- 『夜が尾を惹いて』 作者:もろQ / リアル・現代 未分類
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全角7824.5文字
容量15649 bytes
原稿用紙約20.6枚
弾かれたように、眠りから覚めた。固く冷たい床の上。今しがた見ていた夢の記憶は遠のき、入れ換えに私を取り巻く時間が、またゆっくりと動き始める。開けたはずの視界は未だ暗闇の中にあった。それで私は目を閉じたり、擦ったりしたが、やはり光は見つからなかった。
周囲に音はない。あるとすれば心臓の鼓動。身体中に響いている。髪の先までびっしょり汗をかいている。……どうやら私は、よほどの悪夢を見ていたらしい。自分の発した悲鳴が、耳の奥に残っているみたいだ。
床に両手をついて体をもたげ、膝をつき、倒れ込むように背後の壁に寄りかかる。薄汚れたブレザー姿の私は、そうしてしばらく無心で座っていた。何もない暗闇をただ見据えていた。今が一体何日で、何時なのか。そんな疑問さえも、外の世界との関わりを失くした私にとっては、すっかりどうでもいいことのように思えてしまう。
それは久しぶりに晴れた放課後。駅へと続く平坦な道を、気だるい足取りでひとり歩いていた。空気はまだ雨上がりの匂いにつつまれて、私はなぜか気後れした。右手に小さな公園が現れる。錆びかけのブランコに妙な懐かしさがゆらゆら揺れていた。立ち止まる私。いきなり、肩に掴み掛かる強い力。無理矢理に引っ張られた反動で首が軋んだ。続いて、ど、という重い金属音。風景が傾いでコンクリートの地面がせり上がってきた。鈍い痛み。なぜだか、眠くなった。
気が付くと、私は静かなこの部屋に倒れていた。いや、今思えば、最初はここが部屋であることすら理解できなかったのだ。この空間にはライトや窓がなく、唯一取り付けてあるドアにも常に鍵がかけられている。むろん一筋の光も漏れてはこない。訳が分からず私は、痛みの残る頭を抱えて立ち上がり、真っ黒な空気に両手を突き出しあてもなく歩いた。しばらく進んだ先に何か平らな固いものを触る。床から垂直に延びるそれは壁らしかった。壁を頭上へとなぞった先に低い天井があった。
それから、壁伝いに部屋の大体の広さを把握し、氷みたいに冷えきった金属製のドアノブを見つけた。胸元のリボンと膝丈のスカートに触れて最後に見た公園の景色を思い出し、カバンや携帯がなくなっていることに気付いた。一体どこへ行ってしまったのだろう、いくら考えても、頭痛も相まって私の頭にはもっともらしい理由をひねり出す力がない。目の前には奥行きのない闇が迫っているだけだった。
我に返る。まばたきをふたつして、汗まみれの髪に手を伸ばした。壁につけていた部分がひんやりしている。ああ、きっと、あの日から随分経ってしまったのだろうな……。言い知れない寂しさのあと、ひどい空腹感が待ち伏せしていたかのように襲ってきた。お腹の虫が唸りを上げた。目蓋を閉じ、苦痛に耐える。吐き気もする。意識が再びもうろうとしてきて、このまま眠ってしまう方が、案外賢い生き方かもしれないなという思いがふと浮かんだ。
その時、何かが聴こえた気がして、私は顔を上げ壁の向こうに耳をそばだてた。この環境のおかげで私の聴力は前よりずっと鋭くなった。天井の方から、軋り音、鈴の音が一定のリズムに合わせて階段を下りてくる。あの人だ。思わず立ち上がろうとしたが、四肢は力なくくず落ちた。足音が段々とこちらへ向かって来る。聞き慣れた小さな鈴の音色が、扉の向こう、響く。止まった。
ドアの差し出し口が開いて、真っ白な光の直方体が部屋に飛び込んだ。手のひらの影が映って、何かの落ちる音がした。窓に吸い込まれる光。ふたが高らかに鳴って閉まる。あの人は、靴底を鳴らしてきびすを返し、また上階へ去っていく。逃げそびれた残像だけが、暗い水面に薄青く澱んでいた。
足音が完全に消えたことを確かめ、私は漆黒の海の中にあの人が投げ入れたものを探し当てた。ビニールの袋を引き裂き、形の見えない丸いものにかぶりついた。ここへ来てから三度目の食事だった。柔らかいパン生地と生ぬるいジャムの味。おいしい、おいしいと声に涙をにじませながらえさを喰らう私は、もはや人間じゃない。惨めな家畜か何か。恥じらいなどない。そんなものは、あの人のポケットの中に丸ごと奪われた。あの人はストラップについた鈴を常に鳴らし歩くことで、私があの人の支配下にいることを悟らせ、また自覚しているのだ。腹が立たないといえば嘘になる。……だが実際、今の私はあの人なくして生きられない。何も喋らない、男か女かも分からない謎の人を、咎めることも、許すこともできない。ペットボトルのふたをどうにかこじ開け、飲み口に唇をぶつけた。鉄臭い水道水が、砂漠のように乾いた身体を解きほぐしていく。頬を伝った水と涙が混ざって、汚れたスカートの上にぼたぼた落ちた。
それからまた深い眠りに落ちて、目が覚めた。薄目で見た起き抜けの世界はいつでも闇の中だった。私は怖いほどの静寂に満ちた空間に、弱々しいあくびをひとつ放った。首の裏を掻きむしると、伸びっぱなしの爪にこそいだ垢の重みがずっしりと残った。長いことお風呂に入っていない。早く、家に帰ってシャワーを浴びたい。少し前に買ったオレンジの香りのする石けんを泡立たせ、そして身体の隅々まで洗い流す。水音がタイルを細やかに打ち鳴らす。落ちた水滴のひとつひとつが飛沫となって空気に溶ける。どす黒い皮脂がはがれて卵みたいな肌が輝く。きれいになる。湯気を身に纏う。排水溝に、シャンプーの泡が渦を巻いて遊んだ。
浴室を開け放してバスタオルを被る。太陽の匂いがする。髪の先から零れる滴を熱いドライヤーで吹き飛ばした。鏡がぼんやりくもる。私は風呂場の電気を消して、そのまま裸足でリビングに出た。低いテーブル、置き去りのコップ、部屋干しされたキャミソール。テレビ、リモコン、ぬいぐるみ。それら全てが傾きかけた西日を浴びて、力強い影を落としている。時が止まったみたいに動かない。音のない部屋、人のいない場所。一人暮らしのアパートには、遠く離れた両親の顔も声も届かない。まして、作ってもいない友達の姿など、想像すらできない。裸体を晒して、リビングに立ち尽くす私は……。
彼に全てを託そう。胸に身を任せよう。日に焼けた顔、ワックスで尖らせた短い茶髪。何より低くて深みのある声が好き。名前は、確か、大地さん。彼の友達が、そう呼んでいたのを覚えている。話したことはない。だけど、コートの中、汗を散らせて懸命にラケットを振る後ろ姿が、面と向かって会話するより遥かに多くを語ってくれるような気がするのだ。私は放課後いつも、緑のネットにしがみついて、彼の練習風景にひとり見とれていた。
大地さんは、私のことなど知りもしないということを、常に自分に言い聞かせてきた。それは自惚れを避けるため、現実と向き合うために。でももし、もし、私が軟禁されていることに気付いて、彼が私を、この暗くて寒い場所から助け出してくれたなら、世界でひとりぼっちの私に、優しい声で「俺と一緒に生きていこう」なんて囁いてくれたのなら、私はきっとその場で泣くだろう。嬉しさが宙を舞うだろう。大地さんは、私を守ってくれるヒーローに違いない。
そんな甘い妄想に身をゆだねて、永い時が経つのを待った。
しかし、私の願うイメージの、その奥底には必ず、この部屋の中に閉じ込められたまま、飢えに苦しみ死んでいく白い骸骨が横たわっていた。結局誰にも救われず、悲鳴は届かず、孤独に打ちひしがれながら短い生涯を終えるブレザー姿の女子高生。想像するたび息が止まりそうになる。爪を伸ばした右手が空を切って否定したがる。……だが、この暗澹の中で、そんな手振りが見えるだろうか。視界が捕らえられないのに、それがどれほどの自信を生みだせるというのか。彼は、私に理想と現実を教えてくれた。理想とはやはり架空の出来事で、対して現実は、ずっと近いところにあって、巨大だった。例え一日中、芳しい妄想に浸れたとしても、目蓋を開いたとき、そこに現れるのは深く沈んだ永劫の夜だった。
あの人から、たった今与えられた四度目の食事を貪りながら、扉のある、と思しき方向を、眺めていた。ジャムの香りが口いっぱいに広がる。水をゆっくり喉に通して飲む。ああ、これからあと何回食べ物を口にできるだろう。そんなことをふと考える私は、まるで死刑囚か、不治の病に冒された病人である。床にべったり座った太ももを手のひらで包んでみる。やつれて、親指と中指の距離が、明らかに縮まっていた。
分厚い鉄扉なのだろう。ひどく固くて、錆び付いていて、大の大人でも開けるのに一苦労の、そういうドアなのだろう。あるいは実はドアでもなくて、取っ手の付いたただの壁なのかもしれない。握った四角い乾燥剤をおもむろに放り投げると、私は床に両手を置いて、腕の力を頼りに扉にすり寄ってみた。足が引きずられて音がする。止まる。座ったまま、しばらく目と鼻の先にあるはずのそれを眺めていた。前屈みになり額を擦った。くっつけてすぐ、刺すような冷たさが皮膚の内側へじんわり広がる。次に、両頬のそばに手のひらを添えた。ざらざらした壁面を指の腹で優しく撫でる。薄目を閉じた。軽く、息を止めた。すると、不思議と身体が浮かび上がるような気がした。天井がいつの間にかなくなっている。私は宇宙の真ん中にいる気分になった。
まどろむほどに心地良い冷たさ。この温度はきっと何かに似ている。初めて感じるはずなのに、遥か昔、生まれるずっと前にも出会ったことのあるような、冷たさと温もり……。何だろう、おぼろげでほとんど見えないけれど、最初からそこにあって、霧の向こうの私に呼びかけていることははっきり分かる。私もいずれそこへ行くだろう。怖くはない。私の還る場所にどうして怯えを感じよう。心の中を一陣の風が吹き抜けるような、清々しい感覚が私の周りを覆った。
駅へと続く平坦な道をひとり歩いた。空は久しぶりの快晴で、二羽の鳥があっという間に飛び去っていく。揺れるスカート、通学鞄。アパートの一室に帰り着く女子高生。裸のままで立っていた。幼かった日々、仲の良かった友達と廊下を駆け回った。夏休み、中庭に育ったヒマワリの花を見つめて、明日が早く来ないかなあと口に出しては父と微笑んだ小学生の頃。教育テレビのアニメを惜しんで玄関へ立った。ドアを開けると、朝の光の中に黄色いバスが一台。手を振る母。道の右側に現れた小さな公園、錆びかけのブランコに揺られて育った幼稚園生。鳥が、時間を抱えて飛んでいく。遠い西日へ消えていく。いつの間にやら夜になり、四角い部屋に落ちていく。
弾かれたように、眠りから覚めた。私は冷たい扉に寄りかかった格好で気を失っていた。無理な体勢でいたため足が痺れている。床に手をつき、四つん這いになった。ふらつく頭を壁から放そうとしたその時、突然、どこからか聴こえた声に息をのむ。反射的に、再びドアに顔を押し当てた。本当に、聴力だけは思わぬ発達を遂げたものだ。私は息をひそめ、階段の先に続く上階に耳を凝らした。話し声が聞こえる。一人は男で、老いを感じさせるしゃがれ声が早口で、何事かを喋っていた。そしてもう一人の男性は、低くて深みのある若い声質で、ゆっくりと諭すように話していた。私はびっくりして目をひんむいた。……彼だ! 大地さんだ! まさか、本当に夢が叶うなんて! 私は狂喜に身震いして、ドアの前で飛び上がった。まるで今まで止まっていたかのように、いきなり心臓がどきどき鳴り響く。目頭に熱いものが溢れ出そうになる。彼が、彼が来てくれた。私を救いに……! 思わず立ち上がろうとしたが、両足の痺れがまだ取れない。いや、待て待て、状況を窺おう。と私ははやる気持ちを抑え、冷たいドアに片耳を重ねて、聴覚をさらに研ぎ澄ませた。
「……あのね、目撃者の証言も一応あるんですよ。似顔絵もできてるし、車のナンバーもきちんと取ってもらってるんです。今見せます」
「いやいいです。やめてください。俺がそんなことやるわけないでしょう。いきなり押し掛けてきて、まるで人を犯人みたいに……こういう調べ方ってやっていいんですか」
「いや、ちょっと質問させてもらってるだけでしょ。……じゃあ訊きますけど、えー、六月十六日、五日前の午後十五時三十分頃にあなたどこにいましたか」
「覚えてません。いいから早く帰ってください。犯人扱いとか、ちょっと失礼にもほどがあります。いいから、ほら……」
二人の声が刺々しくなる。激しく、荒々しく。鈴の音が執拗に鳴り続ける。暗闇にも十分響いている。耳が、両手が壁に貼り付いてはがれない。私は、凍り付いていた。心臓の音はすっかり消えて、かわりに変なうめきが、お腹の奥で震えた。頭が、思い描いたイメージがぐちゃぐちゃに掻き乱される。足の痺れが取れる頃には、腹部の震えは身体中に転移して、歯のかじかみと爪の扉を弾く音が共鳴していた。嘘だ、そんなはずがない。大地さんがそんな……。私は怖くなって、ドアを両手ではねのけ、後ろの床に倒れこんだ。振動が小さく鳴っている。真っ暗だが、目の前にはしっかりと彼の顔が浮かんでいた。そして、私は無理矢理にでも状況をまとめようと試みた。大きく深呼吸して、一度全部の力を抜いた。見えない天井をじっと見上げた。
ライトや窓がなく、鍵のかかったドアがひとつ。冷たい空気で満たされた直方体の空間。そこに私は五日間閉じ込められていた。食料が満足に与えられないここでの生活環境はお世辞にもいいとはいえなかった。しかし同時に、手足を縛られることもなく、危害を加えられるわけでもない。閉じ込められてはいたが、部屋の中でならほとんど自由だった。それならなぜ、逃げようとしなかったのか。ドアの差し出し口が開く隙に、こちら側から相手の手を引っ張ったり、満タンのペットボトルを振り回したりと、少なからず抵抗できたはずだ。声を張り上げて叫ぶことさえほとんどしなかった。
きっと、怯えていたのだ。終わりのない暗闇、閉所、時間感覚の消失。今まで体験したことのない色々な恐怖に気圧されて、「逃げる」という言葉を完全に忘れてしまったのだ。何より、姿の見えない犯人は恐ろしかった。性別も、表情も、真意も分からない透明人間の存在。
しかし今、私ははっきりと理解した。あの人は、ちっとも透けてなんかいなかった。肌の色も、髪型も、声もちゃんと知っている。いつだって見ていた。防球ネットの裏側から。忘れることなんてできない。彼の全てに惹かれていたもの。放課後寂しく歩いていたのは、せっかくの晴れた日に、あなたが部活に来なかったからだよ。好きだったんだよ。これじゃあ、本当に咎めることも、許すこともできないじゃない。好きにも、嫌いにもなれないじゃない!
怒りと悲しみが螺旋を巻いて私の全身に漲った。力が、自信が生まれた。私は平手で床を思い切り押しのけ、二本の足で立ち上がった。垢で強ばる四肢を思い切り奮ってドアに飛びついた。壁に爪を立て、額をぶつけて大きく息を吸った。
「出して……。ここから出して。逃して、逃して! …私を、ここから出して!」
喉はすっかりひからびて、かすれた声しか出ない。だが、私はできる限りの大声で叫んだ。真っ黒く澱んだ海底から、喉を嗄らして叫び続けた。絶対ここから逃げてやる。頭の中にはもうそれしかなかった。
「助けて。逃して! ここから出して! 助けて! 逃して! 逃して!」
階段の上から、ドタバタと暴れ回る音が聴こえてきた。私の声を聞きつけて、警察官が家の中へ強行突破しようとしている。それを犯人が押さえつけようとして、取っ組み合いになりながら転がるように階段を下りて来る。私はますます大声を張り上げた。汚れたスカートに滴がぼたぼた落ちた。嬉し泣きに用意していた涙だった。悲しくて、腹が立って、もうどうしようもなくなって涙が零れた。
「おねがい…助けて! 私はここにいます、ここにいるから助けて……! 逃して……!」
扉がものすごい勢いで揺れ始める。男二人が、壁の向こうで奮闘している。建物の軋り音、荒い呼吸、鈴の音色。私はぼろぼろ泣きながら、叫ぶのをやめ、ドアから離れた。鍵の開かれるのを待った。ドスン、一瞬扉がこちら側に膨らんで、放射状の白線が数本漏れた。無理矢理にこじ開けようとしているらしい。「やめろ!」と彼の声。衣服が引き裂かれる。何かが割れて床に散らばる。二度目の衝突。ドアが大きく湾曲して、枠に返った。差し出し口が開く。心臓が騒いで弾けそうになる。しかし私は覚悟した。瞳に溜まった水滴を指で払いのけた。三度目。凄まじい破裂音がして、部屋に巨大な光が激突した。氷のドアノブが壊れて宙を飛んだ。「逃げろ!」、最後の一声で自らを、光りめがけて押し出した。足が一歩を踏み出す、外の世界へ。まぶしい。何も見えないが、それでも目の前にしっかりと、彼の顔を捉えてやった。笑っていた。眼球を飛び出させて、口元に気味の悪い微笑みを象っていた。しかし私はかぶりを振って、前を見据えた。今は逃げることだけに集中した。何も見えない。雪原みたいに真っ白だった。おぼつかない足取りで、転びそうになりながら、ひたすら真っすぐ階段を駆け上がった。呼び止める警官の声。何もかも無視して走った。壁を手でなぞって駆け上った。最後の一段を昇り終えると、車のエンジン音がした。がむしゃらに突き進んだ。何度もつまずいたが、不思議と転ぶことはなかった。街並の喧騒が近くなる。もう誰も追っては来ない。けれど走った。力の限り走り尽くした。
結局、夢は叶った。犯人が彼だと気付けなかったら、私は諦めてあのまま死んでいただろう。彼のおかげで逃げる勇気が生まれたことは、紛れもない事実だ。上辺では、彼のことが憎くて憎くて仕方なかったが、心の深いところで、どうしても、あの優しい彼の横顔が忘れられない。盗られたままの鈴付きストラップが、ずっと私を引き留めている。私が悪いのかもしれない。勝手に彼をヒーローに仕立て上げていた私が、結果として自分の首を絞めているのかもしれない。一番の罪人は私だろうか。……分からない。もう何も分からない。
目はすっかり慣れて、風に揺れる並木が違和感なく見られるようになった頃、応援に駆けつけた別の警官が私を保護した。大きな手で肩を掴まれ支えてもらうと、今更になってどっと疲れが出た。警官は、気力のない私を心配しながら、無線片手に色々連絡を取っている。暖かい太陽が私の痩せた身体に降り注ぐ。青葉の隙間から木漏れ日が溢れている。活気のないアーケードには日常が満ちている。また、泣けてきた。せっかく見えた景色が歪んで、滲み出す。しょっぱい涙が零れて、口元に入り込む。
どちらにせよ、あなたはこの街にはもういない。あなたは、私にとって世界だったよ。恥ずかしくない、あなたのポケットの中なら。でも、もう会えない。私はこれからどうやって生きればいいの。滲んだ景色を背負って生きていくの。ねえ、世界は終わったよ。
嗚咽を漏らす私に、警官はおろおろして、優しい科白で励ましてくれる。並木道を二人で歩く。一人で歩く。涼しい風が吹いて、スカートを柔らかくなびかせていった。
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■作者からのメッセージ
にしても、扉ヤワ過ぎじゃないですか