- 『地図にない場所 完結』 作者:紅い蝶 / 恋愛小説 未分類
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全角39457.5文字
容量78915 bytes
原稿用紙約117.5枚
本州から船で4時間。そこにあるのは海と緑に囲まれた美しい島、美郷島(みさとじま)。 昔は温泉と名物祭「夢美祭」で一気に観光地となったが、夢美祭を支えた若い人たちが上京してしまったため、今となっては静かな島となってしまった。 上京を控えた高校生と、大自然の中ですくすく育つ小中学生たち、あとは大人しかいなくなってしまったこの島に、主人公霧島達也が引っ越してきた…
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青い空、青い海、輝く太陽。まさに晴天。海を駆ける船のデッキから見える限りない水平線。雲ひとつない空からは暖かい太陽の日差し。その日差しに火照った体を優しく包む海風。文句なしの気持ちよさだ。
「いやぁ、なんつーか最高だねこれは」
デッキの手すりに身を預けながら、高校二年生の霧島達也(きりしまたつや)はそう呟いた。
生まれてから今までたった一度しか来たことがない母の故郷「美郷島」。緑が生い茂り海が輝く美しい島だ。今となっては静かになってしまったが、一時は温泉地として有名になり、さらには毎年恒例の「夢美祭」。多くの観光客でにぎわったこの島での新しい生活に、達也は胸を躍らせていた。
Memory 1 美郷島
「なぁ母ちゃん、これなんて読むんだっけ?」
島に着いて開口一番、達也は港の看板を指差してそう言った。その看板には「美郷島へようこそ」と書いてあり、島へとやってきた人を優しく迎えていた。
「みさとじまって教えたでしょ? 大体何回目よ、それ聞いてきたの」
細く華奢な体に白い肌。長い黒髪が特徴的な美しい女性。それが達也の母である霧島裕子。高校卒業までこの美郷島で生活し、上京。大学卒業と同時に当時付き合っていた霧島毅と結婚。二年後に達也を出産した。一児(しかも高校生)の母親とは思えない美しさで、裕子の心を射止めた毅は羨ましがられたものだ。
「俺は頭が悪いんじゃない。わざととぼけたフリをしてんの。母ちゃんがボケないように、俺なりに協力してるんだよ」
――スパン!
気持ちよい爽快な音が港に響く。青い空、青い海、滴る鮮血。達也の顔面に裕子の手さげバッグがクリーンヒットした。
昔ながらの木造住宅。風の吹き抜けがいいように設計されていて、家の中を吹き抜ける風が優しく頬をなでる。木々の温かみが肌を通して伝わり、都会にはなかった新鮮さと共にどこか懐かしさを覚えた。
「ほれ、たっちゃん。スイカお食べ」
熟れたスイカを差し出してくれたのは達也の祖母、和泉まひろ。しわくちゃの顔でニコリと笑うその仕草がかわいいおばあちゃんだ。自家栽培の取れたてスイカを食べれるなんて、都会に住んでいた達也には人生で数えるほどの貴重な体験だ。いや、だった。これから卒業までの少なくとも一年間はこの場所で生活していくのだから、まだまだ体験できる。田舎暮らしというものを。
そもそも達也と裕子がこの美郷島へやってきた理由。それは裕子の病が原因だった。肺を患い、都会の汚れた空気では生活できなくなってしまったのだ。かといって空気の澄んだこの美郷島に来たとしても、それが治るわけではない。あくまでも気休めに過ぎないのだが、その気休めこそが重要。病と闘っていくためには心から健康にならなければならないからだ。普段は達也をぶっ飛ばしたりと元気一杯な裕子ではあるが、体の中は確実に病魔に蝕まれている。だからこそ、心から健康と綺麗な空気を求めこの島へやってきたのだ。
夫である毅は本土に残り、汗水垂らして働いている。といっても彼は都心にある商社の部長。汗水は実際垂らさずに頭を使っている。働いて稼いだお金を生活費として毎月裕子と達也の元へ届けてくれる手筈になっている。特別忙しかったりしない限り、手紙や振込みなどではなく自らの足で。
裕子の療養としてこの美郷島に来たわけだが、達也も一緒に来なければいけない理由はなかった。本土に残って今まで通り生活し、通いなれた学校で授業を受け、父と一緒に時折裕子に会いに来ればよかったのだが、達也は裕子についていくことを望んだ。達也本人は「一度転校をしてみたかった」とか、「親父の足が臭いから一緒にいたくない」だとか言っていたが、実際は裕子のことが心配で、一緒にいてやりたかったのだろう。根は心の優しいマザコン息子なのだ。
「スイカうまいね、ばーちゃん」
果汁が滴るスイカを頬張りながら達也が言った。その達也を見てまひろはニコニコと微笑んでいる。荷物の整理が一通り終わって裕子が席に着いた頃、達也は裕子の分のスイカも食べつくしていた。その後、達也の鼻からスイカの汁ではなく赤い血が滴ったのは言うまでもない。
暴力的な母だ、と思うかもしれない。なんでもかんでも達也をぶっ飛ばすからなのかもしれないが、裕子は心の底から達也を愛している。毅と裕子が結婚する前、いや結婚してからもだが、裕子はよく毅をぶっ飛ばす。それは憎かったり苛立ったりでするのではなく、裕子にとってはじゃれ合っている感覚に過ぎないのだ。好きだからこそ相手をいじめてしまう気持ち、わかる人にはわかるだろう。簡単に言えば素直じゃないのだ。裕子は裕子なりに、達也と毅を愛している。そしてそれを二人もちゃんとわかっている。この家族にとって、日常がギャグ漫画のノリなのだ。
スイカを食べ終わった家のリビング。鼻血を出しながら母とじゃれ合う達也の顔は、本当に幸せそうだった。
――暑い。いや熱い。この一言に尽きる。汗も滴るいい女。いや、汗なんか滴らなくてもいい女よ、あたしは。
それにしても暑い。いや熱い。なんなのこの熱さは。まるで体中が焼かれる様。普通プールでしょ、こうゆう日は。何が楽しくてこんな熱い中グラウンドで走らなきゃなんないのよ。プールの水が出ない? ハァ? 冗談言わないでよ。って冗談じゃないから今こうして走ってるわけで、暑いじゃなくて熱いのは走っているからなわけで…。
「もう嫌」
立花茜は体操着に身を包み、肩下辺りまで伸びた栗色の髪を揺らしながらそう呟いた。初夏の匂いなんて知ったことではない。とりあえず今はこの地獄のような体育の時間が終わって欲しい。茜はただそれだけを考えながら走り続けた。
「茜、いつまで走ってるの?」
茜の親友、樋口瀬奈の一言が茜を独り言の世界から救った。
「え?」
とっくに周りのみんなは走るのをやめている。むしろ整列している。なんで? どうして? それもそのはず、茜は独り言の世界に入り込んでいて、授業が終わろうとしていることに気付きもしなかったのだ。瀬奈をはじめとするクラスメイトや体育教師が何度名前を呼んでも見向きもしなかった。たまたま独り言が途切れた時に、ちょうどタイミングよく瀬奈がもう一度声を掛けてくれたのだ。
「助かったぁ……」
茜の体育が、やっと終わりを告げた。
そしてそれとほぼ同時刻。鼻血が止まった達也は自分の新しい学校の前に立っていた。
『都立 美郷学園高校』の前に。
ここも一応都内なんだなと思った後、なんて読むんだ? と一瞬考えた。
それにしても、ここまでくるの、いろいろなものを見た。田んぼ、畑、林、森、田んぼ、また田んぼ、畑、畑畑畑……
「田んぼと畑ばっかだったな」
さすが田舎というべきか。本土にあったような場所が何一つないのだ。ゲームセンターやデパートはもちろん、スーパーすらない。もちろんコンビニも。いや、コンビニまがいのものはあった。ファミリーミサトとかいうところだ。ファミ○のパクリかと思った。十中八九パクッたのだろうが。営業時間7時〜23時。どういうことだろうか?コンビニというものは24時間やっているものではないのか? 夜の間はやっていないと? それでは深夜にタムロすることができないではないか。といっても一緒にタムロする存在が、今の達也にはいないわけだが。
そういえば、達也と裕子が降り立った港から見えた商店街にはまだ行っていない。明らかに活気がなかったが、それでも一応商店街だ。何かしらあるかもしれない。近いうち行ってみようと思いながら、達也は携帯を開いた。
「そういえばこの島、圏外じゃん」
まさに今更。港に降り立ってからすでに何時間か経過しているのにもかかわらず、達也は今更気付いたのだ。最早携帯はカメラ付きの時計と化した。貯めたバイト代でようやく買うことができた最新の携帯。ワンセグ付き。もちろんワンセグの電波も届かない。おサイフケータイ対応なのに、それを使う場所がない。この島にいる期間は短くても卒業まで。今は高校二年の夏なので、少なくともあと一年半。せっかく最新の携帯を買ったのに、本土に帰る頃には一昔前のモデルになる。裕子の容態次第では、一年半どころの騒ぎではないが。
あまりにも大きすぎる本土とのギャップに、達也は深い深いため息をついた。
といっても、いつまでも落ち込んでるわけにもいかない。転入の手続きを早く済ませなくてはならないからだ。使い物にならない携帯をポケットにしまって、達也は『美郷学園高校』の敷地内に足を踏み出した。
夏を告げる日差しと風が、これから始まる新しい生活を告げているような午後だった。
Memory 2 下着とレスラーと大きなスイカ
「こっちこっち。早くおいでよ」
肩くらいの、少し髪が長いあいつが僕を呼ぶ。やんちゃで冒険心の塊。体はそこら中絆創膏だらけのあいつ。森の中を当てもなく歩き回っていたあの日。都会生まれ都会育ちの僕は、あいつについていくだけで精一杯。帽子をかぶって綺麗な靴を履き、絆創膏なんてひとつもなかった僕。そいつについていけばついていくほど靴は汚れ、絆創膏はどんどん増えていく。でも、僕はそれが楽しくてしょうがなかった。都会しか知らない僕には、全てが未知との遭遇だったから。虫取りも、秘密基地作りも、ザリガニ釣りも、あいつはなんでも知っていた。元気いっぱいのやんちゃ坊主。あ、でも髪は長いから坊主ではないか。いや、そういう意味での坊主じゃ……。
懐かしいことを思い出していた。10年前、たった一度だけ裕子に連れてきてもらったこの美郷島での淡い思い出。あの頃も美郷島って読めなかったっけ。いや、というかその前に……。
「自分で回想して自分でツッコミいれて、俺はアホか」
全くです。自重します。そして、とっとと転入手続き終わらせてばあちゃんちに帰ります、母ちゃん。
古びた校舎の中を歩きながら、達也は一人でそんなことを考えていた。それはかけがえのない大切な昔の思い出。都会育ちでもやしっ子だった達也が変われたあの時。忘れちゃいけない、あいつとの大切な大切な思い出だった。
「あいつの名前、覚えてないけど……まぁいいか。どうせ美郷島にいるんだろうし、また会える。美郷島に学校はここしかないんだし」
そんなことを呟きながら、達也は目の前の引き戸を開いた。ガラッと音がして戸が開く。目の前に広がったのは小さな職員室。ではなくて女の子の下着姿。胸はそこそこ。綺麗なクビレ。大きくもなく小さくもない引き締まったお尻。沈黙の後に飛び散る鼻血。それは決して興奮して出た鼻血ではない。その女の子が投げたであろう、着替えを入れるバックがクリーンヒットしたせいだ。倒れながら達也は思った。普通の女の子なら、バック投げる前に悲鳴が先じゃないの?
達也が完全に倒れきる前に、誰かに支えられた。いや、襟首を掴まれて強引に立たされたというほうが正しい。そしてその誰かは、下着姿の女の子だった。
「あたしの着替えを堂々と見るなんて、いい度胸ね」
ドスの利いた女の子とは思えない声。整った綺麗な顔がまるで般若。下着姿のせいか、レスラーに見える。
――ドアの向こうは地獄だったのか。一瞬天国だったのに。俺はここでこのレスラーに殺されるのか。
下着レスラーに睨まれながら達也はそう思った。ちなみに鼻血はまだ止まらない。どんだけ綺麗に決まったのかと。
「ここ更衣室なんですけど。というかあんた誰? うちの学校の制服じゃないけど」
「そ、それよりもとりあえず服着たらどうでしょう……」
下着レスラーの質問に答える前に達也がそう言い返すと、下着レスラーは自分の格好を確認して顔が赤くなった。そしてそれが少し可愛いと、生と死の狭間で達也は思った。それで鼻血の量が少し増えたのは言うまでもない。もちろん今度は興奮で。
服を着終わると、(元)下着レスラーはもう一度聞いてきた。あんたは誰なのか? と。達也は軽く自己紹介をした。自分は転入生で、職員室を探していたこと。いろいろと考え事をしながら歩いていて、目の前にあった引き戸を開けたらここだったこと。転入早々覗き魔扱いされないために、精一杯の説明をした。
「あ、そう。ちなみに職員室はここをもう少し先に行ったところよ。まぁ昇降口から一番近い部屋が女子更衣室になってる構造もどうかと思うけど、ちゃんとなんの部屋なのかくらい確認しなさいよね」
少し偉そうなのは置いといて、達也は着替えを見たことを謝ってそそくさと退散しようとした。ゴメンと言って(元)下着レスラーに背を向け、部屋を出ようとしたときにもう一度話しかけられた。
「あたし、立花茜。転入してきたら、よろしくね」
意外と怒ってないのだろうか。さっきまでとは打って変わって優しい口調になった(元)下着レスラー改め立花茜は、少し微笑んだような顔でそう言った。
「……俺は霧島達也。よろしく」
達也も少し微笑んでそう言った。鼻にはティッシュが詰め込まれたままだったのが、妙にダサかった。
転入手続きも終わり、女の子の下着も見たし、達也はどこか満足気な表情で帰り道を歩いていた。来たときと同様田んぼと畑ばっかりだ。田園風景の穏やかな景色と鳥のさえずりに包まれながら歩く細い道。車が二台擦れ違えるかどうかくらいのこの道。エル○ランドみたいな大きな車が走っているわけでもないので、これでちょうどいいのかもしれないが。
「にしても田舎だな。嫌いじゃないけど、不便すぎだろ」
携帯は繋がらない。コンビニはもどきしかない。スーパーはないしデパートなんて余計あるわけない。遊び場所どころか、買い物する場所すらまともにないのだから。
「ボウヤ、和泉さんとこのお孫さんかい?」
和泉というのはまひろの名字。つまり裕子の旧姓だ。というよりこの婆さんは誰なのだろう? 会ったこともないのになぜ自分のことを知っている?
「え、ええ。そうですけど」
達也がそう答えると、畑仕事をしていた婆さんはニコッと微笑み、近づいてきた。しわくちゃなその顔は、まひろと同じでどこか可愛らしい。これはお年寄りの持つ特性なのだろうか? 都会ではあまりお年寄りと触れ合う機会がなかった達也にとって新鮮だったのは間違いない。それより、なぜこの婆さんは自分のことを知っているのだろうか。
「やっぱそうかい。見たことない顔だったしねぇ。和泉さん、孫と娘がこっちに来るって言っとったしねぇ」
お年寄りというのはどこか暖かい。語尾が若干伸び気味だからなのか。それともしわくちゃな笑顔だからなのか。それはまだ達也にはわからないが、どこか安心感を覚えた。
「これ持ってくとええ」
そう言って差し出してくれたのは、大きなスイカだった。さっきも食べたのは内緒だが。それ以外にも数種類の野菜をビニールに入れて持たせてくれた。ああそうか。この島には買い物する場所なんていらないのだ。住民たちが仲が良く、支えあって生きているのだ。自分で育てた野菜、獲った魚、そういったものをお互いに分け合っているのだろうなと達也は思った。都会にはない優しさ。愛情。そういったものがきっと溢れているのだろう。
「ありがとう。おいしくいただきます」
例え不便でも、達也はこの島が好きになれそうな気がした。そしてスイカと野菜を歩いて持って帰るのは辛かった。例え優しくても、達也はおばあちゃんにいじめられたような気がした。
Memory 3 落ちていく夕日
青い海と青い空を背景に、達也は海沿いの道を一人ブラブラと歩いていた。転入手続きを済ませた後一度家に帰って着替え、財布と携帯だけを持って商店街へと向かっている。港から見えた商店街。それはお世辞にも活気があるとは言えない光景だったが、実際はどうなのだろうか。学校の帰りに会ったおばあちゃんのように人々は笑顔が溢れ、例え活気はなくとも人の暖かみがあればいいなと達也は思いながら、初夏の日差しを浴びながら歩き続ける。日は傾きかけ、昼と夕方の間くらいになっていたが、都会のビルの様な遮蔽物がないおかげで太陽を目一杯感じることができた。初夏の日差しといえば暑いと感じるのが普通だろうが、都会で育った達也は太陽を浴びることはあっても浴びまくることはなかった。
「日差しってこんな気持ちいいものだったんだな」
太陽を見上げながら、達也は少し嬉しそうだった。
島一番のメインストリート。車二台が余裕ですれ違うことができる。都会からしてみれば至極普通なことだが、この島の基準で考えると相当な広さの道だった。だが、走り抜けていく車の数は少ない上に軽トラックばかり。
「これがジェネレーションギャップか……」
違う。断じて違う。ジェネレーションギャップは世代間で起こるギャップのことだ。こんなのが主人公でいいのかと時折悩むが、物語が始まってしまったからにはしょうがない。作者は目を閉じて、自分にそう言い聞かせた。
商店街はやはり活気がないと思いきや、夕方近い時間も手伝って少しだけ賑わっていた。といってもそれはやはりこの島の基準での話。都会に比べれば全然だった。それでもそれぞれの店には笑顔が溢れている。主婦らしき女性は店のおばちゃんと仲良く喋っているし、犬の散歩中と思われる若い女の子も道行く人とすれ違うたびに笑顔を見せていた。
「あの子、どこかで見たような……」
そう、どこかで見たことがある。それも数時間前に。そんなことを考えているうちに、女の子は達也に気が付いてこう言った。
「あ、覗き魔」
犬の散歩中のその女の子は、先程学校で達也を締め上げた下着レスラーこと立花茜だった。
血だ。赤い鮮血。自分の体を蝕む悪魔が私にこれを吐かせた。体が重い。痛い。苦しい。なぜ私がこんなに苦しまなければならない?あぁお母さん、ごめんね。心配かけて。でも大丈夫。すぐに治まる。軽い発作だから心配しないで。それにしても、いくら空気が綺麗なこの島に来ても、やっぱ駄目なものは駄目なのかなぁ。ねぇ達也? 私が死んだらあんたどうする? 泣いてくれるかな。あ、でも泣かないでほしいかも。あんたは笑顔が一番似合うからね……。
美郷島にある一軒の民家で、布団の純白なシーツが血で真っ赤に染められていた。
「沈んでいく夕日を眺めるのって好き。今日も一日お疲れ様でしたって感じになって、疲れが取れるから」
海に沈んでいく赤い夕日を眺めながら、灯台の下の堤防に腰掛けた茜はそう言った。そのときの茜の顔は決して般若ではなく、本当に可愛らしいものだった。昼間にはこの子に殺されかけたのに不思議なものだと思いながら、達也は茜の隣に立って夕日を見つめていた。十年前、あいつとも見たこの景色。透き通った空気を赤く染め上げ、心まで優しく包み込んでくれる。あの時も、そして今もそれは変わらなかった。時が過ぎて自分は変わってしまい、きっとあいつも変わっただろう。でも、この景色は変わっていなかった。ちょうどこの場所。この灯台の下があいつのお気に入りスポットだった。
「あたしね、この灯台の下から見る夕日が一番好き。だってこの場所が一番夕日に近いから」
ああ、この子もここから見る景色が好きなのか。あいつも同じようなこと言ってたし、この島の人はみんなここから見る景色が好きなのであろう。
都会で見る夕日はいつもビルの陰に沈んでいく。都会でなくとも、山に沈んでいくのが当たり前だろう。太平洋側に住んでいればそれは普通のことだ。だがここは島。島の周りには海しか広がっていない。普段は見ることができなかったこの夕日を、これからは毎日眺められるのだ。都会と違って不便なところが多いこの島だが、いいところもたくさんあるのだと知ることができた一日が終わっていく。そして数時間後にはまた新しい一日が始まるのだ。
「ねぇ、君の名前、霧島だっけ?」
隣に静かに腰を下ろしている犬の頭を撫でながら茜が言った。
「覚えてたのか。そうだよ、霧島。霧島達也」
「あたしの名前は覚えてる?」
達也が立っていて、茜が座っているからだろう。上目遣いに振り向いたその顔は反則的に可愛かった。ヘイ審判、これは駄目じゃないかい?
「立花さんだろ?」
長州力と答えたかったがやめた。いくら可愛いとはいえ、この子は昼間の下着レスラーのような一面も持っているのだ。海に突き落とされたりでもしたらたまったものではない。
「あったりー」
そう言って茜は立ち上がり、ズボンに付いたものを掃った。そして体ごと振り返ってこちらを向き、手を差し出した。
「茜でいいよ。立花さんじゃ堅苦しいし。これからよろしく、転入生くん」
沈んでいく夕日をバックに茜が微笑む。やばい、これはやばい。まるでパイプ椅子で殴られたかのような衝撃。クラッときた。いや、でもこんなもんじゃまだ惚れませんよ俺は。たぶん。
「じゃ、じゃあ俺のことも達也でいいよ。よろしく」
ドキドキする心臓の音が茜に聞こえないか心配だった。手を握ろうとしたけどその手は汗ばんでいる。こんな手じゃ恥ずかしいと思い、ズボンで一度手を拭いてから握り返した。
もう暗くなりつつある道を飼い犬のミニチュアダックスフンド、リリと一緒に歩く。茜の誕生日に親がどこからか買ってきたリリ。もう三年間一緒にあの夕日を見てきた茜の友達、いや家族だ。
「ねぇリリ。今日のお昼ね、さっき会った達也って人に着替え見られちゃった」
リリは小さな体で一生懸命に歩きながら、茜の顔を見上げた。
「でも、それはわざとじゃなくて……。意外にいいやつかもね、あいつ」
初夏の夜、島の道。茜は少し嬉しそうに家へと向かってリリと歩いていった。
昼間は般若だったあの子、立花茜。怖そうな女だと思っていたらそれは違ったみたいだ。話してみると優しい口調で愛嬌のある声。そして般若とはかけ離れた可愛げのある顔。
「やべ……このままじゃ惚れちまうかも」
まさかこんな島にあんな子がいるとは想定外。都会で可愛い子は散々見てきたが、その中でもずば抜けている。昼間はそんなこと思わなかったのに。ワイルドだと思っていた性格は実は優しく、飼い犬に見せる天使の様な顔は素敵だった。
島に来て一日目。携帯は使い物にならないし遊べるところもないしでどうなるかと思ったが、意外に楽しいものになりそうだ。茜のこともそうだが、島の人々の暖かさ、そしてあの夕日。これからの生活が少し楽しみになった達也は、暗くなった空を眺めながら家へと向かった。
「おっかえりー」
家に着いた達也を元気に出迎え、抱きついてきたのは裕子だった。元気一杯なのはいつものことだが、普段は帰ったくらいで抱きついたりはしない。裕子は頬をスリスリしてくれたが、達也にとってそれはうれしいけれどうれしくもないことだった。
裕子は発作が起きると必ずといっていい程こうなる。自分が元気だと見せたいのか、それとも元気なうちに家族にこうしたいのかはわからない。だが発作が起きたときは必ずだ。裕子は発作が起きてもなんとかして隠そうとするが、それはバレバレ。発作が起きると血を吐いてしまうのでまず服が変わっていることが多い。そして微妙にだが血の臭いがするときがある。
いつかは母がいなくなってしまうかもしれない。代わりなんて誰もいない、自分にとってたった一人の母が。そう思うと、胸が苦しかった……。
Memory 4 都会
朝っぱらから大音量で繰り広げられるセミたちの大合唱。初夏の風が優しく頬を撫でる。空は雲ひとつない快晴。振り返れば青く輝く海。時間は八時二十三分。遅刻寸前大ピンチ状態。達也は走った。家から学校まで続く緩やかな坂道。昨日の転入手続きの際、八時半までには職員室に来いと言われたのに早速寝坊。クーラーがないため暑くて寝苦しく、なかなか寝付けなかったのが理由らしいが、学校側からすればそんなの知ったことではない。遅刻の理由にはならないだろう。達也はとにかく走った。
ここで簡単に、本当に簡単に美郷島の構造を説明しよう。港から見て達也の家は東。商店街は西にある。そのちょうど中間辺りに山を登っていく道があり、その先に都立美郷学園高校がある。山を登っていく道には畑が多いが、ファミリーミサトもある。学生たちは朝ここで昼食や授業で使う道具などを買い、その足で学校へと向かう。まぁ学生といっても、小中高合わせて百人もいないのだが。ちなみに小学校と中学校は美郷学園高校のすぐ隣にあり、同じ敷地内にあるといっても過言ではない。一貫教育をしているわけではないのだが、生徒数そのものが少ないため行事などは合同で行うことが多い。秋に行われる体育祭では、島中の人たちが集まって相当盛り上がるらしい。達也は体育祭で活躍できるのかどうかは、まだ先のお話。
「遅い。初日に遅刻寸前とは何事だバカモノ」
職員室の一角に静かながらも芯の通った声が響いた。フォーマルな服に身を包み、眼鏡をキラリと光らせ、足を組んだ体勢でそう言った女性、斉木恵(さいき めぐみ)二十五歳。少しキツイ感じではあるが美しく整った顔。細身で長身のモデル体型。でも独身。こんな島にいるからなのか、それとも性格がキツイからなのかは謎。たぶん後者だなと達也は思い、そして白く透き通った太ももを見つめ続けた。
「はい。ごめんなさい」
視線はまだ太もも。それにしても本当に綺麗な太ももだ。ぜひ膝枕してもらいたい……などと考えていた次の瞬間、達也の顎に教員用の分厚いファイルがヒットした。バレたのか!?
「変態だなお前」
やはりバレていた。そう言って恵は立ち上がり、職員室のドアへと歩を進めた。ドアの前で首だけ振り返り、達也に向かってこう言った。
「みんなに変態転入生と紹介されたくなかったら早く来い」
「ちょ……ちょっと待ってくださいよ」
スタスタと歩いていってしまう恵。まさか自分のことを変体転入生だと紹介したいのではないか? と思うほどスタスタ行ってしまう。走って追いかけると廊下は走るなと怒られる。そんなもん、一体どうやって追いつけと? 怒涛の早歩きで教室に着く寸前になんとか追いついた。恵が小さく舌打ちをしたように聞こえた。
「ねぇ茜、聞いてる?」
朝の教室。机に肘をついてボーっとしている茜に向かって、茜の親友である樋口瀬奈(ひぐち せな)が言った。髪は肩にかからないくらいのショートで黒。幼い顔立ちとは対照的なパーフェクトボディ。茜と瀬奈の二人は島のアイドルだった。
「ごめん。なんだっけ」
申し訳なさそうな笑みを浮かべて茜が言った。瀬奈は頬をブーっと膨らませたあと、先程も言った言葉を繰り返した。
「今日転入生が来るんだってさ。なかなかのイケメン君らしいよ」
ウキウキした態度で瀬奈が話す。茜はそれに対し笑顔を浮かべて言葉を返す、何気ない会話。内容は転入生についてなので少し特別ではあるが、この情景は毎日この場所で繰り広げられている光景。窓際の一番後ろの茜の席。その近くへと瀬奈が遊びに行ってペチャクチャ話す。いつも通りのこと。
なのに、茜の心中は少しいつもとは違った。会話が転入生、つまり達也のことだから? いやそんなことはないだろう。達也と会ったのは昨日が初めて。夕日を見ながら会話したが、それくらいでなんだというのだ。でも、なにか不思議な気持ち。これからこの教室に彼、霧島達也がやって来る。なんだろう。すごく不思議な気持ち。
ガラっという音と共にドアが開く。おはようと言いながら教員ファイルを持った恵が教室に入ってくる。教壇の前に立って静かにファイルを教壇に置く。その頃には生徒たちは静かに自分の席へと腰を下ろしていた。
「みんなおはよ。今日は転入生がいるから紹介するね」
開いたままの教室のドアから入ってきたのは中肉中背の男。少し長めの黒髪ですっきりした顔立ち。茜にはそれが誰なのかすぐにわかった。
「霧島達也です。よろしくお願いしますです」
ペコッと頭を下げてからもう一度顔を上げると、自分に優しい微笑みを送る茜に気が付いた。達也もそっと茜に微笑み返した。なんか微笑ましい。羨ましい。そう思った人は作者の仲間です。
「はいっ!! しつもーん!!」
元気よく手を上げたのは瀬奈だった。質問タイムなんか全く設けていないはずなのだが。だからといって質問禁止にしたわけでもない。恵も達也も無視することはできなかった。
「霧島くんはどこから来たんですかぁ?」
その瀬奈の言葉を聞いて、茜の心臓はドクンと音を立てて飛び上がった。
そういえば、自分は達也がどこから来たのかを知らない。昨日灯台のとこで話したときもそれは聞かなかった。いや、聞けなかった。もし達也が“あそこ”から来ていたら自分はどうするのだろう? 達也に対してきっと酷い態度を取ってしまうのではないか? それが心配で聞けなかった。せっかく仲良くなれそうなのに、それを聞いてしまったら全てが壊れてしまう気がしたから。お願い。“あそこ”からじゃないことを祈ります……。
――都会からじゃないことを。
「東京の吉祥寺ってとこから……」
その言葉を聞いた瞬間、茜の中で何かが壊れた音がした。
都会から来た男。あの都会から。過去に自分に嘘をつき、裏切ったやつも都会から来ていた。都会の人間は嘘つきなんだ。信じちゃいけない。信じたら裏切られる。都会の人間は……。
「じゃあ霧島は立花の隣に座りなさい」
来るな。あたしの横に来るな。来たらあたしはきっとあなたに酷いことをしてしまう。言ってしまう。嫌われてしまう。だから来ないで。
「よ、よう茜。おはよ」
恥ずかしがりながらも勇気を振り絞って言った達也の言葉に対し、茜は何も反応ができなかった。
一日に何度かある休み時間。達也の周りには生徒が集まり話がはずむ。都会のことやこの島のこと。いろいろな話に花が咲く。そんな中、茜はその日ずっと達也に近づこうとも話しかけようともしなかった。
Memory 5 リリ
降り注ぐ初夏の日差しが傾き始め、昼から夕方へ変わっていく風景。一日の最後の時限であった体育が終わって廊下を教室へ向かって歩く達也。その達也が歩く廊下の窓から見える校庭の青々とした木々が、風に揺れて視覚的な涼しさを演出してくれている。都会にも木はあるが、それとは全く違う。同じ木のはずなのに何かが違うのだ。違和感の有無とでもいうのだろうか。大自然の中にビルがポツリと建っていたら明らかに不自然だ。違和感を感じる。それと同じように、ビルの群れの中にポツリと木があっても不自然なのだ。その不自然さがこの場所にはない。この島の人々にとっては何の変哲もない風景が、達也には新鮮に感じられた。
といいたいところなのだが、今の達也の目にそんなものは映っていない。むしろ何も映っていない。達也は初夏に大量発生する蝉の抜け殻のようになっていた。
理由はもちろん立花茜。先日はあんなにも話をしてくれた。握手をしてくれた。これからよろしくと言ってくれた。なのになぜ今日は一度も話しかけてくれなかったのか。教室に入り目が合ったときは微笑んでくれたのに、その数分後には完全無視。話しかけても何をしても完全に。まるで達也の存在自体がないかのように。ならなぜ茜はあの時微笑みかけてくれたのか。微笑みかけた相手は達也ではなかったというのだろうか。
「まさか……先生に? 二人は禁断の愛に足を踏み入れていて、俺なんかでは到底入っていけない様なディープな世界を描いているのか……? だから先生はあんなに綺麗なのに結婚もせず……」
そんなくだらないことをブツブツと呟きながら、達也は廊下の壁に激突した。
「茜いいなぁ。霧島君が隣の席で」
女子更衣室で体操着から制服へと着替えながら、瀬奈が茜に話しかけた。
「別に、いいことなんてなんにもないでしょ」
タオルで額の汗を拭い、体育の後で火照った体を洗顔シートとデオドラントスプレーで癒しながら茜が答えた。ちなみに余談だが、この洗顔シートとデオドラントスプレーはファミリーミサトで大人気発売中。何気に豊富な品揃えだから驚きだ。
「なんでよ。霧島君は都会からやって来た王子様よぉ……。どんな理由でかは知らないけれど、きっとこれは運命なの。あたしを迎えに来てくれたんだって」
胸の前で両手を握り合わせ、目を輝かせてどこか遠くを見ながら熱く語る瀬奈。よく言えばメルヘンチックな乙女。悪く言えば変わり者。その瀬奈を見て溜め息をつきながら、茜は着替え続けていく。
瀬奈は都会に対して強い憧れを持っている。お洒落な人々に華やかな街並み。二十四時間営業は当たり前。交通網は発達し、そこらじゅうに活気が溢れる都会に。何度か定期船に乗って都会へと足を運んだことがあり、その度にトキメキを隠せずおおはしゃぎ。三日間寝ることなく遊び通したという伝説を持っていた。
茜も瀬奈も島で生まれ島で育ったため、二人は小さい頃からの友達だ。瀬奈の暴走は幼い頃から既にあったため、その暴走を止めているうちに、茜と瀬奈はそれぞれにとって島で一番の親友にまでなった。
瀬奈が一人二役を演じ、よくわからない台詞の掛け合いをする『王子様とお姫様ごっこ』をやり終えた頃、ちょうど茜は着替え終わった。体操着をそれ用の袋に畳んで入れ、口をキュッと縛る。その袋を肩から提げると近くにあった小さな椅子に腰掛けた。
「都会の人間なんて、嘘つきばっかだよ……」
その言葉に対し、都会好きの瀬奈は振り向いて何か言葉を返そうとしたが、返せなかった。茜の辛い過去を島で唯一知っている瀬奈には、茜のその言葉を否定することはできないから……。
学校から家までの帰り道の途中、少し横道に入ると見えてくる森。その森に入って三分程歩くと、ポッカリと空いた空間にでる。森と言っても決して険しくはないので危険ではない。むしろ逆に心が癒されるかのような美しさを持っている。その空間は昔、茜の秘密基地だった。昔の茜はとにかくわんぱくで、まるで男の子かと疑うほどだった。冒険が大好きで至る所に秘密基地を作っては、一日中そこで過ごしていたくらいだ。その頃はまだ瀬奈とはそれ程仲が良かったわけでもないため一人でいることがほとんどだったのだが、この森の秘密基地だけは違う。短い時間だったけれどあいつと過ごした秘密基地なのだ。
あいつは都会から来ていた。たった数日で帰ってしまったが、ひょんなことから知り合って仲良くなり、あいつが帰るまでの間遊べるだけ遊び尽くした。あいつのお母さんが半端なく綺麗な人で、とても優しかったことを覚えている。
だが、あいつの名前はもう忘れてしまった。忘れたくなかったのに忘れたんじゃない。忘れたくて忘れたのだ。あいつは自分を最後の最後に裏切ったから。
自分を裏切った様なやつとの思い出の場所。本来なら絶対に近づきたくないものだ。嫌なことを思い出してしまうから。でもなぜか不思議なことに、茜は落ち込んだりするとこの場所へとやってくる。それがなぜなのかは茜自身もわからないことだが、なぜかこの場所は心が落ち着いた。
そして茜は今日、学校帰りにここへとやってきた。瀬奈からの一緒に帰ろうという誘いを断って。
「達也、都会の人間だったんだ……」
夕日に染められた森の木々が、茜の心を表すように悲しく揺れていた。
――達也が暗い。学校で何かあったのだろうか。いじめられた? いや、達也はそれくらいで落ち込む子ではない。じゃあ何が? 都会の学校とのギャップ? 先生が嫌な人だった? わからない……。そして聞くに聞けないから困る。
そんなことを考えながら裕子はまひろと一緒に夕食の支度をしていた。島の漁師が獲ってきた近海物の海の幸と、ご近所さんからいただいた無農薬野菜。都会とは比べ物にならないほど食材が輝いて見える。新鮮な証拠だ。きっと体にもいいだろう。
それにしても達也がおかしい……いや消えた。いつの間にどこかへ消えた。さっきまで居間でボーっと寝転がっていたはずなのに。心配になって玄関へ行ってみると、そこに達也の靴はなかった。達也は普段どこかへ出掛ける時に無言で行ったりはしないのだが。
「どうしちゃったんだろ……。もうご飯なのに」
陽もほとんど暮れて暗くなりつつあるのにもかかわらず、まだ全てを把握しきれていない外へと出て行った達也が心配ではあったが、達也ももう高校二年生。過剰な心配をするよりも今は本人の自由にさせるべきかと考え、裕子はあともう少しでできあがる夕食の支度に再度取り掛かった。
陽が完全に沈み月が夜空に浮かぶ頃、達也は灯台のところにいた。ここで茜と会話し、淡い一時を過ごしたのは昨日のこと。今日はそれがまるで嘘だったかのように冷たかった。いや、もしかしたら恥ずかしかったのかもしれない。今日転入してきたのに既に仲良かったりしたら周囲の人間にからかわれるだろう。それが恥ずかしくて話をしてくれなかったのかもしれないではないか。夕日も沈みきってしまったが、茜はここで自分を待ってくれているのではないだろうかと思って来てみた。
「いるわけ……ねぇか」
溜め息をついて帰ろうとしたその時、どこかから聞き覚えのある声が聞こえた。昨日この場所で聞いた声。今日はまだ聞けていなかったあの声。
「……茜の声だ」
声のするほうに視線をやると、そこには本当に茜がいた。ただ、距離は少し離れている。そして、はっきりとは聞こえないが呼んでいる相手は達也ではない。叫ぶように誰かを呼び続けている。時々振り返ったりして走りながら、誰かを必死に。
「リリ!! リリー!!」
今度ははっきり聞こえた。リリという人を探しているようだ。日本人にしては珍しい名前だ。もしかしてあの『東京○ワー』のリリー・○○○○○か? いや、違う。昨日茜が連れていた犬、ミニチュアダックスフンドのリリだ。
ただ事ではない様子だと察し、達也はまた無視されることを覚悟の上、茜の方へと向かった。
「茜!」
その声に茜が振り向くと、そこには達也がいた。都会からやってきた霧島達也が。今は達也に構っている暇はない。茜は昼間と同じ様に無視をしようとしたが、ガッと肩を捕まれてしまった。
「ちょっと、放して!」
その手を振り解こうと試みるが、達也の手は離れてくれない。今は達也に構ってる場合ではないというのに。
「なんかあったのか。リリって、昨日お前が連れてた犬だろ」
「あんたになんか関係ない! それより手放して!」
やはり茜は自分を避けていたのではないかと、少し実感した。こんなに慌てているのに助けを求めてこない。普通だったら求めてくるだろう。
「俺に協力できることあるならするから。だから教えてくれ。何があった?」
極力落ち着いて言ってみたが、少し声が上ずっていたかもしれない。茜が自分を断固拒否することに対する悲しみと怒りと切なさのせいだろうか。
そう考えている間に、達也の手はいつの間にか振り解かれてしまっていた。そして茜は睨む様に達也を見た口を開けた。
「嘘つきばっかりの都会の人間なんか……信じるわけないでしょ!」
その言葉に達也は一瞬自分の耳を疑った。嘘つきばかりの都会の人間? なんだそれは。都会の人間だから自分は避けられていたとでもいうのだろうか。くだらない。くだらなすぎる。さっき感じた悲しみと切なさは消え、怒りだけが残ったのを感じた。だが今はその感情に身を任せてはいけない。茜はこれだけ慌てているのだ。都会人は嘘つきという誤解を解くよりも、茜が慌てている原因を解決することが先決だ。
「都会人が嘘つきとかよくわかんねーけど、俺は嘘はつかない。絶対だ。絶対に力になる。だから教えてくれないか」
一度振り解かれた手でもう一度茜の肩を掴み、訴えかけるように言った。茜は少し黙っていたが、観念したのだろうか。不本意そうではあるが、目を背けてから話し始めた。
茜が慌てる理由。それはやはり飼い犬のリリ。茜は今日、少し寄り道をしていつもより遅く家に帰ったらしい。リリを散歩に連れて行こうとしたところ、そのリリが家のどこにもいなかったそうだ。そして家の庭に面した人が出入りできる窓の網戸を破った跡があったそうだ。今はそのリリを探している最中らしい。
「わかった。俺も探す」
そう言って踵を返し、リリを探しに行こうとした瞬間茜に呼び止められた。
「いいよ! 都会の人間なんかに助けてもらおうとなんて思ってない!」
その言葉が終わるかどうかのタイミングで達也言い返す。かなり語気を荒げて、まるで茜を叱るかの様に怒鳴りつけた。
「そんなことにこだわってる場合じゃねぇだろ!! お前の大切な家族だろうが!! その家族よりもそんなくだらねぇこと気にすんのかよ!!」
思ってもみない反応だったからだろうか。茜は一瞬ビクッとなり少し怯え、でもハッとしたような顔になった。茜はそれ以上言い返すことができないようで黙りこむ。達也もそれ以上追い討ちをかけるようなことも言わずに、リリを探し出すために走り始めた。
茜は、少しの間その場所から動けなかった。
Memory 6 ファインディング リリ
小さな体でとてとてと足音を立ててついてくる。あたしがどこへ行ってもついてくる。立ち止まって振り返ると、嬉しそうな顔であたしを見上げて尻尾を振る。小さな体で目一杯甘えてくる。そんなあたしの愛犬リリ。あたしの大切な家族。普段はすごく弱気なくせに、あたしが蛇に怯えてたりすると立ち向かって行ってくれる。小さな虫にもビビるくせにね。
そのリリがいなくなった。家から消えてしまった。風呂場を見てもトイレを見ても、あの嬉しそうな顔はどこにもいない。あたしの後ろに足音が聞こえない。いつも一緒だったリリがいない。
「リリ……どこ?」
あたしの足はもう棒になってる。あたしの声は枯れかけてる。だけど止まってなんかいられない。疲れてなんかいられない。あたしの大切な家族がいなくなったのだから。
走り出してからどれくらい時間が経っただろう。夏の海が静かに打ち寄せる海岸線を走りながら、達也はふいにそう思った。恐らく裕子は心配してるだろう。夕食の時間だというのに帰ってこない息子を心配しない親はいないのだから。都会ならそんな心配はいらないのかもしれない。帰るのが遅くなるのなら携帯から電話を一本いれておけばいい。今何をしているかを伝えてしまえばいい。だが、ここではそれができない。都会では当たり前であるはずのことがここではできないのだ。都会と違ってのんびりとした感じが心地よいと思った。都会と違って人々が暖かくて心地よいとも思った。だが、いいとこばかりではないのも当たり前。こんな状況になってみて初めてわかったことがある。この島は不便だ。
そういえば茜は今どこにいるのだろう。もしかしてもうとっくにリリを見つけていて、家に帰ってたりするかもしれない。携帯が使えるわけでもないので連絡を取ることもできず、まぁいいかと勝手に納得して家でのんびりしているかもしれない。そもそもリリを見つけたら茜にどうやって報告すればいい? 大声で叫んだって聞こえるはずもない。茜の家だって知らない。自分の家で一時的に預かって、明日の学校帰りにでも茜を家に連れて来ればいいだろうか。いや、餌がない。犬は基本的に何でも食べるであろうから何食べさせてもいいんだろうが、やはりドッグフードが一番いいのではないだろうか。
そんなことをうだうだと考えながら、達也は夜の島を駆け巡る。畑だらけの場所、木々に囲まれた暗い林道、全然知らない人の家の庭。ありとあらゆるところを探し回ってみたが、一向に見つからない。
茜と会ったのは昨日の灯台付近。あの場所から商店街は近いし、何より茜は商店街の方から走ってきた。それを考慮すると、商店街は恐らく茜が捜索済みだろう。いや、もしかしたら自分や茜が既に探した場所を、今はリリがうろうろしているかもしれない。入れ違いだって十分に考えられる。
「キリがねぇな」
額を零れ落ちる汗を拭いながら達也はボソッと呟いた。
――遡ること数時間。茜の家。
茜が帰ってこない。いつもならもう散歩の時間だ。明るい笑顔で自分を呼んで、散歩に連れて行ってくれる準備を始める時間。
なのに茜は帰ってこない。どこ? なんで帰ってこないの? どうしたの? 何かあったの? ねぇ茜!
犬としての忠誠心だろうか。茜のことが心配でたまらなくなったリリは、目の前の網戸を引っかき始めた。
それと同じ頃、茜はあの秘密基地でずっと考え込んでいた。リリがいなくなってしまうことも知らずに。
更に走り続けること数十分。いい加減体力は底を尽きつつある。心臓が弾け飛びそうなほど暴れている。肺が焼けるように熱い。汗が出続けるために喉が渇いて仕方がない。これでは給水ポイントのないマラソン大会だ。
生まれてから一度もタバコを吸わずにきたおかげか、思ったより体力は持った。だが無尽蔵なわけではない。元々運動神経が抜群にいいわけでもなく、人並みより多少できる程度。そんな達也にとって、美郷島を休憩なしで走り続けることは最早拷問のようなものだった。
疲れ果てて道端に座り込む。その疲れ具合は、手や足にくっつく小石や砂利など気にならないほどだった。
空を見上げれば夏の星空が広がる。淡く光る月は達也の疲れを癒してくれるのと同時に、リリを見つけられないことをあざ笑うかのようにも見えた。そして耳に入る虫の音。本来ならば涼しげでいい感じの音なのだろうが、今の達也にとっては耳障り以外のなんでもない。その虫の音も自分をあざ笑うかのように聞こえるのだから。月明かりに照らされた海は美しく輝いているが、全てを飲み込む悪魔の水にも見える。身の回りにあるもの全てが二面性を持ち、達也を癒す反面嫌な気持ちにもさせた。
「まさかリリ、海で溺れたりなんてしてねーよな」
反対側から誰かが歩いてくる。フラフラと危なげな足取りで。まるで今の自分と同じように疲れきっているみたいな歩き方で、自分に向かってまっすぐ向かってくる。その誰かは自分より少し離れたところで立ち止まる。夜の闇に包まれているせいか、顔がよく見えない。その風貌は不気味としか言いようがない。
「お……おばけ……?」
達也がそう言うと、その誰かはただならぬ殺気を放ち出した。
「誰がおばけよ」
おばけの放つ殺気は、疲れきっていながらも鋭い。力ないその声も芯は通っていておぞましかった。そしてその声を達也は聞いたことがあった。
「茜か」
達也と別れた後、茜は達也が走り去った方向とは反対へと向かって走り出した。そして今二人が会ったこの場所は灯台の正反対。つまりお互いに島を半周ずつしたというわけだ。もっとも、達也が走り去ってから少しの間茜は動くことができなかったため、達也の方が少し多く走ったことになるわけだが。
「そっちも見つかってないのね」
達也と向かい合って道端に座り込み、茜は残念そうにそう呟く。その後少しの沈黙を挟み、それぞれが探した場所を教えあった。
二人共島の外周だけではなくありとあらゆる場所を探しつくしていた。商店街や港、林道や森の中も自分たちが迷子にならない程度に。達也が行ったことのない公民館などは、茜が既に探していたようだ。
「どこにいるんだろ、リリ」
茜は絶望混じりの声でそう言うと、俯き下を向いてしまった。実際、茜の心労は相当のものだろう。自分の可愛がっていた犬が突然いなくなってしまったら、ほとんどの人が悲しむであろう。犬には帰巣本能があるというが、待ってれば必ずリリが帰ってくるわけではない。もし万が一、考えたくもないがリリの身に何かあったら帰巣本能どころの話ではない。帰りたくても体が動かなかったら、茜のもとに帰ってきたくても帰ってこれない状態だったとしたら。そんなことを考えると達也は気が重かった。
それにしてもリリはどこへ行ってしまったのだろうか。島中探し回っても見つからない。どれだけ呼んでも出てこない。そうなると考えられることは二つ。
一つは、達也たちが既に探した場所にいる場合。つまり入れ違いというやつだ。これは十分に考えられる。もしそれを永遠に繰り返すことになったらと思うと悲惨だ。
もう一つは、リリの身に何かあった場合。できれば考えたくないことだが、海で溺れてしまった可能性はゼロではない。ただ、やはりそれは考えたくない。達也自身そんな状態のリリを見たくはないし、何より茜の悲しむ姿も見たくない。
だがこれはあくまで達也視点で物事を考えた場合。ならばリリ視点ならどうだろうか。普段なら帰ってくる時間になっても、茜が帰ってこない。それはリリにとってどう感じたのだろう。今の自分たちと同じように、何かあったんじゃと思うのではないのか。リリだって、犬だって感情はある。嬉しいと思ったり、怖いと思ったり、寂しかったり不安だったり、いくらでも感情は湧き出てくるだろう。
「もしかして……学校?」
可能性はゼロじゃない。なかなか帰ってこない茜を心配してリリが学校へ向かった可能性は十分にある。そして学校があるのはちょうど島の中心。行けるのはたった一本の山を登る道から。達也自身は行っていない。学校にリリが向かったなら達也か茜が帰り道でリリと会っていてもおかしくないと思ったからだ。
だが実際はどうだ? 達也は茜より先に下校した。学校が終わってすぐに下校したのだから、茜が普段帰るはずの時間は過ぎていないだろう。ならリリは心配して学校へ向かうはずがない。なら茜が会ったのでは? それもない。茜は帰りに寄り道したと言っていた。その寄り道をした場所がどこなのか達也は知らないが、リリと会わない可能性は高い。
「茜、お前学校は探したか?」
達也の言葉に反応し、その後茜は首を横に振った。となれば学校はまだ探していない場所になる。盲点だった。道が一本しかないのだから、リリが学校へ向かったのなら自分たちとほぼ確実に会っているという考えは誤算だったのだ。
「茜、学校に行こう」
考えて推理したことをそのまま茜に伝え、達也はゆっくりと立ち上がった。リリが茜になついているなら十分に有り得ることだと言うと、茜も立ち上がり、ズボンや肌についた小石などを払い落とした。
月の光を背に受けて、二人は学校へ向かってもう一度走り出した。
Memory 7 あざ笑う月
夜の山道は不気味としか言いようがない。周囲には森や畑が広がり、街灯も少ない。時折木々の間から見える誰かの家の明かりは遠く心細い。いくらアスファルトで舗装されていても怖いものは怖いのだ。もし今自分たちにリリを探すという目的がなかったら、こんな道を夜に歩きたくなんかないだろう。普段学校の生徒たちも放課後になるとそそくさと帰る。もちろん達也自身もその一人であるわけだが。
そんなことを考えながら、ただひたすらに学校へ向かって走る。少しでも早く着けるよう全力で。最初達也は茜のことを気遣って走ろうかと思ったが、茜は運動神経が相当いいらしく、達也が全力で走ってもしっかりとついてくる。達也の足は決して遅くないのにも
関わらずしっかりと。それだけリリが心配なのもあるのだろう。ただ前だけを向いて走り続ける茜は、女の子ながらに少しかっこよかった。
そして達也は、この道は朝も全力疾走したなと思って悲しくなった。
学校に着いた頃、達也のカメラ付き時計の大画面には午後十時と表示されていた。家を出たのが午後七時頃。いつの間にかもう五時間も経っていた。きっと裕子も心配していることだろうし、早く帰って安心させてあげたい。だがリリを放っておけるわけもない。茜がこんなに必死になって探しているのに自分だけ帰るわけにもいかないのだ。そうしたら達也は茜の言うとおり『うそつきな都会人』になってしまう。嘘をつくのだけはどうしても嫌だった。だからリリを見つけるまでは帰るわけにはいかない。達也はこの学校にリリがいてくれることを祈った。
「リリー!!」
茜の声が静まり返った学校に響く。校舎に反射されてエコーの様に繰り返され、やがて小さくなって消えていく。そして残念なことに、その声に反応してくれるのは達也以外誰もいない。もちろんリリも。学校にもリリはいないのだろうか。じゃあリリはどこに? やはり自分たちと入れ違いで島中を彷徨っているのだろうか。頼むから学校の敷地内にいて欲しいものだが……。
それにしても夜の学校は不気味だ。先ほどの山道よりも更に。決してオンボロなわけではないのだが、夜の闇にうっすらと浮かび上がる非常口の明かりがその不気味さを加速させる。できればこんなところ早く離れてしまいたいのだが、そういうわけにもいかない。
その次の瞬間、達也と茜の背後でガサッという音がした。達也がビクッと体を強張らせるのとは逆に、茜は音のした茂みの方を向いた。
「リリ!? リリ!?」
その音の主をリリと思ったのか、必死になって茂みへ呼びかける。本当にリリならいいのだが、未だ姿が見えないためなんとも言えないのが正直なところだ。だが茜はリリだと信じて疑わず、しきりに呼びかける。実際、自分の大切な何かを探している時はこうなるのだろうか。その何かで頭が一杯になり、他の可能性を考えられないのかもしれない。茜を見ている限りそうとしか思えなかった。だがそれはおかしなことではなく、当たり前のことなのかもしれないが。
呼びかけながら茜が茂みへ近づいていく。中腰になって手を差し伸べながらリリの名前を呼び、少しずつ少しずつ。
一瞬、達也には音の主の姿が見えた。犬だ。だが、リリじゃない。そしてその犬がリリじゃないことに茜は気付かず近寄る。次の瞬間、茂みから茜に向かって飛び掛ってきたのはリリなんかよりずっと大きな犬だった。うれしくて飛びついてくるのとはわけが違う。明らかに茜を襲おうとしている。
「あぶねぇ!!」
達也は茜を守ろうと、茜に向かって手を伸ばした。
時間は少し遡って午後九時頃。達也たちの担任である斉木恵はやっと仕事を終え、職員室の自席に座りインスタントコーヒーで一息ついていた。仕事の内容は一ヶ月後に控えた美郷学園体育祭。今は六月二日。世間の常識では秋頃に行われるのが多い体育祭をこの時期に行うのにはわけがある。美郷島一のイベント『夢美祭』のオープニングとして行われるためだ。当日は島中の人たちが集まり大いに盛り上がる。学校の体育祭ではあるが、島民たちも参加する。そのためあまり激しすぎる競技もなく、生徒たちにとっては少し物足りないのかもしれないが。そして隣接された小中学部の生徒たちも参加。運動ができない老人たちもここぞとばかり集まって談笑に花を咲かせる。そんなイベントだ。
だが今この職員室にいるのは恵ただ一人。他の教師たちはもう帰ってしまった。恵は美郷学園体育祭を島の人たちに知らせるお便りを作成していたのだ。
パソコンに向かって黙々と仕事をしていたせいか、少し目が疲れた気がする。コーヒーを飲みながらタバコをふかし、天井の蛍光灯に目を細める。そのまま視線を横にずらすと目に入ってくるのは壁に掛けられた時計。時刻は午後九時を指している。
「げっ、もうこんな時間」
恵はコーヒーを一気に飲み干すと荷物をバックに詰め込み、職員室を出た。
靴を履いて職員用玄関を出る。目の前には真っ暗な闇が広がり、街灯など微塵の役にもたっていない。もう少し街灯の数を増やせと思いながら、自分の原付がある駐輪場へと向かう。
その途中で普段学校では見かけることのないものを見かけ、恵はそれに近寄っていった。
間一髪。犬が茜に触れる前に、達也が茜を抱き寄せた。こんな時に不謹慎かもしれないが、茜を抱き寄せたことで達也は少し興奮した。
だが状況は変わらない。犬がこちらに睨みを利かせながら構えている。いつ飛び掛ってきてもおかしくはない。見たところ雑種のようで中型犬くらいの大きさだろう。毛の色は白なのだろうが、汚れているせいで黒く見える。野犬というやつだ。
「あ……あっち行けっ。シッシッ」
そう言いながら追い払うように手を振ってみても、犬は全く退こうとしない。低く唸りながらずっとこっちを睨み続けている。
「……俺らが何したっていうんだアホ犬。あっち行けってば」
茜を自分の影に隠れさせながら、少しずつ少しずつ後退していく。近くに武器になるような物はない。小さな池があるだけだ。そんなもの武器になんかならない。そもそも物ではない。やばいと思いながら少しずつ後退し、池のすぐそばまでやって来てしまった。
茜は達也の後ろで震えながら呆然としている。音の主がリリではなかったことに対する気持ちと、目の前の犬が襲ってきた怖さが原因だろう。達也の肩にしがみついたまま動けないでいた。
その時、達也は閃いた。自分たちが逃げ腰だと犬は調子に乗るのではないかと。こっちも強気になって、逆に襲い掛かってやるくらいの気持ちでいけばなんとかなるんじゃないかと。そしてそれが正しいと思い込み、行動に移した。
「ガァーーーーーッッ!!!!」
叫びながら両手を大きく上に掲げ、力強く前に踏み出す。怪獣役の人が小さな子を襲うフリをするような感じと思ってくれればいい。この様にこちらも強気でいけば、逆に犬はビビって逃げるはず。そう思った達也が馬鹿だった。犬の逆鱗に触れたのだろうか。犬は更にヒートアップして達也に向かって飛び掛ってくる。
「うわっ!! ごめんなさーい!!」
そう言って達也は反転し逃げ……ようとした。
「なんて言うかアホ犬!」
犬から反対方向に逃げるのではなく、茜の腕を掴んで一緒に横へとずれた。犬が飛び掛っていく先にあるのは達也の体ではなく、池だ。犬は豪快に池へ落ち、バタバタと暴れている。別に深い池ではないので犬が溺れることはない。ただ逃げるために時間が稼げればいいのだ。
「逃げるぞ!」
まだ怖がっている茜の腕を引っ張って、達也は学校から走り去った。
結局学校にリリはいなかったのだろうか。隅々まで探したわけではないのでなんとも言えないのが正直なところだ。もし学校にいたら? もし学校にいなかったなら? そんなことを考えているとキリがなく、達也の頭はどんどん混乱していった。
茜もようやく落ち着きを取り戻して、達也の横を歩いていく。リリはどこにいるのだろう。どこかで寂しさと飢えに震えているのではないだろうか。そう思うと、寄り道をして遅く帰った自分が本当に憎かった。いつもなら必ずリリの散歩を終えてから出掛けるのに、今日はそれをしなかった。本当に悔やまれる。そして無関係な達也を巻き込んでしまったことも。会ったときには酷い事を言ってしまった。達也はこんなにも一生懸命にリリを探してくれているし、自分のことも野犬から守ってくれた。後でちゃんと謝ろうと、茜は思った。
「一度家に帰ったほうがいいんじゃないか? 親も心配してるだろ」
学校に続く山道の入り口で、達也が言った。確かにその通りかもしれない。親も心配しているだろう。それにもしかしたらリリが家に帰っている可能性もある。
「うん、一度帰ってみる」
続けてありがとうとごめんねを言って別れようとしたら、達也はすでに茜の家の方向へと歩き出していた。
「お前の家、こっちだろ? 灯台の近くでいつも会うし」
馬鹿なようで馬鹿じゃないのが達也だ。逆の場合も当てはまってしまうのが悲しいところだが。
茜は少し微笑んでからそれを肯定し、達也と並んで歩き始めた。
茜の家に着き、ドアに手を掛ける。開けるのが怖い。もしリリが家にもいなかったら、自分はどうすればいいのだろう。あとどこを探せばいいのだろう。全く見当もつかない。そしてリリに対する心配は更に募り、自分は大泣きしてしまうのではないだろうか。
だが、そんなことを考えていてもしょうがない。茜は恐る恐るドアを開いた。するとそこには元気に自分を出迎えてくれるリリの姿があった。いつもの光景。いつも自分が学校から帰ってくると見れるあの光景。見慣れたはずなのに今日はやけに新鮮に感じられた。
「……リリ」
今までで一番力強く、そして優しくリリを抱きしめた。茜の頬を伝う涙を、リリが優しく舐める。リリもやっと茜に会えて嬉しそうに尻尾を振る。だが態度自体は落ち着いていて、まるで茜を慰めているようだった。
そこへ茜の母がリビングからやってきて達也に軽く挨拶をした後、事の顛末を説明してくれた。
まず、リリはやはり学校へ向かっていた。生徒用玄関の前でお座りをし、ずっと中を見つめていたそうだ。まるで誰かを待っているかのように。そこへ担任の恵が仕事を終えてやってきた。この島では珍しいミニチュアダックスを飼っているのは茜しかいない。そう思った恵はリリのことを見つけると抱きかかえ、自分の原付のかごにリリを乗せ、落ちないように気を配りながらリリを家へと運んでくれたらしい。
「よかった……本当によかった……」
泣きながら喜ぶ茜を見て安心した達也は、携帯を開いて時間を見た。携帯が示す時刻は午前零時。確実に説教コースかなと思いながら、茜の母親にペコリと頭を下げて達也は家に帰ろうとする。
その時後ろから犬の鳴き声がし、振り返るとリリが自分に尻尾を振りながら向かってきた。
「どうした、リリ」
しゃがみ込んでリリの頭をそっと撫でてやる。リリは嬉しそうにして達也の顔を舐めまわす。恐らく、リリなりにお礼を言ってくれているのかもなと思い、顔がよだれでベタベタになるのを承知で舐めさせてあげた。
「ありがとね、今日は。本当に助かった。それで……ごめん。達也も都会から来た人だけど、嘘つきなんかじゃなかった。ごめんね。ありがとう」
照れ臭そうに俯きながら茜がそう言った。恐らく、茜が都会人を嘘つきだと言うのには何か理由があるのだろう。その理由がなんなのかは知らないが、とりあえず和解できた。それで十分。達也はリリを抱き上げると、茜にリリを渡した。
「今度は離すなよ。お前の大切な家族をさ」
そう言って茜の頭にポンと手を置いて撫でる。茜の「うん」という言葉を聞いて達也は微笑み、「また明日」と言って茜の家から自分の家へと歩き出した。
さて、このドアを開ければ説教が待っている。恐らく理由を説明すれば理解してくれるとは思うが、理由を説明できる状況になるまでが大変だ。裕子は一度怒ると中々落ち着かない。感情に任せて一気に喋りまくる。それが落ち着くまで約三十分。あらかた裕子が言い終わって静かになってくれば、やっと自分が話せるのだ。
「はぁ、また長いんだろうなぁ」
そう言いながらドアを開けてただいまを言うと、出てきたのはまひろだった。
「あれ、裕子はどうしたんだい? たっちゃんを探すって言って出て行ったんだけどねぇ」
――え?
「病気なんだから駄目って止めたんだけど、たっちゃんが心配だからって聞かなかったんだよ」
達也は疲れきった体に鞭を打ち、家を飛び出した。初夏の夜、月があざ笑うように達也を照らしていた。
Memory 8 壊れ始めた日常
「母ちゃん!!」
どれだけ叫んでも、どれだけ走っても、どれだけ探し回っても裕子は見つからない。返事も聞こえなければ姿も見えない。周囲は完全な闇。ところどころにある街灯がわずかな光を与えてくれるだけ。先ほどもリリを捜して駆け回った島を、達也はまた駆け回っている。肺を患っている母を捜して。
自分のせいだ。裕子に何も言わずに家を出て、その後何時間も経っているにもかかわらず一度も家に寄らず、裕子を心配させた。都会にいた頃は携帯で連絡すれば済むのだが、この島ではそうもいかない。それが災いし、この現状を生み出した。でもそれは島のせいではない。リリのせいでもないし、茜のせいでもない。自分が悪い。自分が裕子を心配させたのが悪い。せめてもの罪滅ぼしに、自分が見つけ出さなくてはいけない。そしてその後は何時間だろうと何日だろうと説教をされたっていい。とにかく裕子を見つけ出さなければ……。
月明かりが照らす海岸線。ここも先ほどリリを捜して通った場所だ。誰一人として道を通る人はいない。虫の音と波の音以外何も聞こえない。
そんな道を達也は駆け抜けていく。体は既に限界を超えている。地面を蹴る度に足を激痛が襲うほどだ。筋肉の疲労がひしひしと伝わってきて、苦痛に顔が歪む。肺もわき腹も何もかもが痛い。苦しい。叫ぶことさえもうできない。達也自身は叫んでいるつもりでも、実際は呟く程度の声しか出ていなかった。
二ヶ月前、病室のベッドの上。ぼんやりと外を眺めている裕子に対し、白衣を着た中年の男性医師から放たれた言葉。
――あなたの肺は、もう治りません。
信じたくなかった。自分には家族がいるから。息子の達也はまだ高校生。成人すら迎えてない。結婚式の晴れ姿も、奥さんになる人の顔も、孫の顔も、何も見ていない。なのに、この肺はもう治ってくれない。いつ死ぬかもわからない。もしかしたら明日。いや、今日?
頭の中を駆け巡るマイナス的な思考が消えてくれない。悪いほうにしか考えることができない。達也になんて言おう。夫になんて言おう。裕子の心は崩壊寸前まで追い込まれていた。
「実家に帰ったらどうだ? あそこなら空気も綺麗だし、少しは肺にいいんじゃないか?」
夫である毅の提案は、正直呑みたくなかった。それはつまり、家族と離れろということだから。毅は仕事で役職に就いている。簡単に辞めるわけにはいかないし、もしも自分が手術でもしなければならない状況になったとき、汚い話だが金が必要だ。そして達也。達也をもし自分の実家に連れていこうとした場合、達也は転校をしなければならなくなる。せっかく仲良くなった友達と離れさせるなんてかわいそうだ。かといって、家族と離れたくなんてない。こんな重い病気を患ってしまった自分を優しく包み込んでくれる、愛しい家族と離れるなんて考えたくもない。それは同時に『死にたくない』という感情とも同じ。死にたくないなら実家に帰ったほうがいい。だが家族とは離れたくない。どうすればいいのだろうか……。
「俺、母ちゃんについていくよ」
達也は優しく微笑みながらそう言ってくれた。
「それに、転校って一度してみたかったし」
嘘。絶対嘘。してみたいと思うことはあっても、実際はしたくないものだ。自分の周りにいる人たちがガラリと変わることを簡単に受け入れられるはずがない。自分の周りの人間が、誰も自分を知らない状況に変わってしまうのだから。
「っていうか、ついてくんなって言われてもついてくから。友達も大事だけど、母ちゃんも大事だから」
優しい子。自分の息子はこんなにも優しい子に育ってくれた。それが嬉しい。もう自分はこの子を教育なんてしなくていいのかもしれない。だからといって離れたくない。失いたくない。これは、自分自身のわがままに過ぎない。でも、離れたくなんてない。
裕子はこの時、初めて達也に涙を見せた。
家を出る日、毅は仕事を休んでくれた。家族揃って車に乗り込み、都内を走っていく。その日は平日だったため道は商業車で賑わっていた。渋滞するほどではなくそれなりに流れていく。車のスピーカーからは達也の好きなバンドの曲が流れていて、激しいサウンドに透き通った声のヴォーカルがうまく重なり合っている。激しい曲ばかりかと思いきや、しっとりとした綺麗なバラードもあり、音楽性の広いバンドのようだ。
「お前いつもこのバンドのCDばっかりだな」
毅が達也にそう言うと、達也はそのバンドについて熱く語り始めた。
そんな車内の空気は穏やかで心地いいものだった。これが自分を実家に送るためのものではなく、家族みんなでの旅行やドライブだったらどんなにいいだろう。そう考えると、裕子の目からは涙が零れ落ちそうになった。
美郷島行きの定期船が出る港に着き、車が停まる。潮の香りが鼻を優しく撫で、海鳥が鳴く。これが旅行ならよかったと何度も思い、何度も涙を流した。夫に別れを告げるのが辛い。例え今生の別れではないとしても、心から愛した人と離れるなんて辛すぎる。次に会えるのは何週間後か。いや、何ヵ月後になるかもしれない。そう思うと涙が止まってくれない。何度も流したはずなのに枯れてくれない。
そんな裕子をそっと抱き締め、毅がただ一言だけ言った。「愛してる」と。
達也は、普段両親のラブラブな場面を見ると決まっておちょくっていたが、この日は違った。自分にはまだわからない本当の愛とか、優しさとか、悲しみとか、そういったものを見た気がした。自分もいつか本当に愛することができる人と出会い、結婚するのだろうか。今はまだ想像できないし、それが誰なのかもわからない。だが、達也は二人がすごく羨ましいのと同時に、微笑ましかった。
定期船が汽笛を鳴らし、港を離れていく。見送っている毅の姿が遠くなっていく。自分が大切な家族を手に入れた街が見えなくなっていく。そしてやがてそれらは水平線の彼方に消え、寂しさが溢れ出した。
「母ちゃん、俺がいるよ。母ちゃんは一人じゃない。父ちゃんだって離れてるけど、会えないわけじゃない。だから悲しまないで。俺たちはどんなに離れても家族なんだから」
涙を流す裕子にそう言うと、達也は恥ずかしいのを誤魔化すようにはしゃぎだし、デッキへと向かった。
そう、これで終わりじゃない。まだ続く。自分たち家族はずっと続いていく。だから落ち込んじゃいけない。自分はまだ生きている。まだ頑張れる。それなら、頑張り続けようじゃないか。生き続けてみせようじゃないか。肺が治らなくたって、まだ生きているんだから。家族がいるんだから。
「いやぁ、なんつーか最高だねこれは」
そう言ってはしゃいでいる様に振舞う達也を見て、裕子はそう思った。
胸が苦しい。息ができない。咳が止まらない。自分の口から出た血が地面を赤く染めている。こんな時に発作なんて……。
「あなた……。達也ぁ……」
夜の美郷島。達也と再会する前に、裕子は力なく地面に倒れた。
Memory 9 過去からの手紙
鳴り響くセミの声も、雲ひとつない空も、輝く太陽も、周りの全てが目の前に迫った夏を祝福しているかのような、そんな日。美郷島にある一軒の家には黒服の列ができていた。その家の一室からはお経と木魚を打つ音が響く。悲しみに涙する者もいれば、呆然として涙さえ流せない者もいた。
――霧島裕子、享年四十一歳。あまりにも早すぎる死。肺に少しでも負担をかけないようにとやってきた故郷の美郷島で、短い人生を終えた。
「母ちゃん!!」
夜の砂浜。打ち寄せる波が静かに砂を濡らしていく。達也が走っていく先には、倒れた裕子がいた。靴に入る砂なんてどうでもいい。一秒でも早く裕子の元に。達也がそう思えば思うほど、現実というのは邪魔をする。疲れきった体では砂に取られた足をカバーすることもできず、派手に転ぶ。やっと裕子を見つけ出したのに、もう目の前にいるのに、今更疲れがどっと出る。立てない。立ち上がることがこんなにも困難なのは、達也自身初めてだった。
それでもなんとか立ち上がって裕子の側に駆け寄り、顔を持ち上げた。最も、駆けるといえるような速さではなかったが。
「母ちゃん!! 返事しろ!! 母ちゃん!!」
泣いているような弱々しい声で叫ぶ。いや、実際達也は泣いていた。血で染まった地面の砂と裕子の口元を見ればわかる。発作が起きたのだと。
「……達……也?」
うっすらと目を開けて、裕子がそう呟いた。その声はあまりにも儚げで、今にも消えそうな細い声。いつもの明るい裕子じゃない。ふっと息を吹きかけるだけで消えてしまいそうな蝋燭の火のように、今の裕子は弱々しかった。
「母ちゃん……ごめん……」
達也の目から涙が零れ落ち、裕子の頬を優しく打った。一滴だけじゃ止まらない。何滴も何滴も零れ落ちていく。
「泣かないの……。もう高校二年生……でしょ?」
声と同じ、裕子の儚い笑顔が達也の目に映る。その笑顔が辛い。泣いている達也を暖かく包み込むような母の笑顔が、何より辛い。怒ってくれた方が何倍もマシかもしれない。そんな笑顔で自分を見ないで欲しい。怒ってほしい。あんたのせいであたしはこんなに辛い思いをしなきゃならないって怒鳴って欲しい。
なのに裕子は、今までで一番暖かい笑顔で達也を包んだ。
「何か理由……あったんでしょ? いいんだよ。……あたしはいつか……こうなるってわかってた……から」
こうなるってなんだ。今までもこうなってただろ? 今までも発作は起きてただろ? 今回だけ違うのかよ。同じだろ? どうせまたバレバレの笑顔を見せてくれるんだろ?
「ばいばい……達也。お父さんと仲良く……ね?」
そう言った後、裕子は目を閉じた。声は出ないまま「あたしの可愛い息子」と口が動き、裕子の体から力が抜けた。
裕子の体にしがみつき、声を殺そうともせずに大声で達也は泣いた。最愛の母との別れ。どうにもならない別れ。二度と会えない別れ。打ち寄せる波の音が、やけに静かだった。
式も終わり、後は出棺を待つだけとなった。裕子との別れを悲しみ涙する人たちをよそに、達也は他の部屋の片隅で小さくなっていた。どんな音も聞こえない。どんなものも目に入らない。むしろ何もいらない。全てなくなってしまえばいい。達也はそう思っていた。いや、もしかしたら思うことすらできていなかったかもしれない。誰が声をかけても、達也に耳には届いていなかった。
「達也」
でも、この声は別だったのかもしれない。聞きなれた声。数日前に港で聞いた声。ゆっくり達也が振り向いた先には、父親である毅がいた。
「……父ちゃん」
振り向いた達也の顔はぐちゃぐちゃになっていて、涙なのか鼻水なのかわからない程に。
そんな達也を、毅は何も言わずに抱きしめた。
「泣くな。母さんに笑われるぞ」
毅は、父はきっと自分を慰めてくれている。それが達也には許せなかった。抱きしめてくれている毅を突き飛ばし、大声で怒鳴り始めた。
「怒れよ!! 怒ってくれよ!! お前のせいで母ちゃんは死んだんだって責めればいいだろ!! 母ちゃんにも慰められてあんたにも慰められたら、俺は誰に怒られればいいんだ!!」
「達……」
「俺のせいで母ちゃんは死んだんだよ!! 俺のせいなんだ!! 俺が母ちゃんに心配かけたからこんなことになったんだ!! ぶっ飛ばせよ!! 本当は俺が憎いんだろ!? 俺が母ちゃんを殺したんだ!! ぶっ飛ばしてくれよ!!」
次の瞬間、達也の頬を鈍い痛みが襲った。それと同時に体のバランスが崩れ倒れこむ。鈍い痛みは毅の拳が生み出したもので、ズキズキと突き刺さるような痛み。久しぶりに受けた父の拳はあまりにも悲しい一撃だった。
「これで……満足か、馬鹿息子」
静かに、それでいて覇気のある声で毅が言った。ずっしりとした重みのある、父親の一言。
「お前を殴ったって、お前を責めたって裕子は生き返らないんだよ。それに、お前は裕子を殺したんじゃない。心配させただけだ。裕子を殺したのはお前じゃなくて病気なんだ。お前が憎いわけないだろう? 母親想いの優しい馬鹿息子を憎むわけ……ないだろ」
そう言って、毅はもう一度優しく達也を抱きしめた。今度は素直に抱かれたまま、達也はまた涙を流した。
裕子の遺影の前に、茜は立っていた。その遺影に映った裕子が、どこかで見たことある顔だったからだ。いつどこで見たのか思い出そうとしているうちに、茜は懐かしいことを思い出した。
「ねぇ、あの花キレイ。取ってこれるかな」
「危ないよ、茜ちゃん」
「大丈夫だって。待ってて」
そう言って幼い茜は川原の急な斜面を少しずつ降りていく。水辺に咲いた小さな花を求めて。あともう少しで手が届く。ほんのあと数センチ。
「危ないってぇ」
うるさいな都会のもやしっ子。今取って戻るから、少し黙って……
――バシャン!!
足を滑らせて川に落ちる。水は思ったよりも冷たい。結局花は取れなくて、手に入れたのは幼い子にとって危険な状況だけ。周囲に大人もいない。いるのはただ一人、都会から来たもやしっ子。なんとか木にしがみつくことはできたものの、川から出るのは無理そうだ。
「た……助けて!」
「待ってて茜ちゃん! 今人呼んでくるから!」
そう言ってもやしっ子はどこかへ行ってしまった。何分経っても戻ってこない。水に体温を奪われて寒い。でも、出ることはできない。一人じゃ出れるわけがない。あのもやしっ子、逃げたな……。
「大丈夫!?」
薄れゆく意識の中で声が聞こえた。若い感じの女の人の声。少し目を開けてみると、そこには綺麗な大人の女性が映っていた。
その女性に抱きかかえられ、川から出ることができた時、茜は気を失った。
茜が目覚めたのは次の日の夕方。幼い体には相当の負担だったのだろう。一度も起きることなく寝続けてしまった。助けてくれた人にお礼も言えないまま寝続けてしまった。
「そうだ、あいつ……」
都会のもやしっ子。結局あいつは逃げたのか。
とっちめてやろうと思って家へ行ってみたところ、都会のもやしっ子はもう船で都会へ帰ってしまっていた。茜がまだ寝ていた昼間の定期船で。
裏切られた。せっかく仲良くなって、毎日遊んだのに。きっと都会の人間はみんなもやしっ子で、裏切りが得意なんだ。
その出来事は、茜の心に深い傷を負わせた。以来、茜は都会の人間を毛嫌いするようになった。
そして、茜は思い出した。十年前に自分を助けてくれた女性。その人の遺影が今目の前にある。十年の歳月で歳を取ったせいか少し顔つきは違うが、美しさは変わっていない。十年前、川で溺れた自分を助けてくれたのは、裕子だったのだ。
「達也の……お母さん……」
ということは、だ。あのもやしっ子は逃げたわけじゃなく、自分の母親を呼びに行ったのではないか? そして宣言通り、ちゃんと人を連れてきてくれたのではないか? あの後すぐに気絶したのだから、もやしっ子がその場にいたかどうかは確認していない。でも、もしかしたら……。
――あのもやしっ子は達也なのではないか。
美郷島に来てたった数日。達也は都会へ帰ることが決まった。元々裕子の肺を考えてやってきた美郷島。こういう言い方は良くないのだろうが、この島にいる必要がなくなってしまったのだ。
裕子の墓はこの美郷島に作られる。それまで骨壷はまひろの家の仏壇に置かれることになっていた。自分の故郷である美郷島の地に、裕子は永眠する。暖かい日差しとやわらかい海風を浴びて、安らかに。
毅は達也と一緒にまひろの家に一泊し、次の日の朝の定期船で達也と都会へ帰る。転入してきて僅か二日程度で転校という異例の事態だが、美郷学園の職員たちも都会で元々通っていた学校の職員たちも理解を示してくれた。とは言っても、都会に戻った後手続きを済ませなければならないので、少しの間達也は学校に行くことができないかもしれないのだが。それでも、美郷島で起きたことが達也に辛い思いをさせるよりいいだろうということで、すぐに都会へ帰ることとなった。
「ごちそうさま」
夕食を済ませるとそう言って食卓をあとにし、茜はスコップと懐中電灯を持って玄関へ向かった。
「こんな時間にどっか行くの?」
「うん。ちょっとね。多分今夜は帰らない」
茜を心配する母に一言告げると、茜は家を出た。
歩くこと十数分。茜の記憶が正しければ、多分ここ。リリがいなくなった日に、家に帰るのが遅くなった原因の場所。秘密基地だ。十年前、あのもやしっ子と一緒に遊んだ秘密基地。あのもやしっ子が達也だという証拠を求めてここへやってきた。二人は十年前、この場所にあるものを埋めていた。それは未来へのタイムカプセル。その中に、もしかしたら何かあるかもしれない。
暗い闇の中、たった一つの懐中電灯の灯りを頼りに茜は地面を掘り始めた。
次の日の朝。達也と毅とまひろ、そして担任の恵は港にいた。そこに裕子の姿がないのが寂しくて、達也はまた涙が出そうになる。来たときは一緒だったのに、帰りは一緒じゃない。それが切なくて、悲しくて、達也は俯いているだけだった。
出港まであと五分。まひろや恵と別れの挨拶を済ませ、毅は船に乗り込んだ。
「たっちゃん、頑張りなさいね。何があっても……強く、強くね」
まひろは達也の手を握り、目を見てそう言った。何十年も生きてきた強さがその瞳にはあって、迫力がある。それと同時に誰よりも優しい瞳だった。
「ばあちゃん、ありがとう。それと、ごめんね」
「いいんだよ……」
まひろは優しく達也を抱きしめた。
恵とも別れの挨拶を交わし、握手をした。短すぎる時間ではあったが、恵が達也の担任であったことは事実で、それはこれからも変わらない。美郷学園から離れても、美郷島から離れても、達也がこの場所にいたことは事実なのだ。それは未来永劫変わることのない事実。例えどんなに短い時間でも、達也は確かにこの島にいたのだから。
そして、ひとつ忘れていたことがある。茜だ。茜とは別れを済ませていない。なのに茜はこの場所にいない。
「ま、しょうがないか」
重たい荷物を持ち上げ、まひろと恵に見送られながら達也は船に乗り込んだ。
時間は遡って三十分前。茜は泥だらけになりながらも、まだタイムカプセルを掘り起こすことができずにいた。定期船の時間は刻一刻と迫っている。まだ別れも言っていない。でも、茜はタイムカプセルを掘り起こさないままサヨナラなんてしたくなかった。
そんなことを考えていると、突然リリが茜に飛びついてきた。いつものうれしそうな顔で。だが、なぜリリがここに……?
「茜! 何してんの!? もう定期船出ちゃうよ!?」
「瀬奈?」
茜が振り返るとそこには瀬奈がいた。息を切らして、真面目な顔で茜を見ている。
「あ、あんたなんでここがわかって……」
「リリが教えてくれたの。霧島君を一緒に見送りに行こうと思って茜の家に行ったら、茜いないんだもん。リリならわかるかなって」
リリは、本当に天才犬なのかもしれない。自分を心配して学校に迎えにいくだけでなく、自分のことを探し当てたのだから。
「霧島君の船、もう出ちゃうよ! 早く行かないと!」
そうだ。早くタイムカプセルを掘り起こさなければ……。
そう思って掘るのを再開した途端、リリが茜とは違う場所を掘り出した。まさか、リリはそこまで天才なのだろうか。そんなことが現実にあるわけない。だが、これだけ掘ってもまだ見つからないのなら、リリを信じてみようか……。
リリが掘っている場所を茜も一緒に掘り始めた。定期船の時間はどんどん近づいてくる。このままではタイムカプセルを掘り起こすどころかサヨナラを言うことさえ……。
――ガリッ!
スコップが何かに当たった。その何かは、紛れもなく十年前のタイムカプセルだった。
定期船が出る時間なった。それでも茜はまだ来ないまま。といっても、たかだか数日程度の付き合い。わざわざ見送りにくるはずもないのだろうか。裕子の葬式には来てくれたのに。
達也はまひろと恵にもう一度手を振ると、荷物を置きに毅がいる客席へ行こうとした。
「達也!!」
声。来てくれないのかと思っていたあの人の声。達也は一度持ちかけた荷物を放し、勢いよく振り向いた。港にはさっきまでいなかった茜の姿があった。急いで来たのだろう。疲れた様子で息を切らしている。その横には樋口瀬奈だったか、茜の友達もいてリリもいる。
「達也!! 今度は……今度はあたしが行くから!! 達也のいる都会に!!」
息を整えながら茜がそう叫ぶ。その言葉、達也は十年前にも聞いたことがあった。あれは確か、森の中にある秘密基地。一緒に何かを、そう、タイムカプセルを埋めたときにあいつが言っていた言葉だ。「今度は都会に行くよ」と。
あいつは、男の子なんかじゃなかったんだ。名前を忘れてたし、あまりにもやんちゃだった記憶しかなかったから、男の子だと勘違いしていた。そうだ。あいつの名前は……。
「茜。立花茜だ」
「十年前……! あんたは裏切ったんじゃなかったんだね……! ごめんね!」
そう叫ぶ茜の目からは涙が零れていた。それを拭いながら、茜は達也をしっかりと見つめる。横にいる瀬奈も笑顔で手を振り、リリもサヨナラを言うように必死で吠えている。
「あんまり叫ぶと喉がかれるぞ! やんちゃ坊主!」
「うるさい! もやしっ子!」
茜の手に握り締められた物。タイムカプセルの中に入っていた小さなメッセージ。
――今度は、茜ちゃんと都会で遊びたい。
過去からの手紙。幼かった達也から、今の茜への手紙。
「白馬の王子様は、あたしじゃなくて茜のだったか」
瀬奈が笑いながらそう言った。
港を出て行く定期船が水平線の彼方に消えるまで、茜はずっと達也を見送った。
Memory 10 地図にない場所から
美郷島から都会へ帰ってきて一週間。島へ行く前までの、いつも通りの日常。街には人々が溢れ、学生やOL、サラリーマンなど様々な人が行き交う。学校へ行けば友達との会話や授業。ただ、いつもと違うことが一つだけあった。それは、裕子がどこにもいないこと。これだけたくさんの人がいるのに、裕子はいない。捜しても、求めても、願っても、どこにもいない。たった一つだけではあるが、達也にとってそれは計り知れない程大きな違いだった。
友達は、達也の転校の理由も帰ってきたことの理由も知らない。言ったって意味はない。言っても母は戻ってこない。だったら言わなくていい。言ったら思い出してしまうから。できるだけ普段は母のことを考えないようにして、いつも通りの明るい霧島達也を装う。だが、どれだけ装っても拭えない悲しみと後悔と穴の開いた心が、常に自分を苦しめる。
自分のせいだという感情が拭えない。父は確かにああ言った。母を殺したのは自分ではなく病気だと。その通り。自分は別に母を殺したかったわけじゃない。苦しめたかったわけじゃない。でも母が家から出た理由は自分が帰らなかったから。それだって、別に帰りたくなかったわけじゃない。でも帰らなかった。だから母は自分を捜そうとした。それが原因なんだ。こんなことになるんなら、自分は美郷島へついていかなければよかった。
みんなの前では明るく振舞いつつも、達也の心の中は酷く荒んでいた。
「達也、ご飯だぞ」
その呼び掛けに自分の息子が返す一言はいつも「いらない」だった。
帰ってきて一週間。仕事に追われながらも家事をこなしてきた。もう十年以上していなかったことだ。裕子が家事を全てやってくれていた。忙しくて帰ってくるのが遅くなっても、疲れてて休日に家族サービスができなくても、裕子は文句一つ言わずにやってくれていた。たまに夫婦喧嘩をしても、自分が帰宅すると笑顔で出迎えてくれた。お疲れ様と言ってくれた。どちらかが謝るわけでもなく、お互いがお互いを理解していた。
そんな妻がいなくなった。となれば家事をするのも金を稼ぐのも全て自分の役目。息子が一人立ちするまで育てていくのも全てだ。だから疲れた体に鞭を打ち、慣れない料理を作った。健康にも気を配り、なおかつおいしくできるように。
なのに息子は食べてくれない。いや、わかってる。自分の料理が食べたくないわけじゃないのだ。自分のことを嫌いになってしまったわけじゃないのだ。ただ、寂しいだけ。心が荒んでしまっているだけ。それは自分には癒せない。小さなささくれを取ろうとして、傷が広がってしまうこともあるから。今はそっとしておくしかない。
毅は達也の部屋のドアを開け、机の上に食事を置いてリビングへと戻った。
自分は何をしてるんだろう。父がやってくれること全てを無駄にしてしまっている。別に食べたくないわけじゃない。ただ、体が受け付けない。お腹は減っているのに、一口でも口に入れると吐きそうになる。まずいとかじゃなくて、ただ受け付けないんだ。それをきっと父もわかってくれている。だから毎日食事を用意してくれる。わかってくれてなかったら、きっと怒ってる。食事なんて用意してくれるわけがない。でも父は用意してくれる。それは何よりも有難いんだけど、同時に申し訳ない。
自分が変わらなきゃいけない。自分が頑張らなきゃいけない。だけど荒んだ心がそれを邪魔する。変わらなきゃと思っても変われない。自分はどうすればいいんだろう。
――自分は、何をしてるんだろう。
今日もまた仕事が終わった。会社を出て車に乗り込む。バックを助手席に置くたびに考えてしまう。ここに妻が座ることはもう二度とないんだと。
会社から家までは車で二十分程度。途中でスーパーに寄って晩御飯の食材を買って帰る。今までは妻におつかいを頼まれなければこんなことしなかった。それが今じゃ日常になっている。きっと今夜も達也は食べないだろう。だが、好きな物なら少しくらい食べられるかもしれない。だから今日は豚カツにしよう。作ったことなんてないが、家に帰れば料理の本くらいある。それを参考に頑張ってみよう。息子のために。
自分を変えることができるのは、結局自分しかいない。誰かの言葉や行いがきっかけにはなるかもしれないが、結局は自分次第。だから達也は自分で乗り越えなければいけない。だから達也のためにできることをやればいい。それが、今の自分にできることなのだから。
明日は土曜日か。今までならそう考えるだけで嬉しかった。何しよう。誰と遊ぼう。そんなことばかり考えていたから、家へ帰る足も軽かった。
でも今は何を考えても辛いだけ。どうすれば自分は変われるんだろうか。
昨日父が作ってくれた豚カツ。うれしかった。きっと少しでも食べれるようにと考えてくれたんだろう。でも、食べれなかった。頑張って一口食べようとしたけれど、無理だった。何度も言うけど、まずかったからじゃない。体が受け付けないからだ。
茜がそばにいてくれたら、何か変わるんだろうか。少しは楽になるんだろうか。そんな無いものねだりが頭を行き交う。それは茜だけではなくて、母に対しても同じことなんだろうけれど。
その夜、達也は夢を見た。青い空と青い海。輝く太陽。初夏の訪れを告げる風。美郷島だ。夢の中で達也は美郷島にいた。茜と話したあの灯台の下。夢の中ではまだ夕焼けの時間じゃないけれど、美しさは変わらない。静かに打ち寄せるさざ波と海鳥たちの声が奏でるハーモニーの中、達也は水平線をじっと見つめる。その後ろにはいつの間にか誰かが立っていた。細く華奢な体に白い肌。長い黒髪が特徴的な美しい女性。霧島裕子が。
「達也」
その声に振り向くと、母がいた。いなくなってしまったはずの裕子がいた。
「げっそり痩せちゃって。ちゃんとご飯食べなきゃ駄目でしょ」
長い黒髪を海風になびかせながら、少し微笑んだ感じで裕子が言った。
「かあ……ちゃん……。母ちゃん!!」
地面を蹴る。裕子目掛けて走り出す。微笑んだままの裕子までがやたら遠く感じる。すぐ目の前にいるのに。裕子の細い腕に抱かれるまでのたった数秒が、すごく長く感じた。その数秒という長い時間を乗り越えて、達也は裕子に抱きついた。
「母ちゃん……。母ちゃん……!!」
「泣かないの。高校二年にもなって。大きな赤ちゃんみたい」
裕子の声が愛しい。聞けなくなった声が聞こえることが何よりも嬉しい。もう他に何もいらないと思える瞬間だった。
「あたしはね、達也。遠くになんて行ってないんだよ? 達也のすぐ近くに、いつもいるんだよ」
「どこだよ。どこにいるんだよ。すぐ近くにいるなら、なんで俺の前に出てきてくんないんだよ」
自分より大きくなった達也の体。それをしっかりと抱きしめながら裕子はゆっくり続けた。
「ごめんね。それはできないの。すぐ近くにいるんだけど、決して見えない場所だから。この場所をきっと、天国って言うんだと思う。お花畑があるわけじゃない。ご馳走があるわけでもない。ただ、自分にとって一番愛しい人たちのすぐそばにいれる場所。それがきっと天国なんだね」
達也の髪をそっと撫でながら、涙をこらえたような笑顔で裕子が言う。海鳥の声とさざ波の音だけが聞こえる初夏の美郷島で、裕子は話し続けた。
「この場所は地図にない。達也がいる場所は地図に載ってるけれど、すぐ近くのはずのこの場所は地図にない。そんなところに、今あたしはいる。そんなところから、あんたを見守る。だからもう泣かないで。苦しまないで。体はそこになくても、この場所は地図になくても、心はそばにある。あたしはすぐ近くにいるんだから……」
達也の目から涙が零れ続ける。止まらない。止まってくれない。話したいことがいっぱいあるのに。謝りたいことがあるのに。涙がそれを言わせてくれない。
「大丈夫。全部わかってる。あんたの今の気持ち……全部わかってるよ」
そう言って裕子は達也を引き離し、肩を両手で強く叩いた。
「だからしっかりしなさい。男の子でしょ? いつまでもくよくよしないの」
涙を拭う。鼻水も全て。服で拭き取っただけなせいか、顔はぐしゃぐしゃなまま。それでも達也は強い意志をその瞳に込めて、強く頷いた。毅も、達也自身も変えることができなかった荒んだ心を、裕子が変えた。二度と会えないはずの裕子が。
「俺……もう泣かない……!!」
その言葉を聞いて、裕子は優しく頷いた。そして最後にもう一度達也を抱き寄せて一言言った。
「愛してるよ。馬鹿息子」
朝がきて、夢を見ていた毅は布団の中で目を覚ました。裕子が自分に語りかけてくる夢だった。
今日は土曜日だから会社は休みだと思うと気が楽で、もう少し寝ていたいと思った。カーテンの隙間から零れる太陽の日差しを見ながらもう一度眠りにつこうと思ったその時、いつもとは何かが違うことに気付いた。
リビングから聞こえる物音と達也の声。「あっちぃ」とか、「やっべ」などと言っている。寝ている時に裕子が夢に出てきて「達也はもう大丈夫」と笑顔で言っていたこともあり、もしやと思って布団から飛び起きる。寝癖でボサボサの髪のままリビングへ向かうと、そこには料理をする達也の姿があった。慣れない手付きで葱を切り、味噌汁を作っているであろう鍋にそれを入れる。炊飯器からは湯気が立ち上り、食卓にはいびつな形をした下手くそな玉子焼きと納豆があった。
「お、父ちゃん。おはよ。まぁ座れよ」
毅が起きてきたことに気付いた達也は笑顔でそう言った。裕子がいなくなってから一度も見れなかった本当の笑顔。明るく振舞っている笑顔ではなくて、本当の。
「あ、ああ」
食卓につくと味噌汁と白いご飯を達也が持ってくる。それを終えて達也も食卓についた。自分の息子が初めて作った料理。それを考えただけで毅は胸が一杯になった。
「父ちゃん、ごめんね」
達也がはにかんだ様な素振りでそう言った。その声には前までの悲壮さがなくて、今まで通りの達也の声。毅と裕子が二人で愛し、育ててきた本来の達也の声。
「俺、もう大丈夫だから」
にっこりと笑ってそう言う達也の顔は裕子にそっくりだった。照れ臭そうに「いただきます」と言って達也は自分で作った料理を食べ始める。お世辞にも綺麗と這言えない見た目の料理。でもその料理には達也なりの気持ちだとかそういうものが詰まっていて、食べるのがもったいないくらいだった。
「いただきます」
毅も食べ始め、玉子焼きに手を伸ばす。いびつな形で少し焦げかかっていたが、そんなことは気にならない。でも、毅はあえて言った。
「下手くそ」
「うるせぇ食え」
笑いながらの朝食。美郷島から帰ってきて、初めて一緒に食べる食事。
そんな二人の横で、裕子もにっこり笑った気がした。
俺はもう泣かない。くよくよしない。今を受け止めて、これからを生きていく。母ちゃんはいないけど、でもすぐ近くにいる。矛盾してるけど、確かにいるんだ。だから俺は立ち直れたんだと思う。
もう明るい自分を装わない。ありのままの笑顔で笑うんだ。母ちゃんがいた頃に比べたら、今はまだ、少しだけ暗いかもしれない。でも今はそれでいい。いつかまた自分を取り戻して、母ちゃんにこれ以上心配をかけないようになれればいい。等身大で、無理しないで、少しずつ先に進んでく。自分の歩幅で。
母ちゃんに心配かけないように。父ちゃんに迷惑かけないように。茜に笑われないように。俺は生きていく。例え母ちゃんがいなくても……。
そして数年後、裕子と同じ島から来たあの人と、達也は一つの家族を作る。
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2007/06/06(Wed)02:50:02 公開 / 紅い蝶
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■作者からのメッセージ
終わりました。最終話です。
ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。期待に沿える作品、そしてラストになったかどうかはわかりませんが、この物語は一度終わりを迎えます。
今後は連載を少し控えようかなと。何年ぶりかでここにまた来て、この連載をいきなり始めたせいか、少し疲れました(笑)
ショートなどを書いてみようかなと思っています。
読んでくださった方々、本当にありがとうございました!!
今後も紅い蝶をよろしくお願いいたします
2007年6月6日 紅い蝶