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『降神物語』 作者:猫耳秋風 / ファンタジー 異世界
全角19287.5文字
容量38575 bytes
原稿用紙約53枚
……流星の術はジェルバの地に巨大な穴をあけた。それは神殿の第一階層を破壊する形で、地下へと大きな穴をあけているのだった。結界を使った防御策が失敗した事を悟ったディオティーマは、地上の様子を心配したフィサリスとユンの二人と合流して、ユフィムの協力のもと負傷者を助けると、すぐに地下の祭壇へと向かった。はるか地階の第五十三階層にはサールティッツの部隊が刻々と迫っていた。
 第五十二階層に設置された封神の魔法陣は、降神の儀によって召喚された司天の渦を豊穣の神ともども湖水世界に封じるためのものだったが、その術を行使するには強力な魔力が必要だった。その為、この魔法陣の操作には、ゼンカを始めとする三人の強力な魔操師が配備されていた。
 魔操の力によって神を封じることは、言いようによっては神の力を神の力で封じるということになる。それは、無限の神が無限の力を封じるという矛盾である。この計画が無事に終わったならば、魔操術を研究する者たちによって多くの議論がされるだろう。
 魔操の力が、唯一なる神に属するものなのか、あるいは邪念の数だけ存在するという悪魔に属するものなのかは、長い間議論されてきた問題だ。このことが判然としないのは、多くの宗教家によって魔操術への非難材料となり、結果的に、民衆の間に魔操術に対する畏怖と嫌悪を撒き散らしているのだった。

 魔操師長ゼンカは、この計画の最終段階となる術を行使するために、第五十二階層にある封神の魔法陣へと向かっていた。
 彼の進む回廊は紋章術の加護によって迷宮の邪気から護られており、また、所々に灯された光輝球の光が行く先を常に照らしている。 封神の魔法陣までの道のりは、いまのジェルバ神殿の中では一番に安全な場所と言えた。その安定した空間に身を置いているためか、ゼンカの表情はいつになく上気していた。
 しかし、彼の陽気な気分は長く続かなかった。第五十二階層へと続く螺旋階段をあがったときに、ふと、いつもと違う様子に気づいたのだ。召喚の儀が行われている二つの階層では、要所要所を堅く護るために、それぞれの出入り口に待機所と呼ばれる検問のようなものが造られているのだが、彼の上がった場所の待機所がまったくの無人だったのだ。
 
 係りの者が何か用事を受けたのかと疑ったが、召喚術が佳境に入ったいまの時点に、待機所が無人になることなどありえるだろうか。いや、そんなことが許されるはずがなかった。ましてや、管理を託されているゼンカの許可も得ずに、誰もいなくなることは考えられない。ゼンカは意識を集中させて、物音や人の気配を探った。なにかがおこっているのだった。おそらくは期待されないたぐいのなにかが。
 慎重に歩を進めながら待機所の奥へはいると、部屋の隅に誰かが倒れているのが見えた。近寄ろうとしたゼンカは途端に鼻を突く血臭に顔をゆがめた。
(……破られている)
 いったい何者の仕業かはわからないが、彼の来る直前に誰かがこの場所を襲撃したのだった。横たわる騎士はすでに事切れていたが、ついさっきまで息をしていたようである。その遺体はまだ暖かく、傷口からはいまだに血がにじみ出ている。確認しようと仰向けに転がすと、装飾の施されたプレートメイルの継ぎ目から深くえぐられた傷口が見えた。短刀のようなもので急所を一突きされたのだ。
 あたりを見ると、すぐ傍に抜き身になった剣が転がっていた。つばの紋章はロンディニーンのものである。間違いなく、倒れた騎士の装備だ。刺されてから剣を抜いたのだろうか、剣には血糊の一滴もついていなかった。
 その剣を見たときに、ゼンカはあることに気が付いた。死者の倒れている場所には真っ赤な血が溜まっているが、その周囲には血で描かれた足跡が一つもない。突然襲われたのか、それとも思いがけない一撃だったのだろう。襲撃者は守衛の騎士に一撃を浴びせると、その死を確かめることもなく立ち去ったのだ。では、どこに去ったのか?

 哀れな死者をそのままにして待機所を出たゼンカは、分岐路を前にして躊躇をみせた。彼の右手には封神の魔方陣へと続く回廊がある。そして、左手には今通ってきた第五十三階層へと通じる螺旋階段がある。仮に相手が一人だとわかっていたならば、このまま封神の魔方陣へ向かうだろう。しかし、もしも相手が複数だったならば、このまま進むのは危険だ。自分までもが刺客の手にかかったならば、降神の儀に支障をきたす。いや、支障どころではない。おそらく、この地を中心にして未曽有の厄災が訪れる。
では、助けを求めるのが妥当であるか? ゼンカは頭を振った。いまさら、失敗をして他者の手を煩わせたとなると、今までの功績が水の泡になる。召喚術が終わりルーアンに戻っても、待っているのは審問かもしれない。それだけは避けなければならなかった。彼の頭の中で、助けを求めると言う選択肢はたちまち消された。

 ゼンカの足は封神の魔方陣へと向かった。誰かに助けを求めると言う屈辱を受け入れることは出来なかった。
(様子も見ずに助けを呼ぶなど、臆病者のそしりをまぬかれん)自らに言い聞かすようにつぶやきながら、杖を持った手に力をこめた。
 魔方陣の手前までくると、ゼンカは足音を忍ばせて近寄った。待機していた魔操師の姿は見えない。広間はまるで、初めから何もなかったかのように静まり返っている。その静けさは、かえってこの男の警戒心を掻き立てた。
(まさか魔操師までも倒されたというのか)
尚も慎重に様子を探りながら、ゼンカの心中は動揺に近い戦慄を覚えている。燭台を回り込んだ瞬間に、その目に何かが映った。
 腕だった。胴から切り離された腕が、血溜まりの上に廃材のようにして転がっている。指先にはめられた指輪から、それが誰のものであるのかがわかった。それは、自分の部下であり、愛人でもあった魔操師のものだった。はめられている指輪は、カサルの王城を陥落させた際に得たもので、ゼンカ自身が贈ったのだ。その腕が転がっていた。こみ上げる吐き気にゼンカは口を押えた。と同時に、右手のほうの暗がりで何かが動くけはいがした。
「ジゼール?」
 口に出した瞬間、しまった、と思った。思わず口にした女の名前は、誰だかわからぬ存在に自分の位置を知らせてしまったかもしれない。うごめいた影はいまや確かに人の姿をみせて、暗がりに向き直った。背後から光輝球の光を浴びた姿は両腕がそろっている。陰になったその顔が笑みを浮かべたように感じた。

 ゼンカはもはや、かまわずに駆け出した。走りながらも術歌の詠唱を始めた。騎士を一撃で倒し、そしておそらく二人の魔操師をも倒した相手だ。逃げられるとは思えない。魔操術で空間ごと消失させるという極端とも言える方法で、一瞬で勝負をつけるつもりだった。相手に何かをやらせては駄目だという直感が、ゼンカの全身を突き動かした。
 詠唱の時間を稼ぐために、石柱の間を縫うように移動して距離を稼いだ。しかし、相手の動きはそれを察知したのか、ゼンカは徐々に壁際へと追い詰められていく。
 侵入者の技量はずば抜けている。相手が術者であるのか、剣士であるのかはわからないが、すくなくとも殺し合いにおいての巧さはゼンカを超えているのだ。
すぐに魔方陣の間にはいられなくなり、背後には待機所までの五十メルテの直線が続くだけになった。
(ここは危険だ)ゼンカの脳裏に警告の声が響く。
 この直線で攻撃を受けたならば逃げ場がない。誘導されたのかもしれないという危惧が沸いた。しかし、ゼンカは一気に突き進んだ。後ろから近づく脅威は益々気配を濃くしているのが感じられたし、いちいち迷っている余裕などなかった。ほかに道などないのだ。
 螺旋階段までの距離がいつもの何倍にも感じられた。術歌を詠唱しながらの激しい動きで、苦しさに汗が吹き出た。念じるようにして術歌に集中し、苦しさを押さえ込もうとするが、普段着慣れた魔導着さえ、空気の抵抗がわずらわしく感じた。

 回廊を抜けきり、出口に掲げられた光輝球の揺らめきに包まれたと感じた時に、ゼンカは背後からかつて味わったことのない感覚に襲われた。反射的に振り返った瞬間、足元で何かがはじけた。同時に、厚い鉄板を打ち合わせたような音が響き、体の支えを失った。石廊に胸を激しく打ちつけ、衝撃で息がつまり術歌が途絶えてしまった。
 苦痛にあえぎながら両足を見ると、ひざから下が無くなっている。傷口からは早くも鮮血が吹きだしていて、潰されたような切り口は転がっていた女の腕と同じだ。恐ろしいほどの痛みで意識が遠くなっていく。
「居合わせるなんて、運が悪かったわね」
 聞き覚えのある声が、回廊の反対側から聞こえてきた。朦朧とした視界を向けて、ゼンカは全てを理解した。待機所がたやすく破られた理由、そしてサールティッツが無謀ともいえる攻撃を仕掛けてきた理由。さらに加えるならば、自分自身の運命さえも。
「……おもわず出た言葉が、……女の名とはな」
 血の気を失ったゼンカの顔には、ゆがんだ笑みが浮かんでいる。
「あなたにしては上出来ね」
 高く響く足音を鳴らせ、女が近づいた。横たわる体を蹴り上げて仰向けにすると、恐ろしく硬い剣先がゼンカの胸に刺しこめられた。魔操師長ゼンカは死んだ。


 魔方陣より生まれる虹色の気泡を見つめていると、急に胸騒ぎがした。大事を前に、ふと手抜かりに気づくときのそんな胸騒ぎだ。クエルテンは周囲に目をやった。祭壇を囲む空間は紋章より発せられる鮮やかな虹彩に彩られている。もう、すぐにでも司天の渦が召喚されようとしているのだ。祭壇の中心で祈りをささげる神官長クイットゥの顔には、滝のような汗と歓喜の表情が入り混じっている。統帥するクイットゥの周囲には十名の神官団がおり、更にその外周には、魔方陣に魔力を注いでいるロンディニーンの魔導師が数名いる。何も問題はない。
(周囲の警備は?)
 思い及んだときに、こちらへ向かってくる赤髪の男の姿が見えた。
「クエルテン様」
 スクディエリは落ち着かない声でささやいた。その頬には引っ掻いたような切り傷が走っている。
「……転送用魔方陣に、サールティッツの獣騎士が」
 いかにも苦々しげにスクディエリは伝えた。突然現れた異国の戦士たちによって、転送の魔方陣が占拠されていること、さらに、魔操師長ゼンカのいる第五十二階層との連絡がとれなくなっていること。
 その報告に若い指揮官は耳を疑った。(あっさりと、ここまで来ただと?)振り向いたクエルテンは、スクディエリの目を食い入るように見つめた。
「おさえられるか?」
「騎士の数が足りません。魔操術で相手の魔導師は無力に出来ますが、獣騎士どもを押えるには……」スクディエリは言い澱んだ。
「他の場所に配置されている騎士を全て向かわせろ。いいか、あと一刻だ。一刻もてば、ことは成し遂げられるのだ。この祭壇には絶対に近づけさせるな」
 
 短く返事をしてスクディエリは去っていった。その姿を見送るとクエルテンは祭壇へ向き直った。この場所で召喚術を詠唱しているクイットゥにネイス、そして封神の魔方陣にいるゼンカは司天の渦を制御するために身動きが取れない。もしもスクディエリたちが押えきれなかった場合、対応できるのはゴユを含む数名の紋章術師と自分だけだ。はたしてそれだけの戦力でサールティッツを押えられるだろうか。
 並みの人間には幾重にも張った防御網をこうも容易く抜けられるものではない。おそらく相手には相当の知識をもった術師がいるはずである。その人物はジェルバ神殿の構造に精通していて、降神術の知識もあるはずである。対抗するにはその一歩先を行かなければならないだろう。阻止できると確信をもって進入してきた者たちを退けるには、それなりの覚悟が必要のようだった。
「……いいだろう。そんなに邪魔をしたければ来るがいい。この俺も、十四都市時代を生き抜いた王族の魔力を、忘れたわけではないのだ……」
 若い指揮官の目はいつの間にか鋭さを帯びていた。祭壇から発せられる神々しいまでの光はなおもあたりを照らしていたが、クエルテンがゆっくりと身を引くと、その姿は闇に沈んだように見えなくなった。



 ユフィムたち四人はジェルバ神殿の門をくぐった。神殿は数日前に通った時とは大きく様相を変えて、「星落とし」による破壊の爪跡を生々しく残している。
 熱気と蒸気が混ざり合った闇は、四人の視界を阻んでいた。灰の積もった床は、歩を進めるごとに薄い埃を巻き上げた。地上でなにかが崩れているのか、わずかな振動が上方から伝わるたびに、神殿内の四方から石壁のきしむ音が悲鳴のように響いてくる。全体としては鎮火に向かっているようだが、時折、滴のようにたれ落ちる炎の舌が視界の隅をよぎった。ディオティーマには、いまだに収まらない蒸気がまるで死者の怨念のように映った。
(この瓦礫の山のどこかにボナールも……)
 少年のあどけない顔が目に浮かんだ。自分の判断によってあの若い剣士は死んだのだ。ユフィムやファラに判断を任されたとき、ボナールの参加を認めてさえいなければ、あるいは少年はまったくの無傷でいたのかもしれない。ディオティーマの気持ちは沈んだ。
「……これほど強力な破壊の術法は、十四都市時代以前の古文書の中にしか見出されていません。この術がサールティッツの魔法院で復活したものならば、今後の情勢も大きく変わるかもしれません」
崩れ落ちた内壁の惨状を確認しながら、ユンがつぶやいた。
「やっと、戦乱が収束しようとしていたのに……」ディオティーマが放心した様子で答えた。その言葉に、フィサリスは憂鬱そうな目を向けた。
「あなたたちにはそう感じるのかもしれないけれど、今度の戦争でロンディニーンに侵略されたカサル王国や、長年の間魔操術に脅かされてきた諸国の恨みは深い。降神術が成功しようと失敗しようと、争いの種はばらまかれていたわ」
「……結局、今まで私がしてきたことは湖水世界の人々を苦しめてばかりいたのね」
うつむくディオティーマに、ユフィムが心配そうな目を向ける。フィサリスはディオティーマの疲れた様子に気づいてか、付け加えるようにして続けた。
「私だってロンディニーンの全てが悪だとは思わない。でも、死んでいったカサル王国の人々や、カラ・ジズヤの僧兵たちには、もっとたくさんのことができたはずだわ。それを奪ったのは魔法文化復興を唱えて侵略したロンディニーンで、それは動かし様のない事実よ。でもね、ディオティーマ、起きてしまったことはもう取り返しようがない。生き残った者はつらい過去を少しでも変えていこうと努力しなければいけないはずよ」
「フィサリス……」

 初めてこの友人の、降神術に対しての本心を聞いた気がした。故国の命令とはいえ、本来、調和を尊ぶ紋章術師たちにとって、諸国に混乱をもたらしているロンディニーンに協力することは決して納得のいくものではないのだ。協力国の相手という遠慮はあったものの、そうした紋章術師たちの懊悩を自分は今まで少しでも深刻に考えただろうか。償いきれない罪の意識はディオティーマに重くのしかかった。ディオティーマのますます沈んでいく様子を見て、ユフィムが口を開いた。
「ジェルバ神殿は和平の試金石かもしれない。俺はそう期待していた。だけど、やはり、ロンディニーンが更なる力を持つことは脅威以外のなにものでもないようだ。首都より遠く離れた地にあるジェルバ神殿でのことならば、あるいは国土の安定のために平和に利用されるかもしれないと思ったのだけれど。しかし、これは、ロンディニーンだけの引き起こしたことではないと思う。魔操師に対抗して武力の台頭を許した諸国にしても、同じような破壊の力でそれに抗したのだから。湖水世界の歴史の流れを考えても、今の混乱は必然だったように思うんだ。術師の力が本当に必要とされるのはむしろこれからの話だよ」
「ユフィム様は降神術のために同盟を離れてこの地へ来られたのでしたね……」
「……そう。でも、今はもう、それだけでは。とにかく、まだ降神術が失敗したわけじゃない。争いの種になったからといって、災いを生み続けるものにしていいはずがないから。こうして気づいたからには、王家の思惑はともかくとして、これ以上の犠牲を……」
神殿の奥に進みながらうつむいて聞いていたディオティーマを、ユフィムの腕が制した。
「誰かいる」

 ディオティーマはすばやくスタッフを構えた。迷宮に侵入したはずのサールティッツの部隊からいつ攻撃されてもおかしくない状況にいる事を忘れ、考えに深く沈んでいた自分を叱咤していた。魔操術を詠唱する余裕は既に失われていたが、魔導の心得もあった。これ以上、誰かの血を流させないために、捨て身でも戦うという強い決意が起こっていた。
二人の様子に気付いたユンとフィサリスもすぐに戦いの体制を整えた。前方には微かに響く靴音と、床に広がった赤い炎がまがまがしく揺らいでいる。耳を済ませると、靴音がやんだ。
周囲を探りながらゆっくりと歩を進めるユフィムに従って、ディオティーマは回廊の奥に入った。そこは既に第二階層の最深部とも言える場所で、すぐ前方には元々待機所のあった場所、ボナールとスレイフの騎士が競技した広間があるはずだった。
 空気が流れていないのだろうか、凝縮されたように強烈な肉の焼ける臭いと、急な息苦しさを感じながら、ディオティーマは慎重に進んだ。暗闇になれた目に炎の踊るような様子がはっきりと写ってきた。

 ふと、焼けた壁の下で何かが動いた。ディオティーマは足をとめて目を凝らした。そこには何か質感のあるものが、折り重なるようにしてくすぶっている。デリオティーマは思わず息を飲んだ。火のついた朽木のようにして倒れているそれは、待機所の護りに就いていた騎士の遺体だった。一人ではない。瓦礫の山に溶け込むようにして、二人三人とたおれている。
 おそらく、爆風でなぎ倒されたのだろう。ひしゃげた鎧が、血の蒸気を発している。その遺体が痙攣をするたびに薄赤い肉をあらわにする。まだそう時間がたっていない。壁際に近づいたユンはすぐにもどり、生きている者はいないと首を振った。その場所を過ぎると、眼前には緩衝の回廊が設置された広間が広がっている。何者かがいるのは、その手前のわずかな空間のようだった。

 音を遮断したかのような時間が流れた直後に、その姿が写った。背後の炎に照らされて、黒く切り抜かれたようにして立っている者がいた。熱気によって吹き上げられた風が、張りのあるしなやかな黒髪をまるでそれ自体が意志をもっているかのように泳がせている。炎の揺らめきが、一瞬その顔を照らした。凍ったように冷めたその顔はファラだった。

「近づくな」
 黒い影の主が告げた。はりつめた沈黙を破るときの、上ずったような声だった。
 ディオティーマたちの心は驚きに乱された。「なぜここに」という問いは、この瞬間を支配している肌の痺れるような緊張が押し留めた。状況を把握しようとする心に併せて、五感が感じ取っている異様な雰囲気が危険を告げていた。
「……ここで、いったいなにを?」皆を代弁するかのようにユンが聞いた。
 しかし、それに答えたのは値踏みするかのような視線だけで、聞きなれている澄んだ声は返らなかった。
「サールティッツの部隊が下層に侵入したのは……?」
 訝しがりながらも、さらに数歩近づきながらユンが続ける。ファラの表情は陰になり見えないが、床を走っている炎の舌が徐々にそのヴェールを剥いでいった。ディオティーマの疑惑の目が、ファラの眼光を一瞬捉えた。
「ユン!」
 ディオティーマは思わず鋭い声を上げた。ファラの黒い姿はその声に呼応するかのように動いた。瞬きの間に、舞うようにして体をひねらせると、厚いマントの内側から白熱する閃光を走らせた。
 驚きつつ身構えたユンは、反射的に両腕を眼前に交差させた。その体に真直ぐに伸びた閃光が直撃し、耳をつんざく衝撃波が白煙と共に散った。鉄槌に打たれたように吹き飛んだユンに、フィサリスの悲鳴が重なる。
 二人の姿を追ったディオティーマが振り向くと、間髪をいれずに詠唱を始めるファラが目前に迫っていた。身を守ろうとして魔導の力を集中するディオティーマはすぐにその失敗を知った。ファラは彼女の様子を見ると即座に詠唱を中断し、音もたてずに駆け出したのだ。相手の手にいつの間にか漆黒の短刀が握られていることにディオティーマは気づいた。不意を突かれて闇雲にスタッフを振るったが、その動きは完全に読まれてしまい難なくかわされてしまった。風車のように振り上げられていく短刀の一撃が、避けきれない速さで迫ってきた。
「ディティ!」
 ユフィムの声が真後ろから聞こえ、ディオティーマは重心を崩された。背後から引っ張られた眼前で、間髪をおかずに金属の刃が火花を散らせた。短刀の鋭い突きは、ユフィムの構えた剣が寸前のところで止めた。ファラは必殺の一撃が止められると、すばやく十メルテ後方まで距離を取った。ユフィムに支えられて、ディオティーマは体勢を整えたが、息をつく間もなく周囲の魔力がファラに集まっていくのを感じた。
「よさないか! 戦う気はない!」
 ユフィムの声が薄闇を裂いた。術歌を詠唱する声がかすかに弱くなったが、ファラはやめようとしない。小さく舌打ちしたユフィムは、ファラを信用させようと大刀を床に突き立てた。
「争う気はない! 話を!」
 無防備になったユフィムを見てディオティーマは緊張した。ファラの唱えているのは爆炎の術かもしれない。彼女がこの声に振り向かなかったなら、ユンの動けない今はあまりに危険すぎる。
 ユフィムの腕をつかんだディオティーマは、自分の鼓動がかつてないほどに大きく強く打っているのを感じた。

 微動だにしないユフィムの視線を受けながら、ファラは尚も詠唱を続けた。その言語はディオティーマにもわからないものであったが、一度見た彼女の力量から考えると、ほとんど間もなく破壊の術が完成するはずだった。冷たい汗が頬を伝った。

ふ と気がつくと詠唱の声がやんでいた。ファラの黒い姿は、現われた時と同じように厚いマントの中に収まっている。再び静まり返った回廊で、周囲の炎が何事もなかったように揺らいでる。
 腕を抱え苦痛の表情を浮かべるユンと、その体を支えるフィサリスとがゆっくりとディオティーマの横に並んだ。そうして対峙したまま、しばらくの無言の時間が流れていった。

「……長い間、考えていた」感情のこもらない、独り言のような声が迷宮に響いた。
「この、滅亡していく世界にとって、希望とはなんなのかと」
 薄闇の中で赤い光が揺らめき、奇妙なほどに神々しい雰囲気が周囲を包んでいった。ファラの口からはどこか別の時間から発せられているかのような、そんな声が紡がれた。

「……深遠を探る魔導の師は、確信したように太古の知識を求めた。猛き剣士たちは宿命のように隣人を斬った。私は、その中で、どこに身を置いても孤独だった。……みな、自分の中でとうに答えを見つけたかのように、弱者を支配することを追い求めていた。……そして私は、いく人もの賢者や、英雄が倒れるのを見た。私は思った。彼らの想像するような、圧倒的な力がもたらす秩序など、結局は実現不可能ではないかと。一つの思想、一つの文化、そんなものは幻想に過ぎない。向かうべき道は、そんな次元にはない」
 畏怖と後悔の念を生まれさせる四人の前で、孤高の位置に据えられた女の声が続けられた。
「……意志の力を持って生まれた者は、その力のために死ぬ。結局、そのあとには廃墟が残るだけ。死に絶えていく世界を、明るい方向へと導くようななにかを、残す事はできない。あてのない使命感のさきには不毛な荒野が広がっている。……生まれながら、周りに恐れられるほどの力を持った私は、この迷路に迷い込んでいた。諸国を周りながら、私は自分の存在意義を疑っていた。……その私を導いたのは、この愚かな戦乱だ。馬鹿げた支配欲が生み出す破壊と殺戮。湖水世界を滅亡へと導く激流の中で、私は人間たちのやり方そのものが間違っていると気づいた。希望は、暴力に創られるのではなく、強い意志によって育まれるのだということに。地を這い、土を食べて生きるのが本当の秩序なのだと」

 ファラの言葉は、降神術を完全に否定するものだった。ロンディニーンの皇帝より直々にジェルバ神殿での計画を任され、探索が行われる以前よりこの法術に携わっていた者の、偽りのない本当の声がそこにあった。
 その言葉は否定できない力を持っていた。ディオティーマにはむしろ、自分のたどり着いた考えがそのまま代弁されているように感じられた。ただ一点、二人の行き付いた場所に違いがあった。それは、人びとの間違いを積極的に修正しようとするかどうかにあった。そしてそのことは、二人が決して相容れられないほどの深い裂け目でもあった。

「私たちは自分で思っているほど成熟していない。司天の渦の力は人間が扱うには大きすぎる存在。それは、私の信じる、世界の進むべき道とは共存できない」
黒髪を揺らして、ファラが言う。背後の炎を垣間見せる、ヴェールのような黒衣からは、暗闇の中で生々しいまでの生命力を放つ白い腕が警告のようにちらついている。
「君がやったのか?」ユフィムが落ち着いた声で言った。「君が、この騎士たちを、殺してしまったというのか」
ファラは静かにうなずいた。
「そう。……皮肉ね、降神術を完成させるために選ばれた私が、命令どおりにさまざまな魔術を学んでいくうちに、その対極の考えにたどり着くなんて」ファラは薄く笑った。「でも、大抵のことはそうしたものね。考えてみれば」
「何を学んだというの」
 強い疲労を感じながらディオティーマはようやく言った。ファラの鉄色の目が彼女を捉えた。
「この計画が成功してはいけないということ。降神の儀は失敗するのよ。それも大きな犠牲を払って。ディオティマ、あなた悪くなかったわ。気付いていたでしょう? この世界の人々は誤った方向に向かおうとしていることに。私たちはやり方は違うけれど、似たもの同士よ」
「あなたの言うことはわかる。でも、私たちにはその流れを修正しようとする力も与えられているはずだわ」苦しげに、弁解するような口調でディオティーマは答える。
「今この場で中断させなくても、人びとはいつか必ず気づくはず……」
「あるいはそうかもしれない。多くの時間と数千の犠牲で少しずつ正しい方向に導く。それもひとつの選択肢ね。あなたはそれでいいのよ。それしかできないのだから。でも、私は違う。神を降神させて世界を変化させようという、あまりにも安易な行動を、一瞬でやめさせる事ができる。私にはその一時期の混乱も見逃す事はできない。……ユルナイルは二千年をかけて魔法文化を進化させたけれど、その技術をもってしても司天の渦を制御することはできなかった。その結果として、わずか数日の間に文明は崩壊し、長く苦しい時代が今も続いている。その圧倒的な魔法力を今の私たちが暴走させずに扱うことができるはずがない。この計画を許したなら、大きな後退の時代が後世までずっと続くにちがいないわ。だから、慢心より生まれたおろかな計画は、力の使い方を知らない連中にとって、大きな痛手として記憶される必要があるのよ。ユルナイルの残した降神の祭壇は、このジェルバのものが最期のひとつ。ここさえ破壊してしまえば、再び降神術を執り行えるようになるまでに千年はかかるでしょうから」

 反論するすべを失ったディオティーマの横で、腕を押さえていたユンが一歩前に出た。
「祭壇の破壊はサールティッツによって計画されたことなのですか?」ファラの狂気を遮るようにして、ユンは口を開いた。
 普段より動揺することのないこの男の顔に、苦痛の表情が浮かんでいる。
 数年の間、ファラの身近にいた自分が、彼女を追い詰めたものに気づかずにいたことは、自分の無力を感じさせるのに余りあることだった。せめてこの狂気が、ファラ個人でなく反ロンディニーン勢力による陰謀であったならば。そう思ったのだった。しかし、ユンのその願いは通じなかった。
「途中まではね。けれどこの先は、私が自分できめたことよ」
「あなたは利用されている。 あなたのしていることは自分で選んだように感じられても、結局は権力者たちの思惑に従ってのこと。湖水世界に恩恵をもたらすことには繋がらないはずです」
「たしかに彼らから見れば私も駒のひとつに過ぎないかもしれないわね でも、利用しているのは私のほう。連中はここまでするつもりなんてなかったはずよ。サールティッツは、ロンディニーンが降神術を成功させて更なる国力をつけるということが避けられるのなら、司天の渦を自分たちが操ることも一つの手段として考えていた。連中は、今でこそ遺跡の封印を謳っているけれど、いつ心変わりするとも知れない。……どのみち、降神の祭壇が残されている限り、私がここで破壊しなければ、これからも多くの血が無意味に流れるでしょうね。それを防ぐことは、祖国という拠り所を持ち、家族や友人に縛られている者には選ぶことができない道だわ。……でも、そんな心配ももう必要ないわね。あと数刻もすれば降神の祭壇は完全に破壊されるのだから」
「何を、してしまったと?」
 ユンはファラの犯したその過ちを、できることならすぐにでも清算したい思いだった。例えそれが自分の命を失う事になるほどだったとしてもである。
「神官どもから集めた祭器を開放したわ。もしも降神に成功したならば、拝火教カラ・ジズヤの二千年の歴史によって積み上げられた、信仰という名の醜い呪いが湧き出てくるでしょうね」

 ユンは腕の痛みを忘れたかのように呼吸を整えた。心中ではかつて感じたことのないほどの使命感を抱いていた。自分を傷つけた相手とはいえ、ファラの、長い孤独の末に陥った心の闇には同情の念しか感じなかった。彼女の心に宿った暗い炎を自分の意志の力で浄化したい。そう言う思いが彼の体と精神を奮い立たせた。自分が氷山から削りだされた一柱の彫刻の様に感じられた。
「……下にいる人間を救いたいというのならば、一刻も早くクエルテンたちの所へいくべきだと思うけど? このまま降神の儀が進むと、封じられていた異形の神も五百年の時を経て解き放たれてしまうのだから。下ではまだそのことに気づいていないわよ」
無感情ともいえるその言い様に、ディオティーマの中で怒りが湧いた。しかし、その感情に任せてファラを責めたなら、この友人を永遠に失うということが分かっていた。ディオティーマは尚も一縷の希望に賭けたかった。この美しい黒髪の魔女に、友人のままでいて欲しかった。
「まだ、血を流さずに止めることだってできるはずよ。ねぇファラ、今ならまだ間に合うわ。私たちのちからになって。今ならまだ」
「もう、手遅れよ。私は後にはひけない。この手は血で穢れたの。これからさきも、邪魔をする者に容赦はしない。あなたも覚悟を決めるのね」ファラは冷然と言い放った。
「だけど、だとしても、このまま行かせるわけにはいかない」
「そう? じゃあ、さっきみたいに私と戦うというの? それもいいかもしれないけれど、あなたたちは一刻も早く第五十三階層へ急がなければならないんじゃないかしら?」

 ディオティーマは、自分を何のためらいもなく突き殺そうとしたファラを考えた。あの時、ユフィムがいなければ自分は殺されていた。ファラは既に話の通じる相手ではなかった。血塗られた道を歩み始めていた。彼女の悲壮感を感じさせないその姿は、自己を信じるが故だろうか。ファラの超然とした姿とは反対に、ディオティーマは言いようのない哀しさに包まれた。「この人にはもう安らぎはない」というその恐ろしさにファラの孤独を思った。
「相手をしている時間はない、行こう」
 ユフィムがディオティーマの手を強く握った。
「でも、彼女を放っておくわけには……」
「ここで時間を浪費するわけには行かない。一刻も早くクエルテンに報せなればならない。ディティ、彼女と戦っても、得られるものなどないよ」
 そう言いながら、目の前に突き立てた大刀を引き抜いた。そのまま毛皮の鞘に差し入れる様子に、ファラはもはや身構える事もしなかった。あうんの呼吸のようにして両者は戦意を静めさせた。
「剣聖さまはさすがに賢明ね。下に行くのなら急ぐのね。急げばあるいは間に合うかもしれない」
ユフィムはユンとフィサリスに異存のないことを確認すると、ディオティーマを引張るようにして転送用魔方陣へと向かった。厚手の皮鎧に包まれた背中には冷たい汗が流れていた。もしも今、この黒髪の魔女の気が変わったならば、彼にも打つ手はなかった。いや、正直なところ、例え剣を構えた状態で対峙しても、相手の計り知れない力量の前には不安が残るだろう。心の中の緊張を感じ取っているかのように、刀身が強い光を放っている。しかし、二人がすれ違う瞬間にもファラは微動だにしなかった。
続いてその場を離れたのはフィサリスだった。フィサリスはただユンの様子を心配し、後ろ髪を惹かれるようにしてその場を後にした。ユンは皆に遅れて最後まで残っている。

「その手では、剣を握る事もできないはず」
 他の者の足音が聞こえなくなるとファラが呟いた。
「とっさに結界を張りました。痛みは一時的なものです」
「うそよ」表情を表に出さないファラに、ユンは苦笑した。
「これから世界を変えていこうとするあなたが、私のことを心配してくれるのですか?」
「心配をしているんじゃない。ただ、わからないだけ。怪我をしたままでは下へ行っても死ぬだけよ。何をしにいくのかしら」
「地下に戻る理由ですか……。それは、下には、友人が多く残っていますからね。それに」
「それに?」
「だれでも、愛する人の犯した過ちは自分の手で正したいと思うはず」
ファラは何のことかと眉をひねらせたが、やがて思い当たると「くん」と鼻を鳴らせた。
「馬鹿ね」
「そうかもしれない。でも、必ず止めてみせます。いつでも、あなたの心が揺れた時には、わたしがきっと」ユンはファラの眼を真直ぐに見つめた。
 視線が交差した時にファラの心中には微かな動揺が走った。彼女には、その感覚は言いようのない不安を抱えているように思えた。早くこの場を逃れたいという衝動に駆られて外へと歩き始めた。ユンが姿勢を変えて彼女の腕に触れようとする寸前に、ファラは駆け出した。
ユンはファラの姿が暗闇に覆われていくのをじっと見ていた。
「下へ行っても、死ぬだけ、……か」その姿が完全に消えると、さびしげにつぶやいた。
 両腕を隠している法衣を除けると、肘から肩にかけて裂けたような深い傷が数本走っていた。肉が見えるほどのその傷からは、ぶつぶつと血が滲み始めている。ユンは法衣の帯を解くと、止血が効くように慎重に包帯していった。


 緩衝の間は「星落し」の術で無残に破壊されていた。破局を絵に現したかのようなその壁面には、縦横に無数の亀裂が入り以前の美しさはなかった。ディオティーマは顔をしかめて前方へ意識を向けた。緩衝の回廊を抜けると、その先には第五十三階層とをつなぐ魔方陣がある。
 ファラによって地階からの脱出ルートは破壊されているものと思っていたが、意外なことに魔法陣は破壊されていなかった。しかし魔法陣から外れた周辺には、守りについていたシルヴァラントの紋章術師と数人の騎士が黒く焼けた無残な姿をさらしていた。おそらく転移と同時に火の玉の術が彼らを襲ったのだろう、消し炭のような塊は鎧すら纏っていない。まったく争った形跡もなく、ひと塊に焼かれていた。
「ひどい……」ユフィムとディオティーマは友人の遺体を前に絶句していた。
 ディオティーマは無駄と知りつつも犠牲者の息を確かめた。近づくと、先に見た回廊の遺体と同様に、死者の皮膚と肉は一瞬の高熱にほとんど炭化している状態であった。まもなく二人に追いついたフィサリスとユンは、惨状に顔をしかめつつも、すぐに魔法陣の調査を始めた。
 石片を取り除き灰をぬぐうと、薄闇の中に複雑な紋章が黒く浮かんだ。呪文の経路を辿っていく紋章術師たちは、やがてその作業に没頭していった。
「これも、ファラのやったとなのかしら。この魔法陣からはサールティッツの部隊も進入しているはずだから、あるいは彼らがやったのかもしれない」二人の紋章術師を手伝いながらディオティーマは未だに状況を受け入れられないでいた。
しかし、その言葉は自身でも信じることができないものだった。何か別の可能性を提示することで、他の誰かが「彼女ではない」と言ってくれることを望んだのだ。そうした期待はしかし、四人の心中に虚しく響いただけだった。
「……あれほどまでに強い力を、自分の信じることだけにしたがって行使していたら、いずれその罪を償わなければならないときがくる」ユフィムが小さくつぶやいた。
「自分の考えを信じているというだけで、こんなに残酷なことができるというの。……もしも、彼女がそうしなければならない何かに縛られているんだとしたら、私はそこから助けないといけないはずだわ。だってそうでしょう? 私たちのやろうとしていることは、本当は同じことなんだから」
「彼女の力は常人をはるかに超えるものだ。それだけに、自分の力を正しい方向へ導こうと考えること、自己を律する道も細く険しい。ファラは自分の力ができること、という誘惑に囚われて、進むべき道を見失っているんだ。彼女を取り戻そうとしたディティは正しいよ。少なくとも俺は君と同じ考えだ」
「だったら……」
「気持ちはわかるけれど、いまはもっと助けを必要としている人がいる。この魔法陣が使えるかどうかを調べて、早くしたに向かわなければ、ファラの選んだ手段も修正ができなくなってしまうからね」

 やがて魔法陣は機能を取り戻して、以前のような神秘的な青光りを取り戻していった。使用可能であることは作業を見守っていた者にもすぐにわかり、四人はいよいよ覚悟を決めるときがきたと、にわかに緊張を取り戻した。
「図られたかのように損傷が少ないわ」
フィサリスが乾いた声で言った。
「もしかすると私たちが下りたのを見計らって、破壊するつもりじゃないのかしら」
「ありえますが、そのことを心配してもしょうがない。とにかく、早く降りて召喚術を中止させないといけない」
 ユンが珍しく力強い口調で言った。そのまま彼が転送魔法の準備を始めたので、フィサリスも篭手をはめて、魔法陣の一角に座った。
「準備はいいですか?」
 ユンが聞いたのに皆がうなずいて、二人の紋章術師は詠唱を開始した。青白い光が四人の体を包み込んで、やがて紋章術師たちのはめた篭手から、エッセンスのようなまぶしい光が魔法陣へと流れ込んでいった。魔法陣はさらに激しい光を放ち始めて周囲の景色をあやふやなものに変えていった。次第にその不確かな視界がねじれるように歪み始めて、一瞬の無重力状態のあとにはパーティーの姿は地階へと転移した。

 ディオティーマは、腕の産毛が逆立てられるような感覚から解放されて、自分たちが瞬く間に地下へと運ばれたのを知った。それから彼女はこれまでと同じように、少しの視界のブレを感じつつも待機所のほうへ視線を向けた。無事であって欲しいという願いをこめてその方向をじっと見つめた。ぼんやりと映っていたものは、壁面に備え付けられた光輝球の光りで、次第にはっきりと浮かびあがった。
 人が四人立っている。深く面覆いをしたその姿は鎧に包まれて、その色は銅の錆びたような深い黄色をしていた。
「スキルニール?!」
 四人の獣騎士の驚いて身構える姿があった。
「そこでなにをしている!」
真っ先に動いたのはユンであった。両手を法衣に包んだまま、重心を下げて獣騎士の真ん中に駆け出していく。そのすぐあとに、大剣を抜き放ったユフィムが続いた。虚を突かれた獣騎士であったが、真中の一人は瞬間的に反応して帯剣に手を伸ばした。居合いで待ち構えた獣騎士であったが、ユンは剣の攻撃範囲に入る前に、隠した右手を騎士の方へ鋭く振った。「ヒュッ」と空気を切る音と、一瞬だけ壁面の光りを照り返して、四本の針が鎧の間接部へと吸いこまれた。そのうちの二本までは小さい金属音と共にはじかれたが、残りの二本は音もさせずに獣騎士の腕に突き刺さった。ユンはその効果を確かめるそぶりもなく、獣騎士の懐まで走りこんだ。獣騎士は剣を抜いて切り倒そうとした。しかし突き刺さった針は、彼の腕の腱を刺し貫いていて、思うように動かすことができなかった。獣騎士は装甲をはめた左手で相手を殴り倒そうとしたが、左手に力をこめるよりも早くに、装甲の隙間から突き上げられた短刀によって心臓を貫かれた。
 力を失った獣騎士の重い体に覆いかぶされて、ユンはそれに挟まれる形で自由を失った。それをチャンスと見て取った残りの獣騎士は、仲間の死体の元へと殺到した。先頭の獣騎士は血塗れているメイスをふりかざして、仲間の体ごと粉砕しようと、ユンを激しく打ちつけた。床のタイルが割れるほどの強烈な一撃が加えられて、死んだ騎士のマントの下から小さいうめき声がもれた。しかし、初めの一撃は致命傷を与えることはできなかったようで、ユンはその場を離れようと体を動かした。メイスの獣騎士は二撃目を与えようとすばやく武器を振り上げたが、攻撃することはできなかった。
 ユンの次に戦闘に加わったユフィムは、友人の無事を祈りつつも相手を退かせることに集中した。毛皮から抜き放った大刀を両手に、二人の元に一直線に向かう。メイスの獣騎士は攻撃から防御に構えを変えて、大刀の一撃に備えた。
 ユフィムの振る大刀は刀の腹を相手に向けて、周囲の埃が舞い飛ぶほどの風圧と共に相手に打ち付けられた。その勢いは、刀の背後に真空の渦が生み出されて大砲が発射されたかのような音を響かせた。獣騎士の持つメイスは大人の腕ほどもある直径のものだったが、攻撃を受け止めることはできずに、粘土のようにひしゃげた。獣騎士はそれを両手で支えることもできずに、そのまま彼の武器は銅色の鎧にめりこみ、主の体ごと壁際まで吹き飛ばした。
 仲間の獣騎士が倒されるのを見て、一人の騎士が迷宮の奥へと走り去った。それは逃げたのではなく、その場が防ぎきれないことを指揮者に伝えに走ったのだった。最後に残った獣騎士は、メイスを眼前に構えると、何事か祈りをささげた。

「立ち去れ!」ユフィムが短く叫んだ。
 獣騎士はその言葉を無視して、すばやく背後に回りこみ背後から二人の術師を狙った。フィサリスは獣騎士の動きを見る以前から、拘束の紋章術を詠唱していた。紋章術に関するわずかな知識からそのことを知ったディオティーマは、獣騎士の動きを遅らせることを考えた。彼女が意識を集中して周囲の魔力を集めると、携えたスタッフを中心にして数個の火の玉が現れた。突進してくる獣騎士に向けてスタッフを振ると、火球はまぶしい尾を引きながら相手の足元へ発射された。
 何の衝撃も生まない攻撃だったが、体が火に包まれるのを見て獣騎士は本能的にひるんでしまった。それは拘束の紋章術が発動するのに十分な時間を稼いだ。フィサリスの両手から生き物のように飛び離れた術符は、獣騎士を中心にした星型を形作って、くもの巣のような光りの網を放った。獣騎士は光の網に包まれて、衝撃と共に動きを止めた。

「追いましょう!」
 ユンは獣騎士の死体の下から這い出ると、すぐに待機所の奥へと走った。彼のあまりの性急さに他の者は思わず押し留めようとしたが、彼らが声を掛けるよりも早くに白い法衣姿は迷宮の暗がりに進んでいった。怪我の程度を心配したフィサリスが慌ててその後を追った。
 あとに残されたディオティーマとユフィムは躊躇をして顔を見合わせたが、そのまま放っておくわけにもいかず、引きずられるようにして後を追った。
 駆け抜けていく間に通った待機所は、その場所を警備していたロンディニーンの正騎士と魔導師の遺体が捨てられていた。何重にも掛けられていた防壁の紋章術はどれも槌撃によって壁面ごと破壊されている。
奥へ奥へと進むにつれて、冷たい回廊に喧騒が聞こえてきた。それらはすぐにあわただしい足音と怒号とに区別されて、降神の間がそうした争いの中心になっているようだった。知らせに走った獣騎士の姿はおろか、ユンとフィサリスも見当たらない。
 やがて二人は、降神の間まで曲がり角をひとつ挟んだところまで行き着いた。争いの気配はもやは隣に立つ人間の声までもかき消すほどで、鎧や剣が石壁にぶつかる振動までもが彼らの立っている処に伝わってきていた。それから何度か続いて爆発が起こった。地下の密閉された空間での爆発に、二人の鼓膜が悲鳴を上げる。
 ユフィムは身をかがめてディオティーマに近づいた。それから耳元でなにか話そうとしたが、彼女の頬が涙と汗とで煤にまみれているのに気がついて、手の平でそれをぬぐった。ディオティーマは息を乱して壁に体を預けていたが、手の平の温かさを感じようと頬を乗せた。
「ディティ、離れるなよ」
 ディオティーマは苦しげにうなづいた。
「なによりも、まず、降神の儀を、中断させないと……」
「わかってる」
 ユフィムは壁面に映る人影と、剣戟などの音に耳を澄ませながら、ディオティーマの落ち着くのを待った。それから彼女の腕を引いて奥へと進んだ。
 コロシアムのように円形状に造られた大広間は、爆風と閃光の嵐だった。その中央では、空間の歪にも見える黒い何かが、時折鋭い光彩を放ちながら成長していた。それは巨大な扉であった。まだ不安定なそれは、何かが進入しようとするたびに光彩を放って震えるのだった。
 煙の隙間からクイットゥとネイスが見えた。二人とも降神の儀に夢中で、周囲から隔絶されているかのように一心不乱に身を揺すりながら術歌を唱えている。数名の神官がその周囲で彼らを助けていて、何人かの者は鮮血に沈んだまま倒れて動かない。まったく無防備な彼らがその程度の死傷者で済んでいることは、異様な光景に見えた。まるで周囲の人間たちの争いを神へ捧げているように見えるのだ。
祭壇の周囲では獣と化した人間たちが死力を尽くして争っている。ロンディニーンの者たちは大広間の奥へと押さえ込まれて、中央ではクエルテンが術歌を詠唱し、彼の操る神か悪魔かの存在が頭上に構えていた。クエルテンの戦い、それはディオティーマのものとはまるで違う、「動」の戦いだった。頭上の神は色形こそディオティーマのものと似ていたが、彼の操るものは人の上半身を形作って、両腕は途中から蜥蜴の口のように変形している。
 その腕が広間の中を所狭しと泳いで、魔導師や獣騎士の動きを封じるのだった。術歌を詠唱しつつも剣で応戦しているクエルテンは、血の涙を流していた。それは沸騰した血が体の外へと流れ出そうとしているかのように、彼の動きにあわせて周囲に散った。
 クエルテンの周囲には何名かの騎士と紋章術師が残っていた。その背後には傷ついて戦うことの出来なくなったものがいるようだった。
 祭壇近くの最も争いの激しい場所にヨナの姿が見えた。ヨナは攻撃陣の先頭で何名かの紋章術師と同時に戦っていたが、緩急の激しい動きで相手の中に飛び込むと、そのうちの一人に止めを刺した。紋章術師があわてて後退した時に、ヨナの元に一人の獣騎士が近づいていった。それは先ほど連絡に走った者に違いなかった。獣騎士が何事かつぶやくと、ヨナは大広間の入り口へと視線を向けた。
「スキルニール!」
2007/06/09(Sat)09:10:54 公開 / 猫耳秋風
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■作者からのメッセージ
永らく更新の止まっていた作品の第7話です。
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