- 『啓と千恵【一】〜【四】』 作者:tomo / 恋愛小説 未分類
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全角11022文字
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原稿用紙約35.75枚
【一】
「でさ。どうしてそんなとこに行きたいの?」
六年生の啓が机から振り返ると、いつものように啓の本棚を物色していた中一の千恵はうっと一瞬詰まった。
「いーじゃん! アンタ私の番人なわけ?」
大きな目をさらに剥き、白いほおを真っ赤にするから、バレバレだ。千恵はまた、啓には言えないようなことをたくらんでるわけだ。
「もういい、啓なんか」
千恵は後ろでひとつに結わえた髪を激しくゆらしながらどかどかと帰って行った。といっても、隣の家だけれど。
――植物公園ってどこ?
自分で調べりゃいいだろってことを、千恵はよく啓に聞いてくる。いや、調べるのでなくても、一緒に行ってくれるトモダチでも作ればいいのだ。でも、不器用な千恵には、そういうのは植物公園をネットで調べたり市内地図を読んだりするより、さらに面倒で難しいことらしかった。
「自立させるべきだよ。もう中学生なんだから」
横から四年生の達が顔を出した。
「だよな」
啓と弟の達、そして隣の千恵は幼馴染で、ずっと一緒に遊んできた。一番年上なのはもちろん千恵なのだけれど、一番ガキっぽいのもまた、千恵なのだ。
啓は来年中学受験をするつもりだ。それで連日バスに乗って塾の夏期講習に通うという、やたらに忙しい夏休みを送っている。特に前回の模試が悲惨だったので、いやでもがんばらなければいけない。なのに千恵ときたら、ぶらっと部屋に入ってきて、問題集と格闘する啓を尻目に漫画の本を読んでいたりするのだ。
啓はその日のうちに、千恵のいう「植物公園」を見つけた。バス停の掲示板にはってあったポスターだった。
『夏の夕涼み無料開放! H市植物公園。子ども夜店コーナーもあるよ!』
「これだ……」
実際、千恵らしい。啓は脱力感に襲われた。
千恵はその後三日ばかりやって来なかった。おかげで勉強ははかどったけれど、啓はなんとなく気になっていた。
千恵は気まぐれだけど、行くと決めたら行く、みたいなところがある。しかもいかにも千恵が好きそうなイベントだ。人嫌いのくせにお祭りがせつないほど好きという複雑な性格は、自分たちくらいにしか理解できないんじゃないかと啓は思う。
「おばちゃんたちも忙しそうだもんなあ」
啓は塾の宿題の自己採点をしながら、達にぼやいた。
「まだ行き方教えてやってないし」
けっ! 達が叫んだ。
「いいかげんにしろ、啓。彼氏とかがちゃんと連れて行くかも、じゃんか」
「ありえねー!」
その時、表から千恵の声が聞こえたので、笑いながら玄関ドアを開け……啓はぎょっとかたまった。
千恵は制服姿の少年と一緒だった。少年の明るい色の髪の毛が夏の風にゆれている。
(千恵がオトコと話をしてる)
後ろで達が、ホーと声を漏らした。
バタン!
啓は大急ぎでドアを閉めた。
「啓、ほら、オレのいったとおり。千恵はあいつと植物公園に――」
「だまってろ」
啓は達の口をふさいで耳をすませた。しばらくして、じゃあな高木、と少年の声がした。
「よし」
啓はばたばたと塾の道具をまとめた。
「え、啓、もう塾に行くの? 昼飯は」
「どっかでパンでも食う」
「かあさんそうめん冷やしてるって、オレ、全部食っちゃうよ」
啓は返事もしないで家を飛び出した。
(どこのどいつか見届けてやる)
少年が歩き出してから、ほとんど時間はたっていない。そこらにいるはずだ、と、啓は思う。少し駆けて、ようやく先の路地を歩いていく影をみつけた。
少年の足は速い。気のせいか、どんどん速くなっていく。道はバス通りからは大きく外れて丘のほうへ登っていく。くすんだブロック塀や家々の軒の入り組む細い路地は思わぬところで二手に分かれていたりして、啓はとうとう少年を見失ってしまった。猛烈に息が切れて苦しい。
「どこにいったんだろう」
「それ、僕のこと?」
高いところで声がした。あわてて見上げると少年はブロック塀の上に立っていた。塀からのぞくひまわりの花を従えているように見える。啓は目がくらんだ。
「高木んとこで見ていただろう。弟くん?」
「僕は、弟なんかじゃない」
へえ。少年は切れ長の目で啓をじっと見た。
「じゃあ、なに?」
(千恵にとって、僕は?)
言葉のない時間がほんの一瞬風のように吹き過ぎた。
少年はふっと微笑むと、
「そう」
と、言った。そして、ひまわりの向こうに姿を消した。
「右におりたらバス通りだよ」
声だけが聞こえた。
次の日、啓が塾から帰ってくると、西日を浴びながら千恵が立っていた。
「遅いし」
「なんだよ」
啓は千恵の顔をまともに見られなくて、目を落とした。
「おばちゃんにはもう許可もらったから」
「は?」
「植物公園だよ。さっさと荷物置いてきな」
顔を覗かせた達の口の形が、またホーと言いそうになったので頭をぽかりとやって、啓は大急ぎで支度をし、財布を持って出た。バス代も、もうちゃんと調べている。千恵の半分というのがちょっと切ないけれど。
「なんで植物公園に、僕もいっしょなんだ」
「あんた、模試が悪かったって落ち込んでたじゃん。元気出るかなって思ってやったんだぞ」
そう、千恵はそういうところがある。啓の胸がじんとした。
「アンタが一緒なら、ちゃんと植物公園までたどり着けるし」
「どうせそういうことだと思ったよ!」
二人で声を立てて笑ったら、ふいに夕風が吹いた。啓はどこかであの少年が見ているような気がして、千恵の手をぎゅっとつかんだ。
「走らないと、あと5分でバスが来るよ!」
【二】
「太田君、算数苦手なんだねー」
前の席のカオルコが啓の成績表をのぞきこんできた。
テスト結果の見せっこは、啓は好きではない。でも、あわてて隠すのもなんだか余計にみっともない気がして、不本意ながら見られるままになってしまう。
「社会はダントツなのに」
耳の上で結わえたカオルコの髪の毛が、ゆるいカーブを描きながら啓の鼻先に無遠慮にゆれる。大きなお世話というようなことをカオルコが言うたびに、啓はこの二つに分けた髪の毛が気になる。
「じゃ、そっちはどうだったの」
カオルコはびっくりした顔で啓を見つめた。そして、同じ水色の紙切れを胸元で押さえながら、やだー、と口を尖らせて逃げていった。髪の毛をびょんびょんさせながら。
「やれやれ」
啓は夏期講座のテキストやノートをまとめてリュックに突っ込み、席をたつ。エレベーターの前には同じように家路につく六年生たちがたむろしているので、啓は階段を駆け下りることにした。
模擬試験は月に一回。出来たり出来なかったりは時の運だと思っていたけれど、さすがに最近は啓にもいろいろわかってきた。
――ビギナーズラックがあるのは、ビギナーにだけ。
第一中学の合格判定は一旦Cランクになったら、そこから簡単には動きそうになかった。
(算数をやる時間はふやしたつもりだったんだけどな)
いったい何をどうしたらいいものやら、見当もつかない。
(塾の宿題以外にも毎日問題集をやるとか)
……考えただけで、啓はもううんざりした。
啓の場合は、自分から中学受験をすると言い出したので、「何が何でもがんばれと親からいわれる」ような状況ではない。かあさんは無理して第一中学なんか受けなくても、と言うだろう。 第二志望の中学校の合格判定はランクAだった。
(ま、こんなもんか)
塾のある雑居ビルから一歩表に出ると、駅前商店街の路地の上いっぱいに入道雲がそびえ立っていた。はるかな天空をバックに、頂点はかがやくような金色をしている。けれども雲塊の基部は普通の雨雲以上にどす黒い。それが見る見る膨らみ、毛羽立った表面になっていく。
夕立が来るかもしれない、と啓は思った。傘を持ってきていなかった。
頭上で風が鳴る。見上げると弁当屋の看板の上に何かがべろりと垂れ下がって、雨の前触れの風にはためいている。
「全国大会出場おめでとう! 白井 雅也くん(西山体操クラブ H市立Q中1年)」
Q中は、千恵が行っている中学校だ。
(全国大会に出るようなやつもいるんだな)
そのとき、ざあっと空気がざわめいて、とうとう大粒の雨が落ちてきた。啓は大急ぎでそばの本屋に飛び込んだ。その直後に土砂降りになった。
啓と同じように雨宿りを決め込んだと思しい人たちで、余り大きくもない本屋の中はみるみるごった返した。ことに中央のレジのまわりの雑誌コーナーにはかなりの人だかりがしている。
啓の目当てのマンガ月刊誌はまだ発売日になっていないので、同じ系統の週刊誌を手にとり、ばららとめくった。この店は他店のように立ち読み防止のビニールをかけていないのだ。
指が止まった。描線のきれいな作品があった。
「へえ」
タイトルページを見ると、聞いたことのない作者名だ。新人作家と思われた。
主人公の少年のポーズが意表をつく構図で決まっている。
『来いよ、負け犬!』
フキダシの台詞以上に挑発的な目の描き方。
「これ、千恵が好きそうだなあ」
千恵はマンガの要素の中でも絵にうるさいタイプだ。ストーリーがよくても人物のデッサンが狂っていたりすると、ブウブウ文句をいうのだ。
そのマンガを千恵に見せたら、
「啓、いいの見つけたじゃない」
と、大喜びするに違いない。啓はすっかりうれしくなった。
気がつくと、柱の向こうにいる中学生の群れがなにやらさわがしい。Q中の制服を着た少年たちだ。そこから高い歓声が上がっている。
「おい、雅也。オマエのことが載ってるぞ」
ヒュウ! 口笛も鳴る。
「るせえ、お前、その本買わすぞ」
その笑い声を聞いて、啓はびくんと棚の陰に身を縮めた。明るい髪の少年が隣の坊主頭と小突きあっている。
(あいつだ)
高いブロック塀の上に立っていた少年。ひまわりと一緒に見下ろされた気分はまだ、啓の中で尾を引いている。
――君は高木の、何?
(あいつ、雅也って言うんだ)
啓はごくりとつばを飲み込んだ。
「見ろ、もう夕立やんだぜ」
いきなり雅也が声を上げ、鞄を肩にかけるとひとりでさっさと歩き出した。
「えー、まだふってるぜ」
「もういくのかよ」
それでも少年たちはぞろぞろと雅也の後を追って店を出て行く。確かに窓から見える街路にはぼちぼち西日が戻り始めていて、わずかにおちる細い雨を光らせていた。
啓は、そうっと、少年たちのいた場所へといってみた。スポーツ雑誌が開かれたままになっていた。
『発見! 次代を担う新星アスリートたち』
見開きページに十数枚の写真が並んでいる。白井雅也の名前とともに、その横顔が写し出されていた。
知らずため息をついて、啓はどきんと顔を上げた。なぜかまだ窓の外に小さく雅也の姿が見えた。
(見られた?)
もちろん雅也はこちらを見たわけではあるまい。店の中で啓に気づいた様子もなかった。そもそも窓の外から何の本を見ているかわかるはずもないじゃないか。啓は自分の考えのとっぴさを笑った。
「でも」
少なくともその本があったところに、今、啓は立っている。
――来いよ、負け犬!
啓は舌打ちをすると手に持っていたマンガ週刊誌を乱暴に棚に戻し、学習参考書の棚のある二階への階段を駆け上がった。
「啓、なんか面白い本ない?」
すっかり暗くなってから、啓の部屋の窓から千恵が顔を覗かせた。風呂上りなのだろう、洗い髪を下ろしている。啓の机は窓に向かっておいてあるから、夜の中にいる千恵とは、机と網戸をはさんで向かい合う形になる。
「勉強の邪魔だよ」
「えらそうに」
千恵は下唇をつきだす。啓は黙って問題集のページをめくる。
――今日、おもしろいマンガ見つけたよ。
言葉を飲み込む。
――千恵、絶対気に入ると思うよ。
「アンタ、また新しい問題集買ったの」
千恵が目ざとく啓の手元のそれを見つけた。
「るさいな」
「もう。あんまり無理するな、小学生」
「邪魔だって言ってるだろ!」
千恵がぎょっとした顔になった。啓が次の言葉を出せないうちに、サンダルを鳴らしながら帰っていく。あかんべえをひとつ残して。
啓はほおをふくらませながら
(千恵のせいじゃんか)
と、心の中でつぶやいた。
(なんで僕が中学受験すると思ってんだよ)
遠い日。千恵はさかあがりの特訓に散々つきあってくれた。
――泣くな、バカ。
千恵はすっかり暗くなった校庭で、泣いている啓の髪の毛をむちゃくちゃにかき回して言ったのだ。
――いいじゃんか、こんなことできなくたって。あたしはアンタがすごいヤツかもって思ってんだから。
啓はきっとそのときから決めている。必ずすごいヤツになってみせるのだと。
問題文のまだ同じ一文を、啓はにらみつけているのだった。
【三】
「きれいねえ」
母がもう何度目かの歓声を上げた。
「ほら、啓、達。見てみて、海」
三列シートのワンボックスカーの、一列目が運転している父と助手席の母。
二列目が達。車中の空気の悪さもタイヤから伝わってくる振動もものともせずに携帯ゲームを楽しんでいる。
啓は一番後ろのシートにぐったりと横たわっている。
「もお。二人とも反応悪いんだから」
夏の家族旅行なんか、どうでもいいというか、車酔いのひどい啓としては、むしろ自分を留守番においていってくれたほうがよかった。家族みんなで行かなくちゃ意味ないじゃない、と主張したのは母だ。「意味って何だ」とか突っ込むとあとが面倒になる。啓以外はみんな乗り気なのだから、孤立無援だ。
かくして、塾の夏期講習もとりあえず終わった夏休み終了間近の一泊二日、啓たち太田一家は「夏のドライブ旅行」に出かけたのだった。
「家族みんなで来てよかったわよねえ。やっぱり」
そういえばさ、と、達が母の座席の肩のところに両手をかけた。ステージをひとつクリアして一段落したらしい。
「千恵んとこと一緒に旅行したことあったよね」
「そうそう、S湖だったよ。雨ふってさ」
まだ啓が三年生だったころだ。二家族それぞれ車を出して、ダブル家族旅行としゃれ込んだ。四年生だった千恵と啓と達は、ずっと一緒にどちらかの車に乗って大騒ぎしたのだった。
「あのときは啓は酔わなかったのにさー」
それは達の言うとおりだった。
「騒いで車に酔う暇がなかったんだろうよ。楽しかったもんな」
「じゃ、父さん、またやろう!」
達が素っ頓狂な声を上げた。一瞬空気がぴたっととまった。
「んーいいけど。まあ、今年は千恵ちゃん、函館のおばあちゃんのところに行ってるわけだし」
「そうそう、うちのほうは啓が夏期講習だったしね。どっちの家もほら、いろいろ忙しいだろ」
父も母も言葉を濁す。
「でもさあ、うまく調整すればさ」
達はまだ言いつのる。啓はひとりぎゅっとまゆをひそめた。
「達! 飴!」
「飴エ?」
小ばかにしたように達が振り向く。
「啓、また気分が悪いの?」
母があわててバッグからとりだした「クールのど飴」を達が受け取り、啓の座席に投げてよこした。
「啓、ちょっとどこかで休むか?」
「エー、さっさと行っちゃおうよ、とうさん。ホテルのプールで泳ぐ時間がなくなるよ」
(薄情者め)
啓は達の座席のうしろをにらみつけた。車酔いのときは完璧に啓の立場が弱い。相対的に達がえらそうになるのが啓には腹立たしい。
「あ、産直市やってるみたい。次の道の駅の案内が出てるわよ。お盆過ぎてるから巨峰とか安くなってるかも!」
さすがに、ブドウ好きの達は静かになった。
父も母も千恵の家族の話題は避けたいのだ。
千恵の両親の間がなんとなくおかしくなってきたのはいつからなのだろうか。
声を抑えた言い争いを啓は去年の秋にはすでに耳に入れていた。熱が出て学校を早退したときだ。
だからやめさせられるのよ、とか、言っても無駄、とか。
もう信じることが出来ないとか。
厳しい言葉の投げつけあいにびっくりして、啓はあとでこっそり母に話したのだった。母はそういった夫婦の間の争いについて、もう千恵の母親から聞いていたらしい。
(達は気付いてないのかな)
啓はため息をつく。
(千恵は、どうなんだろう)
千恵は何も言わないのだった。だから啓も何もいえない。
広い駐車場に車はゆっくりとはいっていく。他にも家族連れを乗せてきたらしい車がいっぱい止められていた。
「地域の特産品があるのがいいのよ」
と、母が解説する。
「ちょっとのんびりしていきましょ」
エンジンが止まると、達はさっさと出て行った。細長いログハウス風の建物が連なっていて、いか焼きだとかゲームコーナーだとかソフトクリームなどと書いた色とりどりののぼりがにぎやかに並んでいる。啓も車を出て、トイレに向かった。
黒々とした林が建物のすぐ後方に迫っている。
シートで横になって空ばかり見ていたので、啓は木々の濃い色をいやに新鮮に感じた。そこから吹く風もあつくはあるけれど、街中のむっとした空気とは断然違う。もっとからっとしていて、クリアだ。
空気がおいしい、と啓はつぶやいてみる。ありきたりすぎておかしくなる。いや、むしろ秋のはじめのにおいというべきかも知れない。
「千恵もいればよかったのにな」
母が父を引っ張って、「野菜果物産地直売」の看板のほうに行くのがみえた。
啓がぶらりと一軒の建物に入ると、そこにはみやげ物が売られていた。右手にクッキーやせんべい、まんじゅうなどの詰め合わせ箱が並べられている。漬物の箱が多いのは特産品なのだろう。中央には弁当に飲み物、ガムやキャンディと言った菓子類。左手の壁をぎっしり埋めているのは、絵葉書やキーホルダー、キャラクター物の小さい人形などの記念グッズだ。
思いがけず左側のコーナーに達がいた。キーホルダーがぶら下げられている壁の前でいやに熱心に商品をより分けている。今、達が手に取っているのはピンク色の小さな熊だ。
「達、お前そんなカワイイのが趣味?」
啓が声をかけると、達がぎょっとふりかえって目をむいた。
「なんだよ、啓。車に酔っちゃったのはもういいわけ?」
大きな声で言う。まわりにいた他の客にもばっちり聞こえたはずだ。コノヤロウ、と、啓は思った。
「達。女の子に買うの? 顔が赤くなってるよ」
啓が意地悪く言うと達は唇をねじらかせ、じゃらっとキーホルダーの束を引っ掻き回して出て行った。
こんな時、家族旅行って本当に楽しいのか、啓にはわからなくなる。あの、千恵たちと一緒の旅行の時は、信じられないくらいに愉快だったのに。
その夜。
啓は横腹を激しく蹴飛ばされて目をさました。かけぶとんから達の足が突き出している。ホテルのプールでは足りなくて、夢の中でもまだ泳いでいるらしい。
「達め」
強引に向こうの蒲団に達を転がして、さあ眠ろうという時になって、啓は小さな話し声に気付いた。隣の部屋から光の筋が入ってくる。ぼそぼそとはなしているのは、父と母だった。
「かわいそうよ」
母がため息をついている。
「おれらにゃ立ち入れんしなあ。で、千恵ちゃんはいつ転校になるんだ?」
(千恵が転校――転校?)
啓は固まってしまった。頭の中をざあっと何かが流れていく音がする。そっとふすまの間からのぞくと、ふたりは缶ビールをまえにしてうで組みをしていた。
「来年の春ですって」
「そうか。もうすぐだなあ」
「啓も達もいつも一緒にいたから、ショックだろうな」
今回、千恵たちは、二日早く函館に向かって出発していた。
行きたくないと、口を尖らせてはいた。なにか知っていたのだろうか、でも少なくとも千恵は啓には何も言ってくれていない。
「もう別れることに決めたのって、奥さんは言うの。今回の函館はその準備もあるのかもしれない」
啓はのどがからからになっていることに気付いたけれど、動くことも出来なかった。
「れいちゃん」
達が誰かの名前を呼びながら寝返りをうった。
【四】
千恵が啓の家にやってきたのは、新学期が始まったその日の夕方のことだった。
「おばさん、おみやげ。さっき荷物が届いたの」
机に背を向けて四コママンガを読んでいた啓は、どきんとして顔を上げた。啓たち太田家のお土産のわさびせんべいは、きのう、啓ではなく、弟の達が持っていった。千恵と顔をあわせるのが怖かったので、母から頼まれたときにわざと手が離せないふりをしたのだ。
千恵の両親が別れてしまうこと、そして千恵が函館に行ってしまうことを、啓は家族旅行の夜に知ってしまった。旅先の朝のプールはひんやりと灰色の空を映し、啓は生白い自分の手足をもてあまして過ごした。
(千恵がいなくなる)
あれからずっと頭の中にそのコトバが住み着いている。
(そして、千恵はそれを自分に話してくれていない)
玄関から聞こえる千恵の声は相変わらずで、何もそこに事情なんてありそうにない。
「ちょっと啓に用事があるから」
啓はあわてて机に向き直った。ハコダテ、という単語が頭をよぎる。千恵が自分に何も話さないでいるのはいやだけれど、ではいきなり話されてもいいかというと、そういうわけではない。心の準備が要る。
「啓、ちょっといい?」
千恵はいつものように、いいも悪いもなくふすまを開けて、
「よお」
と、顔をのぞかせた。大きな白いTシャツにひざ丈のジャージを穿いて、素足。このままパジャマにもなるという格好だ。ちょっと目をきょときょとさせている。
(何か言うつもりだ)
啓は身構えた。
「あのさ」
千恵はちょっとためらいながら一冊のスケッチブックを突き出した。A3版の小ぶりなやつだ。
「なんだよ」
「いいから見てよ」
いぶかしく思いながら啓がそれを開くと、そこにあったのは何枚かの鉛筆イラストだった。女の子の絵で、ミニドレス姿の上によろいの胸当てらしきものをしている。剣と紋章のついた盾を持っている。ポーズは違うがどの絵も同じ人物を書いているようだ。
「これは?」
千恵はさっとほおを紅潮させた。いったん視線を落としてから、まっすぐ啓を見た。
「マンガにするの」
「え」
千恵はまた、面倒なことをたくらんだらしい。大真面目らしく目はなかばうるんでいる。巻き込もうとしてるな、と啓は直感した。
「で、どういう」
わかっていながら巻き込まれていく……。それでも話の内容が深刻なものにならない気配にとりあえずちょっと安心もする。
「秘宝探検モノなの!」
「ふーんー」
啓はぱらぱらと、またページをめくりなおした。
千恵が多少は絵が描けるのは啓も認める。
(でも、これマンガにできるのか?)
顔の向きは全部同じだし、しかもなんだかゆがんでいる。啓が絵について言おうとしたのを、敏感に察知したらしく、千恵は啓からスケッチブックを奪い返した。
「ラフだから」
「ラフって」
「原案。デッサンはこれから大急ぎでやるから。啓も協力してよ」
「協力してよって……」
「きのう達にもみてもらったんだよ」
「達う?」
啓は眉をしかめた。
「あいつ、そんなにマンガ読まないし、わかんないんじゃないの」
いいって言ってくれたよ、と、千恵はスケッチブックのページを自分でぱらぱらみて、閉じた。
「この次は主人公のキャラクターの設定をしてくるから」
千恵が帰っていったあと、啓はぽかんと取り残された。
(なんだかすごく能天気だなあ)
およそ深刻な状況とはかけ離れている気がした。
(もしかしたら話が変わったのかも)
三日後の土曜日、塾帰りの啓を、千恵は外で待っていた。夕焼けがゆっくりと始まっているなかで、つくつくほうしの声が街路樹から盛んに聞こえる。
「出来たよ、キャラ設定」
「じゃ、見せて」
けれども、家に入ろうとしたところで、啓はズボンのポケットを探って声を上げた。
「あー、かあさんと達はきょうサッカークラブの行事だったんだ」
「鍵ないの?」
「もって出るの忘れちゃった」
啓はたびたびこういう失敗をする。
しょうがないなあ、と千恵は普通そうに笑って、そのまま太田家の横手に回りこんだ。
千恵の考えている場所は、啓にはわかる。通りのニセアカシアの木が木陰を作っているもの干し場だ。よく三人で砂遊びをした。何年か前まではスコップとかじょうろとかが籠にいれてそこにおいてあったのだ。
「悪いね、あたしの部屋はクーラー壊れちゃってさ」
千恵はもうコンクリートのポーチに腰を下ろしている。
「じゃ、ま、ここでいいか」
啓もリュックをそこにおき、昼間の熱が残っている上に腰を下ろした。コンクリートが打ってあるとはいっても、地面から高さは五、六センチばかりだから、砂粒がいっぱい上がって、ざらついている。啓は砂粒のついた手のひらをパンパンと叩いてから、スケッチブックを受け取った。
開いてみると、この間の倍ほどにもイラストページが増えている。コスチュームもパターンが増えているし、城と思しき建物も描かれている。ネットアニメなんかを検索して調べたのかもしれなかった。
「どういう物語になるの?」
「まずこの子は城に囚われているわけね」
「なんで」
ん、と、千恵はまゆをひそめた。
「ちょっとわけありなの。魔法使いと戦ってそこを出してもらう。そこから旅が始まるの」
「何しにいく旅?」
「秘宝を探しにいくんだってば」
「何のための秘宝?」
「決めてない」
さすがに千恵はむくれた。
「もう。わかったよ。ストーリーはこれからちゃんと決める」
一匹のつくつくほうしが、ことさらに大きな音で啼く。
「それより今回はキャラクターの設定をやってきたんだから、そっちのほうを聞いてよ」
名前、聖名、身長に体重、得意な技、苦手なこと、星座に血液型と、千恵はさまざまなことをなかばうっとりと説明した。
「ものすごく聖なる生まれつきなのよ」
ほとんど口を挟む余地はなく、啓はタオルハンカチで額ににじむ汗をぬぐった。
「でも、この子はひとりぼっちなの」
「ひとりぼっち?」
啓は改めてスケッチブックの女の子を覗き込んだ。あたりが暗くなってだいぶ見えにくくなっているけれど、たしかにイラストの女の子はどれも、ちょっと寂しげな表情だ。
「この子はね、親がいないの」
瞬間、啓の頭の中が、キン、と鳴った。
それは確信だった。
「でも魔法が使えるんだよ。啓、聞いてんの?」
ふいにニセアカシアの木からすずめたちが飛び立った。てんてん、とボールが転がる音がする。
「おー、なにやってんの」
ボールを蹴っていたのは達だった。啓は、ちょっとほっとした。
「鍵忘れてたの」
「ばっかみてえ、待ってたのかよ」
「うるさいな」
千恵が黙って二人を見つめていることを、啓は横顔で感じている。
「達、かあさんは?」
「キャプテンのおばちゃんと立ち話してる」
そろそろ夕空は暗みを帯び始めていた。
「かあさんを呼んでくる」
達が背中を向けて駆け出したあとで、啓は千恵のほうを向いた。
「その子さ、なんでひとりなんだよ」
「え」
「なんで仲間とか、だれもいないんだよ」
「恋人とかも?」
いきなり顔が熱くなったのを、夕暮れの光は隠してくれたと啓は思う。
「うん。要るでしょ。マンガなんだから」
千恵はちょっと考えていた。
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2007/09/12(Wed)23:21:26 公開 / tomo
■この作品の著作権はtomoさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
・恋の気持ちが始まる瞬間というのを書いてみたいと思いました。
もっとはっきり書かないといけないかなとか、迷いつつです。
・少し長く書くことにチャレンジしてみようと思います。途中から
このように増やしていいものかどうか悩みましたが、ゆるめにまとめるという方向で行こうと思っています。
よろしくお願いいたします。
・前回ご指摘いただいたところに気をつけて修正を試みました。おっかなびっくりですがよろしくお願いいたします。
・わずかずつですが、進んで行こうと思います。よろしくご指導ください。