- 『黒羽根の福音(少し修正)』 作者:蒼月 / リアル・現代 未分類
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全角18823.5文字
容量37647 bytes
原稿用紙約58.5枚
自分の存在意義を見出せず、生きることに絶望した女子高生、聖奈(セナ)。そんな彼女の前に現れたのは、風と共に来る不思議な少年だった。
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その時に見下ろした、白里の夕暮れはとても美しかった。
白や、灰色、茶色のレンガ造りが互いに光を跳ね返しては影のアートを目下に縫い付けるビル群。まるで今にも何か誕生してきそうな神秘的な輝きを放っているオレンジの海。
下界に蔓延る都会の喧騒など想像もできない。そこにあるのは一枚の風景画だった。
もう、これで見納め。冷たい秋風がそう呟きながら、わたしの髪を撫でた。うん、そう。見納め。
いつもより空が近いここから遠くを見れば、世界はどこまでも続いていて、とても綺麗で。
けれどわたしのすぐ近くを見れば、ほら。
黒ずんだひびが入っていて、絶望色のグラデーションで色づくコンクリの壁。それに緑のビニルでカバーされてるけど、このフェンスの針金なんてもうへろへろ。
明日に希望を持てる人は、こんなの見てもポジティブなんとかっていう奴で気にも留めないんだろう。
けれどわたしに――――――明日はもう来ない。
わたしの体操靴のつま先の下は、空気が漂っているだけで、10メートルくらい下に真っ白い石畳が見える。
冷めた目でそれを見据えると、不意にわたしは制服の胸ポケットについている四角いプレートを取り上げた。
白里第一高校 "白井 聖奈"(シライ セナ)
もう二度と呼ばれる事のない名前なんかに、価値なんて無い。元より、この名をもらった時からすでにわたしに価値なんて無かった。わたしはそれを投げ捨てた。
思い出さなくていい記憶ばかりがフラッシュバックする。涙が頬を伝った……かどうかはわからない。
わたしはその時すでに、屋上の淵を――――死への踏切を踏んでしまっていたから。
体が宙に投げ出される刹那の無重力の中、私は唇を微かに動かした。
『サヨナラ』
そこに誰もいるはずがない。いたとしても、目の端に飛び込んだ一羽のカラス。これは、他ならない「わたし」へのお別れの言葉。
別に怖くも悲しくもない。ただ胸の内に灯るのは、来世への希望の光だけ。
わたしの体は、とうとう重力に捕らわれた。
カウントダウンの始まり。
5……4……3……2……―――1……。
視点がぐるりと回転し、直後に鈍い衝撃。それから土の匂い。
あれ――――? 予想外。もっと痛いかと思ってたんだけど。
こんな物ならもっと早く……もっと早くにこうすれば――――――
ぼんやりしていく視界の中、最後に見えたのは真っ黒くなった右手の平。いや、なんだかふわふわツルツルした感触が………羽……?
「………」
対象に興味が出たためか、再び目の焦点が合ってきた。いや、それは幾らなんでもおかしい。
普通死に際の人間が、何か別の物に目を引かれたからと言って冷静にその対象を判断できるだろうか。普通ならば、そう……激痛でそんな事……
(痛くない……)
あまりの激痛に感覚その物が麻痺しているのか。あるいは、既に即死していて今の思考は俗に言う霊体という物が作り出しているのだろうか。
地面に放埓と身を放ったまま呆然としていると、自分の背中が妙に陰った気がした。
「よかった……。無事みたいだね」
明快なやや高めの声がして、思わず聖奈はガバリと身を起こしてそちらを見た。そこに立っていたのは、まだあどけない顔をした中学生くらいの少年。ワイシャツに下が学ランなのを見ると、やはりどこかの中学生だろうか。
「え……」
聖奈は目の前の少年を凝視したまま固まった。今さっきの瞬間に何が起きたのかは分からないが、まさか彼が高速で落下する自分を助けたというのだろうか。
まだ幼いその体格からすると、明らかに納得し難い。
ふわりと乾いた冷たさを含む風が通り過ぎ、その黒曜の様な艶のある髪が揺れる。少年は、笑窪がきっちり分かるほどの子供っぽい笑みを浮かべた。
あまりに突然の事に聖奈は黙りこくるが、やがて少年に釣られてはにかむ様に微笑む。もとい、実際の所は三途の川へ行く事すらも失敗した自分への嘲笑。
残暑の残る初秋。それは、秋風と共に訪れた不思議な出会いだった。
※
明日は来ない。そう自分の心に決めてから、一体どれだけの時間が流れただろう。明日どころか、明後日、明々後日、……とうとうもうすぐで一月が過ぎる。
その間にあったのは、味気も素っ気もない学校生活。私に言わせると、ただロボットになって新しいプログラムを取り込みに行くだけの場所。いや、私は自分の家でさえロボットでいる様なものかもしれない。むしろ、そうなれたらどんなに楽なことか―――――。
このままでは何も変わらないじゃない。"あの"時私は変えようとしたのに。確かに変えようとしたのに……。
"よかった……。無事みたいだね"
ふと、夕陽を反射して光る黒髪が脳裏を過ぎった。それともう一つ、脳が沸騰してしまいそうな苛立ちが――――
「せーな!」
聞き覚えのあり過ぎる明るい呼び声と共に、頭上からバチンと衝撃が降ってきた。
私は特に視線を逸らすことなく、ゆっくりと振り返る。黒髪のポニーテールと、茶ぶちの眼鏡を思い浮かべながら。
「何窓見てボーっとしてんの? 次、数学だよ?」
思い浮かべたイメージそのままの少女がそこにいた。右手に持っているのは、おそらくこれがさっき私の頭に降ってきた物であろう数学の教科書。
「二年の時、センターで数学使うから絶対落とせないって言ってたでしょ。 最近やたら保健室行ったりが続いてるけど、大丈夫なの?」
「……」
私は無言で頷いた。
彼女、荻野美佳瑠(オギノ ミカル)は、小中高と私と同じ経歴を辿る、唯一の友人だった。正直言って、何故彼女がまだ私の傍にいてくれているのかさっぱりわからない。
ほんの一年前くらい、私は校内における全ての"繋がり"を断ち切ったはずなのに。
別に私が誰かの悪口を言ったわけでもなく、目立って悪い事をしたわけでもない。ただ壁を作った。
それだけの事で、高校から少し馴れ初め程度に付き合った友人も、また中学から一緒だった友人さえも私を案じる事無く簡単に離れていった。
私の経験や予想から言えば、その理由は単純。"異端者"と友人である事で自分に降りかかる異端視を免れるため。
良く知る友人が多かった小中学ならまだしも、ほとんど見ず知らずの学生がまみえる高校で、異端に寄り添う事はそのまま"異端"としてのレッテルを貼られる事になりかねない。
自己防衛のために繋がりを捨てる事はなんと容易い、脆い物なんだろう。
心が凍った私にとっては別に中傷でもなんでもなかった。けれど、人の心の酷く汚い部分の存在を実感してしまった衝撃は幾らかあったものだ。
「……ほら、もう行かないと!」
それでも結局、目の前で微笑む彼女だけは何故か断ち切ることができなかった。
「……ごめん、昨日のまだ引き摺ってるみたいですごくだるいんだ。私、これでもう早退するよ」
「聖奈……」
美佳瑠は納得して、先生に伝えておく、と言いながら全然納得出来ていないしかめっ面で教室を出て行った。
彼女ももうそろそろきっと、私の身勝手ぶりに苛立ちを覚え始めている頃だろう。それでいいんだ。私は彼女の背中を見送りながら、静かに席を立った。
私が人との繋がり――――絆を捨てたいと願う理由はただ一つ。笑顔でいる事に疲れてしまったから。
※
私はまた、"あの時の"場所に膝を抱えて座っていた。
この古びた五階建てアパートは、もう一年と少し前くらいから私にとっての心の拠り所。
以前ここに来た時よりも時間はいくらか早いため明るかったが、絶望を湛えるコンクリの壁はかの時とまったく変わらなかった。
私は学校から出てからずっとこの場所にいた。別に家が無いわけでもない。ただ――――――帰りたくない…………。
一人になる事でようやく外せる仮面の下は、もうすでに雨模様だった。
「私の帰る場所は……いったいどこにあるっていうの………?」
流せど流せど悲哀の奔流はまた新たに生み出されるばかり。
何度この制服の裾を濡らしたか、何度夜眠る前に枕を濡らしたか。
こうして何度、何リットルも涙を流している内に、笑顔でいる事よりも泣いている事の方が楽に思えるようにさえなっていた。
こんな私では、きっと周りに迷惑をかけてしまうだろう。それなら周りが私を嫌って離れていく前に、私自らが離れていく方がずっといい。
学校では常に強がるために氷の仮面をつけているけれど、本当の"私"はこんなにも弱い。
ああ、そうだ。私が死にたいと思い始めたのは、この事実に気づいてしまった時だった。
「………」
私は頬を伝う涙を袖で拭うと、立ち上がって大きく歪んだフェンスの下を覗いた。赤茶色のアスファルトと、歩道と隔てるフェンスに沿って生い茂る植林。アスファルトに落ちてさえいれば、あの時でもうこんな風に泣く事はなかったのに。
その時私の脳裏に浮かんだのは、あの黒髪の少年だった。方法はわからないが私を助け、そして呆然とする私の前からさっさと姿を消してしまったあの12、3歳くらいの少年。
食い入る様に真下を見つめていたため、私は背後に忽然と現れた人影にさえ気づけなかった。
「駄目だよ。今度は落っこちる前に止めるからね」
聞き覚えのある、明快でやや高めの声。後ろを振り返れば案の定……
「君は……」
いつの間に現れたのか、自分より3メートルくらい後ろに、かの脳裏に描かれた少年が上目遣いでこちらを睨むように立っていた。
あの時と寸分も違いない、真っ白いワイシャツと学ランの姿で。
思いすぎて現実になる、とは良く聞くけれど、ここまでのタイミングで、それもこんな辺ぴな場所でそれが起こるだろうか。
疑問は多々あるが、まず真っ先に聞きたい事が何よりも優先順位に立った。
「なんで……あの時私を助けたの?」
私の問いに少年は睨むのを止め、今度は困った顔をして腕を組んだ。
「なんでって……普通助けない?」
「……余計なお世話」
今の自分は相当嫌な人間だ。わかっているけれど、こう言えばこの少年も、私に呆れて一切関わろうとしなくなるかもしれない。
「まぁ、そう思うだろうね」
少年はにっこり微笑むと、失礼、と言って私の隣に寄り掛かった。至近距離だからか、さっき見た時よりも身長が高く感じる。
と言っても、同年代の女子の中で中の上の私の肩くらいだけど。
それよりもどうやら、今の言葉によると彼はあれが自殺未遂だったとすでに気づいているらしい。ならなおさら……
「英雄気取りのつもり?」
「まさか。だってボク、あの時のこと公にしてないよ?」
確かに新聞に載っていた覚えもないし。というか載ってればもう学校ぐるみで大騒ぎになるに違いない。じゃあなんで、と私が続けようとすると、彼はそれを遮るように言葉を繋げた。
「待った。順番的に、今度はボクが質問する番だよ」
そんなルール誰がいつの間に決めたのか、と突っ込みたくなったけれど、とりあえず彼にも質問があるのなら……と私は無言で権利を譲る。
彼はその垂れ目で大きい目をすぅと眇めると、口を真横に引き結んだ。
「どうして死のうと思ってるの?」
幾ばくかは想像のついていた質問。けれど、私だっておいそれと簡単に喋る気は無い。そもそも名前も知らない見ず知らずの人にプライベートを語るのは逆におかしいでしょう。
私はそのまま沈黙した。彼もまた、私の返事があるまでは何も言うつもりはないらしく、ただただ真摯にこちらを見つめていた。
わからない。この少年はなんで私に構うの? 見ず知らずの、こんなどこにでも居そうな女なんて放っておけばいいのに。
まるで、よくドラマや映画で見る、クラスや職場に一人はいる正義の味方的存在なんだろうか、彼は。
「あのさ、一つ聞いていい?」
少年は、フェンスを後ろ手に押し、その勢いでそこから離れると背中越しに言った。
「聖奈は、本当にそれでいいの?」
「………!」
冷たい雲の息と、飛来した赤い斑点模様の木の葉に私の言葉は阻まれた。耳では木の葉がからからと転がる音も聞こえるけれど、砂粒も混じっていて目が開けられない。
「どうして私の名前を……!?」
ようやく風が止み、目を開いたその時、すでにそこには誰もいなかった。あちこち視線を巡らせて見ても、人影らしい物すらない。
秋風の名残がサワサワと心地よい音を立てる中、設置されたプレハブ型自家発電機の重低音だけが私を現実に引き戻した。
「夢……?」
そんな……そんなはずはない。今さっきの事だから何もかもがすぐに思い出せる。格好も、声も、微かに香った新緑の様な香りも。
何故私の名前を知っていたのか。そして何故、あんな的を射た事が私に言えたのか。まるで心を見透かされていたみたいだった。
「あ……」
左見右見していた私の視界に、黒い小さな物体が入った。それはちょうどさっき、かの少年が現れた場所。
「また……羽……」
それは、一枚の黒い羽―――――。気のせいに決まっていると思うけれど、その時なんだか一瞬。ほんの一瞬、何かが頭の中で小爆発を引き起こした様な感じがした。
なんだろう。哀しい様な、嬉しい様な、憤りの様な……。とにかくあの少年の姿が、目に焼きついて離れなかった。
※
あの少年と二回目に会った日の翌日、私は夢を見た。
別に夢を見ること自体私にとって珍しいわけではないけれど、暗い、海の底の様な暗さから始まるいつものとは違う。
久々に見た、明るい光のましろから始まる夢――――――。
――――木漏れ日が地面に縫い付けられた道を女の子が歩いていた。
オレンジのボンボンが二つずつ揺れるツインテールと、黄色の水玉模様の涼しげなワンピース。
辺りに鬱蒼と茂る木々の根元に珍しい草花を見つめてはにこりと笑っている………これは……そう、私だ。
そしてこの場所は、きっと"聡見ヶ丘記念公園"。車で30分くらい走った所にある、広大な森を包む大きな公園。
確か、まだ私が幼い時に、両親と弟の家族四人でピクニックに行ったのを覚えている。
あの時はまだ、お父さんもお母さんも仲が良くて、弟も笑顔がいっぱいの普通の子で………楽しかったなぁ。
それにしても、なぜ、何故今さらこんな過去の幸福が夢に出てくるのだろう? あの時は見なかったけれど、これは走馬灯という物の一種なのだろうか。
不意に、夢の中の小さな私が何かを見つけて走りだした。
あれ? ここはあまり覚えてない。この先には何があったんだっけ………
夢の中だからか私に実体はなく、ただ言葉を発し五感で雰囲気を感じるだけ。
私は"私"の先にある物を見ようと、そして少しでも記憶の中を探してみようと意識を集中した。その瞬間……
………っ!?
急に遠くで聞こえていた人の声や車の音が一切聞こえなくなり、代わりに葉擦れや鳥の囀りのみが流れ込む。
そして脳内にたくさんのバラバラに切り離された映像が、ストロボの様に再生された。いきなりの衝動に、目の前は真っ白。ただ脳だけが、何かを見て、聞いている感じがした。
まっ黒。葉擦れの音。散らばる小さな黒い羽根。赤く染みた地面。ゆっくりと苦しげに呼吸を繰り返す、小さな小さな生き物。
……それから最後に、漆黒の髪の――――――。
『聖奈』
「………ッ!」
そこで夢にもたらされた追憶はおしまい。私は、急に現実に何かに呼ばれた気がして目を見開いた。
「な……に……今の……?」
あまりにもリアルな夢だった。まるで本当にそこでサワサワという音を聞き、緑の空気を吸っている感じ。
けれど落ち着いて自分の身の回りを見れば、ベランダにつながる窓から見える東雲と、その僅かな光に照らされた木造の机、本棚、浅葱色のカーテン。
間違いなく私の部屋以外のどこでもない。
(なんだったの………?)
それからも毎晩毎晩のように、私は同じ映像の流れる夢を見続けた。
時には小さな私が息を切らして走っていく所で止まり、時には草花を見つめて微笑む所までで終わり……。
けれどいずれも、必ず夢が終わって目覚めた時は早朝。
真夜中に起こされてしまうような事は一切なかったので、私はまぁいいかと普通に見過ごしていた。別に悪い夢でもないし、と。
しかし、夢だけに留まらず丁度夢の連鎖が始まってから一週間くらいの時、ついに不思議は現実にも現れ出した。
普段の昼休み、私はいつも美佳瑠と一緒に教室で昼食をとっている。
ところがその日は、突然美佳瑠が無言で私を外へ連れ出した。行った先は、校舎から中庭へと続くスロープ。その場所に到着するまで、美佳瑠は結局無言のままだった。
「美佳瑠……?」
鞄を持ったまま背を向けて立っている美佳瑠に私が呼びかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
私は、驚いて目を見開く。美佳瑠は堅く唇を引き結んで、そして目には涙をいっぱい溜めていたのだ。
「……聖奈。……お願い、今からあたしがする質問に、本当の事だけを答えて……!」
震えた声で美佳瑠は言った。私は、特に何も考えず、ただただ深く頷いた。
まさか……というよりやはり、私のせいで美佳瑠の方にも偏見の目が向けられだしてしまっているのか。
そんな絶望的考えのみが頭をよぎった。
しかし実際に彼女が語ったのは、そんなことよりももっと、もっと驚くべきことだった。
夢を見た―――――と。
それも、美佳瑠の説明するその内容の中には、私の記憶の中にある光景と同じものが幾つもあったのだ。
灰色で所々黒ずんだ壁があって、一部が大きく折れ曲がった緑のフェンスに囲まれていて、私がそこで膝を抱えながら泣いている。
しばらくすると、その中の私は立ち上がり、フェンスの歪んだ所から飛び降りようとするらしい。音声はまったくなく、夢はいつもそこで途切れる、と。
そう、"いつも"。美佳瑠はその同じ夢を、ここ最近毎日の様に見ていたらしい。止めようとしても体が動かず、声も出せない中で。
でも学校で私に直接言うのはいくらなんでも失礼だし、傷つくといけないからとずっと口には出さなかった。
美佳瑠はそこまで言うと、私に小さく謝りながら制服の袖で涙を拭った。
「そんなはずないとは思ってるよ?……ただ最近……ううん去年くらいから、聖奈ずっとおかしかったから………」
「………」
何も言い返せるはずがなかった。美佳瑠の夢の内容は、まさしく予知夢と同じくらい正確な内容。
「あたしは、中学の時聖奈にいっぱい助けてもらったんだし、遠慮なんていらないんだよ?」
返答に困っている私の心境を察したのか否か、美佳瑠はいつもの明るい声で言った。
「遠慮って……?」
「あたしは、聖奈がどんなに変わろうと絶対に嫌いにはならない。それだけは覚えておいてってこと」
「………!」
まだ少し潤んだ笑顔でいる美佳瑠に、ますます私は何も言えなくなった。なんていうことだろう。美佳瑠はすでに、とっくに私の行動の意を察していた……?
私はその時、心の底から今まで無意味に自分の身勝手で彼女を突き放してきた事を恥じた。
言っても分かるはずがない、と。人事として捉えた物言いをされるのなら誰にも言うまい、と。
別にそうした自分の考えが間違っていたと思うわけではない。けれど、そうする事で困る者がいるとは考えてなかった。
私が自ら孤立する環境を作る事で、周りは皆離れていくだけだ。一人、また一人と、簡単に。
けれど彼女だけは、離れずにいた。いや、離れずにいてくれたんだ。
「美佳瑠……ごめん」
そうだ、もう心に決めよう。自殺しようとした、なんて言えないけど、それでもこれだけ案じてくれてる彼女をこれ以上突っ撥ねるのだけは、もうやめよう。
この日の昼食の時、私は実に一年ぶりに自分から美佳瑠に話しかけた。
いきなり以前の様に戻っても虫が良過ぎるし、それにすぐにはできない。でも美佳瑠は、そこの所も理解してくれていた。
だからこそ私は、全てを語る事もすぐに決断できた。
自分が看護士になろうと思っていること。
その夢こそが、自分の全てを壊してしまったこと――――。
五時間目の予鈴がなる直前、去り際に美佳瑠は言った。
"そういえば言い忘れてたけど、夢の中でいつも最後の方になると黒髪の男の子が出てくるんだよ"
※
その日の夢は、場所は変わらないけど少しだけいつもと違った。どちらかと言えばそれは、悪い夢……なのかもしれない。
淡いオレンジの雲が伸びる空の下で、小さな私は泣いていた。
大きくしゃくりを上げながら泣く私を、今より少し若い父が必死で慰めていた。
父の手には、大きな白いドーム型の鳥かごが。そしてその中には――――――何も、いない?
確かにかごはガタガタ音を立てながら揺れている。それに時折、悲しそうなか細い何かの鳴き声が聞こえる。
それなのに、鳥かごを見ると格子の間からそのまま向こうの草むらが見える。
何がなんだかわからないまま、今宵の夢はそこで終わった。
目が覚めればやっぱりそこは、いつもと変わらない自分の部屋で――――――否。
一つだけ違った。それは、ベランダの中心に落ちている何か。
私はベッドから立ってガラリを窓を開けた。さすがに朝はパジャマのみでは寒く、軽く身震いしながらベランダへ一歩踏み出す。
そして、黙って落ちていた物を手の平に乗せる。しばらくの間は、ただ呆然とそれを見つめていた。
しかし間もなくして私の脳裏に、唐突に、本当に唐突にあの最初の夢の続きが再生された。
「……!! ………もしかして……」
私は、すぐに部屋の中に戻ると自分の机の一番下の引き出しを引っ張り、その中にたくさん詰め込んである教科書やらアルバム類をまさぐった。
その中から私が取り出したのは、表紙に愛らしい動物の絵が描かれた、一冊の古びた手帳。
起きた時刻は五時。
適当に選んだ服を着て、その上に去年買った黒いコートを羽織り、そのポケットにさっきベランダで拾った物を突っ込む。
髪は適当にくしで解かし、手近にあったヘアゴムで高く一つに結った。
家族もまだ起きていない時間、私は静かに家を飛び出した。
ここまで起きて偶然なわけはない。
私は、何ヶ月かぶりに"絶望"という単語を脳の片隅へ追いやった。別に昨日の美佳瑠の事だけがその要因じゃない。
私は、幸せとか死とか関係無しに、ある一つの事に頭が行ってしまっていた。
最低限に必要な物のみを詰め込んだショルダーバックを肩に引っ掛け、私は駅に向かって走り続けた。
※
約20分後、私が立っていたのは、聡見ヶ丘記念公園。当然まだ開園していなかったが、元々ここは入園料無料であるし、入るのは門の隙間を通れば簡単だった。
花形の池と、その中心の噴水、その周りにベンチやら花壇が並ぶ広場よりもまだ奥。私はひたすらに、新緑の香りと、木漏れ日の絨毯を捜し歩いた。
隣を小さな湧き水が流れる小道の先。宿木やらアケビの木が絡み合って子供の頃には少し怖かったアーチの先。
私の足は、不意に止まった。その先にあるのは、一つの影。
「……あれ、今度はそっちから来たんだね」
影は、嬉しそうな口調でそう言うと振り返った。一歩進んだ事で朝日に照らされたその顔は、一月前、それから昨日見たばかりのもの。
前回とその前はわけもあって仏頂面でいた私は、この時始めて彼の前で表情をほころばせた。
「別にあなたに会いに来たわけじゃないけど、でも―――」
易々と、名乗ってもいないのに私の名を呼んでみせる。そして、現れた時にはいつも非現実的な事が起きる。
それにあの夢の内容。ベランダに落ちていた物。
ここまでの事が起きているのなら、今私の頭の中にある確信めいた疑問を試す価値もあるはずだ。
バックから犬の絵柄の手帳を取り出し、そのページをパラパラとめくる。最後の方のページ。そこには一枚の少し風化した写真が挟んであった。
「やっぱり、とは思った」
言いながら私は、ゆっくりとそれを少年に見えるよう掲示した。写っていたのは、黒い小さなカラスと笑顔の私。
少年は一瞬信じられないという様に目を見開き、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「それをボクに見せたってことは、ボクの名前も思い出したってこと?」
そう、私はこの少年をずっと昔から知っていた。
「もちろん。―――……フウ。」
名前は『風』(フウ)。傷が治って、どこまでも風になって飛んでいけるように。幼い私がそう願いを込めてつけた名前。
そして――――――私は、コートのポケットに入れておいた物を取り出した。
朝日に照らされてきらりと光ったそれは、小さな黒い羽根。
フウは、未だ驚いた表情で羽根と私の顔を交互に見るようにすると、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「ずっと前のことだし、忘れちゃってて当然だと思ってた。それに、まさか12年前のカラスが人に化けて出てきた、なんて信じてくれるとはね」
「幽霊とかオカルティックな番組は好きだし、この場合ありえないより素敵だなぁ、って思う方が先行するかな。私は」
フウはにっこりと微笑んだ。それから一拍子おいて、突然強い風が吹き私は思わず目を覆った。
ザワザワと葉の擦れ合う音が残る中、恐る恐る腕の間から覗くと……
「フウ……」
一羽のカラスが、地べたからじっとこちらを見つめていた。首には緑の細いリボン、それと右の足にはやや崩れ気味な包帯が。
私は、その場にしゃがみ込んでそのリボンをよく見た。間違いない。これも私がつけた物。
風が通り過ぎると共に黒髪の少年は消えた。いや、この小さなカラスこそがあの少年だったんだ。
12年前のあの日――――あの夢の先に私が見つけたのは、一羽の黒い鳥。足に傷を負っていて飛びたてなくなった、まだヒナから成長したばかりのカラスだった。
不吉だと言う母と、この子の運命なのだから仕方がないと言う母の反対を押し切り、私はそのままそのカラスを連れ帰る事にした。
最初は警戒していて危なかったけれど、時間が経つに連れて抵抗する力も無くなったらしく、その隙に私は持ってたタオルでカラスを包んだ。
それから半年くらいは私が主に看病と世話をし、もう治ってすっかり飛ぶ元気が出てきた頃、私は涙ながらに彼とお別れしたんだ。この公園で……
その時のカラスがフウだった。経緯と方法はよくわからないけれど、つまりあの少年はフウが姿を変えて現れたもの、という事になる。
正直自分でも、この憶測を信じて確認のためにわざわざここまで訪れた事が信じられない。
けれどその裏付けになる理由も、私はすでに思い当たっていた。
"聖奈は本当にそれでいいの?"
この問いにあの時私は答えられなかった。いや、むしろ私が答えられるはずが無いと知っていたから、彼の方からすぐにいなくなったんだろう。
でも今ならそれに答えられる気が少しでもしたから。
こちらも夢を頼りに辿ってきたという事を考えれば前者とあまり変わらないけれど、確実な私の心境の変化が何よりもの原動力なったという点は違う。
「聖奈……」
気がつくとフウは、またあの少年の姿になっていた。しかし今度私を見るその目は、真っ直ぐで、とても悲しそうで……。
「まぁ、当たり前だけどボクの体はとっくの昔に無くなってて……つまり霊なんだけど、死んでからずっとこの場所か白里の町を彷徨ってたんだよね」
「成仏は……?」
「さぁ? だってカラスにお経は存在しないし……。いや、そんなことよりも、ちょっと話聞いてくれるかな?」
カラスに駄目だしされた、とか仕様もない事で内心少し落ち込みながら私は頷いた。
彼はそれから、少しばかり楽しそうに、そして時折表情を曇らせつつ色々な事を話して聞かせてくれた。
死んでから一年後に風を操ったりできる様になった事。更に五年後には人の姿に変身できる様になった事。そして今では実体化ができる様になった、と。
非現実的な話の中にも、実体化が叶う様になってからというもの街のあちこちを回っていたので、今白里については自分が一番詳しい、と豪語する様な人間的な面を見せる話題もあったので、なんだかカラスという認識が薄れるのを感じた。
「まぁ、そんなこんなで聖奈の近くとかにもよくいたりしたわけだけど……」
フウは、私の顔をちらりと窺ってから、慌ててもちろんカラスの姿で、と付け足した。別に人間の姿でもフウはカラスだし、ストーカーされてるなんて思いはしないのに、と内心私は笑った。
「正直、まさか君が自分から死のうとする時が来るなんて思わなかった……」
フウが良く知ってるのは、まだ小学校に入ったばかりの希望に満ち満ちた私。そう思うのも無理は無いだろう。
「今、よく世間でニュースに取り上げられたりしてるのは学校問題での自殺だけど、聖奈は違う。そうでしょ?」
やはり、私の近くにいた、というのならそのくらいの事は知ってるんだ。
学校問題の方は実際の所、実に充実していた。むしろ、その大元となる問題が起きたから、今の学校生活ができあがっている。
大元となる問題――――――それは、家庭の方にあった。
でも、私は家族の誰が悪いとか言うつもりはない。一番悪いのは……不幸の引き金となったのは、私だと知っているから。
進学高に入って一年生の秋、私は以前から抱いていた将来の進路について始めて両親に打ち明けた。看護士になりたい、と。
しかし、家はあまり裕福ではないため、当然ながら資金の問題が出てくるわけで。私は頑張ってどうにか国立に入るから、と親を納得させた。
それからはお父さんもお母さんも、私を応援してくれている、と思っていた。あの夜までは……
夜遅くまで勉強していた私は、不意に下の階が騒がしい事に気づき、階段の踊り場から下を覗いた。そこで聞こえてきたのは、私の大学進学に関係した激しい口論。
どうやら口論は今に始まった事ではなく、私が塾に通いだしてからというもの、毎日の様に私の知らない所でこうした事が起きていたらしい。
二人の間に飛び交う言葉は、主にお金、大学、生活、そして私の名前。
あの子が大学進学なんて言い出さなければ。私は中でもあの母の言葉が耳に焼き付いて離れない。
その後日から、母は何かとヒステリックになり、私より三つ下の弟の成績不振をしょっちゅう罵倒する様になった。しかも何かと私を引き合いに出す始末。
おかげで弟からは疎まれ、最近では両親すらも余所余所しく、私を見る目が淡々としていて冷たい。それはそうか、離婚話が出ているのだから……。
私がいるから………私がいるから家族がこんな事になったんだ…………。いらないんだ。存在自体がいらないんだ。
それならいっその事、消えていなくなってしまいたい………!
いつしかこんな風に考え出していたのが、私を死に掻き立てる要因だった。
けれど、少なくとも今この時に私は死のうとなんて思っていない。一月前のあの時はちゃんとその衝動となる理由もあった。
以前にも何度も衝動には駆られたけど、その時のは特に強いものだった。母は少し前から私と弟が知る範囲で浮気をしており、その相手に電話で私の悪口を採算言っているのを聞いてしまったのだ。
「自分のせいだから仕方ないって割り切ってはいたけど……けど………!」
浮気は家庭を壊す原因となりうるのだから、できるのならば私が止めたい。けれど母の浮気の原因は私にあるのだから……と考えが無限ループするばかりで集束してくれない。
それにもし誰のせいだと思ってるの、なんて言われたら言い返せそうもない。
「あのさ、聖奈。そこ、割り切るところじゃないと思うよ?」
「え……?」
「あ、いや……。ボクも聖奈と同じでさ、今まで何度も聖奈と接触しようと、というか説得しようとはしてたんだけど言えなかったっていうか……。ほら、だってカラスじゃん? 人間の深いとこについては何にも知らないボクがなんか偉そうに説得なんてできるわけないし、仮にも姿は年下だから正体言わなくても腹立つ……でしょ?」
急にフウはやたら塩らしくなった。姿が中学生なら、心もちょうど上下関係の出始める中学生なのだろうか。
「別にそうでもないけど……。じゃあその理由がなかったらもっとずっと前に私の前に現れてたの?」
「かもね。ていうか聖奈があの時落っこちようとしたのがある意味接触のチャンスだったっていうか……アハハ、こういうの本末転倒って言うんだよね」
そう言えばさっきフウが話の中で、一度接触した相手と、その人物と強いつながりを持つ人物までの二人なら夢を少し操作する事も可能だ、と言っていた。
美佳瑠が私の夢を見たのも、きっとフウが自分じゃどうにもできないから、と彼女に私の事を託そうとしたに違いない。
「まぁ、聖奈が気にしないっていうなら、もう一つカラスの戯れ言を聞いてもらおうかな」
フウはそう言うと、立ち話もなんだから、と言って私を手招きした。
前を歩く黒髪を見ながら、茶色や黄色の葉をつける並木を歩くこと数分。導かれるがままに行き着いた先は―――――
「……信じられない………!」
「"ボク"は信じたのに?」
今の季節は秋。それだと言うのに、その場所には新緑生い茂る木々と草花で、一面が鮮やかなグリーンで映えていた。
だって一歩前は茶色っぽく枯葉になりかけた並木が……並木が………あれ?
振り返ると、後ろも一面朝日に輝く緑が生い茂っていた。ただ時間帯は変化ないらしく、未だ空には紫雲が浮かび、遠くではさっきと同じ鳥の朝鳴きが聞こえる。
まるで公園の中心に広がる野原の様な場所。私は、フウに言われるがままにその場に腰を下ろした。朝露を少し含んだ草が冷たくても気にせずに。
「なんか枯れ行く葉っぱの中だと心情的にもよくないと思って……」
フウは、私のすぐ隣に腰掛けた。
「まったく、カラスがいちいちそんな気遣いしなくてもいいのに……」
「そりゃカラスに対する偏見だね…。でもまぁ、聖奈はまずそのカラスを少し見習うべきだとボクは思うけど?」
「どういうこと?」
フウは、ごそごそと自分のはいていた学ランのポケットをまさぐる。一拍子おいてフウはポケットに入れた方の手を拳のまま私の前に突き出した。
手を開いてみせると、そこには……
「ビー玉……と、おはじき?」
「う…ん……ついクセで盗ってきちゃうんだよね」
朝日を反射して輝くそれはとても綺麗。だけどそれが、なんだと言うのか……。
「カラスってこの通り、自分の好んだ物をすぐ自分の手元に置こうとする強欲な本能があるわけだ」
私は、思わず首を傾げた。
「聖奈はなんていうか、この欲が足りないよ。全然」
「欲が足りない……?」
「うん。とりあえず、今一番足りないと思うのは自分が幸せになりたいと思う欲、かな。さっきの話聞く限り」
フウはそう言うと、さっき取り出したビー玉とおはじきを出したポケットにしまった。
「それは、私だって普通に幸せになりたいとは思って……」
「はい、ダウト。自分の幸せーよりも、他の人がこうすればああなる、喜ぶ、とか他への影響を考えて動いてる事が多いでしょ? 実際」
ああ、確かに……と否定したかったのに簡単に納得できてしまうのがどうにも悔しかった。
これは別に話し手がカラスだから、とか見てくれ年下とか関係ない。苛立ちのベクトルは自分に向いていた。
「聖奈の今一番の欲って言えば、やっぱり看護学部に進学することでしょ?」
「う、うん……」
「だったら、それを叶えるために多少他を引き摺る覚悟はしなきゃ。一度決めたら揺らがない! それが欲でしょ?」
フウの言う事には、一部共感できた。
欲って言うと少し悪どい印象が湧くけど、実際入試に受かるって事は背反を考えると誰かが落ちてくれる事を望むわけだから、そちらを考えれば確かに欲望でしっくりくる。
「家族についてもそうだよ。聖奈は家族に遠慮し過ぎて何も言えてないんでしょ? 最初から絶望するよりは、言ってケンカしてもいいから意見ぶつけ合った方が絶対スッキリ収まるよ。案外ひろ君とか明美さんもそれを待ってるのかもしれないし」
"ひろ"とは弟の宏通(ヒロミチ)。明美というのは私の母の名前だ。
そういえば、今思ってみれば、私はあの一年半前くらいに看護士になりたいとはっきり言った時以外に、家族にしっかりした意思表示はしてない気がする。
ただでさえ金銭面が不安なのに、言いだしっぺの私がうやむやでは父や母も覚悟が定まらない。それが余計なストレスになったのではないか。
つまり、私が大学に行く事自体を疎んだのではなく、私の行動次第でどうにかなったのかもしれない……?
この、胸の内に光差す様に染み渡る感覚。随分と久々のこの感じはきっと――――。でも………
「―――でも、もう今から何かした所できっと手遅れだと思う。下向きとかそんなんじゃなくて、前向きに考えたとしても、たとえフウの言ったとおりにしたとしても、今まで無駄にした時間はもう戻せない。どっちにしたって私がいない方が丸く……」
「聖奈はいらない存在なんかじゃない! ……ボクが証明する!」
少しばかり怒気を帯びた様な声に、思わず肩が震えた。
「ごめん……。でも、その言葉を何度も言われると、ボクにも怒る理由があるよ」
「なんでフウが怒らなきゃいけないの?」
フウは、勢いで少し乗り出していた状態からまた元の様に座りなおした。
「聖奈は、今までに少なくとも一つ……ボクの命を助けてくれてるでしょ?」
フウは、自分の右足に触れた。そこは、初めて出会った時彼が怪我をしていたところ。
「聖奈が両親を納得させてくれなきゃ、ボクはあの場で動けなかったんだからイタチかタヌキにやられて死んでたよ」
「………」
「まだわからない?」
その時隣で空気が動いた感じがした。見ると、フウが立ち上がって前へ進んでいた。
「あの時聖奈は、"フウ"っていうカラスが存在する未来を作ってくれたんだ。けど、そんな君が自分を最初からいらない人間だった、なんていったら、つまりボクもどーでもよかったって事になるじゃないか」
振り返ったフウは丁度高くなりだした朝日を背にしてたため、影に見えた。まるで彼がカラスである事を象徴する様に。
「私が、未来を……作った?」
一方で私には、時折七色に走って見える朝日が当たり眩しいくらいだった。
まるで、さっきの光が胸の内に染み渡った時の――――そして今の心境を具現化する様に。
「そう。捉え方は大袈裟かもしれないけどね。結果としてボクが言いたいのは、命一つ救えた時点で聖奈はいらない存在なんかじゃない。むしろいらないなんて言っちゃいけない。だって聖奈は看護士になりたいんでしょ? 今がどうだって未来にはボクと同じ、聖奈が必要な人がいるかもしれないじゃん」
さっきから何が眩しいかって、朝日もそうだけど、何よりフウの言葉の一つ一つが妙に眩しかったのに今頃気がついた。
言葉から眩しさ―――つまり光を受け、自分という鏡がそれを反射して上手く胸の内に染み渡らせる。
この満たされた、優しい感覚。あの夢に見た懐かしい自分はたくさん持っていたもの――――――希望。
ふと、私の手に一瞬だけ温もりが伝わった。驚いて手を見てみると、そこには小さな小さな水溜りが。と思っていると、またパタっと温もりが伝わり、水溜りが増える。また増える。
私は……私は、気がつかない内に涙を流していた。
どうして? 全然悲しくなんてないのに。一人じゃないのに。……こんなに満たされているのに。
そもそも、涙を暖かいと感じたのも久しぶりだったりする。これは……
「悲しくて泣いてるの? それとも、嬉しくて?」
気がつくと、フウが目の前まで歩いてきていた。
「フウ……」
彼の問いに答えるまでも無い。ただこの一言でそれは伝わる……と思う。
「―――……ありがとう……!」
私は涙を拭きながら、ただ一言人生最大の礼意を込めて言った。
「うわっ!」
言ったのに、フウから一番に返ってきたのは素っ頓狂な叫び声。何事かと私は彼の顔を窺い見た。
そこにはさっきの叫びによく合ういやに動揺した様な表情が定着している。
「どう……したの?」
「………」
珍しく、今度はフウが黙り込んだまま返答をしなかった。
「フウ?」
「あーえ〜と……」
フウは、声までぎくしゃくさせながら冷や汗が浮かんだ顔をこちらに向けた。
「何か病気とか……?」
「幽霊に病気はないよ……。でも幽霊だからある事か、コレは……」
フウがにへらと笑った次の瞬間に、それは起きた。
突然フウの体のあちこちから白い光が滲み出て、奔流となって体の周りを巡りだしたのだ。
「いわゆる、成仏ってヤツ?」
「そ、そうなの……? でもなんでいきなり!?」
「話せば微妙に長くなることで……」
フウによると、フウは死んだ時に何か強く思った未練があって、それによってすぐに成仏には至れなかった。
他の動物霊仲間の話によると、成仏するには残した未練を達成する事が条件らしく、その条件達成のために霊は不可思議な力を得られるのだとか。
「え? じゃあ条件って……」
「たぶん、聖奈の幸せ……。確か死ぬ時一つくらい恩返しをしたかった〜……とか思ってたから」
私は、少し考えてから眉を顰めた。
「それってもしかして、私が『ありがとう』の一言を言えばフウはもっと早く成仏できたってこと?」
「たぶんね。ボクはカラスだし単純思考だからさ、『ありがとう』って言われるイコール相手に幸せを与えたっていう式ができてるんだと思う」
「なるほど」
それきり、二人して黙りこくってしまった。フウはどうか知らないけれど、私は聞きたいことがある。
でも今この状況で聞くのは、気が進まなかった。それは、フウはいつまで私と話していられるかと言う事。
時間が経つにつれて、どうもフウの周りの光が段々強さを増している気がするのだ。
「聖奈」
先に口を開いたのはフウだった。
「なに?」
「あと30分。あと30分くらいで、ボクはたぶん……」
フウは俯いて目を伏せた。その時間が何を語っているかなんて聞くまでも無い。
「30分だね。わかった……」
フウは元々死んでいる。成仏するという事は、再び生まれ変わるという事。少なくとも私は信じている。信じているのだから、願ってあげるのが一番。
でもまさか……まさか、二度も別れの悲しみを味わわせるなんて。ある意味不幸も与えているじゃない……。
「本当は聞いちゃいけないと思うんだけど、最後に一つ――――フウの最期の時ってどんなだったか、聞かせてくれる? どこか場所も言ってくれれば、供養にも行くよ」
供養に―――って本人、いや本鳥目の前にしてどうかとも思ったが、大事な事だ。これだけは聞きたかった。
フウは最初口篭ったが、時間も無いということですぐに話してくれた。
「――――……死んだ時は、12年前のあの日の夜。場所は、聖奈と聖奈のお父さんと別れた……さっきボクがいた場所」
「――――……!!」
それを聞いて、私は衝撃を受けた。あの、今朝の夢に出てきた映像の後……泣きじゃくっていた私を連れてお父さんがレストランに連れて行ってくれた時、すでにフウは――――。
「ごめん……ごめんね、フウ―――」
「あ、勘違いしないで! あれはもう、ボクが間違えて工場廃水飲んじゃったりしたからだから、あの時聖奈と別れてようとなかろうと夜までには生きられなかったと思うから……」
「それでも一人で寂しく死んだりしなかった。……せめて暖かいところで、みんないるところで…………お墓だってすぐに作ってあげられたはずなのに……!」
私は、後悔に駆られて思わず立ち上がった。また自分の顔より下に見える様になったフウの顔は、嬉しそうで、どこか寂しそうにも見えた。
「今言った事が全部本心なら、聖奈を止めるボクの気持ちだってわかるはずだよ? ボクは確かに一人で冷たい所で死んじゃったけど、十分心は満たされていたし、いつもいじめてくる人間の中でも優しい聖奈に会えて幸せだったし。でも聖奈の場合、心に幸せ無く、冷たい所で一人で死のうとしてたんだよ? ボクより全然悪いじゃん」
なんというかフウは、やたら会話の持っていき方が上手い気がする。
本当にカラスか? とか実はセールスの会社でも覗いて技を磨いてたのでは、とか余計な想像ばかりが膨らんだ。
「それに、今思った。やっぱり聖奈は、看護士さん合ってると思うよ」
「え……そう?」
「うん。頑張ってね」
"頑張ってね"。この言葉も、自分の看護士と言う夢にあてられたもので考えてみれば、フウが初めて言ってくれた。
本当、どうしようもなく色んなものを与えてくれるこのカラスに、ありがとう一回だけではわりに合わない気がする。
「フウ、ちょっとカラスに戻ってくれる?」
「……? ……カラスだよ?」
「そうじゃなくて……」
フウはすぐに意味を察すると、恥ずかしがって後ろ頭を掻きながら了解、と言った。
今度の変身で、風は吹かなかった。光の中のフウ自身が蒼い光となって、徐々に形状を小さく小さく変えてゆく。
蒼い光が段々消えると共に、再び黒い体と緑のリボンがはっきりと見えてきた。
来た時の様に地べたから私を見上げるフウに、私は右手の甲を左手の人差し指でトントンと叩く動作を見せた。
すると、フウは風を切る音を立てて飛び上がり、右手の甲に乗った。これは、幼い頃に私とフウの間でのみ成立した合図。
「フウ、ありがとう」
私は、あいている左腕でフウをそっと抱き締めた。フウは、喉の奥から出すような声でクゥと小さく鳴いた。
――――――ありがとう………
※
目を開けると、目の前に黄色い葉のイチョウが見えた。その葉の間から降りる木漏れ日はかなり明るく、今の時間帯が正午に近い事を物語っている。
地面に着いた手をまさぐる様に動かすと、そこにはからからとした葉っぱや小石の感触があった。
身を起こさなくても体の感触でわかる。私は、太い木の幹に寄り掛かっている。
「……行ったんだね」
いくら目を凝らしてみても、あの草原はどこにもない。
両腕に残る感触と温もりも、徐々に消え行く。
ただ、記憶の中には今でも鮮明にあの黒髪と、小さな黒い鳥が強く、強く刻まれていた。
私はゆっくりと木を支えに立ち上がる。と、その時コートのポケットに何かがズシリと落とされた感じがした。
恐る恐る中をまさぐってみると、何か固形の物を指が感知する。
出してみると、それは白い小さな長方形の……そしてその表面にいやに見覚えのある文字列。
『白里第一高校 "白井 聖奈"』
間違いない。あの時、私が屋上から放り投げた自分の名札だ。
そしてその裏を返すと……
「また……羽根?」
名札のクリップの部分には、黒い羽根が挟まれていた。
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2007/06/26(Tue)16:01:49 公開 / 蒼月
■この作品の著作権は蒼月さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
今回初となるリアルが舞台の短編小説になります。
作中にイメージとして込めたものは、絶望の底にある幸せと希望。
あと丸々写したわけではもちろんないですが、書く前にとある外国人作家さんの詩を拝読していたのでその影響もあるかと思われます。
エンディングが未だ固まらずで悩んでますが、気になった部分を少しずつ修正しています。