- 『文緒』 作者:有栖川 / 未分類 未分類
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全角29067.5文字
容量58135 bytes
原稿用紙約78.9枚
大正末期〜昭和初期舞台の昼ドラ風味レトロ愛憎劇ソースがけ。十代の読者様(精神年齢含む)にはまずもって向かない代物です、とだけ最初にお断りさせていただきたく。
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序
わたくしは生涯にただ一度だけ、きっと死ぬまで忘れえぬであろう手紙を読んだことがございます。ええ、それはおそらく、恋文なのでありました。それを書いた人間、受け取った人間からついにその言葉を聞くことはありませんでしたが、それでもあれはこの世で最も切ない恋文であったのだと、わたくしはそう思うのです。
あんな恋文のかたちもあるのだと、わたくしはそのとき知ったのでございます。
そのお手紙の宛名人はわたくしのお母様でございました。そうして差出人は、お母様の夫であった人でございました。あなた様もご存知でいらっしゃるのではと思いますけれど、安芸の生島連十郎といえば、生島海運を身一つ一代で切り拓いた豪腕の男でございます。若い頃はそれこそ日本の端から端まで飛び回って、この生島海運を大きくすることに文字通り心血を注いだという人でございます。申し遅れました、わたくしは生島千代と申します。わたくしと連十郎とは正真正銘の父子でございますけれど、わたくしが連十郎をお父様とお呼びしないのには、わたくしなりのわけがございます。それはまた後でお話させていただくことといたしましょう。
そのお手紙は、一般的には遺言状と呼ばれる体裁を取って、お母様の手に落ちました。半紙に墨書きされたもので、はじめに大きく遺言と題されてありました。
お母様がそのお手紙をお開きになったとき、わたくしはすぐ側でそれを見ていたのでございます。これはゆいごんではなくいごんと読むのだと、お母様は教えてくださいました。
わたくしはその当時まだ十六歳になったばかりの、ほんの小娘でございましたので、その遺言状一枚に秘められた出来事、そのなかに渦巻いていた人間の苦しみ、苦味、煩悶をほんとうの意味で慮るにはあまりにも幼かったのでございます。お母様もそのことをご承知だったのでございましょう、詳しいお話はしてくださいませんでした。わたくしがすべてを知り、その揺れて乱れた文字の合間合間から立ち上る亡き人の魂の声をようやく聴くこととなったのは、それから何年も経ちまして、お母様もまた亡くなられ、遺品整理のために開けた文箱の中にその手紙を見つけたときでした。昨年のことでございます。
わたくしは連十郎が亡くなったとき、お母様のそばから覗き込んだのがその手紙を間近で見た最初で最後でしたから、かれこれ十年ほど経ってからの再会でありました。年月に黄ばみ、かすれ、弱々しくなっておりましたけれど、それはあの当時のままでそっと、お母様が大切にしていた漆の文箱に収められておりました。蓋に螺鈿で牡丹の細工がほどこされた、うつくしい文箱でございます。お母様は大切なものをこの箱の中にしまっておられたのです。手紙だけでなく、真珠の指輪、イヤリング、わたくしが子供の頃につくって差し上げた折り紙のお人形までが、きれいにおさめられていたのです。お母様はたいへん几帳面で、ものを何でも大切にする方でした。ふしぎとお母様がお手を触れて管理されていらしたものは、何でもよく長持ちし、きれいなままで何年でも残ったのです。お母様はまた、娘のわたくしにもそう在るようにと教え育ててくださいました。
そうしてお母様の文箱をあけ、それらお母様の慈手がふれた品々を自分の手にとって見たとき、わたくしはあらためてお母様が逝ってしまわれたことを実感したのでございます。わたくしはどこか陶然とした思いのなかで、いちばん底に入っていたその手紙を手に取りました。紙束をより分けるかさかさという音は、いやに乾いて、静かでした。
連十郎は癌で逝きましたから、その手紙は病床で書かれたものでございます。そのため文字がひどく乱れておりました。それでも最初の『遺言』は、いやに力強く見えました。そのとき、ふとわたくしは、その文字の裏に何か違うものを読んだような気がいたしました。そうして一度そう思ってしまうと、今度はそのたった二文字の奥底あるいは裏側に、なにかべつの意味があるように思われてなりませんでした。『遺言』という言葉の裏に、ほんとうはもっと違うことを書きたかったのではないかと思えてならないのです。連十郎はそのことを隠し、呑み込んで、あえてその手紙の題を遺言としたのではないかと、そういう気がしたのでございます。
それは、この手紙を初めて眼にした当時にはもちろん気づくよしもないことでございました。それからの十年ほど、わたくしもそれなりの人生経験を重ね、それなり大人になりまして、そうしてあらためて読んだとき、ふとそれを拾ったのでございます。
忘れもせぬ十年前、連十郎の葬儀を終えたお母様は、たった十六のわたくしを側においてこの手紙を読んだのでした。ふたりとも喪服から着替えもせぬまま、わたくしは女学校の制服のまま、この手紙を読むお母様のそばに座っていたのです。もっともわたくしが見たのは最初の遺言という文字のみで、本文には眼を通しませんでした。そのときは父の遺言状ということよりも、お母様がおひとりで読むべきものであるということのほうが、わたくしの頭にごく自然に浮かんでございました。お母様も、お父様のお手紙なのだからおまえも読みなさいとは、ついにおっしゃいませんでした。
ただ一度きりのそのことが、十年経って文箱を開けたとき、まるでそこにずうっと閉じ込められていたのだというように、わたくしの脳裏によみがえりました。そうして座敷を静かに満たしていた線香の匂いや薄暗い明かりといっしょに、ひとつの声が耳に戻ってまいりました。
この手紙を手に、お母様がつぶやいた言葉――
――今さら、あなた。
お母様はそんなふうにおっしゃったのでした。それが夫を送る悲嘆の声にしてはあんまり茫洋としたものであったので、私はものの解らぬ十六の小娘なりにもどこか腑に落ちない思いがし、首をかしげてしまったのです。
お母様はおっしゃいました。千代、覚えておきなさい。おまえのお父様は立派な方です。今はわからなくてもいい、いづれ知りなさい。おまえのお父様は気高い方です。たいへん気高い、立派な方です。
だって、わたしを愛してくれたのだもの。
お母様は静かにそうおっしゃられ、手紙を弱々しく握り締められて、両のお目からつうっと涙を流されました。それはやはり、単純に夫を亡くした悲しみの涙というようには見えないものでした。思えばそのときの漠とした違和感が、十年経って文箱を開けて手紙と再会したときの、あの違和感につながっていたのでございます。連十郎が『遺言』の二文字に隠したものを、お母様はこのときすでに、はっきりと見て取っておられたのでした。これは、それだからこその涙だったのでございます。
お母様は静かに静かに、はらはらと涙をこぼされました。そしてわたくしの気の利かぬ耳には、その震える吐息に混じって、ごめんなさい、あなた、ごめんなさいと、繰り返しているようにも聞こえたのです。
一
父は売れない作家であった。ただそれだけの人生だった。少なくとも私の目にはずいぶんと長いこと、そうとしか見えぬままだった。
父が四十の若さで逝ったとき、私は十八だった。すでに自分をいっぱしの大人だと思っていた私にとって、父はあらゆる意味でもどかしい人でしかなかった。そのころ私は父を嫌っていた。
売れぬ小説を書いては蹴られ、さんざ苛められ、世の中にそっぽを向かれ続けた父は、それでも恨み言ひとつ言わぬ人であった。突っ返されて無駄になった原稿をながめては、なあに、これは私もあまりよくない出来だと思っていたんだよと、笑いながら燃してしまうのがお決まりだった。だから父の遺稿は一作も手元に残っていない。父はずいぶんな数の小説を書いていたと思うが、その父の奇妙な習慣のために、今となってはどれひとつ読むことがかなわない。そして、もはやどの作品についてもうっすらと話の筋を覚えているのみになってしまったが、そのすべてが悪い出来だったとはどうしても思えぬことも、また事実なのである。
実際、私は父を嫌っていたが、早熟すぎた私には、父の書く小説の深部にひそむ苦味のようなものがよく合った。父の作品には、何かわからないがそういうものがあった。主人公が苦しむとき、その苦しみは紙と文字のあいだからたちのぼり、こちらへ肉薄してきた。それは小手先の文章の技術などでなく、むしろそういった意味での技術は特段もたなかった人であるが、何か、作品を綴る万年筆のインキに現実までが侵食され、溶かされて結合するような、なんともいえぬ感覚であったのだ。私はそれを感じ取っていた。だから私には、父の作品がそれほど悪いものだとは思えなかったのである。大人のふりして麦酒を美味いと言う子供に似た見栄心がいくらかそこにあったことは認めるけれど、それでも確かに、もう少しぐらいは評価されてもいいのにと純粋に思えたものだった。その点だけにおいては、私は父の味方であった。母は父の作品にまったく価値を認めぬ人であったので、その点だけにおいては、私はそんな母をあまりよく思わなかった。当時私はそんなふうに自分を分析することにある種の快感を覚えるようになっていた。つまるところ、私と父とはそれぞれ違った意味で感情を排しつつある人間であり、そんな夫と息子に挟まれて、母はさぞ不気味な思いがしていたことと思う。母だけが純粋に素直に父をうとましく思っていた分、もっとも人間らしかった。私はそこまで見て取っていながら、結局はどっちつかずのまま、傍観者でしかなかったのである。
父は死ぬまで、まったく売れぬ無名の作家であり続けた。こちらの出版社で駄目ならまた別のところへ持ってゆくとか、そういうことをするつもりもないようであった。結論、売れるつもりがあるのかどうかさえ怪しいようなところがあったのだ。
世の中に平手を打たれるたびに、なにくそと噛み付く根性の代わりに、何か、漂泊する葉のごとき寛容さと諦観がしみついてしまったような人であったから、十八の少年にとってそのような父がいかに歯がゆく、苦々しいものであったかは、想像に難くないだろうと思う。
売れなかった理由について、父は自分に才能がないためだといったが、それは私は違うと思っていた。父には文の才能がなかったのでなく、足りなかったのは生きる才能のほうであった。生きる意欲のようなものが、父には見られなかった。辛らつな言い方をすれば、あの当時の私の目に、父は生ける屍同然に見えていた。
家の離れにずっと篭って、何も望まず、期待せず、売れぬ話を書いては燃やし、ときには数日にわたって飯も食わずにごろりと横になっていたりする、そんな父の横顔や背ばかり、私はいやに覚えている。
その父が四十で胃癌を患い、そのまま擦り切れるようにして亡くなったとき、さきほども言ったが、私は十八歳だった。ほぼ決まっていた進学をあきらめ、就職の覚悟をようやく決めたばかりだった。母はそのころ、長年疲れすぎたせいで神経を病んでいた。父のせいだった。ごく健全でごく人間らしい、ごく当たり前な身勝手さと常識を持っていたはずの母は、父と結婚し、長年いっしょにいたせいでとても疲れてしまったのだった。葬儀の日、あらためてよく見た母の姿に、かつて父を叱咤し、私と庭先で遊んでくれた女性の面影はどこにもなかった。母であった人はやつれ、疲れた四十女になって、ぐったりと座っているだけだった。母が治ることはもうないだろうと、私は分かっていた。そうまで傷んでしまった母は、結局涙のひとつも流すことがなかった。
その葬儀の日である。私は思いがけず、ひとりの女性と出会うことになる。彼女は生島千代さんといった。生島といえば説明する必要はなかろうが、生島海運のひとり娘である。
小ぬか雨降る葬儀の日、ほとんど会葬者もない中で、その女性だけがいやに目を引いた。いわばほとんどお義理でやってきた有象無象のなかにあって、彼女だけが意思と感情をしっかりまとった人間であるように見えたのだった。
当時二十六歳であったその生島千代という女性の口から、私は父という人が、笹倉敬太郎という男が歩んだ本当の人生を知った。そうして私は、ひどい自己嫌悪にさいなまれたものである。今こうして落ち着いて語ることが出来るまで、実に数年を要した。私は何も知らぬ子供にすぎなかったのだと、思い知ったのである。あの当時、確かに父を見下していた私は、ただただ思い上がっていたに過ぎぬことを知ったのである。私は彼女に心から感謝している。先月、結婚する旨の手紙が来たが、たいへん幸せそうな文面だったので、安堵した。そう、思えば私は彼女の幸せを、あのとき以来ずっと願い続けてきたのだった。それが何がしか私にとっても救いになるように感じていたのかもしれない。
ひとりの死者と一通の手紙が、実に十年以上の時を経て、私たちを巡り逢わせた。これを運命といわずになんと呼ぼうか。
*****
わたくし、この手紙を読んだあと、なにか背中をせっつくような使命感にかられまして、知りたい、と思ったのです、この手紙にはいったい、どれほどのものが隠されているのか、お母様と連十郎の間には、かつて何があったのか。そのときにはもう、漠とした違和感は確信に変わっておりました。だってそうでしょう、いったい二人の間に何があれば、死にゆく夫が妻にあんな手紙を送るでしょうか。どれほどの想いを抱えましたら、人は『遺言』と題して、あんな手紙を書くでしょうか。ほんとうは、あれは遺言などではなかったのですもの。確かにいまわの際に書かれたものではあれど、わたくしははっきりとそのことを分かっております、結局はあの一言一句が、苛烈なまでの恋文でしかなかったのですもの。
当時のわたくしにとっては、それに付随することごとがはっきりと見えないまま、でも確かに薄紙一枚隔てた向こうに、あるのです。すぐそこにたくさんのことが隠れているのに、それをはっきり見ることがかなわない、そのもどかしさをそのままにはできなかったのでございます。ですから、知らねば、と思ったのですわ。
わたくし、この手紙をもって、お祖母様を問い詰めにまいりました。いったいどうして連十郎が死の間際にあんな手紙をしたためて、それも全身を癌に冒されたような体でです、お母様に宛てたのか、お祖母様なら何か知っていると思ったのです。
何しろお祖母様という人は、孫のわたくしから見ても何故と解せぬほど、生前のお母様をよく虐めていらっしゃったのでございます――。
お母様は決して出来の悪い嫁ではありませんでした。これは娘の贔屓目などでなく、確かなことでございます。
当時の生島海運はまだ今ほどの規模をもっておりませんでしたけれど、それでもずいぶんと大きな会社ではありました。ご存知の通り、生島は徹底した血族主義を貫いてやってまいりましたから、『家』というものの持つ意味、重み、それは並大抵のものではございません。それまでごくふつうの家にお育ちだったお母様は、格も式も違う家に身ひとつで嫁いで、得体の知れぬ伏魔殿に立ち混じってゆかねばならぬ心細さにも負けず、ずいぶんと連十郎を助けてこられたのです。ときには会社の経営のことまで勉強なさっていたのです。
お母様という人は、わたくしを寝かしつけてからも灯りをつけて机に向かわれ、わたくしが起き出す前にはもういくつも仕事を片付けていらっしゃる、そんな方でした。いったい何時おやすみだったのか、今にして思い返してもはっきりそれという時間を見つけることができません。お母様が一度だってぐっすりと眠っているところを、わたくしは見たことがなかったのでございます。
忙しい日々の寝る合間に勉強を重ね、家のことはもちろん、がんぜないわたくしの面倒まで、ほぼ完璧にこなしておいででした。嫁としてはそれ以上を望むべくもない、何一つ文句のつけようのないほどだったのでございます。
ですがそれは今になって思い返してみますと、まるで何かの意地のように、ひとつでも手落ちのないよう、自分を戒めているようにも見えたものでございました。
そんなわけですから、お祖母様がお母様をいじめるとき、それはたいていがひどく理不尽な理由でしかなかったのでございます。ひどいときはお母様を雨の庭に放り出しまして、この雨が降ったのはお前のせいだ、だからお前はこの雨水で洗濯をやるがいい、家族のものとお前のものは分けて洗え、というようなこともございました。夜、部屋でいっしょに眠ろうとすると、お母様のお布団だけがどういうわけか水に浸けられたように濡れていたり、お母様のお茶碗が欠けていたりすることもよくありました。子供の時分にはただただわからなかったことばかりで、お母様がいったいどうしてそのような扱いを受けていらっしゃるのかまったく分かりませんでしたけれど、お祖母様がお母様を嫌っていらっしゃるということだけ分かってしまえば、わたくしもまたお祖母様を嫌いになるのに時間はかかりませんでした。ですからわたくし、その手紙を抱いてお祖母様の部屋を訪ねるまでは、長年めったにきちんとお話をしなかったのでございます。子供はいつだって母の味方をするものですもの。
お祖母様に手紙を見せてさしあげますと、はじめはひどく驚いておいででした。お母様は、連十郎の手紙をお祖母様に見せておられなかったのです。お祖母様は、息子が死の間際に手紙をしたためていたことを、十年以上も知らずにおられたのです。正直を申せばわたくしはこのとき、もしかしたらそれはお母様なりの復讐だったのかもしれないというふうにも考えてしまったのですけれど、それは今はかかわりのないことですから、置いておきましょうね。
お祖母様は二度も三度も手紙をお読みになりまして、一言、ああ、と深いため息を漏らされました。そうしてからわたくしをちらとご覧になりまして、そのときのわたくしの顔というのがもう、ことのしだいを聞くまでは一歩も退かぬという形相だったのでございましょう、しぶしぶ話してくださいました。
*****
父、笹倉敬太郎の人生は、東北の貧しい農家の五男として始まった。
初めに述べておくが、私はそのことを、千代さんの口から聞くまでまったく知らなかった。いっぱしに作家など志し、生白い手をして知識人ぶって、どこか哲学めいた匂いをいつもさせていたあの父が、箸とペンより重いものなど持てぬふうのあの父が東北の片田舎生まれだなどと、私は想像したこともなかった。父もまた自分の過去については何一つ語らぬ人であったので、そんなところにもまた、今となっては自分たちがいかに希薄な父子であったかを思い知らされる心地である。私たちはお互いに何も知り合わぬ父子であった。知ろうともせぬ父子であったから。
いったい父は私を愛していたのか、母を愛していたのか、それすらも、私は考えたことがない。
とまれ、私の父はそういったところで生まれついた。泥深い田とだだっ広い平野はあれど、それに見合うだけの技術がない。人もおらぬ。人がおらねば技術が育たぬ、技術がなければ金も落ちない。そういう場所である。
朝から晩まで一家総出で働けど働けど、実際に手に握れるあがりは涙も出ぬほど少ないと、そういうむなしい生活が生まれたときからすでに当たり前のように目の前にあり、右にも左にも不毛なしがらみばかりがあり、つまるところ四方八方を不遇に囲まれて、父は幼少期を水田とあぜ道とのなかで育ったのだった。
北と東はもともと貧しい土地柄であるから、まして農家の五男ともなれば、もはや子とは思われぬ。扱いは、米喰い虫がせいぜいである。父は四人の兄に押しつぶされるようにして、ひょろひょろにやせ細りながらかろうじて育った。
話がやや前後するが、こちらへ来てそれなりに名の知れた旧家の出である母と出会い、結婚したのちは、つまるところ自堕落に売れぬ小説ばかり書いていてもそれなり食べていけたほど裕福な暮らしをしていたわけであるが、それにしても父はいっこうに太ることもなく、むしろ年々どんどんやせ細り、影までも薄くなっていくようだった。あれは思えば、幼少期にあまりにも食べ物がなく、非常に痩せてしまったから、おとなになっても太ることができなかったためだったのであろう。父は平生からきわめて食が細く、食べないこともしばしばで、年に数度の祝い膳さえ、ごくわずかにしか箸をつけなかった。思えばあれは、箸をつけられなかったのであろう。
話を戻そう。父が一大決心をし、自分は文字をつらねて食べてゆくのだと家を飛び出したのが、十八のときだったそうである。これについては又聞きの又聞きであるから、正確な年齢はわからぬが、おそらくそれぐらいの歳に、父は辛いことばかりの実家を捨てたのだ。
なまじ文才など与えられていたのがかえって災いだったのか、それともただただ家を出たかったのか、父は裸一貫で遠い遠いここ広島までやってきた。いったいどうして実家からはるか離れた広島なぞに来たのかは、ついに分からぬままである。おそらく、特別な理由はなかったものと思われる。おそろしい実家の影が届かぬほど遠くなら、どこでもかまわなかったのであろう。広島に来たのは、ただただ偶然に過ぎなかったのだろう。たまたま旅費が尽きたとか、広島にさしかかったときに何かで数日足止めをされたとか、そんな他愛もない理由からだったに違いない。
今にしてはあの父にそれほどの覚悟や度胸の時代があったことがただただ信じられぬばかりだが、当時まだ十八だった父は、私が父を亡くしたのと同じ年齢である。
あのときの私と同じように、自分をすっかり大人だと思い込んでいたのだとしたら、自分の可能性とやらを信じることに賭けたとて、それほど不思議はないのかもしれぬ。
父が広島に来たのは偶然だったとさきほど言ったが、それをあえて何か理由があったのだと考えるとしたら、それがおそらく、生島文緒、旧姓立川文緒という女性がこの地にいたことであった。何かしら運命じみたものに呼ばれて父はこの広島に長い旅の終着を決め、根を下ろしたのかもしれぬ。そう考えることも、出来なくはない。
生島文緒――あるいは、立川文緒。文緒、という名前の女性。
二人の男がかつて、それぞれの愛のかたちをもって、その名を呼んだ。
ひとりは私の父である。
そしてもうひとりは、生島連十郎、生島海運初代総帥。生島千代の実父であり、立川文緒を最終的に娶った男の名前である。
二
ねえ、笹倉さん。――お厭でなければ文彦さんとお呼びしてもかまいませんでしょうかしら、ねえ、文彦さん。
こんなふうに申し上げてお気を悪くされたら本当にごめんなさいね、でもあなたのそのお名前ね、わたくし、最初にお聞きしたとき、ああ、と想いました。胸のなかにつっかえていた重たい石が、落ちるべきところにすとんと落ちたような心持ちがいたしました。
だってあなたのそのお名前が、今となってはなにもかもを物語っているような気さえするのです。わたくし、今こうしてさまざまなことを想うと、ただただせつなく感じるのでございます。
文彦の文は、文緒の文ですわね――――。
*****
そう言われるまで、私は気がつかなかった。
笹倉文彦という自分の名に、父がついに結ばれなかった立川文緒という女性の面影を求め、立川文緒とつむぐはずであった未来の影だけでも呼び戻そうとするような思いが漢字一つに懸けられていたことを、私は千代さんに言われて初めて気がついた。
――父の名は敬太郎である。母の名はミチである。文などという字は、ほんとうなら出てくるはずもない。
おそらく、ではあるが、おそらく父は、母がどんな思いがするかを承知したうえで、私に文彦と名づけたのだった。いったいあの男は妻が苦しむとわかっていて、その妻の腹から生まれた子に、愛する女の名の一文字を背負わせたのだ。
そう思えば、記憶にある両親の姿は私にとってもやはり、せつない、という思いがする。改めて自分が育った家をかえりみるに、それはどうしようもなく苦い。
母は父を愛しながら憎みながら、あるいは恨みながら、そしてそうするほどに自分でも取り返しがつかぬほど執心を深め、じょじょに疲れていったのだろう。何を考えているのかわからぬ、得体の知れぬ夫に疲れたのではなく、むしろ分かりすぎるほどに分かっていたがための心労であったのだろう。
酒もやらぬ煙草もやらぬ、賭け事にも手を出さぬ、悪だくみなど何一つ考えておらぬふうの、ごくおとなしい顔の裏で自分を裏切り続ける夫を憎めど恨めどついに無関心になることができなかった母は確かに、父を好かぬ好かぬと口で言いながら、父の側を離れなかった。気に入らぬなら側に寄らねばいいものを、母はそうすることができず、些細なことを理由にしては、それが気に入らぬと言うためだけに父の側に寄っていくような人であった。そのなすすべない引力に引っ張られ続けて、母は疲れたのであろう。
うとましいと言うその言葉の裏に、自分を見ない男への苛立ちが確かにあった。母は、寄れど沿わせどその都度すうっと逃げていく父の眼をうとましいと思ったのだ。売れぬつまらぬ小説ばかり書いてという苦言は、母もまた父の小説に私と同じものを感じ取っていた証にほかならぬ。さらに言えば母はそれの何たるかまでを知っていた。
母は父の小説がすべて立川文緒への断ち切れぬ想いを綴った恋文であったことに、はっきりと気がついていたのだった。私はそこまで読み取るに至らなかったものの、思えば父の小説に描き込まれた人間の苦悩、苦味、深み、そういったものがあの半死人のような男のどこから出てきていたのかといえば、ただ一つ、若いときの苛烈な恋とその終焉のほかに探すことかなわぬ。父は傷口から噴き出した血でもって小説を書いていた。それだから、売れぬ売れないは確かに問題でなかったのだ。こんなことに今さら気がついても遅いけれど、今になって、遣る瀬ないほどにすべてが分かる。
その父は父で、そういった母を哀れみながら、おそらくはいくばくか愛おしいとも想いながら、けれどそれは決して恋愛と呼べるものでなく、結局どうしてやることもできない己の情けなさをもまた、どうすることもできなかったのだろう。あの男の頭の中には、最初から最後まで立川文緒しかいなかった。
父は結局、立川文緒という女性ひとりをしか、愛さなかったのだ。
千代さんの話を聞く限り、母は、立川文緒の存在を知っていた。父に想い人がいることを承知で結婚したことになる。時間軸をだいたい重ね合わせてみるに、生島連十郎が立川文緒を父から奪っていったのとほぼ同時に、母がまた立川文緒から父を奪い取った構図になる。
そこから、四人の運命が壊れ崩れてゆく様を、私と千代さんはある意味では間近に見ながら育ったことになる。しかしそれが間近すぎて、そして私たちはそれを知るに幼すぎて、こんなにも月日が経ってから一枚の手紙にそれを教えられることとなった。
ここでひとつだけ述べておきたい。生島連十郎という男の手紙は、確かに遺言であり恋文であり、しかし私の目にはそれ以上に懺悔としか見えぬこともまた、確かなのである。
*****
覚えておりますのは、お祖母様がお母様をいじめるたびに、連十郎がお祖母様に激しくくってかかる光景でございます。
広い洋間のぶどう色の絨毯と、ソファと、お祖母様のご趣味のキラキラとしたシャンデリアと、お部屋の隅に飾られてある洋剣と、そして、激する連十郎を必死になだめていらっしゃるお母様との後姿です。それらが必ず見えるのでございます。生島の家の居間の光景でございますわ。
連十郎とお母様とは実際、親子ほども歳が離れておりますから、その背中は決してたくましくも頼りがいのあるようにも見えなかったのでございますけれど、連十郎は背中にお母様をこう、かばって、お祖母様と対峙しておりました。いっぽうの祖母様はそんな二人を、何か取るに足らぬ茶番を見せられたというような冷たい目でご覧になって、しまいには水に虫けらがもがいているとでも言わんばかりのご様子で、顔をそむけていらっしゃるのです。
連十郎はたいへん忙しい身で、週に数日ほどしか家に帰らぬ人でしたから、お祖母様の所業のすべてが目にとまったわけではございません。ですから連十郎がたまに帰ってきたときなどに、そのいさかいが必ずと言っていいほど起こるのです。せめて家に自分がいる間はと、連十郎は必死のようでした。そうすればそうするほど、連十郎が仕事へ戻ってしまったあとのお母様への仕打ちがきつくなる一方だとは、ついに気づかぬままでございました。けれどお母様はもちろん、それがお辛くて連十郎を止めたのではございません。お母様はむしろ、お祖母様のためにそうしたのでございます。自分を苛め抜いている姑を本心からかばったのでございます。
今にして思いますとあの当時、四人が四人とも、自らの手足を繰り糸にくくって、あえてを演じていたようにも思われます。あなたのお父様も、わたくしのお母様も、お祖母様も、そしてあなたのお母様も、みずからでみずからをがんじがらめにしていたようにも見えるのは、わたくしの考えの行き過ぎなのでございましょうか。みながみな、わかっていてわからぬふりをしていたように思うのは、わたくしの行過ぎた思いのためでございましょうか。
もっともお祖母様は、そのことだけは譲らぬふうでした。連十郎が何を言おうと、何をしようと、お祖母様はかたくなにお母様をいびることをやめられなかったのでございます。まるで、それが自分のつとめだとでも思っていらっしゃるようでした。あの嫁を自分の手で苛め抜かねば、この手がやらねば誰がやるとでも言わんばかりのお顔でした。
実際、お祖母様は決して、笑って人を苛むことが出来るほどの悪人でいらっしゃったわけではございません。お祖母様とて、お母様をいじめることに何かしらの楽しみを見出しておられたわけではないのです。わたくしがうんと子供のころ、飼っていた猫が死んでしまったときのこと、いっしょに泣いてくだすったことさえあるのです。そのときはわたくしの手に手を添えて、お墓を作ってくださいました。
それは日ごろお母様に対する鬼のような冷たさの微塵ものぞかぬ、ごくごくあたりまえの、優しいおばあちゃまのお顔でございました。そうですわね、思えばそのときのお顔があんまりにも記憶に残っているものですから、わたくしは最後の最後のところでお祖母様を憎みきれないのかもしれません。わたくしは子供心にもすでに、お祖母様が悪いお人ではないことを知っていたのかもしれません。それだから、解せなかったのでございます。
今にして思えば、あれはお祖母様の母心のひとつの形だったのでございましょうね。あなたのお母様がわたくしのお母様のことを知っていたように、お祖母様もまた、あなたのお父様のことを知っていらしたのです。ほかの男を想っている女をもらった息子を見るに見かねて、その反動が嫁憎いという気持ちに向いてしまったのでございましょう。ですからお母様も、だまってすべての仕打ちに耐えなさったのでございましょう。
お母様が笹倉敬太郎という人に出会った経緯は、お祖母様も詳しくはご存じないようでした。それはそうでございますわね、連十郎はまさか自分の母親にそのようなことまで話すわけもございません。ただお母様が連十郎に出会う以前、笹倉敬太郎という人と夫婦の約束を交わすほどの仲であったということだけが、お祖母様の耳に入っていたのでございます。それはおそらく、連十郎がお母様を娶るまでの一部始終をそばで見ていたお祖母様にもじゅうぶん察することが出来るものだったのでございましょう。それでなくとも母親というものは、子のこととなるとたいへん鋭い勘をはたらかせるものでございます。
連十郎はたしかに、あまり正々堂々とは呼べぬ手段で、お母様と、立川文緒という女性と添い遂げたと言えましょう。あの当時、お母様はたしかに袋小路に追い詰められて、連十郎のもとに身売り同然で嫁ぐほか、どうすることもできなかったのでございます。ですから、ね、文彦さん、あなたのお父様がたどった人生の責任の多くは、たしかに連十郎に、わたくしの父にあるのでございます。このことを申し上げずには、今日こうしてお会いしている意味がございません。
覚えておいてくださいまし。わたくしを憎いと思ってくだすっても結構でございます、連十郎の代わりと思って平手を打ってくだすってもかまいません。わたくしはたしかに、あなたのお父様の生涯ただひとつの恋に横槍を入れた男の娘なのでございます。
*****
その告白を聞いてどう思ったかと聞かれれば、ただそれは、安堵に近い感情だった。父はただ理由も無くあのように生きていたのではなかったのだと思い、私は確かに安堵した。あんな男でも父だった。私にとっては、父と呼んだただひとりの男だった。
話が前後して申し訳ないが、ぼんやりと思い返すことの出来る、一つの記憶がある。
今となっては擦り切れた薄紙のように朧な記憶ではあるが、私はその当時、おそらく、とても幼かったことは確かである。父と母と三人そろって出かけたような記憶は、大きくなればなるほど見当たらぬから、たぶん――三つか、せいぜい四つか。とはいえごく一瞬の記憶を曖昧にでも覚えていられる歳だから、物心のまったくつかぬというほどでもなかったのだろう。だからおそらくは三つか、四つのころだ。
あれはいったい何処だったのか、結局今もはっきりと知らぬままであるが、すぐそばに海があったことを覚えている。海といっても砂浜があったのではなく、水面に切り立った港である。群青と深緑を透明になるまで練り固めたような色の海は、おそらく、その日がよく晴れていたから見えたものだろう。夏であったために日差しが強く、ワンピースを着た母は文句を言いながら手でしきりに日差しを遮っていた。母はいつも、荒れた肌に濃い化粧をしていた。わたしはその母のもう一方の手につながれて、そのかさついた手の皮膚を少し痛いと思いながら、ワンピースの裾がひるがえるのを間近に見ながら、歩いていたのである。父はかげろうに炙られながら、日差しに白っちゃけた道を、私たちのはるか後ろからごくゆっくりとついてきていた。
ひょっとしたら当時、例の電車が通ったばかりであったから、それを観に行こうということだったのかもしれぬ。そんな観光じみた考えをする二親ではなかったが、まわりがあんまり浮かれるものだから、夏の暑さに背中を押されて、ふとした興を起こしたのかも知れぬ。
ともあれそんな日だった。私は母に手を引かれ、ただ黙りこくって道を歩いていたのであるが、ふと前から、一組の男女がやって来るのを見たのである。
男のほうは当時の私から見てとっさに『おじいさん』と思うほどの年齢で、五十を過ぎたほどであったのだろうか、ふさふさとした白髪に白い肌、洋装ではなくごく飾らぬ着流し姿の、そしてそれが妙に粋なふうに見える男であった。陽光に映える顔立ちは整っていると言ってよく、とりわけ目に内側から光があり、むしろ若いばかり若い私の父などよりも、ずっと生気の強い顔をしていたかもしれぬ。ただし体つきは細く、着物の裾からのぞくくるぶしなどもはや骨そのままとしか見えぬほどで、正直を言えば私はそのとき、その男のくるぶしを何か怖いと思ったのだった。思えばあれは病身だったのかも知れぬ。色の白さも、彫りが深いと見えた顔も、半分ほどは体が悪いためであったのかも知れぬ。
もうひとりは、頭をたれるゆりの花を思わせる、なんともたおやかな女性であった。年齢はどうかすると三十にもならぬほどだったろうか、老人に寄り添うようにして歩いていた。ああ娘だろう、と、何ということもなく直感した。傍目には、たいへん仲の良い父娘とみえた。
ずいぶんと洒落た色合わせの袴をつけており、髪は長かったように思う。日除けのためか、こちらもまた洒落たふうの洋傘をもっていた。そばに寄るとよい香りがしそうだと、私はなんとなく思ったのである。
そのあたりだったろうか。気のせいかと思うほどごくわずかなことではあったが、母が、私の手を強く握ったのだ。私は思わず母を見上げたが、母の顔はまっすぐに前を向いたまま、私のほうをちらりとも見ていなかった。おそろしいほどの無表情だった。おそらく母は、自分がとっさにわが子の手を握り締めたことを気づいていないのだった。このとき母がそうした理由の中に、私はいなかった。母が手のひらをギュっと握り締めたのには、別の理由があったのだ。
私は怪訝な思いのまま、その二人連れとすれ違うのを待った。そうしてちょうど行き交う際、ただ何か怖いという思いのために、こっそりと父を振り向いた。うつむくようにしてちらと後ろを見やったので、母はそのことさえも気づいていなかったと思う。
親子三人で出かけている格好なのに、ただでさえずいぶんと遅れて歩いている父である。母としてはそんな夫に苛立ちもするだろうと、子供ながらに何かそういったものを感じ取っていたのかも知れぬ。私はおそらく、振り向けば当然のごとく目があうと思い、そうしたら目で父に助けを求め、訴えるつもりであったのだ。言うまでもないことかもしれぬが、この当時まだ幼いも幼かった私にとっては、父はもっともっと純粋な意味での父であり、軽蔑だのなんだのというにごった感情の生まれる以前である。父は父で、私にとっては頼れる人間のひとりだったのである。
――振り向いた先にいた父は、なんというのか、見たことのない顔をしていた。
口元が、目元が、放心していた。渓谷へ舞い落ちる帽子を見送るような放心と、予期せぬところで予期せぬものを見た人間が誰でもする当たり前の驚愕とがいっしょになった、ある種凄絶な表情で、父は呆然と立ち尽くしていた。
記憶はそこで止まっている。私は母に手を引かれたまま振り向いて、父のその顔を見、自分もまた驚愕した。そのあとにどうしたか、何が起こったかは、もはや覚えておらぬ。ただおそらくは、父は私が見ていることにすぐさま気づき、その顔をしまいこんだことだろう。そうして二度と浮かべることはなかったろう。それらは合わせても一瞬のことであったから、母が訝って私と同じ方向を振り向くころには、いっさいが済んでいたのだと思われる。
私だけが見たのだった。かつて恋し、なすすべなく別離した女と再会した男の顔。
それは夏の日差しの下に、ほんの一瞬ではあったが、無防備なままでのぞいたのである。
三
もうお察しと思いますけれど、お母様が連十郎と添うたのは、お金のためでございました。
こんなふうに言ってしまうといかにも身も蓋もないような感じがいたしますけれど、本当のことでございます。お母様は当時、お父上の――わたくしのおじい様にあたりますけれど、わたくしはお目にかかったことがないばかりか、お顔さえ存じ上げません――こしらえた膨大な借金にたいへん苦しんでおいででした。なんとも……よくあるようなお話でございますわ、ねえ。
いったいどれほどのことがあれば実の娘を身売り同然で嫁がせるはめになるのかといえば、行ってはならぬ境にまで度をはずしてしまった、ということでございましょう。
この場合は美術品道楽でございました。
おじい様はたいへんな美術品愛好家で、お世辞にも裕福でない暮らしのなか、まるで何かにとり付かれでもしたかのように、お金に糸目もつけず買いあさっておられたといいます。それはもう気がふれたようなご様子だったといいますわ。
こんなことをわたくしの口から申し上げてしまっては少々卑しい感じがいたしますけれど、お母様のご実家は、けっして、けっして裕福なお家ではなかったのです。お祖母様はこのとき、まるで汚いものの話をするように、口と目とをゆがめておいででした。お祖母様はもともと貧しいもの、みすぼらしいもの、きたないものをよく思わない方でございましたけれど、それでもあのおっしゃりようは、穏やかなものではございませんでした。ただ、それでも立川の家は、ほんとうならお母様と家族三人、ごくふつうに暮らしてゆくのには困らないはずであったのです。それがひとたび、大黒柱たるおじい様が美術道楽にのめり込んだことによって、文字通り一本柱を突き崩すように、がたがたに崩れてしまったのでございます。結局はそれらが取り戻せぬところまで行き過ぎて身代を押しつぶし、ひとり娘を身売りさせることになったと思えば、おじい様には悔やんでも悔やみきれぬというところでございましょうか。
これだけ聞くと、なんとも非道いおじい様に聞こえますでしょう。わたくしもそうでございました。それがためにその後、多くの人びとの運命がおかしなふうにからまりあってしまったのだと思うと、不憫なような憤ろしいような、苦い気持ちになりました。
ですけれど、お聞きくださいませね、おじい様はもとからそういった――そういった意味のご無理をしがちなお方だったわけではございません。あるときまでは、つつましく働いて妻子をきちんと養うだけの立派なお方だったそうでございます。ごくごく当たり前の、どこにでもいる、世の中のいちばん多い種類の、善き人であったといいますわ。
おじい様はあの震災で少しおかしくなってしまったのだというようなことを、お祖母様はおっしゃいました。ええ、あなた様もご記憶におありでしょう、あの九月いっぴの大震災でございます。おじい様はたまたまそのとき、お仕事のために東京にいらしたのでございます。それで、あのおそろしい災害に巻き込まれたのでございます。
命があっただけでもどれほどにかありがたいことでございますけれど、おじい様はあの震災をきっかけに、すっかりお人が変わってしまって、そこから泥沼に足をとられたように、美術品道楽にのめり込んでしまわれたそうでございます。
申しましても、きっとあの震災の前とあとですっかり変わってしまった人は日本じゅうたくさんおられたのでしょうけれど、何しろあまりにも大きな災害でしたから――要は、おじい様もそんななかのおひとりでございました。それまではさほどに興味も示さなかったような品々を、強引なやりかたで手に入れては日がな一日眺めていたり、なでてみたり、それはそれは不可思議なご様子だったといいますわ。
――おそらく――これは、お祖母様のご想像ですけれど、わたくしもそうじゃないかと思っております――おそらく、おじい様はあの災害のとき、何もかもが『壊れる』のを間近にご覧になったのでしょう。ご自分も瓦礫に三日三晩埋もれながら、おじい様はあの瓦礫の山に何かしら無常のすがたを見出されたのかもしれません。ものみなすべては壊れるということを、身をもってお知りになったのかもしれません。それがあの狂ったような骨董品集めにつながったのではないかと、お祖母様はおっしゃいました。わたくしも、その通りだと推察いたします。今となっては確かめようもないことではございますが、きっとあの当時あの現場には、人ひとり簡単に狂わせるほどの、何かおそろしい真理のようなものが別のものの形を借りて、指をのばせば触れてしまうほどうかつに転がっていたのでございましょうね。
そしてそれはなにも、形ある、目に見えるものだけに限らず……
おじい様は、ご自分の家族さえ、その無常観の内側に入れておしまいになったのですわ。美術品を買い集めるための資金、あるいはそれまでに溜まりに溜まった借金のために、おじい様は首も回らなくなってしまって、一家は路頭に迷うはめになってしまったそうでございます。そんな折、ちょうどあなた様のお父様とお母様は出会ったのだといいますわ。
これは、もちろんお祖母様も詳しいことを知らない部分でございますから、お二方がどんなふうに出会ってどんなふうに恋を育んでいらしたのか、わたくしは存じ上げません。これからも、誰も知ることがないのでございます。
――でも、きっと他愛もない始まりだったのではないかしら。できればそうあってほしいと、わたくしは思います。できれば往来で、お母様の下駄の鼻緒が切れたのを、敬太郎さんがさっと通りがかって接いで差し上げた……それぐらい軽やかなお話であってほしいのです。
お二人の淡い恋が興ったのは、きっとそういう経緯があったのだと思いたいのですわ。お二人ともが、ご自分の置かれた環境をふと忘れるほど穏やかな始まりであったとしたら、その絆が強くなるにつれ、お互いがお互いを恋うる気持ちがどんどんつのってゆくということも、わたくしはよく分かるのでございます。
きっと、お互いがお互いの中に居場所を見ていたのでございましょう。
*****
そう言ったとき、彼女の目がつとふせられたのに、私は気づいていた。
会ってこれほどにも経ってから気づくとは間抜けな話だが、ととのった鼻梁をこっそりとなぞった先にある長いまつげが下を向き、逆三日月の瞳に重なる様は、うつくしい、と素直に思える姿だった。要は、彼女はうつくしかったのである。うつくしい人だったのである。
今の今まで立川文緒の娘、あるいは父の恋敵の娘、あるいは父のことを何も知らぬまま逝かせたこの私に唯一、何かしらとざされた箱を開けてくれるはずの女性、そんなふうにしか見ておらなかったのが、現金なことにいまこの瞬間、目線一つが変わっただけで(というのも彼女は話している間、ずっと熱心に私の目を見ていたのだ)、ひとりの、意思と呼吸と肉体とを持つ生身の女性に見えたのだった。生島千代という名前が今このとき、はじめて私の中で意味を持った。
それほどにうつくしく、彼女は目を伏せて見せたのだった。もっとも、それは私の身勝手な男としての性を考慮に入れても媚態などといえるものでは決してなく、つまるところ彼女は私の中に男性など見ていなかったのであろうが、ともあれこの目があまり印象的だったから、私は思わず彼女をまじまじと見つめてしまった。数瞬ほどして気がついた彼女は、なんですかというように私をきょとんと見返した。べつだん話の腰を折られたと思ったのではないようだった。もちろん、自分の睫にどれほどのものが宿っているかを自覚しているふうでもなかった。そんな娼妓のような真似は、この人は決して決してすまい。誰あろう立川文緒の娘なのだ。
純粋に、この人は何をいきなり私を見つめているのだろう、という顔だった。失敬、と目をそらすと、彼女は自分の顔に何かついていると思ったのだろう、しきりにそわそわと気にしてみせた。手洗いに行きたい、と言い出される前に、私は手振りで先を促した。彼女はなんとなく腑に落ちなさそうな様子をしながらも、きちんとうなずいて、またこころよい声で話を続けてくれた。
こういうことだった。
*****
――ね、文彦さん、もしわたくしの顔に何かついているようでしたら、どうぞおっしゃってくださいませね、長々と失礼をしてはいけませんもの。そうですか、それならようございます。お話を続けさせていただきましょうね。
連十郎がお母様に恋慕を抱いたのが正確にいつだったかということも、わたくしは存じ上げません。ですが、お祖母様のお口ぶりですと、どうも……お母様は、たいへんあやうい縁まで落ちかかったところを連十郎に助けられたという形だったようでございます。うしろだての何もない女がお金をつくるやり方といえば、今も昔もそう多くあるものではございません。女は哀れな生き物ですわね。ああ、わたくしにはっきりと言わせたりなさらないでくださいませ、お願いでございます。
お母様はお心の優しい方でしたから、どのようであれ父は父と、ご自分なりに決意をなさって、ご自分の足で落ちて行こうとなさったのです。それではあなたのお父様がこのことを知っていたか――、たぶん、知らなかったのだと思います。あなたのお父様とて、ご自分ひとり食べて行くのが精一杯なほど、いいえあの当時は誰もがそうだったのでございましょうけれど、お母様がそのことをわからなかったはずはございません。これはまたしてもわたくしの、そしてお祖母様の想像ですけれど、お母様とあなたのお父様――どうか啓太郎さんと呼ばせてくださいましね、啓太郎さんは、最初から最後までお互いの過去も現状もほぼ知らぬままだったのではないかと思うのです。がんじがらめに糸で縛られて、わけありの二人が、わけありではない一組の男女としていられる場所をお互いのなかに求めた恋愛だったのだとしたら、きっとお二人とも、ご自分の置かれている目を背けたくなるような現状を、そこへ持ち込むことを何よりも恐れたのではなかったでしょうか。愛すればこそすべてを打ち明けるのが真実の愛とおっしゃる方もおりましょうが、それできれいに円に入れてしまえるほど、人間というものは単純にできてはおりません。
ですからお母様が身を売ろうと決意なさったそのときも、啓太郎さんはきっと、何もご存じなかったのだと思います。お母様は黙って啓太郎さんのもとを去ろうとしたのだと思います。そこに、まさにそのとき、運命のいたずらが起こったとでも申しましょうか、連十郎が居合わせたのです。とぼとぼと足取り重く歩いていたお母様にたまたま目を留めた裕福な紳士がおりました、それが連十郎だったのでございます。その出会いがぎりぎりでお母様の襟元をひきとどめたのですわ。
自分からかごの鳥になろうとしている哀れな娘ひとり見捨てて置けなかったのか、それともお母様のお顔を見た瞬間にどうしようもないほど惹かれてしまったのか、それは今となってはわからないことでございますけれど、連十郎は手を尽くしてお母様を――結果的におじい様を救いました。借金の肩代わりといえば簡単そうに聞こえますけれど、実際はたいへんなことでございます。いくら当時、生島海運が気鋭の会社だったとはいえ、決して楽なことではなかったと、わたくしは思います。たとえはあまりよくありませんけれど、のら猫一匹、かわいいからといって気まぐれに養ってやるのとわけが違います。連十郎は文字通り、お母様とその家族を背負って――会社という大荷物の上に、さらに背負って――身を砕くような激務に耐え、お母様が昼間の世界で生きてゆけるよう、支え続けたのだといいます。そのときのことを語られるお祖母様の目にはうっすら涙が見えました。お祖母様も連十郎を支えて、ずいぶんと苦労なすったのでございましょうね。
そんな中、たとえどちらか片方にでも恋愛感情が生まれたとて、なんの不思議がありましょうか。お母様はもちろん、このときもまだ啓太郎さんを思慕しておりました。連十郎へは言葉に尽くせぬほどの感謝こそすれ、愛とはまるで別の感情をもっていらしたことでしょう。何しろ、親子ほども歳が離れているのですもの。
けれど、おじい様は連十郎に、是非とも娘をもらってくれと何度も何度もお頼みなさいました。これを天の縁と見たおじい様の、なりふりかまわずの最後の親心だったのでございましょう。実際このとき、おじい様はずいぶんと体を悪くなさって、せっかく借金を返すあてができたのに、余命いくばくもない身でいらっしゃいました。そのやせ細った枯れ木のようなお体で、頼みます、頼みますと、土下座をなすったそうでございます、どんなに顔を上げてと言っても、額を地面につけたまま、文緒を幸せにしてやってください、と繰り返すばかりだったそうでございます。そうしてそのまま、自分がいかにひどい父親であったかを、ぜいぜい息を切らせながら語り始めるのです。
連十郎はいかに複雑な気持ちだったことでしょう。自分は確かに、この娘ほどの女の子に恋をしてしまっていたのですもの。けれど連十郎は、お母様に啓太郎さんという恋人がいたことも知っていました。それでいっときはずいぶん悩んで、やっぱりたくさんお酒を飲んだそうでございます。男の人というのは、やりきれないことがあるとお酒を飲まずにはいられないものなのでしょうかしら。
啓太郎さんもそのころになると、お母様に何か、誰かの影がつきまとうようになったことに気づいていらしたのだと思います。けれどどうして結婚を言い出せましょう。まだ作家として成功してもいない身で、食い扶持がふたりに増えてしまったら、行く先は見えていますもの。そうして啓太郎さんもお母様も、どんなに辛くてもいいからふたりで暮らそうと決意するには、あまりにも残酷な思いをなさりすぎました。世の中の冷たい部分ばかりを素足で歩いてきたようなおふたりに、このうえ無鉄砲な新生活に飛び込む気力がなかったのは、当たり前のことだったのかもしれません。またお二人がお二人とも、お二人の世界にそういった市井の世知辛さ、世の中の冷たさ、容赦のない冷泥を持ち込むことをひどく恐れていらっしゃいました。そういった意味では、本気の本気でおままごとをしようとしていたともいえるかもしれません。お気を悪くなさらないでくださいね、おふたりの愛情がおままごとだったと申し上げてるのではなくて……おふたりが、痛々しいまでに必死になって、おふたりだけで作り上げたおままごとを演じようとしていたように感じられるのでございます。お若い二人、あんまりにも初心だったんですわ。
お母様は、啓太郎さんを愛してらっしゃったと思います。敬太郎さんがお母様を愛してらっしゃったのと同じぐらい。それがどこにでもありがちな若い恋でも、まぼろしの中にえがいた夢でも、おふたりが好き合っていたことに理由も疑いも要りません。出会ったのですわ、ただそれだけです。
それでも、先のない父親のそんな姿を見てしまって、どうして啓太郎さんを選ぶことが出来たでしょう。連十郎のもとへゆくほかに、どうすることが出来たでしょう。
連十郎は、何も言わずにお母様を妻に迎えました。
雨のしのつく、秋の日だったと申します。
四
父は、わけもわからぬままに立川文緒を奪われて間もなく、ひとりの女とほぼ衝動的に結婚をした。飯塚ミチ、私の母である。私は両親の馴れ初めをここで初めて知ったばかりか、そのころの母の素性すらも今まで何一つ知らなかったが、今さらそれを聞いたとて、もはやどうも思わなかった。だが、下手に若いころに聞かなくてよかったといえばそうかもしれぬ。両親や家族といった言葉に夢を見ていたいうちは、聞かないほうがよいことだったかもしれぬ。幸い私はずいぶんと若いうちからそういった気持ちをなくしていたが、それでもたとえば十代やそこらでこの話を聞いてしまったら、いくらかは悲しく思っただろう。
絵に描いたような場末で、そこにある少しばかりいかがわしい店で、少しばかりいかがわしいような化粧をして、男の目をひいていた女がいたとして――考えてみれば、傷心した男がひとりで行く場所などたいてい決まっているのだから、そういった出会い方は想定のうちだったのかもしれないが――父は、そんななかのひとりの女性と結婚をした。それが私の母である。
母は、父のものしずかなところに、それまでの客とは違う何かを見たのかも知れぬと、私は思う。もしも父がほかの客と同じように、がちゃがちゃとやかましいだけの酒飲み男であったなら、母は父と一個人の関係にはならなかったかもしれぬ。だが、世の中にはそういった出会いが往々にしてあるものである。本人にそれと自覚すらなく、うっかりと深入りしてしまう相手というものがいるのである。母にとっては父がそれだった。
未来の結婚生活がいかに悲惨なものになるかをついに見通せなかった母は、ただ平穏がほしかったのか、それとも一見は理知的な優男である父の話を聞くうちに、顔も知らぬ立川文緒なる女がした仕打ちへの憎悪がうまれたのか、とにかく父に同情し、それがすぐさま愛情ととてもよく似たものになった。ひょっとしたら母は、立川文緒への複雑な感情をこめながら、父をその腕に抱いたのだ。女心というものは私にはまったく奇異なるモノであるが、それでもひとりの女とひとりの女がひとりの男を譲り受け渡ししたそのときに、感情の摩擦が起こらぬはずはなかったのである。
父は、繰り返しになるが、傍目にはきわめて聡明にみえる男であった。物静かで、哲学的で、白シャツの似合う優男だった。それが、がさつな男ばかり相手にしてきて疲れきった母の目に、ほんもの以上にきらめいて見えたのかも知れぬ。実際、父は行儀よく、出されたとおりの酒を飲み、酔ってくだを巻くようなこともなかったというから、そういった意味では女を惹く何かがあったのかもしれぬ。女は、何かしら秘密を秘めていそうな男が好きである。ものしずかな男の、語らぬ過去に、ほんもの以上の何かを妄想して見るものである。私の母のように、ごくごく当たり前に善良で、矮小で、かつ愚鈍なひとりの女からしてみれば、それは心奪われるに十分な条件たりえたのかもしれぬ。
千代さんがそのようなことまで知っていたはずもないので、彼女は事実の輪郭を私に語ってくれただけであるが、それらを聞いただけで私は一気にこのような想像をし、また頭の片方で、これがほぼ事実に近いであろうということを知っていた。まるで映画を見るように、私はそれらを脳内にえがくことができた。
母がいつでもきりきりと、ヒステリーを内側に溜め込んでいた理由はここにあった。つかめなかった幸せ。いつまでもまといつく、立川文緒という女。ひとつ屋根の下にはいても、どんどんと離れてゆく父に、母は、指の間から零れ落ちる砂を見るがごとき焦燥と寂寥とを感じつづけていたことだろう。得体の知れない夫、冷めきった息子、すべてがあの人を追い詰めた。ああ、父よ、あなたはいったい、どうして私に文彦などと名づけたのだ。
想像すれば果てしなく、私は考えることが出来る。父はそうして母を間接的に傷つけることで、立川文緒への思慕をつなぎとめていたのではないか、現状に満足しているわけではないと自分に言い聞かせていたのではないか、と考えることももちろんできる。もっともおとなしいと思われた男が、もっとも残酷な手で母を苦しめ続けていた、いわば水面下でのみ鳴りつづけていた不協和音とでもいうべき音を、私はこの歳になってようやく聞いた。それは、母の悲嘆の声であり、父の苦悶の声だった。
父は自分で自分を縛り付けていたのかも知れぬ。あるいは、どこかには、母を愛すすべもあったのだろうに。
人生をともに歩んだ時間は、立川文緒よりも母との時間のほうが、はるかに長かったのだ。まるきり愛さなかったのでなければ、結婚をさえすることもなかったろう。立川文緒との別離はたしかに、もっとも予期せぬ形でもって訪れたかも知れぬ。だがそれを忘れるために、振り切るために母と一緒になったのではなかったのか。それなのに、父がしていたことは、傷口を確かめるたびにかさぶたをはがし、血の吹き出すのを見てああまだ治っておらぬという愚か者の、それに近しいものではなかったか。
そうして染み出た血でもって書いた小説が、母を、父自身をも苦しめ続け、わたしたち家族はついに幸せになるすべをつかめなかった。
私は、思う。父は本当に、そうまでするほどに立川文緒を愛していたのか。私はこれによく似た感情を知っている。欲しい欲しいと思うあまり、自分はそれが欲しいのだと思い込み、そうでなくてはいけないのだというふうに考えが固まってしまうことが、人間にはときどき起こる。人は、なんでも型にはめないではいられない。時には自分で自分の感情をさえ、自分にとってわかりやすい形に形どってしまう生き物だ。
父は、自分は立川文緒を愛しているのだ、ほかにはないのだと思い込むあまり、みずからを螺旋の中に呼び込んでしまったのではあるまいか。思えば父は、それまでの人生において、立川文緒のほかに女を愛したことがなかったのである。ほぼ偶然に出会っただけの立川文緒に、そこまでの執着を持った理由をどう見るか。それが運命の恋であったのだと、ロマンチストはいうかもしれぬが、恋愛とは、つねにきれいごととは限らない。だいたいが最終的に、理想とはいくらか違う形の現実にとってかわるものである。
父は立川文緒を確かに愛してはいたのである。だがその愛にえがいた青写真から、自分の姿を消すすべを知らなかった。ただの恋愛下手な男が、とめどない逆螺旋に迷い込んだ、その結果家族を不幸にした、つまるところはたったこれだけの言葉で言い表すことの出来るものだったのではあるまいか。
父が見ていたのはいつしか、見知らぬ男に嫁いでゆく立川文緒の後姿ではなくて、立川文緒を奪われた自分自身の姿にとってかわっていたのかもしれぬ。敗者たる自分の姿である。その想像を打ち消したいがため、父は立川文緒にこだわり続けたのかもしれぬ。
――おそらく二人の間に起こり、終わった愛は、千代さんが思っていたほどうつくしいものではなかった。私はそう想像する。そしてそれがほぼ正しいであろうことを、私はなぜか、知っているような気がするのである。
*****
……ここに、連十郎の手紙の全文がございます。
文字がこれこの通り、ひどく揺れておりますから読みづらいでしょうけれど、かんにんしてくださいましね。
*****
千代さんはそう言いながら、その手紙を私に手渡した。
私はひと呼吸して、ゆっくりと、それを開いた。
*****
遺言
行きなさい。
御前に只此れだけのことを言つてやるのに、何度決意をしたか知れない。わづか五文字の言葉を御前に言つてやるのに、こんなにも待たせて、済まなかつた。
此れだけの言葉が私には命よりも重かつた。死と引き換えにせねば、終に言い出すことさえ出来なかつたのだ。どうか臆病な夫を赦してください。
行きなさい。直ぐに行きなさい。
御前はまだ若く、十分に綺麗なのだから。
文緒。
*****
その手紙を、お母様は連十郎の死後に受け取って、お読みになりました。当時まだ十六歳だったわたくしを側に座らせて、ろうそくの明かりがぼんやりとともっているお部屋で、お母様が紙を開かれるかさかさという音までが、きいんとするほどの静寂のなかのひとつのように感じられたのを覚えております。
そうしてお母様はその文面をお読みになって、確かにぽつりと、ほんとうに茫洋とした遠いお声で――今さら、と、そうおっしゃったのでございます。
この手紙は、わたくしの目には遺言などでなく、恋文としか読めないものでございます。
お母様とその家族を借金漬けから救うためという大義名分をかくれみのにして、娘ほどのお母様を娶った連十郎は、結局それがためにかえって、本音のいちばん深い部分と申しましょうか、心中をずうっと隠すことになったのでございましょう。
お母様のことを狂おしいほど恋している心のうちを、無理にもしまいこまねばならないところに自分の立場を置いてしまったのでございましょう。思えば連十郎はいつも、ただただ紳士のようにお母様と連れ添っていたのでございます。夫という立場に立ってしまったからこそ、連十郎はお母様への恋心をしまい込んで、ただただお互いへの尊敬と理解でもって夫婦の関係をつなぐよう、努めていたのだと思います。それはきっと、とても寂しいことだったのではないかしら。どれほどにか辛いことだったと思います。
だから連十郎はきっと最後まで知らなかったのです。
お母様が、たとえ啓太郎さんへ注いでいたような甘やかな恋心とは少し違っていたとしても、連十郎のことをもまた、たしかに愛してらっしゃったということ。愛にはいくつかの種類があって、お母様と自分との間にも、長い時間の間には確かにそう呼べるものが横たわっていたこと。
お母様の言われた『今さら』は、連十郎が意図した意味とは明らかに違うものでございました。お母様はとうに、ご自分の居場所も死に場所も、この生島家、連十郎の隣であると心に決めて生き抜くつもりでいらっしゃったのでございます。それでなければ、あのご様子の説明がつきません。
連十郎はお母様の心に踏み込むのを恐れるあまり、ついにそれを知らぬまま、ひとりで勝手に苦悩し続けて、結局あんな――最後の最後に、それとわからぬようなラヴ・レターを遺言などという題目で書いて、そうしてひとりで逝ってしまったのですわ。わたくしの父は、そんな不器用な男でございました。ほんとうに不器用。あなたのお父様から見ても、あなたから見ても、憎んでも憎みきれぬ男ではあったのでしょうけれど、どうか、そのことだけは、わたくしに免じて少しでも分かってやってくださいまし。
連十郎がお母様に対して、ついにその罪悪感を持ち続けたまま逝ったというのなら、わたくしはその気持ちを汲んで、あの人を父と呼ぶまいと決心いたしましたのです。お母様の夫であるという事実にも、わたくしという娘まで儲けたという事実にも、最後まで身の置き所を持てなかった人でございます。ですからわたくしは、あの人を連十郎と呼ぶのです。
……ねえ、文彦さん。わたくし、こんなことを思うのです。時間というのは、人の手のひらによく似ているのではないかしら。つまり……均してしまうんですわ。手のひらでこう、平らにするように、まるで最初からそうだったというように。
この悲しいすれ違いをつくったのは、お母様の心変わりなどでなく、連十郎とお母様の間に確かに流れ続けていた時間だったのでございますもの――
連十郎は最後まですれ違ったまま、本来ならば恋文と題すべき手紙に遺言と書いて、お母様に充てたのでございます。あれほどに苛烈な恋文を、わたくしはほかに存じません。
結び
その後しばらく雑談をしてから、千代さんは、約束があるのだと言って席を立った。珈琲代はふたりぶん私が持った。
彼女ははじめ、それを受けようとしなかった。自分がお呼びしたのだからわたくしに払わせてくださいと、実に頑固に頑張った。それがいかにも千代さんらしく、私は思わず苦笑などしてしまったのだった。それをよく覚えている。
とはいえ、二人ともしまいまでカップにはほとんど口をつけぬままだったので、店員はおかしな二人をどう見たか、それが少し気になりもした。
そう、このとき、私たちは傍からどう見えたのか、そんなことが気になっていた。
父から恋人を奪った男の娘。
父親が不幸にした男の息子。
――それらが私たちの顔に書いてあったはずもない。平日とはいえ人混みするミルクホールの一席で交わされた会話を念入りに聞いていた者があるはずもない。我々は誰から見てもただの異邦人でしかなかった。我々にとって他者がそうであるように、我々もまた、この地上を無数にうごめいている有象無象のなかのただ二つ、それがこのときたまたまめぐり合い、隣り合って、ほんの少し共通する過去をふり返っただけなのだ。そんなことを思った。
――では、なんのために。
私たちはきょう、なんのために過去をふり返り、知り、話した。
ああそうか、解放されるべきなのだ、という考えが、今さらのように私の頭に去来した。私たちはきょう、解放されるために、たぶん、知ったのだ。そのために話したのだ。かわいそうな生島連十郎の魂を。生島文緒という女性が歩んだ道を。我が父、笹倉敬太郎が死人のように生きた理由を。そして母、笹倉みちが気も狂わんばかりに嫉妬して生きたその理由を。
私たちはようやく知ったのだ。
行きなさい、と連十郎は遺言した。今わの際に、ついに言った。今度こそ自由になりなさいと。笹倉敬太郎のもとへ往けと。それもまた、文緒さんにあの男だけが与えてやることの出来る解放のかたちだったのだ。ただ惜しむらくは、そのときの文緒さんがすでに、私の父との幼い恋愛に決着をつけていたことだけか。そんな誤算、なんという誤算か。おそらく連十郎自身、想定してもいなかったに違いない。そのような虫のいい空想が仮に出来る男であれば、死の間際にすら、行けとは言わずにいただろう。何も言わずに死んだろう。自分の勝ち逃げを信じたままで逝ったろう。つくづく不器用な男の生き様と、そのすぐ側ですれ違い続けた妻の姿は、ただただ皮肉でしかなかった。
女は強い。立川文緒、いや生島文緒も、とても強かった。そんなことを、私はこのとき、心底から思い知っていた。
水に濡れた布団で凍えるように眠りながら、少しずつ自分の運命を受け入れ、私の父への思慕をゆっくりと断ち切り、納得し、生島連十郎をついに愛してみせた女性の強さを、おそらくは千代さんも受け継いでいるに違いなかった。それだからこその、ああ、あの瞳だ、あの黒い真珠のような瞳なのだ。いまだに忘れえぬ、あの黒真珠の瞳なのだ。
彼女は別れしな、さようなら、と言った。二度とお会いしますまいと、目が云っていた。私はそれを受けた。さようなら、と返した。
夕陽が照っていた。
真っ赤な真っ赤な陽のなかを、千代さんはしゃんと背筋を伸ばして、ひとり歩いていった。私はそれを見送り続けた。彼女が見えなくなるまで見送ろうと思って、そうして不意に、ずいぶんと小さくなった彼女の側に並んだ男の姿を見た。
――約束がありますので。
ああ、そうか。
私は何故かとても清々しい気持ちで諒解した。同時に、胸が締め付けられるほど、切なかった。
千代さんは、とても幸せになるだろうか。
まぶしい西日を顔面一杯に受けたまま、私は立ち尽くしていた。見えなくなるまで見送ろうと思った。傍らの男性は千代さんよりも背が高く、千代さんと同じように背筋を伸ばして、ならんで歩きながら千代さんに何事かを語りかけ、千代さんは少し頬を染めて、笑いながらそれを返した。
それを見ていたら、ついに目から一筋、涙がこぼれた。
――幸せになってくれるだろうか。
幸せに、たくさん幸せになってください。
願わくば私たちの親がはからずも繰り広げたような悲劇を演ずることなく。おかしなふうにねじれた運命に巻き込まれることもなく。ただ当たり前に、純粋に、そこにある幸せを間違えることもひねくれることもなくしっかりとつかんで、これから先、どうぞうつくしいままで在ってください。
あなたのお母さんは、きっとそれを望んでおられる。
あなたのお父上も、きっとそれを望んでおられる。
千代さん。
どうかたくさん、たくさん、幸せになってください。
わたしはでくのぼうのように立ったまま、そう願い続けた。こころのなかで、阿呆になってしまったように同じ言葉を繰り返し続けた。幸せ。わたしたちの上に今、降るべき言葉はただこれだけだと信じて、何度も何度も繰り返した。
あの日に無言の約束を交わしたとおり、私たちはあれ以来、一度も顔を合わせていない。それでいいのだと思っている。
――ただ――ただ、彼女の結婚式にもしも招待を受けたなら、どんな顔をして会いに往こうかと、時折そんなことを考える。
完
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2007/09/22(Sat)20:56:01 公開 / 有栖川
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■作者からのメッセージ
とりあえず第一稿終了いたしました。推敲版Ver1.0(何だそれ
推敲版といってもこまごました部分を手直ししただけですので、今後時間の余裕を見ながらもう少し本格的に練り直す予定もあるのですが、とりあえずは出来たてを味見してやっていただけたらと思います。ウマイかマズイか、率直なご意見を教えてやってくださいませ。
ここまでお付き合いくださった方々に心より御礼申し上げます。