- 『黒木蓮』 作者:有栖川 / 時代・歴史 未分類
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全角14502.5文字
容量29005 bytes
原稿用紙約40.85枚
序
四之宮家の長男、敬太郎が生れ落ちたのは、短い初夏の終わりの頃の、空に雷鳴の疾る夜だった。大正十年、六月の初旬のことである。
その日は宵から鳴り出した雷が真夜中近くまで縦横に空を走り続け、窓をたたく雨足もいっこうに弱まる様子を見せず、思えば確かにどうにも気の落ち着かぬ夜であったと、のちに四之宮雄三は振り返る。庭の木々はざわざわと梢を揺らし、黒々として、なにやらひどく不気味であった。
広間の時計が十時の鐘を告げる頃、屋敷の奥まった一室に寝かされた年若い母親は初産の恐怖と緊張で、すでに青じろい顔をしていたが、そばにいた夫の腕をしかと握り、陣痛の始まったことを告げた。夫は妻の手を握り、がんばれ、がんばれと励ましの声を二度かけた。まだ二十歳になったばかりの妻みちは、生来気性の荒い女であったが、さすがにこのときばかりは心細さが立ったと見えて、しじゅう不安げに夫の胸にすがるようだった。
報せを受けた医師らがばたばたと駆け込んできたので、雄三はそこで部屋を辞した。つないでいた手をするりとほどき、扉が閉まるその寸前まで、年若い夫婦はその隙間から互いの目をしっかりと合わせ、互いの想いを確認しあった。
扉が閉まったのが、午後十時十一分。
四之宮家の広い屋敷に産声がこだましたのは、日付の変わって翌日七日、一時十一分のことだった。
一.
さよが女中として四之宮の屋敷にあがった日、教育役の女中頭からきつく言い渡されたことがある。北の塔には決して近づくことならぬというお達しである。
なるほど確かに広大な四之宮の家の敷地には北に離れの塔があり、灰色の影を陰鬱に空へ向けていた。それが古びて苔むしているようでもあり、何かおどろしい空気をまとっているようでもあり、さよは正直なところ、少し不気味に感じないでもなかった。近づいてはならないという塔そのものへの気味悪さでもあり、そんないわくつきの塔を擁する四之宮の家そのものへの、眉をひそめたくなるような得体の知れない薄ら寒さでもあった。
とはいえこの奉公をしくじっては、当面食べてゆくことが出来ぬ。さよはハイわかりましたと言って、逆らわない意思を見せた。石だるまをごんごんと重ねてつくってあるような厳しい顔の女中頭は、それでよいともなんとも言わず、きっとだよと念を押して、それきりこの話をしなかった。そのうちさよの方でも日々の仕事に追い使われて、北の塔のことなどすっかり忘れてしまった。何やかやで外に出れば、ふとした拍子に古びた塔が目に入ったが、いつしかそれはただの景色の一つになり、それについて考えるようなことはなくなった。最初の日にどうしてあれだけきつく言い渡されたのか、その理由も考えることがなくなった。
かくて四年の月日が過ぎ、さよは気づけば十八になっていた。十四で女中になったのだから、光陰矢のごとしとはまさに云ったものである。毎日がただただ忙しく、あっという間の年月であった。その間に、あの厳しい女中頭は肺の病をこじらせて、故郷の山口へさがっていった。風の便りで死んだと聞いたが、そのときにはやはり涙のひとつも流れた。右も左もわからなかった子供のさよを、なんだかんだと世話を焼き、いっぱしの女中にしてくれたのはあの女中頭だったのである。さよの方でも、姉とも母とも慕った相手であった。
さてあるとき、庭に早緑が萌える五月のころであったが、さよは思いがけない仕事を仰せつかることになる。今彼女が任されているのはおもにお嬢様方のお部屋の掃除と身の回りのお世話だが、それを別の女中に任せ、おまえには別の仕事を頼みたいのだと、だんな様みずからお達しが下ったのである。その仕事というのが、あれほど近づいてはならぬと言われた北の塔にかかわるものであった。
食事を終えたら来るようにと言いつけられ、だんな様のお部屋に行くと、そこには奥様もいらっしゃった。だんな様はりっぱなお机についておられ、その傍らに奥様が、肩に薄いショールをはおって立っておられる。二人とも顔が青白く、こと奥様は緊張しすぎて表情をなくした人のようにも見えた。
さよは、自分が知らない間に何かしでかしてしまったのかと思った。よほどのことをしてしまって、だから直々にお小言をくらうのだと考えた。四之宮家に勤めて四年、こんなことは初めてだったのだ。
ぶどう酒色の絨毯をつま先で踏み、さよはおとなしくうなだれた。これはよほどのことに違いない、もう先に謝ってしまおうかと思ったそのとき、
「おまえはよくやってくれているね」
という、だんな様の優しい声を聞いたのである。
さよは驚いて顔を上げた。改めて見ると、ご夫婦は決して怒っているような様子ではなかった。さよは安堵した。どうやら怒られるために呼ばれたのではないらしいと、そこで初めて落ち着いてものを考える力を取り戻した。
「おまえの働きをみな褒めているよ。とても細かいところに気が利くそうだね」
さよはどう答えてよいか分からず、ただ平伏した。
「そこで、お前を信用できる者と見込んで頼みがある。新しい仕事を任せたいと思うんだが、どうだね」
そういうことなら一生懸命勤めさせていただきますと、さよは答えた。がむしゃらに仕事をしてきた四年間の働きが認められてお目に留まったのなら、純粋にうれしいことではあった。
そうして言いつけられた新しい仕事とは、あの北の塔に一日三度、盆に載せて一人分の食事を持っていくというものであった。さよは初め、ただただびっくりした。こんなかたちで疑問が解ける日が来るとは思ってもいなかった。
「決して人目につかないようにするのだよ」と、だんな様は釘を刺した。「あの塔に人間がいることは、屋敷の中の人間にさえ、必要以上に知られてはならないのだ」
「どなたが――」
さよは思わず尋ねていた。だんな様が少し困ったように口元をつぐみ、話すべきか話さざるべきか、思案しているようだった。やがて奥様が、「かならず黙っていられるかえ」とため息とともに尋ねてきたので、さよはもちろんですと答えた。ならば話してあげるけど、と、結局ことのしだいを話してくれたのは奥様のほうだった。
「四之宮の家はねえ、呪われているんだよ。もうずっと長いことね」
「呪いでございますか」
奥様はうなずいた。
「この家には何代かにひとり、その呪いを色濃く受けたものが生まれるのさ。それは見たらすぐにわかる。それほどはっきりと、呪いは目に見えるんだよ」
「いったい、どういう――」
「涙さ」
奥様は、きっぱりと言い切った。
「呪いを受けた子供は、涙が黒い。まるで墨水のように」
さよはお努めの最初の日、奥様と一緒に北の塔に向かった。鍵の開け方が特殊なので、最初の一回は奥様がじかに要領を教えてくださるということだった。さよは手に食事の載った盆を持ち、するすると前を歩く奥様について、四年目にして初めて、北の塔に足を踏み入れることとなったのだった。
塔そのものはさほど大きくもなかったが、その代わり非常に堅固なように見受けられた。建物は石造りだが、扉は鉄で出来ており、上の部分が牢格子のようになっていた。造られてからどれほど経つのか、あちこちが錆びているようだった。
奥様は手のなかの鍵束を器用に鳴らして、十個もついている鍵をひとつひとつ開けてゆかれた。それからランプに火を入れて、地下への階段を静かに下ってゆかれるのだった。やがてさほども降りぬ間に階段は終わり、奥様は立ち止まり、さよに先に行くように示した。
「私はこれ以上先へは行かれない。おまえ、その食事を持っていって、教えたようにするんだよ」
さよは黙って従った。通路にはほとんど灯りがなく、さよは暗いところが怖いので、しぜん歩みが速くなった。早く終えてしまいたい、と、どきどきを堪えて盆を運んだ。
やがて正面に壁が見え、その上のほうに、聞いていたとおりに郵便受けのような口が開いているのをさよは確かめた。いったん盆を足元に置き、その口から「敬太郎さま」と声を掛けた。四之宮の家の長兄がこんなところで存在ごと隠されてお育ちだなんてこと、いったい誰が信じるだろうかと思うと、さよは顔も知らぬ相手に憐憫をおぼえた。
やがて返事があった。
「ああ、新しい人だね。ご苦労。怖かったろう」
思わずどきりとしてしまった。さよも年頃の女だが、日々あれやこれやと仕事に追われるばかりで色恋などとはまるきり縁がない。そんな彼女の耳に思いがけず届いた二十一歳の男の柔らかな声色は、十八の女のみずみずしい心臓に、どきどきと脈打つことを思い出させるような響きを持っていた。
さよは盆を差し入れた。手が緊張して途中でつっかえてしまうと、向こうから引いてくれた。「あとで下げに参ります」と言うのが精一杯だった。一瞬ふれ合った指先が、いま熱を持っているようだった。
きびすを返して去ろうとすると、扉の中から声がした。
「名前はなんという?」
さよはぴたりと足を止めた。その声に引きとめられたように、そこから歩き出すことが叶わなかった。さよは胸を抑えた。
「さよと申します」と、消え入りそうな声で言うと、敬太郎は声をもっと柔らかくして、「それではさよ、ありがとう」と言った。きっと微笑んでいらっしゃるのだとわかった。
――呪われていらっしゃる、という。
四之宮の家の呪いを色濃く受けた子供。黒い涙の長兄。
敬太郎さま。
さよは走った。走って走って、奥様が待っていらっしゃるところまで一気にたどり着いた。「まあ、おまえ――そんなに走って、怖かったのかい」
さよはそういうことにしておいて、「暗いので、慣れませんうちは恐ろしゅうございます」と息を切らせながら言った。「そうかい。おまえにはすまないね。それで――敬太郎は元気だったかい」と、奥様はさよから目をそらして尋ねた。
ああ奥様もお辛いのだ。
「お元気そうでいらっしゃいました」
と、さよは答えた。
二.
新しいお役目をいただいてから、三ヶ月が過ぎた。さよは毎日毎日あの北の塔へ盆を運び、またそれを下げ、敬太郎と他愛のない話なども少しして、胸のうちに人には言えぬ甘やかな気持ちを育てていった。
敬太郎は穏やかで、頭がよく、さよの話を熱心に聞いた。悩みめいたことを打ち明ければ、適切な助言をくれ、楽しかったことを話せば、一緒になって喜んでくれた。むずかしい相談ごとにもよく乗ってくれた。そもそもが四之宮の家系はあらゆる方面に優れた者の育つ家系であり、器量も頭脳も人並みはずれた者がたいへん多い。黒い涙の呪いを受けているいっぽうで、世のあちこちで名を成している。現代の長男たる敬太郎もまた、一を聞けば十を知り、百のことを一で言い切る、頭の切れる男であった。
さよはそんな敬太郎に惹かれた。敬太郎に毎日の食事と、生活するに必要なものを届けるのは自分であり、ほかの女中仲間は北の塔に敬太郎さまがおられることさえ知らないのだという優越感じみた想いもあったろう。そしてまた、男などというものは使用人仲間の限られた顔ぶれしか知らず、自分を女としてやさしく見てくれるものだということさえ考えたこともなかったさよにとって、敬太郎は恋心を抱くにじゅうぶんな相手であった。そして敬太郎もまた、さよのはにかみ屋なところ、素直な気性に惹かれていった。美貌というには遠いけれど、気取らないうつくしさのようなものを内面から燐光のようににじませているさよと会い、彼女の声を聞くのが、彼の唯一無二の楽しみであった。
一日、また一日と、逢瀬の時間は長くなった。さよは何やかやと理由をつけては人目を盗み、北の塔に通いつめた。食事の盆には文をしのばせ、戻りの盆には返事がついた。敬太郎はさよが来るまで眠らずに待っていた。狭い窓口から二人、手を差し伸べあって、わずかな逢瀬を惜しんだ。
こんな形ではあれ、さよは初めて恋の甘さや楽しさを知り、敬太郎もまたさよを愛おしいと思い、囚われのわが身を嘆いた。自分が幽閉されている理由については母親から何度も聞かされていたし、それで納得もしていたつもりだが、愛する女を得て初めて、この薄暗い塔を出てゆくことを欲したのである。陽の光の下で、さよとともに笑いあいながら歩きたいと望むようになったのである。生まれて初めて人間らしい感情を得た若い二人の恋心は、ただ切なく募り続けた。
ところが半年が過ぎた頃、さよの行動がついに奥様の目にとまるところとなった。女中仲間から密告があったのである。彼女が夜な夜などこかへ抜け出して行くようだと。そしてそれが頻繁に起こると。
奥様はさよを部屋に呼んだ。そして、苦いものを噛み潰すような口調で、敬太郎を思慕しているのかと問い詰めた。もはやその顔に親しみも何もなかった。だんな様はただただ頭を抱えていた。
さよは初めこそ否定したが、だんだんきつくなる奥様の物言いに耐えられず、ついには泣きながら白状するはめになった。はい、申し訳ございません、敬太郎さまをお慕いしております――。
さよが言い終わらぬ間に、奥様はカッと顔に朱をさして、うな垂れるさよに湯飲み茶碗を投げつけた。だんな様がなだめるのも聞かず、この恩知らず、のら猫、と罵倒した。さよは黙って、ぶどう酒色の絨毯に手をついて耐えた。額が傷ついて血が流れたので、絨毯にしみをつけないよう、手で抑えてただ耐えた。
おまえまさか、敬太郎と触れ合ってはいなかろうねという問いには、さよも懸命に反論した。それだけはお信じくださいませ、決してご恩に背くことはいたしません、ほんとうでございます。
結局、さよのこれまでの働きと、顔面に瀬戸物がぶつけられるのもかまわずに顔を上げて必死に繰り返すところとをだんな様が分かってくださり、あるじと通じたことは不問とする、罰を与えたりはしない代わりにもうここには置いておけないという結論がくだされた。
さよは敬太郎と引き離されることとなったのである。
せめてあと一目だけという願いも叶わず、その日のうちにお暇を出され、さよは四之宮家を去った。敬太郎はことのしだいを母親から知らされた。さよという女中には暇を出したと、素っ気ない告知であった。
その日の夜、四之宮の家の使用人たちは不思議な声を聞いた。ある者はゆうれいの声だと怯え、ある者はもののけだと怯えた。悲嘆にくれるような、地に伏して嘆くような男の声がひとばんじゅう風に乗って聞こえた気がしたと、翌朝みな口をそろえたが、それが一体なんであったのか知るものはなく、風の音だと片付けられて、それで終わった。
さて、さよが去ったあと、彼女の役目を秘密裏に継いだのは久子という二十五歳の女中であった。さよとはいくらか仲がよかったようであり、いきなりいなくなったことを悲しんでいるようだったから、後釜にも据えやすかったのである。
いっぽう彼女はひどく無口で、大柄であった。立ち居振る舞いも重たげにどすどすとしており、顔立ちも決して整ってはいなかった。彼女を選んだのは奥方みちのはからいである。四つも年上で、しかも醜女なら、敬太郎もおかしなことはすまいと考えたのである。さらに寡黙なたちで、女中仲間とさほどおしゃべりもしない久子なら、北の塔の秘密が漏れることもないという計算のうえのことでもあった。
久子はよく務めた。敬太郎とよけいな会話もせず、言われたことだけをきちんとやり、言われなかったことはしない。奥方はそれをよしと見た。最初から変に色気づいたさよなどではなく、この女に任せておけばよかったのだと後悔もした。
このまま敬太郎もさよを忘れるだろう、古くからのしきたりに従って、万事なるようになるだろうという奥方の考えは、しかし思わぬところで誤算となる。
久子はほんとうにさよと仲がよかったのである。年齢こそ七つばかりも離れていたが、ふたりはまるで姉妹のようだねと、使用人仲間のうちでは有名だった。そしてさよは敬太郎との逢瀬のなかで、何度も何度も、久子姉さんがどうしたこうした――という話をしていたのである。
久子は、敬太郎を憐れんだ。呪いだか何だか知らないが、世に聞こえた四之宮家の長兄だのに死ぬまでこんなところに閉じ込められるという彼の運命をまず憐れみ、せっかく心を通じたさよと引き離されたことをまた憐れんだ。敬太郎はそれほどに傷心の様子だったのである。食事を運んでも手をつけず、ときには水さえ飲まないでは、二十一歳の男盛り、妙な病にもつけ入られよう。
そして久子は、口下手で不美人で人にあまり好かれず、たまにしゃべってもひどくどもってしまう自分にも忌憚なくうちとけてくれたさよを心底かわいがっていた。ほんとうの妹のように思っていた。結論、人の好い久子は二人ともを心から憐れんだのである。もっさりとした女だから心のはたらきも鈍いと思ったのは、奥方のこれ以上ない誤算である。
久子はある夜、いつものように夕食の盆を持ってきたとき、こちらに背を向けている敬太郎を小さな窓から覗き込んで声を掛けた。「今夜は、奥様とだんな様がお泊りの御用事です。お帰りは明日の夕方です。ここに鍵を置きますから、人目につかぬようにしてください」
敬太郎は驚いた。はじかれたように顔を上げ、格子戸にとりついて「なんだって?」と久子を見上げた。
久子は外から鍵を開け、そしてから敬太郎の痩せた手に握らせた。
「今夜はきちんと夕餉を召し上がってください。体力をつけてくださらねば、脱出行は辛うございますよ」
それだけ早口に言い聞かせ、久子は扉の前を辞した。おまけとばかりに、さよの生家の住所を記した紙も落とした。この夜、四之宮敬太郎は思いがけず女中の助けを借りて、二十一年目にしてついに外の世界に出たのである。
三.
ふた親のすでに亡い彼女にとって、生家が残っていたのが唯一の救いであった。取り壊しの手続きをとる者がなかったために残っていたのだという話だが、今となっては有り難く、さよは四年ぶりに生家に戻っていたのだった。四之宮の家を身一つで追い出され、路頭に迷わずに済んだのは、ただただ有り難いとしか言いようのないことではあった。
食べた気のしない夕食を遅く終え、弱々しい灯りのなかで一膳ぶんの茶碗を洗っていたときである、彼女は表の戸が静かに鳴る音を聞いた。誰かがたたいているようである。
はじめ、警戒が先にたった。空き家だった家に近ごろ女がひとり居ついたと知って、よからぬ男が戸をたたいていると考えたからである。まだ十八の小娘にしてはよく頭の回ったほうであろう、彼女は灯りを火皿に移し、頼りなくはあるがすりこぎを手に、用心深く玄関に回った。
どなた、と誰何の声をあげるか否か、彼女は迷った。発すれば女の声である。相手を調子づかせることにならないか。
悩みながら息を殺して、しばしそのままで待つと、戸が再びたたかれた。さよはまだ声をあげずにいた。さらに待つ。三度目に叩かれたとき、さよはふと、悪漢にしてはずいぶん優しく叩くものだこと、と初めてそこで訝った。そうしてよく耳を澄ますと、硝子戸の鳴る音のなかに、「さよ、さよ」という懐かしい声を聞いたのである。
さよは飛びついて戸を開けた。そこに立っているのが、ほかでもない四之宮敬太郎であることを認め、ただたまらずに抱きついた。敬太郎はさよをしかと抱きしめた。
「夢ではありませんか」と、さよは涙を流して繰り返した。敬太郎はそのたびに、「夢ではないよ、私だ」と答えた。ふたりの足元に、用をなくしたすりこぎが転がっていた。火皿の灯りがちろちろと燃えていた。敬太郎は感涙にむせぶさよの背中を優しくなでてやりながら、「久子がはからってくれた。明日の夕方まで父も母も帰らない」と告げた。
さよがつと身を離し、正面から敬太郎を見つめた。敬太郎も同じようにして恋人を見つめた。互いの瞳の中に同じ色を見て取ったとき、ちょうどろうそくの芯が切れ、穏やかな闇がふたりを包んだ。
逢瀬の夜から三ヶ月が過ぎた頃、さよは体の不調を訴えた。そのころ彼女は近くの料理屋で働いていた。昼どきの混み合う時間帯、なんでもないように店の中を動き回っていたさなか、いきなり料理の匂いに当てられて真っ青になり、手洗いに駆け込んだのだった。料理屋の主人夫婦はすぐに事情を悟り、翌日には彼女に暇を出した。
そう、このとき、さよには子がいたのである。むろん四之宮敬太郎の子である。そして、この先に起こる悲しい出来事の一端を担う子供である。
さよはもちろん初産だったが、幸いなことにつわりも軽く、順調に月を重ねていくことになる。彼女にはもう身寄りがなかったため、細かな面倒は料理屋の女将が診てくれた。もともと世話好きな女将は、気立てと気働きの良いさよを大変気に入っていたので、さよはそういった意味では恵まれたといえる。父親のことをうるさく詮索されたりもしなかった。どうやらあんたはわけありのようだねと言われ、そうなんですと目を伏せるだけで、女将はすべてとは言わずとも、だいたいのことを諒解してくれたのである。だからさよは、おなかの子供のことと、とにかくこれからの身の振り方を考えていればよかった。敬太郎の子であることは間違いないが、いまさら四之宮家におめおめと赤子を抱えて戻れるはずもなく、彼女の目は世間でどうにか暮らしを立てていくすべに向けられた。
落ち着いたらまたうちで働けばいいと、女将は豪気に言ってくれた。さよとしても、父のない子を抱えて女ひとり世間に放り出されることが怖かったので、素直に好意に甘えさせてもらおうかと思い始めていた。そんなふうにして、表面上はごく穏やかに月日が流れ、十月十日が経とうとしていた。
さよが産気づいたのは、十ヶ月目の真夜中だった。
七月、天気の荒れる夜だった。奇しくもいつかと同じように、雷が蒼白く夜空を閃く、激しい雨の夜だった。女将は飛んできてさよの枕辺に座り、いま産婆さんを呼んだから、あんたしっかりするんだよと元気付けてくれた。さよは気を喪いそうな痛みの中でうなずいて、女将の力強い手を握った。額に浮いた脂汗を女将が絶えずぬぐってくれた。
ひとがひとを産み落とすのは、こんなにも苦しいことなのかと、さよは思った。そうだわ、四ノ宮家のあの奥様も同じ思いをして敬太郎さまをお産みになられたのだ。ああ、それにしても苦しい。痛い。私のこのおなかの中で、敬太郎さまの子が懸命に手足をばたつかせ、外の世界を求めている。父親と同じように、外の世界に出たがっている。ああ、痛い。
産婆がやって来た。さよはかろうじて顔を見たが、ひどく老いたおばあさんだということ以外、何も認識できなかった。ついでに言えば産婆はひどく訛っていて、そのうえ歯が足りないのか滑舌が悪く、何を言われているのかさっぱり聞き取れなかった。
さよは苦しみにひたすら耐えた。無我夢中の痛み苦しみがふと引く一瞬に、意識がぱっと戻るのだった。やはり奥様のことを考えた。こんな思いをしてようやっと出会えたわが子を、あの方はあんな薄暗い、じめじめした塔に閉じ込めて――。
いよいよもってそのときが近づいてきた。からだじゅうのあらゆる血管が引き千切れてしまうのだと思った。目の前がちかちかと明滅した。さよは自分の声とも思えないうめき声を上げながら、それを耳に聞きながら、ただひたすらに耐え続けていた。女将の手をきつくきつく握り締め、ときに咆哮した。
敬太郎さま、敬太郎さま。さよは、あなたのお子を産みます。ああ、敬太郎さま。どうか力を貸してください。今、さよはあなたのお子を――
「出たよ!」
女将が裏返った声で叫んだ。それが耳に届いたとき、さよはそれまでの怒涛の苦しみがうそのように、ふっと全身から力が抜けるのを感じた。終わったのか。
何が何だかわからないうちに、産婆がへその緒をふつりと切った。さよは息を切らせながら、その光景を呆けて見ていた。ああ終わった。そう思うのがやっとだった。
そうしてさよはついに敬太郎の子を産み落とし、その産声を聞いたのだった。
――ところが、安堵はつかの間だった。喜びも一瞬だった。
最初に、赤ん坊の体を拭いていた産婆がいきなり悲鳴をあげた。何ごとかと思うよりも先に、今度は女将が青ざめて息を呑んだ。握っていた手が突き離された。二人はまるでこの世のものではない何かを見るような目で赤ん坊を見下ろし、次にゆっくりと、視線をさよに据えた。この時点ではまださよだけが何も知らなかった。
女将が唇をわななかせ、確かめるようにつぶやいた。「なんだい、それは……」
刹那、さよの脳裏に閃いたものがあった。
敬太郎の子を身ごもったと知ってから、喜びの裏にずっと潜んでいたものがあった。姿の見えない影とでもいうべきものがあった。その正体をこのとき見たと思った。そしてそれは遅すぎた。
赤ん坊は、まるで墨を溶かしたような、真っ黒い涙を流して泣いていた。
四.
人の口に戸は立てられぬ。
黒い涙を流す子を産んだ女の話は、水に落とした墨のように、じわじわと溶けて広まった。墨だけ掬い取ることは叶わぬ。真水に戻すことは叶わぬ。
その女を働かせていたという料理屋の女将は、重たい口をぽつぽつと開いた。「そうだよ、あたしもびっくりしたんだ……どこかわけありの女だったから、詳しいことは聞かずに置いてやったんだけど、いったい何に魅入られちまっていたんだろうね――」
その子を取り上げたという産婆はただ、「きっとあれは、何か人の道に外れたことをしなすったんだろうねえ」と、憐れむようにつぶやいた。「罰が当たったんだろうさ。それか、何かよくないものの呪いを受けちまったんだろうねえ」
四ノ宮家にその噂が届いたのは、秋口、庭木がいくらか散り始めた頃だった。
奥方みちは気も狂わんばかりに怒り、夫の雄三はただただうなだれた。なんということだ、なんということだ……なんということだ。呪いが外へ漏れたというのか。
夫婦はすぐに塔へ出向き、長男を問い詰めた。長男はかたくなであった。何を言われても知らぬで通した。みちは憤怒の勢いで久子をも問い詰めたが、あの夜の鍵の始末が上々であったことが綱となり、久子も追及を免れた。あらかじめよく似た鍵束をそろえておいた久子である。
みちは手を尽くしてその女を捜すよう、ほうぼうへ命じた。警察ともつながりを強く持つ四之宮家の力をもってすれば、いかに東京が広いとて、女一人探し出すことは造作もない。まして黒い涙を流すという赤子を抱えた女である。噂を逆にたどってゆけば、足取りはいとも簡単に取れた。
一月も経たぬうち、赤子を連れたさよが四之宮家に捕らえられてきた。四之宮家は騒然となった。使用人たちは口々に思い思いのことを話した。あれはさよだ、さよが戻ってきた、暇を出されたのではないのか、待てあの子供はいったいなんだ――。
久子は北の塔へ走り、敬太郎にそのことを伝えた。敬太郎は格子を揺らして出せと叫んだが、鍵が厳重なものに変えられていたために、久子にもなすすべがなかった。
四之宮の家の呪いとは一体なんなのですかと、久子はたまらず敬太郎に尋ねた。一体あなた様は、どうしてこのような扱いを受けていらっしゃるのです。ご存知なのでしょう。
敬太郎はぽつりと語り始めた。
――呪い、か。
久子は慎重に続けて言った。あなた様は呪いを強く受けておられるから、生まれてすぐこの塔に幽閉したのだと、奥様から聞きました――。
敬太郎は首を振る。
「いや、そうだね。ある意味では呪いと言えば呪いかもしれないね。四之宮の家を見舞っている不幸とは、実に根が深く、複雑なものなのだ。
……ずうっとずうっと昔の話だよ。江戸にまでさかのぼるほど昔のことだ。四之宮の家の初代の男は、それはそれはあくどい男だったようだよ。彼は悪神を信仰していた。名声や富や、よく回る頭や、欲しいものを手に入れるのに、悪いものと手を結んだ。そうして人生を大いに楽しんだ。ところが、やがて彼が臨終を迎えるとき、悪神は彼の枕辺で言ったそうだ、お前は支払いを済ませておらぬと。
支払い、だ。何のことだろうと、男は言った。悪神は答えた、今までお前はおれの力を借りて、人に不相応なほどのものを手に入れた。その支払いが済んでおらぬ。男は困り果てたそうだ。そう言われてもおれはもう死ぬのだし、おれの子孫から取り立ててもらうほかはない。それで悪神は大いに怒った。そして、四之宮の子孫代々に、初代の男のつけを払わせることとしたんだよ」
「それが黒い涙なのでございますか?」
敬太郎はうなずいた。
「それを知ってあわてたのが彼の息子だ。彼は祈祷師を呼んで悪神を祓おうとした。どうやら力のある祈祷師だったようだね。呪いはいくらか薄まって、実際に影響を受けて生まれるのは何代かにひとりで済むようになった。
ところが、黒い涙を流す人間が出る家など、気味が悪くて仕方ないだろう。四之宮家は悪い噂にいつもつきまとわれるようになった。あの家は呪われている、悪魔の家だ、よくないものに魅入られている――。そんな噂が消えない限り、四之宮家はいつまでも社会から後ろ指さされ続けるね。ただ涙が黒いというだけで、ほかはふつうの人間さ。私だってそうだよ。けれど人は、異質なものを嫌うだろう。怖がるだろう。
だから四之宮の家には、いつしかこの塔が建った。呪いを受けて生まれた子を、人知れず閉じ込めておくためのね。四之宮の人間は、いつも恐れなければならないんだ。自分の子が孫が、もしも黒い涙の子供だったら――。
私は母を恨んでやしないんだよ。むしろ逆さ。わが手で子供をこんなところに閉じ込めておかなくちゃならない、それがどれほどに辛いことか。いつ終わるとも知れない、得体の知れない呪いに苦しめ続けられることが、どれほど酷か。それが四之宮の家に課せられた、ほんとうの罰だったのではないかと思うよ」
なんということかと、久子は身震いをした。それでは今のだんな様も奥様も、敬太郎さまもみな、見えない手に首を絞められているようなものではないか。振りほどくことのできない手にがんじがらめにされて、悪魔の鎌を首筋に回されているのではないか。気の遠くなるほど大昔の罪を過去から現在へ、現在から未来へ、ただ怯えて目をつぶって、送り遣っているだけではないか、この家は。
「愚かな家だろう。四之宮家は。――さあ久子、さよの様子を見てきておくれ。かわいそうな私の子を出来る限り守っておくれ。お前にしか頼むことができないのだ。久子――」
と敬太郎が久子の手を取ったとき、中庭で銃声が響いた。
敬太郎の顔からすうっと表情が消え、久子はその場に凍りついた。
何が起こったのか、見てもいないはずなのに、二人とも知っていた。
激昂した奥方みち。その手の中にある、だんな様の猟銃。見てもいないはずなのに、確かに見えている。その悲しい光景が。
呪いに怯え、我が子を幽閉する悲しみに耐え、気が狂いそうな日々の中で、悪神が四之宮の家を赦してくれる日を、呪いが消えてなくなる日をただ待ち続けていたなかで、今また繰り返された悪夢。
それを目の前に突きつけられたとき、二十年前の雷の夜から少しずつ傾いていたてんびんの針がついに振り切れた。
「敬太郎さま……」
「見てくるんだ、久子……今のは何だ。見てきてくれ」
唇を噛んできびすを返し、走り出そうとしたとき、久子は薄暗い通路の少し先にたたずむ人影を認めて立ち止まった。「だんな様?」
いつの間に入ってきたのか、敬太郎の父、四之宮雄三がいま、両腕をだらりと下げて、力なくそこに立っていた。目にはなんの光もなかった。ただただ二つの穴が闇をたたえてわだかまっているようだった。
久子がここにいることなどおかまいなしというように、雄三は息子の目を見つめ続け、その場にひざを折った。
「敬太郎――」
哀願するような声だった。「止めたんだ、止めたんだが……駄目だった……あいつは――」
久子は、その意味するところを察して顔を覆った。さよが死んだことを、彼女は心から悲しいと思った。彼女にとって、あの少し内気なさよという少女は、ほんとうに妹のような存在だったのだ。
あんたが幸せになるといいって、あたし思っていたのに。
こんな形でその願いが裏切られるなら、いっそ願うのじゃなかったと、久子は嘆いた。こんなことってないわ、さよ。
敬太郎の嗚咽の声が聞こえた。もう何もかも手遅れだと知って、敬太郎がなすすべもなく泣いているのだった。久子は一瞬だけ敬太郎を振り返り、その顔に黒い涙が幾筋もつたっているのを見たが、見るまいと思い直して再び背を向けた。
黒い涙。
ただそれだけのことが、悲劇を呼ぶ。
久子はだんな様に肩を貸して立ち上がらせ、ゆっくりと、もと来た道を戻り始めた。だんな様はおとなしく久子に伴われて通路を歩いた。だんな様もまた泣いていた。久子も泣いていた。ふたりが歩くたび、涙が床にこぼれ落ちたが、それはわずかな明かりの中で悲しいほどにきらきらと輝く、透明なしずくだった。
中庭にさよが倒れていた。胸を朱に染めて、あおむけに倒れていた。その傍らには赤ん坊がいた。彼女もまた動かなくなっていた。まるでただ安らかに憩うかのように丸まっている幼子の、その目じりに黒い涙が溜まっていたのを、久子は見た。殺されたのは、どちらが先だったのか。
二人からいくらか離れて、奥方がへたり込んでいた。糸が切れたように笑って、笑って、胸に猟銃を抱え込んでいる。すでにその目は焦点を喪い、涙を流しているにもかかわらず、乾ききっていた。
そしてその三人を――正しくは、ひとりと二体を――、使用人たちが取り囲んでいる。みな遠巻きに、震えながら、目の前の惨劇を受け止めきれずにただ呆然と。
そのときである。久子はだんな様を抱えたまま、敬太郎の声を聞いたように思った。確かにそれは敬太郎の声だった。反射的に今出てきたばかりの塔を振り仰ぐと、彼女につられるかのように、全員がはっとして塔に首を振り向けた。奥方だけがあらぬ方向を見つめていた。
四之宮の家の人間みなが見守る中で、北の塔はゆっくりと炎に包まれた。
――これで終わりだ。終わりにしてくれ。
敬太郎の声だった。
私がすべて持っていく。この塔に閉じ込められてきた人間たちの恨みつらみも、親たちの苦しみも、この炎が浄化する。もう終わりだ、私で終わりだ! 聞こえたか!
ひとり、またひとり、はじかれたように塔のそばに駆け寄った。不思議なことに、塔はそれ自体が燃えているようだった。すぐそばの草木にさえ燃え移ることなく、火の粉さえ飛ばさず、まるで塔が自ら燃え落ちることを望んでいるかのようだった。中に閉じ込めた計り知れない思いごと、天へ運んでいくかのようだった――。
この北の塔で何が行われていたか、知らないはずの使用人たちでさえ、呆然として燃える火柱を見つめていた。自分たちが日々なにごともなく暮らしているその傍らで、この見慣れた塔の中で何があったか。ここには誰がいたか。そんなことを何も知らないはずなのに、涙を流しているものさえいた。
久子ははっとして皆の顔を見渡した。燃える塔の周りを取り囲む面々、ひとつひとつを。
――なんてこと。
夜空に羽根を広げる真紅の鳥のように、轟音とともに焼け落ちる塔を、燃え上がる炎を、みな呆けて見上げている。
煤けた頬を流れる涙は、みな一様に黒かった。
完
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2007/05/23(Wed)03:40:19 公開 / 有栖川
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■作者からのメッセージ
少し人目にさらしてみようかという気持ちのする作品になりましたので、久しぶりに投稿させていただきます。ほとんどの方ははじめましてだと思います、有栖川と申します。
長々と場所を取りますが、ご容赦いただければ幸い。