- 『青春航路【完】』 作者:ゅぇ / リアル・現代 未分類
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全角26014文字
容量52028 bytes
原稿用紙約83.35枚
でもやっぱり、あなたを好きでよかったと思うよ。
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「青春航路」
――思いがけずはじまった、あたしたちの関係。
「お願い、一緒に来て」
せっぱつまったようなみっちゃんの頼みを、あたしはしぶしぶ引き受けた。しぶしぶながらも引き受けたのは、6割が友情。4割が好奇心だった。
「だって女の子ふたりでもいいって言うし、やっぱあたし一人で行くのも怖いし……」
「でもいったいさ、何を思ってこんな……」
「いっぺん経験してみたかったんだってば」
みっちゃんの運転する車で、待ち合わせの場所へ向かう。駅ビル前の大きな駐車場を、待ち合わせ場所に指定したらしい。
「かっこいいんだって、まじで」
「でも料金とか、高いんでしょ?」
まあねー、とみっちゃんが苦笑をたたえる。そんなに稼ぎがいいわけでもないのに、とあたしはあたしで呆れて苦笑した。
「いくらなの?」
「1時間5千円で、それ+デート代と交通費」
「やだぁ、それ全部みっちゃんが払うの?」
1回だけだからさ、とみっちゃんは言う。けれどこういうのってクセになるんじゃないのかしら――そう思うと、やっぱり他人事ながら心配だった。
仕事終わりのサラリーマン。学校帰りの中高生。手をつないで歩くカップル。
とにかくたくさんの人でごった返す駅ビルを通りすぎ、その前に広がる大きな駐車場へ車はすべりこむ。ぴぴぴ、といいながら発券機から黄色い駐車券が出てきた。
駐車場のなかは、時間帯のせいなのか、それともいつもこうなのか――車でいっぱいだった。エンジンをとめ、みっちゃんは携帯をいじりはじめた。電話らしい。
「あ、もしもし? 美津子だけど」
――楽しそうな顔をしている。
「そうそう、今入ってきた車。デミオだよ、分かる?」
車のなかから、窓越しに外を見つめていたあたしは、すぐにきょろきょろしながらこちらに歩いてくる若い男を見つけた。電話を切ったみっちゃんが、あれだよあれあれ、とあたしに叫んだ。
その若い男は、あたしたちの乗ったデミオを見つけるとパッと嬉しそうな笑顔を浮かべて――あたしたちは、ふたりそろって車から降りたのだった。
明るい茶髪。ドルガバのTシャツに、少し洒落たジーンズ。首には同じようにドルガバのネックレスが光っていて、薄めのサングラスをかけていた。もう夕方なのに、と思わず笑いそうになったのを、覚えている。
そのひとの名前は、眸《しゅん》といった。源氏名である。出張ホストだった。
□ □ □ □ □
彼を指名したのはみっちゃんで――彼はあたしにも気を遣ってくれたけれど――だからあたしがふたりの後にくっついて歩く格好になった。何だか妙な感じだ。よそ様のカップルのデートに、首をつっこんでいるかのような。そんな妙な居心地の悪さを感じる。
(手とかつなぐんだ……)
へえ、と思いながら一応にこにこと笑うだけ笑ってあとに従う。眸は明るく笑って、みっちゃんが伸ばした手をとった。意外とみっちゃん積極的だよね、と思った。
でもやっぱり、どうも気まずい。いや気まずいというよりは、自分が少し情けないような気持ちかもしれない。かといって、別に自分が眸と手をつなぎたいわけでも、出張ホストと遊びたいわけでもなかったのだけれど。
「みっちゃんと友達なって、どれくらいになるの?」
「……6年目? それくらいだよね、みっちゃん」
うんそうだねそれくらい、とみっちゃんがうなずく。ひとりで行くのは、と不安がっていたわりには、心底楽しそうな表情だった。
(これ、あたしがいないほうがいいんじゃ……)
「へえ、仲いいんだね。じゃ大学時代からの友達かぁ」
明るいし、よく喋るひとだ。暗くて無口だったら仕事にもならないのだろうけれど、それでも明るいひとだな、とあたしは少し感心した。客観的に、うしろから見ているので分かる。ほんの欠片も、しんどそうな顔をしたり、疲れたような顔をしたりしていない。会ったときからほんの一度も。
相当疲れるだろうな、と思った。
案の定、眸がトイレに行っている隙を見はからってみっちゃんがあたしに言った。
「ね、ね、ふたりにしてもらっていい?」
勝手なことを言っている、と自覚した顔である。ほんとうに申し訳なさそうな顔をしながら、それでも完全に眸に熱をあげてしまっているのか切実に訴えてきた。
(助かった)
「いいよいいよ。何かふたりの後にくっついていくの、微妙だもん」
「ごめん!! 埋め合わせは必ずするから!」
「高いからね?」
「んっ!」
笑ってあたしは承諾した。彼がトイレから出てくる前に、あたしはその場を離れた。
“ありがと!! 超楽しかったよぉ☆ 今度ケーキおごるね(○´・д・)”
その日の夜中23時ごろに、みっちゃんからはそんなメールが入っていた。
一度だけだから、というみっちゃんの言葉は、嘘になった。一週間に一度は、眸を指名してデートを重ねている。とても楽しそうな表情で、あたしと遊ぶときのみっちゃんの話題は、ほとんどが彼のことになっていった。話を聞くのは楽しい。でも、高いお金を払って男と会う――そのことに関してだけは、やっぱり何ともいえない。別に反対するわけでもないけれど、諸手をあげて大賛成、というわけでもなかった。けっして稼ぎの多くないあたしにとっては、そんな娯楽はナンセンスなだけだった。
“菜都《なつ》も誰か気に入ったホスト、指名して遊んでみなよ”
みっちゃんは何度もそういうふうに言ったけれど。ただならともかく、せっかく稼いだお金を1時間5千円なんていう単位で飛ばしたくない。雑誌も買いたいし、服も買いたい。お洒落をしたい。美味しいランチやディナーもしたいし、旅行だってしたい。
恋人でもない男の子と遊ぶためにそんなお金を使えるほど、あたしは裕福なわけではない。
□ □ □ □ □
眸と偶然会ったのは、みっちゃんが眸を頻繁に指名しはじめてから二ヶ月ほど経った初夏のことである。
あたしが仕事帰りにいつも利用しているJRの駅は、ここらへんでは一番大きくて栄えている。改札機に定期をとおして、いつものホーム、いつもの場所に立つ。この場所から電車に乗ると、地元駅で降りたとき目の前に降り口がくるから都合がいい。もう夜の11時だった。疲れきってあたしは思わず大きな溜め息をつき、すぐ傍にあるはずの柱にもたれかかろうとした。すぐ傍に柱があると思ったら、柱とあたしのあいだにもうひとり、人間がいた。
「あ、すみませ……」
「いえ、いいスよ」
ほとんど相手の顔も見ずに、あたしは適当に謝って体勢を立て直す。もちろん柱にもたれることはあきらめた。
「……ナツさんじゃないス?」
とにかく――とにかくほんとうに疲れきっていて、注意力も散漫だったから、突然名前を呼ばれてあたしは心底驚いた。ぎょっとして傍らを見上げると、そこに明るい茶髪の青年が立っていた。ぶつかった相手だ、と位置的にすぐ知れた。
「………………」
「ほら、みっちゃんの友達の!」
(あー……)
心のどこか奥底では、忘れたことなどなかったような気がする。みっちゃんからは話をずっと聞かされていたし、名前はすぐには出てこなかったけれど、“あのひとだ”とすぐに分かった。
「ああ、あの……」
「眸! 眸です、覚えてる?」
ええ、うん、とあたしはうなずいてみせた。みっちゃんのデートについていったときから、もう二ヶ月が過ぎている。顔なんてもう忘れかけていたのだけれど、今こうして向き合ってみると、なるほどこんな顔だったかなと思い出すこともできた。
シャープな顔だち、少し長い前髪のなかから彼がこちらをまっすぐに見つめている。あたしが見つめかえすと、彼は白い歯をのぞかせてにかりと笑った。
「仕事帰り?」
「うん。眸くんは」
「眸でいいって」
「…………いや、あの。まあ、とりあえず眸くん」
「仕事帰り。ナツさんと一緒」
「……ナツでいいよ」
「ナツと一緒」
親友の恋人とふたりきりで会っているような、妙な罪悪感がある。別にここで指名料が発生しているわけでもなく、つまりはタダで男前のホストと会話をしているのだから――眸の客が見れば激怒するだろうな、とあたしは思った。
「ナツは急行待ってんの?」
「そう。座ろうと思えば各停がいいんだけどね、疲れちゃって。座るより速さを重視」
あたしの降りる駅と、彼の降りる駅は、驚いたことに3つしか違わなかった。イマドキな見た目、ホストという職業、どうもあたしにとっては縁遠い存在だという感覚がある。それがこんなに近所に住んでいるなんて、とあたしは素直にその驚きを口にした。
「ホストっていうか、別に今俺たち仕事の関係じゃないでしょ」
その言葉をかき消すかのような騒音をたてて、ようやく待ちに待った急行電車がすべりこんでくる。眸との会話よりも、この急行電車が空いているかどうかのほうが大事。
「でもさ、その仕事。苦労が多そうだよね。けっこう力使うんじゃない?」
あたしはなかば適当にそう言ったのだけれど、そのとき彼は、ほんとうに優しそうな表情で微笑んだ。
「ナツってどんな字書くの?」
急行が空いているのを確認して、あたしはほっとする。24歳女性の行動としては、まったくもって奨励されるべきものではないのだろうけれど。
あたしはさっさと電車に乗り込み、眸よりも先に椅子に腰をおろしてからようやく彼の質問に答えた。
「野菜の“菜”に、“都”って書いて、菜都」
ぶっ、と彼が吹き出した。
「野菜の“菜”って……普通は菜の花の“菜”とかさぁ」
「そんなにおかしかった? いっつもクセなんだよね、ひとに名前伝えるときって、反射的に野菜の“菜”って言っちゃうの」
急行電車のボックス席。あたしが窓際に、眸が通路側に座って、ふたりで笑う。笑った瞬間に、このひとときがやけに楽しく感じた。
別れるときには、すでに彼はあたしのことを“菜っちゃん”と呼んでいた。
――名刺を求められて、あたしは何ということもなく渡してしまった。そこに書いてある肩書きを確認したかったのか、それともメールアドレスを知りたかったのか。現実的にものを考えればやっぱり前者なんだろうけど、どうも今となっては分からない。
□ □ □ □ □
――偶然プラットホームで出会ったその日から、メールが頻繁にくるようになった。さりげなく指名を求めているのか、それとも単純に友達として付き合おうとしているのかが分からない。
『遊ぼ^^ 俺、明日の夜7時くらいに仕事終わるから☆』
「ごめんね。あたしお金そんな持ってないし、指名できないからさ(‘Д`q*)」
金づるにされてたまるか、という気持ちがあったから、あたしはやんわりと断ろうとした。
『いや、別に仕事じゃないじゃん♪ お金とか当然そんなのいらないし、デート代も俺持つから遊んでよ(´∀`)』
――そう返信がきた。
あたしから彼に連絡することは、けっしてなかった。来たメールには必ず返信をしたけれど、自分からメールすることも電話をかけることもなかった。自分から遊ぼうと誘うこともなかったし、どちらかといえばたぶんそっけない態度だったと思う。
女とデートすることで稼ぎを得ている男にハマることが怖かった。ついでに“会ってもらってる”と思うのも嫌だった。向こうが“会おうよ”と言うから会っているんだ、という予防線が欲しかったのである。
神原光平《かんばらこうへい》。それが眸の本名だった。23歳、あたしよりもひとつ年下の男だった。
偏見なのか何なのか、光平から何度もデートに誘われ、何度も好きだと言われ、もちろんあたしがお金を出すことなんてこれっぽっちもなく――そしてあたしも光平のことをどんどん好きになっていったにも関わらず、あたしはどこかで冷めていた。
同じことを客にも言っているのだと考えると、彼の甘い言葉を信用するなんてことはとうてい出来なかった。彼に惹かれれば惹かれるほど。
それから当然、光平とプライベートで会っていることも、彼を好きになっていってることも、みっちゃんには絶対に洩らしたりしなかった。
「どこ行くの?」
海、と光平はハンドルを握りながら答える。端整な彼の横顔をちらりと見てから、あたしはふたたび前を向いた。光平の機嫌が良くない。
「なんでいきなり海?」
「元彼にいつも連れて行ってもらってたんだろ? みっちゃんから聞いた」
「みっちゃんが?」
「俺とデートするとき、いつもおまえのことを話すよ。あの子」
みっちゃんもお喋りだ。よけいなことを、とあたしはひそかに眉根を寄せる。光平はしばしば嫉妬した。みっちゃんから仕入れたあたしの元彼情報に。もちろんみっちゃんは何も知らないんだから、喋るなといったって不自然なだけなのだけれど。
光平に嫉妬されるのは嫌ではない。だが、それが独占欲の強さから来るものなのか、あたしを好きだという気持ちから来るものなのかをはかりかねていた。いつのまにか“おまえ”と呼ばれるようになったのも、けっして嫌ではなかった。でも常にあたしはもやもやとしたものを心に抱えていたから、嫌ではないもののどことなく不満に感じていた。
「……俺のこと好き?」
防波堤の駐車場に車をとめて、しばらくの沈黙の後に彼が訊ねた。
「…………」
(好き)
心のなかでは、はっきりと言える。けれど言葉は詰まる。
「なあ。好き?」
「……好きよ」
「俺がホストやってても?」
この仕事さえしていなければ、あたしはもっと素直に彼の言葉を信じることができるだろう。けれど彼がこの仕事をしていなければ、あたしたちは出会うことなんてなかったに違いない。
「うん」
「眸のほうが好き?」
「光平が好きよ」
次にくる彼の言葉を予測しながら、あたしはそれでも彼の望む答えを言ってやった。
「ごめんな、ホストなんかやってて」
おまえのためにホストやめるよ、なんて言葉が来ないことをあたしは知っている。好き。好き。大好き。そんな言葉を交わしてから最後にくるのは、決まって“ごめんね”なのだった。それが気に入らない。別にホストやめるよ、と言ってほしいわけでもないけれど、最後に謝るのならいちいち好きかどうかなんて訊いてくるなと思う。
「…………」
黙るあたしに、もう一度彼はごめんと謝る。
いいよ、とあたしはぽつり呟いた。
光平のことが好きだった。明らかに恋だった――でも、疲れる。
何だろうな、疲れる。
【中】
空はぬけるように青い。あんまり綺麗な青空というのも切なくなっちゃって、どうもだめだわ。
ビル下の小洒落た広場。あたしはそう思いながら、パストラミサンドイッチのラッピングをぺりぺりとめくった。
光平と親しくなってから、もう四ヶ月近くが経っている。
(秋になっちゃった)
――もっとはやくに、もっともっとはやくに彼とのあいだに距離を置こうと思っていたのに。
あたしはやっぱり、自分から彼にメールや電話をしたり、遊ぼうと誘ったりすることはなかった。けれど彼の誘いを断ることも、できなかった。彼が会おうといえば会い、遊ぼうといえば遊び、抱きたいと言われれば体もあずけた。セックスが嫌いなわけでもなかったし、相手が好きな男とあれば断れるはずもない――少なくともあたしには断れない。拒もうと思ったって、キスをされてスカートのなかに手を伸ばされたりしたらもう終わりだった。意志が弱いと言われればそれまでだけれど、でもあたしは、もうそんなところまで光平に浸りきってしまっていたのである。
ヴヴヴ、という携帯の振動に気付いて、あたしはサンドイッチを片手にポケットから携帯を取りだした。光平からの電話だった。
「……もしもし」
嬉しい、という気持ちはけっして悟られてはならない。悟られたくはない。
『もしもし? 菜都? いまランチ中?』
「うん、そう」
光平の仕事スケジュールを、あたしは把握している。それと同じように光平も、あたしのスケジュールをきちんと把握していた。この時間はだいたい昼食中だと知っていて、電話をかけてきたのだろう。
『今日何時に仕事終わる? 晩飯食べて帰ろうぜ』
「……みっちゃんと仕事じゃなかったの?」
あたしはみっちゃんにさえ嫉妬する。ほかの客全員に、嫉妬する。けれど光平が不機嫌になるほど、あたしはまったく自分の嫉妬心を彼に見せない。
『みっちゃん仕事が入って、キャンセルになったんだよ。だから暇でさ』
暇だから、という理由で会ってほしくない。けれど暇だから、という理由で一番にあたしに声をかけてくれるのも嬉しい。
とにかく自分の心のなかに、ふたつの相反する感情がひそんでいて、あたしはそれらをもてあましているのだった。
――あなたを誰にも渡したくない。
誰にも渡したくないなんて、もともとあたしの所有物なんかではないというのに。重いと思われるのも嫌。そんなこと、彼に言えるわけがない。あとになって、“俺は遊びのつもりだったんだけど”。そう言われたら立ち直れない、なんてこともあたしは考えている。疑ってばかりだ。ああ、なんて嫌な人間。溜め息がでる。
(断ろう。付き合ってらんない)
『車で迎えに行くから。帰りに夜景でも見て帰ろ』
「……何時に終わるかまだ分かんないよ」
(何で今日は無理なのって言えないの、ほんと嫌になる)
『最近イタリアンとか行ってないじゃん。久しぶりにパスタでも行こうぜ』
「……遅くなるかもしれないけど。待てるの?」
ああ、と思った。
しまった、と思った。
まただ、と思った。
『余裕。漫喫でも行って昼寝しとくし』
「わかった。じゃあ……仕事終わったら連絡する」
『はやくな!』
会話が終わったとき、すぐに電話を切るような男だったらまだ離れやすかったかもしれない。けれど、光平はけっして自分が先に電話を切ったりしなかった。そんな些細なところが、さらにあたしを彼から離れがたくしている。月並みな表現でいえばそう、そういう彼の性格に“一縷の望み”を見ているのだった。
仕事に戻ってから、気持ちが浮きたっているのを自覚して――またがっくりきた。
座り慣れたレガシーの助手席で、あたしは笑っている。細身のファッションジーンズに白い開襟のシャツ。黒いロングカーディガン。こんな適当な格好でも、光平はまったく嫌そうなそぶりを見せない。
ともかく彼の態度を観察し尽くそうとしている自分もどうかと思ったし、彼と会っているこの時間を心底楽しんでいる自分も、それはそれで情けなかった。
光平の左手が、あたしの右手を優しく包んでいる。その暖かみが嬉しい。
「会えて嬉しい」
芝居がかっているふうでもなく、彼はそう言った。職業柄なのか性格なのか、そういうことを言うのに抵抗はないようであった。
「菜都は?」
そうやって確認するのが癖なのか。
「うん」
なるべくはっきり言わずに、あたしは笑って流すことにしていた。それが彼にとっては不満らしい。
「嬉しい?」
と、ふたたび光平が訊ねてきた。あたしは思わず出そうになった溜め息を隠しながら、笑ってうなずいた。
“愛してるよみっちゃん♪”
彼がみっちゃんや他の客にどんなメールを送っているか、どんな言葉を与えているか、あたしはよく知っている。光平はあたしの前で、堂々と彼女たちにメールを送るし、彼女たちからのメールをあたしに見せては“俺に彼女がいるなんて知りもしないで笑えるよな”と言ったりもするのだった。
最低だ、と思いながらもあたしは優越感を覚え、同時にこの男の言葉なんて信用できない、と憂鬱になる。まったくもって、彼に惹かれはじめてからのあたしの心は、混沌としている。しかも光平はあたしのことを“彼女”だというけれど、「付き合って」とも言われた覚えはないし、「付き合って」と言った覚えもない。ただ確かに、傍目にみればあたしたちは間違いなく仲の良いカップルなのだろうし、彼があたしを彼女だといっても何の違和感もないのだろうけれど。
「菜都、キスしよ」
あたしの家の前まで送ってきたところで、車を停めて彼は言った。拒もう拒もうと思いながら、やっぱりあたしは無言で彼の唇を受け入れる。光平のことに関してのあたしの意志の弱さは、もう天下一品だ。
一度。二度。三度。光平があたしの唇にキスするたびに、泣き出したくなる――ねえ、あたしがどれだけ好きか分かる?
もうだめ、もうやめておかないと。もうここらへんでやめておかないと。そう思えば思うほど、心が前につんのめる。こける、と分かっているのに。こけて必ず怪我をすると分かっているのに。
「寂しいな」
独り言をいうように、光平がつぶやいた。あたしが車を降りようとするたび、あとちょっと、と言って引きとめる。時間も遅いし、とか何とか理由をつけて無理に車を降りればいいのだけれど、あたしにはやっぱりそれができない。
「帰りたくない」
あたしは曖昧に笑ってみせた。
「車置くところがないでしょ」
(断る理由がそんな……)
我ながら稚拙な理由だと思ったけれど、確かに車を置くところはない。軽く笑って、あたしはたしなめるように光平の頬をそっと叩いた。
「じゃあ俺んち泊まって」
「……今から!?」
「嫌?」
でも、とあたしは渋ってみせる。内心は嫌なわけではない。けれどその誘いに、嬉々として乗るようなことはしたくなかった。
「嫌じゃなかったら泊まってけよ。近いんだし、俺んち帰ったら車置くとこも問題ないでしょ」
そうしてあたしは流される。
彼の家には、両親とお姉さんがいる。あたしが行くと、いつもお母さんとお姉さんがあたしを笑顔で出迎えてくれるのだった。それは嬉しいことだった。やっぱり優越感を覚えたし、こういったことは客には与えられていない特権だと思うと安心した。
「いつも光平がお世話になってるわね」
照れたように知らん顔をしている光平の横で、いいえこちらこそ、と答えるときの嬉しさ。ホスト眸ではなく、二十三歳の男神原光平の傍らにいるのだという安堵感。今あたしが見つめているのは眸ではなく、神原光平なのだという幸福感。
そのどれもがあたしを満たすけれど、しかしそれらはすべていつ崩れるともしれない綿菓子のようなものにも感じられた。
光平の部屋は広くない。けれどこの間、一緒に大掃除をしたおかげでずいぶんとすっきりしてみえる。以前はベッドから机からそのまわりまで足の踏み場もないほど散らかっていたが、今はもうベッドまわりは綺麗なフローリングで、机の上もしっかり片付いていた。
部屋に戻ると光平はすぐにパソコンの前に座り、客からのメールに返信をはじめる。そしてあたしは手持ち無沙汰に、ベッドに寝転がりながら雑誌をめくるのだった。嫌な時間ではない。離れていると嫉妬心もつのるけれど、こうして同じ時間を共有していると驚くほど心は穏やかになる。光平が、客には絶対に見せないような――茶髪をちょんまげに結わえたパジャマ姿で目の前にいるからなのだろう。
「あーもう、こんな仕事めんどくさいな」
(じゃあやめてよ)
思ってもあたしは言わない。どうしたらフェアでいられるだろう、なんてナンセンスなことを常に考えている。恋なんてものにフェアを期待するほうが間違っている。
でもあたしはいつでも50:50でいたいのだ。どっちかが“会って欲しい”と思っていてどっちかが“会ってあげてる”と思ってる――そんなのは嫌だ。会うなら、どちらもが同じだけ“会いたい”と思ってる。そういうのが良かった。
“会ってあげてる”。そう思われたくないから、あたしはいつも柔らかな殻で心を覆っているのである。
「やめようかな」
(……どうせやめないくせに、さ)
口ではハイハイと言いながら、あたしは雑誌に気をとられているふりをした。ねえ、あたしがどれだけあなたのことを好きか分かる?――そう思いながら。
□ □ □ □ □
きっかけは、本当に些細なことだった。
光平の家に泊まった翌朝、たまたまあたしは光平のパソコンでネットを繋いでニュースを見ていた。
「菜都〜、ちょっと俺のかわりに返信して」
「なに?」
「客のメール。もうめんどくさいからおまえ返信して、俺が文章言うから」
受信箱あけて、と彼の指示にしたがってあたしはマウスを動かす。このときやっぱり少しの優越感があったのは事実だった。あたしはマウスを動かして受信箱をクリックしたはずが、うっかり間違えて送信箱をクリックしてしまったらしい――ぱっ、と画面が切り替わった。みっちゃんへの送信メールが数通あった。
件名だけでなく、一緒に本文も見られるようになっている。見ようと思わなかったあたしの目に、自然とその送信文が映った。つい、見た。
“そうだねー、けっこうその子の相手は大変だよ壁|。っω-)好きな人ならまだしも、やっぱ好きでもないのにねぇ(汗”
まずその文章が目についた。すっ、とあたしは自分の心のなかで熱していたものが一気に冷めた思いがした。
視線を移して、前後の文章を読んだ。明らかにあたしのことだ、と思われた。
「菜都? 誰からメール来てる?」
「……え? ああ、あゆみさんて人と、さやかさんて人……」
「じゃああゆみって人には……」
別に、今までの態度や言葉が全部嘘だとは思わない。彼はあたしからお金をとろうとするそぶりなんて一切見せなかったし、むしろプレゼントにしたってデートにしたって自分からあたしにお金をかけてくれた。一緒にいるときはあたしに気を遣ってか携帯だってほとんど触らなかったし、地元の友達に会っても堂々とあたしを彼女だと紹介してくれた。
仕事相手に彼女の話なんてできないだろうし、当然その客だけを愛しているようなふりをしなくてはならないことだって分かっている。
――けれど嫌だった。ほんとうに嫌だった。心臓に穴があくような気持ちがした。
“好きな人ならまだしも”
あたしの心のなかに、その言葉だけがくっきりと灼きついてしまったのだった。
それがきっかけだった。
あたしは憑かれたように光平の電話番号やメールアドレスを削除し、そうして一切の彼からの連絡を拒むようになった。
連絡が来なくなるのも嫌だったから、早々に電話を変えた。家の前にレガシーを見つけると、そっと隠れてマンションの裏へまわるようにした。
ねえ、あたしがどれだけ好きか分かる?
そんなに広い街なわけでもない。電車だって同じ線を使っているのだから、ばったり会うことだって考えられた。けれど光平と出くわすことはなかった。光平が急行を利用するのは分かっていたから、あたしはなるべく各停を利用するようにしたし、彼が客とデートしていそうな繁華街へは行くのをやめた。
忘れられる。
これはひとつの青春航路。長い人生のなかで、ちょっとの時間を共有しただけのこと。長い人生のなかで見てみれば、もう二度と会うことのない行きずりのひと。
絶対に忘れない、忘れられないなんて、そんなことはあり得ない。どんなに好きだと思ったって、どんなに忘れられないと思ったって、時間が経てば少しずつ思い出は色褪せ、記憶も薄れていくに決まっている。
そうしていつか、思い出しても胸は痛まない。そんなふうになっているに違いない。これ以上苦しい思いをする前に、さっぱりあきらめてしまえばいいのだ――あたしは数日間泣いて過ごし、それからぱたりと泣くのをやめた。涙が出そうなときには、無理やりひとりで笑って、そうして仕事に打ち込んだ。
半年かかった。
半年経ったころには、胸の痛みも薄らいでいた。
(人間なんてこんなもんよ)
時間がすべてを解決してくれるって、これあながち嘘じゃないのね。
【下】《前編》
メールアドレスを削除しても、頭は覚えていた。
電話番号を削除しても、頭は覚えていた。
だから何度も何度も電話のボタンを押しそうになってはやめ、押しそうになってはやめ、そうして必死で乗り越えてきた。あたしはそうやって、ぎりぎりのところで何とかこらえてきた。
――半年かかった。最初の一ヶ月は、毎晩締めつけられる胸の痛みと恋しさに、涙を流してばかりいた。
次の二ヶ月間は、“もしも彼がホストじゃなかったら”“もしも自分がもっと素直になれたなら”――そんなことばかりを考えて泣いた。
その次の一ヶ月間は、あたしの苦悩を知ってか知らずか仕事の忙しさが増し、光平のことを考える余裕がなくなっていった。意図的に仕事に打ちこんだし、友だちからの夜の誘いもできるだけ断らないように心がけた。酔って帰れば、たとえ泣きながらだってすぐに眠れたし、朝起きれば秒刻みで仕事が山積みだったから。
彼と離れて五ヶ月め、あたしは彼のことを思って泣くことはほとんどなくなった。夜、ひとり部屋でぼんやりしているときに、ふと胸が苦しくなる。あるいはふと涙がにじむ。そんなていどだった。
そうして迎えた半年め。もしも彼がホストじゃなかったら、とあたしは今でも考える。けれどそう考えても、もうどうにか出来ることではない。だからあたしは、少し切なく甘い心持ちで彼を思い出すだけである。
あたしはこの半年のあいだに、同僚の青年から告白を受けていた。別に一生恋人を作らないつもりもなかったから、あたしは何度か彼とデートを重ねた。重ねるたびに、自分がいまだに光平に囚われていることを痛感するのだった。
(悔しい)
そう、とても悔しかった。そうして今でもあたしは、悔しいほど光平のことが好きだった。胸の痛みは薄らいでいる。けれどあたしはまだ、彼を忘れてはいない。
どうせさらに長い年月が経てば、想いも薄れるのだろう。けれどあたしはまだ、これが人生最初で最後のいちばん大きな恋に違いないと、そう思っていた。
◆ ◆ ◆
桧山翔太《ひやましょうた》というのが、同僚の青年の名である。もともと同僚のなかで一番仲のよい人だったから、告白されても別に厭な思いはしなかった――困惑はしたけれども。あたし今誰かと付き合おうとかあまり思ってなくて、と言うと、俺が好きだってことを覚えててくれるだけでいいからさ、と明るく笑って彼は答えた。
「他の男よりもちょっと俺を特別扱いしてくれればさ、まあそれで我慢しとくって」
ドライブスルーで買ったハンバーガーを器用に食べながら、翔太は爽やかな笑顔を見せた。
他のひとよりもちょっとあたしを特別扱いしていてくれれば。
(あたしだって、そう思ってた)
でもあたしは知っている。本当に好きになればなるほど、ちょっと特別扱いされるだけでは満足できなくなることを。
「でも今日残業なくて良かったな」
ハンドルを握る翔太の横で、あたしはコーラにストローをさしてやる。付き合ってはいない、俗にいう“友だち以上恋人未満”といったような曖昧な関係。
「晴れてるしね。夜っていっても絶好のお花見日和だよね」
「夜桜とかあんまり行ったことねんだよな、俺」
あたしたちの地元から隣県に車を一時間ほど飛ばすと、東山公園という桜の名所がある。この時期になると花見客が怒涛のように押し寄せ、また夜は大きなしだれ桜が美しくライトアップされることで有名だった。
彼といると、苦しくもなく寂しくもなく、あたしはほんとうに気楽な気持ちでいることができる。彼と付き合えばきっと楽なんだろうな、とそんなことも思うけれど、あたしは翔太に恋をしているわけではない。そのうち彼に恋をするかもしれない、そんな微かな予感もあるけれど、あたしにとって翔太はまだ友だちでしかなかった。
それを彼も知っているだけに、あたしはなおさら気楽だった。
(ほんとずるい。あたしって)
でもずるくたって何だって、やっぱりあたしはあたし自身を守ることのほうが大事だ。そうやって言い訳しながら、あたしは翔太にエスコートされながら車を降りる。
「わあ、ひと多いね」
「週末だからなぁ。絶対あれだよな、知り合いとかと出くわしそう」
「言えてる」
ここらへんではもっとも有名な桜の名所だから、同じ時間に同じ場所、彼がいたって不思議はなかった。けれど、こんな人混みのなかでばったり出くわす確率なんてほとんどゼロに近いはずだった。
けれど、人生なんてこんなものだ。
まさか会うまいと思っているときに限って、会うもの。
――見たくなかった。みっちゃんと光平が一緒に並んで歩いている姿なんて。
いや、みっちゃんと歩いているのは光平でなくホストとしての眸なのだろうけれど、それにしたって見たくなかった。半年間かけて塞がってきた傷が、みごとに鋏で抉りかえされたような痛みが胸を襲った。たまたま視線の先にいたひとの姿に、光平そっくりだとぼんやり思ったのもつかの間、すぐに本人だと気付き――思わず凝視してしまったのが悪かったのか、ふとこちらに気付いたかのように彼も顔をめぐらせたのだった。
視線がぶつかったのは、あたしと光平だけである。
みっちゃんは光平が上の空でいることに気づいていなかったし、翔太もあたしの視線が何かに釘付けになっていることに気づいていなかった。もしかすると、無意識のうちにあたしは光平を探していたのかもしれない。みっちゃんと眸は、仲良さげに手を繋いでいる。
あたしとの付き合いが途絶えた後も、みっちゃんと彼はデートし続けていた。そう思うだけで、あたしは嫉妬で頭がおかしくなるような心持ちがした。
「菜都?」
先に視線をはずしたのはあたしのほうだった。
「眸?」
少し離れたところで、みっちゃんの楽しそうな声が聞こえた。
あたしたちは半年ぶりに顔をあわせ、たった数秒のあいだ視線を交わしただけでふたたびお互いのいるべき場所へと戻っていったのだった。ここで出会った偶然にあたしは動揺したけれど、まあこんなもんか、とも思った。
きっと眸はあたしたちのことを眼で追っているだろう。それを自覚したうえで、あたしはわざと翔太の腕をとった。
(ねえ、どれだけあたしがあなたを好きか分かる?)
意地っ張り。こずるい。嫉妬ぶかい。
光平を好きになってから、あたしは自分の厭なところが何よりよく見えるようになってきたのよ。
ねえ、それって何て悲しいことだろう。
「りんご飴! 菜都、りんご飴食おうぜ!」
ひーちゃん、ごめん。彼に何の不満もない。同僚のなかでは一番の男前だし、性格もいい。光平よりも物言いは一直線で分かりやすいし、とにかく何よりもホストなんかじゃない。毎晩ほかの女とデートするような、そんな職業じゃない。付き合ってしまえばいいのかもしれない、とあたしは今まででもっとも強く、そう思った。
ライトアップされた美しいしだれ桜の花びらが、きらきらと輝いているようにみえた。
「泊まってく?」
そうして今度は、翔太の誘いに流される。
(あたしって)
あたしって、こんな女だったのか。
金曜の夜にお花見に行って、その晩と土曜の晩つづけて翔太の家に泊まった。あたしが自宅に帰ったのは、日曜の早朝である。
ふたり肩を並べて仲良くDVDを観たり、ひとつベッドでくっついて寝転がったりもしたけれど、それ以上のことは一切なかった。翔太は我慢してくれていたし、あたしもそれに甘えた。翔太に抱かれてしまえば、少なくとも抱かれている最中は光平のことを忘れられるだろう。けれど抱かれてしまえば、情が移る。抱かれて情も移って、おさまるところにおさまってしまえばいいのだけれど、あたしはどうやら無意識のうちにも光平に囚われているらしい。
心の奥のまた奥で、光平がいるのだから他の男とは付き合えない――そんな気持ちがある。
ともかく翔太は、あたしにとってほんとうに都合のよい存在だった。言い方は悪い。けれど恋人みたいな存在で、そして彼はほかの女と夜毎デートを重ねることもなく、常にあたしを見てくれる。都合のよい存在である相手と時間をともにすることは、当然あたしにとって心地よかった。
また週末泊まりに来いよ、という翔太の誘いに、あたしは快い返事をして帰ってきたのである。
(お母さんたち、まだ寝てるかな……)
爽やかな青空が広がりつつある。早朝の空気はまだ澄みきっていて、冷たいほどであった。家の近くの中学校グラウンドで、野球部の生徒たちが朝練に励んでいる。あまりにも気持ちのよい朝だから、あたしは金曜の夜に光平と出くわしたことを思い出さないままのんびりと道を歩き、駐車場を横切ってエレベーターホールへ入った。
「久しぶり」
声がかかったとき、あたしは金曜の夜のことを思い出していなかっただけにひどく驚いた。
――神原光平が、そこにいた。黒い長袖のTシャツの上に、洒落たチェックの開襟シャツ。迷彩柄のパンツに、黒いブーツを履いていた。
仕事帰りだな、とあたしは直感した。
「…………」
「久しぶりって言ってんの」
怒ってる、とすぐにわかる表情だった。彼の怒りは、まっすぐあたしに伝わってきた。相手がこんなにも怒っているというのに、あたしの心には小さな喜びが芽生えているような気がする。
(ばかじゃないの、あたし)
怒ってくれてるのね、と感じている自分が嘆かわしい。連絡を絶ってから半年。何とも思ってくれなかったとすれば、あたしはまたそのことで苦しむだろう。半年経ってもなお、こうして感情をぶつけてくれる。そのことが内心、嬉しかったのだった。
「半年? ほんと久しぶりだよな、ちょっと来いよ」
「光平……でも」
「いいから来いって。ふざけんなよ菜都、おまえに聞きたいことがたくさんある」
懐かしいレガシー。座り慣れた助手席。見覚えのあるCDケース、かつて一緒に聴いたスリップノット。サイドブレーキの傍らに、見慣れた薄ピンクのマフラーが無造作に置きっぱなしになっている。
無理やりシートベルトを締めさせられて――光平はこういうところで神経質である――それから車は動きだした。彼の怒りっぷりとは裏腹に、丁寧な運転である。
「どこに行くの」
「黙ってろよ」
「…………」
涙が出そうだ。光平が怒っているからではない。何といえばいいのかこう、彼と過ごした切なくも幸せな日々が、涙となってせきあげてくるような気持ちだった。離れることを決めたのはあたし自身なのに、半年間離れていたことがとんでもない損害であるかのような気持ちもした。
沈黙は気まずくなかった。隣に光平がいることだけが、何よりも幸せだった。もちろんそれは久しぶりだからという理由だけであって、これが日常的なことであれば、またさまざまのことで悩むに決まっているのだけれど。
「………………」
「………………」
車が止まったのは、去年あたしたちが一緒によく行った海辺の駐車場だった。おそらく下に降りたところの遊歩道には人がたくさんいるのだろうけれど、駐車場に他の車は一台も見当たらない。サイドブレーキを引き、光平は車のエンジンを止めた。開け放した窓から、明るい鳥のさえずりが幾度も飛びこんでくる。こんな時間に、ここへ来るのは初めてだった。いつも彼の仕事が終わってから。ほとんどが夜中の逢瀬だった。
さまざまな感情が入り混じって、あたしは前を見ることも横を見ることもできずに静かにうつむいた。そのあたしのあごを、不意に光平はつかんで自分のほうへねじまげた。痛くはない。有無をいわせぬ強引さではあったけれど、痛みを感じさせない気遣いはひしひしと感じられた。
離れきれないのは、これがあるからだ。嫌いになれないのは、このひとが必要以上に優しいからだ……。
(だめ)
オチる、とあたしは頭の奥のほうで危険信号が灯るのを感じた。
「菜都。なあ」
「…………」
見つめあったらもうだめだ。それを知りながら、あたしはつい光平の双眸を見つめる。端整な顔立ち、きれいな双眸。腹立たしげな視線が、同じようにこちらを見つめていた。
「なあって」
「……うん」
「何で?」
「何でって?」
光平の視線が、あたしの胸元でとまった。
(あ)
気付いて欲しくなかったような、気付いて欲しかったような、妙な心持ちがした。光平が去年のクリスマスにプレゼントしてくれた、ブルガリのリングネックレス。身につけなかった日は、ない。当然あたしは今日もそのネックレスをしていて、光平はそれに今気付いたようだった。
「…………」
それとなく手で隠そうとしたけれど、遅かった。
「……ずっとそれ、つけてくれてんの?」
ほんのわずか、光平の声色が柔らかくなったのが分かる。このデザイン気に入ってるから、とあたしは間抜けな返答をした。
(そんなわけないでしょ)
なぜずっと身につけてるかって、そんなの光平がくれたものだからに決まっている。光平の双眸に悪戯っぽいような、余裕めいたような笑みが浮かんで、あたしは思わずかちんときた。
「なあ、何で俺から離れたの」
朝空が薄青い。うっすら雲の浮かぶ春の朝は、涼しげでひどく心地よかった。
「……疲れたから」
「なにに?」
「……光平を好きでいることに」
光平、とその名を呼ぶとき、なぜか気恥ずかしさがあった。どきどきした。
「なんで」
――好き。好き。好き。ねえ、あたしがどれだけ好きかわかる?
「ほかの女のひととメールして、デートして、好きとか愛してるって言って、あたしにはつらい」
「……ごめん。でもそれは仕方ないよ」
(そんなことは分かってんの。分かってて言ってるのよ)
嘘は嫌。けれど嘘でもいいからなぜ今ここで“菜都がいちばんだよ”“愛してるよ”って言ってくれないの。
「平気だと思ってたのよ。好きになってからも、我慢できると思った」
「うん」
「でも好きになればなるほど、我慢できないの。わかる?」
いつのまにか、あたしはぼろぼろと本音を吐露していた。情けないと思いながらも、“仕方ない”という光平の言葉であたしの堰はきれていた。
「うん、わかるよ」
(わかってない)
「あたしね、一度光平のお客さんにメール返信したことあったでしょ」
「うん」
そこでようやく、光平が何かに思い当たったような顔をした。
「あたし、送信箱見ちゃったの」
みっちゃんに送ったメールを、見ちゃったの。“好きなひとならまだしも”ってやつ――そう言うと、光平はそれでもあっさりとこう言った。
「ああ……でもあんなの仕事じゃん。仕事で好きな女の話なんてできないしさ、仕方ないだろ?」
女はすぐに話をややこしくする。確かにそうだ、とあたしは思わず唇をゆがめた。ここで“そうだね、そうだよね”とうなずけば良いのに、あたしはここで引っかかる。そうだよね、拗ねてごめんね。そう言えば、あたしが少し物分かりの良い女を演じれば、そうすればお互い”好き”とでも囁きあって、キスのひとつでもして、デートできるだろうのに。
だめ、だめ、と思いながら、あたしの我慢がぷつりと切れた。
「仕方ないって一言で片付けられるのが嫌なのよ、分かんないの!?」
「いやでも……」
「あたしのこと好き好きって言うけど、どこがよ。ほかの女にも同じように言ってるひとの言葉を、あたしはどうやって信じればいいの!?」
「仕事だろ?」
困ったような光平の顔に、さらにかちんときた。止まらない。
「ほかにいくらでも仕事なんてあるじゃない、何であたしのことを好きで、それなのにこの仕事をいつまでもするの? ごめんごめんって謝ってばっかりで!」
本音をぶちまけながら、あたしはもうこれで最後だ、と心のどこかで思っていた。もうこれでおしまいだ――思いながら、あたしは彼を責めていた。
(あたしが光平の立場だったら、きっと同じことを言うだろうけど)
「嫌、もうほんとに嫌。好きすぎて嫌なの! 疲れるの! 嫉妬したくもないのに嫉妬して! ごめんっていうならホストなんてもうやめてよ!」
「…………」
みっともないくらいの駄々っ子である。情けないやら悔しいやら、けれど感情だけが先走ってもうコントロールできなかった。
車のドアを乱暴に開けた。菜都、と叫ぶ光平をよそに、あたしは足早に歩き出した。
追いかけてきて、追いかけてきて、そんなふうに心で祈りながら。そうやって祈っている自分が、また情けなかった。
で、これも相場が決まってる。
追いかけてきて、と祈るときほど相手は追いかけてきてくれない。
追いかけてこないと知ったとき、あたしはもうじゅうぶんだ――もういい、と思った。
【後編】
ひーちゃんの告白を、あたしは改めて断った。とんでもない引力というか、魅力だった――彼と付き合う、というのは。嫌いではなかったし、むしろ好きなぐらいだったから、付き合えばさらに好きになれるとも思っていた。ともかく光平との再会があったあの朝から、およそ一ヶ月近くのあいだ、あたしは翔太と付き合うか付き合うまいか真剣に悩んだ。付き合えばよかったかもしれない。問題なく彼へと心は傾いて、そうして幸せな愛をはぐくむことができたかもしれない。
翔太を利用したくなかったといえば上っ面はきれいだけれども、やっぱりそれはあくまで上っ面だけの話なのだろう。ほんとうは心の奥のさらに奥で、光平に愛されているのかもしれないと思っているのだ――情けないことに。
けれどあたしから光平に連絡はしなかったし、当然彼からの連絡もなかった。そしてまたあの朝のように、あたしのマンションのエレベーターホールで、光平が待ちかまえていることもなかった。
◆ ◆ ◆
――そういえばあんなこともあったな、と。
いつかそう思える日がやってくることを、あたしはもう知っている。どんなに“このひとしかいない”と思っても。どんなに“この恋しかない”と思っても。いつかその想いは色褪せ、そうして薄れていくことを、あたしはもう知っている。
光平と関わりを持たなくなって、二度めの冬。けれどあたしは、まだひとりでいた。
「ほんと、なっかなか男作らないよね。まあモテるほうなのに」
隣でミルクティーの缶をあけながら、桧山翔太はそう言った。とりたてて美人だとか可憐だとかいうわけではないけれど、かといって男に不自由しているわけでもない。苦笑して、あたしは缶コーヒーをあけた。翔太はコーヒーが飲めない。光平もコーヒーがだめだった、とあたしはいまだに性懲りもなく思いかえした。
「どんだけ理想が高いんだ?」
「理想が高いっていうか……」
別にそういうわけでもないんだけど、とあたしは言葉を濁した。けれど光平の容姿を見れば、確かに理想が高いっていうことになるのだろう。
(違うんだけどな……)
何ともいえない。このあたしの気持ち。この感覚ばっかりはおそらく的確な言葉にはならないし、話したって伝わらないだろう。
2年間のあいだに、翔太にも恋人ができた。みっちゃんにいたっては、あっさり出張ホストから卒業して結婚してしまっている。あたしたちはもう26歳になって、そろそろはしゃいだり浮ついたりすることを忘れかけていた。心は、もう冒険ではなく安定を求めていた。
「そういえば菜都、来月誕生日だな」
みっちゃんは5月。翔太は9月。ふたりに遅れて、あたしは年明け1月23日に26歳の誕生日を迎える。
「もう26歳か」
「もう26歳だね」
四捨五入すれば三十路だぜ、と翔太はにやり笑ってみせた。つい去年、おととしまで大学生だったのよ――そんなことをいえる年齢では、もうなくなってしまった。
あたしたちは、それぞれ結婚や子どものことを考える時期にきている。恋に落ち、ときめき、はしゃいでいたいつかとは違うのだった。
「結婚とかしたくないの?」
「別に……これといって、ねえ。そんな強く思ったりしないけど」
相手がいないし、とあたしはあやふやに笑ってみせた。
「今夜はこれからおまえ、どうすんの?」
そう言われてはじめて、今夜がクリスマスイヴだということを思い出した。一緒に過ごす相手がいるわけでもないのに、なぜか心が浮きたつ思いがする。日本人としてのイベント好きな性格なのか、あたし自身がイベント好きなのか分からないけれど。
「えー。ケーキ買って、チキン買って……帰る」
「寂しいなオイ」
「うるさいよ、クリスマスっていえばケーキとチキンでしょ」
「ひとりで食うの?」
「かーぞーく!」
翔太はこれから彼女とデートなのだと言った。フレンチのレストランを予約して、高級ホテルのスイートも取ってあるらしい。なるほど本気で惚れている相手らしく、必死で財布をひっくりかえして計画を立てたのだろう。
どことなく寂しさを感じて、そうして寂しさを感じた自分に、さらに身勝手さを感じた。
みんな変わっていくなかで、あたしだけが変わっていないような――そんな寂寥感。もう二年経った。二年も経ったのに、あたしの心にはいまだ光平が棲みついているのだった。確かにどことなく面影は遠くなってしまったけれど、それでも思い出そうとすれば、彼との日々は鮮やかに甦る。
間違いない。あたしは今でも光平のことが好きだ。街なかで、あたしは無意識のうちに彼の姿を探している。もしかしたら、ひょっとしたら、偶然出会うことができるのではないかと思いながら。
たとえば東京と大阪のように、たとえば北海道と沖縄のように遠く離れていれば、そんな淡い期待も抱かずにすむ。しかし住んでいるところが2駅しか違わないから、会わない可能性よりも会う可能性のほうが高くって、あたしはこの2年間毎日ちいさな期待を抱きながら暮らしてきたのだった。
「会わなかったけどね、別に」
それらしいひとは見かけたけど、とあたしは翔太の後ろ姿を見送りながらつぶやいた。
(でもさ、期待しちゃうんだもの)
街なかを流れる軽快なクリスマスソングも、きらきらとしたイルミネーションも、耳に眼に心地よく流れてくる。のんびりと二年前のクリスマスを思い出しながら、あたしはお気に入りのスイーツショップに立ち寄った。着ぐるみのサンタさんが、チラシを持って楽しげに歩きまわっている。あれもなかなかしんどいんだろうな、と子供のときには思わなかったことを思いながら、あたしは店のなかへ入り、客の列に混じった。
――ねえ眸〜、あたしこのケーキがいいな。
そんな甘ったるい声が聞こえたとき、あたしはぎょっとして反射的に顔をあげた。
一、二、三人。
三人隔てた前方に、茶髪をゆるやかに巻いたミニスカートの若い女がいる。つと視線を左に移すと、その白い手はしっかり誰かの手と組まれていた。あのダウンジャケットを知っている。モンクレールのダウンジャケット――奮発して買った10万のジャケットだ。そうして視線をあげると、忘れたことのない顔がそこにあった。光平はこちらに気づいていない。あたしは視線をはずすこともできずに、ひっそりと後ろから彼を見つめた。隣に立つ女の存在に、くつくつと胸の奥が疼いた。切ない思い出が甦ったときの、淡い痛みではない。芯から突き上げてくるような、厭な痛みであった。
「………………」
「あっ、あ、ごめんなさいね」
ぶつかってきたおばさんが、あたりを憚らぬ大声であたしに謝った。気づかれてしまうと思う一方で、気づいてもらえると思う自分がいた。いいえ、と答えたあたしの声が、妙にはきはきしていたのがあざとい。案の定、ケーキを買い終えてこちらに向かってくる光平の視線が、ばっちりあたしに当てられた。
目が合った。一瞬だけ光平の動きが止まった。止まってから、彼は自分の腕に絡まっている女の腕を一瞥して――何ともいえないような複雑な表情をみせた。
(平然とされてるよりはマシ)
眸、と呼ばれているところをみると、仕事に違いない。彼が困ったような表情をしたのが、ほんの小さなあたしの救いであった。
「お客様、お待たせいたしましたァ」
あたしは微笑んでみせる。
――ねえ、あたしがどれだけあなたのこと好きか、わかる?
微笑んであたしは視線を逸らし、店員と向き合った。
「ブッシュドノエルをひとつ」
「以上でよろしいですか?」
「はい」
あたしたちはもう、この程度のつながりなのだ。つながりがある、とも言えないような儚いつながり。いつかはつながっていた体も、心も、今は遠い。ケーキの箱を受け取って出口のほうへ踵をかえしたときには、当然光平たちの姿はなかった。
“あなたしかいない”――そう思ったって、時間が経てばそんな想いも薄れることはわかっている。けれど。
(あなたしかいない。光平、あたしはまだあなたのことが好き)
――ねえ、あたしがどれだけ……
◆ ◆ ◆
『夜の海?』
『うん、ひとりだったら怖いけど、あたし海好き。夜の人気のない海が好き』
『また来る?』
『来る!』
海岸沿いに敷かれた遊歩道を歩きながら、あたしの手は、光平のダウンジャケットのポケットのなかに包まれている。優しく外側からくるむようにして、彼はあたしの手を握っていた。
『好き!』
時々見せる、わがままな子供っぽい仕草。不意に楽しげに叫んで、あたしの唇にキスしてくるのも――他人がやっているのを見れば、このバカップルめと思うんだろうけれど――嬉しい。
恋をすると、あたしは間違いなく馬鹿になる。
『菜都は?』
『好き』
恥ずかしくてまっすぐ見つめられないから、あたしは無理やり視線を逸らす。光平は、いつでもあたしの瞳を正面から見つめていた。
『好き? 愛してる?』
『…………何それ』
そうやって確認してくるのだって、あたしにとっては嬉しかった。こんな会話も、よそ様がしていればアホかと思うんだけれど。あたしこんな恥ずかしい子じゃなかった、と思いながらそれでも、
『愛してる』
あたしはそう答えるのだった。
人気のない遊歩道で、あたしは何度も抱きしめられる。抱きしめられるたびに、この温もりをほかの誰にも渡したくないと思うのであった。仕事であろうと何であろうと、あたしでない女が彼と手をつなぎ、愛の言葉を囁いてもらうのは嫌だった。
『結婚しちゃう?』
ねえ、それを本気で言ってよ。あたしのことで取り乱して、仕事なんて忘れて、そうしてあたしを攫ってよ。そしたらあたしは、心の底からあなたに尽くすわ。
“ね、菜都。結婚しよっか”
それを本気で言ってくれたなら。
“俺、おまえのことが好きだから仕事やめる”
そう言って仕事をやめようとしてくれたなら。
――そうすればあたしは、もっと素直にあなたの仕事を受け入れられたかもしれない。
いいよ、仕事だから仕方ないよねって。いいよ、あたしは頑張れるから仕事続けてねって。あたしはそう言えたかもしれないのに。
(ホストのくせに、そんな女心も理解してくれないんだから)
だいたいクリスマスの夜なんかに、ひとりで彼との思い出の遊歩道を歩くなんて馬鹿げている。情けないやら馬鹿馬鹿しいやら、あたしは大きく溜め息をついて足もとの石ころを蹴飛ばした。
『好き? 愛してる?』
『好きよ』
彼と交わした細かいやりとりさえ、あたしは今でも鮮明に思い出せる。
(あーあ)
やっぱり彼氏のひとりでも作ったほうがいいのかな、とあたしはどんより曇った冬の夜空を見上げながら考えた。そうしないともしかして、死ぬまであたしは光平を忘れられないままなのかな。今まで2年間もひとりの人を忘れられなかったことなんてない。だからなおさら不安でもあり、怖くもあった。
未来が見えない、先行きの見えない不安である。未来の自分の姿を、想像することができない怖さである。
「……会いたいな」
光平、会いたい。
――夢かと思った。この光景見たことある、とも思った。
光平と水族館へ行ったときのこと。光平と海へ行ったときのこと。光平の部屋でふたりベッドで雑誌をめくっていたこと。一緒にカラオケに行ったときのこと。一緒に旅行へ行ったときのこと。
光平の言葉。光平の体温。光平の笑顔。光平とのキス。光平とのセックス。
そんなふうにともかく光平ばかりが頭のなかを満たしていたから、余計に夢かと思った。
ふたり別れた朝と、同じ状況――真夜中に帰宅したマンションのエレベーターホールで、神原光平は壁にもたれてぼんやりとしていた。おしゃれには気を遣うひとなのに、今夜はジャージ姿であった。
「こ……」
光平、と名を呼びかけたものの、あたしの言葉は喉につまった。
「光平……」
二度目でようやく、まともに声が出る。考えごとをしていたのか、はっとした様子で彼はこちらを見た。動悸を抑えながら、あたしは必死で光平をまっすぐに見つめた。こんなにもまっすぐに彼の双眸を見つめたのは、もしかすると初めてかもしれない。
「ど、どうしたの」
どもった。いったいどれだけ動揺してるんだろう――恥ずかしいような何ともいえない気持ちで、あたしは思わず笑いそうになる。実感していた。やっぱりあたしはこのひとが好きなのだ。このひとがこのひとであるというだけで、あたしはどうしようもなく彼を愛おしく思う。彼の顔を間近に見ただけで、どうしようもなく胸が躍る。
「これ」
彼にしてはぶっきらぼうに、何かを差しだしてきた。封筒である。何なのかわからずに受け取り、何ということもなく中をのぞいた。1万円札が、ぱっと見ただけでもおそらく200枚以上入っていた。
「な」
「俺がホストやって稼いだ金。300万ある」
「そんなにあるの!」
「数えたもん」
そんな問題じゃないよ、とあたしは封筒を光平に突っ返す。こんな大金持っていられない――けれども彼は、むきになったかのように断固としてそれを受け取らなかった。
「何なのよ!」
通りすがった高校生らしき少年たちが、好奇心まるだしの表情でこちらを見ていた。痴話げんかとでも思われているに違いない。
「海外留学したくて、俺が貯めてた金」
「…………」
(海外留学……)
そういえば、とあたしは思い返した。
“海外留学したいんだ。英語の勉強、したいんだ”
何をそんな一生懸命になって稼いでいるの、と訊ねたとき、そういうふうに言っていたはずである。そうか300万貯まったのか、とあたしは妙にくだらないふうに感心して、茶封筒を見つめた。
「……これがどうしたの」
「おまえの」
「なに!?」
あたしは思わず茶封筒を取り落とした。取り落としたというよりは、どちらかというと危ないものに触るまいという気持ちで投げ捨てたといったほうが正しいかもしれない。
「おまえが俺のことを信じないのはなんで?」
「…………」
「俺が仕事辞めないからでしょ? ほかの女に同じことを言ってるから」
だからおまえは俺から離れたんだよね、と光平は視線を伏せた。あたしは何を言っていいか分からずに、じっと彼の整った容貌を見つめる。
「仕事辞めた」
◆ ◆ ◆
「昨日、あれが最後の客だった」
視線がかちりと触れあった。
「何で」
「おまえに信用してもらえてないから」
夢みたいだと思う一方で、嘘だと思っている自分もいる。あたしはふたたび言葉を失くして、光平の双眸をじっと見つめた。
「俺はおまえとずっと一緒にいるつもりだった。ってか、いれるつもりだったんだ」
まだ信じられない。あたし、それだけでは信じられない。
「なあ」
「…………」
「ちょっとでいいよ。とりあえずちょっと付き合ってよ」
付き合うまい。ほだされるまい。あたしはそう思いながら――思いながら、やっぱり彼に腕をとられるまま従った。
あたしが逃げるとでも思ったのか、光平はみずから助手席のドアを開けてあたしを乗せた。2年ものあいだ乗ることのなかった、けれど見覚えのある懐かしいレガシー。2年前サイドブレーキのところに置いてあったCDは、スリップノットからレッチリに変わっている。
「……1ヶ月後には26だね」
その言葉ではじめて、ほんのわずかあたしの心がゆるんだ。誕生日を覚えていてくれたからである。単純なもんだよね、とふとおかしくなって、あたしは小さく笑い声を洩らした。
「四捨五入したら30じゃん」
「うるさいってば」
あたしが笑ったことで、明らかに光平はほっとした様子を見せた。
車は、光平の丁寧な運転で見慣れた道を進んでいく。海に行くつもりなのだと、すぐに知れた。さっきまであたしがふらふら歩いていた場所だ――数十分後に、光平とふたたびここを訪れるなんて欠片も思っていなかったけれど。
「2年ぶりだね」
「……あたしさっき来たけど」
「うそ、まじで」
痛感。まさに痛いほど感じる――間違いなくあたしは、神原光平のことが好きだ。今でも好きだ。前より好きだ。誰よりも好きで、あたしは26を目前にしていまだに“この人しかいない”と思っている。
成長がないというのか、好きなものは好きなんだから仕方ないという類の諦めを知ったというのか、何とも自嘲的な気持ちであたしは体の右側に光平の存在を感じていた。
いつも一緒に来ていた海、いつも一緒に来ていた遊歩道。駐車場に車をとめて、そのなかで彼はあたしの顔を自分のほうへ向けさせた。
「彼氏いるの?」
わかっているくせに。
「彼氏がいたら、クリスマスイヴにひとりでケーキなんて買わないよ」
「だよな」
――好きだ。
聞き間違いではない。光平は間違いなく、はっきりとそう言った。希望的観測ではないと思う。あたしは確かに、その声色に真摯なものを感じた。
(でも信じない。信じない。あたしは信じないよ)
「そう」
嬉しいと思っている一方で、あたしはそっけないほど軽く流した。この強がりが、往々にしてあたしの恋を邪魔するのだけれど。
「もっかい前みたいにやり直そ?」
「…………」
あたしはここで、すぐにううんと言えないのである。あたしもうあなたとは無理よ。その言葉が出てこない。
「俺が一生一緒にいたいのは菜都だよ」
いつになくまじめな顔つき。ひたむきにあたしを見つめてくる瞳。まずいオチる、と思ったとき、彼が例の茶封筒をあたしに押しつけるようにして言った。
「これ、結婚資金。結婚しよ」
――みごとにオチた。
◆ ◆ ◆
ひとつ返事でOKしたかった。けれどあたしは彼の申し出を、くだらない理由をつけてその場で二度断った。
『あなたが本当にあたしのことを好きかどうか、分からないから』
『海外留学のために貯めたお金を、あたしのために使わせるのは申し訳ないから』
そのとたんに、あたしは頬を軽くつねられて、それから強く抱きしめられた。なんて幸せなんだろう、と思った自分が馬鹿らしくもあり、情けなくもあり、けれどどこかで可愛らしくもあった。
「俺と結婚するのがそんなに嫌?」
その問いかけに、あたしは弱い。うまいこと持っていかれてると知りながら、あたしは、
「そんなことないけど……」
と答えるのであった。
内心幸せに浸りながら、あたしは渋々といった表情で彼の申し出を受けた。
あたしって、いやらしい。
“このひとしかいない”――そう思うには、あたしはもう歳をとりすぎた。にも関わらず、というか自分の意志とは裏腹に、あたしは“光平しかいない”と思い続けてきた。出張ホストなんて嫌な仕事だ。好きな男がやっている仕事としてはこのうえなく。
それでもあたしは光平のことが好きだった。光平が光平であるという理由だけで、あたしはどこまでも彼から離れられずにいた。好き。一緒にいたい。結局はそこに逢着するのであって、もとはそんなに難しい話ではないのである。
「光平」
「なに?」
これから喜ぶかもしれない。悲しむかもしれない。けれども複雑そうに見えながらあたしはどこまでも単純で、だから今感じている幸せだけでじゅうぶんに思われた。このひとはもうホストじゃない。それだけであたしは今までにない安堵感を覚えた。
「なに?」
「でもやっぱりあたし、あなたのことを好きでよかったと思うよ」
-
2007/06/12(Tue)23:13:29 公開 /
ゅぇ
■この作品の著作権は
ゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ひたすらむずかしかったです。どう終わらせたらいいのか、やっぱりあたしは考えるよりも勝手に手が動いて終わってしまうので、何だかなぁ。地道に頑張るしかないんだなぁ。そんなふうにぶちぶち思いながら更新です。これで愛想を尽かすことなくお付き合いいただければ幸いなのですが……。
こんな恋のかたちもあるかな。妄想しながら書いていました(笑)これからも努力しますー精進しますー。でも少しでもこの作品を楽しんでいただければ、嬉しくてちょっと枕を濡らします。
ありがとうございましたー。