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『A先生、ありがとう』 作者:城口千純 / リアル・現代 ショート*2
全角1293.5文字
容量2587 bytes
原稿用紙約3.8枚
問題児だった私から、A先生への感謝の気持ちを込めて。
A先生、ありがとう

 少年のころを思い出すと、決まってA先生の声が響く。
 小学校に上がったときから、私は問題児だった。といっても、喧嘩をするわけでもなく、成績が悪いわけでもなかった。ただ、ひどいマザコンで、小学校の初日には、母親が迎えに来ないと絶対に帰らない!と駄々をこね、上履きをかじって泣き喚いた。
「しょうがないわねぇ」
と困りながらも、私にずっと付き添ってくれたA先生。
 なぜか一緒にいた同級生のOも泣いていたが、先生の注意を私がさらってしまったために寂しくなったのではないかと思う。小学生にもなって、意味もなく泣いている子たちを、やさしい手が撫でてくれた。その暖かい手は、私を母親から自立させてくれたのである。

 やがて大人になった私は、かつて通っていた小学校の前を通りかかった。A先生はもういるはずもなかったが、廊下の風景、理科室の標本、音楽室のベートーベンなど、遠い昔の記憶が思い出された。午後の学校は授業中らしく、校庭では子どもたちが駆けている。
 と、一人の男の子が転んで、わーわーと泣き出した。ひざから血が出ていた。小柄な女性が駆け寄って、「大丈夫、男の子なんだから泣かない」と、言うと、男の子は嗚咽を堪えるようにして立ち上がった。半べそ顔のまま水道で足を洗うと、先生は彼の頭を撫でて「よし、強い子だ」とほめた。男の子はうなずいて、ほかの子たちと一緒に走り出した。

 私にとって、学校というのは単なるお勉強の場所ではなく、社会勉強の場だった。子どもから見て、尊敬できる大人たちがいて、私たちにわかるように生き方を教えてくれた。

 今の私はどうだろうか?
 子どもに教えるどころか、何もかもうまく行かず、こうして田舎に帰ってきた。私はいつのまにか、ここで学んだことを忘れていた。A先生がいつも言ってくれたこと。
「強くなりなさい」
 そしてもうひとつ。
「本当につらいときは、いつでも話しに来なさい。何でも聞いてあげるから」
 私はきっと、A先生に会いたくてここに戻ってきてしまったんだろう。急に懐かしさと情けなさが入り混じった思いがこみ上げ、涙が出そうになった。

 無性に会いたくなった。先生は今も同じところに住んでいるのだろうか。しかし、いまだに問題児のままの私に失望するだろうか。
 いや、きっと優しく迎え入れてくれるだろう。

 私は先生のかつて住んでいた家に向かった。学校から歩いて二十分ほどのところに、かつてと変わらない家が残っていた。表札を見て心が高ぶった。

 夜、私は電車に揺られながら東京に向かっていた。胸が苦しくて、コーヒーの一口さえのどを通らなかった。隣に座った人に「大丈夫ですか」と声をかけられるまで、自分がどれほど惨めな顔をしているかにも気づかなかった。
 小学校のころやったように、思い切り泣き喚きたかった。それを堪えながらも、涙を止めることはできなかった。

 A先生は亡くなっていた。仏壇の中の写真は、かつての面影のままやさしく微笑んでいた。
 心の中に大きな穴ができて、途方もない寂しさに襲われた。
「強くなりなさい」という先生の言葉が何度も虚しく響いた。
2007/07/21(Sat)17:01:54 公開 / 城口千純
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