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『DIAING BELL』 作者:くりおうじ / ファンタジー 異世界
全角15113文字
容量30226 bytes
原稿用紙約42.75枚
自分の住む世界とは別の世界を信じ、日々研究に打ち込むダーヴィットは、いつの日からか同じ夢を繰りかえしみるようになっていた。夢が示す未来は真実か?「空」を挟んだふたつの世界でまきおこるファンタジー。
◆第一話 アダムズの予知夢


 夢を見た。大きな鳥の背に乗って飛んでいく夢を。
 鳥は琥珀色の翼を広げ、青いビロードの景色の中をびゅんびゅん飛んでいく。白い模様が後ろに駆け抜けていく。
 自分は歓喜に吼え、両手を広げ、迫り来る黒い渦に向って叫ぶ。
 「さあ、いくぞ!」そのまま鳥は速度をあげて、渦の中へ突っ込んでいく。自分を飲み込もうと待ち構えている、まるで果てしない宇宙のような、ぽっかり空いた奈落のような、暗闇の渦の中へ―――


「この夢を、ぼくは一日に何度もみる。そして、毎回夢をみた直後に、ノートに記録しているんだ」

 そう言って、鼻にかかった眼鏡をちょっと押し上げながら、ダーヴィットは胸ポケットをごそごそと探った。額にパラパラかかった淡い鳶色の髪は、朝起きたままなのか、それとも元がそうなのか、つんつんとあっちこっちへはね回っている。
 取り出した小さなノートをぱらぱら捲る間中、妙な好奇心の視線が彼をなめ回す。なんだかいろいろ殴り書きされた黒板――「アダムズの予知夢について…」「空のむこうの世界は実在する…」、その他ごちゃごちゃ――の前に立ったダーヴィットは、一張羅の背広を着込んではいたが、ついさっきチョークの詰まった箱を落としたせいで裾が真っ白に染まっていた。ここは大学の講堂で、ダーヴィットはまさに講義の真っ最中、という訳ではない。まあ、講義中ではあるのだが、場所は大学ではなくて小さな子供達の集まった教室であったし、目の前にいる子供達がダーヴィットの話を理解しているのかも怪しいところだった。
「いつも同じところから、まるで映画のワンシーンを再生してるみたいに始まる。
 いつ寝ても何度寝てもだ。そして同じところで突然目が覚める。まさに、予知者アダムズのように。ぼくは予知者ではない。だが、きちんとした教育を受けた研究者だ。仮に、ぼくの見る夢を、アダムズと同じような予知夢だとしよう。その予知があたっているなら、この空の向こうには、新しい世界が広がっているはずだ。夢に出てくる青い景色だが、これは間違いなく「空」だ。本物の「空」だよ。こんな、カプセルホールみたいな作り物の空じゃあない……。
 ぼくが思うに、ぼくの見る夢は限りなくアダムズの予知夢に近い。ただ、予知しているんじゃなくて、真実を映し出しているんだ。なにかがぼくの脳に直接的な刺激をあたえ、その信号が、夢となってぼくに知らせている。この世界は――」
「お空のむこうには行けないんだよ。お父さんが言ってた」
 子供のひとりが口を挟んだ。ダーヴィットはよけいに熱がはいり、手振り身振りしながら話を続けた。
「君たちも君たちのご両親も、この閉じ込められた世界の偏見的な常識にどっぷり浸かってしまっているんだ!
 例えるならこの世界は、大きなドーム内にしかすぎない。今みえる空はドームの天井。普通、それを突き破ることはできないが、必ずあの防御壁のむこうには――ああ、おはよう、カーチス」
 ダーヴィットは朗らかに言った。ちょうど真正面のドアを開けて、今まさに教室に入ってきた年老いたカーチス教授は、あんぐりと口をあけてダーヴィットを見つめていた。その目がゆっくりと黒板の文字を辿り――「破壊された真実…」あれこれ――それから、我が目を疑うといった顔で子供達を見渡した。自分の居場所を確認するかのように教室中を眺め、それからやっと、微笑んでいるダーヴィットに視線を戻した。
「あー……悪い、カーチス。まだ終わってないんだ。つい熱が入りすぎちゃってね。あと十分もかからないから、そこら辺にちょっと座って――」
「お前は、いったい何をしているんだ?」
 カーチス教授はあくまで咎めるような口調で言ったらしい。だが、その声が震えていたので効果は半減した。
長机の前にきちんと座った子供達を挟んでダーヴィットが眉を吊り上げる。
「なに、って。まさか覚えてないのか?今日、ぼくが話をしにきても良いって、昨日電話で言ったじゃないか」
「ああ、たしかに承諾した。だが、それは、お前が「ちょっと科学のお勉強をするだけ」だと言ったからだぞ! こんなバカげた話を子供らに聞かせるなんてきいてない! いったいなんのつもりだ?大人に相手にされないからって、子供を洗脳する気か!」
「洗脳だなんて、まさか!」
 おもしろい冗談だという風に、ダーヴィットはまた朗らかに笑ったが、教授の真っ赤な顔を見たとたん笑顔がどろりと流れ落ちた。どうやら叫びたい衝動と葛藤しているらしいカーチス教授は、深く息を吸い込み、平静を保とうと努力していた。
「こんな話を子供達に聞かせたと保護者にバレたら……わたしの立場がどうなる、え? いい加減に目を覚ますんだ、ダン。お前の理論は歓迎されない。早く女でもつくって、きちんとした仕事を見つけて落ち着くことだ。いいか、ダン? それが全うな道だぞ――全員、休憩にしてよろしい」
 教授の一言で、それまで大人しく座っていた子供達が一斉に爆発し、外へ飛び出していった。あとに残されたダーヴィットは、ぽかあんとした顔で教授を見つめている。カーチス教授は迷った。だが結局それ以上あれこれ追求しないことにしたらしく、ゆっくりダーヴィットのほうへ歩いていき、赤みのひいた顔を悲しげにゆがませた。
「ダン、残念だが、わたしはもう付き合いきれんよ。家に帰りなさい」
「そんな、カーチス……いや、待ってくれ!悪かった。きみに迷惑はかけないよ。だから――」
「最終決定だ。ダーヴィット」
 ごつごつした教授の手が、ぽんとダーヴィットの肩をたたいた。それが全てを言い表していた。


***
 
 賑やかな通りの隅っこをひとり、ダーヴィットは歩いていた。脇を走っていった子供が楽しそうに笑っている。明るい冬の日だ。通り過ぎるショーウインドウは真っ白に飾られてキラキラ輝き、まだ訪れない雪の姿を連想させた。裾が白い背広を着て、ダーヴィットは惨めな気持ちだった。正直、側を幸せそうに通っていく人を見ると蹴飛ばしたくなったり、漠然とたっている看板をはたき倒してみたりしたくなる衝動もあった。誰かが背広についたチョークの粉を指差してクスクス笑った。つい一ヶ月前に買ったばかりの一張羅なのに。あのとき急いでチョーク箱を取り落とすんじゃなかったなあ。まあ、焦るぼくを見て、子供は楽しそうだったけど。
 赤レンガの背の高い家、家。メインストリートであるここは特に人通りも多い。ちょっと立ち止まって青い空をみあげてみた。いつも通り、白い雲が流れている。あの空のかなたこそがダーヴィットの理想郷である。この世界を外気から守っている防御壁。そこに見える空の風景。防御壁の外側にはなにもない。ただ、無の空間が広がっているだけだ。それがこの世界の常識だった。防御壁はこの世界を保つひとつの境界線であり、日常にただ存在するだけのものであるのだ。
 そんな常識の中、ダーヴィットの考えを相手にするような者はいないのが現実だった。昔なじみのカーチス教授は、まだ若いダーヴィットの未来を案じていろいろと面倒を見てくれていたのだが。その望みも持たない方がよさそうだ。ダーヴィットは奇人である。それはカーチス教授も合点するところだ。空の反対側の世界なんてあるわけがない。だが、ダーヴィトが追い求めるものはまさしくそれなのだ。 

 ダーヴィットは熱心な研究家だった。
 町でも有名な研究家、ダーヴィット。それもその能力で有名なのではない。やはり奇人なのだ。もとは生物学者を目指していたが、まあいろいろな経緯を経て、今現在の様になっている。本当なら二枚目であろう顔つきも、乱れた食生活のおかげであまり見栄えがよろしくなかった。まだ若手ばりばりの彼は、町の学校から少しはなれた小さなアパートに暮らしていた。そのアパートの名前は彼自身も知らない。まあ、あれだけボロボロなアパートだから、名前がなくてもおかしくない。むしろ、「エルゾン1号館」なんて名前をつけられても、滑稽だしまるでお笑い種だ。そんなアパートの寂れた螺旋階段をのぼるのは、まさにダーヴィットその人である。
赤茶色の手すりに触らないようにしながら――手すりは落書きやら汚れやらでベトベトだった――、ゆっくり階段をあがりながら、ポケットに手を突っ込んだ。あれ? カギはどこにしまったっけ?
「カギを落としてるよ、ダーヴィット!」
 突然声がして、ダーヴィットは危うく足を踏み外すところだった。驚きながらも胸が高鳴る。この声の主は知っていた。
 案の定、螺旋階段の下で、長髪をきちんと結い上げた女性がダーヴィットを見上げていた。整った逆三角形の顔にいっぱい笑みを広げ、その手に銀色の光るなにかを持っている。
「アリシア」
 ダーヴィットは、どこか遠くのほうで自分がぼんやりと言うのを聞いた。胸中ではミニチュアの自分が手を打って踊りまくっているのに、等身大の自分はなぜすました顔をしているのか疑問に思った。そして、頬がほんのり紅潮しているのは、この雪の降りそうな天気のせいだと自分に言い聞かせた。
 赤毛のアリシアは赤いコートを着ていた。彼女の頬も紅潮している。ああ、やっぱり、外が寒いからなんだろうな。
「いま帰ってきたの?」
 後から階段をのぼってきたアリシアがそう言った。ダーヴィットは後ろが詰まらないように足を進めつつ、なるべく冷静でキレのある声をだそうとしてはにかんだ。
「そう。あー……きみは仕事?」
「まあ、誰かさんみたいに、子供達におとぎ話を聞かせにいったりはしてないわ」
 アリシアは悪戯っぽく笑ったが、ダーヴィットはまたしても熱があがったようで、突然酔いしれたかのように語りだしてしまった。
「アリシア、きみは分かってない。ぼくの理論はおとぎ話なんかじゃない。いつかきみに証明してみせるよ。このカプセルみたいな空のかなたに――」
 熱っぽく話すダーヴィットのうしろでアリシアが笑った。
「――新しい世界があって、あなたは鳥の背中にのってそこへ行くんでしょう?」
「まあ、そんなとこかな。でも、鳥に乗っていく、っていうのは怪しいな。鳥が飛んでいたのはもう青い空の中だったし……」
「ねえ、ほんとに、あの壁のむこうの世界を信じてるの?」
 ふたりは階段をのぼりきった。狭い通路に並んで経ち、お互いの顔を見詰め合っていた。アリシアは決然とした表情であったが、対するダーヴィットの顔には暗い表情しか見られない。ダーヴィットはアリシアからカギを受け取ろうと手を伸ばしたが、彼女はカギをよこさなかった。
「きいて、ダン。あの空は――」
「あれは本物の空じゃない。ただ景色を映し出しただけのシールドだ」
 アリシアが反論しようと口をひらくのを遮ってダーヴィットが話す。
「その防御壁の下でぼくらは暮らしている。なら、あのシールドの反対側にはなにがある?考えてもみろ」
「シールドのむこうには何もないわ。ダン、おやすみなさい」
 そう言ってダーヴィットにカギを渡すと、自分はさっさと部屋の中へ消えていってしまった。
 ダーヴィットはしばらく消えたアリシアの背中をじっと見つめていたが、諦めたように小さく肩をすくめ、アリシアとは反対側のドアにカギを差し込んだ。


――― ダーヴィットは飛んでいた。青い景色の中を、大きな鳥の背に乗って進んでいた。
 鳥は速度をあげていく。ぼんやりと、直感的に、もうすぐ自分が叫ぶはずだと分かった。
 両手をひろげて吼える。そして、さあ、叫んだ。次は黒い渦にむかっていくぞ。
 ほうらね、やっぱりだ。鳥はきゅっと羽をすぼめて下降しながら渦に入っていく。
 あれ? おかしいな。いつもなら、ここで目がパチっと覚めてしまうのに……。
 ダーヴィットは身をかがめた。真っ暗闇な世界に飛び込んでしまうと、もう青色のかけらさえ見当たらない。
 鳥は斜めに下りながら飛び続けた。行く先に、小さな光がちかちか、ちかちか。ブラックホールに誰かが穴を開けたみたいに。明らかに、鳥はその光を目指していた。ダーヴィットはわかっていた。あのむこうに、自分の求めるなにかがあるはずだ―――

 大きな悲鳴が空を裂き、ダーヴィットはぱっちりと目を開けた。たったの今まで空を飛んでいたのに、ちょっと辺りを見回してみれば、そこはただの汚い一人部屋だった。質素なベッドに固いデスク。デスクのうえは書物やら書きかけのレポートやらでいっぱいだ。紺色のカーテンが揺れている。どうやら窓を開けっ放しで寝てしまったらしい。冷たい冬の風が部屋に流れ込む。体を起こし、眼鏡をかけて、ダーヴィットはやっと気付いた。たった今自分を起こした悲鳴。あれはなんだったんだ?
 まさか。そんなはずはない……けれど、考えれば考えるほど、アリシアの姿がはっきりと頭に浮んでしまう。さっきの悲鳴を最後に、アパートは静寂を取り戻していた。だが、ダーヴィットがベッドからおりたその直後、誰かが玄関をドンドンと叩いた。
「ダン! ダン、起きて!」
「アリシア? いったいなにを――」
 ダーヴィットがいそいで玄関を開けると、ガウン姿のままで取り乱したアリシアが立っていた。みると、他の部屋の住民も、騒ぎをききつけてガヤガヤと廊下に出てきている。まるで奇妙な寝巻きパーティだ。自分でも情けないことに、ダーヴィットはアリシアのまえで寝癖が一番に気になった。まだ月の明るい夜中だというのに、いったいなにごとだ?
「ねえ、見た? あれはなんなの?」
 アリシアが喚く。
「なあ、ちょっと落ち着いてよ。さっきの悲鳴はなんだったんだ?強盗か?」
「そんなんじゃないわ! 見なかったの? ほら、今もあそこにっ」
 アリシアに引っ張られ、ダーヴィットはよろけながらも通路を歩き、螺旋階段の一歩手前で踏みとどまった。
どうやら、この騒ぎはアパート内だけのことではないらしい。近くの家からも、寝巻き姿の住民達が不安そうな顔で道路に出てきて、みんな揃って空を見上げていた。――なんだ、ご近所そろって天体観測か? そんなことをぼんやり考え、アリシアに促されるがままに、夜の空を見上げた。
「――な、なんだ?」
 それは、まさにブラックホールのようだった。星の瞬く空を、誰かが無造作に突き破ってしまったかのように、真っ黒な大穴がぽっかりと浮んでいた。空が裂けてしまったのか? しかもそれは渦を巻きながら、だんだんと大きさを広げている。
 星を呑み込み、地上に影を落とし、ぐんぐんと範囲を広げていくのだ。人々は愕然とした表情で空を見つめ、恐がって隣の人とヒソヒソ話をしたり、興味深々に写真を撮っていたりした。無論、ダーヴィットは黙ってそこに立っているようなことをするくらいなら、風呂場で自殺するほうがマシだと思っただろう。怯えるアリシアに「待ってて」と一言呟くと、自分は屋上へつづく螺旋階段を駆け上がった。アリシアがなにかを叫んだが、ダーヴィットにはとどかなかった。

 あれはなんだ? なんなんだ? まったくわからない。ただ、新しい天気の一種だということはないだろう。ダーヴィットは屋上にあがった。枯れた花の植木鉢を二、三蹴り倒し、空のブラックホールに近づけるだけ近づいた。隣のアパートの屋上にも、おなじく何人かが恐々と空を見上げ、囁き交わしている。ダーヴィットは眼鏡をかけなおし、ごくりと生唾を呑んだ。そして、五秒と経っただろうか。ダーヴィットには一瞬の出来事に感じられたが――黒い奈落の穴底から、ぬっと大きな影が頭を出し、翼を広げた。
「悪魔だ!」
 誰かがそう叫んだ。また誰かは悲鳴をあげながら、「大鷲よ!」と喚いていた。目をまん丸にし、口をぽかあんとあけたまま、ダーヴィットは、それがゆっくりと穴から姿を現すのを見つめた。辺りのざわめきやら悲鳴やらが大きくなる。風が異様に強かった。植木鉢が音をたてて転がり、ダーヴィットの足にぶつかって止まった。次の瞬間、穴から這い出していたなにかが、轟々と風を巻き起こしながら宙に舞い上がった。
「ダン!」
 アリシアだ。階段の手すりに必死に縋りつきながら、顔を真っ青にしてダーヴィットに向い叫んでいる。
「そこじゃ危ないわ! 早く戻って!」
「ぼくは平気だ! 君こそ部屋に戻ってろ!」 
 ダーヴィットは声を張り上げた。風の唸る音のせいで――それから、きゃーきゃーわーわーの雑音のせいで――叫ばないと会話が成り立たないのだ。ダーヴィットはまた空を見上げる。そしてはっと目を見開いた。ブラックホールと対峙して宙に浮んでいる「それ」は、間違いなく鳥だった。琥珀色の大きな体に、黄色く光る眼光。鳥が羽ばたくたびに風があたりを襲った。
「あの鳥だ……!」
 そう、まさに。ダーヴィットの夢に必ず登場していたあの鳥の姿であった。
後ろでアリシアが息を呑む気配がした。そしてダーヴィットも異変に気付いた。先ほどまでは広がるだけだった空のブラックホールが、今は獲物を捕らえんばかりの勢いで風を吸い込み始めたのだ。足元の植木鉢が宙に浮き、あっという間に空へ飛び出して、そのまま暗闇の穴にすっぽり呑み込まれた。今やブラックホールは恐るべき吸引力で、手当たり次第にあたりのものを吸い込み始めた。ダーヴィットは思わず、近くのポールにしがみ付いた。大変だ――どこかの家から洗濯物が飛んでいった。看板やら街灯やらがミシミシと悲鳴をあげている。アリシアの方を振り返ると、彼女はしゃがみこんで必死に手すりにしがみ付いていた。ポールが軋む――
「ダンっ、あぶないっ!」
 アリシアが叫び、振り向いたダーヴィットは、看板の一部がまっすぐ飛んでくるのを見た。
 思わず手がポールを離した。慌ててつかもうとしたその時には、ふんわりと足が地面を離れるのを感じていた。
 ああ、むこうでアリシアが自分の名前を叫んでいる。最後に耳の横をヒューっと三輪車が通り過たのを目にした。
 それっきり、視界に幕がひかれてしまったかのように。ただただ真っ暗な世界にぽっかりと包まれてしまった。





―――あれ? アリシア?
 まったく、どこに行ったんだ。せっかく髪も整えて、プレゼントも準備したのに。
 今日の約束を忘れてるんじゃないだろうな。あれ? いや、待てよ。まだ約束してないんだっけ?
 しまった。急いでアリシアのところに行かなきゃ。この花が枯れてしまう前に。
 ああ、よかった、来てくれたのかアリシア! どうして鳥に乗っているんだ? はやく降りてこいよ。

「目を開けろ。それから立て」
 アリシアとは似つかない、ハスキーな声が言った。頭の中の風景が音を立てて崩れ落ちると、だんだん、ゆっくりと、現実に広がる世界が見えてくる。意識がはっきりしてくると同時に足の痛みを感じた。まだぼんやり曇っている目をぱちぱち瞬き、ダーヴィットは光を受け入れた。そして一瞬目を見開き、またゆっくり閉じた。
「閉じてどーする。それじゃあ見えないだろうに」
 ハスキーな声の主がそういうのが聞こえた。だが、ダーヴィットは目を開かなかった。
 冗談じゃない――たった今、目を開けたその瞬間に見えたものはなんだ?冗談じゃないぞ……。
 次に目を開けたら、アリシアの顔があればいいと願いながら、ダーヴィットはとうとう重たいまぶたを開いた。 
「そんな……嘘だろ」
「失礼な。お前、自分の顔を見たことあるのか?よっぽど胡散臭い顔をしているよ」
 ダーヴィットは答えなかった。いや、答えられなかった。いま目の前で、自分に話しかけているのは、鳥だ。アリシアどころか人類ですらない。地べたに倒れこんだダーヴィットに覆いかぶさるようにして覗き込み、その鳥は、灰色の嘴をカチカチ鳴らした。自分よりも大きな鳥だ。ダーヴィットはきっとまた夢を見ているのだろうと思い、再び目を閉じた――スッパコーン! 鳥に頭を横様に叩かれて、ダーヴィットは無様に悲鳴をあげながらごろごろと転がった。
「だから寝るなと言っているだろう、この眼鏡。そのにんじん臭い顔突っつくぞ」
 ずり落ちた眼鏡をあげつつ、ダーヴィットは立ち上がった。夢じゃない。夢だったら鳥はしゃべらないはずだ。自分の理論武装された科学脳が、そんなメルヘンな夢を見るはずはない。だとすればこれは間違いなく現実なのだ。まあ、もっとも、ダーヴィットの頭がくるくるぱんになったというなら話は通るが。
 立ち上がって対峙してみると、鳥の大きさが良くわかった。誰か、長い定規かメジャーを持っていれば借して欲しいところだが、翼を広げたらかなりの大きさだろう。ぼさぼさと乱れた琥珀色の体、琥珀色の翼に大きな目。なんでも掴みそうなゴツゴツした対趾足。なんの種類なのかは見当がつかなかった。大きな鳶か? ただ、ブラックホールの下で誰かが叫んだ「悪魔」よりは、「大鷲」のほうが限りなく近いことはたしかだった。
 ブラックホール―――そうだ、いったいどうなったんだ?
 ダーヴィットは迷ったが、ここにはダーヴィットと鳥以外には誰もいない。仕方なく、嘴を鳴らしている鳥にむかって話しかけた。
「きみは――あー……、あれはなんだったんだ?」
「いいか、野菜眼鏡。それより落ち着け。落ち着いたら辺りを見てみろ」
 鳥は低い声でそう言い、ダーヴィットははっとした。
 あたり一面緑色だ。まるで、新緑色のカーペットのように、ずっとずっと向こうまで続いている。真っすぐな大地の遥かには山脈が見えた。アパートどころか掘っ立て小屋の影すら見当たらない。なぜもっと早くに気付かなかったのだろう――まあ、もちろん、喋る鳥に気を取られていたのだけれど。
 ダーヴィットはしばらく呆然とあたりを眺め回して、それから鳥を振り返った。鳥は退屈そうに毛づくろいの最中だった。
「ここはどこなんだ? あれからどうなった?」
鳥の黄色い目がじろりとダーヴィットを睨み付ける。
「のっぱらだ。なんにもない。木の実もなけりゃ、うさぎもきつねもいない。まったく不愉快だ」
「いや、そういう事じゃなくて……。ええと、その、あれだ。いったいぼくはどうなってるんだ?」
 ここで、鳥の声のトーンが明らかに下がり、言葉ひとつひとつに不愉快さが浮んでいることにダーヴィットは気が付いた。
「まったく予想外のことだった。やっぱり、あの時、博士のいう事を聞いておくべきだった……こりゃ、こってり叱られる」
 そう言って、鳥はブルブル身震いしたらしかった。ダーヴィットは動揺し、混乱してはいたが、もともと普通の人より少しずれだ思考の持ち主だ。喋る鳥にも広がる野原にもめげずしっかりと地面に立っていた。背の低い草が足をくすぐり、爽やかな風が寝癖のついた髪を撫でていった。頭の中を整理しようとして、なんとなく、なんの考えもつかぬまま、ダーヴィットは空を見上げた。青い空だった。まるで子供部屋の壁紙みたいだ。白い雲が点々と浮き、小さな小鳥がぱたぱたと青いプールを泳いでいった。さっきまで星空が広がっていたはずなのに――

 なんともゆっくりと時間が過ぎた。ダーヴィットの頭の中ではアレコレ勝手な自己理論戦争がまき起こっていたが、その傍ら、琥珀色の鳥はじっとダーヴィットを見つめていた。
 しばらく経っただろうか。鳥がダーヴィットに話しかけた。ダーヴィットの脳内裁判所では、まったくきちんとした決議は出ていなかった。
「わたしはかえる。酷い一日だった。もう二度とあんなものには吸い込まれたくない」
 すかさず、ダーヴィットの口が動く。
「あれの正体を知っているのか? あの、ブラックホールの? あれは一体なんなんだ? 空が歪んだ瞬間に何が起こっていたんだ。きみはあそこから出てきた。そして、ぼくはあれに吸い込まれ、気が付いたらここにいた。ここがどこかも分からない。だがきみは知っているんだろう? 教えてくれ。ぼくはずっと研究してきた。知りたいんだよ」
 ぺらぺらと話し続けるダーヴィットに思いっきり嫌な視線をぶつけ、飛び立つ前のストレッチに羽を動かしながら、鳥がカチカチ嘴をならす。その響きが脅す雰囲気を醸し出していたので、ダーヴィットは思わず口をつぐんだ。鳥はやはりじろりと見下すようにダーヴィットを睨み付ける。それから今までで一番低い声で言った。
「わたしたちはあれを、ブラックホールとは呼んでいない。『メヌワームの穴』、そう呼ぶ。詳しいことは私には分からない。ただ、メヌワームの穴は、こちらの世界と裏の世界の壁を一時的に取り除くことが出来る。我々はそう理解している。そしてお前はメノワームの穴に吸い込まれ、こちらへやってきた。」
「裏の世界? じゃあ、やっぱり、ここは空の向こうの世界なのか!」
「違う。そちらの貴様らの世界が、空の反対側の世界なのだ。お前らの住む世界は、空の裏側にある。こちらが表だ。まあ……どうでもいいか。野菜眼鏡のおちゃんべらに付き合っている暇はない。帰らないといけない。さあ、乗れ」
 自分の説は正しかった、という興奮で輝いていたダーヴィットの顔から光が消えた。
 鳥はさっきよも大きく翼を揺らしてダーヴィットを見つめている。ああ、やっぱり、そういうことなのかな? でも、できればそれは避けたい……。
「背中に乗れ。博士のもとに帰る。お前は貴重なむこうの証人だ。さあ、早くしろ野菜眼鏡。くれぐれもそっと乗れよ。羽を抜いたら泣くからな。それと、できれば首の上のほうに捕まってくれ。骨に当たると痛いから」
首の上らへんがどこだか分からないまま、ダーヴィットは鳥へ近づく。胸が高鳴ったが、アリシアのときとは全く違う高鳴り方だった。鳥は体をかがめてダーヴィットが乗りやすいようにした。ダーヴィットは、そっと、固そうな鳥の背に足を回した。
「なあ、手綱とかはないんだよな?まさかそんなにスピードは出ないよな。夢ではけっこう速かったんだけど、その時は、ぼく、余裕で両手を離してたんだ。でもまさか、そんな……」
「黙れ野菜眼鏡」
鳥が羽ばたき、ダーヴィットはぐらりと揺らいで前につんのめり、寸でのところで首――首なのか胴なのかよく分からない――にしがみ付いた。おかげで滑り落ちずにすんだが、すぐに、夢の通りにはいかないことに気が付いた。鳥が一気に上空に飛び上がっただけでダーヴィットは泣きそうになったし、翼を羽ばたかせ直進し始めると、気持ちが悪くなった。両手を離して吼えるなんてできそうにもない。真っ青な顔でへばりつくダーヴィットに向って鳥が笑う。
「心配するな、眼鏡! 半日もかからん。ところでお前、名前はあるのか?」
 半日も飛び続けた後に自分が生きているか自信がないまま、ダーヴィットが答える。
「ダーヴィット」
「ラービット? ラビットか? うん、うさぎは美味いぞ。新鮮な仔うさぎの肉は最高だ。まあ、人間の子の肉にはまけるがなあ……」
 ダーヴィットはぎょっとして鳥の後頭部を見つめた。鳥はまた寶かに笑った。
「冗談だ、眼鏡。人の肉を食うのはもう随分前にやめた。博士が嫌がるからな」
 随分前にやめた、ということは、昔は子供を食べていたということなんだろうな。
 頭の中に、鳥が死んだ子供の体を啄ばむ姿がぽっかり浮んだ。余計に気分が悪くなりそうだ。ダーヴィットは要らない想像をもみ消すように、ばかみたいに鳥に大声で話しかけた。
「君は名前はあるのか?」 
 鳥が低く唸る。
「あるに決まっている。だが、うさぎ如きに我が名を呼ばせたりしない。分かったか、うさぎ」
「ラビットじゃない、ダーヴィットだ!」
「はあ? ランビット?」
 その後は、ダーヴィットは鳥に向って話しかける元気もなくなり、ただべっとりと死んだうさぎみたいに背中にへばりついていた。鳥――他に呼びようがないので「鳥」と呼ぶが――のほうは時々、気分にまかせて激しく羽をばたつかせたり、嫌がるダーヴィットを無視して急降下してみたりと、なんだか楽しそうにゆうゆうと飛び続けた。緑の野原を超え、深い谷を通り越し、遠くに見える海を見つめ、ダーヴィットは飛び続けた。日が段々と高度を下げていく。
ダーヴィットは、アパートの一室が懐かしかった。あれだけ熱心に研究していた世界が実在したという興奮も、なんだかすぐに消え去ってしまっていた。あまり実感がないのも事実だった。喋る鳥には驚いたが、なんというか、思っていた世界とは違ったのだ。それでも普段のダーヴィットなら更なる探究心に燃えるところだっただろうが、鳥の背にあっちこっちへ揺られた状態で、いち早くベッドに戻りたい衝動には勝てなかった。
 「ああ、くそ! 面倒くさい奴らが来た」
 鳥が悪態をついた。意識が朦朧としていたダーヴィットもはっと我を取り戻し、前方になにかを見つけた。
 小さな何かがこちらへ向い飛んでくる。二匹、いや、三匹。初めは小さな鳥のように見えたが、段々と近づいてくるにつれ、それが大きな翼をもつなにかだという事に気付いた。自分が乗っている鳥よりは大分小さいが、それでも常識から見れば不自然な大きさだろう。両翼が光にあたってキラキラと輝いている。ダーヴィットは目を見張った。
「あれはなんだ? きみの仲間か?」
「違う。わたしとは対立する種族だ。そして、わたしとは比べ物にならないほど、愚かで弱い」
 そう言う鳥の目が怪しくギラリと光を放つ。もうすぐそこまで近づいてきたその姿をみて、ダーヴィットは声をあげた。
 分類するならば、それは「鳥」で正しいのかもしれないし、もしかしたら違うのかもしれない。むしろ「恐竜」といったほうが近いだろうか。ただ確実に、ダーヴィットはそんな生き物を見たことはなかった。鱗に覆われた灰色の体に、不釣合いに大きい硬そうな銀翼を広げ、不気味に飛び出した赤い両眼をそろってこちらに向けている。大きくぱっくり裂けた口には大きさがまちまちの牙。今にも襲い掛かってきそうな雰囲気を醸し出し、三匹のそれは鳥の周りを旋回し始めた。ダーヴィットの首があっちへこっちへ向く。鳥はぐんと羽を広げ、高みへ飛び上がった。
「捕まっていろ、ラビット!」
「どっ、どこに?!」
 答えもなく、やはり首にがっしりしがみ付くしかないまま、鳥は突然「敵」目掛けて急降下した。悲鳴をあげるダーヴィット。「敵」は鳥の勢いに散り散りになり、空中でもがき喚いた。ついに振り落とされるかと思った瞬間、鳥は危ういところで体勢を立て直し、再び高みに舞い上がった。
「かっ、勘弁してくれよ……」
 変にひっくり返っていて自分の声ではないようだった。鳥は下でぎゃあぎゃあ叫んでいる「敵」を見下しながら言う。
「奴らは脆い。だが、お前はもっと脆い。ここから落とせばいいエサになる」
「そ、そんなの冗談じゃないぞ! あいつらにモグモグされろって言うんなら、ぼくは……」
「黙れラビット。来るぞ」
 その通り、ダーヴィットが下を見た時には、三匹が鳥めがけて飛んできている真っ最中だった。
 牙をむき出して真っすぐ目掛けてすっ飛んでくる。慌てふためくダーヴィットを乗せ、鳥は真っすぐ「敵」を見つめたままに、またもや急降下していく。「敵」が範疇に入ったその瞬間、鳥は巨大な翼を、まさに剣の柄を抜くかの如く鋭く広げた。翼がまるで刃のように「敵」を切り裂いた。鳥の背で、ダーヴィットは、降下していくその中で赤い血が後ろへ流れていくのを目にした。なにかが風を切りながら下へ下へと落ちていく音。そして、固い地面に激突する鈍い音が響き、そのあとは静寂がまっすぐ流れた。
 鳥が再びゆったりと宙に浮く。大分ずり落ちた眼鏡をなおし、ダーヴィットはしばらく口がきけなかった。
「どうした、え? 驚いて声も出ないか。いやはや、まあ、わたしの力はざっとこんなものだな」
 得意げに鳥が言う。ダーヴィットは口をぱくぱくしたが、言葉にならなかった。
「はん……情けないな。さすがはうさぎちゃんだ。さて、そろそろ行くか。無駄なエネルギーを消費した。早く寝床にはいって休みたい……」
「ああ、そうだね……」
 やっと声が出たと思ったら、かすれた情けない声だった。鳥が馬鹿にしたように笑った。
 さっきまでの騒ぎが嘘のように静かな空だ。最も、思えば一瞬の出来事であったが。
 ダーヴィットは体勢を立て直し、改めてしっかりと鳥の首に捕まった。
「なあ、もしかして、一度地上に降りて休憩、なんてできないかなあ?」
 鳥は大あくびをした。
「出来ないね」
 ダーヴィットはがっくり肩をおとす。まあ、大体答えは予想がついていたけれど。ところが鳥は悪戯っぽく嘴をならし、ぐるりとダーヴィットを振り返った。
「と、言おうと思ったが。ちょうど下に川を見つけた。無駄な戦いに使った労力を取り戻すことにしよう」
「ああ、それがいい! よかった。最高だよ!」
 ちょっと間を置いて、鳥はゆっくりと高度を落とし始めた。ゆっくりなのがダーヴィットにはとても嬉しかった。緑の大地が段々と近づいてくる。少し離れたところに三匹の潰れた死骸が見えた。近寄って調べたい衝動にかられたが、もし息が残っていて噛みつかれでもしたら大変だ。鳥は死骸には目もくれずに旋回しながら川辺に降り立ち、ダーヴィットが降りやすいように身をかがめてじっと待った。ダーヴィットの足は変な具合にぐらぐらしたが、少しストレッチすると元通りになった。
「なあ、あれが何だったのか聞いてもいいかい?」
 穏やかに流れる小川に近づきながらダーヴィットが言う。鳥はふんわりと宙に浮きながらついてきた。
「ウィシュラだ。谷に群れで巣食っている」
 鳥の答えは単純だった。ウィシュラがなんなのか、さっぱりだ。メモを取りたくてうずうずしながら、ダーヴィットは手を水にちょっとぬらした。 
 川の水は驚くほどにきれいで冷たい。遠くの山のほうからずっと流れてきているようだ。辺りに広がる薄緑色の大地には木々も見当たらない。飛び立った草原におなじく、ここにも人や文化の姿はちらりともうかがえなかった。
「そのウィシュラっていうのは、鳥なのかな? 肉食なのは間違いなさそうだけど」
「さあな。我々はただあれをウィシュラと呼ぶ、それだけだ。奴らは間違いなく肉を食う。わたしと同じだ」
 そう言いながら鳥も嘴を川に突っ込む。ダーヴィットは腰をおろし、鳥を見つめた。
「きみはどうして言葉を話すんだ? さっきの奴ら――ウィシュラは話さないだろう」
 水をごくり、ごくり。鳥が大きな顔をあげる。
「私は頭がいい。人をも凌ぐ知能を持つのだ、うさぎ。……お前こそ、なんで人の言葉を喋れるんだ? うさぎのくせに」
 ダーヴィットは顔を顰め、鳥は面白くもなさそうにフンと鼻で笑った。鳥に聞きたいことは五万とある。けれど、なんだか疲れてしまって頭がうまく働かない。このままここに倒れこめば間違いなく眠れるだろうな。鳥曰く「裏の世界」でアリシアの顔を最後に見てから、どれくらい時間が経ったのだろうか。そういえば、アリシアは無事だったのか? そう思った瞬間、ダーヴィットははっとして鳥に向き直った。
「なあ、穴に吸い込まれたのはぼくだけだったのか? 他に誰か――?」
「いいや。お前だけだった。お前がメヌワームに飛び込んでいくのをみて、わたしが受け止めた」
「なぜ空が裂ける? メヌワームの穴は、どうして異なる世界を結ぶ?」
「知らん。博士はずっと調べている。賢い人だ。メヌワームの穴が世界を繋いだのは初めてじゃない。だが、ここ数百年では、一番新しい現象だ。最後にあれが現れたのは百二十年前だった。わたしはその時まだ若かったな」
 鳥が何気なく言った言葉にダーヴィットが驚く。
「若かった? きみ、百二十年も生きてるのか? すごいな。まだ跡継ぎはいないのかい?」
 疲れたダーヴィットの脳の片隅で、学者として驚き叫ぶ声がしたが、ダーヴィットは軽い冗談のように笑い飛ばしただけだった。深いところまで突っ込む意欲もないのだ。鳥は答えずに、上空を飛び回る小鳥を黄色い目でじっと見つめていた。ダーヴィットは疲れていたが、鳥はまったく平然としていた。まあ、鳥の表情を読み取るのは難しいが、少なくとも、そう機嫌が悪くもなさそうだ。一瞬の空中戦にうろたえた様子もない。ここじゃ当たり前のことなのだろうか。ふと顔をあげると、大地のはるか遠くに緑色のかたまりが見えた。後ろを振り返るとさっき通り過ぎた谷間がわずかに見える。ダーヴィットは眼鏡をはずし、水で顔を洗い、再び眼鏡をかけなおした。
「どこに向っているんだ? 博士っていうのは、人間なんだろうな」
 鳥が尊大に翼を広げる。
「お前とは違う、非常に高潔な方だ……それに美しい。わたしは人間は嫌いだったが、博士に出会い心を入れ替えた。今は人にたいして敬意を抱くようにしている。人はわたしが思う以上に強固な生き物であった……お前は別だ、裏のうさぎ。さあてと、そろそろ行けるか? 目的地はそう遠くない」
 ダーヴィットは頷いた。しっかりと大地を踏み立ち上がる。鳥が優雅に舞い上がり、ダーヴィットのすぐ脇に着地した。背をかがめ、乗れの合図だ。ダーヴィットはごくりと唾を呑み、頬をぱしぱし叩くと、憤然とした態度で鳥の背に向って足を伸ばした。
2007/10/08(Mon)14:56:22 公開 / くりおうじ
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■作者からのメッセージ
初めまして。くりおうじと申します。
こちらに投稿するのは初めてなのでとても緊張しております。
まだまだ小説を書きなれていないので、歯がゆい部分もあるかと思いますが、よろしければアドバイスなど下さるとくりおうじが飛び上がって喜びます。
徐々に更新していきたいと思います。

更新しました。前回の分に追加修正。
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