- 『魂の迷走曲 修正』 作者:瀧連 / 異世界 リアル・現代
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全角18743文字
容量37486 bytes
原稿用紙約55.45枚
空一面に蒼が広がる。雲ひとつない空から視界を下ろすと、見たことがない綺麗な鼻が、様々な色彩を魅せて咲き誇っている。
まるでここは日本……いや地球ではないように感じられるほど清々しい空気が体中を駆け巡っていく。
目を瞑って花の上に腰を降ろす。顔を近づけなくても、心地よい香りが辺りを包んでいた。
しばしの間、香りを楽しんでいた俺は花の絨毯の上に寝転がる。
ここは、どこだろう。
ふと素朴な疑問に気がついた俺は唐突に現実に引き戻された。
――――――――――――魂の迷走曲
序章
殺戮と拉致――――――――――――
高く、小さな電子音が耳元で鳴り響く。僅かに目を開いて音を鳴らしているのが時計である事を確認すると、俺は手を伸ばした。目覚まし時計の電源を切るために手を伸ばしたのだが、肝心の電源が手探りでは見つからない。十秒ほど探してみたのだが見つからず、いつまで経っても止まらない電子音に苛つき、思わず目覚まし時計を鷲掴みにしてベットの外に勢いよく投げ落とした。
時計は豪快な音を立てて地面に激突しながらも、電子音を鳴らし続けていた。しかし、次第に音が小さくなっていき、そしてとうとう力尽きた。
うっとうしい音が聞こえなくなったので、再度布団を被ろうとしたとき、下から何かが這う音が聞こえた。
「騎竜……またかよ……」
聞き慣れた声と共に男が出てきた。名前は源亮介。この俺、高峰騎竜と亮介とは中学からの仲で、さらに去年、今年と高校でも同じクラスになり、すっかり馴染んでいた。寮での生活も、こいつとの相部屋だったり、テストで欠点を取り補習のために必死に勉強し、気合で進級してきたほどだ。
「これで何個目だ? もう時計代の出資、やってやらないからな」
「……それは困る」
寝起きでだるい体を無理矢理起こして、亮介を見る。本人はなんとか時計が直らないか調べていた。
親からの仕送りが少ないので、こんな事に使っていたらすぐになくなってしまう。
二段に組まれたベットの上段から飛び降りて、俺は大きな欠伸をした。
「はぁ……お前といると金が飛んでいくなぁ……」
時計の動作を入念し調べていた亮介は、時計を直す事を諦め、ゴミ箱に投げ捨てた。
「おいおい、そんなに見られると照れるぜ」
呆れた表情で見つめてくる亮介に冗談で対応した俺は、隣の部屋にある洗面所に向かい、蛇口を大きく捻る。勢いよく出てきた冷水で顔を洗うと、畳んであったタオルを掴んで顔を拭く。拭き終えると、タオルを手元にあった取っ手にかけて亮介がいた部屋に戻った。
亮介は椅子に座って朝食にありついていた。
この寮は学校から遠くに作られていて、二十分ほど歩かないといけない。だが、他のサービスは中々のものであった。今、亮介が食べている朝食も係員が毎朝各部屋に運んできてくれる。部屋の入り口に置いてあるトレイに置かれた朝食は、寝坊しても食べることができる。しかも、前日に注文しておけば、偏食をしない限りでの好きなものを作ってくれると、至れり尽くせりなのだ。
俺も亮介の向かいの席に座って、昨日注文した焼いたパンの上にベーコンを置き、さらにその上に目玉焼きを乗せた朝食を頬張った。
「おい、見てみろよ」
既に半分ほど唐揚定食を食べ終えた亮介の言葉に頭を上げる。食卓から少し離れた所に中型テレビが置かれていて、女性ニュースキャスターが速報を述べている所だ。
「むむ、この新しい女子アナ、中々の美人じゃないか」
「だろ? 俺もそう思ったんだ……じゃ、ない! 俺が言いたいのは内容だ」
冗談で会話を楽しむと、速報のテロップを見た。画面の下の方に大きな文字で『各地で集団失踪?! 彼らの行方は?』と書かれているのが目に付いた。
「各地で集団失踪……ってたまたま時期が重なっただけじゃないか?」
基本的にニュースなんて見ない俺が言うのもなんだが。
「それだけだったら俺は気にしない。内容をよく見ろ」
手元に置いてあったリモコンで亮介はテレビの音量を上げた。今度はゲストらしき元警視庁警部という大層なテロップを画面端に映した中年親父が個人的な見解を話し始めた。
『各地で発生している失踪事件には共通点があります。一つは失踪するのは学校が舞台です。二つは必ずその日に出席したクラスメイト全員が消える。三つは担任教師も一緒にいなくなるなど――――――』
中年親父の言葉に俺は眉をひそめた。クラスメイトが全員、担任教師も、か。近年まれに見る奇怪な事件だ。
「ちなみに、男子校、女子高、共学問わず。このおっさんは言ってないけど失踪事件は朝のホームルーム限定だ。ちなみに、報道されていない情報があるんだが……聞きたいか?」
俺が大いに頷いてみせると、亮介は満足そうに話し始めた。
「先週に聞いたジジイの話だと、各教室には拭き取られた大量の血の跡と、刃物で切ったと思われる飛沫血痕と大型刃物が刺さった跡がある床などが残ってたらしい。後、事件とは関係なさそうだけど、天井に何か大きな負荷が掛かった跡がついていたそうだ」
最後のやつは、失踪したクラスに共通しているらしい、と亮介は最後に付け加えた。
亮介の叔父は警視庁勤めの警部らしい。その叔父さんは酒が入ったらとんでもなく口が軽くなるらしい。報道規制が架せられているほどの重要機密事項をべらべらと喋るなんて、警察官失格である。
「意外性が大きすぎて警察は表沙汰に出来にくかったんだと――――――っておい、時計を見ろ!」
突如慌てた様子で椅子から立ち上がった亮介は、掛けてあった学生服を取って着替え始める。
テレビの端に表示されたデジタル時計は八時飛んで十五分。寮から学校まで歩いて二十分。門限は八時三十分……。
ちなみに、遅刻をすればもれなく教師による一時間きっかり聞かされる麗しきお説教と、次からの遅刻を予防するために作文染みた反省文を長々と書かせてもらえるフルコースを与えてもらえる。勿論、そんな御馳走は俺も亮介も御免である。
既にカッターシャツを着終えた亮介から制服を受け取ると、高速で着替える。
俺が服を着替え終えると、既に亮介は部屋の外に出ていた。
「亮介っ!」
足元に置いてあった亮介の鞄を拾い投げつける。軽かったので、多分中身はないだろう。
「サンキュー!」
亮介が礼を言った瞬間に俺も部屋の外に出て鍵を差し込む。中で何かが回った音を確認すると、鍵を引き抜いてポケットに仕舞った。
「行くぞっ!」
亮介の言葉と共に、俺たちは走り出す。
寮の外に出たときに、守衛さんが苦笑いしながら挨拶してくれたが、返事をすることも出来ずに手を振りながら走り続けた。
「そらそら、もっと速くしないと遅刻するぞ!」
前を走る亮介は、疲れ始めた俺を急かした。
学校までは寮から続く道路を真っ直ぐ進めばすぐに着く。今の速度を維持できれば何とか間に合うだろう。
その証拠に遠めだが我が学校の制服を着た男女が悠々と歩いている。あの集団に入れば遅刻は免れるだろう。
「よっし、一気に行くぞ!」
当たり前のように加速していく亮介。実は亮介は陸上部の長距離ランナーだ。一年生で県大会優勝を見事決めている。
そんな化け物に万年帰宅部の俺が追いつけるはずもなく、疲れ初めて失速し始めた。
「おいつけねぇっての……ん?」
亮介に追いつくことを諦めて歩き始めた俺は、ふと薄暗い路地裏を覗き込んだ。
「あれは?」
暗くてよく見えないが、路地裏にやけに明るい紙の色をしている女の子と、見たところ俺と変わらない年齢の少女がなにやら話し合っている。やや離れているせいか、内容までは聞き取れないが。
知的好奇心からか、俺はなんとなく耳を澄ませながら路地裏に近づいていった。が、突如視界が暗くなって何も見えなくなる。と同時に後頭部に柔らかい感触が伝わる。そして、楽しそうな子供のような声で後ろから誰かが問いかけてきた。
「だーれだ?」
道端でこんな洒落た真似をしてくれる人は、俺は一人しか知らない。
「……香さんですか?」
正解、と言う言葉と共に目蓋に重ねられていた手をどけられ、俺の視界は一瞬光だけが支配した。
振り返ってみると俺よりも長身で迷彩ズボンと肌を惜しむことなく見せるタンクトップという軍人らしい格好の女性が顔に笑みを見せながら立っていた。
この女性は、西宮香。この人の職業は自衛隊陸軍所属の一等陸尉だそうだ。分かりやすく言えば大尉殿である。
彼女は俺と街中で目を合わせて以来、どこから調べてきたのか俺に関する様々な個人情報を何故か知っている。教えてもいないのに携帯電話へメールを送ってきた時は腰が抜けたものだった。
そのグラマーな体型に似合わない職業に俺は疑問を持って、一度尋ねたことがある。本人曰く『銃とかぶっ放しても怒られないから』だそうだ。自衛隊でも無許可に発砲すれば怒られると思うのだが。
「それにしても最近の高校生には、この手は通じないのか? それとも騎竜だけか?」
香さんは、むぅ、と悔しそうな表情を浮かべながら、口先を尖らせる。
どうやら先ほど後頭部にあった感触は胸だったらしい。惜しい事をした。
「他のヤツにこの方法を試したら面白い反応を見せたから騎竜も同じ反応をするんじゃないか、とおもったんだが……」
「へぇ、その反応とは?」
「鼻血を噴出して失神した」
……その自衛隊員さん、ご臨終である。
この香さんは美人で体型も美しい、と男には定番である好む条件が揃っていて、なおかつ豪快な性格のお陰で当然のように陸軍支部の人気を独占している。
人気は追っ駆け隊すら結成させるほど凄まじく、彼女に不用意に近づく男など、次の日の三面記事に大きく描かせる。俺自身も彼らの洗礼を受け、深い山の中に放り込まれたこともある。ちなみに小学五年生の時で、尚且つ厳ついお兄さん達に取り囲まれたせいかその時の記憶はあまり残っていない。救出された後日に香さん本人に教えてもらったのだ。
ついでにその追っ駆け隊は俺が救出されてから香さんによって解体されたそうだ。すぐに再結成されたらしいけど。ちなみに彼女の追っ駆け隊の中には女性も多数含まれているというから驚きだ。まさに兄貴のような性格が好きなんです、と自称追っ駆け隊隊長の女の人から教えてもらった。
そんな香さんに後ろから抱きつかれて、至福の時を過ごした自衛隊員の人は、後々他の隊員達から辛辣な虐めにあうのだろう。心の中で合唱。
「ところで、今さっきこっちを見ていたみたいだが、何かあるのか?」
俺が見ていた路地裏を舐めるように見回していく香さんの目は鷹のように鋭い。だがすぐに飽きたらしく、目を瞑って鼻から溜息を吐いた。
「んで、何で香さんがここにいるんですか?」
彼女が寝泊りをしているアパートは学生寮とは二キロ以上離れていて、尚且つ最寄の陸軍関係施設はこことは逆方向にあり朝から会えるという偶然は間違いなくあり得ないのだ。
俺の疑問に、香さんは爽やかな笑顔で答えてくれた。
「自主早朝訓練のランニングだ。あそこの角を曲がった所でお前が全力疾走していたのが見えて追って来たんだ」
彼女は学生寮よりも遠い場所にある角を指していた。早朝からずっと走り続けて、しかも全力疾走していた俺に追いついたということは、相当な体力の持ち主である。
なんだかとんでもない人を相手しているような気がして、俺は全身から力が抜けたようにがっくりと肩を落とす。彼女は笑いながら俺の背中を勢いよく何度も叩く。痛い。
「その年でそんな調子だったら――――――」
「騎竜! なんでこないんだぁぁぁ?!」
香さんの言葉が亮介の叫びによって掻き消された。どうやら途中で俺がいないことに気がついて亮介が戻ってきたらしい。
「って香さんっ?! なんでここに?」
全力疾走していた身体にブレーキをかけながら亮介が驚愕の声を上げる。そりゃ俺も何で彼女がここにいるのか不思議でしょうがないよ。
「あ? 亮介か、どうして戻ってきた?」
対する香さんはさっきと打って変わって不機嫌そうな表情を見せた。
突然の質問に亮介が思わず言葉を選んでいると、視線を亮介から俺に戻した香さんは苦々しさが残る作り笑顔を浮かべた。
「じゃ、私は今から仕事だから。じゃあな」
思わず苦笑いを浮かべた俺は手を振りながら、かなりの速度で走り去っていく香さんを見送った。亮介も小さくなっていく香さんの後姿を何かを呟きながら見送っている。
「いいよなぁ、香さんって……」
そう、コイツは俺の部屋を襲撃してきた香さんに一目惚れしていたのだ。それ以来、亮介は香さんがいたら無理矢理にでも会話に混じろうとしてくる。結果、香さんは亮介が現れると不機嫌になって去ってしまうのだが。
「どうでもいいが、列はもう見えないぞ」
俺の一言で我に返った亮介は振り返って思わず叫んだ。香さんと会う前には見えていた列はとうに見えなくなっていた。
亮介は慌てて、再び全力疾走で学校に向かった。
俺は小さな溜息を吐いてから、少女達がいた路地裏を覗いた。だが二人は既に姿を消し、闇だけが路地裏を支配していた。
「うげぇ、お前のせいで遅刻かよ……」
五分前までは賑やかだったであろう門は、閉められて静かに沈黙を守っていた。亮介は首を振って諦めを示した。
「そんなこと言ってもなぁ。俺を放置していたらお前は間に合っただろ?」
「莫迦言え、数少ない親友を裏切ったら女子からの評判がガタ落ちだ」
通常ならベルを鳴らして守衛さんに鍵を開けてもらい、その足で職員室で先生の説教を受けた後に授業に向かう。だが面倒はない事が一番。俺と亮介は門から少し離れた塀をよじ登って学校の敷地内へと侵入した。
「……おかしくないか?」
「どうした?」
亮介が漏らした独り言を俺が拾う。亮介は門の近くを見つめていた。
「なんで守衛が立っていないんだ? 失踪事件のせいで一人から三人に増えたのに……」
門の近くには顔馴染みの守衛さんがいつも立っているのだが、今日はその姿が見えない。
「見つかったら先生に連絡されるだろ? 幸運として受け取っておこうぜ」
「そうすっか……」
煮え切らない様子の亮介を連れて、俺達は二年校舎の職員室を伝説の兵士さながらの動きで移動して階段下へと辿りついた。
「んじゃ、俺は仮眠を取ってくる」
階段を上がる俺と対照的に亮介は廊下をそのまま歩き出した。
「仮眠……保健室か?」
そうだ、と親指を立てて俺に見せ付ける亮介。
この学校には、理想的な美人保健医師がいて、この学校の男子がこぞって授業をサボり、保健室に仮眠と称した面会を行っている。健康的な香さんとは違った魅力的な母性を持っている彼女のお陰で、保健室がすし詰め状態となり、怪我を治すはずの保健室で重傷者が出たこともある。
亮介はその保健医師が目当てなのだろう。男としての行動は止める必要はないだろう。
「俺は朝から風邪気味で保健室で処置を受けているので遅れます、っとでも伝えてくれ」
「分かった。適当に尾ひれをつけるけど気にするなよ」
適当に軽口を交わした俺は階段を、亮介は保健室のある別棟に向かって歩き出した。
ふと、ある事を思い出した俺は階段を上がる足を止めた。
「……今日は男医の当番じゃなかったっけ?」
だが今更伝えるのも面倒だったのでそのまま階段を上がりきり、最上階である四階にある教室の扉の前に立った。
さて、ここでホームルーム中の教室に入るわけだが、普通に入ったら面白くともなんともない。というわけで俺は少し考えると勢いよく教室の扉を開いた。
大きな音を立てて開かれた扉に教室にいた人間が全員こちらに注目する。だが俺はあえてそれを無視し、先生に向かって叫んだ。
「第十二隊が敵襲によって全滅っ!! 救出に向かった我が隊も足止めを喰らい、無念にも規定時刻に間に合わず。また源亮介二等兵が弾丸を浴びて重傷、救護班によって救護室に運ばれましたっ! 隊長、どうか御指示をっ!」
「あー、源はズル休みか。高峰、遅刻は不問にしてやるからその喋り方をやめて早く席に座れ」
このやり取りは生徒達にはかなり受けたらしく、笑いを必死に堪えているものや、思わず噴出したものもいる。だが先生には動揺は全く見えない。残念。
俺は先生が黒板になにやら書き始めたのを見届けると、自分の席へと向かおうとする。だが、俺の席には何故か別の男子生徒が座っていやがった。
ああ、そうそう。と担任教師が振り返った。
「ホームルームの前に席替えをしたんだ。お前の席は……今さっき死亡報告を受けた二等兵の席だ」
再度クラスに笑いの渦が巻き起こる。そして俺は大げさにガッツポーズを取った。死亡した二等兵こと亮介の席は教卓と扉からもっとも遠い席で、勉強に不真面目な生徒が泣いて喜ぶ席でもある。俺もその不真面目に分類される生徒の一人だからその歓喜は相当のものだった。
軽やかな足取りで新しい俺の席に座る。うん、目の前には座高の高い生徒がいて先生からは完全に死角。最高だ。
「おはよ、高峰君」
不意に隣から声をかけられて俺はそちらを見る。そこには見慣れた制服を着た女子が笑顔で出迎えてくれていた。
「おはよ……安藤だっけ?」
「だっけ、って……私って忘れ去られるような存在なんだぁ」
彼女はわざとらしく大きな溜息を吐きながら、わざとらしく肩を落とした。勿論、俺は彼女の名前を知っている。
安藤千奈美。それが彼女の名前で、亮介の話によると器量はよし、勉強もよし、女子からの評判も中々だという。無論男子からも好かれていて、高校生ながらカリスマ性を発揮している。顔も三年後ぐらいが楽しみなほど美人である。つまり、今お付き合いしておいても損はないということだ。
「いやいや、忘れていたわけじゃあない。あまりの美しさに目を奪われて思考回路が一時停止していたというわけだ。もし気分を悪くされたなら俺は喜んで土下座させてもらおう」
「そこまでしなくても……それじゃあ、後で何か面白い話を聞かせてくれたら許す」
くすり、と安藤は笑って答えてくれた。俺は笑顔を作って、鞄から筆記用具を取り出し始めた。
これが俺の日常、全てである。かったるい授業を聞き流して、昼食を亮介を奪い合って、女子に笑われ、帰りに香さんに襲撃され、夜中にムフフな雑誌を読んで寝る。多少のハプニングがある平凡な毎日である。俺はそんな平和な毎日で十分満足していた。しかし――――――
「あ〜、中間試験まで後二週間を切ったわけだが」
担任教師の言葉を遮るように大きな音を立てて扉が開かれた。わざと大きな音を立てて開く人間は、俺たちが知っている中で一人しかいない。確実に亮介だと皆が思い、顔を上げて扉を見た。俺も亮介だと思って呆れ顔で扉を見た。だが
「……誰だ?」
違った。
そこには、どこのテレビ番組でも見た事ないような不思議な黒い服に身を包んだ少女が静かに教室を見ていた。頭にはフードを被り、顔は半分までしか見えないが、明らかに日本人には見えない。だが、路地裏で見かけた少女というのは直感で分かった。
「お前は誰だ?」
半ば慌てた様子で教師が教室中の疑問を代表で口にする、だが黒衣の少女が質問に答える事はなかった。
突如少女は地面を蹴って、目にも留まらぬ速さで教師の前へと移動する。一瞬だけ停止した少女は黒衣の中に隠していたと思われる大型のナイフを教師の眉間へと躊躇することなく叩き込んだ。急所に刃物を突きたてられた教師は教卓に倒れこんで、数回痙攣すると、力尽きた。少女はたった今殺した人間の眉間から、表情一つ変えずにナイフを引き抜いた。
あまりの自然な動作に、教室中が言葉を失っていた。
「ひぃ……きゃぁあああ!!」
教卓の上で噴水のように血を撒き散らす教師の姿に安藤が頭を抱えて悲鳴を上げた。それが火種となって混乱が教室中に感染した。
俺は慌ててパニックに陥った安藤の肩を抑えた。
「おい、安藤っ! おちつけ!!」
目の前で殺人が堂々と行われたのに、落ち着けるはずもない。俺は何を言っているんだ。
安藤はそんな変な俺の手を乱暴に振り払うと、他の生徒達を押しのけながら後ろの出口に向かって走り出した。確かに殺人者が前にいえるから後ろから逃げる。当然の判断だ。だがそれは殺人者が一人であった場合の話である。路地裏で見かけた黒衣の少女が前にいるのなら、もう一人は――――――
「安藤、戻って――――――」
俺の叫びが安藤に届く前に、それは攻撃を開始した。
安藤が扉に触れる前に、外から扉が開かれて、路地裏で見た銀の髪を持つ少女が現れる。銀髪の少女はその細い身体から想像もできないような力で逃げようとした安藤の身体を文字通り吹き飛ばした。そして空中にいまだいる安藤の身体は、銀髪の少女から飛び出すように出てきた無数の糸状のものに絡め取られ、天井に糸と一緒に安藤も吊るしてようやく停止した。天井に糸と一緒に絡められた安藤はショックで気絶している。その表情はいつもの笑顔からは想像もできない恐怖そのものだ。
後ろから、変な糸を飛ばす危険人物が現れたと共に、教室の混乱は頂点へと達した。
だが二人の少女は何の動揺もせずに、いや好機と取ったようで一方的な虐殺へと行動を移した。
『先週に聞いたジジイの話によると』
黒衣の少女は抵抗しようとカッターナイフを構えた男子生徒の腕を切り落とし、返し刃で哀れな彼の首を切り裂いた。
『各教室には拭き取られた大量の血の跡と』
大型の刃物によって腹部を切られ、女生徒の臓物が机を赤黒く染め上げ、彼女は苦痛の表情で床に倒れこんで事切れた。
『刃物で切ったと思われる飛沫血痕と大型刃物が刺さった跡がある床などが残ってたらしい』
投げられたナイフを偶然弾いた男子生徒に黒衣の少女は間合いを一瞬で詰め、その首を新たなナイフで薙ぐ。男子生徒は窓に持たれこみ、彼の指は窓硝子に血の線を描いた。
『天井に何か大きな負荷が掛かった跡がついていたそうだ』
投げられた椅子や机を糸で絡め取った銀髪の少女は、投げた本人に投げ返し、激痛にもがいている生徒を天井へと吊るしていく。
天井が白く彩られ、床は赤く彩られる頃には、教室に立っていたのは俺と、二人の少女だけだった。
俺が最後の一人である事を確認した黒衣の少女は返り血で真っ赤な手で小さなナイフを取り出した。ナイフの大きさは彼女がこれまで命を奪ってきたナイフよりも二周り小さいのだが、俺を殺すのには十分だろう。
彼女は小さく息を整えると、ほんの少しの呼び動作を見せて俺に向かってナイフを投げつける。進路方向は正面にいるから分かる。俺の喉に真っ直ぐと飛来してくる。
テレビとかでトラックを前に悲鳴をあげて動かない演出者を見て、避けれるだろ、と思っていたが今分かる。無理だ。逃げなきゃいけないことは分かっているのだが、末端神経まで痺れたように身体が一切動かない。
やけにゆっくりと動くナイフを見て、頭の中に色んなものが駆け巡っていく。
理解しようとすれば、全てを失うように感じ、また何かが出てきては消える。俗に言う走馬灯ってやつなのかも知れない。とにかく俺はそれを見たような気がした。
亮介、香さん、自衛隊員の皆さん、安藤、……様々な顔が浮かんでは消える。そして何かが出てきて、それを見た瞬間、視界は全て白く染まった。
私は確かに動かない最後の標的に向かって小刀を投げたはずだった。標的は恐怖で動けなくなったようであり、確実に当たるはずだった。
「うおぉぉぉおおおっ!」
突如、小刀によって鮮血を撒くはずだった男は雄叫びをあげながら、窓を破壊して建物の外へと飛び降りたのだ。
私と、一緒にいたミシエルは慌てて男が降りた窓を見下ろす。だが、下で倒れていると思った男の姿はなく、灰色の硬い地面が広がっていた。
「……ここの高さから落ちたら普通の人間は死ぬわよね?」
我ながら驚きに満ちた声が自然と出た。例え下が柔らかい泥であっても、これだけの高さがあれば即死は免れないだろう。
「地面で何か衝撃を和らげるような物質があれば別だけど、それはない。うん、多分死ぬか重傷だね」
目の前でありえないことが起きても、まともな返事が返ってくるのがミシエルの特徴だ。確かに、言っている事は間違ってはいないけれど、もう少し慌てたりしてくれたほうが人間味があるというかなんというか。
「何かの抵抗によって衝撃を殺し、その後逃げたというのが現実的じゃないかな」
「……反発魔法?」
私は思いついた単語を口にした。ミシエルは無言で頷く。
地面に叩きつけられる瞬間に、衝撃を緩和する何かの力を使えば確かに助かる。だが、こっちにはそんな技術はないはずだ。
「彼の場合は天性的なものじゃないかな。ネメアが彼を殺そうとしたときに、防御反応として発動したってのが僕の考えだよ」
まるで私の心の中を読んでいるようなミシエルの言葉は、聴いていて少々気持ちが悪い。
「じゃ、先に行くよ」
男が逃げ出した割れた窓硝子からミシエルが飛び降りる。あの子ならこのぐらいの高さから飛び降りるぐらい造作もないことだ。
これが終われば私達はようやく帰ることができる。そのためには確実に任務はこなさなければならない。男は絶対に殺す。
だがその前に私は後片付けをしなければならない。残った身体の処理も私の任務なのだ。
私はミシエルの糸によって吊るされている男の額に手をやると、静かに手に力を込める。すると、黒い影が私の手の平から湧き出て、男の顔に纏っていく。そして次の瞬間、骨の砕ける音と共に彼を喰らっていく。
この光景を見た一人が声にならない悲鳴を上げた。ミシエルが捕らえた数人が必死に身をよじって私から逃げようとする。だけど、糸は彼らを捕まえては離さない。
私は見慣れた光景に少しだけ微笑むと近くの死体の額に手をつけた。
後、三十五人か。
「はぁ、はぁ、んっ! っはぁ、はぁ……」
俺はいつの間にか道路を走っていた。朝の通学時間が終わって人気のない道を必死に駆けていた。俺の頭の中で、教室での出来事が何度も再生される。教師の眉間に叩き込まれたナイフ、不思議な糸で吊るされた安藤。
はっ、と我に返った俺は頭を振って蘇ってきた記憶を掻き消す。今は無駄な事に体力を使っている場合じゃない。今からどうするかを考えるのだ。
まずは、どこかに逃げ込まなければ。
警察? いやダメだ。どうせ俺の言う事なんて信じてはくれない。山奥に捨てられた俺を助けるどころか、捜索隊すら出さなかった警察だ。こんな大きな事件に狂言者はつきもので、俺もどうせその部類として扱われるだろう。
普段国家権力の証として認識している警察が、いざとなると頼りない。
俺は別の選択肢を探しながら走り続ける。いや、少し待て、俺はどこに向かって走っているんだ?
ゆっくりと足の速さを落として止まる。そして肺の中で溜まっていた空気を吐き出した。数秒の間、呼吸を整えると、顔を上げる。見覚えがある道。ここは寮に帰るときの道だ。
「寮……? そうか寮か!」
俺は道端で莫迦みたいな声を出した。だが、そんなことを気にするよりも、気付いた事のほうが数倍大きかった。
寮ならば個室で一人で隠れる事が出来るし、異常者として拒絶もされない。鍵も俺が持ってるし、電話で香さんに助けを求めれば、きっと保護してくれる。
そうと決まれば、と俺は寮の裏口に回るため路地に飛び込んだ。
横幅は三メートルほどしかないが、走る分には十分な幅だ。後二十メートルほどでいつも使っている寮の裏口へと出る。だが現実はうまく前には進まなかった。
突如、視界の端に白い糸が映る。
「うぉ?!」
情けない声を上げながら、俺は急停止する。糸は俺のすぐ前に投下され、形を液体のように崩して停止した。それに銀髪の少女が飛び降り、衝撃を緩和させて俺と対峙する。
「見つけたよ……!」
威圧感を滲ませる少女の言葉は、人の腕ほどの太さの糸と共に紡がれた。
うねる龍のような糸に俺は慌てて屈んでやり過ごす。糸は、俺の後ろにあったゴミ箱や空き缶に命中すると貫通した。
無論、こんな糸が直撃したら人間の身体など一溜まりもない。即死である。
命中しなかったことに、少女は舌打ちすると、さっき飛ばした物と同じ太さ糸を、五本も紡いで俺に叩きつけてくる。鞭のように不規則な動きについていく事ができるはずもない。俺は少女の近くにあるゴミ箱に飛び乗ると、それを足場に少女の頭上を大きく飛び越えた。正直、俺もここまで飛べると思っていなかったんだが、これが火事場の糞力というものなんだろうか。
そして俺の身体は上昇から下降に切り替わり、放物線を描いて少女の遥か後ろへと着地した。
少女が振り返ると同時に俺は走り出す。今さっきまで走っていたのに、とんでもない速度で身体が動く。
後ろから飛んできた糸も見えないのにはっきりと分かる。気配というべきか、何かが後ろから迫るのが分かるのだ。こんな感覚、これまでやったどんな喧嘩でも味わった事がない。
難なく糸を避ける。糸は標的を失って俺の遥か前で重力に従って落ちた。
俺は不敵な笑みを浮かべながら、速度を上げる。少女がここにいるので寮は使えないが、今の身体ならどこへでも逃げられる。そんな自信が湧いていた。
路地を後数メートルで抜けられるという所で、俺は落ちてた糸を踏みつけてしまった。
「甘いよ」
少女が声を発したと同時に力尽きていたと思っていた糸が、突然俺の脚に絡みつき、しっかりと固定した。勿論、強制的に足を止められた俺の身体は前のめりに倒れこむ。だが地面に激突する事はなく、さらに出現した糸に身体を拾われると、十字架に貼り付けられるような姿で空中で固定された。よく手先を見てみると『蜘蛛の巣』のような糸の張り方で俺は捕まっていた。
全身から力を振り絞り、無理矢理手足を動かしてみる。だが糸はとんでもない強度で、糸は切れるどころか僅かしか動かない。
「無駄だよ。君の力でどうこうなるような代物じゃあないよ」
彼女の喋り方や声の高さは少年のような印象を与える。だが、その言葉の中には暖かさはなく殺意のみが満ちていた。
少女が近くの段差に腰掛けると、屋根から何か黒いものが落ちてきた。フードを被った小柄な影。すぐに教室でナイフを振るっていた黒衣の少女だと分かった。
「やっと追いついた。で、どうして殺してないの?」
黒衣の少女はとても恐ろしいことをまるで流れるように言い放った。
「こいつをどうするか、ネメアの意見が聞きたかっただけだよ。ところで後片付けは済んだ?」
ネメアと呼ばれた黒衣の少女は首を数回鳴らした。
「完璧、そしてこれで最後よ」
黒衣の少女は服の中から取り出したナイフを片手に俺を見ていた。そして数歩だけ歩み寄り、俺の首元に刃物を突きつけた。
路地裏の僅かな光を受けて刃が煌く。その光は俺の頚動脈を正確に狙っていた。
彼女は片足を一歩前に踏み出す。これはよりナイフに力を入れやすくする為の予備動作だ。彼女のこの後の行動が容易に想像でき、そして理解したせいで背筋が一気に凍りついた。
瞳を鋭く光らせて、少女は残った片足から踏み出した足に体重を乗せて力を込める。
彼女が大きく眼を開いたと同時にナイフが突き出され、俺の意識は途切れた。
「ああぁぁぁぁ!!」
腹の底から搾り出すような叫びを上げた男は私の右腕を蹴り飛ばし、本来向かうはずだった方向とは違う方向へと弾かれた。その衝撃と同時に、私はその場から反射的に飛びのいた。
「ネメア、大丈夫かい?」
「結構痛いけど、大丈夫よ」
蹴られた腕を摩りながら私は空中で暴れている男を見た。
男は完全に我を忘れているようだ。言葉にならない声を上げながら糸を引き千切り、四肢を様々な方向へと動かしている。残った糸といえば、両肩に残った糸が数本。だがそれらもすぐに切れそうなほど細くなっている。
私を気遣ったそぶりを見せたミシエルは一呼吸置くと、高速で糸を指先から放出し、男を包み込む。だが包まれた糸は本来の強度を見せることなく、男の腕や足によって切り裂かれて地面へと落ちる。
「中々凄いね。こんなに強いのなら鋼の壁も簡単に貫通させる事ができるよ」
自分の技が効かないのに、ミシエルは歓喜の声を漏らした。彼女は始めて見るものに対して、他の人よりも大袈裟に感銘を受けるのだ。今回もこのとんでもない男に対して一種の興奮を抱いているのだろう。
「で、ネメアはこいつはどうするつもりだい。できれば持ち帰ったほうがいいと僕は思うんだけど?」
ミシエルは小さな四肢を男のようにばたつかせ、興奮した眼で私を見てくる。断る理由はない。
「わかった、持って帰りましょ。こいつがアレだったら利点もあるだろうし」
腕から痛みが引いた事を確認して、私は拳に力を込める。男の四肢に気を配りながら私は一歩踏み込み、男の鳩尾に拳を叩き込んだ。
「ぐぇあ!?」
私は手加減したつもりだったが、男は鈍い声を上げて気絶してしまった。蹴られたことに少々苛ついて力が入ってしまったらしく、男の口の端からは少しだけ血が流れていた。
「ネメア、やりすぎだよ」
さっきまで興奮していた態度とは対照的に私を冷ややかな視線でミシエルは見つめていた。
「いいのよ。さっき蹴られたし」
「ネメアは彼の命を二度も奪おうとしたんだから、当然の報いと思うけど」
冷静になったミシエルは饒舌だ。しかも痛い所を正確に突いてくる。
そんな彼女を相手になどしていられないので、私は無視しながら男の肩についていた糸を小刀で切り払った。気絶している男の身体は何の抵抗もせず、地面に叩きつけられる。そして喉にでも残っていたのか血が少し吐き出された。
ミシエルは器用に糸を操り、男の身体を自分の手元まで持っていき、男を背負った。実際には男の体格はミシエルを遥かに超えているため、彼の手は地面に触れるか否かという状態だが。
「じゃあ、行こうか?」
私は頷こうとした瞬間、背筋が凍りついた。この感覚は知っている。人が人を殺すときに放つ気配。しかも尋常なものではない。
私達が一斉に振り返ったとき、長髪の女がこちらを睨みながら立っていた。
「おい、騎竜を一体どこに連れて行くつもりだ?」
香の声が路地裏に響いた。声自体は普通に発せられたものだが、彼女らには耳元で話しかけられたぐらいはっきりと聞こえた。
二人は現れた女性を敵と認識し、体制を低く構える。戦闘態勢に入った少女達を香は気にしていないかのように、軽やかなで尚且つ隙を見せない足取りで近づく。
「お前ら、学校はどうした? 今は授業の真っ最中だろぉ?」
おどけた様子で話しかける香の声は笑っていたが、目は殺気を放ち、狩人のように鋭い。今の彼女の瞳を見た獣がいたとしたら、決死の猛攻に出るだろう。
「あら、私達が何をしようと勝手でしょ?」
ネメアは芝居染みた台詞と作り笑いを浮かべる。その後ろで彼女は香からは見えない角度にナイフを隠し、握り締めた。
「確かに、お前達が何をしようが薬をやろうが私には一切合切関係はない。だが騎竜絡みとなると、話は別だよなぁ」
香は口に不適な微笑みを残したまま、歩き続ける。ミシエルは狩人の殺気に耐え切れず、香の進む速さにあわせて後退する。
「そこの変色髪っ! 逃げたきゃ騎竜をおいていけ」
僅かに後退したミシエルに向かって、香は怒号のような声を上げた。
ようやく歩を止めた狩人は威圧感を放ち、獲物として狙われている感覚が払拭しきれない二人との距離は僅かだった。
「選ばせてやる。適度に殴られて騎竜を置いていくか、それとも血だらけになって警察のお世話になるか。どっちがいい?」
「……どっちも、お断りよっ!」
予備動作を伴わない一瞬の動作で、隠していたナイフを投擲する。狙いは、不敵な笑みを浮かべ続ける香の眉間。
だが香は飛んでくるナイフを見ても微動だにせず、いとも簡単そうに一撃必殺の使命を帯びた刃物を二本の指で挟み、動きを止めた。
そして空いた手でナイフの柄を握ると、遅れて飛んできた糸を薙ぎ払う。
「ほぉ、結構面白い事ができるんだな」
香はナイフに付着した糸の切れ端を指で拭うと、その粘着質を楽しむかのように指先で伸ばしたり、縮めたりしていた。だが、二人は香のような余裕は全くといいほどなく、額に汗を滲ませていた。
「でも、どうやら無傷で捕まえられそうにもないようだな……!」
両手に新しいナイフを取り出したネメアは人工的に創られた地面を蹴ると、香に襲い掛かる。香は冷静に、投擲されたナイフより遥かに大きなナイフを顔の前で受け止めた。
乾いた金属音が路地裏に響いたと思うと、ネメアはもう一つの手に握っているナイフを強く握り締め、香の顔に向かって突き出す。だが、首を捻られただけで攻撃はかわされ、その突き出された手首を香は掴み、手前に引きこむ。地に足をつけていないネメアの身体は抵抗できず、香の方向へと引きつけられてしまった。
「あらよっと」
軽い言葉とは違い、重い膝蹴りをネメアの鳩尾へと叩き込んだ。人体の急所の一つである鳩尾に攻撃を受けた少女の身体は空中で回転すると、地面に叩きつけられた。
足元で全身の痛みに表情を歪めるネメアをよそに、香は何か納得したかのように声を漏らした。
「膝が上がる寸前で身体を捻ったのか……」
香は何回か頷くと、持っていたナイフを排水溝へと投げ捨てた。そして体制を低くし、腰へと手を回す。
「こりゃあ少々の傷なんてのも無理か。何より実戦慣れしてる」
ネメアは飛び起きる瞬間に、ナイフを投擲する。もとより当てるつもりはなく、ミシエルの場所へと逃げる時間を稼ぐためのものだった。
だが、その時間稼ぎに使われた香に届く前に、何かを突き抜けるような軽い音に弾かれ、地面へと落ちる。
二人の少女が路地裏の暗闇ではっきりと見えたのは、煙を口から吐き出している銃口だった。
「安心しろ。これはゴム弾だ。消音機をつけなきゃ五月蝿いからつけてはいるんだけどな」
まるで自分自身を自慢しているような瞳で、香は銃を眺める。だが、二人はそんな香に対して目を丸くしていた。
「なんだ、銃が出てきたら降参するのか?」
まるでお気に入りの遊び道具を取り上げられた子供のような態度で、彼女は顔をしかめた。すると香は腰に銃を差し込むと、再び拳を構えた。
「……行くよ!」
騎竜を地面へと降ろし、自由になった両手を前に突き出したミシエルの指先から、大人の腕と同じ太さの糸が吐き出される。
香は飛来してくる糸を見ても、その場から動かず、一歩踏み込んで手刀を作り前に突きだした。全身の体重を乗せて繰り出された突きは、辺りの風を巻き込んで糸を切り裂く。だが、裂かれた糸は、切断面から細い糸が出てきたと思ったと同時に次々と接着し、一瞬で再生する。そして、糸は香を繭のように包み込んでようやく停止した。
「ほほぉ。こんなんもできるのか」
香の声が繭の中から聞こえてくる。その声はまるで新しい玩具を貰った子供のように楽しんでいた。
追い詰められているはずの女の反応に、二人は思わず顔を見合わせて再度繭を見た。二人の表情は、傍から見ることが出来れば、愉快なものだったかもしれない。
繭が形成され、香の声が聞こえてから数秒が経ったと思うと、突如繭の中心部から表面を突き破って腕が飛び出してきた。突き出された腕に添って、もう一つの腕が繭の穴を広げると、それぞれが左右に分かれて進んだ。
糸が次々と千切れる音が聞こえ、中から無傷の香が出てきた。
「ふぅ……逃げられたか」
香が見つめる路地裏には、三人の男女の姿はなく、代わりに少量の血と大量の糸だけが残されていた。
悔しそうな表情を浮かべた香は、虚空に向かって叫んだ。
「どうせそこらにいるんだろう? 今すぐ出て来い!」
響いた声が空気に吸い込まれたと同時に、申し訳なさそうな表情の男女数人が路地の外から入ってきた。勿論、この男女達はただの通行人ではない。本物の軍人である。香の親衛隊を名乗っている所以外は普通の人間だ。
「あ、私達は唯の通行人で……」
「んなことはどうでもいい。見てたんならさっさと警察に連絡しろ」
香の威圧感の塊のような言葉に圧された女性は、裏返った声で返事をするとウエストポーチから携帯電話を取り出して、三回ボタンを押した。
「これって、どんな材質ですかね?」
隊員の一人が、壁に付着していた糸に触れようとした瞬間、白い糸は黒く変色し、地面へと溶けていった。
一同が目を丸くしてその状況を見守っていると、地面に落ちていたナイフも同じように地面へと溶けていく。
「何なんだこりゃぁ……」
男は信じられないといった声を上げた。それは他の隊員も同じ気持ちであった。
「警察がこっちまで出向いてくるということです。それと、事情を訊きたいのでここで待機しておいてくださいと」
唯一、地面に溶ける物質を見ていない女性は携帯電話を切って報告した。だが、香の耳には届かない。
彼女は数回首を振ると、いきなり常人なら拳を痛めかねないほどの勢いで壁を強く殴り、三人がいた場所を睨みつけた。
「畜生、必ず助けてやるからな」
その言葉に決意が混じっていることを知っているのは、発言した本人だけだっただろう。
「痛っ!」
金属で出来た屋根を飛び跳ねていると、胸部に強烈な痛みを感じ、声を漏らしてしまった。
私の声を聞いたミシエルは、気絶したままの男を担ぎながら、私のほうへと顔を向けた。
「大丈夫かい? あの女の蹴りが相当効いているみたいだけど」
それなりに気遣う言葉が出てきて、私は驚いた。まだ子供とはいえ私達以上の体格を持つ男を担ぎながら移動しているというのに、顔色一つ変えずに私に話しかけてくるだけの体力は、ミシエルの小柄な身体のどこにあるというのだろうか。普通私が気遣う場所だろう。
「多分、右の一番下が折れちゃってる」
「それは大変だね。僕の糸で直してあげようか?」
「却下、いくら治療っていっても口の中に蜘蛛の糸が入り込んでくるなんて耐えられない。それに患部以外の場所にも糸が這い回る感覚があるっていうじゃない」
「それは残念だ。ところでネメア、話があるんだけど。あの女が出てきたときに、この男……キリュウとか言ったっけ。とにかくキリュウを手渡さなかったのは何故だい?」
私もついさっき気がついた事なので、それを言われると辛い。どうも私は、必要ないものでも、他人が求めてきたら拒否する体質のようだ。負けず嫌いというべきか、なんと言うか。
「まぁ、こいつの捕獲でも殺害でも任務の内に含まれるでしょ? あの場で引き渡したら任務失敗で責任負う事になるわよ。それより、もうそろそろじゃなかったかしら」
適当に理由をつけ、その話題から離れた。彼女は無理矢理会話を終わらされて、口先を尖らせて黙ってしまった。
私は人気がない路地裏に飛び降りた。無事に着地時の衝撃を吸収した私に続いて、ミシエルが飛び降りる。彼女が着地した瞬間、男は蛙が潰れたような声を上げた。意識が戻っていないから大丈夫だろう。多分。
勿論、ここに来た理由はある。私は闇の中に向かって叫んだ。
「ヒュール! 早く帰りたいから、さっさと出てきなさい!」
私の言葉に呼応するかのように、闇から粗末な布を被った人間が出てきた。無論、浮浪者の一種ではなく、私達の仲間である。
「三ヶ月もこんな所で待機させといて浮浪者はないでしょう。早く帰りたいのはこっちも同じだわ」
彼女は明らかに不機嫌である。そりゃこんな空気の悪い場所で、味が悪い携帯食だけで三ヶ月もいればこんな態度になるかもしれない。
「ところで、そっちの可愛い男の子はどうしたの? 誘拐任務なんて請け負ってた?」
穴だらけの粗末な布を脱ぎ捨て、複雑な模様の書かれた衣装に着替えたヒュールはミシエルの背中で気絶している男を指す。
「こいつは任務先での戦利品よ。面白そうだったから連れてきたのよ」
「へぇ、でも見れば見るほど寝顔が可愛いわね。一家に一人は欲しい人材だわ」
私が戦利品といったものの、人を愛玩動物のように見るヒュールの神経は大丈夫だろうか。
「でも来たときより負担が増えるのは好まないわ。置いていって頂戴」
ミシエルは悪戯をした子供のように、舌を小さく出してヒュールの言葉を拒否した。
「僕はこっちの世界の情報が欲しいんだ。それに僕だけじゃなく、あっちの世界の利益にもなるはずだよ」
ミシエルが久しぶりに強情になったのを私は見た。こうなってしまえば、梃子でも使わない限りミシエルの意見は動かない。
そのことを知っているヒュールは面倒そうに首を掻くと、先に折れた。
「分かったわよ。じゃあ開いたらさっさと入って。四人分となると凄く辛いんだから」
彼女は早口にそういうと、詠唱に入った。私達の耳では聞き取れないほど高速で喋り続ける術式は、すぐに効果を表わした。
太陽光が僅かに届いていた空間に捻れが生まれ、その捻れは徐々に広がっていく。やがて捻じ曲がった空間の中心が歪み、人一人がかろうじて入れる『穴』が開いた。
いまだに詠唱を続けているヒュールは精神力をかなり消費しているのだろう、額に汗を滲ませている。
「それじゃあ、お先に」
私は頑張っている彼女を横目に、中に入った。何もない空間に足を踏み込み、同時に足に何かが纏わり付く感覚を憶えた。気持ちが悪いこの感覚は、これで二回目の体験なのだが、私は一向に慣れを感じなかった。
その何かが纏う感覚が全身へと広がると、背後から漏れていた光はなくなり、ただ闇と移動している気配だけが私の感覚を支配した。
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2007/06/05(Tue)22:07:54 公開 / 瀧連
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■作者からのメッセージ
お初にお目にかかります。瀧連です。登竜門への処女作となる魂の迷走曲。大分前から構想を練り、現時点での全力量を投じてきた賜物です。お目汚しになるやも知れませんが、どうぞ評価のほどをよろしくおねがいします。