- 『かけほの犬』 作者:千里 / リアル・現代 未分類
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全角21545.5文字
容量43091 bytes
原稿用紙約66.65枚
都会から、かけほ村に引っ越して来た長谷川裕行。彼はその村で、一人の奇妙な少年に出会う。かけほの犬。17年に一度の祭り。犬腹の一族。村に残る風習とは一体なんなのか。そんな背景を持つ、青春小説を書けたらいいなと思っています。
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「お前は、人と関わってはいけないよ。お前の犬は正しくかけほの犬だから。お前は、誰とも関わらずに、その犬を眠らせなければならないよ」
犬は、心の子宮に宿る。
女腹ならめぐみの犬が宿り、村を潤す。
しかし男腹なら、それは、正しくかけほの犬である。
第一章 破瓜
1
例えば、つまらない映画の評判を聞いて、それをわざわざ見て、ああやっぱりつまらなかった。何てつまらない映画なんだ、このつまらなさの秘密はなんだ! と考えるような。
例えばとてもまずいレストランの噂を聞いて、わざわざ行ってみて、なんてまずいんだ!こんなにまずいレストランは他に知らない!と友達と愚痴を言い合うような。
そんな物事の楽しみ方が、長谷川裕行は好きだった。
だが。
「田舎だ田舎だとは聞いてたけど……」
今回はちょっと度を越している。なんて田舎だ!! こんな田舎知らない、と盛り上がってくれる友人もはるか遠い。しかも、この田舎が、これから自分が暮らす場所になるのだ。
一歩道を外れたら、すぐにそこに広がっている森。
田んぼの向こうに見えるお隣さん。古い木の電柱は立っているが、街灯などというものはついぞ見当たらない。
蝉がうるさいくらいに鳴いている。鳥の声も爽やかだ。村の真ん中には小川が流れている。川辺の石に括り付けられているスイカは誰が食べるのだろう。
要するに、かけほ村は田舎だった。裕行の想像を遥かに超えた。
しかも、これから住む家だ、と見せられた家は、今時珍しい黒壁の、立派な日本家屋だ。今まで住んでいた都会。このいきなりの都落ち。
この気持ちをなんと表現すれば良いのか。
「すごいおっきい。庭まであるなんて嘘みたい」
妹は、無邪気にはしゃいでいる。体も弱く、学校でも孤立しがちだったという妹は、新たな環境に移ることを純粋に喜んでいるらしい。
裕行は、一つ大きなため息をついた。
「あら、疲れたの?」
母が、心配したように、顔を覗き込んでくる。「お茶でも飲む?」
カバンからペットボトルを取り出して、裕行に差し出す母。
「来るまでに買っておいてよかったわ。自販機もないのね、さすが」
ありがたくペットボトルを受け取ると、裕行は苦笑した。
「コンビニもなかったよな。店とかあんのかな」
「店がないとさすがに困るでしょ。まあ、食べるもの以外ならね。最近はネットでどこででも買えるわよ」
「ネットが出来る環境だといいけどね」
言いながらごくごくとお茶を飲むと、母の方へと向き直った。
「家の中、入ってみていい? もー暑くってさあ」
「あら、いいけど。お父さんと引越し屋さんの邪魔、しないようにね。お母さんと由香は庭の方見てるわね」
オッケー、と軽く頷いて、裕行は家の中へと足を踏み入れた。
あ、その箪笥は右の方に置いてください。あ、もうちょっと右。そこです、すいません。
荷物の運び込みに指示を飛ばす、父の声が聞こえる。
父は郵便局員だ。このかけほ村に、新たに郵便局が出来ることになり、父は自分から転勤を希望したらしい。
田舎で暮らすのが夢だった、などと本人はいるが、八割は妹のためなのだろうと裕行は予想している。体の弱い子は、空気のいい所で育てれば健康になるだろうというような、そんな話をよく聞くからだ。裕行にとってはいい迷惑である。
「父さん、家の中、見てみていい??」
裕行が声をかけると、父はちょっとだけ動きを止めて、「いいぞー」と言った。
自らも汗だくになって、荷物を運んでいる。
なるべく邪魔にならないように、二階の方から見て回ろうかと、裕行は階段の方へと足を向けた。
古い家だけあって、階段は比較的急だった。足を踏み外さないように気をつけながら、階段を上る。二階にも、三部屋も部屋があるらしい。今まで住んでいたマンションは、リビングと台所をのけると、二部屋しかなかった。ほぼ、この二階くらいの広さの場所に住んでいたことになる。
二階を、子供部屋にする予定だ、と父は話していた。ということは、これらの部屋のうちのどれかが、自分の部屋になるということだ。
「……田舎も悪くないかも」
今までは、妹と自分の部屋で、一部屋だった。間はふすまで区切られてはいたが。自分の個室が持てるというのは、悪くない。引越しに感謝である。
この部屋がいいかも、と一番広い部屋に足を踏み入れた瞬間、裕行の足が止まった。
「なんだ、これ」
部屋の隅の方に、金属の箱のようなものが鎮座している。縦に長く、薄汚れたその箱には、取っ手がついていた。開いてみる。観音開きになっているらしい。扉は簡単に開いた。
中には、古ぼけた弓矢が一本、そして、なんの骨かは分からないが、動物の頭蓋骨が一つ、入っていた。
「なんだ、これ。作り物、か?」
弓矢の方を手にとって眺めている。尻の方に羽がついているので弓矢とわかるが、矢じりはついていない。随分と古そうで、羽の部分がぼろぼろになってしまっている。
「意味わかんね」
呟いて、弓矢を箱の中に戻した。偽者だろうとは思いつつも、頭蓋骨の方に触る勇気は、どうしても湧かなかった。
「なんか手伝うこと、ある?」
この言葉を言わずに、後から色々と言われると面倒だ。自分から言っておけば、軽い仕事をした後、すぐ開放されることが多い。
案の定、父は笑顔になると、簡単な仕事を裕行に言いつけた。
「お、手伝ってくれるのか。じゃあなあ、由香とお前の段ボールを二階に運んどいてくれ。お前らの部屋が出来るからな」
「おっけ、他にすることは?」
聞き返すと、父はしばらく考える。
「んー、他にはなあ。大きい荷物運び込んでからだな、後は。村の中でも見てきたらどうだ?」
予想通り。自分から動くことが、結局一番楽なのだということを、裕行はすでに知っている。ふと、あの謎の箱のことを相談しようかと迷って、やめた。父は忙しそうだ。
玄関に向かうと、母と妹の由香が、引越し蕎麦の仕分けをしていた。
「あ、裕行。一応ね、お蕎麦いっぱい用意してきたんだけどね、村の人全員に配った方がいいのかしら、どう思う?」
「はあ?」
いきなり尋ねられて、裕行は思わず聞き返す。母は、大きくため息をついた。
「田舎の人って人付き合い重視なのかしらって思って。でも村っていっても結構広いしねえ。迷ってるのよ」
「……とりあえず、最初に挨拶に言った人にそれとなく聞いてみたら? こんな風にしないと感じ悪いですかねえって」
あ、それもそうね、と母は納得した様子だ。適当に言った案が通ってしまって、裕行は正直、居心地が悪かった。妹の方は黙々と、引越し蕎麦をカバンにつめている。蕎麦と、郵便局の粗品のタオルを配るらしい。二つをまとめて、ゴムでしばって、カバンに詰める。
とりあえず自分は自分の仕事を済まさなければならない。表に停めてあるトラックの中に、ダンボールが山と詰まれている。
その中から、裕行、由香の名前があるものを選び出す。自分のものが入ったダンボールには名前を書いておくように、と父からのお達しだったのだ。中に何があるのか分からなくて、片付けが進まなかったという過去の経験に裏付けられた命令らしい。
数は少ないとはいえ、結構重い。総てのダンボールを二階に運び終えたときには、裕行は汗だくになっていた。
タオルで適当に汗をぬぐって、一階に降りる。シャワーを浴びたいが、まだ使えるかどうかも分からない。
母と由香は、引越し蕎麦を詰め終えて、二人で庭を見ていた。
「俺、ちょっと村の方見てくるから」
声をかけると、母が振り向いた。「いいけど、早めに帰ってきてね。引越し蕎麦、持って貰おうと思ってるんだから」
「へいへい、荷物持ちでもなんでもしますよ」
適当な返事を返して、裕行は歩き出す。一瞬、二階の謎の箱のことを相談してみようかとも思ったのだが、楽しそうな二人に水を差すのも悪いかと思って、やめた。
村に出る前に、トイレを済ませておくことにする。
まさかボットン便所という奴か……? と警戒しながら行ったが、幸いにもトイレは、普通の和式便所だった。
村というだけであり得ないと思ったものだが。
なんたって村である。今時、村。町でも市でも郡でもない。村。今まで裕行は区に住んでいたのだ。東京23区の区である。
人生は何が起こるか分からない。
引越しの話を聞かされたときは、一瞬、もう東京で一人暮らしを、とも思ったのだが、結局面倒くささが勝った。一人で洗濯をし、風呂を洗い湧かし、食事を作るだなんて考えただけでもぞっとする。裕行は基本的に面倒くさがりなのである。
家から一歩出ると、青臭い、草の香りが鼻をついた。
目の前をトンボが飛んでいる。じーわじーわと蝉の声が煩い。
「すげえな」
裕行は思わず呟いていた。田んぼには水が張られ、稲の苗が植えられている。覗き込むと、良く分からないエビのようなものが泳いでいる。少し、楽しい。
そっと歩き出す。家の前の狭い道なんか、当然舗装されていない。小石を踏むじゃりっとした感触。風がなくて、暑い。タオルを持ってくるべきだったかと、少し後悔する。
家の前の坂を降りると、やっと舗装された道が現れた。
周りをきょろきょろ見回しながら、とりあえず適当な方角に進んでみる。何人かにこんにちは、と言われたので、挨拶を返した。
田んぼの間を、縦横無尽にあぜ道が走っている。行ってみたくてうずうずする。裕行は横道が好きだ。東京に住んでいた頃も、路地やビルの間など、片っ端から通っていた。
どのあぜ道に入るべきかと吟味していると、ふと山へと続く一本の道が目に入った。
普段ならさすがに山へ入ってみようとは思わないのだが、その道は比較的太いし、舗装はされていないにしても、道の形態を保っているし、誰かが通っているのではないかと感じさせた。
先に、何かあるのかもしれない。
田んぼの間の畦を横切り、裕行は山へと足を向けた。
坂は結構急勾配で、歩いていると汗が噴き出してくる。汗のにおいに釣られてやってくるのか、羽虫が鬱陶しい。これだけ汗をかいていると、羽虫が少し体に当たっただけで、ぴとりと張り付いてしまいそうで嫌だった。
坂は曲がりくねっていて、上った距離はそれほどでもないはずなのに、随分と長く感じる。この先には何かあるのだろうか。少し、この山道に入ったことを後悔し始めた頃。それは裕行の目の前に現れた。
山道が突然開けた。山の中腹が、少しだけ平地になっているのだろう。そこに、家が建っている。随分と、大きい。
「すご……誰か住んでんのか、これ」
興味を抱いて近くに寄って見る。表札は、ない。けれど、廃屋というわけでも無さそうだ。家は、人がすまなくなると一気に荒れるという。この家はまだ、住居としての命を保っているのだろう。
山の中に一軒家、とそのインパクトに負けて気付かなかったが、よくよく見れば、二階の窓には簾が下がっているし、その家は十分に、住人の存在を感じさせていた。
「すっげえ不便そうだなこれ。俺だったら絶対住みたくねえ……」
呟いてはみるものの、他に見るべきものもない。道はこの家で行き止まりになっていて、本当に、ここの住人のためだけの道だったらしい。
こんな村のはずれに住んでいるのがどんな人物なのかは少し興味があったが、確かめる術もない。踵を返そうとしたその時。
がさり、と、裕行の後ろで草が鳴った。
思わず振り向く。
井戸でも、奥にあるのだろうか。水がなみなみと入ったポリタンクを持って、彼はそこに佇んでいた。
黒い髪に、白すぎる肌。白いシャツ。彼の上に落ちている、木の陰。そのコントラストが眩しい。繊細な容貌の少年だった。中性的とも言える。年は、裕行と変わらないくらいだろうか。しかし、長い前髪の奥に半ば隠れた瞳が、ひどく虚ろだった。暗い。無条件に人に、暗いと感じさせる瞳だ。
少年は、無表情に、裕行を見ている。
この家の住人だろうか。
絶対住みたくないだの、人はいるのかだの、随分と失礼なことを口走っていた気がする。聞かれていたのだろうか、と裕行は慌てた。考えてみれば、こんな家の他に何もないような場所に、用もなく立ってぼうっと家を見ている。そんな自分は随分と怪しい。
「いや、俺は、その……」
裕行は無意味に手を振った。
「泥棒とかそんなんじゃなくてその……山道があったから来ちゃったっていうか、そこに山があったから入ったみたいな、あはは、何言ってんだろ、俺」
少年は、反応を返さない。
ただその瞳が、不思議そうに細められたような、気がした。
「まあ、とりあえずすいません。俺行きます、ごめんなさい」
やたらと謝った後、裕行は山道をかけおりた。
しばらく走って、家が見えなくなった頃、裕行はやっと足を止める。そして、ゆっくりと、家の方角を見た。
「なんだ、あれ……」
同年代の少年だったのだ。もっと気さくに話しかけて、友達にでもなっておけば良かったのに。普段ならそんなことは簡単に出来るはずなのに。
少年の持つ雰囲気が、それを許さなかった。いや、少年だけではない。山奥に立つ奇妙に大きな家の存在感もあいまって、あの場に、独特の雰囲気が形成されていた。
しかし、気になる。
裕行は、変わった人間が好きだ。自分には絶対にないものを持っているので。人とは違うオーラを放った人間を見ると、話しかけたくてうずうずする。
横道を愛し、変人を愛し、評判の悪いものをこき下ろすのが楽しみな裕行もまた、世間から見たら随分変わった人物なのだが、本人はそれに気付いていない。
あの少年は、同年代のように見えた。少なくとも、まだ、学校に通う年齢ではあるだろう。学校で、また顔を合わせる可能性がある。そうなったら、勇気を出して話しかけてみよう。さっきの様子からいって、返事が返ってくるか怪しいが、裕行は寡黙な人間も人見知りな人間も嫌いではない。
楽しみが増えた、と裕行はそう思った。
随分と汗をかいてしまった。まだ村の探索をしたい気分ではあったが、どうしても汗が気持ち悪い。夕方になって涼しくなってから、もう一度散歩に出てみようか。いや、確か引越し蕎麦を配りに行くとかなんとか言っていた。
探検は明日にして、今日はもう家に帰るべきだろうか。
そんな事を考えつつ、家の方に向かってぶらぶら歩いていると、
「あ、見ない顔。もしかして、引っ越してきた人?」
突然声をかけられた。
同い年くらいの少年だ。だが、先ほど見た少年に比べたら、随分と親しみやすそうだ。
「……オシャレしてんな。服とか、どこで買うの?」
とりあえず、一番気になったことを尋ねてみる。髪は今時に綺麗にカットされているし、ワックスでばっちりセットされているし、ジーンズはいい感じに色あせてほのかにクラッシュしているし、Tシャツは派手ではないけれどセンスがいい。
要するに、目の前の少年は、裕行が抱いていた「田舎の少年」像からかけ離れていたのだ。
「お、そこに突っ込んでくれるとは嬉しいね」
「だってこの村、店とか無さそうじゃん。どうしようかと思ったよ、俺」
「ということは、やっぱ引っ越して来た人なわけね。俺、田村義樹。よろしく」
家はあっちの方、と裕行の家の方角を指差す。
「おお、俺も確かあっちの方。あ、俺、長谷川裕行。よろしく。あっちの方行くなら一緒に行かねえ?」
おお、いいぜ、と義樹は簡単に頷いた。
「で、服ね。この村、まともな店なんかないからよ、わざわざバス乗って町まで出てね。苦労してるわけよ。親に小言言われたり」
「ふうん、バスに乗ったら一番早い?」
裕行の質問に、少年は頷く。
「ああ。でもな、土日は本数が少ないんだ。ほとんど、高校に通う奴ら専用だから」
「高校ね。あ、そーいやお前何歳?」
「ん、俺?中三。もうすぐ高校生」
「あ、俺も。やった、マジでよろしく」
とりあえず、転校一発目の友人は確保したようだ。しかし、問題もある。
「しかしな、俺頭悪いんだよ。しかもこんな時期に転校だろ。進学出来るか心配でさあ」
裕行の悩みに、義樹はひらひらと手を振った。
「あ、大丈夫。絶対大丈夫。村から通える距離の高校つったら一つしかねーから。村の希望者は全員受け入れるようになってる」
「マジで?どんだけ緩いんだそれ」
ははは、と義樹は軽く笑った。
「まあ、仕方ねーだろ。一人暮らししたくねー奴もいるし。そんな金ない奴らもいっぱいいるし。俺らの村の奴ら全員受け入れるから、多分あの学校、馬鹿高なのな、迷惑な話だよなー」
「安心したよ、それ聞いて」
「おお、安心して学校来いよ。おんなじクラスになれるといいな。まあ、二クラスしかねーけどな」
こうやって平地を歩いていても暑くて暑くて、裕行はもうどうでもよくなって、着ているシャツで汗をぬぐった。それを見た義樹が、不思議そうな顔をする。
「汗だくだな、お前。確かに暑いけどよ」
暑さのあまりほのかに頭痛までしてきた。裕行はため息をつく。
「ちょっと村でも見るかって軽い気持ちで出てきたんだけどさ。気になる山道見つけて、つい山に登ってたらこんなことに」
気になる山道? と義樹はしばし考え込む。しばらく考えて、おお、と納得したように頷いた。
「上りきったらでかい家があった?」
「お、そうそうそう。それ。なんなんだ、あの家」
ここぞとばかりに、裕行は質問してみる。ずっと気になっていたのだ。すると、義樹は今までの軽口が嘘のように、口を濁した。
「あー、あれはな……鈴宮の離れだ」
「すずのみやのはなれ?」
何を言われているのか分からなくて、裕行はそのまま聞き返す。
「そ、鈴宮の離れ。鈴宮さんちの別宅だ。あんま近付かない方がいいぜ」
「なんで?」
「何でも」
何でも。その奇妙に断定的な言い方が、不思議だった。
「そーいやあの家で、俺らと同じくらいの奴見たぜ。あいつも、高校生?」
あー……と義樹は、今までよりも露骨に口を濁す。
「あー……鈴宮火月だな、それ。そう、俺らと同じ三年生」
「ふうん、無愛想な奴だったな」
「無愛想なんてもんじゃねーよ、あれは」
その口調に、何か敵意のようなものを感じ取って、裕行は首を傾げる。
「あ、いや。色々あんだよ、鈴宮の家は。あいつだけすげえ離れた別宅に住んでんのも変だしよ……俺の爺ちゃん婆ちゃんなんかも、あの別宅には近付くな、鈴宮火月には近付くなってすげえ言うし、あいつ自体すげえ人を拒んでるっつーかよ」
照れ隠しのように、義樹はぼりぼりと頭をかく。
「まあ、あんまりお近付きになりたくねーっつーか……なんかこう、不気味っつーか。小さい頃から近付くな近付くな言われて育ってっからよ……」
変な話だ、と裕行は思った。
小さな頃から。そんな小さな子に「あの子には近寄るな」なんて大人が教えるものなのだろうか。随分と、おかしな事のように感じる。鈴宮火月には、そんなことを言われなければならないほどの何かがあるのだろうか。
「まあ、あんま気にすんなよ」
おかしくなってしまった空気を吹き飛ばすかのように、義樹が笑う。裕行もつられて笑った。気になることは色々あるが、これ以上追求するのも何か可愛そうな気がして、やめた。
そのまま裕行の家について、二人は手を振り合って別れた。義樹の家は、まだまだ遠くにあるらしい。
「今度、行きつけの服屋とか案内してくれよ」
裕行が言うと、義樹は笑って頷いた。
「あ、やっと帰ってきた。いやね、汗だくじゃないの」
帰ってきた裕行の姿を見て、母は顔をしかめる。
「シャワー、浴びてく? そろそろお蕎麦、配りに行こうかと思ってたんだけど」
「んー、じゃあ軽く浴びようかな。風呂場、使える?」
「使えなきゃ困るわよ」
呆れたように母は言うと、衣類、と書かれたダンボールの中からタオルを出してくれた。あと、替えのTシャツも。
風呂場は覚悟していた程、古くも汚くもなかった。薪で沸かすことになるんじゃないか、と覚悟していた自分を恥じる。ほとんど水の冷たさで、軽くシャワーだけ浴びてしまうと、裕行は早々に風呂場を出る。
汗が洗い流されて気持ちがいいが、拭いたばかりの体に服を着るのは、少し嫌いだ。裸でいるわけにも行かないので仕方がないのだが。
台所では、由香が人参を切っていた。
「あ、兄ちゃん」
視線に気付いたのか、由香が顔を上げる。
「お前は、行かないのか? 挨拶巡り」
由香は、野菜を切る手をとめずに答える。
「うん、あたしは晩御飯の準備頼まれたから」
由香は、家にいるのが好きな子供だった。必然的に、母の用事を手伝う機会も増え、今ではかなりの料理の腕前になっている。本人も、家事をするのは結構好きらしい。
「今日は肉じゃがだよ」
台所には、まだ机と椅子と、最低限の家電しかないような状態だ。食器や道具は、台所と書かれたダンボールからいちいち取り出しているようだ。
「……まあ、帰ってきたら段ボールの整理しようぜ」
「そだね。台所は、まあ、兄ちゃんたちが帰ってくるまでの間に手が開いたら出してみようと思ってるけど」
「無理すんなよ。力ないんだから」
ほっといてよ、と言って、由香はそっぽを向いてしまう。この細くて非力な妹は、体の弱さをコンプレックスにしているような節がある。
「裕行、準備できたー?」
玄関の方から母が呼んでいる。出来たー! と大声で答えて、裕行は玄関に急いだ。
蕎麦が入った袋を手渡された。母は手ぶらで行くらしい。
「そういや裕行」
靴を履きながら、母が話しかけてくる。
「二階にあった、変な箱、見た?」
その瞬間、あの不気味な箱のことが、一気に心に蘇る。色々なことがあって、半分忘れかけていたのだが。
「見た。中身も見た。なんだろな、あれ」
「そうよねえ」と母も大きなため息をついた。「不気味よね。始末に困るわ」
玄関を出て、とりあえず、田んぼの向こうのお隣さんへと向かう。
「前の人の忘れ物かな」
裕行が尋ねると、母は首をかしげた。
「そうなのかしら。箱の後ろ側を見たらね、すずみや? みつ? って書いてて。その、蜜さんの物なのかしらって思ったりもするんだけど」
話している間に、隣の家へと到着してしまう。呼び鈴も何もないので、仕方ないので母は扉をあけて、「すいません」と呼びかけた。
「はいはい、どちら様?」
品の良さそうな、優しそうなお婆ちゃんが、家の中からは出てきた。
「あ、私、今日引っ越して来た長谷川といいます。ご挨拶に参りました」
「ああ、はいはい、聞いてますよ。新しく出来る郵便局の方ね」
差し出された蕎麦を、老人はにこにこと受け取る。「私、今井キミコいいます。村のことで分からないことがあったら、何でも聞いてね」
「ありがとうございます。あ、早速なんですけどね……」
「はいはい」
母はそこで、そっと声を潜めた。
「村の人全員に、お蕎麦配った方がいいか迷ってるんですよ。やっぱり、村の方って、そういう、人付き合いとか大事にするのかしらって思いましてね」
うわ、本当に聞いたよ、と裕行は驚いた。母は、独特の愛嬌のある喋り方のせいか、あまり人に悪印象を与えない人物なのだが、ほのかに責任を感じる。
田舎の奴らは近所づきあいが濃いんだろ、と聞いているようなものだ、これは。
「あははは、面白いねえ、あんた」
キミコさんが笑ってくれたので、裕行は内心かなりほっとした。
「そんな、全員に配ってたら足が棒になっちまいますよ。ご近所だけに挨拶しとけばね、後はほっといても知り合いも出来ますよ。……ああ、でも、鈴宮さんちにだけは挨拶しといてもいいかもしれんね」
「すずのみやさん?」
母が聞き返す。鈴宮……確か、あの山の家は、鈴宮の離れだという話だった。また鈴宮だ。
「まあ、この村のまあ、村長みたいな役目の家だと思ってくれればいいです。村の真ん中あたりにね。凄く大きな家があるからすぐ分かりますよ」
といいつつ、キミコさんは、鈴宮の家があるのであろう方角を、指で示してくれる。
「じゃあ、ちょっと行ってみますね。ご親切にどうも」
頭を下げた母は、あ、と思い出したように動きを止めた。
「たびたびすいませんけど……うちの二階にね、変な箱が置いてあって。鈴宮蜜って彫ってあったんです。先ほどの鈴宮さんと関係があるのかしら?ご存知でなかったら、変なこと聞いて申し訳ないんですけど」
母が尋ねると、キミコさんは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「ああ、それは。お祭りの祭具ですよ、多分。前のお祭りのイシュはあの家の人だったからね。鈴宮さんに返せないまま亡くなってしまったんでしょ。良かったら、鈴宮さんに返してあげるといいですよ。あっても困るでしょ」
「まあ、困りますね。お祭りの道具だったんですか。謂れを知らないとちょっと不気味ですね」
母はどこまでも、ストレートだ。
「まあ、そうでしょうね」とキミコさんが笑ってくれて、裕行はまた胸をなでおろした。
ご近所の何軒かに挨拶を済ませて、一旦家に戻って、出来るなら触りたくない箱を持って、鈴宮家に向かう。ご近所の人たちは、あまり若い人はいないものの、皆気が良さそうで親切で、母親は安心したようだ。
「田舎ってもっと、怖いイメージがあったんだけど、これなら大丈夫そうね」
などと笑顔で言っている。
最初の挨拶くらいでは、何も分かってないのと同じだろ、と裕行は思うのだが。
村は、山に沿って作られている。実際に歩いてみると、それがよく分かる。
裕行の家があるあたりは、比較的上の方。そこから中心部に降りて行くにしたがって、緩やかな下り坂になっているのだ。父が勤務することになるという郵便局は、当然ながら村の中央部にあるという。
自転車で行くにしても歩くにしても、行きはいいが、帰りはかなり辛いのではないだろうか。ということを母に言うと、「あの人最近、お腹がメタボだからそのくらいでいいわよ」と軽い返事が返ってきた。
村の真ん中を走っている唯一の太い道をひたすら歩いて行くと、確かに、他とは一線を画す大きな屋敷が見えてくる。
「あれかしらね……」
と母が首をかしげた。屋敷は平屋ではあるものの、塀はまるで城のようだし、門の上には家紋が踊っているし、それはもう、時代劇でしか見ないような立派な屋敷だった。
屋敷の正面に回って表札を見ると、太い墨字で堂々と、「鈴宮」と書いている。間違いない。しかし、またもや呼び鈴がない。
この村の人間には、チャイムを鳴らすという習慣がないのかと、裕行は不思議に思う。しかもこの屋敷。門から屋敷までの前庭が広大で、門だけ開けて呼んでも、住人に聞こえそうにない。
「困ったわね」
母が真剣に困った表情を作っているが、門を開けて入って、屋敷の戸も開けて呼べばいいよ、と提案する勇気は、裕行にはなかった。
二人で顔を見合わせて考え込む。
「とりあえず、門だけでも開けてみたら?」
しばらく考えた末に、出た結論がそれだった。ずっと突っ立っていても始まらないだろう。
裕行は勇気を出して、馬鹿みたいに大きな門に手をかける。門は横開きだ。あけると、ガラガラガラ、と意外に大きな音がして焦ってしまう。
「……おじゃましまーす」
小声で言って中へ入る。小声で言うから、さらに悪いことをしている気分になるのだが。
中へ入って、何歩か歩いた時、玄関ではなく、玄関の横の障子が開いた。裕行と母は、びくっとして足を止める。
「誰?」
どこかで見たことがある顔だと思った。しばらく考えて、ああ、あの少年だと裕行は思い当たる。鈴宮火月と言ったか。
しかし、障子から顔を出しているのは、少女だった。
髪の毛も、昼間見た少年に比べれば、随分と長い。
「あ、私たち、今日ここに引っ越してきてね。ご挨拶に来たのよ」
母がにこにこと少女に話しかけた。彼女は、可愛い子供が大好きなのだ。
確かに、少女は愛らしかった。白すぎる肌に、黒い髪。そこまでは、あの火月とかいう少年と同じなのだが、少女からは、あの少年のような暗い匂いがしない。黒い瞳は、興味津々でこちらを伺っているし、人を拒むような独特の空気もない。
「お名前は? うちにもね、あなたと同じくらいの女の子がいるの。今日は来てないんだけどね。仲良くしてあげてくれるかしら?」
少女の前にかがみこんで、母は話しかけている。裕行はどうもそんな気分になれなくて、後ろで立ったまま、ぼうっと少女を見つめていた。
「私の名前? 私はね、鈴宮みづきというのよ。お友達が増えるのは嬉しいわ」
「……みづきって、どんな字?」
ふと気になって、裕行は尋ねてみる。
「水の月で水月。お兄さんは?」
どこまでも、少女は笑顔だ。人見知りをする様子も、何もない。
「ああ、俺は裕行。これ、やる」
引越し蕎麦を手渡すと、少女、水月は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「鈴宮火月って、兄弟かなんか?」
火月と水月。名前も顔もこれだけ似ていて、他には考えられないのだが、一応裕行は尋ねてみた。すると、水月は、一瞬、何を聞かれているのか分からないような顔をする。
「火月に会ったの?」
逆に尋ね返されて、裕行は一瞬、たじろいだ。
「会ったよ。偶然だけど。全然話もしてないんだけど、なんか気になって」
ふうん、と一瞬考えるような素振りを見せて、水月は答える。
「私と火月は、そうね。兄弟ね。同じお母様のお腹から生まれたもの」
その微妙な言い方に、裕行は違和感を覚える。
「私、おうちの人を呼んで来るわ。挨拶だったら、私以外の人にもしなくちゃ駄目だものね」
少女は立ち上がると、屋敷の奥へと走り出す。
「かづきって、誰?」
母に尋ねられて、裕行はどう説明したらいいのか分からなくて、「偶然見かけた、さっきの子にそっくりな男」と答えた。それを聞くと、母はしばらく考えた後、
「それは、美少年なんでしょうね」
と見当違いな答えを返してくる。
ガラリ、と大きな音をたてて、玄関の戸が開いた。慌ててそちらへ向かう。
「こんばんは、鈴宮靖です。よろしく」
背の高い、痩せた男だった。「引越し蕎麦を頂いたようで、ありがとうございます」
「いえいえ、いいんですよ。こちらこそよろしくお願いします」
似てない親子だな、と裕行は思った。目の前の男、靖の後ろには、先ほどの水月がちょこん、と控えている。親子なのだろうが、まったく似ていない。
「あ、そうだ、これ。うちの二階にあったんです。ご近所の方に聞いたら、こちらのお宅の物だとお伺いして」
母に肩をこずかれて、裕行は謎の箱を差し出した。
「ああ、それは……。すいません。こちらの不手際のせいでお手数をおかけしまして」
靖は、慌てたように頭を下げる。頭を下げながらも、どこか慇懃な雰囲気の漂う男だ。あまり抑揚のない、その喋り方のせいかもしれない。
「お祭りで使うんですってね」
母がにこにこと尋ねると、男は困ったように笑った。
「そうなんですよ。十七年に一度の祭りなんですけどね」
十七年、と母が驚いたような声をあげた。
「もうすぐ、またお祭りがあるのよ」
と水月が小さく声をあげた。
「私が、十六歳になったら、お祭りをするの」
もう日が暮れかけていて、帰り道はひどく暗い。西の方は、黒い雲が赤く照らされて、幻想的な夕焼けが見えるのだが、足元はすでに見え辛くなっている。昼間見た通り、街灯はない。この暗さになっても明かりがつかないということは、やはり、街灯はないということで間違いはないのだろう。
「明日は、学校に行ってみようか」
母が言う。今はもう九月だ。九月になったばかり。新学期はすでに始まっている。今はこんなに暑くても、そろそろと秋の涼しさも忍び寄ってくるだろう。
まったく、変な時期に転校してしまったものだ。
「とりあえず、挨拶だけでもして。学校の方がいいって言ったら、もう明日から授業に出てもいいと思うし」
「鈴宮水月だったっけ」
学校の方は、母のプランで問題ない。適当に頷いて、母の言葉を遮って続ける。
「変な奴だったな」
「そうでもないと思うけど」
母は首を傾げる。「礼儀正しいいい子じゃない」
「そういうことじゃなくてだな……」
自分の感じている違和感を、母にどう伝えるべきか、裕行はしばし考える。
「他の女の子とあまりに雰囲気が違うっつーか、前の学校の後輩だった子らと比べても、変」
「育った環境が違うじゃない。こんな村で育つのと、東京みたいな都会で育つんじゃあ、違って当然でしょ」
「そういう事じゃなくてだな……」
どうも上手い説明の言葉が見つからず、裕行はついに諦める。
「お祭りってどんなことするのかしらね」
母がぽつりと言った。
「あんな不気味な道具を使うお祭りって。聞いたことないなあ」
母が首を傾げるので、
「まあ、聞いたことないお祭りなんて世の中にいっぱいあると思うよ」
と冷めた返答を、裕行は返しておいた。
2
まあ、二クラスしかねーけどな、と田村義樹は言った。なので裕行は、三年団は二クラスあるのだろう、と思っていた。だが実際は、全校で二クラスだった。
「本当は分けるほどの人数でもないんですけど……」
と気の弱そうな女教師が言う。「でも三年生の子たちは、高校に進学したら他の学校で学んできた子たちと競争することになりますから。三年生の間だけでもみっしり勉強して貰おうっていうことで、クラスを分けるようになったんです」
「じゃあ、一、二年の間はしっかり勉強できない、みたいに聞こえるんですけど……」
と、不安そうに母が言う。裕行と由香の付き添いを兼ねて挨拶にやってきた母は、見るもの聞くもの総てが珍しくて仕方がないらしい。まあ、それは裕行も同じである。
木造の校舎だとか。よく踏まれる場所だけくぼんで歪んでいる木の階段だとか。色々なものが珍しい。
「うーん、勉強が出来ないというか」
母の率直な物言いに、教師は少し戸惑った様子で考え込む。
「二学年合同の教室になるんで、やっぱり、一人一人に裂ける時間が少ないんです。教師の数も少ないので。上の学年の子が、下の子の勉強を見てあげたり、そういう面ではいい勉強になってるとは思うんですけど」
「なるほど。色々大変なんですね。まあ、三年生になってから頑張ればいいわよね、由香」
妹に笑いかける母。由香は、うん、とひどくどうでも良さそうに頷いた。
由香は裕行と母のように、校舎の中をきょろきょろしたりもしないし、あまり嬉しそうでもない。全体的に、ひどくどうでも良さそうである。
家についた当初は、少しははしゃいでいたが、一日で飽きたらしい。
結局、挨拶のあと、すぐに授業に出ることになった。
「あ、言い忘れてましたけど、裕行君のクラスの担任になる中田慧子です。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げられて、裕行と母もつられて頭を下げる。
そのまま、中田に連れられて、裕行は教室へと歩き出した。母と由香は、由香の担任になるのだろう教師と挨拶を交わしている。
「あっちの先生は、津村翔先生。由香ちゃんのクラスは、一年生の先生と、二年生の先生で、担任が二人いるの」
校舎内の説明を受けながら、古い廊下を歩く。今よりは生徒が多かった頃に建てられたのであろう校舎は、今の現状からすると大きすぎる。使われていない教室も多そうだ。
「裕行くんの教室が三階の隅で、由香ちゃんたちの教室が二階の隅。二階の反対側の隅に図書室があります」
中田は、キビキビとした口調で校舎内を案内していく。大人しそうな見た目とは違って、意外としっかりした性格をしているのかもしれない。
「さっき見たと思うけど、一階に職員室とか、用具室とかが固まってます」
「ところで、保健室は? 見当たらなかったですけど」
保健室の場所は知っておかないと、少し不安だ。裕行は結構、運動神経が悪い。バスケの時間に、自分のシュートしたボールが、ゴールで跳ね返ってつき指をしたことがある。妹の由香はもっとひどい。彼女は読書と料理が好きなインドア派だ。朝礼で立っているだけで貧血を起こして座り込む。
「保健室は、ないの」
返って来た言葉に、裕行は一瞬自分の耳を疑った。
「マジっすか?」
「マジです」
中田は、少し苦笑したようだ。
「学校のすぐ隣に丁度よく診療所があるから、そこを保健室がわりにさせてもらってます」
「はあー……」
裕行は関心するようにため息をついた。まさかとは思うが、保健室に行くたびに保険証がいるのだろうか。つき指をする前に、確かめておいた方がいいだろう。
「さてと、ここが三年生の教室です」
だが、保険証のことを確認する前に、教室についてしまった。
扉をあける。クラスメイトは、思っていたよりは多い。3人くらいしかいないのかと思っていたのだが、10人近くはいそうだ。
裕行が教室に入った瞬間、教室が喧騒につつまれた。転校生、だの、郵便局だの、倉沢の家、だのという単語がちらほらと聞こえる。
倉沢の家? 疑問に思ったが、確かめる術はない。教室を見回すと、田村義樹がさりげなくひらひらと手を振っている。
ふと、ざわざわとした教室の中に、そこだけ静かな一角を見つけた。鈴宮火月だ。誰とも会話することなく、教室の隅の席で、彼はぼうっと窓の外を見つめていた。
しばらくしても、ひそひそ声はやまない。中田は、つかつかと教壇の前に歩み寄ると、
「いい加減にするっ!!!」
と叫んだ。
「入った瞬間、そんな露骨に内緒話されたら気分悪いでしょ!感じ悪いよ!?」
しーんと静まり返った教室を前にして、元の静かな声に戻った中田は、裕行に微笑みかける。
「じゃ、自己紹介してみようか」
やはり、見た目通りの性格ではないらしい。突然の大声には驚いたが、教室の面々にとってはいつものことらしい。皆、平然とした顔をしている。
簡単に自己紹介を済ますと、裕行が座る席が決定された。
鈴宮火月の横だ。そこだけ、空席になっていたらしい。
友達を増やすには、義樹の隣あたりが嬉しかったのだが、興味ある人物の隣の席になれて、これはこれでラッキーなのかもしれなかった。
「よろしく。鈴宮だっけ。こないだ、家の前で会ったよな」
裕行が席についても、火月は無関心な様子で窓の外を眺めていた。勇気を出して話しかけてみる。火月はゆっくりと、裕行の方を向いた。
木を眺めていたら、突然木に話しかけられた、みたいな、そんな表情をしていた。
「あ、覚えてない? 俺にしてみたら結構インパクトでかかったんだけど……」
あまりにも返事が返ってみないので、軽い口調で誤魔化してみる。火月は、不思議そうに裕行を見つめている。
「覚えてる」
その唇が動いた。想像していたよりも随分と低い声が、彼の口から漏れる。
「一人で、何かわめいて走っていった。幽霊かと思った」
「幽霊? 普通、泥棒とかじゃね?」
「あそこに尋ねてくる人間はいない。泥棒も、この村の人間だったらあの家に入ろうとは絶対考えない。村の外から来た泥棒なら、あんな山奥まで来ないと思う」
はあ、と裕行は相槌を打つ。返事がないので無口なのかと思えば、喋りだしたら随分べらべらと喋る。
「だから、生きてないのかと思った」
「幽霊とか、見える人なんだ?」
なんとか会話を繋げようとした裕行の努力は、「見たことない」という火月の一言で、一蹴された。
「……こんな風に俺と会話するなんて、変わってる」
火月がぽつりと言う。
「他の人間によく思われないし、やめた方がいいよ」
授業を始めます、という教師の一言で、二人の会話は断ち切られた。自分のことを、まるで他人事のように話す。変わった人間だ、という印象は、ものの五分もないような会話の中で、いっそう確かなものになった。
火月の方は、裕行のことをまったく覚えていなかったようだ。幽霊と思われていたのでは仕方ない気もするが。しかし、たまに来た人間を幽霊だと思ってしまうくらい人の行き来がないというのは異常じゃないか? と裕行の疑問はさらに深まった。
授業自体は、心配していたほど難しいものでもない。今までの自分の学校より進みが速かったらどうしようかと心配していたのだが、逆に今までより遅れているようだった。
復習する気分で、気軽に授業を受けることが出来る。
勉強好きではないが、とりあえず、将来を悲観しなくていい程度にはやっていた方がいいだろうと思う。
「よお。同じクラスになれたな」
放課後。義樹が明るく話しかけてくる。裕行は、そんな義樹を軽く睨んだ。
「何が同じクラスになれるといいな、だよ。一クラスなんじゃねーか」
「クラス分けにドキドキしてみるのもいいもんだろ」
と明るく義樹は笑う。同じクラスに云々は、彼なりの冗談だったらしい。随分気の長い冗談だ。
「しっかし、鈴宮の隣とはついてないなお前」
急にまじめな顔になって、義樹は言う。
「そうでもないぜ。とりあえず、何かずれてたけど会話くらいは成り立つみたいだし」
「……俺は近づきたくねーけど、だからってお前に近付くなってのも変な話だしな」
義樹はため息をつく。
「まあ、気をつけろよ」
何をとは義樹は言わなかった。とりあえず、裕行も適当に頷いておく。どちらからともなく鞄を持って、教室の外へと出た。噂の鈴宮火月はとっとと教室を出て行ったらしい。裕行と義樹も、家へと向かって歩き出す。
「まあ、勉強も付いていけそうだし良かったぜ」
あくび交じりに裕行が言うと、義樹は苦笑した。
「そんなに勉強勉強いう奴、村にはいないな」
「だってまあ、それなりの所にいないと将来危なそうじゃん?俺はこう、適当に大学を出て平凡かつなだらかな人生を歩みたいとだな」
「大学ねえ……。俺は高卒でいーや。高校を適当にだらだら楽しんで、村役場ででも働くのが理想だな」
は? と裕行は思わず声をあげた。
「お前、そんな意外に保守的な奴だったのか。そんなルックスで」
今日も義樹は、髪をばっちりワックスで立てて、制服のズボンに、ちょっとラメが入った趣味のいいベルトを合わせている。鞄もオシャレだ。てっきり裕行は、彼は将来は村なんか飛び出してセンスの良い服屋で働くのが夢とかそんな感じの今時な人物なのだと思っていた。
それが、村役場。
「見た目で人を判断したらいかんよ」
言いつつも、汗でへたってくる髪を気にするように手櫛で整える。
「確かにまあ、街は楽しいけど、たまに行けたらいいっつーか。俺はやっぱりこの村が好きで、ここから出て行くなんてことは考えられんね」
村出身てのがもうコネになるし、就職が楽っつーのもあるけどな、と照れたように義樹は笑う。
裕行は、自分の住んでいた土地にそこまでの愛着を感じたこともなく、一生をここで過ごしたいなんて土地は当然なく、村への愛着をてらいもなく語れる義樹を、少し羨ましいような、どことなく気持ち悪いような気持ちで、眺めた。
裕行は、人にも土地にも物にも、比較的執着が薄い。東京の頃の友達のことも、気が向いたらメールでもしてみようかという気にはなるけど、どうしても遊びたいとか、話をしたいとか、そこまでの執着はない。
いつか自分も、この村で一生暮らしてもいいという気持ちになるだろうか、と、ふと思う。
学校生活は、事もなく過ぎていった。級友もみんないい奴らで、話す相手には困らない。
ただし、一週間目くらいに、妹が熱を出した。
妹が熱を出して学校を休んだその日。毎日毎日毎日、おはようといい続けた結果、火月の方からおはようと声をかけさせることに成功した。はっきり言って遅い。しかもこんな努力をして、自分が何をしたいのかもよく分からない。
けれど火月の方からおはよう、という言葉が聞けた瞬間、毎日毎日言葉を覚えさせて、やっとオウムが人語を喋った時のような、そんなよく分からない達成感があったことは確かだ。
おはよう、と挨拶を交わした後は、何を話したわけでもないが、授業が終わって、教室を出るときに、火月は小さく、「じゃあ」と裕行に声をかけた。格段の進歩だ。
「あ、ちょっと待て。俺は図書室に用があるんだけど、案内してくんね?」
その小さな進歩に後押しされるかのように、裕行は火月に声をかけた。義樹あたりに頼むつもりだったのだが、せっかく火月が歩み寄りを見せている。友好を深めてみるのも悪くない。しばらく考えた後、「図書室に用はないけど……まあいいよ」、と火月は答える。
火月は、会話の受け答えが遅い。しかも、返事がどこかずれている。
人見知りや人嫌いというよりは、単に会話の経験が少なくて、会話に慣れていないという印象を受ける。
「図書室の場所、最初の日に聞いたんだけどまあ興味がないからさ。さっぱり覚えてなくて」
色あせた木の廊下に出る。太陽の当たらない窓の下の部分だけが、かろうじて、昔の色を留めている。日の光を浴びると、色の白さが一層際立つようで、火月はより一層無表情に見えた。
「そんなに広い学校でもないし、適当に歩けば図書室なんかすぐに見つかる」
それは、暗に案内なんかしたくないと言っているのか、と裕行は思ったが、口に出すのはやめておいた。そうだと言われたら悲しすぎる。
裕行より少し前に立って、黙々と火月は歩く。その歩調が、どことなくぎくしゃくしている。
「図書室は……二階にあるんだ」
唐突に振り向いて、火月が言った。そういやそんな場所にあったような気もする、と裕行は思う。うん、と頷くと、火月はまた前を向いて歩き出す。もしかしてあれは、彼なりに話題を振ってきたのか? と裕行は思いついて、唐突におかしくなった。
「あ、あれ。鈴宮水月じゃね?」
二階に降りて廊下を歩いていると、鈴宮水月たちが歩いているのが見えた。水月は、たくさんのクラスメイトに囲まれている。兄とは違って、友人が多いらしい。
すれ違う瞬間。にこやかに笑っていた水月の顔が、火月を見た瞬間、固まった。
ゆっくりと、彼女の大きな黒い目が細くなる。
裕行と火月を一瞥し、一言の言葉をかけることもなく、水月は歩き去った。友人たちもそれに続く。一、二年の生徒に知り合いなんかまだいないので、とりわけ不自然な態度でもないのだが。
水月は、火月のことを嫌いなのではないか、とふと思った。最初、水月と火月は似ていると思ったが、そんなことはまったくなかったと思いなおす。火月は、あんなに射殺しそうな目で、人を見ることはなさそうだ。
「ここ、図書室」
水月とすれ違ったことなど気にも留めず、火月はマイペースに道案内を続けている。図書室と書かれた部屋のドアを開けて中へちょっと入ると、すぐに出てきた。扉は開けたままだ。わざわざ図書室の中へ入った意味が分からない。
「お、ありがと」
裕行は軽く礼を言うと、図書室の中へと向かう。「じゃあ」と小さな声で火月が言う。一人で帰るつもりらしい。一緒に家までと思っていたわけではないが、予想通りの淡白さに苦笑する。
「明日も、どこか案内しようか?」
裕行が背を向けた瞬間、火月が言った。驚いて、思わず裕行は振り返る。「いや、明日は特に用事は……」と言い掛けて、これは火月なりに自分との距離を詰めようとしているのではないか、と感じた。
「じゃあ」
と思いなおして、続ける。
「じゃあ明日、保健室に行くのに、保険証がいるのかどうか教えてくれ」
うん、とマジメな顔で火月は頷いた。
「ちょっとした病気とか怪我なら、別に保険証はいらない」
その答えを受けて、おいおい明日のイベントがもう終わったよ、と裕行は思った。
図書室の中には、古い本がある場所に特有の、埃っぽい空気が漂っている。一歩足を踏み入れた瞬間、カウンターにいた人物が顔をあげた。どうやら、読書にいそしんでいたらしい。
五十代程度の中年に見えるが、髪の毛が真っ黒だ。ぴっちり七三分けされた髪の毛が眩しい。物静かそうな男である。
「ああ、あなたが長谷川さんですね」
男は言った。
「由香さんが、よくここに来ますよ」
「その、由香に頼まれて本を返しに来たんです」
妹から預かった本二冊を、男に手渡す。今日が返却日だから、と無理やり押し付けられた本だ。
「さっきのは、鈴宮火月さんですね」
本を確かめながら、男は言った。「仲、いいんですか?」
「いや、仲良くなりかけって感じです」
ふと思い立って、裕行は尋ねてみる。「あいつ、何かあるんですか?」
「何かある、とは」
男は冷静に尋ね返してくる。男は火月に対して特別敵意も抱いていないようだし、他の村人たちのように忌避しているわけでもないようだ。
「俺の友達とかも、あいつのことすげえ避けてるから、何かあるのかなって」
ふむ、と男は考える。
「私はそれを、君に知らせたくないですね。知っているから、村人たちは彼を避ける。しかし君は知らないから、彼と仲良く出来る。いいじゃないですか、平和で」
「でもそれって気持ち悪いですよ」
裕行はため息をつく。「あいつと仲良くしたら、何かが起こるみたいな口ぶりでみんな話すし……」
「何かが起こったとしても、それは君の責任ではありませんよ」
「責任とかじゃなくて」
困ったように反論する裕行を、男は面白そうに見つめる。
「鈴宮の人々を取り巻く環境は、ひどく地獄的ですよ。村の人間はそれを知っている。でも君は知らない。それはとてもいいことです。知らないからこそ出来ることが世の中にはたくさんあります」
「……先生みたいな口調で喋るんですね」
その言葉に、男は苦笑で返した。
「昔、大学で教鞭を取っていました。働いていた大学が潰れましてね。でも、ここの生活は気に行っていますよ」
そろそろ帰りなさい、と男は言う。
「私も、ここを閉めてそろそろ帰ろうかと思っていた所です」
地獄的、と図書室の教諭は言った。よく意味が分からないが、それは、火月も水月も、あの靖とかいう男も、そういう環境にあるということだろうか。
そんなことをぼうっと考えながら、家への道を歩く。家までの道はなだらかな上り坂だ。
最初はそうでもなくても、上っているうちに、汗が噴出してくるし、息も上がってくる。
はあはあと少し乱れた息で、うつむき加減で歩いていたので、声をかけられるまで気が付かなかった。
「あら、こんにちは」
目の前に、鈴宮水月が立っている。坂を降りてきたからだろうか。普段から歩きなれているのだろうか。裕行とは違って、涼しい顔をして立っている。
「由香ちゃんのお見舞いに行ってたの。元気そうで安心したわ」
そう言って、にっこりと笑う。裕行もつられて微笑んだ。
「そりゃありがと。まあ、あいつは病気なれしてるから、大丈夫だよ」
そう、と微笑む水月。その目が、すっと細くなった。廊下で、裕行と火月に向けられた、あの目だ。
「ねえ」
静かな声で水月は問いかけてくる。
「どうして火月に近付くの」
「ん、面白そうな奴だから」
水月を取り巻く雰囲気の変化に意図的に気付かないようにして、裕行は答える。
「あまり近付かない方がいいわよ。あれはかけほの犬だから」
「かけほのいぬ?」
思わず尋ね返した裕行の声に、水月は答えなかった。
「とにかく、火月に近付かないで」
一方的に告げられた言葉に、裕行はむっとする。
「俺が誰と仲良くしようが勝手だろ」
「そうね。……ところで知ってる?」
今までの冷徹な雰囲気が嘘のように、水月は微笑む。
「あなたが今住んでる家、昔、人死にがあったのよ」
「人くらい、どこででも死ぬだろ」
ちょっと無茶な反論だったかな、と裕行は思う。ただ、このまま脅されっぱなしのようになっているのは癪だった。
「そうね。人はどこででも死ぬわね。でも、そういうのではないの」
水月は微笑みを深くする。
「あなたも気をつけたら?」
悪意の塊のような言葉を残して、軽やかに、水月は下り坂を駆け下りて行く。
「鈴宮水月が来たんだろ」
家に帰って、開口一番、裕行はそう聞いた。妹は額に冷えピタを貼って、パジャマにカーディガンで、居間で本を読んでいた。
「来たけど」
と本から顔も上げずに言う。「それがどうかしたの」
「水月と、仲、いいのか?」
その問いに、由香はやっと本から顔を上げた。
「仲がいいっていうか……水月ちゃんの方からやたら近付いてくる感じかな」
喉が渇いた、と言って由香が台所へ行ってお茶を汲んでいる。妹が座っていた近くの床に、普段なら気にもとめないような薄茶色の染みがあって、裕行は少し、背筋が寒くなるような思いがした。
「あいつ、変だろ?」
コップ片手に戻ってきた由香に、思い切って裕行は問いかけてみる。
「うん、変だね」
意外にも由香はあっさりとその言葉に頷いた。
「でも悪い子ではないと思うよ。みんなに凄い好かれてるもん」
「お前は?」
裕行は試しに問いかけてみる。「お前は、どう思ってるんだ、あの子のこと」
その問いかけに、由香はしばし考え込んだ。
「うーん……よく話しかけてくれるし悪い子ではないと思うしこういう事言うのはどうかと思うんだけど」
言葉を選ぶようにしばらく躊躇した後、
「言うのはどうかと思うんだけどー……」
激しく言いよどんで、
「はっきり言って、ちょっと、うざい」
言いよどんだ割にはきっぱりと、由香は言った。
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2007/08/25(Sat)01:05:17 公開 / 千里
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■作者からのメッセージ
第一章はこれで終わりです。
学年の矛盾や、細かいことを修正しました。
段落の前のスペースが・・・色々試してみたんですが、編集場面では一文字分開いているのに、確認画面であいてないんです。すいません。とりあえず、これでアップしておきます。
どうすれば一文字分あけることが出来るんでしょう。知ってる方いたら教えて欲しいです。
勉強不足ですいません。