- 『龍の歌った鎮魂歌』 作者:june / 異世界 ファンタジー
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プロローグ
分かっていたのだ。『龍』とは一緒に暮らせる訳がないと。
知っていたのだ。あいつの居場所はここではないと。
気付いていたのだ。自分はただ1人になりたくなかっただけだと。
――嫌だ!行かないでくれ!
真っすぐに、あいつの所へ。伸ばしたはずの手は、空を切る。
ゴメン。本当は、1人になりたくなかっただけなんだ。
独りぼっちの悲しさは、もう知っている。だから傍に居てほしい。
――もう一度だけ、俺にチャンスをくれ
届かなかった手をもう一度伸ばす――。
第一章
後ろから罵声が追いかけてくる。いつもの事だが、うるさくてたまらない。食料の1つや2つ盗られたくらいで、ギャーギャー、ギャーギャー。油断してんのが悪いだろ、バーカ。
人の間を駆け抜けて、自宅を目指す。追いかけてくる連中はほとんどが年寄りなので、すぐに撒ける。少しは考えて行動しないと、いつ心臓発作で倒れるか知ったもんじゃない。……まあ、俺には関係ねぇか。
次の角を曲がれば、森へ入れる。そしたらいつもやっているように、あっちが迷って諦めるまで茂みに隠れていればいい……のだが、今日はダメみたいだ。
「いつも似たようなルートを走ってたのが祟ったな、ボウズ。今日こそその汚ねぇ面、拝んでやるぜ」
薄手のマフラーで覆われた彼の顔は目以外出ておらず、追手は彼の顔を知らない。だから素顔で街を歩いていても、捕まる事はなかった。辺りを見回す。目の前には、待ち伏せしていた連中。後ろには、いつの間にか追手の連中がいた。左右は家の壁。右の壁は古く、ゴツゴツしていて、蔦も絡んでいるが、左の壁は新しく、綺麗で登れそうにない。彼を囲んだ追手の真ん中辺りに町長がいた。いつもなら、綺麗に揃っている銀髪が乱れている。走ってきたのだろうか?
「大人しくしていろよ、今、捕まえてやるから」
町長は嬉しそうに、にこやかに言った。もちろん捕まる気も、大人しくしている気もない彼は、ただ一つのチャンスにかける。町長達が彼を囲む輪を縮めてくる。一か八か、右側の壁に向かってジリジリと後退し、壁が背にせまると、それに飛びつき、蔦を使いながら器用に登る。最後までたいして疲れる事もなく登りきり、下を見下して優越感に浸る。「頭のきれるやつが勝つんだぜ、町長」心の中でそう言うと、身を翻す。そして、固まった。
「お疲れ様、盗人君」
「しつこい奴等ばっかなんでね。さあ、盗んだものを返しなさい」
背の高い男と、小太りの男がやはり町長と同じような顔で近づいてくる。その後ろにも、彼を逃がすまいと4,5人の男達が立っていた。下に降りれば、町長たちに捕まってしまう。だが、ここでジッとしていても同じ事に変わりない。もし俺が捕まったら、家にいるアイツに何かするかもしれない。どうする。何か、何かないか?
「さあ、こっちに来い。無茶なマネしようとすんなよ」
もう、男達は手を目一杯に伸ばせば届きそうな距離に来ている。隣の家に飛び移るには、幅がありすぎて危ない。強行突破は力負けしてしまうに決まっている。だったら、もう逃げる方法は……一つしかない。
「分かった、分かった。お手上げだ」
手に持っていたパンや果物を下に置き、両手を挙げてヒラヒラさせる。先頭の2人が顔を見合わせる。後ろも互いに目を合わせ、困ったような、嬉しいような表情をしていた。そして、先頭にいた2人が後ろに振り返る。よし、チャンスだ!下に置いていた食料を掴んで、そのままの姿勢で2人の間を走り抜く。
「あっ!コラ、待て!」
一人がかろうじでマフラーの先を掴み、引っ張る。予想に反してそれは意図も簡単に奪われてしまった。取り返そうと振り返りかけて思いとどまり走ると、彼らが使ったらしいロープが残っていたので、それを使い下まで降りると森へ姿をくらませた。 追ってくるものはなく、男達の無念の叫びが聞こえるだけ。やっと一息つけた少年は、盗んだりんごをひとかじりして、のどの渇きを潤した。
「今日はついてないな……」
そして1人、曇った空を見上げて呟いた。
*
「クソッ!今日は上手く追い詰められたと思ったのに……」
「マフラー取っても、素顔が見えなきゃ……なあ?」
「もうちょっとで捕まえられたのに、逃がしちまうなんて……俺達、大人失格だ」
「あんな嘘にまんまと騙されるたぁ、情けなくてしょうがねぇや」
暑苦しい男達は、互いに皮肉を言い合いながら町長宅へ向かっていた。事は作戦通りに進み、盗人は捕まるはずなのだったが、逃げられてしまった。何の役にも立たないマフラーだけが収穫だ。だから男達は落ち込み、意気消沈といったていになっているのだ。ただ一人を除いて。
「なあ、アクレア。街外れに住んでる子供の名前って何でしたっけ?」
「フォレス。言っておくが、例え奴が怪しくても、何か証拠がないとダメなんだよ!いくら怪しくてもな!」
「それは、重々承知してますよ。で、名前は?」
会話をしている二人は、あの背の高い男と小太りだった。話によると、子供の名前を聞いている背の高い男がフォレス、苛立たしげに答えている小太りがアクレアのようだ。鼻息を荒くして、アクレアは言った。
「ラクフだよ。ラ・ク・フ!どうしてそんな事が聞きたい?」
「俺、見えたんです。ちょっとだけですけど、ラクフ……でしたっけ?そいつの顔が。一瞬で分かりずらかったんですけど、確かにラクフでした」
険しく歪んでいたアクレアの表情が、次第に柔らかくなり、悪役のようにいやらしく笑った。
「よくやった!フォレス。これでアイツを捕まえられる!!」
フォレスの活躍を、アクレアは仲間にも伝えた。すると暗かった表情が、空気が一気に明るくなった。みんながみんな蘇ったような表情で、笑みを隠せずにニヤニヤとしていて、はたから見れば怪しいのはアクレア達に間違いないだろう。ラクフの家へ向かうなか、もう捕まえたかのような気分に浸り、ラクフの驚愕の顔や反省の言葉、どんな処罰をされ、屈辱の表情をするかで盛り上がっていた。「今日は、俺の奢りで祝い酒だぁ〜!!」と叫ぶ者までいた。だが、いよいよラクフの住んでいる家が見えてくると、さすがに静かになった。
「ラクフ、もう帰ってきてますかね?」
「それはないだろ。奴の逃げた森からここまでは、大人でも1,2時間かかるんだ。……2手に別れて待ち伏せしよう。家の中へは、俺とフォレス。他は周辺で待機、見張りだ。分かったな?……よし、散れ!!」
アクレアの指示に従って皆が散っていくなか、一人だけフォレスに近づく者があった。彼の弟、ネドックだった。
「兄さん、僕も中へ行きたい。人数は、多いほうがいいでしょ?」
フォレスはしばらく考えてから、家へ歩いていくアクレアに声をかけた。
「何だ、フォレス」
「あの、ネドックも中へ入ってはダメか?2人だけじゃ、不便な事が起こるかもしれないだろ?」
「……好きなようにしろ」
そうして3人は扉の前に立った。なんだか、職業に就く前の面接を思い出してしまった。何故だか落ち着かない緊張感。ドアノブへアクレアの太い腕が伸びる。緊張がピークに達するなか、もうアクレアは家の中に消えていた。それに続いて、慌ててフォレス達も中へ入り、扉を閉めた。
家は外見と異なり綺麗に片付いており、清潔感が漂っている。右側にもう一つ部屋があるようで、敷居があった。ベッドが2つ並んで置いてあるのが何となく分かる。子供が1人で住むにはもったいないくらい、『いい家』だ。
「ねぇ、兄さん。ベッドに誰か寝てる」
「そんな訳ないだろ?ラクフはまだ帰ってこないようだし、両親はとっくに死んでる。兄弟もいない。両親の遺体でも入ってるのか?」
なんて冗談をとばしつつも、寝室へ自然に忍び足になって入ると、ベッドのふくらみが動き、起きた。それは、間違いなく生きた人間で、綺麗な濃い紫色の髪を持ったラクフではない少年だった。
「お帰り、ラクフ。いつもより遅かったね、何かあったの?」
フルートの音のような声は小さく弱い。目をこすりながら、少年がこちらを向いた。青白い顔に浮かぶ、空色の瞳が驚きで見開かれた。
「あなた達、誰ですか?」
今にも消えてしまいそうな声が、疑り深くフォレス達の耳に届く。フォレスとネドックが返事に困っていると、アクレアが少年に歩み寄り、短く挨拶した。そのとき、気付いた。少年の首から銀色の鎖が垂れ、その先端に、透明だが虹色に光る宝石が付いている事に。
「私はアクレア。あっちにいる背の高い方がフォレス、隣がネドックだ。君の名前は?」
「ラクフはこの家に客は来ないって言ってました。何故ここに?」
「ちょっと野暮用でねぇ。……こっちの質問にも答えてもらおうか」
「……ライです」
警戒心丸出しでそう言うなり、咳をした。しばらく立て続けに苦しそうに咳をする。
「おい、大丈夫か?」
アクレアが背中をさすってやろうとすると、彼はそれを制した。
「お構いなく、いつもの事ですから」
苦しそうだがしっかりとした声で言った。でも、明らかに少しやつれた感じで、疲れているように見える。それも気になるが、咳をする度に揺れる宝石に、ついつい目がいってしまう。光の加減によってさまざまな色に変わるそれは、この世の物とは思えないほどに美しい。アクレアもライを気にしつつも、宝石を見ていた。そして苦しそうなライに聞く。
「その宝石は、どうしたんだい?とても珍しいものだろう?」
ライが止めるより早く、アクレアは宝石に触れ、宝石の鑑定士のように見ていた。ライはそれが嫌そうで、細い手で太いアクレアの手を退けようと努力していた。
「これは、『龍の涙』か……」
「『龍の涙』?本当に龍が泣くと、これになるんですか?」
ネドックが不思議そうにアクレアに聞くが、彼は答えない。その代わりに、フォレスが答えた。
「本物の涙って訳じゃない。龍の住む洞窟や山奥だけで採れるものなんだ。龍の持つ魔力に、ただの石っころが影響されて、ああいう風な宝石になるんだ。だからその石にも龍の魔力がこもって魔石になることもあるらしい。でも龍は、危険な存在や野心の強い奴が自分たちの縄張りに入ってくる事を嫌うんだ。簡単に言えば、人間が嫌いなんだ、龍族を除いてな」
「龍族って何?龍達と何が違うの?」
「龍族は人になれない、つまり化ける事ができない。でも龍族は、本は龍でも人の姿になれる。だから、人間でもあり龍でもあるんだ。龍は、龍族を嫌わない、だから『龍の涙』を持って来る事ができる。でもその特殊な生態から、他種族やサーカス団に狩られちまうんだ。今は、どこかで隠れ住んでるらしい」
「じゃあ、『龍の涙』は、龍族である証みたいなもの?」
「そういえばそうだが、『龍の涙』は貴重なものだ。だから、奪われてしまう事が多いんだ。だから、こんなに堂々と身に付けられないだろう、龍族以外のものは」
「じゃあ、ライ君って……龍族?」
フォレスは、ゆっくりと頷いた。ライが本当に龍族なのか、それは確かでないが、1つだけ言える事がある。こんなひ弱そうな少年が、他人から物を盗る事はないだろうという事。争いを嫌い、心の優しい龍族でも、絶対に『龍の涙』を他人に渡す訳がないのだ。だとすると、やはり、ライは龍族なのかもしれない。
「……そうだ、思い出したぞ。私はお前を知っている。いや、見た事があるぞ」
急に声を上げたアクレアに、他の3人の視線が集まる。ライの猫のような目とフォレスの視線がぶつかったが、すぐに逸らされてしまった。
「お前は前に来た見世物小屋にいただろう、檻に入れられ、鎖で繋がれて。だがあの時は、腕だけが龍になっていたぞ。龍族にはまったく興味はなかったが、『龍の涙』は別だ。……覚えてる、覚えているぞ。お前と、その宝石」
確かにこの街に、変な格好をした怪しい見世物小屋が訪れていた。「世にも珍しいものを手に入れた」と言いながら、ビラをばら撒いていたと思う。皆興味なく、無視していたが、暇潰しに何人か行って見たみたいだったが、それにアクレアが含まれているとは思わなかった。
「何故、そのお前がここにいる?」
「あなたに話すような事はありません。特に用がないのなら、帰ってください。もう少し休みたいので」
「用ならある。お前にではなく、ラクフにだがな。奴が帰ってくるまで、ここに居させてもらおう」
ここからではアクレアの背中が邪魔をして彼の表情は見えないが、きっと下品な笑みを浮かべているに違いない。そんな彼を完全に無視して、ライはキョロキョロとして落ち着きがなく、何かを探しているようだった。例えるなら、ラクフが自分達から逃れるために、逃げ道を探すかのように――。
それに気付いたフォレスが、アクレアに注意を促そうと思った瞬間、彼がわっと声を上げた。ライが彼の顔面に枕を思い切り投げつけたのだ。そして驚いてつい油断してしまったフォレス達にパッと毛布を投げつけてきた。一瞬にして見えるものが真っ白に染まってしまった。毛布を退かそうと必死にもがいていると、急に視界に色が戻った。フォレス達の目の前で、毛布をむんずと掴んでいるアクレアが、怒りに満ちた視線を玄関へ向けていた。そして、その鬼のような顔がフォレス達に向けられた。
「絶対に逃がしてたまるか!フォレス、ネドック、あいつを追え!捕まえるんだ、ラクフと会わせるな!」
「何でそんな事するんですか?僕たちの目的は――」
「そんなのいつだってできるだろ!それよりも今は、あいつを闇に売ってラクフが盗んだ分の金に変えるんだよ!!」
「そんなのひどいじゃないですか!ライ君は――」
また最後まで言い切れずに、ネドックはフォレスに引きづられるようにして外へ出された。少し顔を上げると、普段ならあまり変わらない兄の表情が微妙に引きつっていた。……怒っている。ネドックを見下ろした彼の表情が少しだけ和らいだ。
「急に引っ張って悪かったな。こうでもしないと、いつアクレアの雷が落ちるか知れたもんじゃなかったんだ」
「アクレアって怒ると怖いの?見た目通りに」
「見た目以上だな。グチグチ、嫌味を言うんだ。俺の大嫌いなタイプだな……普段からだが」
納得したように頷いたネドックは、フォレスから離れると、フラフラと茂みに向かって歩き出した。不思議に思いつつフォレスがついて行くと、背の高い雑草が獣道のように割れていた。これはライが通った後の道なのだろうか、はたまた仲間の通って行った道なのだろうか?それでもネドックは、ずんずんと進んでいく。彼は昔から勘と方向感覚だけは優れていた。フォレスとは、まったく逆に。フォレスの場合、ちょっとしたお遣いに行くだけでも、迷子になり、4,5時間は帰ってこないのに対し、ネドックは寄り道して森に入っても簡単に帰ってこれるのだ。
途中、何人かの仲間とすれ違ったが、ほとんどが居眠りをしていたりしていた。そうした静かな森の中を進んでいくと、急にネドックが走り出した。見失わないように気をつけて走ると、少し開けた場所に出た。そこには誰もいないように見えたが、ネドックが真ん中辺りに生えている木に近づいてその後ろへ回って、しゃがみ込んだ。
どうしたのかとネドックの後ろから覗くと、膝を擦り剥いたらしいライが座り込んでいた。こちらを見てはいないが、気付いているだろう。
「大丈夫?ライ君。……ライ君!?」
ネドックが驚いたのも仕方がない。なぜなら、急に彼の胸へ倒れこんできたのだから。フォレスが素早くライの前に出て、手を彼の額に当てる。そして、彼も驚いた。
「……すごい熱だ、よくこれだけの時間我慢できたな」
「寝かせてあげたいけど、家に帰るとアクレアに売られちゃうよ。どうしよう」
「どうしようもないだろ?このまま放っておくよりも、アクレアを説得してライを休ませるように言うんだ。……俺達には、それしかできない」
フォレスがそっとネドックに寄りかかるライを抱いて立ち上がると、ネドックもそれに習って、しぶしぶ立ち上がった。ネドックと並んで元来た道を戻っていく。思っていたよりも軽いライは、苦しそうに呼吸していた。その熱い吐息を感じながら、フォレスはこれからの事を思い、重くため息をついてしまった。ネドックも、彼と近いタイミングでため息をついて、あっと思ったのか、彼と顔を見合わせて微笑した。
「母さんが今ここに居て、今の僕らを見たら怒るだろうね。『そんなため息ついちゃって、幸せが逃げるわよ』って」
「……そうだな」
彼らの母は、随分と前に亡くなった。それまで元気で、つらそうなところなんて見せなかったので、フォレスもネドックも、未だに母が死んだ事が信じられずにいた。
フォレスが首に付けている母の形見のペンダントに、木漏れ日が当たり、母の微笑みのように煌めいた。
*
重い足取りで、やっと森を抜けると家の周りが騒がしくなっていた。近づけば近づくほどに騒がしさが上がっていき、最終的にはうるさいと思った。ここまで来ると、その中心にいる人物がよく見える。赤毛の少年が大人相手に口げんかをしていた。明らかに大人のほうが及び腰で、あたふたとしていた。子供相手にこのざまじゃ、同じ大人として情けなかくなり、恥ずかしく思った。
「てめぇらウザいんだよ!俺が何したって勝手だろ!」
「勝手なわけあるか!?お前が盗むせいでこっちは迷惑してんだ!!」
「はあ!?それ、ありえねぇから!何でお前らみたいな汚ねぇやつらから食い物なんて盗るかよ!そんな事するくらいなら、近くの川行って釣りでもするさっ!!
お前らやっぱ、馬鹿なんじゃねぇの?能無し、阿呆のアンポンタンめ!」
「おっ、大人に向かってその口の利き方は何だ!?」
これを、関係のない赤の他人が見たらどう思うのだろうか。怒りに身を任せて大人を怒鳴る子供と、親に叱られた子供のように縮こまっている、頼りない大人。あまりの情けない光景に涙が出そうだ……。
と、ぷいっとこちらを見た(見るつもりはなかったのだろうが)ラクフが、ライをフォレスの腕の中に見つけてまた怒りがあがった。そんな彼に立ちはだかったのは、アクレアだった。
「邪魔だよ、どけ」
「私がここに居るのは、単なる偶然だ。邪魔などしていない。通りたいのなら、通ればいい」
大きな翡翠の瞳と、茶褐色の瞳がぶつかり合い、火花を散らす。ラクフが、こちらに向かって走りだそうとした瞬間に、癖のある長い髪をアクレアが掴んだ。突然後ろに引っ張られたラクフは、痛みに呻いた。
「ってぇ〜。何すんだよ、ブタ!」
ラクフが、アクレアに向かって『ブタ』と言ったとき、周りにいた大人たち全員が息を飲んだ。確かにブタのような体形をしているアクレアだが、面と向かっては『ブタ』なんて言えない。こういうとき、正直な子供が羨ましくなる。
「そっちにいる子供に用があるのは、私だ。お前は大人しくしていろ」
ラクフの『ブタ』発言に、キレると思った大人たちは、安心して思わずため息をついた。だが、少し苛ついてきている事に変わりない。
「誰がお前の指図なんて受けるかよ、うせろ」
「お前が真っすぐに家に帰ればいいだろ?そしたら、邪魔な私を見なくてすむんだ」
「ヤこった!お前が、豚小屋に帰ればいいだろ?でもあれか、飼い主がいないと小屋に帰れねぇか。なんなら俺が連れてってやるぜ、ブタさんよ」
「心配ご無用。お前のように考えないで行動するような馬鹿じゃないからな」
「ブタのくせに、人の言葉がよくしゃべられるじゃねぇか。ブタにしては」
「相変わらず口の悪いガキだな。蛙の子は蛙だなぁ、ラクフ?」
日に焼けた褐色の肌の手は、まだラクフの髪を離そうとしない。騒がしかった森に静寂が戻り、風が木の葉と戯れる音が嫌でも耳につく。
「お前の両親も、正義だ何で言って人助けばかりやってたな。貧しい汚い奴らに、何の迷いもなく近づいて飯や衣類を与えて喜んでいる、厭らしい奴らだった」
「親父たちの事を悪く言うな!」
「だってそうだろう?自分より下の奴を作って優越感に浸ってただけだろう?それの何処が正義なんだ?どちらかと言えば、悪だろう?」
「親父達の悪口をそれ以上言ったら許さねぇぞ!」
牙を立てて威嚇する犬のようにラクフが言うと、アクレアは悪魔のような笑顔をした。その顔がフォレスは大嫌いだった。
「綺麗事だけを並べて英雄気取りになってただけだろ?どんな事でも自分たちの意見が、行動が正しいと思ってるだけ。自己中な連中だっただけさ。
お前も同じだ。自己満足のためだけに、その龍族を盗んだ。それが悪い事だと何故分からない?」
「俺は何も盗ってない。ライだって、自分で決めた事をしてここに居るんだ。『自由になりたい』って言ったから、手伝ってやっただけだ。ライが本当に居るべき場所は、あの小屋じゃなくて、外の世界だったんだよ!」
食い下がらないラクフの髪を乱暴に離してアクレアは怒鳴る。
「分かってない奴はこれだから嫌いなんだ。あいつらが、貧民外に捨てられてたお前を拾ってやったのも、自分たちの欲望を満たすためだったのに何故気付かない!?お前が、あの龍族を助けたのも、欲を満たすだけだった事に!」
森中に響いたアクレアの声に驚いて鳥たちが飛び立つ。言い返す言葉を探すラクフに、アクレアは止めを刺すように言った。
「龍族の居場所はここじゃあない」
唇をかんで見上げたラクフの瞳に、かすかに涙がたまっている。両親のための涙だろうか、龍族のための涙だろうか。フォレスには、分からなかった。でも、急に普通の少年の表情に戻ってしまったラクフが、哀れだった。大切な、大切な両親を貶されたのだ。貧民街で、本当に独りぼっちだったラクフに手を差し伸べてくれた、家族になってくれた人達を悪く言われて悔しくないはずがない。フォレスだって、死んだ者を貶されたら、悔しい。……悲しい。
ぼうっとしていたフォレスからかっぱらうようにライを抱くと、アクレアは何事もなかったかのように、街に向かって歩き出していた。ライの温もりが消えた腕が、妙に寂しい。母が死んだときの、心のようだった。
「ライを、どこに連れて行くつもりだ、クソデブ」
潤んだ、しかし力強い瞳がアクレアを射る。それで少し身を引いたアクレアだったが、まだ傲慢な瞳の炎は消えていなかった。
「こいつを居るべく場所へ帰すのさ、見世物小屋に」
「そいつの!……ライの居るべき場所は、そんな薄汚れたところなんかじゃねぇ。ライの居場所は、……龍谷だ」
聴いた事のない単語に、アクレアでさえも眉をひそめた。龍谷。一体何なのだろうか?
「龍谷へ、帰す事くらいなら俺にもできる。でも、見世物小屋になんか行かせない」
強く印象に残るラクフの言葉を聞いて、アクレアは高笑いした。
「無力なお前に何ができるって?私も止められないのに、随分とでかい口をたたくな。所詮、適わない相手だからといって、嘘をつくのはよくないぞ、ラクフ。お前は無力だ。何もできずに、指をくわえて大人しくしていたほうがいいぞ」
「……もう、そんなことはしねぇって、ライに誓ったんだ。龍谷に帰してやるって約束したんだよ」
「そんな果たせるはずのない約束するお前が悪い。もう諦めるんだな」
「諦めねぇ、絶対に。……ライを返してくれるっつうんなら、俺は、どんな事でもする。どんな事でも」
最後の言葉を強調して言い切ったラクフの瞳に、濁りはない。何故大人になるにつれて、あの濁りのない瞳を失くしてしまうのだろう、今のアクレアのように。大人とは、どんなに汚い生物か、思い知らされる。
「……じゃあ、この街から出て行け。この家を焼き払ってな」
「いいだろう。…さあ、ライを返してくれ」
ぎゅっと拳を握りしめて怒りを我慢して、アクレアに願う彼は、何思いながら言っているのだろうか。両親との思い出の家を消してまで、何故この少年を救いたいのだろうか。…昔の自分と、ライを重ねているのだろうか。無垢な願いが、心を打つ。
「誰が、ライを返すと言った?」
「なんだと!?」
「こいつと出て行けなどと、お前に言った覚えはないぞ。何の勘違いだ?」
意地汚く笑う、悪魔のような男に、ラクフの怒りはもう抑える事ができなくなった。が、彼よりも先に怒りを爆発させたのは驚いたことに、フォレスだった。
「黙って聞いていれば、なんて汚い男なんだ、あなたは!!何故、あなたは、そこまで人を侮辱できる?何故あなたは、ラクフの気持ちが分からない!」
「そんな小汚い子供の言葉など、偽りに過ぎないからだよ。……貧民外育ちの奴の考える事はおかしいんじゃないか?」
「汚いのはあなただと、何度言わせれば分かる!そんなに金が大切なら、欲しいなら、こんな田舎から出て行けばいい!出て行くべきなのはあなたのほうだ、アクレア」
口答えをあまりしない、無口な方のフォレスがこれほどの怒りを誰かにぶつけた事などあった例がない。ここにいる全ての者が、彼の怒りを始めて見るのだ。
「たいした努力もしたことのないあなたに、貧民達の苦しみが分かるわけないんだ。分かろうとしてくれたのは、ラクフの両親だけで、他は見てみぬ振り。ふざけるのも大概にしろよ」
「ふざけているのはお前のほうだろ、フォレス。いつもの冷静なお前はどうした?」
このもどかしい気持ちは何なのだろう。掴み所のない深い怒り、激しい憎悪。どうすれば、これは治まってくれるのだろう。胸で揺れているペンダントを握って、考えた。教えてほしい、母さん、俺はどうすればいい――。
「アクレア、これが、あなたにする、最後の願いです」
「何だ?」
握っていたペンダントを引っ張りはずして、アクレアの目の前でわざとらしく揺らした。彼の瞳に、サファイアの美しいペンダントが揺れる。
「これとライ君を交換しましょう。これを受け取れば、俺はあなたに一切関わらず、この町を出て行きましょう。俺の持ち物は、全部あなたに譲ります。でも受け取らなかったら、何度でも何度でもあなたのところに押しかけて、ライ君を奪い返しに行きます」
「でも兄さん!それは――」
ネドックが焦ったように兄を止めに入る。サファイアのペンダントは、彼らの母が死に際にフォレスに託した、最後の贈り物だった。だからそう簡単に手放せるものでなく、大切な、大切な形見だった。
「いいんだ……。ゴメンな、お前にやれなくて」
フォレスは気付いていないようだったが、彼のほうを涙が流れていた。本当は、彼もそれを手放したくないのだ。でも、これよりも、もっと大切なものを見つけた気がするから、そのための犠牲にするしかないのだ。それに、もし彼の母がこの場にいたとしたら、同じことをやっていただろうと、フォレスは思ったのだ。
「いいのかよ、それ大切なもんだろ?」
ラクフが、心配そうに聞いた。それにフォレスは微笑んでこう返した。
「大切な何かを守るためには、何かを犠牲にしなければならないときがある」
ネドックがはっと目を見張る。それは、母の口癖だった。抱え込みすぎると、本当に大切なものまでもが零れ落ちてしまう。そうなる前に、それを守るために犠牲を払わなければならないときが必ずやって来る。ただ悩んで苦しむくらいなら、何か大切なものを精一杯守るために苦しみたい。そのためなら、どんな犠牲もほんの小さな疼きに変わる気がしたから。
しばらく考え込んでいたアクレアは、フォレスに歩み寄ると真正面からにらんだ。
そしてライを押し付けて、ペンダントを手に取った。
「さっき言ってた事は、本当だな?」
「俺をあなたと一緒にしないでください。俺は、約束を守ります」
満足げな顔で頷いたアクレアは、鼻歌を歌いながら家へ帰っていってしまった。残された男たちも、そわそわとしながら街に向かって歩き出した。そうして残ったのは、ラクフとネドックと、ライを抱いたフォレスだけ。
何となく見上げた空が、泣きそうだった。
「最後の、母さんの墓参りでも行くかな」
フォレスはポツリと呟いた。何か言わないと、不安定な心がもっと大きな声で泣きそうだったのだ。悲しくない、悲しくないと思えば思うほどに悲しくなり、涙がとまりそうになかった。ずっとこうして泣けたらと、フォレスは願った。失う事の痛みを、いくらでも耐えられるようにするために。
そんなフォレスの気持ちを知ってか、知らずか。空も、泣き始めた。
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2007/10/01(Mon)22:58:56 公開 /
june
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■作者からのメッセージ
どうもはじめましてっ!!june(ジューン)です。誤字や脱字が多い文だったと思いますが、最後まで読んでいただき、誠に有難うございます!!『龍の歌った鎮魂歌(←レクイエムとお読みください)』変なタイトルですが、ゼヒA終わりまでお付き合いください。