- 『式師戦記 真夜伝 5話〜18話』 作者:柏秦透心 / リアル・現代 ファンタジー
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全角35350.5文字
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原稿用紙約119.3枚
その昔、まだこの世に平然と妖怪や物の怪が跳梁跋扈 していた頃、その源をたつため一人の男が現れた。 永きにわたった苦難の戦いの末、封印は成功したがそれ と同時に彼の命も尽きた。 時は流れに流れ、時代は平成の世となり、それはもう 千優余年も昔・・・・・ 現代に生まれ出でてくる影を封じる式師。 五式・五奉師の家の一つ、一式家に生きる一式真夜と、 式家・奉家の若者たちの、現代にすくう影百護を封じて いくさまを描いた、“退魔モノ現代ファンタジー”。
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式師戦記 真夜伝 第五話
「逸色せんぱ〜い!」
『逸色《いっしき》』とは、式家の名を隠すための表名である。
しばらくぶりに、真夜は部活に顔を出した。墨の香ばしいようでちょっと鼻に来るような匂いが立ち込める。
だが真夜も咲にも、その香りは極身近なものだった。一式の家は表名逸色として、表向きは著名な書道家の流派を営んでいた。
それもあって、真夜は咲とともに書道部に入っていた。部活に使っている教室に入るとすぐ、声を掛けて来る者があった。
「先輩方また二週間くらいぶりですね!」
「家の方が、色々忙しくてね」
「穂坂ちゃん、麓峰《ろくほう》部長いる?」
「さっき会田先生に呼ばれて。もうすぐ戻ってくると思うんですけど……」
書道部の後輩・穂坂有子《ほさかあこ》は、部室となっている第二演習室の、真夜たちが入って来たドアを見ていた。
すると余り経たないうちにそのドアは開く。
「今度のコンクールの話しだった。っと? 真夜たち来てたのか」
「来てちゃ悪いですか? 部長」
そんなわけないだろ、と麓峰は頬を指で掻いた。
ついでに顧問から受け取って来たプリントを穂坂に任せ、教室の端の方の席に座り、二人を促した。
書道部部長・麓峰鶴史《ろくほうたずし》は、
「仂からだいたいは一昨日聞いたけど、そのあとの動きは?」
五式家を守るのが役目とも言える五奉家の一つ、六奉家の者である。
「なしよ。鶴史は何か聞いてない?」
「何かあったら、仂に伝えてるよ」
「真夜ったら新しい瑠璃玉にひび入れちゃって」
咲は机に両手で頬杖をつき、横目で真夜を見ている。
鶴史は頭をかいた。
「それも仂から聞いた。星に上下が入ってたらどうするつもりだ? せめて麓峰にぐらい知らせてから」
「いいじゃない、一発で仕留めたんだし。まったく、仂のおしゃべり」
「せめて、式家付きの奉家には知らせておくべきだったのよ。おかげで祓うの一苦労だったんだから。そうでなくても──」
はいはい、と真夜は二人から視線を逸らした。
教室窓際の何列かの席を使って、先程の穂坂を含めた部員の何人かがコンクールに向けての課題を書いている。
「せっかく来たから、私も少しやろうかなぁ」
真夜がそう言ってイスから立ち上がった時、彼女の携帯が鳴った。
その相手は『水拭棗《みしきなつめ》』となっている。
「もしもし真夜です。棗さん。はい、──それじゃあ1から5まで。じゃあ今からそっちに」
言って電話を切った。
咲が二つの鞄を持って、もうドアのところに立っている。
「呼び出しか」
「ごめん、部長、みんな!」
「先輩帰っちゃうんですか〜!?」
「穂坂ちゃんごめん! またね!」
真夜は戸を閉めながら顔の前に手を立て部室をあとにした。
廊下を走りながら再び携帯を手に取る。
「あ、佐伯? 私だけど、今から名屋代《なやしろ》に行くことになったから車回して! ……うん、そうそう」
「私はどうする?」
「待ってても帰っててもどっちでもいいわ」
お互いに前を見て走って行く。
「お嬢様も大変ですね。咲さんなんかもっと大変だ」
「佐伯。それは何よ」
足も腕も組んで考え込みながら後部座席に座っていたが、ルームミラー越しにその世話役を睨んだ。
まるでいつかの逆のように。
オレンジ色になりかけの空の中、五つの式家から五人の若者が集まった。
そこは三式の屋敷がある名屋代という町、その中心街裏に、三式家ゆかりの茶房『華水庵《かすいあん》』がある。
棗の召集の場合、だいたいここが集会の場となっている。
真夜が佐伯の車を降りて茶房の暖簾をくぐると、一つ久しぶりの顔がそこにいた。
「おっ!真夜!」
「玲祈!久しぶりじゃない」
いたのは四式の長男、四式玲祈《ししきれいき》。
式師の力を持って生まれた嫡男であるにもかかわらず、四式を継ぐことを拒んだというなんとも大胆な人物である。
式家などは異例の事態がないかぎり、代々嫡男、つまり長男が跡目を継いでいるのだから、それを拒むということがどれだけのことか、容易に想像ができる。
「最近こんな集まることなかったからな。瑠璃玉にひび入れたって? 大丈夫なのか?」
「……ノーコメント」
奥座敷の戸を開けると、三つの顔ぶれがあった。
一人は細身の肩に三つ編みを一つ垂らした女性、2人めは女子中学生──裟摩子である。
そして三つめは、ミニマムサイズの……。
「棗さん、裟摩子! と……鎖景《さかげ》? 鎮破はどうしたのよ」
「鎮破様は講義で遅くなるとのことで、私めが言いつかって参りました」
「鎮破のやつ、なにやってんの!」
「真夜。それより」
「……はい」
玲祈はとっくに先に三人と並んでいる。
棗にうながされた真夜は、座って今回のことを詳細に話し始めた。「影だったわ。私あの型嫌いよ。生意気だし」
「俺も嫌だ。あれ気持ち悪いし」
「実はね」
誅書らしきものを棗は取り出してきたが、何かが違っていた。
「棗さん、それ結書《けっしょ》?」
「依頼を受けたんだけど、話しによるとこっちも星だと思うわ」
「誰かに取り憑いた影百護ということですか」
水華庵の女将がたてたお茶を手に包んでいる裟摩子は、相変わらず俯く。
この間の影の一件以来たびたび見せる。
前はあんな顔してただろうかと、真夜は考えていた。
「鎮破様も気になる件があり、調べておられます。それらしい話を情報屋からつい最近聞いたとか」
「あれから星自体が出て来ないのはおかしいと思ってた。でもずっと出て来ないのならばその方がいいとも思ってたわ。三年も空白があってから突然こんなに行動を始めて……何が目的なのかしら」
「前は5人全員での全力戦だったからなぁ。あれは大変だった」
「裟摩子あのあとしばらく動けなかったよね。私と玲祈は体のだるさが抜けるのに時間がかかった。棗さんは足にケガして、鎮破は珍しくキレてたっけ」
四人と小将はしばし黙った。
────あの時は最初玲祈に、いや『四式』に誅書の依頼が舞い込んだ。
玲祈が出張ったのだが、星朱印上下つきのそれこそまれに出る大物だった。
四式の現当主である、玲祈の母・衿子は他の式家に協力を願い出た。
真夜の父であり一式を継いでいた判鳴は、五式家の次世代を担う五人と、奉家の者を集めた。
危険はあるが、まだまだ未熟なこの若い式師達を伸ばすには良い機会と踏み、このギリギリと思われる戦いに五人で挑めと命じた。
静かに四人のやり取りを見守っていた鎖景が、ピクリとした。
「三年前のあの時以上の敵が出たら、今の力でどの程度で済むか」
「鎮破!」
最後の一人、五式鎮破《ごしきしずは》が姿を現わした。
「星の星が出て来たら、を考えておくべきだという話だ」
「そう……私も考えてたの。これからは前以上に危険になるわ。私たちは半日常的にその危険は背負っているけれど、やはりこれまで通りにはいかない」
「真夜。瑠璃玉を見せろ」
真夜はムッとしながらも、首から下げているその綺麗なまるで宝石のようなガラス玉を出した。
「ケガは? 本当になかったの?」
棗のそれには頭を大きく振って答えた。
「あのくらいなら、前にも一回だけやったことあるから。それより仂ったら、瑠璃玉のことは黙ってろって言ったのに」
「お前に聞くより、口の軽い仂からの方が正確だ」
「鎮破! 何よその言い方!」
「でも真夜ちゃん何も、一気に倒そうとしなくても……やっぱり私が」
「裟摩子は気にしなくていいの」
「瑠璃玉に頼るほどの負担を甘んじて受けるようなやり方は、下手すれば命取りだな」
その嫌味とも言える口調の鎮破は、まだ座らずに障子に寄り掛かりながら目を伏せて腕を組んでいたのだが、眼を開け真夜を見据えた。
「私は死ぬつもり、毛頭ないから」
「それでも一式の一の姫か?」
「当然」
久方振りの召集は、とりあえず今後これまで以上に警戒及び各式家・奉家の連携の強化を強め、星姿現われし場合は迅速かつ確実に処せよということになった。
星の星は影百護の中枢。
『百護』の所以がそこにはある。
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式師戦記 真夜伝 第六話
「真夜、乗せてってもらって駄目かな?」
五人は散会し、真夜が廊下へと出ると、玲祈が声を掛けてきた。
「いいわよ。何の用?」
「用があるわけじゃないけど……」
その時、2人の横を鎮破が追い越した。
真夜は機嫌が曲がったように、
「んじゃなんなのよ。私お腹が空・い・て・る・の。誰かさんがまた嫌味ったらしいから余計」
と、通り過ぎた鎮破の背をちらりと見る。
本人は知らない振りをして玄関に向かった。
車には咲も待っていた。
「咲! 元気か? 佐伯さんもお久しぶりです!おっじゃっましま〜す」
「こいつも乗せてってやって」
「玲祈くん、暁哉《あきや》さんは? 迎えに来なかったの?」
「用もないのにこっちに乗せてってくれって。佐伯、道坂《みちざか》の駅で下ろしちゃっていいわよ」
「真夜お嬢様、また鎮破さんとケンカですか?」
真夜の機嫌の悪さに気づいた佐伯は、その訳も察していた。
それはいつものことだからだ。
真夜はああ言ったものの、佐伯の車は道坂にある四式の家屋敷まで玲祈を送って来た。
「じゃあな、真夜! 咲! 佐伯さん、どうもでした!」
「おやすみ、玲祈くん!」
咲は窓を開けて手を振ったが、真夜はずっとイライラしていて、そっぽをむいたままだ。
「ねぇ真夜、いい加減機嫌直しなさいよ」
「またこんなことだろうと思って、咲さんとあんみつ買ってきたんですよ?」
咲は助手席から袋を取った。
「お腹空いてるでしょ? 佐伯さんが近くに甘み処見つけて。速見灘《はやみなだ》まではまだ時間あるし、食べよ!」
「佐伯、咲、ありがとう。愛してる〜」
「“愛してる〜”はいいってば。こぼすよ」
苛立ち時には甘い物。
真夜の機嫌も、二人からの心遣いで和らいだ。
笑い声が絶えないまま、真夜達は家に帰り着いた。
外はもう、すでに真っ暗闇で、月がけっこう高いところまで上っていた。
「ただいま帰りました。佐伯、ありがとね。早く帰って夕美さんにあんみつのおみやげ食べさせてあげて」
「あ、おば様、おじい様。遅くなりました」
母の果月と、真夜の祖父・禾右衛門《のぎえもん》が玄関先まで出迎えに出て来た。
隠居の身となり、年を優に重ねてはいるが、その威厳の圧力感は未だ放たれたままでいる。
「御前様、果月様、今日は私はこれで」
「佐伯、ご苦労だったな」
「おじい様、あんみつ! 佐伯から」
真夜は袋を果月に手渡した。
「あら、誠人くん悪いわね。夕美ちゃんの分はあるの? 今は一番大事な時だから、大変な時はすぐ連絡するように夕美ちゃんに言っておいてあげて。私が飛んでいってお世話するから」
「とんでもないです、果月様にそんな」
「いいのよ、遠慮しなくて」
「それでは失礼します」
佐伯は身重の妻・夕美の待つ自宅へと帰っていった。
真夜は奥座敷にて、現当主・父判鳴と祖父禾右衞門を前にし、協議の報告をする。張り詰めた空気には慣れたが、二人を前にした威圧感は未だに緊張を誘った。
「まだ星の目的や全体の動向が、はっきりと見えてきてない今は、これまで以上の警戒と各家の連携を強化、早急な下しを……そういうことになりました」
「うむ。判鳴、お前は何か掴んではないのか? この間も四式の衿子さんから何かあったんじゃないのか?」
「いえ。それはまた別の」
「四式のおば様?」
「とにかく。くれぐれも気をぬかずに事を運べ。いいな」
はい、と真夜は父の言葉に腑に落ちない気持ちを抱きながらも、小さな返事を返しその場を出た。
「して、なんの話しだ? 真夜がいては話せぬようじゃな」
「四式の小倅《こせがれ》が跡目を継ぐのを拒んだことは、父上の耳にも入っておられるはず」
「玲祈か」
「……真夜の伴侶に、と申しておるそうです」
細めていた眼を開いた禾右衞門は、下顎のその長いひげを撫でた。
「まったく大胆なやつじゃの。一式の次期跡継ぎの伴侶としては願ってもない相手ではある。……しかし最後は真夜自身が決めねばならん」
「私もそこが」
当主を引退し、今は隠居をしている者。それを引き継いだ者。
両者の後ろで、証しの玉は静かな光を放っていた。
一方、四式家の家に帰った玲祈は、玄関で一人ぼやいていた。
「……真夜んちのオヤジさんにあいさつしに行こうと思ったけど……真夜に言う前に行くと、あいつ絶対怒るしなあ」
靴を脱ごうとしている玲祈の背後に、誰かがひたひたと近付いて来た。
「当たり前ですよ、玲祈様」
「あー、暁哉ただいま」
「また一式のお嬢様に送ってもらいましたね? まったく、連絡がないと思っていましたら」
振り返ると、玲祈の身の回りを世話している川間暁哉《かわまあきや》は、呆れとも言えるほど眉を顰《ひそ》めている。
彼は祓い師川間一族の1人で、修行の身として姉弟で四式に仕えている。
「いいじゃねぇかこんくらい。俺は、絶対あいつの婿にもらってもらうんだ」
「それは玲祈様の勝手ですが、一式の方々にまでご迷惑をおかけして、まだこれ以上ご自分の勝手な振る舞いを上塗りするおつもりですか? だいたい名屋代からこの道坂まで約20分。それから一式家の速見灘では引き返す形に」
「はいはいはい、分かったからもう」
「玲祈様!」
これ以上小言を喰らう前にと、そそくさと玲祈は部屋へと入って行った。
こちらの世話係はやれやれとばかりに腰に手を当て息をついた。
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式師戦記 真夜伝 第七話
次の朝、小さな物音で早めに目が覚めた真夜は、卯木が出て来ているのに気がついた。
「……卯木? 何かした?」
「御前様が……」
卯木から渡されたそれを裏返して見ると、裏書きに『円茶亀《まるさき》』と書かれていた。
真夜を起こさないようにと、禾右衞門がこっそり卯木に手渡したのだが。
またあの夢の幻につかまっていたせいで、眠りが浅かったのだ。
明け方の静まりかえったままの一式本屋敷。
暁の静寂の中、真夜はふとんに仰向けでその書状を見つめたあと、ゆっくりそれを開き始めた。
『我星の情報、誅書・結書とともに入手せり。しからば某日夕暮時、カフェ・アンジェリクにて受け渡し候う』
「またぁ? ……もう、少しくらい……やすませ……て…………」
それを枕元に投げ出し、また一眠りつこうとする。
あのレトロな喫茶店とは違い、ちょっと気のきいた感じのカフェ・アンジェリク。
その男は全面ガラス張りの窓際で、いつも先に来て待ち構えている。
今日もまた予想を裏切らず、おまけにシフォンケーキにアイスコーヒーを添え、すでに食べかけていたという有様だった。
「やーやー! ご機嫌麗しきオヒメサマ」
「相変わらず騒がしいわよ」
「そんなむっつりしてると、せっかくの顔が崩れちまう」
円茶亀というこの男。
毎回こじゃれたTシャツやら作業着もどきのズボンをだぼだぼに着こなし、ツリガネ草をひっくり返したような帽子を、表情がうかがえないくらい深くかぶり、未だにどういう人相をしているかさえ掴めていない。
そればかりか、どこのどういう者で、職種が情報屋なのか仲介屋なのかそうじゃないのかも、いまいちはっきり明かされない、何とも奇妙で謎多き人物だった。
「星について……と、誅書・結書。受け取りに来たわよ」
「じゃあまずはブツを先に」
口もとでニコリとして、どこからどう見ても見た目菓子折りとしか思えないそれを出して来た。
「はい、プレゼント! 二つ・三つは入ってるよ」
「その『二つ・三つは』、ってどういうこと?」
「いやぁはっきり言うと怒られそうだからさぁ」
「中身は?」
こちら側はアイスレモンティーと、フルーツタルトを一つ頼んだ。
「赤が獣に影、形《カタ》……白は家」
「家?!」
「家、だね。いろんな筋から同時期に来たものだ。他には数件雲行きが怪しいとか。最近は影系が威勢がいいらしいね」
「他家には?」
「二には白の軽いやつを一件だけ。三は何か先に引き受けたらしいからやらなかった。四には赤二つ、五には雲行きが一番怪しいとこの情報をあげた、かな」
指を一本一本立てながら話している円茶亀とは、違う方向を見つめ、ストローをくわえて真夜は今にも唸りそうなだった。
赤は誅書、白は結書のことで、表向きにはこう口に出すことがある。
「お疲れぇ? まぁ年頃のお嬢さんにはきついだろうが、ガマンガマンさ」
「あっさり言わないで」
「はは。あ、そうだ一番大事な情報が」
『浮き足だったこの一連の動きにはどうやら頭の状況に何かあったらしい』
という話がどこからともなく出て来た、と男は言って真夜の分までさっと笑いながら伝票を持って行ってしまった。
「まぁたあいつにおごってもらっちゃった……」
嫌そうに言いながらも、すでに頭の中にはもらった情報のことしか詰まっていない。
「もしもし?」
「あぁ、玲祈? あんたも円茶亀から赤二つよこされたって?」
帰り道、真夜は玲祈に電話をかけた。
その目は受け取ったばかりの菓子折りに止まっている。
「ん? あーそう、二つ」
「その片方って、もしかして『屋良川《やらがわ》』って名前じゃない?」
「屋良川? え──っと……。あぁなんかそうっぽい」
ちょっと待ってよ、と思わず苛ついた口調で口から漏れた。
え、と玲祈が問い返す。
「もしやと思って電話して正解。玲祈、この仕事、私たち組まされたのよ」
「えぇ?! マジに……?」
電話の向こうが、言葉を言い終わる前に真夜はそれを切った。
適当なベンチを見つけて座り、受け取った物を開けようとしたが、叫びたい気持ちと一緒にそれを辛うじて飲み込んだ。
そしてまた携帯を手にする。
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式師戦記 真夜伝 第八話
一式家のある速見灘と、四式家のある道坂との中間にある佐々宜《ささぎ]公園の時計が、夜の九時を指している。
遠くには中央街の騒音が微かに響いて聞こえてくる。
しかし、猫の子一匹いなくなり妙に静まりかえっている公園に、一つの人の影があった。
その向こうからまた一人走って現れた。
「おっそい玲祈! 八時半て言ったじゃない!」
「はぁっ……ったって……今、はー……一匹倒したんだよ……そこで」
息を切らした玲祈のは途切れ途切れにそこまで話した。
「え──」
「はぁ……っ疲れた〜……獣《ケモノだ……牙むきやがって」
「って、手噛まれてるじゃない! ちょっと見せなさい」
「いいって」
「よくない!」
玲祈は左腕を押さえていた。
出血しているのをみとめて、真夜は即座に腕を取り上げ、ハンカチできつく縛り上げた。
「まったくドジ! 一応プロなんだからね! 情けないったらないわよ。深く噛まれてはないからよかったけど」
「……」
暗い中、反応が返って来ない。
「玲祈?」
誅書の式行はひとまず中止し、四式から暁哉が呼ばれた。
ほどなくして迎えの車が佐々宜の公園脇につけられた。
車から降りた青年はものすごい勢いで二人のもとに駆け寄って来た。
「玲祈様! それに一式の……すみません」
「暁哉! いいの。大したことないみたいだけど今日は中止よ」
「……」
「玲祈様、またご迷惑をおかけして……玲祈様?」
「さっきからこんな調子なの。気を失ったのかと思ってビックリしたけど、そうじゃないみたいだし。とにかく今日は解散! しっかり治すのよ。ハンカチは返さなくていいから」
またね、と真夜は歩き出したが、それでも反応はなく、家に着いてもずっと気になっていた。
「一式のお嬢様がお声を掛けても反応なさらないと思ったら、そんなに嬉しかったんですか? その腕」
「……」
問い掛けられた者は、まだ照れて赤いままになっている。
あんなに真剣に迷いもなく腕のケガを心配してくれた。手当てもしてくれた。
それで「ありがとう」の一つもない自分を、今更ながら玲祈は反省していた。
「ただいま」
「お帰り〜。仂とトランプやってたんだ。早かったね意外に」
部屋に入ると、布団に寝そべってトランプのカードを手に持つ咲と仂が目に入った。
「玲祈が私と落ち合う前に一匹見つけて。うまくやったみたいだけど、噛まれてケガしたから今日は中止。暁哉に預けて帰ってきた」
「中止……ふ〜ん。ケガって大丈夫だったの?『噛まれた』ってことは獣系よね」
「うん。犬に噛まれた感じ……依頼意外に現れたやつだった。玲祈はケガしたけど、倒せなかったわけじゃない。むしろ玲祈がドジっただけよ」
「やっぱり何かありそ?」
「分かんない」
まったく何よこの数。一気に3匹?冗談。
「あいつ、最近影《カゲ]系が強いようなこと言ってなかったけ。こいつら形《カタ]と獣《ケモノ]じゃない。しかも絶対朱印付き」
真夜は学校帰り、一人でこの前玲祈が襲われた場所へと行ってみようとして、偶然『それ』を見つけた。
だが追いかけた末、他に二つも現れて来たのだ。
倉庫街の狭間、とりあえず人気のないところまで引っ張っては来たものの苦戦していた。
「……なぁ〜んでこんなに出て来るかな。あんたたち一体なんなのよ」
「≒£★⊆♀⌒¥〓%π♯√ゑヱ」
「は?」
「……レラ……モ……リ」
「何言ってんだか分からないって言ってるでしょ!」
まず形の一匹に真夜は集中しようとした。
獣は形よりすばしっこく、少し時間をくうためだ。
後ろに回り込もうとかすめた瞬間、やっとやつらが何を言っているかを解することが出来た
──ワレラシキノモノメッスルナリ。
意図して式家、あるいは式師を狙っているもの。
こんな相手は、三年前の最後に倒したものしか見たことがない。
誰かに吹き込まれたか……仕掛けられて来たものか。
「あーっもう! 玲祈の次は私?! って……ホントすばしっこいわね」
三匹のうち一匹が獣。
それが回り込んだ真夜の、さらに後ろに回り込んだ。
次いで形《カタ]の残りもこちらを向く。
この数で一気にでは瑠璃玉にあまりにも負担がかかりすぎる。絶対に割れる。
瑠璃玉に負担がかかる、すなわち自分にかかる負荷が大きくなるのだ。
──ワレラシキノモノメッスルナリ シキノモノハメッスルベシ メッスルベシ。
「殺せるわけないでしょ。相手は私なんだから」
しかし表情に余裕はない。
形をどっちかだけでもやれれば楽になる。
真夜は右手拳を額に当て、それに垂直になるように、何か形作られた左手を置いた。
『封じ』の姿勢。
「一式が一星。お前を封じる」
両手は払うように離され、威圧の様なものが形の一つを縛った。まるでそこだけがビデオの静止状態となっているかのように。
とっさに獣が飛び掛かって来る。
「あんたは最後よ!」
紙一重でかわし、そこから形のもう一方の前へ出る。
──ワレラシキノモノメッスルナリ。
「うるさい! 取り憑かなきゃ第一手が遅いじゃない。形は人に入らなければ、速さは格以下眼中外。それくらい分かってんだから」
それにしてもおかし過ぎる。
今は普通に聞こえてはいるが、影の声が最初何を言っているのか分からなかった。
だんだん頭の中でそれが透明化してきて、初めて分かった。
一体どうなって……。
そんなことが駆け巡り、動きが一歩遅れた。
その期を逃すまいと、獣の牙が真夜めがけ向かって来る。
「それでも一式の姫か」
なに、と振り返る間もなく目の前を覆い隠したものがあった。
よく見ると、どこか見たことのある背中が、そこにあった。
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式師戦記 真夜伝 第九話
「しっ……鎮破?!」
「鎖景っ!」
それだけで敵を封じてしまいそうな、そのくらい威圧を含んだ声。
怒声のような、それでいてなぜか冷静なような。
呼ばれ現れた小将は逆に、迫り来る獣に向かって行った。
獣の周りを、鎮破から送られる力の帯を播きながら飛んでいる。
「一瞬の迷いが命取りになる」
「迷いじゃないわよ。けど、『束縛』してくれて助かった」
「俺はこいつだけだ。残りは知らん」
「上等」
二人は左右に分かれ、切り返し標的へと手を伸ばす。
──メッスルベシ メッスルベシ……。
「成敗!」
なぎ払われた手によって、切り裂かれた影はまた、闇へと戻っていった。
有無を言わせない空気を纏いながら、見据えて鎮破は真夜の胸元の、瑠璃玉をさげていたはずの紐をとった。
「なぜ換えなかった」
咎める青年に、真夜はいたって静かに答えた。
「換える換えなかったがつながったわけじゃないわ。ただ少し、考えちゃってただけよ」
「考え?」
「それより鎮破こそ、何してんのよ」
覗き込んだ眼鏡の奥、その瞳がふいに顔とともに向きを変えた。
「大学生は忙しいんじゃなかったの?」
「あぁ……そこらでふらふらしている女子高生よりはな」
またその嫌味な口調が、少女を腹立たせた。
「ふらふらしてって何よ! 私は目的があってうろついてたの。それで偶然……」
「なんだ?」
ふと考え込む真夜を、鎮破は怪訝そうな視線を眼鏡の奥から送っていた。
少しの間のあと、真夜は口を開いた。
「鎮破……影の声聞こえた?」
「『滅するべし』か」
「ちゃんと普通に聞こえたんだ………」
「……」
またふいに真夜が振り返った。
「そういえば、円茶亀から一番怪しいとこの情報もらったって? 何か掴んだの?」
「まだだ」
言って鎮破は踵を返し歩き始めた。
「獣の誅書はこっちで作っておく。甘ちゃんに付き合って無駄な時間を使ったな」
「何よ、それ」
答えず青年は、振り向かないまま去って行った。
「何よ、鎮破のやつ」
小さな溜め息をする背中を、小さな人型は黙って眺めていた。
その背中は依然として机に向いたまま人型を振り返らない。
「……鎖景」
「はい」
「至急一式以外の三家と全奉家で、何か情報が入っていないか探って来てもらえるか。どんな些細なことでも構わない」
「分かりまして」
鎖景はそう言って、さっとどこかに消えていった。
「銘景」
「はい」
するとまた、まるで生き写しのような、しかし色合いが正反対の装いをした小さな別の人型が出てきた。
呼び声の主は、今度はこちらを振り返る。
「一式に行き、真夜に気付かれぬようあいつを見張っていろ」
「……御心配でいらっしゃるのですね」
「行け」
「分かりまして」
またまた小さな別の人型は、どこかに消えていった。
「『普通に聞こえたんだ』……か」
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式師戦記 真夜伝 第十話
ある山奥の古民家。その裏手に母屋とは打って変わってモダンな雰囲気の工房があった。
真夜はそこを訪ね、中を覗いたのだが、
「守名さんいますか〜?」
返事はない。
大きく息を吸って、また声を掛けてみた。
「仁ちゃんいます〜?!」
「コラコラ。『仁ちゃん』はやめときなさい」
おもしろ半分の呼び声に、裏手の林からきのこを持って姿を現した者がいた。
「じゃあ何で普通に呼んでも現れないんですか?」
「小春《うらら》がお腹空いたとうるさいから、裏の林できのこをね」
「小春が?」
真夜はきょとんとしながら母屋の方に視線をやった。
「さっき母屋覗いたら、おとなしくお昼寝してたみたいだったけど……」
「おっかしいなぁ。あぁ! それよりここに来たってことは、まただね?」
工房へ入りながら仁は、苦笑する真夜をくしゃくしゃと撫でる。
「せっかくの新品パーにしちゃった。久方振りの本星を一気倒ししちゃって」
「本星? やっぱり動き出したか」
「何か聞いてたの?」
「濱甲《はまかつ》君から」
「はまさん、来たんだ」
「たまにお茶飲みにさ」
八奉濱甲《はっぽうはまかつ》。察しの通り奉家の者であるのだが……。
「千賀矢《ちかや》ちゃんだっけか。学生結婚なんて彼女が大変じゃない。しかも私と同い年くらいだったよね?」
「そうそう。まだ高校生」
母屋の土間に仁が踏み込むと、入ってすぐのところに大きなドラムバックやリュックなど、いくつかの荷物が置いてあった。
その横で、犬の小春がすやすやと寝ている。
「……何日泊まる準備?」
「瑠璃玉が出来るまでいるつもりだけど? そろそろ『成りし瑠璃』を、って父様が。ちょうど夏休みに入ったことだし。あ、あとから咲もくるから」
そう言って真夜は荷物を運び始めた。
仁もしょうがないなぁといった様子で、ドラムバックの方を手に取った。
土間から座敷へ上がろうとした時、ワンと鳴く声がした。
この時期の暑さをしのぐため、土間のひんやりとしていた床に、腹をつけ寝ていた小春が目を覚ましたのだ。
「小春!」
真夜を見るなり土間から這い上がって飛びついて来た。
中型犬で毛並みがフサフサして、嬉しそうに大きなシッポを振り回している。
「ほうら小春。きのこ取って来てやったぞ」
きのこは仁の目の高さくらいにぶら下げている。
またワンと一つ鳴いて、小春はきちんと座り直した。
さっきまでは仕事用作務衣にバンダナをしていた仁だが、外すとさらりとした少し長い髪が、今肩に垂れている。
「何が起きてるんだ?」
「まだよくは分からないんだけど、影が私たちを確実に狙い始めてる。一気倒しした奴に、今思うと私、待ち伏せられてたみたいだった。その前は玲祈が獣にやられたし、それに……」
「それにどうかしたのか?」
言って少し考えているところを、仁は顔を覗いて尋ねた。
「……うん。最初、奴等の言葉が分からなかった。だんだんいつものように聞こえるようになったと思ったら――」
真夜と仁、そして犬の小春の様子を、鴨居から気配を消しこっそり伺っている者がいた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十一話
山奥の朝は早い。
翌朝の朝靄の中、仁はバンダナに長い髪をしまいながら工房に入って行った。
陽もかなり昇りかけた頃、母屋では縁側廊下を雨戸を開けながら奥の部屋に向かう足音があった。
「真夜様! 朝ですから起きてください!」
昨日咲とともに合流した佐伯が、いつも通り真夜を起こしに来たのだ。
3回程ノックすると、障子が開いた。
出て来たのは着替えを済ませた咲だった。
「おはようございます」
「咲さん。真夜様は……」
「私が起きたらもういなかったんです」
「お珍しい……」
「ホント」
二人とも腕を組んでうなった。
「小春。顔洗うから、ちょっとおとなしくしててね」
母屋の土間でワンと一鳴きして、小春は行儀よく真夜の脇に座った。
「珍しく早起きだね」
泡だらけの顔のままの真夜の背後から、仁が声を掛けた。
「だって、めちゃくちゃ起こされたんだもん」
「よっぽど真夜に散歩に連れてってもらいたかったんだな」
「起こしたのはバカの方だけど」
『バカ』と呼ばれた本人にも、その会話は届いていた。
「なんで俺がバカなんだよぉ」
仂が大声を出しながら現れた。
「あ・の・ね。足の裏くすぐったり耳のそばで大声出したり、ほっぺた思いっきりつねったり、どこにとっかえひっかえあの手この手で人を早朝に起こす奴がいるのよ。だからバカだって言うの」
「だってぇ、小春がどうしてもって頼むから!」
笑いを堪えつつ、仁はそこに悪びれなく座っている犬を見下ろした。
「仂に頼んだのか」
小春は嬉しそうに今度は二つワンと鳴いた。
次の一瞬、突然透き通るような研ぎ澄まされた音が響いた。
音なき音。それは耳より直接脳に響いている、と言ったようだ。
「これは──」
「響糸」
「仂!」
返事する間もなく、すかさず外に飛び出して行った仂と入れ違いに、佐伯と咲が慌てて土間に入って来た。
「真夜! さっきの!」
「仂に今行ってもらったんだけど……。卯木!」
「はい」
卯木は真夜と一番繋がりが深い、ゆえに見たもの聞いたものの伝達が瞬時に出来る。
仂と同じように、卯木もすかさず土間を飛び出して行った。
「門の辺りかな。響糸は、影百護一門が触れると鳴るようになっている。それに、入っても来れない」
「行ってみる。咲と佐伯は小春と待ってて。仁ちゃんと見て来るから」
「分かった」
すぐ二人も追って母屋を出て、斜面に作られた階段を下って行った。
──真夜様。
「卯木?」
──いたのは普通の人間でした。かなりお年を召し様子の。影の気配は今のところありません。
その時、ちょうど仂が戻って来たが、仂の報告は、卯木の話しを確証づけただけだった。
「ここに式関係以外で出入りする人っているの? しかもお年寄り」
「たぶん、誰だか分かったよ」
門のところまで降りて来ると、確かに一人の老人が立っていた。
「こんにちは、篠川さん」
「いやぁまぁた野菜取って来たんでな。妹さんかい?」
「いえ、親戚の子で。夏休みなんで泊まりに来たんです」
言われて真夜は会釈した。
『妹』と間違われたことで、少し顔が緊張したようだ。
やや頭ごと目線を下げたあと、ちらりと目だけを上に戻したが、確かに普通の人間だった。
そのことに逆にもっと首を傾げた。
響糸には、影百護の手の者しか反応しない。
ましてやただの人が触れても鳴りもしない。
「いつもありがとうございます」
「いんや、お互いさまじゃて。それじゃこれで」
「階段、気をつけて下さいね」
「はいよー」
穏やかな笑顔のまま、老人は帰っていった。
「卯木。念のためあとをついてって」
傍らに浮かぶ彼女に、振り返らないまま指令を下した。
見送ったあと、真夜はそれとは分からないくらい小さな溜め息を吐いたが、気付いた者がいた。
「気抜けした?」
「心配が消えないだけ」
篠川という老人を、卯木はぴたりとあとをつける。
昨日から張り込んでいた銘景は、まだ気配を消したまま上空からさらにそのあとを追っていた。
5分程東に来た辺り、入口にちょっとした鳥居のある林の前で、卯木が動きを止めるのをみとめた。
視線の先、林の奥に目を移すと、これまた小さい祠が見えた。
その周りの空気は、不可思議な気を交えながらドドメ色に渦巻いている。
卯木が戻って行くのを見て、その場──今まさに浮かんでいる空のそこから、一気に祠めがけて下降した。
降りていき林の先端に着くか否かのところで、体を翻しまた上昇し始めた。
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式師戦記 真夜伝 第十二話
「じゃあその林に」
始めに口を開いたのは佐伯だった。
「あの祠かぁ」
「“あの”祠?」
「仁ちゃん、なにその引っ掛かる言い方」
「あそこは方角的に言えば、鬼門。逆に言えば、ここに来た影百護一門をあそこが囮がわりに引きつけている。鬼門は妖しの類いが集まりやすいから」
「朱玉《すだま》、ですね?」
「卯木は賢いね」
けれどその気配の本体の姿はなかったのだという。
そして先程響いた響糸の音なき音。
「来てますね。具合からはまだ遠くはないようですし」
「真夜」
「ん?」
「真夜は手を出しちゃ駄目。瑠璃玉がないんだから」
「あ、そうだね。そのために来たんだし、今はこちらは動かない方がいい」
「だって、ほっとけって言うの?」
ここに来たのが意図的だとすれば、確実にねらいは自分だ、と真夜は思っていた。
一式が一星は、式家の筆頭標的にされる。
ゆえに連れて来てしまった、おびき寄せてしまった、と。
「銘景か」
五式家の屋敷に銘景が舞い戻ったのは、日が傾きつつある頃だった。
母屋ではなく、いつもの所だろう場所に銘景は降りた。
それは、五式家の弓道場だった。
鎮破は瞑想をやめ立上がり、鴨居に掛けてある弓を手にとる。
一本の矢をつがえ、しなやかな動きで軋むまで弦を引いた。
一瞬、的を見据え矢に添えた手を放すと、迷いなく一陣に飛んでいき中心を貫いた。
後ろにはもう、銘景の姿はなかった。
「影が真夜をつけ狙っているか……様子から察するに相当な手だれだが。どうする、真夜」
鎮破は一人、呟いた。
二日前の夜半、鎮破は家のある科騨《しなだ》から離れた篤《あつ》という町で、一匹の影を封じた。
少し前、円茶亀から人形《ヒトガタ》の退治依頼が来た。
その人形は憑いていた。
憑かれた方はよほど強欲な者だったか、最期まで自分の富だけを心配していた。
鎮破にはそれが分かった。
聞こえたのだ、鈍く鋭い音が魂に引導をくれてやる刹那に。
それにしても、そのあとに偶然にも遭遇した影は、その言葉が当初、鎮破には解すことができなかった。
だんだんだんだん、それはあの言葉へと、形を現した。
──シキノモノメッスルベシ。
依頼とは別に現れた影。
銘景からの話でようやく、先日の真夜の反応に対する引っ掛かりがとれたが、違う何かが胸の中に靄をかけた。
「こんばんはー!」
真夜達が母屋で休んでいるところに、聞き覚えのある声が飛び込んで来た。
「玲祈だ」
真夜だけが呆れた声で言った。
仁はそれに溜め息をつくと、迎え入れるべく土間へと降りた。
「四式のか。いらっしゃい」
「あ、どうも」
「何しに来たのよ」
仁のその背から真夜が玲祈をねめつける。
「何しにって……真夜、俺との組みでのやつどーすんだよ」
「そんなこと言ったって、瑠璃玉が粉々に割れちゃったのよ! なんのためにここにいると思うわけ!?」
睨んだままの顔を突き付けられ、玲祈は戸にビッタリ張りついてしまった。
額からは少し冷や汗が見えるようだ。
「……真夜、なんかイラついてないか?」
「玲祈君。今ね──」
「影がうろついてるんだろ?」
一同はピクリとした。
打って変わって表情を変えた玲祈は、張りついたまましゃがみ込んでついた、砂や土をほろいながら立ち上がった。
「な、暁哉」
「ご自分のお荷物は、ご自分でお持ちくださいませ」
戸の外側に、荷物を抱えたり背負ったりしたまま、玲祈に怒りの目を向けて暁哉が立っていた。
「分ーかった説教はあとあと!」
「玲祈君、よく分かったね」
「山の裏っ側に新道と旧道の分かれ道があるだろ?」
「本来なら新道を来るのですが、玲祈様が気になると言われましたので、旧道を来たのです」
「なんか嫌な感じが強いんで、旧道を通って来てみたら」
「もしかして林の──」
「前を通った」
珍しくも真剣な顔つきの玲祈と真夜は、お互いを向いたまましばし黙った。
だがすぐに、その空気はぶち壊しとなる。
「それより俺、腹減ったんだよ。何かない?」
先程の顔つきからは程遠い、気のない表情と声だ。
「何しに来たのよ、玲祈」
「なにっ……て、だから、遊びにきたんだよ……夏休みだし」
「はあ?! 暇人じゃあるまいし」
「コラ、二人とも。土間で痴話ゲンカしてないで、座敷に上がりなさい」
仁が先に座敷の方へ上がって手招きしている。
「そうですよ、真夜様、そんなとこで」
「玲祈様も」
二人でお目付け役に咎められ、同じように文句ありげに土間から上がる。
ひとまず落ち着いて座ったが、それと同時に仁が再び土間へと降りた。
「仁ちゃん、どこ行くの?」
「だから『仁ちゃん』はやめなさいって。結構雲行きが怪しくなって来たから、早く瑠璃玉を造り上げられればと思ってね」
「いよいよ私の『成りし瑠璃』、造ってくれるの!?」
真夜は手を胸元で組んで眼を輝かせた。
「いいや。今の状況じゃ『成りし瑠璃』は間に合わないよ。とりあえずはこれまでのを」
「えー」
真夜はその場にへたりこみ、そのまま仁アトリエに籠り切った。
アトリエには、仄かな光が灯った。
その光が、仁の白く細い顔を照らし続けた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十三話
真夜と咲が、そろそろ寝仕度を始めようかという時、不意にあの音が届いた。
あの澄み切った音なき音が。
「来たわ」
「行っちゃダメよ、真夜」
咲がすぐにも飛び出して行ってしまいそうな真夜を、その前に立ち塞がって止めた。
「じゃあどーしろって言うのっ」
「俺が行く。八ツ森《やつもり]! 洲播《しまはり]!」
二人は振り返った。
そこには障子を大きく開けて、玲祈が立っていた。
佐伯と暁哉も、すぐさま縁側へと駆けつけて来た。
「玲祈一人じゃ無理よ。私も──」
「真夜!」
「真夜様!」
咲も佐伯も、必死に止めようとした。
現時点で本星かどうかはっきりとは分からないが、おそらくはそうと思われるから。
瑠璃玉のない真夜を、二人とも行かせる訳にはいかなかった。
「はなして!」
「暁哉、佐伯さん、咲。真夜をしばらく押さえててくれ」
「うん」
咲が頷くと三人に真夜を任せた玲祈は、自分の小将八ツ森と洲播を追って出て行った。
「玲祈────!」
辺りはもう、朧月夜となっていた。
影は門とは逆となる、裏山の林の先にいた。
そこは外との境界、響糸が張られているあちら側だった。
ちょうど体の半分が、林の中の竹藪に足を踏み入れている状態。
影は、すでに振り向いていた。
玲祈からはまだ見えるか否かの距離でだ。
円茶亀が言ってた“影”はこいつか。
頭にそんなことを掠めた。
“影型が威勢がいい”この情報は、真夜との屋良川の件の依頼を受け取った時に聞いた。
しかし依頼以外の影型は、ここ最近見てはいなかった。
まず八ツ森が影に最接近し、回りを飛び回ってみたものの、影は無反応だった。
「オイ! そこの影!」
約10mほどの地点で、玲祈はピタリと止まった。
一瞬間があったあと、いきなり影の体が揺らぎ始める。影型のいつものパターンだった。
だが揺らぎ始めても、そのあとが何もない。
どう出るか伺っている玲祈には、よほどそれが長い時間に思えた。
動きを止めた直後、ざぁという音とともに、四方にも土の中から、まさに湧き出るかのごとく無数とも言える影が現れた。
そうして一面が影で覆われる前に、玲祈は竹の上に飛び上がった。
「な、なんだぁ?!」
竹藪の地面が、落ち葉のくすんだ緑色からどす黒い色に変化している。
気がつくとそれは、竹を這い上ってきていた。
「これは速攻でやんねぇと」
舌を出しながらも即座に封じの体勢を取ろうとするが、その間に上って来た影の先端が、玲祈の周囲に絡むように取り巻き出した。
「ざけてんじゃねぇ! 封じ!」
封じの手印でそれをなぎ払い、玲祈は向かい側の竹へと飛び移る。影はすかさず玲祈に対し、高速で手を伸ばし始めた。
「やっと動き始めたのかよ」
封じはどうやら効いていないようだが、玲祈もそこまで構っている余裕を逸していた。
竹や木々を転々と飛び移っては攻防を繰り返した。
「しょうがねぇ、八ツ森! 甲遁だ!」
甲遁とは、小将との連携により敵の攻撃をそらすための、四式独自に伝わる技である。
玲祈が造りだす力の帯で、八ツ森が影の上に亀甲を描く。
「八ツ森は前から! 洲播は後ろだ!」
小将を回り込ませると、一気に木の枝から影を目掛けて飛び下りた。
影は小将には目もくれず、手をさらに玲祈へと伸ばそうとしたが甲遁に阻まれる。
「……¥℃@……÷&∇♯」
そのまま足で貫こうとした時、影は何かを言った。
思わず方向をそらした玲祈にも聞こえたが、何を言っているのかは分からなかった。
「なんだ、今のは……お前今なんつった?」
あの時はまだ、鎮破はそれほど心配してはいなかった。
街中を郊外へ向かって走る車の中、鎮破は携帯電話で話をしていた。
相手は、“暮《くれ]”という女の声だった。
「鞠ちゃんにそう伝えとけば言いのね」
「はい、お願いします」
「こっちは任せて。六と九には?」
「それは俺から連絡を入れておきました。ただ、九奉はまだ幼いので、こちらの十奉を」
「そう。くれぐれも、真夜ちゃんと玲祈君をよろしくね」
再び銘景を真夜達のもとに戻したところ、さきほど非常時連絡の“気”が届いた。
(マガマガシキカゲアラワル)
急きょ出向くことになったが、こちらも怪しさが拭えないため、不在中の策を講じていた。
「玲祈ー!」
遠ざかる玲祈の背に、真夜は叫んだが届かなかった。
「はなしてよ、佐伯、咲!」
「今しばらくのご辛抱を」
「暁哉! 分かってるの? アレはたぶん、朱印どころじゃないわ。近くの人間にまで気配が絡み付いてるの。だから昼間人間にさえ響糸が鳴ったのよ!」
「だとしたら、瑠璃玉一つじゃ足りないな」
アトリエの方から、人影が出て来た。
「仁ちゃん! 出来たの?」
「急拵《ごしら》えだけど。ただ、そんな大物だとしたら、瑠璃玉一つでは耐え切れない」
出来たばかりの瑠璃玉に、仁は紐を通していた。
お目付け役達はただ会話を、見守っているしかなかった。
「昼間来た、篠川さんの行き来する道の途中に、あの祠の林がある。そこに来た影の気配の影響で、響糸が鳴ったのなら、尋常な者じゃないだろう」
「卯木! 仂!」
瑠璃玉を仁の手から掴み取って、真夜は走り出して行った。
「……」
「何もできないって、苦しいものだね。あそこまで分かっていようが、僕たちは彼らに、どうにかしてもらうのを、見ているしかない」
四人は苦慮に満ちていた。祓い師の咲と暁哉、玉匠の仁、そして世話役の佐伯。
式師達のバックアップとして動くことが役目だが、事自体にはまったく触れられず、何をする事もできない。
ただ無事を祈り役目をまっとうするしかないのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十四話
影は喋り続けていた。
「$&◆〓∠……∞%Ё……※」
「だから何言ってるかわっかんねぇ、よっ!」
玲祈は息つく間も無く、伸びて来る無数の手から逃れていた。
風を切る音が林の中を支配している。
「一体……だよな、これ」
「気配からしても一つですな」
玲祈の脇に八ツ森と洲播が戻って来た。
「お一人では無茶かと」
「八ツ森がもうちょっと頑張れば?」
洲播が茶茶を入れる。
「洲播、そう言ってやんなって。お前にももう少し力やるから」
「玲祈様。速攻は」
「やる暇ないだろ、これじゃ」
八ツ森と洲播が引きつけようと、玲祈に向かう手の数は一向に減らない。
もはや小将ですら避けるのに精一杯になっている。
「くそ。真夜に顔向けできないな」
「玲祈様! 上を!」
「っ……!」
周りを飛び交う手に気を取られ、上からの本体の攻撃に反応出来なかった。
「……祈ー! 玲祈ー!」
気がつくと耳に、遠くから真夜の声が聞こえていた。
だが真夜の姿は、彼の眼下に見えていた。
真夜が玲祈の姿を見つけるまで、林の中に広がった影の手は伸びてはこなかった。
彼の姿はすでに、影の体内にある。
「玲祈! なにやってんのよバカ!」
「真夜様!」
免れた八ツ森が、近くへと飛んで来る。
「八ツ森、アイツなにやってんのよ!」
「〒Å……§◎」
「え……? コイツも……なの?」
「後ろから来ます!」
「分かってるわよ」
言うと同時に、真夜は飛び上がり、宙返りして影の後ろに降りた。
「★≧∩⇔∽」
影は再び手を、今度は真夜に向けて伸ばし始めた。
「いい加減に……しなさい!」
駿足で影本体の間合い内まで行き、玲祈を避けて手で一気に幾箇所も貫いた。
と言っても、影型に直接攻撃は雲を掴むようなもの。それだけで玲祈を影から出せるはずはない。
「う〜っ、もうあったまにきた! 仂! アレやってて」
「アレって、負担大きいんじゃ──」
「いいわよそんなこと」
真夜は完全にどこかの糸が切れていた。
以前鎮破が鎖景にやらせていたように、真夜から送られる力を、仂が光の帯のように影に巻きつけていく。
それこそ限り無く、無数に迫り来る影の手をがんじがらめにし、時間を稼ぐためだ。
「玲祈、聞こえてるの?!」
口は閉ざされたままだったが、微かに顔の表情が動いた──ように見られた。
それを返事と受け止めた真夜は、封じの構えに出る。
しかし、それ以上玲祈は微動だにしなかった。
玲祈の耳にははっきり真夜の声が聞こえていて、目はしっかり真夜の姿を映していた。
けれど、玲祈自身の意識が、どこに行っていようかは別の話だった。
「……℃∀&‰……」
キレた真夜にも、その言葉ははっきりと聞こえた。
─―シキノモノメッスルベシ。
「誰に仕込まれたか知らないけど、玲祈を放せ!」
一足飛びで影の懐へと飛び込み、玲祈の腕を掴んだ。
絡み付いた状態の影から、力のいっぱい彼を引き抜き、その反動で真夜は玲祈を抱き抱えたように背中から地面に叩きつけられた。
すぐに小将達が守るように二人に背を向けて囲む。
真夜はどうにか起き上がるはしたものの、玲祈の方は動く様子がない。
「こんの、バカ玲祈!」
平手で頬を打つがそれでも意識は戻って来る気配がない。
「玲祈っ」
焦りと、不安が、真夜の心に広がり始める。
真夜は分からなかった。
影に包み込まれるということが、何をもたらすのか。
獣《ケモノ》は牙をむく。人形《ヒトガタ》は素手で攻撃して来る。だから外見上、それなりの負傷の仕方をする。
だが影型に実際取り込まれるとどうなるのかは、明確なものがなかった。
先人達の口伝いも様々で、程度の差も甚だしい。
前例を上げれば、体力を抜き取られ心的にめちゃくちゃにかき回されるケース、気を狂わすほどの苦痛あるいは傷を刻まれるなどで、攻撃と被害のパターンは一貫してはいない。
分かっていることは、影の体が揺らぎ始めた直後攻撃に移るというものだけである。
「くっ……八ツ森! 洲播! 玲祈をお願い。卯木と仂はアレ続けて!」
「しかし、お体が」
「いいから!」
「けれど……それに真夜様は」
「私じゃ玲祈を抱えて逃げられない。逆に影を玲祈から引き離して、ケリをつけるわ」
そんな、と玲祈の苦戦ぶりを見ていた八ツ森や洲播はもとより、今の真夜の体力状態が分かる卯木・仂も、皆現状では無茶だと反対の声を上げた。
が、止める間もなく、真夜は疾走していった。
出せる限りの脚力で、山の奥の方へと駆けて来たが、それでもなお真夜を追う影の手は、間近に迫って来ていた。
予想より影の動きが速い。
旧道の山道を抜けて来たばかりの車に、鎮破が乗っている他、免許取りたてホヤホヤで今回の運転手を買って出た、鎮破の祓師である川間辰朗《かわまたつあき》と、助手席の六奉鶴史《ろくほうたずし》、そして鎮破の隣りにもう一人、中学生の少女が乗っていた。
「辰朗。止めろ」
ブレーキをいっぱいに踏みこまれたその車は、つんのめるようにしてすぐ様走りを止めた。
運転手はヒクヒクとした笑みで後ろを振り向いた。
「“止めろ”って急に言うなよ」
「いる」
そこはあの祠を抱いた林の前だ。
まず鎮破と鶴史の二人が降りて来た。
「少し移動したな」
「あいつらも動いてますね。気を感じる」
少し遅れて出て来た少女は、五式家につく、十奉の十五になる千冬だった。
「あのお二人のこと、無茶をされてないといいですが」
「真夜は瑠璃玉があるかどうかも分からない。辰朗は先に、守房《かみのぼう》へ行っていてくれ」
守房《かみのぼう》とは、仁のいるあの家のことを言う。
守名は古い玉匠の系統で、山奥を好み己が工房を建てるゆえ、守名の房を“守房”と称される。
凄まじい気を孕んだまなざしで林のその先を見据えていた鎮破は、音もなく奥へと駆け出していった。
続いて鶴史・千冬も追って駆けていく。
辰朗が車から降りる頃には、三人の姿はすでに、木々の影に隠されてしまっていた。
先を行く鎮破は祠の所まで来て足を止めた。
追いついた二人が見た鎮破の視線の先、祠の神前には、凍て付くような空気を纏う鈍色の玉があった。
鶴史がそっと玉に手を翳す。
「冷えきってる」
「よほどの兇が」
千冬が怪訝そうに玉を睨む。
「銘景」
二秒もない間に、ずっとこちらの様子を見届けていた銘景が飛んで来た。
「様子は」
「それが──」
銘景の報告を聞くや否や、三人はまだ意識の戻らない玲祈のもとへと急いだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十五話
真夜を追いかけてきた影は、見るごとにスピードを上げていた。
「やっぱり“一式”を狙ってる……?」
真夜自身、正直体が辛くなってきた。
小将二人に力を送り、山の中を全力で影を引きつけ走っているのだから、当然そうなる。
走るだけでは体力消耗で済むが、ここで言う“力を送る”とは、体力と精神力の両方を削ることをいう。
けれど真夜はそんな状態の中一気に加速し、一瞬影を引き離して振り返った。
その手には、“一式の一星《いちぼし》”と呼ばれる手組みがされていた。
「これを使うんだから、観念してよね」
卯木や仂への力の送出を止め、体を引き構える。
そして構えから一歩踏んだが、遅かった。
一歩踏むと同時か紙一重早く、真夜の目の前に暗闇が開いていた。
声も、いや息を吸う間も与えられず、真夜の体は影の内に融けていた。
影の痕が消えていく頃、鎮破は倒れている玲祈を見つけた。
そしてそれを守るかのような小将達の姿も。
最初に八ツ森が近付く足音に気付いた。
「……五式の鎮破様。それに──奉家の方々まで」
鎮破は八ツ森には目もくれず、倒れている玲祈をただ怪訝そうに見据えていた。
鶴史が気付いて八ツ森に問うた。
「どうしたんだ?!」
「影に……取り込まれて」
「やはり無茶をなさったんですわね」
「真夜は」
つんとした千冬の言葉のあとに、鎮破もようやく口を開いた。
「今し方……山の奥へと」
俯いたままの卯木が低く鎮破に答える。
それを聞いた鶴史の舌打ちが、その場にいる者すべてに聞こえた。
「あいつは……」
「お前達小将は玲祈を見ていろ」
そのまま、また痕を追ってさらに鎮破は奥にその足を向けた。
──ん、光り……?
──あ……れ……?
「これ……どこだっけ?」
自分はいま、何をしていたのだっただろうか。
そもそもここは?いまはいつだろう……。
自分は……誰……?
閉ざされた瞼が、舞台の幕のように上がってゆくと、映ったのは白い世界。
いや、そう見えているだけのようだ。
目が眩んでいたのか、光にまだ目がなれていないのか分からなかったけれど、自然に視界のコントラストが変わってきた。
それ見間違うことのない、あの秋の空だった。
なぁんだ……いつもの夢か……。
そう思いながら、おもむろに少し視線を下に移すとやはりそこには、忘れることのない光景が待っていた。
爺やが、佐伯の父が死んだ日……否、私が殺した日。
あの時。
そう、──爺やは私が殺した。
この光景そのままのあの、十三年前。
一式家当主になりたての父様とおじい様にその前夜、私は呼ばれた。
父様の背に鈍く光を放っいる、あの証しの玉のある奥座敷に……。
***
「……」
幼かった私は、おじい様と父様のその言葉が、始めは分からなかった。
──佐伯乙八を、己が手で葬ってやれ……式家が一、一式の式師として。
それが私の、式師としての最初の“殺し”だった。
「なっ……」
言葉が分かって、なんでと問おうとしても、そのあとが続かない。
つい昨年、乙八の妻・誠子が亡くなったことを、真夜は知っていた。
誠子はとても大きな兇を、祓師として祓った。
それがどのようなもので、どのくらいの規模の誰のもので、どういう兇だったのか、事の詳細は未だに次代の式師達に伝えられてはいない。
ただ祓った兇があまりに強大だったために、祓った代償にその禍々しい残光が、誠子を蝕みついに死にいたらしめた。
今は佐伯乙八、ひいてはその息子や仕えているこの一式の家一族にまで、その触手が向けられる。
そこまで行く前に、自らここを離れ命を絶ち、息子や一式にあだなす火種を消そうとして真夜の祖父に暇を請うたが、禾衛門は許さなかった。
そして真夜に、この任をまかせた。
何かを言おうと思えば思うほどに、真夜は逆に何も言葉を口にする事ができなかった。
五つという小さな時分に、真夜はすでに人として、言い表しがたい気持ちを持たされてしまった。
体が心から震える思いだった。震えるあまりに今にも自分が無くなってしまうような思いを抱えて寝床に入り、朝まで眠ることができないと思った。
しかし5歳の真夜の体は、眠気には勝てなかった。
「──様。……やさま。真夜様」
遠くに呼ぶ声を聞きながら、肩を軽く叩かれた。
「爺やぁ……?」
眠気まなこを擦りながら、幼き真夜は寝床から起き上がった。
なんだか悪い夢を見た嫌な心地を感じながら、自分を起こしに来た者の顔に視線をあげる。
紛れもなくその顔は、毎朝自分を眠りの底から安心して迎えてくれる笑顔だった。
けれどその者を確認した途端、来てはいけなかった日が現実として、幼かった真夜に突き刺さった。
「どーして起こしちゃったの!」
突然の剣幕にも関わらず、戸惑いもせず乙八は小さな手から投げられた枕を受け止めた。
「朝だからです。さぁ、お母様が朝ご飯をご用意されていましたよ」
今日はこのお洋服をお召しになってください。
こう言って、いつも通り真夜の母が整えて置いていった服を広げて見せてから、すばやく真夜を着替えさせた。
食卓を囲む部屋でも、なんら変わりない、みんな普段の通りだった。
十二になった兄の臣彦も、昨年から一緒に暮らすようになった同い年の咲も、まだ若さが残る両親も、そして祖母を亡くしたばかりの真夜の祖父も。
みんなみんな、普段通りの一日の始まりだった。
当の佐伯乙八すら、いつもの笑顔を絶やさなかった。
五十も過ぎたシワの深くなりつつあるその顔で。
「真夜、食べないの?」
母親が、沈んでいて箸をつけようとしない5歳の娘に尋ねた。
やっと気付いたかのように真夜は朝食を食べ始めるが、それでもあまり箸は進まなかった。
「ごちそう……さま」
真夜だけがやはり沈んでいた。
朝食を食べ終わると縁側へ行き、足をブラブラさせているのをただ見ているだけだった。
いずれはぶち当たる壁だった。ただそれが、少し早めに来ただけの話。
幼い真夜はずっと、何も考えずにただ足をブラつかせているのを見ていた。
まだあどけないその瞳と、妙に締まった口許は、5歳という年齢にはあまりにもアンバランスだった。
ついにその時が来ることを告げる足音が、ギシギシと近付いて来た。
「真夜。座敷へ来なさい」
弾かれたように稚い眼が見上げた顔は、やはりまだ若さが残る険しい表情の父だった。
「式が一の星、封解《ほうげ》」
黙って座る真夜の力は、こうして放たれた。
握る手の中は汗ばみ、迫り来る恐怖。
それが最高潮に達しようとした時、奥座敷の庭に乙八が姿を表した。
「御前様」
深々と頭を下げる乙八に、真夜の祖父は一つ頷くだけだった。
「爺や!」
すぐさま裸足で庭へ降りて真夜はしがみついた。
「やだよぉ……まやっ、まやっ」
乙八のズボンをシワがつくぐらい掴みながら、すでにその瞳からは大粒の涙が限りなく流れ落ち、肩をしゃくりあげていた。
「真夜」
背に降りかかった淡々とした声に、口をぎゅっと結んだが涙は頬を濡らし続けていた。
そんな真夜を抱きしめ頭を撫で、乙八は言った。
「─―なにとぞ気を咎めませぬように」
真夜の手がゆっくり乙八の左胸の高さまで上げられ、次の瞬間には刹那の余韻が辺りを覆っていた。
小さかった真夜は気付かなかった。
抱きしめた際彼は正座になって、最期の姿も恥を晒さぬように気が配られていたことには。
***
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十六話
複雑な気持ちを再現しながら、いつの間にか真夜は暗闇に浮かんでいた。
今でもはっきり焼き付いている、佐伯乙八の最期の顔……。
そんなことを虚ろに考えていた。
だがその様はおかしかった。
頭の中に、と思っていたが、見つめている闇にその顔は浮かんでいた。
見紛うことのない、乙八あの最期の顔だけがそこにはあった。
「……うそっ」
真夜は驚愕した。
否、あまりの不可解な現実に、恐怖以上の何かとてつもない恐ろしさを感じた。
それはまさに少し離れてぽっかりと暗闇に浮かんでいたが、真夜の体は極端に強張った。
近付いて来ている。
距離感が掴みにくい暗闇と言う条件に恐怖感が加わって、顔が近付いて来ていることに気付かなかった。
懐かしい顔、恋しかった顔。
半分親代わり祖父代わりで家族同然だった人間の、最期の顔。
しかも自分の手で殺した者の顔。
加えてこの不可解過ぎた状況は、真夜の全てを凍て付かせようとした。
真夜は次の変化に気がついた。
なにやら沸騰し出した水のように、何かが暗闇の表側へと出て来るのが見て取れた。
水の表面に浮いて来た泡のように沸いて出たモノに、さらに真夜は驚愕するしかなかった。
次から次へ、だんだん間がないくらいにそれは沸き上がって来た。
「っ……やっ」
やめて。そう叫びたい衝動が、真夜の背筋を一気に突き抜けた。
それは全て、誅書や結書により自が手にかけてきた人間の顔だった。
顔だけが、コポコポと浮かび上がってはすうっと、だがじりじりと近寄って来る。
目は眠っているごとく閉じられているも、死者の顔は何か独特の異臭ともいうべき空気を放っていた。
もはや声も出ない金縛り状態ながら、体中がカクカクと音を立てて震えている。
眼をつむりたくとも、手で振り払いたくともなにもかもが凍て付き、真夜は自分の意識さえ見失っていた。
あぁぁぁ───……!
叫びと同時に起こされて硬直している体とは反対に、止まることを知らないように震える手を、暖かな温もりが強く包み込み揺さぶった。
「……夜! 真夜!」
聞き慣れた声と暖かみに、真夜の意識は徐々に引き戻されて行く。
「真夜」
「ぁ……さ、き?」
「良かった。みんな、真夜が起きた」
わらわらと面々が隔てる襖を開けて部屋に入って来る。
「真夜様、お加減は」
佐伯が襖を壊しそうなくらいの勢いで側へと駆け寄った。
その後ろは仁の他に、ここにいるはずのない顔が四つ、真夜の目に止まった。
「しず、は……たず……し? に、……ちふゆ……」
ツカツカと鎮破、そして鶴史も側に歩み寄る。
「だから六奉にはちゃんと知らせろっていつも言って──」
言ったが先か音が先か、鎮破の手がパンッといって真夜の頬を打った。
部屋にいた者もさることながら、一番驚いて呆然としているのは打たれた本人だった。
「一式や四式は無茶ばかり」
「千冬」
鬼の首を取ったようだった千冬は、鎮破の言葉にビクッと縮こまってしまった。
何事もなげに鎮破は部屋を出て行くが、走ってきた擦れ違いざまに縁側で誰かがおおげさに転んだのが障子に映った。
あっけにとられていたところから我を取り戻して佐伯が開けると、そこには寝間着のままの玲祈が倒れていた。
「玲祈くん?」
「あてて……なんだ鎮破は、あんなおっかない顔して。あ、佐伯さん、真夜が起きたっていうから」
「れ……いき……」
「んあ!? どーしたんだよほっぺた!」
真夜を見るなり、手に包まれて赤くなっている左頬に気付いた。
とたん見る間なく駆け寄って来たが、ガツンと頭を殴られる。
「あんた何そんな格好で人が寝てるとこに来るのよ! ……ってアレ?」
頭をさする玲祈を見ながら、真夜の眼はパチクリと瞬いた。
そして周りをゆっくり見渡して、自分の手に目をやった。
「いつのまに……アレ? 私どうしたんだっけ?」
完全に意識を戻した真夜は少し考えた後、ハッとまた玲祈の方に目を向けた。
「玲祈、あんた大丈夫なの?」
「なんだよ、自分で殴ってから」
「そうじゃなくって、あんた影に取り込まれてずっと意識が戻って来ないでいたじゃない」
今度は脇から盛大で少し長めの溜め息が聞こえてきた。
「真夜様は、それを言えるお立場ではないですよ」
「真夜だって影に食われたんじゃねぇかよ」
言われてよくよく、記憶を思いあぐねてみた。玲祈が倒れていたのは思い出せる。
そのあとは、影を引きつけるために山の奥の方に走っていって……。
気付くと畳みに両手をついた姿になって、ぜえぜえと荒い息をしていた。
「れ……き。あんた影に何を見せられたの!?」
「あ……っ、真夜も見せられたのか?」
落ち着いて来た真夜に、玲祈は話話を始めた。
「俺の場合、うちの親父のこと持ち出してきやがんの。まったく何がしたいんだあの野郎は。だいたいもう10年くらい前のことだし、俺もあんま覚えてなかったんだけど、あん時そのまんまの光景がはっきり目の前にあった。真夜に初めて会ったのもそこらへんなんだよな」
「それだけだったの?」
真夜は急いたように問い詰めた。
しかし玲祈はあっけらかんとしている。
「それだけだって。真夜は? 何見せられたんだよ」
自然の流れで問い返されたものの、少しの間真夜は躊躇し、佐伯の顔を振り返った。
どことなく生き写しになって来た佐伯は、振り返られて、なんですかとばかりにハテナを浮かべていた。
「私の場合は、……爺やが出てきたわ」
仁と千冬以外は、その言葉の意味を解し驚いた。
少なからずは焦りもあったのではないだろうか。佐伯は無意識に真夜に尋ねていた。
「父が……ですか?」
「そう。……最初に目をあけた時、いつもの夢だと思った。佐伯には言ってなかったけど、私はずっと12年前のあの日の夢を見てたの。だから、またいつもと同じ、夢を見ているだけだと思ってた。けどそのあと今度は私は暗闇の中に浮かんでた。気付くとね、少し離れたところに、爺やの最期の顔だけが、ぽっかり浮かんでた。頭の中にだと思ってたんだけど、確かに目の前にあって、だんだん爺やのあの顔が近付いてきたの」
俯くように頭を下げ、そのまま次の言葉が出て来ないことに、千冬の他は心配した。
また何か具合でも悪くなったのかと様子を伺っていたが、佐伯は別な意味でも心配していた。
しばらくして大きく溜め息をついてから、真夜はいつになくキッとした顔を上げた。
「爺やの顔の他にも、誅書や結書で私が殺した人達の顔が、沸いたお湯の泡みたいにぽこぽこ浮かび上がって出て来たわ」
「影が……そんなものを見せたのか?」
黙って聞いていた玲祈も、口に出さずにはいられなかった。
しかしそれは真夜を逆撫でしたようだった。
「そうよ。アイツは私にそんなものを見せたのよ。いつもだって忘れることすらできない、この手にかけてきた人たちの顔をわざわざ。しかも顔だけよ、顔だけ──っ、ごめん、佐伯……」
面々の顔を見渡して喋っていて、ちょうど佐伯誠人の顔を見た時、真夜に再び罪悪感が襲った。
彼の心配そうにしているだけの表情が、逆に真夜にはもっと乙八を思い出させた。
「真夜……」
また俯いた真夜に咲はそれ以上、何もかけてやれる言葉がなかった。
すると真夜を抱きよせて頭を撫でる者がいた。腕の中から顔を上げた真夜の瞳に映ったものは、佐伯の暖かなまなざしだった。
「父は、真夜様を責めるなんてことはしません。もちろん私もです。恨んでもいません。父が自分で望んだことなのですから、私はあの時から何も気にしてません。だからお嬢様も気を咎めないでいいんですよ」
他の誰もが気付いてはいたが、真夜は佐伯の胸で涙を流していた。
佐伯も、それを隠していた人一倍弱いところを見せたくない性格を百も承知の世話役は、やはりこの佐伯誠人という人間だからこそ、真夜を支えている人物の一人となっているのだ。
「佐伯ったら、爺やそっくりになってきたみたい……」
さすが、と咲は思った。
泣いたカラスがもう笑ったとばかりに、そんな言い方が出来るくらいのいつもの真夜を取り戻させた佐伯は、やはり世話役としてはさすがだと。
一方の玲祈は、今頃ようやく自分が慰めてポイント稼げるチャンスだったことに思い至ったらしく、一人頭の中で落ち込んでいた。
千冬は居にくくなったらしく、いつの間にやらいなくなっていて、鶴史もなだめるように一緒に部屋を出たらしい。
その場にいないように気配をすっかり消していた仁だけが、難しい顔をしていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
式師戦記 真夜伝 第十七話
「そういえば、アイツはどーなったのよ」
「アイツ……って影のことか。なら──」
「私がお話しします」
真夜も玲祈も、もちろんその他の者もゆっくり首を回して声の方を向いた。
「銘景? どしたの、そんな改まって座っちゃって」
「その前に私め、一式の真夜様に、先に謝っておかねばならないことがございます」
「なにをよ?」
真夜はキョトンと目を丸くしていた。
「実は先日、真夜様の影との戦いに鎮破様が介入した折、真夜様のご様子に、お屋敷にて鎮破様は少し悩んでおいででした。何か変わったことはないかと、鎖景を他の式家に使いにお出しになり、そして私めを真夜様のご様子伺いに遣わされました」
「それ、本当なの?」
「はい。どなた様にも悟られぬよう、慎重に気配を消して拝見致しておりましたゆえ、お気付きになった方はいらっしゃらないはずですが。あの篠川というご老人がこちらに訪れた際、わたくしは卯木の後をつけました。そして例の祠の林を見てすぐに一度は鎮破様のもとへ戻り、ご報告申し上げ再びこちらに。……影が現れた時点で、鎮破様に念を飛ばしてお知らせしたのですが間に合わず。一連の御無礼、お許し下さい」
銘景は小さな体をきちんと座らせ、三指で頭を下げた。
「別に気にしてないから、銘景も気にしなくていいよ。だいたい鎮破がやらせたんでしょ? それより影がどうなったかを聞きたいのよ」
「はい」
銘景は下げていた頭を上げ、姿勢を正し直し、さらに話を続けた。
「倒れられた玲祈様を見つけ、それをお二方の小将たちにまかせた鎮破様方共々私めは、真夜様と影を追いました」
玲祈も真夜も、目覚めてから鎮破以下がいるのを見て、彼らが影をどうにかしたのだと考えていた。
だがその考えは、銘景の話によって崩れた。
「真夜様、影と追いついた時には、すでに真夜様は影に完全に取り込まれた形のお姿をしていらっしゃいました。なので、鎮破様と奉家のお二方は影を取り囲み、“巴陣”を試みられようとなされました時、影が内側からの崩壊が起こしました」
「崩壊……? 内側から、って……」
「お前がやったんだ。おそらく、無意識に」
声とともに、何かが真夜の顔にベチッと当たった。それは冷たい水で絞ったタオルだった。
なんだと思いながら顔から落ちたタオルをつまんで、投げられた方に視線を上げると、縁側の障子戸を開けて部屋へと鎮破が入って来る。
その後ろには、玲祈を探してここまで来たらしい暁哉の姿も見えていた。
「げっ……あ、暁哉」
お目付け役の怒りあらわな姿を見てうろたえる玲祈はさておき、タオルをぶつけられた真夜は鼻を押さえていた。
「ひゃひしゅんひょひょ、しじゅひゃ」
「銘景はさがって良い」
「御意」
銘景は頭を下げながら姿を薄めて消えていった。
「兇はどうなんだ」
「……」
だいたいの視線が祓師の咲へと向けられたが、咲は目を閉じて口を噤んでいた。
「咲?」
「あの影は、幾刻か前までいた場所の付近を通った者にまでさえ気配を染み付かせ、仮にも式家の式師二人までもを苦戦させたあげく取り込むほどのものだった。それなりの兇にはなるはずだ。ましてや人についた場合の“殺傷”、“滅”ではなかったにせよ、それほどの影を内部から崩壊させたのは事実だ」
いつもよりも格段鋭い目付きで鎮破は真夜を振り返った。
「俺自身がそれを見たのだからな」
だが真夜は意外にも、普通に視線を返した。
「こちらは危惧していたまではいかない程度でしたが、……やはりこちらにいたんですね、玲祈様」
暁哉は言い終えると、鎮破の後ろからなんとも恨めしからぬ顔で、玲祈のもとへとすごんでいった。
「玲祈様はちょっと目を離した隙にでも」
言いかけて顎に手を掛け、少しの間何かを考え込んでからまた口を開いた。
「確か、目覚めてから玲祈様は、“甲遁”を使ったと言っていましたね?」
「言った」
「一式の、真夜様が影と対峙した際には? 甲遁の亀甲はありましたか?」
「……なかった、と思う」
「みなさんもご承知の通り、四式家の源は忍びの流れをもっているので、甲遁のような“遁”と呼ばれる術を幾つか持っておられますが、甲遁による亀甲はいわばこちら側の盾。けして影を抑え込む鎖の役目を担ったものではないのです」
皆が黙って話を聴く中、つまり、と鎮破がそのあとの言葉を引き継いだ。
「つまり玲祈の兇がその程度だったのは、玲祈が甲遁の亀甲とともに取り込まれ、取り込まれてなお玲祈の兇からの侵入の盾となっていたからではないか、ということか?」
「えぇ、そうです」
鎮破は目を閉じていたが、他の者の目は再び咲へと向けられた。
「咲……私にかかっている兇は──」
「しばらく、式師としての仕事は、やらない方がいい……真夜」
咲は真夜の顔を見なかった。
真夜は何かを言いかけたが、すぐに開いた口を閉じてしまった。
玲祈と佐伯が真夜と咲を交互に見ていたが、それ以上のやり取りがなされることはなかった。
「よっ! あ〜きや!」
「辰朗」
この二人、川間辰朗と川間暁哉は親がいとこ同士という、川間一族の近しい親戚の間柄だった。
「戌圭《いぬよし)の大叔父貴は元気?」
「あぁ。相変わらず隠居の身を満喫して退屈がってるよ」
「呑気なもんだぜ、叔父貴も。……ホントに四式のぼっちゃんは大丈夫なのかよ。鎮破の見立て通り、一式のお嬢ちゃんはしばらく無理なんだろ?」
辰朗が荷物を背負って仁の家の土間に入って来たところで、ちょうど暁哉も土間に降りてこようかというタイミングで二人は鉢合わせたのだが、それからそのまま座敷の際にならんで腰を掛けて話し込んだ。
「こっちが、予想してたより極最小限の兇で済んだのは本当だ。取り込まれたと聞いた時は、最悪の2・3歩手前までは覚悟したけど」
「しっかし俺らの代で、影を内部崩壊させる人物が出るとは思わなかったなぁ」
辰朗は組んだ手にあごを置いて、そのまま腕が膝につくまで前屈みになった。
自分で言っていることに、まだ信じ切れていないといった、些か惚けた表情を浮かべている。
「お前にしては珍しく衝撃的だったみたいだな。ネアカなお前にショックを与えることの出来るものがあるなんて」
「暁哉。それは俺に対するイヤミか?」
「イヤミ以外に何があるんだ?」
ほんの一呼吸の沈黙のあと、どちらともなく笑いを吹き出した。
お互い式家の式師に付いていることから、顔もしばしば今回のように鉢合わすことが少なくない。
顔を合わせては、手が空いているとこうして話をする。
川間戌圭の末息子と、その又従兄で兄弟のいない辰朗は、年は一つ違いで兄弟のように育った時期もあった。
なんとも兄弟のようで親友のような、それでいて案外醒めたところのあるその仲を表すには、いわば同志という言葉がふさわしい。
「……玲祈様は御自身が大事ないとしても、真夜様があぁなっては、何をしだすか分からない」
「こっちだって、あの堅物の保護者ぶりが何しだすか分かったもんじゃないさ。堅物な上に素直じゃないし、それにバカに一人で無茶するヤツだし」
「鎮破様は、冷静沈着で何も心配のない方じゃないか」
「冷静沈着……ねぇ。アイツがここに来る間、いんやその前から最近、どんな目つきしてたと思うよ? もう修羅も鬼もいいとこ」
こんなこんな、と本人なりにその目を再現してみせていた時、仁が土間にやってきた。
「なんだ、こんなところにいたの?」
「すみません。とんだ大勢になってしまって」
「いや、ここがこんなに大所帯になるなんて珍しいから楽しいよ。あ、二人とも手を貸してもらえない?」
仁は二人にニッコリと笑顔を見せた。そのあまりにもさわやか過ぎる笑顔を。
真夜と玲祈が鎮破達によって担ぎ込まれて帰って来たのは、日の出の頃、そして目覚めたのがお昼をとうに過ぎていた。
すでにまたそこから幾刻か経ち、東の空には再び月が昇り始め、天上は太陽の最後の光が夜の帳を誘っている。
真夜が眠るのを見守って、佐伯が囲炉裏のある土間隣りの座敷の部屋に顔を出した。
真夜と咲の他は、皆全員そこで夕食を食べるべく、囲炉裏端に集まっていた。
総勢8人と1匹の夕食である。
「真夜と咲は?」
「真夜様がおやすみになられたので、咲さんが見ておいでです」
土間では小春もごちそうにありついている。
「囲炉裏の火があっちぃ」
「少しは我慢して下さい、玲祈様」
「なんだよ暁哉は涼しい顔しやがって」
川魚を焼くために囲炉裏には火が入っていた。
「大所帯になっちゃったから、食材足りないと思って、暁哉くんと辰朗くんに下の川で釣って来てもらったんだよ。でこっちは、その間に裏山で取って来た山菜の、お浸しと冷製茶碗蒸し」
「探してもいないと思ったら釣りに行ってたのか。俺も連れてってくれれば良かったのに」
「玲祈様は寝ていて当然のお体なんですから、連れて行ける道理がありますか」
聞いていた千冬が、湯飲みをすすってちらりとそちらを見ていた。
「四式も一式も相変わらず無茶なさるからこうなるんですわ」
「なんだと千冬!」
「やめろよ千冬は。お前はそういう言い方ばっかなんだから」
千冬に向かって玲祈がケンカごしになりそうになったのを、見かねた鶴史が千冬を諫めた。
反論出来ずに千冬は鎮破に視線を送ったが、相手はただ普通に食卓の箸を進ませているだけだった。
五式鎮破独特の、その威圧を含んだ重厚なる空気を纏いながら。
「仁さん、まだまだおかわりしていいですか?」
その横でおかまいなしにヘラヘラしてる者も一匹いた。
「あぁいいよ。真夜と咲ちゃんにはあとで別に作るから、その時はまた手伝ってもらえれば」
「へーい」
「お前は遠慮がないな」
「お前はムッツリし過ぎだ鎮破、ハゲるぞ」
返答はない。
ガツガツ魚を食べつつ隣りの顔を伺って見るが、一向に表情の緩みが訪れる気配は無かった。
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式師戦記 真夜伝 第十八話
夜半前、威圧を含む重厚な空気を纏い、いつにも増して孤高なる狼のような鋭い眼光を放っている男が、縁側を歩んでいた。
キシキシと音をたてていたが、男はある部屋の前の縁側に座る人影を見つけて立ち止まった。
「何やってるのよ、こんな時間に」
先に声をかけたのは、座っていた人影の方だった。
ゆっくりとこちらを振り向いて来たので、月明りによって男にもその顔が見えるようになった。
「鎮破」
「役立たずは寝ていろ」
「なによ……」
睨み付けるでもなく、見つめているでもなく、ただ二人はお互いの目を見ていた。
「俺は明日ここを発つ。他の式家には俺が、奉家には六奉が伝えておく」
「父様にはさっき卯木を使いに出した……なんで銘景を私に付けたのよ?」
鎮破は腕を組んで柱に寄りかけた。
「お前があの時言ったのは、影の言葉が理解できたかということだったのだろうが、分かるのが俺達式師の常だったはず。にも関わらずそう聞いてきたことに疑問を抱いた」
真夜は身動き一つせず、黙って話を聞いていた。
「だがその後で、俺にもその問いの意味を理解する機会があった。来る前に片付けて来た、赤の形の影が言っていた言葉が、俺にすら解すことが出来なかった。銘景の報告と照らし合わせればそういうことだったのだろう?」
「……他にも出たのね。今日のやつも、そうだった」
真夜は静かに庭の方へと向き直った。
「誅書はお前が書いておけ。ただし仮のをな」
「レベルの問題でしょ? 玲祈の上に私までもてこずらせたんだもの。どう書けば言いのか分からないし」
再び背後にいる男を真夜は振り返った。
けれどやはりなんの変化のないまなざししか見せない。
振返られた鎮破も同様だった。
「鎮破は、確実に意思ある動きと考えてる?」
「言葉が理解出来ない事は別として突然変異も考えられるだろうが、この前のお前が待ち伏せられた件や今回のことを考慮に入れると、“誰かの意思”によって一式、正確にはお前を標的として憑け狙っているのは間違いないだろう。玲祈のあの兇の被りの軽さも、それが絡んでるのではないかとも俺は思うが」
「亀甲のおかげだけじゃないってこと?」
「あぁ。とりあえず、俺は六奉や十奉と共に、明日戻る。お前達が揃い次第、全会を一度開いたほうがいい」
「そうね。たぶん父様やおじい様がそう言うだろうから」
依然として両者の顔、表情、まなざしに変わりはない。
いつもならばすでに一言めからケンカとなるはずが、そのような様子はちらりとも見せないで話をしていた。
怖いほどに鋭い眼光を湛えた鎮破も、何ごともないような一段と静かすぎる目をした真夜も、その会話は穏やかなほどだった。
翌朝、鎮破達を見送った真夜は一人、影が崩壊した場所に来ていた。
「あのあとで川間の二人と佐伯くんが、祓い囲いをしてくれたよ」
と、仁が朝食の場で言っていた。
その言葉通り、祓い囲いと言われる四方を若竹で囲んだ空間が出来ている。まだ囲いの中心には影の残骸とも取れるドス黒い気配がわずかに残っていた。
「……──っい!真夜ー!」
遠くから玲祈の声が近付いて来た。
「ったく、俺も連れてけって」
「怪我人がなま言わないの」
「真夜の方が重傷だろ」
普段と変わらない会話のやり取りに見えるが、真夜も玲祈も、微妙に視線を外していた。
「コラコラ、痴話ゲンカしないの」
「仁ちゃん!」
「“仁ちゃん”もやめなさいって」
玲祈のあとから仁も追って歩いて来た。
「今から祠にコレを置きに行くから二人も行くかい?」
その手には、紅に近い赤に染まった瑠璃玉らしきものが握られていた。
「朱玉ってやつね。行く!」
行った先の祠にあった玉は、真っ黒くなりヒビが細かく入っていた。
「本当に冷えきっちゃってるな」
それを取ってなにやら奇妙な印象の柄をした布にしまい込んで、持って来た方の玉を代わりに祠に据え置く。
そうしてから仁は手を静かに合わせ長い一呼吸をおいた。
「で? その黒いのはどうするのよ」
「これはまあ、俺のとこの守名だと咲ちゃんの三枝の本家に持ってくことになるかな」
「咲んち?」
知らなかった……と、真夜は小さく呟いた。
「そう、咲ちゃんの家だね。ほとんど二式や三式がごひいきの霧越《きりごえ)流派は確か佐伯本家だったと思うし、五式と玲祈くんのところに仕えてる川間にはほとんどが獅梁《しりょう)か蓮地《はすち)の流れがもっていく感じだからね」
「そういえば暁哉の兄貴が、獅梁で玉匠の修行してるんだ。ほら真夜は会ったことあるだろ。うちの姉ちゃんに付いてる暁哉の姉ちゃんの遥姉さん。その一番上の兄貴」
「へぇ。遥さんの上にもいたんだ、兄弟」
「俺もあんまし会ったことないんだけどな」
ふーんと、真夜は気抜けした返事を返した。
「あ、それより、この代え玉が誰のだか分かるかい?」
仁は思い出したよう聞いてみたが、二人はその問いにハテナを浮かべながら並んで首を横に振った。
「これは一昨晩、俺が真夜に渡した玉だ」
真夜ははたと気がついた。影との戦いのあと、起きてから今まで瑠璃玉のことをすっかり忘れていたのだ。首にかかっていなかったことすら気付かなかった。
「……割れ、なかったってこと? 咲が私に、式師としての仕事をやらないほうがいいって言ったほどに兇を受けたのに?」
「今この玉の色、ちょっと見たら紅に近い赤に見えるけど、少し濁った赤というか、より黒の混ざった赤銅色に近いと思わない?」
言われてもう一度見た玉は、確かにそんな色に見える。
「最初透き通っていた瑠璃玉は、普通は兇々しさによって朱に染まっていき、割れるが先か同時か後か、とにかく最後には黒くなる。これ以上は割れるっていう朱の限界までいったら、君らは俺みたいな造った玉匠に“納め”をするだろ?普通は本当にそういった納めをされた玉を朱玉に置くんだ。さっきの黒いのも、置いた時には朱みたいな色をしてたんだ。ところが、ときたまこういう普段より数倍、数十倍紅から赤銅色に近くなって、割れないで手元に戻ってくる玉がある」
「へぇ」
「あまりにも急激により強すぎるダメージがかかったか蝕むように流れ込んだのか分からないけど、真夜の場合は後者だろうね」
仁がそれ以上言わなくとも、二人にはそれ以上言いたいことが分かっていた。
直接的な攻撃のやり合いからではなく、取り込まれたことで内側から蝕むようにより強いダメージが流れ込み真夜の生力に危機的な状態を生み出したのだ。
二人とも目を合わせないように俯いている。見かねて仁は言葉を続けた。
「本当なら赤銅色の玉は取って置くんだ。他にも朱玉の替えはまだあるんだけど、どうやら妖しい状況みたいになりつつあるからね。より強いダメージを吸った朱玉をここに置いて、囮に使うことにしたわけだ」
真剣な目で仁は真夜に向き直った。
「玉匠・守名仁、“成りし瑠璃”を造る」
「ホント?! 造ってくれるの?!」
仁が頷いて見せると、真夜は両手を挙げてやったとばかりに飛び上がった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
続く
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■作者からのメッセージ
はじめまして、柏秦透心(かしはたゆきみ)です。
前に投稿してからかなり経つのですが、続きの投稿をさせて頂きました。
何かこう現代社会の中の不思議というか、怪みたいなものを書いてみたくて、書き始めたものです。
私が作り始めると長編から抜け出せないので、たぶん長くなると思います。