- 『忘れかけられた人体模型と孤独な少女』 作者:こーんぽたーじゅ / 恋愛小説 未分類
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全角14864.5文字
容量29729 bytes
原稿用紙約43.7枚
その日、少女は恋をした。
どこを見渡しても仲間のいない教室。ただ一人で過ごす休み時間はむなしくて、つまらなくて。一人で食べるお弁当はさびしくて、味気なくて。
そんなことを繰り返す毎日が退屈で仕方がなかった。
そんな日常の中で、少女は恋をした。
1
次の三時限目の授業は理科で移動教室。クラスメイトの誰よりも教室を早く出て、理科室を目指す。なぜならば、そうしなければ授業に間に合わないからだ。
少女は幼稚園に入園する前に交通事故によって右足が思うように動かなくなっていた。歩くときは引きずらなければならなかったし、体育の授業のほとんどは見学しなければならなかった。リハビリをしても無駄だ、と医者は言った。
当然、足が正常に動くクラスメイトよりも少女の歩くスピードは格段に遅い。しかし、そんな少女を誰一人として助けはしない。
そして、そんな少女の姿を見て、クラスの男子は「落武者、落武者」とはやし立てた。はじめのうちは黒い学ランが悪魔のように見えたりしていた。そして、その嫌がらせは日々エスカレートしていき、机に落書きをされたり、靴を隠されるといったことも多くなった。そのことは両親や教師には話していない。もしかすると気付かれているかもしれないが、それでも自分から打ち明ける気はさらさらなかった。理由は、単に事がこじれることが面倒であり、嫌だったからだ。
ふと、少女の脳裏にクラスメイト達の姿が浮かんだ。すると、底の見えない恐怖に迫られ、それを振り切るように理科室を目指して引きずる右足を懸命に動かした。歩くたびに、校則に忠実に従った黒髪の長髪がサッ、さっと靡≪なび≫いた。
ペースを上げたせいで、クラスメイトの誰よりも早く理科室に着いてしまった。こんなことは初めてである。
誰も居ない理科室は異様な雰囲気を醸し出していた。薬品のにおいが混ざった空気がこの部屋が他の教室とは圧倒的に違うものだ、と気付かせる。さらには、光の弱い蛍光灯、哺乳類らしき動物がホルマリン漬けにされた標本がその感情を増幅させる。決して心地よいものとは言えない。とりあえず少女は教卓の正面の席についた。
そんな異世界情緒を漂わせる教室内に一人きり、という状況が少女を不安にさせた。
「このままじっとしていると何かが出てきそうだわ……」
ぽつり、と少女は呟いた。勿論、この声が何者かに届くことはない。
少女の持ち物には暇つぶしになるようなものはない。あるのは教科書とノートと筆箱。あとは胸ポケットに生徒手帳が入っているだけである。
仕方なく少女は生徒手帳を眺めることにした。赤いカバーが施されたそれには校章と共に中学校名が印刷されている。中をぱらぱらとめくっても当然だが面白いことは一切書いてない。そして、一分と経たないうちに胸ポケットへと再びしまいこんだ。
少女は改めて理科室を見渡す。
「改めて見回しても何も無――」
「無い」と言おうとしたところで、何かが少女の目に飛び込んだ。それは、二段スライド式の黒板の横にある開け放たれたドアの向こう側。そこは理科準備室となっていて、薬品やら実験器具が保管されている。入っていいのは教師だけであって、生徒の出入りは禁止されている。
「たぶん気のせいだよね」そう思って扉から少し目を離しても、数秒後にはまた扉に目を向けている。
そんな状態が何回か続いたところで、少女は扉の向こうにある何かにただならぬ興味を抱いていることを悟る。そして、その存在を確かめずにはいられなくなった。
この教室、及び準備室は少女以外には誰も居ない。よって、禁止されている準備室の出入りを行ったところでそれを目撃する人もいない。
少女はまるで敵兵から逃れている兵士のような目つきで辺りを確認しながら準備室へと続く扉の前まで歩いた。その右足が引きずっていることは既に言うまでもない。
そして、扉の前までたどり着くとひょっこりと顔を覗かせた。
準備室の中はバスケットボール選手のように大きい棚が幾つも鎮座してあり、その中には茶色や緑色の瓶、そして様々な実験器具がしまってあった。実験器具の中には授業で使ったことがあるものや、何に使うかも分からないような奇妙な形をしたものまであった。それはそれで気になったが、探しているものはこれではない。第一、さきほどまで少女が座っていた位置からは、この棚は見えないようになっていたのだから。
となると、目的のものは座っていた位置から見える、四畳ほどのスペースに絞られる。
少女はその区域に目を凝らした。しかし、そこにはほとんど何も置いていなかった。並べられた机の上に、棚に入りきらなかったのであろう実験器具が無造作に並べられていただけだ。これならさっきの棚の方がよっぽど興味をそそられる、と少女は落胆しかけたそのとき、その机の向こうにあるものに目を奪われた。
決して初めて見たものではないそれ。目を奪われるほどのものではなく、むしろ目を背けたくなるようなグロテスクなそれ。置かれてある位置からして忘れかけられていたそれに釘付けになった。
――人体模型が、机と壁とがつくりだした影の中にひっそりと佇んでいた。
少女よりも一回り体が小さな人体模型は左右半分ずつに違った体を持っていた。少女から見て左半分――つまり人体模型の右半身は、ずるりと皮が剥けてしまったようなつくりになっていて、そこからは、繊細にそして綺麗に引き締まった赤い色をした筋肉、テカテカと人間離れした色彩を放つ臓物が顔を覗かせている。
そして、そのもう半分――人体模型の左半身は、素っ裸ではあるが、普通の男の子の姿をしていた。
少女は爪先から頭のてっぺんまでじぃっと見つめ、最後は左右違った趣を見せる目をこれまたじぃっと見た。右目は今にも飛び出しそうで、左目は焦点の定まらない視線を向けていた。
少女の心は高揚していた。それは決して驚いたからではなく、何か別の、表現しがたいものだった。少女にはこんな気持ちを経験したことはこれまで一度もない、不思議なものだった。
「あなたと私は少しだけ似ている気がするわ」少女は人体模型の目を見ながら言った。少女には人体模型から返事が来るという期待は微塵も持っていない。ただ、先ほどまで探し求めていたものはこれだな、というか確信はあった。
「あなたも私も不自由な体を強いられている。それによって、周囲から疎外されてひとりぼっち。そうでしょう?」二度目はとても自然に言葉が出た。
「……返事なんて返ってくるはずないのに、何で私は話しかけたのだろう」少女は急に現実に戻されたような気分になって、ため息をついた。
前述では「返事が来るという期待は微塵も持っていない」と述べたが、本当はほんの少しの淡い期待を持っていたのかもしれない。だからこそ、ため息が出たのだろう。ということは上の表現は「少しばかり淡い期待を背負っていたが、そこは現実を見て、あえて期待を微塵も持たないでいることにした」の方が正しくなるだろう。
教室の外が急に騒がしくなった。どうやらクラスメイト達がこの教室に向かっているようだ。少女はこの状況を見られるのはさすがにまずいと思い、そそくさと準備室を後にして、自分の席に着いた。改めて準備室の中に目を凝らすと、人体模型の腕の一部が少しだけ見えるようになっていた。
少女が席に着くとほぼ同時に、クラスメイト達がどっと教室に流れ込んできた。静かだった教室が急に喧騒に包まれて、少女は顔をしかめた。
そして、授業開始のチャイムが鳴ると、その喧騒が嘘のように静まり返った。
少女はその授業中、ずっと妙な感情を抱えながら、準備室のドアの向こうを眺めていた。
2
理科の授業のときからのぼんやりを四時限目も引きずっていると、一瞬で授業が終わり、昼休みがやってきた。この時間中に少女は自分自身が何を考えていたのかがさっぱり思い出せずにいた。ただ、あの人体模型のことを考えていたということだけは確かな事実である。
――また、会いに行こう。
少女はそう決心して、弁当を片手に教室を出た。彼に会いに行くからこそ、三時限目の終わりにドアに細工を施したのだ。見つかっていなければ、大丈夫なはずだ。教室を出る際に男子に足を引っ掛けられて転んだが、すぐに立ち上がってまた歩き出した。
結果から言うと、少女の細工は成功していた。細工、というと大仰な響きだが、実際はあまり使われていない後ろのドアの鍵を開けておく、といった簡単なものだった。理科の教師は適当な性格であり、昼休みは職員室で過ごすことは知っていたので、この作戦は効果覿面だったと言えよう。
少女は周りに誰もいないことを確認すると、ドアに手をかけて開けた。開けるのとほぼ同時に体を滑り込ませるようにして、そしてドアをまた閉め、鍵をかけた。
一連の作業を終え、一息ついたところで理科準備室に入室した。
彼はあの時と同じ場所で佇んでいた。昼間の太陽を浴びることなく。
「そこでは暗いし、狭いでしょう? 私が出してあげる」
そう言うと少女は弁当をその辺に置き、人体模型に駆け寄る。そして、その白くてか細い腕を懸命にはたらかせて人体模型を動かした。彼はその小さな体にも関わらず、なかなかの重さがあり、下手に傾けてしまうと中に仕込まれている臓物が床に散らばってしまうので、少女はかなり手間取った。
そして、日陰から日向へとトラブルもなく連れ出すことに成功したときには少女の腕はへとへとに疲れきっていた。足が原因で力仕事をほとんど任されたことのない少女にとっては、その疲れもなおさらだったにちがいない。
ふうっ、と一息つき少女は床にへたり込む。人体模型のすぐそばでへたり込んだので、ちょうど彼と背中合わせになるような姿勢になった。少女は、自分の髪が彼の肩にかかっているのが感覚的に分かり、右手で髪をどけた。
「お弁当にしましょう。あなたは食べられないけど、それでも一緒に、ね」
少女はそのままの姿勢を保ったまま、手探りで弁当を探し当てると、延ばした両足の上で包みを解いた。
キャベツの緑、卵の黄色、プチトマトの赤。綺麗な色彩に彩られた実に女の子の弁当といった可愛らしいおかずたちが顔を覗かせている。
いただきます、と手を合わせる。そして、まずは卵焼きから食べ始め、そこから順序良く食べ進めた。
いつものようにほとんど無言で、今日の弁当の中身だって特別ではない。なのに、少女はいつもとは違った味わいを楽しんでいた。次にどのおかずを食べようか迷っているその一瞬でさえ、心地よかった。
「全ては背中から伝わってくるこの感覚からなんだな。ああ、この感覚はなんだろう」少女はふと、こんなことを呟いてみたりもした。
弁当をぺろりと平らげ、ごちそうさまでした、と挨拶する。
「お弁当を食べるのってこんなに楽しいことだったのね。あなたはそれを私に気付かせてくれたわ。ありがとう」
少女は彼に向かって、微笑んで見せようとした。しかし、その表情はぎこちないものとなっていたことは鏡を見なくても分かった。そう、少女は「笑う」ということをほとんどしなかった。それが原因である。
原因を生み出したのは言うまでもなく、「嫌がらせ」……いや、もう「いじめ」というべき中身になっているだろうそれである。それが少女から笑顔を奪った。
「笑顔を見せられるようにならなきゃ」
そう決断すると少女は、人体模型を元の位置へと戻すために立ち上がった。彼をまたもや暗所へ移すのは少し気が引けたが、怪しまれないようにするにはそうしなければならなかったのだ。
少女が重たい彼をなんとか移動し終えても、時間はまだ教室へと余裕をもって帰れるまでの時間を残していた。
彼に手を振り、廊下に誰もないことを確認すると、すばやく扉から出て、静かに閉めた。
教室へと右足を引きずりながら帰る少女の足取りは心なしか軽やかに見えた。
3
学校も終わり、部活に所属していない少女は、道草もすること無く家路に着いた。下校中は誰とも出会わなかった。
少女の家は、閑静な住宅街の一角に佇む二階建ての一戸建てである。その敷地面積もごくごく一般的なもので、少女を含めた三人の家族が暮らすには十分な広さだった。その外観は、白い壁と紺色の屋根をしており、なんら変わった点は無い。
少女はドアに手をかけ、引いた。鍵はかかっていなかったため、無用心だな、と思いつつ中に入り、鍵を閉めた。
ドアが開く音で気がついたのだろう、少女の母親が廊下の向こうにあるリビングから顔をのぞかせて「おかえり」と言った。少女はそれに「うん、ただいま」と抑揚の無い声で答えた。
少女はその足で、自室へ向かった。少女の部屋は玄関から向かって右に位置しており、この家で玄関から最も近い部屋となっている。当然、両親の心遣いである。
ドアとその鍵を閉め、タンスの前に鞄を置くと、少女はベッドに腰掛けた。足を引きずりながらの下校で、疲れていたからだ。さらに、今日はジリジリと焼きつくような暑さであるため、その疲労感はなおさらである。
少女はしばらくの間座ったまままどろんでいたが、制服のままでは居心地が悪かったので、着替えることにした。
制服を脱ぎ、少女はタンスから取り出した水色のワンピースに着替えた。
少女のもっている服は、大抵は今着替えたワンピースのようなものか、スカートである。ズボンは一切持っていない。なぜならば、少女の右足はほとんど曲がらない状態なので、ズボンでは一人で着替えるには不便だからだ。なので、冬でもスカートである。
着替え終えた少女は制服をハンガーで吊るし、机の引き出しから「ある物」を取り出すと、再びベッドの上に横たわった。
きらりと光を反射しているそれには、黒髪の長髪から覗くこれまた黒い瞳と、色白の肌、少し小さめの鼻に、大きくも小さくもない口を持った少女の顔が映っていた。そう、少女が取り出した「ある物」とは手鏡である。
「これで笑顔の練習をしよう」そういった少女の表情はほとんど無表情に近い。
「こうかな」
そう言って、少女は自分が思い描くままの笑顔を浮かべてみた。そう、テレビで女優さんたちがするような、輝くようなそれをイメージして。
しかし、手鏡に映った少女の表情は、彼女の理想とは程遠いものだった。今、鏡に映っているのは、まるで嫌いな食べ物を目の前に置かれた時のような引きつった表情。お世辞にも笑顔とは言えない。
「うーん、違うなぁ。それならこうかな」
そう言って再び笑顔を作ってみるが、先ほどのそれとほとんど変わらないものだった。
それから何度か挑戦したものの、思ったような成果が得られず、少女はがっくりと肩を落とした。
「私には無理なのかなぁ」
半ば諦めたかのように小さくため息をつき、手鏡を枕元に置いた。
「でも、できるようになりたいな」
少女は天井を見つめながらそう呟いた。
少女は明日もきっとあの場所へ行くのだろう。ようやく手に入れようとしている自分の居場所に。今まで無かった自分を見せられたあの場所。初めてお弁当を食べるのが楽しいと思えたあの場所。会いたいと思う人がいるあの場所。楽しかった今日の昼休みの余韻が今も残っていて、できればその時間がこれからも続いて欲しかった。掴みかけたそれを決して手放したくなかった。
そのためにはやはり少女自身も変わりたかった。「楽しさ」を提供されるだけでなく、あの場所に「楽しさ」を持ち込みたい。そう願った。笑顔はそこまで踏み出すまでの大事な一歩であり、外すことのできない大事な鍵。その鍵が手に入ればあの楽しかった時間へ続く扉が開かれると信じていた。
でも、その鍵は簡単に手に入りそうでなかなか手に入らないものだった。手が届きそうで届かない夜空の星のようである。少女はそんな不甲斐ない自分が悔しくてならなかった。
天井をぼぅっと見ていた少女の視界がだんだんとまどろんできた。ふわり、ふわりとした浮遊感が体を支配する。
「あぁ、今日は疲れたんだな」
確かにそうだ。普段はしないような出会いに、初めて心に浮かんだ感情。そして、いつもはしないような努力に思案。疲れるのに無理はない。
少女が目を瞑った瞬間、沼に沈んでいくような感覚にとらわれ、そのまま眠りについた。
少女が目を覚ましたときには、窓の外はすでにオレンジに染まっていた。
目を擦りながら少女は自分の手に手鏡が握られているのに気付いた。どうやら眠っているときに、無意識のうちに握ってしまっていたようだ。
「やはり私は笑顔を求めているようね」少女はそんな無意識状態だった自分が可笑しくなった。とはいっても、表情には一切出さず心の中でそう思っただけなのだが。
少女はベッドから起き上がると、手鏡を学校用の鞄につめて、迫り行く夕闇の空を見つめながら部屋を後にした。
4
少女にとって、登校というのは下校よりも憂鬱なものだった。下校する場合、大抵のクラスメイトは部活をするので、帰宅部である少女は誰とも会わずに済むことが多い。しかし、登校となれば話は別である。どの時間帯に出ても、必ず誰かと遭遇してしまう。朝早くに出ても、朝練習の集団と。かといって遅くに出ても遅刻ギリギリの集団に出くわす。だから少女は早くも遅くもない時間に登校する。誰かと出くわすのはもはや仕方のないことだ、とも割り切っていてさえもいた。
そして、今日も例外ではなかった。
少女はなるべく目立たないように、道の端を歩いていた。とはいっても、足を引きずりながら歩く少女の姿はどうしても目立ってしまう。
「よぉ。落武者。そんなに引きずっちゃってさ、右足に矢でも刺さってんのか?」 突如背後から降りかかった男の声。その下品な言葉遣いと声に少女は吐き気に似た感覚に襲われた。
恐る恐る声がしたほうを振り返ると、案の定、そこにはクラスメイトの岡本が立っていた。
岡本は野球部に所属していて、喧嘩っ早い性格で知られていた。実際、野球部の中でも暴力を振るわれた人もいるそうだ。そして、少女も彼から小学生時代から嫌がらせを度重なりうけている。飽きもせずに、何度も何度も。
「お前、まだ凝りもせず学校に来てるのかよ。さっさと病院に行ってその気持ち悪ぃ足を治してもらえよ」岡本は野球部にしてはそぐわない長髪をいじりながら、唇に気持ち悪いほどの笑みを浮かべた。
その笑みを見て、さらに拍車をかけた吐き気のせいで、少女はうつむいてしまった。毎日こうだ。何か言われても言い返せない。違うと言いたい。言えない。悔しい。
でも、言ったら何が待っているか分からない。いじめがエスカレートするかもしれないし、もしかしたらその場で暴力を振るわれるかもしれない。怖かった。だからこうして黙り込んでその場をやり過ごすしかできなかった。
「そうやって黙り込まれるとウザいんだよ」
舌打ちをしながら岡本は去っていった。すれ違いざまにシューズバッグで殴られた。少し遅れて殴られた箇所が痛み出した。制服の袖をまくって、傷を確かめる。少女の白い肌が赤くなっていた。触ると、もっと痛かった。
もう何日も、何年も繰り返されてきたことなのに、耐えられない痛み。殴られることはさして多くはない。しかし、精神的な攻撃は毎日繰り返される。少しは耐性ができてもいいじゃないか。そう思っても何も変わらない。もしかしたらそれは、慣れてはいけないというメッセージなのかもしれない。
少女の耳には、喧騒が響いていた。同じ制服を着た人たちの足音、楽しそうな話し声。その中に少女はいない。
そして少女は、また右足を引きずりながら、歩き始めた。
学校に着くと少女は、自分の鞄から上履きを取り出して履き、そしてスニーカーをビニール袋に包んで鞄にしまった。
少女は学校で必要なものは全て持ち帰っていた。教科書のみならず、体操服、上履きまで全部。なので少女の机の中、ロッカー、靴箱は常に空である。それもこれも、嫌がらせを受けないためのである。何かを置いて帰ると、翌朝には確実に無くなっている。大抵は人目のつかないところや、ゴミ箱の中にある。それでも見つからない場合は、苦し紛れの言い訳をこじつけて、両親に新しいのを買ってもらう。
それも長く続くとさすがに怪しまれるので、今のような策をとることになった。
重たい鞄と、引きずる足を従えて、教室にたどり着いた頃には、予鈴が鳴るまであと少しのところだった。
鞄を机に置こうとしたが、机には『落武者カエレ!』と、黒マジックで落書きされていた。黒マジックは消しゴムで思い切り擦れば消える。少女はやっとの思いで落書きを消し、席に着いた。
落書きを消すときに、少女はいつも思うことがある。この消しゴムは私の心なんだな、と。消しゴムは使えば磨り減り、やがて無くなる。落書きをされるのはつらいし、必死で消す姿は惨めに違いない。そう思うと、心が磨り減るようだった。それなら――。
――いつか心も磨り減って無くなってしまうのだろうか。
一時期、少女はそうなってしまった方が楽かもしれない、と思った。しかし、今は違う。「あの場所」に行けば、辛いことも忘れられる。もしかしたら自分を変えられるかもしれない。だから、可能性を捨てるような真似はしたくない。
「辛抱するしかないのね」
誰にも聞こえないように、言い聞かせるように、少女は小さく呟いた。
昼休みになった瞬間、少女は教室を飛び出した。弁当と、手鏡を持って。
朝のホームルームで担任から一時に職員室に来るよう言われたので、昨日よりもペースを上げなくてはならなかった。時間の関係上、弁当は諦めないといけないかもしれない。彼の前だったら家よりもいい結果が出せるかもしれない、と思って持ってきた手鏡もたぶん使わずに終わってしまうだろう。だけど、それでも良かった。彼に一目会えるだけで少女は十分だった。
早く会いたいと願うだけ、引きずって重たい右足が羽のように軽くなる。早く会いたいと願うだけ、腕を振る速度が上がる。
そしてたどり着いた理科準備室。少女は息を整えると、後ろのドアを開けた。
「あ……あれ?」
ドアは開かなかった。どれだけ引いても、叩いても、揺さぶっても開かなかった。
「昨日は開いていたはずなのに……」少女はひどく落胆した。少女はこの現実を呪いたかった。手を伸ばしたら届きそうなのに届かない現実を。
「どうやったら中に入れるの?」
少女のドアを叩く音だけが、廊下に空しく響いた。
5
絶望だった。
掴みかけた希望がこんなにも簡単に崩れてしまったショックと、彼に会えない悲しさに少女は押しつぶされそうになった。
泣きたかった。でも、泣けなかった。それは、度重なるいじめがそうしてしまったからに他ならない。泣いてしまったらそのことを理由にまた心無いことを言われる。それが嫌で嫌でしかたがなくて、泣きたくなる感情を必死で抑える。
それでも泣きたいときは家で誰にも見つからないようにこっそりと涙を流した。悔しさも、苛立ちも、憎しみも全て涙に乗せて流した。目が恐ろしいくらいに真っ赤になったこともあった。
少女はこれから迫りつつある暗黒の日々を考えると、それだけで怖かった。期待に胸を躍らせた日々から真っ逆さまに落とされる感覚。衝撃は計り知れない。きっと、これまでよりもひどい毎日が待っているだろう。そしていつしか少女の感情は全て奪い去られてしまうかもしれない。そんなの人ではない、人形だ。
力なくうなだれる少女の耳に、校内放送のアナウンスが響いた。
少女の耳には確かにアナウンスが届いていた。しかし、少女は今のことで頭がいっぱいで放送の内容まで聞こうとはしなかった。いや、聞けなかった。
しかし、その放送の中で少女の名前が呼ばれた途端、少女はハッとなったように顔を上げた。肝心の中身こそは聞いてなかったものの、確かに少女は自分の名前を呼ばれた。
「なにか放送で呼び出されるようなことしたかなぁ」
うんざりしたように呟きながら、呼び出しを受けた理由について考える。本当はそんなことを考えている余裕など無かったが、さすがに呼び出しを無視するのはまずい。それに、肝心の内容が全く聞き取れていなかった。このままではそのつもりは無くても無視することになってしまいかねない。
朝からの記憶を反芻する。岡本と出くわしてしまった最悪な朝。落書きされた机。朝礼。いつもと変わりない授業。閉まっていた理科室。
思い出すのは嫌な記憶がほとんどである。楽しいことなんてまったく無い。せめて彼に会えたら……。会いたい。会えなくなるとその先には闇しか待っていない……。
いつの間にか、またネガティブな方向へ話を持っていってしまっていたことに少女は気付いた。今考えるべきはあの放送のことだ、と唱えてもどうしてもそのマイナスの感情は脳裏に焼きついて離れようとしない。
「あっ」
少女の口から小さく声が出た。負の感情が脳内を支配しようかとしていたときにふと、思い出したのだ。呼び出された理由を。
「先生に職員室に呼ばれてたんだ」
呼ばれていた時間は一時。窓越しに理科室の中の時計を見る、時計の針は一時十分をさしていた。十分の遅刻である。職員室は理科室のほぼ真下に位置している。しかし、少女の足ではこれから向かったとしても職員室までは五分程度かかってしまうだろう。
しかもこの精神状態だ。気が重たい。できれば行きたくない。でも、行かなくてはならない。
職員室へ向けて歩き出そうとしたが、足が動かなかった。
少女にはこの理科室のドアが開かないということは十分分かっていたし、ここで立ち往生をしているより職員室に向かった方が良いということも分かっていた。
幾許か躊躇した挙句、少女はドアにもたれかかるようにして座り込んだ。
背中にはドア、太ももには床からのひんやりとした冷たさが静かに伝わる。ほっそりとした背中と、体を支えるには心許ないように見える太ももはその冷たさによって今にも崩されてしまいそうである。
やがて少女は膝を抱えて、あまりにも無力な自分を呪った。
そうしているうちにも五分、十分……と時間が過ぎ、二十五分が過ぎたころに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
少女はまだ、動かない。
6
少女は次の授業に遅刻した。運悪く五時間目は担任の授業だった。
遅刻した理由を問いただしても答えようとしない少女に見かねた担任は放課後、少女を職員室に呼び出した。昼休みの呼び出しを無視したことも、その理由の一つだろう。
未だに気が晴れない少女は、いつもよりも重たく感じる足を引きずりながら、職員室へ向かった。
ドアを開けた瞬間、むせ返るようなタバコ臭に少女は顔をしかめた。見渡してみると、机でタバコを吸っている中年の教師が数人いた。禁煙、もしくは分煙をしなくて大丈夫なのだろうか。
担任の机はドアからは最も遠い場所の一つに陣取っていた。なので、担任のもとへ向かうまでには何人もの教師の前を通らなければならない。なので、それはそれで気を遣うことだった。
教師を初めて三年目の担任は、少女に気が付くと様々な感情が入り混じった表情で椅子に腰掛けるように指示された。
担任の前に丸椅子で座らされた少女は、出始めにこっぴどく叱られた。しかし、その口調は怒っているというより気だるそうな感じだった。
話の途中で何度も彼の姿が頭に浮かんだ。そのたびに切なくなったが、昼休みのときに比べ、冷静さを取り戻せていた。
「お前はこんな子じゃなかったはずだ」という言葉を何回聞かされただろうか、ようやく担任は本題について話し始めた。
「この前の放課後、教室の点検をしていたらこんなものが出てきた」
担任はおもむろに机の引き出しを開くと、そこから一枚の破ったノートを取り出し机の上に置いた。
そこには「死ね」やら「帰れ」といった罵詈雑言がページいっぱいに埋め尽くされていた。
少女はそれを見て、いつものことか、と思う一方で心はまた少し磨り減った。見ているだけで心が痛くなってくる。
「この癖のある字は岡本のものみたいだし、こっちのぐちゃぐちゃな字は神山のものだと思うんだが……」担任は言葉を濁すように言った。それはまるでそのあとに続く言葉をかき消すかのようだった。
ノートの右上に大きく書かれている「死ね」という言葉は確かに見覚えがあった。この癖だらけの字は担任の言うとおり岡本のものだ。
その他にも真ん中の汚い字は神山、その左の女子みたいな丸っこい字は田之上、残りは筆跡だけでは判断がつかなかった。薮内、市川辺りだろうか。
彼らは皆岡本のグループの奴らで、少女をいじめている中心人物もその五人だった。
少女は涙が出そうになるのを堪えながらその文字達を目で追った。しかし、途中で目をそらした。もう見ていられない。
(どうしてこうも私にだけ辛いことばかり起こるのだろう。不公平だ)少女は奥歯を噛み締めながら思った。
「辛いことだとは思うけど、正直に教えて欲しい。岡本たちにイジメを受けてないか?」担任は作り物のような笑顔を浮かべて尋ねた。この状況で笑顔は必要なのだろうか。
――そんなこと分かってるくせに。
そう思って、少女は黙り込む。
「黙っているだけじゃ分からないぞ。先生に何でも相談しなさい。最後まで味方になってあげるから」作り物のような表情をさらに強調させながら、先ほどまで叱っていた時とは正反対の黄色い声で言う。
――嘘だ。
相談できるはずがない。相談したらさらに状況を悪化させるだけである。担任はそれを知っているのだろうか。分かっていないのならまだ良い。分かっていて建前のために言っているのなら最悪だ。
「辛いのは分かってる。でも、先生はクラスの誰かが辛い目にあっているのを見逃せないんだ」懲りずに担任は決まり文句のような台詞を羅列する。
――放っておいてほしい。
私いじめられてます。言えたらどれだけ楽だろうか。言えるならここまで状況は悪化していない。そしてその状況は少なくとも目の前で髪の毛を掻き乱している男の手では変えられない。だから、放っておいて欲しい。
担任が少女の両手を包み込むように握る。毛深いその手は汗でベトベトしていて気持ちが悪かった。
「勇気を出すんだ!」
職員室中に響くその声に、視線が一挙に少女の方へ向けられる。
――もう限界だ。
少女は担任の手を振りほどくと、立ち上がって、滅多に出さないような大きな声で叫んだ。
「もう放っておいてください! いい迷惑なんです!」
少女の言葉に視線が再び少女たちに向けられる。さぞかし少女の姿は担任の言葉に反抗した不届き者に見えていることだろう。
少女は本当は助けの言葉を叫びたかった。これではまるで岡村たちを擁護しているみたいではないか。もちろん、少女は岡村たちを擁護するわけがない。
立ったままだと、そのまま視線の矢の雨にズタズタにされそうだ。きょとんとしたまま目を見開いている担任に一礼すると少女は踵を返して、立ち去った。
これは現実から逃げてるだけだ、ということを少女は分かっていた。逃げても状況は変わらない。でも逃げてしまう。「助けて」の一言が言えないのも、そうなのかもしれない。
結局自分が可愛いだけなんだ。少女はそう結論付けた。これ以上傷つきたくないがために逃げる。でもそれは結果として少女自身が傷つくことになっている。
勿論、傷つける原因となったものたちが悪くないということではない。むしろ悪いことなのだ。
部屋の外へ向けて一歩、また一歩と進んでいた時、少女の肩に何かが触れた。感触から分かることは人ではないということ。では、何だろう?
途端、少女の耳にカシャンという鈍い金属音が聞こえた。音のするほうへ視線をやると、そこにはいくつかの鍵が散らばっていた。どうやら、肩にぶつかった拍子に壁に引っ掛けられていた鍵を落としてしまったようだ。
少女はしゃがみこんで落としてしまったそれらを拾い始める。
一年生の教室、パソコン室、体育倉庫……。それぞれ違った形を持つ鍵の中に、一際目を惹くものがあった。
理科室。
その鍵に吊るされたタグには黒い文字でそう書かれていた。
鍵を拾っていた少女の動きが止まる。頭の中が真っ白になったかと思えばほんの一瞬で洪水のように思考が駆け巡る。
(これが理科室の鍵……)
蛍光灯の光を受けて鈍く、冷たく光る鍵を見つめる。
(これさえあれば……)
つばをごくりと飲み込む。
(彼に会いに行ける!)
そう確信した瞬間、少女はこの鍵がどんな金銀財宝よりも輝いて見えた。
先ほどまでの暗い気持ちはだんだん薄まっていき、打って変わったかのように心臓が波打つ。
(欲しい)
少女はそのまま鍵をポケットへ入れて持ち去ることも考えた。しかし、教師の目があったので出来なかった。もとより、それは泥棒である。決してそんなことはしてはならない。
「どうかしたの?」突然、少女の背後から女の人の声が聞こえた。
少女が振り返るとそこには、国語科の松中先生が少女と目線を合わせるようにしゃがみこんでいた。
彼女は隣のクラスの担任で、少女達のクラスへは国語を教えに来ている。そしてまた、彼女も少女のことを気にかけているようなそぶりをたまに見せる。それは、少女のクラスの担任のように作り物のようなものではなく、少女はこの先生に少なからず悪い人だとは思っていない。
岡本たちに絡まれそうになっているときに、「岡本君たち、ちょっと手伝って欲しいことがあるの」と言って、さりげなく少女を助けてくれたときもあった。その心遣いが嬉しかった。それでも少女は、松中先生に自分から助けを呼ぶようなことはしなかった。助けてくれることがあったとはいえ、やはり少女は他人を信用できずにいたからだ。
他人の心遣いはお日様の下で干した布団のように温かい。そんな心遣いを拒んでいる自分は冷凍庫のように冷たい。
「どこか具合でも悪いの?」松中先生が少女の顔を覗き込みながら言った。
長い睫、整った目鼻立ち、白くてきめ細やかな肌をもった松中先生の顔が近くに迫ってきたのに気付いた少女はびっくりして立ち上がった。
「いえ、何でもないです」少女は目を丸くして答えた。
少女の言葉を聞いてうっすらと笑みを浮かべた松中先生は、落ちて板のころの鍵を拾い上げるとゆっくりと立ち上がり、少女に手渡した。
「もう落としちゃ駄目よ」
そう言うと松中先生は茶色に染めた長髪を揺らしながら立ち去っていった。
職員室から出た少女の頭にはまだ先ほど手に握った理科室の鍵のことを考えていた。
(やっぱり欲しい)
盗んででもその鍵がやっぱり欲しかった。でも、盗みは許されないことであることも分かっていた。
あれは神様がくれたチャンスだったのかもしれない。だが、それを破棄した少女はやはりもう彼には会えない、ということを思い知らされた。
松中先生に「ありがとうございます」の一言も言えなかった自分はやはり冷たい。少女は改めて思った。
「冷たい私は彼に会う資格なんかないのかな……」
少女が口にした途端、それが現実のこととなったかのように思えて、恐怖と悲しみと切なさのあまり、涙が溢れてきた。
学校では涙は見せないと誓っていたのに、その涙腺から涙が出てきたことに少女は驚いた。でも、驚いていたのは心の中だけで、その表情はまだ涙に包まれていた。
零れ落ちる涙は拭われぬまま、ポタポタと制服に丸いしみを作っていく。そのしみは時間が経つに連れて増えていっている。
(泣き止まなくちゃ。こんなところを岡本たちに見られたら何をされるか分からない)
でも涙は止まらなかった。念じても歯を食いしばっても頬を抓っても止まらなかった。
いじめられる苦痛、人の心遣いを拒む罪悪感、彼に会えない虚無感が限界を超えて涙となったのだろう。とめどない涙は今まで耐え続けたつらさの量を表しているに違いなかった。
止まらないと悟った少女は放課後なので誰も見ていないと考え、思いっきり泣くことに決めた。
少しずつ心が楽になるのが分かる。心の傷も深い傷までは直らなくとも、比較的浅い傷なら治っていくのは十分に感じ取れた。
悲しみが堰を切って流れるのを感じながら少女は気付いた。
(私は人体模型に恋をしたんだな)
≪続く≫
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2007/10/02(Tue)01:40:36 公開 / こーんぽたーじゅ
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■作者からのメッセージ
どうも、お久しぶりです。もしくは初めまして。こーんぽたーじゅと申します。
執筆復帰作として、久しぶりに投稿しました。執筆を再開させるまでに結構なブランクがあったため、思いのほか執筆に時間がかかってしまいました。
ジャンル分けとしては、「恋愛小説」が妥当だとは思いますが、僕自身何に分類していいのかよく分からない作品でもあります。
早めに更新するといったのに、結局遅くなってしまいましたすいません。
今回の更新で承→転への流れは作れました。今回の更新は承の辺りのラストとなります。次回からだんだんと話を動かしていくのでよろしくお願いします。
伏線、といえば大仰ですが、それに近いものをいくつか張らせて頂きました。もしかしたら伏線は回収せずじまいになるかもしれませんが……(苦笑)。
あと何回で完結できるのだろう、と考えても毎回執筆するにつれて分からなくなってきています。書いていくにつれて「あれも書きたい」「これも書きたい」「この表現は面白いかも」「あの表現は面白いかも」と考えると、即それを採用してしまい、結局枚数が増える始末……。
最後に、この作品を読んでくださった皆さんに心から感謝します。次の更新はいつになるかわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
ではでは、