- 『カミゴロシ(仮):第八章〜第十八章 【完】』 作者:渡瀬カイリ / 異世界 ファンタジー
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吸血鬼、人、人狼、竜……さまざまな生き物が共存する世界。危なげながらも保たれていた均衡を壊してしまった吸血鬼。生き残る方法は、カミの支配から抜け出し、新しい世界を作ることだけ?
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▼カミゴロシ(仮):第八章〜
▼第八章:地竜
今日も、とても綺麗な朝だった。ユウゴさんと二人で旅にでてからずっと、普段の僕だったら走り回りたくなるくらいのいい天気が続いて、今日もまた朝の太陽はきらきらと木々の葉を照らして空を目指している。
昨日の夜、ユウゴさんはちゃんと寝られたんだろうか。夜中、呻き声が聞こえたのは気のせいじゃないはずだけど、僕は何もしてあげられなかった。
怪我をしているユウゴさんにはちょっと待っててもらって、僕は朝食をとりに行く。ユウゴさんには葉っぱ。僕はハト。地竜の力が影響しているからなのか、葉っぱは他の場所のより香りが強くておいしいと、ユウゴさんがいってくれた。
「それじゃ、行こうか。ここから先は、歩いていくしかないんだ。大丈夫?」
空から行ったんじゃ、地竜は見つからないらしい。歩くのは得意だから大丈夫。
「うん。ユウゴさんは……歩ける? 昨日の夜、結構痛そうだったけど……」
僕がそう聞くと、ユウゴさんは、これじゃあどっちが保護者だか分からないね、と苦笑した。
「ありがとう。僕は大丈夫だよ。腫れも引いたし、何とかなるよ」
少しの無理はしてるだろうけど、限界ではないみたいだから、きっと大丈夫。ユウゴさんは僕にばっかり『無事に帰るんだよ』っていうけど、ユウゴさんに何かあったら、御頭はすごく悲しむ。人狼の皆は、御頭のこと尊敬してるから、やっぱりどこかで友達になりきれないんだと思う。でも、ユウゴさんは御頭の友達だ。いなくなったら、すごくすごく悲しむだろう。そんなこと、させるわけにはいかない。僕らは二人一緒に、御頭のところに帰るんだ。
それじゃ、行こう、と僕はユウゴさんの手をとった。
「地竜は、多分、最初は姿を見せないと思う。脅かしてきたりするかもしれないけど、決して命を奪うようなことはしないから、耐えるんだよ。こっちから攻撃すると、敵と見なされてしまうからね」
谷への細い道を歩きながら、ユウゴさんは僕にいろいろ教えてくれた。
「何を見ても、どんなことがあっても、それは全部、地竜が見せる幻だ。絶対に騙されちゃだめだ」
「うん……」
声が少し、緊張してる。最初の夜、ユウゴさんは『怖いことは怖いっていうのも大切だよ』って言ってた。命を守るためには、怖いと思うことも大事だと、教えてくれた。多分、今がその時なんだろう。いきなり攻撃はされないかもしれないけど、無事に帰れるとも限らない。……怖い。僕はまだ、死にたくない。
「怖くなったら、自分の一番大事なこと、思い出して」
自分に言い聞かせるように、ユウゴさんは呟いた。僕らの大事なことは、御頭と、お姉ちゃんと、シムラのところに帰ること。竜族と戦うのは意味がない。頷いた僕に、ユウゴさんは笑顔で頷き返してくれた。
「それじゃ、行くよ?」
目の前が急に開けて、靄の海の中に、草原が広がっていた。
◆ ◆ ◆
きらきらした太陽の光を、薄曇った感じの霞が、柔らかい、ほんわりした光に変える。
そばにいるはずの、隣にいるはずのユウゴさんの気配が遠ざかってしまった気がして、僕は慌ててユウゴさんの腕を掴んだ。子供みたいだけど、二人で手をつなぐ。……大丈夫。この手を離さなければ、はぐれることはない。なのに、ユウゴさんの匂いがどんどん遠くへ行ってしまう感じが、いつまでも離れなかった。
最初見た時は草原だと思ったけれど、意外と土が広がってたり、岩がごろごろしている。ユウゴさんは、歩きにくくないだろうか。大丈夫? と聞こうとして、振り返った瞬間、頭の中に声が響いた。
――誰ダ? 我ラノ領域ヲ侵スノハ誰ダ?
空気の震えない、けれど大きな声。こんなことできるのは、普通の生き物じゃない。
「地竜、さんですか? 僕は、人狼のオオシマといいます。一緒にいるのはユニコーンのユウゴさん。僕達、お願いがあって来ました。どうか、話を聞いて下さい」
僕は、そんな不思議な会話は出来ないから、立ち止まって、声を上げる。どっちの方向を向けばいいのかなんて、考えてる余裕はなかった。
――我ラハ他種トノ係ワリヲ望マナイ。帰レ……
どうやらこっちの声は一応届いているらしい。
「お願いします。どうか、話を聞いて下さい!」
完全無視で、出会えないかもしれなかったのに、向こうから声をかけてもらえた。もう少し、理由を聞いてもらえないだろうか。でも、答えは一言だった。
――帰レ……
「パベルの葉が欲しいんです。ここにしか生えてないと聞きました。それを、少し譲って下さい」
返事はない。……もう、声は届かないんだろうか。そう思った瞬間……
――人狼
――パベルノ葉
いろんな方向から、いろいろな声が聞こえ始める。頭の中で声が反響して、すごく……痛い。
――ソノ用途ハ
用途は……
――兵器。
ぴたり、と声が止む。……違う。僕らは兵器として欲しいわけじゃない。そういいたかったのに、声が掠れて出ない。
――我らは戦イヲ望マナイ。去レ……
そういって、声が遠ざかっていく。……だめだ。このままじゃおねえちゃんやシムラが……
「違います! 兵器になんて使いません。だから……」
「だったら、何に使う」
目の前の地面が、湖の水面みたいに揺らいで、大きな竜が現れた。昨日の火竜とは違って、後ろ足がしっかりしてるから、立ち上がって僕らを見下ろしている。鼻の上には空に向かって真っ黒な角。つやつやしてて、すごく強そうだけど、深い茶色の目は、優しそうで、ちょっと寂しそう。こういう色、何ていうんだっけ……この前シムラに教えてもらった色の名前。木の汁が固まってできる宝石の……こはく。そうだ、琥珀。地竜さんの目は、琥珀色だ。僕が見とれていると、地竜さんは人型をとって、僕らの目線に近くしてくれた。ココノエのおじいちゃんよりちょっと年上くらいの、その地竜さんは僕に問いかけた。
「お前はあの葉を、何のために、望む」
「何のため……それは……」
わけを話せば長くなる。聞いてもらえるだろうか。迷っていると、また頭の中で声がした。
――用途ハ、兵器。
「違います! そうじゃない。僕は……僕らは……友達を守るために使うんだ」
いろいろ省略してるけど、間違ってはいない。お姉ちゃんもシムラも、僕の友達……だと思う。二人を守るために、御頭やユウゴさんを守るために、僕はここへ来た。
「守るための戦いとて、結局は同じことだ」
優しい声で、それでもきっぱりと、地竜さんは否定した。でも、違う。
「違う! 僕らは傷つけるために使うんじゃない。お願いだから、信じて下さい」
僕の言葉に、地竜さんは信じていないわけではない、と答えた。
「しかし、争いは、必ず誰かが傷つく。それを我らは望まない。分かって欲しい……」
本当なら、あんまりわがままを言っちゃいけないのだろう。それでも、僕は引き下がるわけには行かない。
「僕だって、望まない。でも、あれがなかったら、僕の友達は殺されてしまうんです。お願いです、あの葉っぱを分けて下さい」
「お前は争いを知っているか?」
……え? 突然の地竜さんの言葉に、僕は何て答えていいか分からず絶句した。どういう、意味なのだろう。
――オ前ハ死ヲ知ッテイルカ?
頭の中の声も、同じようなことを聞いてくる。争い、死……僕が知ってるのは、違うのだろうか。
「僕は……」
僕が生まれた時には、もう吸血鬼と人狼は争いをやめていた。だから、僕は種族同士の戦争を知らない。死……僕が知ってる死は、狩ったウサギの死とか、ハトの死とか、そんなのばっかり。お父さんとお母さんは死んじゃってるけど、僕が生まれたときのことだから、全然覚えていない。でも、争いを知らないことと、葉っぱをもらえないことって何か関係があるのだろうか。
「争いを……あの葉で起きた争いを、お前は知らない。お前は、本当の死を知らない」
「え?」
「お前に覚悟はあるか?」
そういって、地竜さんが僕にそっと手を伸ばす。彼の手が僕の頬っぺたに触れた瞬間……足元の地面が消えた。高い空に、僕は一人浮いている。
そして僕は、長い長い夢を見た。
◆ ◆ ◆
ふわふわと、僕は空気みたいに空を漂っていた。下には、深い森が広がる。
……あれ、ここは地竜の谷じゃなかったっけ……。
ユウゴさんの背中で見てた景色とは、少し違う気がする。何が、とは分からないけれど、何かがおかしい。
静かな森。静かな空。もしかして、ここには誰もいないんじゃないだろうか。そんな不安に駆られて、僕は周りを見回したけれど、地竜さんもユウゴさんも……鳥の一羽もいなかった。
「地竜さぁぁぁんっ! ユウゴさぁぁぁんっ! どこにいるの?」
……答えは、ない。どうしよう、僕は今、どうなっているんだろう。とりあえず、地上に降りて、匂いを探そう。ユウゴさんの匂いでも、地竜さんの匂いでもいい。知っている匂いを探そう。僕はそう決心して、地上に降りた。柔らかそうな草の生えている場所を選んで着地する。地面に足を着いたとき、全く衝撃もなく降りられてびっくりした。一体、どうなっているんだろう。
それでも、とりあえず目を閉じて、鼻に意識を集中させる。……ユウゴさんの匂い。生きてる匂い……大きく吸い込んだ瞬間、僕は何も匂わないことに気付いた。
「……うそ。何でっ!?」
鼻をすぴすぴやるけど、何も感じない。周りを見れば、木があるから、せめて葉っぱの匂いくらい感じたっていいのに、何も感じない。……どうしよう、どうしよう……。人狼にとって、嗅覚は命だ。隠れた敵を見つけるのも、食べ物を見つけるのも、皆匂いに頼っている。匂いが分からなくなったら、敵に見つかって殺されてしまう。嫌だ、まだ死にたくないよ。
「ユウゴさん、地竜さん、どこ?」
怖さで胸が締め付けられて、どきどきする。息が苦しい。皆、どこにいるの?
「ユウゴさぁぁんっ! 御頭ぁぁっ!」
大声を出せば、自分の居場所を敵に知らせるようなものだけど、僕は必死に声を上げた。けれど、返事はない。もう一度声を上げようと、僕が大きく息を吸い込んだ時だった……
どがぁぁんっ!
ものすごい音を立てて、僕のすぐそばの地面が吹っ飛ぶ。焦げそうになる熱風と、飛び散った土。小石や草が、ばらばらと音を立てて僕に降り注いだ。
「熱っ。い、痛いっ。い……痛い? あれ……」
熱くて痛かった気がしたけれど、冷静になってみると全然熱くなかったし、怪我もしていなかった。これは……
「ケイっ……貴様、何のつもりだ!」
僕の前の地面が盛り上がり、現れたのは一頭の地竜。さっき僕らの前に出てきた人とは違うみたい。角が薄い黄緑色をしている。僕の存在には全く気付かないのか、そのキミドリさんは空に向かって吼えた。
「何のつもり……そんなこと、今更言わなくとも分かっているだろう」
そういって笑ったのは、空に浮かぶ、大きな大きな……昨日のハルナの倍はある赤銅色。何であんな大きい物が浮いてられるんだろう。いや、そんなことより、もう……何が何だか分からないよ。
昨日の続きだ、と叫んで、ハルナがやったのと同じように炎を吐く。でも、あの天竜はハルナよりずっとずっと大きくて、吐く炎もものすごく太かった。
根こそぎ吹き飛ばされる森の木。キミドリさんは何とかかわしたらしい。それでも、吹き飛んだ土をかぶったのか、少し黒くなっている。
どうやら僕は、自分が空気みたいに周りに見えていないということに気付いた。さっきからいろいろなものが僕の体を通過していく。熱いとか痛いとか、感じるような気がするけれど、本当には感じてない。これがユウゴさんの言ってた、地竜の幻なんだろうか。それにしても、やけに本物っぽくて、嫌な感じがする。……これって、本当にただの夢、なのかな。
そんなことを考えている間にも、天竜と地竜の戦いは続いていた。
炎を吐く天竜が、圧倒的に有利だと思ったのに、キミドリさんも負けてはいない。大地が盛り上がって岩が槍みたいに飛び出してきたり、木がいきなり大きくなって鞭みたいにして襲い掛かる。力の差なんて、ほとんどない。絡み合うようにして、二匹はずっと戦い続けた。
「我らはお前たちと対等でいるのに耐えられんのだ。炎も水も操れぬ、ただ無駄に大きな体を持ったお前たちと、何故同じ竜族でいなければならぬ。竜族は、世界の支配者は我らだけで充分だ」
組み合っていた二匹が、一度距離をとる。お互いの距離を確認しあいながら、ケイと呼ばれた天竜が怒鳴った。
「驕るなケイ。貴様らとて、この地に生きるのなら、この世界の恩恵を受ける身であろう。何が世界の支配者だ、お前たちがそう思うことはただの驕りだ」
キミドリさんの後ろに、次々と地竜が現れる。これで、この天竜に勝ち目は……
「だったら何がこの世界を支配している。自然か? この雨も、雷も、我らによって操られているくせに、何が支配者だ。笑わせるな」
雷が鳴って、滝のような雨が降り始めた。どうやら、天竜の仲間たちも来たみたいだ。空が、たくさんの天竜に埋め尽くされて真っ黒になる。
「お前たちが操れるのはごく一部だ。何故それに気付かない!」
空に向かってキミドリさんは叫んだ。その言葉をケイは鼻で笑う。
「気付く、気付かないの問題ではない。それに、たとえ自然が世界の支配者であったとしても、自然は積極的ではない。能動的ではない。世界には、秩序を保つ積極的支配者が必要だ」
その言葉に、キミドリさんは黙ったまま。
「そして、積極的支配者は絶対唯一の存在であるべきだ。似たような偽者は混乱を招くだけだ。必要ない」
「だから、我らを排除しようというのか」
苦い顔で、キミドリさんはため息とともに吐き捨てた。
「そういうことだ」
それでもケイは、分かっているではないか、と嬉しそうに頷く。
「自然の秩序を、その秩序を自分たちが乱していることがどうして分からない……」
お互い後に一族を従えて、ぎりぎりの論戦は続いた。これが打ち切られれば、多分全面戦争だ。
「何を言う。我らは乱してなどおらぬ。この世界を、統一的な、均整のとれた世界に再構築しようというのだ。その方が、世界はもっと住みやすくなるだろう」
そういって、ケイは笑った。
「我らは、お前達には従わない」
静かに、きっぱりと、キミドリさんは天竜たちを見据える。一番最初に目が合ったのだろう、ケイは苛立ちを隠すこともしないでキミドリさんを睨んだ。
「分かっている。だから、排除しに来たのだ。我らの目指す新しい世界の創生のために、お前たちは邪魔者だ」
その言葉と一緒に、天竜一族が列を組みかえる。大きな三角形。一点集中突破をするときの陣形だって、おじいちゃんが教えてくれた。地竜の方を見れば相変わらずキミドリさんの後ろに横に長く並んでいる。
「我らから見れば、自然の秩序を乱そうとするお前たちの方が、反乱分子に見えるがな」
話し合いがこれ以上続かないことを悟ったのか、諦めたような口調でキミドリさんが呟いた。
「だったら、我らを倒してお前たちがこの世界の頂点に立てばいい。倒せるなら、の話だがなっ!」
そういって、ものすごい勢いでケイさんは地竜一族につっこんできた。後ろで待機していた天竜の三角形も彼に続く。
雷と大雨と、雨にも負けない炎。ありったけの物が空から降ってくる。そして、木と石は矢になり砲弾になり宙を舞う。雄叫びと悲鳴が入り混じって、辺りはもうぐちゃぐちゃだ。
どっちのものともつかない鱗が、赤黒い血に塗れて、炎を受けて、ぎらぎらと光る。血の匂い。焦げる匂い。嗅覚はなくなっているはずなのに、そんなのばっかり感じる。……気持ち、悪い。
絞め殺そうと絡みつく天竜の喉を、地竜が噛み切って、真っ赤な血が噴水みたいに溢れている。尻尾を振り回して暴れる地竜を、天竜が囲んで焼き殺している。赤と黒。そればっかり。
向こうでは、火竜の軍団が、空からいっせいに炎を浴びせて大地を焼き尽くそうとしてる。こっちは地竜が時間差で石の砲弾を飛ばしている。炎と雨と土砂と……いろんなものが空から降ってくるし、水と土と石と木と……いろんな物が大地から噴出している。空も大地もめちゃくちゃで、何が何だかもう分からない。
地上に向かって火竜が炎を吐こうとした瞬間、大地が避けて水が噴出した。上がった水柱が火竜を直撃する。落ちてきた火竜が苦しげに何度か暴れて動かなくなる。その体には……首がなかった。さっきまで空を飛んでいたのに、さっきまで動いていたのに……今はもうただの肉の塊になっている。頭があったところから溢れる血が、土を赤黒く染めた。
――やめて。もうやめてよっ。
僕は必死に叫んだ。
――もう嫌だ。何でこんなことするの? 何でこんなことが出来るの? こんなことして何になるの? やめて。もうやめてよ。こんなことしたって意味ないよ。嫌だ。嫌だ……
それでも、僕の声は届かない。目を閉じても、頭の中に周りの景色が流れ込んできて、目を閉じる意味がない。耳をふさいでも同じこと。吐きそうになるくらい、咽そうになるくらい、血の臭いがする。怖くて、悲しくて、痛くて、恐くて……頭がおかしくなりそうだ。……いっそ、おかしくなっちゃえばいいのに。何にも分からなくなっちゃえばいい。こんなの嫌だ。こんなの嫌だよ。もうやめて……やめてよ……
塞げない耳を押さえて、僕は泣き叫んだ。自分の声で、周りの音が聞こえませんように。涙で周りが見えませんように。泣きすぎて、涙が出すぎて、体が干乾びるんじゃないかってくらい、僕は泣いた。
泣くことしかできない自分が、止められない自分が、どうしようもなく憎くて、それでも僕は叫び続けた。
◆ ◆ ◆
どれだけ泣いたのか、自分が何を叫んだのか、もうよく分からない。ただ、気がついたら争いは終わっていた。
「これが我らの守った世界か?」
雨も止み、無音の世界に声が響く。静かな声。怒りとか、憎しみとか、さっきまで渦巻いていた激しい感情とは似ても似つかない。
「この何もない大地が我らの世界か」
また別の方角から声が聞こえて、各地から次々と声が響いた。
「真っ黒な大地」
「何も言わぬ大地」
「命の音が聞こえない」
さっきまで森だったところは、ただの地面になっている。ずっとずっと遠くまで。向こうが霞んで見えなくなるまで続く、黒い大地。
ところどころ飛び出している黒い突起は、生えていた木の欠片だろう。緑の葉っぱなんて、一枚も残ってない。雑草一本、生えていない。黒い大地と灰色の空。灰色の世界が広がっている。
「何と醜い」
「何とおぞましい」
地面を埋め尽くすように転がっているのは夥しい数の死体だけ。天竜も、地竜も関係ない。そこにあるのはただの死体。焼け焦げて、四肢はちぎれて、なんだかもうよく分からなくなっている。天竜の鱗も、地竜の角も、あんなに綺麗だったのに、今は泥水と灰と血に汚れてぐちゃぐちゃだ。
「天竜一族よ、これがお前たちの望んだ世界か?」
僕の足元に倒れていた地竜が、微かに首を上げて呟く。左足と尻尾は腰のところからなくなっているし、角も半分以上折れてなくなっているけれど、何とか判別のつく薄い黄緑色は……あの、キミドリさんだ。もう起き上がることは出来ないのだろう、必死に首を上げ、目を開けようとするけれど、右目はもう潰れているし、左目はほんの僅かに開くだけだ。
キミドリさんの言葉に、答える声はない。
「……いや、お前たちだけに罪を着せるつもりはない」
自嘲するような声で、キミドリさんは続けた。
「どんな理由があったにせよ」
「我らも壊したことに代わりはない」
地竜たちの声が、重なる。
「我らはこんなもの、望んでいなかった」
「我らはただ守りたかった……」
「しかし……」
「大地の声を聞くことはもう叶わぬ」
泣きそうな声が響いた。
「何を今更。大地は我らが殺したも同じではないか」
「我らが壊した」
「我らが殺した」
「守るべきものを」
「従うべきものを」
怒ったような声。でも、もう、怒りは天竜には向いていない。怒りの矛先は、自分自身。
どっちが勝ったのか、なんてもう関係なかった。天竜も地竜も、ほとんどが死体になっているし、生き残った者も、無事でいる者など一匹もいない。今ここで、勝敗を決めても意味がないことは、明白だった。
始まりが何なのか、原因が何なのか、僕には分からない。でも、その始まりは、その原因は、この結果を招いてまで守りたかったものなのだろうか。世界の再構築……これで再始動のつもり? 再構築の阻止。全部壊して止めて、喜ぶ存在はどこにいるの?
……馬鹿じゃない? ぼくはそう思うことしか出来ない。支配して欲しいなんて、守って欲しいなんて、誰かが言ったの? 他の種族は愚か、天竜だって地竜だって、今の結果を喜んでいる奴なんてどこにもいないじゃないか。お前ら一体何がしたかったんだよ。こんなことして、何が良かったの? 答えてくれる存在は、どこにもいない。
天竜も地竜も、そして、何も出来ずただ傍観していた僕も、ここにいる全てをわらうように、雲の陰から現れた太陽はきらきらと輝いた。
◆ ◆ ◆
それからしばらくして、地竜一族が天竜一族を訪れた。
「天竜。我らは、この地を去る」
死んでしまったキミドリさんではなく、他の地竜が天竜の長にそう告げる。多分、彼が新しい地竜の長だろう。
「大地より与えられしこの力、今更だが、大地のために使おうと思う」
地竜さんの言葉に、天竜の長はそうか、と頷いた。
「大地と空が交わらぬように、我らもまた、お前たちと交わることはない」
分かり合い、共生することは出来ない、と地竜さんは呟く。
「我らは大地とともに、大地のためだけに、この命を捧げよう」
「そうか」
特に敵意も持たず、天竜さんは頷いた。
「一つだけ、頼んでも良いか?」
去り際、地竜の長はふと思い出したように切り出す。
「何だ」
「お前たちは、炎を使える。水を使える」
地竜さんの言葉の意図を探りつつ、天竜の長は頷く。
「その力、どうか、この大地に生きる者たちのために、使ってやってはくれまいか?」
その言葉に、天竜の長は目を丸くした。
「愚かな。もうこの大地に、生きるものなどおらぬ」
あの争いで、他の種族たちが生きていたとも思えないし、実際、ここにはわずかな竜族とたくさんの死体しかない。けれど、地竜さんは首を横に振った。
「そんなことはない。この地が焼けても、命はまたその上に芽吹く。だからどうか……」
しばらくの沈黙の後、天竜の長は口を開いた。
「ならば、賭けをしよう」
地竜さんは、その言葉の意味がわからなかったのか、伏せていた目を上げる。
「もしここに、新たな命が芽吹くことがあらば、我らは我らの力をその者たちのために使おう」
必ず約束する、と天竜の長は笑った。
「恵みの雨を降らし、その身を温める炎を分け与えよう」
その言葉に嘘がないことを、地竜さんは本能で悟ったのか、あぁ、と頷いて笑った。
「我らはそばにいすぎた。互いの力が反発して、周りにどれだけ被害を与えるか、考えもせなんだ」
「交わらなければ、戦がおこることもない。醜い大地を、見ることもない」
それが竜族の結論。だから今、僕らの世界に地竜はいないのか。
別れの言葉とともに、地竜は遠く、深い谷へ消えた。
そして残された天竜は、彼らの谷へ近づくことはせず、静かな時代が始まった。
地竜さんのいったとおり、あの焼け焦げた大地にもまた草が生え、木が生えて、森を作った。竜族の死体を糧に育ったその森は、不思議な力を持つらしく、そこに住んだ狼と、蝙蝠……彼らは少しずつ姿を変えていった。人狼と、吸血鬼。何でその二種類だったのか……。この森の草を食べたウサギ、それを食べたキツネ、そうやって誰かが誰かを食べていって、最後に彼らを食べるのが狼だったから。この森に生きるものたちの血を吸い続けたのが吸血鬼だったから。そんな理由じゃないのかな。
天竜一族は、地竜さんとの約束を守り続けていた。吸血鬼や人狼、人間は、竜族に比べたら体も小さくて、力が弱かったから、竜族は彼らを傷つけないように、彼らとは少し離れたところに暮らしていた。そして雨が降らない日が続けば、雨を降らせ、寒い冬の日には火を焚いて、他の種族を見守り続けた。
他の種族は竜族にすごく感謝して、吸血鬼は自分たちで作ったお酒を、人狼は狩りでとった獲物を、人間は穀物を、毎年竜族にあげていた。幸せな時間が、流れていた。
◆ ◆ ◆
あれからまた時間は流れた。竜族の寿命は長いけれど、それでもあの頃の戦いを知る者がいなくなるまで。
時間が経つにつれて、あの戦いの記憶が薄れるにつれて、竜族の中には他の種族に対しての不満を持つものが現れてきた。
「何故、我らの力をあのような小さき者たちに使わなければならぬ」
若い水竜が、同じくらいの歳の火竜に話しかける。話しかけられた方は、こくりと頷いて答えた。
「我らは天竜なり」
その言葉に、周りにいた若い竜族たちが、次々に同調していく。
「我らの力、あのような者たちに使う必要などない」
「ない」
「しかし、約束はどうする」
最初に話しかけられた火竜が、ふと思いついたように口にする。周りの竜たちが、何のことだ、と火竜に注目した。
「昔、地竜と交わした約束だ」
そう火竜が答えると、周りの竜たちが一斉に笑った。
「そんなもの、古代の遺物だ。伝説だ」
「しかし……」
それでも苦い顔の火竜に、最初の水竜が楽しそうに告げる。
「あの一族は、かつて我らと戦い、谷に逃げ帰ったのだ。あのような者たちと、我が誇り高き祖先たちが、対等な約束を交わすはずがない」
馬鹿だなぁ、と水竜は笑った。けど、とまだ納得のいかない顔をする火竜に、水竜はもう一度ばぁか、と言った。
「どうか、雨を降らせて下さい」
干ばつの続いたある日、人間は竜族にそう頼んだ。
「どうか……。雨を降らせてくれるのなら、何でもいたします」
その言葉に、あの水竜は何か面白いことを思いついたように笑う。
「ほう、何でも?」
人間は、その笑みに気付かないのか、竜族が否定の言葉を返さなかったというだけで嬉しそうに答えた。
「はいっ」
約束どおり、水竜は雨を降らせた。けれど、雨を降らせて欲しいといいに来た彼が村に帰ることはなかった。
「力を持たぬ者は、愚かだな」
楽しそうにするあの水竜の隣で、火竜が苦い顔をする。
「やりすぎではないのか」
「だったら何だ。あの者たちに何が出来る。我らに傷を付けることは愚か、触れることすら出来ぬ癖に……」
そういって、水竜は笑う。
「おまえは、地竜との約束が、といったな。その気持ちも分からなくはない。だが幾度となく、我らはあの者たちに雨を降らせ、炎を与えた。もう、充分ではないのか」
そういって、水竜は火竜の目を覗き込む。
「我らの力は、そんなことのためにあるのではないだろう」
少し考えて、火竜は頷く。
「たとえそうだったとしても、何故我らが無償であの者たちに恵んでやらねばならぬ。あの者たちは、我らからの水を、炎を、恩恵をただ、無駄に費やしてはいまいか」
思い当たることもあるのか、火竜も今度ははっきりと頷く。それを見て、水竜は嬉しそうに笑った。
「水がどれだけ大切か、知っているというのなら、等価の物と交換だ。それがこの世界の理ではないかな」
その言葉に逆らう術を、他の種族は持ってなかった。
一度だけ、彼らは結束して逆らったけれど、圧倒的な力の差で鎮圧され、その後百年に渡り干ばつだの洪水が続いて、彼らは飢えと渇きに苦しめられた。
ほんのわずかな食料を巡って吸血鬼と人間が、お互いを食べるために人間と人狼が、人間を狙った人狼と吸血鬼が、血塗られた争いを続ける。それを、何か楽しい娯楽のように竜族は見る。
「まぁ、生かさず殺さずだな。皆殺しにするのは楽だが、それでは酒や穀物を作る者がいなくなってしまうからなっ!」
そういって、その水竜は、笑った。
◆ ◆ ◆
「悪ぃな。こっちもぎりぎりなんだ」
人間から子供を奪った人狼がそう告げる。やせて細くなった四肢に、金色の目だけがぎらぎらと異様な光を放っている。
「お前ぇの気持ちも分かるけどよ、俺は自分の子供飢え死にさせるわけにはいかねぇんだよ」
分かってくれ、とその人狼は人間に頭を下げた。泣き叫ぶ子供の親に背を向けて、彼は立ち去った。
「おとう、さん?」
人狼が向かったのは、木の間にある小さな洞。そこに小さな狼の子がぐったりとしていた。父親以上にやせこけて、薄汚れた白っぽい毛があちこち抜け落ちている。
「おぅ。まだ生きてたか? 十日ぶりの飯だ。食え」
父親は、子供の前にさっき攫ってきた人間の赤ん坊を置く。
「飯ってこれ……」
狼の子は、驚いたように目を見開く。僕ら人狼は、人間を食べちゃいけないって言われている。人間はすごくおいしいから、一度食べたら、もう人間しか食べられなくなっちゃうんだって。だから、僕は一度も食べたことはない。この子も、おんなじこと考えたんじゃないのかな。
「しょうがねぇだろ。生き延びたければ食え」
そういって、父親は泣き喚いている赤ん坊を指示す。けれど、その子はけど……と、食い下がった。
「恨むなら、空を恨め。ウサギが獲れないのは、ウサギの食い物の草がねぇからだ。草がねぇのは……雨が降らねぇからだ」
それは分かっているのだろう。返す言葉も無く、その子は項垂れる。
「無理に食えとはいわねぇ。けどな、自分が生きたきゃ……生き延びるために他の者の命奪うのは、仕方ないことなんじゃねぇのか?」
そう問われ、答えることが出来ずにその子は泣き出した。
「できねぇなら、お前が死ね」
泣き出した息子に父親は背を向けた。多分、父親だって必死なんだろう。必死にとってきた食べ物を、この子が拒否すれば、もうこの子を育ててはいけない。この子は、ここで一人飢え死にするのを待つだけだ。
「う、うわぁぁっっ……」
泣き叫びながら、その子は赤ん坊を殺した。泣きながら人間を食べる息子を見て、父親は同じくらい辛そうな顔をする。
「忘れんなよ。お前はこいつ殺して、自分が生き延びたんだ。自分のために命奪われたこいつのこと、絶対に忘れんな」
涙と血で顔をぐちゃぐちゃにして頷いた子を見て、父親はちょっとだけ笑った。
「こいつの分まで、生きろよ――」
◆ ◆ ◆
それからも、人間、吸血鬼、人狼の間には小さな抗争が絶えなかった。
他の二つより少し力で劣る人間は、森を出て、ちょっと離れたところに住むようになったけど、吸血鬼と人狼はずっと森に住み続けた。食べ物が手に入るようになってからも、食べ物がなかった時代の傷跡を引きずって、彼らは些細なことで争いを続けていた。
どっちがどっちの森に入っただとか、そんな下らないことで、争いは続く。
けれど、吸血鬼も人狼も野生の種族だから、一度抗争を始めれば命がけだ。翼のある吸血鬼は空からの攻撃を得意とし、人狼は地上でのゲリラ戦を得意として、血なまぐさい戦いはいつまでも燻ぶり続けていた。
ある時、吸血鬼がある葉っぱを持ち出したことで、戦況は一転した。たまたま迷いこんだ森で採ってきた葉っぱ。その汁を身につけると、人狼に感知されないという不思議な葉。
地に降りた吸血鬼の匂いを感知できない状況が続き、人狼一族は混乱に陥る。人狼にとって、嗅覚は何よりの武器だ。直接攻撃には関係ないけれど、敵の位置を把握し、味方との距離を測り、攻撃に役立てる。その嗅覚が役に立たなくなると、気配で何かがいることは分かっても、敵味方の区別がつかず、攻撃への準備が遅れてしまう。吸血鬼は喜んでその森へ葉っぱを取りに行ったけれど、その時にはその葉はすでになくなっていたという。
手に入った分の葉で、吸血鬼は持ち前の酒を作る技術を応用して、あるものを作った。それがあの緑の汁。
攻撃の遅れる人狼は、吸血鬼にいいようにやられ続けた。けれど、ある人狼がそれを盗み出し、形勢は逆転。嗅覚の利かない吸血鬼は、嗅覚の代わりに犬を戦場に連れて行ったのだけれど、その犬が、人狼の存在を嗅ぎ取ることが出来なくなった。
数本の瓶に入ったその緑の液体を巡って、また長い長い争いが続いた。
一体、どれだけの血を流せば気がすむんだろう。
竜族同士の争いから始まって……もういくつの命が奪われてくるのを見ただろう。
燃える赤。残る黒。流れる赤――何の意味が、あるんだろう。
あぁ、ほらまた……
◆ ◆ ◆
「もうやだっ。嫌だぁぁぁっ!」
そこまで叫んで、僕は気がついた。目の前には、真っ黒な角の地竜さん。僕は……戻ってきたの?
「これが、争い。これが、死だ。人狼の少年、これを見て正気を保っていられる強い精神力と、危険を承知でここまで来たお前の優しさには、敬意を払うが、あの葉は渡すわけにはいかない。あの葉を彼らに渡してしまったのは、我らの失敗だったのだ」
そういって、地竜さんは苦い顔をする。
「迷い込んできた彼らが、まさかあれを持っていくとは思わなかったのだ。あれを使うとは、思わなかった……」
僕らは、あんな風に使うつもりはない。
「違う。こんなの違うよ。僕らはこんなことに使わない」
僕は彼の言葉を否定した。
「僕らは戦争をするために来たんじゃないんです。僕らは……」
それでも僕らがあの葉っぱを持って帰ることで、新しい戦争が起きるのだろうか。
――ソノトオリダ。マタ新シイ争イガ起キル。
違うと否定したくても、何故か僕は否定できなかった。
「でも……これがなかったら、お姉ちゃんたちが殺されちゃうんです」
僕らの意見が交わることはないだろう。でも、どんなに無駄な言い合いでも、引き下がるわけにはいかない。
「お前が友を守ろうとすることを否定はしない。しかし、そのことで、他の者が傷つくことがあるのではないのか?」
具体的に誰とは言えないけれど、そういう人が、存在するのかも知れない。
「お前にその責任が取れるのか?」
僕だけで責任なんて、取れるわけがない。何もいえない僕に、地竜さんは優しい声で告げた。
「仲間の元へ去帰れ、人狼の少年。ここはお前の来る場所ではない」
僕らが、来ちゃいけないところ。ここは僕らの世界と隔離された世界。でも、だったらどうして――。
「……もし、シムラとお姉ちゃんが手に入らなくて、カミサマが困ることがあったら……その困ることの解決のために、僕は出来ることをします」
「……何だ?」
僕の言葉に、地竜さんは聞き返す。
「お姉ちゃんを食べるつもりなら、他のおいしいもの、探しに行ってきます」
「何を下らない……」
苦笑しながらも、地竜さんは続きを聞いてくれた。
「もし、カミサマが、ただ飾りとしてシムラのことが欲しいと思ってるなら、シムラを殺さないでってお願いします。シムラの羽根は、言えば見せてくれるから、殺さないでって、お願いします」
「……何だ、それは」
僕はシムラの羽根の話をしてないから、地竜さんは困ったような顔をする。
「殺さなくても他に道はあるはずです。でも今のままだと、カミサマも吸血鬼も、皆シムラを殺しに来ます。だから、それを防ぐために、シムラをちょっとの間だけ隠すために使うんです。お願いします。僕は嘘をついてません」
今の僕に出来ることはこれだけ。もしカミサマが望むなら、すっごくおいしい料理をお姉ちゃんと作ろう。シムラの羽根も、シムラがやだっていっても、死ぬよりはマシでしょって、見せてあげよう。
……下らないけど、今の僕にはこれしか出来ない。
「それに、こんなこといったらいけないかもしれないけど、地竜さんたちだって竜族でしょ? 同じ竜族のカミサマが、シムラたちを殺そうとするの、どうして止めてくれないの?」
そうだ、よく考えたら、昔の地竜さんたちは天竜一族と対等に付き合ってたじゃないか。
「そしてまた、あの過ちを繰返すのか?」
死体に埋め尽くされた大地。――思い出したくない。
「まぁ、今のは言い過ぎた。しかし、我らにはもうあの者たちを止める術がないのだ」
「どうして?」
僕の問いに、地竜さんは少し悲しそうに笑った。
「我らはもう体を持たぬ。今お前たちが見ているのはただの幻だ。我らは大地と完全に融合を果たした。もう、個々の肉体はないのだ」
「そんなっ……」
それじゃあ、今地上で最強なのは……
「いらん期待を持たせてしまったな」
「で、でも、それじゃあどうして地竜さんの姿はこんなにはっきり感じるんですか? 何で、ちゃんと人型になったり、原型になったりするんですか?」
幻なら、わざわざ個人を区別する必要なんてないだろう。なのに……
「まだ意識は完全に融合していないからだ。肉体があった頃の例に倣って、幻の中では個々の存在を姿かたちで区別している。これで、もういいか?」
ふと、頭の中に何かがよぎる。何だろう、この感じ。何か、いい方法は……
「あのっ! 地竜さんたちは、大地の土とか、木とか、そういうの動かせましたよね? あれで、体作ったりすることって出来ないんですか?」
苦し紛れの僕の問いに、何故か地竜さんは絶句した。
◆ ◆ ◆
「地竜さんの角は、ヒスイとか、黒曜石とか、石と同じなんですよね? だから……」
いっそのこと全部大地のもので作れちゃったりしないんだろうか。僕の思いつきもいいところな考えを、地竜さんは笑い飛ばさなかった。
「できなくは、ない……」
「だったら」
それなら、どうか、僕らの味方になって。シムラたちを、守って。
「しかし、それが出来るのは一部の者だけだ。というより、成功したのは数えるほどしかおらん」
吊り上げて、叩き落す。そんな気分。まぁ、守ってもらえるなんてていのいい話は当てにしてないけど。それでも、彼らが体をもてないと、カミサマたちに力で対抗できる存在はいなくなってしまう。
「さっきお前は天竜一族のカミの話をしただろう」
その言葉に、僕は頷く。目下僕らの敵はそのカミサマなんだ。
「あれは天竜一族の中でも一番力が強い」
……そんな、断言しないでよ。僕らあのハルナからやっと逃げてきたんだよ? それなのに、カミサマはあれより比べ物にならないくらい強いって言うんだろ。
「あのくらいにならないと、出来ないのだよ。それに、体を作ることに力を使ってしまうから、以前のような力はない」
何の希望にもならない言葉ばかりが続く。結局、僕らはカミサマに逆らえない。僕らはおねえちゃんを守れない。守ることすら、許されない。どうしようもないくらい、僕らは無力だ。
「最後に一族の者がその力を使ったのは、六百年ほど前だ。かつてない力の持ち主だったが、それでもすぐに死んでしまったよ」
「どうして……。殺されたんですか?」
僕の問いに、彼はいや、と首を振る。
「体がもたなかったのだ。元々、体を持たなくなって久しい上に、その体に無理をさせすぎた。灰になることも叶わず、砂になって消えたそうだ」
僕の頭の中に、作り物の地竜のイメージが浮かぶ。彼は足元から、さらさらと崩れていく。音もなく、静かに。
「我らの歴史の中でも、類を見ないほどに力の強い奴だったが、愚かなやつでもあった。一時の感情に身を任せ、この永遠にも等しい命を脆く儚い命に変えてしまったのだから」
ひどく苦々しい顔をして、地竜さんは呟いた。
「あぁ、すまない。久しぶりにここを訪ねるものがいたからな、つい話してしまった。つき合わせて悪かった」
そういって、地竜さんは僕を見る。その瞳は優しいけれど、どこかで僕を拒絶している。多分、もう何を言っても葉っぱはもらえないだろう。
「いろいろ、ありがとうございました。お騒がせして、申し訳ありませんでした」
僕は、仕方なく頭を下げた。僕は、非力だ。僕の声は、地竜さんにも届かなかった。
鼻の奥が痛くなって、涙が出そうになったけど、泣くのは卑怯な気がして、僕は必死に涙を堪えた。泣き落としなんて、やっても無駄だし、大人の男がやることじゃない。
顔を上げれば、そこにはもう地竜さんの姿はなく、薄い霞の中に荒野が広がっていた。
◆ ◆ ◆
「オオシマ君……」
ユウゴさんが、僕の名前を呼ぶ。僕は返事ができなかった。
「そんなに泣かないでよ。君はよくやったよ」
あそこで泣けなかった分、僕はユウゴさんの背中の上で泣いていた。本当は泣くつもりなんてないのに、泣いたって意味ないのに、涙が溢れて止まらなかった。
何で、どうして――。どうして僕は、こんなに非力で、役立たずで――。
「君はできるだけのことをしたんだ。カミヤだって、よくやったって言ってくれる。だから……」
「違う」
――違うんだ。それもあるけど、違うんだ。
「どうしたの、オオシマ君」
ユウゴさんの困った声。ごめんなさい。困らせるつもりはないんだ。でも……
「……ってきちゃったんだ」
「ん?」
涙声で、聞き取れなかったらしい。ユウゴさんは優しく聞き返してくれた。
「ごめんね。聞こえなかった。もう一回い……」
「盗ってきちゃったんだっ」
僕はもう、それだけ言うのが精一杯だった。
「え? とって来たって……何を……まさか……」
ユウゴさんの声が、信じられないというように震える。でも、事実僕は――
「あの葉っぱ。帰る時に見つけたから……。盗んじゃいけないって知ってたのに……僕……」
僕は最低だ。非力で、役立たずで、卑怯者で……。
帰り際、僕は夢で見たのと同じ葉っぱを見つけてしまった。これは戦争の道具だ。そう思ったのに、頭の中をあの血塗れの夢が流れたのに、お姉ちゃんのこと思い出したら、止められなかった。地竜さんたちが、体を持てないと知って、彼らが僕らを止められないと知って、僕は――
「そっか……」
ユウゴさんは何故か怒らなかった。御頭だったら、きっとお尻叩かれたのに、ユウゴさんは黙って走り続けた。いっそ怒ってくれればいいのに。叱られないのが、何よりつらい。
「ごめんね。君の代わりに、なれなかった」
……帰るまで、僕の涙は残っているだろうか。
▼第九章:準備
約束の日より一日早く、オオシマ君とユウゴさんは帰ってきた。
夕方、空から響いた蹄の音を聞き、カミヤさんはものすごい勢いで外に飛び出していった。
私は、外に出るわけには行かないので、中からそっと様子を窺う。ユウゴさんは右の後ろ足を引きずっていて、オオシマ君は背中でぐったりとしていた。
「お、ま、え、なぁ……」
カミヤさんがぐおぉとか、うめき声を上げて戻ってくる。その姿を見て、私は慌てて扉をあけた。
カミヤさんが両腕で抱えているのはオオシマ君。けれど、その背中にはユウゴさん。僕だって、怪我してるんだから優しくしてよ、といやに嬉しそうにカミヤさんの背中に抱きついている。どうやら、二人とも疲れてはいるけれど命に別状はないらしい。私は昨日のスープの残りを温めなおしに、キッチンへ走った。
温めている最中、私は、何故か涙でぐちゃぐちゃになっているオオシマ君を、タオルで拭いた。カミヤさんが手当てをしているユウゴさんの右足は、途中で会った竜族にやられたのだそうだ。あの女、むちゃくちゃだよ、とそれでもユウゴさんは笑って言ってのける。物音で目を覚ましたシムラさんが、黙ってお風呂を沸かしに行った。
「オオシマ君……」
ごめんね、私のせいで、こんなにぼろぼろになって。小さい体で、命がけで交渉に行ってくれた彼に、私は感謝と、謝罪とが入り混じった気持ちでタオルを動かした。
「お姉ちゃん……」
それだけいって、オオシマ君が私に擦り寄ってくる。柔らかい毛。温かい体温。私にいう資格はないかもしれないけれど、無事で良かった……。
地竜一族には、会えたらしいけれど、葉っぱは盗んできたらしい。ごめんなさい、とオオシマ君は消え入りそうな声で囁いた。
「御頭……僕、盗んじゃいけないって知ってたのに、悪いことだって知ってたのに……」
そういって、オオシマ君はぐすぐすとまた泣き始める。カミヤさんは、もういい、とオオシマ君を撫でた。
「で、これどうやって使うの?」
重苦しい空気に耐えられなくなったのか、ユウゴさんが無理矢理明るい声を出す。
「お酒作るときみたいに、汁を取り出すんだ」
それに応えようと、オオシマ君も必死に笑顔を作る。
「何で、知ってるんだ?」
カミヤさんが、そう問えば、オオシマ君は少し考えて、夢で見たの、と答えた。
「夢?」
「始まりの夢。本当かどうかは分からないけど、すごく長い夢。皆ずっと争ってばっかりで……。僕がこれ持ってきたら、また新しい争いが起きるっていわれたのに、僕……」
地竜に幻を見せられたんだ、とユウゴさんは補足してくれる。
「カミサマに逆らってね、カミサマが水をくれなくてね、人間と人狼が仲悪かったの。すっごく痩せた人狼が、同じくらい痩せた人間から、子供奪って、自分の子供に食べさせるの。人狼は人間食べちゃいけないのに、ウサギがいなくて食べられないからって……」
ぴし、と音を立てるように、カミヤさんとユウゴさんの表情が変わった。
「……そうか」
苦い声で、カミヤさんは呟く。
「御頭。僕、あんなの嫌だよ……。シムラとお姉ちゃんが死ぬのもやだけど、みんなが苦しいのも嫌だよぉ……」
そういって、膝の上で丸くなったオオシマ君を、カミヤさんは彼が落ち着くまで撫で続けた。
◆ ◆ ◆
「じゃあ、ヤシュウ……シムラ君のお父さんは本気でシムラ君を血祭りにあげるつもりなんだ」
出かけていた間の情報交換をし終えた後、ユウゴさんは少し寂しそうな声でそう呟いた。
「今更、だけど、迷惑かけて、ごめんなさい……」
苦い顔のユウゴさんに、シムラさんは頭を下げる。
「ちょっ……シムラ君が悪いんじゃないって。っていうか、もう、何もかも、僕らが勝手にやってるんだから……あ、謝んないでよ。ねぇ、顔上げて」
ユウゴさんは必死にシムラさんを宥めた。
「けどさ、イナダさん……だっけ? 彼はシムラ君の言うとおり、信頼できるかもしれないよね」
その言葉に、カミヤさんはすぐには頷かなかった。
「……御頭?」
疲れすぎて人型が取れないのか、狼の姿で私の膝にいたオオシマ君がカミヤさんを見る。
「信頼には足る人物だと思う。けど……彼にシムラは守れない。彼はヤシュウの部下だ」
あぁ、とユウゴさんは頷いたけど、私はその言葉の意味が分からなかった。私は彼らのことを何も知らない。
生まれてからずっと、私は、人狼と吸血鬼は恐ろしい生き物だとしか教えられてこなかった。人を攫い餌にする人狼。人の血を吸い、自分の部下にする吸血鬼。部下にした人間は、人狼との闘争の駒にされると聞いていた。人狼に会ったら、吸血鬼に会ったら、死ぬしかない。彼らに殺される前に、自分で死ねと、教えられてきた。人の多いところに逃げちゃいけないよ。他の人まで巻き添えを食ってしまうからね。そう、何度も教えられてきた。でも、それが私の知っている人狼と吸血鬼なら、ここにいる彼らは何なんだろう。
「それでもあの人は、シムラを見つけたら、自分に教えてくれって言ってた。シムラのこと頼むって、頭下げてた」
カミヤさんの言葉に、ユウゴさんは少し面食らったような顔をする。
「あのプライドの高い吸血鬼が? 頭下げる? 信じらんない……」
そうなのか? と問うたシムラさんに、ユウゴさんは頷いた。
「竜族と争う誇りの高さだからねぇ……たかび……」
高飛車、と続けようとして、慌てて口を閉ざす。目の前にいる彼も、その吸血鬼だ。四百年のあいだ、幽閉され続けた吸血鬼。
「あのさ、もし出来たら、なんだけど……」
ユウゴさんの言葉を気にする風もなく、シムラさんが、二人の方を向いて声をかけた。
「シホは、まだ帰れるんじゃないかな」
突然自分の名前が出て、私は一瞬頭が真っ白になる。
「勝手に、連れ出して、こんなこというのは無責任かもしれないけど、シホは、まだ帰れるんじゃないのか」
私に、カミのところへ帰れというのだろうか。だったらどうして、私をあそこから連れ出したの。どうして……
「わ、私は……」
「人間は、ユニコーンを崇拝してる。カミとは別の意味で。だから、ユウゴさんが連れて帰れば、大丈夫だと思うんだ」
怪我が治ってからでもいいと思う、とシムラさんは付け足す。帰るのは、村の方か……。
「確かに、カミもシムラ君を殺す気はあるみたいだけど、シホちゃんについてはノーマークみたいだよね。それは出来るかも。……そうする?」
ユウゴさんの深い青が、私の目を覗き込んで問うた。村に、帰る……
――あんたはカミに仕える巫女でしょ。私に出来て、あんたに出来ないこと。何だか分かる?
頭の中に甦った声。親友だった彼女の声。
「私は……迷惑かもしれないけれど、ここにいたいです」
――ちょっと顔が可愛いからって、自分が本当に愛されてると思ってんの?
そうだ、もうあの村に私の居場所はない。
「でも、今を逃すと帰れなくなっちゃうよ」
僕なら大丈夫だから、遠慮しないで、とユウゴさんは優しく言ってくれる。けど……
――出来損ないみたいだけど、それって巫女の印だもんね
彼女がそういって笑ったのは、私の胸にある三角形の赤い印。本当なら菱形のはずなのに、私のは何故か三角形だった。そのせいで……嫌だ、思い出したくない。もう、思い出したくない。
「あの村に、私の居場所はもうないですから」
「どうして……」
同じ人間はいなくても、ここにいる方がずっとずっと居心地がいい。あの村に、帰る場所なんてない。
――抱けない女は意味がないってさ
「いやなのっ! 帰りたくないっ。帰りたくないっ……」
突然叫んだ私に、ユウゴさんはあまり驚きもしなかった。
「僕ら、シホちゃんがいて迷惑だなんて思ってないよ。ただ、帰りたかったら帰ってもいいっていっただけだ。ここにいたかったら、ずっとここにいて。その方が、オオシマ君も喜ぶからね」
いわれたオオシマ君は、膝の上から私を見上げて、すぴ! と鼻を鳴らす。立ち上がり、お姉ちゃん、ずっとここにいてね、と優しく顔を舐めてくれた。
たとえここで殺されたとしても、居場所のないあの村に帰るよりは、ずっとずっと幸せだ。私は、誰かと結ばれることがないのだから。
◆ ◆ ◆
「カミヤぁ。ちょっといい?」
長旅の疲れでぐったりしていたオオシマを、シホが寝かしつけに行くというのでついでに彼女にも寝るように告げ、しばらくしてからのこと。とっくに寝ていると思ったユウゴが二階から降りてきた。
「何だ、寝てたんじゃなかったのか? 話は明日起きてからでも遅くないだろうが」
そういいつつ、俺はユウゴのためにポットに残っていた紅茶をカップに移す。シムラは、と問えば二階で何かやってる、との曖昧な答え。
「オオシマ君がとってきたパベルの葉を量産するって言ってた。あの子、知識はあるから任せておいていいんじゃないかな。どうせ逃げられないだろうし」
そういって、俺から受け取ったカップに口をつける。
「そうだな。で、何か用だったのか?」
「うん。ちょっと……」
いつものこいつらしくない。何だ、と少しきつい口調で問えば、やっとこいつは口を開いた。
「これからのこと。カミヤは、どうしたいのかなって」
「俺?」
何が、言いたいんだろう。
「うん。君の気持ち、今のうちに確認しておきたいんだ」
「どういう、意味だ」
言葉の真意がつかめない。こいつは、いつだって一番大事なことを言わない。今だって、例に漏れず、俺の問いには答えない。
「いつか、云ったよね。僕は君を守るって。だから、カミヤがもし降りるなら、ここから先は僕が引き受けるよ。そのくらいの力なら、僕にはあるから」
妙に悲壮感に満ちた瞳。何が言いたいんだ、こいつは。
「今の君は、人狼一族全員の命を預かっている、大事な存在だ。昔みたいに、馬鹿やって、ごめんなさいで済む存在じゃない。だから、強制はしないよ。二人を連れて帰って、僕が二人を守る。もう二度と、君に迷惑はかけない」
「お前……」
今回は……今回になって、俺はこいつの言いたいことがやっと分かった。
竜族の女に、以前目をつけられたユウゴは、何の成り行きだかは知らないが、俺の名前を口にしたらしい。それを真に受けた彼女は、うちの一族に乗り込んで、大暴れをした。幸い、死者は出なかったものの、怪我をしたり、森の一部は破壊されたりで、それなりの被害を受けた。俺も多少の傷は負って、それ以来、ユウゴは俺に妙な気を遣うようになった。本人は、そんな風に振舞っているつもりはないのだろうが、あいつは俺とのあいだに変な一線を引いて、俺を避けている。
シムラの噂を聞きつけたユウゴが、俺のところを訪れた理由は……、危険を冒してまで、地竜のところへ行くのを買って出た理由は……、今こうやってシムラとシホを守ろうとする理由は……全部……
「お前、ふざけんなよ」
「な……ど、どうしたの? 痛っ。カミヤ、痛いって……放せよ」
軽く腕を掴めば、苦痛に顔を歪めて抗議する。こんな弱いくせに。ふざけやがって。
「お前、そんなんで気ぃ遣ったつもりか?」
「な、何の話だよ。何いってんのか意味分かんないよ。放せって!」
深い青色の瞳が、俺の方を向かなくなったのはいつからだったんだろう。こんな風に、脅えるように俺を見るようになったのは、いつからだったんだろう。
「お前、俺のこと何だと思ってんだよ……。俺は、そんなに頼りないか?」
「え?」
不意をつかれて、一瞬だけ恐怖が消えたのだろうか。ユウゴが俺を見上げる。
「確かに、あの時うちの一族は、あの馬鹿女のせいでいろいろ壊されたし、怪我人も出たし、被害は受けた。けど、誰も死ななかっただろう? 俺は、死ななかっただろう? それで何が不満なんだ」
だって、とユウゴは消え入りそうな声で呟く。
「あの時、僕がカミヤの名前を言わなかったら、皆が傷つくことはなかった。カミヤが怪我することもなかった。僕の不用意な一言が、人狼一族の皆を、竜族に狙わせる嵌めになるなんて思ってなくて……。だから、全部、あれは僕のせいで……。本当なら僕は、皆に責められても文句ないのに、カミヤもココノエのおじさんも……皆、僕のこと責めないで……だから、僕は……ずっと……」
あの時の罪滅ぼしでも、するつもりだったのだろうか。……馬鹿な奴。
「お前、どこまで馬鹿なんだ? 本気でうちの一族が切れたら、お前なんてとっくに腹の中だぞ?」
あの竜族の女はともかく、ユウゴ一人くらいなら、俺一人で倒せる。こいつなんて、酒の肴くらいにしかならないだろう。
「で、でも……僕のせいで……」
「鬱陶しいわ! この馬っ! 昔の話を蒸し返すな。大体、普段は馬鹿みたいにべたべたべたべたしてくるくせに、ちょっと状況が悪化すれば妙な気ぃ遣いやがって。その無駄な気遣いが腹立つんだよ。うちの一族、なめんじゃねぇぞ」
そういって、もう少し腕を掴む力を強めれば、痛い痛いと、暴れる。……本当に、弱い奴。
「ちょっ……ほんと、もう放せよっ! あー……もう、赤くなっちゃったじゃないかぁ。しかもまた馬って言った!」
少しは吹っ切れたのか、ばしばしと人のことを叩いてくる。あの気持ち悪い一線が消えて、嬉しいことは嬉しいけれど、やっぱりちょっとこいつは鬱陶しい。
「えぇい、叩くなっ! で、話はもういいのか? 良かったらもう寝ろ。お前眠さで鬱陶しさが増してるぞ」
そういえば、ユウゴはひどいよぉ、と笑いながら絡んでくる。……本当に、もう寝て欲しい。そう思ったら、ユウゴは小さい声でありがとう、と囁いた。
「あのさ、それでも、僕は、カミヤが望むなら、シムラ君とシホちゃんを連れて逃げるよ? もう君のため、なんていわない。一つの選択肢としての話だ」
その言葉は、その選択肢は、確かに一理ある。ユウゴは竜族も近づけないような深い深い山奥の、そのまた深い谷の底に住んでいるらしい。代々ユニコーンに受け継がれる秘境なのだと聞いた。俺すらも、連れて行ってもらったことはないけれど、多分、俺がここで降りれば、ユウゴは二人を連れてそこへ逃げてくれるだろう。竜族すら知らない、どこか遠い世界へ。
希少種でありながら、ユニコーンが一度も絶滅していないことからも、そこの安全性は確実だ。けれど、それでいいのだろうか。シムラは……それでいいのだろうか。
生まれてからずっと幽閉されてきたシムラ。守るという意味はあったとしても、また世界から遠ざけ、一人にするのはいいことなのだろうか。シホも、同じ人間の仲間のいないところで生きるのは、いいことなのだろうか――。
「もちろん、ずっとそこに隔離しようとは思わない。シホちゃんだって、今は帰りたくないなんていってるけど、やっぱり家族や仲間は恋しいと思うんだ」
僕には分からないけどさ、と少し寂しそうな口調で、ユウゴは続ける。
「それに、シホちゃん可愛いから。きっと帰りを待ってる男の一人や二人や三人くらいいても普通だと思わない?」
確かに彼女は可愛いけれど、ユウゴの言い方だと可愛いというよりはとんでもない男誑しだ。
「いや、それはないだろう……」
「何でさ」
俺の言葉を取り違えたのか、カミヤには女の子を見る目がない、と真顔で反論してくる。
「あのな。彼女はカミに仕える巫女なんだぞ。それが何を意味するかくらい、お前だって分かるだろうが」
カミに仕える巫女は、処女でなくてはならない。そして、それを厳密に守らせるのが彼女たちの胸にある巫女の印。それは……
「あぁ、あの、男除けの印? あんなの、迷信でしょ? 確かに彼女たちの胸に、そういうのがあるって聞いたことはあるけどさ、それ見ただけで男が手を出さないなんてことはないだろうし」
……さて、どう否定したものか。
「あのさぁ、もしかしてとは思うけど、うっかり実践済みとかそういうことはないですよねぇ、カミヤさん?」
……妙なところで勘のいい奴め。あぁ、その通りだよ。リビングでうとうとしていた彼女に手を出そうとしたのは事実だ。
「大方、寝込みを襲ったんだろうけど、それって男として最低じゃない?」
「未遂だ、未遂!」
俺のいいわけも虚しく、ユウゴはもう一度、最低だ、と言い捨てた。
寝ている彼女に触れようとした瞬間、電流のようなものが走ったのだ。傷の手当をしたときも、日常で手が触れたときも、一度だってそんなことは起こらなかったのに、明確な目的……言ってしまえば下心を持って触れようとした瞬間、彼女には触れられなくなった。あたかも一枚の薄い膜に包まれているように、彼女の周りにはカミの加護という守りの力が働いている。
「僕は女の子に興味がないし、オオシマ君はまだ子供だし、シムラ君もある意味お子様だから、一番の危険人物は君か……」
そういって、何故か哀れむような視線を寄越したユウゴを、俺は軽く引っ叩いておく。
「あぁ、もう、カミヤが馬鹿なことするから真面目な話が逸れちゃったじゃないか。で、どうする?」
「あー……」
結局、俺はどうすればいいのだろう。どうしたいのだろう。
「冷静に考えれば、あの二人を拾った時点で見なかった振りをするのが一番良かったんだろう。そこまでしなくとも、こんなに隠す必要はなかったはずだ」
「それを言ったら終わりだよ。そういう過ぎたことはなかったことには出来ない。だからもう、前に進むしかない」
そう、今更後戻りは出来ない。けれど、俺はどう進めばいい。ユウゴのいうとおり、今の俺は、自分の都合だけで一族を巻き込むわけにはいかない。だけど……シムラは……。同じような疑問が、思考の中で螺旋を描く。ぐるぐると、止まらない。
「急かすようないい方して、ごめん……」
そんな俺の思考を見抜いたのか、ユウゴはふと自嘲するような笑みを浮かべて俺を見た。
「ごめん、今、酷いこと云ってるの……分かってる。君の宝物。ずっと探してた宝物。人質に取るなんて、最低だよね」
――答えは、最初から、出ていた。ただ、気付かない振りをしていただけで。
オオシマがこいつらを拾ったあの日から、むしろ、シムラが生まれた日から……答えは――
「ユウゴ? 俺は、降りない。たとえ全面戦争になったとしても、俺は降りない。でも、最後まで、誰も死なないように、考える。俺の首だけじゃ足りないかもしれないけど、絶対に……降りない……」
シムラを自分の所有物にしようとは思っていない。けれど、ずっと欲しかった宝物だ。みすみすカミになんて渡してたまるか。
「じゃあ……僕らは、最後まで生き残る。生きて……みんなが笑っていられるように、絶対生き残る」
頷いた俺に、ユウゴはこの上なく嬉しそうな声を上げた。
翌朝、俺はとんでもない光景を二階で目にすることになる。
◆ ◆ ◆
「シムラ。シホも起きて来たから、そろそろ寝に行ったらどう……どぅあぁっ!?」
あまりの光景に、うっかり叫んだ俺の異変に気付き、ユウゴ達が一階から、どうしたの、と声をかける。
「シムラ、お前、それ……」
驚く俺の姿を、珍しい生き物でも見るような目で、シムラは部屋の真ん中から見ている。
「このくらい、あれば足りるか? 何ならもうちょっと量産するけど」
「……充分……だと、思う……」
部屋の中は、部屋の中だというのに草が生い茂っていた。床だったところにはパベルの葉のじゅうたん。壁だったところにもパベルの葉が覆いつくして『逆・蔦の館』みたいになっている。
「どうかしたの? って、うぎゃっ! どうしたの、これ」
返事をしなかった俺を不審に思ったのか、ユウゴたちが上がってきた。部屋の有様を見れば、俺が何もいえなかったのも分かるだろう。
「これ、シムラさんがやったんですか?」
シホが恐る恐る問えば、シムラは得意げに頷く。
「前に、シホの傷治しただろ。あれの植物版。水に俺の血を混ぜて、植物をさして置けば、こんな感じで増えるんだ」
そういわれても、この場にいる全員は、増えすぎだ、と思っているに違いない。
「元の株はここだけだから、床や壁には根を張ってないし、刈り取るのも難しくないぞ。酒は大量の材料からほんの少量しか出来ないから、いっぱいあった方がいいかと思って」
「そ、そうなんですか。すごいですね。あ、でも、傷は痛くないんですか?」
この事態にいち早く順応したのがシホだった。シムラを気味悪がることもなく、優しく褒めて、傷の心配をする。シムラは、血を入れたのは一滴だけだから全然大丈夫、と笑った。俺の後ろでユウゴが、一滴でこれって、空恐ろしいものがあるよね……と呟いているのは聞こえないことにしよう。
「それに、植物の方が得意なんだ。怪我を治したのはシホが初めてだったし……」
シムラが、ふとそんなことを漏らす。
「イナダは、吸血鬼だから、俺の血じゃ怪我治せなくて……。植物は、花も咲くし、葉っぱが元気になったりして……何回かやったことあるから……」
「花も咲かせられるんですか?」
そういって、シホは心底驚いたように繰返す。頷いたシムラにシホはでもね、と付け足した。
「無理はしないで下さいね。一滴でも、傷をつければ痛いから」
シホの言葉に、シムラがたいした傷じゃないから大丈夫だよ、と笑う。
「けど……小さい傷でも、つければ痛いです。痛いのは……皆嫌ですから」
食い下がったシホに、シムラは少し呆気に取られたような顔をして、それから頷いた。痛いのは皆嫌。そう。痛いのは誰でも嫌だ。出来るだけ痛くない方法で、物事を進められればそれが理想だけど、一体どこまでそんな甘さが通用するのだろう。でも、それを否定すればシホの優しさを否定することになってしまうような気がして、俺は積極的に否定は出来なかった。
それからその日は、全員でパベルの葉からエキスを搾り取った。昔使っていたのは量産用で、緑色の不純物が残る粗悪品だったらしい。部屋一面のパベルの葉から、小瓶一本しか取れなかった透明のそれは、一滴でものすごい消臭作用を示す極上品に仕上がっていた。
そろそろ一族が帰ってくる。彼らが帰ってきたら、シムラの服を見つけさせて……そこからは命がけ。
無事にシムラたちを隠し通せるのか。それとも……いや、逆のことは、考えないことにしよう。俺たちは、絶対に生き残るんだから。
▼第十章:偽装
「かっしらぁ。本当に、そんな服、落ちてるんですかぁ?」
半獣の姿のまま、チキが叫ぶ。完全な人型より、頭が狼の半獣の姿の方が嗅覚は鋭くなるから、匂いを頼りに服を探す今は、こっちの姿の方がいい。その代わり、急所である尻尾が出てしまうのが難点だが、人型のときより格段に鋭くなっている嗅覚があれば、敵の接近も気付きやすいので、あまり問題にはならない。こげ茶色の狼の頭、腕の外側を覆う硬い毛。人間がイメージして恐れるのは、この姿だろう。自分に似ているくせに全く違うから怖い。自分と違うものを、彼らは極端に恐れ、排除しようとする。……いや、それはどの種族も一緒か。
「イナダ殿の話なら、この辺のはずだ。もう少し、頼む」
俺は一昨日作った筋書き通りの台詞を口にする。
「はいよっ! しっかし、なんともやるせねぇ依頼だなぁ……」
俺の言葉を特に疑う風もなく、チキと仲間たちは辺りへ散っていった。
「とりあえず、シムラは死んだことにすればいい。シムラが最初のときに着てた服はここにまだとってあるから、これを俺が適当な場所に捨ててくる。それをうちの仲間に見つけさせて、イナダ殿に渡す。そうすれば、あっちはシムラが死んだと思い込むだろう」
パベルの蒸留物が完成した翌日、俺たちは作戦会議を開いた。俺たちの目的はシムラとシホをカミから守ること。出来れば、カミと犠牲なくして和解したいけれど、それはまあ、今すぐには無理だ。そして、そのための第一目標は、カミにシムラを捧げる約束をしたヤシュウにシムラを渡さないこと。そのための手段が、シムラの死亡偽装。朝日を浴びた吸血鬼は灰になって消える。だから、そういうことにすればいい。あそこでオオシマが拾わなければ、実際辿っていたであろうシムラの運命だ。別に何の違和感もない。灰は、これだけの日数が経てば、大地に散ってしまうから回収は不可能だ。どう考えても、問題はない。
「けど、お姉ちゃんはどうするの? お姉ちゃん一人、森でこんなに長い間生きていられるとは思わないんじゃないのかな……」
オオシマが、もっともな問いを口にする。子供だ、子供だと思っていたけれど、地竜のところから帰ってきて以来、オオシマは少しずつ大人びた表情を見せるようになってきた。
「シホは、しばらくの間ここに完全幽閉状態でいてもらおうと思う。オオシマのいうとおり、森で生き延びてました、といっても、結局は吸血鬼一族から問い質されると思う。それはあまりしたくない」
シホは、行方不明のままにしておきたい。しばらく……二、三年経って、いつか村へ帰ることになっても、ずっとユニコーンと一緒にいた、といえばいいだろう。シムラが以前言ったように、人間はユニコーンを奇跡の聖獣といって崇拝しているから。
さしあたり二人の命の安全はこれで確保できる。その先は……また違う意味で命がけ。状況にもよるけど、やってみたいことがある。ただ、その話をしたら、ユウゴは呆れ果て、シホはできれば、いいですね、と控えめな一言を呟き、シムラは沈黙したままで、オオシマは下を向いた。……笑われなかっただけマシか。けど、人間が奇跡の聖獣と呼ぶユウゴと、血の穢れを知らない翼のシムラがそばにいると、自分の夢物語すら現実になりえそうな錯覚を覚えた――。
「御頭っ! もしかして、これじゃないんすか? 残骸」
チキの声で俺の意識は現在に引き戻される。半獣姿のまま、手には黒いものを持って、彼は帰ってきた。俺が昨日隠したシムラの服だ。俺は怪しまれないように、きょとんとした顔をする。
「あ? どれだ。見せてくれ」
そういって、チキからシムラの服を受け取り、じっと見る。マントと服。マントは汚れてはいるけれど、艶やかな黒の表に、品のいい深紅の裏地。中に着ていた服は柔らかい素材で出来ていて、着心地が良さそうだ。
「……うーん、確かに、吸血鬼の正装だな」
俺の言葉にチキは頷く。
「しかも、この生地からいって相当上位の奴が着てるものですぜ」
マントの艶が違う、ともの珍しそうにしてそっと撫でる。
「うん。イナダ殿に、見せてみよう。皆、ありがとう。ご苦労だったな」
礼を言って解散にする。
「気にせんでくださいよ。こんなの朝飯前でさぁ」
「おう。そうだ、そうだ。さっさと持ってってやんな。気の毒なことに、なっちまったけどな……」
仲間には、イナダさんの息子が行方不明ということにしてある。イナダさんを詳しく知る奴はいないので、特に問題ないだろう。何なら、後でイナダさんに伝えておけばいい。
第一段階、無事、終了。次が難関だった。
◆ ◆ ◆
「カミヤさん? あの、どうして、イナダさんにシムラさんのこと教えてあげないんですか?」
作戦会議の夜、シホは俺にそう問うた。イナダさんが訪れた時、俺が彼と話している間中、シムラがイナダさんに会いたいと繰返したというのは、あの後シホに聞いて知っていた。けれど――
「吸血鬼は、血の繋がりを持った部下の感覚を共有できるんだ」
シホの問いかけに、シムラは自分でそう答えた。
「それ、どういう意味ですか?」
彼女は吸血鬼のことを知らないのだろう。きょとんとして聞き返した彼女にシムラは更に言葉を加える。
「吸血鬼が、他の奴の血を吸って自分の部下にするっていうのは知ってるよな」
頷く彼女。吸血鬼が部下を作るとき、自らがまず血を吸い、それから自分の血を与えるのだと、シホの傷を治した時にシムラが説明した。
「そうやって血を交換すると、その部下が見たもの、聞いたもの、そういう記憶が分かるようになるんだって」
俺はやったことがないからよく知らないけど、とシムラは続ける。横でオオシマがすごいや、と声を上げた。
「もちろん、結構力使うから、あんまりしないらしいけど、父親は多分できると思う。だから、イナダが俺を見たり俺の声を聞けば、父親はそれを知ることができることになるんだ。」
そこまで言えば、シホも理解したのだろう。なんともいえない顔で、黙って頷く。
俺だって、二人を会わせたくないわけじゃない。けれど、どうしても会わせるわけにはいかない。あの時は興奮していて忘れていたのだろうけれど、落ち着いたシムラはそれをすぐ理解した。いつからか、イナダに会いたいと、シムラが口にすることはなくなった。本当は、今すぐにでも会いに行きたいだろうに。
『親父』でもなく『ヤシュウ』でもなく、シムラはヤシュウを『父親』と呼んだ。そこには家族への愛情も、憎しみも、何も込められていない。父親というただの役割を名称にして呼んでいるに過ぎない。血の繋がりしかない父親より、ずっとそばにいたイナダさんの方が、シムラにとっては大きな存在なのだろう。彼の話をするときのシムラは、本当に幸せそうな顔をする。その彼から隔絶された今、シムラがどれだけ心細い思いをしているのかは想像しきれるものじゃない。
「だから、今は会えない。けど……今は逃げてるだけだけど、俺は……もっと強くなって、イナダに会いに行く」
そういって、シムラは笑った。結構無理した笑顔だったけれど、それが今のあいつの支えなのは考えなくても分かる。二人がまた一緒に笑える時間が来ますように。俺には祈ることしか出来なかった。
◆ ◆ ◆
「……そんな……」
シムラの服を目の前にしたイナダさんは、これ以上ないくらいに目を見開いて絶句した。
「申し訳ありませんが……」
俺の言葉も、耳に入っていないのだろう。彼は虚ろな瞳のまま、震える腕でシムラの服を抱く。
「……若……シムラ、様……」
シムラの無事、それが彼のすべてだったのだろう。
号泣。哭泣。自分の生のほとんどを費やした存在の残骸を抱いて、彼はその名を叫び続けている。
本当なら、今すぐにでもシムラに会わせてあげたい。シムラは無事です、と伝えてあげたいけれど、それは出来ない。見ているこっちまで辛くなるような姿で、彼はシムラを呼び続けた。
「情けないところを、お見せしてしまいました」
それでも、使者の役目を果たすべく、彼は必死に涙を堪え、俺に頭を下げた。
「いえ……力になれず、申し訳ありませんでした」
俺の言葉に、彼はとんでもない、と首を振る。
「この服が見つかっただけでも、感謝しております。私一人の力では、これを見つけることすら出来なかったでしょうから……」
そういって、無理矢理明るい表情を作ろうとする。私の、全てだったんです、と彼は呟いた。
「カミヤ殿は、お子さんは?」
俺は首を横に振る。子供どころか、まだ相手すらいない。それでも、彼は気にした風もなく話を続けた。
「私は、人間出身でしてね……人間だった頃は、狩人をやっておりまして……ほとんど家に寄り付かなかったんです」
俺は黙って話を聞く。彼も、ただ淡々と話し続けた。
「自分の子供と、まともに遊んでやったこともなかった。それなのに、そんな私が彼を育てることになった。正直、主人を恨みました。成長の遅さも、ありますしね……」
そう。俺たち人狼やシムラたち吸血鬼は、人より寿命が長い分、成長も遅い。成体である時期が長いのではなく、一生の時間が引き延ばされているのだ。だから、オオシマは三百年生きているのにまだ子供のままだ。
「それでも、可愛くなるんですよ。情が移るんでしょうね……。初めて名前を呼んだとか、初めて歩いたとか……もう四百年近く前のことなのに、未だにはっきり覚えているんです」
俺には分からないけれど、親とは、そういうものなのだろう。血は繋がっていなくても、彼はシムラの親だ。
「どのくらい、離れたところにありましたか?」
「え?」
突然変わった話題に、俺はついていけず聞き返す。
「この服は、カミの洞窟からどのくらい離れたところにありましたか?」
「そうですね……結構、こっちに近かったから、相当離れていたかと……」
オオシマが見つけたところもそのくらい離れていたから、別に不審に思われることはないだろう。そう考えて答えると、彼は少し嬉しそうにして良かったといった。
「少しは、外の世界を見られたんでしょうね」
「おそらくは」
そう答えると、彼は嬉しそうにする。
「ずっと、狭い部屋にいたんです。星も、見られたんでしょうね」
「まぁ、夜でしょうから……」
狭い部屋は分かるけれど、星……シムラは星が好きだったのか。月光浴に行った夜には、星のことなど話題にもならなかったけれど……。
「友達を作って、皆で星を見に行くのが彼の夢だったんですよ。きっと、一緒にいた人間の巫女と……見られたんでしょうね」
シムラは、あの日星を見ることが出来たのだろうか。
「そういえば、人間の巫女は見つかりませんでしたか?」
はたと気付いたように、彼は俺に問う。
「いや……随分日数も経ってたし、匂いで探すのもちょっと出来なくて……」
俺の答えに、彼はそうですか、と頷いた。
「彼女にも、会えるものなら会ってみたかった。私の知らない彼を知っている唯一の人物ですからね」
そういって少し笑って、過保護ですねぇ、と呟く。ひとしきり話して、落ち着いたのか、彼はさて、と立ち上がった。
「どうも、いろいろとご迷惑をおかけいたしました。このお礼はまた日を改めて……」
「そんな。礼なんて……結局何の力にもなれなかったわけですし……」
それでもイナダさんは俺に向かってありがとうございました、と頭を下げる。
彼が消えた闇に、ひどい罪悪感を感じて、俺は何度も心の中で謝り続けた。
◆ ◆ ◆
イナダさんを見送った後、カミヤさんは人狼一族の人達に呼ばれて出かけてしまった。
シムラさんはリビングの、さっきまでイナダさんがいた椅子に座ってテーブルに伏せている。ユウゴさんは、オオシマ君を寝かしつけてくると言って二階へ上がってしまったので、私はリビングに取り残されてしまった。
「あの……」
思わず声をかけてしまったけれど、何ていえばいいんだろう。けれど、シムラさんからの返事はない。沈黙がまた、支配した。
「何で……っていったんだ?」
「え?」
突っ伏したままで、シムラさんが何かいったのだけれど、よく聞き取れなかった。聞き返した私に、シムラさんは起き上がってもう一度その問いを口にする。
「何で、帰りたくないっていったんだ?」
泣いているのかと思ってたけれど、意外にも彼は泣いてはいなかった。そして、何故今その問いをされるのか、理由が分からない。
「……あの村に、私の帰る場所はありません」
この前と同じ答え。彼は、納得できないという顔をする。
「俺はよく知らないけど、家族って、何があってもそばにいられる、守り合える絆じゃないのか?」
……彼は家族について、知りたいのか。
「私には、もう家族はいません。両親は早くに死んでしまったし、たとえ生きていたとしても、私は巫女だから一緒には暮らせません。家族と離れて寺院に住むんです」
「寺院には……友達とか、いないの? その人たちのところに、帰りたいとは思わない?」
別にいじめられていたわけじゃないし、誰かと仲が悪かったこともない。でも、心から友達と呼べる存在は、いたのだろうか。
「寺院は巫女を育てるところなんですから、カミに捧げられた巫女が、帰ってきたら困るでしょ」
それでも彼はまだ不満そうな顔をしている。
「……恋人とか、いなかったの?」
「いませんよ」
恋人なんて作れるわけがない。私に恋はできない。もう、そんな話はしたくない。
「挿絵の女の人しか知らないけど、シホはどんなお姫様より可愛いよ」
「だから何だっていうんですか」
うっかり怒鳴ってしまって、後悔する。目の前の彼は、何も知らないんだ。
「……ごめん……」
ルビーみたいな瞳が、恐怖と悲しみで歪む。
「カミに仕える巫女は、誰かに好きになってもらうことは出来ないんです」
誰かに触れてもらうことも、誰かに触れることも出来ない。それどころか、相手の感情が、自分の感情が、お互いに分かってしまうから、心に閉じ込めることも出来ない。私が誰かを好きになれば、その人に触れることは叶わなくなる。そうなれば、私の感情は、私の意思とは無関係に暴露される。だからもう、私は誰も好きになんてならない。私の周りを覆う『加護』というあの忌々しい呪いを、私は自分で増幅した。誰も好きにならない。誰がどこで何をしても、私には関係ない。
「俺にいわれても嬉しくないだろうけど、俺はシホが好きだよ。会った時から、ずっと。すごく綺麗で可愛いって思ってた」
そういって伸ばされた腕。お願い、やめて。その腕が、はじかれるように戻されるのを見るのは、もう嫌だ。
「髪がさ、すごく綺麗」
白い指が、私の髪を梳くように撫でた。
「……何で……」
何でこの人は、私に触れることができるんだろう。……この感情が恋じゃないからか。そう思ったら、嬉しいのだか、悲しいのだか、よく分からない気持ちになって、涙が出た。
冷たい手でも、抱かれている感情が恋ではなくても、誰かに撫でてもらうのは、ひどく心地好かった。
◆ ◆ ◆
「ごめんね、お邪魔します」
オオシマ君を寝かしつけ、降りてきたユウゴさんは、リビングに入ってくるなり私たちを見て笑った。
「シムラ君、寝ちゃったんだ。お茶淹れたら飲む?」
私たちのことを気にする風もなく、ユウゴさんはキッチンでてきぱきとお茶の用意を始める。
「あ、あの、私やりますから……」
「え、いいよ。シムラ君、もう少しそのまま寝かせておいてあげなって」
私の申し出をあっさりと断って、彼は楽しそうにお茶の用意をする。……何だろう、この気まずさ。原因は、私にしがみ付くようにして眠っているこの吸血鬼以外の何物でもないけど。
「どうぞ。シホちゃんが淹れたのほどおいしくはないけどね」
そういって、紅茶の入ったカップを渡して、彼は笑った。
「美男美女カップル。すごく似合ってるけど、眠りにつくのは王子じゃなくて姫だよねぇ」
「違いますっ。そんなんじゃ……ないんです……」
私に触れられるということは、彼が私に抱いている感情は、恋愛感情じゃない。巫女の私にかかっている、カミの加護という名の呪い。異性を異性として意識し、好意的な感情を持ったとき発動される呪い。彼は知らないのだろう。
「あのさ、恋じゃなきゃ、シホちゃんは嫌?」
「え?」
ユウゴさんは、いつものように笑顔のまま、私に問う。恋、と限定してきたところを見ると、彼は知っているのか。
「友愛、親愛、恋愛。誰かが誰かに抱く愛情っていろいろあるけど、シホちゃんは恋愛じゃないと嫌?」
「そんなことは……」
そんなことはない。けれど、一つの感情を禁止されるということが、どれだけ不便か、それも考えて欲しい。
「好きな人がいてさ、そしたら、その人の一番になりたい。その人の意識を一番自分に向けたい。けど、その意識が、その感情が、恋愛じゃなくてもいいと思わない」
ダメかな、と少し寂しそうな笑顔を彼は浮かべた。
「オオシマ君は姉弟愛に近いものを抱いてるだろうね。僕は友愛。カミヤは……あいつはどうでもいいや。それで、シムラ君は……何だろう。恋というには幼いかな。けど、皆、君に対して、敵意は抱いていないし、無関心でもない。君が怪我をすれば、僕らは皆心配するし、悲しかったり、自分の非力を嘆いたり……まぁ、いろいろ思うだろう。それじゃ足りない?」
「……足りなくは……ないです。皆さんが、そうやって、大事にしてくれるのは嬉しいです。けど……」
今の扱いが不満なわけじゃない。彼らの感情が足りないとか、そんなことは思っていない。それでも他の感情を望むのは、私の我侭だ。
「逆に辛かったりしてるのかな」
「……どういう、ことですか?」
言葉の真意がつかめない。彼は一体何を言おうとしているんだろう。
「何か、シホちゃんっていっつも感情隠してる気がするって言うか……一歩離れたところにいる感じがするんだよね」
気のせいだったらごめん、と彼は笑う。
「オオシマ君に対してはいつも優しいお姉さんだし、シムラ君が自分の血を使えば傷の心配をする。朝ご飯作ってるところなんて、カミヤのお嫁さんみたいですごくいい感じなのに何か違う気がする。何でかなって思ったんだけど、誰かに対して、強い感情を抱くのが辛いから、一歩退いてる……そういうのかなって考えたんだ」
「……別に、そういうわけじゃ……」
恐ろしいまでに、自分の心を読まれた気がした。どうして。今まで誰も気づく人はいなかったのに。誰にでも同じように笑って、適度に相手を心配したりして、もう自分でも無意識のうちにやってたことなのに、何でそんなこといえるの。
「カミの加護ってすごいらしいね。好きになった相手には触れられない。自分を好きな相手も自分の事を触れられないって聞いたよ」
隠しても意味がないから、私は黙って頷いた。
「だから、子供のオオシマ君とカミヤにしか興味のない僕はともかく、シムラ君とカミヤには距離とるんだ」
「それは……いけないことですか?」
私は彼らに同じように接してきたつもりだ。けれど、どこかで二人には線を引いていたのも事実だ。でも、そのことで何か迷惑をかけた覚えはない。なのに何で彼はそんなことをいうんだろう。
「いけないなんていってないよ。ごめん。そんなつもりじゃないんだ……」
だったら何が言いたいのだろう。
「私の態度が……何か皆さんの不快になるようなことをしてしまったのなら謝ります。でも……もう……」
自分の心が暴露されるのも、相手の心が分かってしまうのも、もう嫌なんです。
「違うよ。僕はそんなことが言いたかったんじゃない。君がいるから、僕らもいっぱい救われてるんだって……」
「え?」
守られてばかりの私は、彼らに何か返せていたのだろうか。与えられてばかりで、何も出来ていない気がするのに。
「オオシマ君は、君のこと、お姉ちゃんって呼ぶだろ? 本当の家族みたいにして甘えてる。僕は、久しぶりに僕を利用しようとしない人間に出会ってすごく嬉しいと思ってる。君がいてくれて、僕らはすごく楽しい。そこから先のことなんて、オマケみたいなものだよ。君が笑っていてくれるから、それだけで僕らは幸せな気持ちになれる」
「そこから先って……」
聞き返した私に、ユウゴさんは悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いた。
「それは自分が一番分かってるでしょ」
そう。そこから先は、自分が一番分かっている。手をつなぐ、キスをする、抱きしめられる。恋人同士で当たり前に出来ること。私にはできないこと。
「カミサマも、ひどいよね。感情なんて、誰が誰を好きになるかなんて、決められるものじゃないのに。勝手に制限かけてさ」
否定されればされるほど、意識してしまう。出来ないといわれればいわれるほど、してみたいと望んでしまう。何かの罰なのだろうか。
「君の呪いが、いつか解けますように」
そういって、サファイアみたいな瞳の彼は私の頭をぽん、と撫でた。
「ユウゴさん……」
「ほら、僕幸運の聖獣だから」
呪いだって毒だって、何だって解いちゃうよ、とおどける。
恋が出来なくても、幸せってあるんだと、私はここでやっと気付くことができた。
そして同時に、彼がどうしてカミヤさんの隣にいるのかも、理解できたような気がした。
◆ ◆ ◆
洞窟に戻ると、カズマが私を待ち構えていた。
「イナダ様。ヤシュウ様が……お部屋でお待ちでいらっしゃいます……」
その言葉から、普段のカズマらしくない空気を感じる。分かったと頷いても、カズマは私のそばを離れようとはしなかった。
「何か、他に用でもあるのか?」
そう問うても、カズマはいえ、と首を横に振るばかりだ。それじゃあ、行ってくる、とヤシュウの部屋へ向かおうとするとイナダ様、とカズマは私を呼んだ。
「何だ」
振り返れば何かを恐れているようなカズマの表情。いよいよ、私にも終わりの時が来たか。彼が死んだと分かれば、私の存在に意味はない。
「あとで、お茶をお持ちします」
苦し紛れの一言を、カズマは何とか口にした。いらない、とは言えず、私は黙って頷いた。
「見つかったのか」
扉を閉めるや否や、ヤシュウはそう口にする。
「ヤシュウ様……」
こんなに早く呼ばれるとは思っていなかったので、私は何と切り出していいか分からず、ただ主人の名前を呼んだ。
「その顔では、見つかったのは残骸だけか」
さして残念そうでもなく、ヤシュウは私の手元に視線を移す。私の手には、人狼一族から渡された彼の服が一式入った包みが一つ。
「はい。若は……シムラ様はもう……」
その先はいえなかった。頭では理解していても、心が理解していない。心のどこかで、生きているのではないか、生きていて欲しいと、叶うことのない願いが渦巻く。それでも……
「逃げ出して、朝日を浴びて死んだか。馬鹿な奴だ」
ヤシュウはつまらなさそうに、言葉を吐き捨てた。
「ところで、翼は、残っていなかったのか」
「は?」
突然のヤシュウの問いに、私は思わず妙な声を上げてしまった。
「人狼一族から渡されたのは、これだけですが。というより、朝日に当たれば……」
灰になって全て消えてしまうではないか。翼だって例外ではない。それなのに何故――
「そうだな。朝日に当たれば消えてしまうのだったな」
いくら疎遠だったとはいえ、息子を失った衝撃というのは、ヤシュウの気を動転させるのにも充分な効果を示したようだ。まぁ、仕方ない。たった一人の息子だったのだから。
「人狼一族には、近々礼を言いに行かねばなるまいな。案内してくれるか、イナダ」
「はっ」
もうすっかり長の顔に戻って、ヤシュウは私にそう命じた。どうやら、私はまだ生きられるらしい。残された時間、沈黙を守り続けるのは辛いけれど、私が死ねば彼を思い出す者もいなくなるだろう。少しでも長く、私は彼のことを覚えていたい。少しでも長く、彼のいた証を、この世に残しておきたい。それが今の私に出来ること。
「そういえば、人狼一族の長は、何といったかな」
しばらく黙っていたヤシュウが、再び私に問いかける。
「……カミヤ殿ですか?」
そう返せば、あぁ、そうか、と一人頷く。
「そうだ。カミヤだ。若い長だったな。ココノエの息子か」
「そう聞いております」
それが、何だというのだろう。ヤシュウは、何を考えているのだろう。けれどヤシュウは、もう私を見ることはせず、そうか、カミヤか、と何度も繰返した。
▼第十一章:暴露
「先日は、愚息のために手数をかけた」
この上なく儀礼的に、目の前の吸血鬼は俺にそういった。
「いえ。あまりお役に立てず申し訳ありませんでした」
それでもこっちの方が年下なので、適当な態度も取れず、俺は頭を下げる。祭りで会った時とさして変わらない風貌で、彼は俺の前に現れた。真っ黒い髪と深紅の瞳はシムラと同じだけれど、シムラはヤシュウほど青白い肌をしていないし、頬もこけていない。シムラは母親似なのだろうか。正直、ヤシュウにはあまり似ていない気がする。相変わらずヤシュウは刃物みたいな威圧感を纏って、俺の前に座った。
先日の礼だと言って彼は、イナダさんが持ってきてくれたものより上等な酒を差し出す。そういえば、イナダさんはどこにいるのだろう。ヤシュウが俺の家を知っているはずはないので、案内してくるならイナダさんが案内してくるはずだ。それでも彼の姿はない。俺の問いにヤシュウは、イナダは臥せっている、とだけ答えた。
「ところで、カミヤ殿」
「はい?」
「服を見つけたところに、他に何か落ちていなかったかな」
ヤシュウの問いに、俺は一瞬何を言われたか分からず考え込んだ。オオシマがシムラを拾ったときも、シムラたちは特に何も持っていなかったはずだ。シホが見つかっていないことはイナダさん経由でヤシュウにも伝わっているだろうし、他に何があるのか、皆目見当がつかない。俺は素直に白旗を揚げて、聞き返した。
「……さぁ、服以外は何も……。何かお心当たりがおありですか? 物さえお分かりなら、もう一度探してきますが」
睨みつけるようにして、俺の表情を読み取ろうとしていたヤシュウが、口元を歪める。
「それは、カミヤ殿自身が一番ご存知なのではないかな」
言葉の真意は分からないが、嫌味を言われていることだけは分かる。
「おっしゃっている意味が分かりませんが……」
本当に分からないのだから、どうしようもない。一体、何を探しているのだろう。ヤシュウは冷ややかな目で俺を見た。
「ヤシュウ……殿?」
俺の呼びかけに、ヤシュウは嘲うような笑みを浮かべる。その赤い瞳を見たら、何故か背中の傷跡が疼いた。
「久しく忘れていたが、ココノエの息子カミヤといえば、四百年前、シムラの翼を奪いに、乗り込んできた愚かなガキの名前だな」
――忘れられてるなんて、都合のいいことはなかったか。
シムラの翼を見たいがためだけに乗り込んだ愚かなガキというのは、間違いようもない俺のことだ。あの時、制裁という名の私刑を下した奴の中に、ヤシュウはいなかった。けれど、人狼一族の長ココノエの息子、といえば会わずとも分かるだろう。
「あの時は子供のやることだと大目に見たが、今度はそうは行かない。さぁ言え。シムラの翼をどこへ隠した」
半殺しは大目に見るうちに入っているのだろうか。親父とクジョウさんが来てくれなかったら、俺は奴らに完全にとどめを刺されていただろう。それでも、深紅の瞳を異様な光で満たして、ヤシュウは俺の胸倉を掴んだ。
「何をおっしゃっているんですか? 吸血鬼は朝日に当たれば灰になって消えてしまうと……」
「それともシムラは生きているのか?」
かみ合わない会話。何かに憑かれたように、うわごとのように紡がれる言葉が恐ろしい。
「だから、何の話ですか?」
「確かにあの服はシムラのだが、あいつの翼は朝日には消えない。生きているか、死んだのなら、この服のそばに落ちているはずなのだ」
俺の答えに相当苛立っているのか、ヤシュウはぎりぎりと締め上げてくる。
「そんなことあるはずがない……」
朝日が当たった吸血鬼が灰になって消えることは世界の常識だ。それなのに、何でこの男は……
「あるのだよ。あいつの翼は吸血鬼の翼ではない」
「は?」
――シムラの翼は、吸血鬼の翼じゃない?
「お前ごとき人狼の若造が手に入れていい代物ではないのだ」
――だったら、誰が、どうする翼なんだ?
「最後に一度だけチャンスをやろう。シムラに伝えろ。こっちはイナダの命を預かっている。三日後の夜、月が一番高く上がったときに、我が一族の洞窟の前で取引だ」
呆気にとられる俺を残して、ヤシュウは去っていった。とてつもなく嫌な予感がして、吐き気にも似た恐怖が襲ってきた。
◆ ◆ ◆
「カミヤっ! おい、カミヤっ」
ヤシュウが去っていったのを確認して、降りてきたシムラが俺を呼ぶ。
「シム……ラ……?」
――吸血鬼の赤い瞳。赤い目が、俺を見てる。背中が痛い。背中が……
「怖くない。痛くない。カミヤは大丈夫だよ。ここは君のうちだろっ」
ユウゴにそういわれて我に返ると、周りは見慣れた自分のリビングで、背中の傷は痛くも何ともなかった。
「悪い……変なもの、思い出して……」
笑おうとしたのに、口の中がからからに乾いてうまく笑えない。俺の様子を見て、シホは黙って水を汲んできてくれた。
「ヤシュウは、何ていってたんだ? イナダがどうしたんだ?」
水を飲んで、やっとの思いで一息つくと、シムラと目が合う。
「早まった真似はするなよ。まだ時間はあるんだからな」
そう念を押して、シムラが頷いたのを確認してから、俺は口を開いた。
「ヤシュウはお前が生きていると信じている。お前の命と、イナダさんの命を取引しようといってきた」
シムラの瞳の紅が怒りで深さを増した。今にも激昂しそうな彼の服の裾を、シホが掴んで宥める。
「それ、どういうこと? 何で、シムラのお父さんはシムラが生きてるって分かったの?」
オオシマの問いに他の全員も頷いて俺を見た。
「分からん。ただ、シムラの翼は朝日に消えないんだって。それだけを繰返してた」
ヤシュウの口調は……というよりも、あの時のヤシュウは異常だった。俺自身、吸血鬼への恐怖でパニックを起こしていたけれど、彼も何か恐怖に駆り立てられるようにして俺に詰め寄ってきていた。けれど……
「何だよそれ、意味分かんない」
ユウゴの憤慨ももっともだ。どんな言いがかりを付けられるのかと思ったら、翼が朝日に消えないだ? 寝言は寝て言って欲しい。
「で、でも、シムラさんは何か思い当たることないんですか? 実は朝日に当たっても大丈夫、とか……」
シホがそういうと、シムラは黙って腕を示した。オオシマが拾ってきたとき、朝日に当ててしまった腕。火傷はもう治ったけれど、赤黒く変色した傷跡は消える風がない。
「あのさぁ、他に何か言ってなかったの?」
――あの時、ヤシュウは何ていった?
俺は必死に記憶の糸を手繰る。ついさっきのことだけど、あの赤い瞳に当てられて、記憶が混乱している。
――あいつの翼は吸血鬼の翼じゃない。
そんなことを、言っていたっけか。
「確か、シムラの翼は吸血鬼の翼じゃないって言ってた……」
その言葉に、シムラ本人は信じられないといった顔をした。
「じゃあ、何の翼だっていうんだよ」
それは分からない。第一、透明な翼なんてシムラ以外で見たことがない。鳥やペガサスの羽とは違う。シムラの翼は蝙蝠の翼だ。蝙蝠の翼を持つのは、蝙蝠と吸血鬼だけ。
「……あのさ、ヤシュウは……れっきとした吸血鬼だよねぇ。でも、シムラ君のお母さんはどうなんだろう。シムラ君、何か聞いてない?」
ユウゴの問いに、シムラは首を横に振った。シムラの母親は、シムラを生んですぐに死んでしまったのだそうだ。だから、シムラは母親のことを全く覚えていないといった。
「でもさ、シムラのお母さんって、シムラのお父さんの奥さんなんでしょ? シムラのお父さんが有名なら、奥さんも有名なんじゃないかなぁ?」
「確かに。けど、シムラが生まれてすぐに亡くなったって事は、俺たちもまだ子供だったしな……知ってんのは……」
「俺しかいねぇだろうよ。っつか、お前ぇら、何こそこそしてやがるんだ?」
閉めていたはずのドアが開いて、オヤジが立っていた。
◆ ◆ ◆
「オヤジ(さん)っ! 何でここに!?」
「おじいちゃん!」
俺とユウゴとオオシマの声が見事に重なる。シムラはシホを守るような位置に立ち、オヤジをにらみ付けている。
「何でじゃねぇよ。息子のうちに行くのにいちいち許可が要るのか? 久しぶりに可愛い孫の顔でも見に行こうかと思って来りゃあ、とんでもねぇ野郎が出てきやがるし、馬鹿な息子とその友人は最近挙動不審だし、怪しまねぇ方がおかしいだろうが」
そういって、オヤジは俺たちを睨みつける。
「いや、これにはいろいろわけがあって……だから……その……」
「お前ぇ……懲りずにまたヤシュウの息子に手ぇ出そうとしやがったのか?」
「いや、だから……」
別に出したくて出したわけではないし、そういう意味ではもうシムラがここにいる時点で出そうとしたというよりは出してしまったという方が正しいのだけど、そんなことを言ってどうにかなるわけでもない。誤魔化そうにもシムラもシホも思いっきり姿を見られているわけだから、今更知らないともいえない。……どうする。
「あ、あのねっ、シムラを拾って来たの僕なの。御頭は悪くないの。僕がシムラとお姉ちゃん拾ってきたの」
オオシマが、オヤジに叫んだ。
「僕、人間の女の子初めて見て、すごく可愛かったから宝物にしようとして連れてきちゃったの。シムラはオマケだけど。でもね、お姉ちゃんもシムラも、カミサマに殺されそうになっててね、だから、僕たち……お姉ちゃんたちを死なせないようにしたくて……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
オオシマはそういって泣き始めた。子供のオオシマに説明する役を任せてしまったのは、大人の俺たちからしてみれば情けないことこの上ない話だが、親父が一番話を聞くのがオオシマなのも否めない。俺やユウゴだったら理由も聞かず馬鹿野郎と殴られることも、オオシマが話せば大抵のことは許されるんだから、親父の親馬鹿ならぬ孫馬鹿っぷりも相当だ。今も、さっきまでの俺への殺気はどこへ行ったんだと聞きたくなる様な顔で、オオシマを宥めている。
「悪かった。爺ちゃんが悪かった。オオシマは悪くねぇ。だから泣くな。な?」
散々オオシマを甘やかしてから、オヤジは俺たちの方に向き直った。
「で、そこのお嬢さんが人間の巫女で、隣で殺気垂れ流してんのがヤシュウの息子か?」
シムラがす、と右足を引いて構える。
「あぁ、そうだ。……シムラ、安心しろ。俺のオヤジだ。お前に危害は加えない。むしろ、お前が敵う相手じゃないから退け」
そう忠告すると、シムラは大人しく引き下がった。
「カミヤの、オヤジ……父親。初めまして、シムラといいます」
そういって頭を下げたシムラに、オヤジは少し驚いたように言葉を詰らせた。
「お、おぅ、初めまして。人狼一族の先代の長だったココノエだ。そこの馬鹿息子が世話になってるみたいで申し訳ねぇ」
誰が馬鹿息子だ、誰が。しかし俺の心の叫びも届かず、オヤジはシホにもよろしくな、という。
「あの、俺の母親のこと……知ってるんですか?」
そう聞いたシムラにオヤジはまあな、と答えた。
「実際会ったこともねぇし、噂程度だけどな。人形みたいな女だったらしい」
その言葉に、俺たち全員がは? と聞き返した。
「何だ、それ。何者なんだよ、その女」
俺がそういうと、オヤジは黙れ、と一喝する。
「だから噂になったんじゃねぇか。普通の吸血鬼だったら何の噂にもならねぇよ。ヤシュウがどこからか連れてきた謎の美女。ほとんど話すこともせず、一族の前に姿を現すことすら稀だったらしいが、作り物みてぇにとんでもねぇ美女だったってのだけは有名だ。まぁ、息子の顔見りゃだいたい分かるだろう。母親似の別嬪じゃねぇか」
「……使えない情報だな、オヤジ」
何の役にも立たない情報だ。シムラの母親が、美人だろうが不細工だろうが今は関係ない。何者だったのか、が問題なのだ。
「ま、まぁ、それはともかく、ヤシュウは何しに来てたんだ?」
たいした情報じゃないことを誤魔化そうとして、オヤジは思い切り話題を逸らした。
「……だから……」
こうなってしまった以上、最初から話すしかないと腹を括って、俺はシムラを拾ったところから話を始めた。
◆ ◆ ◆
「……お前ぇ……」
ここまでの話を聞き終えたオヤジは、それだけ言って絶句した。
「仕方ないだろ? 拾っちまったものは拾っちまったんだし、見殺しにするわけにもいかねえし……それに」
「寝言は寝て言え。夢は寝てみろ。いい加減学習しろっていってんのが分かんねぇのか、この馬鹿息子がっ!」
これ以上ないくらい体重の乗った拳が右の頬に当たる。重すぎて頭が吹っ飛びそうだ。馬鹿なことを言ってるのは分かっているけれど、それでもまだ諦めきれなかった。
竜族の支配からの解放と新しい均衡の形成。あの日、俺が語った夢物語。誰もが笑うけど、俺は諦められなかった。シムラによってぶち壊された世界の均衡。それを契機に新しい均衡を作りたいと願ってはいけないんだろうか。
吸血鬼と人狼の非戦協定を、もう少し友好的なものに変えるところから。人間を交えた三種族で新しい均衡を作ることはいけないことなのだろうか。
「大体、お前ぇ、ヤシュウのところの息子人質にとって友好もへったくれもねぇじゃねぇか」
オヤジの言葉はもっともだ。けれど――
「けど、このままシムラを返したら、シムラは殺されるだけだろ? 今はまだ状況が悪いけど、もう少し時機を見れば……」
「同じだ。何も変わらねぇ。むしろ、お前のしてることは状況を悪化させることばっかりだ」
何度言ったら分かる、とオヤジは怒りを通り越して哀しそうな声で告げた。
「お前ぇが他の種族との関係を広げたい、友好的にしたいと願うのは分かる。けどな、それを他の種族は望んでいるか? それに伴うリスク背負ってまで、やってみたいという奴はどこにいる? お前が願うのは勝手だが、巻き添え食う奴の命の責任は誰がとるんだ。お前一人で、全員の命は背負いきれねぇんだよ」
……そんなことは分かってる。誰かの命を背負うことが、たった一つの命でさえ、責任をとりきれることなんてなくて、許されることもない。だけど……
「それでも……俺は諦めたくない。今ここで、起きていることが例外中の例外であっても、奇跡であっても、それでも……これも一つの現実だって……信じたい。そうじゃなきゃ俺は……なんで自分が今生きてるのか分かんねぇんだよ」
何で自分が生きているのか。あの時、禁忌を犯してまで人を喰らい、生き残った理由が分からない。もう二度と、あんなことをしなくてすむように。もう誰も、あんなことをしなくてすむように。血に染まった人間の夢を見て、恐怖と後悔と、自分の体を切り刻みたくなるような吐き気に襲われて目を覚ますのは自分だけで充分だ。
竜族の支配に脅え、互いが牽制し合い、周りは全て敵なんて状況で生きるのはもう嫌だ。完全に分かり合えることが出来るなんて思っていないけど、共有できる部分を探るのは悪いことなのだろうか。
「お前の手を血に染めたのは俺だ。だから俺はお前を責めるつもりはねぇ。けどよ、そんな都合を人間は聞いてくれんのか? 何の事情も知らない人間からしてみれば、俺もお前も、同じように人殺しなんじゃねぇのか? その俺たちを、どんな人間が信じる。あぁっ?」
――それを言われたら、そこで終り。答えは『誰も信じない』で決まってしまう。
過去とは逆のことを未来に誓うのは難しい。いつになれば信じてもらえるかなんて分からないし、大抵いつまでも信じてもらえないからだ。しかも、やらないでいることを証明するのは、やることを証明するのより何倍も難しい。障害ばかりがありすぎて、利点はあまりない。それでも、前に進めることはあると、信じることは無駄なことで、いけないことなのだろうか。
「少なくとも今は、カミヤに助けてもらって感謝しています。他の一族がどう思うかは別として、俺は、カミヤに感謝しているし、俺の服を見つけるために力を貸してくれた人狼一族の方々にも、感謝しています」
ずっと黙っていたシムラが静かに、そういった。
「カミヤがどんな奴であっても、今回の状況には関係ありません。今回の状況を作った原因は俺なんです。俺の迂闊な行為によって、カミヤやオオシマを含めた人狼一族の皆さんにも、ユウゴさんにも、迷惑をかけたこと、謝ってすむことじゃないと思うけど……ごめんなさい」
静かに頭を下げたシムラに、オヤジも俺も何もいえずただ黙ってそれを見ていた。
「俺はやっぱり、あそこに行きます」
帰ります、じゃなくて行きます。シムラにとって吸血鬼の洞窟は、懐かしい場所ではない。
「元々俺は、そのためだけに生かされていたわけだし、多分、ヤシュウも俺が戻れば人狼一族の皆さんを責めたりはしないと思いますから。その代わり、一個だけ我侭聞いて下さい。シホを……シホだけは……どうか、守ってあげて下さい」
いっそ清々しいまでの笑みを浮かべて、シムラは言い切った。何で……何でわざわざ死にに行く。死ぬのが怖いと、死から逃げることは、悪いことじゃないだろう。
「お前さんには悪いが、そうしてくれ。こっちの巫女の嬢ちゃんは、何とかする。それだけは約束する。まあ、一人で行けとはいわねぇよ。こっちも、責任は取らなきゃならねぇからな」
そういってオヤジは俺を見る。どうやら俺も、ここから追放されるらしい。哀しいよりもいっそおかしくなって、俺はひどく笑いたくなった。
◆ ◆ ◆
「本当、救いようのない馬鹿だよね……」
オヤジが帰った後、ユウゴはため息混じりに呟いた。あの後、泣き出したシホをシムラに任せ、俺たちは後始末の話をするために二階へ上がった。
「何であんなに簡単に受入れちゃうかな……」
本当に馬鹿だよ、と続ける言葉に覇気がない。
吸血鬼一族の供物を強奪し、隠し持っていた犯人。一族さえも騙した裏切り者。それが、これからの俺の役目。三日後の夜には、俺がシムラを連れてヤシュウの所へ行く。そこで俺も殺されるかもしれないし、もしかしたら生き残るかもしれない。どっちにしても、もうここへ戻ってくることはないだろう。
オヤジがまだ健在だから、俺がいなくなっても一族は大丈夫だ。シホも、オヤジとユウゴが何とかしてくれる。オオシマも、オヤジのところで暮らせばいい。
分不相応な夢なんて、見るものじゃない。イナダさんからの要請を、チキたちは快く引き受けてくれたから、何とかなるなんて思ったのが間違いだった。結局、吸血鬼と人狼は非戦協定どまりか。もう少し、分かり合えると思ったんだけど……。
「おじいちゃん、僕の話聞いてくれなかった。御頭は、悪くないって、僕が連れてきちゃったからいけなかったっていったのに……おじいちゃんは聞いてくれなかった……」
僕のせいなのに、とオオシマはもう一度繰返した。あの後、俺が一族を追放されることを知ったオオシマは、必死にオヤジに説明しようとした。けれど、オヤジがそんな話を聞くはずもなく、というより、オオシマに責任を取らせるわけにも行かず、オヤジはオオシマの言葉を無視した。今まで、大抵のことは聞き入れてもらっていたから、あそこまで無視されるのは初めての事だろう。
「お前のしたことは悪くない。目の前で怪我してるやつがいたら、助けてやるのはいいことだ。お前は優しくていい子だよ」
そう、オオシマのしたことは間違っていない。間違っているのは、俺のしたことだ。
「オオシマ。爺ちゃんに狩り教えてもらえ。お前は才能があるから、すぐ上手になる。そんで、大人になったら……いい長になるぞ」
もう少し大きくなったら、俺なんか比べ物にならないくらいいい長になるだろう。優しくて、力のある、誰にでも愛される長に。けれどオオシマは首を横に振った。
「御頭は、御頭だけだもん。僕は御頭にならないんだ。僕だって大人だから、御頭と一緒に吸血鬼のところに行くんだ……」
「ダメだ。お前の責任の取り方は、俺と一緒じゃない」
必死に俺を見上げる瞳。そこにはまっすぐで強い意思が宿っている。
「お前がもう大人なら、お前はここに残ってシホを守れ。ここで起きた秘密を守れ。それがお前の責任だ」
死ぬよりも、ある意味残酷な未来。こいつは、この先の長い生を、罪悪感と、秘密を守ることに費やしていかなければならない。それでも、どうか生き延びて。そして……
「ユウゴ。迷惑だろうけど、後始末、頼むな」
「冗談じゃないよ……」
ひどく暗い目をして、ユウゴは吐き捨てた。
「どうして僕がそんなことしなきゃならないんだよ。何で僕が、カミヤの後始末を頼まれなきゃならないんだよ」
「……親友だから」
ユウゴの目が、これ以上ないくらい見開かれる。あいつにとって、この言葉がどれだけ残酷かを知っていて使ったんだから、俺の性格の悪さも相当だ。
「なんで……何で今そんなこというんだよ……。今まで一回だって言ってくれたことなかったのに……何でこんなときに限って……最低だよ……」
そういって、ユウゴは泣いた。こいつが泣いているのを見たのはいつ以来だろう、なんて、下らない疑問が頭に湧いて、すぐ消えた。
それからの三日間は、今までどおりの日々が続いた。俺が仲間を裏切ったことは、取引によって発覚する。だから、それまでは何もなかったように俺は仲間のところへ行ったりして過ごした。
そして、取引の夜は、すぐにやってきた。
▼第十二章:取引
「悪かったな」
洞窟へ向かう道の途中、カミヤがそう隣で呟いた。
「何が」
「お前のこと、守ってやれなくて」
変な希望持たせてしまって悪かった、とカミヤは俺に謝る。
「まさか。ここまで生きてられただけで、感謝してる」
思い残すことがないといえば嘘になるけど、あそこでカミに殺されて終わるよりは、ずっとずっと楽しかった。
「外の世界でしたいことは、全部叶ったから、俺はもう大丈夫。カミヤこそ、巻き込んで悪かった」
オオシマにも悪いことをした。オオシマの大切な存在を奪うことになったし、俺たちを拾ったことで、オオシマは生涯後悔し続けることになるだろう。
「俺のは、ほとんど自業自得だから気にすんな。そんなことより、疲れてないか? お前、こんなに歩いたの初めてだろう」
馬鹿にするな。ちゃんと歩ける。それに、昨日の夜から一睡もしていないのに、不思議と辛くない。
「大して疲れてないから、大丈夫だ」
そう返せば、そうか、と短い返事。歳もほとんど変わらないし、オオシマと違って俺はそんなに親しいわけでもないのに、こいつはこうやって俺を甘やかして笑う。
「あー……何だ。シホのことは、ユウゴに任せておけば大丈夫だから、安心しろ。あいつは絶対に約束を守る奴だ」
頷きながら俺は、カミヤはシホが好きだったんじゃないのかなんて下らないことを考えた。
「あのさ……本当は、カミヤは……俺じゃなくてシホのこと……」
守りたかったんじゃないだろうか。ユウゴさんから、カミヤは子供の頃、一度だけ人間を殺して食べたことがあると聞いた。それ以来、カミヤは人間に対して罪悪感以上の何か特別な感情を抱くようになったという。カミヤが人間を食べることになったそもそもの原因はカミの怒り。そして、竜族を除く三種族は三種族で、互いに協力することもせず、領土を取り合い、命を奪い合った。そんな要因が組み合わさって、起こるべくして起きたカミヤの人殺しを、責められる奴なんて誰もいない。けれど、理由を知らない人間側からしてみれば、どんな理由があったにせよ『人狼に仲間を殺された』という結果しかない。吸血鬼にしても長年争ってきた恨みを忘れることは出来ないから、手を組もうとはしないだろう。
「どっちを、なんて思ってない。両方守りたかった。守れなかったけど……」
情けねぇなぁ、と自嘲気味に笑うそれは、いつもの優しくてあったかい笑顔じゃなくて、少し切ない笑顔だった。
「それに、シホにはお前がいるんだから、俺の出る幕はないだろうよ。っつか、今日は昼間から何してたのかなっ」
「……何もしてない。っつか見てたのか」
……見られていたのか、昼間のアレを。カミヤは何を思ったのか、どうせ最後なんだから自慢してみせろよ、と酔っ払ったように絡んできた。
「だから何にもしてないって……」
「シ・ム・ラ、お前、顔赤い……」
「お前がわけ分かんないこと言うからだろうがぁっ!」
さっきまでの真面目な展開はどこへ行ったのだろうか。これから死ぬかもしれないという状況で、カミヤはひどく楽しそうにしている。
「ほら、お兄ちゃんに言ってみなさい」
「誰が兄だ、誰が……。本当に何もしてないって……」
特筆すべきようなことは何もなかった。ただ、昼間シホに別れを告げただけ。俺は死ぬと思うけど、シホは生き残ってって伝えただけ。
「シホは生き残って、村に帰ったら好きな人と幸せになってって言っただけだ」
何も面白いことなんてない。大体、それを言ったらシホはまた泣き出してしまったんだから、俺の言葉の頼りなさも甚だしい。
「お前な……彼女は他の男に触れることも、触れられることも出来ないんだぞ。村に帰っても、そんなことできるわけないだろうが……」
カミヤは苦い顔で俺を責めた。
「だって、俺シホにさわれたぞ。ユウゴさんだってオオシマだって大丈夫なんだから、その呪い、もう解けてるんじゃないのか?」
「……そうなのか?」
俺の言葉に、カミヤは信じられないという顔をする。
「ユウゴとオオシマは特例にしても、お前がっていうのは謎だな……。いや、お前の場合シホに対して恋じゃなくてなんかもっと違う感情抱いてたとかそういうのは考えられないか」
「違う感情って?」
そもそも恋の定義が分からない。俺がシホに抱いた感情は、何だったんだろう。
「俺が知るか」
「何だよ、それ」
意味が分からない。
昼間、また泣き出したシホを、俺はどうしていいか分からなくて、ただ笑って欲しくて、涙が見たくなくて必死に彼女の涙を拭った。
「泣かないで」
よりにもよって、そんな普通の言葉しか出てこない自分の語彙のなさと、非力に、自分が泣きたくなりながら、俺はただ彼女の涙を拭う。
「シホは、生きて。必ず、生き残って」
それでも溢れる彼女の涙を見ていたら、以前オオシマが彼女の頬を舐めていたのを思い出した。あの時は狼の姿だったけれど、今の俺がやっても、彼女は許してくれるだろうか。
彼女の右頬に引かれた透明な線を、舌先で舐めたら、ひどく哀しい味がした。
「シムラ、さん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。視線で何? と問うても、彼女はその先を言わない。抱き寄せたら、初めて会った時よりも、あっさりと俺の方に来た。思っていたよりも細くて華奢な体。布越しに伝わる体温は俺なんかよりずっと高い。力を入れたら、折れてしまうだろうか。そこまで脆くはないと分かっていても、そんな幻想に囚われる。艶やかな髪。白い肌。涙で潤んだ瞳。彼女は一瞬、何が起こったのか理解できないような顔をしたけれど、その後もたいして抵抗されることはなかった。
今夜には、もう二度と見ることが出来ないと思ったら少し寂しくなる。両腕の中に入れて、このまま自分のものにしてしまいたい。そんなことが頭をよぎったけれど、所詮無理な話と諦めた。
腕の中にある彼女の体温が、ひどく心地好くて、俺は彼女を傷つけない程度に力を込めて抱きしめる。……あったかい。
「俺のこと、忘れないで」
出来れば、ほんのちょっとでも覚えていて欲しい。誰にも関心を持たれず、存在を無視されることは、存在していないのと同じ。それが惨めで、死にたいと何度も願ったけれど、今は違う。自分を覚えていてくれる人がいるから、死ぬのも怖くない。忘れないで。俺のこと、お願いだから忘れないで。あの夜、空を飛べなかった情けない翼のことでもいい。役に立たない奴だった、でもいい。何でもいいから、覚えていて。そう願えば、彼女ははい、と頷いた。
「忘れられるわけ、ないじゃないですか。私の一生は、シムラさんたちよりずっとずっと短いけど、絶対、忘れません」
そっか。すっごく嬉しい。そういったら、彼女は私のことも覚えていて下さいね、と笑った。
「あのさ、一個だけ、頼みがあるんだけど」
俺の言葉に、彼女ははい? と視線を上げて俺に問う。
「一回だけ。キスしていい?」
俺がそう聞くと、彼女は火がついたように真っ赤になってあ、とかでも、とかよく分からない言葉を繰返した。
「好きな人にするんだって。俺はシホが好きだから。でも、シホが俺のこと嫌いだったらしないよ」
相変わらず彼女は、何で、とかけど、とか謎の言葉を繰返す。……これって、いいのか悪いのか……よく分からない。けど、嫌なら嫌だといってくれると信じたい。そして、嫌だといわないということはいいということだと信じたい。……多分。それともやっぱり何か遠慮して嫌でも黙ってされるかな。それはちょっと嫌だ。やっぱり……
「シムラさん?」
「あ……」
名前を呼ばれて瞳を覗きこむと彼女は何を告げるでもなく、笑みを浮かべてそっと目を閉じた。
ふっくらとして、荒れ一つ見当たらない唇。この唇が……欲しい。そのまま触れるだけのキスをする。二回目はもう少し長く。嬉しいと泣きたくなるというのを、俺は初めて経験した。
「幸せそうだな、おい」
やる気のないカミヤの声に、現実に引き戻される。
「あ、いや……」
「ま、いいけど。っつか、ほら、見えてきたぞ」
カミヤが視線で示したところは森が開けていて、大きな洞窟が待ち構えていた。
◆ ◆ ◆
洞窟の前には、たくさんの吸血鬼がいた。顔が分かるのはヤシュウと、イナダだけ。そして、何故かカミも、そこにいる。カミの隣には、もう一人竜族の女がいるみたいだけど、俺は知らない。
一族が揃うこの場所で、カミが見ているこの場所で、俺は死ぬのだろうか。イナダは、俺を見て泣きそうな顔をしている。カミはヤシュウになにやら耳打ちをして、ヤシュウは頷いている。大方「今度こそしくじるなよ」「御意」とか、そんな会話をしているんだろう。
「やはりお前が隠していたのか……懲りない奴だな」
広場の真ん中まで来たところで、ヤシュウはカミヤに向かって笑った。
「えぇ。まさか実在するとは思っていなかったので、つい魔が差してしまいました。ご子息をお返しいたします」
そういってカミヤがヤシュウに俺を示す。ヤシュウは俺を見て、生きていたのか、と少し驚いたような顔をした。
「シムラか……?」
……たった一月で顔を忘れられるとは、俺の存在の薄さがよく分かる。
「はい」
返事をしたら、ヤシュウは、そうか、と大して興味なさそうに頷いた。
「カミヤ、シムラの翼とイナダの命が引き換えだったな。そっちからシムラを歩かせろ。こっちからイナダを歩かせる」
ここからヤシュウたちのところまで三十歩くらいだろうか。イナダを後ろから押さえていた吸血鬼が、イナダを解放する。イナダは、俺に来てはいけない、と叫んだ。
「シムラ……」
カミヤが、俺の名前を呼ぶ。大丈夫。もう、大丈夫。
「カミヤ、ありがとな」
カミヤがどんな顔をして俺を見ていたのかは知らない。俺は振り返ることをしないで、ヤシュウたちの方へ歩き出した。
◆ ◆ ◆
一歩ずつ、イナダとの距離が縮まる。ちょっと見ないうちに、イナダはすごく歳をとったように見えて、俺は少し悲しくなった。
「若……どうして……」
たった一月の間だったのに、イナダの声がこんなに懐かしいのはどうしてだろう。俺は精一杯の笑顔でイナダを見た。
「逃げたりして、イナダにはすごく迷惑かけた。ごめんなさい」
後五歩くらいですれ違うところでそういうと、イナダは首を横に振る。
「楽しかったですか?」
頷きながら、その言葉がすごくイナダらしいなんてことを考えた。
「俺はもう大丈夫だから。今までありがとう」
祭りの夜には言えなかった言葉。今はちゃんと言える。誰かに何かをしてもらったら、ちゃんとありがとうといいなさい、と教えてくれたイナダに、俺はありがとうと伝えていなかった。それだけが心残りで、それを言わなかったら死ねないと、ずっと思っていた。今ここで、最後に顔が見られて嬉しい。
「……もったいないお言葉です。あなたに仕えられたこと、心から……」
そこまで言ったところで、突然空から、雨が降ってきた。
◆ ◆ ◆
その雨は、何故か温かくて、赤かった。
俺は雨を知らないけど、顔に当たるその雫は、きっと雨だ。
空から降ってきている、雨だ。
「シムラっ」
遠くで、カミヤが叫んでいるけど、よく聞こえない。俺は、大丈夫だよ。どこも怪我してないから。痛くない。痛いのは……
「イナダぁぁぁっ」
イナダの首から、真っ赤な血が溢れていた。
「何で、何でっ……」
死ぬのは俺だったはずだろう? どうして……
「若……」
倒れ掛かってきたイナダを、俺は抱き止めた。首のところに付けられた傷は、大きくて深くて……
「イナダ……どうしよう……」
俺の血をかければ、シホみたいに治るだろうか。牙をナイフ代わりにして手首に傷を付ける。そこから垂れる血をかけても、イナダの傷は塞がることもなく赤い液体を流し続けた。
「……若……ご無事で……」
イナダの顔に笑みが浮かぶ。
「何で……何でお前が……」
こんなこと……あるわけがないのに。
「私の役目は終わったからですよ」
そんなの知らない。役目なんて知らない。俺は俺の前にいるイナダしか、知らない。知りたくない。
「若、私が死んでも、悲しまないで下さい」
「……無理だ……」
そんなことできるわけがない。
「俺はあいつらを許さない。あいつら全員殺してやる。刺し違えても絶対……」
「やめて下さいっ。……あなたのその翼を、そんなことで汚さないで下さい。あなたは、私の、宝物なんです」
一族のじゃない、私の宝物だ、と掠れた声で囁く。
「イナダ……」
名前を呼ぶしか出来ない。怪我を治すことも、守ることも出来なかった。自分は、非力だ。
「その翼と、同じくらい奇麗なあなたの心。その両方が汚されることないよう、祈っております」
「……イナダ……?」
「何があっても、あなたはあなたです。私が育てた……シムラさま」
イナダはひどく嬉しそうに笑った。
▼第十三章:覚醒
シムラとイナダさんがすれ違ったとき、イナダさんはとても嬉しそうな顔をしてシムラを見ていた。交わした言葉は少なくとも、シムラの無事を願っていた彼にとって、シムラが生きていたことは何よりも嬉しいことだっただろう。
シムラのためだけに生き続けてきた彼は、今、そのシムラの腕の中にいる。真っ赤な血の雨を降らせて。
一瞬、何が起こったのか分からないという風に、呆然としていたシムラは、今壊れた玩具のように彼の名を呼び続けている。
「ヤシュウ殿っ! これはどういうことだ」
そう叫んだ俺に、ヤシュウは嘲うような声を上げた。
「そいつは勝手にシムラを守って死んだだけだ。取引をしようとはいったが、そいつの命を保障するなど、私は一言も言っていないぞ」
……ふざけやがって。向こうの人質が意味を成さなくなった今、俺がシムラのそばに行くのも構わないだろう。俺はシムラのところまで走った。
「イナダ……何で……」
もうほとんど止まりかけた血。体中の血が流れてしまったのだろう。元々血の気のない顔は、真っ白と言っても過言ではなくなっている。
「シムラ……」
かけるべき言葉が見つからない。というより、俺の言葉なんて、今のシムラには届かないだろう。
シムラと外の世界を繋いでいた、唯一の存在が、消えてしまったのだから。
「イナダ……目、開けろ。起きろ……ねぇ、起きて……」
子供が駄々をこねるように、シムラはイナダさんの体を揺する。赤い瞳が、虚ろな光で満たされていた。
「イナダ……起きろよ。イナダ……」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、何故かシムラは笑い始める。返り血で真っ赤に染まったシムラの服。白い肌に、赤い雫が飛び散っている。瞳孔の開いた赤い瞳が、笑うのは、悲しいというより恐ろしい。あはっ、あははっ、と痙攣するように笑う声が、ひどく怖かった。
「シムラ、おい、シムラ……」
肩を掴んで揺すっても、シムラの視線が俺を捕らえることはない。完全に、壊れてる。くすくすと笑いながら、シムラはふらりと立ち上がった。
「シムラ……?」
名前を呼んでも、彼は反応しない。ふらふらと、吸血鬼一族の方に歩いていく。その背中に、あの翼が現れた。透明な翼。月下で広がったそれは、月の光を存分に受けていっそ神々しいまでの光を放つ。ゆらゆらと揺れるその光に応えるように、大地が震え始めた。
「……コウギョク。コウギョクなのか?」
震える大地に興奮したのか、ヤシュウはシムラに意味の分からない言葉をかける。けれど、シムラはそれに答えようともせず、ただふらふらと一族の方へ歩き続けた。
シムラがさっきイナダさんを助けようとしてつけた左の手首の傷からはぽたぽたと赤い雫が滴っている。そして、それが落ちた大地からは、雑草がありえないスピードで巨大化し始めていた。その辺の草がたちどころに木よりも大きな化け物のような植物に変わる。あの夜、パベルの葉を量産するときに使った彼の力はこれを最小限に抑えたものだったのだろう。
「おい、シムラっ。シムラっ!」
そういってもう一度叫べば、シムラはふわりと振り返る。狂ったような笑みを浮かべるその瞳は、いつものあの深紅の瞳ではなく、琥珀色の瞳だった。
◆ ◆ ◆
くすくすと、楽しそうに笑うシムラは、ふわり、と大きく翼を広げる。同時に爆音が鳴り響いて、大地が裂けた。
「コウギョク……お前なのか?」
爆発に巻き込まれた一族と、降りかかった土を気にすることもなく、ヤシュウは歓喜の声を上げる。
「ヤシュウ。貴様、どういうつもりだ!」
ヤシュウとは逆に、カミは激昂する。けれど、ヤシュウはそんなカミの言葉も聞こえないのか、シムラに向かって夢見心地で呼びかけている。
「コウギョクって……まさか……」
カミの横にいた竜族の女、ハルナが何かを思い出したように呟く。それを見て、ヤシュウは楽しそうに笑った。
「ハルナ様はお気付きのようですね。そうです。地竜族のコウギョクですよ」
……どういうことだ。あの琥珀色の瞳は、地竜族の瞳。シムラの母親は、地竜だったというのか? けれど、オオシマの話だと地竜は数千……いや、数万年前に体を失ったと聞いたのに……。
「嘘よっ。地竜族の子供なんて。あの一族はもう体を持つことが出来ないのよっ。カミの座は、我が天竜一族が代々担っていくもの。地竜なんて過去の遺物、伝説の生き物ですわっ」
カミの座がどうかは別として、最後のところはハルナの言葉が正しいと思う。
「えぇ。体自体は失いましたよ。しかし、彼らは大地と同化した。大地の物を再構成して体を作ったとしてもおかしくはないではありませんか」
「そんなこと……」
そんなことが、可能なのだろうか。
「確かに、大地の成分で生命体を作り上げるのは生半可な力では出来ません。だが、限りなくカミの座に近い地竜といわれた彼女だったからできた。彼女にしか、出来なかった。完璧では、ありませんでしたが」
そういって、ヤシュウは一瞬悲しそうな目をした。ヤシュウの妻は、『作り物』のような美人だったという、オヤジの言葉に、嘘はなかった。そして、完全な体を手に入れることが出来なかった彼女は、吸血鬼として灰になることも叶わず、砂になって消え失せた。そういうことだろうか。
「彼女のために、私は彼女と血の契約をしました。彼女の血を吸うことはできなかったけれど、私の血を与え、彼女を吸血鬼一族に引き入れた」
そして、その後二人の間に生まれた子供がシムラだと、ヤシュウは言った。
「彼女は自分の命と引き換えにしてシムラを生んだ。……殺してやろうかと思いましたよ。私からコウギョクを奪ったあの忌まわしい子供を。ただ、コウギョクの力を引き継いだのもこいつ以外にいない。だから生かしておいた。いつか、コウギョクの魂を入れる器にするために」
憎悪と怒りが、悪事を企む笑顔に変わる。
「契約では血のやり取りしか出来ないけれど、シムラの体は半分生身の体なんです」
もしかして、ヤシュウは、最初からシムラの体を狙っていた? だとすると、あそこにいるシムラは、シムラじゃないのか? ……嘘だ。そんなこと……
「コウギョク、私が分かるか?」
至近距離まで近づいてきたシムラにヤシュウは嬉しそうに問いかける。琥珀色の瞳のシムラはそれに応えるように極上の笑みを浮かべた。
「ヤ……シュウ……」
「違うっ。お前は、シムラだっ」
そこにいるのは、シムラだ。あいつが、いなくなるはずがない。嘘だ、嘘だうそだ。
俺の方を向いて、ヤシュウはまだいたのか、と嘲った。
「何だ、まだいたのか。何が違う。もちろんこの体はシムラだが、もうあいつはここにはいないぞ」
「嘘だ。あいつは……あいつがいなくなるわけない」
だって、その体も、その翼も、ここにある。さっきまでイナダさんの死を嘆いていたシムラが、消えてしまうなんてことはない。
「シムラ、目を覚ませ。お前はここにいるんだろ?」
シムラの肩を掴んで、思いっきり揺する。どうか、目を覚まして。正気に返って。
「無駄だ、諦めろ」
ヤシュウはさも下らないと言わんばかりに吐き捨てた。
「……あんた、それでも父親か? シムラは自分の子供だろう? 可愛くないのかよ?」
俺みたいなどうしようもない馬鹿でも、オヤジは最後まで育ててくれた。餓死寸前だった俺を、禁忌を犯してまで生かそうとしてくれた。そんな感情は、ヤシュウにはないのだろうか。
「可愛い? 愚かな。こいつは私からコウギョクを奪った。可愛いわけがないだろう」
シムラの母親は、シムラを生んですぐに死んでしまったといっていた。だからヤシュウはシムラを恨んでいるのか。馬鹿馬鹿しい、逆恨みもいいところだ。
「お前……自分とコウギョクさんの間にできた子供だろう。どうして可愛がってやらない」
シムラにだって彼女の血は流れている。彼女の忘れ形見だと思ったっていい。彼女の分まで、どうして愛してやらなかった。彼女が残した唯一の、彼女のいた証じゃないか。けれど、ヤシュウは俺の言葉を否定した。
「私が欲しいのは、こんな出来損ないの子供ではない。コウギョクだ。そのために、この四百年、どれだけ私が待っていたか……」
「何が待っていただよ。イナダさんに全部任せて、お前何もしてないじゃないか」
こいつが何をしていたって言うんだ。こいつがしたことといえば、自分の部下に押し付けて、存在を完全に無視したことだけだ。
「そのとおりだが?」
「何?」
存在を無視して、ただ生かし続けることに、何か意味があったというのだろうか。
「シムラの心に決定的な弱点を作る。失えば完全に崩壊してしまうほどの致命的な弱点だ」
ヤシュウの笑みに、俺は絶望に似た寒さを味わった。
「あんた、まさか……」
「四百年の孤独。それがどれほどのものか分かるか? 自分と外界を繋ぐ唯一の存在。それを失った時、シムラの心は完全に崩壊する。そしてそこへ、コウギョクの心を、魂を入れる。自我が完成し、シムラがイナダに依存するまで、私は待ち続けた。私の計画は完璧だ」
狂ってる。シムラとイナダさんをあそこで引き合わせたのもそのためだったのか。たった一人の部下に育てさせたのは、最後には彼諸共……いや、彼を殺してシムラの自我を崩壊させるためだったのか。そこまでして、彼女を蘇らせたかったのか。二人の気持ちを操作して、二人の命を玩具みたいに扱って……。
――それでも、可愛くなるんですよ。
イナダさんの言葉が甦る。あの人は、自分の子供でもないのに、シムラのことを大事にしていた。その気持ちを、その優しさを、こいつは――
「っざっけんじゃねぇっ」
叫びながら、体が勝手に動いていた。この距離だ。確実に一撃は入れられる。そう思ったのに、拳がヤシュウに届くちょっと前で、俺は吹っ飛ばされていた。
「ヤシュウ様」
心配そうにヤシュウを見るシムラ。今のは、シムラがやったのか。
「お前は、一族から追われたんだろう。最後に一つ面白いものを見せてやる。彼女の魂がこの世に蘇る瞬間を。そして……お前たち天竜一族が支配する時代の終わりをなっ」
突然、ヤシュウはカミとハルナの方を向いてそう叫んだ。異変に気付いたハルナが、カミを守ろうといち早く臨戦態勢に入ったけれど、シムラが軽く翼を広げた瞬間に吹っ飛んだ。
◆ ◆ ◆
「きゃあぁぁっ」
立っていたところの地面を爆破されて、ハルナが悲鳴を上げて吹き飛ぶ。カミも慌ててその場から離れた。
「素晴しい力でしょう。地竜族は体を失ったが、その力は失っていなかった。体さえ与えてやれば、あなた方天竜一族と同等か、それ以上の力を発揮するんですよ」
翼を広げただけで地面が吹っ飛ぶんだから、とんでもない凶器だ。うちの中でやられなくて良かった……なんて考えている場合じゃない。
「馬鹿なことを。竜族は、われら天竜一族だけで充分。それに、たとえ同等の力を持っていたとしても、地竜はそこにいるコウギョク一人ではないですかっ」
さっきは不意をつかれて悲鳴を上げたのだろう。たいした傷もなく体勢を立て直した彼女は叫んだ。ユウゴの友人である以上、あまり彼女の言葉に同意はしたくないが、今日の彼女の言うことは何故かまともだ。
第一、ヤシュウはさっき自分で言ってたじゃないか。体を持つことは彼女にしか出来ないって。そんな状態でヤシュウは一体何をしようとしているんだ。
「いつから、何を、企んでいた。供物を変えた時からか。それとも、コウギョクを手に入れた時からか。貴様の行為、私に対する、反逆行為と見做して良いな?」
静かな怒りに満ちて、カミはゆっくりとヤシュウに問う。人型のままでも恐ろしい威圧感を纏うカミに、ヤシュウは少しも臆することなく答えた。
「始まりは、彼女と出会った時です。いや、もっと昔からかもしれません。天竜一族の支配からの解放は長年の私の夢でした」
一族の者も、ヤシュウがそんな大それたことを企んでいたのは知らなかったのだろう。何をするべきか迷ったまま、彼の言葉を聞いている。
「彼女に会わなければ、ただの夢で終わりました。しかし、私は彼女に会ってしまった」
野望を叶えるための力。それさえ手に入れば、何も迷うことはない。ただそれを使い、望みを叶えるのみ。
「それでも、彼女は一度体を失った。だから私は次の機会を待ち続けた」
それが今か、とカミは納得したように頷きかけたが、ふと、何か思い当たったのか首を傾げた。
「しかし、何故あの時お前は息子を供物として差し出した。あの時のそいつは、ただのひ弱な吸血鬼だったぞ」
……シムラが聞いたらどんな顔をするだろう。カミに比べたら、どんな吸血鬼だって貧弱なんじゃないだろうか。いや、うちの一族だってそうだ。俺だってオヤジだって、原型のカミと戦ったら勝ち目はない。けれど、論点はそこではない。
「シムラをコウギョクの器にする。そこまでは考えていたのですが、方法がよく分からなかったんですよ」
あっさり言い放ったヤシュウに、ここまで壮大なシナリオ書いておいてそれかよ! と、うっかり叫びそうになって俺は慌てて言葉を飲み込んだ。ハルナとカミも、その答えは予想外だったのか、呆気にとられたというか、ひどく間抜けな顔をして黙っている。
「精神の入換えですから、シムラの精神が消えればいいのは分かっていたのですが、その消し方が分からない。一番簡単なのはシムラを殺してしまうことでしょうし、どうせ死ぬなら、竜族の近くで死なせた方が、覚醒しやすいかと考えまして、ちょうど血の石も切れたので、やってみるいい機会かと思ったのですが……」
ずいぶんアバウトな理由だな、おい。
「ず、ずいぶんと大胆な……計画、ですわね」
ハルナが頬をひくつかせて感想を述べる。俺もそう思うよ、ハルナちゃん。
「まぁ、イナダの方は保険だったのですが、どうやらそっちが成功したようです」
肉体に傷はつけず、精神だけ崩壊させる。心が死んだ体に、彼女の魂を移植する。……どれだけ他人の心を、体を、冒涜すれば気が済むんだ。
「おい、シムラっ!」
こんな男の思い通りになんてさせない。俺だって、天竜一族の支配には疑問を持っているけど、こんな風にシムラを犠牲にしてまで、やりたいとは思わない。
肩を掴んで無理矢理こっちを向かせる。振り向いたシムラの顔には、左の額から頬まで、きらきらとした透明の鱗が覆っていた。
「シ、ムラ……?」
まだ完全にはコウギョクも覚醒はしていないのだろうけど、琥珀色の瞳のシムラは、虚ろに自分の名前を呟く。かしげた首の辺りまで、鱗は広がり始めていた。
「シムラ、目覚ませ。お前の体はお前のものだろ? 勝手に体使われていいのかよっ。こんな奴の言いなりになんてなるなよっ」
恐ろしい速さで、シムラの体を鱗は覆い続ける。首、肩、腕……。俺が掴んだシムラの左手首は、いつの間にか傷が塞がって、柔らかい皮膚の代わりに硬質の鱗が現れていた。
「シムラぁっ」
「無駄だ。体を捨て、精神の進化に特化した地竜族に、シムラの精神が敵うわけがないだろう。今頃は、完全に消去されているか、同化されているかのどちらかだ」
精神を乗っ取るなんて、そんなこと、あるはずない。できるはず、ない。
「数が足りない、とおっしゃいましたね」
突然話を振られたハルナは、一瞬驚いた顔をして、頷いた。
「彼女が完全に覚醒すれば、いくらでも体は作れます。完全ではなくとも、いくつでも作れます。地竜族は別に滅びた一族ではありませんから、その体を使えば……数の問題もなくなりましょう」
彼女の覚醒。それは、地竜族の復活を意味することになるらしい。
「ならば、完全に覚醒する前に始末するべきですわね。お前ら三人、焼き尽くしてくれるっ」
そう叫んでハルナが原型に戻る。って、ちょっと待て――
「おい、こら、三人って何だ。俺も入ってるのか!」
話の流れからすれば、ヤシュウとシムラが標的ではなかったのだろうか。
「だって、ちょうどいい機会ですもの。あなたを消せば、ユウゴ様は私のもの」
以前も確かそんなことを言われて、うちの森を彼女は破壊した。あれをやれば、多分ここら辺一体が焼け野原になってしまうだろう。
「邪魔者は消すんです。あなたがいるからユウゴ様の心は私を向かない。人狼なんて野蛮な一族を代表するあなたは、ユウゴ様には相応しくない。大体、男の癖にユウゴ様の心を弄んで、自分が恥ずかしくないんですか!」
「俺がいつあいつを弄んだ! 人聞きの悪いこというんじゃねぇ」
叫んでしまってから、ひどく誤解を招く会話であることに気付く。この状況だというのに、ヤシュウは白い目で俺を見た。
「……翼目当てだと思っていたが、違ったのか?」
「違う! いや、違わない?」
この場合、何ていえばちゃんと伝わるのだろう。
「だったら、愛するその男とともに死になさい!」
ひどい誤解をしたままハルナが、炎を吐く。柱のような炎が、こっちに向かって迫ってきた。
「う、うわぁっ」
この位置じゃ、逃げるにも逃げられない。こんなところで、こんなことで、俺は……
「いやぁぁっ!」
覚悟をしていた熱風は襲って来ず、次の瞬間響いたのはハルナの悲鳴。俺達の前には石の壁がそびえ立っていて、それがハルナの炎を跳ね返したらしい。自分の炎を喰らって、ハルナは吹っ飛んだ。
「天竜一族の力も、この程度か……口ほどにもないな」
聞き覚えのない声が、近くで聞こえた。
「お前達の先祖は、もう少し強かった気がしたが、敵のいないこの年月は長すぎたか」
とんでもないその台詞は、シムラの口から告げられる。聞きなれたあの低い声じゃなくて、ハスキーな女の声。ひどく楽しそうに、シムラは笑った。
◆ ◆ ◆
「ま、まさか……もう……」
怯えたようなハルナの声。もう、覚醒してしまったのいうのか。
「まさか。いくら私でも、そんなに簡単には体を乗っ取ることなんてできぬよ。だが、今のままでも、お前達の相手くらいならしてやれるぞ」
そういって、カミとハルナの方にシムラは向き直った。
「カミ、お前が今のところ天竜一の使い手だな。ということは、お前を倒せば、私が最強だ」
透明な鱗に覆われた左半身。琥珀色の瞳。聞き覚えのない声。それだけで、シムラが俺の知らない存在になってしまったみたいに錯覚する。
俺みたいなのがこうなったら気持ち悪いだけだけど、華奢なシムラだとすごくさまになる。
男にしては細めの眉。切れ長だけど少し垂れた目。薄い唇。元々中性的だったシムラの顔は、角度によっては本当にコウギョクが覚醒したように見えてしまう。
けれど、こんなの違う。シムラはこんな話し方はしない。シムラはこんな偉そうな喋り方はしない。
「さぁ、今すぐやるか? それとも、仲間を引き連れて戻ってくるか? どっちにしても、おまえたちに勝ち目はないぞ?」
高らかに言い放ったシムラに、カミは静かに告げた。
「お前が完全に覚醒するまで待とう。世界で生きることを放棄したお前たち一族と、この世界で生き続けてきた我ら一族、どちらがこの世界を支配するに相応しいか、互いに態勢を整えてから決めようではないか。後々、妙な言いがかりをつけられても困るからな」
それを聞いた、シムラは楽しそうに頷く。
「そうか。悪いな。ならば、次の満月の夜、ここで会おう。せいぜい、思い残すことが無いようにな」
シムラの言葉に、ハルナがまた口を開きかけたが、カミが制する。不満そうな彼女を従え、カミが消えた空を俺はぼーっと見上げた。
「さて、お前はどうする。大人しく帰れば命は奪わん。ここで暴れるようならば、今すぐ始末するが」
ヤシュウの声で我に返る。
「決まってるだろう。シムラを、返してもらう」
まだ完全に覚醒は出来ていないとコウギョクはいった。だったら、何とか元に戻す方法があるのではないか。というより、絶対に戻してやる。
「だったら、残念だが、始末するしかないな」
覚醒を優先させるためか、ヤシュウもシムラを使わず俺と一対一でやるつもりらしい。シムラの力は厄介だけど、ヤシュウとなら、互角にやりあえる。周りの一族が手を出してくる前に、ここはさっさとヤシュウからシムラを奪ってしまおう。
構えたヤシュウの、左のこめかみ辺りを狙って俺は前に踏み出――
「ちょっと待って!」
全力で踏み切った勢いが、行き場を失って前に転びそうになる。この声は……
「すいません。こいつ、連れて帰りますから、許して下さい」
濃紺の夜空に浮かび上がる真っ白な体。奇跡を呼ぶ、といわれる聖獣。
「帰ろう、カミヤ」
俺の返事を聞かず、そいつは俺の後ろに回り襟を銜えた。
「何で。どうしてお前がここにいる……。おい、答え……ぐっ」
ユニコーンだ、という驚愕と感嘆の声を後ろに、奴は、ユウゴは空へ駆け上がった。
◆ ◆ ◆
ヤシュウの洞窟からちょっと離れたところで、追っ手が来ないことを確認してから、ユウゴは地面に降り立った。
「お前は俺を殺す気かっ!」
襟を銜えて飛んだもんだから、俺はあと少しで首吊り自殺をさせられるところだった。
「ご、ごめん。でも、カミヤ乗れないから……痛かった? って、痛かったよね。ごめんね」
人型をとったユウゴは、今にも泣きそうな顔で、俺の首をさする。
「別に、死んでねぇから大丈夫だ。っつか、何で、お前がここに」
俺がそう聞くと、ユウゴは露骨に視線を逸らせた。
「何で……うん、何となく、かな」
歯切れの悪い答え。……正直、こういうときのユウゴは、あんまり好きじゃない。
「ふざけんな。俺はお前に彼女たちを守れって……」
「約束はしてないからっ」
いきなり俺を見据えたユウゴは、叫ぶようにそう答えた。
「僕はあの時頷いてない。約束なんてしてない。だから……」
必死なこいつを見てたら、責める気も失せてしまった。鬱陶しいという気持ちが半分以上だけれど、それでもこいつがいなかったら無傷ではなかっただろうし、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、安心もした。誰かが隣にいるというのは、こんなにもほっとすることなのか。
「大丈夫だよ。僕よりずっと強いオヤジさんが、シホちゃんのこと守ってくれるって言ったし、オオシマ君もそばについてる。彼女はもう大丈夫だ」
俺が何も答えないのは、シホのことを心配しているからだと思ったのか、ユウゴは勝手に話し続ける。
「僕が守るのは、彼女じゃなくて君だから。人狼一族のことは心配しなくていいから……」
ここに来たのは予想外だけど、それでも一族が大丈夫なことは分かる。もし、シホが危険な状態だったら、ユウゴは約束なんかしてなくても、絶対に守ってくれる。それを知ってて……俺はわざとこいつの優しさに付けこんだ。自分のこととはいえ、最低だ。
「俺を乗せたら飛べないくせに。何言ってんだ、馬鹿」
せめて、お前だけは生き残って欲しかったのに。俺と一緒にいたら、ユウゴは力を発揮できない。
「飛べないけど、走れるから。馬よりは速いと思うよ、僕の足。あと、君よりもね」
無理矢理作った笑顔が、痛々しかったけど、更にひどい顔で俺も笑い返した。
ユウゴは俺を背中に乗せて走る。行く当てもないから、俺は黙ってユウゴの背中で揺られていた。
「いつから、いたんだ」
俺の問いに、足を緩めることもなく、ユウゴは答える。
「最初から。イナダさんがシムラ君を守ったのも、全部見てた。守れなくて、ごめん」
ずっと、俺達の後をつけて来ていたのか……。自分ではいつもと変わらないつもりでいたけれど、気付かないうちに、平常心やら注意力やらを失っていたんだろう。
「別に、お前のせいじゃない。っつか、あの状態で、誰かが入り込めるとも思えない」
あの状況に飛び込めば、カミとハルナと吸血鬼一族に集中攻撃を浴びせられておしまいだ。感謝をすることはあっても、責めることなんてできない。
「あのさ……俺は、何してたんだろうな」
というよりも、何がしたかったんだろう。ユウゴは俺の問いには答えずに、黙って走り続けた。
あの時と同じ。俺は何も変わってない。オヤジの言うとおりだ。俺は、他の一族と手を組みたいと願いながら、また抗争に火をつけた。しかも、今度は小競り合いみたいな抗争じゃない。竜族まで出てくる戦争だ。
「俺さぁ、勘違いしてたんだろうな」
返事はないけれど、ユウゴは黙って聞いている。自分でもよく分からないことを言っているんだから、ここで続きを催促されても困る。だから、黙って聞いていてくれるユウゴの心遣いがありがたかった。
「人を食ったのだって、人狼一族の歴史では結構よくある話だったんだからさ……別に俺がこんなに罪悪感感じることはなかったんだろうな」
禁忌を犯したことに、俺は自分自身を哀れんでいたんだろう。下らない自己愛。その成れの果ての自己満足的な妄想。
「開き直って、今までどおり……吸血鬼一族とは抗争起こして、人間たちとは不干渉で……そうやって波風立てないで生きれば良かったんだよな。黙って、大人しく、一族の長やってれば良かったんだよな……」
いいながら、あまりの情けなさに泣きたくなって、ユウゴのたてがみに顔を押し付ける。
「そういう言い方は良くないよ。君には君の、やるべきことがある」
少し速度を落として、ユウゴは答えた。
「……何をしろって言うんだよ。俺に何が出来るんだよ」
もしも自分に出来ることがあるのなら、今いったことが全てだった。それすら、今の俺には出来ないことだけど。
「君は人狼一族の長だろう。一族を守って、統率して、これから先を考える義務がある」
「馬鹿か。俺はもう、長じゃねぇよ」
俺はもう、長じゃない。人狼一族を名乗ることすら、許されない、裏切り者だ。
「だったら……それでも、ちゃんと皆のところいって謝らなきゃ。死んじゃったんなら話は別だけど、君は生きてる。生き残ったんだから、君は一族に戻らなきゃいけない。三日後の満月の夜、何が起こるかを伝えなきゃいけない。君のやるべきことはたくさんあるんだよ」
謝って、何をしろって言うんだ。……けど、三日後にこの大地が戦場になることは、伝えなければならないことかもしれない。イナダさんを死に追いやって、シムラの心を壊して、コウギョクを復活させる一連の出来事を、意図はしていなかったとしても、俺は後押ししてしまったんだから。
「ユウゴ」
喉の奥につまった、声にならない声。それでもユウゴは、ん? と、答えてくれた。
「俺は、どうしたらいい」
「何が」
分かっているのだろうけど、ユウゴは分からない振りをして聞き返す。その間に、俺はもう一度、思考をなぞって確かめる。
「三日後の夜、俺はどうしたらいい」
俺がすべきことは、何だろう。けれど、ユウゴは答えない。俺も、多分ユウゴに答えは求めていない。それは自分で出すべき答えだから。誰かにいわれてやることじゃないから。決めるのは自分自身。
「カミが一族を率いてあそこで暴れれば、うちの森も被害を受けると思う。そうなると、うちの一族も部外者じゃいられない。一番いいのは、遠くに皆で逃げることだけど、それは許されないだろうな」
「そうだね」
いつものように激しい感情の起伏も見せず、淡々とした頷きが返ってくる。もしかしたら、ユウゴも決めかねているんだろうか。
「俺たちは、どうすればいい?」
逃げることを選ばなければ、残された選択肢は戦うことだ。天竜につくか、地竜につくか。問題はおのずと見えてくる。……けれど、選択肢は本当にそれだけか? そんな風に、ただ戦い合うことだけが、選択肢なんだろうか。
「……君が、どうしたいかじゃないかな」
一番正しくて、一番嬉しくない答え。それでも、それが正解なんだから仕方ない。俺は一言、そうだな、と頷いて、ユウゴの背中に伏せた。
「ねぇ、カミヤ」
目は閉じているから景色は見えないけれど、匂いで分かる。もう少しで、人狼の森に着くというところで、ユウゴはふと、何かを思い出したように俺を呼んだ。
「何だよ」
「……お願いがあるんだけど」
嫌な切り出し方をしてるから、きっとろくでもないことを言い出すつもりなんだろう。何でも聞いてやる、なんて答えたら、絶対後悔するような言葉を。
「内容にもよる」
「じゃあ、ダメかな」
……やっぱり。今度は何を言い出すつもりだろう。
「何だよ、さっさと言え」
それでも、何も聞かないのは後味が悪いし、聞かずに何かされるのは嫌だから、続きを促す。
「……あのさ、もし、僕が死んだら」
「そういうのは聞かん。お前は死なない。死んだら許さない」
やっぱりろくでもない話。今この状態でそんな話をされたら、前に進めなくなってしまう。絶対に生き残るという気持ちが、殺がれてしまう。
「だからもしもの話だって」
そういって、念を押すようにもう一度言って、ユウゴは一度沈黙した。
「もしも……僕が死んだら……僕のこと食べてくれないかな」
「ユウゴ?」
何を、言い出すんだろう。こいつは。
「最初から、そういう約束だっただろう、僕たち」
最初から、出会った時から。出会った時は……俺は狩りをしていて、ユウゴは、獲物だった。大きすぎて、獲物にはならなかったけど。
「そんな約束こそ、してねぇよ」
「うん。そうだったかな」
そういって、ユウゴはすっとぼけた声を出す。
「それに、冗談じゃねぇよ。子供の柔らかい肉ならともかく、今のお前はうまそうじゃない」
……それは嘘。馬だったら、大人だろうが容赦なく食う。むしろ、大きい獲物は食べるところがたくさんあるから、重宝する。でも、ユウゴをそんな風にするつもりはないし、そんなことを言っても、今のユウゴは聞かないだろうから、そういうことにしておく。ユウゴを食べるなんて、ありえない。
「そうだねぇ。でも、お願い。一口でいいから」
「やめろ。そんな話、聞きたくない」
それでも、ユウゴはなかなか引き下がらなかった。何だか妙に必死になっているのが痛々しいけど、それでも俺は頷くわけにはいかなかった。ここで頷いたら、ユウゴがどこか遠くへいってしまう気がする。ユニコーンの秘境、何てレヴェルじゃなく、もう二度と手の届かない、遠いどこかへ。
「……カミヤ。僕たち、絶対生き残ろうね」
やっと引き下がったユウゴに、俺は少しだけ安心した。
「あぁ。絶対だ」
絶対。皆で生き残る。ユウゴも、シムラも、皆が笑っていられる世界に。
もう着くよ、と言われて周りを見れば、家まであと少しというところまで来ていた。
▼第十四章:選択
叱られると分かっているのに、家の中に入るのは、子供の頃から苦手だった。自分が悪いとは分かっていても、それでもどこかで許してほしくて、足りない頭をフル回転させて言い訳を考えている。こういったら許してもらえるんじゃないか、という気持ちは、ドアを開ける頃にはこういったらきっと許してくれるに違いない、という根拠のない確信に変わっていて、ドアを開けて言い訳を告げる相手を見た瞬間に粉々に砕かれる。
言い訳を聞いてくれるような相手ではないという、根本的なところから自分は間違っているのだから。
もう何度経験したか分からない緊張とともに開けた扉は、たてつけは悪くないはずなのにひどく重たく感じた。
「何しに、帰ってきやがった」
リビングに入れば、子供の時から変わらない一言。一晩中起きていたのだろう、オオシマが目を見開いてこっちを向いているけれど、普段とは違うオヤジの空気に何かを読み取ったのか、いつものように飛びついてくることはない。シホも、俺とオヤジを見比べて、なんとも言えない表情をしている。オヤジはといえば、最初に一瞥をくれただけで、もう俺の方なんて見ていない。
お前の居場所なんかない、お前なんか知らない、と突き放されるような、拒絶されるような感覚に襲われて、恐怖とも悲しみともとれない感情が溢れる。それでも、そんな気持ちを悟られるのが嫌で、子供の頃は必死に意地を張って憎まれ口を叩いたものだ。そのせいで、後で更に叱られるのも、いつもと同じパターン。
「何しに帰ってきやがったって聞いてんだよっ」
そういって怒鳴ったオヤジに、俺は泣きたくなるくらい感謝した。チキは俺がオオシマに甘いというけれど、それは全部オヤジのせいだ。俺がオオシマに甘いのと同じくらい、オヤジは俺に甘い。『来た』ではなく『帰ってきた』。まだ、俺の居場所は、ここにある。
「……せんでした」
「あ?」
「すいませんでしたっ!」
俺はまだ、あんたの息子でいたいです。どうしようもない我侭なのは分かってるけど、まだここにいたいです。
「……知るか」
オオシマがいるからなのか、オヤジは昔みたいに問答無用で殴りつけることはしなかった。
「虫が良すぎるのは分かってます。でも、それでも、俺は……ここにいたいし、生きてたいし、あいつを守りたい……」
ここにいたいのも本心だけど、シムラを守って、世界を変えたいと望むのも本心。結局、俺にはどっちかを諦めることなんてできなかった。
「おじいちゃん……」
オオシマが、おろおろとオヤジを見上げて、シホは黙ってオオシマを後ろから抱きしめる。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だと、いっそ清々しいな。誰に似たんだよ……」
少し、笑っているような声。結局お前ぇ、何にも変わってねぇじゃねぇか、とため息とともに吐き出された言葉には、怒りだとか、拒絶だとか、そんな感情は含まれてない。
「もう、好きにしろ。お前ぇが好き勝手やって、失敗しようがどうしようが、俺には関係ねぇ。関係ねぇが……最後まで見届けてやる。但し、一族にはちゃんと説明しろ。お前ぇにはその義務がある。一族で生きるなら、そこんところだけはしっかり守れ。いいな、カミヤ」
「……はいっ」
まだ、ここにいていいと許される。生きることを許される。それが、どれほどの意味を持つのか、あいつは知らない。もう親に食べ物をとって来てもらわなくてもよくなって、一人で生きていけるようになったって、無条件で存在を肯定されることが、最後まで信じてもらえることが、どれほどの意味を持つのか、あいつは知らない。
「カミヤさん」
シホが俺の名前を呼ぶ。視線を上げた俺に、彼女は笑顔でお帰りなさい、と言ってくれた。
◆ ◆ ◆
妙な小細工をするのはらしくない。小細工するのに躍起になって、無駄な労力は使いたくない。だから、いっそ最初のところから暴露してしまおうと、俺は夜が明けてすぐに、シホを連れて仲間のところへ向かった。ちょっと前までは人間の女なんて、あっという間に八つ裂きだったのだろうけれど、何故か俺の仲間はシホを簡単に受入れた。ユウゴという前例があるからなのかもしれないし、違うのかもしれない。けれど、少しずつだけど、うちの一族は他種族と交流を持てるようになってきている。吸血鬼一族のイナダさんが、シムラの服を探してくれと頼んだときも、皆が快く引き受けてくれたのも、そのせいだと思う。こうやって、少しずつ歩み寄っていければいい。そう願うのは、許されないことなのだろうか。
一部の奴らは、シホを俺の嫁だと思ったらしく、姉御、と呼んでシホを困惑させる事態までもたらしたけれど、それはまあどうでもいい。
あの祭りの夜から、さっき吸血鬼の森で起きたことまで、掻い摘んで説明し終えると、皆は黙った。
「地竜が復活する三日後に、ここは……世界は……全面戦争になる」
そうなったら、俺は、俺たちはどうすればいいんだろう。
「地竜の復活もありえねぇけど、三日後って……期限付きかよ。どういうことっすか」
チキの問いに答えようとして、視線を上げるとシホと合ってしまった。イナダさんのことも、シムラのことも、シホはまだ知らない。イナダさんを失って、シムラが独りになってしまったこと、シムラの心が壊れてしまったこと、それをシホに告げるのは酷なのではないだろうか。そんな疑問が頭に浮かんで、答えを躊躇した俺に、シホは黙って続きを促した。
「シムラは……ヤシュウと、地竜のコウギョクの息子だった。ヤシュウは、シムラの体をコウギョクに乗っ取らせて、地竜族の復活を企んでる。カミもそれを知ってる。コウギョクは、完全に覚醒する三日後、カミと天竜一族相手に全面戦争を起こすって……」
「……まさか……」
空気がざわついて、どよめきが広がる。地竜の復活というのだって夢みたいな話なのに、その地竜が天竜と全面戦争を起こすとなればもっと夢の話だ。
「こんな話、信じろって方が間違いなのは分かってる。けど……本当なんだ。それで、あそこで派手に竜族がやりあえばここの森にも被害は出ると思う。だから、今のうちに、できるだけ遠くに逃げた方がいい」
まずは避難することだろう。特に、力の弱い子供や年寄りは。けれど、逃げる、という言葉が気に入らなかったのか、一部で少し不満そうな声が上がった。それでも、明確な敵がいない今回、一族を挙げて戦うことはないはずだ。信じられないとか、何で逃げなくちゃいけないんだとか、いろいろな気持ちが入り混じったざわめきが部屋を満たす。
「……残念だけど、カミヤの言ったのは全部本当の話だから。逃げるなり何なり、対処はした方がいいよ」
ユウゴがそういうと、さすがに皆信じる気になってきたのか、浮ついた空気が収束するようにして静まった。
「けど、頭ぁ……俺たちは……」
がんがんっ!
チキが何か言いかけたけれど、後ろの扉がとんでも音を立てたから、俺はそっちへ目をやった。……今のは……
ずがぁぁんっ!
とんでもない音を立てて、ドアが真っ二つに裂けて吹き飛んだ。周りの奴らが敵襲か、と身構える。……まさか。だってまだ、天竜も吸血鬼も、うちに攻めてくる理由はないはずなのに……。
「ごきげんよう、皆様。って、本当に皆様お揃いなんですね。ちょうど良かったわ」
粉々になったドアを気にする風でもなく、涼しい顔で入ってきた美女。深紅の唇は彼女の気の強さを表すようにきゅ、と結ばれている。綺麗な弧を描いた眉。挑発するような、切れ長の目と起伏に富んだボディーライン。そう、彼女は決して不細工ではない。むしろ、見た目だけならとんでもない美女だ。
シホはどっちかっていうと大人しくて優しい感じの美少女だが、カミの孫と言う血統書付きの彼女は、生まれながらにして女王のような気品……気の強さとも言う……を纏ってそこに立っている。
ドアを木っ端微塵にして入って来たのは、さっきカミと一緒に帰ったはずのハルナだった。
◆ ◆ ◆
「……あら、まだ生きていたんですの?」
人の顔見て、開口一番それですか。カミも一緒かと思いきや、今日は彼女単独のご訪問らしい。
「残念ながら。まだ生きてます」
そう返せば、酷く憎々しげに睨まれる。それでも、掴みかかってこないのは、俺の後ろのユウゴのせいか。
「お前、何しに来たんだよ」
仲間の一人、ソーマがそういってハルナにつっかかる。やめろと制すれば一応は退いたけれど、周りの連中も皆、隙あらば、と狙っている。原型を現す前ならば、俺たちにだって彼女を仕留めることはできる。数年前の破壊行為の恨みは、皆忘れていない。
「分かっていらっしゃるでしょう? 人狼一族の意向を聞きに来ただけですわ」
そういって、炎のような意思の光を宿らせたエメラルドの瞳が俺の方を向いた。
燃えるような赤と、柔らかな緑。二色はそういって比較されるけれど、ハルナとシムラは逆だ。燃えるような緑と、穏やかな赤。……あの赤を、もう一度見ることができるんだろうか。
「我ら天竜一族につくか、それとも……。まぁ、そこの方は、コウギョクの器にご執心のようですから、分かりませんけど」
思考が妙な方向へ吹っ飛んでいたせいで黙っていた俺を、妙な感じに誤解したままの彼女は、そういって白い目で見る。
「ハルナ……」
ユウゴが、彼女に抗議の声を上げるけれど、彼女は気にかける風もなくあっさりと言い放った。
「まぁ、今何を聞いても、ここでは暴れたりしませんからご安心を。但し、ユウゴ様? あなたへの感情は別として、天竜一族がこの世界をどれだけ守ってきたか、それだけはお忘れなく」
そういって、彼女は不敵な笑みを浮かべた。……ふざけやがって。ここでは暴れない、それは俺達の答え如何によっては、三日後の全面戦争のどさくさに紛れて破壊行為をしてもいいんだぞ、という脅し。ここで俺たちが天竜一族に絶対服従を誓わなければ、うちの一族は反逆者として潰される。だけど、地竜とやりあうのは天竜だし、吸血鬼一族とて反逆者はヤシュウ一人だ。俺たちが吸血鬼一族とやりあう理由はない。まぁ、そんなことをいっても、ハルナは理解してくれないだろうけど。
「……そつき……」
ずっと俺の後ろにいて黙っていたオオシマが、何か呟いた。
「はい?」
聞き返したハルナに、オオシマはす、と前に立って睨んだ。
「約束破ったのはそっちじゃないか。もう二度と争わないって、約束したじゃんっ」
何が気に食わなかったのか、オオシマは全身から怒気を立ち昇らせて叫ぶ。
「何を言っているんですの?」
突然怒鳴りつけたオオシマの、意図が読めないのかハルナが聞き返す。無理もないだろう。ここにいる全員、何でオオシマがこんなに怒っているのか、誰も分からないのだから。
「ずっとずっと前に……天竜と地竜と戦って、もう争わないって約束したんでしょ? ずっとこの世界のために生きるって約束したんでしょ? 何で約束守らないの? ねぇ、どうしてっ」
「お、オオシマ君、どうしたの? 落ち着こう。ね?」
シホが、今にもハルナに飛び掛りそうな体勢を取っているオオシマを、後ろからそっと押さえてなだめるけれど、今のこいつにはシホの声も聞こえていないのだろう。怒りに支配されたその姿は、辛うじて人型はとっているけれど、牙は原型に戻っている。
「それってさ、地竜に見せられた夢の話かな」
ユウゴがはたと気付いたようにそう問えば、オオシマはぶんぶんと首を縦に振った。
「何ですの、それ?」
ハルナがユウゴの方を向くと、ユウゴは言葉を選ぶようにして視線を宙にやった。
「……僕ら、この前君に会った時、ファルマの谷に行ったんだ。そしてそこで地竜に会った。結局は追い返されちゃったんだけど。その時に、オオシマ君は地竜に夢を見せられたんだって。長い歴史の物語。まぁ、あくまでも地竜視点だけど、間違ってはいないと思う。事実、オオシマ君が知らないはずの過去の話を、彼はしてたからね」
そういって、ユウゴはその夢を掻い摘んでハルナに説明した。
遠い昔、天竜と地竜は世界を焼き尽くす戦争をしたという。何もなくなった世界に絶望した地竜は、二度と自らの力を使わないことを誓ってファルマの谷へと消えた。この世界で行き続けることを選択した天竜に、地竜は一つ、頼みごとをしたらしい。もしまたこの大地に命が芽生えることがあるなら、その命を守るために、天竜の力を使ってくれと。そして、天竜はそれを了承し、芽生えた命を彼らは守り続けた。一人の水竜が現れるまでは。
俺が人を殺したことも、オオシマは知っていた。そんな些細なことが一致するのだから、オオシマが見た夢はあながち間違いではないのだろう。そして多分、その水竜は……カミだ。
「……馬鹿馬鹿しい。あの者たちが何を知っているというのです。だいたい、長い間世界から離れて生きてきた彼らに、この世界に口を出す権利なんてありませんわ」
信じられない、というようにハルナは笑う。
「でも、逆に、大地と同化してるから、世界の全てを知ることができる、とも考えられないかな」
そうじゃなきゃ、オオシマがあのことを知ることは不可能だ。
「だったら、ここでのやり取りも、筒抜けですわね」
「……そだね」
ハルナとユウゴの視線が、一瞬火花を散らして交錯する。けれど、ハルナはすぐに視線をオオシマに向けた。
「坊や。いいこと? 私たち天竜一族がいるから、雨も炎も、手に入るということを忘れるな。この世界を守ってきたのは、私たち一族なの」
ハルナも、子供のオオシマに暴力を振るおうとは思わないのだろう。いつもなら切れて原型に戻って暴れ出すような状況でも、何とか堪えてオオシマを諭す。
「だから、もういいの?」
怒りで興奮しすぎたのか、オオシマの目には涙が溜まっている。
「何?」
「ずっと守ってきたから、もう充分だって言って、僕のお父さんとお母さん殺したんだろ? ねぇ、僕のお父さんは悪い人狼だったの? お母さんは悪い人狼だったの? 何で殺したの?」
最後の方は、もう、まともな声にはなっていないけれど、オオシマの言いたいことは理解できる。俺たち大人は『カミのすることだから』と諦めて沈黙したけれど、オオシマには納得が出来なかったのだろう。
「あなたの両親のことなんて、知りませんわ」
ハルナがそういった瞬間、オオシマは叫んだ。
「クジョウとミズキ。僕のお父さんとお母さんの名前。カミサマが殺したお父さんとお母さんの名前っ」
その名前には、さすがに聞き覚えがあったのか、ハルナは苦い顔で黙る。
「……あなたの父親は、吸血鬼の一族との下らない抗争を続けた首謀者だった。そして、それに罰を下したカミに、あなたの母親は逆らった。カミへの反逆は、やってはいけないことなのくらい、知っているでしょう?」
「だから殺したの?」
ハルナは一瞬考えてから、えぇ、と頷いた。無理もない。同じ竜族とはいっても、あの場所であれをやったのはカミなんだ。
「お父さんもお母さんも、カミサマに迷惑なんてかけてないのに?」
「だから……」
何を言っても突っかかってくるオオシマに、ハルナも大分苛立ってきているのだろう。さっきよりも、表情が険しくなっている。オオシマの言いたい気持ちは分かるし、ハルナがまともな回答をしてくれればそれが一番いいのだけど、まあ、ハルナにそれを求めるのは無理な話だ。このまま行くと、ここでハルナがぶち切れて、さっきの発言を撤回して暴れるというのが一番有力な線だろう。オオシマの気持ちは分かるけど、それはあまりしてほしくない。
「大体人狼と吸血鬼が争うことになったのだって、カミサマが地竜との約束破ったせいじゃないかっ」
「黙れっ」
案の定、ハルナが右腕をオオシマの顔に向かって振り下ろす。ばしっ、と鈍いた音が響……かなかった。
「何のつもりですの?」
寸でのところでハルナの腕を掴んだのはシホだった。
「ご、ごめんなさい。でも……叩くのはだめです。叩いたら、痛いです」
自分でも、何で止めたのか、分かっていないのだろう。おろおろと怯えた声でシホは答える。
「ハルナさんに言っても、仕方ないことなのは分かってます。でも、オオシマ君も……いわなきゃいられなかったんだと思います。家族が死んだら、みんな悲しいから。オオシマ君も、ずっと悲しくて、苦しかったんだと思います。ハルナさんからしてみれば、言いがかりかもしれないけど、どうか、許してあげて下さい」
お願いします、と彼女はオオシマを抱えたまま頭を下げた。
「……放しなさいよ」
「オオシマ君に手を上げないなら」
言葉は穏やかだけど、シホは決してハルナから目を逸らさない。
「……分かったから。さっさと手を放しなさいよ」
シホは黙ってハルナの腕を解放した。
ぱぁんっ!
次の瞬間、シホの頬が乾いた音を立てる。
「約束は守ってるわよ?」
にぃ、とハルナは笑った。彼女はシホが殴り返してくると思ったのか、一瞬身構えたけれど、シホは何事もなかったようにしゃがみこんで、オオシマの涙を拭う。
「お、お姉ちゃん……」
ふわりと笑ってシホは、どうしたの、と聞き返した。
「お姉ちゃん、今……」
いくら人型をとっているとはいえ、ドアを破壊する馬鹿力で引っ叩かれたんだ。彼女の頬は真っ赤になっている。
「大丈夫だよ。そんなことより、辛かったね、オオシマ君」
そういって、彼女はオオシマを撫でた。
「シホのいったとおり、クジョウさんとミズキさんの話はお前には関係ないし、今回のことにも関係ない。今回のことは、別に答えを出すから、しばらく待っててくれ。どうせ三日後まで、状況は変わらないだろう?」
これ以上、オオシマを泣かせるのも、ハルナの機嫌を損ねるのも嫌だ。
「……そうですね。今日のところは帰るとします。三日後を、楽しみにしていますわ」
吐き捨てるようにそういって、ハルナはドアだったところの方へ向かう。その背中に、ユウゴが呼びかけた。
「ハルナ」
「何ですか? ユウゴ様」
振り返ったハルナに、ユウゴはあまり感情のない表情で告げる。
「この前言い忘れたことがあってさ」
「何ですか?」
機嫌の悪さが、ユウゴに媚びることすら忘れさせているらしい。普段の吐き気がするほど甘い声ではなく、棘のある声で彼女は聞き返した。
「カミヤに万が一のことがあったら、僕は死ぬよ?」
「え?」
予想外の言葉に、ハルナの声から棘が消えた。ユウゴもユウゴで、何を急に言い出すんだろう。
「何を、おっしゃって……」
「冗談じゃないよ。僕は本気だ。カミヤの大事なものに傷つけたら、僕が君の下へ行く可能性はゼロと思って欲しい。その覚悟があって、人狼一族や、カミヤに手を出すのなら僕に止める権利はないけど、それだけは忘れないでね」
ユウゴの言葉にただならぬ決意を感じ取ったのか、ハルナは笑い飛ばすことはせず、背中を向けた。
「私がその男を殺したら、あなたは私のものにはならない。でも、その男がいたら……その男がいるから……あなたは私のものにはならない。結局、どっちも同じ結果なんでしょうね」
「かもね。でも、決別はしなくてもすむし、どこかで分かり合えるかもしれない。可能性はまだ、捨てたくないよ。まぁ、君がどうするかは勝手だけど」
その言葉で、ハルナが、ちょっとだけ笑った気がした。棘のある笑いでもない。嘲うようなものでもない。ただ、笑っただけ。
「その答えも、きっと三日後ですね。それでは三日後に」
ふわりと原型に戻って、ハルナは朝の空に消えた。
◆ ◆ ◆
「お姉ちゃん、ごめんね。ごめんね?」
振り返れば、オオシマがおろおろとシホを見ている。これ使え、とチキが濡らしたタオルを持って来て、シホに渡した。
「大丈夫だよ。ちょっと赤くなっただけだって」
チキに礼を言って、タオルを受け取ったシホは、オオシマに向かって微笑んだ。
「本当に、大丈夫なのか? 首痛めたりしてないか? 口の中切ったり、してないか?」
ハルナが本気で殴れば、シホの頭なんて吹っ飛んでいるだろう。そう思って問えば、シホはおかしそうに笑う。
「大丈夫ですって……。カミヤさん、心配しすぎですよ」
過保護なんだから、というけれど、ハルナの力を甘く見たらいけない。
「まぁ、シホちゃんが大丈夫だって言ってんだから、大丈夫なんだろうよ。っつか、頭、俺たちはどうするんだ?」
ソーマの言葉ももっともだ。俺たちは、どうするべきなんだろう。
「やっぱ、吸血鬼の奴ら叩き潰すのが一番なんじゃねぇの? 勝手に地竜復活とか企みやがって、ふざけてんだよ」
一人が言い出した言葉に、そうだな、という声が広がった。
「ちょっと待て。地竜復活を企んだのはヤシュウ一人で、吸血鬼一族は関係ないはずなんだ」
そうじゃなきゃ、イナダさんが死ぬ理由はない。あの場所から、俺が帰ってこられるはずもない。
「けどよぉ、ヤシュウは吸血鬼一族の長だぜ? 長の意思は、一族の意思。あいつが望むなら、一族も同罪だろ」
やっぱり、ここは一戦交えるしかない、という声が上がる。
「確かに……長の意思は一族の意思かもしれないけど……けど……あれは……」
何ていえば、いいんだろう。どうすれば、伝わるんだろう。
「四百年前、ヤシュウがコウギョクを妻にした時、吸血鬼の奴らは彼女の正体を知らなかったし、その息子の存在も噂でしか知らなかった。ってことは、一族の奴らはヤシュウの企みを知らなかったってことにならないか?」
苦し紛れの理由。こんなのじゃ、納得してもらえない。
「そりゃあ、そうかも知れねぇけど……。っつか、頭。あんた、何でそこまで吸血鬼の奴らを庇うんだ?」
「それは……」
どうしてだろう。俺は、何でこんなことを必死に言っているんだろう。
「あんた、もしかして吸血鬼の奴らと結託してんのか?」
チキの目が、ギラリ、と光る。チキだけじゃない、周りの奴ら全員だ。
「そんなことはしていない。けど……無駄な戦いをしたくないだけだ」
争いあって、傷つけあって、それでも勝ち取らなきゃいけないものもあるけれど、今回は違う気がする。ヤシュウが書いたシナリオで、俺たちが血を流さなきゃいけない理由はない。
「俺はただ……ヤシュウの書いたシナリオに踊らされるのが嫌なんだ。仮に俺たちと吸血鬼が戦って、一番得をするのは誰だ? 天竜にしろ、地竜にしろ、竜族だろう? しかも、地竜が勝てば一番得をするのはヤシュウだ。天竜が勝てば、地竜と吸血鬼一族は殲滅させられるだろうけど、うちの一族だって今より恵まれるとは思えない。今戦って、俺たちにいいことは何もない」
俺がそういうと、チキたちはそれは分かるけどよ、と呟いた。
「けど、それじゃ、黙って見てろって言うのか? 三日後にここが火の海になっても、黙って見過ごせっていうのか?」
「いや……それは言わない」
正確には、言えない、だ。
「だったら!」
先手必勝。殴り込みに行きやしょう、と意気込む奴らが立ち上がる。
「待てっつってんだろう!」
止めた俺に、じゃあどうしろっていうんだよ、とソーマが怒鳴った。
「戦わないで、守らないで、じゃあどうしろっていうんですか? 大人しく逃げるんですか? それでいいと思ってんですか、頭ぁ!」
……どうする。何をするのが、一番いいんだ。
「今回、さっきも言ったとおり、俺たちに明確な敵はいない」
ゆっくり、全員に聞こえるように、声を出す。
「だけど、三日後、地竜が復活すればここは火の海になる」
まずは状況を声に出して確かめる。
「だから、力の弱い奴らは、戦わないで避難してほしい。命を守ることが、一番大事だ」
全員が、静かに聞いてくれた。
「力がある奴は、降りかかった火の粉を払う。強制はしない。やっぱり、生き残ることが大事だと思う」
甘ぇよ、という囁きが聞こえたけれど、まだ全部話していないから、ここでは敢えてとりあうことはしない。
「けれど、それよりも先に、やることがある」
戦いの炎が嫌なら、一番最初にやるべきこと。
「三日後、ここが火の海にならないように、まずは地竜の復活を阻止する」
「はぁっ!? 何すか、それ!」
出来るのかよ、という声が上がる。
「幸い、コウギョク本人が三日間の猶予がほしいといっていた。だから、本当に三日は身動きが取れないんだと思う。その間に彼女の覚醒を阻止すれば、三日後の争いそのものがなくなるって考えられないか?」
三日後に、全面戦争か全面降伏を選ぶんじゃない。戦争そのものを起こさなければ、選ぶ必要はなくなる。犠牲は最小限、効果は最大限。リスクも相当高いけど、やってみる価値はあると思う。
「あんたって……昔からわけ分かんねぇところあったけど、ここまでとはな……ちょっと信じらんねぇ」
チキがそういうと、ソーマも苦笑する。
「けど、ヤシュウも相当な変人だから、対抗できるのはうちの頭くらいかもしれないぞ」
「……お前ら、俺を何だと思ってんだ?」
ヤシュウと同列は、勘弁してほしい。そう思ったのに、なぜか周りは爆笑した。
◆ ◆ ◆
その日の夜。昼間のうちに打ち合わせを済ませた俺たちは、吸血鬼の洞窟に乗り込むために集まった。
「頭ぁ、いいのかよ」
集まった面子を見ながら、チキがひどく不満そうな声を出す。
「何がだ?」
「地竜の復活を阻止する、なんてたいそうな目的の割には、面子が随分貧相じゃあござんせんか?」
どういう基準の人選だよ、と呟くチキを見て、シホがおかしそうに笑った。
「ユウゴさんに乗ってる二人はともかく、人狼の人選基準が分かりません」
チキがそういって首を振る。ユウゴに乗っているのは、シホと、彼女を守るためにオオシマ。シホには残れといったのだけど、彼女はどうしても首を縦に振らなかった。
――足手纏いなのは分かっています。でも、どうしても行きたいんです。行かなきゃ、いけないんです。
そういって、必死に頭を下げた彼女に、それ以上無理は言えず、いつでも逃げられるように、ユウゴの背中から降りないこと、オオシマを護衛につけることを条件に、彼女を連れて行くことにした。
正直、オオシマが護衛というのも心許ないけれど、オオシマ以外ユウゴに乗れるやつがいないのだから仕方ない。
「チキ。基準なんて分かりきったことじゃないか。俺たち三人に共通するのって……」
「言うな。言ったら悲しくなる!」
ソーマの声を遮って、チキが叫んだ。そう、ユウゴ、シホ、オオシマの他に行くのはチキとソーマと俺の三人。この六人で、地竜の復活を阻止する。他の奴らはオヤジが指揮を取って、俺たちが失敗したとき、森を守るために残っている。
「チキ兄もソーマ兄も、彼女いないもんね」
「子頭ぁぁっ!」
なんてひどいことを、とチキが大げさに嘆いてみせる。まぁ、そういう理由。二人が強いことが一番の理由だけど、二人には家族がいない。いや、親兄弟はいるけれど、妻や子供はいない。親が子供を失くすのも、全然良くないけれど、妻子がいれば被害はもっと大きいだろう。だから、この二人を選んだというのも、あながち間違いではない。
「みんな優しいし、強いのになぁ。何でもてないんだろうねぇ」
天使のような笑みを浮かべて、悪魔のような言葉を囁くオオシマ。チキとソーマの笑いが引き攣っているのが、ちょっと面白い。
「俺達のよさに時代がついてこないんですよ。絶対俺とソーマの時代が来ますって」
意味の分からないことをチキが力説した。
「ふぅん。じゃあ、御頭は? 御頭の時代は来ないの?」
「はぁっ?」
何を言い出すんだこのガキは。この俺が、そんな理由でここにいるわけがないだろう。
「俺はいつだって俺の時代だろうが。っつか、別に俺は彼女がいないからここに居るわけではないぞ? 一族を統率する長としてのだなぁ……」
「だって御頭だって彼女いないじゃん」
「んだと、この、オオシマぁ!」
冗談も程々にしろ。俺には彼女の一人や二人くらいいる。……多分、いる、ハズ。いたら、いいなぁ。
「頭の場合は特殊っすよ。ユウゴさんがいるから女の子が近づけない。さすがにねぇ、幸運の聖獣差し置いて、彼女の座は奪えないでしょう」
「俺は普通に女が好きだ!!」
ハルナやヤシュウにしろ、チキにしろ……誤解が多すぎる。
「あー、全く。お前ら緊張感なさ過ぎだぞ? 緊張しすぎるのもまずいけど、気ぃ抜きすぎてやられるなよ」
出来るなら、無傷で帰って来たいんだ。無駄な血は、一滴も流したくない。流させたくない。
「大丈夫ですよ。俺たち、そう簡単にはやられませんって。な?」
その言葉に、ソーマがうんうん、と頷く。
「……お前らを巻き込む形になって、悪かったけど……」
うまく阻止できたら、世界はまた変わるだろうか。
「冗談はやめて下さいよ。人狼は……気が短いんです。売られた喧嘩はぼったくりでも買うんです」
「それをいうなら、値切って買うんだろう?」
チキとソーマが、また楽しそうに笑った。
「子頭。怖いですか?」
ひとしきり笑った後、チキはふと、オオシマの方を見る。
「怖くないよ。僕は、お姉ちゃんを守るんだ」
緊張のためか、少しこわばった顔のオオシマをみて、チキは頷いた。
「そっすか。そりゃ良かった。しっかりお姫様を守って下さいね」
その言葉に、オオシマは大きく頷く。シホは、ユウゴとオオシマに任せておけば、大丈夫だ。
「いいか、俺達の目的は戦争じゃない。地竜復活の阻止。そして、シムラの奪還。この二つだ」
そして、皆で無事に帰ってくること。
「応! んじゃ、行くぜぇっ!」
その声に、ユウゴがかつん、と蹄を鳴らす。奇妙な一行は、吸血鬼の森へと向かった。
▼第十五章:対峙
月明かりに照らされた、吸血鬼の洞窟。外から窺っただけでも、気味が悪いくらい静かで、物音一つ聞こえない。何かまた、新たな進展でもあったのだろうか。あったとしても、もうあまり驚かない。ここ最近、いろいろなことがありすぎて、心の驚きを感じるところが麻痺してしまっている気がする。
「……頭ぁ。何か、おかしくねぇですか? 森に入ってからも、吸血鬼の気配を感じねぇんだけどよ……」
チキの言葉ももっともだ。吸血鬼も、俺たちと同じ夜の種族だから、夜はもっと活気があっていいはずなのに、姿を見かけないどころか、気配すら感じない。
「中で、集結してるんだろ。頭がいったとおり、ヤシュウ一人の裏切りなら、一族総出でヤシュウを袋叩きにしてくれりゃいいけど、そうもいかないか……」
ソーマが、むぅ、と口を歪める。ヤシュウ一人の裏切りなら、それでいいかもしれないが、ヤシュウの横にはコウギョクがついている。さすがに、吸血鬼一族も、地竜を袋叩きにするのは難しいだろう。ただの人型ならまだ望みはあるけれど、コウギョクのあれは桁違いの力を持っている。
「どうしますか、頭。俺、先に行って、見てきましょうか?」
ソーマの言葉に頷きかけて、俺は慌てて首を振った。
「行くなら、俺たちは一緒に行こう。この人数なら、ぎりぎり一緒に動けるだろう。それに……しつこいようだが、俺たちは戦争に来たわけじゃない。こっちから、手を出すことは絶対にするな」
こっちから手を出せば、俺たちに勝ち目はない。
「ユウゴ。お前は、危なくなったら全力で走れ。頼むな」
シホと、オオシマを頼む。そう告げれば、ユウゴは、黙って頷いた。
「じゃあ、行くかっ」
出来るだけ、明るい声を出して、俺たちは入り口に立った。
◆ ◆ ◆
入り口を過ぎれば、ソーマの予想が的中したことは嫌でも分かる。ヤシュウは、きっとあの祭りをやった広場にいるのだろう。五十人ほどの吸血鬼が、敵意を剥き出しにしてこっちを睨んでいた。
「人狼一族のカミヤといいます。ヤシュウ殿に話が……」
「勝手に入って来てんじゃねぇよ。ここをどこだと思ってるんだ? 殺されてぇのか、お前ら」
一人の言葉によって、波紋のようにざわめきが広がる。
「っつか、そこの白いのはユニコーンじゃねぇの? あいつの角は不老不死の薬になるらしいぜ」
「おい、あの女、人間だぜ。生贄か?」
好奇の目が俺たちに注がれて、シホは少し居心地が悪そうな顔をした。
「なぁ、兄ちゃん、カミヤっていうのか? 四百年前、うちの森に乗り込んできたガキと同じ名前だなぁ。まさか、本人だったりして」
「そりゃ、ないだろう。あの傷じゃ、絶対死んでるって」
嘲笑にも似た囁きに、チキがぎり、と怒りを堪える気配がする。背中の傷跡が、少し疼いた。
「とりあえず、ヤシュウ様は今忙しいんだ。出直して来い」
まぁ、二度と会うこともないだろうがな、と誰かが言って、周囲がどっと笑った。
「お願いします。どうか、ヤシュウ殿に会わせて下さい」
そういって頭を下げれば、一瞬場は静まって、また嘲笑が広がる。こんなことをしている間にも、コウギョクの覚醒は進んでいくだろう。早く、早くここを通して……
「分っかんねぇ奴だな。出直して来いって言ってんだろう?」
一人の中年の吸血鬼が俺の前に立ってそう言い放った。
「どうしても、今じゃなきゃだめなんです。通して下さい」
力ずくなら、こんな奴何でもないのに、説得となると話は別だ。殴りつけたくなる衝動を必死に抑えて、俺は頭を下げた。
「っ加減にしろっ!」
言葉と共に右頬に衝撃と、熱さにも似た痛みが走る。業を煮やした奴が、その鋭い爪で殴りつけたんだ。反射的に手が出そうになるけれど、ここでそれをやったらお終いだ。
「んだよ、やり返さねぇのか? 力しか能のない人狼が、やり返せなくなったら終わりだなっ。ほら、何怯えてんだよ。悔しかったら殴り返してみろっ」
俺は大丈夫だけど、そろそろチキがやばそうだ。さっきから必死にソーマが押さえているけれど、激昂して暴れ出すのも、時間の問題だ。……もう少し、気の長い奴を連れて来れば良かったと後悔するけど、もう遅い。それに、あんまりそういう奴はうちの一族にはいない。
「何だよ、本当にやり返さないのか? だったらそのまま気ぃ失うまで付き合ってもらおうか?」
奴の爪が、俺の右目を狙ってきた。やばい、それは避けないと、さすがに……
「やめろっ! 何をしているんだ!」
間一髪のところで、俺の目は光を失わずにすんだ。どこの誰だかは知らないけれど、感謝しよう。さっきの奴はといえば、止めに入った吸血鬼を見て、真っ青になっている。
「か、カズマ様……。こいつが、こいつらがヤシュウ様に会わせろって、乗り込んで……」
いい年こいて、子供のいい訳かよ。オオシマだってもう少し理性的な説明をするのに、なんて思ったけれど、カズマと呼ばれた吸血鬼の姿を見れば、さっきの奴が怯えきって理性的な言葉を失うのも分かる気がした。
吸血鬼とは思えないガタイのよさ。人狼に比べて貧弱なイメージのある吸血鬼だが、こいつは例外だ。おそらく、イナダさんと同様純血ではない吸血鬼。体を使う仕事についていたのか、恐ろしく鍛えられた筋肉は、まだその名残りをしっかりと残している。というより、体つきだけでいえば、俺なんかよりずっと強そうだ。
「一族の物が大変なご無礼を致しました。どうか、お許し下さい」
「いえ……」
丁寧に頭を下げられて、俺は慌てて首を振った。
「人狼一族のカミヤ様、ですよね。私は、ここらの者をまとめているカズマと申します。今夜はどのようなご用件で」
何で俺の名前を知っているんだと思いつつ、昨日の夜、きっと姿を見られていたんだろうと、勝手に納得する。俺はもう一度、ヤシュウにあわせて欲しい、と頼み込んだ。
「……ヤシュウ様は、今忙しいのです。あなたも、ご存知でしょう? コウギョク様の復活のために」
少し困ったような表情を浮かべて、彼は答える。そこらへんの事情はいちいち説明されなくても、昨日の夜の段階で、俺も相当係わってしまっているから、状況は何となく分かる。カズマさんがどれだけ困るかも、大体は予測できるので、それを思えば申し訳ない気にもなるけれど、そんなことをいっている場合ではない。
「分かっています。それでも、どうか……」
「ヤシュウ様に会って、どうするつもりですか?」
予想外の言葉に、俺は一瞬頭が真っ白になった。
「……あぁ、何と答えても、構いませんよ。戦うつもりのないあなた方に、ここで危害を加えるつもりはありませんから」
そういって、彼は俺の答えを待つように沈黙した。確かに、カズマさんが現れてからは殺気立っていた吸血鬼たちが急に大人しくなっている。本当に、危害は加えないらしい。こんなところで嘘をついても仕方ないから、俺は覚悟を決めて言葉を探した。
「俺は、俺たちは吸血鬼一族ではありません。だから、こんな風に首を突っ込むのは筋違いなことは分かっています。でも、俺たちはコウギョクの復活を阻止して、シムラを取り返したい。出来れば、二日後の天竜との全面戦争は阻止したい。だから、ヤシュウ殿にそれを伝えたくて……お願いに参りました」
いいながら、全く変化のないカズマさんの表情に、俺は、目隠しで崖の縁を歩かされているような感覚に陥る。正しい方へ、山側へ歩ければ命は助かるけれど、踏み外せば、命はない。
「俺たちは別に吸血鬼一族の方々と、争いたいとは思っていません。以前は、三百年前の協定以前は、確かに吸血鬼一族と人狼一族は争っていました。けど、今はそんな風に思っていません。信じてもらえないかもしれないけど、証明することは出来ないけど、本当なんです」
言葉は時に、非力だ。どんなに心を込めていったとしても、それを目に見えて証明してくれる具体的な形を持たないから。信じてもらえるか否かは、相手にかかっているといっても過言ではない。
「この状況で何を言い出すかと笑われるかもしれませんが、俺は、できれば、非戦協定ではなく、吸血鬼一族と和平を……望みます」
カズマさんの後ろにいた、さっきの吸血鬼が、何を馬鹿なこと言っていやがる、と嗤った。
「あなたの気持ちは、おっしゃりたいことは、何となく分かります。しかし、あの方は、そんなことを望んではいません。ただ、コウギョク様を復活させたいがためだけに……」
「それでも、俺はそれを止めなきゃいけないんです。シムラを、取り戻すために」
不思議と、カズマさんは俺の言葉を笑わなかった。ただ、彼の意思とヤシュウの意思は違う。ヤシュウの意思がコウギョクのみに向けられていること、その意思が、誰にも変えられないほど固いことを、彼は知っている。だから、こんなにも辛そうな顔で、俺の相手をしているんだろう。それでも、俺はヤシュウのところへ行かなくてはいけない。コウギョクの復活を阻止しなくてはいけない。
「あなたは、どうしてそこまでシムラ様にこだわるのですか?」
また唐突な質問。一体これは、何を試されているんだろう。それともただの、時間稼ぎなんだろうか。少し、焦りを感じながら、俺はまた答えを口にする。
「……彼女の体は、シムラの体です。そしてシムラは、俺の……俺達の、友人です」
知合いでもなく、訪問者でもなく、あいつは俺達の友人。その言葉が、一番似合う。
「過ごした時間は短かったけれど、あいつがどう思ってるかは知らないけれど、俺はあいつを友達だと思っています」
友人を失いたくないと思う気持ちに、理由が必要だとしたら、そいつが友人であるから、というのが一番純粋な理由だろう。
「それに、イナダさんに頼まれたんです。若をよろしくって」
そういった瞬間、何故か周りの吸血鬼たちからイナダ様、と囁くような声が漏れた。
シムラを探してほしい、と頼みに来た夜、最後にイナダさんは俺にそういった。多分それは、シムラの身柄を探してほしいという意味でのよろしくだったのだろうけど、そうではないと拡大解釈しても許されるだろう。イナダさんは、もう、シムラを守れないのだから。
「だから……」
「どうぞ」
突然、カズマさんは足を半歩引いて、自分の後ろを示した。
「え?」
「ご案内いたします」
そういって、その先にある奥へと続く通路を視線で示す。何で、こんなにあっさり……?
「……いいんですか?」
急に態度を変えられると、こっちが不安になってくる。恐る恐る聞いた俺に、彼は優しい笑みを浮かべて頷いた。
「……ありがとうございます」
そういって頭を下げると、彼は俺に、頭を上げるようにといった。
「ただ、一つだけ約束して下さい」
「何ですか?」
どんな交換条件を突きつけられても、このチャンスを逃すわけにはいかない。けれど、さっきまでの吸血鬼たちの態度を見れば、今までの人狼と吸血鬼の関係を考えれば、彼のいう一つだけの約束が、簡単なことではないのは容易に想像がついた。一体、何を条件に出してくるつもりだろう。
「必ず、シムラ様を取り返して下さい。我らは、シムラ様との直接的な係わりはありませんが、必ず助け出してほしいのです」
「はい」
それは俺の目的でもあるから、今更何を言われるまでもない。けれど、彼がどうしてそれをもう一度、念を押すようにして俺に願ったのかは、分からない。
「私たちは、イナダ様に拾われた者たちなのですよ」
そういって、彼は周りにいた吸血鬼たちを見渡した。
「ここにいる者は皆、純血ではありません。人間出身の者ばかりなのです」
「はぁ……」
いわれて見れば、彼らの体格は、純血とはいい難い、力仕事に向いているような体つきをしている。
「人間出身の者は奴隷というか、道具扱いをされていたのです」
それは、誰でも知っている有名な話。うちの一族との抗争のときにも、吸血鬼は戦力が足りなくなると人間の血を吸って、部下を『量産』していた、というのが知れ渡っている。そんな風に量産された彼らに、まともな扱いが為されるとは思えない。
「そんな中、イナダ様だけは、一族の幹部になって……彼のおかげで、私たちは皆、道具から解放されたのです」
幹部になったイナダさんは、人間出身の吸血鬼たちの扱いを、使い捨ての道具から改善したのだそうだ。元々力が強く手先の器用な彼らだから、有事には兵として、普段は技術屋として、きちんとした契約の下で生きることを約束させたらしい。
「同じ吸血鬼一族、しかも向こうは長ですが、我らから見ればイナダ様を殺した仇なのです」
そういって、カズマさんはぎり、と唇をかんだ。
「勝手なお願いなのは分かっています。我らは、シムラ様の存在を、知らされていなかったとはいえ、見過ごして、見殺しにしていた。今だって、自分たちでは彼を取り返すことすら出来ません。同じ一族なのに、あなた方に頼るしか出来ない。情けない話です。しかし、イナダ様が宝物のように大事にしていたシムラ様を……どうか、取り返して下さい。そのための手助けなら、いくらでも、させていただきます」
周りの奴らも、さっきまでの敵意を消して、カズマさんの言葉を黙って聞いている。イナダさんという存在の大きさを、意外なところで再認識しつつ、俺たちはヤシュウのいるあの大広間へと案内された。
◆ ◆ ◆
祭りの夜には大勢の吸血鬼がいた広間も、今日はヤシュウとコウギョクの二人しかいない。祭壇も取り払われていて、更に広く見えるその場所は、あの夜とはずいぶんと様変わりしてしまったが、空に向かって開いた天井は変わらない。二日後には、またあの日みたいに丸い月が昇るのだろう。
カズマさんに案内されて、広間に足を踏み入れれば、こっちを向いたヤシュウとばっちりと目が合ってしまった。
「気が早いな。約束の期日は明後日の夜のはずだったが」
心底呆れたようなヤシュウの声。しかし、その後ヤシュウは俺から視線を外し、カズマさんを見て舌打ちをした。
「裏切る気か? カズマ」
氷のように冷たい声に、カズマさんは一瞬考えるような素振りを見せる。
「あなたへの忠誠を、忘れたわけではありません。しかし、イナダ様への気持ちも、忘れることはできないのです」
ほぼ完全な階級社会を作る吸血鬼一族の中で、彼がヤシュウに逆らうというのが、どれほどのことか、俺は知らない。けれど、力では圧倒的に有利に見えるカズマさんが、あそこまで恐れるということは、相当な覚悟が要るのだろう。呼吸をすることすら忘れてしまったように、彼は必死に言葉を続けた。
「我ら人間出身の吸血鬼を、ここまでにしてくれたのはイナダ様です。もちろん、最終的な決断を下したのはあなたですが……そのイナダ様が命に換えても守ろうとした若様を、あなたが殺そうというのなら、私は……長であるあなたの意思よりも、イナダ様の遺志に従います。たとえそれが、一族の掟を破り、あなたに刃向うことになっても……」
大して驚きも怒りもせず、ヤシュウは詰らなさそうに聞いていた。
「で、シムラに異様な執着心を見せる、そこの人狼に味方するというわけか。呆れた奴だな」
大げさにため息をついて、ヤシュウは嗤った。
「ちょっと待て。俺はお前らと戦争するつもりで来たんじゃないんだ」
このままだと、内部抗争に巻き込まれそうなので、ここは先に目的を告げてしまうのが得策だろう。
「あぁ、お前はシムラを取り返しに来たのだったな」
頷くと、ヤシュウの視線が少し白けた。
「……懲りない奴だな。お前がなんと言っても、私の意思は変わらんよ。コウギョクを復活させ、地竜一族を復活させ、天竜一族の支配から脱却する。それが私の、いや、私たちの望みだ」
力任せに押さえつけられたわけではないけれど、完全に、突っ撥ねられた。このままいけば、俺達の意思が交わることはないだろう。
天竜一族の支配からの脱却も大きな理由の一つだろうが、コウギョクの復活自体が、ヤシュウが望んでいることなのだから。世界を覆す壮大な野望と、愛する存在をもう一度手に入れたいというずいぶんと俗人的な願い。この二つが揃ったヤシュウに、それを止める理由はない。
「カミヤ。お前は、幼い頃、人喰いの禁忌を犯したことがあるだろう」
唐突に、ヤシュウはそんなことを言い始めた。赤い瞳が、妖しい光を湛えている。一体、何のつもりだ。
「その原因を作ったのは何だ。お前が禁忌を犯さなければならなくなったのは、何故だ」
答えは、分かっている。けれど、それを言ったら、その問に答えたら、俺はあっち側に連れて行かれてしまう。答えは分かっていたけれど、俺はそれを口に出来なかった。
「……ふん。答えるのは嫌か。しかし、分かっているのだろう」
そういって、ヤシュウは残忍な笑みを浮かべる。やめろ、言うな……
「お前が禁忌を犯さなくてはならなくなった理由。干ばつによる食糧難。その干ばつの原因は……」
「やめろっ!」
言うな……その先を言うな。言ったら……俺は……
「ここまで来てお前は目を閉じるのか? 血で染まったお前の手を、目を閉じて見ない振りをするのか?」
ヤシュウの言葉で、頭の中にあの瞬間が甦る。……見たくないわけじゃない。目を閉じたって、頭の中に浮かぶあの記憶は、目を逸らせることが出来ないのだから。景色だけじゃない。血の臭い、肉の感触、彼が上げた最後の悲鳴……忘れられるわけがない。
「俺は……」
「現実を見ろ、カミヤ。干ばつの原因は、カミの暴走。もっと言えば、天竜一族の裏切りではないかっ!」
「違うっ!」
ヤシュウの言ってることは正しい。正しいけど、違う。間違ってないけど、違う。
「確かに、天竜が、カミが、俺たちで遊ぶために、干ばつを起こしたのは事実かもしれない。そのせいで、食糧難になって、俺が人を殺したのも事実だ」
あの血を、俺は忘れることが出来ない。どれだけ獲物を狩っても、彼の血の臭いだけは忘れられない。だけど……
「地竜一族が復活すれば、裏切り者の天竜一族を倒すことが出来る。長すぎた奴らの支配からの解放を、お前は何故望まない」
ヤシュウの言うことは、間違ってはいない。そして、俺の望むこととも、共通点はある。けれど……
「望まないわけじゃない! だけどお前がやってることは違う!」
「何が違う。何故邪魔をする。自分の一族が、自分自身が地竜の力を手に入れられなかったからか?」
「そんなんじゃない!」
誰がその力を手に入れたとしても、別に構わない。俺は英雄になりたいわけではないから。
「天竜の支配から抜け出すことが、悪いことだとは思わない。新しい均衡を、作ることが、悪いことだとは思わない」
だってそれは、俺も望んでいたことだ。
「だけど、やり方が違う。四百年もシムラを独りにして、イナダさんの命を道具みたいにして……それで新しい均衡作っていいのかよっ?」
望む結果も、目的も同じだけど、俺とヤシュウは多分、そこへ行き着くまでのやり方が違うんだと思う。
「……今までの均衡を全て覆すのだ、多少の犠牲は必要だろう? むしろ、犠牲が二人で済むことは奇跡的ではないのか?」
違う。そんな世界は、嘘だ。
「干ばつの時、悪かったのはカミだけか?」
「何?」
ヤシュウが、怪訝そうな顔で俺を見る。
「確かに、原因はカミかもしれない。けど、それだけか?」
そう問えば、どういうことだ、とヤシュウは聞き返してくる。
「あの時、俺たち一族も、吸血鬼一族も、完全な被害者だったか? 被害者の振りして、陰で抗争して、そうやって力を磨耗し合ってたんじゃないのか?」
あの状況下でも、小さないざこざは各地で起きていた。そんな小さなことの積み重ねが、消耗戦になっていたのは、紛れもない事実ではないだろうか。
「何を綺麗ごとを。助け合えば、凌げたとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい」
相手にする価値もない、といわんばかりに嗤われる。けれど、本当にそうだろうか。
「もう過ぎたことだから、どっちがどうとか、具体的なことは言わないしいえない。けど、あれしかなかったなんて、選択肢は一つだったなんて、誰が言える? ああすれば良かった、こうすればマシだったかもって……後悔することが、全てじゃないけど、振り返って考えることは、できるんじゃないのか?」
選択肢が一つだけだったなんて、まずありえないし、もしそうだとしたら、寂しすぎる。
「天竜の支配から抜け出したいと願うのは、いいと思う。けど、それはまだ過去じゃないから、もっといろんな道を探っていってからでも、遅くないんじゃないのか? 死者を出すのは、全面対決するのは、それからでも遅くないんじゃないのか?」
「……下らん世迷言だな」
ヤシュウはそういって、はき捨てた。
「犠牲なくして、この願いは叶わない。たった二人の犠牲でそれを勝ち取れることを、何故もっと喜ばない?」
「勝ち取った物は、また奪われる。本当に新しい均衡を望むなら、奪い合うんじゃなくて、創り上げるべきだっ」
勝敗は、一時的なものだ。永遠じゃない。勝った方は、その勝利を守るためにまた新しい血を流し、負けた方は、次こそは勝利をと願って挑み続ける。そうやっておこる奪い合いに、終わりはない。
「……残念だな。カミに傷を負わされたお前なら、私の願いも理解してくれると思ったのだが、無駄だったか。悪いが、犠牲の数は、二人では足りないようだ。いや、犠牲ではない。お前たちは、邪魔者だ。二日後に、天竜共々潰してやる」
そういって、ヤシュウは俺たちを完全に拒絶した。
「そこの、ユニコーン」
今までずっとヤシュウの隣で黙っていたシムラ……いや、今はコウギョクか、が突然口を開いた。少し驚きつつ、ユウゴはコウギョクに何だと問い返す。
「ファルマの谷で、お前が見たこと、そこの頭の悪い人狼に教えてやれ。我ら一族が復活すれば、世界は我らの物だとな」
そういって、彼女は左の頬だけを器用に上げて笑った。相変わらず、左半身だけが鱗に覆われているのを見ると、まだ覚醒はそれほど進んではいないようだ。けれど、声も、話し方も、完全にシムラのものではなくなっている。
「話す話さないは、僕が決めるよ。お前に指図されることじゃない。それに、お前たちは一つ、大きな勘違いをしてるよ。お前たち地竜様から見れば、僕らなんてちっぽけで、くだらない存在かもしれないけどね、綻びって、放っておくとどんどん広がるんだ。気をつけた方がいい」
……何の話をしているのか、さっぱり分からない。けれど、コウギョクとユウゴは口調は穏やかなまま、水面下で火花を散らして会話を続けていた。
「大体、お前たちのしていることは無駄なことだ。彼は、生きることを放棄したんだからな」
そういって、コウギョクは自分の体を見下ろす。
「……どういうことだ」
シムラが、生きることを放棄した? 問うた俺を、コウギョクは少し自慢げに見た。
「この世界で、もう生きたくないと、そう望んだ。だから、私がこの体を使っている」
精神で、会話でもしたのだろうか。それとも、勝手に決め付けているんだろうか。どっちにしろ、そんなのは間違ってる。
「……あんたも、あんたもシムラの母親なら、それでいいのかよ?」
自分の息子の体を乗っ取って、蘇ろうとする母親というのは、どんな母親だろう。……って、目の前にいるこいつか。
「……お前ら、おかしいよ」
どこから何を違えてしまったのか、そもそも全ての始まりはどこなのか、考えれば気が遠くなりそうなほど問いが山積みだ。
「何を言っても無駄だ。今お前たちとやりあうつもりはない。帰れ」
完全に拒絶された形で、俺たちは洞窟の外へ連れ出された。
▼第十六章:襲撃
洞窟の外に連れ出されはしたけど、それ以上何をされることもなかったから、僕たちは洞窟前の広場に居座った。
「……どうする、んすか?」
チキ兄が、何ともいえない表情で御頭に訊く。最初は怒ってたチキ兄も、今は怒ってないみたい。っていうか、攻撃されると思ってたのに、話だけで終わっちゃって、拍子抜けしてるんだろう。御頭は御頭で、あーとかうーとか、妙な声を上げている。
「どう、すっかなぁ……」
そういって、御頭は頭をかいた。
「向こうがあそこで手を出してくれば、こっちも力技に持ち込めたんだけど、拒絶されただけ出しなぁ」
その言葉に、チキ兄がそうですねぇ、と言いかけて黙る。御頭の視線はチキ兄の方を向いていなかった。完全に自分の世界に入って、御頭は独り言をいい始める。考えてること、思ってることをそのまま口にする、御頭の癖。自分では気付いていない上に、こうなるとなかなか帰ってこないからちょっと困る。っていうか、感情もそのまま垂れ流すから、横で見てるとかなり怖い。
「こっちから手を出すわけにもいかねぇし。っつか、何であんなに余裕なんだあいつ。普通あそこは殴りかかってくるだろう。気ぃ長ぇよ。って、向こうは地竜がいるから余裕なのか。うあー……」
お姉ちゃん以外の人は皆、御頭のこの癖を知っているから、あー、また始まった、くらいにしか思っていないんだろうけど、何も知らないお姉ちゃんはちょっと困った表情で御頭を見ている。
「っつか、さっきコウギョクが変なこと言ってたな。どういう意味だ、ユウゴ?」
突然、話を振られてユウゴさんがえぇっ、と声を上げた。
「えぇっ、じゃねぇよ。コウギョクが言ってただろう。お前が見たこと教えてやれとか何とか……」
確かに、あの時コウギョクさんはそういっていた。あれは、どういう意味だったんだろう。
「別に何も見てないよ。あいつが何か誤解してるだけだって」
そういって、ユウゴさんは笑う。けど、御頭は納得しなかった。
「ファルマの谷で、オオシマが夢を見てたとき、お前もなんか見せられたんじゃないのか?」
確かに、僕が夢を見ている間、ユウゴさんが何をしてたのか、僕は知らない。けれど、ユウゴさんは僕と同じ夢を見ていた、と答えた。
「オオシマ君と一緒だよ。昔の夢。オオシマ君が話したのと同じだって」
それを聞いた御頭は、そうか、と頷く。
「隠すつもりはなくても、過去が暴露されるってあんまりいい気持ちはしないな。それが自慢できない過去なら尚更……」
そういって、御頭は苦笑した。
「俺がシホを守りたいって思うのは、あの時彼女を殺してしまったから、なのかな」
呟くように言った御頭に、ユウゴさんは首を横に振った。
「それとはまた違うだろ。殺してしまった彼女と、シホちゃんは別の存在なんだし」
そういった瞬間、御頭はユウゴさんを真正面から見据えて、彼女って誰だ、と聞いた。
「……え? それは……」
ユウゴさんが、しまった、という顔をして言葉を詰らせる。
「俺が殺した人間の子供は、男だって、知らなかったのか?」
「……ひどいな、騙したの?」
ユウゴさんの言葉に、お前だって嘘ついてんだろうが、と御頭は睨んだ。
「何を見たんだよ。どうしても、言えないようなことか?」
そう聞けば、ユウゴさんは御頭から目を逸らして下を向く。
「答えろよっ! ユウゴっ」
きつい声で問い詰めた御頭をチキ兄とソーマ兄が慌てて止めた。
「頭、落ち着いて下さいっ! そうやって怒鳴るから、ユウゴさんだって怖がって話せなくなっちゃうんじゃないっすか?」
それで我に返ったのか、御頭はふ、と怒気を消して悪ぃ、と呟いた。
「いいよ、別に。最初に嘘ついたのは、僕なんだし」
苦笑したユウゴさんに、御頭はけどごめん、ともう一度謝った。
「オオシマ君は、過去を見た。僕は、未来を見た。それがあんまり面白い未来じゃなかったから、話せなかった。話したら、現実になりそうで……話せなかった。ごめん……」
いつもの笑顔がユウゴさんの顔から消えている。……違う。谷に行った時から、ユウゴさんは無理して笑顔を作るようになった。それほどまでに、嫌な未来を見せられたんだろうか。
「全部が嫌なことだったわけじゃない。でも、いい方を言って楽観視するのも危険だし、悪い方を言って自暴自棄になるのも、士気が下がるのも嫌だ。だから、先のことはいわない。言いたくないんだ」
それを聞いた御頭は、そっか、と静かに頷いた。
「言いたくなければ、言わなくて言い。けど、未来なんて、誰にも分かんないんだ。地竜が見せたそれが、一つの可能性であっても、絶対なんていいきれない。だから……お前も志気下げんな」
ユウゴさんは、少しだけ表情を和らげて、うん、と頷いた。
◆ ◆ ◆
「で、さっきから、嫌な感じがしてるんだけど、気のせいか?」
御頭が急に怖い顔をして周りを窺う。チキ兄とソーマ兄がユウゴさんの左右に跳んで、警戒した。
「……頭? 何にも……あ……」
チキ兄もやばい、って顔をして周りや空を見る。……一体……
「逃げろっ!」
御頭が叫んだ直後に空から滝が落ちてきた。
「ユウゴ! 無事か?」
ぎりぎりのところで、滝の直撃を避けたユウゴさんは、背中にいる僕らの無事を確認してから大丈夫、と答える。滝なら、ずっと水が落ちてくるけど、さっきのは滝とは違ったらしい。もう、水は落ちてこない。
「一体どういうつもりだっ! 聞いてんだろう? 馬鹿女っ!」
何もいない空に向かって、御頭が吼えた。馬鹿女って……ハルナのことだろうか。
「ねぇ、御頭、どういうこと? まだやくそ……」
約束の日はまだじゃないの、と訊こうとしたのに、空から叫び声と共に何かが落ちてきて、僕らはまたそこから逃げる嵌めになった。
「誰がユウゴ様を狙えといったの? この愚か者がっ! 私は横の人狼を狙えといったのよ? ユウゴ様に万一のことがあったら、どうするつもりなのっ」
見えないくらいの上空から、大きな竜が降り立つ。大地につく直前に人型をとった彼らの、一人はハルナ。そして、叫び声の主だと思う男の人が一人。他にも三人、強そうな男の人がいる。でも、ハルナはその強そうな男の人よりももっと怖い顔で、叫び声を上げて降って来た男の人を踏みつけている。男の方は、申し訳ありません、と今にも死にそうな声で謝っていた。
「はぁるなっ。約束の日は二日後だよ? ちょっと気が早いんじゃない?」
げしげしと顔を踏まれている男の人を可哀そうに思ったのか、ユウゴさんが声をかける。言われたハルナは、盛大に舌打ちをして、忌々しげにその男の人を睨みつけてから、ユウゴさんの方を向いてにっこりと笑った。……いっつも思うんだけどさ、何でユウゴさんに向ける表情だけ、一瞬で笑顔になるんだろう。僕、あんなこと絶対無理。
「気が早いというわけでもありませんわ。地竜と天竜の決戦のための、舞台作りに来ましたの」
「……へぇ。その辺の木を切って、劇場でも作るの?」
そういってユウゴさんが笑うと、ハルナもつられて笑った。
「面白い考えですわね。でも、そういう意味じゃなくてよ」
ハルナの顔から笑みが消える。人型のままなのに、瞳の奥で炎が燃えるように、彼女の目がギラリと光った。
「人狼一族の意思は二日後ですが、吸血鬼一族の意思は決まっているようですからね。地竜との決戦の前に、雑魚は一掃しておこうかと思いまして」
それって……。背中の毛を無理矢理逆撫でされるような、嫌な感じがする。……ねぇ、嘘だよね。
「我々は、吸血鬼一族を処分しに来たんです。地竜が後ろにつけば厄介なことになりますけど、今の彼らなら、私たち五人でも、充分処分できますわ」
ハルナがそういった瞬間、御頭が叫んだ。
「ちょっと待て。悪いのはヤシュウ一人だろう? 吸血鬼一族は、関係ないだろう?」
反論した御頭をハルナは鼻で笑う。
「長の意思は一族の意思。世界の常識ではなくて?」
「だけどっ……」
ハルナが本気でそういっているのは、間違いないだろう。僕でも分かるくらい、今の彼女は怖い雰囲気を纏っている。
「今回の一件は、ヤシュウの独断だ。一族は何も知らされていない。言ってみれば、あいつが一族を裏切ったんだ。だから……」
「だったら何故、吸血鬼一族はヤシュウを倒さないのです?」
ハルナは叩きつけるように、そう訊いた。
「裏切り者のヤシュウを、それでも彼を長と認めていること自体が、今吸血鬼一族がヤシュウを黙認していることこそが、一族全体の裏切り、カミへの反逆行為ではないのですか? その裏切り者たちを処分するのの、何がいけないというのですか? 何が間違っているというのですか?」
「お前らの考えの根底から間違ってんだよっ」
ハルナの興奮が移ったのか、御頭がぶち切れて叫んだ。
「お前らが強いのは認める。強い奴が世界を支配するのも、自然の摂理だと思う。けど、一人反逆者が出たからって、一族全員皆殺しにする意味って何だ? 他の種族を排除していく意味って何だ? お前らそれで一体何がしたいんだよ」
御頭がここまでたくさんのことをいっぺんにいうのを、僕は初めて聞いた。いつもは、あんまりいろんなこと言わないから、最後の方は、口が回ってなかったけど、慣れてないんだから仕方ない。
「弱いものが強いものに従うのは当然です。そして、お前たちみたいな下等な連中に生きる価値がないと、お前たちより強い我らが決めたんです。だからおとなしく死ねといっているんです」
……とんでもないこと言ってるよ、あの女。っつか、チキ兄とソーマ兄が怒るの通り越して呆れてるのも通り越して、何かもうわけ分かんない顔になってるし。
「そんなに力のない奴が嫌いか? だったら、自分たちより弱い奴、皆殺しにしてお前ら生きていけるのか? 人狼、吸血鬼、人間だけじゃない。そこら辺にいる鳥も、動物も、植物も、皆弱いけど、全部殺してお前ら生きていけるのか?」
「下らない屁理屈を言うなっ!」
ハルナが、お姉ちゃんにしたときみたいに腕を振り上げた。……違う。お姉ちゃんのときなんかより、桁違いの力が入ってる。
「おかし……」
僕が声を上げる前に、ハルナの腕は御頭の顔めがけて思いっきり振り下ろされた。
「あんまり力入れすぎると、自滅するって、知ってるか?」
腕が振り下ろされて、顔に当たる直前に、御頭は自分の手を彼女の腕に沿わせて彼女の後ろに回った。御頭はそのまま腕を地面に落として、彼女を完全に地面に倒す。御頭は彼女の傍に座って、肩を両膝で、肘と手首を両手で抱きしめるようにして締め上げた。
「何で……」
「限界の力は、自分でも制御できないから、いくところにしかいかない。その方向は読みやすいから、避けやすい。まぁ、そんなところかな」
そういって、御頭は楽しそうに笑う。何回か僕もやられたけど、ああやって掴まれると、どんなにもがいても動くことが出来ない。力を入れれば入れるほど、どんどん動けなくなって、最後は疲れて逆らえなくなる。何でって聞いたら、秘密って笑って教えてくれなかったけど、逃げ方は教えてくれた。あれを解くには、逆に力を抜くことが大事なんだってさ。でも、怒り狂ってるハルナは力を抜けない。だから、あれも解けない。あれ、肩と肘と手首がそれぞれ逆方向に捻られるから痛いんだよ……。
「頼むからさ、関係ない奴に手を出すのはやめてくれないか? 無駄な血を流すのって、お互いのために良くないと思うんだ。悪い奴は、そいつだけ叩けばいい。違うか?」
少しずつ、ハルナを締め上げながら、御頭が問う。
「うるさい。お前たちなど、生きる価値なんてない。私たちの言うことは絶対だっ」
「じゃあ、死んでみるか?」
ごきっ、と鈍い音がして、直後にハルナの悲鳴が響いた。
「ハルナ様っ」
天竜の人たちが慌てて止めようとするけれど、ハルナは完全に御頭の下にいるから簡単に手は出せない。今の状況だけなら、ハルナを押さえている御頭の方が、天竜の奴らより有利だ。
「嘘だよ。ちょっと関節外しただけだって。入れればすぐ治る。けどな……次は、頸かもしれない……違うかもしれない……」
冷たい笑みを浮かべたまま、御頭はハルナの関節を入れなおした。また鈍い音が響いて、彼女の苦しそうな声が上がる。
「ちょっとは、死ねって言われる方の気持ちも分かったか? 嬉しくないし、痛いだろう? 死ぬのはこれより痛いぞ」
「ふざけやがって……うっあぁっ」
体を起こそうとした彼女を、腕を軸にして地面にまた引き戻す。腕一本押さえられただけなのに、完全に支配されているのは、端から見てると不思議だけど、やられてる方にしてみれば必死なんだ。
「なぁ、もう一回。地竜と戦うのは構わないけど、もう俺たちに係わるのはやめてくれないか? 俺たちはお前たちに干渉しない。だから、お前らも俺たちに係わらないでくれ。お前ら俺たちのこと嫌いだろ? 住むところも違うんだし、干渉しあわないで生きていけば、お前らは俺たちに会わなくてすむし、俺たちはお前たちの我侭に付き合わされずにすむし、その方がいいと思うんだ」
御頭の穏やかな声。でも、もう御頭が限界なのは僕でも分かる。多分ハルナが嫌だといったら、御頭はハルナを殺しちゃうと思うんだ。ハルナの答えを聞くためか、ユウゴさんが、僕らを乗せたまま、御頭の傍にいく。
「お前らの願いなんか聞かない。我らは我らの思うように生きる。お前たちの言葉など聞か……」
がつっ。
……ハルナを殺す音にしては、妙に軽い音が響いた。
「いってぇぇっ!」
悲鳴はハルナじゃなくて、御頭の方だ。ユウゴさんが蹄で御頭の後ろ頭を蹴ったんだ。さっきハルナも竜族の人を踏んでいたけど、そんなもんじゃない。ユウゴさんの蹄はとんでもなく堅いんだ。
「お前がハルナを殺してどうするのさ。人狼が先に殺傷したら元も子もないじゃないか、頭冷やせ馬鹿」
「だっ、だからって、お前、その凶器で蹴ることないだろう?」
ちょっと涙目になって、御頭が抗議するけど、ユウゴさんは鼻で笑う。
「ちゃんと手加減、ううん、足加減したもん。僕って優しいっ」
「んだとこの馬っ。お前の足はそこにあるだけで凶器なんだってのが、分っかんねえのか。大体、本気で殺るわけねぇだろ? さっきだって骨折ってねぇし。こんなんでも一応女だから、俺はちゃんと気遣ってんだよ。俺、すっげぇ紳士じゃねぇか」
「お前のどこが紳士じゃぁっ!」
どさくさに紛れて拘束から抜け出したハルナが、そういって御頭を叩いた。
「こ、これだから人狼は馬鹿で嫌いなんですわ。お前たち一族には品性というものが感じられません」
お前にも感じられねぇけどな、という御頭の呟きは完全に無視して、ハルナは怒鳴りつけた。
「大体、お前たち人狼一族にとっても、吸血鬼一族は敵でしょう? それを片付けて何の不利益があるというのです。我らはお前たちに感謝されることはあっても、非難される覚えなんてありません!」
そういって、ハルナはまくし立てる。けど、さっきよりも言葉に勢いがないのは気のせいじゃない。御頭に腕締められたのが痛かったからかな。でも、何か違う気がする。何かに怯えるように、何かに追い立てられるようにして彼女は話している。……何だろう。泣きそうな匂いがする。
「そこをどきなさい。どかないと今度こそお前たちも一緒に殺すわよ? どきなさいったら……」
「お前、さっきから何に怯えてんだ?」
御頭がそう聞けば、ハルナはびくりと震えて黙った。
「わ、私が怯えるですって? 馬鹿なこといわないで」
そういって必死に強がってみせるけど、虚勢なのはバレバレだ。
「……次はお前か? 先発で吸血鬼一族を片付けられなかったら、処分されるのはお前か?」
「黙れっ!」
そういってハルナは腕を振り回したけれど、今度はさっきよりも簡単に避けられる。明らかに、ハルナは動揺して、怯えていた。
「カミの暴君っぷりはついに一族にまでってやつですか。一体何考えてるんでしょうねぇ」
ソーマ兄が呆れてため息をついたけれど、それを笑うやつは誰もいない。
「……どきなさい。お願いだから、そこを通して……」
ハルナの目に、涙が浮かんだ。
「あんたなんか、今すぐ焼き殺してやりたい。でも、それをしたらユウゴ様は二度と私の方を見てくれない。だから、私はあんたを殺さない。でも、それでも私は……」
吸血鬼一族を滅ぼさなければ、ハルナはカミに殺される。でも、今吸血鬼を守ろうとしてハルナの前に立っている御頭は、ハルナが殺したくても殺せない存在だ。殺したら、大好きなユウゴさんはハルナを嫌いになっちゃうから。……何で、こんなことになっちゃったんだろう。何で……。
「いつまでかかっているのだ? ハルナ」
空から響いた低い声。そこらじゅうの空気が振るえて、響き渡る。その声を聞いた瞬間、ハルナは絶望したように目を見開いて、たった一言、お爺様、と言った。
空には、あの時僕が夢で見たようなたくさんの天竜が集まって、僕らを見下ろしていた。
◆ ◆ ◆
「だから何で天竜一族ってこんなに早く来るんだ? 張り切りすぎると後でばてんぞ」
チキ兄が遠い目をして呟くけど、カミサマは完全無視だ。
さっきは雰囲気に圧倒されてたから、よく分からなかったけど、夢で見た時より天竜の数は少なかった。あの頃は空を覆いつくすくらい、夥しい数の天竜がいたけれど、時代はもうずいぶん流れた。全勢力、といっても三十ちょっとくらいで、本当に少ない。ハルナが、唯一の子供を生める候補、というのも今なら分かる。もちろん、三十ちょっとでも彼らが暴れれば僕らなんてひとたまりもないけどね。
「半分以上は片付いたと思っていたが、まだ手付かずとはどういうことだ? 人狼三人に何を手こずっておる」
そういって、カミサマはハルナと彼女と一緒に来た人たちを睨みつける。……あれ、人狼三人って……もしかして僕は頭数に入ってない?
「も、申し訳ありません、お爺様。けれど、彼は……」
「邪魔者は全て消せ、といったはずだ。それとも私の命がきけぬか、ハルナ」
カミサマは冷たい声でハルナに言い放つ。命令が聞けないなら、お前なんかもういらない、そんな風に聞こえるのも間違いじゃないだろう。
「そこの人狼に何か吹き込まれたか、ハルナ。だが、天竜一族の誇りを失えば、お前に残されるのは死のみだ。甘言に惑わされるな。お前の今すべきことは何だ?」
「お待ち下さい、お爺様。そこの人狼を殺せば、ユニコーンの遺伝子は手に入らなくなります」
苦し紛れに、ハルナはそう叫んだ。
「そ、そこの人狼は、ユニコーンの心を握っています。彼が死ねば、ユニコーンは共に死ぬと、誓い合った仲です」
御頭が、全力で否定しようと口をあけた瞬間、チキ兄とソーマ兄が御頭を押さえつけた。今はそうやって誤解されていた方が、生きられる確率は高いからだろう。
「ですから、ユニコーンの遺伝子を私が手に入れるには、天竜族に希少種の遺伝子を取り入れて新しいカミを生み出すには、彼を殺すわけにはいかないと……」
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
その一言で、ハルナは黙った。というより、何もいえなくなった。見たことないくらい悲しそうな顔をして、膝をつく。……ひどいよ。僕、ハルナのこと嫌いだけど、あんまりだと思う。ハルナはカミサマの孫なのに。代わりなんていないのに。
「私の言うことが聞けぬものは、全て敵だ。それでも私にだって情けはあるし、今は地竜との戦いで頭数が必要なのも否めない。お前の処分は、地竜との戦いが終わるまで保留にしておく。命拾いしたと思ってしっかりその力を役立てろ」
泣きそうな顔で、ハルナは頷いた。うぅん、ハルナは泣いていた。悲しいのと、悔しいのと、いろんな感情が混ざった顔で、泣いていた。
「さて、コウギョク。約束の時間よりは少々早いが、もう準備はいいのだろう? 出てきたらどうだ」
カミサマが洞窟に向かってそう叫ぶと、シムラ……じゃなくてコウギョクがヤシュウと出てきた。
「気が早いというか、約束を守らないというか、突然の襲撃をしてくるのは昔と変わらんな」
シムラの顔をしたコウギョクが、そういって笑う。
「まぁいい。それすら、我らは読んでいたからな。準備ももう出来た。やるか?」
問われたカミは、頷こうとしてふと問い返した。
「しかし、準備が出来たという割にはお前一人のようだが、大丈夫なのか?」
コウギョクの態度を見れば、虚勢ではないのは分かるけど、地竜たちの姿が見えないのも事実だ。一体、どうなっているんだろう。
「そうだな。じゃあ、月が真上に昇るまで待ってくれ」
そういったコウギョクにカミはいいだろう、と頷いた。月が真上に昇るまでって……もうすぐなんだけど。
「ヤシュウ。少し離れていてくれ」
そういって、コウギョクはヤシュウににっこりと笑いかける。ヤシュウが数歩離れたところまで下がるのを見たコウギョクは一人頷いて、地面に片膝をついて両手をつけた。
ふわり、と背中の翼が広がる。透き通った翼は、前にシムラに見せてもらったときよりも輝きが増していて、大きさも前より大きくなっている。前よりも、硬そうに見えるのも間違いじゃない。コウギョクは地竜だから、あの翼も、水晶か何かになっているんだろう。
――さぁ、甦れ、我が一族。愚かな天竜たちに、粛清を……
地面がぼこぼこと波打って、岩の塊とか、木の塊が生えてくる。それらはどんどん形を変えて、あの時夢で見たような地竜の姿が形作られていった。
「大地がある限り、我らに死はない。何も恐れるな。裏切り者の天竜に死を」
コウギョクの声に答えるようにして、地竜の形をした岩や木は、夜空の天辺に昇った月に向かって吼えた。
▼第十七章:逸脱
天竜一族と地竜一族の総力戦なんて、体の小さい僕らが係われるわけもなくて、僕らはただ目の前のそれを見ていた。竜族だって、僕らの加勢なんて当てにもしていないだろう。っていうか、足手まとい以外の何ものでもないし。
あの日見た天地戦争よりは数が少ないから、規模が小さいから大丈夫、なんて思った僕が馬鹿だった。
流れる赤、飛び散る黒、怒号、悲鳴――いつまでたっても終わらない。やめてよ……そんなことしたって意味ないよ……。
「すげぇ……」
チキ兄が、目を見開いて、呆然としながら声を漏らした。僕らに出来るのなんて、それだけ。やめてと叫んでも、もう止まらない。止められない。止めるどころか、僕らの声なんて、届くことすらないだろう。
天竜と地竜、決着がつくまで、僕らは蚊帳の外だ。何も出来ないことがわかっていても、何も出来ないのが分かっているから、僕は悔しい。胸が苦しくて、息ができない。
「オオシマ君」
後ろにいたお姉ちゃんが、ぎゅって、抱きしめてくれた。僕も泣きそうだったけど、お姉ちゃんもきっと泣きたいんだと思う。顔は見えないけど、涙の匂い。……お姉ちゃん、震えてる。怖いのかな。それとも、僕みたいに悲しいのかな。
空では、ハルナが体を振り回して炎を吐いていた。夜の空から、火の粉と一緒に、どっちのものとも分からない鱗が降ってくる。雪よりもきらきらとしてて、それは少し幻想的な光景だった。周りの叫び声とか、血の臭いがなければ、僕らは『綺麗だねぇ』って、言えただろう。お姉ちゃんもきっと、笑ってくれただろう。……おかしいな。こんなに赤が飛び散っているのに、僕は何でこんなに冷静なんだろう。もう、心がおかしくなっちゃったのかな。こんなのに慣れるなんて、嫌なのにな。
天竜一族は片っ端から地竜の体を壊しにかかる。それでも、最初にコウギョクが言ったとおり、彼女がいる限り、大地がある限り、地竜の体は尽きることがなくて、壊された地竜たちは何度でも立ち上がった。
たぶん、このまま行けば、天竜が力尽きて倒れる。そうしたら、何か変わるだろうか。僕たちは幸せになれるんだろうか。……なれるわけ、ない。こんなんで幸せになんてなれるわけない。
火竜が焼いた森の木で、炎を纏った地竜が生まれる。地竜に炎を吐く力はないのだろうけど、燃える木から生まれた地竜は、炎で包まれた岩を天竜に向かって飛ばす。それが落ちて、また森に火をつける。辺りが炎の赤で染まって、焼け焦げる匂いが漂った。
炎の赤、灰の黒、血の赤……。肉が焼ける臭い、木が燃える匂い、血の臭い、抉られた大地の匂い……。自分の嗅覚が敏感なことを、こんなに後悔したのはあの夢以来。うぅん、あの夢は、結局夢だった。本物みたいだったけど、全部昔の話。でも、今僕が感じているのは違う。今ここで、目の前で起きている現実だ。……嫌だ。こんな血の臭いは嫌だよ。
それでも、コウギョクは楽しそうに笑っている。裏切り者の天竜たちを殺すことが、何よりも楽しいというように。殺戮行為そのものを楽しんでいる彼女を、多分もう、そばにいるヤシュウも止められないだろう。まあ、ヤシュウは始めから止めるつもりもないんだろうけど。でも、地竜が勝ったそのあとで、コウギョクがヤシュウを生かす意味ってあるんだろうか。吸血鬼一族を生かす意味って、あるんだろうか。天竜が勝っても、地竜が勝っても、あとに来る結果はあまり変わらない気がする。
「御かし……」
御頭はどうするつもり、と聞こうとして、僕は途中でその名前を呼べなくなった。僕よりも、ずっと、御頭の方が悲しい顔をしてたから。僕みたいに子供じゃないから、御頭は泣いていない。でも、僕より大人でも、竜族の争いを止めることはできない。シムラを取り戻すことも、出来なかった。それって、どれくらい悔しいだろう。どのくらい、悲しいだろう。竜族の争いを、コウギョクの姿を、一瞬たりとも見逃さないように、炎で目に焼き付けるようにして、御頭はその争いを見ていた。
◆ ◆ ◆
「世界の支配者が笑わせる。その程度の力で我らに勝てるとでも思っていたのか?」
天竜一族に向かって、地面から岩を飛ばしながら、コウギョクは楽しそうに笑う。けれど、地竜たちの形がさっきより崩れてきているのは、再生のスピードが落ちてきているのは気のせいじゃない。
「お前こそ、さっきよりも再生精度が落ちているぞ。世界で生きることを放棄したお前たちが、この世界にまた適応するのには相当の時間がかかるのではないのか?」
カミがそういって大きな塊の水を落とした。
「四百年前、体を保つことが出来ず、砂になったお前が、それは一番分かっているだろう?」
地竜の体から、ぼろぼろと砂や土が剥がれるようにして落ちてくる。これだと、勝敗は分からない。
「だから待ったのだ。血の契約をして、私は体を手に入れた。鉱物だけではなく、この世界で生きてきた、血と肉でできた体を。生き物の体は時に脆弱だが、生きるという目的に対しては貪欲だ。私は何度でも甦る」
鉱物の強さと、命の強さ。両方を併せ持ったシムラの体が最強だと、コウギョクは言う。でも、もうあの体はそこにはない。半分以上が鉱物に覆われた体は、もうシムラの体じゃない。地竜の体だ。
「大地と生身の体を持った私が、世界を統べるには相応しい。裏切り者のお前たちには死を。新しいカミは、私だ」
一際大きく、翼が光って、大地がまた動き――
「やめてぇぇっっっ!」
僕の後ろから響いたその声で、コウギョクはびくりと動きを止めた。それと同時に、大地もまた静止する。
突然攻撃をやめた地竜たちに、天竜も驚いたのか炎と水を止める。戦場に静寂が訪れた。
「もう……やめて……。シムラさん……シムラさんっ」
あの時の僕みたいに、お姉ちゃんは泣いていた。シムラの名前を何度も呼んで、もうやめてと繰返す。ユウゴさんが、お姉ちゃんをコウギョクのそばに連れて行った。
「誰だ、お前は。……シムラが連れて逃げたという人間の巫女か」
コウギョクはそういってお姉ちゃんを睨みつける。お姉ちゃんはそれには答えず、ユウゴさんの背中を降りて、何かに引きつけられるようにして、コウギョクのところへ歩いた。
「残念だが、無駄だよ、小娘。シムラはもうここには」
「私の声が、聞こえますか、シムラさん」
コウギョクの声なんて聞こえないとでもいうように、お姉ちゃんはそう訊く。その視線は、コウギョクの方を向いているけれど、コウギョクとかみ合うことはない。涙で潤んだその瞳が、周りの炎を映してゆらゆらと揺れていた。
「無駄だといっている」
少し苛立った声でコウギョクはお姉ちゃんを拒絶する。お姉ちゃんはそこでやっと、コウギョクと視線を合わせた。
「……じゃあ、シムラさんの体にいるあなたは、私のことを覚えていますか?」
お姉ちゃんが何をしたいのか、全然分からない。それとも、何がしたいわけでもなくて、この戦いを見ていて心が、壊れちゃったんだろうか。御頭が、シホどうした? と心配して声をかけるけど、お姉ちゃんは何も答えなかった。
「知るか。わけの分からないことを言っていないで、帰れ」
かみ合わない会話に、業を煮やしたコウギョクがついに叫んだ。だけど――
――とす。
コウギョクの視界から、お姉ちゃんが消える。コウギョクは自分の身に何がおきたのか分からない、という顔をして呆然と立ち尽くし、御頭とユウゴさんはお姉ちゃんの行動を、信じられないものでも見るような目で見ていた。
「……何を……」
お姉ちゃんが抱きついたことに、やっと気付いたのか、コウギョクはそう訊いた。そう、ほんの一瞬で、お姉ちゃんはコウギョクの懐に入った。
「私のこと、覚えていてくれるって、言いましたよね?」
ぎゅう、と背中に回した手が、コウギョクに縋る。
「私は、人間だから、シムラさんより寿命は短いけど、ずっと覚えていますよ? 約束しましたよね? ずっと忘れないって……約束しましたよね? シムラさんっ!」
顔を上げて、お姉ちゃんはコウギョクの肩を掴んで揺する。お姉ちゃんの力なんてたかが知れているはずなのに、コウギョクは抵抗することも叶わず地面に倒される。その上に馬乗りになって、お姉ちゃんは泣いた。溢れる涙は、コウギョクの顔に落ちて飛び散る。透明な鱗と、透明な涙。月明かりの下で、それはきらきらと煌いた。
「ねぇ、目を覚まして。シムラさんは、自分の目で、自分の体で、世界を知らなきゃだめなんです。自分の心で、世界を感じなきゃだめなんです」
お姉ちゃんの声は、シムラにまだ届くんだろうか。体を乗っ取られたシムラに、お姉ちゃんの声は、届くんだろうか。
「見たくない、とあいつはいった」
コウギョクはそう答える。コウギョクの中で、シムラがそういったんだろう。それでも、お姉ちゃんはコウギョクを放さなかった。
「あの吸血鬼のいない世界で、生きていくのは嫌だと、シムラがいった」
その言葉を拒絶するように、お姉ちゃんは首を振る。コウギョクの襟を掴んで、全体重で押し付けて、泣きながらお姉ちゃんは首を振った。
「あいつのせいで、あの吸血鬼は死んだ。シムラと――外の世界を繋いでるのはイナダだけだったのに、もういない」
鱗に覆われていない、コウギョクの右目から、涙が零れる。その右目の色が、紅く見えるのは、周りが燃えているからだけじゃないだろう。
「カミも、ヤシュウも、皆嫌い。イナダのいない世界なんて、見たくない。生きていたくない。だから、体も要らない。心も要らない。要らないからっ……」
その声は、コウギョクの声じゃなかった。要らないと叫んで、シムラは目を閉じた。子供みたいに首を横にいっぱい振ってやだやだってする。そして、また目を開けば――
「ほら、聞こえただろう? シムラはこの世界に生きたくないと、自らの意思で選んだんだ。気がすんだろう。どけ、小娘」
目を開けたシムラは、コウギョクの声でそういった。
「イナダさんは、まだ消えてないですよ」
お姉ちゃんは静かにそう告げる。コウギョクがまたひくり、と痙攣した。
「……イ、ナダ?」
今度はシムラの声。そっと物陰から様子を窺うような顔で、お姉ちゃんを見る。
「イナダさんは、まだ消えてないですよ」
お姉ちゃんはもう一度繰返して、シムラの頭を、子供にするみたいに撫でる。
「……うそだ。イナダはもういない。俺のせいで、俺が殺したんだ……」
子供みたいに泣きじゃくるシムラをあやすお姉ちゃんを、ヤシュウが引き剥がした。
「余計なことを吹き込むな。イナダは死んだ。こいつを守って死んだ。それだけだ。邪魔をすれば今ここで殺すぞ」
ヤシュウがそういって脅したけれど、お姉ちゃんは大して怯えなかった。
「たとえ体がなくなっても、イナダさんの気持ちは、まだ残ってます。イナダさんが、シムラさんを大好きだった気持ちは、守りたいと思った気持ちは、カミヤさんや、吸血鬼の人たちにちゃんとつながってます。シムラさんに届くようにって、シムラさんが寂しくないようにって……」
「黙れっ!」
ヤシュウが怒鳴りつけたけど、お姉ちゃんは怯えるどころかヤシュウを真正面から見据えて叫んだ。
「シムラさんは、あなたの子供かもしれないけど、あなたがシムラさんの体を好きに使う権利はありません。シムラさんを返して下さい」
ヤシュウがちょっと本気を出せば、お姉ちゃんなんてあっという間に殺されちゃうというのに、お姉ちゃんは怖がりもしないでヤシュウを睨みつけていた。
「イナダさんが死んだのは、シムラさんのせいじゃない。あなたたちのせいでしょう? シムラさんを返して下さい。ねぇ、返してっ」
そういって、お姉ちゃんはヤシュウに掴みかかろうとした。
「煩い、黙れっ!」
コウギョクが、お姉ちゃんに向かって腕を振った。お姉ちゃんがコウギョクの方を向くよりも早く――
「シホっ!」
御頭がお姉ちゃんに駆け寄るよりも早く――お姉ちゃんの足元の地面が爆発した。
◆ ◆ ◆
土煙がおさまったあと。
「かしらぁぁっ!」
叫んで駆け寄ったチキ兄が息を呑む。爆煙が去った地面に倒れていたのは
「二人とも、無事?」
土塗れになった白い体。
「お前……何で……」
お姉ちゃんを抱きかかえた御頭の、声が震えている。その視線の先にいるのは
「ねぇ、見た? 未来に、絶対なんて、ない……んだ、よ」
体の負担を減らすために人型をとって、コウギョクにびし、と指を差して笑うのは
「……ユウ……ゴ……さま?」
空から降りてきたハルナが、その名前を呼んで、声にならない悲鳴を上げた。
爆発の直前に、ユウゴさんは御頭を突き飛ばしたんだろう。御頭とお姉ちゃんは土を被っただけで、ほとんど無傷だ。でも、直撃を受けたユウゴさんはその場に崩れ落ちた。
「おい、ユウゴっ。お前、何言って……っつか、お前……あ、あし……」
お姉ちゃんをソーマ兄に任せて、崩れ落ちたユウゴさんの体を受け止めた御頭は、何が起きたのか理解はできていないみたい。震える声はまともな言葉になっていない。
「君が死ぬよりマシだよ」
そういって笑ったユウゴさんの体は……左の腰から下と、右の膝から下がなくなっていた。
「こういう展開も、ありなんだね……」
コウギョクに言ってるのか、御頭に言っているのか、独り言なのか、よく分からない言葉。そのあとは、顔を上げて御頭を見る。
「……嬉しくて、嬉しくない未来、見たっていってただろ?」
必死に笑顔を作りながら、ユウゴさんは御頭に伝えようとする。
「戦争は、終わるけど、コウギョクに、君が……殺される、夢。今……と同っ、状況だった」
僕が見せられた夢が、過去に本当にあったことだったように、ユウゴさんは今と同じものを、あの時夢で見せられていたんだろう。
「もういい。もういいからっ、喋るな。なぁ……」
腰だったところから、だらりと垂れ下がった管と、流れ出す赤。その赤を掻き集めて、御頭は叫んだ。
「先の、ことはっ、ともかく……それ、だけ、耐え……なかったんだ」
息が上がってきたユウゴさんは、言葉を途切れさせながら、それでも話し続ける。
「未来、なんか……知らない。運めっ、なんて、知らな……。だから、逆らった」
地竜の見せた未来に逆らって、ユウゴさんは夢と違う行動をとったって、言うんだろうか。
「ぼくは……平和より、君が、いる未来が欲しかった……」
「だからって……だって……お前がこんなになったら意味ねぇだろうがっ」
御頭が泣いてるのか怒っているのかわからない声をあげる。
「シムラ君に、伝えて。つらいなら、生きてって……。過去はダメだけど、未来は、変えられるって……」
「そんなの……それは、お前が伝えればいいだろっ」
御頭の言葉に、ユウゴさんは楽しそうに微笑んだ。
「カミヤ。僕は……幸せ、だよ。だから……やくそく……」
そのあとの言葉は、ぼくには聞こえなかった。多分、御頭にしか、聞こえない声。御頭しか、聞く権利のない言葉。
「……俺は全然幸せじゃねぇよ。ずっと一緒にいるっていっただろ? 俺の都合なんていっつも無視して、鬱陶しいくらい付きまとってたのに、何でこんなところで……何で、こんなことで……ユウゴっ。目、開けろ。ユウゴっ。ユウゴっ。起きろ馬鹿っ……ユウゴっ……」
どれだけ呼んでも、あの青い目が、御頭に向かって微笑みかけることはなかった。流れる赤も、いつの間にか、止まりかけている。ハルナが、叫んだ。
◆ ◆ ◆
「下らんな。死んだのが人狼であれ、ユニコーンであれ、その差は小さなものだ。我らの未来に変わりはない」
コウギョクが御頭に向かって冷たくそう言い放つ。俯いていた御頭は、顔を上げずに、かも知れないな、と答えた。
「チキ、ソーマ。シホとオオシマと……ユウゴのこと頼むな」
もう動かないユウゴさんの体を地面にそっと置いて、御頭がふら、と立ち上がる。腕についたユウゴさんの血を、御頭は舌でなぞるように舐めた。
「せっかく命拾いしたのに、無駄にする気か? それに、手を出さないのではなかったのか?」
嘲うコウギョクに、御頭は、これは俺の私怨だ、と答える。太陽みたいだね、とユウゴさんが言っていた御頭の瞳は、凍りついたように冷え切っていた。
「天竜も地竜も知らねぇ。俺はただ、お前を殺したいだけだ」
そういうと、出来るわけがないだろう、とコウギョクは嗤う。
「お前が私に……」
――どすっ。
重さと速さ。両方が完璧にかみ合った拳。いくらコウギョクでも、まともに喰らえばちょっとは痛いだろう。呻いたコウギョクに、シムラ悪りぃ、と御頭は呟いた。
「貴様――っっ」
態勢を起こそうとする前に、御頭はまたコウギョクを力任せに殴りつける。いつもみたいな、余裕のある殴り方じゃない。感情に任せて、ただ殴りつけるだけ。ハルナがさっきやってたのと同じだ。
「放せっ。私に触れ……っ!」
御頭の腕を振り切って、少し距離をとったコウギョクは、そこでがく、と膝をついた。
「……出てけ……」
コウギョクの口から零れた、彼女のものではない言葉。
「……もう、嫌だ。いやだぁぁぁぁっっ!」
コウギョク――違う、シムラは、そういって絶叫した。
一際大きく光った翼。剥がれ落ちる鱗。シムラの身体が仰け反るくらい痙攣した――。
「……めんなさい……。ごめん、なさっ……」
ぐったりと地面に倒れこんで、シムラはそう繰返す。間違いない。あの赤い瞳は――シムラだ。
「目、覚めたかよ……」
御頭が、そうシムラに問う。泥と涙でぐちゃぐちゃの顔で、シムラは頷いた。
「コウギョク……コウギョクっ!」
シムラの瞳を見て、ヤシュウが狂ったように叫んだ。そうだ、コウギョクは……
――殺シテヤル。
頭の中に直接響く声。ファルマの谷の時と同じだ。
――我ラノ邪魔ヲスル者ハ、皆殺シニシテヤル。
さっきまで動きを止めていた地竜が僕らの方を振り返って吼えた。
◆ 以 ◆ 降 ◆ 追 ◆ 記 ◆
▼第十八章:決着
始まりは、誰のせいだっけ。……もう、そんなの分かんない。
結局、何がしたいんだっけ。それももう、どうでもいい。
天竜が裏切ったから? カミサマが約束を破ったから? カミサマの支配が嫌になったから?
……だからこれ?
明確な理由なんて、もうない。天竜はただ、地竜を壊したいだけ。地竜はただ、天竜を殺したいだけ。
その先の未来なんて、誰も知らない。誰も信じてない。未来がどんなものであるかなんて、今の彼らには関係ない。
体が半分になった天竜とか、その辺に落ちてる地竜の欠片。まだ、動いてる。
……体って、どこまで無くても体なんだろう。顔は綺麗なままだったのに、胸も、肩も、怪我してなかったのに、ユウゴさんはもう動かない。それなのに、僕の目の前に落ちている尻尾は、どこへ行けばいいのか分からないくせに、びくびくと動いている。
周りが大分静かになってきた。叫び声も咆哮も、もう聞こえない。竜族に、叫べる喉はもう無いから。
一際大きな砂煙が上がって、地竜がまた一つ、土に返った。
「コウギョク。私が最初に言ったとおりだろう。この世界で生きることを放棄したお前たちが、我らに敵うことはないと」
天竜たちの死体の上で、カミサマがひとり、笑った。右足と尻尾半分がちぎれかけてる。左目も、血が出てるから潰れて見えていないんだろう。立っているのがやっとのはずなのに、それでもカミサマは狂ったように笑う。……違うか。狂ってるから笑えるんだ。正気なら、きっと笑えない。こんなの全然楽しくない。
「愚かな。お前とて、もう、一人ではないか。お前さえ倒せば、裏切り者の一族は全滅する。私さえ生き残れば、我が一族は何度でも再生できる。私の勝ちだ」
そうコウギョクは返すけど、彼女の体も、もう地竜としての体を保てていない。土と木のなんだかよく分からない塊になって、彼女はカミサマに突っ込んだ。
カミサマとコウギョク、天竜と地竜の最後の一人が、お互いの体を貫き合っている。
コウギョクの喉(らしき場所)を右足で貫いたカミサマ。カミサマの腹を右足代わりの木で貫いたコウギョク。攻撃してるのか、それを軸に支えあって立っているのか、僕には分からない。お互いそれが最後の力だったのか、石像のように二人はしばらく動かなかった。でも……先に均衡を破ったのは、コウギョクだった。ぐずり、と鈍い音を立てて、彼女の体が崩れる。カミサマもそれにあわせて体勢を崩したけど、彼女が大地に帰る方が早い。
僕らと同じように、なすすべもなく見守っていたヤシュウに、彼女は振り返って、最後の力で光の粒を降らせた。黒曜石、翡翠、石英、金剛石、そして紅玉……。シムラの目の紅は、吸血鬼一族の紅だったのかな。それとも、コウギョクの紅だったのかな。お父さんとお母さん、種族は違うけど、同じ赤色。シムラはどっちをもらったんだろう。
一際大きな赤い石が、ヤシュウの手の上に落ちる。
発光していたその石は、だんだんと光を失って、それと同時に崩れた土の山も沈黙した。
◆ ◆ ◆
「さぁ、古からの反逆者も消えたのだ。次は……分かっているな?」
カミサマがそういって、ヤシュウを見おろした。ヤシュウが、敵うはずもないのに右足を引いて構える。
「裏切り者のお前には、あの一族と同じように死を。……按ずるな、すぐにお前の一族も、あの出来損ないの息子も、そばへ送ってやる」
ずるり、と血の滴る足を引きずって、カミサマがヤシュウに近づいた。
「……あぁ、そうだ。翼を出せ」
突然カミサマは、思いついたようにそういった。
「人型のままでは不本意だろう。それに、お前を殺せば血の石が手に入る。それを食べれば、お前が今まで奪ってきた者たちの力も、私の一部となる。いいだろう?」
それを聞いたシムラが、僕の隣であー、と真の抜けた声をあげた。……何か、思い当たることでもあったんだろうか。
「翼を出すのは構いませんが、あなたを倒せば竜族は終わりだ。世界は天竜の支配から逸脱する方へ動いていると、思いますがね」
感情が読めない顔でそういいながら、ヤシュウはばさりと翼を広げた。シムラとは違う、漆黒の大きな翼。それでも、カミサマはヤシュウの三倍は大きいんだから、多分カミサマが尻尾をばたんって振ったらヤシュウは潰されてしまうだろう。……あ、でも、今は尻尾がちぎれかけてるからそれは無理かな。
ヤシュウの翼は、質感もシムラとは違う。シムラは水晶の翼だから硬い感じがするけど、ヤシュウのは軽くてしなやかな翼。くい、と持ち上げて軽く羽ばたけば、ヤシュウの体はふわりと宙に浮く。風の上を走るユウゴさんとも違う、風の間を泳ぐ竜族とも違う、鳥のような飛び方。一度空高く昇って、ヤシュウは一気に急降下してカミサマにつっこむ。でも、二人がぶつかり合う前に、カミサマの体は後ろにひっくり返った。
「……貴様、何を?」
後ろから首を抱きすくめられるようにして、カミサマが呆然と呟く。ヤシュウの伸ばした腕と、カミサマが振り上げた牙。それが交差する直前に、シムラがカミサマの背中に飛びついて地面に引き倒した。カミサマの首を押さえて、シムラは立っている。
「……シ……ムラ?」
ヤシュウも、シムラが何をしたいのか分からないのだろう。やり場をなくした拳を収めて、大地に降り立つ。御頭が、その後ろに回ってヤシュウの動きを封じた。
「おい、シムラ。何するつもりなんだ?」
御頭がそう訊いても、シムラはすぐには答えない。でも、カミサマを助けたわけじゃなさそうだ。第一、シムラにカミサマを助ける理由なんてない。だけど、殺そうとしているのなら、あのままにしておけば良かったはず。……何、考えてるの?
「ずっと、考えてた……」
シムラが、独り言のように呟く。
「何で俺の翼は、色がついていないんだろうって。何で、ガラスみたいなんだろうって……」
それは、シムラの翼が、地竜のコウギョク譲りの水晶で出来た翼だから。それ以外に理由なんてない。
「吸血鬼の翼は、過去に他者から奪ってきた血の色だって」
その血の色が、濃くなって、黒く見えるだけ。本当は赤色なんだって、初めて会ったときにシムラが教えてくれた。でも、それが今、どうだというんだろう。
「俺の翼は、空っぽなんだ……」
――だから? だから、何が言いたいの?
何となく、嫌な予感。確かに、シムラの翼は他の吸血鬼みたいに血が流れているわけじゃない。でも、空っぽ、という言い方が気になる。
「俺の翼も、何かの血を入れる入れ物になるんじゃないかって、ずっと考えてた……」
そこまで言えば、誰だって続きは分かる。シムラが何考えているかくらい、すぐに分かる。カミサマが驚いた顔をして、すぐに一蹴した。
「愚かな。貴様は一度たりとも血を吸ったことがないのだろう? できるわけがない。大体、竜族の血を受け入れられるほど……」
そこまで言って、カミサマは言葉を止める。シムラが笑った。
「流れてるだろ、竜族の血。受入れるというより、最初からさ」
カミサマが、初めて恐怖の表情を浮かべた。
「竜族も、あんただけになっちゃったし。寂しくない? 俺と契約したら、地竜とも仲直りできてお得だよ」
何でもないことのように言っているけど、とんでもない内容。だけど――
「お前のこと、殺さないけど、許せないから……」
カミサマが叫ぶ前に、シムラの牙がカミサマの首筋に刺さった。
◆ ◆ ◆
首筋に顔を埋めるようにして、シムラはカミサマの血を吸う。
こくん、とシムラの喉が鳴るたびに、抵抗してたカミサマが、だんだんとぐったりしていくのを僕らは何も出来ずに見ていた。……そういえば、シムラの翼は、まだ透明なままだ。あれって結局迷信だったんだろうか。僕は吸血鬼じゃないから分からないけど、ただの言い伝えだったのかもしれない。
それにしても、吸血鬼って、もっとおいしそうに血を吸うんだと思ったけど、シムラは眉間にしわ寄せて、苦い顔で飲んでる。……やっぱり、可愛い女の子とかの方がいいのかな。いやいや、お姉ちゃんの血を吸わせるわけにはいかない。万が一にもシムラがカミサマの血を吸って、今度はお姉ちゃんだぁっ! とか言い出したら、僕はお姉ちゃんを守ろう。人狼の血って、吸血鬼は苦手なんだよね。大丈夫。……多分、大丈夫だ。
それよりも、カミサマの体はシムラの何倍も大きいのに、シムラは全部飲めるんだろうか。……さっきの戦いで、結構流れちゃったから残りは少ないのかな。
カミサマが完全に動かなくなって、シムラはやっと血を吸うのをやめた。ずちゅ、と湿った音がして、牙が首から引き抜かれる。
「ほら、今度はあんたの番」
そういって、シムラは左の手首を牙でなぞって、そこにあった傷を開いた。
完全に無抵抗なカミサマの口に、シムラがその傷を押し当てる。一口飲下すと、カミサマの瞳に少し光が戻って、シムラの手首に噛み付いた。あれが、シムラのいってた血の交換。ああすると、傷も治って新しい吸血鬼が生まれるって言ってた。竜族のカミサマが、吸血鬼のシムラの部下になる。カミサマが部下ってことは、シムラはカミサマより偉くなるのかな。カミサマより偉いのって、なんていうんだろう。でも――
「ぐっ……あぁっっ!」
カミサマは途中で、苦しそうにシムラの血を吐き出した。
「え……どうしたの?」
カミサマのこの反応は予想していなかったのか、シムラは慌てた声をあげる。ねぇ、大丈夫、というシムラの問いには答えず、カミサマは喉をかきむしって、地面を転げまわった。……尋常じゃない、苦しみ方。お姉ちゃんの時はこんなことにはならなかったのに……。
「あ……ぐっ……き、さま……何を……」
必死の形相で睨まれて、シムラは少し怯えたように知らない、と答える。知らない、何で、と振り返った視線の先で、ヤシュウも何が起こったのか分からないという顔をしていた。
「これも、あいつの呪いか? 忌々しい。我らの血と、あの地竜の血が混じることなど、許されることでは……」
シムラの血に混じってた、地竜の血がカミサマには合わなかったんだろうか。猛毒を飲まされたような苦しみ方をして、カミサマはシムラに掴みかかる。
「貴様のような出来損ないの吸血鬼ごときに……世界のカミである私が……」
カミサマの指がシムラの腕を掴んで、シムラが苦しそうな声をあげる。
「返せ……私の血を返せっ……」
そういって、カミサマがシムラの肩に噛み付いた。ぐちゃ、と骨の砕ける音がする。カミサマの口からはみ出したシムラの腕が、びくん、と硬直して、高すぎて音にならない悲鳴が上がった。
「シムラを放せぇぇぇっ!」
御頭が、カミサマの後ろに回って首の後ろに腕を刺す。首を後ろに仰け反らせるはずみに、カミサマはシムラを吐き出した。ちぎれかけて、肩からだらりと垂れ下がっている腕。僕が拾ってきた時と同じ傷。でも、あの時とは比べ物にならないくらい深い傷。あとちょっと動いたら、あの腕は取れてしまうだろう。噴出すほどではないけど、どくどくと血が流れてる。
「シムラさっ……」
お姉ちゃんがシムラに近寄ろうとした瞬間、御頭が来るな、と叫んだ。直後に、御頭のうわっ、という声が上がる。御頭は腕をカミサマに持っていかれたまま振り回されていた。シムラを助けるために、御頭は肘の上まで腕を刺した。だけど、そんなに深く刺せばそう簡単には抜けない。それを抜こうとすれば、神経を直接掴まれてるカミサマにはとんでもない痛みが走るだろう。御頭が腕を引き抜こうともがくのにあわせて、カミサマが激痛を振り切るように上半身を振る。刺さったままの右腕一本を軸にして、御頭の体が宙を舞った。
「御頭ぁぁっっ」
……どうしよう。このままじゃ、御頭が地面に叩きつけられちゃうよ。あの勢いで叩きつけられたら、どう考えても助からない。でも、大きな体をめちゃくちゃに振り回してるカミサマには誰も近づけなくて、チキ兄もソーマ兄も、ただ見てることしかできなかった。
「ぅ……あっ……あぁぁっっ」
突然、シムラがそこにあった地竜の残骸……さっきコウギョクがカミサマを貫いた太い枝を持って、カミサマにつっこんだ。ざく、と鈍い音がする。
「もうやだ、もうやだぁぁっぁっ」
カミサマの返り血を浴びて、血塗れになりながら、シムラが泣き叫ぶ。枝の先はつっこんだ時に潰れてしまい、シムラは尖った石に持ち替える。何度も何度も、倒れたカミサマの体を貫くたびに、さっき飲みきれなかったカミサマの血が雨のように降り注いだ。
「っくしょぉっ!」
やっと腕が抜けたのか、御頭がシムラの方へ行く。御頭もシムラも、頭から血を浴びて、真っ赤な塊になって動いている。少し離れた僕らのところにも、その血は飛んできて、お姉ちゃんの白い肌に赤い線を描いた。お姉ちゃんの頬っぺたを流れるそれは、赤い涙にも見えた。
「シムラ。もういい。やめろっ」
御頭がそういってシムラに叫んだけど、シムラは聞こえていないのか、理解できないのか、狂ったように叫び続けている。
「死ねばいいんだっ……世界の統治者なんて要らない。痛いのも寂しいのももう嫌だ。カミなんて要らない。世界なんて要らない。皆死ねばいいんだっっ! 全部壊れちゃえばいいんだ……」
ぼろぼろと涙を流して、シムラはカミサマをめった刺しにしている。カミサマにはもう抵抗する力なんて残ってない。
「もう、やめろっ。シムラっ」
シムラの腕を押さえて、持っていた石を取り上げても、シムラはまだカミサマに向かって行こうとする。ちぎれかけて動かない右腕、御頭に掴まれた左腕。両手がダメなら、頭でつっこもうとしてひたすら暴れる。
言葉も通じない、思いも通じない、声が届かない……。シムラは、戦争じゃないのに、シムラは一人なのに、声が届かない。声を出せば聞こえるはずなのに、届かない。真っ赤なシムラの目が、怖い……。
「全部壊れればいい。全部壊して……」
「その先に、お前は何を望むんだ?」
カミサマが、ふと目をあけてそう呟いた。
「私の支配を嫌い、逸脱し、その先にお前は何を望むんだ?」
シムラがぴたりと大人しくなった。
「結局、同じだろう。お前も、私も」
正気に帰ったのか、今度は恐怖の色がシムラの瞳に浮かぶ。
「統治者は、統治するものたちを好きに出来る。お前が望む、無の世界も、お前が本気で望めば叶うだろうよ」
カミサマが、笑いたいのか、口元を歪めた。シムラは泣きそうな声で、違う、と呟いて小さく首を振る。カミサマは同じだよ、といって目を閉じた。
「貴様ごときに……私がな……。まぁ、いい……いずれ、お前も分かるだろう。お前はもう、私の側の存在だ。なぁ、新しい神よ」
シムラが何か答えるよりも先に、カミサマは動かなくなった。
◆ ◆ ◆
目の前には、動かなくなったカミサマの体。……うぅん、彼はもうカミサマじゃない。カミサマだった、天竜の死体。
その横に、膝をついて項垂れているのは、さっきまで彼をめった刺しにしていたシムラ――新しいカミサマ。
何て、声をかけたらいいんだろう。何て、いえばいいんだろう。
新しいカミサマになっておめでとう? 生きてて良かったね? ……違う。
全部お前のせいだ? 何で殺したんだ? それも、違う。
嬉しいのとも、悲しいのとも違う、不思議な気持ち。言葉はたくさんあるのに、心の中に、溜まっている思いは確かにあるのに、僕はそれを言葉にできない。僕だけじゃない、多分ここにいるみんなが、御頭も、ヤシュウも……シムラ自身にも、言葉にすることはできないだろう。ただ、静かな時間が流れた。
「……シムラさん……大丈夫ですか?」
最初の沈黙を破ったのは、お姉ちゃんだった。お姉ちゃんは、今、どんな気持ちだろう。嬉しそうでもない、悲しそうでもない。怒っているわけでもなさそうだけど、楽しそうでもない。やっぱり、不思議な表情。
シムラは振り返って、呆然とした表情のまま頷いた。
「俺は、だいじょうぶ、だよ。でも……」
そう答えた声は震えていた。
「……ころし……たんだ……」
お姉ちゃんに差し出した左手は、カミサマの血で真っ赤に染まっている。
「……殺すつもりなんてなかった。ただ……俺は……そんなつもりじゃなかったのに……」
お姉ちゃんは、シムラを責めようとも、慰めようともせず、ただ黙って、その血塗れの手にさわった。
「イナダが、死んだとき、悲しくて……何でこんなことになるんだろうって……俺のせいだって、俺がいるから、イナダは。でも……もう意味がない」
自嘲気味に笑ったシムラに、お姉ちゃんが視線だけで聞き返す。
「こんな手じゃ、イナダはもう笑ってくれない。翼も、心も……綺麗じゃないから。痛いことをしちゃいけないって、傷つけるための力じゃないって、教えてくれたのに、守れなかったから。殺したから……」
涙を流しながら、シムラは力なく笑った。ごめんなさい、と繰返す言葉は、イナダさんに向けての言葉なんだろうか。それとも、殺しちゃったカミサマに対してなんだろうか。
世界の支配者をめった刺しにして、命まで奪ったくせに、シムラは弱い。
多分、僕だって、シムラを倒すのはわけないだろう。こんなにも簡単に、ずっと昔からの世界の均衡は、壊れてしまうんだと思ったら、何だか少し寂しくなった。
◆ ◆ ◆
少し、落ち着いたのか、シムラは御頭を振り返った。御頭は、ユウゴさんを両腕で抱えてシムラを見ている。
シムラの透明な視線と、強くてまっすぐな御頭の視線が交差した。
「カミヤ……」
「何だ」
感情のない二人の声。どこか、芝居めいているけれど、二人にとってはこれが精一杯。一瞬視線をユウゴさんに落としてから、シムラはごめん、と小さく呟いた。
「謝るな。これは、こいつが自分で選んだことだ」
それでも御頭の声は少し震えてる。
「こいつが、未来を変えたいと望んだ。未来は変わった。それで、いい」
口ではそういっていながら、その言葉は御頭自身に言い聞かせているように聞こえるのは、気のせいじゃないだろう。でも、と反論したシムラに、御頭は堪えられなくなったのか怒鳴った。
「お前が謝ったって意味ねぇんだよっ! お前殴ったらユウゴは帰ってくるのか? 俺が今からあいつの代わりに死ねるのか?」
叫んだ御頭に、シムラは何も答えなかった。
「……シムラ、お前は悪くない。ユウゴを守れなかったのは、俺なんだ。……違う、俺はあいつを利用した。あいつの気持ちを自分の都合のいいように使って、それで結果がこれだ。お前は全然悪くない」
ユウゴさんが、あの状況で何をするか。自分に対してどんなことをするか。たとえユウゴさんが見ていた未来を知らなくても、御頭は大体分かっていたんだろう。でも、それをあえて止めなかったのは、御頭自身。それは、裏切り行為だろうか。それとも……。
「代わりに死んでやりたいって、思ったけど、俺は生きてる。何度思ったって、結局、実行できないで、俺はユウゴを殺して自分が生き残る方を選んだ。お前は関係ない。お前のせいじゃない」
死ねないのは、死なないのは御頭が生き残る方を選んでいるから。何を犠牲にしても、自分が生き残る方を選んだから。多分、御頭はそう思っていて、シムラはそう思ってない。その違い。
渦中のユウゴさんは、もう、御頭に何を言うこともできない。眠っているような顔をしているけど、その眠りが覚めることはない。瞼の下から、あの青い瞳が現れて、カミヤぁって御頭を呼んで、楽しそうに笑うこともない。
「カミヤ」
ふと、何かを決意したような顔で、シムラは御頭を呼んだ。あ、と御頭が問い返す。
「こんな時に、変なこと聞いてごめん。でも……獣人は、死ぬと原型に戻るんだっけ」
その問いに、御頭はあぁ、と頷いた。
僕ら人狼やユウゴさんや竜族は人型と原型の二つの姿になれる。でも、人型は本来の姿じゃないから、気を失ったり死んだりすれば、原型に戻ってしまう。僕がシムラを拾ったときに、シムラの正体がわからなかったのも、気を失ったのに人型だったからだ。……あれ。ってことは……
「だったら、俺の血、使ってみる?」
シムラがそういって、自分の右肩を顎で示した。どうして、何で今まで気付かなかったんだろう。ユウゴさんは、まだ人型をとったままだ。シムラの血を飲めば、傷だって治るだろう。でも……
「……いや、多分、無理だ」
御頭はそういって首を横に振った。
「どうして?」
シムラの問いに、鼓動がもう、聞こえない、と掠れた声で御頭は答える。確かに、鼓動が聞こえないのは絶望的だ。心臓が止まって、生きられる生き物はいない。
「あいつは、自分が死んだ後、自分の体を誰かに利用されることを嫌ってた。ユニコーンの角は、人間たちが狙うから、そういうのが嫌で、この姿なんだと思う」
それはある意味、奇跡。でも、すごく悲しい奇跡だ。
――僕の角を使いたいとか、僕を捕まえれば幸せになれるとか、意味分かんないよね。
あの時のユウゴさんは、本当に嫌がってた。
――皆そういうこと言って、罠を仕掛けたり、攻撃してきたり、そんなことばっかり
その呪縛に、ユウゴさんは死んでからも囚われ続けるのだろう。その体がある限り、永遠に。
「気持ちは嬉しいけど、多分それでいいんだと思う。それがあいつの望みだと……思う。今は自分の傷を治して、それから本当に必要だと思ったときだけ、その力は使え。そうじゃなきゃ、お前が今度は狙われる」
それでも、まだ不満そうな顔をしていたシムラに、御頭はじゃあ一滴だけ、とシムラの血を指にとった。
「せめて、脚が治ればいいけどな。このままじゃ、お前、走れないもんなぁ」
そういって、ユウゴさんの口に塗るようにして含ませる。傷口が生き物のように動き出してあっという間にもとの脚が現れる。それだけでは足りないのか、ユウゴさんの体はあの白い綺麗なユニコーンの姿に戻っていった。
「おい、こら、重いよ。お前……」
人型の彼ならともかく、原型に戻ってしまったユウゴさんの体を御頭が抱えられるわけがない。潰す気か、といいながら、そっと地面に横たえる。傷が治るどころか、脚が生えるって、普通ならありえない奇跡。それでもやっぱり、ユウゴさんが目を覚ますことはなかった。さすがの竜族の血も、死んでしまったものを生き返らせることはできないらしい。体は傷一つないのに。魂は、もう取り戻せない。体と魂って別物なんだね。
「シムラぁ……ありがとな」
そういって、御頭はシムラの方を振り返る。
「狙われても何でも、やっぱ、こいつはこの格好が一番綺麗だ」
そういって、御頭は笑った。ユウゴさんの体が大地に帰るまでは、きっと御頭がその体を守るんだろう。蹄が凶器だとか、角が凶器だとか、散々言ってたけど、誰よりもユウゴさんの存在を綺麗だといっていたのは御頭自身だから。
「あと、もう一人」
ユウゴさんの姿を見届けて、シムラは立ち上がる。
「ん? おい、どこ行くんだ」
ふらふらと竜族の死体が転がっている方へ、シムラは歩いていく。慌ててお姉ちゃんが後を追って、シムラを支えた。
◆ ◆ ◆
そこらじゅうに転がっている竜族の死体の中を歩き、シムラはついに目的の存在を見つけ出した。
返り血なのか自分の血なのか、区別はつかないけれど、乾いて赤茶けた物がこびりついている赤銅色の体。そこらじゅう傷だらけだけど、どうやら彼女は生きているらしかった。
シムラが近づくと、うっすらと目を開けて、声が出なくなった喉をひゅう、と鳴らして精一杯の威嚇をする。それでも、シムラはそれを無視して、彼女の前に立った。そして……
「……っ!!」
ぶつっ、という音と一緒に、シムラは自分の右腕を引きちぎった。隣で見ていたお姉ちゃんが、一瞬何が起きたのか分からない、という顔をしてから声にならない悲鳴を上げる。
「まだ、血、残ってるから」
そういって、シムラはその右腕を彼女の口につっこんだ。彼女は嫌そうな顔をしたけれど、彼女に抵抗するすべはない。シムラの血は彼女の喉を通り、傷を癒す。大きい傷が掠り傷みたいになったところで、彼女は起き上がり、人型をとってシムラを睨んだ。
「何故、殺さない」
「……殺したく、ないから」
シムラは少し考えて、彼女の刺すような視線から逃げるように目を逸らして答える。
「馬鹿な。散々殺してきたくせに。今更偽善者ぶるな。カミ一人を殺すのも、ついでに私にとどめを刺すのも、たいした手間ではないでしょう?」
彼女は、そういってシムラを責める。怒りのあまり、彼女の瞳がぎらぎらと異様な光を放つ。
「それともこれは、竜族への、仕返しか? 自らが経験した四百年の孤独。それを、私に……同じ目にあわせて満足か?」
そう、彼女はもう、独りなんだ。竜族は彼女だけ。カミサマの血を受け継ぐ、唯一の存在。
「しかも、一族皆殺しとはな……ずいぶんと手のかかる孤独の作り方ですこと」
だんだんと荒くなる語気。皮肉をいう笑みが、哀しく引き攣る。
ごめんなさい、と小さな声で謝ったシムラに、興奮のあまり、泣きそうな声で、彼女は叫ぶ。
「何を謝っているのです。さっさと殺しなさい。殺せばいいでしょうっ! 私は……私は……っ」
その先の声は、言葉にならなかった。
戦いのあと残されたのは、友人を失った、家族を失った……『孤独』だった。
▼その後
それから、五十年が過ぎて、僕らはまたもとの生活に戻っていた。……違う。元の生活ではない。
僕らの家には、新しい住人が増えた。
「ねぇねぇ、今日のご飯はなぁに?」
台所に立っている後姿に向かって、僕がそう訊くとさぁ、何だと思う、という答えが返ってくる。
この匂いは……
「分かった! かれーだ!」
「残念。正解はシチューでした」
スパイスじゃなくて、ミルクを入れるんだよ、と優しく微笑むのは、お姉ちゃん。今は僕たちと一緒に住んでる。あ、ついでにシムラもね。
結局、お姉ちゃんは村へ帰らなかった。帰れなかった、という方が正しいかもしれない。
御頭とシムラと、お姉ちゃんと僕。カミサマの血を浴びた僕らはなぜか、歳をとれなくなった。『ふろうふし』って言うらしい。怪我をしてもすぐ治っちゃうし、僕はいつまでも尻尾が隠せない。そしてお姉ちゃんはずっとお姉ちゃんのまま。そんなお姉ちゃんを、人間たちは気味悪がって、村に入れてくれなかった。お姉ちゃんも、それは分かっていたのか、ここにいてもいいですか? と、御頭に聞いて、一緒に住んでいる。
それに、僕らと過ごしたあの数日を除き、イナダさん以外の人と、まともに暮らしたことがなかったシムラは、お姉ちゃんしか受入れなかった。もちろん、今までどおり普通に話はできるし、表面上問題があるわけではない。でも、カミサマがいなくなった今、新しいカミとなったシムラを、いろんな奴らが利用しようとして、シムラは外に出るのを嫌がるようになった。そんなだから、吸血鬼一族の洞窟に戻るのなんてもってのほか。人間の村にお姉ちゃんがつれて帰るわけにもいかないし、ということで、結局シムラとお姉ちゃんで僕らの家に住むことになった。お姉ちゃんが一緒にいてくれるのは嬉しいから、シムラはオマケだと思って我慢しよう。あれで僕より年上なんだから、信じられないよね。
お姉ちゃんはお姉ちゃんで、シムラのことをめちゃくちゃ甘やかしてるしさ……。僕だってお姉ちゃんに頭撫でてほしい。おやすみってちゅーして欲しいっ。……何だよ、シムラの馬鹿。今日のしちゅー、シムラの肉は僕がもらおう。ニンジンは嫌いだから、シムラに食べさせようっと。そんなことを考えていたら、後ろで、ちょっとどいて下さらない、という声がした。
「シホ。小麦粉って、これですの?」
ボールに白い粉を入れて持ってきたその人が、もう一人の新しい住人。そう、ハルナ。彼女も結局、僕らと一緒に住んでいる。まあ、これは御頭の責任が大きいというか、間違いなく御頭のせいなんだけどね。
「あ、そうです。ありがとうございます」
お姉ちゃんがそういうと、ハルナは小麦粉、といってもう一度ボールの中身を見た。うちに来た当初は、小麦粉と塩と砂糖の区別が全然つかなくて、お姉ちゃんに何度も間違いを指摘され、御頭とシムラはしょっぱいくっきーを食べさせられていた。今でも、彼女の作るくっきーは異様に硬くて、黒こげで、あまりおいしくないけれど、調味料を間違えることは少なくなった。これでも大きな進歩なんだよ。
「もう、大丈夫ですから、座って休んでて下さい」
小麦粉を受け取ったお姉ちゃんは、そういってハルナを椅子に座らせる。ハルナは、これくらいたいしたことありませんわ、と答えた。
「竜族の体は、そんなに弱くないんですのよ?」
そう続けるハルナに、お姉ちゃんがでも、と反論する。
「今のハルナさんは、ハルナさんだけの体じゃないんですから、大事に大事にしなきゃ、ね」
その言葉に、ハルナが少し困ったような照れたような顔をして、視線を落とした。少し、膨らんだお腹。あの男、と呟く言葉は刺々しいけど、声は少し甘い。ほんの、少しだけど。
ハルナは、あの後しばらく生きることを放棄した。死んだらユウゴさまに会える、と食べ物にも水にも手をつけず、ただ死を待つだけの時間を過ごした。やり方はちょっとアレだったけど、ハルナは本気でユウゴさんのことが好きだったんだろう。少しずつ弱っていくのに、彼女は嬉しそうにしていた。
最初のうちは放っていたんだけれど、ある満月の夜を境に、御頭はそれを許さなくなった。
いらない、嫌だ、とわめくハルナに、だったら抵抗してみろ、と挑発して、無理矢理食べさせて、どうにかして生かそうとした。ユウゴさんを覚えている存在が、また死んでしまうことが怖かったのかもしれないし、ユウゴさんは生き返れなかったけれど、助かったハルナが死んでしまうことが、理由は別としても、許せなかったのかもしれない。そしてハルナはハルナで、ユウゴさんが命と引き換えに御頭のことを守ったのが、羨ましかったのか、許せなかったのだろう。あなたを殴ってからじゃなきゃ、死ねませんわ。そう言って、彼女はやっと食べ物を口にした。
ユウゴさんの死をめぐる二人の感情は、ずっとずっと彼のことを思ってきた二人だから、僕なんか比べ物にならないくらい強い。それがぎりぎりのところでぶつかり合って、何か別のものに変わる。多分、誰も予想だにしなかった、その感情の行く末は――。
ハルナがものすごい形相で御頭に詰め寄って、御頭が顔を引き攣らせて硬直したのがちょっと前の三日月の夜。
冗談だろ、と呟いた御頭に、冗談じゃありませんわっ! とハルナが絶叫して号泣した。
――よりにもよって、人狼の子など……私は、竜族のっ……
泣き叫びながら詰め寄るハルナに、御頭は悪かったって……と、ひたすら謝った。僕はその後部屋を連れ出されちゃったから、詳しくは分からないけど。チキ兄とソーマ兄は爆笑するし、ココノエのおじいちゃんは御頭にたった一言腹括れ、とだけいった。
竜族と人狼の子って、どんな子が生まれるんだろう。ハルナは火竜だから、火を吐く人狼? 銀色のドラゴン? それとも、突然変異の奇跡が起きるだろうか。
◆ ◆ ◆
そうやって、世界は少しずつ、形を変えている。
カミサマはもういないし、竜族もいない。世界の統治者と、最強の一族はいなくなって、人狼、吸血鬼、人間の三つ巴の世界に変わった。とはいっても、相変わらず人間はちょっと離れたところに住んでるから、正確には人狼と吸血鬼。あと、人間、って感じかな。
あの後、僕ら人狼とカズマさんたち人間出身の吸血鬼は、それなりに仲良くなった。今では、森の境界も薄れて、一緒に狩をしたりしている。狩は人狼の方が得意だけど、カズマさんたちは家を作ったり、玩具を作ったりするのが得意で、風で羽を回して家の中に灯りをつけたりする方法を教えてくれる。
こうやって、ちょっとずつ、仲良くなっていければいいと思う。
でも、仲良くなったところばっかりじゃない。
ユウゴさんの遺体を埋めて数日後、どこで聞きつけたのか、人間たちが遺体を求めてやってきた。ユニコーンの角は毒消しになるんだ。そういって、彼らはユウゴさんの体を引きずり出した。それを見た御頭が、どんな気持ちになるか、そんなのは想像しなくてもわかるでしょ。
――殺さないだけ、マシだと思え。
ぼっこぼこに殴りはしたけれど、命と手足がついたままで村まで帰れたんだから、幸運だったと思って欲しい。それでも、人間は懲りず何度もやってきた。もちろん、同じ人じゃない。いろんな人が、とっかえひっかえ。あんまりにもひっきりなしに来るからだったのか、ある満月の夜、御頭は一人で黙って外出して、朝まで帰ってこなかった。一度だけ外出の理由を聞いたら、御頭は一言だけ、約束を、と答えた。その約束が何なのか、僕は知らない。
もう、人間たちがユウゴさんを見つけることはできない。
銀色の狼が、何度も何度も月に吼えながら、真っ白な何かに顔を埋めていたという噂も聞いたけど、僕は黙っている。人間たちが墓を荒らすたびに、黙って埋め直していた御頭の姿を、埋めなおした墓のそばで丸まっている銀色の狼の姿を、僕は何度も見たから。その体が大地に帰るまではそばにいるつもりだと、御頭は言った。その願いが叶わなかった今、叶えられなかった今、せめて最後の約束くらい、静かに守らせてあげるんだ。
そうそう。ヤシュウは、今でも吸血鬼一族の長として君臨しているらしい。だから、それをあんまり良く思わない人間出身の吸血鬼たちと純血の吸血鬼たちの間に亀裂が入っているって、カズマさんが言ってた。結構激しくやり合ってるらしく、カズマさんは少し、困っているみたい。今はまだ、うちで愚痴ってるだけだけど、いつかそこに人狼が係わったら、今度は僕らが天竜と地竜みたいなことになるんだろうか。二つの種族を止める存在はもういない。
いつか、また大きな戦いがおきたら、今度滅びるのは吸血鬼と人狼だろうか。それとも、人間だろうか。そうやって、誰もいなくなって、世界が終わる――そういう結末もあるかもしれない。そんなのは嫌だけど、そんな先のことは分からない。だけど、僕が夢で見た竜族の争い。あの後の世界は、人狼と吸血鬼がずっと争っていた。でも、今は違う。ちょっとだけ、仲良くしてる。同じ竜族の争いの後の世界でも、違う結末が待っていた。だから、血塗れの最後だけじゃないって、僕は思いたい。たとえそれが叶わなくても、願うことくらい許されるだろう。
『ふろうふし』になった僕らは、最後までそれを見届けることになる。但し、手を出すことは許されないから、ただ見てるだけ。そうじゃなきゃ、僕らはカミサマと同じになってしまう。過去から未来に至るまで存在し続け、干渉する存在はもういらない。
殺しあって、殺しあって、誰もいなくなる世界。そんな終わりがありませんように。
僕らはそれを願うことしかできない。
【了】
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2008/01/05(Sat)18:37:34 公開 /
渡瀬カイリ
■この作品の著作権は
渡瀬カイリさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
第十八章、その後追記。
こんばんは。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
ストーリー展開や描写などについて、何か気付いたことなどありましたらアドバイスをお願いいたします。そして、いつものお願いですが、誤字脱字や言い回し、言葉遣いなどなど、厳しく(もちろん優しくでも)ご指摘いただければ幸いです。
加筆修正はまだ行う予定ですが、一応これで完結です。年明け早々、血生臭い話で申し訳ありません。
途中、迷走しながらも最後までこられたのは、感想やアドバイスを下さった方々のおかげです。
読んで下さった方に、一瞬でも面白いと思っていただけるような作品に仕上がっていれば嬉しいです。
よろしければ、一言でもいいので、感想を是非お願いいたします。
ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
公開履歴
◆2007/10/09(Tue):七章と八章の間で分離。八章九節まで追記。
◆2007/10/16(Tue):八章十節から、九章四節まで追記。
◆2007/10/22(Mon):十章追記。
◆2007/10/28(Sun):十一章追記。八章三節に戦闘シーン、九・十章のシホにまつわる描写を追加。敬語訂正。
◆2007/10/29(Mon):十二章追記。
◆2007/11/04(Sun):十三章追記。
◆2007/11/12(Mon):十四章第一節追記。
◆2007/11/20(Tue):既出の十四章第一節を十三章第五節へ移行。新十四章追記。
◆2007/11/27(Tue):十五章追記。
◆2007/12/10(Mon):十六章追記。キャラクター名トオルをソーマに変更。
◆2007/12/24(Mon):十七章追記。