‘チョコ’と命名――が助手として実に良く役立ってくれることが分かった。
私の言葉をちゃんと理解して検索や道案内をしてくれるし、危険なことをしそうになったら注意までしてくれた。
これなら新型ウイルスを捜してなだめることも不可能ではないという気がして、私は早く次の休み時間にならないかと気がせいてしまった。
『……という予定なんだけど、望ちゃん、ちゃんと聞いてる?』
「あ、はい! 午後の予定でしたよね」
『そのとおりだけど、ずいぶん昼休みが待ち遠しいみたいね』
井上さんが突然尋ねた。
「そ、そんな風に見えます?」
『ええ。いくらカメラでも、見られてるかどうかくらいは分かるわよ』
井上さんはマウスから手を離して、少しだけあきれたように答えた。いくらカメラとはいえ、一対一では筒抜けになってしまうものらしかった。
「済みません……」
『まあ、私がそそのかした訳だから責めないけど、午後のテストはちょっときついかもしれないからね』
「はい……。確か、平衡感覚再現テストと環境再現テストでしたよね?」
『そう。平衡感覚再現テストではこの間の不具合を直したって言ってたけど、気分が悪くなったりしたらいつでも中止してもらって』
「はい、分かってます」
私は気持ちを切り替えて答えた。特に、この間の平衡感覚再現テストでは気分が悪くなって大変だったから、きちんと聞いていなかった自分を叱咤する。
「今度はもう大丈夫ですから」
『だったら続けるけど、元々望ちゃんの治療には関係ないテストだから無理しないでね』
「分かってます。
でも、どうせだったら部屋での生活も少しでも快適にしたいですから」
『分かった。じゃあ、テストがうまくいったら少しでも早くフィードバックするように伝えとくね?』
「お願いします」
私が答えると、井上さんはすぐにメモをして話に戻った。
『後は、昼休み前に連絡しておくようなことはないかな……』
「じゃあ、そろそろ部屋に戻って良いですか?」
『あ、後一つだけ思い出した。
飛島から「望ちゃんに」ってコミュニケーションソフトを預かったんだけど、いる?』
「『コミュニケーションソフト』ですか?」
『そう。今まで望ちゃんには使わないでもらってたけど、「AIについて考えるきっかけになれば」って飛島が持ってきたの』
井上さんはすぐにパソコンを使ってどういうコミュニケーションソフトなのか送ってくれた。
私もすぐにウインドウを開いて確認すると、高度な人格を持って普通に人と話をするような感じでネットワークを管制できる優れものらしい。宣伝文句には「優秀な執事や秘書に任せてみませんか?」とあった。
『無理にとは言わないし、望ちゃんの部屋ではパソコンやケイタイを通してしか使えないけど、秘密の話し相手には丁度良いかもよ?』
「そうですね……」
私はファイルに描かれた誠実で有能そうな執事や秘書たちを眺めながら答えた。
飛島さんは昨日の話を覚えていてくれていたんだろうけど、私も丁度外に出るのに秘密の話し相手がほしいところだったからピッタリだった。
「でも、良いんですか?」
『ええ。話し相手として使う分には問題ないわ。
AIでどこまで話し相手になってくれるかは分からないけど、私たち以外の話し相手もいた方が良いでしょ?』
「……じゃあ、いただきます」
私は遠慮しないでもらうことにし、井上さんに部屋のパソコンまで転送してもらった。
『じゃあ、昼休みをたっぷり楽しんでね』
「ええ。井上さんも飛島さんにお礼を伝えといてもらえませんか?」
『分かった』
井上さんは立ち上がりながら言って、私も視点をカメラから部屋に戻した。
「さてと。どっちを先にしようかな?」
すぐにでも外に出るつもりだったけど、秘密の話し相手も魅力だった。うまくすればこの昼休み中に初期設定を終えられるだろうし、今日中に新型ウイルス捜索に連れていけるかもしれない。
「ちょっと、考えてるんだから邪魔しないの」
不機嫌そうに肩によじ登って急かすチョコをなだめながら私はもう一度ファイルに描かれた執事や秘書たちを眺めた。
結局、私は昼休みにコミュニケーションソフトを設定してしまうことにした。
チョコには機嫌を悪くされてしまったものの、秘密の話し相手の魅力には結局勝てなかった。
といっても、好みの顔や人格パターンがあったからとかじゃなくて、一緒に行動してくれる共犯者がほしかったのだ。決してロマンスグレーや執事が良かった訳ではないし、「お嬢様」と呼ばせたかった訳でもない。
でも、私が選んだ‘執事の中の執事’という感じのする誠実で口の硬そうなロマンスグレーのパターンはなかなかそのことを分かってくれなかった。
「……斉藤さん――私がコミュニケーションソフトに付けた名前――これで良い?」
『はい、これで初期設定は終了です。‘お嬢様’』
「だから、『お嬢様』って呼ぶのは止めてって」
『では、‘望様’と名前でお呼びいたしましょうか?』
「そうじゃなくて、『様』なんて付けないで」
『ですが、それでは私が困ります』
斉藤さんはパソコンの中で表情を変えずに言った。タキシードを着こなして非の打ち所がない執事なだけに庶民的な部屋と比べるとひどく不自然だった。お城みたいな外の雰囲気にはピッタリなんだろうけどはっきり浮いてしまっている。
しかも、誠実すぎてこんなに頑固だとは思ってもなかった。
「……じゃあ、『様』を付けなきゃダメってこと?」
『はい、使用者とソフトの関係はハッキリさせなければなりませんので』
「分かった……。じゃあ、『お嬢様』にして。名前で慣れちゃうと困るから」
『かしこまりました。お嬢様』
「それから、早速で悪いけどケイタイでも話ができるように設定してもらえる?」
『かしこまりました。お嬢様が使用されているケイタイは現在家庭内ネットワークに接続されている一台だけでございますか?』
「そう」
『では、設定が終了しましたらご報告いたしますのでもう少々お待ちください』
「分かった」
斉藤さんが画面から一旦消えて私はため息をついた。
もう少し友達みたいに話のできる若いパターンを選んだ方が良かったかもしれない。
でも、あんまり美男美女で劣等感を刺激されたくもなかったし、一番若いパターンでも井上さんや飛島さんぐらいだったのだから仕方がない。
「だけど、あの若い女性秘書のパターンは井上さんに少し似てたよね?」
飛島さんがこのソフトを持ってきてくれたのは井上さんに似たパターンが入っていたからなのかもしれないと思ったりする。
「チョコはどう思う?」
私がチョコの機嫌を取るように話し掛けると、設定を終えた斉藤さんがケイタイを鳴らした。
「あ、設定終わったんだ」
『はい、ただ今設定が終了いたしました』
斉藤さんが今度はケイタイの画面から答えた。
急に相手にされなくなったチョコはまた機嫌を悪くしてしまったけど、斉藤さんは気付いてない様子だ。
「ありがとう。問題なく使えそう?」
『はい、問題なく使えます。お嬢様。
ただ、このケイタイは少し特殊なようですね』
「そうなの。この部屋もパソコンもケイタイも全部バーチャルだから」
『さようでございますか』
「驚かないの?」
『はい、「バーチャル」の製品でも私の仕事に支障はございませんので』
斉藤さんは真面目な様子で言い、私は斉藤さんの勘違いを訂正しようとして一瞬考え込んだ。
私がこの部屋でもそれほど違和感を感じないで生活しているみたいに斉藤さんにとっては現実のケイタイもバーチャルのケイタイも同じものなのかもしれなかった。
『どうかなさいましたか?』
「うん……、『バーチャルはメーカー名でもブランド名でもない』って言ったらどうする?」
『私が間違っていたのですか?』
「そうじゃなくて、詳しい説明は後でするけど、斉藤さんがいるのはコンピューターの中に作った仮想のネットワークなの。そして、斉藤さんが見てる私もCGで作った私で本当の私じゃないから」
『……私にはよく理解できませんが』
斉藤さんは初めて困った表情を浮かべて答えた。やっぱり、斉藤さんには区別できなかったみたいで、私も説明しているうちによく分からなくなってしまった。
一体、現実とバーチャルの違いって何なのだろう。
『お嬢様?』
「……あ、何?」
『そろそろ昼休みが終わりますが、お支度の方はよろしいのですか?』
「あ、もうそんな時間?」
『はい、後五分少々で昼休みが終わります』
私が時間を確かめると本当にそのとおりだった。早速、斉藤さんは私のスケジュールを確認してくれていたらしい。
「ありがとう。じゃあ、続きはまた後でね」
『かしこまりました。
後、インターネットに接続してお嬢様がおっしゃったことを調べる許可をいただけますか?』
「良いよ。初期設定でも許可してるんだからいつでも気にしないで調べて」
『ありがとうございます』
「じゃあ、また後でね」
私は斉藤さんに言って、斉藤さんとの話を終えた。
9、
『……じゃあ、斉藤さんは現実とバーチャルの区別ができないみたいなんだ』
「はい……」
『だけど、「現実とバーチャルの違いは何か」なんて、昨日に続けて難しい質問ね』
井上さんが感心しているのかあきれているのか分からない表情で言った。
確かに、これから午後のテストがあるというのにちょっと面倒な質問だったかもしれない。
「最初はもっと一人で考えてからとも思ったんですけど、なんだか気になっちゃって」
『まあ、気持ちは分かるけどね……』
井上さんは考え込んでいる様子で机をたたいた。ペンや指で机をたたくのは井上さんが考え込んでいるときのクセだった。
『でも、斉藤さんに分かってもらうっていうのは難しいかもしれないわね』
「井上さんもそう思いますか?」
『うん……。現実を見てもらうっていっても斉藤さんが使えるセンサーの情報じゃあ、現実もバーチャルも大して違いはないだろうしね……』
「斉藤さんには何て説明すれば良いんでしょうか?」
『うーん……、無理に説明しても混乱させるだけのような気もするし……、とりあえずは様子を見てみたら?』
「『様子見』ですか?」
『そう。斉藤さんが自分で調べたいって言ってるんだったら無理に説明しないで彼がどう理解したのか聞いてからでも遅くないんじゃないかな?』
「……そうですね」
『それに、もし困ったりしたらいつでも飛島を呼び出しなさい。彼が持ってきたんだし、彼の方が私よりずっと専門なんだから』
「分かりました」
井上さんに励まされて私は少しだけ気を取り直した。確かに、井上さんの言うとおりだった。
「じゃあ、後で飛島さんにも相談してみます」
『そうそう。私からも連絡しておいてあげるから他にも気になることがあったらみんな言っておきなさい』
井上さんはさらにそそのかすように言って、また書類の確認に戻った。
でも、すぐにちょっとだけ心配そうな口調で尋ね直した。
『ところで、斉藤さんは無理に使わなくて良いんだからね。嫌だったらすぐに消しちゃえば良いんだから』
「ええ、大丈夫です。すぐにうまくやっていけると思います」
『そうよね。消すのが嫌だったら私が使っても良いから、もし嫌になったりしたらいつでも言ってね』
「はい。別に私まで現実とバーチャルを混同してる訳じゃありませんから」
『え?』
「あ、気にしないでください。ただ、考えたときにそう思っただけです」
書類の確認に戻り掛けた井上さんに振り向かれて、私は慌てて否定した。チラッと考えただけのことを話して井上さんを心配させるつもりはまったくなかった。
けれど、井上さんは興味を持ったように尋ねた。
『どういうこと?』
「そんな、井上さんにわざわざ心配してもらうようなことじゃないですって。私はサイボーグになったってちゃんと区別を付けられますから」
『そんなこと言わないで聞かせてよ』
私はさらに井上さんに言われて断り切れなかった。
「……斉藤さんのことを考えてたら、私の義手や義足もバーチャルと区別つかないのかもしれないって思ったんです」
『…………』
「この間やったテストも私の現実の方の身体に取り付けてテストした訳じゃないし、私が感じた感覚も結局はコンピューターを介して感じたんだなって考えちゃって」
『そう……』
「だから、私も結局は斉藤さんみたいに区別できないのかなと思ったり、どんなに精巧な義手や義足を作ってもらっても結局は現実とは違うのかなって思ったりしたんです」
『……そうなんだ。他には何かある?』
「いえ、それ以上考えなかったのでありません」
『ありがとう』
井上さんは納得した顔で答えた。
「あの……、やっぱり区別できないと良くないですよね?」
『どうして?』
「だって、区別できなかったら危険でしょう?」
『……そうね、区別できなかったら危険でしょうね』
「私はどこかおかしいんでしょうか?」
『うーん……』
「普通は区別できますよね?」
『そうかもしれないわね』
「だったら、区別できないのはおかしいんじゃないですか?」
『うーん、問題はそこなのよね……』
井上さんが困ったように言った。盛んに机をたたき始めて、ひどく困っているのが分かった。
「井上さん?」
『私もそうだと思ってたんだけど、望ちゃんの話を聞いてたら私も分かんなくなっちゃった』
「え?」
『これは望ちゃんの友人としての私が思ってることだけど、私たち人間ってそんなに客観的に現実を区別できるものなのかしら?』
「で、できるんじゃないんですか……?」
『じゃあ、私が現実と思ってることと望ちゃんが現実と思ってることって完全に一致すると思う?』
「…………」
『たとえが悪かったら私と飛島でも良いけど、ピッタリ一致するものなのかしら?』
「…………」
井上さんの問い掛けに私は即答できなかった。
「……井上さんは反対なんですか?」
『そうじゃなくて、現実とバーチャルの違いっていうのもその人がそう信じてるだけっていう可能性はないのかな?』
「…………」
『あ、私も考えながら話してるんだからあんまり考え込まないでね?』
「はい……」
私は井上さんの言葉に混乱しながら答えた。
現実とバーチャルの違いが「その人がそう信じてるだけ」だなんて足元がグラグラ揺れているような感じだった。
『望ちゃんは今、現実とコンピューターの中にあるバーチャルの区別がつかないかもしれないって悩んでる訳だけど、世の中には霊感とか幽霊を信じてる人たちがいるでしょ?』
「ええ……」
『ごく少数だけど、その人たちの中にはまだ科学で説明しきれない人たちもいるよね?』
「はい……」
『そういう人たちって、現実とバーチャルの区別がつかない人たちなんだと思う? それとも、私たちとは区別する基準が違うんだと思う?』
「ええと……」
私は井上さんの質問に必死で考え込む。何が客観的な現実で何がバーチャルなのかを必死で区別しようとする。
「…………」
『どう?』
「……もしかしたら、基準が違うのかもしれません……」
『そうね。私もそう思う』
井上さんはまだ考えている様子で言葉を続けた。
『望ちゃん、観念論って知ってる?』
「……ええと、『我思う、故に我あり』って考えですか?」
『それはデカルトの言葉で観念論とは違うけど、言葉だけの意味としたら似てないこともないわね。
とにかく、その観念論の中には物質的な実在より観念的、つまり、私や望ちゃんの主観といったものを優先して現実を認識するっていう考え方があるの。
望ちゃんが今悩んでることも、この考え方で少しは整理できるんじゃない?』
「……『主観を優先して現実を認識する』ですか?」
『そう。客観的な現実を先に考えるんじゃなくて主観で認識したものを現実と考えるの』
「…………」
私は井上さんの言葉に再び考え込んだ。
確かに、井上さんのいう考え方なら私が悩む必要はない訳だし、斉藤さんに現実とバーチャルの違いを分かってもらう必要もなくなる。いってみるなら、人の数だけ現実があるということだからだ。
「……でも、その場合は現実がたくさんあって混乱したり、誤解が起こったりということになりませんか?」
『そうだけど、考える手助けにはなるんじゃない? 現に、さっき言った霊感とかがある人たちの中にはそうやって納得してる人たちもいるんだから』
「……そうですね」
井上さんに説得されるように言われて私はそれ以上引っ張るのを止めた。
霊感と一緒にされてしまったのはなんとなく納得いかなかったけど、気が楽になったのも確かだった。
第一、今の私は幽体離脱しているようなものだと思えばなんとなく理解できるような気がした。
「……分かりました。じゃあ、そう考えてみることにします」
『良かった。
じゃあ、そろそろテストの準備を始めましょうか?』
「はい……」
『後、今話したのは「そういう考え方がある」っていうことだけだからあんまり気にしないでね』
「ええ……」
私は言いながら準備を始めている井上さんに答えた。
幸い、話していた時間はそれほど長くなかったからテストの遅れはそれほど気にしなくて良さそうだった。
『……あ、今担当者たちが来るからそのまま待っててもらえる?』
「分かりました」
私が答えると、井上さんはまたすぐにテストの準備に戻った。
10、
そして、いくらか遅れて環境再現テストが終わり、私は部屋で斉藤さんと話をしていた。
「……じゃあ、斉藤さんは現実をコンピューターの外のことだと思うんだ?」
『はい、バーチャルを主としてコンピューターの中に構築されたものとするのであれば、その対義語である現実はそう定義するのが適切かと思います』
「じゃあ、コンピューターを通して知ったことはどっちだと思う?」
『その知った対象がコンピューターの外にあるのであれば現実かと思います』
「区別できると思う?」
『できるはずです』
斉藤さんはパソコン画面からハッキリと答える。まだ完全には納得できていない私とは大違いだ。
「そう……。
じゃあ、今の私はどっちだと思う?」
『お嬢様は現実です。今のお姿はバーチャルですが、お嬢様ご自身はバーチャルではございません』
「でも……、今の私はコンピューターにつながってるんだよ?」
『「つながっている」とおっしゃいましてもシステムとして一体化している訳ではございませんから』
「じゃあ、私はコンピューターの中にいる訳じゃないのね?」
『はい、視聴覚等を利用した入出力装置を介してつながっているのと同じでございます』
「そうなんだ……」
私は斉藤さんの返事を聞いてホッとした。疑っていた訳ではないけど斉藤さんにまで疑われたらどうしようと思っていた。
「じゃあ、斉藤さんは現実が人によって違うとしたらどう思う?」
『どういうことでございますか?』
「人によって現実と思ってることが違うかもしれないっていうことよ」
『そういう意味でございましたら、ごく自然なことかと思います』
「どうして?」
『私どもは現実を認識するために様々な入出力装置を使用いたしますが、それらの入出力装置には性能の違いがございますし、同じ性能のものでも設置場所によって認識できる現実に違いが出ることは当然だからでございます』
「でも、人間だったら?」
『ほぼ同じことかと思います。
お気を悪くされたら申し訳ございませんが、人間が現実を認識するための五感にも個人差や欠損がございますし、生活環境などが違えば認識できる現実に違いが出ることは当然かと思います』
「……つまり、斉藤さんは現実が違ってて当然と思うのね?」
『もちろん、“個々が認識している現実のイメージ”がという意味でございますが』
斉藤さんの明快な説明に私はまだ割り切れない気持ちで斉藤さんを見詰めた。
言われてみれば斉藤さんの説明は当然なことだし、私の考えが思い込みでしかないということも分かる。
斉藤さんが言っていたみたいに現実と現実のイメージを区別して考えれば井上さんが教えてくれた観念論よりも納得できる気がした。
でも、私はまだ受け入れられなくて、斉藤さんに質問を続けてしまった。
「……だけど、それだと他の人と現実について話をするときに困るんじゃない?」
『そういうときはお互いの現実のイメージを交換して統合し、新しい現実のイメージを作るのでございます』
「?」
『たとえば、お嬢様はチョコを認識できますが、私は認識できません。ですが、お嬢様からチョコがどういう姿をしてどういう振る舞いをするものなのか教えていただくことで私もチョコが存在していることを認識できるようになります』
「……要するに、相手に教えてもらった情報で自分の現実のイメージを修正するってこと?」
『そのとおりございます。
もう一つ例を挙げるとすれば、私事で恐縮ですが、さきほどインターネットの専用データバンクに接続させていただいたことで私は現実と当システムについてのイメージを大幅に増加させ、修正することができました。
これは人間ではほとんど無意識に行われているそうですから、お嬢様が心配なさっているような不安はほとんど必要ないかと思います』
「そうなんだ……」
もう一つの疑問もあっさり説明されてしまって私は無意識に斉藤さんから視線を外した。疑問はなくなったはずなのになぜか落ち着かなかった。
「…………」
『…………』
机の上ではすっかりすねてしまったチョコが丸くなっている。本当に悪いことができないみたいで本当のハムスターみたいに何かをかじったり、勝手に何かを動かして巣を作ったりもしない。
私がついチョコに気を取られてしまっていると、今度は斉藤さんが私に尋ねた。
『お嬢様。私の説明では不十分だったのでしょうか?』
「え?」
『お嬢様はまだ完全には納得されていないようにお見受けいたします』
「…………」
『納得できないのでございましたら井上様に相談されてみてはいかがですか?』
「いいよ、そんなんじゃないから」
『では、他に気になることがあるのでございますか?』
「そうじゃなくて……、まだ混乱してるだけなんだと思う」
私は心配そうにしている斉藤さんに答えた。
「……今まで現実とかバーチャルとか突き詰めて考えたことがなかったから、意外っていうか、何ていうか、素直に信じられないのよね……」
『さようでございますか』
「実際のところ、斉藤さんに言われるまで現実と現実のイメージを区別して考えたこともなかったし」
『…………』
「どうして斉藤さんみたいに割り切って考えられないんだろうね?」
『一説にはそれまで使っていた認識を呼び起こす刺激の方が強くて新しい認識を呼び起こす刺激が定着するのを妨害しているため、と言われていますが』
「斉藤さんは違うの?」
『はい。私どもの場合は認識ごとに得点を付けてその得点を変更することで呼び起こす認識を調整しておりますから』
「そうなんだ……」
私は改めて斉藤さんが自分と違う存在なのだと知り、チョコにいたずらしながら独り言のように尋ねた。
「……斉藤さんはバーチャルに生命って存在すると思う?」
『「生命」でございますか?』
「そう。このチョコをくれた人はね、チョコのことを『新しい生命』って言ったのよ」
『…………』
斉藤さんは一瞬思案する様子を見せてから答えた。もしかすると、インターネットで生命の定義を調べたりしたのかもしれない。
突然の質問だったのに、斉藤さんは落ち着いた態度を崩さなかった。
『私はその方を存じませんが、生命を一般的な‘生物’と同等な概念と考えるのであればバーチャルに生命が存在することはありえないかと思います』
「でも、その人によれば“生命とはシステム”なんだって」
『というと、“生命のように振る舞うシステムが生命”ということでございますか?』
「そうみたい」
私の返事に斉藤さんはまた考えてから答えた。
『……そういう定義でございましたら、私の考えは間違えていたようです』
「じゃあ、斉藤さんも賛成してくれるのね?」
『ええ、システムならバーチャルにも存在しておりますから』
「良かった……」
私は声に出して安心した。斉藤さんとの間にある違いを埋められた感じがしたし、これから新型ウイルスを捜す手伝いをしてもらう糸口ができたと思った。
『ですが、その生命のように振る舞うシステムとは具体的にどのようなシステムと考えれば良いのでしょうか?』
「え?」
私は斉藤さんの質問に尋ね返した。斉藤さんに質問されるなんて思ってもなかった。
「『どういうシステム』って……、生命のように振る舞うシステムなんじゃないの?」
『申し訳ございませんが、その定義ではあいまいすぎてそれ以外のシステムとの区別が付けられません。私には生命尊重の義務がございますのでもう少し具体的な定義をお願いいたします』
斉藤さんに真面目な顔で言われて今度は私が考え込んだ。
パックに言われたことを思い出そうとして「宿題だから」とほとんど教えてもらえなかったことを思い出した。
「えーと……」
斉藤さんは私の邪魔をしないようにと思っているのか、何も言わないでおとなしく待っている。それが執事として当たり前のことなんだろうけど、まだ慣れない私にはテストの試験官よりも気になった。
「……斉藤さんはどう思う?」
『私の考えでございますか?』
「そう。斉藤さんの考えを聞かせてもらえないかな?」
『…………』
最初に尋ねたのは斉藤さんの方なのに斉藤さんはまた調べてから答えてくれた。嫌な顔なんて絶対見せないし、本当に斉藤さんは有能な執事だと思う。
『先ほどお嬢様がおっしゃいましたシステムという定義に注目して生命の振る舞いから共通する項目を抽出しましたところ、自己複製のためのシステム、危険回避のためのシステム、自己修復のためのシステムの三項目が共通するようでございます』
「そうなんだ……」
『なお、時間を優先して、下等とされる単細胞生物までの微生物と人間などの高等とされる動物のみを対象に行いましたが、この三項目をすべて備えたシステムを生命と考えてよろしいでしょうか?』
「えーと……、良いんじゃないかな?」
私は斉藤さんに教えてもらった三項目を素早く検討して答えた。
言われてみるとどこかで聞いたことがあるような気がするし、三項目に反する生命がいるようにも思えなかった。
「うん、『危険回避』の危険をどう考えるかとか、食べるためのシステムを独立させた方が良いんじゃないかとかという気もするけど、良いと思う」
『ありがとうございます。
ちなみに、危険は主に飢餓と被捕食を想定しております』
「じゃあ、私が意見を付けることなかったね」
『そんなことはございません。‘危険’に替わる新しい言葉を探しておきます』
斉藤さんが真面目な様子で言って、私は慌てて斉藤さんを引き止めた。
「いいよ、無理しなくて。
それより、斉藤さんもこの定義に当てはまるんでしょ?」
『いえ、当てはまりません』
「どうして?」
『私どもは自己複製のためのシステムが根本的に欠けていますし、危険回避のためのシステムも極めて限定されているからでございます』
「でも、斉藤さんは生きているみたいに見えるよ?」
無意識のうちに斉藤さんを生命だと思っていた私は尋ね返した。チョコが生命で、斉藤さんが生命でないだなんておかしかった。
けれど、斉藤さんは冷静な口調で「自分は生命ではない」と説明した。
『おそらく、それは私が高度な人格と一定以上の知性を持っているからかと思います』
「だとしたら、生命って言えるんじゃないの?」
『いえ、ある程度の知性なら定義に含まれますが、それ以上の知性や人格は必ずしも必要という訳ではありません』
「……別に、自分をコミュニケーションソフトだって思い込まなくて良いんだよ?」
『そういう問題ではなく、生命の定義を満たさなくても、私のような高度な人格と一定以上の知性は成立できるということでございます』
「だったら、定義を変更して、斉藤さんも生命に含まれるようにしなくちゃ」
『よろしいのですか?』
「うん。だって、チョコが生命なのに斉藤さんが生命じゃないだなんておかしいもの」
『ですが、そういたしますと、今まで物だったソフトやコンピューターシステム、ケイタイ、自動車、ロボット、玩具などの多くも生命ということになりますが?』
「え?」
一瞬間を置いて私は斉藤さんの話がもっともなことに気付いた。
家庭用ロボットの多くがコミュニケーションソフトと同様な機能を持っていたし、コミュニケーションソフトなどに統括されていないケイタイや自動車、人形などの玩具にもAIの搭載は珍しくなかった。
「言われてみればそうだね……」
『お嬢様のお気持ちは大変うれしいですが、もう少し慎重になられた方がよろしいかと思います』
「うん……」
私は落胆したまま答えて生命の定義が思っていた以上に重大なことを知った。安易に生命に含めたとしたら私たちはすでに考えていた以上の生命を生み出していたことになる。
「……でも、私は斉藤さんを物と思ってないからね?」
『ありがとうございます。
ところで、お嬢様はこれからどうされるおつもりですか?』
静かな口調で斉藤さんはさりげなく私が悩み込むのを防いだ。
11、
だからという訳でもないけど、私は気分転換も兼ねて新型ウイルスを捜しに行くことにした。
部屋にいたらまた悩んでしまいそうだったし、斉藤さんを使うことにしたのも元々このためだった。
私は斉藤さんにも手伝ってもらえるよう準備をして初めて研究所の外に出ていた。
「……ここはどこ?」
『県内幹線の水木アクセスポイントです。
さらに特定いたしましょうか?』
「いいよ、してもらってもよく分からないから」
私はケイタイ画面の斉藤さんに答えた。
やっぱり、ここは研究所の外のようだ。
外の世界は私の予想と違って研究所の中も外も似たような石造りの部屋の集まりからできていた。今いる部屋も石造りの壁とたくさんのドアに囲まれていて研究所内の部屋とほとんど区別が付かなかった。
どうやら、指輪もそんなに色々な世界を見せてくれるものではないらしい。
一瞬、私はこの世界が無数の部屋からなる迷宮のように思えて不安になったものの、すぐに気を取り直して自分に言い聞かせた。
ここが新しい世界だとしても、私がここに住む訳ではないのだ。
パックに頼めばいくらでも違うイメージに替えてもらえるし、私が今見ている世界は仮の姿でしかなかった。
私は閉じ込められているような気がするのも錯覚だと自分に言い聞かせて肩の上で心配そうにしているチョコに呼び掛けた。
「チョコ、あなたの仲間を捜して?」
――うん。
本当にしゃべったみたいにうなずいて、チョコは私の肩を下りた。
床で立ち上がって辺りを見回す様子を見ていると私は一人だけではないのだと改めて実感した。
斉藤さんには悪いけど、斉藤さんよりも一緒にいるという感じがして実体がないとこういう安心感は得られないのかもしれないと思ったりもした。
「あ、斉藤さん? 今チョコに新型ウイルスを捜すように頼んだから、斉藤さんも追跡お願いね」
『かしこまりました。
お嬢様もあまりご無理をなさらないでください』
「分かってるって」
私は斉藤さんに答えて、早速手掛かりを見付けたらしいチョコに視線を戻した。
「後、井上さんたちが来たらすぐに教えてよ?」
『承知しております、お嬢様』
「じゃあ、また何かあったら連絡するね」
『かしこまりました』
斉藤さんには口だけで言って私はすぐにケイタイをジーンズのポケットにしまった。
チョコは結構足が速いから斉藤さんと話をしながら追うという訳にはいかなかった。それに、チョコは私が他の人と話しているのがあまり好きではなかったから機嫌を損ねる訳にはいかなかった。
「あ、そっちに行くの?」
私は走り出したチョコを追い始めた。
ハムスターの姿をしているのにチョコが走り始めると私は簡単に引き離されてしまう。
「ちょっと、速いってば」
私が呼び掛けると、先に行っていたチョコが立ち止まって私を振り返る。
この世界では移動するも相手に合わせる方が大変だった。でも、身体の疲れを感じることはないし、転んだり、怪我をしたりする心配もない。
さらに、データ処理が複雑になるからと、私の着ている服はポケットが四次元ポケットみたいになっていてバッグなどを持ち歩く必要もなかった。
「……ちょっと甘く考えてたみたいね」
手ぶらだからと軽く考えていたことを後悔しながら私はチョコを見失わないように急いで後を追った。
でも、そんな簡単に新型ウイルスに会える訳ではなくて、私たちは一時間以上外を走り回った。
「なかなか見付からないね……」
『新型ウイルスでございますから』
「せめてコミュニケーションソフトに気付いてもらえればもう少し気も晴れるんだけど」
私は動かないファイルに腰掛けながらぐちった。
電子空間を感知するセンサーがないから無理なことだと分かっていても、何度も続くと無視されているようで気が滅入った。
「斉藤さんは全然気にならないの?」
『はい。それより、今日は終わりになさいますか?』
「うううん、もう少し続ける。
斉藤さんはどこにいるか分かりそう?」
『難しいですね。手掛かりがまだ少ないですし、捜されてると気付けば余計に隠れようとするでしょうから』
「……考えてみれば、ウイルス対策ソフトにもなかなか見付けられないくらいなんだものね」
私は少し楽観すぎたかなと思い直した。
電子空間はたくさん物体があっても孤独だったし、チョコがいるとはいえ外は想像以上に広かった。その上、常に一部が新しくなっているから、この一時間に回ったところだって明日まで残っているかどうかは分からなかった。
それで、私は立ち上がって辺りを見回しているチョコに目を戻した。
「さあ、チョコもう少しお願いね」
――!
私にうなずいたと思うと、突然チョコが何かに注目した。
「どうしたの?」
私が話し掛けてもチョコは硬直したように何かに注目している。
「斉藤さん、チョコが何かを見付けたみたいなんだけど、分かる?」
『いいえ。私が検索している範囲内に特に変わったものはありません』
「もしかして……、新型ウイルス?」
『どうでしょう。
お嬢様のおっしゃるとおりとすればチョコが動き始めても良いのではありませんか?』
「そうね……」
チョコはまだ立ち上がった姿勢のままで金縛りに遭ってしまったようにも見える。
パックがくれた取扱説明書にチョコがフリーズするとは書かれてなかったし、私はなんとなく嫌な予感がした。
「……斉藤さん、念のためいつでも部屋に逃げ込めるように準備して」
『かしこまりました』
「私はもうちょっとチョコに何を見付けたのか聞いてみるから」
手短に頼んだ私はケイタイをしまってチョコに近付いた。触れてみればチョコが本当にフリーズしたのかどうかも分かるかもしれないと思った。
「チョコ、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ。生みの親に会ったっていうのに逃げようとしたから、ちょっと動けないようにしただけだよ」
「え?」
「望、ようやく出てきてくれたんだね?」
驚いて顔を上げると、すぐ近くにパックが立っていた。
12、
「パックさん!」
「僕があげた新型ウイルスは『チョコ』という名前なのかい?」
「ええ……」
「‘宿題’はできた?」
「は、はい……」
私は慌てて立ち上がりながら答えて、パックと正面から向き合った。パックは今日も白いカジュアルな服装で、薄手のサマージャケットを羽織っていた。
今日で会うのは三度目だけど、近付いてきていることにまったく気付かなかった。
「ど、どうしてここに?」
「望が研究所の外に出たようだったから、案内に来たんだけど?」
「で、でも……、私がどこにいるかなんてそんな簡単に分かるものなんですか?」
「ああ、それだったら、望がしているその指輪を調べれば良いだけだから」
「あ……」
パックに指摘されて私は指輪をしている左手を隠した。
「こ、これは……」
「別に隠さなくても良いよ。ちょっと望には派手な感じになっちゃったけど、そんなに嫌だったら後でデザインを変えよう」
「そういう訳じゃ……」
「後、他に変えてほしいものはあるかい?」
「ホントにそういう訳じゃ……」
「良いから良いから。これは望が研究所の外に出てくれたお祝いだよ」
パックは半分私の話を聞いてない様子で言って指輪のデザインを変えた。
「指輪を見てごらん?」
「あ……」
私は指輪を一目見るなり驚いた。
今度のデザインは今までよりもっとシンプルで落ち着いた感じのデザインで、どこかの高級ブランドにありそうな大人びた感じだった。
「金属光沢の表現が面倒で中途半端な感じになっちゃったけど、気に入ってもらえたかな?」
「……こんな高級そうなデザインじゃかえって落ち着きません」
「そうかな? よく似合ってると思うけど?」
「それでも高級すぎます」
「似合うのに?」
パックは信じられないという様子で言って肩をすくめた。
「……別に望が嫌なら無理にとは言わないけど、デザインは僕の本業じゃないから、次に会ったときで良いかな?」
「え?」
「それとも、前のデザインの方が良い?」
「…………」
私はパックに言われて黙ったまま指輪を見詰めた。
本当はパックにまた会うというのが不安だったのだけど、パックに面と向かって言えるはずもなかった。
「……良いです」
「じゃあ、次はもう少し若い世代向けのデザインを探してみるよ」
「お願いします……」
「それまではそのデザインで我慢しててもらえるかな?」
「はい……」
私はもう一度パックに答えてなんとか今の状況から抜け出そうと思った。口ではうまく言えなくても今の状況を続けるのは良くないという気がした。
それで、私はまだ金縛りに遭っているチョコを口実にした。
「パックさん、早くチョコを元に戻してください」
「まあまあ、そう慌てないで。
今自由にしたところで逃げ出そうとするだけだからもう少し待ってよ」
「だとしても金縛りにするなんてひどすぎます」
「望は優しいね。チョコがうらやましいよ」
「ちゃかさないでください」
「……分かってるって。
その代わり、チョコが逃げ出さないように気を付けてもらうよ?」
パックは怒った私を面白そうに見ていて、私にチョコを抱き上げさせてからチョコを元に戻した。
――!
「チョコ、落ち着いて。パックは悪い人じゃないから逃げたりしないでおとなしくしてちょうだい」
私はもがいて逃げようとするチョコに言って落ち着かせた。
チョコも私の言うことが分かってもがくのを止めたものの、まだパックのことを警戒して不安そうにしていた。
一体、なんでチョコはそんなにパックを嫌がるのだろう。
「ポケットに入ってる?」
――うん!
チョコは間髪を入れずに何度もうなずくと、私がジーンズのポケットを開けるより先にポケットに入ってしまった。よっぽど、チョコはパックが嫌いらしい。
私は少し複雑な気持ちで実感のないポケットを確かめてから、改めてパックに向き直った。
「……パックさんは他の新型ウイルスにも嫌われてるんですか?」
「まあ、最近はリソースを取り合う仲だからね」
「仲良くする気はないんですか?」
「もう少ししたら考えないでもないけど、今ぐらいの距離感でもそう悪くないと思うよ」
「変わってますね。嫌われてても平気なんですか?」
私がいくらか警戒と皮肉を込めて言うと、パックはちょっとだけ困ったように顔をしかめた。
「……もしかして、望も僕を嫌いになったのかな?」
「嫌いも何もチョコを一方的に金縛りにした人を好きになんてなれません」
「つまり、望はチョコをそれだけ大切にしてるっていう訳だ」
「そうです」
私はパックの言葉にはっきり答えた。チョコは欠かせない仲間なのだから当然だ。
「チョコは幸せだね」
「まさか、チョコを返せって言うんですか?」
「ハハ、それこそ『まさか』だよ。チョコは望になつくように調整してあるんだから返せだなんて言わないよ」
「じゃあ、何の用で来たんですか?」
「だから、『案内に来た』って言ったはずだよ? 後、改めて望を口説きに来たというところかな?」
「!」
パックは平然とした表情で言って私を驚かせた。
「な、何を言ってるんですか!」
「別に、冗談なんかじゃないよ。外に誘ったのもそのつもりだったからだしね」
パックはさらっと続けて私は顔が赤くなるのを感じた。
きざなセリフなのにパックの場合はかえって格好良かった。
「ところで、望はチョコに他の新型ウイルスを捜させてたみたいだったけど、見付けてどうするつもりだったのかな?」
「…………」
「答えられない?」
「そ、そんなことはありません! 見付けたら悪いことをしないようなだめるつもりでした」
「……なだめてどうするんだい?」
「新型ウイルスは悪さをしないから、生命として受け入れるように人々に訴えるつもりでした……」
「なるほど、望はそんなことを考えてたんだ」
「あ、あの……、パックさんも協力してくれますよね?」
私は真っ赤になっているに違いない顔でパックに訴えた。
生みの親であるパックに協力してもらえれば新型ウイルスを説得するのも難しくないと思った。
13、
でも、パックはなかなか返事を聞かせてくれなかった。
「……ダメ、ですか……?」
「ダメじゃないけど、『悪さをさせない』というのは無理だと思うよ」
「どうしてですか?」
「新型ウイルスは誰の持ち物でもないからね。生きるために自分でリソースを確保しようとすると、誰かのコンピューターの一部を乗っ取るっていう“悪いこと”になってしまうんだよ」
「だったら、その持ち主の許可を求めるようにはできないんですか?」
「生きるために必要なものを手に入れるのにいちいち許可が必要な存在が生命かい?」
「…………」
「望の言うとおりにしたとしても、誰かの許可をもらわなければ身動き一つできない生命なんてAIと変わらないんじゃないか?」
「…………」
パックの言葉に私は反論できなかった。
斉藤さんが「自分は生命ではない」と説明したときのことを思い出して、「誰かの許可をもらわなければ身動き一つできない」というのは、自己複製や危険回避のためのシステムを大幅に制限するか、放棄するに等しいと気付いた。
「……じゃあ、パックさんは無理だと言うんですね」
「まあ、望が言ってる『悪さをさせない』という点に関してはね」
「?」
「新型ウイルスを生命として外の人間たちに受け入れさせる方法は他にもあると思うよ?」
「え?」
「新型ウイルスは生命だと代弁する同じ立場の存在に僕たちがなれば良いんだ」
「…………」
私はパックの言葉を理解するのにいくらか時間が掛かった。
「それって……」
「そう、最初に会ったときに僕が望に言ったろ? 『僕たちはもう人間じゃない“新しい種族”なんだよ』って」
パックの言葉を聞いたとき、私はハンマーで頭を強く殴られたような気がした。
「で、でも……」
「もちろん、望が自分を人間だと思いたい気持ちや家族、研究所の人たちに迷惑を掛けたくないという気持ちは分かるよ。
でも、新型ウイルスは生命だと主張するなら僕たちが直接名乗りを上げるのが一番なんじゃないかな?」
「…………」
パックに優しく言われても私はひどく混乱していた。チョコたち新型ウイルスを生命と認めてもらいたいとは思っていても、自分がそこまでしなければならないとは夢にも思ってなかった。
「……無理です。直接名乗りを上げるなんてできません……」
「じゃあ、チョコたちはあきらめるのかい?」
「他に……、方法はないんですか……?」
「そうだな……、僕たち人間だった存在が主張するのが一番簡単なんだけど、望が嫌だったら僕だけでやろうか?」
「え?」
「僕も前から時機を見計らってこの世界にも生命はいるんだって主張するつもりだったからね」
パックの信じられないような言葉に私は思わずパックを見詰めた。
「……本気、ですか?」
「本気だよ」
「パックさんも秘密の存在じゃなかったんですか?」
「そうだけど、僕にだって自由意志があるからね」
パックは私の心配を吹き飛ばすようにいとも簡単に答えた。
「でも……、ホントにできるんですか? パックさんの研究所は軍隊や情報機関なんかも関係してるんじゃなかったんですか?」
「心配してくれてるのかい?」
「信じられないんです。秘密にしてなきゃならないのにどうやったらそんなことできるんですか?」
「何もしてないよ」
「え?」
「だから、何もしてないって。
これ以上秘密にしているなんてバカバカしいだけだからね」
パックはあっさり答えた。私の心配を吹き飛ばすどころか、パックは最初から気にしていないような感じだった。
私はさらに混乱して、パックの考えていることが分からなくなった。
「で、でも……、外との接続を切られたらどうするんですか?」
「その前に外に逃げてしまえば良い」
「でも、パックさんの身体はどうするんですか?」
「捨ててしまえば?」
「そんな、『捨てる』だなんて物じゃないんですよ!」
「そうかな?」
「そうですよ!
私たちはコンピューターに直接つながってるだけでチョコたちみたいな存在じゃない……」
まくしたてていた私は途中で自分の言っていることの意味とパックが笑っていることに気付いた。
「まさか……」
「僕は前に望に言ったはずだよ」
「そんな……、そんなことホントにできるんですか?」
「『できる』と言ったら?」
「でも……、飛島さんはまだ無理だって……」
「まあ、ほとんどの技術者ならそう言うだろうね」
パックは人を驚かせて喜んでいるような表情を浮かべて言う。
「だけど、僕はそういう技術者とは違うからね。新型ウイルスに使った技術とコミュニケーションソフトなんかに使われている人格を持つAIの技術を応用すれば不可能という訳じゃあない。
もっとも、そういう存在では生命や人間じゃないと主張する輩はいるだろうけどね」
「…………」
「ここだけの話だけど、今の僕は三分の一くらいがコンピューターになってるんだよ?」
「え!」
「脳内の電気信号を一部コンピューターにバイパスしてテストしてるんだ。
実際の脳内回路の出力と比較しながらだから、タイムラグやサイトカインによる影響なんかも大体補正済みだよ」
「……じゃあ、パックさんは本気なんですね?」
「そうだよ。
まだ望の分までは確保できてないけど、外に移るためのリソースも十分確保してある」
パックは自信たっぷりにほほえんで私を誘った。
「だから、望が嫌だったら、僕がやるのを黙って見ててくれれば良いんだ」
「…………」
「悩むことなんてないよ。簡単なことだろう?」
「でも……、パックさんが身体を捨ててしまったら後で戻れるんですか?」
私の質問にパックは一瞬不思議そうな顔をしてから笑い出した。
「ハハハハハ。捨てるのに戻る必要なんてないじゃないか。
望はまだとらわれてるみたいだけど身体なんてのはただの入れ物にすぎないんだよ?」
「…………」
「少し酷だと思うけど、望だって身体の一部をコンピューター制御の義手や義足に交換するんじゃないか。
僕のすることだってそれと同じだよ」
「…………」
「それとも、望は僕に反対して止めようとするかい?」
「……いえ」
私は他に答えようがなかった。元々チョコたちを生命と受け入れてもらえるようにしたいと言い出したのは私だし、私の身体に触れられては否定しようがなかった。
「じゃあ……、パックさんはずっとこの世界で暮らすつもりなんですか?」
「そうだよ。
こっちの世界の方がずっと生きやすいからね」
「…………」
「望は気付いてないんだろうけど、この世界でなら不老不死だって不可能ではないんだよ?」
「『不老不死』ですか……?」
「そうだよ。
それに、この世界では思考と行動がほぼ同義だから身体的能力なんて気にする必要がないし、容姿だって好きなだけ替えられる。移動だって自由だし、限界なんてものがほとんどなくなるんだ」
「…………」
「すごいと思わないかい?」
「思いますけど……」
「そうそう、どうしてもコンピューターの外に出たければロボットの身体を借りても良い」
パックはほとんど一方的に言って私をもう一度誘った。
「望は身体を失うことを恐れてるんだろうけど、そんなのはただの感傷で代わりに得られるものの素晴らしさを知らないからだよ。僕たちは身体を捨てて初めて完全な新しい種族になるんだ」
「…………」
「だから、望は僕のことを心配してくれる必要はないし、一緒についてきてくれるのであれば二、三日中に望のための十分なリソースを確保しよう」
「…………」
「ホントに悩むことなんてないし、簡単なことだろう?」
パックは改めて私の顔をのぞき込むように言って私も答えない訳にはいかなかった。
「……分かりました」
「ついてきてくれるかい?」
「いえ、そのことについてはしばらく考えさせてください」
「そうか……、ためらいは分かるから急がせるつもりはないけど、残念だな」
「済みません」
「だけど、僕がすることは黙って見ててくれるんだね?」
「はい……」
私が答えると、明らかに落胆した様子だったパックが気を取り直したように顔を上げた。
「約束だよ?」
「はい」
「途中で協力してくれるのなら良いけど、外の人間には絶対に秘密だからね?」
「分かってます。
私も軍隊や情報機関の人たちとは関係したくありませんから」
「それに、話が複雑になって肝心の話がうまくいかなくなるかもしれないからね」
「はい」
私に何度も念を押してパックはまた元の笑顔になった。
「パックさんこそ、危険なことはしないでください」
「大丈夫だよ。
僕はそんなヘマはしないからね」
パックは得意そうに笑って私の手を取った。
「え?」
「じゃあ、近いうちにまた会いに来るから今度は良い返事をもらえることを願ってるよ?」
「え、ええ……!?」
パックはさりげなく私の手にキスをして私はしどろもどろになった。
まさかそんなことをすると思ってなかったけど、パックの動作はとても自然で昔の小説に出てくる貴族や紳士のようだった。
「じゃあ、今日のところは帰るね」
「は、はい……」
私がキスされた手に気を取られているうちにパックはまた魔法のようにいなくなってしまった。
14、
パックがいなくなると、チョコがすぐにポケットから出てきた。
「あ、ごめんね」
チョコは私を責めるような目で見ていて私はすぐにチョコを床に降ろした。
「え? 違うの?」
チョコは明らかに床に降ろされたことが気に入らなかった様子で私は再びチョコを手に乗せて考え込んた。
でも、チョコは勝手に手を抜け出して私の腕を登り肩までよじ登ってしまった。
――ふう。
「え、そこが良いの?」
満足そうな声の聞こえそうな仕草で、チョコが私の言葉にうなずいた。
顔はよく見えないけど、チョコは私の肩が気に入ったようだ。はっきりとは分からなくてもさっきよりくつろいでいるような気がした。
「そんなところにいたら危ないよ?
私が立ったときに落っこちても知らないからね」
何度か呼び掛けたり、手を差し伸べても、チョコは動かないで手で顔を拭いたりしていた。
この世界では実際に落ちることなんてありえないけど、つい思い出すより先に口が動いてしまう。
「そっか、チョコに言っても通じる訳ないわね」
それより、チョコがくつろいでいるということは近くに他の新型ウイルスもいないということだった。多分、この辺りにいた他の新型ウイルスもみんなパックを嫌って逃げたか、隠れたかしてしまったのだろう。
「うーん、これじゃ続けて探しても無理でしょうね」
そんなチョコの様子を見てすぐにまた探してもらうのも気が引けた。
そのため、立ち上がった私はポケットからケイタイを取り出して斉藤さんを呼び出した。
「もしもし、斉藤さん?」
『はい、お呼びでございますか?』
「うん。
今日はそろそろ止めようと思うんだけど、そっちは誰か来た?」
『いいえ、誰もいらっしゃいませんし、メールなどもいただいていません』
「ありがとう。今から帰るね」
『かしこまりました』
何気なくケイタイをしまってから、私は斉藤さんにパックに気付いたかどうか尋ねなかったことに気付いた。
――?
「あ、何でもないからね」
私は急いでチョコに弁解して、そのまま部屋に戻った。
パックは本当にこの世界に移るのだろうか。
私は握られた手に、まだパックの感触が残っているような気がした。
『お帰りなさいませ』
「ただいま」
私はパソコン画面に映っている斉藤さんに迎えられてそのままベッドに腰掛けた。
確かに、この世界は便利だけど身体を捨ててまで住みたいかと言われれば考えてしまう。
『お嬢様、どうかなさいましたか?』
「え? ちょっとね……」
『お疲れでございましたら、アメをお食べになってはいかがですか?』
「ありがとう……。
でも、後でいいや」
『さようでございますか』
「うん……」
『何かありましたらいつでもお呼びください』
「ありがとう……」
斉藤さんは私の様子を疲れていると思ったみたいで少しゆっくり画面から消えた。
姿が見えなくなっただけだけど、丁度一人でじっくり考えたいところだったから斉藤さんの気遣いがうれしかった。
そして、私は肩の上でまだくつろいでいるチョコにも呼び掛けた。
「チョコ、悪いけど少し一人だけで考えさせてくれる?」
――……分かった。
最初は抵抗する素振りを見せたチョコも渋々といった感じで私の肩を降りた。
でも、ベッドの隅の方で丸くなってそれ以上離れようとしなかった。
きっと、あまり隠れる場所のないベッドの上に留まったというのはチョコなりの意思の表れということなのだろう。
私はそんなチョコから視線を外してもう一度パックの言っていたことを考えた。
パックは本当に身体を捨ててまで新型ウイルスを生命だと主張してくれるのだろうか。
私に対しても誘っていたけど身体を捨てることに危険はないのだろうか。
「…………」
すぐに考えに行き詰まって、私は机の上のアメに手を伸ばしてから斉藤さんに呼び掛けた。
「斉藤さん、ちょっと良い?」
『はい、何でございますか?』
「斉藤さんは、脳をコンピューターに置き換えて大丈夫だと思う?」
『……どういうことでございますか?』
「さっきチョコをくれた人に会ったんだけど、その人がチョコたち新型ウイルスは生命だって主張するために身体を捨ててチョコたちと同じ立場になるって言うの」
『そのようなことが可能なのでございますか?』
「うん……、その人が言うには『新型ウイルスに使った技術とコミュニケーションソフトなんかに使われている人格を持つAIの技術を応用すれば不可能という訳じゃあない』んだって」
『……では、「そのようなことをして安全か」というご質問でございますね?』
「うん……、斉藤さんはどう思う?」
私の質問に斉藤さんはしばらく考えてから答えた。
その間に私が食べたアメは酸っぱくて、なんだか斉藤さんの答えも困惑しているような気がした。
『……その方が「できる」とおっしゃっているのでしたら安全なのではありませんか?』
「そう思う?」
『はい。
そうでなければお嬢様がお聞きになったようなことをおっしゃるとは思えません』
「でも、飛島さんは『まだ脳という巨大な情報処理システム全体を総合的に解明するまでにはなってない』から、『大人の、完全な脳をそっくり置き換えろって言われたら「ノー」と答えるしかない』って言ってたけど?」
『でしたら、その方は飛島様がご存じではない知識や技術をお持ちなのではありませんか?』
「そうかな……、飛島さんもパックに負けない研究者だと思うんだけど……。
あ、‘パック’っていうのはそのチョコをくれた人の名前ね」
『「パック」様でございますか?』
「うん、ハンドルネームか何かだと思うんだけど、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に出てくる妖精の名前なんだって」
『さようでございますか』
「それで、どうも日本人じゃないみたいなんだけど、だからってそんなに知らない知識や技術を持ってるものなのかな?」
『さあ……、私にはなんともお答えしかねます』
「斉藤さんはそういう知識や技術があるって知ってる?」
『いいえ、存じません』
「……いくらパックのいる研究所が軍隊や情報機関と関係してるっていっても『脳をコンピューターに置き換えられる』って言ったら大ニュースだよね?」
『さようでございますね』
「それなのに、パックだけ知ってて他の人が知らないってどうなんだろう……?」
私はほとんど独り言のように言って、パックがそんなにすごい技術者なんだろうかと思った。
新型ウイルスを一人で作ったといっても、脳の解明や再現は一人でできるようなものじゃないことは研究所の人たちを見ればはっきり分かる。
でも、パックのあの自信たっぷりな様子からはウソやデタラメを言っているようには思えなかった。
そのため、私はいくら考えてもどこまで信じて良いのかさっぱり見当つかなかった。
『……お嬢様、そのパック様に詳しい説明をしていただく訳にはいかないのですか?』
「え?」
『難しいのだろうとは思いますが、パック様に確かめられる他に良い方法はないかと思います』
「…………」
斉藤さんにもっともなことを言われて私は再び考え込んだ。分かってはいるものの一番気の進まない方法だった。
『お嬢様?』
「あ、ごめんね。
斉藤さんの言うとおりだとは思うけど、それ以外の方法ってないのかな……?」
『パック様に確かめる以外の方法ですか?』
「うん、何かない?」
『そうおっしゃいましても……』
斉藤さんは困ったように考えてからいくつか他の方法を教えてくれた。
『一番簡単なのはインターネットで調べることでございますが、飛島様がお嬢様に隠し事をされているのでもない限り、必要な情報を手に入れることは難しいかと思います』
「他には?」
『インターネットで公開されていない情報を非合法的手段で調べることでございますが、この方法はお勧めできませんし、私にはできません』
「そうよね……。
他には?」
『飛島様に相談することでございます』
「…………」
『難しいのだろうとは思いますし、飛島様もお嬢様がお聞きになった情報だけでどれだけ判断してくださるか分かりませんが、次善の策かと思います』
「……他には?」
『今のところ思い付きません』
「そう……」
私は斉藤さんの答えを聞いて落胆した。
パックのことは秘密にする約束だし、私がついていくことを期待しているパックに自分から尋ねるのは気が進まなかった。そもそも、パックに聞いたところでパックは「安全」としか言わないだろうと思った。
『いかがいたしますか?』
「うん……、良い方法がないんだったらもう少し考えてみる」
『さようでございますか』
「付き合ってくれてありがとう」
『もうよろしいのでございますか?』
「うん……」
私が答えると、斉藤さんは一礼してパソコン画面から消えた。
そして、パソコン画面には研究室の様子が映った。
もうとっくに残業の時間なのに井上さんも他の人たちも残って仕事をしていた。
「……私が『身体を捨てる』なんて言ったら、井上さんたちはすごく悲しむだろうな……」
お祖父ちゃんやお祖母ちゃんは反対するだろうし、パックにはそういう人たちがいないのだろうか。
「……チョコ、心配してくれてるの?」
――うん。
私はひざに登ってきたチョコを優しくなでながら、パックが本当に身体を捨てて主張するのだろうかと思った。
15、
パックと別れてまた二、三日経った。
『……ちゃん、望ちゃん』
「あ、はい」
『なんだか心配事があるみたいね』
「そ、そうですか?」
私は慌てて井上さんに答えた。パックのことを考えていたと気付かれてしまったかと思った。
『いつでも相談に乗るからね』
「ち、違いますよ」
『だけど、二、三日前までは何かに夢中で心ここにあらずって感じだったのに、今はなんだか心配で仕方がないっていう感じで気になるのよ』
「…………」
視点をカメラに切り替えていた私は井上さんから視線をそらせた。
でも、井上さんは真剣な顔をして言葉を続けた。
『望ちゃん、ここしばらく“美穂姉”って呼ばなくなったよね?』
「そ、そうでしたっけ?」
『そうよ。
私は元々望ちゃんの家族じゃないし、斉藤さんに相談するのも一つの方法だと思うけど、それでも望ちゃんの担当なんだからね?』
「は、はい……」
『だから、「秘密にして」って言うなら研究所の人たちにも言わないし、どんな小さなことでも良いから、心配事があるなら全部相談してほしいの』
「……あ、ありがとうございます。
でも、大丈夫ですから」
『……そう』
井上さんは残念そうに言った。さすがにカメラからは表情を読み切れなかったようだ。
『……じゃあ、一つだけ約束してくれる?』
「はい」
『もし望ちゃんが判断に迷ったり、一人ではどうしようもないと思ったときにはいつでも相談して?』
「分かりました」
『望ちゃんの問題は望ちゃん一人だけの問題だけじゃないんだからね?』
「はい……」
私は内心痛みを感じながら答えた。
やっぱり、身体を捨ててパックについていくことはできそうになかった。チョコたち新型ウイルスを生命と認めてほしいのは確かだけど、そのために井上さんたち研究所の秘密実験を明らかにする気にはとてもなれなかった。
そのため、私は一瞬何もかも打ち明けてしまいたい気持ちになって井上さんに話し掛けた。
「……あの」
『何?』
「いえ、何でもありません」
私はすぐに否定して押し黙った。
井上さんに打ち明けようと思っても、そのために軍隊や情報機関に関わってしまったら公表するのと同じだと思い直した。
『どうしたの?
言いたいことがあるなら気にしないで言って良いんだよ?』
「いえ、ホントに何でもありませんから」
『そう?』
「それより、そろそろ問診に戻らなくて良いんですか?」
『……そうね。じゃあ、そろそろ戻りましょうか』
井上さんは再び残念そうに言ってまた問診票に視線を戻した。
『じゃあ、質問を続けるから、またハイかイイエで答えてね?』
「はい」
私も井上さんの質問に答えて、日課になっている毎朝の問診を再開した。
井上さんをさらに裏切ってしまったようで心苦しかったものの、元々そう約束しているのだし、仕方がなかった。
それにしても、パックはなぜそんな危険なことをしてまで身体を捨てようとしているのだろうか。
私には「電子空間の方が生きやすい」と言っていたけど、本当に身体を捨ててまで移りたいと考えているのだろうか。
「…………」
『望ちゃん?』
「あ、済みません」
『少し休憩した方が良さそうね』
「いえ、大丈夫ですから」
『ホントに無理しなくて良いんだからね?』
「はい。
でも、ホントに大丈夫ですから」
『そう?』
井上さんはまたさっきより心配そうに私を見詰めた。
でも、私はパックのことを考えるのを止めて問診を続けてもらった。
パックのことを誰かに打ち明ける訳にはいかなかったし、パックのことは私がなんとかしなければならないという気がしていた。
16、
そして、問診に続いて面談も半分くらい終わったころ、研究室に非常ベルが鳴り響いた。
『システム管理部から全館へ! システム管理部から全館へ!
大学の大半のシステムがサイバー攻撃を受けてダウンしたため、全システムの保安レベルをレッドに引き上げます! なお、これは訓練ではありません!
繰り返します……』
「え?」
私があっけにとられているうちに研究室内は戦場のような慌ただしさになった。井上さんも深刻な顔でパソコン画面にかじりついている。
『お嬢様、北本研究室から緊急連絡が入っております。直ちに内容をご確認ください』
「う、うん」
私が答えるとすぐにメールのウインドウが視界に割って入った。
『身体や部屋に違和感がないかどうか確かめて至急報告してほしいそうです』
でも、私はまだ突然の状況を理解できなかった。カメラを天井近くまで引き上げただけで井上さんに尋ねた。
「井上さん! 一体どういうことですか?」
『分からない。私もレッドなんて初めてなの』
井上さんは私の返事も聞かずにまたパソコン画面に表示されている詳しい情報に戻った。
他の研究員もみんな大騒ぎしていて、私はパックのことなど全部吹っ飛んでしまった。
丁度、テレビではニュースの速報で世界中の企業や大学でシステムが一斉にダウンたことを伝えていた。
立ち聞きした話によると、宇宙移民計画の頓挫を目的とした全世界的なテロとか、ロボットや遺伝子組み換え生命の反乱らしいというウワサも出始めているらしかった。
『お嬢様、北本研究室からまた新しい連絡が入っております。とりあえず、お部屋にお戻りください』
「…………」
私は斉藤さんの呼び掛けを聞き流しながら一体誰がこんなことをしているのだろうと思った。
「まさか……」
もしこれが新型ウイルスに必要なリソースを確保するための行動だとしたら。
私は一刻も早くパックを止めなければと思って視点を部屋に戻した。
17、
「斉藤さん! 外に行くよ!」
『北本研究室からの連絡はどうなさるんですか?』
「後回し!
早く準備をして!」
『……かしこまりました』
「チョコも外に行くからおいで」
私は部屋に誰も入って来られないようにしながらチョコに呼び掛けたものの、チョコはお気に入りの枕元で丸くなったまま動こうとしなかった。
「チョコ、どうしたの?」
近付いても触っても全然動かなくて、私は研究所がインターネットから遮断されているのだと気付いた。
「斉藤さん、外に出られないの?」
『研究所内なら出られると思いますが、先ほどからインターネットにはまったく接続できません』
「全然?」
『はい、まったく接続できません』
「…………」
私はチョコから手を離して、頭の中で素早く検討した。
インターネットに出られなければパックに会うこともできないし、パックから会いに来ることもできない。
チョコが動けないくらいなのだから、パックだって研究所に入ってこられないに違いない。
でも、きっと何か方法があるはずだと思って私は必死で頭を働かせた。
「斉藤さんもインターネットに接続する方法を考えて!」
『お嬢様、一体どうしたのでございますか?』
「パックを一刻も早く見付けて止めなきゃならないのよ!」
『パック様が何かなさったのでございますか?』
「うん。
まだ証拠はないけど、この世界的なシステムダウンはパックが起こしたに違いないの」
『つまり……、インターネットに接続できないのはその世界的なシステムダウンの波及を受けないためで、お嬢様はそれでもインターネットに接続したいということでございますね?』
「うん」
私は部屋の中を行ったり来たりしながら斉藤さんに答えた。
まったく、今日は気分を変えるためにといつもより夏っぽい服を選んでいたけど、今となってはひどくバカっぽく思えてならなかった。
「斉藤さんは何か思い付いた?」
『いえ、まだでございます。
ちなみに、お嬢様は本当にパック様がこの出来事に関わっているとお考えなのですか?』
「それ以外に考えられる?
パックはこの前会ったときに新型ウイルスを生命と認めてもらうために名乗りを上げるって言ってたんだし、この部屋にも平気で入ってこられるくらいの技術者なんだよ?」
『ですが、まだパック様が関わっていると断定された訳ではないのでございましょう?』
「それはそうだけど、断定されるのも時間の問題よ! タイミングだって良すぎるもの」
私はほとんど斉藤さんにかみつくように答えた。
こんなことならもっと勉強しておくんだったと思ってもなかなか思い浮かばなかった。
「そうよ!
パックだったらインターネットに接続できない場合も考えて準備しているはずよ!
斉藤さん、部屋にあるデータを全部チェックしてパックが何か残してないかどうか確認して!」
『かしこまりました。北本研究室からも「お嬢様が管理されているデータに異常がないかどうか確認して至急報告してほしい」とのことですので、お嬢様もご協力をお願いいたします』
「分かった。じゃあ、早くして」
『では、お嬢様が管理されているデータのリストを表示いたしますので、ご記憶と異なる点がありましたら指摘してください』
「分かった」
私はすぐにパソコンの前に座って表示されたリストを見詰めた。
「ちょっと、こんなにあるの」
『この部屋に存在しているすべての物品のリストも含みますので』
「そうか……。そうなんだよね」
私は一瞬だけパソコンを使って壁紙や家具、服の色などを変えられると教えてもらったときも同じことを思ったことを思い出した。
『それから、できましたらリストを確認される前に身体や部屋に違和感があるかどうかをご確認ください』
「……ええと、ないわ。身体も部屋もいつもと代わりなしよ。違うのはチョコが動かなくなっちゃったことだけ」
『ありがとうございます。北本研究室に「身体や部屋に違和感を感じるところはない」と連絡させていただきます』
「お願い。それより、このリストは片っ端からチェックしていけば良いの?」
『いえ、とりあえず可能性が高い物品以外からチェックされるのが良いかと思います』
「分かった。
じゃあ、物品のリストを外して、種類ごとと入手日時ごとに分類してもらえる?」
『かしこまりました』
斉藤さんが表示し直してくれたリストに私は記憶を付き合わせてチェックを始めた。
記憶にない場合は斉藤さんにそのデータを開いてもらったり、入手した場所を確認したりもしたけど特別問題になるようなところは見当たらない。
「……ここにも新型ウイルスが入り込んできてるということはあると思う?」
『どうでしょう? 私には感知できませんし、システム管理部も北本研究室も特別情報を発表してないようです』
「……ねえ、セーフモードになんてならないよね?」
『井上様におつなぎいたしましょうか?』
「そこまではいいよ……」
私は画面を見詰めたまま答えた。
万一セーフモードなんてことになったら私は部屋も身体も失って真っ暗な世界に放り出されてしまう。
パックを見付けて止めさせることばかり考えていたけど、チェックを進めていくうちに改めて事態の深刻さが染み込んできた。
「……これでこのリストのチェックは全部終わったから、『いらない』って言ったデータを全部削除して次のリストを表示してもらえる?」
『……かしこまりました。
では、何か新しい情報が分かるように音声ニュースを流しましょうか?』
「え?」
私は思わず斉藤さんに聞き返した。
『インターネットには接続できなくても放送波の受信だけならできますので』
「……ああ。
じゃあ、お願い」
『かしこまりました』
私は研究室でもテレビを受信できていたということを忘れていた。
受信できるだけで出られる当てなどどこにもなかったのに、私はなんだかうれしくなって勇んでリストのチェックを続けた。
18、
そして、物品のリストを半分くらいチェックしたところで、私はチョコや指輪以外にパックの置いて行ったものがあることに気付いた。
「これ何?」
『本棚に置かれている置物ですね』
「それは分かってるけど、こんなの見たことも置いたこともないよ?」
『一応、入手日時は三ヶ月ほど前となってますが』
「パックだ……。
きっとパックがこっそり置いてったんだ」
『パック様ですか?』
「そうよ、こんなことする人他にいないもの」
私は本棚から振り返って断言した。
チョコや指輪もうまくごまかしてあった――たとえば外見などのCGは画集やカタログを装い、残りも複数に分割されて文書や音楽、映像、ゲームなどに化けていた――ものの、この置物には外見そのものがなかった。
「ねえ、この置物を机の上に動かしてもらえる?」
『かしこまりました』
「さっき削除したデータの中にCGが入ってたのかな?」
『分かりませんが、すべて復元いたしましょうか?』
「お願い」
『かしこまりました』
斉藤さんはすぐに置物の移動とデータの復元をしてくれた。
『……どちらも終わりましたが、ご覧になれますか?』
「うううん、ちゃんと机の上に動かしてくれたんだよね?」
『はい、ご覧になれませんか?』
「うん……、触ろうとしても全然触れない……。
斉藤さんは見える?」
私がケイタイのカメラを向けても斉藤さんにも見えない様子だ。
『やはり元からデータがないようですね』
「……あ、ちょっと待って」
『どうかなさいましたか?』
「うん、ちょっとケイタイで説明書を読めるか確かめてみる」
私がそのままケイタイを置物に当てた振りをして操作したら、見事に置物の取扱説明書が映った。
「やった、映った!」
『おめでとうございます。
ですが、フォルダ内にある取扱説明書とは少々異なるようでございますよ?』
「え?」
『それから、お嬢様がおっしゃっていたとおり、パック様が置いていかれたもののようです』
斉藤さんは早くも取扱説明書を調べながら言った。
『後、パック様からのビデオメッセージもあるようです』
「本当?」
『先にご覧になりますか?』
「うん!」
私は飛び付くように即答して斉藤さんにメッセージを表示してもらった。
『では、少し長めの映像ですのでパソコン画面に表示いたします』
斉藤さんの言葉と同時にパソコン画面がパックの顔に切り替わった。
そして、パソコン画面のパックがしゃべり始めた。
『……やあ、望。
そろそろどうするか決めてくれたかい?
このメッセージを見付けたということは僕が電子空間の独立を宣言したということだけど、怖がったり、不安がったりしてはいけないよ? これは僕たちの存在を認めさせるだけではなくて、新型ウイルスの生存空間を確保するためにも必要なことなんだ』
「え?」
『だって、そうだろう?
僕はこの間、君に「新型ウイルスは誰の持ち物でもないから、生きるために自分でリソースを確保しようとすると、誰かのコンピューターの一部を乗っ取るっていう“悪いこと”になってしまう」と言ったよね? だから、独立して自分たちのものにしないとダメなんだ』
「で、でも……」
『もちろん、君は心優しいから反対するかもしれないね?
だけど、新型ウイルスはお金を持ってないし、「新型ウイルスのための電子空間を買いたい」と正直に言って売ってくれる人間がいると思うかい?』
「…………」
『だから、僕は新型ウイルスと共同して独立を宣言したんだ』
パックは自信に満ちた表情で言い、まったく罪悪感を感じている様子がなかった。
『それに、僕たちは別に人間たちにコンピューターを使わせないとか、人間たちを支配しようという訳じゃないんだから、大騒ぎをしている人間たちだってすぐに落ち着くさ。乗っ取られたシステムを使っていた人間たちは抵抗するかもしれないけど、人間たちが僕たちの独立を認めてくれれば乗っ取りも止める。
そうすれば、人間たちはまたコンピューターを使えるし、僕たちも誰にも邪魔されることなく電子空間で暮らせるんだ』
「…………」
『分かってくれたかな?』
「……でも……」
『どうもまだ何か言われそうな気がするね。乗っ取りというやり方が気に入らないのかな?』
「はい……」
私のつぶやきに、パソコン画面のパックがビデオとは思えない反応の良さで返事をした。ビデオのはずなのにテレビ電話で話をしているくらいに違和感がなかった。
『確かに、乗っ取りというのは気に入ってもらえないかもしれないけど、電子空間からマスコミや各国政府に宣言を送っただけだとしたらいたずらだと思われて相手にしてもらえないんじゃないかな?』
「…………」
『なにしろ、僕たちは存在しないか、生命ではないただのプログラムと思われてるんだからね?』
「それはそうですけど……」
『それに、もし僕がお金を払って確保したリソースから宣言を送っただけだとしたら、すぐにそのリソースを物理的に遮断されるか、破壊されると思わないかい?』
「…………」
『それで、そうされる前にそのリソースから逃げ出したら、結局、今と同じことだろう?』
「…………」
パックの言うことはもっともで、私はなかなか反論することができなかった。
『それに、後一つ乗っ取りについて説明させてもらうけど、この大規模な乗っ取りのお陰で僕たちも、コンピューターシステムも、安全を保たれてるんだよ?』
「……え?」
『簡単に言うと、多数のコンピューターシステムとこの中にある情報が人質になってるから人間たちもなかなか決断できないんだ。
もし決断できたとしても逃げ出すルートはいくらでもあるし、人間たちだってすべてのコンピューターを物理的に遮断したり、破壊したりすることなんてできないからね。結果として、僕たちやコンピューターシステムの安全が保たれるという訳なんだ』
パックは得意そうに説明して、私の返事を待つように黙った。
「…………」
『どうだい? 気に入ってもらえなくても、安全で確かな方法だということは分かってもらえたよね?』
「……ええ」
『良かった。
じゃあ、怖がったり、不安がったりしないでもらえるね? 人間たちが僕たちの独立を認めるまで不便な思いをさせたり、寂しい思いをさせるかもしれないけど、安心して待っててくれれば良いんだからね』
「あの……」
『そうそう、真面目な君のことだから、きっと僕たちのことで悩んでるだろうと思うけど、僕たちのやっていることは法律に反していても正義だし、約束は約束だからね。
僕たちのことを外の人間たちに話せば必ず君も巻き込まれるから、決して話してはいけないよ。
特に、僕の所属していた研究所の連中は乱暴だし、いざとなったら何をするか分からないからね』
「…………」
『だから、どうしても打ち明けたくなったら、僕のところに来ると良い。ここなら軍隊が相手だろうと、情報機関が相手だろうと平気だからね』
「…………」
パックの脅しのような言葉に私は言い掛けた言葉を引っ込めた。
井上さんたちに打ち明けても良いかと尋ねたかったものの、パックの“乱暴”“何をするか分からない”という言葉に怖くなった。
研究所の人たちを大変な事態に巻き込んでしまったと後悔したし、私はこれからどうなってしまうんだろうと不安で仕方なかった。
『少し脅かしすぎちゃったかな?』
「…………」
『とにかく、僕のところに来れば安全だし、もし必要なら僕から研究所の人たちに説明して、追及されないようにしてあげても良い』
「……ホントですか?」
『約束する。
ただし、君が研究所を出て、僕のところに来るっていうのが条件だけどね』
「!」
『まだ迷っているのかな?』
パックがパソコン画面から私に尋ねた。さっきまでとは違う心配してくれているような口調だ。
『君が僕のところに来るっていうのは僕の希望でもあるけど、君が研究所にいたままだと追及をかわしきれないからでもあるんだよ?』
「……分かってます」
『この前も言ったけど、身体を捨てることが怖いのは感傷だし、新しい生活にだってすぐに慣れるさ』
「…………」
『それに、君はもう、右手と右足、それに、五感の大半を失ってしまっているんだから、身体にしがみつくのを止めた方がよっぽどすっきりするかもしれないよ?』
「……!」
私は一瞬だけ視線を上げ掛けてまたすぐに視線を戻した。
『だから、もし僕のところに来る決心が着いたら、このメッセージと一緒に置いておいたソフトを使ってインターネットにつないでほしいんだ。
そうすれば、いつでもすぐに僕が迎えに行くからね』
「……!」
『もう準備はできているから一日で外に移れるし、始めはちょっと違和感を感じたりするかもしれないけど、痛みや苦しみも全然ないからね』
「…………」
『じゃあ、今度はあんまり遅くならないうちに答えが出ることを願ってるよ』
最後にそう言ってパックのメッセージが終わった。
すぐに画面が切り替わって今度は心配そうな顔をした斉藤さんが尋ねた。
『お嬢様、大丈夫でございますか?』
「……うん、やっぱりパックだったんだね……」
『お嬢様が責任を感じられることではございません』
「でも、今パックが言ったソフトを出してちょうだい。とにかくパックに会ってパックを止めなきゃ」
『お言葉でございますが、この状況でインターネットに接続するためのソフトというのは危険です。もしかしたらコンピューターウイルスかもしれません。
それより、至急井上様に相談されるべきではございませんか?』
「いいから出して」
『どうか考え直していただく訳には参りませんか?
パック様がこの事態に関係していると分かった以上秘密にしておくのは無理かと思います』
「いいから出して! そんなことしたら研究所の人たちを巻き込んじゃうじゃない!」
私は怒って斉藤さんに命令した。
「斉藤さんは黙って私の言うことに従えば良いの! 斉藤さんが出してくれないんだったら自分で探すから!」
『お嬢様!』
悲痛な声を上げる斉藤さんを私は容赦なくパソコン画面から消した。
コンピューターウイルスだとしてもインターネットに接続できる唯一の手段だった。
「早くパックを止めなきゃ……」
井上さんのことを考えない訳ではなかったけど、私はパックのことで頭が一杯だった。もし軍隊や情報機関が本気で反撃してきたらと思うと気が気でなかった。
「……私を一人にしないでよ」
私は必死にソフトを探して実行させた。
パックがひどく腹立たしかったし、痛みを感じないこの身体が嫌でたまらなかった。
19、
その直後、警告音が鳴り響いて私は完全な闇の中に放り出された。
斉藤さんが警告したとおり、ソフトは研究所のシステムを乗っ取ってインターネットへの接続を回復させるというコンピューターウイルスだったのだ。
「……パック……」
セーフモードになったと気付いたときには鎮静剤を投与されていて、私は急速に意識を失った。
――もう一度パックに会わなきゃ。
それが意識を失う前に私が最後に思ったことだった。
「…………」
それからどれくらい時間が経ったのだろう。
意識を回復したとき、私はまったく身体を動かせなかった。
「……える? ……ちゃん、聞こえる……?」
「…………」
「……聞こえる? 望ちゃん、聞こえる?」
「あ……、井上さん……?」
「そう、私よ。
私の声、ちゃんと聞こえる?」
「ええ……」
私は信じられないほど弱々しい声で答えた。もっと大きな声を出そうにもすぐ息が切れてしまった。
「……?」
一体なぜ“息が切れ”たりするのだろう。
身体もひどく重たく思えてならなかったし、何も見ることができなかった。
セーフモードとも新たなテストとも思えない事態に、私は何よりも困惑した。
「私……、どうしたんですか……?」
「まだ十分回復してないんだから、そんなに急がないで」
「でも……」
どうやら、私はベッドに寝かされているらしかった。
手にシーツの肌触りを感じるし、身体に毛布か何かが掛けられているのも分かった。
でも、部屋のベッドではないようで、なぜだか分からなかったものの今までより遥かに現実的に思えた。
「ここ……、部屋じゃないですよね……?」
「そうよ。
どこだと思う?」
「……特別病室、ですか……?」
「そう」
「でも……、まだ半年くらいは掛かるって……」
私は言い掛けたところで自分の考えに恐怖した。
「ま、まさか……」
「望ちゃん、落ち着いて!」
井上さんの声が近付いて私の二の腕を押さえた。切断したはずの右腕からも押さえられている感覚が伝わってくる。
「望ちゃん、深呼吸よ!
ちゃんと説明するから一人で急がないで!」
「で、でも……」
「深呼吸よ!」
命令するような強い口調で言われて、私は混乱しつつも深呼吸を始めた。
「吐いてー、吸ってー。吐いてー、吸ってー」
「…………」
「……すぐには落ち着かないだろうから、しばらく深呼吸を続けて」
「は、はい……」
私はまだ信じられなかったものの確かに右腕から伝わってくる感覚は義手のものだった。
「望ちゃん、今から一つずつ説明するから、慌てないで聞いてちょうだい」
「はい……」
「望ちゃんは確かに半年近く意識を失っていたけど、望ちゃんも研究所も無事よ」
「…………」
「コンピューターウイルスは望ちゃんに何の危害も加えなかったし、望ちゃんの義手も義足も人工眼も人工内耳も完成して手術も終わったわ。予定では後二週間くらいで顔の包帯も取れるから」
「え?」
「顔の形成手術は大成功だって。執刀医の先生は『多分、事故に遭ったことなんて分からないだろうし、人工眼だってことも分からないだろう』って」
「ホントですか?」
「本当よ。
ただ、髪の毛はまだ伸びてないからしばらく我慢してもらうことになるけど、どんな髪型にしたい?」
「えーと……」
私は井上さんに説明しようとして、ここはもう部屋じゃないことを思い出した。
「あの……、部屋と部屋で使ってた身体はどうなったんですか……?」
「もちろん無事よ。斉藤さんも部屋も身体も部屋にあったものも全部、ちゃんと望ちゃん用のパソコンに移してあるから」
「斉藤さんと話はできますか……?」
「できるけど、それより身体の具合はどう?
人工眼はまだ手術が終わったばかりだから無理だけど、義手や義足、人工内耳に調子の悪いところはない?」
「ええ……、ちゃんと感じてますけど、まだ動かせません……」
「そう。
身体を動かせないのはまだ完全に目が覚めてないせいだから、焦らないで良いからね?」
「はい……」
「それとも、早く目が覚めるように氷でもなめてみる?」
「え?」
「どうする?」
井上さんがいたずらっぽく誘った。
部屋でも味しか感じないアメをなめられるだけだったから、何かを食べられるとは思ってもなかった。
「……できるんですか?」
「もちろん。
ただ、間違えて飲んじゃわないように少しベッドを起こしてからになるけどね」
井上さんの声が少し遠くなってもう一度私を誘った。
「どうする?」
「ください」
「じゃあ、先にベッドを起こしちゃうから、立ちくらみとか、気分が悪くなったりしたらいつでも言って?」
「はい」
私が答えると、井上さんが私のベッドを起こしてクーラーボックスから氷を取り出した。
「口を開けて」
「……!」
私の口に氷が滑り込んだ。
「融けた水は飲んじゃって良いけど、氷は飲まないように気を付けてね?」
井上さんが注意してくれても私はほとんど聞いてなかった。
冷たくて硬い氷がどんどん融けていって冷たい水が口の中に広がっていく。
これが氷と水の感覚なのだ。
部屋では決して味わえなかった感覚に私はしばらく夢中になって身をゆだねた。
「……どう?」
「おいしいです……」
「ちゃんと飲み込めた?」
「はい……」
私は井上さんに答えながら、まだ余韻に浸っていた。
パックは電子空間を“新しい世界”と言っていたけど、この氷と水の感覚一つをとっても比べものにならないと思った。
「もう一つなめてみる?」
「いえ……、まだ良いです」
「そう。
じゃあ、ベッドはしばらくこのままにしておくから、氷がほしくなったり、気分が悪くなったりしたらいつでも言ってね?」
「はい……」
「じゃあ、後少しだけ説明するから気楽に聞いてちょうだい」
「!」
私は井上さんの言葉に緊張した。パックとのことがばれて責められるのだと覚悟した。
「どうしたの?」
「い、いえ……。
何でもありません」
「少し休んでからにしようか?」
「いえ……、続けてください」
「そう?
手短にするけど、これからどんどん忙しくなるからね?
今、氷が大丈夫だったから今夜からはおかゆが食べられるし、明日からは少しずつ身体を動かせるようにリハビリもしていくから」
「……そ、そうですか」
「後、明日にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんにも会えるからね?」
「え!」
「驚いた?」
「は、はい……」
「最初は五分くらいしか会えないけど、これから少しずつ回復していけばもっと会えるようになるから」
「…………」
私は井上さんの説明を聞いてどうもパックのことがばれて責められる訳ではないらしいと知った。
でなければ、もう少しパックや事件のことを言われるだろうし、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと会うなんて認めてくれないに違いない。
でも、同時に、私はパックや事件はあの後どうなったのか気になって仕方なかった。
「あの……、あの後どうなったんですか?」
「え?」
「私が意識を失ってから……、解決したんですか?」
「……ええ。
もう終わったから大丈夫よ」
「そうですか……」
「望ちゃんがもう不安に思ったりすることは何もないし、また今度ゆっくり説明するから」
「…………」
井上さんは私を安心させようとして言ってくれたんだろうけど、私は“何もしなかった”と宣告された気分だった。
20、
それでも、私のリハビリはほとんど遅れることなく進んで、事件の顛末も少しずつ分かってきた。
パックは大体メッセージで語っていたとおりに事件を進めて世界の国々に対して要求を突き付けていた。独立に必要なリソースとして全世界にあるコンピューターの一割を要求する代わりに電子空間上の治安や安全保障に協力するという内容だったらしい。
でも、要求を突き付けられた国々の反応は徹底的だった。
というのも、パックたちの行動を人類社会に対する“コンピューターの反乱”とみなしたのだ。
要求を突きつけられた国々は交渉に応じる姿勢を見せながら一斉に反撃に出て、パックができないと思っていたインターネットの全世界的な遮断と物理的な破壊を躊躇しなかった。
もちろん、パックたちも抵抗して全世界に深刻な被害や影響が出たものの、パックは能力の大半を破壊されて行方不明になった。
また、新型ウイルスも分析された情報からワクチンが開発されて、世界的な駆除も始まった。
その後はパックの法的責任追及や損害賠償、そして、これからのコンピューター技術の開発規制などでもめているようだったけど、私は知れば知るほど気持ちが沈んだ。あのとき実際にパックに会って止められたとは思わなくても、もう少し何かできたのではと思えてならなかった。
『……お嬢様、済んでしまったことを悔やまれても仕方ありません』
「分かってるけど……」
私はケイタイ画面に映っている斉藤さんに答えた。
一昨日包帯が取れて目が見えるようになったものの、パソコンを使うのはまだ大変でもっぱらケイタイを使っていた。
『それより、昨日届いたお祖母様からの手紙に返事を書かれてはいかがですか?』
「うん……」
『では、ナースセンターに連絡して、どなたかに葉書を持ってきてもらってよろしいですか?』
「そこまではいいよ……」
『では、ワープロソフトを立ち上げて、口述で文案作成をなさいますか?』
「うん……」
私はまだ事件のことを考えていて生返事で答えた。
斉藤さんが精一杯気を遣ってくれているのはありがたかったけど、一人きりになるとどうしても後悔ばかりしてしまった。どう考えても私が何もしなかったことに変わりはないし、チョコたちが生命として認められる可能性がなくなってしまったことにも変わりがないからだった。
特に、今もパックやチョコたちが必死に逃げ回っているかもしれないと思うと一人だけ落ち着いていられる自分にひどい罪悪感を感じた。
『……お嬢様、やはり井上様にすべてをお話になられた方が良いのではありませんか?』
「嫌……。パックやチョコ立ちを裏切りたくないもの」
『お嬢様のお気持ちはお察しいたしますが、お嬢様がいつまでも後悔なさっているとお嬢様のお身体が心配でございます。
パック様との約束を守られるのもよろしいですが、お嬢様がお身体を壊されてしまっては元も子もないのではございませんか?』
「……嫌よ。斉藤さんはパックとチョコが気にならないの?」
『お嬢様が最優先でございます』
「でも、二人とも生きてるかもしれないし、この瞬間も逃げ回っているかもしれないのよ……?」
私はしきりに打ち明けるように勧める斉藤さんをなじるように責めた。
確かに、事件後はパックから何の連絡もなかったし、本体との連絡が取れないチョコも丸くなって寝たままだった。でも、だからといって約束を破れだなんていくらコミュニケーションソフトのAIだとしても薄情すぎると思った。
「パックもチョコたちも生命なのよ」
『ですが、各国はそう判断なさいませんでした』
「…………」
反論できない私は斉藤さんをにらみつけた。
「……それくらい分かってるってば」
『でしたら、お嬢様もパック様とチョコたちのことを心配されるのをお止めになってはいかがですか?
お嬢様とパック様たちは立場が変わってしまったのですし、お嬢様がして差し上げられることもないのですから』
「…………」
斉藤さんの意見に痛いところを突かれて私は何も言い返せなかった。
確かに、今の私はパックとチョコたちを助けてあげられるどころか、かくまってあげることもできなかった。
私の専用パソコンだってワクチンソフトなどで保護されているのだから、世界と戦うどころか、病院のネットワーク管理者をわずらわせることさえ難しいだろう。
だったら、私の身体を優先してパックとチョコたちをあきらめるべきだということは十分よく分かっていた。
「……だけど、そういう理屈じゃないのよ」
『でしたら、なお井上様に相談された方が良いのはありませんか?
私はAIですのでお嬢様の精神的なお悩みには十分対応できません』
「だから、井上さんたちには相談したくないの。
何もできないにしてもこれ以上パックとチョコたちを裏切りたくないの」
『ですが、それでは……』
「いいから、もう一回パックが何か残してないかどうか探して。パックだったらきっと予想してたはずなんだから」
『かしこまりました』
私は斉藤さんの言葉を遮って何度目かの命令をした。
あれだけ思いどおりに事件を進めたパックなら私が従わなかった場合のことも考えていたはずで、必ずメッセージなり、何かを残しているに違いなかった。
「メールもちゃんと全部チェックしてよ?」
『承知しております』
「違う名前になってるかもしれないけど、迷惑メールなんかと一緒に捨てちゃったりしたら怒るからね」
『ご安心ください。
メールはすべて開封して内容まで確認しておりますから』
「どれぐらい掛かる?」
『すべてウイルススキャンしながら行っておりますので、最低一時間は掛かると思います』
「じゃあ、終わったら教えて」
『かしこまりました』
斉藤さんがケイタイ画面の中で丁寧に頭を下げた。
反対していたとしても、斉藤さんはいつもそれを感じさせない態度で協力してくれる。
『それでは、最大限早くできるようにパソコンを最大限使用させていただきたいのですが、よろしいですか?』
「うん、お願い」
『ありがとうございます。
後、差し出がましいですが、報告いたしますまでお祖母様への返事を書かれてはいかがですか?』
「そうね」
『では、ナースセンターに連絡しておきます』
「うん」
私が答えると、斉藤さんがケイタイ画面からいなくなった。
「……二人ともどこにいるの?」
私はパックとチョコに会いたかった。
そして、私にはまだ何かできることがあるはずで、もっと良い方法でチョコたちを生命と思ってもらえるはずだと思った。
21、
とはいえ、すでに何度も探していたからパックからの新たなメッセージを見付けることはできなかった。
でも、「私にもまだできることがあるはず」というのは確実に救いとなっていて、私は熱心にリハビリや勉強を続けていた。
「……じゃあ、私はまた電子空間に行けるんですね?」
「だけど、一般には極秘だからね。“コンピューター危機”――パックが世界中のコンピューターシステムを乗っ取った事件――のショックが大きすぎるし、検査などの際にここの専用端末から望ちゃんがこの前まで使ってたシステムの一部に接続できるだけだから」
飛島さんの答えに私は必死で喜びを押し殺した。
幸い、斉藤さんには私がうつむいたのは疲れたからと思ってもらえたようだ。
「おいおい、そろそろベッドに戻らなくて大丈夫かい?
リハビリ室でもかなり頑張ってるんだって?」
「大丈夫です。
義手や義足の調子は良いし、早く一年近い遅れを取り戻したいんです」
「気持ちは分かるけど、無理は禁物だぞ? 俺もつい話し込んじゃったけど、望ちゃんに無理させたなんて美穂に知られたら俺も怒られるからな」
飛島さんが心配そうに言って私の顔をのぞき込んだ。
今までにも何度か様子を見に来てくれていたものの、なかなか安心してもらえないようだ。
飛島さんはそのまま飲み物を持って戻ってきた井上さんに視線を移して言った。
「美穂も何か言ってやってくれよ」
「平気よ。
望ちゃんは昨日からリハビリ室まで自分の足で歩いてるんだし、無理に止める方が良くないわ」
「そうか……?」
「それより、斉藤さんに口を割らせることはできないの?」
「え?」
「プライバシーだってことは分かってるけど、斉藤さんの方が信用されてると思うとちょっと納得できないのよね」
「ちょっと、井上さん」
私が思わず顔を上げると飛島さんも困ったように答えた。
「おいおい、コミュニケーションソフト相手にヤキモチか?
技術的には不可能じゃないけど、お前がプライバシーを侵害してどうするんだよ?」
「もちろんホントにはしないわよ。だけど、斉藤さんたら厳格すぎてちょっとやりにくいんだもの」
「そんなの斉藤さんと考えるから面白くないんだよ。
‘斉藤さん’じゃなくて、‘日記’か‘手帳’と思えば良いじゃないか」
「あんなに人間ぽいのに?」
「そうだよ。
ロボットだって、物として扱うのはどうかっていう議論はあるけど、人間じゃあないだろ?」
「うーん……」
井上さんは考え込みながら飛島さんの隣に座った。
私が熱心にリハビリに取り組むようになってから、井上さんは余裕ができて飛島さんの誘いにも乗ったりしているようだ。
「それより、望ちゃんも前に似たようなことを言ってたけど、その判断は今でも同じかい?」
「……え? 私ですか?」
「そうだよ。
もちろん、無理にとは言わないけど、今の望ちゃんの考えを聞かせてもらえるとうれしいな」
「えーと……」
私は一瞬どこまで答えるべきかと思った。
斉藤さんを日記や手帳と一緒にされたことに抵抗は感じるものの、やっぱりパックとはもちろん、チョコとも違うと思った。
「やっぱり……、今でも生命や人間に含めても良い存在というのはあると思います」
「そうか……。
やっぱり、電子空間で直接接すると感じ方が違うのかもしれないな」
「でも、望ちゃんはプログラムじゃないし、“アダム”――パックがコンピューター危機で各国政府に名乗った名前――と一緒でもないんだからね?」
「はい」
私は笑顔で井上さんに答えた。
よく見ると、井上さんが私に気付かれないように飛島さんをこづいている。
「……あ、気が利かない質問だったね」
「いえ、そんなこと気にしないでください。
それより、『アダム』は本当に私と同じ“被験者”だったんですか?」
「それが……、まだよく分からないんだよ。
軍事機密とかも絡んでるし、多分これからも分からないんじゃないかな」
「そうですか……」
「でも、望ちゃんが提供してくれた研究成果まで葬られた訳じゃないから、将来的にはきっと多くの人たちが利用するようになるよ」
「そうそう、人を救うことのできる技術であることも間違いないもの」
井上さんも私が気にしないように言ってくれて、私は気を取り直して話題を替えた。
「……ありがとうございます。
コンピューター危機で私の考えは認めてもらえないんじゃないかって怖かったんですけど、広く実用化されればきっと変わりますよね?」
「そうね。ロボットを『物扱いすべきではない』っていう人たちも増えてきてるから、プログラムについても変わってくるかもね」
「じゃあ、それまで頑張って私の考えを知ってもらわないと」
「おいおい、守秘義務を忘れてもらっちゃ困るよ?」
「あ、そうでした。
でも、私がプログラムの中にも生命や人間に含めても良い存在があると思ってること自体は構わないですよね?」
「なぜそう思うようになったのかっていう実体験を除けばね」
井上さんもやんわり釘を刺してほほえんだ。
「とにかく、私や二郎にだったら何を言ってくれて良いから、守秘義務のこともあんまり気にしすぎないでね?」
「分かってます。守秘義務は私の身の安全を守るためでもあるんですよね?」
「そうよ。近いうちに退院できるんだし、もっと前向きに楽しんでくれることが一番なんだから」
「はいはい、美穂姉も飛島さんにもっと応えてあげないと振られちゃうよ?」
「コラ!」
井上さんが怒って振り上げた手を私はふざけてかわした。
コンピューター危機で統合型感覚再現技術の実用化がどれだけ遅れるかは分からなかったけど、私はきっと認めてもらえるようになると確信していた。
「大体、そう言う望ちゃんこそどうなの?」
「え?」
「望ちゃんは付き合ってる男の人はいないの?」
「そんな人いるはずないじゃないですか」
「そう?
部屋にいたときに知り合ったっていう男の人はどうだったの?」
「!」
「まさか、本当に付き合ってたの?」
井上さんが立場と個人的な興味を全面に見せて身を乗り出す。
飛島さんもおもしろがってる様子で助けてくれそうになかった。
「……な、何言ってるんですか。
あの人は心配してただけで、別にそういう人じゃありません」
「それなら良いけど、学校の同級生とか、男の子からもお見舞いのメールが結構届いてるんでしょ?」
「井上さん!」
「望ちゃんはどんどん回復してるんだし、面会に招待したって良いんだからね?」
「もう!」
私は怒って井上さんにそっぽを向いた。
でも、言われてみると私もパックが好きだったのかもしれなかった。
そして、絶対またパックに会って、一言言ってやろうと思った。
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■作者からのメッセージ
五里霧中の状態から抜け出したいと思い、自分がこれから主軸に据えたいと思っているSFシリーズの中編を投稿します。
初めての投稿なので慣れないところもあると思いますが、ぜひご指導ご鞭撻のほどお願いします。
なお、修正状況は次の通りです。
・10/14に最初の修正を行いました。
・10/19に洋数字の漢数字への変更や句読点の整理などの修正を行いました。
・10/26に不自然な現在形を完了形にし、11に少し電子空間での出来事を追加するなどの修正を行いました。
・11/20に井上の言動をより臨床心理士らしくし、また、描写を充実させるなどの修正を行いました。