- 『気ままな彼女』 作者:たっちゃん / 恋愛小説 ショート*2
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原稿用紙約10.7枚
うーんと唸って、うっすらと目を開く。ぼやけた視界に、光が入り込んできた。外からは小鳥のさえずる声が聞こえてくる。窓から差し込んでくる朝日が、真っ白なカーテンをよりいっそう白く輝かせ、まるで天使の羽のように、朝日と一緒に入り込んでくる風に、そっとたなびいていた。どうやら窓は、不用心にも開け放しにされていたようだ。そしてその一面の青空には、一つ二つ雲が漂っていた。朝の香りのする風が、僕の顔を優しく撫でる。気持ちのいい朝だ。
「まだ九時半か……」
近くに置いてあった目覚まし時計を取り上げて、見にくそうに目を細めながら呟いた。まだバイトまでは時間がある。そう思った僕は、ゆっくりとベッドから立ち上がり、まだ眠い目をこすりながら食卓に着いた。袋からパンを取り出し、トースターにセットする。そしてスイッチを入れると、今朝の朝刊に目を通した。第三次世界大戦が勃発したとか、どこかで大地震が起きたとか、そういうふうな大ニュースが報じられていないと分かると、すぐに僕の新聞に対する興味は、薄らいでしまった。ふと前を見ると、彼女がいた。
「おはよう」
「…………」
彼女は絶対に喋らない。僕がこういうふうに挨拶をしても、何を話しかけても、何が起きても、彼女は絶対に喋らない。それはずっと前から変わらないことで、それが二人の間では、ごく自然なことだった。
僕はにっこり笑うと、いつものように一人で話を続けた。
「今日はバイトで遅くなるけど、晩ご飯はどうする? また外で食べてくるの?」
僕の言葉を理解しているのか、彼女の表情からは読み取れない。でも、その透き通るような琥珀色の瞳は、じっと僕の方を見ている。僕はまた、にっこりと笑うと、
「それじゃあ、一応ご飯の準備はしておくね? あまり暗くならないうちに帰ってくるんだよ?」
そう彼女に言い聞かせるように言った。
朝食を終えて、支度を整えると、もう時計は朝の十時をまわっていた。家を出ようと玄関の扉を開くと、待っていたように、彼女は僕の横をするりと抜けて外へ出た。ぴょんぴょんと玄関からの段差を飛び降りると、一度だけ僕の方を振り返ってから、彼女はさっさとどこかへ行ってしまった。それを見届けると、僕も外に出て玄関の鍵を閉めた。
彼女は自由だ。すごく気ままに毎日を過ごしている。今日も、どこかを当てもなくぶらぶらと歩き回って、そして夕方になって、腹が減ると、またフラフラと家に帰ってくるのだろう。そんな彼女に振り回されることも少なくない。でも、僕はそんな生活が、そんな彼女が、すごく楽しくて、そしてすごく好きだった。絶対に喋らなくて、ほとんど無表情で、瞳がきれいで、何を考えているのか分からない。彼女はとても魅力的だった。
ある日、僕は風邪をひいた。雨に濡れて、そのまま着替えなかったのが悪かったのかもしれない。とにかく、医者には診てもらったものの、なかなか熱が下がらない。数日前から降り続いている雨が、今も窓をざあっと打ちつけている。そのせいか、このところ彼女は家にこもりっぱなしだ。彼女はこんな時でも、僕のことなんかお構いなしに、窓の外を気にしている。いい加減、彼女を外に出してやりたい気もするが、この雨ではそれも叶いそうになかった。
「雨、止まないね……」
かすれる声で僕は言った。すると彼女は僕の方を振り返り、そしてゆっくりと近づいてきた。彼女は、今の僕の状態を理解できていないようで、苦しそうな僕の顔を不思議そうに見つめていた。覗き込まれた彼女の顔の瞳は、相変わらず、きれいな琥珀色に透き通っている。僕はできるだけ笑顔を浮かべようと、顔を引きつらせた。
それが、彼女なりの心配の仕方だったのかは分からない。単に温もりたかっただけなのかもしれない。ただ、無言で僕の布団の中に入り込んで、僕の横で寝ている彼女が、僕はたまらなく嬉しかった。彼女のぬくもりがとても優しかった。
月日は流れ、気付けば、彼女が僕の家に来てからもう三年になる。相変わらず、気ままに毎日を過ごしている彼女と、僕との間に、ちょっとした変化があった。僕は、彼女を絵に描くようになった。何の知識も持たない僕は、とにかく鉛筆一本を片手に、なかなかじっとしていてくれない彼女を、何とか隙を見て描いた。最初こそ、彼女が寝ている時や、食事をしている時しか描けなかったけど、そのうち、動いている時の姿も描けるようになってきた。彼女を描いた僕の絵は、どんどんどんどん溜まっていった。どの絵の彼女も、一人として同じポーズをしていなかった。僕の予想をいつも超えた行動をする彼女を見て、楽しみ、その生き生きとした彼女を描く。僕はとても幸せだった。
ある日、僕はちょっとした美術コンテストに、彼女を描いた絵を出品してみた。軽い気持ちでやってみたのだが、これが意外と好評で、僕は優秀賞なるものを受賞してしまった。うれしくて、うれしくて、僕はすぐに彼女に報告した。大声で話す僕を、不思議そうにその琥珀色の目で見つめていた彼女は、ふあっと欠伸を一つするとそのまま小さく縮こまり、眠ってしまった。そう、彼女には優秀賞なんて関係ない。たとえ、僕がそれを受賞していたとしても、していなかったとしても、彼女は彼女だ。今まで通り、何も変わることはない。僕は、一人ではしゃいでいるのが恥ずかしくなった。
朝から降り続いている雨が窓を濡らし、部屋の中までもじめじめと湿らせていた。服がベタつき、カビのような湿気の臭いが鼻をつく。ベランダの植木鉢の花が霞んで見え、屋根から伝って落ちてくる雫を何度も頭からかぶっていた。そのたびに深々とお辞儀を繰り返す花を彼女は目で追いかけ、彼女自身もいつの間にか同じようにお辞儀を繰り返していた。僕は、さっきからただなんとなく、そのおかしな彼女の様子を見ていた。
そして今日、父が死んだ――
僕は、父親のことが好きでも嫌いでもなかった。正直言うと、どうでもよかったのかもしれない。ただ、幼い頃はその大きな父の背中に、漠然と憧れていたのを覚えている。優しすぎることもなく、厳しすぎることもなかったが、父は、すごく寡黙な人だった。だから、僕が都会で一人暮らしをするといっても、父は何も言わなかった。数ヶ月前に病に倒れた父は、ずっと入院していて、容態が急変する数日前になるまで、僕はそのことを知らされてはいなかった。それは父が望んでいたことで、僕に余計な心配をかけさせたくなかったからだそうだ。それでも僕は、今日まで一度も家に帰ることはなかった。母は泣き崩れ、そして僕を短く非難して、電話は切れた。葬儀はもう済ませたそうだ……
その日、僕はバイトを休んだ。学校にも行かなかった。ただ、朝から何のやる気も起きず、ずっと椅子から立ち上がれずにいた。僕は、父が死んだと聞かされても、ニュースか何かで他人の死を知ったかのような、どこか他人事のように聞いていた。僕は今、悲しいのだろうか。それとも――
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は、のこのことやってくると、放心状態でただ力なくだらりと椅子に座り込んでいる僕の膝の上に、ちょこんと座った。どうしたの? とでも言うように、彼女は僕の顔を見上げた。僕も彼女の顔を見下ろした。
彼女の頬を雫がつたう。流したのは彼女ではない。それを落としたのは、僕だった。不思議そうに驚いている彼女の、大きく見開かれたそのきれいな琥珀色の瞳に、僕の顔が映り込む。僕は情けない顔をして、泣いていた。紙を取り、鉛筆を握り締めると、ただひたすらに彼女を描いた。ただただ、涙が止まらなかった。そうしてボロボロと描いた絵の中の彼女は、どこか寂しげな表情を浮かべていた。僕の膝の上で、僕と一緒に出来上がった絵を見ていた彼女は、慰めるように僕に寄りかかり、眠ってしまった。僕も、少し眠ることにしよう。
また数日が経ち、今日は、ちょっとした僕の絵の美術展覧会がある。コンテストで、僕の絵をたまたま見かけた昔の友人が、ぜひ、僕の絵を中心とした美術展覧会を開かせて欲しいと言うことだった。はじめは断るつもりでいたのが、嬉しそうに話す友人の笑顔に負けて、了承することになった。僕自身、まんざらでもなかったようで、いざそうなると、いつの間にか鉛筆を握る手には、いつもとは違う気合いがこもっていた。そうして、ここ一ヶ月で描きためた数十枚の絵を持って、家を出た。どの絵の彼女も、すごく素敵だった。僕は軽い足取りで、会場までの道のりを歩いた。そして――
そして、それは本当に一瞬のことだった。最初、何が起こったのかも分からなかった。多分、僕の不注意だったんじゃないかと思う。僕は、交差点で曲がってきた車に撥ねられた。まさかこんなことになるなんて、ツイてないなあと定まらない意識の中で、ぼうっと考えていた。口の中には、しょっぱく、苦い鉄さびの味が滲んでいる。もう動くことさえできない。バラバラと散らばった彼女の絵を、じわじわと僕の鮮血が真っ赤に染めていく。ああ、お願いだから、もうそれ以上彼女を汚さないでくれ。どうして僕は彼女を汚そうとするんだ。もう、絵から彼女を判別することはできなかった……
薄れ行く意識の中、ふと、彼女がいたような気がした。血で霞んだ視界に、あの彼女の透き通った、きれいな琥珀色の瞳が覗き込んできた。悲しんでくれているの? それとも、笑っているのかな。僕は血まみれの手で彼女の頭を撫でた。最後に僕は、笑顔を浮かべていたように思う。彼女はやはり、僕がどうなったのかが分からないらしく、気持ち良さそうに目を閉じると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、すでに冷たくなった僕の手に頭を押し付けてきた。
「ニャー」
彼女は喋らない。絶対に喋らない。そして、僕も、もう――
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2007/05/28(Mon)02:37:40 公開 / たっちゃん
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■作者からのメッセージ
はじめまして。あまり小説を書くことが今までになく、今回の投稿もかなりの勇気が要りました。友達から、読むのも書くのもまずは短編からがいいんじゃないかと勧められて、自分なりにではありますが、短編小説を一つ書いてみました。いろいろとダメな所はあるでしょうが、よろしくお願いします。