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『戦鬼夢想 その二』 作者:神夜 / リアル・現代 異世界
全角39890.5文字
容量79781 bytes
原稿用紙約115.3枚
紅い世界にいたのは鬼。鬼に捕まれば『鬼』になる。正真正銘の鬼ごっこが始まりを告げる。





     「鬼」



 煙草を吸うための火がなかなか点かない。
 擦り石が極限まで磨り減った代償なのか、それともガスがないだけなのか、もしくはその両方かもしれないのだが、とにかくライターの火が点かない。どうやら本格的に壊れてしまったらしい。むしろ落ちていた百円ライターが今までよく保ったと感心するべきか。点かない百円ライターを喫煙所の灰皿の中に無造作に投げ捨て、空いた手でポケットの中をまさぐるがライターは当然のように入っていない。
 喫煙所で煙草を咥えながら、浅川倖斗(あさかわゆきと)はため息を吐く。
 都合の悪い事に、今のこの時間だけはなぜか他に喫煙所に訪れる者がいない。咥えた煙草を今さらしまい直す気にはなれないし、かと言ってこのまま煙草を捨てるのは勿体無い。それどころか煙草が吸いたくてここまで来たのだ、吸えないとなると余計に吸いたくなってしまう。投げ捨てたばかりのライターを指で摘んで拾い、もう一回試してみるがやっぱり点かない。指が汚れただけ気分が萎える。
 もう一度ため息。
 仕方がない、煙草を吸うのは諦めよう。だけど何かを咥えていないと落ち着かない。煙を吹いていなければ吸っていることにはならないし、どうせ戻すのならこのまま咥えて帰路に着こう。そう決断して踵を返して喫煙所を後にしようとして、しかし脳味噌の一部がどうしても諦めてくれなくて、未練たらしくもう一回だけ、最後の一回だけ捨てたライターを試してみるが、当然のように点かない。
 腹癒せに力強くライターを投げ捨てながら喫煙所から出た。
 二時間目の講義がない学生が目の前をちらほらと歩いて行く。
 みんな実に楽しそうだ。何がそんなに可笑しいのか、木陰になったベンチで数人の男女が大声で笑いながら和気藹々とお喋りしている、カップルと思わしき二人組みが手を繋ぎながら食堂の方へ歩いて行く、寝坊したのか頭の寝癖をそのままにした男が慌てて走っている、人がたくさんいるくせに喫煙所に入って行く奴は一人もいない。そんな光景をぼんやりと見つめながら、倖斗は火の点いていない煙草を咥えながら歩き出す。
 何のためにこの大学に入ったのか――そう聞かれれば、倖斗は明確な答えを返すことができない。
 ただ高校のときから漠然と進路は大学進学を決めていたし、成績はそれほど悪くなかったから特に苦労することもなく大学には入れた。入れたのが、世間から見ればここは三流大学以外の何ものでもなく、就職した奴らから言わせれば「そんな無駄金払うくらいなら働いたほうがよっぽど為になる」と口を揃えるだろう。倖斗も実際そう思う。だけど大学を卒業するまでの四年間は楽をしたかったし、高校卒業後すぐに働くのは嫌だった。駄目人間の典型である。
 夢もなければ趣味もない、この大学に入って来る奴らはきっと、少なからず自分と似たり寄ったりなのだと倖斗は思っている。
 ただその中で知り合いを作って友達になり、無意味な大学生活を限りなく有意義に過ごそうと考えるかどうかの違いはあるはずだ。この大学に友達と言える友達はいない。知り合いなら何人かいるが、大学以外の付き合いはなかった。別に外でわいわい遊びたいとも思わないし、無駄に騒ぐくらいなら一人でどこかをふらふらしている方がよっぽどいいのだ。
 いつからこんなつまらない人間になってしまったのか――。
 高校を卒業した辺りからだろうか。高校時代の友人はほとんど就職してしまった。それが原因なのかもしれない。一人だけ弾き者にされてしまった気分で、大学で何もせずただ無駄金を払っているだけの自分が後ろめたかったのだろう。いつしか友人とも連絡を取らなくなって、ここ最近では連絡すら来なくなってしまった。ただ変わらない毎日を漠然と過ごし、変わらない日常に飽き飽きしながらも抗えず、何をするでもなく、日々を過ごしていた。
 こんなつまらない人間が果たして、この大学に何人いるのだろうか。
 門を出たとき、倖斗は一度だけ振り返る。しかしすぐに前を向き、のらりくらりと歩いて行く。
 今日の予定は特にない。いつものことである。昼前に大学が終わったときは大抵、このままどこかをふらふらして時間を潰し、一人暮らししているアパートに戻って適当にカップラーメンでも食べ、風呂入って歯磨いて大人しく寝る。そんないつも通りの行動である。彼女の一人でも作れば生活は一変するのかもしれないが、どうしてもこの大学でそんなものを作る気にはなれなかったし、そこで作る気がないのなら他に出逢いの場所はなく、作ることなど到底無理だろう。
 なんとつまらない人生か。
 ここいらで一発、とんでもない事件でも発生して欲しい。久しく漫画などは読んでいないが、突然にしてどこか別世界に呼び出されたりして、そんな折に自分はなぜか特別な力を授かる。その力を駆使して向こうの世界では最強の存在となり、世界を滅ぼそうとする悪との戦いの末に勝利し、英雄のように扱われながら暮らす。昔はよくそんな突拍子もないことを考えていたことがあった。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。
 そんなことが起きないからこそ、人間は不変的な毎日を精一杯生きて行かねばならないのだ。
 だけどどこかでそんな希望を持っていないときっと、その不変に耐え切れずに暴走してしまったりするのだろう。だから人は考えるし、妄想だってする。でもその考えや妄想を、きっちりと割り切って日々を生き抜かなければならない。その中に取り残されてしまえば、不変の世界にあっと言う間に置き去りにされてしまうだろう。
 帰路を歩いて行く。
 途中でコンビニにふらりと足を向けた。煙草を咥えながら入店する倖斗を見て、店員が露骨に嫌な顔をするが注意をして来ない。わざわざバイト如きが面倒事に首を突っ込むこともしないだろう。悪いとは心の片隅で思いながらも咥えることは決して止めず、棚に視線を移してライターを探し、豊富な種類の中から一番安いものを掴んでレジへと足を向けた。財布から百円を取り出して金を支払い、返って来た二円を募金箱の中に入れて店を出る。
 煙草に火を点けた。
 煙が肺を伝わってくる。吐き出した煙はゆっくりと形を変えながら空間を舞い、やがて吹いた風に掻き消されて見えなくなる。その場で二、三回同じことを繰り返した後に、倖斗は歩き出す。これからどうしよう、といつものように思う。久しぶりに電車に乗って無意味にどこか遠くへ行ってしまおうか、とも少し考えるが、そんな面倒臭いことをすることに脳味噌が嫌々をする。
 コンビニから歩いて行くと、ふと目についたものがあった。
 歩道の片隅に、花束がそっと添えてある。
 なんだこれ、と思う。
 辺りの状況を確認する。花束が置いてあるのは歩道の電信柱の下で、そのすぐ横には車道があり、反対側には少し大きめの公園。この時間、子供は学校に行っているだろうから公園に活気は見られないが、赤ん坊を連れた主婦がまばらにいて、所々で世間話をしている。公園に車道、歩道の電信柱の下に置かれた花束。
 ああ、と倖斗は思う。
 ここがそうか。大学に友人はいないが、講義中に他の奴らが喋っていたことを思い出す。確か大学の近くの公園で、子供が誤って車道に飛び出て交通事故に遭ったらしい。子供は死んでしまったのだと聞く。つまりここがその公園であり、この花束はその子供に向けられたものなのであろう。
 ため息をひとつ。
 倖斗はその場にしゃがみ込み、花束を見つめる。
 ここで死んでしまった子供がどんな子なのかは知らない。だけどこの子はきっと、自分よりも遥かに輝いていたのだろう。未来に何の不安もなく、大人になることに憧れて、不変なはずの世界を無意識の内に否定し、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったはずだ。この子供を轢いてしまった車が悪いとは言わない。社会的に見えれば車が悪いのだろうが、どちらかを一方的に責めるのは理不尽である。しかし言おう。代われるものなら代わってやりたい。こんな生きる希望さえも持っていない自分よりも、ここで死んでしまった子供の方が、生きる価値があったはずだ。なんと残酷な世界だろうか、なんと冷たい世界だろうか。生きる価値のない自分が生き、生きる価値のある子供が死ぬ。不条理だ。
 倖斗は胸ポケットから煙草を取り出し、今咥えていた煙草を一時的に離して火を点け、煙が上がったことを確認してから花束の側に添える。線香の代わりと言っちゃ不謹慎過ぎるだろうが、ないよりかはマシであろう。手を合わせる。特に思うことなどないが、それでも手を合わせて黙祷する。
 何分くらいそこでそうしていただろう。無意識の内にかなりの時間が経っていた。
 気づけば先ほどつけたばかりの煙草は半分くらい減っていたし、咥えていた煙草がいつの間にか根元まで来ていた。吐き捨てて足で踏み潰し、そのまま捨てて行こうと思ったが思い止まる。シケモクを拾いながら立ち上がり、倖斗はもう一度だけ、花束を見つめる。何かを感じたわけでもないし、何かを意識したわけでもない。ただ漠然となぜか、明日もまた、ここへ煙草の線香を上げに来ようと思った。
 再び歩き出す。
 空を仰げば太陽があった。
 夏が終わり、秋が迫っている。今年で人生二十一回目の秋である。深い思い入れがあるわけでもないが、それでも四季の中では秋が一番好きだった。紅葉が綺麗になったら、花束の代わりに紅葉でも添えてやろうか。それで少しでも死んでしまった子供が喜んでくれれば、自分が生きている価値も僅かにはあるのかもしれない。
 いつしか、花束の横に添えた煙草の火は消えていた。

     ◎

 気づけばどうやら寝ていたらしい。
 ふと目が覚めて天井を見やって、三秒後にここが自分の部屋のベットから仰向けに見る風景なのだと思い至る。
 もそもそと起き上がる。寝ていたはずなのだが、どうも寝た気がしない。ベットの側に置いてあった2リットルのスポーツ飲料の入ったペットボトルを持ち上げ、キャップを外して中身を飲む。温いが寝起きの身体にはこれくらいがちょうどよかった。無意識の内に煙草を探している自分の手に感心しながらも、もう片方の手でライターを探した。二つを同時に見つけ、ケースから煙草を一本取り出して咥え、ライターで火をつける。
 寝起きの脳味噌に酸素が回る。
 今何時だ、とようやく思う。
 壁に掛けてある何の味気もない丸い時計を眺め、倖斗はふと首を傾げた。
 時計は短針長針共に、「12」を指していた。AMなのかPMなのかわらかない。普通ならカーテンに遮られた窓の外から射す太陽の光でどちらなのかわかる。昼の十二時なら外は明るいから白い光が射し込んでいるはずだし、夜の十二時なら部屋自体が真っ暗なはずだ。時計が十二時を指しているのならば、その二択しかないはずである。なのになぜ、今の時間がAMなのかPMなのかわからないのか。それは、窓から射し込んでいるものが、普段とまるで違うせいだ。
 窓の外が紅い。
 まるで夕陽のようだ。夕方の十二時とはそれ如何に。
 ベットから立ち上がって数歩歩き、カーテンを捲った。
 何の変哲もないいつもの光景がそこにある、あるはずなのだがどこか違う。街は夜のように静まり返っているくせに、空だけが妙に紅い。夕陽かと思っていたのだが空には太陽どころか雲ひとつとして浮かんでいなかった。違和感。不思議な光景だ。深夜のように街は静かなのに、なぜか空は紅いのだ。二十一年生きてきたが、これほどまでに不思議な光景を見たことがない。きっと世界が滅亡したらこんな感じなのではないだろうか。
 煙草の灰を灰皿に落とす。
 時計をもう一度見やる。秒針は動いている、止まっていない。時間が狂っているわけではなさそうだ。ただビデオデッキの電源が落ちているようで、デジタル時計が表示されていない。不思議に思って電源ボタンを押してみるがうんともすんとも言わない。壊れてしまったのかとも思ったがどうやら違う。ビデオデッキだけではなく、テレビや他の家電も動いてはおらず、もちろん部屋の電気だって点かなかった。
 停電らしい。そのせいで街がこんなにも暗く静かなのか。
 停電する、という回覧板は回って来なかったところを見ると、事故か何かで停電したと考えられる。
 電気会社もいい加減な仕事をする。早く停電が復旧してくれないものか。何か腹が減ってきた。何時間前から停電しているか知らないが、下手をすれば冷蔵庫の中が全滅するかもしれない。が、もともと全滅するだけのものが入っていたとは思えないし、そもそも停電にならずともすでに食材は消費期限を過ぎて屍になっている可能性もある。やはりここはカップラーメンでも食べるべきか。しかし面倒なことにポットは使えない、ガスでお湯を沸かさなければならない。
 手間が掛かるが仕方がない。
 やかんを引っ張り出して中を覗いてみる。大丈夫、虫は入っていない。ただししばらく使ってないから洗うくらいはしておいた方がいいだろう。そう思って蛇口を回した。回したのだが水が出て来ない。首を傾げてもっと回すが出て来ない。蛇口が最後まで回り切っても、水滴のひとつとして出て来なかった。水道が止まっているのだろうか。だがどうして。料金はちゃんと払っている、止められる理由がない。確認のために洗面所の方の蛇口を回してみるがやっぱり出ない。
 何なんだよくそ。悪態をつきながら、勿体無いとは思いつつも非常用として置いてあった「六甲の美味しい水」でやかんを濯ぎ、中に溜めてコンロに掛ける。掛けるのだが「チッチッチッチ」と音がするだけで一向に火が点かない。まさかガスまで止まっているのか。元栓は開いているから点かないはずがない、点かない理由はただひとつだけ、ガスが止まっているからだ。
 ため息しか出ない。
 生活の三大ライフラインがすべて止まっている。どうやって生活しろっていうのだ。
 煙草を灰皿に捻じ込みながら、大きな大きな息を吐く。
 腹が鳴った。まさかカップラーメンをそのままバリバリと食べるわけにはいかず、かと言って他に食べれるような食料はない。どうするべきか、どうしよう。何か買いに行こうか。コンビニまで行けば何かあるだろうが、停電したときもコンビニは稼動しているのだろうか。非常用の電気があるかどうかまでは知らない、知らないがしかし、何かしらの食い物くらいはあるだろう。今の状況を確認しがてら行ってみようか。
 よくよく見れば自分の格好は大学に行った時のままだった。そのまま寝てしまったらしい。着替える手間が省けた。財布と携帯をズボンのポケットにしまい込み、胸ポケットには煙草を入れる。散らかり放題のテーブルの上に無造作に置かれてた鍵を手に部屋を出た。
 外に出ると、今のこの状況がどれほど異常なのかを再度思い知ることになる。
 空が本気で紅い。これほどまでに異様な紅など、今まで見たことがない。
 そして何より、本当に誰もいないかのように、街全体が静まり返っていた。
 不気味に思いながらも歩き出す。アパートを出て、車道を見渡しても誰もいない。車の一台すら走っていなかった。こんなこと、今までに一度もなかった。ちょっとばかり怖くなって、誰かいることをどうしても確かめたくて、無意味にそこにあった家のインターホンを鳴らしてみた。が、電気が切れていることを忘れいてた。音は鳴らず、応答は当たり前のようにない。
 倖斗は自分で自分を納得させる。まあこういうこともあるさ。
 しかし歩くにつれ、見慣れた道が、まるで見慣れない場所に思えてくる。どこかまったく知らない場所に迷い込んでしまったかのような気分。人の気配がない、というのはこれほどまでに恐ろしいものなのか。早くコンビニに行って人の顔を見て安心したかった。まさかコンビニまで無人で放置されていることはないだろう。年中無休の看板に嘘偽りはないはずだ。
 歩いて行く。
 ふと突拍子もないことが頭に浮かぶ。
 もしかしてこの街、いやこの世界は、実は滅びてしまったのではないか。何が原因かはわからないが、その中で偶然にも生き残ったのが自分だけなのではないか。そう考えれば人の気配がまるでしないのにも、空が紅いのにも説明がつくような気が――待て、と倖斗は思う。ここに来て、ようやく事の重大さに気づいた。空が、紅い? 十二時なのに? 慌ててポケットにしまった携帯電話を手に取って開き、ディスプレイを見つめる。
 時刻は十二時だ。デジタル表示であるため、それがAMの十二時であることもわかった。正確には今の時刻、午前十二時十三分。つまり今は、夜であるはずだ。夜であるはずなのになぜ、空が紅いのか。本当にこの世界は滅びてしまったのか。携帯電話で誰かに連絡を取ろう、と思ったが無駄であることに気づく。あろうことか、圏外になっていた。今のこの御時世に、こんな街のど真ん中で、携帯電話が圏外になっている。これはもはや疑いようがない。
 この世界は今、何かしらの危機に直面している。
 電気水道ガスが止まっているのも携帯電話の電波が圏外になっているのも人がいないのも空が紅いのも、すべてはこの世界が滅ぶ寸前だからなのではないのか。今現在、この世界に何が起こっているのかを知る必要がある。そのためにはまず、人に出会わなければならない。誰でもいい、どんな些細なことでもいい、今のこの状況が何なのか知りたい。
 倖斗はついに走り出した。
 恐怖心に負けた、というのが本当のところだったのかもしれない。
 状況の確認など、実のところ二の次だったのだ。とにかく誰かに会いたかった。人の気配が感じられないだけでこれほどまでに恐いのか。たった一人で知っているはずの場所を彷徨うことがこれほどまでに恐ろしいとは思ったことがない。闇雲に走った。途中で目に入った家のドアを叩いてみるが反応はなく、鍵が開いていたので遠慮なく中に入っても誰もいない。急いで家を飛び出してさらに走り続ける。
 どういうことだ、なんで誰もいないんだ。
 恐怖心は焦りを生み出し、焦りは不安を運ぶ。
 そして幾度目かの角を曲がったとき、ようやく、倖斗は人影を見た。
 通りの向こう、今確かに、人がいた。その人影はゆっくりと角を曲がって倖斗の視界から消えてしまったが、見間違いではない。救われるような気がした。大声を上げながら呼び止めたい衝動に駆られながらも、そんなキャラじゃないよなと苦笑しながら走り出す。人影を見ただけで恐怖感はなくなり、焦りは消え失せて不安が安心へと変わる。これほどまでに走った記憶は高校時代以来ないが、不思議と今だけは息切れしなかった。
 もう少しで角を曲がれる、あの角を曲がれば人がいる、それだけでどれだけでも走れる気がした、そしてようやく角を、
 角を、曲がった。
 先ほどの人影がいた。
 呼び止める、
「――あのっ、すんませんっ! ちょっとっ!」
 人影が振り返る。
 言葉を失った。距離があったせいで最初はなかった違和感が、対面した瞬間、一挙に噴射する。
 ――嘘だろ、おい。
 気づくべきだったのだ。最初にその背中を見たとき、確かに見たはずだったのだ。だがある種の極限状態にいたせいで脳味噌が混乱していたのだろう、まるで気にも止めていなかった。ならばなぜ、少なくとも呼び止める前に確認しなかったのか。角を曲がった瞬間に、その姿の全貌を見たはずだ。それでも声を掛けた自分が、果てしなく愚かに思える。
 それは、人ではなかった。人であっていいはずがなかった。
 衣服を何ひとつとして着ていないせいで紅い身体はすべて剥き出しになっている、額から二本の角が皮膚を突き破って出て来ている、閉ざされた口から異様に伸びた犬歯が覗き、目がぐるりと大きく瞳の色がどす黒い。昔話のお手本のような生き物が、そこに存在していた。
 倖斗はそれを、一言で表すことができる。
 それは――鬼。
 昔話に出て来るような鬼が、そこにた。
 大きさは倖斗と大して変わらない、人間大の鬼が、こっちを見ている。鬼とは普通、もっと大きいものなのではないか。見上げるほどの巨体を持って初めて、それが鬼なのではないか。なのに目の前にいる鬼は、下手をすれば倖斗の方が大きいのだ。だが人間と大きさが大差ないことは逆に、不気味さを有り得ないほど急速に引き上げていく。
 鬼が動く。こっちに向って歩いて来る。
 恐ろしさのあまりに脳味噌が真っ白になった。
 意識したのではなく、気づけばいつしか全速力で走り出していた。振り返る勇気がついに出て来ず、鬼との距離がどうなっているのかを確認することができない。それでも走り続ける。どこをどう走ったのかすらわからないし、ここがどこであるのかさえもはやわからない。それでも走り続ける。いつまで逃げても逃げても、背後からあの鬼が追い駆けて来ているような気がして止まることができない。走り続ける。さっきはどれだけ走ろうとも息切れなんてしなかったはずなのに、今は肺が焼けそうなほど熱い。それでも止まらずに走り続ける。瞬間的に視界が縦に揺れて、アスファルトが視界一杯に広がったと思ったときにはすでに衝撃が身体を支配していた。石に躓いたのだと気づくより早くに立ち上がってまた走り出す。しかし限界はすぐ来て、目に入った見知らぬ家の庭にあった草むらに身を投げた。
 焼け死ぬかと思うくらいに喉が熱い。肩が有り得ないほど上下している。
 涙が出て来た。何がどうなっているのかまるでわからない。あれは一体何だったのか。見間違いでは絶対にない。確かにあの鬼は、自分の目の前に存在していたのだ。そしてこっちに向って歩いて来ていたのだ。あの鬼は明確な意志を持って、この自分を捕まえようとしていた。あの鬼に捕まるとどうなのかはわからない、だけど捕まった方が良かったのかもしれないとは絶対に思えない。何よりもあの外見が生々し過ぎて直視できなかった。思い出すだけで吐気がする。あんなものがなぜこの世界にいるのか。そもそもこの世界は一体何なんだ。空は紅いし人はいない、挙げ句の果てにはあんなものまでいる。ここは一体どこだ。ここは本当に自分がよく知る地球なのか。自分が寝ている間に、この地球に一体何が起こったのか、
 息を呑む、
 足音が聞こえる、
 すぐ側に鬼がいる。
 草むらの向こう、姿こそ見えないがひたひたと近づいて来る足音が聞こえる。呼吸を無理矢理押し殺して、弾むように上下していた肩を静止させる。汗と涙が混ざり合いながら頬を伝っていく。恐ろしさのあまりにボロボロと涙が次から次へと溢れ出て来る。何も考えることができない、何かを少しでも考えればそれが声となって出てしまいそうだった。
 足音が真横から聞こえたような気がした。
 その足音がふっと消えた刹那の一瞬、
 草むらが掻き分けられて、すぐそこに、鬼の顔が現れた。
 悲鳴を上げた。正真正銘の、恐怖から来る悲鳴だった。
 草むらから転がり出るがしかし、もはや走る力は残っておらず、それどころか腰が抜けて立つことができない。鬼が草むらから顔を上げてこっちを見つめ、ゆっくりと歩いて来る。その姿がただ単純に恐ろしかった。逃げようにも地面に尻がくっついたかのように動かない、助けを呼ぼうにも口が震えて声が出ない、どうすることもできないこの状況がどうしようもない恐怖を運んで来る、
 鬼の手が伸びて来る。その手が倖斗を掴むかどうかの瞬間、
「――離れなさいっ!!」
 叫び声と共に白銀の刃が空間を裂いた。
 生温かいものが顔面に降り注ぐ。それが鬼の血であることに気づけないまま一秒が過ぎて、倖斗の側に転がった手が鬼のものであるという事実さえ理解することができず、呆然と顔にかかった生温かいものの感覚だけを脳味噌が追い続け、目の前で上がった鬼の咆哮に突如として恐怖感が噴射し、悲鳴を上げようとした刹那に頬を引っ叩かれて一発で正気を取り戻す、
 叫び声、
「こっち!! 早くっ!!」
 手を引かれて走り出す。
 咆哮を上げながら血の溢れ出す右手首を天に掲げる鬼を背後に置き去りにし、倖斗は手を引かれるままに再び走り続ける。
 何がなんだかわからない。ただ自分の手を掴んで走っているこの人物は一体何者なのか。後ろ姿や先ほどの声から察するに、倖斗の手を引いている人物は女か。見たままで言うのならちゃんと服を着ているし、倖斗を掴んでいる手は人間のそれと何ひとつして違わない。少なくとも鬼ではないだろうが得体が知れないことに変わりはない。女が足を前に踏み出す度に後ろでまとめた腰まである長いポニーテールが弾み、その先端がいちいち顔に当たるのが邪魔以外の何ものでもなかった。
 どれだけ走ったのか、やがて辿り着いたのはまるで見覚えのない家の居間のような部屋だった。
 ようやく止まったことに安堵する、もう息が続かない、その場に大の字に倒れ込んで荒い深呼吸を繰り返す。
 薄目で見上げるそこに、女の背中が見える。
 その時になってようやく、その女の手に長い刃物が握られている事実に気づいた。ナイフではあるまい。刀身が足の長さほどある刃物。実物なんて見たことはないが、これはまさしく、日本刀というものなのではないか。なぜこの御時世に日本刀なんて持っている女がいるのか。それに日本刀についているあの緑色の液体は何なのだろう。
 そもそもな疑問再び、ここは一体、どこなのだ。そしてあの鬼は一体何なのか。少なくともこの女は、そのことを倖斗以上には知っているはずだった。
 疑問は声となって出る、
「あっ、あれ、はっ、いったい、なん、だっ?」
 息切れし過ぎていて上手く呂律が回らない。
 女はそれでも倖斗の言いたいことを理解し、背中を向けたまま返答する。
「――鬼よ」
 そんなことは見ればわかる、
「なん、なんでっ、あんな、もんがっ、いん、だよっ?」
 女が振り返る。
 初めて真正面からその顔を見た。声から察するに年上かと思っていたが随分と若いような気がする。倖斗と同じくらいか、下手をすれば高校生くらいなのではないか。顔立ちが凛々しく、そのせいでとこか冷めた印象を受ける。腰まであるポニーテールがなぜか無意味に似合っていて、堂々とした振る舞いが日本刀の違和感を和らげていく。鬼の次は武士の登場か、なんて馬鹿げたことを少し思う。
 女は言う。
「説明の前に顔を洗って来なさい」
 なぜ顔を洗わなければならないのか。今はそんな場合ではないだろう。
 倖斗がようやく落ち着いてきた身体をゆっくりと起こすと同時に、女は自らの持っていた日本刀を前に差し出し、近場に落ちていたタオルを拾い上げてその刀身を無造作に拭いた。附着していた緑色の液体がタオルに拭き取られ、現れるのは反射するのではないかと思うほど綺麗に磨がれた刀身である。
 ふと気づく、
「――今のもしかして、あいつの血か?」
「ええ。あなたも酷いものよ」
 思い至る。先ほど顔に噴きかかった生温かいもの。
 血の気が引いた。慌てて立ち上がって踵を返し、見知らぬ家の居間を飛び出して洗面所を探した。二つ目のドアを開いた所が運良く洗面所で、手洗い場の正面にあった鏡の前で己の顔を見た。酷いものだった。汗と血が混ざり合って流れ、まるで迷彩を施したゲリラ歩兵のような面構えになっている。顔を洗おうと思ったが水道はやはり止っていて、結局は風呂場の浴槽に貯まっていた水で何とか洗い流した。脱衣所にあったタオルで顔を拭きながら居間へ戻る。
 女は柱に身を隠しながら、窓の外を監視していた。
 呼び掛ける、
「……顔洗って来た。説明、聞かせてもらうぞ」
女は一瞬だけこちらに視線を向けた後、こう言った。
「――これは、夢よ」
 意味がわからない、
「……は?」
「この世界は、わたしたちの夢の中の出来事なの」
 堪らずに反論する、
「ちょ、ちょっと待てっ。これが夢? 馬鹿言うな、こんなリアルな夢があってたまるか」
 この世界が夢の中――そんなことを言われてはいそうですかと納得できるはずもない。
 なぜなら、先ほどまでの感覚はすべて、現実だったのだ。今までの出来事が夢の中で起こっていたとするのなら、恐怖心やそれらすべてが現実的過ぎる。夢など今までごまんと見てきた。しかしその中でも、ここまでリアルな感覚で見た夢などただの一度もない。これが現実ではなく夢だと言うのなら、それはもはや「夢」の領域を逸脱し過ぎている。
 しかし女は続ける、
「信じる信じないは勝手。だけど朝になって、次の日の夜になればあなたも嫌というほど現実を思い知るわ」
「夢なら夢で、何でおれの夢の中にあんたがいる? あんたはおれの夢が造り出した架空の人間か?」
「違うわ。わたしはわたし。これはわたしの夢でもあって、あなたの夢でもある」
 ますます意味がわからない。このままでは話は平行線である、一歩踏み出してみる。
「――なら仮にここが夢の中だとする。だったらこの夢から醒める方法は?」
女は言い切った。
 「ない。もしかするとあるかもしれないけど、少なくともわたしは知らない」
 そしてすぐに、
「知らないからこそ、今それを調べてるの。その途中であなたを見つけたから、助けた」
 助けた。そう、自分はこの女に、あの鬼から助けられたのだ。
 気づけば訊ねていた。
「そう、鬼だ。あれに捕まったら、おれたちはどうなる?」
 女は窓の外を見つめる瞳を少しだけ曇らせ、こう言った。
「鬼になる。これは冗談でも比喩でもなく、本当に鬼になるの」
 実感が湧かない、湧くはずもない。だけど問いは溢れる。
「鬼になるとどうなる? これは夢の中なんだよな? 何か影響があるのか?」
 ここが本当に夢の中だということを前提に考えてみる。もし仮に鬼に捕まっても、鬼に変化するだけで現実の自分に何も影響がないのだとするのなら、無暗に逃げるより捕まってしまった方が楽であろう。これが夢なら一度醒めてしまえば終わりだし、たった一度切りの悪夢ならば早く終わるに越したことはない。
 倖斗の問いに数秒の間を空けた後、返答が来る。
「わからない」
 さっきから肝心なことは何もわかっていない。
 いい加減うんざりして、声を荒立てようとしたとき、女が先に口を開いた。
「ただ、わたしは鬼に捕まって鬼になった人を一人だけ見たわ。……その人が現実でどうなったのかは知らないけど、鬼になるとき、その人は悲鳴を上げていた。あの悲鳴を聞いてしまったから、わたしは絶対に鬼に捕まりたくない。理解できないでしょうけど、そう固く思ってしまうほどの悲鳴だったのよ。……あれで現実の自分が無事なんて、到底思えないわ」
 女の声が僅かに震えているのがわかる。
 気丈そうなこの女が、そこまで恐れるような悲鳴だったのか。
 そしてそんな事情も知らずに偉そうにしていた自分自身に嫌気が刺す。
「……すまない」
 ふっと女は笑う、
「あなたが謝ることじゃないわ。……ところであなた、名前は?」
 そう言えばまだ名乗っていないし名乗られてもいない。
「浅川。浅川倖斗。あんたは?」
 女はもう一度こちらを振り返り、言った。
「伊吹紋奈(いぶきもな)。紋奈でいいわ。みんなからもそう呼ばれてる」
 伊吹、紋奈? 変な名前。そう言葉にしようとした矢先、
「先に言っておくけど、名前を馬鹿にするのだけは許さない」
 本気の眼をしていた。言葉に出さなくてよかったと思いつつも、
「……じゃあ紋奈。話を整理して欲しいんだが」
 紋奈は再び窓の外へ視線を移し、
「順を追って説明するわ。よく聞いて。――わたしがこの世界に来たのは、今から三日前。あなたには実感がないでしょうけど、朝になればこれが夢だったことがわかるわ。そしてこの世界は一度では終わらない。毎日、夜になれば現実のわたしは寝て、この世界に呼ばれる。なぜ夢のこの世界に来てしまうのか。この悪夢を終わらせる方法はあるのか。そしてあの鬼は何なのか。鬼に捕まって鬼になるとどうなのか。はっきり言うわ、全部わからない。だから今、この世界と現実の二つで、手を尽くして調べてる。目ぼしい情報なんてまだ何も見つかってないけど、でもいくつかわかったこもあるの」
 紋奈は続ける、
「この世界で過ごす時間には決まりがある。夜の十二時から朝の六時までの、きっかり六時間。その間だけ、わたしたちはこの世界に閉じ込められる。この世界で六時間過ごすと現実の世界でもきっちり六時間過ごしたことになってる。毎日夜の十二時になると如何なる状況でも眠りについてしまうし、それから六時までの六時間は何があっても起きない。いろいろ実験したからそれは断言できる。ともかくわたしたちは、十二時から六時までの六時間、この世界で鬼から逃げなくちゃならない」
「ここまではいい?」と紋奈が訊ね、「いい」と倖斗は返す。
「この世界は、わたしたちの世界そのままになってる。ただしこの世界で、例えばわたしがこの窓ガラスを割ったことにする。だけど夢が醒めればこの窓ガラスは現実の世界では割れていないことになっているし、次にこの夢の中に入れば元通りになってる。何度か実験したから間違いない。そしてここからが最も肝心なところ」
 窓の外を監視し続けながら、紋奈は言う。
「時間が経つに連れて、鬼の数は増える。今はまだ一時過ぎだから滅多に遭遇なんてしないけど、朝方になればこの世界は、鬼の世界になる。下手をすればこの街の人口くらいはいるんじゃないかしら。どこから湧いて出て来るのかわからない。だけど気づけば増えてる。そして朝の五時を過ぎた辺りから、鬼たちはある行動を開始する」
 一呼吸置いて、
「鬼たちは、家に火を放つ。この街の半分は、毎回無造作に燃やされるわ。どこかに上手く隠れ続けていても、下手をすればそれで死ぬことになるでしょうね。もちろん焼け死んだからって現実のわたしたちに何が起こるかはわからない。だけど考えてもみて。この世界は限りなく現実に近い。体の五感だってそう。それで焼死なんてしたら、例え現実の体が無事でも精神が無事じゃ済まないでしょうね」
 紋奈はそこまで話し、口を閉ざしてしまった。
 おそらく、それだけが紋奈にわかっていることなのだろう。紋奈も倖斗同様に訳もわからずここにいるに違いない。そんな紋奈にすべての答えを求めるのはお門違いである。
 この世界はきっと、紋奈の言う通り夢の中なのだろう。今になってようやくそう思えてきた。そう考えれば電気水道ガスが止まっていることも、空が紅いのも人がいないのも、鬼という化け物が存在していることにもすべて辻褄が合うような気がする。何よりも、夢以外で鬼なんていうものが実在するとは思えなかった。それに紋奈の言っていることが嘘だとは思えない。こんな突拍子もない話を、紋奈がするとは考え難かった。何よりも倖斗を騙すメリットが紋奈にはないのだ。
 しかし夢の中にいてもはっきりとした五感が存在する、というのは厄介だった。
 先ほど思い知ったばかりだ。鬼に追い駆けられた恐怖感もそうである。アスファルトに転がった衝撃だってちゃんとあった。もし仮にここで壁を思いっきり殴れば拳は痛いだろうし、皮が破れて血が出るだろう。痛覚が生きているのだ。鬼に変化する感覚がどのようなものなのかは想像もできないが、焼け死ぬ想像ならある程度はできる。例え体が無事だったとしても、紋奈の言った通り、一度焼死を体験した己の精神が無事である自信がなかった。
 だがこんな世界に放り出されて、紋奈に出逢えたのは不幸中の幸いか。
 紋奈に助けられてなかったら今頃、自分は鬼になっていたに違いない。
 ふと思う、
「なぁ、紋奈」
 紋奈は窓の外を見ながら、
「うん?」
「お前、三日前から、たった一人でこの世界で鬼から逃げてたのか?」
「ええそうよ。一回だけ人を見たけど、鬼になっちゃったから。この世界で人と話すのはあなたが初めて」
 そう、平然と言った。
 そう平然と言い切れる紋奈が、倖斗には信じられない。
 この世界にたった一人で放り出され、訳のわからない内に異形の姿をした鬼に追われながらも、それでも紋奈は今日まで逃げ延びて来た。鬼は数を増やし、そして街に火を放つと紋奈は言った。それは、今以上に絶望的な光景なのだろう。そんな光景を、紋奈は三回も、たった一人で乗り越えて来たのか。常人ではまず不可能な気がした。たった一匹の鬼に悲鳴を上げて腰を抜かす自分が腰抜けだとは思わない。普通なら、普通の人間ならあれが自然な反応なはずだ。ならば異常なのは、紋奈の方。それに紋奈は一人で逃げるどころか、倖斗を助けるためとは言え、あろうことか鬼の手首を切り落としたのだ。倖斗には到底、真似できない行動である。
 紋奈はそれほどまでに精神力が強いのか、或いは。
「……一つだけ聞かせてくれ」
「なに?」
「――なんでおれを助けた?」
 三日間も鬼から逃れていた紋奈が、なぜわざわざ危険を冒してまで倖斗を助けたのか。
 それを、どうしても聞いておきたかった。
 紋奈は視線を倖斗に向け、こう言った。
「……わたし、警察官なのよ」
 そんな気は、していた。
 日本刀を持っているとは言え、素人が、ましてや女性が一太刀で人間と同等の太さの手首を切断できるはずがない。剣道か何か、武術を習って初めてできる芸当であり、それを躊躇いも見せずにやってのけた紋奈は何かしらの覚悟を決めているはずだった。それで一般人だと言う方が違和感がある。
 紋奈は何の表情も見せず、
「その正義感から来るものもあったし、それに……あの時、わたしは何もできなかったから。あの鬼になってしまった人を助けることが、わたしにはできなかった。だからわたしは、あなたを助けた。それが半分。もう半分は……」
 そこで一回だけ言葉を切り、言う。
「……恐かったから。一人でこの世界を彷徨い鬼から逃げることが、恐かった。だから仲間が欲しかった。ていうのがあなたを助けたもう半分の理由で、どっちかっていうと本音はこっちかな」
 紋奈の小さな笑顔が、強がりの、精一杯の笑みに見えた。
「こう見えて恐がりなんだよ、わたし。お化け屋敷とか絶対に入れないもん」
 初めて、伊吹紋奈という人間を感じた気がした。
 どれだけ気丈であろうとも、警察官であろうとも、紋奈も女なのである。恐いものは恐いのだろう。それは女だけではなく、男も同じだ。人間に生まれ、感情を持っていれば、恐怖は誰にでもある。だけどそれを捻じ伏せて、自分を押し殺して押し殺して、紋奈は自らの正義感だけで耐えてきたのだろう。果たしてそれは、どれほど途方もないことだったのだろうか、どれほど心細く不安なことだったのだろうか。鬼を見て逃げ出して腰を抜かした自分では到底に辿り着けないような覚悟を、紋奈は一人で決めたのだ。
 この世界で紋奈は、生き残るためならきっと手段を選ばない。それが、覚悟なのだ。
 そして、その覚悟はこの世界で鬼から逃れるためにはしなければならないもの。
 遅かれ早かれ、倖斗もまた、その覚悟を決めなければならない。
 だけどその前に、気づいたら口から溢れていた。
「……助けてくれてありがとう」
 紋奈は一瞬だけ驚いたような顔をした後、
「なんだ、素直なところあるじゃない。ムスッとしてるから捻くれてるかと思った」
 そう言ってくすくすと笑った。
 調子が狂う。しばらく人とまともに会話していなかったせいか、何かしっくり来ない。
「時に、だ。おれたちはこれからどうするんだ? このままここに隠れてるのか?」
 紋奈はまた窓の外を見ながら、
「……そうね。倖斗、……倖斗くん、君は少し仮眠でも取りなさい」
 なぜ言い直したのかがわからない、
「呼び捨てでいい。それに仮眠って、ここは夢の中だろ? 寝れるのか?」
「あなた歳は? 平気。寝ることはできる。今少しでも寝ておかないと起きたときが辛いよ」
「二十一。言ってる意味がよくわからないんだが」
「じゃあわたしの方が年上。わたし二十三だもん。だから倖斗くん。あのね、現実でわたしたちの体は寝ている状況にある。起きたらいつも通りなんだけど、ここでの記憶はちゃんとある。あるからこそ精神が参っちゃうのよ。だからここで少しでも休息を取っておくに越したこはないの。一人なら無理だけど、今はわたしと倖斗くん、二人いる。わたしが見張っておくから、君は寝なさい」
 言い分はわかるが、納得はできない。
「それならおれが見張ってる。紋奈が先に寝ればいい」
「わたしを君と一緒にしちゃだめ。言ったでしょ、わたしは警察官なの。こういうことにはある程度慣れてる。最も、わたしは交通課だから徹夜で張り込みとかはしたことないけど、夜通しで交通整理や事故処理なんてのはしょっちゅう。だから平気」
 譲れないものが、倖斗にだってある。
「ならおれも一緒にされちゃ困る。おれは昼間寝ることができる。でも紋奈は仕事だ。ましてや警官が仕事中に居眠りしちゃまずいだろ。いいから紋奈が先に寝てくれ。それに今の内なら鬼の数が少ないんだろ、なら最初におれが見張った方がいい。そっちの方が効率がいいだろ」
「でも、」
「紋奈が寝ないのなら、おれも寝ないぞ」
 むっ、と紋奈が何かを言いかけたが、やがて諦めたようにため息を吐き出し、
「……わかったわ。じゃあ一時間交替。今が一時三十分だから、交替で寝て三時三十分。それからの行動は家を中心に鬼から逃げる。いつもわたしが取ってる行動がそれ。異論は?」
「ない。わかったから早く寝ろ」
 わかりましたわかりました、と紋奈は窓辺から歩き、居間にあったソファにぺたんと座り込む。
 そして横になるかと思いきや、手に持っていた日本刀をこちらに向かって差し出す。
「預けておくわ。もし万が一のとき、使いなさい。でも何か異変があったらすぐに起こして。それは約束」
「ああ、わかった」
 受け取った日本刀は見た目よりも遥かに重くて、紋奈の細腕で扱うにはあまりにも不釣合いだった。
 ソファに横になった紋奈を確認した後、倖斗は日本刀を手に窓辺へ移動する。窓の外には相変わらず人の気配はなく、空は紅いままだった。しかし人の気配はないのだが、どこかで何かが動いている感じだけはする。矛盾した話である。こうして落ち着いて状況を確認してみると、なぜか鬼の気配だけが微かに感じ取れるような気がするのだ。何と不思議な感覚だろうか。自分が自分ではないと思えるほど、脳味噌が冷静でいることが驚きである。
 紅い世界。人あらざるモノ。夢の中。そこで出逢った伊吹紋奈。状況がわからないのは今も変わらない。もしかすると、これは本当にただの夢なのかもしれない。朝になって起きれば、何事もなかったように不変な日々が待っているのかもしれない。その可能性は十分にある。悪夢を見ているだけ、たったそれだけの可能性の方が大きいくらいだ。紋奈に出逢わなければ、そう思って終わりだったのだろう。
 受け取った日本刀の柄は、確かに紋奈の体温を宿していた。
 伊吹紋奈という人物は、確かに存在する。そう、確信を持って言えるのだ。
 ソファから小さな寝息が聞こえる。どうやら寝たらしい。何だかんだ言っても、紋奈もちゃんとした人なのだろう。警察官だからと言って寝なくて平気なわけがない。ましてやこの三日、紋奈はこの世界で一時も緊張の糸を緩めずに過ごし、現実では仕事をきちんとこなしていたはずである。まだ会って一時間も経っていないし、少ししか会話もしていない。だけど紋奈の性格はある程度わかった。紋奈は何かを理由に何かを疎かにすることは、絶対にしないと思う。疲れを我慢してきっと、仕事をしていたに違いない。ならば今だけは、こうして眠らせてやりたかった。それが倖斗に唯一できる、助けてもらったことに対する恩返しなのだ。
 窓の外を見続ける。
 視界の中に動くものは見られない。大通りを一部だけ見ることができるが、そこを鬼が通ることもない。このまま見つからずに六時まで過ごせるのではないかと思える。時間が経つに連れて鬼が増えると紋奈は言ったが、いくらなんでもこの膨大な数の家を一軒一軒見て回ることはないだろうし、ここにいれば何事もなく六時を迎えられるのではないか。そんな考えが脳裏を過ぎる。
 いつまでも窓の外を見続けるのにも飽きてきたので、預かった日本刀で素振りをしてみる。型もクソもないただ単純な素振りだったが、少しは気が紛れた。それからどれくらい、素振りを続けたのだろう。いつの間にか汗を掻いていたことに気づく。いい加減疲れてきたので日本刀を床に置こうとしたら、いとも簡単に床に刀身が刺さった。これほどまでに切れ味の良いもので素振りをしていたのかと今さらながらに少しだけ冷汗が出る。
 時計を見ると、もうすぐ一時間が経とうとしていた。
 紋奈にはこのまま寝ていて欲しいが、寝かせ続けておくと後でいろいろと言われそうである。何か言われるとつい反論してしまいそうなので、今はしっかり起こしておくべきなのだろう。悪いとは思いつつもソファに近づき、紋奈の寝顔を見る。紋奈は年齢を二十三だと言った。倖斗よりも二歳も年上であるはずなのに、この寝顔は下手をすれば本当に高校生に見える。化粧をほとんどしていないせいか、それとも元々童顔なのか、紋奈は年齢よりも随分幼く見えてしまう。これで凛々しい顔立ちがなければ、中学生にだって見えなくもない。
 倖斗が起こそうと手を伸ばすより早くに、紋奈はふっと目を開けた。
 本当に何の前触れもなかった。まるで一時間経つのがわかっていたような起き方だった。
 微妙な角度で倖斗と紋奈の目が合う。
「……一時間経ったでしょ。代わるわ。今度は君が寝る番」
 倖斗の手から日本刀を回収し、紋奈は窓辺へと歩いて行く。
 呆然と立ち尽くす倖斗に一度だけ視線を向け、紋奈は言った。
「約束よ。早く寝なさい」
 仕方がないので寝ることにする。
 疲れていたのか、睡魔はすぐに来た。

 ふっと目が覚める。
 覚めたと同時にここがどこなのかが思い出せず、見知らぬ天井を見上げていた。
 視線を動かすとそこは本当に知らない場所で、窓際に立っている紋奈を見るまで何も思い出せなかった。紋奈は倖斗が眠りに就いた時と同じ場所同じ体勢で窓の外を監視し続けている。呼び掛けようかどうか迷ったが、脳味噌が酸素を求めていた。とりあえず煙草が吸いたかった。ポケットをごそごそと漁って煙草を見つけ、今日コンビニで買ったばかりのライターで火を点ける。
 その音に紋奈が振り返り、一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「……煙草はやめなさい。身体に悪いわ」
 灰色の煙を吐きながら、
「勝手だろ。もう二十歳は過ぎてる。警官に何か言われる筋合いはない」
 紋奈は何も言わなかった。
 やがて倖斗の視線が壁に掛けられていた鳩が飛び出しそうな時計を捉えた。
 思わず声が出た。
「――おいっ。もう四時半じゃねえかっ!」
「ええ、そうね」
 紋奈は平然と答える。
 もちろん倖斗は食って掛かる、
「そうねじゃねえだろっ。一時間の約束だったはずだ!」
 紋奈は相変わらず窓の外を見つめながら、
「あんまり気持ち良さそうに寝てたから起こさなかっただけ」
 こちらを見ようともしない。
 声を荒げようと思ったが、やめた。これはきっと、紋奈なりの心遣いなのだろう。初めてここに来ていきなり鬼に遭遇した倖斗を、少しでも休ませてやろうと考えたのかもしれない。こちらからしたらただの有り難迷惑だったのだが、ここで言い合いをするのも馬鹿らしい。四時半になってしまったものは仕方がない、時間を巻き戻すことはできないのである。ゆえに今は、これからを重視しよう。
 煙草を咥えたままソファから立ち上がり、紋奈の方へ歩き出す。
「何か変化は?」
 紋奈は無表情に、
「外を見ればわかるわ」
 言われた通り外を見た。
 咥えていた煙草を思わず落とした。
 倖斗が寝る前は、窓の外に変化はなかった。一時間経ってもそれは変わらなかった。だがどうだ、今のこの状況は。通りはおろか、家のすぐ前の道路にさえ、鬼がいる。一匹二匹の話だが、その一匹二匹がこんな所にいるのだ、大通りなどはすでに鬼に埋め尽くされていたっておかしくない。紋奈の言っていたことを思い出す。鬼は、時間と共に増えるのだ。
 距離があるせいで鬼はこちらに気づかないが、気づけば身を隠していた。
「どうすんだよっ? 鬼がそこにいるじゃねえかっ」
「今に始まったことじゃないわ。でもそろそろ動いた方がいいかもしれない」
 動くったってどこへ。下手に道路に出たらすぐに鬼に対面してしまいそうだ。
 踵を返して歩き出す紋奈を追い掛ける、
「どこ行くんだよ? 宛てはあんのかよ?」
「ないわ。でも言ったでしょ。一箇所にいる方が危ないこともある」
 居間を出る。紋奈は玄関の方へ一度だけ視線を移し、その反対方向へ体を向ける。
 勝手知ったる振る舞いである。遠慮なしに引き戸を開けて、座敷部屋を横切って音を立てずに窓を明け、庭へと歩み出す。前後左右の警戒は一度も解くことなく、紋奈は歩いて行く。その背中を頼りに倖斗が続く。女の背中に守られているとは情けない話であるのだが、この状況ではこうするより他になかった。倖斗が先頭を行けばおそらく、すぐにでも鬼に発見されてしまうだろう。一匹ならともなく、数匹に追い立てられて逃げ切る自信はなかった。
 やはり知らない家の一階にある窓へ近づき、紋奈はそっと手を触れる。開けようとしたのだろう。だがもちろん鍵が閉まっている。この夢の世界が現実と同じであるのなら、夜の十二時なのだ、普通の家ならどこもかしこも鍵を閉めているはずである。紋奈はどうするつもりなのだろう。そう思ったのだが、要らぬ心配だった。
 ポケットから何か、棒切れのようなものを取り出す。
 紋奈が意図的にこちらに背を向け、小声で、
「見ないで。これは見ちゃだめ」
 何をこの期に及んで。
「なんでだよ? なんだよそれ?」
 見るなと言われると見たくなる。
 背中越しに紋奈の手元を覗き見ようとしたときにはすでに、作業は終わっていた。すっとポケットに戻される棒切れ。いつの間にか窓に空いた手首より一回り大きい穴。大体の予想はつく。警察だからこそ持っているものなのか、それとももっと別の理由で持っているのか。何にせよ、紋奈が見るなと言っていた理由がわかる。夢の中とは言え、警察官が空き巣紛いのことをしているのだ、それを一般人に見られるのはプライドが許さないのだろう。そんなことを言っている場合ではないのだが、紋奈らしいと言えばそうだった。
 空いた穴から手を通し、紋奈が鍵を開ける。開いた窓から中へ入り込む。
 そんな行動を点々と繰り返し、やがて一件の家に落ち着いた頃、その家の時計が五時を指していた。
 紋奈が時計を見ると同時に目を細め、「ついて来て」と言いながら知らない家の階段を上って二階へ行く。倖斗はついて行く。二階の一部屋に入るとどうやらそこは子供部屋で、ゲーム機や漫画が散乱していた。ベットにある布団が妙な角度で曲がっているのがどこか生々しい。そこで人がこういう風に寝ていたのだろう、と容易に想像のつく光景だった。
 紋奈が部屋のカーテンを指で少しだけ開け、倖斗にも見えるようにする。
 顔を並べる感じで窓の外を見た。
 違和感。紅い空を背景に、黒い何かが漂っている。あれは何だろう。煙だろうか。
 ――煙?
 気づく、
「――おいあれって」
「始まったみたいね」
 紋奈はそう言った。
 よくよく見れば至る所から黒い煙が上がっているのが確認できた。まるで狼煙である。黒煙が紅い空を濛々と覆い尽くし、遠いのか近いのか距離感がよくわからない所で火の粉が飛び散った。鬼は五時を過ぎた辺りから火を放つ、と紋奈は言った。それが始まったのだろう。こうして隠れている自分たちを炙り出そうとしているのだ。潜んでいる所に火を放たれたら、文字通り炙り出されてしまう。ここはこのまま待機しているべきなのか、それとも移動するべきなのか。その判断は倖斗にはできない。
 判断を紋奈に任せようした矢先、視界の中に鬼が映った。
 鬼は辺りを見渡しながら家の前の道路を歩いており、やがて一件の家の前に立つ。がちゃがちゃとドアノブを回している音が、ここまではっきりと聞こえた。その後姿を、倖斗は呼吸を必死で我慢しながら監視する。一回でも呼吸すれば、その極々小さな音が響いてしまいそうだった。
 鬼がドアノブを破壊した。
 支えを失ったドアが勝手に開き、鬼が中へと入って行く。それから一分程度で鬼は出て来て、前の道路を再び歩き出し、倖斗の視界から消えた。あの鬼は一体何がしたかったのか。中に人が隠れていないのか確認して行ったのだろうか。そんなことを考える倖斗の前で、唐突に、本当に唐突に、先ほど鬼が入った家から炎が噴射した。
 窓ガラスを突き破って一気に炎が家全体を包み込む。
 一瞬の出来事だった。じわじわと家を包み込んで行くでもなく、何が切っ掛けになったのか、爆発したかのように目の前の家が火事になった。ひとたまりもない。窓が割れる音や木材が燃える音がはっきりと耳に届く。風が吹いているのか、炎の熱が道を挟んだこの家にも届いて来る。家が燃える光景を、初めて見た。黒煙を吹き上げながら燃え続ける家は、どこか芸術的な残酷さを持っていた。
 紋奈が燃える家から視線を外し、カーテンを閉めてその場に腰を下ろす。
「……たぶん、ここは大丈夫だと思う」
「どうしてそんなことわかるんだよ?」
 当然の疑問をぶつけると、紋奈は答える。
「鬼たちは無差別に火を放つって言ったけど、ちょっと違う。一軒燃やしたら、その近くに火は放たない。絶対とは言い切れないけど、この三日間で近くに火を放ったことは一度もないわ。だからわたしは今日まで逃げて来れた。隠れてる家に火を放たれちゃだめだけど、滅多にないと思う。これは運次第ね」
 何と不安定な自信だろう。燃やされたのは向かいの家だ。結果的には助かったが、もしかしたらこっちが燃やされていたかもしれない。
 しかし紋奈が大丈夫だと言うのだ、今だけはそれを信じておこう。
 倖斗もその場に座り込むと、紋奈は真剣な顔でこう言った。
「倖斗くん。君、暗記力はある方?」
 倖斗は煙草のケースを取り出しながら、
「なんだよ突然」
 紋奈は自らのポケットから携帯電話を取り出し、
「今からわたしの言う番号を暗記して。そして絶対に忘れないで」
 煙草を咥えてライターで火を点ける、
「そんな面倒なことしないでも携帯に登録すりゃいいだろ」
 紋奈がため息、
「煙草はやめなさい。それに言ったでしょ、この世界で窓ガラスを割っても、現実の世界じゃなかったことになってるの」
 言わんとすることがよくわからない、
「つまり?」
「今君の携帯電話にわたしの番号を登録しても、夢が覚めたら消えてるってこと。だから暗記するの」
 なるほど、と倖斗は煙を吐き出しながら思う。
「よっしゃ来い。読み上げてくれ」
 記憶力が良い方ではないが、番号を暗記するくらいなら何とかなるだろう。
 紋奈が読み上げた番号を何度も頭の中で復唱する。たぶん憶えた。
「今度は君の番号を教えて」
 言われた通りに教える。
 そして紋奈はこう言った。
「この夢から覚めたら、お互いの携帯に電話しましょう」
 そのために番号を憶えておけと言ったのか。そりゃそうか。
 この世界は夢の中である――そのことを確認するためには最も効果的だ。もはやこれがただの夢であるとは倖斗も思っていないが、まだほんの少しは思っている部分がある。だからお互いの携帯電話に電話する。その番号に掛けて紋奈が出れば、これはただの夢ではない。紋奈の言っていることがすべて真実という絶対的なものに裏づけされることになる。仮に紋奈が出なければこれはただの夢で、一夜限りの悪夢で終わる。どちらになるかは朝になってみなければわからない、ということか。
 紋奈は納得した倖斗を見つめながら、
「いくつか君にも聞きたいことがあるの。現実世界で、これからのことを話しましょう」
 いつしか時計が、六時を指そうとしていた。
 もうすぐ時間だ。これが夢だと確認し、そしてこの夢が続くか否かを確認する時間。
 倖斗は言った。
「……できれば、一夜限りで終わって欲しい夢なんだけどな」
 紋奈は笑う。
「きっと君の希望は打ち砕かれるよ」
「笑顔で言うなよ……警官だろ、一般人を不安にさせるな」
 くすくすと笑う紋奈を見ながら、場違いとはわかっていつつ、笑ってしまう。
 秒針が六時を刻み込むかどうかの数秒。
 夢が覚める最後の最後、紋奈が倖斗に、こう質問した。
「ねえ。――わたしの番号、憶えてる?」
「あ、」
 忘れた。
 そう言うより早く、意識がそこで途絶えた。

 長い一夜が、明ける。










     「生きる価値」



 目を覚ました、という表現よりも、目を開けた、という表現の方が正しいのかもしれない。
 意識はダイレクトに繋がっていたし、今まで自分が寝ていたのだという事実が上手く飲み込めなかった。ふと気づくと尋常ではない量の汗を掻いて、下着から何から汗でくたくたになっている。もう何ヶ月洗ってないのかわからないシーツはまるで漏らしたかのような有様だ。暑さから来るものもあったのだろうが、この汗はそれだけではあるまい。魘されてたかどうかはわからないが、それに近い理由で流れた汗である。
 倖斗はベットから起き上がる。
 辺りの状況を確認する。まず、ここは自分の部屋である。それは間違いない。では次だ。今現在の時刻は六時を数秒過ぎた辺りだ。AMなのかPMなのか、その問いに、今でははっきりと答えを返すことができる。AMの六時だ。なぜならカーテンに遮られた窓の外から、きっちりとした朝日が覗いているからだ。空は当然のように紅くはないし、外からは車のエンジン音が小さく聞こえてきている。これは、夢の中ではない。そう言い切るのに時間は必要なかった。
 散らかり放題のテーブルの上に置いてあった煙草を手にして、火を点ける。
 脳味噌に酸素が回る。
 今さっきまで、自分は夢を見ていた。その内容を、倖斗は鮮明に思い出すことができる。誰もいない世界に紅い空、鬼に燃え盛る家、そして伊吹紋奈。あれがただの夢であったとは思えない、思えないのだが、「悪夢」という一言で締め括ることもできなくはない。直にこの記憶だって曖昧なものになっていくはずだし、そうすればやっぱりあれは夢だったのだと納得できるだろう。
 問題は、携帯電話が鳴るか否か、である。
 紋奈が言った携帯電話の番号を、倖斗はいとも簡単に忘れてしまっていた。最後の最後、憶えているかと質問されて、当然のように忘れていた自分。暗記力に自信がある方ではないが、絶対に憶えておかねばならない携帯電話の番号すら憶えておくことができないのかと少々嫌気が刺す。そして番号を忘れてしまった倖斗にできることは、紋奈の方から掛けて来てくれることを待つだけである。この携帯電話が鳴れるか否かで、すべてが違って来る。
 まだ鳴らない携帯電話を手にする。
 この携帯電話が鳴って欲しいかどうかと言えば、もちろん鳴って欲しくない。何が楽しくて毎夜毎夜、あんな訳のわからない世界で鬼から逃げ回らなければならないのか。あの出来事は一夜限りの夢で終わった方が、遥かに良いに決まっていた。正直に言うのであれば、もう二度と、あんな思いはしたくないのだ。――だけど。だけど、伊吹紋奈。彼女がこの世界に実在するのだという証明だけはしたいと、少しは思う。なんと矛盾した話か。紋奈が存在している、という事実は、そのままイコールであの世界が毎夜続くということの証明以外の何ものでもないのだ。
 携帯電話はまだ鳴らない。
 そのことに安心すると同時に、少し残念に思う自分が不思議である。
 確かにあんな世界にはもう二度と行きたくはないが、白状しよう。今、こうして現実世界で起きて物事を考えているからこそ言えることだ。あの世界は、この世界とはまるで違う。つまりは、不変的な日常を根本的に破壊した非現実的な非日常に他ならない。この世界で不変的な日常を過ごすことに不満を抱いていた自分にとっては、まさに素晴らしい世界なのではないか――、一瞬だけそう思ったが、よくよく考えれば命あっての生である。毎夜毎夜、恐怖に囚われながら逃げ惑うような世界なら、こっちの飽きた日常の方が遥かに良い。なぜあんな世界を素晴らしいなどと考えてしまったのか。
 簡単だ。そこに、伊吹紋奈がいたからだ。
 形は違えど、自分は異世界に呼ばれて、そこで紋奈と出逢った。そして自分たちはこれから力を合わせてあの世界が何なのかを究明しようとするのだろう。それはまさしく、自分が求めていたものなのではないか。正直に言おうか。その仮定で、なぜか自分は信じられない超能力のような力を身につけ、迫り来る鬼から紋奈を救い、あの世界を消滅させ、ハッピーエンド。そんなことが起きるのではないか、という小さな妄想。なぜあの世界に呼ばれたのかはわからない、わからないが、あれはまさに選ばれた者だけが呼ばれる世界であって、選ばれた者だからこそ常人では扱えないような力を持っていて、それを発揮して鬼を退治するのだ。実はあの世界はもう一つの地球で、あの世界を崩壊させなければ現実世界が滅亡してしまうとかそういう裏が隠されており、選ばれた者である自分と紋奈は手を取り合って困難を乗り越え力を合わせて
 携帯電話が鳴った。
 脳味噌が弾けるかと思った。
 咥えていた煙草を慌てて灰皿に置き、携帯電話を開く。表示されているのは番号だけ。登録はされていない番号である。表示されている番号から察するに向こうも携帯電話だ。そしてその番号を見れば見るほど、どこかで聞いた番号であるような気がしてならない。正確には憶えてはいないのだが、確かこんな番号だったはずである。それは何を意味するのか。今、この携帯電話に電話を掛けている相手は、十中八九、倖斗が知っている人物である可能性がある。
 どうしよう、と一瞬だけ悩むが、ここで電話を取らなくてもおそらく結果は変わらないのであろう。電話に出ないのなら出ないで、何とか倖斗の家の住所を調べ上げてここまで乗り込んで来そうである。生憎として、向こうにはその手段がいくらでもあるのだ。何せ課が違うとは言え、奴等はその道のプロと言っても過言ではない。それに、だ。あいつはそこまでするだろう、という確信があった。
 ため息をひとつ、諦めて通話ボタンを押した。
 携帯電話を耳に当て、もしもしと言うより早くに声が聞こえた。
『――目覚めの気分はどう?』
 つい数分前まで、自分はこの声を聞いてたのだとつくづく思う。
 電話の相手は、伊吹紋奈で間違いなかった。
 乾いた笑が漏れる、
「ついさっきまではよかったんだが……今、絶望に打ちひしがれてるよ」
『そう。何でかは聞かないわ。それより倖斗くん、君、今日の予定は?』
 今日の予定。そう聞かれてしばし考える。
 大学の講義が昼過ぎまであったような気がする。が、今のこの状況で呑気に鼻糞ほどの役にも立たない大学の講義など聞いてるつもりはさらさらになかった。とりあえず今から寝ようと思う。紋奈の言っていたことがよくわかったのだ、記憶がきっちりとある分、体が休まった気がしない。夢の中で寝たことは正解だったのだろう。あの仮眠がなければきっと、体力が追いつかない。
 倖斗はさも当然のように、
「何もない。寝ようとは思ってる」
 紋奈は一瞬だけ思案した後、
『君、フリーター?』
「いや、大学生」
 ここでしまった、と思ったが後の祭だった。
『平日には大学はある。サボるつもりならわたしは許さない。行きなさい』
 そんなこと言っている場合じゃないだろ馬鹿かお前。
 そう言おうとして思い止まる。そんなことを言ってしまえば最後、紋奈はここまで来て自分を引っ張ってでも大学へ連れて行こうとするだろう。伊吹紋奈とは、おそらくそういう人間であるはずだ。
「……わかった、考慮しておく。それよりこれからどうするんだよ?」
 紋奈はまだ納得していない口調で、
『……そうね、わたしの仕事が終わってからだから――夕方の六時くらいね。駅前にある「パステル」って喫茶店知ってる?』
 知っている。大学に入ったばかりの頃、まだ人付き合いをしようと考えていた頃に一度だけ連れて行かれたことがある。
『そこに六時。これからのことはそこで話しましょう』
「わかった」
『じゃあわたし、仕事に行くわ。君も大学、遅刻しないように』
 そう言って、携帯電話の通話は切れた。
 携帯電話を手にしながら、倖斗は思う。紋奈は、何とタフであるのか。三日前から、正確には四日前になるのだが、それから毎夜ずっとあの世界にいるのにも関わらず、きっちりと仕事をこなそうとしている。欠勤してもバチは当たらないであろう。だがそこで仕事に行くか行かないか、或いは大学に行くか行かないかで、人間性がはっきりと分かれるのだと思う。紋奈は自分に厳しいのだろう。何がそうさせるのかはわからないが、これだけは言える。
 紋奈は、倖斗とは正反対の人間である。
 だからこそ、倖斗は思うのだ。

 ――寝よう。

     ◎

 パステルという喫茶店は、駅から徒歩一分の所にある。
 駅の改札を出ればすぐに見えるし、人によっては一分も掛からない。洒落た感じのする店で、コーヒーの評判はそこそこであるのだが、その店の何がすごいってそれはパフェにある。その店には四人前のパフェがメニューに表記されている。直径三十センチのバケツのような器にこれでもかというくらいにアイス、生クリーム、コーンフレーク、果物がてんこ盛りに詰め込まれていて、おまけにポッキーが一箱分突き刺さっている。一人でそれを三十分以内に完食できればタダになるというチャレンジ企画はあるにはあるが、過去に成功したものは数えるほどしかいない。ちなみに失敗すると正規料金である四千円を支払わなくてはならない。
 近頃では興味本位にそれを頼む客もいるし、数人でそれぞれ一つのパフェを突く客もいる。目下、ここ数ヶ月で本気でそのパフェにチャレンジした者は一人もいなかった。しかしそのパフェがパステルを支えていると言っても過言ではない。喫茶店とは言え、どちらかと言えばコーヒーよりパフェやデザート系統の方に力を入れているのがパステルの特徴である。
 そんな店に倖斗が好き好んで入ることなど、当たり前のようにない。過去に一度だけ行った切りで、あれ以来行こうとも思ったことはなかった。元々甘いものは好きな方ではないし、パステルは女性客が中心であるため、男一人で入れるような空気ではないのだ。そもそも男一人で喫茶店に入ってまったりするだけの度胸を、倖斗は持ち合わせていない。
 ゆえに、パステルのドアを開けることに少々の躊躇いがあった。あったのだが、外で待ち惚けになるのも馬鹿らしい。ドアの前で数分だけ考えてから中に入った。ドアを開けると上の方にぶら下がっていた鈴が大きな音を立て、客の来店に気づいた女子高生と思わしきウエイトレスがこちらに向って歩いて来る。
 営業スマイル、
「いらっしゃいませー。お一人様ですか?」
 一瞬だけ思案する、
「二人。後で一人来る」
「畏まりましたー、禁煙席と喫煙席、どちらになさいますか?」
「喫煙」
「ではこちらの席へどうぞー」
 席へ案内される。その途中、ふと思って、
「あの、すんません。奥の席って空いてます?」
 ウエイトレスは店内を見渡した後、
「ではこちらへどうぞ」
「どうも」
 案内された窓際の一番奥の席に座る。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのスイッチでお知らせください」
 水とおしぼりを二人分置いて、ウエイトレスは席を離れて行く。
 水を一口だけ口に含みながら、煙草を取り出す。ライターで火を点けながら携帯電話を開いて時刻を確認する。六時まで後十分くらいだ。店内を見渡してみるが、紋奈の姿は見当たらない。本当は少し遅刻して行くくらいがちょうどよかったのかもしれないが、紋奈のことだ、時間に遅れたら何を言って来るかわかったものじゃない。だからわざわざ少し早目に家を出たのだが、十分前に着くとはこれまた微妙である。
 煙草の煙を吐き出しながらもう一度、店内を見る。
 夕方の六時手前である、高校生などは学校が終わっている時間なのだろう、制服姿の女子高生が客の大半である。倖斗のような男一人の客は他にいない。いたとしてもスーツを着た、最低でも二人連れである。他の客は倖斗のことなんて視界に入っているけど意識なんてしていないだろうが、もし意識されたとするのなら、さぞかし滑稽に思われることだろう。だからこんな所に入るのは嫌なのだ。それを考えて奥の席にしてもらったのが半分。
 もう半分は、これから来るであろう紋奈と話す話の内容にある。他人に聞かれてもマズイ話ではないだろうが、確実に変に思われるはずだ。いい歳の大人が夢や鬼についてあーでもないこーでもないと言い合っている様を見られるのは、真っ向から避けたい。紋奈はきっと気にしないだろうが、倖斗が物凄く気にする。
 煙草をぼんやりと吸っていると、先ほどのウエイトレスが戻って来た。
「ご注文はお決まりでしょうかー?」
 何も考えていなかった。狼狽しながらも、
「あ、っと……アイスコーヒー」
「アイスコーヒーがお一つですね。少々お待ちください」
 去っていくウエイトレスの後姿を見ながら、倖斗は頭を掻く。
 ここ最近、本当に人とまともに会話をしていないせいか、どうもしっくりと来ない。大学に入ってから自分の殻に篭り過ぎていた代償か。ここ数ヶ月、人と一対一で話した記憶なんてまるでないし、会話と言えば近所のスーパーで「あの、両替してください」「すいません両替はお断りしてるんですよ」「はあ、そうですか」くらいしか憶えていない。なんとつまらない人生か。これでいいのか。高校の頃はあんなにわいわい騒いでいたのに、一体どこでどう間違ってこんなにも落ちぶれてしまったのだろうか。自分自身に呆れた。今現在抱えている問題が解決したら、ちょっとくらいは友好関係を築いてみようか。このままでは本当につまらない人生で終わってしまうような気がする。
 現状を考えると憂鬱になる。吐き出す煙が今はなぜか悲しい。
「お待たせしましたー、アイスコーヒーになります」
 テーブルの上に置かれたアイスコーヒーを、ストローを通して一口飲む。
 実に普通なアイスコーヒーであった。
 ため息を吐くと同時に、店のドアから鈴の音が聞こえた。無意識の内にふっと顔を上げ、入り口の方を向いて、倖斗は咥えていた煙草を落とした。落ちたそれが手に当たり、熱さのあまりに小さな声を上げる。その声に気づいた客が、ウエイトレスに案内されるより早くにこちらへ向って歩いて来る。煙草を灰皿に捻じ込みながら、倖斗は目の前まで来た客を見上げた。
 伊吹紋奈である。夢の中で逢った紋奈が、目の前にいる。
 しかしこいつ――馬鹿か。本気でそう思う。
 あろうことか、紋奈は制服を着ていた。警察官の制服である。倖斗の目の前にいる紋奈は、正真正銘の、婦警であった。
「ごめんね、待った?」
 そんな普通に挨拶されても困る、
「――おまっ、お前馬鹿か!? その格好で来るか普通!?」
 紋奈はさも当然のように倖斗の向かい側に腰を下ろし、
「仕方ないじゃない。遅刻しそうだったから着替える暇がなかったのよ」
 どうやら紋奈にとっては、婦警の格好でうろうろするより、約束の時間に遅刻する方が許せないらしい。どこまで生真面目な性格をしているのか、本気で問い詰めてやりたい。
 店の注目が一気にこちらに向いているのがわかる。そりゃこんな喫茶店に警察官が来たのだ、注目しない方がおかしい。カウンターの中ではウエイトレス同士がひそひそとこちらに視線を向けながら会話していて、近くの席にいた高校生と思わしき少年少女がそわそわしている。それもそうだろう、目の前の席に警察官がいるのだ。紋奈が交通課だとは言え、学生にしたら警官は警官である、何課だろうが変わりはない。喫煙席に座っている、というのだけでも補導の対象になり兼ねないのだ、焦りもするだろう。気の毒に、と倖斗は思う。
 しかし紋奈は注目されていることになど気づきもせず、テーブルの上のアイスコーヒーを発見し、
「もう注文しちゃったの? わたしも何か飲みたい。メニュー取って」
 メニューと睨めっこを始める紋奈をまじまじと見つめる。
 違和感がある。昨夜、夢の中にいた紋奈と目の前の紋奈が、同一人物であるとは思えなかった。顔や声は一緒だが、雰囲気というか、何かが決定的に違う。武士のように落ち着いた振る舞いも感じることができない。あれはある種の幻だったのではないか。そう思うがしかし、もしかするとこっちが本当の紋奈なのかもしれない、とも思う。あの世界ではきっと、紋奈は己を抑え込んでいたのではないだろうか。そして冷静な自分を表面化する。夢の中の紋奈に人間味が感じられなかったのは、そういうことが原因だったのかもしれない。
 だが何にせよ、この状況は非常に気まずい。
 奥の席を選んだのが状況をさらに悪化させている。会話が他に聞こえない分、これではまるで取り調べを受けているようだ。良かれと思ってやったことが完全に裏目に出てしまった。まだ注目はこっちに向けられているし、先ほどの高校生の少年少女はそそくさと会計を済ませて店を出て行った。もちろん紋奈はそんなことになど気づかず、ようやくメニューから顔を上げたと思ったら何を血迷ったかこう言った。
「わたし、パフェ食べるね」
 勝手にしてくれ、と倖斗は思う。
 本当にパフェを注文した紋奈が満足気な笑顔を見せる。その笑顔から視線を外し、倖斗は再び頭を掻いた。
「――で、どうするんだよ?」
「パフェ食べるよ、もちろん」
 おい、こいつは本当にあの紋奈か。誰だこいつ、別人じゃないのか。
 倖斗は紋奈を真っ直ぐに見据え、
「そうじゃない、パフェなんかどうでもいい。話し合いするんだろうが」
 倖斗がそう言った瞬間、紋奈の表情が唐突に真剣さを取り戻した。
「そうね。じゃあ始めましょうか」
 あまりの変化の度合いに、正直気圧された。
 真っ向から見据え返して来る紋奈が、夢の中の紋奈と完全に重なり合う。そこでようやく、倖斗の中ですべてが繋がった。まだ心のどこかで微かな期待はあったのだが、この瞬間に完全に潰えた。間違いない。今日に見たあの夢は、やはりある種の現実だったのだ。そしてあの夢は一夜限りの悪夢ではない。これから毎夜、続くのだ。今のこの瞬間を持って、それが本当の確信に変わった。
 紋奈は言った。
「その前に倖斗くん。君に聞きたいことがあるの」
「なんだよ?」
「――大学はちゃんと行った?」
 そんなこと言ってる場合じゃないだろ馬鹿か。
 そう言いたい衝動を必死に堪えつつも、
「行った」
 平然と嘘をついた。
 が、相手が警察官であることを忘れていた。嘘を見抜く術は、常人よりも遥かにあるのだろう。
 紋奈はただ真っ直ぐに、倖斗を見つめ、
「……明日もサボったら、今度は許さないわよ」
 そう、低い声でつぶやく。
「……すいませんでした」
 思わず謝ってしまった自分が死にたくなるほど情けない。
「それは置いておいて本題に入りましょう」
「あ、ああ……」
 主導権はすでに紋奈にあった。
 紋奈は続ける。
「もうわかってると思うけど、あの世界は本当に夢の中なの。そして今日の夜もまた、わたしたちはあの夢を見ることになる。これはきっとどうすることもきないことだと思う。このままだと永遠とこの繰り返しになるわ。だから一刻も早く、あの夢が何であって、どうしてわたしたちがあの夢を見るのか。それを調べなくちゃならない」
「でもどうするんだよ? 今まで調べて何もわかってないんだろ?」
「ええ。でもそれはわたしが一人で調べていたから。だけど今は違う、君がいる。だから原因の核に迫れると思うの。昨日の昼間、君が何をしていたか全部話して。その中のどこかに、わたしと重なる共通点があるはずなの。あの世界に呼ばれるのはきっと、何か共通点がある人だと思ってる。四日前のわたしと、昨日の君。そのわたしたち二人の中に必ず、共通点は存在する。それがわかれば、それを手掛かりに原因を解明できるとわたしは考えてる」
 さすがは警察官、と言うべきか。
 倖斗にはなかった発想だ。
 しかし、だ。
「昨日だろ。別に何もしてないぞ。いつも通り朝起きて大学行って、その辺ぶらぶらして帰って来て、気づいたらあの世界にいた。何も変わったことなんてしてないし、紋奈との共通点があるとも思えない。警察の世話になんてなってないしな」
 だけど紋奈は引かない、
「絶対にあるはずなの。君が見落としているだけで、君は昨日、絶対に何かしたはずなのよ。そうじゃなきゃわたしたちだけがあの世界に呼ばれる理由がない。――思い出して。朝起きてから眠るまでの一日、隅から隅まで思い出して。その中のどこかで、いつもと違うことをしたはずなのよ。そしてそれが、わたしと君を繋ぐ共通点。時間はまだある。ゆっくりでいいから思い出して。その間に、わたしはパフェを食べるから」
 は?、と言うより早くにウエイトレスがパフェを持って来た。
 満面の笑みでパフェを食べ始める紋奈。何なんだよこいつは、と倖斗は何度目かわからないが頭を掻く。
 警察官の制服を着ていなければ、パフェを食べる紋奈は本当に高校生に見える。そんな紋奈を頭の隅から追いやって、倖斗は煙草に火を点けながら昨日のことを思い出し始める。
 何の変哲もない日常だったはずだ。いつもと何ひとつ変わらない一日。その中に、紋奈との共通点など本当に存在するのだろうか。思い当たる節はないが、思い出せ。朝起きて寝るまでのすべてを思い出せ。もしここで手掛かりが見つからなければ、自分たちは原因もわからぬまま永遠とあの世界を彷徨うことになる。それだけは避けなければならない。だから思い出せ。昨日、自分は、何かいつもと違うことをしなかったか。思い出せ。昨日のすべてを、思い出せ。
 朝起きて、仕度をして、家を出た。ここまでにいつもと違うことはない。いつも通りの日常だった。電車に乗って大学へ向った。そこにも日常の変化は見られない。大学で頭に入らない講義を聞いて、それが終わったら喫煙所に入った。いつもと違うと言えばそこか。あの時、自分は煙草を吸えなかったのだ。なぜなら百円ライターが点かなかったから。それでコンビニにまで足を運んでライターを買ったのだ。まさかこの一連の騒動は、あの時捨てた煙草が原因なんて言うんじゃないだろうか。いやそれはないか。そうだとしたらそれが紋奈との共通点になるとも思えない。
 コンビニで煙草を買って、それからはその辺をぶらぶらして、家に帰って便所行って風呂入って歯磨いて寝た。いや違う、よく思い出せ。便所には行ったが風呂には入っていない。気づいたら倒れ込むように寝てしまっていたのだ。だから今日の夕方に起きた時に風呂に入った。歯はその時に磨いた。勝手に記憶を改竄するな。しかしこれで昨日一日の過去は終わってしまった。紋奈との共通点はまったく思い浮かばない。何が原因なのか。
 紋奈が可愛い顔でパフェを食べている。煙草の灰を灰皿に落とす。
 脳の片隅に、何かが音を立てて落ちた。
 待て。瞬間的にそう思う。
 思い出せ。あの日、自分は何をしたのか。思い出すんだ。朝起きて、仕度して、家を出て、電車に乗って、大学に向って、講義を聞いて、喫煙所に入って、ライターを捨てて、コンビニでライターを買って、煙草を吸って、歩いて、そして――。頭の中が、煙のように真っ白になった一瞬、すべてが透明になった。紋奈との共通点。それが、一発で理解できた。これか。紋奈は警察官。おまけに交通課。これ以上の共通点は存在しない。これじゃなければ、もう他にないのだ。
 煙草を手にしたまま、倖斗はスプーンを口に含んだ紋奈を見据えた。
「紋奈」
 ん?、と紋奈はスプーンをそのままにこっちに視線を移す。
 倖斗は言った。
「わかった。お前との共通点。これしかない」
 口からスプーンが抜かれ、紋奈の瞳が研ぎ澄まされる、
「――話して」
 ひと呼吸分の間の後、
「公園と花束と煙草の線香だ。おれの大学の近くの公園で最近、交通事故があっただろう? 子供が誤って車道に飛び出して車に轢かれ、死んでしまった事故だ。おれは昨日、その子供に添えられている花束に煙草を添えた。これ以外に、おれとお前の共通点はない。もしかすると紋奈。その事故を担当したの、お前じゃないのか?」
 紋奈が何事かを考え始める。
 やがてまるで犯人を崖に追い詰めた刑事のような表情を、紋奈はした。
「いい答えね倖斗くん。その事故、憶えてる。メインで担当したのはわたしじゃないけど、わたしもその現場にいたのは確か。調べてみる価値はある。ちょっと署に戻る」
 言うが早いか、紋奈は席から立ち上がり、
「夜、電話する。その時にわたしの家の場所を教えるから来て。泊まる用意を持って来るなら来てもいいけど、タオルとか歯ブラシとかシャンプーとかならあるから気にしないで。パジャマとかもいらないなら別にいい。わたしは気にしない。それじゃまた夜に、」
 堪らず、
「ちょ、ちょっと待てっ。泊まりって、なんで!?」
 さも当然のように、紋奈は言う。
「当たり前でしょ。寝た場所から夢はスタートする。せっかく仲間が出来たのに別々の場所でスタートするなんてメリットがないじゃない。それともなに、まさかその歳になっても女の子の部屋で寝ることに緊張するタイプ?」
「い、いやそうじゃないけど、けどなっ」
「時間が惜しいわ。あと約六時間で、調べれる所まで調べてみる。それじゃ、また電話するわ」
 紋奈は、倖斗の反論など聞く耳持たずにパステルを後にした。
 倖斗はもう一度だけ、頭を掻く。
 残されたのは、腑に落ちない気分と、裏返しにされた伝票だけだった。
 気分を抑え込んで、伝票を手にする。
 思う。
 パフェが一五〇〇円て高けえよ。


 紋奈から電話があったのは、それから約四時間半後の、午後十時二十三分のことである。
 指示された紋奈の家は、倖斗のアパートからさほど遠くはなかった。歩いても行ける距離ではあったが、紋奈が「急いで来て」と言うから、しばらく使っていなかった自転車を引っ張り出すことにした。埃の被った自転車のペダルをその辺に掛けてあった人のタオルで無造作に拭き取り、何食わぬ顔でタオルを返却してサドルに跨る。
 自転車を走り出させる。久しぶり過ぎて何度か転びそうになったが、ようやく軌道に乗った。
 あと一時間半足らずで、自分は再びあの夢を見ることになる。月と星が浮かぶ夜空は紅く染まり、道路を行く車はなくなり、人が存在しない代わりに鬼がいる世界に、再び足を踏み入れることになる。この夢を終わらせることができる可能性を握っているのは紋奈であろう。紋奈がどこまで調べたのかはわからない。だけど倖斗が頼れるのは紋奈しかいないのだ。ここで紋奈がお手上げになってしまえば、倖斗ではきっと、どうすることもできない。それこそ超人的超能力でも手にしない限り、いつかは鬼に捕まってしまう。鬼に捕まったら、一体どうなるのかさえまだわかっていない。わからないことが一番恐い。万が一に死んでしまうようなことになれば、恐怖が倍増する。
 自転車がやがて、紋奈の指示した場所に着く。
 この辺りでは高級の部類に位置するマンションである。何階建てなのかはわからないが、二十階くらいはあるような気がする。倖斗の住んでいるアパートとは文字通り天と地ほどの差があった。入り口に自動ドアやエレベーターがあるなんて、今の住処からは考えもつかない。さすがは公務員、良い所に住んでおられる。大学に無駄金払っている自分とは細胞レベルから違うのかもしれない。
 マンションの駐輪所に適当に自転車を停め、入り口から中へ入る。人の気配はないが、天井からぶら下がっている防犯カメラになぜかびくびくする。見慣れない奴がいるからってまさかいきなり警備員が飛んで来ることはないだろうが、警察官が住んでいるようなマンションである、もしかすると――、そんな可能性が否めない。不審に思われないように行動すればするほど不審に思える自分が情けない。
 エレベーターに乗って指定された十二階へ向う。エレベーターは豪華にもガラス張りで、外の夜景を一望できた。ふと見た所に倖斗の住んでいるアパートが見えた。紋奈は毎晩、こんな光景を見つめているのか。本当に自分自身が格下に思えてくる。見下げられている気分だ。しかしそれでも食って掛かれない自分が不甲斐無さ過ぎて、この問題が解決したら、本気で何かしたいことを見つけようと心に決める。
 十二階に到着する。部屋の番号は「一二〇七」だと紋奈は言った。まさか一二〇〇も部屋数があるわけではあるまい。ただ十二階の七番目の部屋、という意味だろう。目当ての部屋は、エレベーターから最も遠い所にあった。通路の端の端に、一二〇七号室のドアがある。表札に「MONA IBUKI」と書いてある。紋奈の部屋で間違いない。ドアの前でどうしようかとやはり一瞬だけ悩むが、どうしようもないことに思い至り呼び鈴を鳴らした。
 数秒待つとドアの内側から鍵の外れる音がして、不満顔の紋奈が顔を出した。
「遅い。一分一秒無駄にできないんだから早くして」
 むっとして言い返そうとして、やめた。
 いや、紋奈の姿に見惚れて反論できなかった、という方が正確か。
 薄っぺらいTシャツにホットパンツ、風呂上りなのか腰まである長い髪は濡れていてシャンプーの香りがする。高校生くらいに思えるはずの紋奈が、今だけは歳相応に感じた。警察官なのだから何か、例えば柔道や剣道は一通りしているだろうから筋肉質かと思いきや、ホットパンツから見える足はすらっとしているし、引っ込む所は引っ込んで出る所は出ている。昨日の夜は無我夢中で気づかなかったし、昼間は制服を着ていたせいでわからなかったが、紋奈はこうしてみると随分とスタイルがいい。
 紋奈の怪訝そうな視線が突き刺さる、
「なに? どうかした?」
 狼狽する、
「あ、い、えっ? な、なんでもないっ」
「そう? とにかく早く入って。大事な話があるの」
 紋奈の部屋に案内される。
 中の第一印象は、紋奈らしいと言えばそうだった。まさかぬいぐるみが沢山あって、「夜はこれを抱き締めないと眠れないの」なんて言うのは紋奈のキャラとは百八十度違うからないとは思ってはいたが、本当にぬいぐるみのひとつも存在しないとは恐れ入った。女の子らしさがひとつとして感じられない。生活感は漂ってはいるが、無機質過ぎる部屋。不要なものがひとつとしてないのだ。否、あるにはある。警察官が持っていていいのか、推定24型の液晶テレビの横に、それはある。
 鹿の角のようなものに支えられる、二本の刀。レプリカではあるまい。昨夜の夢の中で、紋奈が持っていたもの。それが、そこにある。
 しかし今は突っ込むことでもないので、倖斗は促されるままに部屋の中心にあったソファに座った。キッチンからお盆の上に麦茶の入ったコップを乗せて戻って来た紋奈が向いのソファに座り、麦茶を手渡される。受け取ると同時に紋奈は逆の手でソファの横に置いてあった鞄の中から、プリントアウトしたと思わしき資料のようなものを中央にあったテーブルの上に並べた。
 紋奈は言う。
「君とわたしの共通点を調べてみた結果がこれ」
 資料の一部を手にしてみる。
 それは、あの交通事故の事細かな資料であった。事故になった経緯から何から、すべてが記載されている。
 紋奈は続ける、
「被害者の子の名前は加藤拓真くん。小学四年生の男の子で、事故が起こった日、彼は友達数人と共に公園で鬼ごっこをしていた。だけどその途中で誤って道路に飛び出してしまい、通り掛った乗用車に轢かれる。運転手の通報により救急車が現場に向ったけど、その時にはすでに息を引き取っていたそうよ。……わたしが言うのもなんだけど、こういう事故はよくある。立場上、わたしは加害者の運転手に罪を問わなければならないけど、全部が全部、加害者が悪いわけじゃない。少なからず、被害者である拓真にも非はあった」
 それは倖斗もまた、思っていたことだ。
 だけど今はそんなことを言っている場合ではない。
「で? その子供が原因で、おれたちは夢を見てるっていうのか?」
 紋奈は首を振り、
「そこはわからない。もしそうなら、これはもう幽霊や祟りの類のものだと思う。けどわたしたちが見ているのはそもそも『夢』。霊的なものが作用していても何ら不思議はないし、むしろそうじゃなきゃ解明のし様がない。もし拓真くんが原因でわたしたちが夢を見ているのであれば、わたしたちにできることは拓真くんを成仏させるとか、そういうこと以外にないでしょうね。警察官のわたしがこんなこと言うのは間違いなんだろうけど、夢は管轄外。こればっかりはどうしようもないわ」
 結局重要なことはやはりはっきりとしない。
 どうすればこの夢を終わらすことができるのか。その可能性があるのは、死んでしまった子供を成仏させること。なんとぶっ飛んだ解決方法だろうか。今の時代にまさか、悪霊払い紛いのことをすることになるとは思ってもみなかった。しかしどうやって子供を発見すればいいのだろう。そもそも本当にその子供がいるかどうかさえわからないのだ。どうするべきか。どうすればいいんだろう。
 そして紋奈は、まだ続ける。
「でも、ひとつだけわかったことがあるの」
 資料の中から一枚だけ取り出し、倖斗に向って差し出す。
 受け取りながら眺める。そこには六名の人の名前と歳が書かれていて、その内の一人、工藤佳織二十六歳の横に○印があるのはなぜだろう。
「そこに書かれているのは、四日前から今日までの間に、意識不明で病院に運び込まれた患者の名前よ」
 なんでそんなものを見せて来るのかがわからない。
「それで?」
 紋奈は、低い声でつぶやくように、
「その中の一人、工藤佳織って人は拓真くんの学校の担任だった。……そして、わたしが夢の中で初めて見た人が、その人だった」
 ちょっと待て。倖斗の中で、ようやく紋奈の言わんとしていることが繋がる。
 紋奈が夢の中で人に出会ったのは、倖斗が二人目だと言った。初めて夢の中で見つけた人は、鬼に捕まって鬼になってしまったのだと。鬼に捕まった人がどうなるのかわからなかったはずだ。だけど工藤佳織は鬼に捕まり、鬼になり、そして、現実世界では意識不明となって病院に運び込まれた。血の気が引いていく。まさか、そんな、
 紋奈が言う。
「その六名の全員が、寝たままの状態で、原因不明のまま意識不明になった。そして彼らは、何らかの形で加藤拓真に関わっていた人物。ここから考えられること――彼らは皆、わたしたちと同じ夢の世界に入っていて、そこで鬼に捕まってしまった。そして鬼に捕まると、おそらく、彼らと同じ道を辿る。つまりは原因不明の昏睡状態になる」
 気づいたら声が漏れていた。
「……嘘だろ」
「わからない。だけど今ある情報だけで考えると、これが真実になる」
 平然と言ってのける紋奈から視線が外せない。
 なぜ、そうも冷静でいられるのかがわからない。鬼に捕まっても別に大したことない。心のどこかでそう思っていた小さな希望が打ち砕かれたのだ。意識不明の昏睡状態。それはきっと、死ぬことより恐ろしいことなのではないか。死ねば無になる。だけど、生きているのにも関わらず無になるかもしれない。生物学的には生きているが、魂が存在していないのだ。それは果たして、死ぬことよりマシなのか否か。
 これから毎夜、いるかどうかもわからない加藤拓真という少年を探しながら、鬼から逃げるのだ。どれだけ探せば少年を発見することができるのか。それまでにはどれだけ鬼から逃げ続けなければならないのか。たった一度でも捕まればアウトである。何と理不尽な話か。これはある種の鬼ごっこだったはずだ。鬼ごっことは本来、鬼に捕まれば鬼になるが、誰かに振れれば鬼から開放される。だけどこれは違う。鬼だけが増え続ける無限スパイラルだ。鬼側の方が、圧倒的に有利に事は進む。
 捕まれば生きたまま死んだ状態になる。
 そこで、ふと思う。
 もしかすると、それでいいのかもしれない、と。
 脳味噌が暗い思考に支配され始める。自分は確かにあの時、少年の花束の横に煙草を添えた時、思ったのではないか。代われるものなら代わってやりたい、と。こんな生きる希望さえも持っていない自分よりも、死んでしまった加藤拓真の方が、生きる価値があったのではないか、と。生きる価値のない自分が生き、生きる価値のある子供が死んだ。もし仮に、これを糧として加藤拓真が生き返るのだとするのなら、未来を見据えていないこんな自分の命など無になってしまった方がいいのではないか。
 やりたいことがなかった。ただ楽をしようと思って無駄金を払うために大学へ入った。変わらない日常を無意味に過ごして、漠然と日々を生きていた。それは、本当に生きているということなのだろうか。充実感など、ここ数年、味わったことがなかった。生きている価値があるのか。鬼から逃げ回りながらも生きる価値が、果たして今の自分にあるのだろうか。無意味な日常を過ごすのなら、いっそのこと、ここですべてを放棄しても、いいのではないか。
 劣等感に負けそうになる。心が折れそうになる。
 しかしそんな倖斗に向けられる、曇ることのない瞳。
「――諦める、なんて言わないで」
 視線を向けるそこに、倖斗は紋奈を見た。
「言ったでしょ。わたし、本当は恐がりなんだって。これでもね、君に随分と勇気をもらってるんだよ」
 紅い世界で出逢った伊吹紋奈が、そこにいた。
「わたしは諦めない。わたしには信念がある。だからここで生きることを放棄するなんてことは、死んでもしない。……倖斗くん。君に、夢はある?」
 優しく微笑む紋奈を見ていられない。
 真っ直ぐに「生きる」と言う紋奈を、生きることを放棄しようとした今の倖斗が直視できるはずもなかった。
 紋奈の問いに答えを返すことができないが、向こうも返答を待ちはしなかった。
「わたしのお父さんとお母さんは、わたしが中学二年生の時、交通事故で他界したの。轢き逃げだった。今もその犯人は捕まってない。だからわたしは、警察官になることを決めた」
 何を唐突に話し出しているのだろう。
 反応を見せない倖斗に構わず、紋奈は続ける、
「今だからこそ言うけど、警察官になって、その犯人をどんな手を使っても見つけ出して、この手で殺してやるって、本気で思ってた。でもいつしかその感情が薄れていくのを感じてる自分がいた。もちろん、今でもその犯人を許す気はない。でもね、殺してやろう、とはもう思わない。いつしか警察官であるわたしは、わたしと同じ境遇の子を出さないために動いていたことに気づいたの。そしてその仮定で思ったの」
 倖斗は今、紋奈の表情がわからない。
 だけどきっと、紋奈は今――
「わたしはその犯人に、両親のお墓の前でたった一言だけ、言って欲しかった。ごめんなさい、って。それだけでいいんだって、思った。もちろん実際に見つけたら引っ叩くくらいはするだろうけど、きっとわたしはその一言で、全部許せる気がする。この仕事をしていてよくわかった。殺されてしまった側からするのなら、それは殺人に他ならない。だけど殺してしまった側からすれば、それは紛れもない事故。どちらかを一方的に責めることはできない。だったら。だったら、一言だけでも、言って欲しい。――ごめんなさい、って。それですべての人が許してくれるとは限らない。だけど少しは救われる部分があるって、わたしは信じてる。わたしのように、復讐って醜い概念で動く人をもう、わたしは見たくない。だからわたしは、この仕事を続けてる」
 紋奈は、――紋奈は今、自信に満ちた顔をしているに違いない。
「わたしの役目はまだ終わってない。だから、わたしは死ねない。決して、諦めたりしない」
 紋奈はそして、倖斗に向って、こう言った。
「それには今、君の力が必要なの。諦めずに力を貸して。君の生きる価値は、今、ここにあるんだから」
 この伊吹紋奈という人間は果たして、何者だったのだろう。
 言葉には魔力があると、誰かが言っていた。その通りなのかもしれない。
 紋奈の言葉に、もうちょっとだけ、という思いが浮上する。
 もうちょっとだけ、生きてみようか。もうちょっとだけ、頑張ってみようか。紋奈の力になっている内は、少なくとも倖斗に対して生きる価値が生まれるのではないか。本当に力になれるかどうかはわからない。だけど紋奈が力を貸せと言っている。最後の最後に、それくらいの手伝いくらいはしてやるべきではないのか。紅い世界で、たった一人で鬼から救ってくれた紋奈。あの時、自分の命は確かに一度、尽きたのだ。ならば今は、紋奈のためにこの命を捧げてみようか。夢もなければやりたいこともない、生きている価値がないとさえ思っていた。そんな自分にできる、唯一のことが、ここにあるのかもしれない。
 伊吹紋奈。彼女のために、もうちょっとだけ、生きてみようか。
 ゆっくりと顔を上げた倖斗を見据え、紋奈は笑った。
「ん。ありがとう、倖斗くん」
 手を差し出される。躊躇った後に、そっと手を重ねる。
 その時確かに、伊吹紋奈を感じた。生きる価値が、確かな形となる。
 紋奈のために。今の倖斗が立ち上がる理由など、それで十分だった。
 そして、

 ――そして今日も、紅い世界はやってくる。




2007/08/31(Fri)21:27:10 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ふひ。ふひひひひひひひひ。

……どうもどうも!こちら神夜です!そりゃもう、この物語が書けなさ過ぎてこのままリアルに一年ばっくれようかと考えていた神夜です!ええお久しぶりの方はお久しぶりです!初めましての方は初めまして!前回からお付き合いしてくれた方、どうもどうも!何度も言いますが神夜です!
やーめーてーくーれーよ。何がだよって話だよ。もう錯乱し過ぎて訳わかんねえよ。十九時間寝た頭はハイです。もう倖斗の如く人生放棄してしまいたい衝動に駆られてます。夏休みが終わります。十月から研修始まります。腹が痛くて途中で放棄したせいでワード検定2級落ちました。もうゴミクズです。蛆虫です。死にたいです。鬼のいる世界に行きたい。紋奈に助けて欲しい。自分の書いたキャラで妄想すりゃ世話ねえよ。誰か殺してください。

はい、アホな話はここまでで、です。ていうかまっずいぞ。やめてくれよぅ。微妙だったはずの「その一」が「良いで出だし」だったなんて言われたら、さらに微妙になってしまったこの「その二」が恐いじゃないかよぅ。ただ書いていて楽しかったのは楽しかった。が、後半部分の出来は最悪だ。紋奈ん家行ってからが駄目駄目だ。なんでこんなにいきなりネガティブんなってんだよ。おかしいだろこれ。ていうか藤崎さん、ここ先に読んでるのならネタバレになってたかもしれない、すいません。……まぁいいんですけどねイヒヒヒヒ。
ところでこの物語の方向性はどうやら、「ネガティブ倖斗が、紋奈によって真っ当な人間に戻る」ことをテーマにしているようです。作者も知らなかった。どっから出て来たんだろう。そもそも皆様が鬱だ鬱だ言うからこそ気づいた。倖斗のこれって鬱なのか。書いてて知らなかった。……いや計算ですよ。うん。適当じゃないよ。違うよ、全然違うよ。

読んでくれた方々、誠にありがとうございました。

ここから先、テンションハイなため、なんか気に障るようなことを言ったらすんません。先に言っておきます。
さてはて時貞さん。美少女キャラは登場しません。申し訳ありません。ただあれですね、お姉さんで我慢してください。最近お姉さんて実はいいんじゃね?と思ってきた神夜なのです。甘えさせてくれるのはバッチコーイですわ。長編の書き方……そんなものを習得しているのなら、自分はきっと、逃亡せずに済むのだろう……飛んだらゴメンネ☆(キモイなオイ
さてはて家内さん。鬼ごっこだからこそ、鬼。その鬼に変わった部分など必要ないんですよ!!鬼は鬼なのだ!!シンプル・イズ・ザ・ベスト!!断っておくがあれだぜ、変形させると描写が面倒臭いとかそういうのじゃないぜ!勘違いしないで!!違うからねっ!違うんだもん!!
さてはてデイさん。こりゃまたお久しぶりのお方じゃあないですか。以前からお付き合いして頂き感謝奉る。そう言われて初めて、【春菜】に続編があったことを思い出した。あったなぁ、こんなの。よく憶えてますね、すごいっすわ。自分を目標……なんて有り難きお言葉か。そして目指すのであればどうか、途中で飛ぶなんてことはしないでください。まぁ自分は飛ぶけどネ☆(だからやめろって
さてはてコーヒーCUPさん。言ったじゃあないですか、【源五郎丸】のあとがきで。あんな作風はこれっきり、だと。これが本来の神夜だ!!……と言いたいんですけどね、違うんですわ……これが今の神夜のギリギリですわ……過去の栄光はどこへ行ってしまったのか……ぅぅ。ところでリアル鬼ごっこ、自分も読んだ。佐藤かなんかの名字殺すあれですよね?ありゃ……いややめておこう。トラウマだ。ああいうの読むといつも思う。なんでこれが売れてんだ?……失礼極まりない発言、申し訳ない。そのツボの設定のせいで神夜は今、とても苦しんでいます。辛いです。死にたいです。
さてはて藤崎さん。こんにちは。突然ですが、僕は藤崎様の作品が好きです。だから作品プリーズ。しかし今回のコメントはいつにも増してぶっ飛んでる。「好き」という感情が「嫌悪」になったらごめんなさい。こんな感想欄、読まないに越したことはないんですよ、きっと。説明の記述、か……なるへそ。しかしこの出だしが好評だとマズイな……ていうか藤崎さん……なんで神夜の隠れ家を拝見してるのですか。ヨソウガイデス。しっかしあっついっすねー。室内温度今現在、34度。パソコンウーウー唸ってます。壊れそうです。どうしよう。
さてはて甘木さん。すんません、安っぽいんすわ、今。もうちょっと頑張るしかない。しかしあれですね、その指摘、実に痛感。た、ただねっ、一応言っておくわよ!百円でもオイルライターてあるんだもん!ジッポのまがいもんみたいなのがちゃんとあるんだから!でもね、ここで記述されているのはそれじゃなくて普通の百円ライター。オイルのわけがない。なんだこのミス。「煙草吸うキャラて格好よくね?」と厨房丸出しのこのミス。おおう、恥ずかし過ぎて死にたい。訂正しておきまする。
さてはて中村ケイタロウさん。はいこんにちは。次回を待て、というかむしろ作者の心の叫びはあれですね。「次回は期待しないで待て、そして次々回もまた期待するな」くらいは叫びたい。それくらいに自信がない。さて、しっかりとした指摘なので、ハイなテンション下げてちょっと真面目にお答えさせて頂きます。無駄に多い、っていうのはまぁ、全体的ですね。描写量が一時は半端なかったですし。頭の寝癖以外……胸毛とか、どうっsすんません。嘘です。昔と時代。ふむ。「時代」を「こと」に変換することが適切か。ちなみに何を言われようとも「刹那の一瞬」という表現を、自分は崩す気にはなれないのです。これは数少ない自分のポリシーじゃけえ。……いや単純に好きなんです、この表現。しっかしすっげえすね……よくここまで調べてくださった。誠に感謝。ひとつひとつ、きっちり訂正させてもらいます。こんなきっちりした意見貰ってるのに、自分はロクな感想書かなくて申し訳ない。なんか感想書くことさえ躊躇われきた……いやもうなんかすんません。いやほんとすんまん。読んでくれてどうもありがとうございます。土下座して感謝の気持ちをここに。いやほんとごめんなさいすんません。


なっげええぇえええええええええええええええええええっ!!
馬鹿かオイ、長すぎるだろこれ。下手すりゃその辺の利用規約読んでない作品より文字数多くね?どうなのよこれ。
さて、次回作は何とか、本当に何とか早くしまする。
ちなみにいろいろな都合上、「その五」で終わるはずだったこれ、「その四」で終わりそう。
とりあえずもうしばらく、お付き合いを。それでは誰か一人でも楽しんでくれた人がいることを願い、神夜でした。
この作品に対する感想 - 昇順
Well I guess I don't have to spend the weekend fgiurnig this one out!
2012/05/17(Thu)15:31:571Ilham
[簡易感想]おもしろかったです。完結したら細かい感想を書きたいです。
2013/08/28(Wed)10:17:160点Lloyd
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