- 『廃棄都市の花冠 ―翡翠の猫― 【完結】』 作者:ゆうじ / 異世界 ファンタジー
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全角51262文字
容量102524 bytes
原稿用紙約157.35枚
小さな喫茶店の主である小さな少女と、給仕とコックの二人の青年。そして一人の逃亡者の話。
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かつての賢人たちの偉大なる理想に生まれ、捨てられた街がある。
庇護を失ったその街から人は去り、行き場を知らぬ僅かな者だけが街に残った。
富と無縁の下級市民、法の手の届かぬそこを最後の居場所とした者、人に有らざる者、異形の者。
価値のない者が集うゴミ溜めのような街だと、かつて賢者は侮蔑を込めて、廃棄都市と呼んでいた。
やがて幾年月が過ぎ、賢者たちが仕えた王国が滅んだ後も、ゴミ溜めの民と罵られた者たちは生きることを選んだ。
長く苦難を積み重ねながらも街を街として蘇らせつつある彼らの子孫はかつての賢者たちへの皮肉と己が祖先らへの誇りを込めて、その街を廃棄都市と呼んでいる。
1.
「巡回中」
「「巡回中」」
「巡回中」
「「巡回中」」
きぃくるくるきぃくるくる。車輪の擦れる音も勇ましく、三体の機械人形が硬質な声を上げて朝靄の中を行進している。頭頂部に赤い帽子を乗せた機体を先頭に、帽子のない機体が二体仲良く縦に並んでいる。
ブリキの玩具のような彼らは、その昔の理想都市計画の名残である。広大な都市の治安維持を目的として製作された、正式名称『自動巡回型警備機兵LCORB‐3』。頓挫した計画と共に捨て置かれた彼らは現在も当初の指令を熱心に実行し続け、今日も今日とて廃棄されたビル群の間を周っていた。
「巡回中……進行停止!」
「「進行停止」」
キッと音を立て、赤帽子のリーダー機が止まる。後ろの二体もそれに唱和し、ブレーキの音が続けて鳴った。リーダーは両目のレンズを光らせて、彼らの進行先にある、黒い塊をじっと見つめた。
「前方ニ、障害物ヲ確認」
「「確認」」
「生体反応有リ。接近ヲ試ミル」
「「イエッサー!」」
カクカクとした動きで、後ろの二体が敬礼らしきポーズをとった。
巡回機兵らが見下ろすそれは、黒い布に覆われた子供のように見えた。リーダー機が無造作に布の端を捲り、その下から腕を引っ張り出す。アームに内蔵されているらしいセンサーで何かを測り、
「外傷ハ認メラレズ。軽度ノ栄養失調、脱水症状有リ。C-1ヲ投与セヨ」
「消毒準備、イタシマス」
「消毒ヲ確認、投与開始、イタシマス」
一体が、恐らくはアルコールであろうそれを腕に拭きかけ、入れ替わったもう一体が変形させたアームから針を突き出し、腕に刺した。
リーダー機が、腕を元の位置に戻す。
「処置完了。コレヨリ巡回ニ戻ル」
「「イエッサー!」」
三体は黒布にビシッと敬礼し、そのまま何事もなかったかのように、きぃくるくると定められたコースを辿っていった。
無論、倒れたそれは放置である。
「……いや、いろいろと間違ってるだろそりゃ」
一部始終を窓から見下ろしていた青年が呟いたのも、無理はない。
「どうしました、レン?」
レン、と呼ばれた青年の背後で、鈴を転がすような年端の行かない少女の声がした。布擦れの音がするそちらを振り返ることなく青年は下を見つめたまま、
「子供の行き倒れっぽいのが路地にいます」
「入れておあげなさい」
「りょーかいです。あ、そうだオーナー、篠が朝食のパンケーキのジャムをどうするかで悩んでましたけど、何が良いです?」
ふと何かを思い出し反射的に振り返りかけた青年はだが、首の筋肉を動かす寸前で自制して、背の向こうの少女に問うた。
「では、今日はジャムではなく、ジャコウバチの蜂蜜を」
少女が挙げた貴族階級でもなければ味わえない嗜好品の名に、だが青年はあっさりと頷く。
「はい。今は一階にいるはずですから、伝えておきます。お召し替えが済んだころにまた来ますね」
「ええ」
言って答えを受けて、青年の黒いスラックスに包まれた足が窓枠を飛び越えた。
一直線に落ちた青年は難なく地へ降り立つと、三階分の衝撃をまるで感じさせない足取りで黒布に近づき、それを抱え上げた。黒い布は、どうやらマントか何かであったらしい。小柄な体に不釣合いに大きいそれは全身を丸ごと隠してしまっていて、青年は何気なく顔のそれを取り払い、軽くその目を見開いた。
「……う……」
「起きたか?」
呻き、腕の中で身じろぎしたそれに声をかけたが、双眸は硬く閉ざされていたままである。だが、小さく、口が動いた。
「……キキョウ……さ、ま……」
「…………」
うわ言のように誰かの名を呼んだそれを、青年はしっかりと抱え、花輪を模した飾り看板の下をくぐり、建物の中へ入った。
看板には装飾文字で、こう記されていた。
喫茶・花冠。
「…………」
「お、気がついたか」
薄く瞼が開かれるのを見て、レンが言った。
長椅子に横になっていた子供は清んだ緑の眼で周囲を見渡し、ほとんど聞き取れぬほど小さく呟いた。
「……また、捕まったニャ……?」
彼が拾った行き倒れは、人間ではなかった。
全身に生えた純白の体毛、ぬいぐるみのような丸い体格、人間のそれに酷似しながらも獣の特徴を残した四肢。そして、丸い頭部にピンと立った薄い耳に、眼に走る縦に長い瞳孔。猫の獣人である。
街に獣人は珍しくない。王国があった数十年前ならばまだしも、現代は獣人に対する露骨な差別というものも少ないし、少なくとも彼らはこの街では至って普通に暮らしている。
肩に垂れた黒髪を払い、レンは言った。
「ご挨拶だな。倒れていたお前を、うちのオーナーが助けてやったってのに」
「……人間は、平気で嘘をつくニャ」
取り付く島もない。毛を逆立てる気力もないらしい、だが警戒心を剥き出しにした『猫』に、レンは軽く肩を竦めた。
そのとき、部屋の扉が開かれた。そこにいたのは、レンと同じく黒髪の、長身の青年。そしてその青年が支える扉から現れたのは、十をいくつか過ぎたばかりの少女であった。
腰まで伸びた銀髪に、青く輝く瞳。日差しを知らぬかのように肌は白く、青藍のスカートと同色の小さなリボンをブラウスの首元に飾った、質素だが品のよい装いの少女である。ただ、片足が不自由なのか、右脇に挟んだ杖でコツコツと床を打ちながら彼女は『猫』に歩み寄った。
「もう、話せますか?」
「口は聞けてますけど、話をする気はないらしいですよ」
「そうですか。レン、表をお願いします」
「はい」
レンが部屋を出て行った後、少女は長椅子の向かいの椅子に腰を下ろした。青年が補佐をし、少女の手から杖を預かる。
「ありがとう、シノ」
少女に礼をして、シノと呼ばれた青年は一歩退いた。少女が『猫』に向き直る。
「気分はいかがですか? 私は当店のオーナーを勤めている者です。先ほどの青年は給仕のレン、これは調理を担当しているシノと申します」
穏やかに微笑んで各人の紹介をする少女を、『猫』はやはり警戒の眼差しで見つめていた。
「何故、このような場所で倒れていらしたのです? もし宜しければ、理由を聞かせていただけませんか」
「…………」
『猫』は無言。少女は意に介さず、ところで、と言葉を続ける。
「これはレンから聞いたことなのですが、あなたが探していらしたのは、かつて近隣の妖怪王として君臨された三毛の猫又のキキョウ様ですか?」
途端、眼をいっぱいに見開き、疲れ果てたように横たわっていた『猫』が飛び起きた。
「人間がどうして、キキョウ様を知っているニャ!」
『猫』の剣幕に怯まず、少女は穏やかな口調を崩さない。
「キキョウ様は妖怪でしたが、人と友好的な関係を築いていらっしゃいました。御隠居生活を送られてからもそれは変わらず大層面倒見の良い方で、私たちもそれで御世話になったのです。信じられないと仰るのならば、これを。キキョウ様から頂いたものです」
言って少女は『猫』の前で、折り畳んだハンカチを開いた。細く束ねられた茶色の毛が、その中に収められていた。
「……これは、キキョウ様の……そ、それで!」
それに確信を得たか、『猫』は身を乗り出した。先ほどまでの憔悴した様子が嘘のように、眼に力が宿っている。
「キキョウ様はどこにいるニャ?」
「……もう、いらっしゃいません」
「え」
「キキョウ様は、半年ほど前にお亡くなりになりました」
静かな声で少女が告げた。猫はそのままの姿勢で、しばらくの間、凍りついたかのように動かなかった。
「……どうして、亡くなられたニャ?」
「キキョウ様も仰っていましたが、なんと言っても御年を召した方でした。私にこの土地と建物に関する全権を下さった後、まるで眠るように逝ってしまわれました」
「…………」
『猫』は、呆然とした後、眼を閉じしばし黙した。やがて瞼を開き、宝石のような双眸に深い悲しみと絶望の色を映し、少女に浅く礼をする。
「……お悔やみを申し上げますニャ」
「いいえ。キキョウ様もお喜びになるでしょう」
大切そうにハンカチをしまい、少女は言った。
「あなたは何故、キキョウ様を探していらしたのです?」
「……ボクの妹が、人間に攫われたニャ」
肩を落とし、ぼそぼそと『猫』は話し出した。
「どこかに連れて行かれる途中でこの街に着いて。ここはキキョウ様がいる場所だから、何とかお会いして力を貸してもらおうと思って来たニャ。キキョウ様は、同じ『猫』に属する者だけは絶対に見捨てない方だったニャ」
でも、亡くなられたのなら仕方がないニャ……。消え入るような声で『猫』は呟いた。
少女がそれに対し何か言いかけた時、急いた音が扉を叩いた。
「オーナー、煉です」
「シノ」
少女の指示でシノが真鍮の取手を捻り、入室したレンは忌々しげな口調で告げた。
「開店前だってのに、嫌な客が来ましたよ」
「御用件は?」
「迷い猫を引き取りたいとのことです」
『猫』が体を強張らせた。少女は構わず青年に問う。
「それで」
「何のことかと言ってもとにかくここにいるはずの一点張りで、埒が明きませんよ。五人組の男で内三人は銃を持ってますね。その三人とリーダー格はなんでもないでしょうけど、もう一人は普通じゃない感じがします」
「分かりました、そちらは私が応対しましょう」
少女は青年の手を借りて立ち上がり、杖を受け取った。項垂れる『猫』に言う。
「『猫』の方、貴方のお名前は?」
「……マイル、ニャ」
「レン、マイルは連れ去られた妹さんの救出をキキョウ様に嘆願するつもりだったのだそうです。マイルと共にクラウン様のお店へ向かってください。そして運び屋のお二人に連絡を。シノ、あなたは私と共にいてください。その男たちから話を聞きましょう」
「はい、オーナー」
「承知いたしました」
レンはニッと笑って答え、シノは愛想のない表情を変えずに礼をした。
「…………」
状況を把握しきれていないのか、きょとんとした顔でこちらを見つめるマイルに、少女は微笑してみせた。
「いつか自分を頼って来た者がいたならば、自分に代わって助けてやってほしい。キキョウ様の、ただ一つの遺言です。ましてそれがあの方に近い『猫』の方ならば、誰が見捨てるものですか。無事に妹さんを助け出して、お二人を元いた場所にお返しします」
「……相手はキミたちと同じ人間ニャ。武器を持っているし、闘うかもしれないのに、いいニャ? 獣人のボクを庇ったりして」
「お客様に誠意あるおもてなしをするのは当然のことであり、特にこの街で、そこに種族差を持ち出すのは無意味なことですわ」
それに、と。微笑をいくらか深くして、少女は続ける。
「あちらが武力に訴えようとするのなら、それこそ私たちの望むところです」
2.
かつて、人は天に憧れ、届くはずのない蒼穹に手を伸ばしたのだという。
愚かなことだ。
飛ぶ鳥が美しいのは、彼らが飛ぶ者として生まれてきたからだ。人が飛べないのは、彼らが飛ぶ者として生まれてこなかったからだ。
鳥が空にあるように、人は母なる大地にある。そう。生来の定めに逆らわず、人は地上にあるべきなのだ。そしてそれは翼なき者全てにあてはまる。
そう、地面万歳! カムバック土! フォーエバーぼくらのミミズさん!
そのとき幾度目かの強めの振動が全身を揺らし、現実逃避を試みていたマイルの意識を乱暴に起こした。間もなく感じる風。高速で過ぎ去る景色を見ないように下を向くと、そこには高速で流れ去る瓦の波があった。マイルは言葉を発した。
「……ひとつ、聞いてもいいニャ?」
「うん?」
マイルの呼びかけに、疾走するレンは、一瞬だけ視線を小脇の『猫』に向けた。次の瞬間には屋根を踏み切り、短い滞空時間の後、すぐ向かいの廃ビルの屋根に着地する。
屋根という支えを失い、反動と重力の間で板ばさみになる感覚に、マイルはまた総毛立った。
つい先ほど、「じゃ、行ってきます」と少女に告げたレンは、マイルを誘い屋根裏部屋に移動し、そこでマイルを小脇に抱えた。マイルがそれを問う間もあればこそ。一息に天窓を乗り越えたレンは、その屋根から屋根を渡ってここまで駆け続けているのだ。一口に屋根と言っても全てが都合よく似通った高さな訳ではなく、ましてマイルは知らぬことだが、廃退と復興と頓挫と再生と挫折を経て発展を遂げてきたこの街には捨てられた建物や放棄された区域が多く、その分安心して足場とできない建造も多いのだ。
にも係わらず、レンは僅かも迷いを見せず建物同士の間を飛び越え、今より高い、低い屋根へと飛び移っている。
「どうした?」
この青年にしてみれば、何でもないことなのだろう。気楽な声に、青年が人間であることに疑いを抱き始めていたマイルはだが別のことを口にする。
「……どうして、こんな所を通らなきゃならないニャ……」
「いやだって、屋根裏部屋の天窓から出たんだから、普通そのまま屋根伝いに行くだろ」
普通ではない。
「そもそもどうして屋根に出るニャ」
「裏口もあるにはあるんだけどな。けど先月古くなって開きにくくなったのを力任せにやったら本格的に開かなくなっちまってさ。日頃そんなに使わないしまあいいかって、ほったらかしにしてあるんだよなー」
「だったら玄関から出ればいいニャー!」
「無茶言うなって。お前を捕まえに来た奴らと鉢合わせするだろうが」
言いながら、また跳躍。レンの項で括られた黒髪が、動作に従い活発に跳ねた。
もっともな言葉と、屋根に代わって視界に飛び込んできた風景にマイルは思わず口を噤む。その頭上から、今度はレンが言葉を落とした。
「俺からも質問」
「何ニャ」
「どうして、俺たちを信用した?」
マイルは思わずレンを見上げた。正面を向いたレンの表情には笑みも緊張も疑いも、何も浮かんではいない。レンの瞳が黒く、シノと呼ばれていたあの無口な青年と同じ色であることを、マイルは今更ながらに意識した。
「……キミたちが、キキョウ様の遺髪を持っていたからニャ」
「俺たちじゃなくて、オーナーがな。 あれにしたって、婆さんを殺して奪い取ったとか考えないのか?」
婆さん。
何かをぐっと堪えたマイルは、猫科特有の鋭い牙の隙間から言葉を発した。
「……妖怪がどんな存在なのかは、知っているニャ?」
「魂と言うか、生命の気が具現化したのがそうなんだろ? 最初は精霊と似たようなもんだと思ってたけど」
「精霊は漠然とした意識しかない、高まり凝縮された自然の力の結晶ニャ。妖怪はそれとは違う、とても強い想いの結晶ニャ」
「想い?」
鸚鵡返しに青年が呟く。マイルは今自分が置かれている状況を忘れる意味も込めて、伝承と古書から得た知識を記憶の海から懸命に手繰り寄せた。
「ボクも、詳しくはわからないニャ。けど、キキョウ様のように普通の猫だったころから明確な強い意志を抱いていた者や、人から強い感情を注がれ続けた道具とかは妖怪になることがあるらしいニャ」
「へー」
で、それが? 先の質問にどう繋がるのかと無言で促すレンに、マイルは答えた。
「特にキキョウ様は、妖怪になって何百年も経っていたニャ。そのくらいになると全身が妖力の塊になって、本体から切り離されたり、死んでしまうと同時に消えてしまうニャ。キキョウ様が、意識して残そうとしない限り」
「なるほど。オーナーに証として持っているように言ったのはそれでか」
得心がいったと、レンは言った。その目元にはいつの間にか、あの何かを面白がるような気楽な気配が戻っていた。
「……それにしても……」
疾走と跳躍の振動にようやく慣れ始めたらしいマイルが(そもそもそれはレンの行為を考えれば異常なほどに少ない衝撃であったのだが)、苦情ではなく愚痴のような口調で呟く。
「……せめて、ある程度進んだ後は地面を走ってほしかったニャ……」
「廃墟だの陥没してできた大穴だの無視して一直線で行った方が早いだろ。てかお前高いところだめなのかよ。俺の知り合いが飼ってた猫は高いとこ好きらしくて、自力じゃ降りられない高さまでよく登ってたけど、獣人の『猫』は違うのか?」
「……高い場所に上って降りられなくなるのは子供だけニャ。けどそのトラウマがあるから、ボクも妹も高いところは苦手ニャ……」
マイルを筆頭とした一族の大半が持つ、幼少時の忌々しい記憶である。だがレンは他の箇所が気になったらしく、訝しげな表情でマイルに問うた。
「……今のを聞くと、まるでお前が大人であるかのように聞こえるんだが」
「まるでも何も、ボクはキミたちにすれば二十歳過ぎの立派な成人ニャ」
「うそお!」
「嘘じゃないニャ」
目を剥いたレンにマイルは言う。余程の衝撃だったのだろう。レンは店を飛び出してからこれまで休めることなかった足を止め、まじまじとマイルを見つめる。純粋な驚愕に支配された遠慮のない視線に、好奇の目に晒されることに慣れたマイルが思わずたじろいだ。
「…………」
やがて、レンはマイルの瞳から視線を外し、短く息を吐いた。
そして、なんの前触れも宣告もなく、駆け出した。
「ニャアアッ!」
耳元で風が唸る。つい先ほどまでとは比べ物にならない速度と振動に、マイルは思わず悲鳴を上げた。
「いやー、何でだか俺ってば今、すっごくお前に嫌がらせしたい気分」
「速い速い! 速すぎるニャア!」
「ガキじゃないならそうって早く言え。次から許可がない限り、オーナーに近寄るの禁止な」
「何の話ニャ!」
「はっはっは。そーら、わりに広い隙間飛び越えながらトンボきってみたり」
「ギニャーッ!!」
混乱した『猫』の悲鳴と楽しげな青年の笑い声は、目的地へ近づいた青年が地上へ降りるまで続いた。
そこから少し時間を遡った、もう一方。
「先ほどは店の者が失礼いたしました。四名様ですね。どうぞ、お入りください」
少女はシノに付き添われ、扉を開き、男たちを招き入れる姿勢を取っていた。四人の上に視線を滑らせ、少女は穏やかに、微笑んだ。
「ようこそ。『花冠』へ」
3.
一つの街と言うにはあまりに広大な廃棄都市を、ぐるりと囲む高い壁。その四方に位置する大門の一つ、東の青門のから伸びる中央通はいくつもの店のある繁華街となっており、多くの人が住む東の三区の中でも賑やかな場所である。
それも昼を過ぎたこの時間帯、市の日ともなれば、その賑わいぶりはすさまじいものがある。
新鮮な野菜や果物を扱う店で、売り子の女が威勢の良い声を張り上げる。立派な織物を見せる旅商人に、値段を目にしてため息を吐く人。下見で来た酒場の店主に自慢の酒を売り込む男。どんな傷もたちどころに治ってしまう薬がある豪語する調子の良い男に、冷やかしとサクラらしき者。焼けた肉と焦げたタレの香ばしい匂いを漂わせている屋台に噛り付き、指をくわえている子供。この世の絶望を一身に受けたかのような顔をして、泣きながら母親を求める子供。その手を引く警備兵。派手な演舞を披露する大道芸人に、沸き起こる拍手喝采。
人、人、人。今や大陸有数の都市国家にまで上り詰めたこの街に、荒廃しきったかつての面影は薄い。だが、これほどの賑わいが最早当たり前となっても尚、放置され人気のない区域が大半を占めている事実が、この都市の巨大さを物語っている。
その中の一軒の屋台で、財布を手にしたレンは真剣な眼差しで果実の品定めをしていた。
「へー、結構香りがいいな、このオレンジ」
「だろ? 品種改良に成功して、今年始めて出すのさ。アタシも仕入先で味見したけど、お勧めだよ」
活発そうな顔にそばかすを散らせた売り子の女が言う。
「じゃ、試しに。あとその林檎と、胡桃もほしいな。そっちの干し葡萄も一緒に買うよ」
「はいよ、まいどあり」
財布から代金を渡し、果実の詰まった紙袋を受け取りながら、レンはふと視線を下に落とした。
「ほい」
「え?」
目の前に突然現れた赤い果実に、マイルは驚いたような声を上げてレンを見た。その仕草は、深く何かに集中していた人間の肩を後ろから叩いたときの反応に、よく似ていた。これでは頭上で交わされていたレンと売り子の会話が耳に入っていたのかどうかも怪しい。
「昼飯には足りないだろうが、とりあえずこれで我慢してくれ」
「……ありが……とう」
言い聞かせるような口調で言うと、ぎこちない口調で答えて、マイルは林檎を受け取った。人気のある場所に近付いてからマイルはあの黒いマントをすっぽりと被り、口を利く際も癖のある語尾が出ないように注意している。レンは最初、かえって悪目立ちするのではと案じていたが、追われているだけに素顔を晒して連れ歩くこともできなかった。
指先まで黒い布に包まれた手が隠れた口元まで林檎を運び、しゃく、と小さな音がしたのを聞き届け、レンも今買った林檎を一口齧った。栄養価の高い果実は甘酸っぱく瑞々しく、レンの喉を潤した。
売り子の女が大した興味もなさそうに、屋台から黒布の塊を見下ろした。
「誰だい、その子。あんたの子?」
「なわけあるかよ」
レンは女を軽くねめつけた。
「そうだろうね。まだシノさんの子だって言われた方が信憑性高いよ」
「あいつのガキでもねぇよ」
「わかってるよ」
女はあっさりと言って、売り場の果実に手を伸ばした。乱れたり、落ちそうになっているものを手際よく直していく。
「あんたのことだから、また迷子でも拾ったんだろ? 世話好きなのは結構だけど、警備の連中に人攫いと間違えられないうちに引き渡しなよ。ちょっと妙な連中もいることだしさ」
「大きなお世話だっての。……て、妙な連中って何よ姐さん」
いつものやり取りに付属された言葉を聞きとがめたレンに、女は歯切れ悪く答えた。
「うーん……。昨日、ちょっとね。変なことがあって」
「どんな?」
好奇心も手伝って、また一口、果実を齧りながらレンは問うた。ちらりとマイルを見ると、小さく頭と手が動いているのでこちらも順調に食べ進んでいるらしかった。
「昨日、うちらが馬車を泊めてるところに、警備の連中が見回りに来たんだけど……」
「それって変わったことなのか?」
とてもそうは思っていない表情でレンは言う。
「最後まで聞きな。そりゃ市前の見回りは当たり前だけど、昨日はそれももう終わった後だったし。それにそいつら、馬車の中まで調べさせてほしいって言ってきたんだよ」
街に入る前ならいざ知らず。積荷を尋ねられたことはあってもあんなことは初めてだ、と女は言った。
「一番変だと思ったのが、警備兵の他にも人がいたことさ」
「へぇ」
「その男がね、『明日売るつもりだった動物が逃げ出した。仲間が近くを探しているが、念のためここも調べさせてほしい』って言うんだよ。まあ警備の奴が一緒なら、と思って好きにさせたんだけどさ」
だが、大切な商品に何かあってはたまらない。たとえ箱一つでも、乱暴に扱えば叩き出してやると思いながら見張っていたが、男は決して馬車を荒らすようなことはしなかった。陰などを覗くその様子からは必死な様子が窺い知れて、気の毒になった女は自分も捜索に協力すると申し出たのだが、男は大したことではないからと、慌てた様子で立ち去ったのだ。
「…………」
レンはちらりと視線を下に向けた。今は彫像のように硬直したマイルを一瞥し、自身は何でもないような顔をして先を促す。
「……それで、結局みつかったのか?」
「あたしも気になってたんだよ。探し方からして小さい動物みたいだし、もしも毒蛇とかだったらって思うとさ。それで今日の朝、警備の連中に聞いてみたんだよ。そしたらさ……」
「捕まってないって?」
「いいや。動物が逃げ出しただなんて、そんな報告は受けていない、だってさ」
レンが目を見張る。
「聞いてないって……。姐さん、ちゃんと警備の奴の印章確かめたんだろ?」
「当然さ。アタシと親父が見た限りじゃ紛れもない本物だったよ」
どうなっているんだか、と女は軽く肩を竦めた。
「……その、男……」
その時、意外な方向から聞こえた意外な声に、レンと女が下を向いた。黒いマントを纏ったマイルは上を向くことはせず、途切れ途切れの硬い口調で言った。
「……眼鏡の……人間……?」
「え? ……いいや、警備の格好した奴も、男の方も眼鏡なんてなかったけど」
「……そ、う」
「なあ姐さん、その話を知ってる奴って他にいるか?」
マイルの反応に女が訝しげな顔をする前にレンが割り込んだ。女もそれに応じる。
「他って、うちの親父は当然、この市に来た大体の奴は知ってるんじゃないかい。他の馬車にも聞き込みしてたみたいだし。――ああ、いらっしゃい! いいものが揃ってるよ」
言葉の後半は、新たにやってきた客に対するものだ。
「……じゃ、またな、姐さん」
接客に忙しそうな女に別れを告げ、レンは行くぞとマイルの肩を軽く叩いた。マイルがどこか怯えたようにレンを見上げる。
「……レン」
「わかってる。人ごみで撒くぞ」
耐えかねたように何か言いかけたマイルを制し、レンは背後を振り返ることなく低く返した。
人の波間をすり抜けて、二人はその場から足早に立ち去った。
賑やかな中央通から複雑に絡む裏通りへ。裏通りへ入ってからはマイルを抱えて駆け続けていたレンは、頃合いを見計らって足を止め、マイルを下ろして息を吐いた。
「撒けたか」
「…………」
気配が失せた事を確認し、安堵するレンとは対照的に、建物の薄暗い陰の中でマイルは不安そうに周囲を窺っていた。その様子を見ながらレンはマイルに声をかける。
「……さっき言ってた眼鏡の男が、お前らを誘拐した犯人か?」
「その一人ニャ……」
そもそもの撫で肩をさらに落とし、マイルが答える。
「ボスの雰囲気じゃなかったけど、他の人間に命令したり、ボクが見た中じゃ一番偉そうにしてた奴ニャ」
眼鏡のような高級品を身につけているということは、金持ちか、とレンは心中で呟く。そして、その男が属する一団が、この『猫』を血眼になって探している。
「ふーん……眼鏡、ねぇ」
呟くように相槌を打ちながら、レンの眼が、記憶を辿るように遠くを見た。
そう言えば。先ほど店を訪れた男の一人も、眼鏡をかけていた。
男の指が、カップを取った。しばらく香りを楽しむようにしてからそれを傾け、含む。
「……ほう。良い葉を使っている」
「恐れ入ります」
呟くように言った、エルゼンと名乗った男に、少女は微笑で応じた。
エルゼンと少女は、店内のテーブルに向かい合って座っていた。
テーブルには繊細な陶器。注がれた茶は甘く香り、穏やかな日差しに溶けるように、薄く湯気が立ち上る。
清楚な少女と紳士然とした男の、穏やかな茶会と言うに相応しい図である。厨房に戻らず少女の後方に控える青年と、何かの威嚇のように男の背後に立つ三人の男を除けば。
「先ほど、あなたは自分こそがこの店の主人であると仰いましたな」
「ええ。先代から譲り受け、今は私がオーナーを勤めています」
少女は躊躇せずに答えた。これは、ついさっき投げかけられた問いでもあった。エルゼンが身を乗り出す。
「では、お嬢さん。さっそくだがこちらの願いを聞いていただきたい」
「まあ。どのようなお願いですの?」
少女は可愛らしく尋ねた。エルゼンが言う。
「先ほどもあの青年に伝えたことですが、猫を返してほしいのですよ」
「ペットが逃げ出してしまったのですか? お気の毒とは思いますが、ここには猫など」
「はっきりと申し上げよう。あなたが店に招き入れた『猫』の獣人を渡していただきたい」
少女の言葉を遮ってエルゼンは言った。薄いガラス板を隔てた目が、少女を脅すかのように細められた。
「あれは我々が手に入れたものなのですよ」
装いだけならば紳士として通じる男から、僅かに蛇のよう気配が滲む。少女は怯んだ様子も見せず、平静な声音で応じた。
「ここには私と、このシノ以外の者などおりません」
「存じていますとも。あの青年に連れて行かせたのだろうが、あなたが呼び戻せば済むことだ」
確信を持ったその言葉に、少女はしばし黙した。その隙に、エルゼンはさらに言う。
「お嬢さん。我々は、三日前、あれの行方が知れなくなってから、今まで必死の思いで探してきたのです。あなたが協力してくださるなら、我々は言葉では足りないほど感謝いたしましょう」
言外に謝礼の存在を語っている。少女が微笑んだ。
「具体的に、どれほど感謝してくださるのでしょう」
その言葉に、エルゼンが背後の一人に合図をする。進み出た男は、テーブルの上に意匠の施された小箱を置いた。
留め金が外され蓋が開く。そこには大小様々な宝石が収められていた。年頃の娘ならば、否、そうでなくとも歓声を上げるであろう光の洪水に、少女もまた目を細め、ため息を吐いた。
「気に入っていただけましたかな」
「ええ、とても……すばらしいお品物ですわ」
少女の反応に満足そうにエルゼンは頷いた。では、と言い掛けた男の言葉を、今度は少女が遮った。
「ですが、解せません。たかが一人の獣人に、何故こうまでなさるのです?」
「あなたはあれの価値をご存知ない」
「価値とは一体何を指すのでしょう」
少女が問う。一蹴されるか、誤魔化されるかと思いきや、意外にも男はしばし迷うような表情を見せた。
「教えてはいただけませんの?」
少女が穏やかに、もう一度言った。男は尚も躊躇い、間をもたせるかのように、少し冷めてしまった茶を含んだ。
だがやがて、正面から微笑みを向ける少女に押されるように、短く息を吐く。
「……あの獣人の目を、見ましたか」
「ええ。とても綺麗な緑色の」
「あれこそが、あれの種の価値なのですよ」
少女は、僅かに眉を顰めた。
「どういうことです」
「言葉のままです。あれの眼球は、旧王国が全盛を誇った時代から大変希少な美術品として取引されている」
事も無げに、エルゼンは言った。
「動物の目を、美術品に?」
悪趣味と感じたらしい。呆れたような表情を浮かべて、少女は呟く。
「昔は余程変わった御趣味の方が多かったのですね」
「動物の身体の一部を装飾品として用いるのは古くから続く風習ですよ。現にこの街でも、裕福なご婦人たちは毛皮のコートをお持ちでしょう」
「今も、それを欲しがる方々がいると仰るのですね」
無論、と、いつの間にか微笑を消した少女の言葉は肯定された。
「むしろ乱獲が祟ったせいで、希少価値は王国時代以上とも言えるでしょう。我々はそれを二匹手に入れた。しかも、雄と雌を」
「……繁殖が可能となれば、その価値は計り知れないということですか」
「その通りですよ、賢いお嬢さん」
淡々と、エルゼンは言った。最早取り繕った雰囲気は消え、無機質な、冷たい表情のみが顔に張り付いている。
「あれの価値と、それに伴う重要性を、多少なりとも理解していただけたでしょうか」
「ええ、とてもよく」
「では……」
「お断りいたしますわ」
凛とした声音で少女は男の言葉を遮った。
「マイルをあなた方の好きにはさせません。マイルも、彼の妹も、彼らの身は彼らのものです」
青瞳が厳しくエルゼンを射抜いた。友好的な雰囲気を消し去ったエルゼンと剣呑な雰囲気を漂わせ始めた三人の真っ向にありながら、少女には、だが僅かも臆した様子はない。
「…………」
黙すエルゼンに、少女はにこりと笑った。
「愚かな娘と、思われますか?」
「ええ」
エルゼンが淡々と答える。
「とても残念ですよ。お嬢さん」
その呟きを合図に、それまで背後に控えていた三人の男が、一斉に動いた。
「右手をご覧ください」
下手に裏道を行くと回り道であり、人目が無い分襲撃を招きやすい。何よりそれを食らった際の逃げ場が限られるからと、中央通を真っ直ぐに辿っていた最中であった。
唐突に降ってきた声に、マイルはフードの奥からレンを見上げた。陰にありながらも輝きを失わない緑が瞬きをする。
「……何ニャ、突然」
「いい機会だからな。この街の説明でもしておこうかと」
追っ手を警戒する身とは思えぬ吞気な口調でそう言うと、レンは右手を上げて真正面を指した。その指先を追って顔を上げれば、通りの終着に、圧倒的存在感を誇る巨大な門が聳え立っているのが見えた。
「この街は全体を円く壁で囲まれている。一番外側のものを含めて三枚。その壁ごとに区分けがされてて、俺らが今いる地区が三区。正面のあの壁の向こう側が二区、もう一枚向こうが一区跡地だ」
空中に指で円を描きながら、レンが説明する。
「一番人が多いのがここ、東西南北で仕切られた内の東の三区だ。その次が南か。この二箇所は移民が中心になって発展した区域で、比較的街並みも新しい。どっちかっつうと古参や獣人、人外の住民が多いのが西。昔からのでかい神殿や裁判所もある、今の議会の中心地でもある。……わりに寂れてて、特にうちの店のある北寄りは廃墟ばっかりだ」
で、とレンは一度言葉を切った。
「残った北の三区。あそこは、いわゆる無法地帯だ。政治家連中も東西南の管理で手一杯で、中々本格的な手入れができていない。長いこと桔梗さんが眼を光らせていたから街の運営に干渉するようなでかい組織は今のところないけど、怪しい連中や裏取引は昔から横行して、しっかり根付いちまってる」
たぶん、お前が逃げて来たのはこの北側からだ。そうレンは言う。思わず見上げたマイルに、青年は軽く笑ってみせた。
「北の三区は無法地帯だって言ったろ?他の東西南は一応の管理がされてて、大門にもちゃんと警備の連中がいるんだが、あそこはそうじゃない。どんな怪しい野郎も馬車も好き放題だ。まあ『住民』なりの独自のルールはあるらしいけど、何てったって広いからな。壊す奴はいても直す奴はいないから、壁沿い探せば穴の一つや二つ開いてんだろうし」
人間と獣人が共存する街で、攫った獣人を運び入れるのならあそこが一番確実だとレンは言った。
「じゃあ、妹もそこに?」
「たぶんな。……まあ北って一口に言ってもかなり広いんだけどな」
思わず期待の混じった声で問うと、苦笑のような表情でレンが返した。
「ただ、わかんねえのが、昨日まで東側なんて見当違いな方向を探していた連中が、どうやってうちの店を探し当てたかなんだが……着いたぞ」
レンが口を閉ざし、隣で絶えず聞こえていた足音が止むと同時に、視界が陰った。フードのものとは違う影がそこに落ちたのだ。驚いて足を止め、フードを持ち上げて正面を見上げると、そこには視界いっぱいの、硬く閉ざされた巨大な鉄の門があった。先ほどまで距離があるように思えていた三区と二区を隔てる壁が、いつの間にか目の前にある。
「これが、さっきも言った二区の壁。でもって東の白門だ」
レンがマイルと同じように門を見上げて言った。ノックのように軽く鉄の扉を打つと、コン、と硬い音がした。
「……閉まってるニャ」
見たままを呟くマイルに、レンは小さく声を上げて笑った。
「見張り付きで開けっ放しにしとくもんなんだけどな。普通は。けど、こっから先は立ち入り禁止区域なんだよ」
「どうして?」
「危ないから」
危ない。扉を見つめながら放たれた言葉にマイルは瞬きをしたが、それを押しのけて別の疑問が口をついた。
「……この向こうに用事があるんじゃないニャ?」
「ああ」
「閉まってるけど、どうやって行くニャ?」
「壁越えて」
やはり。
がっくりと落ち込んだその心境を恐らくは正しく察しているであろうレンは、再び裏路地へとマイルを連れて行く。そこで暗がりに積まれた木箱をまずは足場に。そこから屋根へ、そして助走をつけて高く跳び、壁の端を掴んだ片手で自身と小脇の荷物を支え、持ち上げた。
いくつもの岩を積み上げて建造されたそれの頂点に達したそのとき、眼下に広がる街並みを見たマイルは、そこが高所であることを忘れ思わず小さく声を上げた。
これまで見てきた三区の街並みが木造建築を主としていたのに対し、二区には白い石造りの建物が立ち並んでいた。それも、立派な大きな建物が目立つ。きちんと区画整理され、整えられた街並みをマイルは素直に美しいと思った。それと同時に、これのどこが出入りを禁止するほどの危険区域なのかと疑問が生じたが、それを口にする前に、隣の青年が言った。
「いいか、マイル」
「何ニャ」
半ば反射的に答えて、マイルは慌ててレンを見た。
「こっから先は、できるだけ喋るな。大きな物音も立てるな。何かあったらまた抱えて走るけど、そのときも悲鳴なんか上げるなよ」
軽い表情を常とする青年は、今は意外なほど真剣な眼差しで白い街並みを見下ろしていた。その横顔を見たマイルもまた、余計なことを問うことはせず真顔で頷く。
「わかったニャ」
「よし」
答えた瞬間、レンは前触れなしに飛び降りた。途端、全身を包む風。臆する腹の底。逆立つ全身の白毛。急降下する視界と急接近する地面。引きつった悲鳴を上げかけたマイルは、だが寸前でその衝動を飲み込んだ。
マイルは律儀な『猫』であった。
4.
人の気配がまるでないことは、街を歩いていれば自然に感じ取れた。そのことが、マイルに違和感を抱かせる。
レンは立ち入りが禁じられていると言っていた。ならば久しく人が暮らしていないこの二区が廃墟ではなく、未だに『街』としての姿を保っているのは何故だろう。歩きながらマイルは顔を横へ向けた。用途の分からない建物の白い壁と、枠にピタリと収まった、曇りのないガラス窓があった。
「…………」
目の前を歩く青年は、こんな人っ子一人いない場所で、誰に会いに行くのだろう。疑問が消えることはなかったが、マイルはそれをレンに投げかけることだけはしなかった。
極力静かにと、約束をしたのだ。そしてそれはレンにとっても同じことであったらしい。青年は二区に降り立ってからというもの一言も言葉を発さず、足音すら完璧に殺していた。素足で、仮にも『猫』としての面目があるマイルはともかく、靴を履いたレンが石畳の上を僅かな物音も立てず移動する様は、マイルに再び青年の素性への疑いを抱かせると同時に、これまで以上の用心の必要と緊張を伝えた。
曲がり角に至るたび、レンは注意深く周囲を見渡す。そうしていくつかの角を曲がり、表通、細い道を辿り、そのうちにマイルはおかしなことに気が付いた。
先ほどから、ずっと同じ景色が繰り返し眼に入る。
気のせいだろうか。似たような建物ばかりだからそう見えたのか。そう思い、今度はレンの背だけでなく、周囲の様子も注意深く見ながら歩くが、同じことだった。気が付けば、見覚えのある風景が再び視界を通り過ぎる。得体の知れない焦燥に駆られマイルはレンの背を見た。
レンは、先のように黙々と足を進めていた。動揺も焦りもない、自信に裏打ちされた確実な足取りに導かれているのでなかったら、マイルはとっくにパニックに陥っていただろう。
青年の歩みは止まらず、彼らはまた、少なくとも六回は眼にした角に辿りつく。じわじわと込み上げる恐怖感をどうにか押さえながら、マイルは足を踏み出し……そこに広がる、先ほどまでとは一変した光景に、大きな眼を見開いた。
そこは立ち並んでいた建物が退き、大きく拓けた空間となっていた。周囲を囲うように樹木が植えられ、地面は色の付いた石畳で優美な図形が描かれ、花壇では小さな花々が溢れんばかりに咲き誇る。中央の池に立つ女性像は、傾けた水瓶から絶えず水をこぼしていた。
「…………」
雰囲気は穏やかなものであるし、久しぶりに感じる緑と土の匂いに安堵してもよかったのだろうが、急激な変化について行けず、マイルはただ立ちすくんでいた。
「どうした?」
気がつけば、先を歩いていたはずの青年が側まで歩み寄り、マイルを見下ろしていた。瞬きして見上げるマイルにおかしそうに笑いかけ、レンは言った。
「ここは公園だ。二区の中でも特に一区に近い場所にある。俺たちがいたところからはだいぶ離れてるけど、裏技を使ったからな。いきなり飛んだんでびっくりしたろ?」
「う……うらわざ?」
「あそこにいる、魔法使いがな」
レンは親指を立てて背後を示した。マイルは気付いていなかったが、公園の隅に、一軒の小さな家が建っていた。公共の施設であるはずの公園内に個人の邸宅があるものおかしな話だが、その家は、そんな違和感など微塵も覚えさせず、極めて自然に園内に建っていた。
「……そう言えば、喋ってるけど、いいニャ?」
「いいよ。とりあえず、この公園の中なら」
今更のように問うマイルに、レンは鷹揚に笑って手を振った。だが、何か思いついたように表情を改めると、やや抑えた声で言う。
「これから会う奴に何か言われたり妙なことされたりしても、まあ、そんな気にするなよ。少なくとも、悪人じゃない」
だからと言って善人でもないがと、レンは続けた。不安を拭おうとしているのか煽ろうとしているのか、判断に迷う忠告である。その口調がどうにも幼子に言い聞かせるもののように聞こえるのは、やはりマイルの外見のせいだろうか。
自身の身長と種族差の溝について芽生えた複雑な思いを胸の内に押し止め、マイルはフードを被り直し、魔法使いの家とやらに向かうレンの背を追いかけた。
その家に立ち入った者は例外なく違和感を抱き、次いで異様な感覚に襲われる。
扉を潜り、まず目に入るのは、天井から壁床一面にかけられた漆黒の布。唯一布に支配されていないのは今さっきくぐったはずの扉のみであり、ちなみにその扉は、閉じた覚えもないのにしっかりと閉ざされている。窓も灯も、光源らしいものが何もないにも係わらず視界に不自由はなく、そして己の足元に影はない。
首を捻り、困惑した様子で立つマイルを隣に認めたレンはふと気配を感じ、視線を正面に戻した。
黒い背景に立っていたのは、黒い燕尾服と白手袋に身を包んだ、恐らくは人間の男。初めからいたわけではないはずだが、と言っていつここに現れたのかもわからない。暗い色の頭髪。舞踏会に用いられるような白い仮面が鼻から上を覆い、素顔は窺えない。背景と装いと、対照的な色合いの仮面と手袋は、まるでその部位が本体から独立して浮かんでいるかのような錯覚を引き起こした。
その白い顔が、口を開く。
「ようこそ、レン殿。久しく御目にかかれずにいましたが、お元気そうでなにより」
若い男の声だ。何とも言い難い感情が心中に滲むのを感じながら、レンは短く応じた。
「おかげさまで」
それは結構と仮面の男が返す。
「して、本日のご用件は」
「シモンさんと連絡を取ってくれ。北の三区で待つから、今夜のうちに来てくれると助かる」
「承りましょう」
「頼んだ」
男があっさりと首肯したことで、一応の用事は終了する。レンはやれやれといった表情浮かべた後、下から向けられていた視線に気付きマイルと目を合わせた。
「どうした?」
「え! ……いや、なんでも……」
言葉も表情も常と比べ愛想に欠ける青年を珍しげに見ていた『猫』は、慌てたように首を振る。レンもそれ以上を問い質そうとはせず、それよりも早くこの場から離れたい様子で、男に礼を告げようと顔を上げ――仮面を見失った瞳がしばし部屋を彷徨った。
「おや、これは珍しい」
だがそのとき、思ってもいない間近で聞こえた声に、マイルがびくりと反応し、レンも思わず身構えかける。声の主である仮面の男は二人の足元にしゃがみ込み、レンが制止する間もなく、軽い動作でマイルのフードを払っていた。純白の毛皮に覆われた丸い頭部と、ピンと立った耳、青い眼が露になる。
「――っ!」
大きく目を見張ったマイルが思わず一歩下がるが、それ以上は動かない。仮面の奥から『猫』を射すくめた眼差しは遠慮なくその姿を検分し、男はまた珍しいと呟いた。
「……クラウンさん」
見かねたレンがマイルの首根っこを掴み、自分の陰に降ろす。呆れを含んだ黒目が男をねめつけた。
「あんまりいじめんなよ。オーナーの客人だ」
「おや、これは失敬」
口元で笑って、クラウンと呼ばれた男は立ち上がり、数歩下がった。最初に紹介しておくべきだったか…と、レンは自分の脚の陰から怯えと警戒心を剥き出しにして様子を窺う『猫』に言った。
「この怪人が、さっき言った魔法使いのクラウンさんだ。人間の中じゃこの街一番の古株で、知識が豊富で妙なコネもやたらとあって、あの婆さんからもそれなりに信用されてたらしいが、俺はぶっちゃけこの人が苦手だ」
だから盾にされても庇いきれる自信はないぞと暗に告げる。
仮面の男は目の前で失礼な発言をするレンと、それを聞く余裕がない様子で自分を凝視するマイルを会話を面白そうに見つめ、丁寧に礼をした。
「先ほどは失礼を『猫』の方。多少、驚いたもので。『翡翠の猫』など数百年ぶりに見ましたからな」
懐かしそうな響きを帯びて発された言葉に、マイルが体を強張らせた。レンは訝しげに呟く。
「翡翠?」
「おや、ご存知でない?」
無知を嘲笑うものとは違うが、どこか愉快そうに仮面が笑う。
「『翡翠の猫』は王国時代、その眼球に宝石以上の価値を見出され、乱獲された獣人の一族です。かつては大陸中で姿を見ることができましたが、今はゼーンの森に結界を張ったそこで、僅かな生き残りが暮らすばかりとか」
軽い調子で語られたその内容に、レンの表情がげんなりとしたものになる。
「目玉が宝石以上に持てはやされるって、どんな文化だよ」
「腐らせず、美しいまま保存する技術がありましたからな。特殊な薬品と共にガラス瓶に詰めるのが一般的でしたが、熟練の職人が水晶で表面を覆ったものなども、おぞましくも見事なものでした。『狼』などと違い人間の姿に変化する種族でもなく見目も美しいので、殺さず、声帯を潰し服従の呪いをかけた上で愛玩動物にするのも流行したものです」
「……おぞましいなら、回想しないでほしいニャ」
本人は知る由も無いが、主人と同じ反応を返したレンに、クラウンは冷静に答えた。嫌悪のあまりか体中の毛を逆立てる『猫』の訴えを黙殺し、青年に問う。
「運び屋の方々への荷物とは、彼のことですかな?」
「……たぶん、もう一人増える」
「ほう。……しかし、妙ですな」
何かを含んだ、意味深な声音でクラウンは呟き、再び膝をついてマイルと目線を合わせた。怯む『猫』に言う。
「あなたがたの森に施された結界はそう簡単に消滅したり無力化されるようなものではなく、結界外に出ることは掟として固く禁じられているはずです。にも係わらず何故、遠く離れたこの街で彼らに助力を求め、北区へ赴くようなことになるのですかな?」
「……ボクも、あなたに聞きたいことがあるニャ」
「何ですかな?」
「どうして、人間が、ボクらの里のことを、知っているニャ」
体を強張らせながらも気力を振り絞るようにしてマイルは言った。仮面の口元が笑う。
「無論、一般に知られる事実ではない。ですが我輩もまた、キキョウの同志であったのですよ、『猫』の方」
納得がいかない様子のマイルに「これ以上は秘密です」と笑いかけた仮面の男は立ち上がり、レンに言った。
「お二人にはこれから連絡を入れます。お望みの時間には着くでしょうから、いつもの場所でお待ちください」
「ああ、よろしく」
答えて、レンは行くぞとマイルに声をかけ、振り返ったドアノブに手をかけた。力を込める直前、
「――『猫』の方」
僅かに、悩んだ末のような余韻を含んだ声に、レンと、その足元のマイルは振り返った。
「この方たちは、あなたを故郷の森へ送り返すつもりでいます。あなたはそれでも良いのですかな?」
「……それができるなら、そうしてもらえると助かるニャ」
「ですが、一度外界へ出てしまったあなたを結界内の仲間が受け入れてくれますかな? 結界から出ることも戻ることも、その存在の秘匿のため、固く禁じられていることのはず」
囁くように言う仮面の男に、やりとりを見守っていたレンの予想に反し、マイルはふうと苦笑してみせた。
「心配してくれなくても、もうあの里にはボクと妹以外、誰も残っていないニャ」
虚を突かれたように、仮面の男が押し黙る。マイルは構わずくるりと回れ右をして、傍らのレンに早く行こうと促した。
扉を開けると、白い視界の中に先ほどの公園があった。部屋の中が暗かったのだろうか。空から降る日差しと、それを反射する石畳がひどく眩しい。
「じゃあまたな、クラウンさん。今度の隠れ家はもっと近場にしてくれよ。一々行き帰りが面倒だ」
なんとなく振り返らずに言い、レンはそのまま一歩外へ踏み出した。靴底と石畳とが擦れる音に混ざり、その声は背後から届いた。
「ああ――然様ですか、それは失敬」
知覚したのは耳から入ったそれだけだが、その瞬間、突然視界が大きく歪むと共に身体のバランスが崩れた。
「と」
「ニャッ!」
レンは咄嗟に膝を突き、見れば同じタイミングで悲鳴を上げていたマイルも『猫』の面目躍如で転倒は免れたらしい。
「な、何ニャ、今のは……?」
「……これの結果だろ」
当惑するマイルにレンは周囲を見渡すことで示した。視界に映るのは白い街並み。先ほどまで目にしていた公園ではなく、レンたちが歩いてきた公共の建物が立ち並ぶ区画でもない、豪奢な住宅街であった。
マイルは大きく目を見張る。
「……あの人の、魔法ニャ?」
「他に心当たりがないな」
レンは道の端に歩み寄り、石畳の一枚に刻まれた意匠と番号を見て溜息を吐いた。現在地は北の二区中心部。その内でもやや三区の壁寄り。自力ならば一時間ほどで越せる距離を、一瞬で飛び越えたことになる。
「……ま、手順踏んで歩いて戻るよりは近いけどよ……」
どうせなら店まで送ってくれればいいのに。
何を考えているのだかわからない仮面の男に内心で文句を言いながら、レンは屈めていた姿勢を伸ばした。膝を伸ばし、立ち上がりながら踵を捻り、袖口から取り出した棒手裏剣を振り返りざまに一息で投じた。
ほとんど狙いをつけず直感で放たれたそれは、三時を示す時計を珍しげに見つめていたマイルの頭上の白壁にぶつかり、硬質な音を立てて跳ね返り石畳に落ちる。
『猫』が突然の音に驚き身を竦ませる。そのマイルを物陰から攫おうと現れた人影もまた、鼻先を掠めた予想外の牽制に反射的に一歩退き、距離を詰めたレンの追撃をかわすために更に大きく飛び退いた。
靴先が空を切った感覚に、レンは舌打ちする。
「な、何――」
「お前の追っかけ」
マイルを庇う位置に立ち、レンは『追っかけ』と向かい合った。
現れたのは体格のいい、物騒な気配の男だった。腰の短剣以外は特に武装している様子もない軽装。粗暴な雰囲気を醸し出しているが、ゴロツキと言い捨てるには凄みがあった。
男が口を開く。
「――金で、二枚やろう。その『猫』を渡せ」
「やだね」
威圧感たっぷりに発せられたその言葉を、レンはにべもなく叩き落とす。
この日、無人の二区が久方ぶりに迎え入れた客人たちは、ピンと張り詰めた空気の中で睨み合った。
5.
ばかな。
到底信じられないその思いが男の思考を支配していた。
『猫』の獣人が逃げた先は、民間の小さな店。若い従業員が二人と子供が一人と、およそ荒事とは無縁のそれらを制圧することは容易かったはずだ。
副団長はともかく、自分たち三人はその手のことには相当に慣れている自負があった。念のためにと忍ばせていた銃を用いずとも、一般人に過ぎない二人を始末するなり、拘束して脅すなり、どうにでもできたはずなのである。
だが、意識を失い床に伏せているのは同僚二人であり、人質として最初に狙った少女は、まるで自分は平穏の只中にいるのだとでも言いたげに、変わらず椅子に座っていた。そして少女の正面には、男の上司が佇んでいる。男たちがいざ行動を起こそうとした瞬間、エルゼンが椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。その突然の行動は自分たちの進路を妨害し、意表を突いて隙を生んだ。その結果がこれである。
何が起こったのだろうか。エルゼンの言葉を合図に自分たちが動いた瞬間、少女がただ一言『お立ちなさい』と言ったのは耳に入っていたが、それが何を意味するのかが男にはまるで理解できなかった。
「エ、エルゼンさ……!」
何故、何をと声を上げかけた男は鳩尾に重い衝撃を受け、意識を手放した。
「御苦労様です」
手際良く三人の男を気絶させたシノに、少女が労いの言葉をかけた。シノが無言で礼をするのを受け、少女は微笑して視線を正面に戻した。
「伺いたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」
「はい」
問いかけではなく、確認の意味で発された言葉に、突っ立ったままのエルゼンは平坦な声で応じた。霞がかかったようなその眼は最早店内の惨状を捉えてはいまい。
「もう一人のマイルの同族は、あなた方が捕らえているのですか」
「はい」
「まさか、傷を負わせてはいないのでしょうね。どのような状況に置いているのですか」
「『猫』は無傷です。売り物を傷つけては価値が下がる。檻に閉じ込めて、他の動物と同じように倉庫で管理しています」
男の口から語られた『猫』の安否に、少女は少し安堵した様子を見せた。傍らに立つシノと顔を見合わせて頷き合い、男に向き直る。
「単刀直入に伺います。あなた方は、何者ですか?」
「我々は『銀の轡』。一般的には密猟者と呼ばれる一団です。ここ廃棄都市を拠点に、数年前から様々な希少生物の取引を行っています。私は経理と交渉を任されたエルゼンと申します」
真に『銀の轡』であるならいくつかの都市や国で手配されている集団だと青年は囁く。
「その拠点の、詳しい位置は?」
「北の三区、コーラル記念広場の西部に位置する廃墟郡です」
その他、組織の構成や首領の存在に得意先、関連組織の有無などを、男は少女に問われるままに淡々と語った。虚ろな表情からは、本来部外者に語るべきではない秘密事項を漏らしているのだという自覚すら感じられない。
「マイルたちをどこで、どのように得たのです」
「ゼーン地方西部の森の深部で、別件を片付けている際に部下が珍しい『猫』を偶然に見つけたのです。あの種は獣人としては運動能力が低い。捕らえるのは容易かったと聞いています」
「あなたの部下の方が捕らえたのですね。あなたの属する組織の他にも彼らの存在と遭遇場所を知る方はいるのでしょうか?」
「いいえ。仕入先からこの街に戻るまではできる限り他の組織との接触を避けていました。『鉄の轡』内部においても、五十二人の内でも末端の構成員はあの獣人の正体と価値すら知りません」
察するに、男は組織でも上位の存在なのだろう。マイルの『価値』はそれほどに大きいらしい。
少女は次に、マイルの逃げ出した時の状況について問い質した。
「三日ほど前、我々は仕入先からこの街に戻りました。そしてその晩、檻の鍵が外れ、二匹の内一匹の『猫』の姿が見えないのに気がついたのです。同じように捕らえていた天馬が荒れていたため見張りもそちらにかかっており、その隙のことでした」
「では、行方についてはまったく手がかりの無い状態といってよかったのですね」
「はい、衛視に小金を握らせてさぐりもしましたが、効果はありませんでした」
「そこからどのようにここへ辿り着いたのですか」
「この街で傭兵を雇いました」
「傭兵?」
「はい」
人を雇い、数に物を言わせたところで得られるものなどなかろうに。少々怪訝そうな表情をする少女に、やはり淡々と男は続けた。
「傭兵と言っても、人間ではありません」
レンは軽装の男と向かい合ったまま、片腕に持った紙袋を、軽く後ろ手でマイルに放った。
「ニャッ」
「ちょっと持っててくれ」
視線は男から外さぬまま、レンは軽く踵を上げ、重心をずらした。マイルは紙袋を抱きとめたまま不安げにレンと男を見比べ、だがふわりと漂うオレンジの香りに慌てて袋の口をたたみ直した。
レンは、男の無表情を見据えて言う。
「前にも、見かけたな……。朝に店の前と、市場と、これで三度目か。いい加減しつこいぜ、おっさん」
「お前が潔くそれを渡せば、すぐに解決する問題だと思うが?」
「冗談。あんたこそ、痛い目見る前に飼い主んところに帰ったらどうだ? 当然、色々と吐いてもらってからだけどな」
飼い主、という言葉に、男の眉が不快げにぴくりと跳ねた。その瞬間、レンは地を蹴る。
それこそ一瞬で距離を詰め、勢いをそのまま乗せた足が男の顎を狙う。男は仰け反ってそれを躱し、腰の短剣を抜いて突き出すが、速さで勝ったのはレンだった。手首を狙って手刀を落とし、白刃を手放した腕を掴み足払いをかけて投げ飛ばす。
だがそのまま地に背中を打ち付けるかと思われた男はそこで以外な反応の良さを見せた。直前で受身をとり、転がってレンと間合いを開け、低く唸る。
「……なるほど。一筋縄ではいかないか」
「今更気付くんじゃねえよ」
言いながら、レンは男の腕を掴んだ手を軽く振った。
まただ。
朝、店先でこの男を見たときと同じ違和感がする。
自然と眉を寄せるレンをどう思ったか、男は嘲るように笑った。
「まさか、こんな仕事で本気を出すことになるとはな」
発せられたその言葉に、レンは上乗せされた不快感をそのまま表情に表した。対して口を開きかけた瞬間、唐突にレンは、男の輪郭がぶれたように感じた。
両手を握り締め、地を踏みしめた男の表皮が、骨格が変化する。
足に、肩に、腕に筋肉が張りつめ、爪が凶器じみた鋭さを帯びる。顔の変化は更に顕著で、耳は後ろに移動し、口鼻が前方に迫り出す。そして、一撫でしたかのように、一瞬で露出した肌を覆った黒い獣の毛。
「――『狼』!」
引きつりきった『猫』の悲鳴に合わせるかのように、正体を晒した男は長い爪を閃かせてレンに飛び掛った。
カチャ、と小さな音を立て、湯気の立つティーカップが少女の前に置かれる。先ほどの冷めてしまった茶を下げ、淹れ直したものだ。
「ありがとう」
少女は傍らに立つ青年に微笑み、香りを楽しんでから琥珀色のそれを口に含んだ。
「……それにしても、いつ見てもすばらしい効き目ですね」
「恐れ入ります」
どこか悪戯っぽく笑う少女に、シノは頭を下げた。少女は先ほどまで男が座っていた席を見やる。
「あの量で、効果はどの程度持続するのです?」
「明日の昼には解けてしまうかと」
「では後ほどもう一度。供の方たちの分もお願いします」
「は」
礼儀正しくシノが応じる。この実直そのものの青年が自身の茶に薬を混ぜていたことに、正気を失ったエルゼンは気付かなかっただろう。少女の望んだ事を洗いざらい語った男と三人の男は、今はとりあえず拘束して地下室に押し込めている。
「……窓を」
唐突に少女がぽつりと、呟くように言う。シノが少女を見やった。
「開けてください、シノ」
シノが鍵を外し、手近な窓を開く。その両脇で、レース飾りのついたカーテンを止めた。
中身の減ったティーカップをソーサーに戻し、腰掛けた足の上に手を。瞑想するかのように眼を閉じて、少女は僅かに俯いた。
そのとき、窓脇に立ったシノの髪を、軽く、風が撫でた。風は静かに窓から侵入し、部屋の中を、少女を中心とするように緩く円を描くように流れる。眼を閉じたままの少女の銀髪が風に遊ばれるように、ふわふわと揺れた。
幻想的な風の手はやがてその場から退き、少女を囲んでいた円も霧散する。少女がぱちりと青い眼を開いた。
「シノ」
呼びかけられ、シノは窓を閉じる。春とは言えど、未だ冷えた外気がそれで遮られる。
「……まだ、レンは戻ってはいないようですね」
残念そうに呟き、少女は窓から目をそらした。それを待って、シノがカーテンをかけ直す。
「大丈夫でしょうか」
「あれにとって、多少のことは障害となり得ません」
多少手間がかかろうと、無事に戻るでしょう。
言葉に込められた信頼に、少女は心地よさそう微笑んだ。
「ええ……そうですね」
本当は、何事も無ければそれに越したことなど無いのだけれど。
それから先は言葉を紡がず、また一口、少女は白磁に口付けた。
なるほどこれが違和感の正体かと、突き出された爪が首筋をかすめるの感じながらレンは心中で呟いた。同時に、速い、遅れたなと冷静に思う。
変身前と段違いのスピードを咄嗟に裁ききれず、無理に一撃を避けたことで生じた隙に、『狼』がレンの右肩を掴み乱暴に押し倒した。衝撃に後頭部を打ち付けたレンの、剥き出しになった喉笛に、発達した犬歯が突き立てられ
「レン!!」
マイルの甲高い悲鳴に被せるように鈍い音がして『狼』の腰が跳ね、尖った口から詰まった呻き声が漏れた。組み敷かれたレンが、鳩尾に渾身の膝蹴りを見舞ってやったのだ。
拘束が緩んだ隙にレンはそれを振りほどき、苦悶する男の体を突き飛ばし、反転して立ち上がった。
『狼』が、よろめきつつ立ち上がる。
「……っ……! きさ、」
憎悪で満ちた眼差しの先に、青年はいない。音も無く死角に回り込んでいたレンは無防備な背に強烈な回し蹴りをくらわせ、壁に叩きつけた『狼』の背に肩を押し当て白壁に固定した。
「ぐ……っ!」
「おっと、動くなよ。……いくらあんたたちが人間より丈夫な種族だからって、さすがにこれは死ねるだろ?」
『狼』の背を押さえたまま、レンはいつの間にか取り出していた棒手裏剣を毛深い喉に押し当てていた。鋭いそれは、紛れも無い急所に宛がわれている。
大概の者は対峙した際、まず例外なく小柄なレンを甘く見る。まして勝利を確信した瞬間ともなれば油断もひとしおであろう。
痛みを覚える程度に手の力を加減して、レンは、人間の姿であれば憎悪でどす黒くなっているであろう横顔を睨んだ。
「さて――」
何から聞こうか? 呟きかけて、レンはふと口を閉ざした。勝利を確信していた彼の耳に、白い壁に反響した、甲高い異音が届けられた。
すごい。
『狼』の背後を取ったレンに、マイルは呆然としつつも心の中で感嘆の言葉を呟いた。『狼』の最大の強みが集団行動の巧みさにあるとは言え、単体の能力もまた大抵の人間を凌駕する。だが目の前の青年は、それをいとも簡単に制してしまった。
彼なら、もしかしたら、本当に。
それまで桔梗の知己である少女の言葉と道中感じた青年の人柄に縋るしかなかったマイルの中で、希望が初めて確信に変わろうとしていた。
「…………?」
その時、事を見逃すまいとしていたマイルの聴覚をかすめた音に、立った耳がぴくりと反応した。
聞き覚えの無い高い音だ。ピーピーと草笛の音にも似ているようで、だがそれよりも硬質で、何か神経に障るような音だった。
始めは遠かったその音は急速にこちらへ近付いてくる。それに伴い笛に似た音とは別の音も聞こえ始め、マイルは紙袋を抱え直して背にしていた建物を離れ、その方角へと伸びる小道を覗き込んだ。
最初、マイルは遠目に見たそれらを人形だと思った。頭頂部に赤い帽子を乗せた人形を先頭に、帽子のない人形が右舷と左舷の後方に一体ずつ従っている。
あれは一体なんだろう。
何か言葉のようなものを発しているようにも聞こえるが、うまく聞き取れない。車輪が付いているらしく、見る間にこちらへ近付く人形たちを見ていた視界が、不意に持ち上げられた。
「ニャッ!」
「逃げるぞ!」
急に抱えられたマイルが思わず声を上げたのにも係わらず、レンはそう言って駆け出した。その瞬間、小道から赤帽子が飛び出すのが視界に入り、頭上で青年が舌を打つ。
「お、『狼』は」
「なもんほっとけ!」
怒鳴るような勢いで言い放ち、レンは朝の『嫌がらせ』以上の速度で、全力で駆け出した。
背を押さえつけていた力と気配が唐突に離れたのを感じた瞬間、視界の端から消えようとする姿に思い切り腕を振るうが、忌々しい人間には当たらず、人間は標的の『猫』を抱えてその場から走り去る。
逃すものか。
怒りで赤く染まる視界で『狼』は人間を追った。大概の獣人は人間よりも運動能力全般に優れ、その事実から人間を脆く鈍い生き物と見下しがちな獣人もまた少なくない。この『狼』はその典型であるだけに、人間の若造にしてやられたことは耐え難い屈辱であった。
是が否でもあの人間を殺し、『猫』を奪い取らねば他の兄弟たちにも面目が立たない。
三区から苦労してあの壁を越えて追っていたところで、頼りにしていたにおいが唐突に途切れた。叱責を覚悟で北区へ帰還しようとしてたところで、奇跡的に出くわした標的だ。ここで逃してなるものか。
痛みの残る身体で人間を追おうとした『狼』の足元に、すべる様に一体の人形が現れた。高い音を煩く鳴らすそれは、さらに煩い音を出す。
「警告! 獣人ノ都市ヘノ侵入ハ、禁ジラレテイル! 速ヤカニ我々ニ投降セヨ! 抵抗ノ意思ヲ見セタ場合――」
『狼』は躊躇うことなく、鉄の人形を蹴飛ばした。『狼』にとって、それは邪魔なものでしかなかったのだ。
衝撃を受けたそれは僅かに後退し、ブレーキをかけて踏みとどまった。
「獣人ノ、抵抗ヲ確認。コレヨリ強制排除ヲ実行スル」
白い道を走る人間の背。それを追う二体の人形。蹴り飛ばしたそれの目が、視界の隅で赤く光る。
それが、『狼』がこの世で見た最期の光景となった。
「警告! 獣人ノ都市ヘノ侵入、及ビ二級以下ノ市民ノ二区ヘノ立チ入リハ、禁ジラレテイル! 直チニ逃亡ヲ止メ、速ヤカニ我々ニ投降セヨ! 十ノ内ニ逃亡ヲ中止シナイ場合、反逆分子トシテ直チニ排除スル!」
「なんか言ってるニャ!」
「無視しろ!」
小脇に抱えられたまま、マイルは身を捩って後方を見た。赤帽子と帽子なしが一体ずつ、一定の距離を置いてぴたりとレンの後にくっついている。流れ去る風景と対照的に動かない距離感に、本能的にマイルは寒気を覚えた。
「カウント開始! ……十……九……八……」
「なんか数えてるニャ!」
「だから無視しろっての! ああくそあの人は! 飛ばす前に巡回時間確認しろってんだ」
忌々しげにレンは怒鳴った。不気味にカウントを続ける二機を引き連れるかのように駆け、革靴の底を擦らせて急カーブして細い裏路地に飛び込む。唐突な進路変更に背後でブレーキ音が鳴り、僅かな差を置いて再び擦れる車輪の音が追いかけてくる。
「三……二……一。カウント終了。コレヨリ強制排除ヲ実行スル」
背後から下された、いっそ静かな宣告にレンは鋭く舌を打ち、路地の切れ目から日の下に飛び出した。
その瞬間、後方から破裂音と足元の石畳で軽快な音がいくつも連続して鳴る。一発二発三発四発五発六発七発八発九発。巡回機兵の顔の口にあたる部分に伸びた筒から発せられた、数え切れない銃弾の雨が石畳を乱れ打つ。
重火器の使用に欠かせない火硝石が希少鉱物となった今では考えられない贅沢な使い方に、そんなことは知らないであろうマイルが悲鳴を上げた。レンはもうそれを諌めない。
密集する建物を盾にし、急な方向転換で狙いを鈍らせ攻撃を躱し駆け続け、駆け続け、ようやく三区との境の壁の付近へ辿り着く。
「っし、着いた!」
全身のバネを利かせて跳び、ある一軒の屋根を掴んで一気に身体を引き上げる。屋根の上を一転したレンを何発かの銃弾がかすめた。
車輪を装備した巡回機兵はここまで追ってはこれない。
地を行く巡回機兵から死角になるように、なるべく低い姿勢で端を走り、三区から二区に渡る際にそうしたように、壁に近付くにつれて高い建物へと飛び移る。そうして、あと一息でというところで首筋に突き刺さるような予感を感じたレンは唐突に屋根に倒れこむように転がった。
一息前までいた位置に軽快な破裂音。ひゅんひゅんと、何かが連続して空を切る音が頭上を通り過ぎた。
一転して飛び起きたレンが見たものは、聳え立つ白壁と、それの前に立ちはだかる頭頂部から奇妙なものを生やした巡回機兵。絶えず回転し風斬り音を生み出すそれを、幼いころに相棒と遊んだ竹蜻蛉に似ていると、レンは心のどこかで思いながら、素早く腰の後ろに手を回し、黒光りする銃口の下へ飛び込んだ。
赤く光る両目の下で黒光りする銃口が正確に駆け寄るレンを捉え、弾丸を発射する直前、レンが投じた棒手裏剣がその銃口に突き立った。
周囲にそれまでとは違う破裂音が響き、赤い火硝石の欠片を撒き散らしながら巡回機兵がきりきり舞をしながら落ちていくのを、レンは視界の端に留めた。暴発の衝撃で飛んだ鉄片が頬を深く抉ったのにも走る勢いを落とさず、障害物のなくなった壁を一息で飛び越え、レンとマイルの姿は二区から消えた。
任務に従い侵入者を追跡していた赤帽子は、壁に激突する寸前で進行を停止した。
彼の尖った赤帽子の先端がするすると伸び、人差し指ほどの長さになったそれの先端が小さく点滅を始める。
「理想都市ベルダ三区北西部07‐E、及ビ07‐D駐屯ノ“自動巡回型警備機兵LCORB‐3”ニ告グ、獣人一名、下級市民一名ガ包囲網ヲ突破シ三区ヘ逃亡。抵抗ヲ示シ、同志一機ヲ破壊。速ヤカニ排除セヨ。繰リ返ス。獣人一名、下級市民一名ガ包囲網ヲ突破シ三区ヘ逃亡――」
昔、この街を支配していた王国は、それは階級意識の強い国だった。貴族以下を二級市民と見下し、人ではない獣人に至っては、その存在すら許さなかった。王国民による美しい国に獣がのうのうと暮らすことなど認められないとばかりに盛大に行われた、自国内の獣人の虐殺。あるいは奴隷化を始めとした『有効活用』。他国に逃げ延びた獣人も安息からはほど遠く、当時大陸最強にして最大の王国は周辺国へ侵攻を繰り返し、自らの領土を広めていった。
あの巡回機兵は、まさにその時代の王国を象徴するものと言えるだろう。技術の粋が生み出した、高い攻撃力を備え、疲労せず、任務を忠実に遂行する作り手の意思通りとなる鉄の兵士。
王国がこの街を手放し三百年近い今も、命令を取り払われなかった機兵たちは当時のままに、かつての理想都市を守り続けている。
「だから、お貴族様でもない俺や獣人のお前がさんざん追い立てられたってわけだ」
「……迷惑な話ニャ」
「まったくだ」
弾む息を静めながら、レンは八つ当たりするかのように空を睨んだ。壁と建物との間の狭い空。そろそろ赤くなり始めたそこを、薄い雲がゆっくりと流れていく。
「……ところで、壁の向こうでまだ何か言っているみたいニャ」
「ああ、三区の仲間に俺らを捕まえろって指令飛ばしてんだよ」
「に、逃げなくていいニャ?」
「いーよ。こっちのはもうあらかた壊れてるし。それに当時の製作者連中の主義主張の不一致とかで、あっちとこっちじゃ連中の性格もだいぶ違う……。けどま、流石に煩いな。そろそろ帰るか」
よっと弾みをつけて、裏路地に大の字になっていたレンは身体を起こした。座り込んでいたマイルも、袋を抱えて立ち上がる。
「もう平気ニャ?」
「ああ」
青年が立ち上がると、背や肩から落下の際彼が押し潰した木箱の残骸が落ちた。体中の埃を払うレンを、マイルは呆れを含んだ眼差しで見やる。
「……着地のこと考えてなかったなんて、バカみたいニャ」
「うるせえよ。無事だったんだからいいだろ」
「無事なのがまだ信じられないニャ。さっきも聞いたけど、本当に大丈夫ニャ? 背中から落ちたのに。顔の傷だって」
「落ちた時に最低限受身はとったし、こっちはそもそもかすり傷。ちょっと大げさに血が出ただけだ」
うそぶいてレンは手の甲で乱暴に、乾ききっていない頬の血を拭った。赤い色の残った肌には、先ほどの出血が嘘のように、僅かな傷さえ残ってはいなかった。
からんころんと、扉に取り付けた鈴が鳴る。
「ただいま戻りました。遅くなってすみませんオーナー」
茜色に染まる街並みを背景に、黒髪を項でくくった青年と、黒いフードを目深にかぶった『猫』が扉をくぐるのを、少女は暖かな微笑で向かい入れた。
「お帰りなさい、二人とも」
「ただいまです。お待たせいたしました。連絡取り付けてもらいましたよ。いつもの手順でいいそうです」
「ありがとう、レン。マイルも、お疲れ様でした」
「……お邪魔しますニャ」
レンのようにただいまとも返せず、どこかずれた返答をする『猫』に少女は笑いかけ、自身の正面の椅子を勧めた。
「どうぞ、掛けてください。あなたにお話することがあります」
「で、これが買ってきた分な。明日も店は休みだし、こんなもんでいいだろ」
レンは厨房にこもっていたシノに、市場で仕入れた紙袋の中身を披露していた。
「オレンジどうする? ジュースにでもするか」
「それには量が少ない。明日の朝、切ってお出しする」
「林檎は?」
「一つは朝お出しして、残りはケーキに使う。干し葡萄は、炒った胡桃と一緒にクッキーに使えばいいだろう」
言ってシノは、厨房の引き出しから小さな金属片を取り出した。それの角を硬い胡桃の窪んだ部分に当てて捻ると、乾いた音を立てて殻の繋ぎ目が割れる。
「……差し向けられた追っ手とやらは、使える奴だったのか」
「ん?」
「血の臭いがする」
無表情に胡桃を割りながらの言葉に、レンはああと手を振った。
「違う違う。追ってきた『狼』はそれなりだったけど、これは二区の機械人形とやったときだ。ちょっとドジった」
「間抜けが」
「何とでも言いいやがれ」
やることもなく厨房の壁に寄りかかっていたレンはシノを横目でねめつけた。シノは相変わらず無表情でぱきぱきと殻を割りながら言った。
「その『狼』は何人だった?」
「最初っから最後まで、一匹」
「今は地下室に閉じ込めてある男によると、雇ったのは十数匹の『狼』の集団だったそうだ」
相棒の言葉に、レンは大げさに嫌そうな顔をした。
「まだそんなにいんのかよ。めんどくせ」
「マイルを攫った者たちの拠点には、まだ五十人ほどがつめているそうだ」
「……とことん面倒だなそりゃ」
「密猟者集団『銀の轡』。二つの国と都市で手配されている。自警団にまとめて突き出せばこの店一月の収入に勝る報奨金が得られるだろうな」
「よし、篠。全員捕まえるぞ、絶対一人も逃がすなよ。頭は最初に抑えとこうぜ」
「……やる気が出たようで幸いだ」
きらきらと顔を輝かせるレンに、シノは小さく息を吐く。
「いや、最初からやる気だったぜ? 俺もマイルは助けてやりたいし。ただ面倒くさかっただけで」
「それが問題だ」
心外とばかりに返された反論をあしらい、シノは剥き終わった胡桃の殻を片付けた。味見を、とこっそり伸ばされた相棒の手が届く前に中身も回収し、厨房の奥へと向かう。
「月が沈んだころを見計らって、敵の拠点を叩く。それまでに仕度を終えておけ」
「はいよ」
「それと、煉」
「ん?」
ひらひらと手をふりつつ出て行こうとした姿勢で呼び止められ、レンは肩越しに振り向いた。シノはフライパンを熱しながら、こちらを見ずに言う。
「こちらを手伝うつもりがあるのなら、その格好をどうにかしろ。埃まみれで厨房に入ってくるんじゃない」
6.
区のあちこちに黒い影となり立つ、石造りの塔。半壊し、倒壊した木製の建造物。並木のように立ち並ぶ、灯されることのない街頭。石畳のあちこちが割れ、剥がされた箇所で土がむき出しになっている。
北の三区、コーラル記念広場。
かつて人の集う賑やかな区画であったことは、今や見る影も無い街並みから名残として読み取れる。だが、この広場の名の由来を。広場の中央に誇らしげ立つ、槍を携えた少女と四枚の翼の少女の像を。固く手を繋いだ彼女たちの由来を正しく知る者は、この地区にはもう一人として残ってはいない。
凪の海のように静まり返った街を、月のない空から無数の星々が見つめる。
今はただ、無法者の巣窟となったそこが久方ぶりの客人を迎え入れたのは、その夜のことだった。
立ち並ぶ塔の一本。その頂上から不意に人の首が突き出、首はきょろきょろと周囲を見渡すと、沈んだ階段から全身を現し塔に立った。
レンである。
目的の場所に辿り着いたレンは、そこに手早く手持ちのバスケットの荷物を広げ始めた。
まず、取り出した瓶から、小さな黒い石を床に落とす。空気に触れると高温を発するそれの上に低い三脚を立て、水を張った小型のケトルを置く。筒状にしてあった分厚い敷物を冷たい石床の上に広げたところで、階段からゆっくりと足音が上ってきた。
片腕に、厚手のケープを羽織った少女を座らせるような格好で抱えたシノ。そしてその後ろから、黒いマントを引きずりながらマイルがやってくる。
「大体、こんなところでいいと思いますよ。基地からの距離も、分かりやすいでしょう」
「ええ。良いと思います」
慎重に敷物の上に降ろされた少女に、レンが言った。少女はそれに頷く。
「後はお願いします、二人とも」
シノから受け取った杖を傍らに置いて、少女は微笑んで言葉をかけた。
無論、と頷く青年たちは、今は店の仕事着は着ていない。レンもシノも、揃いの黒い軍服に似た衣服に身を包んでいる。
それだけでも随分と印象が変わるのに加え、レンは後ろ腰に黒鞘の小太刀を。シノはベルトの一部に細工を施し、そこに一本の刀を差していた。
準備万端と称すには些か心もとなくも見える簡素な格好で、レンは明るく笑う。
「眼鏡から聞き出した内部の様子は頭に入ってるし、シモンさんたちが到着するころにまではどうにかしときますよ」
「期待しています」
「副えるように尽力します。――あ、そうだマイル」
「ニャ」
急に話を振られたマイルがピクリと反応する。それまで意図的に下を見まいとしていた眼が、レンを捉える。
「お前の妹、名前は?」
「ブランカ」
端的に紡がれた言葉を、レンはブランカね、と口の中で復唱する。マイルはしばし、レンとシノを見つめ、フードの先が地面に付くほど深く、頭を下げた。
「妹を、よろしくお願いしますニャ」
「まかせとけって」
「全力を尽くそう」
言って二人は、塔の縁に立ち広場の西部を見据えた。星明りのみが照らすはずのそこが、ほんの僅かだけ周囲よりも明るく見える。
「気をつけて」
少女の言葉に、レンは笑ってハイと答え、シノは丁寧に礼をした。
そして二人は、そこから一息に飛び降りる。
姿の消えた青年たちを追い、反射的に縁に駆け寄った足はだが、そこから下を覗き込む前に竦んで止まった。
躊躇なく飛び降りたのだから、大丈夫なのだろう。きっと。しかしちゃんと階段を使ってくれれば、こちらの心臓にも楽なのに。
「こちらの方が、早くて良いのだそうです」
心の内を読まれたかのような言葉にマイルが振り返ると、少女が穏やかな表情でこちらを見ていた。その手が、十分な広さの敷物を示す。
「マイルも、こちらへどうぞ。石の上は寒いでしょう。妹さんは大丈夫。あの二人が無事に救い出してくれます」
その点に関して、最早マイルの内から疑いはほとんど消えていた。今や大きなものとなった信頼を胸に抱き、それでもマイルは、窺うような視線で少女に問うた。
「……そっちに言っても、いいニャ?」
「はい」
『猫』の挙動に僅かに首を傾げながらも少女は微笑み、当然のように快諾した。
マイルは律儀な『猫』であった。
『銀の轡』が拠点としていたのは、コーラル記念広場の西部。元は何として使われていたのか、今となっては不明の廃墟郡である。密猟団は無事に残った建物同士が袋小路のような空間を作り出しているその奥へ大事なものを集め、手前の建物を詰所として使用していた。
その大事な倉庫を見据える位置に立っていた『狼』の男は、風に混じって届いたそれに微かに鼻を鳴らした。
「兄貴」
「ああ」
同じくそれを察したらしい兄弟たちの気配が男の周囲で動く。男は遥か頭上を見やり、もう一度音を立てて空気を嗅ぐ。
「人間の男が二人……あいつはいないようだな」
「しかけるか?」
「ここの連中はまだ気付いていないようだが、知らせるか?」
いや、と男は闇の中の兄弟達を制す。
「依頼されたのは倉庫の警護だ。全員、ここから動くな」
ただし、いつでも動けるようにはしておけ。虚空へ向けられた指示に、周囲の気配が静かに散る。灯りの届かぬ暗がりの壁によりかかり、男は目を閉じた。
不意に、それまで以上の重みが身体に加えられ、不自然に思った女は訝しげに上の男に声をかけた。
返事はない。先ほどまで積極的に動いていた手はだらりと力を失い、確かに相当に酔ってはいたがまさか前戯の段階で眠ってしまったのだろうかと思いながら女が重い身体を横に押しのけ上体を起こしかけた。だがそのとき、何者かの手が女の口を塞ぎ、そのままベッドへ押し戻される。
「――――っ!」
息を呑み、抵抗しようとした女の喉に冷たい感触が当てられ、間近で何者かが囁いた。
「お楽しみのところ悪いな。大人しくしててくれりゃ何もしないから、ちょっと静かに頼む」
害意のまるでない人懐こい声音に、強張っていた女の体から僅かに力が抜けた。それを見計らったかのように口から手が外され、声の主がもう一度何か言う前に、女が呟きのように問う。
「レン、さん?」
「へ?」
意表を突かれたかのような声に確信を得、女は相変わらず喉元にあるそれを恐れることなく身体を起こし、間近にあるはずの顔を覗き込むようにした。
「レンさんでしょ。わかるわ。うちの店に時々来てくれるじゃない」
「…………。ひょっとして、『金の蝶』の?」
記憶を辿りながら発したらしい声に、女が笑顔で頷く。喉の感触はもう消えていた。
「あら、うれしい。覚えていてくれたの」
「あんまり自信はなかったんだけどな。今日はどうしたんだ、仕事?」
「ええ、そうよ。レンさんは?」
「俺もお仕事。今夜の内に片しときたいことでさ。邪魔して悪かったな」
言ってレンは気絶させた男の身体を引き起こし、猿轡を噛ませた後、身動きができないよう縛り上げた。その間に、女は床に落とした自らの衣服を探る。
「別にいいのよ。そもそも気が進まなかったんだし。普通一見さんに出張サービスなんてしないのに、あのハゲってば金詰まれたら手の平返して送り出すんだから」
「ってことは、初めてだったのかここの奴?」
「ええ。店に来た奴も見ない顔で。北区に住み着いた連中の話なんて、よっぽどじゃないと耳にしないしね」
闇の中で、潜められた会話が交わされる。女が身支度を整える間、レンはサイドテーブルのランプを灯し、棚の引き出しや机の中など部屋の中を探り始めた。家具の僅かな隙間まで覗く青年を、女が肩越しに覗き込む。
「……何してるの?」
「んー、なんて言うか、宝石? いや指輪でも首飾りでもなんでもいいけど、大事に保管してあるようなのでそんなもんはないかなーと」
「宝石……」
要領を得ない男の言葉にだが思い当たるものがあったらしい。女は呟き、ぱっとベッドの傍らに戻ると床に脱ぎ散らかされた衣服を漁り始めた。
「――あった! ね、これじゃない?」
「んー?」
小さく歓声を上げた女は、レンに手にしたそれを差し出す。レンは、輪になった紐に通された指輪を灯りに近づけて慎重に見定めた。台座に収まった無色透明な石と、金属の輪の内側に刻まれた文言を認め、小さく口笛を吹く。
「すげ。当たりっぽいな」
「やった」
嬉しそうに、得意げに女は笑う。
「あの男が首から下げてたのよ。お酒入ってる上に機嫌悪そうだったから綺麗ねって褒めたのに、言った途端に外してズボンのポケットにしまっちゃってさ」
「そりゃ、褒めた甲斐がなかったな」
「まったくだわ」
指輪を懐に納め、レンは身支度を終えた女に、家捜しの途中に見つけたらしい金貨を一枚手渡した。
「通常分にサービス分上乗せしたらこんなもんだろ」
「そうね」
「あと、これは仕事の邪魔した分で」
そう言って、自分の懐から更に銀貨を五枚。女はふふっと笑い、新たな硬貨を受け取った。
「ありがとう。レンさんて優しいから好きよ」
「金払いがいいからの間違いじゃなくてか?」
「それもあるけど、全部じゃないわ」
悪戯っぽい笑顔に苦笑を返し、レンは女を促し外へ出た。見張りの姿が消えていることを疑問に思いもしただろうが、女は周囲を窺いながら進むレンの後におとなしく従った。
そうして広場の入り口まで辿り着いたところで、突然呼子の音が静寂を貫いた。黒髪の青年が弾かれたように振り返り、眼前にない何かに舌打ちをする。
「悪い、見送りここまででいいか?」
言いながら、レンは地の呪を刻んだ符を落とし、それを使い捨ての刃物で足元に縫い付けた。
「十分よ。ありがとう」
若干の緊張が含まれた声音に続いて響く複数の銃声に、若干の怯えを見せながらも心得た様子で女が頷く。
「いいや。気をつけて帰れよ」
「ええ」
言って地を蹴ったレンの背に、黒いその姿が闇に融けるのを恐れるかのように、女が声をかける。
「レンさんも、お仕事がんばって。今度はシノさんと一緒にうちに来てね、みんな楽しみにしてるから」
声援に背を向けたまま手を振って、レンは今しがた辿った暗闇を間逆に駆け抜けた。
シノは正面の男を切り伏せ、返す刀で物陰から襲い掛かってきた男に一撃を浴びせる。死角から届いた金属音に反射的に半身を捻れば、轟音と共に飛来した鉛球が先ほどまで彼がいた空間を貫き、続いて同じ方角から潰れた蛙の如く呻き声がした。振り向いた青年に、暗がりから姿を現したレンは、気安く声をかける。
「よ、篠」
「煉か」
口の端を上げて笑ったレンはシノと背中合わせに立ち、二人を囲うようにできあがった殺意に対して身構えた。
「すまん。見つかった」
「ま、頃合いだろ」
呟くように謝罪を発したシノとそれを受け入れたレンは、二人同時に地を蹴りそれぞれが見据えていた敵陣へ突っ込んだ。それと同時に今まで二人が立っていた空間目掛け左右から数発の銃声が轟き、空を切った銃弾を味方同士で浴びせ合った者たちが悲鳴をあげる。二人はそれぞれの担当を片付けた後、負傷し物陰でのた打ち回る銃撃班にも手早く止めを刺した。
「向かい合わせで銃乱射とか、馬鹿かこいつら」
呆れたように呟き小太刀を鞘に収めるレン。背中合わせにシノが応じる。
「銃など通常は威嚇の道具だ。本格的に戦闘で使用したことがないのだろう」
「豚に真珠もいいとこだな」
「まったくだ」
周囲の気配がとりあえず失せたのを確認して、シノは血を払った刀を鞘に収め、奥へと足を進めた。
「例の物は入手したのか」
「当然」
歩きながら振り向いた相棒に、ニッと笑ってレンは指輪を掲げてみせた。シノが一瞥した後それをまた懐へしまい、今度は彼から声をかける。
「お前、合流するまでに何人と会った?」
「十七人」
「内、息がないのが?」
「八人だ」
ふむ、と呟きレンは指を折った。
「さっき同士討ちした連中でとりあえずノルマは達成か……。て、お前が十七で俺が片付けたのが八、さっきの連中合わせてもまだ三分の一近く残りがいるのかよ」
「それにしては迎え撃つ様子がないが……。後の連中はこの先か」
「たぶん、例の『狼』共もな」
「いい加減にしろ、とは?」
怒鳴られたことにもどこ吹く風、とばかりうそぶく『狼』に、男は拳を震わせ再び怒鳴った。
「これだけの騒ぎに気付いていないはずがないだろう! 襲撃だ! 何故協力しない、グラン兄弟!」
「何故と言われてもな」
半狂乱になる男に、分かりきったことをと『狼』は冷笑した。
「俺たちが受けた依頼は倉庫の護衛と、逃げ出した『猫』の捜索だ。他のことなど知ったことではない」
どうしても手を借りたいと言うのなら、それに見合う報酬を用意しろ。そう告げると、男は滑稽なほどに顔を紅潮させた。短慮そうな団長でも狐のような参謀でもない男に、そんな権限などありはしない。
捨て台詞を吐いて男が去った後、『狼』は幾度目か風を嗅ぎ、笑みを浮かべた。
「来たか」
呟きに合わせすっと動く弟達を制し、『狼』は倉庫前の広場から伸びる道の先を見た。
「あまり入り口の方で仕掛けるな。限界まで倉庫に引き付けろ。なぶっても構わんそうだからな。人間二人とは言え、ここまで辿り着く連中だ。せいぜい楽しませてもらうとしよう」
大きく裂けた口がつり上がる。次第に深さを取り戻す闇の中で、『狼』たちは殺戮の予感に壮絶な笑みを浮かべていた。
襲い掛かってくる者たちを片っ端から切り伏せなぎ倒し、二人の青年が倉庫の前へ辿り着く。
そして、倉庫の目前で、二人は同時に足を止めた。
互いに横目で目線を合わせた二人の周囲の闇を、光る二対の目が取り囲んでいた。当然、片手で足りるような数ではない。
『狼』だ。皆既に、レンが二区で出会った男のような人間の姿ではなく、黒々とした体毛を生やしている。邪魔な衣服をまとっていないことからもわかるように、完全な臨戦態勢である。
物騒な気配を漂わせる『狼』の中でも特に体躯の大きな一人が、倉庫の前に仁王立ちになり高圧的に二人を見据えていた。
「貴様らか、『猫』を匿った物好きとやらは」
「だったらなんだよ」
この男をリーダー格と見、レンは答えた。
「俺に言わせりゃ、おかしいのはあんたらの方だぜ。獣人が、同じ獣人を人間に売るなんてな」
「人間同士の殺し合いを繰り返してきた貴様らが、それを言うのか?」
冷笑交じりの言葉にレンはそれもそうかと軽く肩を竦めた。
「あの『猫』は、依頼の品だ」
男の黄色く光る目が、言葉と共にすうと細められた。
「おとなしく渡せば、命までは取らん」
「へえ。あんたたちがうちの店によこした『狼』が死んだ原因はこの俺にあるわけだが、それでも生きて帰して?」
あくまでも軽口の調子を崩さずにレンが放った言葉に、周囲の気配がざわりと波立った。
殺気立つ『狼』たちを自身が動かないことで制し、リーダー格の『狼』はレンを見た。レンは、それにふてぶてしい表情を返す。
「奴は、死んだか」
「ああ」
「……あれは、弟の内では出来の悪い奴だった。だから今回、手柄を立てる場を与えたが……」
誤ったか。呟き、『狼』は黙祷するかのように目を閉じた。そして、数拍後。
「やれ」
命を下し地を蹴った男に続くように、周囲の『狼』たちが一斉に二人に飛び掛った。それと同時に、長身の青年が動く。
何故わざわざ挑発したのか、聞きはしないし、レンも説明はしない。この『狼』たちが群を追われたはぐれ者の集団であり、犯罪組織に属していたとは言え、後に衛視に事を説明する際に正当防衛で已むを得ず撃退したとした方が、レンたちにとっても、街に暮らす『狼』たちにとっても何かと都合がいいのだ。
踏み込みと同時に抜刀、研ぎ澄まされた刃が一匹の『狼』の腹を薙ぐ。返す刃でもう一匹を切り伏せたシノの背を風音が掠め、死角から襲い掛かろうとしていた不届き者の膝に棒手裏剣が深く突き立った。呻いて倒れかけたそれの上段から振り下ろされた刀が『狼』の命を断ち切る。その隙を狙い突き出された鉄拳を跳び退って避け再び刀を構えたシノの背に、ふと何かの気配が触れた。
「悪い、任せていいか」
背中合わせに立ったレンに、一旦距離を取り再び二人を取り囲んだ『狼』たちの上に素早く視線を走らせ、問われた青年は短く返した。
「行け」
「頼んだ」
頷き返したレンの手にはいつの間に取り出したのか、紙に包まれた小さな筒。それが地面に叩きつけられると、衝撃で発火剤の包みが破れ小さな爆発と共に白い煙が周囲に広まった。
「何!」
「煙幕だと!」
煙に撒かれた『狼』たちから驚愕の声が上がる。レンが使用したそれは眼くらましの作用に加え、眼や鼻に利く刺激物が混ぜられていた。今回の救出対象が獣人であることから量は微量なものに調整されていたが、それでも人の数十倍鼻が利く『狼』の動揺を誘うには十分なものである。
「慌てるな! すぐに消える。それよりも、倉庫に近づけさせるな!」
リーダー格が怒鳴る。だが次の瞬間、背筋を貫いた悪寒に本能的な動作で横へ飛んだ男の鼻先を銀の一閃がかすめた。思わず息を呑んだ男の眼前で一瞬煙が薄れ、横薙に刀を振るった姿勢の青年の肩を蹴り跳び上がるもう一人の姿が見えた。それと頭上で響いたガラスの割れる音に気を取られる間もなくかけられた追撃に、『狼』は更なる後退を余儀なくされる。
果たして煙が晴れた後には、更に切り伏せられた数人と、倉庫の入り口に陣取った人間の剣士。倉庫の上部の破れた窓と、小柄な方の人間が消えていることを見れば視界を奪われていた間に何が起こったのかは明白だ。
青年は、刀を正眼に構え『狼』たちを見据えている。その姿を見た『狼』たちは、一様に心中で唸った。
隙がない。
飛び掛ればこれ幸いとばかりに切り伏せ、引けばそれに合わせて追撃されるだろう。これまで感じたことのないほどに神経が激しく危険を訴えかけるのを感じながらも、『狼』たちに降参や撤退は許されなかった。
退こうとしないリーダーに対する服従と、獣人が抱く人間への驕った思いがそれの邪魔をする。
彼らはこの期に及んで尚、目の前の青年を強敵だと理解することを拒否していた。先に殺された者は、未熟だった。連携を忘れ出しゃばった。油断が過ぎたのだ。リーダーの統制下、兄弟たちが力を合わせれば人間の若造など木偶に等しいと己に言い聞かせていたのである。
だが、彼らが否定する事実を事実と証明するかのように、彼らの足は動かない。
一進も一退できぬ空気の中で膠着状態に陥るかに見えた場に、だが突如一発の銃声が轟いた。
発砲したのは周囲で様子を窺っていた密猟団の生き残り。緊張に耐え切れなくなった一人が放った弾丸は誰にも命中せずに空を貫き、場に張りつめた糸を絶たれた『狼』たちは一斉に、青年に飛び掛った。
飛び込み、一転して起き上がったレンは、息を吐いて体の埃やガラスの欠片を払った。
「ふう……。なーんか今日はやたらと飛び跳ねしてんな俺。深夜労働はよくあるけど、折角こんないい天気なんだし、本当ならのんびり星でも見ながら一杯やりたいとこだってのに……。なあ」
言って、レンは右手の壁へ、愛想よく笑って見せた。壁側の床に置かれたランプが、青年の顔に陰影をかける。
「夜番さんも、そう思うだろ?」
正確には、壁の椅子に座り込んで呆けた顔をする人物へ。レンは倉庫に置かれた無数の檻の間を歩きながら、世間話でもするかのような調子で続けた。
「ふん……銀狐、虹蜥蜴。思いつくような希少種は大体いるんだな。空の檻にはこれから獲物を入れるのか? それとももう売ってきたとか? て、うわ、ユニコーンまで。……まだ角は無事か。けど、どの道こいつに手を出した時点で全員死罪確定だな」
「…………っ!」
喋りながら男とあと数歩のところまで近付いたレンにようやく思考が現実に追いついたらしく、弾かれたように男は足元の棍棒を取り、勢いよく振り上げたまま停止した。喉元には、レンが抜いた小太刀が宛がわれている。
「白い『猫』がいるだろ。そいつの檻は?」
「な、なんのことだ……、っ!」
震える声で言いかけた男は外から届く幾度めかの断末魔にびくりと肩を揺らす。顔は動かさず、目だけで乞うように表を。高い金で雇った頼もしい傭兵達がいるはずの方角を見やり、だがそれに答えるかのように響く怒声と悲鳴に慌てたように視線を戻した。
その正面には、レンがいる。
黒い瞳に危険な光を宿し、形だけ愛想よく笑う青年は、寓話の悪鬼を連想させた。
「あ、知らねぇの。じゃあいいや、手間だけど自力で探すから。じゃあな」
言って柄を握る手に力を込めたレンに、震え上がった男は喚きながら奥の布をかけられた小さな檻を示し、重い鍵束も促されるままに差し出した。レンは用の済んだ男を手早く気絶させ、教えられた檻へ足音を立てて歩み寄った。
暗い色合いの、黒に近い赤い布の上からレンは檻を見下ろす。不可視のそれを覗き込むようにしながら、
「ブランカ?」
呟いた音に、布の奥でそれまで潜められていたそれの呼吸が、ぴたりと止まった。ややして、喘ぐような細い声が布のむこうからかけられる。
「…………誰ニャ?」
答えの代わりに布を取り払い、レンは檻の前に膝をついた。格子の間から、つい先ほども目にした緑の瞳が不安を帯びてレンを見つめていた。
こんな目にあった後では人間のそれなど顔を歪めた肉食獣同然に見えるのかもしれない。そう思いながらもレンはとりあえず微笑を浮かべ、背後の格子に体を寄せる『猫』に声をかけた。
「俺は煉。桔梗さんの後任にお仕えしてる人間だ。マイルに頼まれてあいつの妹を助けに来たんだけど、君がそうだろ?」
「キキョウ様の、お知り合いニャ?」
驚いた様子で言って、『猫』はレンの方に駆け寄った。幾度か鼻を鳴らし、先ほどの煙が残っていたのか顔を僅かに歪める。
「……何か、混ざっているけど、お兄さんの匂いがするニャ」
「だろ?」
今度は屈託無く笑ってレンは鍵束から一本ずつ鍵を試し、六本目で当たりを得て檻を開いた。窺うような緑に頷きを返し、檻から出た『猫』を立たせると、レンは失礼と短く断りを入れて『猫』の首に触れた。
「ニャッ」
「ちょっと、じっとしててくれよ」
外してやるから。言いながら指で白い長毛を掻き分け、首に填められた冷たい金属の首輪を露出させる。
主に奴隷を服従させるために作られた呪いの首輪。悪趣味な王国の遺品の一つ。
聞き出した通りの物を目にした不快感を表に出さないよう努めながら、レンは指輪を取り出し、無色の石を首輪の中央の窪みに填めた。すると窪みを中心に音もなく亀裂が走り、ぼろぼろになった首輪の残骸が床に落ちて粉々に砕けた。同時に指輪の石も黒ずみ、首輪と対の存在であるそれもまた永遠に役目を終える。
無事に外れたことに安堵しながら、レンは不思議そうに自らの首に触れる『猫』を促し倉庫の出入り口向かい、扉の隙間から外の様子を窺った。
7.
「どうぞ」
言って少女は、紅茶をマイルに手渡した。
「ありがとうニャ」
マイルは礼を言って白磁のカップをソーサーごと受け取る。
青年が運び込んだバスケットには、茶を淹れるための道具一式と、クッキーやサンドイッチなど軽く摘める食品などが納められていた。春とはいえ日が落ちれば冷える。少女が少々ぎこちない手つきで淹れた紅茶は温かく、飲み込むと、じわりと身体に熱がしみた。
二人はしばらくそのままでいたが、やがて少女が、青年二人が向かった方角を見ながらマイルに言った。
「マイル」
「ニャ?」
「一つ、気になっていたことがあるのです。伺ってもよろしいでしょうか?」
視線は真っ直ぐ廃墟に向けた少女の白い横顔をまじまじと見、マイルは勧められるままに口に入れていた胡桃と干し葡萄のクッキーを嚥下する。
「何ニャ?」
「あなた方がいた森には、外部の者の侵入を防ぐための結界があったのでしょう?」
その言葉で少女の抱いた疑問を察し、マイルは疑問の形で少女に返した。
「それなのにどうしでボクたちが捕まったのか、気になるニャ?」
苦笑を帯びた声音に、少女ははいと答える。マイルは温もりの残る紅茶を飲み干し、白磁の底をしばし見つめて、やがて吐息のような声を出した。
「……そもそも……ボクが、もっと注意していればよかったニャ」
「…………」
「妹は、昔から外の世界に興味があって……よく、結界越しに外の森を眺めていたニャ」
呟き、マイルは脳裏に故郷の風景を思い描いた。
閉鎖された空間の内で弱り細くなる血。最後の子になると言われた自分たち兄妹。空き家だらけの集落。妹の『外』への憧憬は、斜向かいの老婆が去り、ついに二人っきりになった日を境に益々強くなったように思える。
「あの日も妹はそうしていて、ボクはいつものことだからと思って、何も言わなかったニャ」
だが夕暮れになり、ついに陽が沈んでも、妹は帰ってこなかった。異常を感じたマイルが星明りの元、まさかと思いながら結界付近を探れば、微かに残った妹の匂いが境界を越えた先へ向かっているのを発見した。
「遠くへ行く前に連れ戻そうと思って、ボクも匂いを追って外に出たニャ。……でも、しばらく行ったところで……」
「……密猟団と、鉢合わせしたのですか?」
呟くように放たれた少女の言葉に、白い頭がこくりと頷いた。
鳥が。
鳥が、結界の外へ飛んで行ったのだと、檻越しに再開した妹は語った。
人間に見つからないことを目的とした結界は、マイルたちや森の動物に直接影響を及ぼすものではない。同じ森に住む者が、当然のように外へ飛び去るのを目にして、堪えきれなくなったのだと。
結界の外に出ることは、物心ついたときから言い聞かせられてきた絶対の禁忌である。過去先祖が受けてきた人間との残酷な歴史は伝え語りからも、集落に数多く残された書物からも容易に知れた。先祖たちは、いつか人間が『翡翠の猫』を忘れ去る日がくるように祈り、その時が来るまでとキキョウを始めとする者の助けを得て結界の内に隠れ住んだが、その願いは叶わぬまま、一族は絶えようとしている。
世の無情さに、マイルは思わず息を吐いた。
「……私は、あなた方を元いた場所にお返しするつもりでいます」
少女の声に、マイルは頷く。
「そうしてもらえると、とても助かるニャ」
「ですが、それで本当に良いのですか? この時代まで人間にとっての『翡翠の猫』の価値は失われていません。もう待つ意味など何もないというのに、それでも戻るのですか」
「けど、あそこ以外にボクらにとって安全な場所はないニャ」
マイルはそう淡々と言った。
「寂しくない、とは言わないニャ。けど」
「では、この街で暮らしませんか?」
マイルは思わず横に座る少女を見た。少女は真摯な眼差しで、マイルを見つめていた。
「この街は、あなたにとっては良い印象など欠片もありはしないでしょうが、あなたのように当時人に虐げられていた人々が立ち上がって勝ち得た街です。正式にこの街の住人となれば私たちは当然のこと、獣人の方々もあなた方に危険が及ばないよう協力してくださいます」
廃棄都市で暮らせばいいと言う少女に、マイルはしばし唖然とした後、苦笑のような表情を返した。
「……キキョウ様と、同じことを言うニャ」
「キキョウ様が?」
不思議そうに目を瞬かせる少女の横顔に、マイルは昔を思い出すような眼差しで言葉を紡いだ。
「昔、妹が生まれる少し前に、キキョウ様が里にいらしたことがあったニャ。その時はまだ何人か大人が残ってて、大人たちにキキョウ様が街で生きるつもりはないかって話してたニャ」
最も、大人たちはそれを断ったのだけど。怖かったのだ。きっと。
「マイルも?」
怖いのですか?
「…………」
少女の問いに『猫』は答えず、緑の瞳が下を向いた。
「では――」
更に何かを口にしかけた少女がピタリと動きを止め、次の瞬間突かれたかのように背後を振り返り、背後に広がる闇を見つめた。
急激な動作に面食らうマイルを余所に、少女はそのままの姿勢で、言った。
「――いらしたようです」
何が、と問えぬ空気を感じるマイルを余所に、少女は手をついて体の向きを変え、目の前の空間に対して両腕を広げた。
口の中で何事か呟いたのに呼応するかのように、少女の眼前に『闇が生じる』。
僅かな星明りのみを頼りとする夜景が明るく感じられるほどの、深い闇。
少女が腕を下ろすのに合わせ、煙のように掻き消えた後に現れたそれに、マイルは今度こそ驚愕を隠せず、あんぐりと口を開けた。
塔の、完全に外部の宙に浮かぶものがあった。
見るもの全てに圧迫感と威圧感を与える重厚な、真っ黒な鉄製の大きな戦車。御者席には岩と見紛うほどの黒い甲冑が威風堂々と。手綱の先には漆黒の、恐らくは馬であろう四足の動物二頭が繋がれている。
何故マイルにそれを馬と断定できないのか、理由は二つある。一つは、マイルは馬とは皆茶色をしているのだと思っていた。そしてもう一つ。それらは、二頭とも、首がなかったのである。
「ふはははははは!」
呆然とするマイルの脳を揺らすが如く大音響で、甲冑が笑った。否、甲冑が笑うはずがない。何故なら甲冑の逞しい肩から上にも首はなく、笑っているのは正しくは、甲冑が抱えた兜である。
格子の下ろされた兜の内にあるものが何なのか、想像しかけて慌てて首を振り、唐突にマイルは目の前のものを理解した。
漆黒の戦車に戦馬に甲冑。首のないそれら。
デュラハン。死せる騎士。
理解した瞬間絶叫しかけ、だがそれを遂げる気力を持たず卒倒しそうになったマイルの耳に、少女の声が聞こえたのはそのときだった。
「お久しぶりです。セイルバーン様、シモン様」
「おお! 壮健であったか、娘よ」
「お陰をもちまして」
立ち上がらぬまま略式の挨拶を丁寧に行い、少女は、どうにか意識を失わずただ少女を凝視するマイルに微笑んだ。
「マイル、こちらはデュラハンのセイルバーン様と、悪魔のシモン様。この度あなた方を故郷へ送り届けてくださる方々です」
マイルがそれを飲み込むまで数秒かかった。
「お、おくる……って」
振動が空気を伝わりそうなほど震えるマイルはそれ以上言葉を続けられず、凍りついた目で黒い戦車を指した。少女は躊躇をしない。
「はい」
「勝手に断言をしないでもらおうか、代理殿」
そのとき、戦車の中から不機嫌な声がした。闇の中から、そこだけ切り取ったかのように白い男の顔が唐突に現れる。今度は生首かと、幾度目か気が遠くなりかけ、だが寸前で自分と同じように全身を黒いローブで包んでいるからそう見えるのだとマイルは気が付いた。
「忘れないでもらおう。あなたは既に私にツケがある。前回と今回の分を合わせ、今夜の内に支払いがなければ依頼は受け付けられない」
「無論、お約束どおりにお支払いいたしますわ、シモン様。うちの者たちが既にあちらに用意しております」
少女は臆した様子もなく、不健康なほど白い顔の、不機嫌な言葉を受け止めている。
「……もう片方の荷物とやらもそこか」
「はい」
「おうシモンよ、何をのんきに長話をしているのだ。一刻も早くクラウン殿が示した森へ向かおうではないか。夜は短いぞ」
少女と男の会話を断ち切った甲冑に、少女が悪魔と紹介した男はとても軽蔑的な目で首のない甲冑を見下げた。
「貴様こそ何を寝言を言っている。先に下で回収するものがあるだろう」
「なに、そんなものがあるのか」
「報酬と、そこの『猫』の妹だ」
白い顔と首のない甲冑が同時にこちらへ向き直り、マイルは思わず首を竦めると、おずおずと二人に向かって頭を下げ、引きつり声でどうにか言った。
「よ、よろしく、おねがい、し、しますニャ……」
「報酬次第だ」
「ふはははは! 任せておけ! こやつらは矢よりも速く駆ける名馬よ!」
仏頂面で、上機嫌にそれぞれが返答する。甲冑は先ほど自身が悪魔に言った言葉も忘れた様子で、親しげにマイルに話しかけた。
「ほう、そなた妹がいるのか」
ずい、と寄る甲冑の胸部に、がくがくとマイルが頷く。
「わしにも妹がおっての。いや器量よしとは言えなんだが心の優しい娘であった。遠方に嫁いだ後も何度か顔を見せにやってきて、里帰りの度に領地がお祭り騒ぎになったものよ。そうか、さてはそなたも妹を連れて里帰りの途中か。確かに徒歩でゼーンは遠い。遠慮せず、わしらに頼るとよかろう」
「うう……あ、ありがとう、ございますニャ……」
身内の思い出話から自己完結に至ったらしい甲冑にたじろぐマイル。そんな二人を戦車から見下ろす悪魔は呆れたように呟いた。
「……誘拐からの逃亡が、貴様の頭の中では実に平和な話になるらしいな」
「なんと!」
驚愕の声を上げ、金属の重い音をたて、甲冑が背後を振り返る。
「シモン、そなた今、誘拐とぬかしたか!」
「言った。前にも言った」
「すると――」
ぐるりと姿勢を戻し、甲冑がマイルに向き直る。マイルはその動作だけで、ひっ、と悲鳴を上げた。
「攫われたのか! そなたの妹は!」
「そいつ自身もその被害者らしい」
「なんと……」
「これも前に言った」
見本のような仏頂面で悪魔が言う。甲冑は抑えきれぬ様子で小刻みに震え、ようやく足が動くようになったマイルが、それからそろそろと離れた。
「なんと――なんということか」
途端、爆発したかのような勢いで甲冑の全身から怒気が噴出した。
「恣意暴虐が罷り通り、無力な女子供が泣かねばならぬ時代がまた始まったというのか!これがかつての誉れ高き我が国の末路だというのか! 否、断じて否!」
月のない空に向かって吼え、甲冑は、マイルが装飾の一部と思っていた、背に生える突起を掴み、抜いた。鉄板を思わせる巨大な剣が、黒尽くめに唯一の白銀の輝きを放つ。
「民が非業に涙し、理不尽に合うのを救うは騎士が使命! セイルバーンが当主ジュリオ、この獅子紋と剣にかけて、即刻悪党共を根絶やしにしてくれる!」
「やかましい」
いきり立つ甲冑の背を、耐えかねたとばかりに立ち上がった悪魔が蹴りつける。衝撃に響く空ろな音が、中にあるのが真っ当な人の身でないことを示す。
「死霊の分際で騎士道を語るな。それよりも先にやることがあるだろう」
「はて。そのような大事が何かあっただろうか、シモンよ」
蹴られたことを気にも留めず、感情の高ぶりさえ一瞬で忘れたらしい甲冑が心底不思議そうに振り向いた。仏頂面で悪魔が告げる。
「仕事だ。のんびりしていては夜が明けるぞ」
「む! なるほどそれは一大事!」
大きな声でそう答え、甲冑は手綱を軽く打った。首のない黒馬が足並みを揃えて進み、塔の前方へ戦車が移動する。先ほど二人の青年が駆けて行った方角を見据える位置に達すると、甲冑が馬を止め、悪魔が腕を伸ばしてマイルの首根っこを掴み些か乱暴に、放り込むように戦車に乗せた。
「んニャ!」
突然のことに戦車の床に強かに顔を打ちつけたマイルが悲鳴を上げるが、他の者達はさして気に留めたようすもない。
「ではこの『猫』は連れて行く」
「はい。よろしくお願いいたします」
「任されよ!」
「報酬が満たなければその場で叩き出す」
気合十分に請け負う甲冑とあくまで報酬を重視する悪魔に、少女は微笑み頭を下げた。そして、戦車の上で鼻をさするマイルに声をかける。
「妹さんと、お幸せに。マイル」
「…………」
少女の言葉が意外であったような顔をする『猫』に、少女は微笑を深くする。
「無理にお誘いすることもできません。お二人でよくお話をなさって、どうするかはそれから決めてください」
そう言って、少女は悪魔を見上げた。
「マイルに連絡用の道具を渡してくださいますか」
「報酬に上乗せするが」
悪魔の言葉に鷹揚に快諾し、少女は改めてマイルを見た。
マイルは、度重なる衝撃でまん丸になった目で、少女に呆然と問いかけた。
「……君は、いったい何者ニャ?」
「私は、ただの子供です。周囲の方の力をお借りしなくては何もできない、ただの」
歳に似合わぬほろ苦さを含んだ微笑で少女は言う。それ以上問うことができなくなったマイルに一変して曇りない顔を向けて、少女は明るい声で告げた。
「ですが、私でもお役にたてることはあるでしょう。困ったことがあれば、何でも仰ってください。できる限りのことはいたします」
「……本当に、何でもいいニャ?」
沈黙の後に発せられた言葉に、少女は迷わず頷く。では一つ、と要求する内容を聞き漏らさぬようにと構えていた表情が、次の瞬間虚をつかれたような顔になった。
「君の名前を、教えてほしいニャ」
遠慮がちなマイルの言葉を反芻するかのようにゆっくりと瞬きを繰り返し、思わずといった動作で少女は頬を手で隠した
「まあ、私ときたら、なんて失礼を……。申し訳ありませんでした。これまであまり人に名乗る習慣がなかったので……」
言って恥ずかしそうに微笑んだ後、少女は改まり、マイルの目を真っ直ぐに見つめた。
「私の名はアリス。アリス・レイと申します」
「アリス」
マイルは少女が口にした名を唱え、微かに笑みを浮かべる。
「いろいろありがとうニャ、アリス」
「いいえ。私は何もしてはいません」
「でも、ありがとうニャ」
一度目はやんわりと否定して、二度目の礼をアリスははにかむような微笑で受け入れた。澄んだ湖のような瞳でマイルを見、少女はふわりと微笑み、お辞儀をした。
「お元気で、マイル。ご縁があれば、またお会いしましょう」
顔を上げた少女に返事をする直前、突然動いた足元と共に、マイルの身体ががくんと揺れた。
つんのめり、咄嗟に戦車の縁を掴み、驚きつつ顔を上げた瞬間、銀色の少女の姿は下から上へと消えていった。
「…………」
呆然と、男は目の前の惨状を見つめていた。血溜りに倒れ伏す弟たち。闇に慣れた視界をそらそうとも、鋭敏な嗅覚はより正確に、冷酷な現実を告げてくる。
その惨状の中心に立つ人間はたったいま死体となった、最後まで残っていた弟から刀の切っ先を引き、一振りして男に向き直った。
正眼に構えた鋭い刃が真っ直ぐに男を狙う。
自身のものと弟たちのものを含め、黒い毛皮のいたるところを重く染めた男は、未だ己の足が地を踏みしめていることを確かめるかのように、足を開いて低く構えた。
次の瞬間、『狼』が飛び出し、シノが正面から迎え撃つ。
影が重なった刹那、喉元を庇った青年の左腕に鋭い牙が根元まで突き刺さり、シノの刀が『狼』の胸板を貫いた。
視線だけで胸に突き立った刀を見、骨も砕けよとばかりに力の込められた牙の奥から『狼』は濁りかすれた言葉を発した。
「……名を……聞いておこう……」
「篠」
短く名乗り、シノは男を支えていた刀の切っ先を下げた。自重に従い、息絶えた『狼』の体が刃から抜け地に横たわる。
「…………」
黙祷するかのように目を閉じたシノが刃の血を払い、手持ちの布で拭った刀を鞘に収めた時、閂の外れる音がし、重い倉庫の戸が開いた。そこから、ひょっこりとシノの見知った顔が現れる。
「お疲れ」
群を相棒に押し付けたレンは言って気軽にシノに歩み寄り、彼の左手腕を一瞥した。
「怪我?」
「ああ」
頓着しないシノにふうんと呟き、レンは既に出血の収まった腕を見、そのままの姿勢で上目遣いに自分より高い位置にある顔を見上げた。
情けでもかけたか。目だけで問うレンに、シノはその顔を見ようともしない。
「……お優しいことで」
呆れと揶揄を混ぜた口調で、今度は口に出してレンは言う。やはり何も言わないシノに背を向け倉庫へ戻り、彼が半日以上連れ歩いた人物に良く似た白い『猫』を促し外へ連れ出した。
「…………」
『猫』の少女は漂う血臭と暗がりに倒れ伏すいくつもの骸に怯えたように、レンの後ろを小走りに付いた。小柄な青年が、そんなブランカに笑顔で語りかける。
「もうすぐ君と兄さんの迎えが来るはずなんだけど、遅いな。何やってんだ、か」
立ち上がり、やれやれと天を仰ぐレンの動作が、最後の「か」を発した瞬間不自然に途切れた。そしてほんの一瞬の間を置いて、飛びつくようにブランカを捕らえ、胸に抱きこみ身を低くした。物陰から撃たれた鉛球がレンを掠め、その背を打ち抜くはずであった銃弾は彼を庇ったシノがその肩で受けた。轟く銃声に合わせ、レンに向けられた背が、衝撃に耐えるように揺れた。
「篠!」
「――抜けた。直に塞がる」
苦痛を堪えるように息を吐きながらも刀に手をかけた相棒に忌々しげな一瞥を送り、レンも震える『猫』を背後に隠しながら複数の殺気の放たれる方へ対峙する。
「……生き残りか」
「すまん。周囲の気配は片付けたつもりでいたが」
「ま、今まで出会わなかったってことはどーせ、逃げようとしたけど出口が封じられてて仕方なく戻ってきた連中だろ」
気付かなかったのも無理は無いと言いながら、レンは手の内に滑り落とした棒手裏剣を二本、指の間に挟んだ。だが、それ以上は動かない。
相手が分不相応な武装をしていたところでこの二人にとっては物の数ではない。だが何しろ、今は先ほどまでと違い、背後に無力な『猫』がいる。下手に攻撃に転じて彼女に傷を負わせるわけにはいかなかった。ひとまず身を隠すにしても、タイミングを合わせなければ追撃を食らうだろうし、何より運び屋との待ち合わせ場所は開けた場所でと限定されているのだ。
今は物陰に身を潜めるか。
若干迷いながらレンが前方の青年に声をかけようとした瞬間、それは聞こえた。
物陰から侵入者を狙い撃ちにした者たちは、侵入者の片割れが言ったように、仲間を見捨てて一度逃げた者たちだった。夜襲を受けたとは言え、ただ二人の人間に同胞が次々と倒されていく光景は、彼らの仲間意識と意地を砕くには十分すぎた。だが、抜け出そうとした彼らに具現化した悪夢が襲い掛かる。
縄張りの四方を目に見えない壁が囲い、外に出られないのだ。
よく調べれば東西南北それぞれに、見慣れぬ紙切れがあるのを発見できただろうが、追い詰められた彼らはそれよりも、一か八かの賭けに挑んだ。
人間誰しも、目的を果たした直後は隙が生まれる。今、彼らはその隙を見事に突き、幾人者仲間を手にかけた剣士に傷を負わせることができた。奮い立った彼らが、立ち尽くし最早何もできず蜂の巣になる運命の侵入者どもに銃口を向け、引き金に力を加えようとしたその刹那、背後から重い馬蹄の音が響いた。
銃弾が放たれた方角から届く悲鳴と逃げ惑う気配に、二人の青年は思わず顔を見合わせた。嫌そうに眉を寄せたレンとシノが視線を交わし合い、二人の目が暗がりに向けられた瞬間、場にそぐわぬ大音響が轟いた。
「――――ふははははははは!!」
地上の大気を裂いて弾丸のように迫る重厚な鉄の塊を認識しきれず硬直する『猫』をレンが抱え、シノと共に同じ方向へ跳んだ。
黒い駿馬の牽く戦車は物陰に潜んでいた残党を蹴散らし、先ほどまで二人がいた位置を瞬く間に通過し、ややした所で強引に停止した。急停止の反動か、戦車から白い物体が鞠のように跳ね、地面に叩きつけられる寸前で白い腕に捕まれ引き戻される。一連の光景を声もなく見つめていたブランカが慌てたように叫んだ。
「お、お兄さん!」
やはり『猫』は夜目が利く。レンとシノは一目散に駆け出す少女の後を追って戦車に近付いた。
「お兄さん、お兄さん!」
「うう……ブ、ブランカ、無事かニャ……」
「お兄さん、しっかりするニャ!」
「……てっぺんから……いきなり……がーって……」
戦車の上、うわ言のような言葉を発するマイルは、必死な様子の妹に揺さぶられるままになっている。感動的か否かは判定せず、再開が果たされたことを満足げに見届け、レンとシノは戦車に佇む人影に会釈した。青白い仏頂面が二人の青年を見下ろす。
「どうも。こんばんは、シモンさん」
「ご無沙汰しております」
「挨拶は結構。それより報酬は――」
「おお! この声は剣士か、久しいな!」
唐突に轟いた銅鑼声に、『猫』たちが思わず身を竦ませた。シモンの青白い顔が更なる仏頂面に変化する。レンが露骨に嫌な顔をし、シノが彼にしては複雑な表情を表に出した。
レンたちに背後を見せていた戦車が音も立てずに半回転し、首のない甲冑が、各々の反応にまるで気付かぬ様子で親しげな声をシノに向けて発した。
「ふはは! 実に懐かしい。変わらず壮健であったか」
「……お蔭をもちまして」
「懐かしいって、最後に会って二月もないだろ」
律儀に礼を保つシノと裏腹にレンが半眼で呟く。甲冑は、そこで初めてレンに気付いたかのように、意外そうな声を発した。
「お主もおったか、童!」
「……わっぱ」
ぼそりと反復する青年に構わず甲冑はまたシノに向き直る。手甲が背中の大剣の柄を掴んだ。
「これこそ戦神ハーレイのお導き! さあ剣士よ、今宵こそいつぞやの決着をつけようぞ!」
「申し訳ありません。時間がありませぬ故、ご容赦を」
淡々と拒絶するシノに、甲冑が抱えた兜がむうと唸った。
「左様か。だがわしは諦めぬ! そなたと再び全力で相対する日を楽しみにしておるぞ、剣士よ!」
そのとき、宣告と共にシノに人差し指を突きつけた甲冑の背を、シモンが思い切り蹴り付けた。何かつぼでもあるのか、ぴたりと停止する甲冑の肩を踏みつけ、悪魔が耐えかねたように叫ぶ。
「報酬!」
「そこらにあるだろ」
動きを止めた甲冑に潰れた酔漢を見るような眼差しを送っていたレンが応じる。
「結界張ったし、まだほとんどここに留まってるはずだから、それ持っていってくれ」
僅か疲れたらしい青年の言葉を受け、悪魔は不機嫌そうに鼻をならすとどこからかランタンを取り出し、それを空中に掲げ、円を描くように腕を回した。するとそれに呼応するように周囲の闇から小さな光がいくつも現れ、カンテラに吸い込まれていく。やがて光の飛来が治まると、カンテラの中には拳大の青白い火の玉が浮かんでいた。
シモンは目の前にカンテラを掲げ、俗に言う魂の詰まったそれを覗き込み、不満げに言い放つ。
「多い」
「余ったのは次回の分にまわしてくれればいいさ」
次回も都合よく報酬が用意できるとは限らないからと青年は続けた。悪魔はやはり不満げにほのかに燃えるカンテラを戦車に取り付け、馬に鞭を当てるようにデュラハンの背中を蹴った。
動きを再開した甲冑が何もかもを心得た様子で手綱を持ち直すと、首のない黒馬の蹄が試すように地を幾度か打つ。戦車の車輪が回り始める前に、レンは上方の二人に声をかけた。
「気をつけて帰れよ、二人とも」
「あ――本当に、ありがとうニャ!」
「お世話になりましたニャ」
『猫』の兄妹が、深々と頭を下げる。
「いいや。……じゃあ、シモンさん頼む」
別れの言葉にあっさりと背を向け、レンは悪魔に合図を送った、魔物の登場に戦意を喪失しただけの連中がいつまた戻るかわからない。その前に今度こそ片をつけるつもりのレンの背に、マイルが焦った静止の声をかけた。
「あ、ちょ、ちょっと待つニャ!」
「……なんだよマイル」
周囲に注意を払うのをシノに任せ、半眼で振り向いたレンの視界に、戦車から身を乗り出した真っ白な『猫』が映る。マントをブランカに譲ったせいで剥き出しになったマイルの体毛は、星明りを浴びて闇に淡く輝いて見えた。
「アリスに、伝えてほしいニャ」
構えていたシノの足元で砂が鳴る。唱えられた名に驚いたように黒い目を見開いたレンに、酷く印象深い緑の双眸に決意を宿し『猫』は言った。
「今度は、ちゃんとお客としてお店に行くって」
「……了解。お伝えしとく」
半日を共にした『猫』を見上げたままレンがにっと笑い、頷き返したマイルとブランカが縁から離れるのを見届け、待ち惚けをくらっていた仏頂面に手を上げて合図した。悪魔が甲冑の背を小突く。
「飛ばせ」
「おう! ではまた会おうぞ剣士よ!」
首なし騎士が軽快に鞭を打ち、黒馬が疾風のように大地を駆ける。涼しい顔で座り込むシモンと対照的につんのめった二人の『猫』はお互いに支えあうようにして、瞬く間に遠ざかる二つの背を見つめていた。
瞬く間に闇に消えた戦車の気配が完全に失せたのを見計らい、レンは呆れた視線を横の青年の手に落とした。
「……怒るなよ」
「……怒ってなどいない」
「じゃあなんだよそれ」
「……反射だ」
反射ってなあ、とレンは鯉口を切る寸前で止まったままのシノの手が、ようやく刀から離れるのに呆れた視線を注ぐ。
「気持ちは分からないでもないけど、いいだろ別に。オーナーがご自分で名乗られたんだろうし」
「かと言って、年下の少女とは言え命の恩人を呼び捨てとは」
「あーはいはい。またそのうち会えるだろうから、そのときにびしっと言ってやれ」
なげやりに答えたレンを、シノが問うような目つきで見た。
「あいつ自分で言ってただろ。また来るって」
「これに懲りるとは思わないのか」
「ない」
「楽観的だな」
「いーだろ別に」
発言に同意が得られないことに子供のような動作で意趣返しをし、身を翻してレンは倉庫を見上げた。二人の『猫』を見送って、それで二人の仕事が済んだわけではない。
「戦車特攻で即効逃げやがったな、連中……」
「追う他あるまい」
「ったく根性なしどもが」
あくまで淡々と言う青年に嘆息を返し、レンはさてと勢いよく拳を自らの手の平に打ち合わせ、小気味良い音を立てた。
「さっさと全部片付けて帰ろうぜ」
「言われるまでもない。あまりオーナーをお待たせするわけにもいかん」
「そりゃな。……なあ、勝負しねえ?」
「勝負?」
訝しげに問いかけたシノを尻目に、レンは一足先に地を蹴り塀に飛び乗った。地上を見下ろす顔が悪戯っぽく笑う。
「最後の一人を抑えた方が、先にオーナーをお迎えに上がる」
「負けた方は?」
「ここに残って、後始末と馬車の準備」
膝の上に頬杖を突きにやにやと笑うレンに、シノもまた微かに口の端を持ち上げる。
「いいだろう。その賭け乗った」
「っし」
拳を握り締めたレンが立ち上がるのを合図に、二人は同時に駆け出した。
一夜の騒動が終わりを迎えるまで、荒廃した市街はそれを静かに見守っていた。
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2008/07/22(Tue)01:27:50 公開 / ゆうじ
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■作者からのメッセージ
ご無沙汰しております。初投降がいつだったのかは考えないことにします。
あっさりしすぎたり説明し足りない部分はありますが、これにて完結です。
決まって投降した後に誤字脱字が見つかるのでタイトルに【完結】をつけるのはもう少し後にするつもりですが。
お付き合いくださった方々、励ましてくださった方々、アドバイスをくださった方々、本当にありがとうございました。