- 『風霊月歌 【18】』 作者:ゅぇ / 未分類 未分類
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大国の舜・柳。国々は争乱の時代へと入っていた。死んだはずの奈綺がそして甦る。
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【傾国の途】
――柳《りゅう》が危うい。
柳と舜《しゅん》。このふたつの大国を軸にして、周囲の国々は興亡を繰り返している。数年ごとに周辺の国々が興ったり滅んだりしてゆくさまを目の当たりにしながら、柳人たちは危機感を抱きはじめていた。けして柳帝にたいして不信や不安を抱いているわけではなく、むしろ冷酷無情でありながらも賢君と謳われる彼を案ずる声のほうが多い。どちらかといえば好戦的な血をもつ柳の民々は、こういった柳帝を好み、また信頼した。
――ご正妃が身罷られてから、この国は災厄続きぞな。
――陛下もさぞお辛かろうな。
「国が傾いているのでしょう」
と、柳帝に向けて男ははっきりと口にした。柳帝もすでに四十に届こうかといった歳になり、十年あまり前から柳帝に随《したが》ってきたこの男もまた三十を過ぎているように見える。一見しただけでは年齢がうかがえぬほど、しかしふたりともに若々しい容貌を保っていた。とくに柳帝の美貌は衰えを知らず、肌もきめ細かなままである。北国の人間は、美しい。
ふん、と柳帝は唇をかるく歪めた。彼の正妃が死んでから、もう十年あまり経つ。民々の口の端にのぼる囁きどおり、彼女の死後、確かに柳は災厄続きであった。正妃の死を皮切りに、飢饉、新興国家との攻防、蒼河の氾濫、大雪。
「あげく……」
「朱綺《とき》があの状態ではな」
たったひとりの皇太子が、病に倒れ伏しているのであった。皇太子がたったひとりしかいない――正妃が身罷ってのち、この柳帝が側室とのあいだに子をもうけたことはなく、むしろそれが民のあいだでも好感をもって噂されていたのだが――そのたったひとりしかいない皇太子が病に伏せている状態では、柳帝も自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。
斂よ、と柳帝は双眸を歪めた。
「ひとを見つけて来い。朱綺の代わりになり得る人材を探せ」
朱綺が病に伏せているだけでは、柳帝も斂もこれほど苦々しげな表情は見せなかったろう。
――理由がある。
十年前に死んだ柳帝の正妃の名を、奈綺《なき》といった。もとは舜人《しゅんひと》である。ただの舜人ではない。舜に血脈をもつ間諜のひとりで、『風の者』と呼ばれ怖れられたその間諜の一群のなかでも、さらに第一の位に君臨していた女である。
ひとに非ず、と他国の間諜をも慄かせた女が柳帝に嫁したのは、当然のことながら普通では考えられぬ狂気の沙汰といってよかった。彼女は柳帝の子を産んだ。世間にはひとりと触れておきながら、実のところ奈綺が産み落としたのはふたりの子である。ひとびとの眼に触れぬように柳から存在を消されたのは、ふたりめの子であった。秋沙《あいさ》と名づけられたその女児は、物心つくまえから母親の手によって舜へ送られ――母の愛を受けることも父の愛を受けることもなく『風の者』としての鍛錬を受けたのであった。
――朱綺にもしものことあらば、常に秋沙がその援《たす》けに。
その秋沙が崖から墜ちて死んだ、と報せを受けたのがこの年の初めである。斂は茫然とし、柳帝は激怒した。ほかの人間は、柳帝の子はひとりしか居らぬと思っているから単に病に伏せた朱綺を案ずるだけでよかったが、隠された秋沙の死が柳帝と斂とに与えた衝撃は大きかった。
奈綺にたいする想いが深かっただけに、とでもいえようか。
“あの”奈綺の血をひく娘が、崖から堕ちるようなへまをしようか否するはずがない。よしんば何らかの理由で墜ちたとしても、その程度で絶命するような生き弱い娘であるはずがないのだ――、と彼らはなかば盲目的といっても良いほどに奈綺という女の強さを、あるいは彼女が産み落とした娘の強さを信じていたのである。
「ひとを見つけて来い。朱綺の代わりになり得る人材を探せ」
柳帝が斂に命じたのは、本来ならば朱綺の代わりになり得る人材であったはずの秋沙が死んだからであった。柳はわたしが守るべき美しき領土である、と信じている。己に課せられた使命を、幼いころからじゅうぶんに理解してきた男であった。このままではならぬ、と誰よりも分かっている男でもある。むろん、己ひとりの力で国ひとつ何とか持ちこたえさせるだけの自信はあった――とはいえ、この皇帝が見晴るかしているのはけして数年先、数十年先の国ではない。数百年先、あるいはそれよりもまだ先の将来である。
(血脈が欲しい――何としても)
妾をつくって孕ませれば良い、という側仕えの者たちの言葉には、柳帝は頷かなかった。奈綺への恋慕にあらず。
(奈綺の血よ。やつの血が欲しいのだ、わたしは)
男女の情とはまた異なった意味あいで、この男は奈綺という死んだ正妃に惚れこんでいるのであった。
◆ ◆ ◆
人材を探せ、となかば追い出されるようにして柳を発った斂は、まず舜へ足を向けた。足を向けたというよりは、自然そちらを目指していたといったほうが良いかもしれぬ。この男も生まれは舜である。
(奈綺嬢よ。これはあなたが柳に与えた試練か)
それにしては厳しすぎる、と苦笑しながら男は馬の腹を蹴った。奈綺のことを清爽な道標のように思っていた斂にとって、心のなかで彼女に語りかけることはひどく愉しいことでもあった。この男もまた、恋や愛とは異なる強い想いで奈綺を慕っていたひとりである。
舜都へ着くと、斂はためらいなく街なかの一隅に居をかまえている薬屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
女主人だろうか――若々しい女にみえるが、その目じりには小さな皺が隠されている。客を出迎えるための笑顔は、しかし斂を見つめてまもなく消えた。
「ちょっと、あんたにお客だわ」
「なに? 忙しい」
「がたがた言わないでさっさと出てらっしゃいな、このひと……」
斂の双眸は、すでに女の仕草ひとつひとつに常ならぬものを見ている。無駄のない動き、すっきりとした温度のないふたつの瞳――間諜か、と彼は小さく笑んだ。
「このひと、奈綺の腰巾着だわ」
やや毒気のある物言いに、斂は瞳を軽くすがめた。この女が、すでに崩御した先代舜帝の正妃であった彩であることを、このとき斂はまだ知らぬ。
実は舜もまた、変貌のときを迎えていた。父帝に似て賢明であったはずの息子が、東国杞《き》の妃を迎えてからおかしくなった――平易にいえば、女に溺れたと。ただしこの時代、女には呪力があるとも信じられていたから、皇帝が女に溺れたと認めたくない舜人たちは、口をそろえて“巫女《ふじょ》の力を持つ妃に、陛下は惑わされているのだ”と噂しあった。彩は、杞妃が嫁してきたのに前後して宮中から街へおりた。おのれから申し出たことではあったが、息子である舜帝はそれを留めなかった。実質、追い出されたといっても良い。
大陸に名を馳せる二大国が、並んで傾きはじめているのであった。
「……斂」
薬屋の主人は、ほんのわずか懐かしげに整った眉を動かしてみせた。このふたりが顔をあわせた瞬間、彼らの脳裏によみがえったのはやはり奈綺の清々とした姿である。ふたりは無言のまま、わずか見つめあった。お互い、何ともいえぬ感慨があった。
「しばらくぶりだな」
支岐である。やや眼元が穏やかになり、確かに街住みの薬師以外の何ものにも見えない。この男は元来争いごとを好まないのだったな――と、斂は懐かしく思いかえした。口の悪いあの奈綺は、人間臭いこの男のことを、さんざけなしていたものである。
「とりあえず中へお入りなさいよ」
女の声に、斂はおとなしく従った。しずかな室内に通され、腰をおろした彼に熱い茶がふるまわれる。女は彩《さい》と名乗った。
(なるほど)
舜帝に惚れて異国へ嫁した、柳の間諜か。想像していたよりも賢そうな顔をしている、と斂は思った。
(男に溺れたただの阿呆かと思っていたが)
まるで牽制するかのように、支岐が切り出した。
「斂。もうおまえには分かっているだろう」
「…………」
「舜も傾きはじめている」
俺たちが知っている祖国ではなくなってきているのさ。支岐はそうつぶやいて、自嘲ぎみに唇の端をあげた。
「生き易くなるか、生き難くなるか――わたしたち次第というところかな」
斂のことばに、支岐も彩もさっぱりとした表情でうなずきをよこす。彼らもまた、すでに思いきっているのである。これから先のおのれの生き道について、新たに腹をくくっている顔であった。
本題に入らねば、と斂は居ずまいをただした。元来、礼儀ただしい男である。奈綺のことも、生涯呼び捨てにはしなかった。
「おまえが来たのは……秋沙のことだろう」
「…………」
支岐は吐き棄てるように言った。
「秋沙は死んだんだ」
「それも耳には入ってきています。しかし朱綺さまも病に臥せているありさま――陛下は、人材を欲しておられる」
いまの舜に、秋沙に匹敵するだけの人材などいるものか。そんな人間がいれば、むしろ我が国が欲しい。支岐はなかば呆れたように、またなかば嘆くようにつぶやいた。
(確かに支岐の言うこともわかるが)
「秋沙は……崖から落ちて死んだとか」
「ああ。我々『風の者』の師が見届けた」
心中しようとする母子がいた。母親のほうは引きとどめたが、はずみで赤ん坊が宙に舞い――それを庇って秋沙は崖に飛び込んだのだという。
そんなくだらぬことで、と斂は思わず瞠目した。母奈綺と同じように、何の躊躇いもなく殺しをできる娘であったが、母奈綺よりもはるかに優しい一面を持つ娘でもあった。母に愛されたいがために、己の優しさを押し殺して育ってきたといってもいい。
「遺髪ぞ」
支岐が、ふところから白い布包みを取りだしてみせる。奈綺よりもやや黒々とした、柔らかな髪。見覚えのある髪を、斂は黙ったまま見つめた。幾度かは、この手で撫でたことのある髪であった。
あのころは良かったと、そう思わずにはおれぬ。
(奈綺という存在が、どれほど俺の心を熱くしてくれたことか)
――このぬるい世界で。
奈綺の死後、それでも光はあった。秋沙と朱綺というふたつの風があった。このふたつを喪えば、いったいどうなってしまうのか。斂の心に、かすかな不安が芽生えていた。どす黒い、厭な不安であった。
◆ ◆ ◆
「……父上、申し訳もございませぬ……」
肉親の情があっての見舞いではなかった。息子はそれを重々承知していながら、父帝にむけて詫びた。おのれが臥していることへの詫びである。奈綺を母にもち柳帝を父にもつ子であったから、おのれの存在価値はどこにあるのか、幼いころから厭というほど訓《おし》えられてきた。今のおのれに価値はない、という切ない自覚がある。賢明だが、哀れな息子であった。
「そんなに簡単に死ぬと思うか」
「……は?」
「秋沙のことよ。あの女の血をひく娘が、崖から堕ちたくらいで簡単に死ぬと思うか」
「…………」
柳帝は、奇跡を信じる男ではない。むろん、“こうであればいいのに”“こうであれば良かったのに”という希望に泣きすがる男でもなかった。ともかく起きた事実を、どこまでも冷然と、また平然と受け止めるはずの男であった父帝が、いま妙なことを言いだしている。朱綺は、じっと父を見つめた。
「わたしは秋沙を信じているわけではない」
ゆっくりと柳帝は水差しの水を器に注いだ。苦々しげな美貌が、さらに美しく見える。
「だが、あれを産み落とした奈綺のことは信じている」
崖から落ちて死ぬなど――万が一、そんな情けない子を産み落としていたのだとしたら、わたしは奈綺を許さぬ。
柳帝は、吐き棄てるようにしてつぶやいた。奈綺の娘であれば、いや、奈綺とわたしの娘であれば死ぬはずがないのだ。
(死ぬはずがないのだ。あの女の娘が)
「……盲信と思うか」
最後のそれは、息子に問いかけているようにも聞こえた。己自身に問いかけているようにも聞こえた。
「いえ……」
「正念場といえような」
しかし秋沙がいたとしても、それは奈綺の代わりにすぎぬ。やはりわたしにとって唯一無二の女というのは――奈綺しかいなかった。
(わたしも愚かなことよ)
臥せた息子にもはや言葉をかけることもなく、柳帝は静かに水を飲み干した。
皇帝の深緑の双眸が、暗く炯々と耀いている。
【邂逅】
後を尾けてくる気配を、斂はさきほどから感じつづけていた。それでも気付かぬふりで黙って歩いた。彼が感じているのが、隠そうと思っても滲みでる未熟さゆえの気配ではなく、こちらに存在を気付かせるための故意の気配だったからである。
舜と、その南東に位置する杞。両国境に聳えたつ桂山《けいざん》の中腹であった。神山である。猟師も旅人も軍兵も、この神山という類の山のなかには一歩たりとも踏み入ることはかなわぬ。間諜の多くもまた神を畏れて立ち入ることが少ない。斂は街はずれから気配に気付いており、それを導くようにして桂山へ向かったのであった。
(似ている)
と、斂は思った。いっさい後ろをふりむいていないが――たといふりむいたとしても、気配の主は姿を見せていないだろうけれども――似ている、と思った。気配は清らかというよりは涼やかといったほうが良い。湿っぽさもないが、ぬくもりもなかった。
奈綺の気配に似ていた。この世で、奈綺の血をひきながら間諜として育ったのは娘の秋沙しか居らぬ。だからこのとき、確かにおのれの後ろを尾けてくる気配の主は秋沙であると斂は確信していたのであった。死んだといいながら、実は秋沙は生きている。なんらかの事情で姿を見せずに、死んだふりをしているのだ――とすれば、これほど斂や柳帝を納得させる事実はない。秋沙が死んだと、いまだに信じていない斂である。
(秋沙、やはり生きていたか)
神さびた空気に包まれ、木々はかすかに寒気を放っている。これほど事態が急転するとは思っていなかった――秋沙に代わる人材を探すためにどれほど彷徨わねばならぬのかと絶望に近いものを抱いていた斂であった。逸る気持ちを抑えることができず、おもむろに斂は足をとめた。
「姿を」
斂がそう言うよりはやく、すたんと何かが彼の前にまわりこんだ。斂は、絶句した。
――この男がこれほどまでに驚愕の表情を浮かべたのは。この男がこれほどまでに動揺したのは、生涯でこのときただ一度だったと言ってよいだろう。
頭のなかでは、眼前に立つ女が秋沙だとわかっていた。しかし斂は言葉を失ったまま立ち尽くした。
「………………」
澄んだ瞳に、感情はなかった。やや愉しそうに歪んだ双眸は、それでも見たものがひやりとするほどの冷涼さを含んでいる。鼻梁はすっと高く、けっして黒くはない肌に美しい影をつくった。
心底驚いた斂を、彼女は小さな笑みを浮かべて見つめた。背丈は斂のほうが高い。だから実際のところは彼女が斂を見上げているのであったが、どうにも彼は見下ろされているような感覚にとらわれてしかたなかった。女のそれは、柔らかく優しい微笑みではない。どことなくひとを小ばかにしたような、やや尊大な嗤いである。だがそれが、あまりにも似つかわしかった。そのすべてが、瓜ふたつなのであった。秋沙に似ているのではなかった。
「……奈綺嬢……」
奈綺に、似ているのであった。
(……いや違う)
似ているのではない、奈綺そのものなのであった。奈綺そのひとなのであった。斂は、奈綺の首をその手でとった男である。だからこそなおさら、彼はもはや身動きすることすらかなわずに立ち尽くした。これは奈綺ではない、と分かっている。これは秋沙なのだろう、とも思っている。秋沙をおいてほかに、奈綺になりきれる人間などいようはずもない。しかし眼前に立っているその女の、容貌も気配もしぐさも、すべてが奈綺そのものなのである。
立ち尽くす以外に、すべがない。
「斂」
さらに斂は茫然とした。声までが、奈綺である。堂々とした声色、心地よく耳に沈んでゆく柔らかで冷たいそれまでもが。
「これは奇跡だ。とっくりと目に灼きつけておおきよ」
「な……」
妙だ、と斂は女を見つめながら思った。女を妙だと思ったのではない。妙だと思わせる隙もなく、あまりにも自然なかたちで彼女は確かに“奈綺”であった。妙だなと思ったのは、おのれの胸にこみあげてきた気持ちに対してである。切なさが、激流のように胸のなかを押し流れたからであった。
「待て、秋沙か」
かろうじて斂は問うた。女はにやりと不遜な笑みを浮かべて、彼を一瞥した。何を馬鹿げたことを、と彼女の双眸が言っている。
「わたしの娘は、死んだ」
これは奈綺のふりをした秋沙だ、と斂は思った。これは秋沙だと思っているにも関わらず、心のどこかでは彼女を奈綺として見ているおのれがいた。それほどに、この女が“奈綺”でありすぎる。
「斂よ」
これもまた、懐かしい呼び方であった。生前の奈綺はしばしば、斂よ、という呼びかけかたをした。
「おまえ、わたしが何にみえる」
「……奈綺嬢」
わたしは阿呆だ、と斂は思った。惚けているおのれがひどく恨めしい。まるで餌を見せられた獣がふらふらと引き寄せられるように、あるいは病持ちの老人のように、斂はぼんやりと答えた。
「なぜわたしが奈綺に見えるか、分かるか」
「………………」
唇が渇いている。確かに奈綺そのひとだと思うものを眼前にしながら、心のなかでは死んだ奈綺に呼びかけていた。
(奈綺よ。これはいったい……)
ただ茫然と立ち尽くす斂に、女は清爽とした冷たい薄笑みを向けた。
「まぎれもない、わたしが奈綺であるからさ」
◇ ◇ ◇
こうして言葉を交わしているのが、不思議な心もちであった。神山である桂山の奥深く、山の嵐気よりもさらに冷え冷えとした空気に満たされた洞窟に導かれていた。
入りぐち近くは、長身の斂がよほど身を屈めなければ通れないほど狭い。ぱっと見たところ、入りぐちから男が大またで五歩ほど歩けば岩壁に突き当たってしまう。しかしその奥に、上へ向かって伸びる黒々とした穴があった。湧き水のせいであろう、ぬらぬらと光るそこを足場に、女はいとも容易に上へ上へと向かって跳躍した。
斂の体躯では、その細い穴へ体を入れること自体が困難であったが、左腕の肩をはずせばかろうじて滑りこむことができた。あとは彼もまた軽々と、女に続いた。
「ほう」
大きな跳躍をみたびほど繰り返して滑りこんだところに、板敷きのように大きく広い真ったいらな岩が横たわっている。そこに女がひとり臥せられるだけの小さな獣皮が敷いてあった。なるほどここが、彼女の住処であるのだとすぐに知れた。
(このようなところで……)
女が無造作に屈みこみ、小さな灯り皿に灯をいれた。
「嬢」
なんだ、というふうな瞳で女が斂に視線を寄こす。なんだ、と声に出して問い返さないところも、やはり奈綺であった。ふたたび斂は、こみあげてきた切なさに違和感を覚えた。はて、なぜこのような切なさが胸に去来するのか。
「なぜわたしを尾けてきた」
「………………」
「あれほどあからさまに追うて来れば、何か訳ありだとすぐに知れよう」
ぺろりと水差しの嘴を舐める横顔が、なにかこの世でたったひとつ定められた約束ごとのように美しい。ひと舐めしてから、女は一気に水を飲み干した。白く細い喉が、二度三度なまめかしく動く。どこで揃えたのか知れぬみすぼらしい卓子《つくえ》のうえに、彼女は水差しを投げるように置いて、濡れた唇を手の甲でぐいとぬぐった。
「使える人間を探していたのさ」
「…………」
「支岐は使えぬ。おまえも分かっているだろうに」
やや支岐を哀れに思いながら、斂は黙って女を見据えた。
「わたしの主君は舜帝陛下ただおひとりだったが」
もう崩御なされた――今上帝の治める舜は、もはや立ちゆかぬ。あげく柳まで傾くなど、と彼女は吐き棄てるように言った。
「奈綺嬢、あなたは」
言ってしまって、斂は思わず瞠目した。にやり、と女が唇の端をあげたのが分かった。
「嬢。あなたも知っているのだな、柳の現状を」
飢饉、新興国家との攻防、蒼河の氾濫、大雪。そうしてたったひとりの皇太子の病。
持ちなおすのだ、と斂は心のなかで激しくおのれを叱咤した。
(人材を探せ、と。それが陛下の命ぞ)
それが実は生きていた秋沙であろうが、奈綺のふりをした秋沙であろうが、奈綺になりきったまったくの見知らぬ者であろうが、それが柳にとって吉となる人材であればそれでかまわぬはずだ――斂はひとつ、静かに息を吐いた。
「わたしは奈綺ぞ。頭に叩きこんでおくことだ。わたしは奈綺であって、それ以外のなにものでもない」
彼女の声には、底冷えのするような霊力にも似たものがある。これもまた懐かしい、と思いながら斂は静かに女の次の言葉を待った。
「斂。わたしは敗れるということを知らぬ」
「…………」
よく知っている。奈綺という女は、確かにそうであった。
「斂」
ふんと鼻で小さく嗤って、彼女は柔らかく冷たい声色でこう言った。
「わたしが柳帝のもとへ行く」
――奈綺。
この女は秋沙ではない。確かに奈綺である、と斂は慄いた。確かに秋沙は死んだのだ、とこのとき斂は確信した。
【風霊】
――胸に去来する切なさ。
なぜこんなにも切ない心持ちになるのか、斂はすぐに気づいた。この“奈綺”そのものである女が、間違いなく秋沙であると心で知っているからなのであった。母を慕うあまりにおのれを殺した秋沙の哀れが、知らぬ間に斂の胸をうっているのであった。
◇ ◇ ◇
「あれは」
柳帝の驚愕の声色を、斂は不思議な心持ちでもって聞いた。声が揺れていたわけでもない、荒らいでいたわけでもない。しかし柳帝がそれほどに驚愕しているところを、斂は確かにはじめて目にした。むりもない、と彼は思った。
(間諜である俺でさえも、おのれの業を忘れて立ち尽くした)
「あれは秋沙だな」
(そうなのだ)
「…………」
「しかし、奈綺以外のなにものでもない」
(そう、それでいながら奈綺以外のなにものでもない)
あれは奈綺だ、と柳帝は低くつぶやいた。めったに心うちの言葉を声に出すことのない男である――特にひとのいるところでは。こうしておのれに言い聞かせるようにつぶやいているのが、彼が確かに動揺している証であろう。
ゆっくりと柳帝は丸窓を開けた。秋風が、涼やかにふたりの男の髪をなぶってゆく。夏のぬくみはもうない。秋が来ればあとはもうはやく、数日のうちに白山《はくさん》も初雪をかぶるに違いなかった。
歳を重ねても美しい男だ、と斂はなかば感心の思いで彼を見た。たしかに奈綺と並んでいるのがもっともよく似合う――いや、奈綺しか彼の傍らには立てぬといったほうが良いのか。
「斂。国は傾いている」
何を意図しての問いか、斂には分からぬ。分からぬが、国が傾いているのは事実であるので、彼は静かにうなずいてみせた。ふたたび口を閉ざした柳帝を、斂はひっそりと見つめている。見つめられていることを承知で、柳帝は黙って外を眺めているらしかった。
歳四十に近いとは、とうてい思えぬ。高い鼻梁が、長い睫毛が、きらきらと外光にふちどられながら彼の美貌に陰影をつくっている。冷え冷えとした双眸も、酷薄そうな美しい唇も、そのまま彼の性格をあらわしているようであった。生かさざるものと判断すれば、瞬時のうちに手をくだす。情をかけることも、とりたてて女を寵愛することもない、まさに急峻白山のごとき男であった。
「…………」
何かを言おうとして、柳帝はしかし言葉をのみこんだ。これもめずらしいことである。言いよどんだり、思い迷ったりする男でないのを斂はよく知っていた。奈綺によく似た性質を、柳帝は持っている。
「退がれ」
黙って斂は拱手した。柳帝が、言いたいことを言わぬまま退室を命じたのであった。なるほどこの男もまた動揺と懐古のなかで、ひどく迷っているのかもしれぬ。静かに斂は室《へや》を出る。
柳帝の頬にたったひとすじだけ涙が伝ったことは、だから誰も知らなかった。それがいったい何の涙であったのかも――誰も知らぬ。
◇ ◇ ◇
――ははうえ。
――ははうえ。
――母上、どうかわたしのことを見てくださいませ。
母の夢をみていた。“夢のなかの母は優しい”、とでもいいたいところだったが、母は夢のなかでも冷たく冴え冴えとしていて、厳しかった。母上、母上、と、いったい幾度心のなかで呼びかけたか――答える声などないと知っていながら。
暖かく慈愛に満ちたまなざしをよこされたことなど、一度たりともなかった。生涯『風の者』として在りつづけた奈綺を、それでも彼女が母と慕いつづけ、けっして嫌い疎むことがなかったのは、たしかに彼女が聡明であったからでもある。この女のなかには、たしかに母から受け継いだ濃い『風の者』の血が流れていた。そうして母にはなかった、ひととしての優しさもまた。
「……秋沙」
閖《ゆり》が、そっと彼女の髪を撫でた。幼いころに舜に捨てられて『風の者』となった、優しげな青年である。本来の名はユウリといったらしいが、幼い子供には“ゆり”としか発音できずに、師が“閖”と名づけたのだといった。生まれは舜国外である。
九つのころには互いに親しみを感じ、十二のころには愛おしみを感じていた。
『風の者』の師は、『風の者』どうしが恋におちることを禁じてはいない。それが絆となって、途方もない力を発揮することがあるからである。ただしその恋が終わりを迎えたときには、あるいは痴情のもつれが生じたときには、ふたりとも殺される。
「秋沙」
閖と秋沙は――とくに奈綺の死後は、まるでふたりでひとつ、とでもいうかのようにして日々を暮らしていた。閖がひとりでいられなかったというわけでもなく、秋沙がひとりでいられなかったというわけでもない。ただふたりでいると、お互いがお互いの思うように駆け、戦い、眠ることができたのであった。
秋沙は、ひとの温もりを知った。愛情を知った。母がくれなかったものであった。彼女はそれを、美しく大切なものだと思った――奈綺と異なるのは、こういうところである。
奈綺という女は、ひとの温もりも愛情も、何ひとつ意に介せぬ人間であった。孤高のひとである。
「閖……」
秋沙は賢い。だから、母がいったい何にすべてを懸け、何を思い、何に生きたかを心と体で知った。
閖のことは愛おしい。異性として誰を愛すかと問われれば、閖と答える。しかし、おのれにとって何がもっとも大切かと問われれば、それは閖ではない。生涯を何に懸けるかと問われれば、それは閖ではない。秋沙は、母からの最期の訓えを忘れてはいなかった。
――おのれを信じ、おのれを頼り、けしておのれを疑うな。
彼女は、その生涯けして母の言葉を忘れることはなかった。どれほど危うい目に立ち遭っても、どれほど苦しい波乱に身を投げようとも、常に奈綺の言葉が彼女を生かした。
――成すか成さぬかで迷えば、必ずし損ねる。成すと決めたことを、どう巧みに成し遂げるかだけに頭を使え。
その言葉を受けたとき、思わず涙が出そうであったのを秋沙は昨日のことのように覚えている。おまえは『風の者』だ。風のように駆け、風のように戦い、風のように生く、おまえは『風の者』だ。けして誇りを失うな。たとえ化け物といわれても、けして怯むな。国を護り、戦い、主君に尽くす、それがおまえの存在価値ぞ。
(わたしは)
あの言葉が、まさに母の遺言であったのだ。何があろうとも、どれほどの苦難に遭おうとも、あの母の遺言にしたがうと秋沙は決めた。
(わたしは、母上。母上に代わって陛下に尽くします)
あの懐かしく、誇らしく、美しく、そうして誰よりも冷たかった母。いつかどこかでふたたびめぐり逢うことがあれば、そのときはどうか優しい瞳で――よくやった、と一言だけでも。
柳を護らねばならぬ。そうして奈綺がそうだったように、柳帝の片腕となって彼を援けねばならぬ。
(わたしの役目はとうに決められていた)
そうして自然、閖とともに過ごす時間は減った。わたしが“奈綺”になる。そう決めたときに、秋沙の命はもう終わったのである。崖から飛びおりたのも、それがちょうど良いきっかけになると咄嗟に考えたからであった。
ともにいたのは師ひとりである。身も心も知り尽くした、まさに育ての親である。かりに自分が姿を消したとしても、あの師ならば察してくれるだろう。
おまえはとうとう奈綺になったか、と。必ずそう言ってくれるだろう。そしてきっと、閖も。
わたしはすでに、死んだ。
「秋沙」
それでも閖は、彼女のことを秋沙と呼んだ。住処としている洞窟の岩場へ帰ると、閖が寝転がっていることがある。そういうときに、彼女は少なからず切なさに胸をいためた。
秋沙と呼びかけてくれる愛おしい男への申し訳なさでもあり、また訣別した秋沙という人間へのほんのかすかな未練でもあった。この申し訳なさや未練が、ひとたび“奈綺”として立ち動いたときにはいっさい外に見えてこない。それはまさに、奈綺の血をひいた彼女であるからこそ出来る、おのれを抑えるすべなのである。
閖は穏やかに秋沙を抱きしめた。
「いつ、発つ」
柔らかく優しい声色をしている。秋沙は抱きしめてくる男の温かみを体じゅうに感じながら、母によく似た瞳をそっと閉じた。
「夜明け前には」
「また、寂しくなる」
閖は彼女の髪を撫でた。ゆっくりと開けた秋沙の双眸、彼女を見つめる男の視線、互いに絡みあうそれは柔らかく慈愛に満ちている。奈綺には――あるいは柳帝には、けっしてなかった情の濃さであった。
秋沙はひとつ、深く息をした。そうしておのれの体を、静かに男から離した。温もりが消えていくと同時に、“奈綺”がひたひたと体じゅうを満たしてゆくのが分かる。
奈綺が聞けば、嘲笑うであろう事実であった――秋沙は、閖を愛している。平穏な時代であれば、あるいは奈綺の娘でなければ、『風の者』でなければ、この優しく雄々しい青年と抱きあい、慈しみあい、そうして彼とのあいだにたくさんの子を生したかもしれぬ。
「秋沙、無事で」
秋沙、無事で。
閖、無事で。
優しいものどうしであった。しかしこの時代に、いや間諜に優しさは無用である。生きてゆけぬ。
◇ ◇ ◇
斂は、ひやりとした。まさにこれが奈綺を正妃とした男だ、と思ったのであった。
――あの女に、俺の子を産ませるぞ。
柳帝は、たしかに彼女がおのれの実娘であると理解していたはずであった。なにを言い出したか、と斂は思わず美しい皇帝を凝視した。この時代、近親相姦は禁忌である。同族どうしで交わる国もあるにはあったが、それでも大陸内のそのような国はない。斂であるからこそそれほど驚愕の表情を出すこともなかったが、これが常人であれば顔色を失って動転するような、それほどの大事であった。
「……陛下」
かすかに声が震えているのを感じていた。
「なんだ」
「…………御子を、とは」
「奈綺に俺の子を産ませると言った」
さらりと柳帝は故妃の名を口にした。気が狂っているわけではない。それが分かるだけに、斂は身も凍るような思いがした。近親相姦が怖ろしいのではなかった。実娘と知っていてなお、彼女におのれの子を産ませようと考える柳帝に小さな畏怖を感じたのであった。
「あれが奈綺になりかわるなら、話は早い。おまえもあれを奈綺として接すれば良いわ――ありがたいことに、容姿も顔つきも物言いもすべて完璧に奈綺に倣っている」
奈綺そのものぞ、と柳帝はいつもと変わらぬ不敵な笑みを唇に湛えた。
「斂」
斂は震えるような思いで、しかし心から冷え冷えと引き締まる思いで、柳帝を見つめた。怖ろしいとも感じながら、その一方でこれならばゆける、とも思ったのである。
「柳は潰れずにすむぞ」
――秋沙。奈綺と柳帝のあいだに産まれた娘にしては、優しさに溢れた子どもであった。一度たりとも慈しみの手で撫でてくれることのなかった母を、慕いつづけた子どもであった。
父帝とは、数えるほどしか顔をあわせたことがない。父もまた、母によく似たひとであった。国の役に立たぬならば死ね、とおしえた両親であった。
斂は瞠目した。切なさが、奔流のように胸をかけめぐった。
(哀れな)
なんと哀れな。
慈しまれることも、愛しまれることもなく、『風の者』としての業を骨の髄まで叩きこまれてきた。母であり師であった奈綺を理解するあまり、そうして彼女を慕うあまり、おのれを殺して“奈綺”となることを選んだ。
そうして今度は、愛を与えてくれることのなかった父とのあいだに、子を生す。
――哀れな。
(……奈綺嬢)
あなたはおのれの娘がこれほどにも苛酷な道を歩むなどと、予想していたか。
【悲しき凍土】
――白山に、初雪が降る。
柳はこれから、長々しい冬を迎える。いまの国力では戦もできぬ――柳帝は穏やかな外交に力を尽くし、この平穏な時代のうちに国力を蓄えようとしていた。
「酒を」
柳帝のことばに、奈綺は酒器を手にとり果実酒を注いだ。そうして、まるで物乞いに飲みものを恵んでやるかのような風情で酒器を柳帝に手渡す。
(……よほど母が恋しかったか)
秋沙が母と過ごした時間は少ない。母は、母でありながら母でなかった。女とも男ともいえぬ、人間ともいえぬ、『風の者』という誇りかな名の生きものであった。ともに過ごしたほんのわずかな時間に、しかし娘は母のすべてを眼裏に灼きつけていたのであった。
(みごとだ。奈綺――おまえの再来ではないか)
柳帝は、むしろ『風の者』である斂よりも冷静である。娘を“奈綺”と呼びながら、それでいて秋沙の様子をじっと見ていた。その視線に愛情はない。
「奈綺。俺の子を産め」
柳帝はやはり柳帝である。躊躇いもなく、ばっさりと切って捨てるかのようにそう言った。
「……朱綺はやはり、役に立たぬか」
言われた女も女であった。皇帝の言葉に動じる様子もなく、感情のない声色で答えを返す。
「立たぬ。あれでは玉座につくことなど出来んな」
回復の見込みがない。
頭脳は明晰であり、すべての武術に長け、人望もある――次代の皇帝としては申し分のない朱綺であった。どれほど玉座につけたくとも、難病に寝込むようでは使いものにならぬ。柳帝はすでに、おのれの息子を見限っていた。
「欲しい。俺の跡を継ぐことのできる嫡子が」
奈綺はゆっくりと丸窓の外に視線をやった。冷え冷えとした冬の世界に恋焦がれているような、そんな双眸の色であった。
「子を産むまえに、行かねばならないところがある」
「……ふん」
舜か、と柳帝は鼻で嗤った。やはりこの女の血は舜を捨てきれぬのか――しかしともかく、子を孕んでから動いていたのでは手遅れになるような事々は多い。
「舜帝に会いにゆくか」
「杞妃の器量を見極めにゆく。舜帝陛下の器量がそれに劣るようであらば……」
そこで奈綺はようやく、窓の外から柳帝へと視線を戻した。
「劣るようならば?」
「劣るようならば、それは悲しきこと。弑したてまつる」
(……ほう)
舜国も傾いている。先代の皇帝はたしかに類稀な賢帝であった。彼が賢帝であったからこそ、最強ともうたわれる『風の者』が集ったのだともいえよう。彼らが主君を見限ることは生涯なかった。奈綺が柳帝に嫁してきたのも、すべて舜帝の思惑どおりである。
“弑したてまつる”――こともなげに禍言を口にできるところも、やはり奈綺の再来であると柳帝は思わず感心した。何度見ても、どれほどじっくり見つめてみても、奈綺そのものなのであった。
「なるほど。それも愉快なことよな」
乾いた音をたてて、柳帝は酒器を卓子のうえに投げるように置いた。
「おまえの裁量にまかせよう。ゆけ」
けっして、奈綺は柳帝に拱手することはない。喉を鳴らすような、ひとを小ばかにしたような独特の嗤いかたをして、彼女は美しい双眸をゆがめた。そうして言った。
「柳はふたたび栄える。断言してやるさ」
◇ ◇ ◇
奈綺が舜都の街なかに入ったのは、白山に初雪が降ってから三日後のことである。街なかのどこに誰がどんな店をかまえ、どこにどんな人間が住んでいるのか、熟知していた。むろん、あの薬師支岐が先帝妃とともに暮らしていることも知っている。
呉服屋の大きな柱に寄りかかったまま、奈綺はしばらく舜の宮城を見上げていた。呉服屋から宮城を正面にみて右手のほうに、薬屋がある。支岐の住居であった。
(……舜帝陛下)
奈綺にとって、舜帝は揺らぐことのない唯一の主君である。しかし彼女の主君はあくまで先代皇帝であり、今上帝ではない。仕うるに値せぬならば、見限る。
(あなたを弑せずにすむことを祈るが)
わたしが仕うるべきは柳である――実はこれが、秋沙の唯一の自我であった。おまえの主君は舜帝と柳帝のふたりであると心得よ、そう言いのこした母の言葉を忘れたわけではない。
ただすべて奈綺になりかわって生きると決めた強い意志のなかで、これだけがたったひとつ淡く耀く秋沙の証なのであった。
「……さて」
柱から背を離し、奈綺は薬屋の店先へ立った。
「いらっしゃ……」
「主人はいるか」
「………………な」
店先で慌ただしく立ち働いていた女は、奈綺の姿を見た瞬間に言葉を失い立ち尽くした。予想していた反応である――奈綺はいつもとおなじ、双眸を軽くゆがめるようなふうにして鼻で嗤った。
「な」
「落ちぶれたものだな、彩妃。あんたも主君を見限ったか」
「………………」
「それとも先帝の妃は邪魔だと、宮中から逐《お》われたかな」
あがらせてもらうよ、と女は無遠慮に店のなかへ足を踏み入れる。それを阻むすべも理由もなく、彩はおのれの唇が渇いているのを悔しく思いながら闖入者のあとを追った。
「主人はいま宮中にあがっているわ、御薬を持ってね」
そう告げるのが精一杯であった。
死んだ人間が生きかえった――死んだはずの秋沙が生きかえった、というのではなく、死んだはずの奈綺が生きかえった――と、例に洩れず彩も思った。霊魂や思念の存在は、この時代まことしやかに信じられていたから、けっしてこれは愚かと一言で片づけられることではない。
ごくり、と彩はつばを飲みこんだ。
「……な……奈綺……」
「なにをそんなに驚くことが」
店奥の板敷きの間に、奈綺は音もたてずに腰をおろした。あたりの空気をいっさい動かすことなく、ひとつひとつの仕草が流れるように進んでゆく。外見はまさに都の街娘姿で、にこりと微笑めば枯れた花も返り咲く――そんな可憐さである。
しかし、双眸は冷たい。心の底で何を考えているか知れぬ、深々とした感情のない瞳。
「死んだはずでは……」
「わたしは死なぬ。現にこうして、生きている」
「……あい」
秋沙なのでしょう、と言いかけた彩の渇いた唇を、奈綺の人差し指がぴたりとおさえた。まるで死人のような指先の冷たさに、彩は畏れを感じた。
「わたしはまず、柳を再興せねばならないのさ。舜帝陛下に、へたに動かれてはいささか困る」
あなたたちに協力を願いにきたのだ、とはけっして言わぬ。たしかにそういう女であった、と彩は緊張と驚愕の狭間で思わず苦笑した。
「杞妃。器の大きな女かな」
「あれは……」
この女は奈綺ではない、おそらく何らかの事情で生き延びていた秋沙にちがいない――頭でそう理解していながら、彩の口ぶりはかつて奈綺と語りあっていたときと同じものになっている。語りあった、という言いかたには語弊があるか。
「杞妃は、賢い。いままで見てきたどの妃とも……異なる」
「支岐が薬をたてまつりに宮中へあがっていると言ったな」
この女は舜宮中へ入りこむつもりだ、と彩は察した。
「……わかった。真実を見極めてくるといい。もうすぐ支岐が帰ってくる――話をしましょう」
その日、奈綺の姿を目のあたりにした支岐は寝るまで口をきかなかった。寝るまえに彩が彼の額に手をやってみると、みごとに熱を出しているのであった。あまりにも驚いたせいでしょうよ、と彩が囁いた。
「……よくそれで」
『風の者』としてはたらけたものだな、と奈綺が言うと、あからさまに目を逸らして寝台へもぐりこんだ。
(いつまでも変わらぬ男)
どこまでも人間らしい男であった。薬屋に姿をかえてから、その傾向が顕著にあらわれている。この男こそ、争乱の時代に生まれねばよかったのだ――軽蔑するでもなく、哀れむでもなく、ふくらんだ布団を奈綺はじっと見つめた。
◇ ◇ ◇
争乱の時代に――激動の時代に生まれねばよかったのだ。
この時代に生まれていなければ、実父の子を腹に宿すことなどきっとなかった。
【対峙】
山の嵐気が、大地をつたって街なかに這いおりてきている気がする。その寒い靄のなかを通って、奈綺は支岐に従い宮中へ入った。昨夜宮中から帰ってきた支岐が、奈綺が采女《うねめ》として宮廷へ入ることが許されたという旨を伝えたからであった。
「…………」
「まだ動揺しているのか」
「…………」
着飾った奈綺をまえに、支岐はいっさい口を開こうとしない。采女をまとめる女官長がこちらへ歩いてくるのを認めて、奈綺もまた口をつぐんだ。
「わたくしが女官長の申《しん》でございます。あなたが秋沙ですね、どうぞ陛下に末永くお仕えくださいますよう」
「舜帝陛下に幸多からんことをお祈り申しあげまして、末永くお仕え申しあげます」
(先手をうったな、この男)
すでに支岐が“秋沙”の名を伝えてあったことを知り、奈綺は心のなかで苦笑した。なるほど、この男ばかりはわたしが奈綺であることを許さぬらしい――おまえは奈綺ではなく秋沙なのだ、と釘をさすつもりか。よほど奈綺の存在は、彼にとって大きかったのであろう。
型どおりの挨拶をすませ、支岐が退室してゆく。すれ違いざまに一瞬ぶつかった彼の視線は動揺していたが、その奥にはたしかに、奈綺を――新しい奈綺を拒む色があった。おまえは秋沙だ。彼の双眸が、声もなくそう叫んでいる。
「今夜の夜伽はあなたですから、粗相のないように」
「はい」
胸もとから豪奢に垂れる結び紐は、すぐに解けるようにゆるめてある。白い肌には仄やかに香油を散らし、薄桃色の襲《おすい》を羽織った姿は美しい。
「さ、お行きなさい」
黒々とした夜闇のなかで、ところどころに灯された篝火がうっすら廊を照らしだしている。懐かしい光景だ、と奈綺はゆるく目を細めた。長々と続く廊を幾まがりもし、そうして石造りの荘重な広間を経て皇帝の寝室へたどりつく。
「………………」
聳えたつような両開きの扉のまえで、奈綺はひととき瞠目した。扉がゆっくりと開けられ、申が新しい采女を夜伽に参閨させた旨を述べた。入れ、と声がかかる。
(…………)
若々しく張りのある声であった。奈綺の双眸が、ちかりと耀いた。申が音もなく退室した気配に、奈綺は黙ってその場で拱手する。皇帝の言があるまで、拱手したまま身動きをしてはならぬ。
「名は」
「秋沙と申します」
「こちらへ」
そろりと歩み寄った奈綺に、面をあげよ、と声がかかる。顔をあげた奈綺の双眸に、初めて見る舜国皇帝の容貌が鮮やかに映りこんだ。
(似ている)
先代皇帝を、奈綺はよく知っている。あの崇高な――優しく気高い美貌に、よく似ていた。しかし美貌は似ているものの、双眸はうっすら濁っている。酒が入っているらしかった。
「歳は」
「十七になります」
そうか、と皇帝は鼻を鳴らした。彼の身をまとう大人びた空気は、父親から受け継いだものであろう。女に溺れ惑わされ、国を傾けた愚帝――というには、あまりにも涼々とした空気である。噂と違うではないか、と奈綺は心中で嘆息した。これは容易に色で丸めこめる類の男ではない。
「脱げ」
「…………」
やや小首をかしげるようにして、奈綺は猫のように皇帝の双眸を見上げた。揶揄するような、あるいは愉しんでいるような色が浮かんでいる。しかしその瞳の奥は、どうも笑っていない。
(ふん……この男)
皇帝を見上げたのも束の間、奈綺はあっさりと動じるふうもなく胸もとの紐を解いた。もとからゆるく羽織っていただけの襲は、かすかな音をたてて床へ滑りおちる。美しくしなやかな裸体に息をのむわけでもなく、舌なめずりをするわけでもなく、男はただ双眸で嗤いながら奈綺を見据えた。
静かな沈黙が、ひととき室内を支配した。視線もまた静かに絡みあい、互いに価値を見定めているふうであった。
夜風が窓を軽く鳴らしたとき、皇帝がこちらへ来いというふうに指を軽く動かした。
「…………」
ふたりの美しい顔が近づく。さきに攻撃をしかけたのは、若き舜帝のほうであった。鋭く光る小太刀が奈綺の首筋にあてがわれ、舜帝はそっと彼女の耳にささやいたものである。
「奈綺の子だな」
奈綺の唇からは、すでに短い毒針が顔をのぞかせている。きさまの眼などいつでも潰せるのだ、と牽制しながら女は小太刀をふりはらうこともせずに舜帝を見つめた。この男が、秋沙を奈綺の子だと断じることができたのは、けっして不思議な話ではない。
生前の奈綺とこの男のあいだには、幾度かの面識がある。しかしそれはこの男が物心もつかぬ幼少のころのことであったから、彼は生前の奈綺を知るもののように戸惑うことも驚愕することもなく、奈綺となった秋沙と対峙することができた。
「さて、どうでしょうか」
「いつか来ると思っていた」
「……いつから芝居小屋の役者におなりに。巧妙な芝居ぶりではございませんか、舜帝陛下」
「心外だな、その物言いは。皇帝など、生まれたときから役者のようなものだ」
この男は、杞妃に溺れてなどいない。溺れたふりをして、あたりの国々をまとめて飲み込む機を窺っているだけだ――彼の双眸を見たときから察していた奈綺は、あらためて小さく舌打ちをした。
「俺は舜をこのままで終わらせるつもりはない。まずは杞を手はじめにいただこうと思ってな。俺は平和を好んだ父とは違う」
「…………柳に勝てると思っておいでで?」
「いま柳と戦うつもりはない。柳も舜と戦うつもりはないだろう――ただしいずれは」
奈綺の毒針が飛んだ。
(……!?)
しかし飛んだはずの毒針がなにかに弾かれた。舜帝がみずからの手で弾いたわけではない。斜め右うえから飛んできたなにかに弾かれたのだ、ということにすぐ気づいた奈綺は、瞬く間に落ちた衣を体に巻きつけた。
気配のなかったそれが、同時に舜帝と奈綺との間に飛び降りてきた。
(……なに)
「…………!」
飛びおりてきたものが小さく唇を噛んだ様子を、奈綺はその目で見た。奈綺もまた同じように、小さく唇を噛んだ。ただし唇を噛んだだけで、それ以上表情にいっさいの動きはない。いま舜帝を殺すのがもっとも手っ取り早いと奈綺はわかっていた。
(勝てぬ)
舜帝を殺すまえにおのれが死ぬだろう、と奈綺は息をひそめて黒衣に包まれた闖入者の姿を見つめた。一瞬すべての空気が息をとめ、次に風が窓をたたいたとき、奈綺は一瞬の空気のゆるみを突いて窓を体で割り、空へ飛び出した。
――唇を噛んだのには、むろん理由がある。舜帝を守護するために彼があらわれたのは、思えば当然のことであった。
(……閖)
そう遠くない未来に、あなたと戦う日がやってくる。
(…………)
夜の闇を支岐の家に向かって走りぬけながら、秋沙は小さく唇をゆがめた。
◇ ◇ ◇
支岐はじっと秋沙を見つめた。襲一枚だけを羽織ってひそやかに家へ戻ってきた彼女は、いま静かに胡坐をかいて武具の手入れをしている。昨夜、皇帝の寝室へ向かったときよりも、その双眸は冷えびえと光っていた。
「……秋沙」
返事はない。どうやら意地でもおのれが秋沙だとは認めないつもりらしい――支岐は舌打ちをした。
(奈綺は死んだ)
針に毒を塗る手つきも、小太刀を月光に透かして見つめる横顔も、すべてが奈綺そのものである。奈綺はまだ生きているのだ、と誰もに思わせるほど。しかし奈綺は間違いなく死んだのだ!! 片足を失い、そしてみずから喉を突いて死んだ。奴の名を騙ることは、どこの誰であろうと許さぬ。支岐の心は、いまだ熱い。
「奈綺」
と呼びかけたのは、彩のほうであった。女のほうが状況に馴染む力を強くもっているのか、彼女は支岐の思いなど知らぬかのようにあっさりと奈綺の名を口にした。むっとして支岐は彩を睨めつけた。
「宮中で何があったの」
「……彩妃よ」
懐かしい呼び名だ、と彩は静かに目を細める。奈綺は続けた。
「この国をどう見る」
「どう……? 悲しいかな傾いたまま止まらない。息子が愚帝になるのが正直怖ろしい――わたしの祖国ではないというのに」
彩の祖国は柳である。支岐は、口を閉ざしたままふたりの女のやりとりに耳を澄ませた。
「……安心するがいい。この国は傾いているように見えるだけだ」
「なに?」
「あの男、愚帝になることはないだろうよ」
奈綺の双眸が凍るように冷たい。彩を一瞥しながら、彼女は衣擦れの音もたてずに立ち上がった。その双眸のなかにひとを凍りつかせる冷酷さを見て、彩は絶句した。なにを見たのだ――奈綺。
「わたしは柳へ戻る」
「…………」
それから最後に、奈綺はひとこと言い捨てた。
「近いうちに、あんたたちと戦うことになる」
彩と支岐が驚愕して立ちあがったときには、もう奈綺の姿は室内になかった。
国々は、ともかくこの激動の時代を何とか生き残ろうとしてそれぞれ必死にもがいている。
【憂国の白龍】
「斂」
感情のない奈綺の声に、斂はやはり何ともいえない気持ちを抱きながらふりむいた。
「……奈綺嬢。帰ってくるのがはやいな」
「支岐から何を聞いた。舜帝について」
いつのまにか、舜帝陛下と言わなくなっている。何かあったな、と斂はかすかに眉を動かした。宮中に与えられた斂の室《へや》で、静かにふたりは対峙した。
「杞妃に溺れ惑わされ、そうして国を傾けつつある愚帝であると」
「あの男、愚かどころか……おそらく先帝にも劣らぬ頭を持ち、先帝に似ぬ気性の荒さを持っているとみた。あれは、そう遠くない未来に柳に喰いついてくる。先帝たちが築いた友誼など、あの男にとっては枷にしかならぬわ」
「…………」
斂はゆっくりと丸窓の外を一瞥した。じかに舜帝に会ってきたのか――それでこの女がこう言うのであれば、間違いない。
(おそらく嬢の言葉どおりになるだろう)
奈綺の曇りなき眼《まなこ》は、要らぬものをいっさい排除した確かな行く末を見通しているのである。昔からそうであった。舜が柳に牙を剥くと、そう奈綺がいうのならば、確かにそうなる。斂は窓の外に視線を投げたまま、唇をひき結んだ。
「急がねば」
「……嬢よ。これからあなたはどうする」
「柳帝の子を産む」
と、奈綺は何の躊躇もなく答えた。奈綺はゆっくりと嗤い、斂を見据える。
「何もわたしを哀れむことはないさ」
一瞬だけ、その双眸に秋沙の優しさが滲んだ。斂さま、斂さま――そう言いながら斂を慕っていた、あの幼いころの光である。普通なら誰も気づかないようなその光を、斂は斂であるからこそ目敏くつかまえた。
「わたしは」
(秋沙……)
「わたしは柳の栄華のために存在する、ひとつの駒にすぎない」
秋沙よ、おまえはそれでいいのか。血の繋がった実父とのあいだに子をもうけ、秋沙という人間を殺して生きてゆくのか。斂は思わず、縋りでもするかのように女を見つめた。
斂の視線を感じたのか、それとも今が秋沙に戻る最後の瞬間であると思ったのか、彼女はふいに“奈綺”という仮面をはずした。仮面というには、あまりにもおのれと同化してしまった仮面である。あまりにもそれが突然であったので、斂は一瞬言葉に詰まった。
「……秋沙」
秋沙はゆっくりと瞳で微笑んだ――確かに秋沙の双眸であった。
「斂さま」
天を仰ぎたい気持ちであった。斂は波うつ胸を抑えきれないまま、かつて憧れつづけた女が産んだ娘を見つめた。
ああ、そうだ。母に似た美貌。母よりも優しく柔らかな双眸。母よりもゆるく弧をえがく柳眉。
「これで良いのです。どうかわたしの心を酌んでくださいませ」
斂はとうとう目を逸らした。逸らさずには居られなかったのである。
この秋沙という健気な娘を殺してしまったのは、まぎれもなくおのれであり、母の奈綺であり、父の柳帝である。そんな罪悪感に苛まれたのであった。
「何が悪いというわけではないのです。わたしがこの生き方を選んだのは、斂さまのせいでもなく、母のせいでもございません」
ひとの心を読む能力はやはり、母ゆずりらしい。
「わたしはわたしなりに、母を慕いつづけているのです。柳をまもれという母の言葉に従い、母のごとく生きることができるなら、わたしはそれで良いのです」
むしろそのほうが嬉しいのです、と秋沙は言った。
――なんと悲しく、なんと切ない。
時代の流れが、まわりの人間たちが、この少女を殺してしまったといっていい。
◇ ◇ ◇
このとき、秋沙はおのれの死を予感していた。根拠はない。ただ静かに、ひたひたと近づいてくる死の足音を、聞くともなく聞いていた。
秋沙が実父柳帝の子を孕んだのは、彼女が舜から帰ってきた半年後のことである。
◇ ◇ ◇
「少し育ってきたか」
柳帝は、ゆっくりと果実酒を飲みながら窓の外へ目をやった。白山にはもちろん、地面にも雪はまだ積もっている。
「…………」
「まずは女を産め」
柳帝の意図は、よくわかっていた。女児を産み、奈綺につづく『風の者』を作りあげたいのである。
「それから男だ。ともかく男が先でも女が先でもかまわんが、ふたり欲しい」
「…………」
そして病床の朱綺にかわる嫡男を手に入れ、『風の者』として育った娘がその支えとなる――奈綺は静かに視線を戻した。ほんのわずかふくらんだように見える腹に、柳帝の美しい手が添えられたが、その手つきにこれといった愛情は感じられない。ただふくらみ具合だけを確かめるような仕草に、奈綺はかすかに嗤った。
「柳帝」
「なんだ」
一国の皇帝にむかってあるまじき物言いであったが、柳帝はけっしてそれをとがめない。ただ双眸に嘲笑めいた色をはしらせて、奈綺を見据えた。
「支岐を呼ぶ。舜で薬屋になりさがっているあの男を」
「ほう。あの男、とうとう本物の薬売りになったか」
かつて薬師《くすし》として何度も柳へやってきていた支岐である。
「あの男を呼ぶと。おまえに懸想しているあの男を」
「…………」
ふん、と鼻を鳴らして、奈綺は唇をゆがめた。このまま腹がふくらんでゆけば、むろん思うようには動けなくなる。そのときに斂と支岐がいれば力になる、と奈綺はずいぶん前から支岐を呼び寄せることを考えていた。
(……支岐を呼べば)
「柳帝よ。きっと懐かしい者もともにやってくる」
「ふん? 懐かしい者とは」
「亡き舜国先帝の正妃が。支岐とともに薬屋を切り盛りしている――舜帝とはどうやら反りがあわぬらしい」
「追い出されたか、あの女」
奈綺はそっとおのれの腹を撫でた。その優しげな手つきを柳帝は冷たい瞳で一瞥し、それから酒器を卓子のうえに置いた。器のふちにわずか残った雫が、ひたりと落ちる。
「呼ぶがいいさ。確かにおまえの腹がふくらんでしまえば、斂以外に使えるのは奴らぐらいしかいないだろう」
「舜との戦は、そう遠くない」
柳の内情を知る支岐と彩。彼らを舜に野放しにしておくわけにはゆかぬ、と奈綺はふたたび視線を外へ流した。奈綺は、阿呆の仮面をかぶった舜帝の顔を思い浮かべた。
(あの男は戦鬼になる)
勘である。女の勘ではない。『風の者』として感じうる、もっとも確かな勘であった。
あの男の野望は、大きい。大陸すべてを掌中にするまで、おそらく剥いた牙をおさめることはないだろう。
(殺さねばならぬ)
奈綺はすでに決めている。この身はもはや柳に捧げるべきものであると、腹を決めていた。舜国が敵なのではない。まことの敵は舜帝であると、奈綺は見切っている。かつて忠誠を誓った舜国先帝の息子と敵対する――そのことに対して、良心の呵責は感じない。忠誠を誓ったのはあくまで先帝であり、今上帝ではない。そういった類の割り切りがあるからこそ奈綺は、さまざまのものを切り捨て、さまざまの真実を見据えることができるのであった。
「舜帝は……もはや敵か」
柳帝は静かに問うた。すでにおのれのなかで答えを導きだしておきながら、問うのである。
「今までのように愚かで些末な敵ではない。あれは鬼になる」
「……鬼」
「柳帝よ。今まで対峙してきたなかで、もっとも手ごわいと感じた敵は誰であった」
奈綺の美貌が涼しげである。虫も殺さぬような風情で、次々と禍言を口にする。
「国内の反乱分子は」
「とるにたらぬ」
「鈷竹どもは」
「否」
早春というにしてもいまだ冷たい、凍えるような風がふたりの間を吹きぬけた。風がなぶりあげていく前髪の下で、柳帝の双眸が、奈綺の双眸が、それぞれ冷たく耀いている。
「……舜の先帝。あれだけが他の雑魚どもとは違っていたな」
「あの先帝から平穏を愛する優しさをのぞき、戦禍を厭わぬ獰猛さを足してみるといい。それが今の舜帝ぞ」
彩もいらぬ子を産んでくれたものだ、と柳帝は嘲るように吐き棄てた。窓辺から離れ、寝ろというふうに寝台を顎でしめす。あえて逆らうこともなく、かといって言葉どおりに横たわる気にもならず、奈綺は静かに寝台に腰をおろした。
「舜帝を助ける『風の者』はいるか」
「……いる」
ほんのわずかな間に、柳帝がちらりと奈綺のほうを一瞥した。このとき奈綺は、顔を伏せていた。白いおのれの手を見つめながら、閖の美しい顔を思いかえしていたのであった。
「まずそれを殺せ」
(……!)
奈綺の肩が震えたのは、一瞬のことである。顔をあげると、柳帝と視線がぶつかった。奈綺の様子をじっと見つめていたらしい、試すような視線であった。
(……しまった)
愛おしいと思う気持ちを、すでに心が知っている。何かを愛おしみ、慈しむ気持ち。奈綺が持たずに、秋沙が持ったものであった。平穏な時代であれば、確かに強みになるはずの気持ちであった。
(わたしはもう知っている)
母が持たずにいた、あるいはあえて持とうとしなかったこの気持ちが、必ずおのれを滅ぼすであろうということを。
ひとりきりになった室で、秋沙はじっと外に広がる柳の街を見つめた。
――おそらくわたしは、父に殺される。
【悲哀の序】
ゆっくりと、柳帝は窓の外に視線を投げた。
(……奈綺よ、おまえは)
なぜああも早く逝ったのだ。奴は生まれるべくして生まれ、死ぬべくして死んだ――おそらくあれで良かったにちがいない。けれども悔やまれてならぬ。あれを失ったことは、間違いなく国家にとって大きな痛手であった。小さく柳帝は舌打ちをした。正妃の死から十年経った今もなお、彼女に固執しているおのれが腹立たしい。
「陛下」
お呼びでございましょうか、と気配もなく斂がそこにいた。『風の者』たちの気配のなさには、慣れている。彼に視線を寄こすでもなく、柳帝は無表情のまま窓辺に立つ。
「斂。すぐに舜へ発て」
「……は」
機があらばまず杞妃を殺しておけ、とこともなげに柳帝は言った。斂は、恭しく拱手しながらじっと主君の気配を窺っている。
主君――主君といっても、幼いころから慣れ親しんで仕えている相手ではない。憧れつづけたあの凄烈な女、あれが主君と認めた男であるからこそ、斂はそのあとを継いで柳帝に仕えているのであった。
斂の場合、けっしてひたむきな忠誠心だけで柳帝に仕えているのではなかった。彼特有の清爽な、それでいて冴え冴えとした眼《まなこ》で主君を見つめている。それを柳帝も知っているから、斂にたいして曖昧なものの言い方はしない。
「それでは今すぐ」
しかし斂はたしかに感じていた。柳帝には、おそらく彼の胸うちにだけ秘めている何かがある。このときはまだ、それがいったい何なのか斂にもわかっていなかった。
◆ ◆ ◆
ほとんど斂と入れ替わるようなかたちで、支岐と彩が柳へやって来た。もはや舜に未練のなくなった彩は生きいきとしているように見えたが、支岐のほうはどことなく物憂げであった。相変わらず人間くさい男よな、と柳帝は小さく双眸をゆがめた。その傍らで、奈綺はふくらみはじめた腹を見せるでも隠すでもなく、孕んでいるのを忘れたかのような平然とした顔つきで立っている。
彩はその腹からすぐに眼を離したが、支岐は苦虫を噛みつぶしたような顔でじっと奈綺を見据えていた。むろん奈綺のほうは、いっさい気にも留めぬ。
「久しいな」
にやり、と柳帝が嗤った。
「嬉しゅうございます」
彩は拱手した。かつて舜帝の正妃となり、柳を離れた女である。おそらくこうして柳帝と顔をあわせるとは、思ってもみなかったに違いない。
「宮廷を逐われたにしては、ずいぶん健康そうではないか」
「わたくしが心を寄せておりましたのは、先舜帝でございますもの」
「舜に心を寄せたわけではない、とな。もっともなこと」
寝台に腰をおろしたまま、柳帝はゆっくりと水を飲み干した。
「ならば彩よ。ふたたび俺のために働いてもらおうか」
「喜んで」
何の躊躇もない。かつての舜正妃は、嬉々とした表情でふたたび拱手してみせる。間諜はすぐに心を切りかえる。おのれが生き満たされる場所を見つけ、そこへ駆けてゆくことが巧い。捨てることに躊躇せぬ類の人間たちであった。
そう考えると、支岐という男はまったく間諜には向いていないらしい。どうにも気が進まないという顔つきで、唇をゆがめながら拱手して顔もあげぬ。
「柳にゆかりのない者にあらず、不慣れではなかろう。むしろ柳の内情にもよく通じている。それを洩らされるわけにはゆかぬ――だがもし舜が恋しく、あれを敵国にまわす度胸がないのならば、すぐに帰れ。途中で寝返られるよりは、そちらのほうがやりやすい」
ほとんど支岐に向けての言葉である。それがわかっている支岐は、小さく身じろぎをしてわずかに顔をあげた。
「……陛下。奈綺はとうの昔に死にました」
「………………」
この男が何を言いたいのか、むろん柳帝にも奈綺にもわかっている。だがふたりとも、眉すら動かさない。
「わたくしが同志と慕い、ともに風となれる――そう思っていたのは、十年前に死んだあの奈綺でございます」
「………………」
(支岐よ)
柳帝は、胸のうちで静かにこの男に共感した。
傍らに立つ奈綺は、奈綺であって奈綺にあらず。娘であって妻にあらず。妙なことであった。寸分違わぬ“奈綺らしさ”を目の当たりにするにつけ、それが奈綺でないことをなぜか痛感するのである。
(俺もだ。俺が求めているのも、十年前に死んだあの奈綺ぞ)
秋沙を哀れと思わないわけではない。しかし哀れと思うだけで、そこから救ってやろうと考えたりしないのがこの男である。柳帝の雰囲気に、支岐も何かを感じとったのかもしれぬ。ひとつ息をつくようにして続けた。
「けれどもあの女ならば……たしかにわたくしたちを呼びつけるでしょう。かつてあれが御子を宿したときも、そうであった」
それならば喜んで陛下にお仕えいたしましょうとも、と支岐は拱手した。この男もまた、いまだに奈綺の影にとらわれている。十年も前に死んだ人間に心をとらわれるなど、いったい何と馬鹿げたことか――そういう思いをいっさい掻き消してしまうほど、あの女は鮮烈であった。
「それは愉しみなことぞ。期待しよう」
ふたたびにやりと嗤って、そうして柳帝は彩に視線を向けた。
「彩。話がある、おまえにな」
奈綺と支岐を出し、室のなかには柳帝と彩だけがひっそりと残った。かつては柳帝の片腕となって働いていた女であるから、息はあう。奈綺ほどではなくとも。
彩はじっと柳帝の言葉を待った。
「他言はするなよ」
「は」
柳帝の美貌が、ひどく冷たい。青白い月明かりのせい、とも言いきれまい。けっして見慣れていない冷たさではないというのに、なにか背筋がひやりとする心持ちがして、彩は息をひそめた。
「奈綺は孕んだ」
「はい」
「子を産んでまもなく、奈綺は死ぬ」
「………………」
息をするのも忘れ、彩はじっと帝の言葉に耳を傾けた。
「奈綺が真に“奈綺”として物事を考えるならば、必ず死ぬだろうよ。あの女は」
「……は……」
彩にとって、十年前に死んだあの奈綺はある種の同志であった。たがいに量り、たがいに利用し、たがいに言葉を交わした――あの人間らしからぬ年近い女を、彩はたしかに好いていた。奈綺が愛も情けもなく産みおとした秋沙という娘を、彩は彼女なりにかわいがったものである。愛されぬ少女が不憫に思われたからでもあった。
(奈綺……)
呼びかけたのは、十年前の奈綺にたいしてである。
(あなたの娘は……あまりにも哀れにすぎる)
柳帝はけっして、奈綺を殺すとは言わなかった。しかし彩にもわかっている。
柳帝はたしかに、巧みに奈綺を死に追いこんでゆくであろう――そうしておそらく、母に憧れつづけたあの娘も、その結末をあっさりと受けいれるに違いない。
「彩よ。おまえが奈綺の子を育てよ」
「!」
なんということだ、と思うだけのひとの心を、彩は持っている。支岐の気持ちをもっとも理解してやれる女であった。
思わず言葉を失った彩を、柳帝は無表情のまま見据えた。その双眸の奥深くに嘲笑がないところを見ると、どうやらこの男もこの男で、けっして愉しんでいるわけではないのだろう。それだけが救いかしらん、と彩は唇を噛んだ。
「おまえが子を連れ、舜の里へ入れ。秋沙のような人間の優しさを持たせるな。だれかに憧れ、だれかを慕い、だれかを思いやるような人間にするな。性根からすべて“奈綺”といえるような、情のない『風の者』を育てあげてみせろ」
「陛下……けれどもわたしこそ」
わたしこそ煩悩にまみれた間諜でございますゆえ、と彩は声が震えるのをおさえて言った。
「それならばおまえは支岐をけっして子に近づけず、奈綺を育てた師に預けるが良い。おそらく師も理解するであろうよ、おのれが何を望まれているのか」
「…………」
「俺が鬼にみえるか」
むろん、はいとは答えられぬ。彩は黙りこんだ。
「しかしそれほど……かつてのあの奈綺を愛していたのだと。そのように量ってくれ」
――けれども陛下、そうではない。奈綺をあなたなりに愛おしんでおられた、それは真実であろうけれども。
(奈綺への思いではありませんでしょう。国の栄えのために、他ならぬ)
鬼ぞな。いっそ清々しいほど暗いところのない、冷たい鬼よ。
(しかし)
あの奈綺は、この鬼のような男ともっとも通じあっていた。おのれの娘が、柳帝のいうような哀れな死にかたをしたとしても、奈綺は薄く嘲笑するだけで流すだろう。
――死ぬべくして死んだのであろうよ。
あの冴えざえとした双眸で、切り捨てるに違いない。
(そうだ……あの女ならば。おそらくあの女ならば、陛下と同じように考える)
わたしは秋沙が死ぬのを知っていて、しかし最期までそれを知らぬふりをする。秋沙、生まれた時代が悪かった。この親のもとに生まれたのが悪かった。死ぬならば、その死が穏やかなものであれば良い――彩は、ゆっくりと拱手した。間諜である。腹をくくるのは、はやい。
◆ ◆ ◆
――子など要らぬ。およそ邪魔になるだけであろうよ。
――わたしがわたしの道を往くために、潰すべきものは潰す。それだけだ。
壮絶なほど情のない奈綺の生きざまが、なぜこんなにもひとを惹きつけたのか。
【儚き夢しるべ】
――これは夢であると、判っていた。
夢だと知っていて、柳帝は傍らにたつ懐かしい女に声をかけた。
「奈綺よ」
いっさいの温もりを持たぬ双眸が、ちらりとこちらを一瞥した。この女の横顔は美しい。彼女の冷え冷えとした視線が、何だと問うている。
「おまえはおのれの子を愛おしく思うか」
「…………」
しばらく間をおいてから、愚問だなと女は言った。わずかの沈黙は迷いのためでなく、いったい何を馬鹿げたことを言い出したかという不審の気持ちであった。
「そうとも、愚問だ」
自嘲の笑みを浮かべる柳帝を、寝台に腰かけた奈綺は堂々と見あげた。どこまでも不遜であり、どこまでも悠然としている。馬鹿馬鹿しくなった柳帝はまあいいと話を切りかけたが、そこでゆっくりと奈綺が口を開いた。
「愛おしく思ったことなどないさ」
「欠片も思わぬか」
「思わぬ」
一瞬の躊躇もなく答えを寄越す。この女の場合、子を愛おしく思わぬふりをしているわけではない。ほんとうに愛おしくも何とも思っていないのである。
「哀れとは思うさ。わたしの子に生まれれば、望むと望まないとに関わらず血の道を往く。強くないと判ずれば、母のわたしがこの手で殺す。哀れには違いなかろうよ」
「おまえはおのれの死を予感していたか」
にやり、と奈綺は嗤った。
「さて、それはどうかな。いずれ死ぬとは知っていた」
「避けようとは思わなんだか」
返ってくる答えがわかっていながら訊ねるおのれが、ひどく情けなく、また浅ましく思われた。訊ねながら、柳帝はおのれの眉がそっとゆがむのを感じていた。
「死ぬしかなかろうと思ったから、わたしは死んだ。避けてどうする」
耄碌したか、と奈綺は嘲るように言った。
(この女、死んでも性格が変わらんな)
夢である。夢のなかで、柳帝は死んだ奈綺と言葉を交わしている。この女と話していると、死というものがひどく軽いもののように思われた。
「秋沙が死んでも、おまえは悲しまないのだな」
おまえが悲しむことはしたくないのだ、というふうな語の選びかたではあったが、物言いはけっしてそうではない。単純な事実の確認である。
「秋沙が死ぬか」
「どいつもこいつも、おまえにとらわれているのさ」
(そのなかに俺もふくまれるというのが気に入らぬが)
奈綺は鼻で嗤って、しなやかで強靭な脚を組みかえた。
「死んだ人間にとらわれるなど、ただの阿呆か心の病もちだ」
身もふたもない言い方をする。これは――あのふたりの子が聞けば内心傷つくであろうな、柳帝は柳帝でおのれの子でもあろうのに、他人事のようにそう思った。父も母も、世の基準から大きくはずれているのである。そんなふたりの間に生まれた子たち、確かに哀れというしかあるまい。
「秋沙はおまえになりかわって生きている」
「なれるものか」
「容貌も物言いも、すべて奈綺のままであった。おまえを覚えている者たちすべてが、息を失うほど」
支岐が、斂が、彩が、そして柳帝自身が。
「惑わされるな」
けっして、本物はわたしなのだという自己主張がしたいわけではないらしい。何の厭味も強情さもなく、奈綺は惑わされるな、と言った。まったくあっさりとした物言いであった。
「容貌も物言いも奈綺としての心の持ちようも、秋沙のそれはわたしそのものであろうよ。奴は頭が良い――わたしの意図も何もかも、よく理解していた」
晩冬の陽光が、奈綺を美しくふちどった。悲しげな橙色の光のなかで、奈綺自身はいたって平然としている。彼女は言葉を続けた。
「けれども奴はあくまで秋沙であって、わたしではない。わたしになりきったその根底に、秋沙の心を残している」
娘がなりきった“奈綺”という女。それはすべて秋沙の優しさのうえに、あるいは母を恋う思いのうえに成りたったものである。
「柳帝。秋沙が、わたしやあんたの心うちを理解しているならば、確かに近く死ぬだろうよ」
死ぬべくして死ぬのさ、と奈綺はさらりと言ってのけた。あまりにも想像していたとおりの物言いであった。
「あれは優しい。優しいから、無意識のうちに生まれた子に愛情を注ぐ。親がいるという安堵感も、親への慕情も、『風の者』には不要なもの。とうてい一国を支え得るだけの逸材など育つはずもない」
もうおのれに親はいないのだ。天涯孤独の身なのだ――そう思わせなければ『風の者』は必ず絶える。奈綺はそう言いながら、美しい眼を細めて窓のそとを眺めた。
「秋沙の死は避けられぬか」
こう言ってはじめて、柳帝はおのれの心底をのぞいたような気がした。
(俺にも罪悪感というものがあったかな)
実の娘を孕ませ、あげく子だけを産ませて死へ導こうとしている。夢のなかで、その罪悪感がかすかに顔をのぞかせたらしい。驚きもし、内心情けなくも思った。それを知ってか知らずか――いや、おそらく察しているのだろう、奈綺はうっすらと笑ってこう言った。
「わたしたちの間に生まれた子たちは哀れであった。けれどもわたしたちが道を誤ったわけではないさ。わたしは生まるるべくして生まれ、親を失くすべくして失くし、そうして『風の者』になるべくしてなった」
誰にも屈することのない、美しい双眸である。かつて見慣れた、ひとを吸いこむような双眸であった。
「舜帝陛下に仕えるべくして仕え、そうしてあんたと出会うべくして出会い、子を産むべくしてあれらを産み――そうして死ぬべくして死んだ」
おのれが生まれた環境や、おのれの育った境遇を恨んでみても仕方あるまい。秋沙もまた、朱綺もまた、生まるるべくして生まれてきたのだ。そこでどう生きてゆくのか、おのれが考えねばならぬ。
「わたしはわたしの道を生きた。あんたはあんたの道を生きている。それだけさ。秋沙もまたおのれの道を行くだろうよ。わたしたちが苦しもうと嘆こうと、どうすることも出来まい」
――何を悔やむことがある。
柳帝にとって、秋沙を孕ませ死へ導こうとしていることはけっして大きな出来事ではない。この男の心に傷を残すような出来事ではなかったし、この男の心もまた容易に傷つくような柔和なものではなかった。
ただし、おのれの心奥にわずか沈んだ濁りを彼の本能が嗅ぎとったのであろう。俺はその濁りを無意識のうちに取りのぞきたかったらしい――柳帝は、夢のなかでそう思った。
「歳をとったな、柳帝よ」
奈綺は鼻を鳴らした。確かに歳をとったな、と柳帝は瞠目した。そう感じているのはおのれだけである。
国の民々。宰相。文武官。すべての者たちにとって、柳帝は永遠に柳帝で在りつづける。冷徹であり、明晰であり、その眼《まなこ》には一点の曇りもない。さまざまのものを捨て、あるいは守り、そしておのれの行為を悔やむこともない。
柳帝は孤高のひとであり、またそうあるべきなのであった。そこに老いなどあってはならぬ。
「柳帝。鬼になりきれぬなら、いっそ死ねばいいさ。情けなど要らぬ」
――柳帝。秋沙はわたしたちの子だ。境遇を悲しみ、運命を呪うほど弱くないさ。
◆ ◆ ◆
この夢を機に、柳帝はさらに凄烈な冷ややかさを持ったといって良い。それを敏く感じとった娘もまた、無情の『風の者』になりきった。彼女が双子を産んだのは、その年の晩夏のことであった。
産まれた双子は、どちらも男児であった。柳帝は、酷なことをした。この男は、双子の兄を奈綺と名づけ、弟を斂と名づけたのである。秋沙の演じる“奈綺”を、無言のうちに切り捨てたも同然であった。
――もうおまえは要らぬ。
父からのその言葉なき言葉を、娘は静かに受けとめた。
【凍ゆ星々】
秋沙という女は、けっして臆病な性質を持って生まれたわけではない。殺さねばならぬときには何の躊躇いもなく殺すことができたし、仮面をかぶらねばならぬときには誰もが別人であると錯覚するほど精緻な仮面をかぶることができた。この激動の時代がどれほど冷たく無慈悲なものであるかも知っていたし、おのれが『風の者』であるということに関して誇りを持ってもいた。そうして、そんな時代のなかで強靭に生きぬく力を持っていた。それらはすべて母譲りのものである。
しかし秋沙は、その母が生涯持つことのなかった感情を持った。母への慕情であった。あの傍若無人かつ情のない母が、秋沙にとってはただひとりの母であり、師であり、慕うべきものであった。母に愛されたい、という気持ちを持って育ってしまったのが、秋沙の不幸であったといって良い。むろんこれは周囲の客観的な見解であり、秋沙自身はいっさいそのような悔いを抱えてはおらぬ。あの母の子に生まれてきてよかった、と清々しい誇りを抱いてさえいる。
――ともかく、母に愛されたかった。あの美しい母に頭を一撫ででもしてもらえば、何でも出来るような心持ちがしていたのであった。
「秋沙、なぜそんな悲しそうな顔をする」
閖は寂しげな瞳をして、そっとつぶやきを落とした。
「悲しそうな顔を?」
秋沙は笑った。悲しそうな顔、なるほどそうかもしれぬと彼女は思った。
「母になろうとすればするほど、おのれが母とは違うことを思い知らされる」
「しかしほかの誰もが“奈綺”であると信じるほど、おまえは“奈綺”そのものだった」
だからこそ、であった。
だからこそ、奈綺の傍で日々を過ごし、それぞれ奈綺にたいして特別の想いを抱いていた者たち――ほとんど支岐と柳帝に限られるが――は、みごとに奈綺となった秋沙にたいして、多かれ少なかれ拒絶の心を持ったのである。
秋沙はむろんその拒絶を敏感に受けとめており、彼女がそれを受けとめていることを柳帝らもまた察していた。
“奈綺”になろう。“奈綺”になろう――あの母のごとき『風の者』になろう。
そうしてひとつの高みを目指すこと自体が、もはや“奈綺”の性質から離れていた。
奈綺という女は何を目指していたわけでもなく、追いつこうという理想の師を持っていたわけでもなかった。ただおのれの自由な心のままに、駆け、戦い、眠る。上を目指すでも下へ堕ちるでもなく、生まれたときから空高く誇りある住処を手にしていたような、そんな女であった。
“奈綺”となって過ごす日を重ねれば重ねるほど、秋沙はそういった思いを強くした。
“奈綺”になりたい。母のようになりたい。母が褒め、頭の一撫ででもしてくれるような働きがしたい。これらは秋沙にとってのすべてである。母に突き放されたあの幼い日から、ずっと心に抱きつづけてきた想いである。
(けれどこの想いがある限り、わたしは“奈綺”にはなれぬ)
しかし国が必要としていたのは、奈綺であった。そうしてまた、ふたりめの奈綺、三人めの奈綺、四人めの奈綺なのであった。
(母を慕うわたしが、子を育ててはならないのだ)
秋沙はすぐにそう悟った。必ず育てるおのれの心に、慈しみが生まれる。慈しめば、子は多かれ少なかれ優しくなる。それでは柳帝の片腕になりきれぬ、と秋沙は思った。親子ともに間諜になれば、離れて暮らしていてもいつか顔をあわせるときがくる。
(わたしは子にたいして非情にはなれない)
それでは柳に報いることができぬ。それでは『風の者』としての使命を果たすことができぬ。それでは死んだ母に顔向けができぬ。
「閖、あなたの主君は」
「……舜帝陛下」
ふたり、もはや互いの行く末は理解していた。
「わたしの主君は、柳帝陛下だから――柳のために、あなたを殺さなくてはならない」
「こうなるだろうとわかっていた。おまえが“奈綺”になって生きると、決めたときから」
閖の顔も、また秋沙の顔も穏やかである。彼らはつねに、曲げられぬ運命を受けいれることに慣れていた。この激動の時代であり、この生業である。主君に忠実な柳舜の『風の者』であるから、国より個人を優先することはけっしてない。
「いま、闘うか」
秋沙は柔らかく微笑んでみせた。本来の彼女がもつ、優しく可憐な笑みであった。奈綺ならば、この笑顔は演じることでしか作り得なかったであろう。
「わたしはいま、秋沙だもの。わたしはあなたを殺せないし、あなたもわたしを殺せない」
「…………」
しばらく黙りこんでから、閖はそうか、とだけ言った。
「俺はおまえのことが愛おしい、秋沙」
ゆっくりと、男の腕が秋沙のしなやかな体を抱きしめた。
(ああ――“奈綺”という慕わしい母の存在がなければ)
舜に尽くす『風の者』として、あなたとともに手を携え駆けただろう。けれどももう、あの母の子に生まれねばよかったとは思えない。
わたしの母は、ああでなくてはならなかった。
(閖、わたしもあなたのことが愛おしい)
次に対峙するときは、どちらかが死ぬときである。殺さねばならぬとなったとき、『風の者』は何があっても相手の息の根をとめる。
「ともに力あらん限り、忠誠を尽くそう」
頬と頬がふれあった。
「俺は舜帝陛下に」
「わたしは柳帝陛下に」
おのれのゆく道を受けいれることに、ふたり何の抵抗もなかった。これがおのれらのあるべき姿であると、とうにわかっていた。
◆ ◆ ◆
例によって例のごとく、支岐は与えられた室のなかで眉根を寄せていた。
「いつまでそうやって機嫌を損ねているの」
「うるさい」
呆れた、と彩は大仰に溜め息をついてみせる。ずっとであった。柳帝との対峙を終えて室に通されてからずっと、寝台のうえでしかめっつらをして胡坐をかいている。
「…………」
彩は深く息を吸った。ああ、なんと懐かしい空気であることよ――舜宮よりも冴え冴えとした、清冽な雰囲気。かつて柳帝に仕えていた彩にとって、この宮廷の空気は懐かしいものであった。
(舜帝陛下……)
彩にとっての最愛のひとは、舜の先帝ただひとりである。その帝が崩御して久しいいま、もはや舜にいる必要がない。
(こうして戻ってくるとは思わなかった)
「……これはあまりにも哀れじゃないか」
不機嫌な顔をしていた支岐が、突然うめくように言った。腹の底からしぼりだすような苦しげな声であったから、彩は思わず彼を凝視した。
「何が」
「秋沙は」
唾を飲みこんだのか、男の喉がごくりと動いた。
「母親に突き放され、あげく父親に殺されるのか」
「あんた、秋沙にたいする不満を散々わめきちらしていたじゃないの」
「それとこれとは別だ」
あいつは奈綺ではない、奈綺ではなくて秋沙なのだ――つねにそう言いつづけていた支岐であった。それが今度は哀れだと言いだしたので、彩はひとつ大きな溜め息をついた。
「あまりにも哀れじゃないか」
無情な父母のあいだに生まれ、生まれたそのときから『風の者』として生きることを定められ、愛されることもなく親にその手を離され、子どもという生き物がもっとも親を慕うころに母が死んだ。
「……秋沙として生きる道を選べばよかったのだ、それなのに」
母を慕うあまりに亡き母の仮面をかぶり、母のようになりたいと切望するあまりにおのれを殺し、母に憧れるあまりに実父とのあいだに子を生した。そうやって生きてきた子が、父から暗に死の宣告を受けている。
「哀れだ、奈綺の子として生まれたばかりに」
じっと彩は男の暗い双眸を見つめた。
(あんたのそういうところを、奈綺は厭ったのよ)
「支岐……果たして秋沙がおのれの生きざまを不幸と思い、悔いているだろうかしら」
「…………」
「哀れと思っているのは――不幸と思っているのは、あんただけかもしれないよ」
秋沙はたしかに秋沙であって奈綺ではないが、その秋沙もあんたが想像しているような女ではないと思うのよ。彩はつぶやくようにそう言った。
(わたしたちが見れば哀れとしかいいようのない、こんな境遇を……)
秋沙、あの娘はいったい何と思っていることであろうか。彩は瞠目して、さきほど見た秋沙の双眸を思い浮かべた。
奈綺そのものの双眸、あの奥底には何の悔恨も、哀願も、苦悩もちらついてはいなかったはずである。ただあの瞳の奥にわずかな切なさを見たような気がするのは、おのれの行く末をすっぽりと包むように受けとめている穏やかさが見せた、彩への幻であったのだろうと思われる。
「俺たちが思っているよりも、ずっと強いと? まだ二十にも満たぬ娘ぞ」
「わたしたちが思っているよりも強いけれど、わたしたちが思っているよりもよほど弱い。そう言ったほうがいいかもしれない」
「弱いだと」
強いといえば否定し、弱いといっても否定する。奈綺の気性も、これでは当然支岐を拒絶するはずだ――彩は苦笑した。
「もし奈綺の強さがあれば、彼女は奈綺を演じることなどしなかったのでは」
「…………」
「たしかにあの娘は強い、強いことに違いはないわ」
秋沙も強い。その強さは、何度も先述したとおり奈綺譲りのものである。
「けれど母を慕いすぎた。秋沙のせいではない、けれど奈綺を慕いすぎた」
母を慕って何が悪いのだ、と支岐は唇をゆがめた。この男のこれもまた、奈綺を慕いすぎたがゆえである。いまだに奈綺の崇高な激烈さを、他の追随を許さぬ殺しぶりを、あるいはあの冬の月のような尊大な美しさを、忘れえぬのであった。その奈綺の娘であるからこそ、秋沙には秋沙として生きてほしかったのであった。
「何も悪くなんてないじゃない。あんたがひとりで勝手に推考し、勝手に悩み、勝手に哀れんでいるだけではないの」
「…………くそ!」
器の割れるひどい音がした。支岐が、あたりの酒器を床に投げつけていた。
(……奈綺……)
彩はそっと心のなかで女の名を呼んだ。
(あんたがいないと、どいつもこいつも腑抜けだよ)
いやいっそ、奈綺など生まれてこなかったほうがよかった。そうすれば激動の世のなかで、それぞれがそれぞれの役割を果たしながら生き、そうして死んでいっただろうのに。
(こんなふうには、きっとならなかっただろうのに)
誰もが奈綺を追い求めて、彼女の残像を捜している。その奈綺はもういない、おのれの手で喉を突いて死んだのだ、もういない。
奈綺よ、あんたの霊魂はこのありさまを視ているだろうか。
視ていたとしても、あの女は嘆きも怒りもしないであろう。彩はそう思った。愚かよな、と吐き棄てるだろうか。それだから国が傾くのさ、と嗤うだろうか。
(あんたの娘は、もうすぐ死ぬよ)
凍えるような寒空に、はるか遠い星が瞬いた。
(死んでしまう。きっとあんたと同じように、おのれの手でおのれを殺す)
秋沙は死に、そうして柳は、永く栄華を誇ることになるであろう。
【逢着の魂】
そうして魂はあるべき場所に逢着した。それをはやくに察した柳帝は、静かに娘の真名を呼んだ。
「秋沙」
低く美しい声音に、優しさはいっさいなかった。実娘を孕ませた父の苦悩があるでもなく、肉親の情があるでもない。ひとりの皇帝が、ひとりの間諜の名を呼ぶ――たったそれだけの冴え冴えとした声色であった。流麗なしぐさで、秋沙は父帝にむかって拱手した。
「舜を迎えうつのに邪魔になる者たちを、早急に殺してまわれ」
「御意」
冬の強風が、丸窓の外で唸っている。拱手したまま秋沙は一度だけぐっと目を閉じた。それから心のなかで、母上、と小さく叫んだ。
「それでは明夜半に発とうと思います」
無垢で優しい、透明な声色。幼いころからそれほど変わっていない、秋沙の声である。
「秋沙よ」
面をあげてかまわぬ、と言われて秋沙は父帝の顔を見あげた。感情のない透徹とした双眸にぶつかった。
(父上……)
これが最後だ、というような気がしていた。
「秋沙よ」
「…………」
「そんなに母が恋しかったか――そんなに母が慕わしかったか」
思いやるふうでもない、淡々とした声である。その問いを受けて、秋沙はふと生前の母の姿を思いかえした。
(誇りをもて、と)
おまえは誇り高き『風の者』ぞ。あの母の言葉が、いままで秋沙をひたむきに生かしてきた。あれがひとつの拠りどころであった。
「はい」
父帝が、秋沙の瞳を静かに見つめている。父に本音を語ることのできる、これが最初で最後の機会であると秋沙は本能的に悟った。
「わたしはいまでも、母上のことが恋しくてなりませぬ」
あれほどおのれのことを冷たく突き放し、愛してくれることのなかった母が。死ぬ間際に、たった一度頭を撫でてくれただけの母が、いまでも恋しくてならぬ。その最後の一撫でさえ、愛情あってのことではなかったというのに。
「父上。ですからわたしは、何でもいたします。柳のためになるならば」
「…………」
「おまえの主君は柳舜二国の皇帝陛下であると、母上にはそう訓えられました。けれどもわたしにとって、主君は柳帝陛下である父上ただおひとりなのでございます」
父であり、主君である。遠き憧れのひとでもある。主君は柳帝ただひとりであると心に決めた。秋沙が母の言葉にそむいた、唯一の決意であった。
「母上の祖国ではございますが」
心が冴えてゆくのがわかる。ここからが正念場なのだと、女の本能は理解していた。女の本能というよりは、『風の者』の本能であった。ここからおのれが死にゆくまでの道――その道のりが、短い生涯のなかでもっとも肝要なものとなるであろう。
「母上の祖国ではございますが、わたしの祖国は柳ひとつ。何があろうとも、柳に叛くつもりはいっさいございませぬ。舜はわたしの祖国にあらず」
娘を取りまく空気が少しずつ清冽に冷えていくのを、柳帝はじっと見つめた。強く思われたその心のうちに、おそらく彼女はおのれの知らぬ弱さを抱いていたのであろう――さほど遠くない将来に死を予感して、その弱さが消えてゆく。
(やはり秋沙は秋沙ぞな。けして奈綺としては在りえぬ)
「ひとつだけ念をおしておこう。おまえの子は舜にいるが、けして会おうと思うなよ。あれらはもはや、ひとの子にあらず。親のない天涯孤独の『風の者』だ」
「………………」
秋沙は黙って拱手してみせた。
◆ ◆ ◆
夜半に柳を発ち、秋沙はまっすぐに舜をめざした。蒼河を突っ切り、白山を越える。母がいとも容易に駆けてのけた道程を、娘もまた軽がると越えてゆく。
吹雪に遭えば雪洞をつくり、そのなかで体をまるくして眠った。白山の越えかたは母が教えてくれていたから、食べられるときに干し魚や豆を食べられるだけ流しこんで、巧みに吹雪をかいくぐって歩みを進めた。思えば、火の熾しかたも、毒草と薬草の見分けかたも、丸薬の作りかたも、毒や縄の使いかたも、ひとの殺しかたも、すべて母が教えてくれたものであった。『風の者』としての誇りもまた、母から譲りうけたものであった。
(ここから。すべてはここから。わたしの闘いはここから始まる)
冬の白山を越えるのには、それでも五日と半がかかった。白山の麓、舜国はずれの村近くに着いたときには、雪まみれのまったくみすぼらしい姿になっていた。
火を熾して衣を乾かしながら、ひとのいない森のなかで息をつく。もはや数日まえ柳にいたときの、切なくも爽やかな心の葛藤はなかった。おのれの双眸が、耳が、鼻が、手指が、快い緊張と期待でじんわりと暖まっている。
(やはり変に一所《ひとところ》に留まっているのが、いけないのだわ)
つかまえたうさぎの皮を剥ぎ、小太刀でぶつ切りにして火に放りこむ。獣の血の臭いが、皮からゆるりと漂った。凍るように寒く、睫毛には霜がおりていた。ひとつ小さな過ちを犯せば、ただちに死に直結する。その現状が、なぜこんなにも心地よいか。
もはや父を忘れ、子を忘れ、いまここにあるのは母譲りの『風の者』の本性である。闘いを怖れず、死もまた怖れず、緊迫した命の駆け引きを愉しみ風のように生きゆく、ひとの形《なり》をした美しき化け物。
(どうしたことかしら。まるで夢から醒めたよう)
不意に道がひらけ光が射したような、そういった心持ちであった。閖をこの手で殺さなければならぬ、その決意が女のいっさいの葛藤を葬りさっていたのかもしれなかった。
立ったままうさぎの肉を噛み、嚥下し、食い尽くしてから足で火を踏み消した。母よりもいくらか優しげな顔をして、母によく似た早食いである。その獣じみた食事が終わるまでに、半刻もかからなかった。白山を越えたすぐ後で、これだけの体力が残っているのであった。火を消すとすぐに、秋沙は休みもせず舜都をめざした。
白山の麓から舜都までは、秋沙の脚で二日とかからぬ。都の大門をくぐるまでのあいだに、杞妃――といってももう舜妃なのであるが――の噂を幾度も聞いた。やはり実際に巫女の血をひいているらしい。杞国皇室の女系は、代々神官の家の出であるという。
――おかわいそうに、陛下は芽を出しはじめた叛乱分子を抑えきれずにおわす。
――なるほどいつ杞国が攻めてくるやもわからぬ。おそろしや。
――たとい杞国が攻めてこようとも、陛下のお治めになる御国は我らの手で守ろうや。
(舜帝陛下……先帝の治世の名残りか、たいそう慕われていらっしゃる)
もうすでに、国人《くにびと》が戦うつもりになっているのである。有事あらば、おのれが陛下の盾になり申しあげようと心をひとつにしているのであった。今上帝が巧みに名君を演じているから、というだけではない。国人の心うちには、崩御した先帝への思慕がまだ強く残っているのである。
異民族の集まりである柳とは異なり、舜人《しゅんひと》というのは情にあつい。血脈をひとつにしているからであり、国家がひとつの大きな家族のようなあたたかみを持ってきた。およそ建国のときから舜は、皇帝を中心にして固い絆を培ってきたのである。多少荒っぽい皇帝が即位しても、それを何とか国人で支えてやろうとするのが、舜の国民性であると言って良い。良くいえば温厚であり、悪くいえば平穏に馴れきった国人たちであった。
秋沙は、それでもかすかな感慨を抱いて舜都の朱大門を見あげた。母をはぐくんだ祖国である。
大門をくぐると、その正面の大通り突きあたりに宮城がそびえたつ。それを中心にして、放射状に通りが伸びているのであった。飲食街の中ほどにある小さな旅籠に、秋沙はふらりと入った。陶器の小杯で戸の脇に置かれた水鉢から水をくみ、飲み干す。格子窓に近い卓子《つくえ》に席をとり、野菜のはいった湯と玉蜀黍の饅頭を頼んだ。
「そろそろ杞が攻めてくるんじゃねえかな」
「桂地の豪族たちが、こぞって杞国へ流れているらしい」
桂地というのは、桂山付近の地方のことである。優美に窓外を眺めているようで、秋沙の耳はほうぼうから聞こえてくる噂話をつかんでいた。
「陛下はどうなさるおつもりだろうかい」
「きっと良い方向に導いてくださるさ、先帝陛下の御血をもっとも濃くひいたお方だぜ」
隣席に坐りあわせたのは、どうやら下級の兵士らしい。上層部から、あるいは同胞たちから流れてくる情報の真偽をはかりかねているのか、数人で大皿をつつきながら話に花を咲かせている。ひとりの男が、頭を突きだすようにして小声で言った。
「蔡氏の嬰《えい》が、ひそかに馬を集めて鍛錬しているらしいぞ」
「どこからそんな馬を?」
あたりのざわめきに、かき消されるような小声である。しかし秋沙の耳にだけは、はっきりと届いていた。
「そりゃあ決まってるだろ……」
(鈷竹)
卓子のうえに乱暴に置かれた皿から、秋沙はひとつ饅頭をつまんだ。鈷竹の馬は質が良い。鈷竹の馬が手に入るとなると、中規模の戦ならばそれだけで勝ちが見えてくる。国人のあいだでは、舜帝は杞からやってきた妃に惑わされているということになっているのだ――これを国の崩壊とみるならば、舜帝に叛旗をひるがえす豪族が出てきてもおかしくない。さてその蔡氏嬰が、その叛乱分子にあたるか否か。
ぴたりと秋沙の視線が、ひとところにあてられた。饅頭をもうひとつだけ口に放りこみ、銅貨を払って戸外へ滑りでた。街のなかに溶けこんで、何の違和感もない姿である。麻衣のうえに、白の上衣と桃色の裳をつけている。その姿、穏やかなしぐさで女はひとりの男の袖をひきとめた。
「斂さま」
◆ ◆ ◆
そろそろ膿が出たかな、と舜帝は唇をゆがめた。
「蔡氏の嬰が、馬を集めておりまする」
「どこぞで嬰を殺せ。そのままおまえが騎兵を率いて、杞にぶつけろ。おまえの裁量しだいで、何とでもなろうよ」
閖は若く傲慢な主君のまえに、静かに拱手した。秋沙のことは愛おしかった。しかしそれと同様に、この若々しくもしたたかであり、美しくも乱暴な、野望あふるる主君のこともまた愛おしかった。要するにこれが、舜の『風の者』の特性なのである。主君にというよりは国に忠誠を誓っているという向きが強く、たとい今上帝が愚帝であったとしても最期まで仕えぬくことが多い。奈綺もそうであった。柳帝に嫁しながら、不遜なまでに舜のことだけを考えていた。最期の最期に、舜柳を祖国と考えよ――そう娘に言葉を遺したのは、あの女にとってはまったく似合わぬことだったのである。
舜帝はけして愚かではなかった。しかし舜史にはめずらしい野生的な皇帝である。閖は、この主君に惹かれていた。この男を守り、盛りたて、力となることがおのれの使命であると感じていた。
「柳にはまだ」
「手を出すな。柳に手を出しては、固まりかけた地盤がゆるむ。まだ時機ではないだろう」
窓のはるか外、白山を見晴るかしながら、舜帝は炯眼を輝かせた。
「秋沙が来るぞ」
「…………」
必ずあの女は来るだろう、と舜帝は考えている。父が愛した『風の者』の娘――あの爽々とした強い双眸。深いものを抱えこんだ美しい表情。
――あの女はきっと、新しい風になる。
【風耀える日々】
斂は穏やかなしぐさで茶を淹れた。民々は、ここが大陸じゅうでもっとも寒いのだというような顔をして歩いているが、柳よりも風はよほど暖かい。
秋沙は丁寧に頭をさげて、茶器を受けとった。斂は、女の双眸に穏やかな光を見た。この穏やかさが時としてもっとも怖ろしい武具になるのだということを、斂はよく知っている。
(……おのれの脆さを捨てたな)
斂はそう思った。秋沙が秋沙に立ちもどったということは、彼女がひとつ強くなったという証でもあった。
「やはり蔡氏だ」
「嬰ですね。鈷竹の馬を集めていると」
爽やかな茶香が、秋沙の鼻腔を抜けてゆく。静かに斂を見つめながら、彼女は茶器を卓子のうえに置いた。
「舜帝はどう出ると思う」
「……わたしなら」
女は控えめな言いかたをした。
「早急に嬰を殺しましょう。そうして騎兵をまとめ、舜を襲わせるそぶりで杞にぶつける。わたしならそういたします」
「小嬢の考えていることと、舜帝の考えていることと、俺は同じだと思うのだが」
斂は、いまだに秋沙のことを小嬢と呼んだ。愛おしむような響きであり、尊ぶような響きでもあった。秋沙がおのれを取り戻したことについて、斂はいっさい悲観していない。
「嬰とは」
「色好みの青年だ。ただけして印象の悪い男ではない、先帝の御世をいまだ慕っているようだな。蔡の一族それ自体が、先帝の御世を偲んでいる――いまの舜帝の治世には、どうにも心から随ってゆけぬという様子」
三十をずいぶん過ぎているだろうと思われるのに、斂という男はまったく涼やかな美しさを失わなかった。あの傍若無人な母を、傍らで静かに見守っていた男である。父とはまた異なったところに立ちながら、深々と奈綺を愛した男である。秋沙は、この男のことが好きであった。彼の説明に、秋沙は真剣な面持ちで聞き入った。
「小嬢の思うとおりにするのが良い。俺はそれに随おう」
母の最期にもっとも近かった男が、斂である。奈綺の首を柳帝のもとへ届け、胴体を舜帝のもとへ届け、そうして奈綺の意にそったのが斂である。病床の朱綺よりも、この斂のほうがまったく兄のようであった。
「……ですが」
随おう、という言葉に秋沙は双眸を小さくゆがめた。舜は、母の祖国であるというだけではない。斂の祖国でもある。
(わたしはもう、柳を選んだ。舜を捨てたも等しい)
『風の者』は、何よりもおのれの祖国に忠実な生きものである。
(柳を選んだわたしは、もういつでも舜を潰すために戦える――戦わなくてはならない)
秋沙が柳に忠実であるのと同様に、斂もまた舜に忠実であるはずだった。秋沙の双眸が率直に戸惑った色を見せたのは、そのためである。斂はそれを察した表情で、静かに笑った。
「小嬢。俺はべつに舜帝に忠誠を誓ってはいないよ」
斂はつづけた。
「俺は桐で間諜として育った。同胞たちはみな、情に厚く優しいひとびとであったよ」
男の口調には、かつての同胞たちを懐かしむような暖かみがあった。
「だが俺にはそれが我慢ならなくてね。どことなく靄がかかったような、そんな不明瞭な心持ちで生きていた」
秋沙は、じっと斂の双眸を見つめた。男の声の真摯な響きが、やはり嬉しい。秋沙は、人並みの感情――喜怒哀楽をきちんと持っている。『風の者』としてそれらの感情を心の真奥にこめているだけであり、母のように生来の無感情ではない。
「そして奈綺と出会った」
靄が一気に晴れたような心持ちであったのだ、と斂は微笑んだ。
「あの爽快感が――あの幸福感がわかるか、小嬢」
「………………」
「俺はいまでもあの気持ちが忘れられぬ」
――奈綺こそが俺の祖国であった。
奈綺は美しき山河と大地、爽々と駆けぬけてゆく風群《かざむら》のようであった。わたしはわたしの道を往く、その道がたとい常人からかけ離れていようとも、あるいはその道が他人と重なろうとも、わたしはおのれが正しいと思った道を往く。
奈綺の声は、いまでも斂の耳のなかに鮮やかに残っていた。
(奈綺嬢だけが、俺の生涯のひとであった。彼女こそが俺の祖国)
その祖国が遺した娘は、いま静かに死に近づきはじめている。一様にひとはみな生まれたときから死への道を歩きはじめるものではあるが、もはやこの娘に残された時間は長くなかった。
(惜しいが)
これが秋沙の道である。しかたあるまい、と斂は思った。
(生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬ。これが『風の者』の在るべき姿だ)
心静かに死なせてやることが出来れば、それで良い。死なせぬように取り計らってやろう、とは思わないのが斂である。
『風の者』はひとの言葉をまず疑うが、ただし秋沙は、斂の言葉を疑わなかった。それだけの言霊を斂の声は持っていたし、また彼にそう言わせるだけの魅力がおのれの母にはあったのだということに、秋沙は絶大な自信を持っていた。
「どうする、小嬢」
「……わたしは杞にはいります」
「嬰はどうする」
「杞にはいるまえに、舜帝と嬰に会いにゆくつもりでございます」
そうか、と斂はふたたび微笑んだ。立ち戻ってきた秋沙を、たしかに歓迎しているような優しい表情であった。冷たく殺しを厭わぬ性質だが、その美しい顔つきも笑顔もまったく爽やかな男である。双眸には、濁った光も暗さもない。清々とした殺意のなさは、奈綺とよく似ていた。
◆ ◆ ◆
思ったとおりだ、と窓辺に片肘をつきながら舜帝はひとりの来客を一瞥した。むろん来客というのは、秋沙である。
「久しいな。何をしに来たんだ」
「すべきことをするために参りました、と申しあげればお分かりいただけましょうか」
けっして慇懃無礼というふうでもない。秋沙の話しかたは、あくまでも厭味がなく穏やかである。かつて対峙したときとは違う――秋沙の変化を、たしかに舜帝は感じていた。
「ふん」
「いまは舜と手を組むべきときかと」
ゆっくりと男は窓辺から肘を離し、やっと秋沙に真向かった。機嫌が良いのか悪いのか、話している内容にいっさい興味のないような顔つきで、ただ秋沙の顔をしげしげと見つめるようにしている。
「…………」
秋沙もまた、春風でも受けるような風情で舜帝をまっすぐに見つめ返した。あなたに忠誠は誓っていないのだ、とその静穏な瞳が語っていた。
「なぜそう考えた」
「わたしには、陛下がたのように理性的な考えかたをすることが難しゅうございます」
と、ここで秋沙は妙な嘘をついた。ほとばしるほどの感情を、十年以上も理性で抑えこみおのれを殺してきた女であった。
「敬愛すべき母が忠誠を誓った舜、偉大なる父帝がお治めになる柳、かつて厚い友誼が交わされた二国にございます。たかが杞のために、その絆を断つわけにはゆきませぬ」
「だからおのれが手を貸してやろうと、そう思ったか」
いらぬ真似を、と舜帝は舌打ちしてみせた。が、けっして蹴るべき申し出ではない。おのれを取りもどした秋沙にこそ、この男は奈綺の面影を見た。この男は、かつて父帝の片腕となって働いていた『風の者』の姿を覚えている。幼い皇太子の眼裏にもっとも強く灼きついた、涼やかな女の影。
その血を濃くひいた秋沙の力は、たしかに欲しい。
「そのような驕った気持ちではございませぬ、舜帝陛下」
秋沙の物言いに、傲岸不遜な色あいはまったくない。奈綺とは違い、物腰も口の利きかたも穏やかであり、柔らかである。
「陛下、杞国を潰してごらんにいれましょう。柳にとってもまた、杞国はけっして良い存在ではございませぬゆえ」
「…………」
しばらくのあいだ舜帝は沈黙し、それから静かに立ちあがった。立ちあがって、拱手する秋沙の胸ぐらを強くつかんだ。女にしているとは思えぬ乱暴な強さである。
「杞を滅ぼす。その目的からはずれた助力ならば、俺は要らぬ」
男の双眸は、ぐいぐいとひとの喉もとを絞めつけるような力強さを持っている。秋沙は、まっすぐにその視線を受けとめた。種々雑多な感情を捨てたあとの、柔らかく清々とした瞳の色であった。
「杞を滅ぼしてごらんにいれましょう。『風の者』は必ず果たすものでございます、何があろうとも、滅ぼすといえば必ず滅ぼす。閖は舜のために、わたしは柳のために」
ゆっくりと舜帝は手をはなした。
「……おもしろい、ならばまず嬰に会いに行け」
「御意」
「閖と行動をともにすることだな。不穏な動きあらば、閖がおまえを殺してくれる」
「仰せのままに」
(閖と行動をともにするためにやって来たのだ)
わたしは杞を滅ぼすためにやって来たのではない。閖を殺すためにやって来た。しかしそのまえに、と秋沙は思った。
(杞を滅ぼすために、ふたり手を携えて戦うことが出来る)
幼いころから、『風の者』としてともに育てられてきたふたりであった。閖と秋沙は――とくに奈綺の死後は、まるでふたりでひとつ、とでもいうかのようにして日々を暮らしてきた。閖がひとりでいられなかったというわけでもなく、秋沙がひとりでいられなかったというわけでもない。ただふたりでいると、お互いがお互いの思うように駆け、戦い、眠ることができたのであった。
なにか悔いることがあるだろうか、と秋沙はふと考えた。
(……母を演じて生きたこともまた)
悔いるべきことではないように思われた。なにも悔いることはなかった。
◆ ◆ ◆
月は冴え冴えとした光を湛えている。柳帝の持つ酒器に恭しく火酒を注ぎながら、彩はさまざまのことに思いを馳せていた。冷たい冬の月を見ると、いやでも脳裡によみがえるものがあった。
「思い出しているのか、奈綺を」
くるりと酒器をまわしながら、柳帝は嘲るように言った。本人に嘲るつもりがなくとも、彼の口調はつねにこんなものである。
「…………」
「おまえは子を産まぬほうがよかったな」
「…………」
舜先帝亡きいま、もはや彩と心を携えて生きていく人間はいない。どこか心のもっとも深いところで慕っていた奈綺も、もう死んだ。この女もまた、さまざまなものを失っている。
「陛下。あの子は大陸の制覇を熱望しております」
「物憂げな顔をする」
「あの子は危うい――怖るることなく柳に噛みついてくるに違いございませぬ」
静かに柳帝は立ちあがり、窓辺に歩み寄った。
「いくらでも。べつに噛みつくなとは言わんさ」
若い男とは往々にしてそんなものだ、と柳帝は窓外の白山に視線をやりながら嗤った。
(陛下……若い男と侮ってはなりませぬ)
それを柳帝は見透かしたのかもしれなかった。
「……承知しているとは思うが」
白山を見ているとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。窓の外に顔を向けたまま言葉を続ける柳帝を、彩はじっと見つめた。
「おまえの子だからといった理由で、俺はけして容赦せぬ。殺すぞ」
「…………」
この男が、静かな表情の奥に冷たい嵐気をはらんでいることを彩は知っている。かつての主君である。この男が殺すといえば、たしかに殺すのであった。
「陛下は……やはり奈綺に似ていらっしゃる」
そう言うと、男の美しい横顔にすっと笑みがはしった。
「なぜ俺があんなにも奈綺を求めたか、わかるか」
秋沙の産んだふたりの子――あれらが成長するまでは、俺が起ちつづけなくてはならぬ。若さ溢るる大国の皇帝であろうとも、老獪な古国の皇帝であろうとも、この柳に牙を剥いてくるものはすべて叩き潰してくれよう。
「あの女ならば、俺のやりかたに異を唱えるまいと思ったからだ。あの女でなければならなかった」
似ていたから求めたのさ、と柳帝はつぶやいた。結局のところそういうものだ――俺や奈綺のような人間は、穏やかであたたかみのある人間らしい人間にはけして惹かれぬ。
「……俺も歳をとった。ことあるごとに、奴のことを思いだす」
ああ――彼はやはり白山を見ていたのではない。
(風を……)
風を見ていたのだ、と彩は思った。心の奥が抉れるような、何ともいえぬ寂しさが胸に満ちた。何が悲しいというわけでもない、ただこの世の無常だけが切なさとなって彩の心に満ちていた。
【桂花】
嬰という男は、まったく悪い印象のない人間であった。斂が言ったとおりである。歳は二十半ばとみえて若々しく、たしかに色と風流を好む青年であるようだ。
「…………」
閖は黙って嬰を凝視した。蔡氏の嬰に謀叛の影あり――この男を殺し、騎馬軍を杞にぶつけるつもりでやってきた閖と秋沙である。
“ああ、陛下の御使でいらっしゃるか。ようこそおいでくださった、お待ち申しあげていました”
と、嬰は言ったのであった。
「鈷竹の馬を備えておられるとか」
閖のその言葉にも、嬰はあっさりと笑顔でうなずいた。そうなのです鈷竹の馬はまったく素晴らしい、そう思うでしょう御使どの、と男は言う。
「御使どの、我らはいつ進軍すればよろしいだろうか」
閖はやはり静かに、男を見つめた。嬰というこの男の双眸に、若い男の生気が漲っている。進軍したくてたまらないといった熱と、国のために命を懸けて働きたいのだという祖国への愛が見えた。
「……ともかく嬰さま、貴軍を拝見したいのですが」
「おう、そうですな。お見せいたしましょう!」
生きいきとしている。謀叛を企てているものに特有の、よどんだ昏《くら》さがない。閖は傍らに黙ったまま控えていた女を、一瞥した。
これはいったいどうしたものか――穏やかな女の双眸が、かすかな戸惑いを湛えている。
(…………)
板敷きの廊を渡り、広大な練兵の広場に出る。六旅《りょ》ほどの兵が、ゆうに鍛錬できるほどの大きさがあった。その広場で、ある旅は槍の鍛錬をし、ある旅は刀剣の鍛錬をし、またある旅は騎馬の鍛錬をしていた。豪壮な光景である。そこここで男たちの勇壮な雄たけびが響いた。
そしてその六旅ほどの兵たちが――いったい誰が最初に嬰の姿を認めたものか――嬰の姿を見つけた瞬間に鍛錬をやめ、どっと広場に整列したのである。幾秒かのあいだ、六旅もの男たちが駆けまわる地響きがあたりを満たした。
(慕われている)
閖は、前列に並んだ兵たちの双眸をざっと見まわした。その視線が、迷うことなく嬰に向けられている。どのような命がくだされても遂行してみせる、という熱い視線であった。
これほどとは思わなかった、と閖は静かに考えをめぐらせた。これほど熱い眼で主人を見つめる兵たちを、そう容易に懐柔できるとは思われぬ。
「素晴らしいものだ。熱気がある」
「杞に恨みはないが……陛下が望んでおられるのでありましょう。それならばいくらでも我々は戦いまする」
なるほどこの男、舜帝陛下の真の思惑を見抜いているのか――杞妃の掌でかどわかされていると見せかけておきながら、杞をまるごと呑みこむ時機を窺っているのだという真実を見抜いている。
(…………)
このときうっすらと覚えた違和感を、閖は故意に見逃した。どうやって嬰がこれほど大量の鈷竹の馬を手に入れたのか、そのための金銭がどこから出たのか、閖はいっさい問わなかった。
ちらりと秋沙が閖を一瞥してから、嬰に問いかけた。
「これだけの馬を手に入れるのに、ずいぶん金銭が要ったでしょう」
秋沙の笑顔はほがらかである。
「ええ――昔から経済的にはいっさい困窮したことのない家でございますから。氏のものたちがみな、懐から金を出してくれました」
蔡氏のなかには商いをするものが多い。皇帝への朝貢の品も、ずいぶん高価なものや稀少なものを揃えてくる。彼らは地に根づいた舜でもめずらしく、はるか昔から海の向こうと交易をしてきたのであった。
「血縁に恵まれましたな」
閖もまた、優雅でほがらかな顔つきである。あたたかく嬰に笑いかけた。それほど歳が離れているわけでもない。嬰も生来の好青年であるから、三人揃っていると、幼いころから親しんできた友のようでもあった。
◆ ◆ ◆
秋沙は室のなかから、じっと夜空に浮かぶ月を見つめた。昼どきの嬰との対面時に、閖はなぜふいに口を閉ざしたのか。どうやって嬰が鈷竹の馬を大量に手に入れたのか、あるいはそのための金銭がどこから出たのか――本来なら追及すべきことを、彼はあのときいっさい問わなかった。
(あなたはもう、すべてを察しているのではないのか)
閖の双眸が一瞬いぶかしげに歪んだのを、たしかに秋沙は見ている。
本能が、あるいは『風の者』としての直感が、彼に違和感を与えたにちがいなかった。それをなぜ、彼はあえて見逃したのか。
(閖、わたしたちはまだまだ……)
たがいに優しすぎる。
閖とともに嬰を訪ねるよりもはやく、秋沙は彼と対面していた。このときに、蔡氏は柳に与するという誓約を取りつけている。言葉たくみに誘ったわけではない。柳へおいでくださいませと、ひとこと笑顔で言っただけである。嬰もまたそれを、あっさりと承《う》けた。
(母上……)
柳を出るときに父と交わした言葉を、秋沙は静かに思い返した。
――蔡氏を訪れよ、と父は言ったのであった。
「蔡氏……」
舜の豪族である。潤沢な経済力を誇る商いの一族でもあった。たしかに謀叛の兆しありと疑いをかけられて討たれてもおかしくはないが、と秋沙は考えをめぐらせた。蔡氏を討てばほかの豪族たちにたいする良い見せしめになろうし、何よりその財がそっくりそのまま舜皇室に転がりこんでくる。
「あれは柳につく。柳に与する日を待ち望んでいるぞ」
父は断言した。
「もう布石はうたれてある。おまえの……」
そこまで聞いて、秋沙ははっとした。“おまえの”――わたしの。いつかの日のために、誰もが予想し得ないほど緻密な布石をうち、罠をはる。おのれが死んだ後でさえも生きるだけの布石をうつ、それが出来るのは誰だ。そういったことを難なくやってのける人間を、ひとりだけ知っている。誰であったか。
“おまえの”――わたしの。
「……母上……」
父が喉の奥で小さく嗤った。なぜだか頭の隅で、ああやはり父上は母上を愛しているのだと思った。
「蔡氏の最大の秘を教えてやろうか、秋沙よ」
「…………」
「俺だけが知り、おまえの母だけが勘づいた事実だ」
◆ ◆ ◆
蔡というのは、創られた氏である。本流の氏を杼《ちょ》という。かつて柳が滅ぼした桐の杼氏とは何の関係もない。柳が建国されたときから、杼氏は柳帝の傍らに在りつづけた。
この氏がふたつにわかれた。わかれて新しく創られたのが、蔡氏である。彼らは争いによって分裂したわけではなかった。最初から柳帝の思惑によって――この柳帝というのは、今上帝よりも四代まえの帝である――舜に送りこむために分かたれたのであった。
舜という国は、往々にして民が優しい。血脈をひとつにするため絆は固いが、かといって流れてきた者たちを邪険にするでもない。身をやつしたたった数名の蔡氏の人間が、舜で蔑せられるということはなかった。舜人はそれらを受けいれ、そして舜帝はそのことにたいして何の怒りも持たなかった。つまり蔡氏というのは、ある種の間諜である。いざというときには舜を喰いやぶって柳へ戻る、その気持ちを蔡氏の全員が強く持っていた。
(閖は勘づいただろうか)
秋沙はゆっくりと瞳を閉じた。たがいの心中が読めるようだ――閖はきっと何かに勘づいている。あの男が何も気づかぬはずはない、と秋沙は思った。
今日《こんにち》まで蔡氏がことを起こさずに舜で暮らしてきたのは、舜に賢帝がつづいたからである。戦を起こすまい起こすまいとする皇帝の治世では、蔡氏に出来ることはいっさいなかった。そのうえ商いを好む一族である、皇帝が寛大な舜での暮らしは、けして居心地の悪いものではなかったろう。
柳帝よ、きさま謀ったな――と、あの母は言ったらしい。蔡氏が柳人であるというのは、代々皇帝にだけ伝えられてきた秘である。
(なんとあのひとらしい……)
後にも先にも、その事実に気づいたのは奈綺しかいなかったという。それが誇らしくもあり、秋沙の唇に小さく笑みが浮かんだ。
(時機は来た)
嬰は舜帝を見限ったわけではない。秋沙はそうふんでいる。ただあの野心溢るる若い皇帝を、おそらく彼は好きになれぬのだ――わたしと同じように。蔡氏は柳へ帰ろうとしている。近い将来に舜をつぶして柳と成し、かつて杼氏として暮らした過去を取りもどそうとしているのだ。
(誰もがおのれの還る場所を探しているのだ)
秋沙はふたたびその瞳をあけた。澄んだ瞳には、冷え冷えと輝く月が映っている。ともかく、まず杞を潰せばよい。いまはそれだけを考えていればよい。そう遠くない将来に閖と殺しあうであろうことは、もう避けられぬ。避けられぬ事々を考える必要は、わたしにはない。
――風霊《かざだま》が響く。舜と柳は、ふたたび時代の奔流に巻きこまれようとしていた。
【訣別の兆し】
――母が生きておれば、おそらくあの冷たい双眸でおのれを一瞥するだろう。秋沙は、蔡氏邸の質素な寝台に横たわりながら思った。
(母上……お許しくださいませ)
冴えてゆく。母を追慕し、ただひたすら母の遺した言に忠実に生きているつもりであった。しかし蔡氏嬰に向かって一言、柳へおいでくださいませと申し出たあの瞬間に、いまだ秋沙の心を薄く覆っていた靄は一挙に晴れた。
“おまえの主君は、柳帝と舜帝のふたりである。それを死んでも忘るるな”
わたしはもはや柳人であるのだ――わたしの主君は父柳帝であり、そのひとの他に忠誠を誓うべきものはない。秋沙がこれほど強く自覚したのは、このときが初めてである。母が生きておれば、あの冷たい双眸でおのれを一瞥するだろう。しかしまた、あの嘲るような笑みを湛えた美貌で鼻を鳴らし、この事実を受け容れてくれるであろう、とも思った。これが母に対する裏切りであるとは思わなかったし、母もまたこれを裏切りとは見做さないであろう。
母との訣別である。しかしあくまで対極へ向かおうとする訣別ではなく、個々の人間として同じものを見晴るかしてゆくための訣別である。
そうして冴えてゆくおのれの心を視ていると、もはやどのような憂えもなかった。閖を殺さねばならぬということも、さほど女の心に影を落としはしなかった。愛する男を殺さねばならぬことは、悲しいことである。しかし、それはいっそ爽やかな悲しみであった。
(わたしはもはや柳人である)
この命は柳のために尽き、この骨は柳の土に眠るであろう。
◆ ◆ ◆
柳帝と嬰は、顔をあわせたことがない。杼氏と分かたれてから、蔡氏の家は舜に馴染むために柳とのいっさいの関わりを絶った。
「支岐よ」
と、柳帝は呼びかけた。支岐もすでに、おのれの意識せぬところで柳帝の支配下にある。支岐にしてもあるいは彩にしても、かつて忠誠を誓い愛した主君と今上帝の違いに戸惑い、また今上帝にいまひとつ心を尽くすことが出来ず、それならばと長年つきあいのある柳帝のもとへ集ったのであるから、ひとの運命《さだめ》というのはまったく不思議なものであった。
「まもなく秋沙は、おのれとの闘いに勝利する。まさに秋沙というひとりの『風の者』になるぞ」
「…………」
「その戦いぶりを見届けて来い」
そう命じた。
「急がねば間に合うまいぞ。奈綺の血をひく娘だ、なすこと疾風のようであるに違いない」
拱手して退室していく男を見送って、柳帝はゆっくりと腰をおろした。
(あの男ほど、心中俺を怨んでいるものはおるまいな)
正妃奈綺の死後、実娘である秋沙を孕ませてふたりの子を産ませた柳帝である。支岐――とにかく奈綺を罵倒しながらも慕い、愚痴をこぼしながらも愛した男であるから、むろんその娘である秋沙を孕ませた柳帝にはどれほど怨み言をいっても足りないに違いなかった。
(さて、奈綺よ。そろそろ動かねばならぬときがやってきたぞ)
髪をなぶる風に、柳帝はその美しい双眸を歪めた。奈綺とよく似た、表情の薄い歪めかたである。この男もまた、つねに心のうちで奈綺と対話してきた。柳帝のもつ冷酷さや無慈悲さに、いっさい怖気づくことなく同調し得たのは奈綺以外になかったのであった。
柳帝は、舜を亡ぼしたいわけではない。血脈をひとつにしない柳が舜を支配したとしても、遅かれ早かれ舜人が勢力を握るだろうと推測しているからである。これまでに何度も記してきたように、舜人たちの絆は固い。血脈をひとつにし、我々は永遠の同志なのであると信じている彼らの力は、おそらく柳帝が思うより強大であるはずだった。
(舜を亡ぼしたいわけではない)
巧妙に利用し共存していくのが、いまはもっとも賢明な選択であろうと柳帝は考えた。
(そうしてみると、先帝……奴はやりやすかった)
互いの心が読めていた。だからこそ柳帝は彩を舜帝のもとへ遣ったまま咎めもせずにおき、舜帝は奈綺を正妃として欲した柳帝に異議をとなえなかったのである。このふたりの女は、たしかに舜柳が互いに繁栄しながら共存していく大きな架け橋となった。
(先帝よ。きさまも奈綺に手をつけて孕ませておけばよかったのだ)
と、柳帝は、支岐が聞けばなおいっそう青筋をたてて怒りだしそうなことを、心のなかで思った。
(きさまと奈綺の子であれば、あのような厄介ものにはならなかったろうに)
とはいえ、舜帝の母である彩妃はまぎれもない柳人である。野心的であり、攻撃的であり、好戦的であり――そういった性格は、柳人特有のものであった。柳帝自身が、色濃く持ちあわせている性格である。
(とはいえ、いつまでもあれでは……舜人が厭うであろうな)
舜人は、往々にして戦を好まず平穏を好む。舜を亡ぼさずしてただひとり、あの舜帝だけを巧妙に抹殺してしまいたい。ここのところ、柳帝の頭はそれのためだけに働いている。
秋沙よ、と柳帝は心のなかで娘に呼びかけた。娘とはいえ、もはやこの男にとってはひとつの駒にすぎぬ。『風の者』という誇りかな名の、ひとつの駒にすぎぬ。
ただひとつだけ特筆すべきことは、彼女がかつて全幅の信頼をおいておのれの片腕とした“奈綺”という女の娘であるということだけであった。
(秋沙よ。おまえに賭けるぞ)
まったくあの女、肝心なときに生きておらぬ。柳帝は、忌々しげに鼻を鳴らして酒器を手にとった。ふとしたときに、思うのであった。
「なぜあんなにもはやく、おまえは死んだのだ。阿呆め」
◆ ◆ ◆
秋沙の美貌は、清々としている。奈綺ほど冷たくはなく、かといって人間らしい暖かみがあるかといえば、それもない。奈綺ほど冷酷そうにはみえないが、しかしこの世でもっとも奈綺に似た女である。眼の真奥に帯びている青みが、父柳帝を思わせた。
「秋沙さま」
視線をこちらに向けないまま、蔡氏嬰は秋沙に呼びかけた。
「かならず杞を亡ぼしてごらんにいれまする――我らの」
「我らの主君の名にかけて」
と、秋沙はつぶやくように答えた。兵士たちの士気はあがっている。雄々しい活力に満ちている。彼らはみな、知っているのだ。おのれの居場所、おのれが忠誠を尽くすべき主君が誰かということさえも。
そうして蔡氏の進軍がはじまった。
やらねばならぬことが、多い。
(父上)
父は舜国の滅亡を望んでいるわけではない。ともかく舜人の反感をかわぬように舜帝を排除し、永く舜国と共存していく――それが父の考えであろうな、と秋沙は馬の背に揺られながらおのれの思考を反芻した。言葉なくしてひとの頭のなかを読み、おのれの心のうちを隠すのは、母がそうだったからである。
(杞を亡ぼし、そうして舜帝のまわりを固める『風の者』たちを殺し……)
『風の者』。同族の裏切りをけっして許さぬ一団であった。奈綺という女は、その点でまったく異質である。奈綺だけは、まさに孤高のひとであった。『風の者』という集団のなかでその存在が許されたのは、それが“奈綺”そのひとであるからだった。奈綺だからこそ許された、奈綺でなければ許されなかった。
(『風の者』たちすべてを敵にまわすことになる)
『風の者』でありながら柳帝に忠誠を誓い、舜帝に叛逆の刃を向けようとしている。主君に絶対的な忠誠を誓う『風の者』は、その“奈綺”ではない異質なものを容赦なく叩きのめそうとするだろう。
――戦わねばならぬ。柳帝から、そして母から受け継いだこのすべてを賭けて、わたしは戦わねばならぬ。そうして、負けることは許されない。
(そうだ。この感覚だ)
もはや残された道はひとつしかない、その張りつめた緊張感。わたしには、これが心地よい。清爽とした風を受けるように心地よい。母もそうであっただろう、そしてわたしもそうである。
(母上)
母との訣別であった。しかしあくまで対極へ向かおうとする訣別ではなく、個々の人間として同じものを見晴るかしてゆくための訣別であった。
【蒼き疾風】
蔡氏の軍に先立って、秋沙は杞のうちに入った。街は活気に満ちている。家々の扉ぐちには例外なく呪符が張りつけられており、それだけがどこか異質な雰囲気を漂わせていた。七つ星を模《かたど》った呪符である。
(さて)
巫王の血脈を持つ国であった。杞の巫女《ふじょ》は、星をよむ。ほかのどこの国とも異なる星のよみかたをするらしい。そしてその術は、『風の者』でさえも知らぬ。とはいえ『風の者』という特殊な一団は、そういった呪術の類をはなから嘲笑うようなものたちの集まりであるから、杞国の巫女が星をよもうが月をよもうがたいして障りはない。
杞宮廷は、外観からして質素であった。民々よりも豪奢なものを用いていては、神が降って来ないという考えからであり、けっして財政が困窮しているわけではない。
(劣悪な国家ではないのだけれどもね)
性質が悪辣であるから亡ぼす、性質が善良であるから亡ぼさぬ、この時代にそのような論はない。おのれの国にとって邪魔となり得るか、あるいは利用し得るか、それしかないのである。
「娘さんよう、餅を食うて行かんかい」
「娘さんよう、魚《いお》は入用でないかい」
砂埃の舞う大路に、落ちつきがない。ひっきりなしにひとびとが行き交い、すれ違うたびに秋沙は声をかけられた。傍からみれば、秋沙はひとりの旅女《たびめ》の体である。
どこの国でも変わりばえはしない。大路をずっと往けば、突きあたりに宮城がある。秋沙は大門の傍らで、しばしのあいだ佇んだ。杞都へやってきたのは、初めてではない。奈綺の顔をして桂山の洞窟に棲んでいたころ、しばしば杞へは忍んできている。
(悪いところではないが、どうも好きにはなれぬ)
怖ろしいというべきなのか、宮城ぐるりを巫女が囲うているのである。それも一様に、眼許と額に呪印の刺青をほどこしていた。大門の外からそれが一望できるにも関わらず、民々は何ということでもないふうに平然と日常の暮らしを営んでいる。大勢の巫女が居並ぶ光景よりも、その巫女たちが見えていないかのように平然としている民々の光景のほうが不気味であるといってもよかった。
唇をわずかに曲げて、秋沙は大門のなかへ足を踏みだした。
蔡氏嬰の軍は、表むき舜を裏切って杞国に寝返った勢力である。蔡氏は何代も昔からみごとに舜に馴染んできた強大な豪族であるから、彼らの寝返りというのは杞にとっては飛んで喜びたいほどの幸いであった。秋沙は、その彼らが杞の領土へ入ってくるための先遣の役にほかならぬ。秋沙が簡潔に用件を伝えると、あれよあれよというまに杞帝のもとへ通された。
「それではすでに国境まで、嬰軍は来ているのだな」
と、秋沙の顔を見るももどかしいと言わんばかりに杞帝が問うた。
「受け容れていただく備えさえあれば、いつでも国内に馳せ参ずることが出来ましょう」
静かに視線を伏せたまま、秋沙は答えた。杞帝ももう年若くない。おのれの存命中に舜を亡ぼしてしまいたいと、そう願っている。舜や柳のように間諜を重んじる国ではないから――この国では間諜よりも巫王巫女としての霊力のほうが重んじられる――だから、この秋沙という女が杞を亡ぼす心づもりで来杞したことには気づかぬ。まさかそんなことを女ひとりでやってのける、そんな間諜がこの世に存在するとは思ってもみないのであった。
蔡氏嬰の勢力を我がものに出来るということだけで、興奮を抑えきれずにいるのであった。
「陛下」
ひとつお伺いしたいことが、と秋沙は宰相に許しを得て言葉を発した。
「何ぞ」
「舜帝へ嫁した妃殿下について、どのように対処申しあげればよいか。その御沙汰を頂戴したく」
広間のなかには、文官長と武官長、将軍、宰相、杞帝、そうして奈綺という六名しかいない。しかしそれ以外の無数の視線を、秋沙は敏く感じとっている。どこにひとが潜んでいるというわけではなかった。
(広間のそとに、集まってきている)
あの呪いを顔に施した、まったく気味の悪い巫女どもである。あれがずらりと広間のそと一帯に集まってきている、その気配であろうと思われた。
「我が娘を、けして傷ひとつない体でもって杞まで連れ帰ってくるのだ」
(我が儘なこと)
ここでこの男を弑するのも一興ではないのかしらん、と秋沙がそう思ったときである。不意に背後で広間の扉がひらく音がした。たかが先遣の女ひとりに、ここで後ろをふりむく権限はない。秋沙はじっと背でその気配を感じている。厭な気配である。
「陛下……」
どうしたのだ、と杞帝は問うた。おのれが抱える巫女たちに全幅の信頼をおいている、そういった声色であった。いきなり広間に闖入して言葉を発しても、杞帝はそのことをいっさい咎めない。
「陛下、その娘をいますぐ始末せねばなりませぬ」
「…………」
秋沙は静かに杞帝の表情を一瞥した。男の双眸にあっというまに疑念が満ちたのを、秋沙は見た。なるほどこの国では、巫女の霊力がすべてであるらしい。霊力という類のものをいっさい信じていない秋沙にとっては、このこと自体が信じられない状況であった。
(気味の悪い国よ)
人知れず秋沙の唇が歪んだ。ここでこの男を弑するのも一興では、とそう思ったが、けしてそれは強い殺意ではない。ふと思いついただけのそれを、巫女は分厚い壁を隔てた向こうで感じとったというのか。巫女の霊力――霊力といった類のものごとは、おのれの策略と腕力ですべてを解決していく『風の者』にとっては未知のものである。
妙なことになったなと思いながら、しかしこの女は狼狽するわけでも困惑するわけでもない。このときすでに、次のおのれの行動を決めている。
「ほう、それはまた」
杞帝が巫女に次の言葉を促したのを、秋沙は気配で察している。
「その娘、陛下を弑したてまつる意志を持っておりまする」
と巫女が言った瞬間には、すでに秋沙の体は杞帝のすぐ傍らにあった。巫女の顔が一瞬凍りつき、その一瞬の沈黙ののちに広間の扉から何人もの巫女たちがぞろぞろと乱入してきたものである。異様な光景に、秋沙も思わずあからさまに厭な表情をした。
◆ ◆ ◆
表情がないことにかけては天下一の女が、ここではあからさまに厭な表情をしてみせる。ついつい見せる表情というよりは、積極的に嫌悪感をあらわそうという意志から生まれた表情といってよい。
『なんだおまえ、その表情は』
支岐が突っかかる。放っておけばよいのに、この男はいちいち奈綺のひとつひとつの仕草や言葉に文句をつけなくては気が済まないのであった。少しでも噛みつけば何倍もの鋭さになって返ってくる、いつでも返り討ちにあうのだがいっこうに懲りぬ。
『まったく厭な国だ――そう思っているのだけれど、あんたにはこれが嬉しそうな表情にでも見えるのかな』
『…………。……陛下のご命令だ。文句をいってもはじまらないだろう。国交を取りつけるなどという、これほど重大な役目はないぞ』
『いつ誰がどこで文句を言ったのか教えてもらいたいものだね。わたしは陛下のご命令に文句なぞないさ』
『…………』
歯噛みする男を尻目に、奈綺は家々の扉に張りつけられた呪符を呆れた顔つきで眺めわたした。
麻衣のうえから上衣と裳をつけ、杞都宮城に入る。この時代、小説師という人間の集団はどこの国でも歓迎された。各国で起こった政変や現状を軽やかな小噺にして聞かせてまわる業である。ひとりで各国をまわる小説師もいれば、集まって生活しながら各国をまわる小説師団もあった。
奈綺と支岐は、幼いころに身寄りをなくして老小説師に拾われた姉弟である。なぜ俺がきさまの弟という設定なのだ、と支岐は何度も奈綺に噛みついた。
“あんたがわたしの兄となれるなら、いくらでもやってごらんよ――皆わたしが姉であんたが弟と勘違いするだろうさ。それであんたの自尊心は満足かい”
噛みつくたびにこんな調子でやりこめられる。支岐のほうが三つほど年上だったが、まったくそう感じさせない貫禄と尊大さが奈綺にはあった。
『天の声が聴こえるのでございます』
何をしゃあしゃあと、と支岐はおのれの眉がつりあがりそうになるのを堪えた。いつもの声色と何も変わらないが、奈綺の表情はいつもと一変している。つねに無表情であり、たまに表情を出したとしても嘲りであったり不機嫌であったりするこの女が、いまはおっとりとした可憐な笑い顔を見せているのであった。こういうところを見ると、支岐は決まって尻の穴から髪のさきから、どうも痒くなるのである。
『畏れ多きことながら杞帝陛下、“風の者”というのをお聞きになったことはありましょうか』
話題は舜の内情に移っていた。
『聞いたことならあるぞ。間諜であろう。もっとも我が国では、その“風の者”の役割を巫女たちが果たしておるのだがな』
このとき、奈綺はまだ十五である。もともと大人びた美貌を持っていたから、しかし十七、八には見えた。たかだか十五の娘が、一国の皇帝を相手にしゃあしゃあと芝居をうつ。
『“風の者”というのはいったいどのようなものか』
『ただの間諜とは異なり、すべての能力において常人やただの間諜を凌駕いたしまする』
『巫女のようなものか』
んん、と奈綺は真剣に考えこむそぶりをしてみせた。
(この女狐め)
と、支岐は内心怒鳴りだしたい思いである。
『それとは幾らか異なるように思いまする。神や天からの宣《の》りごとを聴いて、先読みをしたり戦ったりするようなものではございませぬ』
杞帝は身を乗り出すようにして奈綺の話を聞いた。生来どこか純粋な心を持っているというのか、少年らしさを残しているというのか、その双眸が生きいきと耀いている。
『そういえばそなたは天の声が聴こえると言うたな』
『は……しかしおのれの意のままに聴くことが出来るというわけにはまいりませぬ。陛下のお抱えになる巫女さまがたとは比べものにも……』
恥じらうようにして、可憐に小首を傾げたものである。支岐は頭を抱えたくなった。
『そなたはどのようにして、天の声を聴くのか』
この時代、ことに杞のような国ではそういった霊力の類は深く信じられている。天の声が聴こえるのだ、といって疑われることはさほど多くない。奈綺のように美しいものならば、なおさらである。彼らは、美しいものを神に等しいものとして崇めてきた。
『夢に視るのでございます。夢のなかで、さまざまな光景を視る』
もっとも新しく、何を視た。杞帝はさらに身を乗り出すようにして訊ねた。
『それなのでございます、杞帝陛下』
すがりつくような双眸で、奈綺が甘い声を出した。支岐の腕には、鳥肌がたっている。動悸まで速くなってきた。腹を立てすぎているのであった。それを知ってか知らずか、奈綺はさらに美しく甘やかな声で杞帝との会話をつづける。
『……その“風の者”が杞国に与するという兆《うらて》を、夢に視たのでございまする。こちらに参ります前夜に視たものですから、わたくしも驚きました。これは何か深い縁があるのでは、と、それで急ぎこちらに参りました次第』
『なんと……“風の者”が我が国に与するとな』
『わたくしもおのれの夢を疑いましたが……ですがその翌夜も、そのまた翌夜も、杞国に参りますまでの毎夜、同じ夢を』
杞帝はそれを信じる。これほど凄絶な美貌を持つものならば、たしかに天の声さえも彼女のもとに降るのであろう――と、杞国のひとびとはそういった考えかたをするのである。この時代、杞に限らずひとびとは天の声や宣りごとといったものを信じていたが、もっとも強くその傾向にあったのが杞国であった。
杞国の繁栄をお祈りいたしまする、と奈綺は言った。
◆ ◆ ◆
「そなたが……」
素性を述べよと命じた杞帝にたいして、秋沙は何の屈託もなく“『風の者』でございまする”と答えた。杞帝の喉もとに小太刀を突きつけ、笑顔を見せたうえでの答えである。奈綺とは違って、この秋沙は笑顔を持っている。まったく性格の悪そうな、傲然とした嗤いではない。きらきらと陽光を受けてきらめくような、純粋な笑顔である。
「そなたが『風の者』か!」
(阿呆かしら。こんなにも嬉々とした顔をして)
と、秋沙が思わず訝しく思うほど杞帝の反応は大きかった。その表情には明らかに歓喜の色があり、興奮のあまり玉座から立ちあがったほどである。あたりの者たちすべてが、怪訝そうに動きをとめた。秋沙でさえも、じっと杞帝の喜びようを見つめた。母がかつて杞帝にもたらした偽りの兆《うらて》を、むろん娘は知らぬ。しかも当時平然と言ってのけた奈綺の兆は、あくまで彼女がでっちあげたまるきりの嘘である。二十年ののちに秋沙がこういったかたちで杞国を訪れることを、けっして予想したわけではない。それでなくとも、そのとき奈綺の腹に子はいなかった。柳帝と出会ってもいなかった時代である。
「そうか、なるほどそうか、あの女小説師の先読みはまことであったか……!」
(女小説師……?)
「巫女の言に乱され、疑うてすまなんだ。二十年ほども昔にな、わたしにはある先読みが与えられておったのだ」
「……申し訳ございませぬ、杞帝陛下。どうも体が反射的に動くように出来てございますゆえ……」
「いや、はや、それほどの身体能力があるということぞな。素晴らしい」
慇懃に謝罪しながら、秋沙の頭のなかはめまぐるしく働いた。
(女小説師。二十年まえ……先読みの言)
「いまでも覚えておるぞ。身寄りをなくした姉と弟でな、“風の者”がいつか杞国に与するという言を残していったのだ」
「…………」
「弟の名は支岐といったかな、姉も似たような名を持っておったはずだ」
秋沙の双眸が柔らかく微笑んだ。
(支岐さまのほうが年上でいらっしゃるのに)
「……そんなにも昔から先読みされていらっしゃいましたか」
「それをずっと待っていた。待っていたぞ」
「嬉しゅうございまする。さきほどはご無礼をいたしましたが、力を尽くして杞国の繁栄のために働きたいと思うてございます。“風の者”が与すると申しましても……」
と、秋沙は申し訳なさそうに付けくわえた。
「すべての“風の者”が舜に叛くというわけではございませぬゆえ、心苦しくはありますが……」
「よい、よい。“風の者”がひとりいるだけで百人ほどの力にもなり得ると聞いておる」
潮がひくように、巫女たちが退がっていく。
――奈綺は無情な母であった。子のために何かをしてやろうとする気持ちなどなかったし、あくまで駒として子を産み落としただけであった。産み“落とした”というのがふさわしかった。
ただ主君の治める祖国を護る、その一心でひたすら風のごとく駆けてまわった。それがいま、知らず娘を援けている。
(母上。わたしはいつまでたってもあなたを超えられませぬ)
そう悔しくも思った。
(けれど母上。わたしのゆく先々に母上がいてくださることが……)
こんなにも嬉しい。秋沙の心は、いっそう晴れ晴れと耀いた。母との訣別があってはじめて、この娘の心はまさに母ととけあったのであった。
【天に昇れり】壱
ひとりの男が、静かに柳舜の国境を越えた。一種の感慨を心に抱きながら、男はそれでも着実に歩みを進めた。柳も、また舜も、美しい国である。
この男が舜都へたどり着くことができたのは、彼が国境を越えてから九日後のことである。ずいぶんのんびりとした旅路であった。奈綺が一日で駆けていた道のりである。かといって男が年老いているわけでもない。むしろ若く、顔だちは爽やかであった。それがまるで年寄りのようなのんびりとした足どりで、舜都まで旅をしたのであった。
「やあ、薬をおくれでないか」
舜都の大通り中ほどにある薬屋を、男は訪ねた。
「はいな、どんな薬が入用だい」
とやや乱暴な口ぶりで応対に出たのは、柳から帰ってきた彩である。薬屋の本来のあるじである支岐は、柳帝の命で秋沙を追って杞へ向かっていた。先帝が崩御するまでは、奈綺とくらべても艶めいた女らしい女であった彩だが、ここ最近はどうも仕草や言葉じりが乱暴になっていけない。時間をおいて死んだ奈綺の影響を受けている――というよりは、この女なりに理不尽な世を生きていくためのひとつの防護であるかもしれなかった。
「あんた、旅人なのね。どちらから?」
痛みどめと胃薬が欲しいというから、彩はそれらを調合しながらちらりと横目で男を見た。若く、整った顔だちをしている。
「柳からだよ」
「柳から? そう、柳から……」
もともと柳の間諜として生きていた女である。柳という国は、いまでも愛おしい。そしてまた彩は、生まれつき性格の善い女でもあった。人間らしい愛を求め、女として幸せになることを望み、また情にも厚かった。
そういう女であるから、いまだに悩んでいる。かつて友誼を交わした奈綺の娘――秋沙のあの生きざまを。奈綺という片腕を失くした柳帝の苛だちを。
「柳も大変だね、まったく」
「…………」
旅の男は、しばらくの長い旅のなかで誰かとの会話を待ち望んでいたのだろう。ぽつりぽつりと言葉をつづけた。
「十年もまえに陛下のご正妃が身罷りなさって災いがつづき、今度は皇太子殿下がお亡くなりになってしまった」
「……なんだって?」
思わず彩は薬を調合する手をとめた。おのれの顔から血の気がひくのを感じていた。
「柳の皇太子殿下がかい」
「ああ。もうずっと昔から、病に倒れていなさったんだよ」
(それは知っている。それは知っているわ)
――朱綺。あの偉大な『風の者』奈綺から名を受け継いだ、もうひとりの彼女の子。あれこそが表舞台に立つはずの、れっきとした柳帝の嫡男であった。
「ほんとうにお亡くなりになったのかい」
「皇家の皆々さまは、何としてでも隠そうとなさっているけれど……」
「あんたいったい、柳で何の業をしているの」
皇室づきの薬師だよ、と男は困ったように微笑んでみせる。人の良さそうな笑みである。薬師ならわざわざうちに寄らなくてもいいんでないの、と彩は疑わしそうな眼を向けた。
「……柳帝陛下にね、頼まれたのさ」
「…………」
舜で薬師をしている女がいる。そいつに皇太子の死を告げておけ――そうすれば舜の国なかで何かが起こったとき、その女が巧妙に対処するだろう。おまえは舜でその女とともにいて、内情をよおく見ておけ。そう頼まれた、いや頼まれたというよりは命じられたのさ。
と、若い男はそう言った。
◆ ◆ ◆
――いったい祖国柳は何に呪われているのだろうか、と彩は溜め息をついた。この十数年間、まさに災いつづきである。
(これが柳を亡ぼすための奈綺のたくらみだとすれば、まだ納得もいくけれどね)
奈綺が生きていたころは、と懐古することが多くなった。死んだ人間にいまも振りまわされている。あの女が生きていたころ、たしかにこちらの心の在りようもいまとは異なっていた。獣とも人間ともいえぬあの不思議な“奈綺”という生きものにさんざ振りまわされ、毒づかれ、利用された。そこまでされてもなお憎むことのできない、妙な魅力というのか引力というのか、そういったものを彼女は持っていたのであった。むしろあの殺伐とした美しい生きざまを、心のどこかで羨むところがあったのだろう、自然おのれの心の在りかたも、心地よい泡だつような緊張感を伴っていたのである。
奈綺が死んで、それが失せた。支岐もそうであり、また別の意味で深い悲しみや衝撃に心を痛めた斂もいたし、柳帝は柳帝で彼なりに奈綺の不在を嘆いた。
それらのひとびとに追いうちをかけるようにして、この十年は飢饉に蒼河の氾濫、大雪。結果的に生きていたものの、ほんの一年ほどまえには秋沙の訃報に絶句したものである。そうしてここにきて、ただひとりの皇太子朱綺の逝去が伝えられた。呪われているとしか思えない、と彩はうなだれた。
(……陛下……)
奈綺だったならば、と彩は考える。そんなもの体が弱かっただけだろうよ、そう言うに違いない。たまたま天候の異変で不作だったのだろうさ、そういつでも豊作がつづくなどと思っていたらただの阿呆だよ、そう言うに違いない。雨が多ければ河は氾濫するとも、あたりまえのことだろうに、そう言うに違いない。こうして奈綺だったなら、と考えることも実は心苦しいのである。
柳はもはや存亡の危機に立たされているのであろうか。柳帝ひとりの力ではもはや立ちゆくことは出来ぬのであろうか。
「おい、ぼうっとしてどうした」
と、やや強い声がかけられてはじめて彩は正気にかえった。目のまえに、薬を望んでいるらしい呉服屋のあるじが訝しげな顔をして立っている。
「ああ……ああ、ちょっと昨夜腹痛で眠りそこねてね。つい居眠りしかけていたよ」
「うん、そうかい。驚いたね、あんた病とはいっさい縁がなさそうだから」
そうだねえ、と彩は薬の調合をはじめた。間諜である。体は強い。
「いや、ここ数日おかしいことつづきだ」
「うん? 何かあったかい」
独り言をいうようにつぶやいた声を、彩は耳ざとくつかまえた。
「あまりにも誹謗と処刑の追いかけっこが多くないかい」
「…………」
ああ、と考えぶかげに相槌をうちながら、彩は静かに調合をつづける。呉服屋のあるじが言っているのは、このことである。数日まえに街はずれに立て札がたてられた。舜帝を諌める内容のもので、この時点ではまだ民々もたいして気には留めていなかった。何度も述べてきているように、この国のひとびとは情に厚い。いまいち自分たちの理想からはずれた皇帝であっても、それが舜帝であるというだけで暖かく支えようという気持ちが強い。しかもいまの舜帝の場合、いまだ記憶に新しいあの先帝の子であるという期待があるから性質が悪かった。民々が、舜帝の廃位をいっさい望まないのである。
「やはり陛下がお妃さまの呪力でおかしくなっちまったのかね」
「……さあ、どうだろうね。どうもおかしい、これだけは確かだけれどね」
それが数日後のいまでは、民々の心が動きはじめている。立て札に影響されて噂ばなしをはじめた民々を捕まえては、何の詮議もなくその場で首を斬っているのであった。
(……たしかにあの子は冷酷だけれども、人心を手放すほど阿呆では……)
めったに街のことに首を突っこむことのない舜の役人が、日々そこらじゅうを闊歩しているのである。舜の役人は、宮城の敷地内にそれぞれ小さな居宅をかまえている。おかしいといえば、それ自体がおかしい。
(ほんとうにそれは舜の役人なのかしらん)
「しかもその光景は街の中心では見られないんだな」
「……そうだね、たしかにいまのところ、わたしもその現場に直接居合わせたことはないもの」
「それらが行われるのは、いったいどういうわけかな……一応我々に見せまいという配慮でもしているのかな、街のはずれなわけだ」
ざわり、と鳥肌だつのがわかった。舜人がそのようなことをするわけがないのである。
(……舜人がするはずがない。するとすれば、舜人以外のものだ)
いや――ここ数日、そんなに見慣れぬ異国人《ことくにびと》を見ただろうか?
(見ていない。そんなものは舜のなかに……少なくとも都のうちには入ってきていない)
そういった類の観察眼には、むろんこの女も自信を持っている。だれがいつから舜の都うちに入ってきたのか、それがどこの国のひとであるのか。いったいどのような目的を持っているのか、そういったことを観察し見抜く眼力はある。
(しかし舜の役人はみな舜人であったはず。あのなかに異国のものは混じっていない)
混じっているとすれば杞の人間か――いや、あの野心に満ちた舜帝が杞人を役人に据えるはずもない。
「おっと若だんな、お帰りかい」
「ああ、呉服屋のあるじ。ちょいと出かけていたら、痛みどめが切れていることに気づいてね」
彩は、人あたりのよい笑顔で痛みどめを取りに戻ってきた男を一瞥した。柳帝の命を受けてここに来ている、ここに来て内情を探っているだけである――そう思っていたが。
(数日まえから都うちに入ってきた異国人は……しかし、この男しか)
◆ ◆ ◆
彩が思っていたよりも容易く、男はおのれのしたことどもを暴露した。悪びれた様子もない、やはりその表情は爽やかである。
「どういうつもりでそんなことを」
とはいえ、先帝崩御のときから心は柳にある。責めるでもなく、彩は問うた。
「あまり度をすぎたことをしていると、『風の者』が出てくるよ」
「俺は杞の間諜をそそのかしてみただけさ」
青年はにこりと笑った。何てこと、と彩は天を仰ぎたい気持ちになった。『風の者』の怖ろしさを、この女は知っている。奈綺や秋沙を敵にまわしていれば、いったいどうなっていただろうか――奴らはみな、標的を一撃で仕留めることに長けたものたちばかりなのである。
「あんたは『風の者』の怖ろしさを知らないでしょう。少しの注意や警戒で逃れられるような、そんな攻撃はしてこないよ」
「知っているよ」
思わず彩は、大きな溜め息をついた。
(知っているよ、ですって。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、この若造め)
そうして間諜である彩の五感は、ちょうどそのとき気配を感じた。すでに室内にひとがいた。室内に入ってくるまで気づかなかったのだから、よほどその気配が薄かったのだろう。そしてそれが室内に入ってくるまで気づかなかったおのれを、彩は情けなく思った。
(そらごらん。『風の者』ってのは……演出にもこだわるんだね)
どうせこの数日、こちらの様子をじっと暗がりから見つめていたに違いない。この室内で『風の者』の話題が出て、それいまだと言わんばかりに滑りこんできたのだろう、と彩は思いきり顔を歪めた。
「……ね、出てきてしまったじゃないの」
捨てばちな気分で、彩は吐き棄てるようにそう言った。
(死ぬかしら)
と、彩は思った。ただし、先帝が生きていたころのような死にたいする嫌悪はない。遺して惜しいものがないからである。ともかく柳帝から遣わされたこの青年を、そう容易く死なせるのもまずいだろう――彩は渋面をつくったまま、黒い影と対峙した。
静かに立っているのは、黒く染めた麻衣をまとった男である。『風の者』には余裕がある――何がどうあっても、狙ったものの息を確実に止める自信があるからであった。その余裕が、対峙する人間に恐怖心を与える。
「ひとつだけ聞いておこうと思ってな」
と、その男は穏やかに言った。
「どういうつもりで、わざわざこのような混乱を起こしたのか」
『風の者』はもはや彩を見ていない。まっすぐに傍らの青年を見つめている。この状態で青年はにこにこと笑顔を絶やさないのである、彩は呆れもし、驚きもした。
(この男……『風の者』を眼のまえにして、怯えもしないわ)
「どういうつもりって、分からないかい」
「…………」
「これが舜にとって幸いになればなあ。そんなことを思って起こしたことだとでも、思っているのかな」
「……ふざけた物言いをしてくれる」
「ふざけていないさ。俺はね、柳から来たよ。なぜかって、いまの舜帝は柳にとって邪魔な存在にほかならないからさ」
ぴくりと彩の眉が動き、対峙している『風の者』の唇もかすかに動いた。彩はそれを見逃さぬ。
「柳人よ。わたしも苦悩している。舜帝陛下の溢るる野心が、あまりにも先帝陛下と異なりすぎているからな」
「そうだろうとも。舜人はもともとの気質が穏やかだからね。おまえたち『風の者』だって、特別に好戦的だというわけではないだろうさ」
「…………」
さらに『風の者』の眉が動いた。ひとつでも間合いを誤れば、殺しあいになる。それがわかるだけに彩も迂闊に身動きできず、口出しもできないのであった。爽やかであり穏やかでもある青年の物言いが、『風の者』を牽制している。
この『風の者』は口ぶりからするに、先帝の時代を知っているもののようであった。
「俺たちは」
と、青年はおのれと彩をひとくくりにしたような言いかたをした。彩は視線だけで軽く彼を一瞥した。
「俺たちは、先帝の時代を知っているよ。間諜のひとりも、捨て駒にはなさらなかった方だ、そうだろう」
「そうだ。しかし先帝陛下の時代は過ぎた、もはやこの国は陛下のものなのだ」
間諜特有の、ものの割り切りかたである。生きていくために、彼らはさまざまなものを切り捨て、割り切り、諦める。家族のもとで暖かく暮らすことを諦め、邪魔となれば恋人を捨て、あるいは青春をも恋をも諦め、時としておのれの命さえも切り捨てる。
「柳人。おまえはその舜帝陛下を邪魔であると判じたのだろう」
奈綺がいれば、とふたたび彩は思った。あの女がいれば、この若い男ふたりなど頭から抑えこむことができたろうに。
(わたしでは口出し出来ぬ)
「それならば、わたしは闘わねばならぬ」
「…………誰も舜を亡ぼしたいといっているわけではないのだがなあ」
「わかっているとも。しかしわたしたちにとって、国は命懸けて護り伝承するものであり、皇帝はその国も同然なのだ。その治世のしかたが是か非か、そういったことはもはや問題にはならぬ」
「……根っからの『風の者』だな。融通も利かないときた、ほんとうに困るね。そうして死ななくてもいいときに死んでいくのだろう、『風の者』というのは」
ふと青年の双眸に、何ともいえない悲しみの色が浮かんで消えたのを彩は見た。
(何者なのだろうか、この男……)
「わたしは死なぬ。死ぬのはおまえだ、許せよ」
『風の者』の体が一瞬沈んだかのように見え、彩が慌てて青年を引き倒そうとした――引き倒そうとしたそのときには、すでにそこに青年の体はなかった。
(なに!?)
「困ったな、俺もいまは死ねないのだ」
ぱっくりと綺麗に切り裂かれていたのは、さっきまで卓子のうえにあったからの木箱である。この青年は、『風の者』の、まさに疾風のような攻撃をいとも容易く避けたのであった。『風の者』の双眸が、強く耀いた。
「避けるか、わたしの攻撃を」
「避けなければ死ぬだろうに……」
あまり体力は使いたくないのだがなあ、これはもう闘わず済ますわけにはいかんのだろうなあ、と青年はぶつぶつ言いながら瞬きを幾度かしてみせる。なんという度胸か、と彩は茫然とした。瞬きをするあいだにひとを殺すことができる、それが『風の者』である――それを眼のまえにして瞬きをぱちぱちとやってのけるこの根性は、まったくただものではないと思った。
「しかたがないな。それでは言葉を返そうか、俺は死なぬ。死ぬのはおまえだ、許せよ」
――この不敵な根性を、わたしはどこかで見たことがある。激昂することもなく、どこまでもおのれの律動で生きぬいたひとりのひとを、わたしは知っている。彩はただふたりの男の体が暗闇に跳ぶのを、夢のなかの出来事のように見つめていた。
“皇太子朱綺さまはお亡くなりになった”
その言葉が、頭のなかでこだました。
(ああ――けれども)
『風の者』の攻撃をこれほど容易く避けることができるのは、奈綺だけであったはずである。
(……まさか)
彩は、朱綺と直接対面したことはない。まさか――あんたが朱綺であるのか。彩は凍りついた。
【天に昇れり】弐
暗闇のなかで、数秒のあいだ言葉もなくただ気配だけがぶつかった。
「俺の頼みを聞いてほしいんだ」
彩はその瞳を凝らした。足もとに何かが転がっている、視線を落としてそれがひとの手首であることを確認してから、ふたたび彩は視線をあげた。間諜であるから、この女も落ちついている。とはいえ、青年と『風の者』それぞれの形勢を見てとって内心仰天した。
手首を落とされていたのは、『風の者』である。青年自身は頬に切り傷を作りこそすれ、それ以外に目立った外傷はない。
「『風の者』のなかでもっとも権力を持つものを、俺のもとに寄こしてくれないか」
「……手首ごとき落としただけで、わたしを容易く首肯させられると思うな」
思ってなどいないさ、と青年は言った。
「わかっているよ。手首を落とそうが、脚を失おうが、おまえたちは相手の息の根を止めるまで戦うのだろう。おのれが死ぬのは、そのあとだ」
「……どうもおまえは『風の者』のことをよく見知った物言いをするな」
斬られた手首から血がとどまることを知らないかのように流れでるにも関わらず、男がまるで平然としたふうで青年と言葉を交わしていられるのは、これもむろん男が『風の者』だからである。彼らの精神力は強靭であり、なおかつ柔軟であることは柳に等しい。
(危な……)
闇のなかから飛んできた小太刀を認めて、思わず彩は声をあげそうになった。『風の者』が投げてよこした幾本もの小太刀を、しかし青年はいとも容易く叩き落とした。『風の者』の双眸が一瞬強く瞠かれたのを、彩は気配で察した。
「おまえは何だ」
呻くように、『風の者』は問うた。ちらりと彩が視線を落とす。青年に叩き落とされた小太刀は、すべて真ん中から断たれていた。鋭い切りくちである。『風の者』が静かに身動きをするたび、血だけがやかましく流れでていく。これでよくも立っていられるものだ、と彩は小さく唇をゆがめた。
「俺は柳人だよ」
「おまえは、いったい何だ」
青年の傷は少ない。先述したように、体のそこここに多少の切り傷を作っているだけである。
「俺は柳人だよ。そう言っているのに、おまえはいったいどんな疑念を?」
「……似ている」
「うん?」
彼の手で、扇の糸刃がゆらゆらと揺れていた。糸刃扇である。それがまさに、彼が柳人であるという証なのであった。糸刃扇は、元来柳の間諜が愛用する武具である。他国の間諜のもとへは渡らぬ。
「何に似ている」
「…………」
ほんのわずか、『風の者』が躊躇した。彩もすでに、彼がなぜそこで躊躇したのかを察している。流麗な扇さばきに、また『風の者』の攻撃をこれほど巧みに避ける仕草に、間違いなく彼は奈綺の面影を見ているのであった。彼ら『風の者』にとっては、懐かしい面影である。彼らにとって奈綺は敵ではない。憧れ慕うべき、ある意味で説話的な存在であった。
「俺にはもう時間がない。おまえを殺さねばならぬ」
と、青年は爽やかに言った。その美しい顔だちも、静かな笑みも、すべてが爽々としている。どことなく斂に似ているな、と彩は思った。むろん青年がおそらく奈綺の産んだ長男であろうということは、心の奥で確信していたのだが、あの女にはこういった爽やかさはなかった。
「『風の者』のなかでもっとも権力を持つ者を、俺のもとへ寄こしてくれないか」
「……ならぬ」
青年は片眉をさげた。心の底から、困ったな、と思っているふうであった。
「おまえでは話にならない。『風の者』たちを統べることのできる、それくらいの力を持った者が必要なのだ」
「……ならぬ。おまえは柳人であり、わたしは舜人である。是非善悪はともかくとして、我々はおまえの言うことを受け容れられないのさ」
そうか、と青年は一言つぶやいた。青年のしなやかな手指がちらりと動く。動いたときが、『風の者』の最期であった。一瞬闇のなかに糸刃がきらめいたかと思うと、鮮血がほとばしる激しい音とともに、ごとりと首の落ちる音が響いた。
「融通が利かぬやつらだよ」
拗ねたように唇をゆがめた顔に、悪意がない。心底惜しいと思っているような表情で、軽く糸刃扇を振りはらった。血滴が土間に落ち、浸みこんでいく。彩は何ともいえない気持ちでそれを見おろした。
「朱綺さま――何と悪いご冗談を」
つい先刻まで“あんた”と呼んでいたにも関わらず、彼女の唇からは何の抵抗もなく敬語が洩れた。奈綺を母に持つとはいえ、かつての主君の嫡男である。
「俺はもう皇太子じゃあないよ。何も冗談なぞ言っていないさ」
「……皇太子ではない?」
「俺は皇太子の位を降りたもの」
(……何と)
秋沙が父上の子を孕んだだろう、と朱綺は言った。彩は覚えている。この男がまだ幼い少年であったころ、彼は会えぬ妹に深い肉親の愛を注いでいた。国を護り、父母の支えとなり、そして妹を守る――それがおのれの使命なのだと、彼は言っていたはずだった。それがあまりにもあっさりと、“秋沙が父上の子を孕んだだろう”と言ってのけたから、彩は少なからず違和感を覚えたものである。
「だから、舜先帝のご正妃が俺に気遣う必要なんてないとも。むしろやりにくいよ」
厭味を言っているふうでもない。この男はどうやら、生まれもっての性格の好さを備えているらしかった。そういった意味では、両親に似なかった子であるといってよいだろう。
「……それなら……朱綺」
と、彩はあっさりもとの物言いに戻った。
「いま、秋沙のもとに駆けつけてやるべきなのでは?」
秋沙はおのれのなかに沈むさまざまのものを殺し、杞に赴いている。ただびとでないものを両親に持った、ふたりの子。もはやその兄妹が手を携えることでしか、道は続かないのではないだろうかと彩は思った。
「こんなところで飄々と『風の者』の相手をしている場合ではないでしょうに。妹を……妹がおのれの実父と交わってあんたは平気なの」
知らず彩の唇は小さく歪んだ。柳帝も、秋沙も、朱綺も――なぜ彼らはこれほど平然としていられるのか。おのれの実娘を孕ませ、あるいはおのれの実父と交わり、あるいは妹がおのれの異母弟を産みおとし――だというのに、何事もなかったかのような顔をして国の行く末をまっすぐに見据えている。わたしや支岐とは、決定的に違う。わたしや支岐はおのれの行く末を見つめ、彼らは国の行く末を見つめ、なるほどわたしたちのあいだに厳然と聳えたつ壁はそれなのだ、と彩はひとつ息を吐いた。
(……哀れでもあり、誇りかでもある)
「俺たちは母から聞かされてきた。愛しあったふたりの男女に求められて生まれた命ではない」
おまえはおのれの子をその手で殺すことができるのか、と問うたとき、奈綺は何の躊躇いもなくできると答えた。あのときの彼女の声が、鮮やかに彩の脳裡に甦る。
「俺は父上の跡を継ぐべく産みおとされ、妹は俺の手となり足となって暗躍できるようにと産みおとされた。俺たちはふたりの愛の証ではなく、国を形づくる柱のようなものなんだよ――俺たちがおのれを慈しむことは許されない」
哀れと思うかい、と朱綺は微笑んだ。すでに彩は、足もとに転がっている死体のことは忘れている。奈綺の遺したひとりの若者に、心が惹きつけられていた。両親に似ぬ爽やかさを持っているくせに、それでもどこか奈綺を見ているような気持ちにさせられている。
「俺たちは、おのれのすべきことを知っている。だからする。俺は病に倒れた、だが最後の力を振り絞って出来ることは数々残っているだろう。それはけっして、妹の支えとなることではないんだ」
疲れたのか、そっと彼は木椅子に腰をおろした。風が血の臭いを乗せたまま、ふたりの髪をなぶる。
「帝位には、いつか秋沙の産んだ子のどちらかが就く。どちらを就けるか、そういったことは父上が考える。俺は命尽きるまでに、おのれが出来ることをする――母のあとを辿り、『風の者』たちと話をし、柳舜が共存してゆける道を探らねばならぬ。秋沙は『風の者』として国のために戦い、駆けまわり、道を塞ぐものを殺していかなくてはならない」
あの母の訓えである。あの父の訓えである。おまえたち兄妹は生きるために生まれてきたのではないのだ、と言い聞かされてきた。国を、そうしてまた民々を生かすために生きねばならぬのだと訓えられてきた。
遠くを見晴るかす清明な母の双眸。揺るがぬ自信に満ち満ちた父の双眸。必要となれば躊躇いなくひとを殺すことのできる、彼らの手つき。それらはすべて、新鮮な感動をもって子どもたちの胸をうった。物心ついてから、母の存命中に一度だけ妹と顔をあわせたことがある。
ああ、と兄は胸うち震える思いがしたのであった。我々兄妹の心のなかには、相通ずるものが滔々と流れている。視線がぶつかったあの一瞬で、たがいの行き道を悟り、そうしてそれをたがいに受け容れたのであった。兄は朱綺としてすべきことをする、妹は秋沙としてすべきことをする――父は柳帝としてすべきことを、母は奈綺としてすべきことを。我々は守りあう存在ではないのだと兄妹は悟り、それをむしろ誇りかに思ったのである。
哀れと思うかい、とふたたび朱綺はつぶやくように言った。哀れと思われていることが歯がゆい、そういう表情である。
「……けれど俺たちが守りあってしまったら最後、俺たちはたがいに情けなくてすぐに自害するだろうね」
ひとは――おのれの価値観で他人の幸不幸を決めてしまいがちだ、と朱綺は暗闇のなかを見透かすように視線を投げた。
「不幸でも何でもないのだよ、俺も秋沙も。誰もが俺たちを見ると、何という運命を背負ってしまったのだろうとつぶやく。師でさえもそうだった。けれど俺たちにとっては、こうして生きていくことが何よりも自然であり、こうして生きていくことに不満などないのさ。むしろこうして父の行く道を援け、母のあとを辿り、それが誇りかですらある」
饒舌なのは、わたしが亡母と旧知の仲だったからであろうか。彩は目の醒めるような思いで、彼を見つめた。
(奈綺も……あの女もそうだった)
不幸であるようには、とうてい見えなかったではないか。
(わたしはどこまでも、奈綺には近づくことが出来ぬ)
「あんたの誇りかな母のために、わたしは何でもしましょう。わたしが力になれることは?」
あんたの誇りかな母のために。その言葉に、青年は爽やかな笑みを見せた。おのれを置いて早々に死んでいったあの冷たく無情な母が、愛おしくて誇らしくてたまらないという表情に違いなかった。ふたりの子は、生涯その曇りなき心で母を慕いつづけた。よくよく思えばそれは不幸とは縁遠い、たしかに幸せに満ちた誇りかな生涯であったのだろうと、彩はあとになって何度もそう思いかえすことになる。
◆ ◆ ◆
秋沙の産んだ男の双子は、斂、奈綺と名づけられた。彼らはこのとき、まだ一歳にも満たぬ赤子である。母の暖かみを知らずに『風の者』として育てられた彼らは、十五の歳にふたり柳に戻ることとなる。それが彼らにとって初めての、父との対面であった。その日が来ることを実は柳帝だけでなく朱綺も、そしてひそかに秋沙も、心待ちにしていた。もはや彼らは舜人ではない。奈綺の産んだふたりの子は、正真正銘の柳人《りゅうひと》である。
【風咆の暁】
――風が咆えている。その風咆のまにまに巫女たちの声ならぬ声が沈んでいるようでもある。巫女たちの霊力がもっとも高まる日没時に、蔡氏嬰の軍は入杞した。秋沙はその先頭に、蔡氏嬰と閖、そして懐かしいひとの影を見た。蹄音も雄々しく近づいてきたその男は、ぶっきらぼうに吐き棄てた。
「……来たぞ」
支岐であった。閖と支岐が並んで馬を駆っている姿に、秋沙は不思議な感慨を覚えていた。
入杞した蔡氏軍は、杞人すべてに歓迎された。これこそが巫女の力によって招び寄せられた援軍であるのだといわんばかりの、たいそうな歓迎ぶりである。杞帝は喜びのあまりに涙ぐみ、蔡氏嬰はそれに困惑して片眉をさげた。巫女たちはひとを酔わせるような抑揚で歓迎の歌を歌い、何代ものあいだ強靭な意志によって他国で暮らしてきた柳人たちは何ともいえぬ苦い顔つきで盃を受け、そういったさまざまの光景を閖と秋沙がじっと見つめていた。
「嬰さま。ともかく蒼河までゆきましょう」
と、秋沙は閖を一瞥してから蔡氏に語りかけた。傍らに巫女たちが控えているが、秋沙は声をひそめるでもなく朗らかに言葉をつむぐ。酔っているのではない。母に似て、酒にはめっぽう強い女である。この明朗さは、生来のものであった。気の許せぬ宴のなかで、秋沙は次々と盃を空けながら微笑んだ。
「渡河さえ出来れば、あとは舜都まで容易く攻め入ることが出来ましょう」
「その蒼河というのは」
ひっそりと口を挟んだのは、傍らに控えていたひとりの巫女である。
「それほど渡河の難しい大河なのでございましょうか」
「蒼河を渡ったそのさきで、舜軍が待ち伏せているというようなことは?」
さらにもうひとりの巫女が言葉を乗せた。『風の者』秋沙と蔡氏嬰が巫女たちを交えて話しこんでいることに気づいて、杞帝が酒器を片手に持ったまま裾をさばいて歩み寄ってくる。
「ありえないとは、言いきることが出来ませぬ」
嬰は肉の塩漬けに箸をのばしながらそう言った。閖の一瞥が、秋沙の一瞥とすれ違った。閖はかなり遠くの席で、支岐と並んで座っている。
「……巫女さまがたの御力をいただくわけには参りますまいか」
ほとんど消え入るような声であった。秋沙がつぶやくように、そう言った。援けに来ておきながら巫女たちの霊力を頼ろうとしているおのれを、恥じているような顔つきである。
「少数の軍であらば、我々『風の者』が殲滅してごらんにいれまする。しかし大軍が布陣している場合には、すぐにでも蒼河を離れ引き返さねばなりませぬ。万が一のそのときに……」
巫女さまがたの霊力をお借りしたいのでございます、と秋沙は言った。
「貴女はなぜ」
年配の巫女が、これもまたつぶやくように問うた。
「そのようによくない結果を、なぜお考えになりますのか。考えれば、そのとおりのことが起きてしまいましょうぞ」
蔡氏嬰は、黙って視線を秋沙に遣る。その秋沙は、困ったように巫女へ笑いかけた。
「……我々『風の者』がけして群れることなく、この争乱の世を生き抜いているのかおわかりでしょうか」
「…………」
「つねによくない結果を頭に描いているからなのでございます」
いつでも『風の者』の頭のなかには、最悪の状況が描かれてある。ただびとの何十倍もの選択肢と状況の想定があるからこそ、彼らはこの激動の世を生き抜くのである。
「わたくしどもには、巫女さまがたのような霊力がございませぬ。頼るのは、すべておのれのみ。もっとも悪い状況を打破できるだけの、心と体の備えが要るのでございまする」
秋沙は微笑んだ。
「なるほどそれが『風の者』ぞな。それでは大勢の巫女たちを率いてゆけ。そして蔡氏嬰どのと力をあわせ、舜を倒すのだ」
杞帝が、力強く秋沙の肩をつかんで揺すぶった。その双眸が、希望に満ち光を放っている。彼の顔を見て、秋沙は優しくその瞳をゆるめた。杞帝の力になれることが嬉しいといったふうな表情であった。
杞軍と蔡氏軍が蒼河へ向けて杞を出たのは、風咆ゆる暁のことである。
先遣として、秋沙と支岐が先頭を駆けた。
「支岐さま」
秋沙の心うちに、どこか澄まぬものがある。
「なんだ」
と、支岐は真正面を見据えたまま無愛想に応じた。蔡氏軍が入杞したときに秋沙が感じたあの不思議な感動を、実はこのとき支岐も感じていた。
(不思議だ)
あれほど秋沙を疎んでいた――といっても奈綺の仮面をつけた秋沙を、ということであるが――にも関わらず、いままったく不快でない。旧知の同志とともに、風になって駆けてゆく爽快感がある。
「舜帝が軍を蒼河に向けてくださっているはずですね」
「その予定だ。最終的に舜軍と蔡氏嬰軍とで挟みうちにする」
「……舜軍がそれを反故にするという可能性はございませんか」
「…………」
ちらりと支岐は女の顔を一瞥した。美貌が穏やかである。奈綺に似ているが、よくよく見ればしかし父帝にも似ている。
「ないとは言い切れぬ」
「支岐さま。もし対岸に舜軍がいなければ、蔡氏嬰軍と杞軍はそのまま舜都に攻めのぼりまする」
「なにが言いたい」
「あなたは舜のかたでいらっしゃる。わたしはもはや柳人であり、舜人ではない」
支岐の脳裡に、奈綺の不遜な美貌が舞いあがった。
(あの女は、柳帝に嫁してもなお舜人であった。主君は舜帝陛下ただひとりと)
その娘は、いま堂々と“おのれは柳人である”と宣言している。これで『風の者』の血脈は舜だけのものではなくなったと、支岐はぼんやり思った。
「けれどわたしにとって、支岐さまは……」
支岐は、彼女の涼やかな双眸を見つめた。幼いころ何度ものぞきこんでやった双眸である。その栗色の髪もまた、幼いころに何度も撫でてやったものである――あの冷たい母のかわりに。
「兄上にも似たかたでいらっしゃる。支岐さまは、もはやわたしの敵ではない。この先にいったいどのような状況に陥ったとしても。それをお伝えしたくて」
「…………」
気づいていました、と秋沙はさらに微笑んだ。馬は休みなく蒼河に向けて駆けている。まる一日と半も駆ければ、蒼河に着くだろう。
「わたしのことを、不幸な娘であるとお思いになっていたでしょう」
「…………」
母にも父にも愛を与えられず、兄ともども苛酷な時代の奔流に投げこまれた哀れな娘。実父とのあいだに子を生し、無言のまま死への道をしめされた。母は早死にをし、兄も病がちであり、もはや身寄りはないに等しい。
「わたしには兄上が三人おりまする」
風が強まった。
「実兄の朱綺さま」
秋沙の双眸が、まっすぐまえを見つめている。このとき、彼女の胸うちにはひとつの予感があった。奈綺や斂と同じように、秋沙もまたそういったおのれの予感を信じた。
(腹をくくらねばならぬ。思っていたよりもその時は近いようだ)
「それから斂さま」
(わたしの予感は、おそらくあたる)
「それから……支岐さま」
「…………」
支岐は黙ったまま馬を駆った。さきほどの不思議な感動にくわえて、ひとの力では動かすことのできぬ大いなる意志と、得体のしれぬ柔らかな悲しみが、この人間らしい男の胸うちを満たしていた。
そこからふたりとも、言葉を失くした。
ようやく支岐が口を開いたのは、馬に数刻の休息を与えようとその背から降りたときである。
「……秋沙。俺はたしかに舜人であり、かつて先帝陛下に忠誠を誓ったひとりの『風の者』であった」
この男は前々から素直でない。思ったことを率直に言うときも、そっぽを向かねば言えぬ性質である。いまも掴みあげた干し魚を噛みくだきながら、無愛想に言葉を連ねている。秋沙はその言葉を、じっと聞いた。
「俺はあの日、先帝陛下のもとを去った。忠誠を誓った主君のもとを、離れたのだ」
「あの日……」
そうだ――忘れもせぬ。あのとき俺は、奈綺にたいする情愛に気づいたのだ。
「俺は絶望した」
「…………」
秋沙は指先で豆をひと粒もてあそびながら、支岐の表情を一瞥した。
「俺のなかで奴は、小憎たらしい同志うちの敵であったのだ。いつでも奴を越えたいと思っていた。死ねばいいと、何度も思ったさ」
だれもが認める犬猿の仲であった、と支岐はそこではじめてふと笑った。人間らしい笑みであった。
「あの女だからこそ、愛した」
あの女だからこそ憎く、あの女だからこそ愛おしかった。奴がそれに気づいたとき、俺は、ああしまった、と思った――……。
「見てみな。俺の首筋を」
と、支岐は襟もとをぐいと押しさげる。そこに一筋の傷痕があった。小太刀で躊躇いなく切り裂かれた痕である。
「母上が?」
「おまえは阿呆か、とな。俺は殴りたおされ、斂の眼のまえでこの傷をつけられた。後悔と絶望と怒りと悔しさで、あのときは死ぬかと思った」
奈綺が厭うほどの人間臭さを持ち、またどこか盲目的な少年らしさを持ったこの男が、おのれの持つその過去をこうして自嘲気味に語れるようになったのである。長い年月が経ったことの証でもあった。
――舜を捨て、戦いにゆく。
「秋沙、俺の決意はまだつづいている」
あれは、自分自身のための戦いであった。舜も柳も、どんな国も存在してはいなかった。理想の己と、堕ちた己と、ただふたつの像しかなかった。
どちらかを滅ぼさねばならなかったあのとき、支岐は、おのれにとっても愛した女にとっても、誇れるおのれでありたいとそう思ったのであった。
「支岐さま……」
「俺はもはや、何人《なんぴと》でもない。俺は奈綺とともにあり、あの女に鼻で嗤われるようなことだけは、けしてするものかと思っている」
奈綺よ。おまえがもしもここにいたとすれば。
(きさまは話が長いから腹がたつと、そう吐き棄てでもするのだろうな)
おのれでも気づかぬうちに、微笑がこぼれた。
「秋沙。俺は死ぬまで戦うぞ。おまえとともにな」
◆ ◆ ◆
蒼河に着いて、秋沙と支岐はただちに舜軍の所在を認めた。滔々と流るる大河の対岸、黒々とした森のなかに舜の大軍がじっと沈んでいる。ここからの話は早い。
秋沙たちは、杞軍を待った。そうして、杞軍の将に“舜軍がいない、このまま舜都まで攻めのぼることができる”旨を伝え、彼らを渡河させた。もはや巫女たちに発言させる機会を与えなかった。渡河する兵たちを、森のなかからどっと飛び出してきた舜兵たちは容赦なく射たおし、斬りたおしていく。蔡氏軍の強靭な兵力もあってか、挟まれた杞兵たちは次々と倒れた。秋沙も、支岐も、そうしてまた閖も、手にふれる杞兵たちにくわえて眼もとに隈取りをした巫女たちをも、軽々と屠っていった。虚を突かれたほうが敗れる。それが戦のつねである。
杞兵が残りもわずかになってきたころ、秋沙は、閖がつと舜軍のほうへ視線を投げたのを見た。
(……来る)
最後の杞兵が倒れたのと、舜軍がその弓と剣先を蔡氏軍のほうへ向けたのと、秋沙が馬上に堂々と乗り立って右手を挙げたのと、蔡氏軍が風のような速さで退却しはじめたのと、すべてが時を同じくして起こった。
秋沙の予感はあたった。
舜帝は、はなから蔡氏軍を滅ぼすつもりであったのだ――蔡氏嬰がじつは柳人であるということに、やはり閖は気づいていた。体よく杞軍とともに討ち滅ぼす算段をしていたのであった。
蔡氏嬰軍の退却は速やかである。よく鍛錬された兵たちばかりであるうえに、賢明な嬰は秋沙の予言をすんなりと聞き入れ、またそれを兵たちに巧みに説明《ことわけ》したからであった。最後尾を秋沙と支岐がおさえ、追うてくるものたちを火で抑えた。すでにこちら側に、閖はいない。彼の姿はもはや、対岸にある。彼ひとり飛んでさえ来れば、蔡氏嬰の首などすぐに落とすことができただろうに、それをしなかったのはたしかに秋沙への愛ゆえであろうと思われた。
秋沙の勘と蔡氏嬰の統率力で、彼らは舜軍の向けた矛先を巧みにかわした。とはいえ、これが柳舜大戦の序となった。
この直後に起こった柳舜の大戦は、激しさをきわめた。歴史書に著される、もっとも大きな戦である。
【天路】壱
見破ったか、と舜帝はひとことつぶやいて、その慧眼をゆっくりと細めた。
「…………」
その傍らに、閖がじっと控えている。しばらくのあいだ、沈黙があたりを包んだ。
蒼河での小戦から――杞国が壊滅した歴史的には大きな戦ではあったが、しかし舜にとっては取るに足らぬ戦である――舜都へ戻ってきた翌日のことであった。
「しかし見破っていたなら、あのように切羽詰まった退却の仕方をせずとも良かったのではないのか」
「……見極めたかったのでございましょう。はっきりと、陛下の御心づもりを」
「それだけか」
それだけか、ともう一度舜帝は小さくつぶやきを落とした。男の双眸は、獰猛な光を湛えている。獰猛でありながら、しかし深々とした思慮深い光でもある。
「はやい。はやすぎる」
「…………」
「柳と戦うには、まだはやすぎるぞ」
そう言いながら舜帝の掌がちらりと扉に向けて返されるのを、閖は見た。退出の命である。閖は滑るように室を出た。
(そうだ、柳と戦うにはまだはやい)
足もとに続く緋色の絨毯が柔らかい。私室に向かいながら、閖は静かに考えをめぐらせる。本来なら――本来ならば、昨日のあのとき、蔡氏嬰の首をとっておくべきであった。あるいは秋沙の首をとっておくべきであった。そしておのれには、そうするだけの力があったはずである。
(あそこでひと跳びしさえすれば、俺は蔡氏嬰の首ぐらいは取ることが出来たろう。秋沙を殺すことまでは出来ずとも)
なぜ、とおのれに問うまでもない。秋沙への愛ゆえである。とはいえ感情にまかせて思わず見逃したわけではなく、彼は彼自身の意志でその“ひと跳び”をしなかった。
(舜人と陛下の性質は、けして相容れぬ)
舜帝の血に流れるものは、柳人のそれと同じものである。好戦的な柳人の血を、彼は受け継いだ。狩りさえ好まぬような、羊や牛飼いの血をもつ舜人とは根から異なる。
彩が舜の正妃となり奈綺が柳の正妃となったのは、ひょっとすると大きな過ちではなかったのか、と閖は思った。舜の皇室に柳人の血を入れてはならなかったのではないのか。それがすべての歪みの原因だとしたならば。
(先帝陛下の……そして柳帝の、痛恨の過ちだ)
平穏好きな舜人の街に噂が流れたのは、そのまた翌日のことである。今上帝は逃れようとする杞軍だけでなく、味方であるはずの蔡氏嬰軍までも追いつめて幾人もの舜兵を葬った、という噂であった。ひとびとは蔡氏のことを舜人として受け容れていたから、そういった噂を聞いてある気持ちを抱いた。今上帝はもはや我々が従ってゆけぬような暴君なのではないか――という、主君に対する疑念である。
◆ ◆ ◆
秋沙は、丹念に武具の手入れをしていた。その双眸は静かである。もはや時はない――必ずあの舜帝は、近く大軍を柳に向けてくるだろう。秋沙は、父母と違って優しい。そうしてまた、父母を心底から慕っている。
(舜人は、母上と同じ血を持ち)
月明かりに糸刃を透かす。細く鋭利な刃が、光を受けて輝いている。
(また柳人は父上の国人であり、そしてわたしの国人である)
どちらも無駄に殺したくはない、と秋沙は思った。いまごろ舜国内では、噂が流されているだろう。舜帝は残虐である、舜帝は逃げるものをも平然と殺す、舜帝はもはや言論思想の自由さえ許さぬ――舜人が忌むのは、残酷さであり、非情さであり、また理不尽な不自由である。そして彼らは元来素直な性質を持っているから、近ごろ頻繁に感ずる今上帝の理不尽な暴力性と流れる噂とを照らしあわせて、少しずつ主君にたいして疑念を抱きはじめているに違いない。
それがどう出るか、と秋沙は考えこみながら針に毒を塗った。
(主君を弑するだけの強靭さが、彼らにあるだろうか)
舜帝が大軍を柳に向ける決心をするまえに、どうか舜人自身の手で彼を弑してはくれまいか。秋沙はそう思っているのであった。異国人《ことくにびと》の手で皇帝を殺せば、多かれ少なかれ怨みが残る。舜人の手によって、でなければ意味がないのである。
(しばらくのあいだは……待たねば)
ただし舜進軍の兆しが見受けられたときには、やむを得ぬ。
(わたしが舜帝を弑する。それしかない。そしてそのときは……)
そのときは、もはや“秋沙”の顔ではゆけない。舜人の『風の者』――“奈綺”としてゆく。そこには、かつて秋沙でさえ自覚し得なかったような静かな悲哀はない。秋沙自身の誇りがあるばかりである。
静かに室の扉が開いた。
「……陛下」
何本もの小太刀を傍らに置き、丁寧に拱手する。礼儀正しい女であった。柳帝はそれを一瞥してから、ゆっくりと寝台に腰をおろした。
「吉と出るか凶と出るか」
舜国内で噂を流しているおおもとは、柳帝も秋沙もよく知る人物である。柳ではすでに国葬さえ行われた――柳帝と奈綺の血をひく、たったひとりの嫡男。
「もしもこれが凶と出れば……」
傍らの卓子に片肘をつきながら、柳帝は遠くを見つめるような眼をした。端整な顔だちに、高い鼻梁が美しい。その柳眉は何十年もまえからそうであるように凛然と弓を張り、北国特有の肌理こまかな肌は衰えを知らぬ。
「俺と舜先帝は、大きな過ちをおかしたことになるな」
いまこそが正念場ぞ、と柳帝は眼を細めて声もなく嗤った。
「しばらく様子を見ましょう」
と、秋沙は微笑んだ。この女は、どのようなときでもたいてい微笑んでいる。奈綺とはまるきり反対のほうに、表情が変わらない。
「舜人がどうしても動かぬときには、わたしが」
秋沙の双眸が柔らかく歪んだ。風が強く吹いた。
(敵は舜帝だけでないぞ、秋沙よ)
舜にいるすべての『風の者』たちが、命を懸けて秋沙を排除しようと動きだす。ただの間諜ではない――あの“奈綺”を生みだした『風の者』たちの集団である。『風の者』たちがどれほど奈綺を畏れ、また奈綺の血をひく秋沙を畏れたとしても、あるいは主君にたいする疑念を抱いたとしても、彼らは戦い以外の道を選ばないだろう。忠誠を尽くし、最後まで主君と祖国のために戦いぬくのが『風の者』である。その道が善か悪かなどということは、いっさい関係がない。彼らにとっては、その道しか存在しないからである。
「舜帝のもとへ辿りつくまで、何があろうともけして死ぬなよ」
柳帝は、窓外へ視線を投げながら言った。これが娘の身を案じての言でないことは、秋沙がもっともよく理解している。
「御意」
と、秋沙は静かに頭を垂れた。
◆ ◆ ◆
――つねに賑々しく栄えていたはずの舜都は、いま静かである。人心は不安に揺れていた。
「…………」
旅籠の二階奥、隠し扉を通っていくひとつの小室に、男がじっと胡座をかいていた。この壮年の男のほかに、白く長い髯をたくわえた老人と眼帯をした隻眼の青年がいる。ぽつりと老人がつぶやいた。
「奈綺の娘、か……」
めだった感情のないその声の真奥に、かすか懐かしむようなぬくみがある。彼らのように年老いた『風の者』にとって、奈綺はひとつの誇りであった。あの天賦の才を開花させたのは我々だ、というような自負もある。奈綺が死んだとき、彼女の一生涯をよく知る年老いた『風の者』たちは、瞑目してその死を悼んだ。
「対峙したことはないが、やはり手強いのでしょうな」
「相対すればすぐに知れる。まさに奈綺の血をひく娘であるのだと」
くぐもった彼らの声々は、気配をなくしてあたりの空気に溶けていく。
「しかし」
と、隻眼の青年が口をひらいた。低い声にみずみずしさがある。
「どれほど強靭であるといっても、多勢に無勢でございましょう」
亢《こう》という名を持つ。生まれてすぐ、発狂した母親に片眼を抉られ捨てられた。そこを老師に拾われたものである。
「……卑怯な」
壮年の男が、誰に言うでもなくつぶやいた。亢を責める口ぶりではない。だから亢もまた、それに同意するかのように苦笑した。
「だが秋沙を倒そうとするなら、手段を選んではおれぬ」
「もはやひとにあらず。不死の大妖を相手にするのだと心得ねばなりませぬ」
彼らは、おのれの強さをよく知っている。『風の者』がどういった生きものであるかも、よく知っている。風をもっとも強い味方とし、風のごとく駆け、風のごとく戦う、まさに風そのもののような生きものである。そしてまた、彼らは狙ったものの息の根は必ず止める。けしてしくじることはない。たとえ相討ちになったとしても、彼らは確実に目的を達する。
そこに個人の性格や能力差はほとんどない。目的を達することのできない者は、もはやその時点で『風の者』でないからである。
「不死の大妖か」
彼らは、『風の者』としてのおのれの強さを知っている。だから奈綺を畏れ、また秋沙を畏れる。むろん、秋沙に怨みがあるわけではない。ただ舜人である彼ら『風の者』たちは、その身が『風の者』である以上、主君の道の妨げとなるものを見過ごすわけにはゆかぬのである。
そのとき小室の隠し扉がすらりと開いた。壮年の男――これには老師から授けられた涌《よう》という名がある――と亢はひたと動きをとめたが、老師はこともなげに扉のほうへ視線をあげた。
「……待たせました」
「来たか、閖」
閖と秋沙が心身ともに近しい存在であったことは、みなが承知である。
「秋沙とは会うたか」
「会いました」
亢と涌は、ただじっと閖の返答を聞くばかりである。閖のその双眸にも、声色にも、いっさいの濁りはない。いつもと変わらぬ清々しい澄明さを持っている。
「舜に戻ってくる気配は、やはりないか」
「ございませぬ」
「もはや――奈綺の娘は、もはや、柳人である、か……」
老師はひとことひとことを区切るように、そうつぶやいた。その顔の皺は、まさに歴史そのものである。閖は静かに床に腰をおろして胡坐をかいた。端整な顔に、動揺はなかった。とうの昔に、この男は最愛の少女を殺す覚悟を決めている。彼もまた『風の者』である。
「老師よ。いま都じゅうに不穏な噂が流れている」
「……む」
老師は眉を顰めた。その噂のことになると、『風の者』たちもやや渋い顔をする。かつて『風の者』が主君に忠義を尽くしてきた――それは歴代の皇帝たちが間諜を捨て駒とせずに丁重に扱い、庇護し、あるいは彼らに慈愛の手を差し伸べたからである。何代ものあいだ、賢帝がつづいた国であった。
今上帝はけして温厚な人柄ではない。『風の者』たちはひとを見る眼に長けているから、今上帝にとっておのれがもはやひとつの駒にすぎぬことを、すでに悟っている。それでも主君を捨ててゆかないのは、先帝あるいは先々帝に恩があるからであり、また彼らが築いてきた国を捨ててゆくことを彼らの忠義心が許さないからであった。
「それをどう見るのだ、おまえは」
涌は問うた。
「……秋沙は待っている。舜帝陛下の首が、舜人の手によって落とされるのを」
「しかし舜人は心根が優しい。皇帝の首を落とすほどの叛乱を起こす、そんな度胸があるものだろうか」
「だからだ。だから陛下の残虐さや冷酷さは、いつしか民々を決意させる。このままでは、先人の愛した祖国が崩壊すると」
老師は眼を閉じ、亢はどこへともなく視線を投げた。涌だけが、ひたと閖の双眸を見据えている。
「噂を流したものが、必ず民々を煽動する。我々はそれに乗るわけにゆかぬ」
「……たとえ煽動されても民々が動かなければ……」
「そうすれば秋沙が出てくる。秋沙が舜へやってくる。おのれの手で、舜帝陛下の首をとりに」
それも単身でだ、と閖は断じた。
「それを証だてるものはあるか」
と、涌は低く言った。ゆっくりと老師の眼がひらき、その鷲のような視線は静かに閖にあてられた。いつのまにか亢も視線を戻している。
「俺は秋沙を愛している」
「…………」
「俺は秋沙を愛している。それが証だ」
幼いころから、秋沙を愛してきた。意識する間もなく、またおのれを制する間もなく、彼女を愛おしいと思う気持ちはひそやかに芽生えていた。たがいのことは、たがいがもっともよく理解していた。
(だからわかる)
あの女の、母にたいする思慕の情が。あの女の、父帝にたいする忠誠心が。あの女の、兄にたいする情愛が。あの女の崇高な誇りが、あの女の聡明な頭うちが、あの女の清らかな気性が、閖には手にとるようにわかるのであった。
(悲しいほど、わかる)
「秋沙を単身舜に乗りこませるには、それしかない。噂に乗せられぬこと、舜の民々をじっと耐えさせることだ」
「……彼女が単身で乗りこんでさえ来れば、勝算はあるか」
「俺たちがみな、死ぬ覚悟で戦えばよい。必ず勝つ」
閖はそう言いきった。その双眸に、強い光がある。
「……『風の者』が、『風の者』と戦う……そんな日が来ようとはな」
ぽつりとつぶやいた老師の声に、哀愁の念がかすかに滲んだ。
――俺たちは『風の者』なのだ。俺は舜帝を護らねばならず、おまえは柳帝を護らねばならぬ。たがいに護るべきものを護るために、命尽きるそのときまで戦いぬけばよい。
なぜなら俺たちは、ともに『風の者』であるからだ。
そうだろう、秋沙よ。
【天路】弐
そこには奈綺をよく知るものたちがいた。
斂、支岐、彩――みなそれぞれ奈綺を愛し、またそれぞれ秋沙を慈しんでいるものたちである。斂だけが何の苦悩とも無縁であるような、爽々とした顔つきをしている。
「ひとりでゆくのか」
支岐は苦悶の表情でつぶやき、それにたいして秋沙は、斂とよく似た爽やかな微笑みで静かにうなずいた。
「……何を敵にまわすこととなるのか、おまえはわかっているのか」
舜国じゅうのすべての『風の者』たちと戦わねばならぬ。それを秋沙がわかっていないはずがない、頭でそう知りながら支岐はやはり問いつめた。この男は、いつまでたってもこうである。ただし奈綺が忌んだ彼の人間臭さを、秋沙はけして憎まなかった。
「支岐さま」
秋ぐちの涼風が、彼らの髪を幾度かさらった。秋沙の柔らかな声は、その風に溶けこんでいくようであった。
「すべてを承知で参るのでございます。支岐さまも、御心うちではご理解くださっているはず」
「…………」
「閖がいる。小嬢、あれは手強い」
斂は眼を閉じながら、そう言った。この男は、いまだに秋沙を小嬢と呼ぶ。ゆっくりと秋沙はうつむき、わかるかわからないかの小さな微笑を唇に浮かべた。
(知っている。閖のことはわたしが、誰よりもよく)
「小嬢よ。おびき出されるつもりか」
斂の口ぶりは穏やかである。支岐のような感情の揺れもなければ、責めるような響きもない。
「単身で乗りこむなど、阿呆のすることぞ。奴らはそれを待っているのだろう」
と、支岐が割りこんだ。
「支岐さま。わたしは誰よりも……誰よりも閖のことをよく知っている」
きっとあの男は待っている。わたしがそこへゆくのを、待っている。わたしひとりを来舜させるために、そしてわたしを殺すために、彼らはもはや手段を選ばないであろう。『風の者』すべてがわたしを取り囲み、相討つ覚悟で向かってくる。
――かならず秋沙は単身でやってくる。舜人の暴動さえ抑えれば、かならず秋沙はやってくる。
「あの男がおまえの思うように行動すると、その根拠はどこにある」
支岐は苛々とした。どうかおまえだけでも人間であれ、母とは違う、おまえだけでも人間であれ――この男は心の奥底でそう願っている。
「わたしは閖を愛している」
「…………」
「わたしは閖を愛している。それが証でございまする」
斂がぽつりと言った。
「……俺は奈綺嬢をいまだ慕っている。そしてまた、小嬢のことを愛おしく思ってもいる。けして死なせたくはない」
「…………」
「つねに死を怖れぬ『風の者』は強い。しかし死を覚悟した『風の者』は、さらに強い。もはやこの世に敵などいないといって良いだろう」
ずっと黙って座っていた彩の喉が、緊張のためか微かに動いた。
「……小嬢。それでも行くか。躊躇はないか」
「ございませぬ」
邪なもののなにもない、美しい双眸が。意志の強い、しかし母より優しげな弓なりの柳眉が。柔らかくなめらかな雪肌が。どこかに静かな冷たさを湛えるその空気が。彼女のすべてが、斂の胸をうった。
(奈綺嬢よ。こんなにも幸せそうな小嬢が、かえって俺には切ない)
「死ぬかもしれないのよ」
と、彩がようやく重い口をひらいた。
(しかしそれが、誇らしくもあるのだ。あなたたち母娘が生きる時代にめぐりあわせた、これほど喜ばしいことがあるだろうか)
秋沙は、ただ黙って微笑んだ。この美しき先舜帝正妃も、口うるさくどこまでも人間臭い男も、秋沙は心から好きであった。そのすべてに、母の残り香があった。母がいなければ、けして出会うことのなかったひとびとであった。母がいなければ、この誇りかな名も、この透徹とした心持ちも、心身の強靭さも、手に入れることは出来なかった。
(わたしの道はただひとつ。『風の者』たちを退けて、舜帝を弑すること)
わたしも閖も、ともに『風の者』である。『風の者』という生きものは、『風の者』であることを何よりも誇りとしているのだから、その名に恥じぬ生きかたを、ただ貫けばよい。それはかならず、祖国の栄華に繋がるであろう。
「……あなたがそう決めたのならば、俺もそれに従おう」
斂と秋沙の双眸が、ひたとぶつかった。
「秋沙よ」
心が震えるような、不思議な響きがあった。
「俺もともに行く」
◆ ◆ ◆
月明かりが青い。秋沙は、丸窓の向こうでまるく耀く月をじっと見つめた。何も悲しいことはなく、何も苦しいことはなかった。
(相討つつもりでは、けしてゆけぬ)
耳を澄ませると、いつでも母の声が聴こえるのである。
(……“ひとであってはならぬ。化け物といわれ、鬼と畏れられることを誇りとせよ”)
この女を産んだ、冷酷非情な母の声である。
(わたしは負けませぬ。母上、わたしは……勝つために)
舜国じゅうの『風の者』たちに、そして諸国の間諜たちに、何より畏れられた伝説の『風の者』。もはやその名には、魔力が宿っているといって良い――“奈綺”。
(わたしも、もはや勝つために手段を選びませぬ。此度はおのれの心の弱さからでなく、ただひとつ目的を達するがために)
――わたしは“奈綺”となる。
柳帝陛下、愛おしきわたしの父上よ。
あなたを窮地に立たせたりはしない。
◆ ◆ ◆
柳帝は、亡き正妃の夢を視ていた。ついとめぐらせた冷たい美貌が懐かしかった。
(懐かしい、と)
もはや俺もそう感じる歳になったのか――柳帝と奈綺の双眸が、かちりとぶつかった。
『若返ったか、奈綺よ』
『わたしが若返ったのではない、あんたが老いたのだ。わたしは二十五のままさ』
窓辺に浅く腰をかけ、奈綺は遠く真昼の空に視線を流した。その視線の流しかたが、二十年近くも昔とおなじ、あのときのままである。
(もうそんなにも、経ったか)
『そうだな、俺も老いた』
窓のそとへ視線をやったまま、奈綺は喉の奥で小さく嗤った。この女が生きていたころ、柳帝との歳の差は五つほどであったはずである。もういまでは、柳帝も四十を過ぎた。
惜しく思われる。愛する女を失った悲しみはない。おなじ地に立ち、おなじ方向を見晴るかし、ともに生きる同志を失った、奇妙な喪失感がある。この女とならば、おのれのめざす理想の統治に行き着くことができる。そう腹の底から思った唯一の人間が、奈綺であった。
『俺は、ひとの親に向かぬわ』
『ほう、何をいまさら』
『秋沙や朱綺の慕情が――あるいは優しさが、俺には疎ましくてならぬ。さっさと死ねばよいと、俺は何度も思うたぞ』
おのれに向けられる濃密な感情が、柳帝を苛々とさせるのである。
『おまえぐらいがな、ちょうどよかったのさ』
その渇いたものの考えかたを、情も潤いもない冷えた性格を、またそうであるがゆえに単純明快な義の心を、柳帝はいつでも愉しんでいた。
『柳帝。あんたとわたしのあいだに生まれた子だ、なかなか死なぬ』
奈綺は、そう言って軽やかに窓辺から飛びおりた。
『覚えているかい』
『…………』
『秋沙が、わたしを演じていたときのことを』
今度は、寝台に寝そべった柳帝の傍らに腰をおろす。寝台の織布が、柔らかく撓んだ。
『腹がたったものだ。演じる“奈綺”のまにまに、秋沙の面影が見え隠れしていた。俺はあれの父ぞな、だからこそ見えた面影に違いなかろう』
おまえは奈綺ではないのだ――俺のなかに、奈綺という女はひとりしかおらぬ。たったひとりのその奈綺を、だれも演じることなどできぬのだ。
『わたしという存在は、わたし以外にないとも。あんたという存在が、あんた以外にないのと同じようにな』
『俺たちがともに過ごした時代は、愉しかった』
『否定はしないさ』
と、奈綺はその眼を細めて嗤った。
『しかし柳帝よ、秋沙はまもなく“奈綺”になる。ふたたび“奈綺”になる』
『…………』
『皆あれを見て驚くだろうよ。もはや、あのときとは違う。秋沙は迷いをすべて捨てた』
奈綺が腰をあげた。何の気配もない、流麗なしぐさである。この流麗さで、またこの細くしなやかな手足で、いったいこの女はどれほどのものを殺してきたろうか。
『安心おしよ。柳国はけして潰れたりせぬわ』
窓からの夜風が激しさを増している。くせのない女の髪が、幾度も風にあおられた。
『柳帝よ。おのれを疑うてはならぬ――思うままにゆくが良い』
(夢のなかできさまに導きを受けるとは、よもや思わなんだぞ)
『さて、目覚めよ。時代はつねに動いていること、忘れてはいまい。存分におやりよ、いつまででもあの世で待っていてやろうぞ』
奈綺の傲然たる笑みが、生前とまったく変わらぬ。
(思うままに、とな)
柳帝の唇が、夢のなかで小さくつりあがった。
◆ ◆ ◆
軽く舌打ちをして奈綺《なき》は斃れた男の首から長針を無造作に引き抜いた。血はいっさい流れておらず、見えるか見えないかの小さな針痕ができているだけである。腰に挟んでいた手布で、女は猛毒の塗られた長針の先をぐっと拭った。
奈綺は死んだ男の顔を足先で仰向けた。女にしてはあまりにも無遠慮で、優しさのないしぐさである。死体に怯えているふうもなく、おのれの殺しに怖じ気づくでもなく、むろん死者を尊ぶふうでもない。まるで石ころでも蹴るかのような、殺伐としたしぐさである。
美しく彫りの深い容貌。高く通った鼻梁に弓なりの柳眉。その双眸には、若い女に特有のきらきらとした若々しさはない。静かに澄んだ瞳は美しいが、いっさいの表情を持たぬ。また顔にも声にも感情は見えず、ただし冷たい。
――奈綺。この名には魔力が宿っているといって過言でない。
【天路】参
それは激動の世に起こるさまざまの事象を見つめつづけてきた、深い双眸であった。舜都はずれの呉服屋に、小さな屋根裏がある。そこで朱綺は、舜『風の者』の老師と対峙しているのである。
「わたしを、愚かしく思うか」
「…………」
「それとも、憎むか」
と、老師はつぶやくような声でそう言った。唇に、柔らかな笑みがあった。かつての愛弟子が産んだ、その息子を見つめる表情である。それと向きあいながら、朱綺もまた小さな笑みを返した。
「もはやこうなると、わかっていました」
「我らはけして、陛下のなさることが正しいと判じているわけではない。もはや我々は、陛下の持つただの手駒にすぎないのだ。先帝陛下の時代とは違う」
やむをえぬ、と朱綺は思った。心のどこかで、舜の『風の者』たちはけしておのれの煽動には乗らぬであろうと予期していた。なぜと問うても意味はない。
「先帝陛下や、あるいはそれよりも先の陛下がたに恩義がある。その血をひいた子たちを、我々『風の者』たちが見限ることなど出来はせぬ。いまの政が正しいか否か、それらは問題でないのだ。正しくとも、あるいはそうでなくとも、我々は陛下を最期まで護り申しあげる」
「…………」
「おまえたちに怨みはないのだ。わかるだろうな、奈綺の息子ならば」
朱綺は静かにうなずいてみせた。実際、こちらを見つめる老人の双眸に敵意はいっさいない。
「おまえの妹が、まもなく来舜する。もはやそれも覚悟のうえであろう、朱綺よ」
国のために、最善を尽くさねばならぬ。老師は『風の者』であり、また朱綺も『風の者』だからである。老師が護ろうとしているのは舜であり、朱綺が護ろうとしているのは柳であり、その相違が怨恨なくして彼らを敵対せしめるのであった。そしてそのことについて、彼らは運命を呪いもしなければ、悲しみもしなかった。ただそれらを淡々と受け容れ、ならばあの世でふたたびと、笑って別れるのである。
「それでは」
皺だらけの顔が、かすかに微笑んだ。朱綺が衣擦れの音ひとつさせずに立ちあがったとき、この男はすでに、次におのれが何をすべきかを考えていた。さきに動いたのは、老師の体である。
小太刀が朱綺の喉もとを軽く抉り、糸刃が老師の片脚を断っていた。
「……さすが、やはり奈綺の子」
このとき老師は、いままで生きてきたなかでもっとも優しい気持ちで青年と向かいあっていた。殺意のない清爽とした双眸、母親によく似た美しい面ざしに、彼女から受け継いだ戦いかた――転がったままのおのれの片脚を眼の端に留めながら、老師は小太刀を繰りだした。朱綺の喉もとから、血が溢れだしている。青年の操る糸刃は、飛んでくる小太刀をかろうじて断ちきった。
「老師。やはりなさることが違う」
「……うむ?」
朱綺の声が擦れている。血が喉に詰まるのであった。唇の内側から、赤黒い血が滲みだした。老師の小太刀によってつけられた、その傷のせいではない。
(…………俺には時間がないのだ)
「ここで老師と争う気持ちはありませんでした」
「そうだろうとも。母よりは優しい心根の持ち主だ、おまえはな」
「さすが、『風の者』というべきか」
滲む血のせいで、朱綺の唇が赤く美しい。
「母よりは優しいが、母ゆずりの戦いぶりだ。私はおまえに勝てぬ」
「……俺が老師を殺せば、『風の者』たちはさらに団結しますね。あなたを殺したくはないなあ」
(俺には時間がない)
それは激動の世に起こるさまざまの事象を見つめつづけてきた、深い双眸であった。その眼を見たとき、青年のしなやかな手は自発的に糸刃を繰り、そうして鈍色に輝く刃は、片脚を失って静かに立ち尽くす老人の胸を鮮やかに抉りぬいた。老人の唇に残っているのは、優しい祖父のような笑みである。
この老人は誰よりも深く奈綺を愛していたのであろう、と朱綺は思った。実子のようにも思っていたに違いない。兄妹にとって、奈綺の師であるこの老師はもっとも大きな敵となるはずであった。
(ほかの『風の者』が居合わせたならば、このようにろくに抵抗もせずに死にはしなかったろう)
老師というもっとも強靭な敵が消えた――しかし、このことによって『風の者』たちの絆が強固なものとなるに違いない。これは老師の最大の優しさであり、また最大の攻撃であるといってよいだろう。
合掌して朱綺はすぐに立ちあがった。
(秋沙がやってくる)
◆ ◆ ◆
空が青い。時おり白い雲が風に流れる――短い夏が、終わろうとしていた。すでに風は涼しい。奈綺は舜の国うちにいた。支岐の薬屋奥にじっと身をひそめ、もう今日で四日となる。動かぬ、と決めたらてこでも動かぬ女である。『風の者』たちの気配をすぐ傍に感じていたが、支岐の手によって幾度もつくりかえられたこの小さな建物は、誰の侵入をも許さぬ構造となっていた。
(まだだ。いましばらく、待たねばならぬ)
「もしも待ち人が来なければ、どうなさる」
奈綺の器に水を注ぎながら、斂が問うた。
「来る。来るから、わたしはこうして待っているのだ」
「…………」
なるほどそうだったな、と男は爽やかに笑った。この女が来るといえば、かならず来る。この女が来ぬといえば、けして来ぬ。笑みのなかに、懐かしさが滲んだ。
そんな女の待ち人が訪れたのは、それからさらに三日後――舜国うちに入って七日めの夜更けのことであった。からりと回転して開いた扉のむこうに、同じ血をもつ愛おしい人影があった。
「秋沙。久しいな」
夜明け空のようにまったく自然なふうで、奈綺は“奈綺”の仮面をゆっくりとはずした。美しい双眸が、溶けるように奈綺の色を失くし、それと入れかわるように秋沙の優しげな色を湛えてゆく。なるほどこの娘は、ついに母と別個の存在であるおのれを自覚したのか、と斂は思った。
「兄上。お久しゅうございまする、お体の具合を案じておりました」
朱綺は、静かに妹と向きあうかたちで腰をおろした。
「秋沙よ。おまえには詫びねばならぬ」
「…………」
よく似た顔だちの兄妹である。柳帝の血をひき、奈綺の血をひいた、美しく冷ややかな容貌である。しかし朱綺のもつ生来の爽やかさや、秋沙のもつ生来の優しさが、その冷ややかさをやわらげているらしかった。
「俺がこのように病がちでなければ、父上やおまえの負担をもう少しばかり軽くすることが出来たろうに」
兄上、と秋沙はぽつりと言った。
「兄上。わたしも……幾度もおのれを責めました」
脳裡によみがえるものがある。かつて柳桐の激戦で、母が片足を失ったときの記憶である。
(あのとき……あのときわたしが、あのように不用意に姿を見せていなければ、母上は……)
ただ母を助けようとの一心において、少女は柳から桐にむけてひたすら馬を駆けたのであった。あのときたしかに母は、たったひとりで窮地に立たされていた。秋沙の出現はたしかに母の援けとなり、またそして母の死を招き寄せもした。その苦い記憶を、けして口にも顔にも出すことなく、いままで秋沙は過ごしてきたのであった。
「わたしたちは、いつでも父上と母上のお役にたちたいと、そればかりを願ってまいりました」
物心のつくまえから、おまえは国の駒であるのだと教えられた。おのれの人生を謳歌するために生まれてきたのではなく、この国の基盤をさらに揺るがぬものとするために生まれてきたのだと教えられた。このふたりの子が両親を怨み憎んだことは、彼らの生涯のなかで一度もない。幼いころに見つめたあの凛とした姿を、母と思えぬ冷酷無情な接しかたを、ひとと思えぬ鮮やかな戦いぶりを、このふたりはつねに追うてきたのである。
「この十数年のあいだに、わたしは柳人となりました。心はひとつ、柳のために」
「力を尽くして戦うべきとき、か」
「兄上。ここでは母上の名がひとつの武具となりまする。わたしは“奈綺”となり、死力を尽くして戦いましょう」
秋沙の笑顔は、変わらぬ。柳桐大戦ののち、はじめて兄妹顔をあわせたときとおなじ笑顔である。鈴のように可憐であり、ふと慈しみたくなるようなやわらかな声色である。
奈綺を母にもち、また柳帝を父にもち、そうして秋沙を妹にもった――あるいは奈綺を母にもち、また柳帝を父にもち、そうして朱綺を兄にもった、何と誇りかなことであろうか。ともに兄妹はそう思い、微笑んだ。
「秋沙よ。長いあいだ、おまえとともに戦うことを夢みていた」
「そのお言葉、嬉しゅうございまする」
すでにふたりとも、おのれの死期を予感している。
「それでは俺はこれから、舜帝のもとへ赴こう」
したがって朱綺がそう言って立ちあがったときには、秋沙もまたこれから起こるべきことを悟っていた。肺の病は、もはや不治である。兄の心うちが、手にとるようにわかった。
「あとのことは、お任せくださいませ」
もはやこの世で再会することはなかろう。
「おのれを信じ、おのれを頼り、けしておのれを疑うな」
我々は母の言葉を忘れるまい、と朱綺は言った。
(おのれを信じ、おのれを頼り、けしておのれを疑うな)
――おのれを信じ、おのれを頼り、けしておのれを疑うな。
死んだ奈綺の言葉が、いまだふたりの子を支えているのであった。
朱綺の死体が街なかで晒されたのは、兄妹が別れた三日のちのことである。民を煽動したものとして眼球をぬかれ、手足を切られた胴体だけの姿であった。舜人たちは一様に驚愕と困惑の表情をみせ、まもなくそれは恐怖と不信の色に変わった。舜皇室への恐怖と不信である。かつての舜皇室は、これほどに惨くはなかった――と、舜人たちは口々にささやいた。『風の者』たちの抑制も、もはや力を持たなかった。
「……これが狙いか」
亢は、すでに腐りかけた死体を遠くに見ながらつぶやいた。
「俺たちの眼を盗んで、宮廷うちに入りこんだのはこのためか」
「俺たちならば、塵ほども死体が残るような真似はせぬからな」
そう苦々しげに言ったのは、涌である。傍らの閖は、ただかたく口を閉ざして立っていた。
「故意に死体を残虐に扱わせ、見せしめとさせる。舜人は怯え、怖れ、そうしていつしかその感情は不信となる――陛下よりも舜人の性質をよく知っていたか」
涌と亢の顔には、感心とも怒りともとれぬ複雑な色があった。幼少から慕ってきた老師を、殺されている。
「さて、秋沙をひきずりだすには……支岐から片付けねばならぬか」
「もはやこうなっては、我々が躊躇することはあるまい。ただちに奴らを仕留めねばならぬ。今宵ゆく」
涌の双眸に、決意の色がある。閖はいまだ口を開かぬ。
(そう容易くはゆかぬ。涌よ、おそらく秋沙は……)
かつてとは違う、偽りでない“奈綺”となってやってくる。母にあたえられた言葉を胸に抱いて、もはや失うものの何もない強さをもって、我々のまえに姿を現すだろう。
(涌よ。あなたは生前の奈綺を知っている――それが命とりになるぞ)
――彼らと奈綺が対峙したのは、まさにその晩のことである。
【風ぞ啼く】
涌は息をのんだ。その女の美しさと、彼女の持つ強烈な空気に一瞬言葉を失くしたのであった。ところは舜宮城のはずれにたたずむ神森である。夜陰にまぎれて滑りこもうとした奈綺を、まったくぎりぎりのところで涌たちが留めたのであった。
(信じられぬ。しかも……この我々でさえ、あやうくこれの侵入に気づかぬところであった)
大木を背にして、奈綺はいっさい感情のない顔で立っていた。
「……秋沙か」
亢が静かに問うたが、これはむしろおのれへの言葉に近い。これが秋沙か、という気持ちである。頭うちで思い描いていたよりもさらに美しく、さらに冷たい。気配はないが、にも関わらず、この威圧感は何ぞ――亢の指さきがわずかに震えた。亢がふたたびつぶやいた。
「……秋沙か」
「違う」
かぶせるようにしてつぶやいたのは、涌である。亢は傍らの涌の顔色を見て、内心驚いた。これほど動揺し、青ざめた彼の顔をはじめて見たのであった。
「違う……なぜ」
声が一瞬震え、そこではじめて対峙した奈綺が嗤った。けして大柄ではない、むしろ並の女よりも細くしなやかな体つきをしているというのに、男たちはまるで彼女に見おろされているような感覚を抱いた。特に涌はそうである。生前の奈綺を知っていることが、閖の予測したとおり、たしかにこの男にとって仇となった。涌の意志に反して、畏れの気持ちがふきあげてきたのである。
「そんなはずはない。奈綺は……」
「わたしが死んだところを、誰が見たというのかな」
「涌よ、それは奈綺ではない。秋沙だ」
閖が静かに言葉を差しはさんだ。
「違う……おまえは奈綺を見たことがなかろう……」
涌は動揺していた。『風の者』がこれほど心を揺らし、それを顔に出してしまうことはめずらしい。皆無といって良い。『風の者』がそういった状態に陥ったとき、すでにその『風の者』は『風の者』でなく、また生きた人間でもなく、ただの肉塊となり果てているからであった。
“奈綺”という名は、たしかに魔力に満ちている。閖は心のなかで舌うちをした。奈綺という『風の者』が、ここまで仲間うちで畏れられていたことを、彼もまたはじめて目のあたりにしたからである。
(ここまでとは……)
とはいえ、たしかにいまそこに立っているのは秋沙ではなかった。かつて秋沙が母を演じていた、あのときのほんのわずかな違和感がすべて拭い去られていた。
「わたしは生きているとも。いまその眼で見て、知ったであろうよ」
「……では死んだのは……」
「だれも死んでやいないさ。わたしも、秋沙も、生きているとも」
「脚を失ったと聞いたが」
と、かろうじて亢が口を挟んだ。涌の動揺ぶりに、あやうさを感じたのである。このまま涌にしゃべらせておくと、呑みこまれる。生前の奈綺を知らぬ亢と閖は、そういった意味では強かった。
「だから義足さ。おまえたちにそう囲まれては、さすがにわたしも迂闊に動けぬわ」
ぽん、と無造作に女はおのれの脚を叩いた。
「……奈綺……生きているならばなぜ、舜のために帰ってこなかったか!」
亢と閖は、涌がそういった状態に陥ったがゆえに、かえって冷めた眼でこの光景を見つめることができた。いま閖たちの眼に、涌はまさに無様に映ったが、むろんこの男の立場にたちかえってやるとするならば、一概に涌を責めることはできぬであろう。
幼いころ、支岐や奈綺とともに鍛錬に明け暮れていた。一に奈綺、二に支岐、ほかのものたちには、けして越えられぬ壁であった。たかが女の下位に甘んじているならば、多かれ少なかれ嫉妬が芽生えても奇妙ではない。だというのに、幼い少年の心には鮮やかな畏れだけが植えつけられたのであった。それほどまでに奈綺という少女は、幼いころから異常に突出した才を見せていたのである。その年頃に植えつけられた畏れは、たやすく消えぬ。
奈綺とともにひとつの時代を過ごした『風の者』たちにとって、彼女はまさに偉大な誇りであり、揺るがぬ風の王であった。奈綺が柳妃として嫁した――なるほどそれならば柳に関してこと心配はあるまい、と老師たちは口をそろえて言ったものである。涌たちにとって、奈綺は憧れであり、もっとも大きな壁でもあり、また彼らのなかでさえも、彼女は化け物であった。亢や閖にはけして理解することのできない感情が、涌にはある。
「涌よ。わたしは、先帝陛下に忠誠を誓ったのだ」
「だからこそ、いまこのときに舜のために動かずしてどうするというのか!」
「舜帝は、亡き父帝陛下の遺志を継いでいるか」
さらりと奈綺は核心をついた。先帝は国の平和を望み、おのれの明晰さをそのために使いつくした賢君であった。
「…………」
閖はちらりと亢のほうを一瞥した。彼もまた、同じようにこちらを見ていた。
(もはや涌は……)
(奈綺の呪縛から逃れられぬ)
「先帝陛下の遺志を継いだ息子であったならば、わたしはとうに帰舜しているさ」
「……しかし、それでも忠義を尽くすのが我々の……」
「きさまは阿呆か」
と言った奈綺の声が冷ややかである。女のくちびるに浮かんだ嘲笑が、兇悪であった。
「野心がすべてのあの男、あれではすぐに舜が滅びるわ。それを先帝陛下はお望みか? あるいはまた、そういった男に柳帝が容赦すると思うてか」
「だから奈綺よ、あなたが舜に帰って来ればよいのではないか!」
「先帝陛下がなぜわたしを柳に遣ったか教えてやろうよ」
亢と閖は、風音にまぎれて静かに小太刀に手をかけていた。
(もはや涌は、秋沙と戦うときの足手まといにしかならぬ)
(彼の眼には、奈綺としか見えておらぬ)
奈綺の視線が涌を通りすぎて閖にあてられ、そして彼女は愉しそうな笑みをそのくちびるに湛えた。
「わたしでなければ、柳帝を御しきれぬからさ」
つぎに風が吹いたとき、亢と閖の手に備えられた幾本もの小太刀は、茫然と奈綺を見つめたままの涌の体をあっさりと貫いた。そして見つめるさきに佇んでいたはずの奈綺は、すでにその姿を消していた。ぐらりと涌の体が傾き、柔らかな落ち葉のなかに斃れこんだ。
「……閖。予想だにしていなかった、俺は……“奈綺”がこれほどまでに『風の者』を脅かしているとは」
このふたりも、少なからず奈綺の気配なき気配に圧倒されていたといって良い。すでに女の姿がないことに、もはや驚きを感じられぬ。ここで巧みに姿を消すために、涌を標的にして語りかけたのに違いなかった。
「俺たちは生前の奈綺を知らぬ。それを強みにするしかあるまい……ゆくぞ、亢。あれを止めねば」
◆ ◆ ◆
閖たちが涌を殺したその一瞬の隙をついて、秋沙はまさに風のように駆けだしていた。まるで何十年ものあいだ親しんできたかのような気持ちを、舜の神森にたいして、また宮城にたいして抱いていた。母が味方してくれている、と思った。母を知る涌が殺されたいま、“奈綺”となる必要はない。
閖が追うてくるのも、時間の問題に違いなかった。ふたりほどの『風の者』と行きあったが、ひと息、ふた息するあいだに彼らの喉ぶえが糸刃によってぱっくりと割れた。奈綺の姿を見て“奈綺である”と驚愕するものはいない。奈綺と同じ世代のものたちは、彼らもまた奈綺と同じように激動の時代を生き、それぞれの最期を迎えていっているのである。奈綺や支岐の時代は、終焉を迎えようとしているのであった。『風の者』たちにもまた、新しい時代の波がきている。奈綺たちの“子”の時代である。行きあうのは、そういった若い『風の者』たちであった。
心根は優しいが、秋沙の殺しは奈綺と同じである。大門のまえで兵士の一団を、息つく間もなく皆殺しにした。糸刃が舞い、小太刀が飛び、針が走り、あるいはその細く強靭な腕が、脚が屈強な男たちの息の根をとめ、その間いっさい言葉を発せぬ。まるで一枚の絵にも見えるような、静かな無言の殺しである。秋沙の麻衣は、まもなく血で赤々と染まった。
「な……なんと」
寝静まった宮城うちが、少しずつざわめいてゆく。足を震わせながら飛び出してきた宰相が、声にならぬ声で叫んだ。
「……そなた、生きて……」
「お久しゅうございますな、宰相よ」
「な、奈綺……」
麻衣から細くしなやかな脚がのぞいている。すらりとした体躯が、ほの明るい宮城の廊に美しい。
「宰相、皆々を留めておいていただこうか。わたしは陛下に話がある、遮られたくない」
「そなた、いったいどういうつもりか……何を……」
渋ったが、奈綺の視線を受けてすぐに言葉じりを濁した。この女がどういう気性の人間であるのか、先帝のころから宮中に仕えているこの老人はよく知っていたからである。先帝以外の人間には、いっさい眼もくれぬ『風の者』であった。先帝の言うことしか聞きいれず、先帝のためだけに働き、先帝の望む治世を叶えるためだけに柳正妃として赴いた女であった。
「宰相、何人《なんぴと》たりとも室にはお入れになるな。国の行く末がかかっている」
奈綺のあとを追おうとした兵士たちを、宰相は血相をかえて引きとめた。奈綺ならば、舜国の行く末にとって悪いようなことはしないであろう。年老いた宰相は、そう思ったのであった。
◆ ◆ ◆
すんでのところで、亢はきらきらと月明かりを受けて耀く糸刃を避けた。波のようにやってきた次の糸刃の輪を、閖の小太刀が断ちきる。亢はすぐに体勢をたてなおし、閖は静かに小太刀の柄を握りなおした。
(やはりたやすくはゆかぬか)
覚悟していたことである。ついこのあいだまで、舜の市街に店をかまえて薬商いをしていた支岐が、そこに立っていた。この男だけではない。
「あなたが斂さまか」
眼もとが美しく、爽やかである。閖の静かな問いかけに、その男は柔らかく首を傾げるようにして肯定の意をしめした。生前の奈綺とさぞ心があったであろう、と閖は思った。
(ならば……いまもっとも大きな壁は、この男だ)
支岐のように、戦ってやろうという激しい覇気がない。殺意もない。しかし閖は、殺意のないことの怖ろしさを知っている。気が急く。はやく宮城へゆかねば、と思えば思うほど、閖は穏やかになった。
「あなたも舜人であるとお聞きした。いまここで、あなたが俺を止める理由はない」
急いて迂闊に戦えば、間違いなくこちらも深手を負う。亢もそれを察しているから、おとなしくその場に立ち尽くした。
「それが、あるのだ」
斂の持つ美しさは、奈綺のそれと似ている。ぬるま湯につかることを嫌う、冷たく冴えた美しさである。三十を過ぎているというのに、だから斂は奈綺とともに駆けていたころと、そう変わらぬ。
「秋沙は陛下を弑するつもりでいる。俺はそれを止めねばならぬ……なぜならば、俺は『風の者』であるからだ。わかっていただけまいか」
「わかっている。閖よ、わかっているさ」
一見して無意味に思われる会話が、ぎりぎりの均衡を保っていた。
「ここで俺がおまえを止める理由は、ひとつだ。秋沙が、奈綺嬢の子であるということ。ただそれだけだとも」
「…………」
支岐と亢は、たがいに気性に似通ったところがあるのか、睨みあったままである。
「閖よ。ひとには、誰にもひとつ、心の拠りどころとなるものがあるだろう」
「……『風の者』としての生きざまが」
「俺にとってのそれが、奈綺嬢なのさ」
そう言った斂の表情があまりにも爽やかであり、誇りかであり――このときたしかに、閖は奈綺と会ってみたいと思ったのであった。秋沙を産んだ本物の“奈綺”に、である。この斂という男の心を限りなく惹きつけた、本物の“奈綺”に会ってみたいと、閖は思った。
「自負している。俺は、この世で三番めに、奈綺嬢のことをよく理解していると」
「さて、三番めとは?」
「嬢のことをもっともよく理解しているのは、奈綺嬢自身であった」
「二番めとは」
「柳帝陛下が、よくご存知であった。同じ行く末を見晴るかし、同じ場所に立ち、同じ力量で歩いてゆける、柳帝陛下にとっては唯一無二のひとであった」
奈綺が舜先帝に忠義を尽くし、また舜という国を好んでもいたことを、斂は知っている。あの女はたしかに舜先帝と、そうして舜という国、このふたつにのみ忠誠を誓っていたのである。もしも彼女が生きておれば、とうの昔に今上帝の首は飛んでいたにちがいない。
「あの野心溢るる陛下では、いつか舜の大地も戦場になる」
これに関して、閖はいっさい反論することが叶わぬ。それはつねづね、『風の者』たちが懸念していることであった。今上帝の治世に不安と不信を抱きながら、それでも彼らが主君を見限らぬのは、まさにおのれらが『風の者』であるからで、先帝陛下の御子を見限ることなどできぬという情があるからである。彼らが秋沙を阻むのも、ただ理由はそのひとつだけであり、したがって舜帝のいまの治世について言及されてしまうと、彼らは口を閉ざすしかなくなってしまうのであった。
「それは先帝陛下のお望みになるところではない。先々帝陛下も、またあるいはそれよりまえの陛下がたも、お望みにはならぬ。たったひとりの皇帝のために、いままで皇帝と民々がともに築きあげてきた舜というひとつの国を失くすわけにはゆかないのだ」
「…………」
そんなことはわかっている。しかしそれでは、そうやって『風の者』たちがそろって主君を見限ってしまっては、『風の者』の忠義はどこへゆく。たったひとり残される陛下はどうなってしまうというのだ。
閖は饒舌でない。思ったことを、ぐいと腹うちに押しこめた。
「なぜ朱綺が……秋沙の兄が舜人たちを煽動したか、わかるか」
「…………」
ここで斂は、ひとつ小さな嘘をついた。閖自身にさえ気取られぬように、その心に楔をうちこむためであった。
「秋沙や朱綺が、『風の者』として舜を愛するがゆえだ。奈綺嬢の訓えが、いまも息づいている」
秋沙の行動も、朱綺の行動も、柳人として祖国を愛するがゆえである。
「柳人が手をだして舜を覆せば、もはや舜の名は消え、よその国人に祖国を奪われたという怨恨が残る。舜人たちは、何千年と先人たちが愛してきた祖国を失うこととなる。秋沙も朱綺も、それを案じたのだ」
その実は、怨恨が柳に向けられぬようにという行動である。
(すべてわかっている)
「……すべて、わかっている」
と、ようやく閖は声に出して言った。
(それでもだ)
奈綺は先帝に仕え忠義を尽くした、それと何の違いがあろうか。俺はいまの陛下に仕え、忠義を尽くすのである。
「斂さま。それでも俺は、陛下を裏切ったり、見限ったりすることは出来ぬ」
「……『風の者』であるからか」
「そうだ」
斂は静かに笑った。厭な笑いかたではなかった。
「そうか……よい生きかただ」
心底からそう思っているらしい。穏やかな笑みを見て、閖の心もまた定まった。わずかに揺れかけていた心であった。
風が強い。神森のなかを、風が咆えながら吹きわたってゆく。風にのって、斂の操る糸刃がぶわりと舞った。斂は、奈綺と似ている。爽やかであり、穏やかであり、そしてこの男は殺意のない鬼であった。俺はここで死ぬわけにゆかぬのだ、と閖は思った。
【血潮垂る】
舜帝の双眸は、いっさい濁ってはいなかった。国々ひしめく大陸をおのれの掌中におさめるのだと、そういった野心に満ち満ちた耀きがそこにあるように思われた。
「久しいな、秋沙よ」
「まことにお久しゅうございまする、陛下。弑したてまつらんとして参りました」
「…………」
(四人)
四つの薄い気配が、おのれを押しこめるようにして取り囲んでいるのを秋沙は察していた。『風の者』である。閖が手配をしておいたものであろうと思われた。気づかぬふりをして、秋沙はじっと身じろぎひとつせずに舜帝を見つめた。母は死に、兄も死んだ。父はあの好戦的な気性でいながら、ぐっとこらえるようにして国の建て直しを図っている。わたしが何もせずに居れようか、と秋沙は思った。
「そなたに野心はないか。我々皇室と民々が、ともに広大な領土で自由に商いをし、遊び、旅をし、暮らしてゆくことを夢見たりはしないか」
舜帝の声音は低い。
「おのれの国が広大であるということは、まさに夢だ。すべて俺の国にしてしまえば、くだらぬ国どうしの諍いもなくなる」
秋沙の精神は、こういうとき見事に分裂する。四つの気配すべてに気を配りながら、向かいあった舜帝にもまっすぐな視線を送ることができた。
「陛下よ」
「何だ。何なりと言え、場合によってはそなたの最期の言となる」
「陛下は舜人の心を知らぬ」
「柳人のそなたが言うか。柳人のそなたよりは、舜人の俺のほうがよほど知っておるわ、民の心など」
(……まさか、この男)
こうして話しているあいだにも、『風の者』たちと秋沙との攻防はつづいている。ぎりぎりの均衡が崩れたとき、それは『風の者』たちか秋沙か、どちらかが息絶えるときである。
「陛下よ。かつての舜国皇帝は、悪法で民々の生活を縛り、思想を縛り、過ぎた罰を科すことはございませんでした」
「民々に必要なのは、皇室への限りなき畏怖と尊崇だ。父帝は優しすぎた」
「遊牧の民は、心優しゅうございまする。それを統べるものも、心優しくあらねばならぬ。そうして血脈をひとつとし、舜民族はこれまでの長きを平穏に過ごしてきたのでございまする――あなたには生涯分からぬでしょうが」
舜帝の双眸に、秋沙は舜人としての自尊心を視ていた。
(わたしの予感が正しければ、この男は……)
「ほう、生涯分からぬと。柳人の『風の者』くずれが、どうやら兄につづいて死にたいようであるな」
気配がひと息動きだすようなそぶりを見せ、秋沙はそれを牽制するように言葉をつづけた。
「舜帝よ、あなたの言う『風の者』くずれであるわたくしと、あなたと、もはやたいして変わりはございませぬ」
言うてはならぬ、と声なき声をあげて気配がふたつ飛びだしてきた。丸窓に激突するような勢いで、秋沙は壁に張りついた。重ねて飛んできた無数の小太刀を糸刃で断ちきりながら、舜帝の傍らに軽やかに降りたつ。秋沙を見たふたりの『風の者』が、凍りついたような表情を見せた。どちらも三十をわずか過ぎたほどの年ごろと見える。彼らの瞳には、奈綺の姿として映ったらしい。
「わたくしを遮ってくださいますな、同志たちよ」
その物言いが、かろうじて彼らの驚愕を抑えた。奈綺はこのように穏やかで丁寧な物言いは、けしてしなかった。いつでもひとを見おろすような、嘲うような、傲然とした表情で、まったく偉そうな物言いをするのであった。たいして秋沙の物腰は、非常に穏やかである。
「……それほどこの女は、母親に似ているか。俺のなかの面影は、もはやおぼろげであるが」
この状況で泰然としていられるのは、これはやはり父母の血のおかげであろうかと秋沙は思った。
「いいえ、陛下。似ておりませぬ」
一瞬言葉じりが震えたが、何とか片方がそう言いきった。
「秋沙よ、おまえはもはや同志にあらず。祖国を捨てて柳に奔った、裏切りのものだ」
『風の者』の瞳に、小さな悲哀の色が沈んでいる。かつて憬れ焦がれ、嫉妬し、尊崇しつづけた女の娘が、まったく母とよく似た姿で立ちはだかっているのである。同志うちの信頼が厚い『風の者』たちにとって、この状態はけして望んでいたものではなかった。奈綺を頂点として、おのが祖国のために命を懸けて駆けていた時代を、彼らが懐かしまぬはずはなかった。
「……わたくしは、母奈綺をいまでもお慕い申しあげておりまする」
舜帝の視線が、うっとうしそうに丸窓のそとへ向けられた。
「わたくしは舜人奈綺の、また『風の者』奈綺の娘にございまする。その名にかけて、わたくしは舜国を滅ぼすわけにはゆきませぬ」
「……舜は滅びたりせぬ。そのために、陛下のご治世を陰から支え申しあげるために、我々が存在するのだ」
「こうしてみると、どうやら陛下はご自分が舜人であるとお思いのご様子」
「秋沙!!」
「……なに?」
「黙れ、言うてはならぬ!」
まわりのものが、産まれたときから母の素性を隠してきた。この皇帝の気性であるから、突然このようなところで真相を明かされておとなしくしているはずがない。まわりが長年のあいだおのれを謀ってきたことに怒り狂うのではないかと、舜人たちは怖れたのであった。
「言え、秋沙よ」
「陛下のお母上は、柳人でいらっしゃいまする」
◆ ◆ ◆
柳にもまた、冷えた秋風が吹きはじめていた。ようやっと満足のいく穀物の収穫を得て、柳帝はひとつ息をついて自室に籠もった。傍らに彩がいる。はるか遠い昔に在った光景である。奈綺が柳へやってくるまえ、柳帝の手足となって動いていたのはこの女であった。
「秋沙のもとへゆく必要はございませんのでしょうか」
律儀な彩にしてはめずらしく、おのれから柳帝に問いかけた。奈綺のような無礼な真似は、とうていできぬ。
「あれはそうたやすくは死なぬさ」
「……しかし、あれでは死にに行ったようなものでございまする」
この女がこうして食い下がるのは、たしかにめずらしい。奈綺に似てきたか、と柳帝は嗤った。
「いえ、あの」
と顔をわずかに赤らめながらも、諦めぬ。
「彩よ、どう思う。秋沙は舜帝を殺せると思うか」
「支岐も斂もともに往きました。達することが出来ましょう」
「腐ったな」
「…………」
そうは言いながら、けして柳帝の双眸は怒っているふうではない。
「あれに舜帝は殺せぬわ。奈綺が母であるがゆえにな」
「は……?」
豪奢な丸窓から、遠く白山を望むことができる。頂はすでに薄く雪をかぶっていた。奈綺が愛した急峻である。
「奈綺のことだ、娘に教えこんでいるぞ。おまえの祖国はふたつ、舜柳であるとな」
「…………」
このとき、柳帝はじっとひとつの報せを待っていた。その報せへの期待が、実はこの男を饒舌にしていた。
「あれほど母を慕った娘だ、母の言は何としても守るであろうよ」
舜帝に子はない。舜帝を殺したとして、次位の皇帝が居らぬ。母の言を守るとするならば、次位皇帝はかならず舜人でなくてはならぬ。それも長きにわたってつづいてきた、舜皇室を絶やしてはならぬ。それではだれが即位するのか?
「彩よ。秋沙がどのような娘か知っていよう」
「は……」
一瞬である。何かを理解し得たような気がして、彩の胸が強く脈うった。
「実の父である俺の子を孕み、産み落とすような娘ぞ。愛しもせぬ他人の子を産むことなど、たやすかろう」
雷にうたれたような衝撃を受けた。彩は茫然としてそこに立ち尽くした。ようやっと、柳帝の思惑に気づいたのである。
(このかたは……)
立ち尽くした彩を放って、柳帝は静かに寝台に腰をおろした。正妃なり、妾なり、ともかく秋沙が舜後宮へ入ったという報せをこの男は待っているのである。秋沙が舜にむけて発つまで、思いつきもせぬことであった。それにまた、秋沙にたいして何を命じたわけでもない。ただひとこと、“舜帝を殺したあと、誰が即位するのか”というようなことを、ふと問いかけただけである。冷酷な父であった。というよりは、やはり彼は父ではなく柳国皇帝なのであった。奈綺とおのれのあいだに生まれた子であるからこそ、そのひとことですべてを悟るであろうと確信していた。やれと言われてやったのでは、いつか綻びができる。あの娘が、そのひとことで策を練り、おのれから動かねば意味がないのである。
(成功する可能性は、けして高くはないが)
父母をひたむきに慕う娘が、もっとも強大な敵国を御するときが来るとしたならば、それほど柳にとって安泰なことはない。心根の優しいことだけが玉に疵であるが、それ以外は奈綺によく似た子である。
(心根の優しいこと、こればかりは誰に似たのか知れぬがな)
もうしばらく、待たねばならぬ。柳帝は酒器をぐっと傾けた。秋沙にたいして愛はない。産まれたときから、秋沙にたいしても朱綺にたいしても、愛情を抱くことはなかった。そのことを、この男自身も、また母親である奈綺自身も、生涯悲しく思うことはなかった。それだけではない。ふたりの子たちもまた、そのことについて悲しみはしなかったのである。
――彩は、私室から見晴るかすことのできるまるい月を見あげた。夜風は昼にもまして冷たい。いままでに何度も感じたことを、彩はあらためて思った。
(……怖ろしいおかたでいらっしゃる……)
奇妙な話である。
(あの奈綺の娘が……秋沙が、わたしの子と……?)
捨ててきた、いや逐われたといったほうがふさわしいのか、もう会わなくなって久しい息子の顔を、彩は静かに思いかえした。あの好戦的な血は、まちがいなく柳人のものである。愛おしき舜先帝のためにもと、おのれの素性は長く隠してきた。まるでおのれも舜人であるかのような顔をして、彩はその子を育ててきたのであった。
(もう……わけがわからぬ)
ただひとつだけたしかなことがある。秋沙――あの娘は、父母の望みとあらばどのようなことでも叶えてみせるだろうということであった。歪んでいる、と彩は思った。かつてはあれほど奈綺を憐れみ、その一方であれほど奈綺を羨んだ。『風の者』として駆けてゆく激烈な姿を、爽快な生きざまを、あれほどにも。それがいまでは、もはや羨ましいと思われぬ。ただ、恐怖であった。
(いや……違う)
すべては奈綺が死んでから、歪みはじめたのだ。
◆ ◆ ◆
秋沙の澄んだ双眸が強い。
「退がれ」
「は、陛下……しかし」
「かまわぬ、退がれ」
『風の者』たちは主君に忠実である。表に飛びだしてきていたふたりの男は静かに拱手して窓のそとへ消え、姿の見えなかったもうふたつの気配もまもなく消えた。
「さて、俺の首をとりに来たのではなかったか。それとも俺と談笑しに来たか」
「…………」
「母が柳人であるというのは、何ぞ」
「わたくしの母と入れ違いに、陛下のお母上は舜先帝陛下に嫁したのでございまする。陛下のご気性を考えあわせ、おそらくまわりの御方々はお母上の素性を明かさなかったのでございましょうな」
舜帝の双眸が暗く光ったのを、秋沙は見つめた。この男にもひとに知れぬ闇があるのであろう、と思った。
「……俺の体半分は柳人だというのだな」
「陛下のご気性は、まさに柳人特有のものにございまする」
「おまえはどこまでも、俺を舜人とは認めたくないらしい」
「いいえ陛下、わたくしはこの眼で見てまいりました。舜人に、陛下のごときご気性のかたはございませぬ。気性荒ぶるものは居れども、それらはみな舜国を守るがために荒ぶ気性にございまする」
領土を広げ、抗うものを殺し、畏怖と尊崇でもって人心を縛る。血脈をひとつとせぬ柳特有のやりかたである。程度の差こそあれ、柳国皇帝は長きにわたり、そうやって治世をおこなってきた。柳人というのがもともと好戦的な気性を持つから、柳という国はそれで栄えてきたのである。いまの柳帝にしろ同じことであった。冷酷非道の皇帝であるといわれながら、民々はその冷酷さや気性の荒さを、たしかに好み尊崇したのである。
「陛下のお望みは、舜が国土を限りなく広げてゆくことでございますな」
秋沙の声は、幼いころから変わらず美しく可憐であり、柔らかい。ひとの耳朶を心地よくうつ響きを持っている。
「ふん、その素性を知って俺が臆すると思うたか」
「…………」
「なるほどそれならば、俺は舜人であることも、柳人であることも捨ててくれようぞ」
舜帝はそこで小さく唇をつりあげた。物心もつくまえに、この男は幾度か奈綺を眼にしたという。先帝の命によって、この男の剣を鍛えてやりもした――と、そのようなことを支岐から聞いている。この舜帝の心奥どこかに、かつて見た凛々たる女の面影が残っているのかもしれぬ、と秋沙は思った。
(いったい母上は……)
どれほどの心に痕を残せば満足なさるのであろうか、と思わず笑みがこぼれる心もちであった。
「もっとも強大かつ強靭な俺の国に、この舜を創りかえてやろうよ」
「…………」
「おまえは舜のためにその命を懸けているように見えるが、さて俺を殺したとして、次に誰が即位をするのか。まさか帝位空いたまま、民々を諸国の眼に晒すつもりではあるまいな」
すくうように見あげた双眸が、冷たく厳しい。秋沙の考えのなさを責めているような、さてこれから攻勢に転じてやろうというような、意地の悪い視線である。それをよくよく知りながら、秋沙は苦笑してみせた。
「選ぶ道はふたつ。ひとつは、陛下を弑したてまつったのち、わたくしが男となり即位するということ」
「……なに?」
好戦的な気質の柳人が奈綺を尊崇し、正妃として慕ったのと同じように、舜人はその強靭かつ無敵の奈綺を、護り神のようにして慕いつづけた。姿を見たことがなくとも、奈綺という名を聞けば民々は安堵したものである。
「語弊がございました。正しくは、わたくしでなく、“奈綺”が陛下になりかわって即位するということ」
天地を無理やりひっくりかえすような発想であった。むろんこれは、秋沙にとってもいちかばちかの賭けである。実際にやってみるまでは、宰相たちがうなずくか否か、民々が最終的に納得するか否か、けしてわからぬ。ともかく民々が結論として無言の了解を見せなければ、それで舜は破滅を迎えるであろう。
「……もうひとつは」
舜帝の声が低くなった。驚愕を抑えているのである。
「もうひとつは、わたくしが陛下のお傍にあがること」
「……なんだと」
「わたくしが陛下の御子を産み、次期舜帝の母となることにございまする」
そのかわり、と秋沙はつづけた。
「領土を広げるという陛下のお望みについては、わたくしの持ちうるすべての力をもって、お助け申しあげましょう」
力は均衡していた。どちらかひとりが眼を逸らせば、それはもはや敗北であるようだった。秋沙については、懐剣を抱いて敵の胸もとに飛びこんだようなものであった。
(つぎの柳帝には、あの双子のうちどちらかが即位する。それは父上が見極めなさるだろう)
舜帝が死ぬか、あるいは舜帝のもとに飛びこんでしまうか、そうすれば父は隣の大国に要らぬ気を遣らずに治世をし、あるいは戦ができる。
『風の者』としての力を継ぎ、いつか頃あいをみて舜帝を弑し、そうしておのれもまた自害すれば良かろう。
(母上の愛した舜を遺し、跡継ぎがまだ育たぬ柳が立ちゆくためにならば、わたしは何でもしてみせよう)
長い沈黙ののち、舜帝が低く嗤った。苛だちや怒りが混じったような笑みである。
「俺が死に、おまえが即位する。それは何より気に入らぬわ」
「…………」
「宰相を呼べ」
「御意」
けして心地よくはなかった。この男の首をここでとってしまうことの、どれほどたやすいことであろうか。舜帝は、いま秋沙が掲げた道を逆手にとってやろうと動きだすに違いなかった。死力を尽くす戦いとなる。
おそるおそる入ってきた宰相にむけて、舜帝は吐き棄てるように命じた。
「噂を流せ――“奈綺”が生きていたと。“奈綺”が戻ってきたとな」
「は……」
「それから閖を呼び戻せ」
「……は、仰せのとおりに」
案の定、年老いた宰相はなかば茫然とした。惚けたように答えながら、思うたように足が動かぬらしい。舜帝があえてその命をくだしたのは、ある種のいやがらせである。そうして秋沙が秋沙であることのいっさいを、禁じたのであった。
ただしこのとき、秋沙は何の葛藤もなくそれを受け容れた。おのれの進むべき道がまっすぐこの眼に映っている以上、何も怖れるものはなかったのである。また、すでにこの女はある意味で母と溶けあい、ある意味で母と別個のおのれを自覚していた。奈綺でありながら秋沙でありつづける、秋沙でありながら奈綺でありつづける、そういったことをこの女は難なくこなすようになっていたのである。
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2008/09/08(Mon)16:23:47 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
面白いと思ってもらえるように。わくわくしてもらえるように。スカッとしたり悲しんだりしてもらえるように。そんなふうに心がけていますが、面白くなかったりわくわくしなかったり何も思わなかったりしたらごめんなさい。
お決まりの入りです。
ムカデが髪の毛にくっついていたり、遅刻するリアルな夢を見たり、弁論大会で偉いさんがぐじゃらぐじゃらとうっとうしかったり、周りが鬱だったり、おかげさまで私もプチ鬱な気分ですが。
まだしばらく続きます。色々と創作でありますので、ご了承くださいませ(と、いまさら言うまでもないか)いつも読んでくださるととさま、ありがとうございます。最後までよたよた頑張ります。