- 『セピアの街 【プロローグ〜(十二)エピローグ】 ※完結』 作者:rice / SF 恋愛小説
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全角49152.5文字
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原稿用紙約146.25枚
何世紀も未来の話。主人公の少女・リンは、街の工場で働いている。ある日、スクラップ場を通りかかったリンが見たものは、全身に傷を負ったロボットだった。そのロボットとの出会いを通して、リンの生活は目まぐるしく変化していく…。
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(一)プロローグ
第一条ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危害を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条ロボットは第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。
以上は、かつて、SF作家のアイザック・アシモフが考え出した『ロボット三原則』と呼ばれるものである。彼の描き出した小説世界の中では、この原則に伴い、ロボットたちは生み出されている。
今から綴る物語は、今から何世紀も未来の話。この原則に従い、ロボットが生み出されるようになった時代の話である。
(二)スクラップ場
カシーン…カシーン…
どこか遠くで、鉄の触れ合う音がする。私はその音で目が覚めた。天井は灰色の冷たい色をして、無表情に私を見つめている。窓のカーテンの隙間から漏れる朝日が、ベッドのしわくちゃのシーツの上に光の線を伸ばしている。
私はゆっくりと起き上がった。すると、枕元のスピーカーから声が響いてきた。
「リン、起きたか?」
「うん。 今起きたところ」
寝起きのかすれた声で返答する。ザーザーという雑音に混じり、スピーカーからまた同じ声が聞こえてきた。
「すぐ着替えて下に降りてきなさい」
それだけ言うと、スピーカーは音を切った。私は一つ大あくびをすると、ジーパンと白いシャツに着替えた。髪の毛に簡単にくしを入れ、ぼろぼろのスニーカーをはいた。始めは綺麗な白い色をしていたスニーカーだったが、いつの間にか油や埃で真っ黒になっていた。
部屋の扉を開けると、すぐそこには螺旋状の階段がうねっていた。慣れないうちは、足を踏み外しそうでかなり危ない。寝起きのしゃっきりしない頭には、ちょうど良い刺激になるのかもしれないが。
「この階段、建て直ししてほしいんだけどな…」
私は一人愚痴をこぼしながら、螺旋階段を注意深く降りていった。一歩一歩踏み出すたびに、階段はカンカンと冷たい音を立てる。
下の階は工場になっている。降りていくと、褐色の汚い作業服を着た白髪のおじいさんが、怪しげなゴーグルを着けて私を待っていた。
「遅いぞ。 1分20秒の遅刻だ」
おじいさんはゴーグルを外しながら言った。
「おじいさんってば…」
「万治さんと呼べ」
おじいさん…いや、万次さんは、私の言葉を遮るように言った。
「万次さん、だって私昨日遅くまで起きてたのに」
「跡継ぎのおまえがそんな気持ちじゃいかん」
万次さんはしわがれ声で私に怒鳴りつけた。いつもこんな調子で、彼は私を叱り付ける。
「いいから早く手伝え」
そう言って、いきなり私に重たいダンボール箱を押し付けた。きょとんとする私を見るなり、万次さんはまた私に怒鳴りつけた。
「それを向こうのスクラップ場に運べと言っているんだ」
私は焦って工場から飛び出した。ダンボール箱の中には、何やら鉄の塊のようなものがたくさん入っていた。それらはガチャガチャと音を立て、より重みを増すように感じられた。
私の名前はリン。万次さんに小さい頃から育てられている。苗字はない。苗字を聞かれると、私はいつも「苗字はありません」とだけ答える。戸籍上は、とりあえず育ての親である万次さんの苗字と同じものになってはいるが。万次さん(本名は柏木万次という)に育てられたといっても、血が繋がっているわけじゃない。私には血の繋がっている人がいない。私は捨て子だったのだ。
スクラップ場は歩いて5分くらいのところにある。私は箱を持ち直し、工場があるところまで歩いていった。工場の前まで来ると、知り合いの作業員のお兄さんがやって来た。
「リンちゃん、どうしたの?その箱は」
「万次さんが持って行けって」
「そんなのロボットにやらせればいいのにね」
作業員の人は笑いながら言った。確かにそうだ。この世にはロボットというものがいる。彼らは人間の言うことを文句一ついわずにこなしてくれるはずだ。ロボット三原則の第二条にもこうある。『ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない』と。
「万次さんはケチなだけなのよ」
箱を作業員の人に押し付けると、私はそう言った。本当のことだった。
「ロボットを動かすのに電気が必要でしょう。 万次さんには、その充電する費用がもったいないのよ」
箱を抱えた作業員は苦笑いした。万次さんは、今の時代に生きているにしてはあまりにケチな人だったから、きっと彼には信じられないのだろう。けれど、万次さんに『もったいない精神』を植えつけられた私には、それほど信じられない現実でもなかった。昔から彼にはそういう教育をされてきたのだ。
「じゃあ、急がないとまたあのおじいさんが怒るから」
私は早口にそう言って、工場を後にした。
壊れたロボットが山積みにされたスクラップ場は、よく眺めていると面白いものがごろごろしている。私は小さいころ、暇さえあれば、このスクラップ場に遊びに来ていた。一昔前に流行ったようなペット用ロボットがころがっていたり、まだ真新しいロボットが捨てられていたりすることだってあった。
私はいつものように、山積みのロボットを眺めながら、万次さんの待つ工場への道を歩いていた。すると、何かいつもと違った気配が感じ取れた。
私にとって壊れたロボットは、たとえ人型のロボットでも、ただの金属の塊のようなものにすぎなかった。つまり、命の抜けたロボットは、私にはもうロボットとしては見られなかったのだ。しかし、そんな命の抜けたロボットしかあるはずのないスクラップ場で、こんな気持ちを抱いたのは生まれて初めてだった。まるで、小さな生命がそこに息づいているような、そんな生生しい感覚――。
思わず周りをくるりと見渡した。すぐそばで何かが息をしている気配がしたのだ。すると、すぐ近くのロボットの山に、人間が一人横たわっているのが見えた。私は背中を細かな虫の大群が駆け巡るような、そんな寒気に襲われた。その人間は、体中傷だらけだった。
ぴくりともしないその人間に、恐る恐る近づいた。腕も、顔も、首筋も、無数の傷が引っ張られていた。浅い傷から深い傷まで、それはあまりに無残だった。深い傷の間からは、金属のような鈍い光沢が見られた。これはロボットらしい。ふと気付くと、ぼろぼろのシャツからのぞいた胸元に、何か文字が刻まれているのが見えた。
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「…c…? …コンバット?」
combat。英語で『戦闘』――。私は後ずさりをした。戦闘…戦闘用ロボット?
私がそのまま固まっていると、そのロボットと思われるものは、ゆっくりとその閉じていた目を開けた。オリーブグリーンの瞳。次に、ゆっくりと身体を起こした。
「にんげん」
腰は下ろしたまま、彼は低い声でつぶやいた。目はこれ以上ないくらいに開かれていた。私はその場に座り込んでしまった。殺されるのだろうか。相手は、胸元のあの文字から察して、戦闘用にと造りだされたロボットだろう。人間の私にどうにかできるものなんかじゃない。足はまったく言うことを聞かなかった。小刻みに震えているだけだった。
ロボットはゆっくりと立ち上がり、その大きなゴツゴツした手で、座り込んでいる私の頬に触れた。泥だらけのその手には、かすかな温もりがあった。私は殺されると思った。強く目をつむった。
「こわくない」
ロボットは、ゆっくりと言った。私は目を開いた。まず驚いたのは、その表情だった。ロボットと言うにはあまりに人間らしすぎて、人間と言うにはあまりに美しすぎた。これが本当に戦闘用のロボットなのだろうか。私は、おそるおそる尋ねてみた。
「あなたは、誰?」
ロボットは首を横にふった。どうやら自分が何なのかもよく分からないようだ。
ふと気付くと、ロボットの足元から、何か液体が滴り落ちてきた。オイルだった。身体の深い傷から、オイルが漏れ出しているのだ。このままでは、このロボットは動けなくなる。私は何とか立ち上がると、ロボットにゆっくりと言い聞かせた。
「私と、一緒に、行こう」
ロボットは静かにうなずいた。そして、よろめくロボットの手を引き、私は万次さんの待つ工場へ足を急がせた。
(三) 名前
工場の扉を開けると、万次さんが修理に出されたロボットの腕を眺めているところだった。
「リン、遅いぞ。 2分18秒の遅刻だ」
こちらを見もせずに、彼はただロボットの腕を入念にチェックしていた。私は戦闘用と思われる傷ついたロボットの手を引きながら、万次さんのところに近づいていった。万次さんはようやくこちらを振り向いた。そして、身体中傷だらけのロボットを見るなり、手にしていたドライバーを床に落とした。そして、唇を小刻みに震わせながら、しわがれ声で話し出した。
「おまえ…このロボットはどうしたんだ?」
「スクラップ場で見つけたの。 オイル漏れしてるの。 このままじゃ動けなくなっちゃう」
万次さんは震える手で、ロボットの胸元に刻まれた文字に触れた。
「コンバットじゃないか」
「知ってるの?」
「…これはもう廃棄処分されているはずのロボットだ。 どうしてここにあるんだ?」
ロボットは無表情のまま、白髪の老人の顔を見つめている。
「とにかくこのロボットを助けてあげて」
急がなければ、このロボットはただのスクラップになってしまうのだ。私がロボットとしてみなすことのできない、ただの鉄の塊になってしまう。
「廃棄処分されなきゃならんロボットを助ける気か?」
万次さんはロボットをにらみつけながら言った。万次さんより頭二つぶんくらい背の大きなロボットは、不安げな様子を隠しきれないでいる。
「悪いロボットじゃないと思うの。 だから、お願い」
私は万次さんにすがりついて頼んだ。無言のまま、彼は修理台の上を片付けると、ロボットにその上に寝転がるようにと言った。
万次さんはロボットの傷口を一つ一つ丁寧に覗き込むと、淡々と仕事の手を進めだした。
「傷口は多いが、オイル漏れを起こしているのはほんの数か所だけだ。 先にここを処理すれば何とかなるだろう」
そう言って、万次さんは慣れた手つきでロボットの修理を始めたが、その間、ロボットはぴくりともせずに、じっと天井を見上げていた。
「闘いで傷ついたの?」
「いや、コンバットは実際の戦場で使われたことはまだないはずだ」
「じゃあ、どうしてこんなに怪我をしてるの?」
万次さんは手を動かしながら答える。オイルの管は徐々に修復され、オイル漏れも収まりつつあった。
「実験でやられたか、もしくは…」
「もしくは?」
「処分されるときにやられたか」
私はそれきり黙ってしまった。それが本当なら、自分を生み出した人間に殺されそうになったということなのだろうか。でも、事実はロボット本人にしか分からない。万次さんは、何事もなかったかのように、黙々としわだらけの手先を動かしている。
小一時間が経過すると、ロボットの身体のオイル漏れはすっかり止まっていた。幸い、オイル漏れしていない箇所は、傷が浅く、表面の人工皮膚が削れていただけだった。
傷口をすべてふさぎ終えると、流れ出した分のオイルと、消耗している電気の補充をした。ロボットは相変わらず、オリーブグリーンの瞳で天井を見つめていた。
ロボットの表情を見つめていると、しばらくして私は、傍に万次さんがいないことに気付いた。すると、彼は隣の部屋から新聞を持って出てきた。万次さんによれば、科学技術が大きく発展した今の時代で、新聞だけは何世紀も形を変えずに、そのままでいるらしい。その何世紀も前と同じ形の新聞を、万次さんはページをめくり、何枚かめくったあとで、そのページを私に見せた。
「この記事を見てみろ」
それは、政府による戦闘用ロボットの廃棄処分について書かれているものだった。
「こんな記事あったんだ。 全然知らなかった」
「新聞だけは必ず目を通せと言っているのに…おまえというやつは」
万次さんはまた私を怒鳴りつけた。読書すらまったくしない私に、彼は、新聞はためになるから読むようにと、くどいほど言い聞かせていた。けれど、私は何だかんだと言い訳を作っては、結局読まないままで毎日を過ごしていた。新聞はやたらと専門用語が多いから、私の頭では読みきれないのだ。
「おまえが連れてきたロボットは、この記事に書かれている組織が造ったものだ。 …おまえはロボット三原則を知っているな?」
「ロボット三原則?」
思わず聞き返した私を、万次さんは呆れ顔で見た。
「あれほど覚えるように言っただろう! 今の時代の常識だぞ」
「知ってるよ! ちょっと聞き返しただけじゃない」
私はむきになって言った。そして、ロボット三原則の第一条を暗唱してみせた。
『ロボットは人間に危害を加えてはならない。 また、その危害を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』
「そう。 ロボットは、人間に危害を加えてはならない」
万次さんはゆっくりと言った。私はそのとき、どうして戦闘用ロボットがこのような目にあったのか、何となく察しがついた。彼は、望まれるべく生まれてきたロボットではない。彼は、公にその存在を認められなかったのだ。『戦闘』用ロボットだから。人間に『危害』を与える存在だから。
「でも、このロボットは私を殺さなかった」
「どういうことだ?」
「スクラップ場で見かけたとき、私、この子に触れられた。 でも、殺されなかった」
白髪頭のロボットの修理師は、深く考えるようにして答えた。
「このロボットはおそらく…言い方は良くないが、出来損ないというやつだろう」
「出来損ない?」
「普通、戦闘用ロボットには戦うという思考がほぼ全ての行動を支配している。 しかし、このロボットはその思考がそれほど割合を占めていないようだ」
言っていることが難しすぎて、私の頭では理解しきれない。首をかしげる私を見て、万次さんはさっきの新聞記事を私に見せた。
「ここを見てみろ」
細かい文字だらけの、専門用語だらけの新聞。読みたくはなかったけれど、仕方なく指差されたところに目を通してみた。そこには、この戦闘用ロボットを製造する際に、プログラムに失敗してしまったロボットのことが書かれていた。彼らには『戦闘用』であるという意識がなく、戦闘時以外での行動は、他の家庭用の人型ロボットと、まったく変わらないらしい。
「この子は…つまり、不良品ってこと?」
私は恐る恐る万次さんを上目遣いで見た。彼はうなずきながら言った。
「そう」
その返答を聞き、私はそっと胸をなでおろした。私の解釈が違っていたら、きっと万次さんはまた怒鳴りつけるだろう。どうしてこんなことも分からないのか、と。その厳しさが今の私を育ててくれているのだから、一応感謝はしているけれど、すぐに怒鳴るのだけは止めて欲しいと思っていた。
「不良品だ。 明らかに戦闘用ではない」
万次さんは隣で充電用のコードに繋がれて、目を閉じている戦闘用ロボットを眺めながら言った。
「戦闘用のロボットといものは、自分の主人と認識していないものはすべて殺すようにプログラムされていると聞いている。 だが、スクラップ場でおまえを見かけたとき、こいつはおまえを殺そうとしなかった。 むしろ、大人しく従ってここまでやって来た。 わしを見たときも、殺そうというそぶりは一切なかった。 『人間に危害を及ぼす』戦闘用ロボットとしては在り得ないことだ」
「この子ね、私に触れながら、こわくない、って言ったの」
「…それならなおさらだ。 こいつは戦闘用ロボットとしては出来損ないだ」
「戦闘用ロボット『として』?」
「ロボットとしては素晴らしく精巧なものだ」
万次さんは、目を細めながら、充電コードに繋がれているロボットの身体に手を這わせた。
「この表情も筋肉の付き方も、ほぼ人間と差が感じられない。 普通のロボットにありがちな表情のぎこちなさがまったくない」
私は眠ったように目を閉じるロボットの顔を覗き込んだ。確かに、初め見たとき、彼がロボットだなんてまったく思わなかった。胸元のコード番号を見つけるまでは。
半日が過ぎた。太陽が西に傾き、工場の窓からオレンジ色の光が差し込み、コンクリートの冷たい床をほんのり温かく染めた。
ロボットは、長旅で疲れた人間のように、充電を終えるまでまったく動かずに、寝返りもうたずに(あたりまえなのだが)眠り続けた。
充電終了のブザーが鳴ると、ロボットはオリーブグリーンの瞳をしっかりと開き、そしてコードに繋がれたまま、ゆっくりと身体を起こした。
「おお、目が覚めたな」
万次さんはやりかけの仕事を一時中断し、ロボットのもとに歩み寄った。ロボットは、不思議そうな顔で万次さんを見つめた。私もパソコンのキーボードを打つ手を止め、ロボットのところに行った。
ロボットは、オリーブグリーンの瞳をきょろきょろさせて、私の目を見た。
「ここは、うちの工場よ」
私はゆっくりと彼に教えた。彼はその『工場』という言葉に怯えた様子を見せた。万次さんは、ロボットをこよなく愛するその瞳で、怯える表情のロボットに話しかけた。
「ここは安全なところだ。 安心していい」
ロボットはそれを聞くと、ゆっくりと笑った。それは、今までに見たどんな笑顔よりも、優しく、そして柔らかかったように思えた。ロボットなのに、どうして人間よりも自然に笑えるのだろう。私はここで、一つ気になる質問をした。
「あなた、名前は?」
彼は何も答えなかった。悲しげな瞳で私を見た。そして、低くよく通る声で言った。
「なまえは、ない」
彼には主人というものがいなかったのだろうか。だから、彼に名前を付けてくれる人もいなかったのだろう。
「それなら、私が付けてあげる」
万次さんの顔を覗き込むと、目じりにしわを寄せて微笑んでくれた。これは彼にとって、『OK』の意味。ロボットは私の言葉に嬉しそうに笑った。万次さんは、私の肩を叩くと、こう言った。
「大事な名前だ。 そう焦って考えるまでもない」
私はうなずくと、机の引き出しから紙とペンを出した。思いつく限りの名前を書き出してみようと思ったのだ。万次さんはロボットから、充電コードを抜き、ゆっくりと立たせた。そして言い聞かせた。
「今日から、ここがおまえの家だ」
ロボットは少し驚いたような表情になったが、すぐに笑って、小さく頭を下げた。このしぐさも、人間より、どこか人間らしいように思える。そして、ロボットは、必死に頭を抱えて考え込む私を見て、小さな声で言った。
「ありがとう」
私はびっくりして顔を上げた。そこには、とてもロボットとは思えない穏やかな表情の男性がいるように思えた。不覚にも、そのオリーブグリーンの瞳に、少しドキッとしてしまった。私は平静を装って言った。
「どういたしまして」
そしてロボットは、万次さんに連れられて、隣の休憩室へ入っていった。私は気を取り直し、また紙に、思いつく名前を書き始めた。
「まだ考えているのか」
陽はすっかり沈んでいた。いつの間にか工場にも電気が灯っていた。万次さんは机に入れたてのコーヒーを置いてくれた。万次さんの入れたコーヒーは、芳しい香りを立ち上らせていた。
「名前って難しいのね」
そう言って、書いた名前に横線を引いた。万次さんがふいに言った。
「おまえのリンという名前。 誰が付けたか知っているか?」
「万次さんでしょ」
「いや」
思わぬ返事に、返答に困った。それなら誰がこの名前を付けてくれたのだろう。
「おまえの両親だよ」
またもや思わぬ返事だった。私には両親はいないはずだ。万次さんが拾ってくれたんだから。
「おまえが入れられていた箱に、書置きがあってな」
「書置き?」
「そこに、『リン』と書かれていた」
「そんなの初めて聞いたよ」
私はペンを置いた。どうして今までそんなことを黙っていたのだろう。
「過去はおまえにとってどうでもいいと思ったから、今まで言わなかった。 でも、おまえのリンという名前は、おまえの両親が必死に考えたもののはずだ。 おまえの今の姿を見ていて思った」
何だか無償に嬉しくなった。この名前は、ずっと万次さんが考えたものだと思っていた。でも、だとすればこの『リン』は、私の親が唯一残してくれたもの。だから思わず頬がゆるんだ。
「一生懸命はいいが、明日に差し支える。 早めに切り上げなさい」
それだけ言うと、万次さんは大あくびをしながら、上の階に上がっていった。その年老いた後姿は、いつもよりも小さく、そして優しく見えた。小さな声で、自分の名前をつぶやいてみた。私の親が付けてくれたのか。そうだったんだ。
私はペンを持ち直した。少しだけ、胸の隅っこがほんわかと温かくなった気がした。
目が覚めたら朝だった。一夜漬けをしてしまったらしい。こんなこと、テスト前日にしかやったことがなかった。それでも、しわくちゃになった紙の上には、私が必死で考えた名前があった。
「おまえそこで寝たのか」
万次さんが作業着に袖を通しながら、階段を下りてきた。
「ねぇ、あの子はどこ?」
「隣の休憩室にいるはずだが」
それを聞くと、私は飛び跳ねながら休憩室に駆け込んだ。音に驚いたロボットは、大きな目で私を見た。彼はずっと立ったままだったのだろうか。ソファに座りもしないで、窓際に立ってこちらを見ている。朝日が差し込む逆光の中で、彼のオリーブグリーンの瞳だけが、密かな光沢を放っている。
「おはよう」
私が元気よく言うと、ロボットも嬉しそうに頭を下げた。そして、私はロボットに駆け寄った。
「あなたの名前、決まったよ」
そして、紙の上の文字を見せた。私は大きな声で読み上げた。
「カオス」
「かおす?」
「あなたの、名前は、『カオス』」
ゆっくりそう言うと、ロボットは小さく何度も『カオス』という名前を繰り返した。
「カオスってね、ギリシャ神話に出てくる、一番初めの秩序のない状態のことなの」
ロボットは首をかしげる。そりゃそうだ。私だって初め、『カオス』の意味を調べたときはこんな感じだった。
「つまりね…決まりも何もない、そんな空っぽの状態のことよ」
少しロボットはうなずく。
「あなたも今は、この『カオス』って状態でしょ」
またロボットはうなずく。
「だから、これからその空っぽな状態に、いろんなものを詰め込むの。 楽しいことや嬉しいこと」
「たのしいこと?」
「そう。 ギリシャ神話ではね、カオスからは、たくさんの神様たちが生まれたんだって」
「かみさま?」
やはり何も分からないというように、ロボットはただ私の言葉をそのまま返すだけだった。私は続けて彼に言った。
「あなたは今日から『カオス』よ。 あなたの名前は、『カオス』」
「カオス」
そう言うと、ロボットはとても嬉しそうに微笑んだ。やはりどこかロボットではなく、人間のような印象を受ける。ロボットなのに、人間臭い。そんなロボット――カオス。
カオスは、オリーブグリーンの瞳で、また私を見つめた。どうもこの瞳は苦手だった。嫌というわけではないけれど、なぜかドキドキさせられる。ロボットに見つめられているという感覚が持てない。思わず目をそらした私の頭を、カオスはその大きな手で撫でた。きっと彼なりのお礼のつもりなのだろうか。心がびくんと飛び跳ねた気がした。
「じゃあ、改めまして。 私の名前は、リン。 あなたは?」
「カオス」
そう言うと、カオスはまるで小さな子どものように笑った。私よりも頭ひとつ分以上大きい身体で、彼は無邪気な笑顔を見せた。まさに『カオス』と同じように、今の彼は真っ白な状態なのだ。生まれたての赤ちゃんのように、途方もなく無垢なのだ。
(四) カオス
「なにをつくってるの?」
カオスはよく通る低い声で私に尋ねた。
「ホットケーキを焼いてるの」
私は火を弱めながら答えた。万次さんも私もホットケーキが大好きで、これを焼くのはいつも私の役目だった。もう何年も焼き続けているから、腕前はそこらのコックよりもいいはずだ。
カオスは興味深そうに、私のフライパンを動かす手を見つめている。ちょうど片面が焼けたと思うころに、私は上手い具合にフライパンを返し、ホットケーキをひっくり返した。それを見るとカオスはとても驚いた顔をした。名前の通り、彼の頭には、何も無い『混沌とした』世界が広がっているのだ。もちろん、こんな光景を見るのも初めてなのだろう。
「むずかしい?」
「慣れてるから、平気よ」
私はそう言うと、焼けたホットケーキを皿に載せた。
「これ、万次さんのところへ持っていってあげて」
カオスは喜んで引き受けると、大切そうに皿を持って、キッチンから出て行った。そして私は次を焼き始めた。
万次さんのところから戻ってきたカオスは、首を傾げながらキッチンを見回している。
「どうしたの?」
「バター」
万次さんは、ホットケーキにはたっぷりのバターを塗るのが好きだ。身体には良くないと思うのだが、たまに食べるくらいだから、私も大目に見てしまっていた。
私は冷蔵庫からバターを取り出し、バターナイフも一緒にカオスに持たせた。彼はやはり不思議そうな顔でそれらを見つめると、また万次さんのもとへ戻っていった。
ちょうど私の分のホットケーキが焼けた。
「うん。さすが私だわ。上出来」
そう言いながら、皿に載せると、生クリームとチョコレートシロップを冷蔵庫から取り出し、ホットケーキが隠れるくらいにたっぷりとかけた。やはりこれも身体には良くないだろう。もちろん、太る原因でもある。でも、しょっちゅうすることでもないから、これも大目に見てしまっていた。
休憩室のソファに座り、私が食べようとしたところに、カオスが入ってきた。真っ白な生クリームで覆われた皿を見ると、彼はまた首を傾げる。
「私ね、生クリームをたっぷりかけるのが好きなの」
「おいしい?」
「すっごくおいしい」
カオスは物欲しそうな顔をしたが、ロボットに人間の食べものが食べられるはずがない。彼らの食事は、定期的な充電、それに、オイルくらい。
「ロボットには食べられないわ」
私の言葉に、カオスは不満げな子どものような顔をして、私の隣に座った。その表情がかわいくて、私は思わずカオスの黒い髪の毛をくしゃくしゃにかき乱した。カオスは笑い出した。本当に屈託なく笑うその顔が、私はとても好きだった。
「こんど、カオスもつくる」
「じゃあ教えてあげるね」
カオスはまた、オリーブグリーンの瞳で私を見つめた。そして口元をキュッとあげ、穏やかに微笑んだ。やはり私はまたドキッとしてしまった。
休憩を終えると、私と万次さんはまた仕事に取り掛かった。今日も修理を頼まれたロボットがたくさん届いている。古いものから、最新型のものまで、ありとあらゆるロボットがいた。
「リン、あそこの犬みたいな奴を連れて来い」
犬みたいな奴とは、ペット用のロボットだ。万次さんがわざわざ『みたいな奴』と表現するのにはわけがある。
「こんなにメタリックなものを飼いならして何がいいんだろうな」
彼はロボットを愛しているが、ペットを象ったものだけは嫌いだった。ロボットも好きだが、動物も彼は大好きなのだ。だから、本物の動物を真似したようなロボットは気に食わないというわけだ。
「アレルギー体質ってものがあるのよ。この世には」
私は修理し終わったロボットについている油をふき取りながら言った。
「あれるぎー」
それを聞いていたカオスが繰り返した。混沌とした彼の頭脳には、あまりに語彙の数が足りなすぎるのだ。しかし、確実に毎日言葉の数を増やしていた。それも急激なほどの速さで。
「どうぶつはあれるぎーのもと?」
「そうだ。しかし動物の代わりをロボットにさせるのは良くないことだと思うがな」
「人間の形のロボットだってあるじゃない」
「人間は別にいいんだ」
「何よそれ。矛盾してるよ」
「あれるぎーの人は、どうぶつとくらせない」
「カオスの言うとおりよ。そういう事情のある人もたくさんいるんだから」
万次さんはぶつぶつ文句を言いながら、犬型のロボットの耳の部分を入念に見ている。カオスは私と万次さんのやり取りの時折口を挟みつつ、その言葉の発達ぶりに私たちの目を見張らせた。
ある朝、私がいつものようにカオスのいる部屋に行くと、彼はソファに座り込んで、熱心に何かを読んでいた。
「何を読んでるのかなー?カオスくんは」
背丈は私よりずっと大きな彼だったが、その言葉の幼さや、しぐさのあどけなさから、何となくカオスは自分の弟のような感覚があった。わざと小さな子供に話しかけるように声をかけてみた。
「おねーちゃんに見せてごらん」
カオスは手に持っていたものを私に見せた。それは万次さんが溜め込んでいる何年も前の新聞だった。私でさえほとんど読むことのない新聞。
「あなた…こんなもの読むの?」
「万次さんが、読むといいと」
「分かるの?この新聞の内容が」
「大体分かる」
私は感嘆のため息を漏らした。専門用語だらけの新聞を、語彙数の少ないカオスに理解できるというのだ。彼の頭脳はそんなにも発達しているのだろうか。
「リンも読むといい」
「私は…読む必要ないもの」
「どうして?」
「だって…いろんな言葉知ってるもん。読まなくたって大丈夫だもん」
「国語のテストいつも悪いのに」
言葉に詰まってしまった。カオスはいっちょうまえに私の成績をこっそり把握していた。万次さんにでも吹き込まれたのだろうか。私の国語の成績が地を這うようなものだということ。
「カオスってば…ホラ!朝ごはん作るんだから手伝って」
「分かった」
カオスは笑いながら机の上に新聞を置き、私の目を見た。オリーブグリーンの瞳は、よく私の目を見つめる。彼の癖なのだろうか。それはとても真っ直ぐに私を見つめるのだ。
「癖ね」
「くせ?」
「そうやって人の目を見つめるの」
「イヤ?」
「ううん。そうじゃない」
カオスは不思議そうに首を傾げると、私の後ろをついて部屋を出た。もはや彼が私の弟だという感覚は消えかかっていた。何か、もっと違う存在になりかけていた。
(五) 人間の街
カオスが私と万次さんの工場に来てから2週間ほどたった日の朝だった。私は寝坊をしてしまった。今日は学校に行かなくてはならない。私は週に2回だけ、ロボットの専門的な知識を入れるための学校に通っている。万次さんには教えている暇がないから、理論的なことは学校で学ぶようにと、彼に勧められたのだ。もちろん、教養としての、私の大嫌いな国語などの授業だってある。週に1回の授業では、教養を、そして、残りの1回は、専門的なことを教えてもらう。この学校に通う生徒のほとんどは、全日制とは無縁だから、教養の授業も必要になる。
「行ってきます!」
カバンを片手に工場を飛び出した。油と埃で真っ黒なスニーカーは、かかとの部分がかなりボロボロになってしまっている。そろそろ買い換えないといけない。スクラップ場の前を駆け抜けようとしたとき、後ろから誰かが私の名前を叫んでいるのが聞こえた。
「リン!」
振り返ると、カオスがすごい速さで追いかけてくるのが見えた。背が高く、足も長いから、走るのは私の何倍も速い。
「お弁当忘れてる」
カオスは息一つ切らさず、私に駆け寄ると、ピンクの巾着袋に包まれたお弁当を私に差し出した。
「いつもの袋はどうしたの?」
ボーイッシュなものを好む私には、あまりにかわいらしすぎる巾着袋に、私は気恥ずかしいような気分になった。
「俺が作った」
「俺が…って…カオスが?」
カオスはうなずいた。そして無邪気に笑って言った。
「リンも少しは女らしくなった方がいいと思って」
「失礼しちゃうねー本当に」
私は表面は怒ったように振舞ったが、こんな風に私のために何か作ってくれる人は今までいなかったから、本当は内心嬉しかった。でも、何故か照れくさくてお礼を言えなかった。いつもならさらっと言えるのに。どうもこの頃、カオスとはやりとりがしにくいように感じていた。彼はここ2週間で一気に語彙数が増えたし、初めは自分のことを『カオス』と呼んでいたのに、つい昨日くらいから、『俺』と呼ぶようになっていた。もう彼の頭の中は、カオスのように混沌としてなどいないようだった。それでも、私がカオスとのやりとりに息苦しさを感じるのは、そんな理由からなんかじゃない。それはもっともっと、深いところにある気がしていた。
「いってらっしゃい。気をつけて」
カオスは大きな手を私の頭の上にポンと載せると、工場に向かって歩き出した。私は何か言おうとしたが、何を言うのかを忘れてしまったように、声が詰まってしまった。カオスは何も気付かないように、真っ直ぐに工場に向かって行った。
私は、カオスが作った巾着袋を眺めた。縫い目もきれいで、そこらの女子よりずっと上手だった。この2週間で、彼は言葉だけでなく、掃除や料理なども覚えてしまった。初めの状態がからっぽだっただけに、吸収がすさまじく速かった。しかし、この工場に来る前の記憶だけは戻らなかった。実際、私はそんな記憶は取り戻して欲しくないと思っていたから、全然構わないのだが、いつか戻るときが来るとすれば、それは恐ろしいことだと知っていた。おそらく万次さんも、口には出さないけれど、同じように恐れているに違いない。不良品だったと言えど、カオスはもともと、『戦闘用ロボット』だったのだから。
学校はあっという間に終わった。私が通っている学校には、どこか風変わりな人が多かった。私が通うところだけかもしれないが、この手の学校には本当に変わった人が多い。けれど実際、普通の学校に行かなくて良かったと思っている。あの受験に向けての張り詰めた空気は、どこか私に馴染まないのだ。
帰り道、私は友達数人と町をぶらぶらすることにした。学校帰りの寄り道だけは、あの万次さんも多めに見てくれていた。
レンガ造りの人間の街。どこかレトロな雰囲気の漂う街だった。向こうの空には、鉄筋コンクリートの高層ビルが連なっているのが見える。いつもよく行く雑貨屋の前に来たとき、見慣れた黒の短髪が見えた。カオスだった。私は思わず声をあげた。
「カオス!」
カオスは驚いたように振り向くと、大きな手を振った。子供のようにかわいい無邪気な笑顔がはじけた。私は友達に一言ことわると、カオスのもとに駆け出した。
「何やってるの?」
「万次さんがリンを探してこいって」
「私を?何かあったの?」
「急ぎの修理があって、リンに手伝って欲しいらしい」
「そっか…遊ぼうと思ってたのになー」
私は友達のところへ戻り、事情を簡単に説明した。友達は笑って、「いいよ」と言ってくれた。軽いこのノリがとても気楽だった。本当に表面だけの付き合いには違いないけれど、これはこれで楽しめていた。私はさよならを言うと、カオスと一緒に工場に向かった。
工場へ向かう途中、カオスは私に言った。
「友達多いの?」
「うん、まぁそれなりにね」
「そっか」
カオスはそう言うと、黙ってしまった。
「カオスは友達いないの?」
彼の瞳は悲しげな色に変わった。そして小さく首を横に振った。
「昔のこと覚えてないから」
何も返す言葉がなかった。カオスは、沈んだ表情でうつむいている私の横顔に気付くと、焦って話題を変えようとした。
「そういえばさ、ホットケーキって焼け目が上手くつかないんだよね。ムラになっちゃって」
思わず私は吹き出した。そういえば?ホットケーキ?急にホットケーキの話題?ちょっと無理がありすぎる気がしたけれど、カオスなりの思いやりらしい。こういうところもロボットとは思えない。私は笑いをこらえながら答えた。
「明日のお昼に教えてあげる」
「うん」
カオスは笑いたくてたまらない私の顔を見ながら、優しい瞳で笑った。悲しげな色は、もうオリーブグリーンの瞳に残っていなかった。
工場では、万次さんがいつもの作業着を着てせわしく働いていた。ロボットに身の回りのことをやってもらえるようになった今の時代では、ここまでせかせか動く人間を見ることはまれだ。世界中で万次さんだけが、おそらくそんなふうに動いているのだと思う。
「万次さん」
カオスが呼ぶと、万次さんは油で黒く光らせた頬をこちらに向けた。
「早く着替えて手伝え」
私は急いで部屋に上がり、作業着に着替えた。どうやら今日は相当忙しくなるらしい。すぐに工場に行き、万次さんに仕事の手順と内容を教えてもらうと、すぐに仕事に取り掛かった。カオスは万次さんの横について、助手として働いている。私よりずっと手際がいいようだった。
仕事を終えると、カオスは私にコーヒーを入れてくれた。いつのまにか、コーヒーまで入れられるようになってたなんて、びっくりだ。香ばしいコーヒーの香りをかいでいると、カオスはふいに話し出した。
「人間の街ってカラフルだね」
「カラフル?」
「レンガの茶とか、家の白い壁とか。花屋の赤とか緑とか黄色とか。空の天井の青とか」
カオスは私の気付かない間に、感性まで豊かになっていたのだろうか。ありとあらゆる色を読み上げだした。群青に、黒に、オレンジ、ピンクに、銀色…。
「ロボットの街はこんなに色にあふれてなかった」
「ロボットの街?」
「ロボットの街はセピア色だった」
ぽかんとあっけに取られる私の顔におかまいなしに、彼は話を続ける。
「天井も床も日用品もセピア色。身の回りのものに色なんてなかった。空も、人間の街みたいな爽やかな色をしてなかった。ただただ、すべてのものはセピア一色だった」
ロボットの街なんて聞いたことも見たこともない。ロボットであるカオスは、そこに行ったことがあるのだろうか。しかし、彼には前の記憶などないはずだ。それなら、彼の言っていることは一体なんなのだろうか。
カオスはそれきり黙ってしまった。私は、明日の仕事もたくさんあるからと、自分の部屋に戻った。
ベッドにもぐりこんで、灰色一色の冷たい天井を見上げた。カオスの言っていた、『セピアの街』。その夜はどうにもすぐに寝付けなかった。無機質な壁に囲まれた空間の中、私は一人、この夜の中に取り残された気がしていた。
(六)消失
その日もいつもと同じ朝だった。
目覚まし時計の慌しい音。万次さんの怒鳴り声。遠くで触れ合う鉄の音。そして、カオスのオリーブグリーンのきれいな瞳。何もかも、いつもと同じだった。
そう思っていた。確かに、そのときまではすべてがいつもと同じように流れていた。
工場の戸を誰かが叩いた。朝日の差し込む工場の中に、ガンガンと、鉄の音が深く響いた。その音はあまりに乱暴で、まるで私たちをせかすようだった。万次さんは私に、すぐに誰なのか見てくるようにと言った。戸の横に取り付けてある小さな小窓から外を見た。油がべっとりついて、向こう側が雲って見えにくくなっていたけれど、何とか外にいる人を見ることができた。
そこには、黒いスーツの男の人が2人立っていた。一人はハゲ頭、もう一人は明るい茶髪をしていた。
彼らは、小窓から除く私の顔に気付くと、戸を開けてくれとジェスチャーで示した。万次さんに許可を得てから、そっと戸を開いた。
一瞬、背筋を冷たいものが走った気がした。黒いスーツの2人組は、スーツの襟元に、バッジをつけていた。私はそっとそれを盗み見した。
シルバーの地に、青い色で『ct』と書かれていた。何かの略称だろうか。どこかで見たことがあるようなマークだった。でも、それが何なのか、一向に思い出せそうになかった。二人は万次さんの方へ歩み寄っていった。
「おたくらは?」
万次さんは軍手を外しながら言った。
「ロボットの回収に参りました」
「ロボット?」
万次さんは何のことかと言うように聞き返した。黒い2人は言う。
「そちらに、行方知れずのロボットが迷い込んでいるとの情報が入ったので」
私ははっと息を呑んだ。『行方知れず』。『ロボット』…。
「コードナンバーを言った方がいい」
黒い2人のうちの茶髪の方がそう言ったとき。
「リン、コンピュータの処理の仕方、あれじゃまずいよ」
カオスが隣の作業室から出てきた。幸いにも、彼の胸元は服でしっかり覆われていた。
「本当? ゴメン、今すぐ直すから」
私はすぐに彼を奥に連れ戻そうと、背中を押しながら隣の部屋へ行った。カオスは不思議そうな顔をして、私に押されるがままに歩いていった。そして、隣の部屋に入ると、即座に私は鍵をしめた。
「リン、どうかした?」
「ううん。何でもないの。大事なお客様だから」
カオスはどうも納得がいかない顔をしていたが、すぐに仕事の内容に取り掛かり始めた。
隣の工場の部屋では、万次さんが黒い2人と話をしていた。万次さんはいつになくピリピリしている。黒い2人は冷たい視線を彼にそそいでいた。
「おまえらは何なんだ?」
万次さんは冷静に、けれどどこかに怒りを込めながら言った。
「このバッジをご存知ないようで」
ハゲ頭の方は、襟元についたバッジをチラつかせた。
「ct…」
万次さんは一言つぶやくと、気付いたようにつぶやいた。
「コンバット」
「そう。 コンバットの開発局の者です」
「ここに迷い込んでいるとの情報があったもので」
「ここにそんな物騒なものはない」
万次さんは、作業用の手袋をはめながら言った。
「ご冗談を」
茶髪の方は笑った。しかし、万次さんはおかまいなしに、仕事の続きを始めた。
「コードナンバーはA00109なんですが」
「知らないな」
修理しかけのロボットに触れながら、万次さんは目もあわせずに言う。
「確かにここにいると聞いたんですがね?」
「そんなものは見たことはない」
万次さんの返答におかましなしに、ハゲ頭の方は懐から銃を取り出した。一瞬万次さんは、自分が撃たれるのだろうと思った。けれどハゲ頭は、それを工場の天井に突き上げると、一発弾を打ち上げた。
ひどく突き刺すような音が響き渡った。
その銃声が工場中に響き渡ると、カオスが身体をピクっと動かせた。
「銃」
そうつぶやくと、彼は立ち上がり、万次さんと、黒いスーツの2人がいる工場へと歩いていった。私は止めようとした。けれど、彼は私の手を振りほどき、無言で部屋を出た。ドアには鍵がかかっていたが、カオスの力は、それを簡単に破ってしまった。
彼がドアから現れると、茶髪の方はカオスに歩み寄っていった。そしてカオスの胸倉をつかみ、その胸元に刻み込まれている番号を見た。そしてにやりとした。
「久しぶりだな」
そう言って、カオスの頬をひどくひっぱたいた。私も万次さんもはっと息を呑んだ。しかし、カオスは無表情に自分を打ちつけた手のひらを眺めていた。
「A00109、ここはおまえの居場所じゃない」
「居場所?」
カオスはきょとんとして言った。
「俺の居場所?」
「おまえは出来損ないだ。おまえはガラクタなんだ」
「ガラクタ…」
オリーブグリーンの瞳が次第に曇っていった。セピア色に色づいていくようだった。
カオスの理性が消えようとしている。私は瞬時にそう察した。このままでは彼は本当の戦闘用ロボットとして連れて行かれてしまう。彼は戦闘用なんかじゃない。そんな危ないものじゃない。
「不良品のくせに名前まで付けられているらしいな」
私はこの言葉についに我慢できなくなった。膨らみすぎた風船がはじけるように、私は胸の中のどろどろした感情を、すべて黒い2人にぶちまけた。
「不良品なんかじゃない!!」
黒い2人はぎろっと私のほうを見た。
「カオスは不良品じゃないわ!!あんたたちの方がよほど不良品じゃない!!」
そう言うと、彼らは不敵な笑みを浮かべてつぶやいた。
「あれはただの殺人兵器だ」
「違う!!」
のどが張り裂けるくらいに、私は金切り声を上げていた。
「カオスはそんなことしない!!」
ハゲ頭の男はにやにやしながら言った。
「カオス?奴にカオスってつけたのか?あんな殺人用ロボットに?」
「やめてよ!!」
カオスは私の叫び声に、我に帰ったように目を見開いた。そして、私に歩み寄ると、優しく私の肩に手を置いた。
「リン?」
「カオス…」
「何があった?」
「いいの。気にしないで。何でもないの」
茶髪の男は、カオスに言った。
「A00109、俺たちと一緒に来い。おまえはここにいるべきロボットじゃない」
カオスは一瞬、今までに見たことのなかったような冷たい瞳をした。温かいオリーブグリーンの瞳は、どこかに消えていた。私は途方もない身の危険を感じた。
「A00109」
男たちはまたその番号を呼び上げた。カオスを取り巻く空気が、パリっと凍りついた。私は思わず腰を抜かして、その場に座り込んでしまった。
そのときだった。カオスは物凄い勢いで、黒い2人に襲い掛かった。
何が起こったのか、私はまったく分からなかった。万次さんですら、きっと何も分からなかったと思う。ほんの数秒間のできごとだったのだ。
気付くと、そこには血まみれのカオスがたたずんでいた。そのすぐ傍には、驚きの眼差しで立ち尽くす万次さんと、人間としての原型を失いかけているものが二つ、横たわっていた。
「カオス…?」
私は恐る恐る声を出した。
「俺は」
カオスが自分の手についた血を見つめてつぶやいた。
「殺した」
そういうと、彼は大声で叫びながら頭を抱えた。そしてその場にひれ伏した。それを見つめていた万次さんは、私のところへ走りよってきた。私はうずくまったまま、万次さんの呼びかけにも反応できずにいた。
「カオス…カオス……どうして……何で…?…」
私は涙を流した。どうしてか分からなかった。ただ、恐怖におびえていたことだけは確かだった。万次さんは私をそっと抱き寄せた。油の匂いの染み付いた作業着が、このときほど心地よく感じられたことはなかった。
カオスは頭を抱えていた手を放すと、私と万次さんのほうを見た。その目には、オリーブグリーンは輝いていなかった。くすんだセピア色をしていた。
「コンバット」
万次さんはつぶやいた。そう。今、カオスはカオスじゃない。
しばらくの沈黙の後、工場の周りで人の話し声が響きだした。そして、いつの間にか、私と万次さんとカオスの周りには、しっかりと武装をした人間がいた…いや、おそらくロボットだろう。彼らは手にごつごつした大きな銃を抱えていた。
武装した集団は、銃口を私と万次さんの方に向けた。
一瞬だけ、タタタ…と短い音が響いた。
私の体を、何か、ドロリとした温かいものが流れ出した。
それは真っ赤な、鮮やかな色をしていた。
そして、目の前に、眠るように転がる万次さんがいた。
彼は、目を深く閉じ、一向に目を覚ます気配を見せなかった。
私は、自分の手のひらについた、真っ赤な粘着質の液体を眺めた。
恐怖も何も感じなかった。
ただ、私の頭は妙に真っ白で、クリアーだった。
横たわる万次さんを眺めている私に、また、もう一つの銃口が向けられた。私は抵抗する気もなかった。ただ、そこにある実態が何かを、必死に理解しようとしていた。
どこかで、カチッと、何かがつぶれる音がした。その瞬間に、周りを閃光がとりまいた。真っ白な光が私の目に飛び込んだ。爆音が響いた。
私はそこで気を失った。
気を失う直前に、目の前に『combat』の文字が飛び込んできた。
閃光と激しい爆音、そして、熱い熱の中、私は誰かに名前を呼ばれた気がした。けれど、もう何が何だか分からなくなっていた。
(七) セピアの街
空が遠く感じた。大好きな紺青の空はそこにはなかった。それは、何年も昔の写真のように色褪せ、くすんだ色をしていた。
そう、それは、セピア色だった。
辺り一面は、セピア色の大地が広がっていた。埃っぽく、そして、すっかり荒れ果て、見るべきものはなにも無かった。
地平線の向こうに、人影が現れた。見覚えのある短髪。私は思わずその人影の方へ走り出していた。私は大声で叫んだ。
「カオス!!」
現れたのはカオスだった。しかし、彼の目は、あのきれいなオリーブグリーンの瞳をしていなかった。くすんだセピア色だった。彼は私に気付くと、歩いていた足を止めた。
「にんげん」
彼は低い声でつぶやいた。
「カオス?」
私が問いかけると、カオスは大きな手で私の頬に触れた。
「どこからきた?」
「分からないの。気がついたらここにいて…」
そう言いかけた私の目を見たカオスは、何かに気付いたように目を見開いた。そして、切羽詰ったように早口に言った。
「ここはおまえのいるばしょじゃない。はやくいけ」
「カオスはどうするの?」
「A00109だ」
そう言うと、カオスは呆然としている私の背中を押した。いつものカオスじゃない。いつものカオスはもっと私に触れるときは優しく触れるのに。今のカオスは、まるで重たい機械でも動かすかのように、ひどく強い力で私を押した。私は思わずその場に倒れこんでしまった。倒れこんだ私の目から、涙がぼろぼろ零れ落ちした。
「…ねぇ、どうして?」
震える声で、私はセピア色の大地をつかんだ。硬くて冷たいセピア色の大地は、私の指の爪を砕いた。私の爪はひどく裂けて、血が滴り落ちた。その血までもが、驚くことにセピア色をしていた。
「はやくいけ」
それでもカオスは同じことをつぶやいた。私は、振り返ってカオスの顔を見た。カオスは無表情だった。あの笑顔も、すべてどこかに消えていた。
立ち上がり、私はカオスに歩み寄り、思いっきりその大きな身体に抱きついた。カオスは一瞬身体をビクンとさせたが、それきりずっと硬直したままだった。
「カオス、私ね、あなたが大好きなの」
そう自分で言い放ってから、私は一瞬わけが分からなくなった。『大好き』?彼はあくまでロボットなのに?しかも――その本能を失いかけてはいるが――『戦闘用』の、だ。けれど、嘘をついたような嫌な後味はなかった。確かに心の底から『大好き』だと思えた。その『大好き』は、モノとしてではなく、生身の人間としての、『大好き』だった。
しばらくカオスは考え込んでいるようだった。何も言わない。動かない。しかし、私がもう一声、『大好き』とつぶやいたとき、彼は固まっていた両腕を、私の肩に回した。そして、強く、けれど優しく、私を抱きしめた。
「カオス、私ね、あなたが大好きなの」
またつぶやくと、カオスは小さな声で言った。
「リン」
私はびっくりして顔を上げた。あまりにカオスが私をしっかりと抱き寄せていたので、顔をなかなか上げられなかったが、何とか彼の表情を確認することができた。
「カオス?」
彼の瞳には、あの懐かしいオリーブグリーンの色が戻っていた。気付けば周りの世界は、セピア色ではなくなっていた。
「リン」
もういちどつぶやいた彼の瞳は、確かに前のカオスと同じ瞳だった。優しくて、温かくて…。私の大好きな瞳だった。
「大好きだよ」
カオスはにこりと笑ってそう言うと、また私を優しく抱きしめた。大きな身体のカオスは、私をすっぽり包み込んでしまった。彼の身体に少し残っているオイルと鉄の香りが、妙に嬉しかった。
セピアの世界に、柔らかく色が戻りつつあった。大地は肥沃な土の色をしていた。空もいつの間にか透き通るような紺青の色に。私が流したはずのセピアの血は、もとの真っ赤な血になっていた。
カオスは私の傷ついた指先を見ると、驚いた顔をした。
「何やったんだ?この指」
私はどう説明すれば良いのか分からなくて、黙ったまま手を後ろに隠し、ただ苦笑いをしてみるだけだった。カオスは首をかしげながら、私の隠した手を取り、そっと大きな手のひらで包み込んでくれた。
「すぐに治るよ。リンは強い子だから」
一瞬、私の心がぴくりと動いた。『リンは強い子だから』――。どこかで聞いた言葉だった。それがどこだったか、すぐには思い出せなかった。
「リンは強くて、でもすごく優しい」
カオスがそう言ったとき、私はさっきの言葉をどこで聞いたか、瞬時に思い出した。――万次さんが言っていた言葉だった。
私が万次さんに拾われ、何年間か万次さんと暮らし、そして、小学校に入る直前のころだった。確かにその頃だった。私は、スクラップ場から、壊れた、猫のペット用ロボットを拾ってきたことがあった。もう治る見込みのない、すでに命を失った『死んだ』ロボットだった。
もう治らないと万次さんに言われ、私は大泣きしながらその猫のロボットを抱えた。そして、ひとしきり泣いたあと、工場の裏庭に出て、そのロボットを埋めたのだ。当時、どうしてそんなことをしたのか、まったく覚えていない。きっと、ロボットと本物の動物の見分けがつかなかったのだろう。そのとき、私がロボットを埋めるのを見ていた万次さんが、私の頭をポンと叩いてこう言った。
『リンは強い子だ。そしてとても優しい子だ』
すべてを思い出した私は、カオスにぎゅっと抱きついた。何だか、胸が締め付けられるような気がした。万次さんとの懐かしい思い出が、私の脳裏に焼きついて離れなかった。気付けば目頭は熱線で触れたようにジンジンと痛み出し、熱いものが流れ出していた。カオスのシャツに、熱い涙がぽとんと落ちた。
「どうして泣くんだ?」
カオスは不思議そうに尋ねた。私は黙ってすがりついて涙だけを流していた。――万次さんは、もういない。
「あのね…万次さんはね…」
「万次さんが?」
もう何も言えなかった。大好きな大好きな万次さんがもういない。不死身と思っていた頑固なじいさんは、あっけなく真っ赤な血にまみれて逝ってしまった。本当なら、私がそうなっていたはずなのに。
「リン?」
「どこにもいかないで」
首を振りながら私は言った。セピア色から、鮮やかな色に移り変わった世界は、もう涙でにじんで何が何だか分からなくなっていた。きれいに塗り終えた一枚の絵の上に、水をこぼしてしまったかのように、すっかりぐちゃぐちゃになっていた。カオスのオリーブグリーンの瞳も、もう目には映らなかった。
「一人にしないで」
「リン」
カオスは私をいったん身体から離すと、私の頬に優しくキスをしてから言った。
「ごめん」
彼がそう言ったきり、世界はぴたりと時間を止めてしまった。
焦げ臭さが鼻をついた。私は、冷たい土の上に、仰向けに寝転がっていた。ゆっくりと頭だけを起こすと、あたり一面は、コンクリートの瓦礫で囲まれていた。ところどころ、地面から黒い煙が渦を巻いていた。
セピアの街は消えて、あるのは、見たくもない現実だけだった。破壊された工場。死んだはずの万次さんの亡骸すら、もうすべて壊されているようだった。
こんなにもあたり一面ひどく破壊されているのに、私は何故か無傷だった。次に、身体を起こそうとすると、私の身体の上に乗っていた何かが、ガシャンと音を立てて転げ落ちた。
ぼろぼろになったロボットだった。表面は熱で溶け、それは、命の抜けた死んだロボットとなっていた。おそらく、万次さんが頼まれた修理用のロボットだったのだろう。
地面に横たわったロボットについた泥をこすったとき、私の息と思考は、一瞬止まってしまった。
Combat-A00109
そのロボットの焼け焦げた身体の一部に、確かにそう刻み込まれていた。
「コンバット…A00109…」
そのとき、さっき見たセピアの街も、カオスのあの言葉も、すべてが一本の線に繋がった。焼け焦げたロボットに刻み込まれた文字を眺め、私はうずくまったままだった。
しばらくして、雨が降り出した。鉛のように重たく、冷たく、そして痛かった。それでも私はそこにうずくまっていた。顔を流れている雨粒が、涙なのか、雨なのか、自分でも分からなくなっていた。
私は、この地球上に、自分以外で生きているものはいないと思った。地球の真ん中の監獄に取り残されたような気がした。
私は、一人になった。
(八) 出発
コンバットというのは、戦闘用のロボットなだけに、頑丈なつくりになっているらしい。焼け焦げたカオスの身体は、爆発を浴びた背中の部分だけが焼け焦げ、溶けているだけだった。爆発を浴びなかった顔や胸は、まだカオスの面影も、オリーブグリーンの瞳も残っていた。あまりに綺麗な顔をしていたから、カオスがもう動かないだなんて、信じられなかった。
私がカオスの汚れた頬に触れていると、誰かが私の肩を叩いた。スクラップ場で働いている職員のお兄さんだった。
「リンちゃん」
お兄さんは、私を哀れみの目で見た。その目が私には耐え切れなかった。まるで、私が世界で一番不幸な女の子だと言わんばかりの目だったからだ。
「工場、焼けちゃったね」
私は笑った。歯を思いっきり出して笑った。お兄さんも、それにつられて苦笑いをした。
「これじゃホームレスだね。 私」
もう一度そう言って、また笑った。すると、お兄さんは深刻そうな顔をして言った。
「万次さんは?」
「ポックリ逝っちゃったみたいだよ」
それだけ言うと、私はカオスの頬の汚れをぬぐった。お兄さんは、万次さんがもういないということを知ると、返す言葉もないらしく、黙ってたたずんでいた。私は笑顔で言った。
「ねぇ、そっちの事務所って、人が余分に入れるスペースある?」
まだ現実が飲み込めていないような表情で、お兄さんは言う。
「うん。あると思うけど」
「じゃあさ、私、しばらくそっちの事務所に置いてもらえないかな? 万次さんのよしみで」
「たぶん大丈夫だと思うよ」
静かに何度もうなずきながら、お兄さんはふと、転がっているロボットの顔を見た。私はその視線に気付くと、思い切って聞いてみた。
「ねぇ、そっちにも修理工場あるよね?」
「小さいし、古いけど。まぁ一応の設備は整ってるよ」
「この子、修理したいの。 身体はけっこう焦げちゃってるけど…きっと中身はイカれてないはずよ」
「爆発を受けたんだろう?」
修理工場へ私を案内しながら、お兄さんは尋ねた。胸の部分のコードを見せていないので、まだ、このロボットがコンバットだということには気付いていないようだった。スクラップ場で働くロボットに、重たいカオスの身体を運んでもらいながら、鉄の音の響くスクラップ場を歩いた。
「背中はもろに当たっちゃったから、ぼろぼろだけど。 表はすっごく綺麗なままなの。 だから大丈夫」
カオスを直したい。私の思いはそれだけだった。
万次さんほどの技術はないかもしれない。けれど、私にはそこらの修理士に負けないくらいの腕前はあった。だから、カオスを直してやれる自信もあった。いや、直さなければいけない。そんな気がした。
修理工場へ入るときに、ペット用の小さな猫型ロボットが、足元を駆け抜けていった。万次さんが言っていた言葉を、ふと思い出した。
――こんなにメタリックなものを飼いならして何がいいんだろうな
私は思わず笑った。もうあの口うるさいおじいさんがいないなんて、どうも実感が沸かなかった。あの爆破は、万次さんの身体もすべてかき消してしまったから。私が助かったのだって、カオスが上に覆いかぶさってくれたからだ。コンバットの強靭な身体とはいえ、カオスの身体がまだ残っているのですら、奇跡なのかもしれなかった。
修理工場は鉄の冷たい音が響いていた。万次さんの工場と同じ、でも少しどこか違う音だった。少しだけ、万次さんに会いたい衝動にかられた。
「リンちゃん、とりあえずこの部屋のものなら何でも使っていいから」
お兄さんは、修理台の上を片付けながら言った。
「ありがとう。 しばらく私が好き勝手やらせてもらっちゃうかもしれないけど」
「いいよ。 ここはもう使ってないから」
そう言うと、お兄さんはロボットに、はカオスの体を修理台に載せるように示した。私はすかさずカオスの身体の泥をぬぐうふりをして、胸のコードの上に布を載せた。お兄さんが何も気付かなかったのを確認すると、私は部屋中を見渡した。もう今は使われていない修理部屋。ロボットが人間の代わりをするようになってから、人間が働いていた修理部屋はなくなりつつあった。残っているのは、なくなってしまった万次さんの工場を除いて、おそらくこの部屋くらいだろう。カオスを運ぶのを手伝ってくれたロボットは、不思議な電子音を響かせて行ってしまった。
「もう役目を果たしたから、行っちゃったんだよ」
「あくまで命令しか聞かないのね」
「命令には絶対だから」
「…『第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない』…だったっけ?」
「そう。 リンちゃんよく覚えてるね」
「だって、この世の常識なんでしょう?」
「別に、ロボットの製造に関わらない人は知らなくてもいいんだよ。 常識っていうか…まぁ一部の専門分野の中では常識だけどね。この世の、ってほどでもないんじゃないかな」
私はお兄さんの言うことが信じられなかった。万次さんは、この三原則だけは何があっても覚えるようにと言っていたからだ。この世の常識だから。ロボットと人間が共に生きていく上で、この原則を心得ていないことは在り得ないことだと言われていたのだ。
万次さんが私に施した教育は、おそらく、私を一人前の技師に仕立て上げるためのものだったのだろう。『一人娘』としての、彼にとっての最高の教育だったのかもしれない。
「覚えてて当たり前じゃない。 一人前の修理技師になるんだから」
私はつぶやいた。お兄さんには、鉄の触れ合う音に混じって聞こえなかったらしい。
「じゃぁリンちゃん、僕はこれから仕事だから。 …あんまり気を落とさないようにね」
そう言って、お兄さんは優しく私の肩を叩いてくれた。
お兄さんが部屋を後にすると、私はカオスの身体をじっと見た。焼け焦げた人口皮膚。傷のところどころからのぞく鉄の色。オリーブグリーンの瞳は開けたまま、灰色の天井をじっと見つめている。
今、カオスはセピアの世界にいるはずだ。ロボットだらけの、人間のいない世界に。私が、こっちの世界に引き戻してやらなければならない。また彼と過ごすために。
「私、きっと助けるからね。 あなたのこと」
私がそうつぶやいたとき、一瞬、カオスのオリーブグリーンの瞳が微笑んだ気がした。
このスクラップ場に立っている工場は、私と万次さんの工場とは段違いに最新の技術が駆使してあった。危険な仕事も、簡単な仕事も、ほぼ作業用のロボットがやってくれる。廊下を歩いていると、何台のロボットとすれ違うか分からない。どのロボットも電子音を響かせて過ぎ去っていってしまう。だからその度に少し悲しくなる。人間とすれ違うことは滅多にないからだ。せいぜい、私がカオスの修理をしているときに、お兄さんが部屋に入ってきて、差し入れをくれるとか、工場長が私を気遣って話しかけてきてくれるときくらいだろうか。他の人間はいないのかもしれない。実際、私はこのスクラップ場で会ったことがあるのが、あのお兄さんと工場長、それからバイトと思われる若い男の子くらい。つまり、人間の居場所はロボットに脅かされているといっても過言ではないのだ。結局、人間とロボットは同じ環境で同じように暮らすことは不可能と言われている気がした。
「ねぇカオス? 人間とロボットは仲良く暮らすことはできないの?」
カオスの修理をしながら私は彼に尋ねてみた。けれど答えが返ってくるはずがない。彼はじっと動かないまま、灰色の天井を見つめている。
「カオス? セピアの街は冷たいでしょう? だから早く人間の街に帰ってきて」
もう一度問いかける。依然として、彼は同じように天井を見つめ続けている。
カオスの身体の仕組みは、私を圧倒させることばかりだった。
何より、前に万次さんが言っていた通り、筋肉の付き具合があまりにリアルだった。ときどき、本物の人間を扱っているのではないかと思った。そう思うたびに、私は『死体を修理している』という錯覚にとらわれ、寒気がしたものだった。本物の人間に、ロボットになるための改造手術でも施したのだろうかと思えるくらいに、人工の筋肉は豊かだった。そして、皮膚の強靭さも半端なものではなかった。あの爆発の中に巻き込まれたはずなのに、皮膚の奥の内蔵されているコンピュータにまで爆発が行き届いていない。そう、ちょうど、防弾服を身にまとっているかのような。今までたくさんのロボットを万次さんとともに修理してきたけれど、こんな頑丈なものは一つも見たことがなかった。もちろん頑丈なものはあった。けれど、そんな頑丈さも、たかが知れたものだった。『コンバット』という肩書きは、ただの肩書きではないのだと、その強さを知って改めて思った。
このロボットを作った科学者は誰なのだろう。これを作れるのは、よほどの天才か、もしくは、神様くらいだと思う。確かにロボット産業が発達している時代だけれど、このロボットだけは、そんな発達した時代の波を軽く超えている。こんな私にですらそう思えるのだから、たいしたものなのだろう。
ふと、このロボットの親に会いたくなった。
「ねぇ、お兄さん」
「ん?」
スクラップ場の休憩室でコーヒーをすすっていたお兄さんは、部屋に私が入ってきたのに気付くと、こっちを振り向いた。彼の座っているソファの隣で、犬のペット用ロボットがしっぽを振っていた。
「コンバットって知ってる?」
私がそう言うと、お兄さんは表情を強張らせた。
「ねぇ、コンバットって…」
またそう言いかけたとき、お兄さんは鉄と油の臭いのする手で、私の口を押さえた。
「静かにしてね」
無理やり笑った顔を作りながら、お兄さんは言った。私は、何となくそうした方がいい気がして、わざとひそひそ声で話しかけた。犬のロボットだけが、機械のスピーカーから出る音を放っていた。部屋にはその音と、遠くで触れ合う鉄の音しかしなかった。
「どうして?」
お兄さんは、窓を閉め、淡い青のブラインドを下げた。そして、私よりもずっと小さな声で、ゆっくり言った。
「最近、この辺りを男がうろついてる」
「男?」
静かにうなずくと、お兄さんは真っ白な紙とペンを持ってきた。そして、そこに文章を書き出した。筆談だった。そこまでするほどのことなのだろうか。
『たぶん、リンちゃんの工場を爆破した集団だと思う』
私も、彼に習って同じように文章を書いた。
『どうしてそう思うの?』
『爆発があった日、ここら一帯、怪しい人がたくさんうろついてた。 まさかリンちゃんの所に行くとは思わなくて』
『あの人たちは何なの?』
『コンバットの製造会社』
お兄さんはそれだけ書くと、ブラインドの隙間から外を見た。私も隣に立って、ブラインドから外を覗き見た。向こうのスクラップの山の陰から、黒いスーツの男が一人、こちらをじっと見ている。私は怖くなって、窓から遠ざかった。どうしてか、体中がぶるぶる震えた。お兄さんは、また紙とペンを取り、そこに長々と文章を綴った。
『コンバット絡みだってのは、工場長の予想だけど。 リンちゃんが新聞とかニュースとか見てたらきっと気付いてるはず。 その話題が持ちきりになってた。 コンバットが廃棄処分の最中に一台逃げ出したって話。 コンバットは体も強くて、遠くまで逃げ出したら探しようがないと言われていたけど、この辺りで見たって話がちょくちょく出てて。 まさかリンちゃんの工場にコンバットが』
そこまで書いて、お兄さんは私の目を見た。私は、思わず目をそらしてしまった。お兄さんは、ペンを置くと、私に詰め寄ってこう言った。
「まさか、修理してるロボットって…」
私は身動き一つできなかった。もしもお兄さんの言おうとしていることが当たってしまったら、カオスはどうなるのだろう。コンバットの話題がニュースや新聞で持ちきりだったのなら、どうして私はニュースも新聞も見なかったのだろう。どうして万次さんの言うことを聞かなかったのだろう。…万次さんは、そのことを知っていたはずだろう。…それなら、…それならどうして、コンバットをかくまったのだろうか。
その日は眠れなかった。カオスの修理にも手が付かなかった。頭の中は疑問符だらけだった。
「コンバット…コンバット…」
私はひたすらその名前をつぶやいていた。そして、ふと、1つの考えに思い至った。
――作った人物に会おう
それだけだった。コンバットの製造に携わっているくらいだから、もしかしたらすでにこの世にいないかもしれない。けれど、それでもどうしても会いたいと思った。そう思ったら、おちおち寝てもいられなかった。私はベッドから飛び起きた。
修理部屋に、できるだけ足音を立てないように裸足で歩いて行った。修理代の上で、カオスがオリーブグリーンの瞳を見開いたままで眠っていた。私は、彼の頬にそっとキスをすると、小さな声でつぶやいた。
「すぐに帰るから、ちょっと待っててね。 それまで、修理はできないけど…」
カオスは返事をせず、じっと天井を見たままだった。私は、唇をかみ締めると、きびすを返して、部屋を出ようとした。そのとき、背後で声がした気がした。
「いってらっしゃい。 気をつけて」
私はびっくりして振り返った。けれど、カオスは相変わらず仰向けに寝転がっている。
不思議と、心が晴れやかになった気がした。いつもよりも、足が軽く感じられた。少しだけ笑いながら、私は部屋を出た。昼間のうちに、私は古新聞を読み漁っていた。今までにないくらい、真剣に新聞に目を通した。どんなに小さな三面記事でも、コンバットに関することはすべて読んだ。だから、コンバットが製造されていた街の名前も調べがついた。新聞がこんなに便利だとは知らなかった。万次さんの言っていたことは、確かに正しかった。
私は、特にこれといって持ち物を持たなかった。少ない金額を入れた財布と、ガムを少し。それだけだ。工場長にも、お兄さんにも何も言わずに、私は工場を後にした。
朝が半分明けかかっていた。夜明けはもう間近のようだった。空気が冷たく、湿っぽい。私は、頬にまとわりついた髪を払いのけると、スクラップ場に山積みにされたロボットたちを見た。彼らは、命の抜けたロボットだった。私は、普段なら決してしないことをしてみた。
「いってきます」
命の抜けたロボットに話しかけたのは、初めてかもしれない。ここのところ毎日、カオスに話しかけているから、あまり変な違和感を覚えなかった。
少しだけ立ち止まって空を見上げた。雲一つ浮かんでいない。東の空は、ほんのりオレンジ色に染まっている。何となく、太陽が出る前にここを離れようと思った。ぎゅっと目をつむり、背伸びをすると、私は真っ直ぐ歩き出した。
(九) ケン
海岸線にそって、小さなバス停が立っていた。私はそこで降りた。波頭が銀色にぎらぎら光っていた。照りつける日差しが、首筋にあたって痛かった。
目指す場所は海辺の静かな町にあった。人が住んでいるのかもはっきりしないほど静かだった。ロボットの姿も見られなかった。おそらく、もとは観光地だったのだろう。あちこちに崩れかけたホテルのような建物がある。やはりその建物の周りにも、ロボットや人間はいない。
私の住んでいる街とは、かけ離れたものだった。あまりに人がいないのだ。いや、人っ子一人いない、という言葉が一番ふさわしいのかもしれない。確かにそれは人っ子一人いない町だった。
私が新聞で見つけた地名と、確かに一致しているはずだ。けれど、ここにはそれらしいものがない。人もいない、ロボットもいない。…まさか、すべて取り壊されてしまったのだろうか。あとかたもなく。
コンバットの開発など、一般にはまったく漏らされることのない情報だったはずだから、すぐに見つかることは予想しなかった。それでも、あまりにも何もなさ過ぎる。大きな港もなければ、空港もなさそうだ。地図で確認した限り、高速道路も走っていない。不便極まりない。
途方にくれて、そばにあった色落ちしたベンチに座り込んだ。何処に行けばいいのだろう。そこで、自分がとてもお腹がすいていることに気付いた。そういえば何も食べずに飛び出してきたのだ。私はなんともどこか抜けているところがある。昔からだ。万次さんにも度々そう言われていた。
――おまえは本当に抜けとるなぁ
その言葉を思い出して、つい笑ってしまった。そのときだった。
海岸線をそれた脇道から、一体のロボットが現れた。電子音を響かせながら、それはゆっくりやって来た。ロボットは私の前で止まった。鉄の色をして、足にはローラーが取り付けられていた。そして、明らかに誰かが座るのであろうというようなものだった。椅子にローラーが取り付けられている、と言えばそれまでだが、最近流行っている、車椅子のロボットだった。すべて自動で、そして人間の意志を読み取って動いてくれるという、手動のコントロールのいらないものだ。そのロボットは、私の前で止まり、それからしばらく静止していた。私がただ呆然と眺めていると、ロボットはせかすように、また電子音を高々と響かせた。
「…座るの?」
私がつぶやくと、ロボットは返事をするように、また電子音を響かせた。おそるおそる腰掛けてみた。噂に聞いていた通り、座り心地は抜群だった。誰が考え出したか知らないが、確かにこれはいい発明だと思う。脚腰が弱って、一人で生活もままならなくなった人のことを思えば、これほど便利な発明品もないだろう。何といっても人の意思で動くことができるのだから。…けれど、私には『○○に行こう』という意思がなかった。この先どうすればいいのかと、悩んでいたところだったのだから。
また私が何も言わずに座っていると、ロボットがさっきと同じように電子音を響かせた。せっかちなロボットだ。そこで、私は考えた。もしも、このロボットが、私の希望通りの場所へ導いてくれるのだったら…コンバットに絡んでいる工場へ、その生みの親の科学者のもとへ、連れて行ってくれるのでは、と。
「ねぇ、コンバットって知ってる?」
私は尋ねてみた。すると、ロボットは、その『コンバット』に強く反応を示した。そして、『了解した』と言うように、電子音を激しく鳴らすと、何処へ行くのか、迷いもなく進みだした。このロボットは、コンバットについての情報を知っているようだった。相変わらず電子音ばかり響かせながら、ロボットは進んだ。
ロボットは、明らかに道ではない道を進んだ。こんなにも科学が発達した世界に、こんな原始的な道があったとは知らなかった。それは草に覆われ、木々に覆われ、森の中を無理やりに進んでいるとしか思われなかった。おそらくこの道が目的地への最短距離なのかもしれない。
「本当にこっちでいいの?」
ロボットは、私の問いかけなど気にも留めないまま、ただ一心に目的地を見つめているようだった。
道が森の中からでこぼこの砂利道へと変わる頃、遠くに小高い丘が見えてきた。その小高い丘のふもとまで、ロボットは電子音すらさせずに進んだ。それはやたら静かな進み方だった。ものすごく慎重に進んでいるという感じだった。
ロボットは止まった。そこは、荒れ果てた原野だった。そこから一歩も動こうとしない。本当にここが目的の場所なのだろうか。
私はそっと、ロボットから降りた。
「何もないじゃない」
つぶやくと、一瞬人の気配がした。ぞくっとした。思わず振り返ると、そこにはサングラスをかけた男性が立っていた。年は四、五十といったところだろうか。男性の隣には、犬のロボットが一体。それも、そのロボットは、盲導犬の型のものだった。
「よく来たね」
男性はそう優しく言うと、私に向かって握手を求めた。そっと、そっと、彼は手を差し出してきた。まるで、真っ暗闇の中、手探りで物を探すかのように。いや、彼は目が見えないのだ。このサングラスも、この盲導犬のロボットも、彼が盲目だということを暗に示している。
「私に会いにきたんだろう?」
彼は言った。あのロボットが連れてきたのだから、きっと彼こそが私の探している人なのだろう。私はゆっくりとうなずいた。けれど、すぐに彼が目の見えない人だということを思い出し、はい、とだけ返事をした。彼は申し訳なさそうに言った。
「見えないものでね」
やはりそうだった。私は、少しだけ、この人には心を許していいような気がした。あくまで、勘にすぎなかったけれど。だから、私は大胆にも、一番聞きたいことを尋ねた。
「あなたがコンバットを?」
それを聞くと、彼はあくまで冷静に言った。
「こちらへ来なさい」
そう言うと、盲導犬ロボットとともに、彼は原野の真ん中へ歩いていった。私を連れてきた車椅子のロボットも、彼の後ろについて進んでいった。私もそれにならった。
「アリス、開けてくれないか」
男性は、どこに言うともなく、それだけ言った。すると、彼の手前の地面から、小さな物置のような箱型のものが浮き上がって来た。そして、機械の動く音がして、自動扉が開いた。ちょうど、原野の真ん中に、約4メートル四方の箱が置いてあるような感じだった。
「入りなさい」
私はそう言われ、彼と、二体のロボットの後から、その自動扉の中に入った。私が入ると、それはすぐに閉まり、箱型の部屋が、機械音とともに下へ動いていくのが感じ取れた。エレベーターだろうか。
下まで辿り着くと、扉がまた自動で開いた。その扉の先には、思いも寄らない光景があった。
「地下?」
思わずそうつぶやいた。明らかに地下室というようなレベルのものではなかった。天井に、空があった。紺青の、美しい空があった。そして、足元にはふかふかの草が広がっていた。そう、まさに、地上にいるのと変わらない景色だった。
「目が見えなくても、匂いには敏感でね。 地下室の鉄の匂いは嫌いなんだ」
男性は笑いながらそう答えた。そして、私に、もう少しついてくるようにと言うと、もっと奥へ進んでいった。この地下室はどれだけ広いのだろう。植物があちこちにあり、長身のセコイアから、小さな花に至るまで、ありとあらゆるものが存在していた。いないのは、私たち以外の動物くらいだった。奥には、古びた小屋があった。ちょうど、いつかおとぎ話で読んだものにあったような、そんな小屋だった。
もうすっかり慣れてしまったように、彼はそのドアのノブに手をかけ、中に入った。私もその後について入った。あの車椅子のロボットは、もうすでにどこかへ行ってしまっていた。私は、万次さんに覚えるように言われた、あのロボット三原則の第二条をまた思い浮かべた。
「その辺に座って」
彼はそう言うと、木製の揺り椅子に腰掛けた。私は、彼のそばにおいてあった小さな丸椅子に腰掛けた。「エイミー、お客様にお茶を」
すると、小屋の奥のキッチンから、綺麗な長いブロンドの髪をした女性が現れて、トレイに紅茶を二つ載せて運んできた。この女性もロボットだろうか。妙になまめかしい肌をしていた。人間にしか見えなかった。
「あいさつが遅れたね。 私は、ケンというものだ。 ケンと呼んでくれてかまわない」
「ケン?」
「苗字はなくてね。 捨て子だったから」
少し私の心がちくちくした。――私と同じ。
「リンっていいます」
私も自己紹介をした。
「リンか」
「私も、苗字はないんです」
「そうか。じゃぁ僕らは似たもの同士なわけだ」
「あの…さっきの、『アリス』って?」
「あぁ、入り口の開け閉めをしてくれるロボットの名前だ。 もちろん人型ではないから、名前をつけるのもおかしな話だけどね。 自分の身の回りのロボットには、名前をつけることにしているんだ。 ロボットに名前をつけちゃいけないなんて決まりはないからね」
ケンは、サングラスに隠されながらも、懐こい笑顔で言った。そして、すぐに真面目な表情に戻ると、さっき、話しかけたことに話題を戻した。
「コンバットのことだね?」
「はい」
私は身を乗り出して言った。
「聞きたいことは?」
ケンは私に話すチャンスを与えてくれた。私は、せきを切ったように話した。
「うちの工場に、コンバットが一体やって来ていたんです。それで、彼はひどく傷ついていたから、うちの工場長と一緒に修理して、直したんです。彼はコンバットなのに…戦闘用なのに、人を殺すとか、そういう意識がなくて…。でも、心はすごく綺麗で、人間よりもまっすぐなんです。つい最近、うちの工場に、黒ずくめの怪しい男が2人やって来て、コンバットを回収するって言い出して。彼らは、コンバットの開発関係者だと言い張っていましたが…果たして本当はどうなのか、分かりません。それで、…工場長は私をかばって撃たれて死んで…そして…そして工場は破壊されて。そのときに、コンバットが私の代わりに被爆したんです。 今私は、近くのスクラップ場にある修理部屋を借りて、コンバットを修理してます。彼は悪い子じゃないから、絶対に治してやりたいんです。 カオス…彼は、彼は…」
今までのいろんなことが頭を駆け巡り、私は思わず泣きそうになっていた。
「まぁ落ち着いて。話は何となく読めたから」
ケンは微笑みながら言った。その表情は、確かにすべてを知り尽くしたように思われた。
「エイミー、お嬢さんに何かお茶菓子をお出ししなさい」
ブロンド髪の女性は、上品な表情でうなずいて、キッチンへ消えていった。ケンは、一口、お茶をすすってから言った。
「彼女は、僕の作ったロボットでね。メイドのロボットがほしかったんだ。それも、金髪の外人のね」
私は、思わず笑った。聞こえないように、声を出さないようにしたつもりだが、ケンはきっちりと私が笑ったのを聞き取っていた。彼は笑って言った。
「こんな年寄りのくせに、金髪がいいだなんて、あきれるだろう?」
「いえ、そんなことは」
「いやいや、いいんだ。目が見えなくても、やはり美人には憧れる。私も、数年前までは目が見えていたからね。彼女はその頃に作ったものなんだ」
エイミーが、トレイにケーキを載せてやって来た。それを私の前に置くと、彼女は軽く頭を下げ、またキッチンへと消えて行った。
「コンバットも同じ時期に作った」
ケンがぽつりとつぶやいた。私は、すかさず言った。
「教えてください。コンバットのこと」
「そう慌てないで」
ケンは落ち着いた様子でそう言うと、エイミーを呼んだ。そして、やって来たエイミーのお腹の辺りに手をやると、何かを探るように手を動かした。しばらくして、カチンと音がして、エイミーのお腹の一部が開いた。収納スペースになっているようだった。彼は、わずか2センチほどの隙間から、小さなチップを取り出した。
「これが何か分かるかね?」
「何かのプログラムでしょうか」
「そう」
ケンは満足そうに言うと、それを私の方にやった。私はそのチップをつまんでみた。ほんの小さなコインほどの大きさだった。この小さなチップに、何が組み込まれているのだろう。
「コンバットのメンタルプログラムが入っているんだ」
「メンタル?」
「つまり、精神。 ロボットにも、普通の人間と同じように、笑って泣いて、…感情を持ってもらいたかった。 しかし、それは戦闘用には適さなかった」
けれど、カオスには豊かな感情があった。
「君のところに行ったコンバットには、感情があったようだけどね」
一瞬、彼は私の心を読めるのではないかと思った。
「新聞には、プログラムに失敗したと書かれていましたが」
「あぁ、それはきっと開発局の偉い連中がでっちあげた話なんだろうね」
彼は続けた。
「本当のところ、私が彼にだけ、このプログラムを組み込んだんだ。 もちろん、戦闘用としてのプログラムも一緒にね。私は、そのロボットが、メイドであれ、動物であれ、兵隊であれ、人間と変わりのないものを作りたかった。開発局側は、それを良しとしなかった。 けれど、私は、一体でいい。完璧なものを作りたかった。幸い、費用はすべて開発局側の連中が出してくれたものでね。おおいに利用させてもらったよ」
ケンは、そっと目の前のカップに手を伸ばし、紅茶の香りを嗅ぎ、少しだけすすった。
「そんなことを局の奴らに無断でやったから、見つからないように、こんな地下室に閉じこもりきりの生活だけどね。ロボットに囲まれていれば、まったく寂しくなんかないものだよ」
ケンは嬉しそうにそれだけ言うと、サングラスを取った。穏やかなオリーブグリーンをしていた。カオスと同じ色だった。
「…オリーブグリーン」
私が小さな声で言うと、彼はにこりと笑って言った。
「たぶん、君のところにいるコンバットと同じだろうね。この瞳の色は」
「カオスも、同じ色を」
「カオス?カオスと名づけてくれたのか?」
「はい」
「ギリシャ神話に出てくるね。…カオス。『混沌』。何の秩序もない、まっさらの状態。そして、その中からは多くの神々が生まれた」
「よくご存知なんですね」
「神話は大好きでね。とくにギリシャは」
「このプログラムをどうしろと?」
私は、小さなチップをつまんでみせた。ケンは、ゆっくりと、暗闇でものを探るように(実際そうなのだが)手を差し出した。私はその手のひらにチップを静かに載せた。
「このプログラムと、もう1つ他に、重要なものがある」
彼はそう言って、今度は自分の右目に手を当てた。そして、思わぬことに、彼は自分の瞳をえぐった。それは、義眼だった。美しい、オリーブグリーンの球体が、机の上にころんと転がった。
「この中に、もう1つのプログラムが入っている」
私は、ゆっくりとそれに手を触れた。その眼球は、ぱかっと二つに割れて、中から、先ほどのチップと同じような大きさのチップが出てきた。
「これは?」
聞くと、ケンは静かに言った。
「コンバットとしての機能を壊すプログラムだ」
「コンバットとしての?」
「戦闘用としての」
私は息を飲んだ。彼は、カオスの、戦闘用としての機能を壊せと言っているのだろうか。
「それを使えば、カオスは普通の家庭用ロボットと同じものになる」
「でも、彼には戦うという意識がほとんどなくて。 何か、危機が迫ったときは…その意識が芽生えるようですが」
「君らを襲った奴らの狙いがそれだ」
ケンは冷たく言い放った。
「コンバットの、戦闘用としての性質。 他のコンバットは、ほとんど廃棄されてしまった。 ロボット三原則の第一条に基づいてね。 だから、唯一残ったカオスを必要としている。 カオスは、あのメンタルプログラムさえ壊すことができれば、立派な戦闘兵として十分使えるからね」
「そんなふうにさせたくありません」
私は声を高めて言った。
「だから、そのチップで、戦闘用としての機能を破壊してほしい」
「…私が?ですか?」
「そうだ」
ケンはゆっくりうなずいた。そして、揺り椅子を動かしながら、またサングラスをかけた。
「君のところの工場長の名前は何と?」
「万次。 柏木万次です」
その名前を聞いたとき、ケンは声の調子を変えた。
「柏木?」
「彼をご存知なんですか」
ケンは椅子から立ち上がり、天井を仰いだ。そして、1つ、大きな溜め息をした。
「彼は、僕の先生だった」
「先生? 万次さんが…あなたの?」
キッチンからエイミーがやって来て、ポットを持って、ケンのカップに新しく熱い紅茶を注いだ。ケンはまた椅子に座り込むと、顔を両手で覆った。そして、嗚咽を漏らした。エイミーは、優しく彼の背中をさすった。そして、彼女は私がケーキに手を付けていないのに気付くと、静かにフォークを手に取り、私に差し出した。私は、フォークを手にすると、一口だけケーキをほおばった。甘くて、とても美味しく感じられた。エイミーはそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。自分を指差し、自分が作ったのだと、無言で示した。私はそれを見て、人差し指と親指で輪っかをつくり、『美味しい』というふうに伝えた。エイミーは満足げな笑みを浮かべ、キッチンに消えていった。
「柏木先生はね、僕が学生だったころ、ロボットについてのすべてを教えてくださったんだ」
ケンは顔をゆっくりあげると、静かに語り始めた。
「ロボット三原則はきっちり覚えさせられたし、ロボットを造るうえでの心構えから、ロボットと人間の共存についてもよく教えてくれたものだ。 彼の専門は工業用のロボットだったから、ロボットで造った偽の人間や、動物をひどく嫌っていたよ。 だから、僕は、ロボットを造る立場になって、何を造るにつけても、リアリティーを追及した」
――ケン、そんなメタリックな動物を造って何が楽しい?そんなものは、人の心を満たせない。
――先生…けれど、アレルギー体質の人は、本物に触れることもできないんですよ?
――アレルギー体質でも、本物に触れられることがベストだ。偽物はつまらん。
「…万次さんが、褒めていました。 コンバットは、ものすごくロボットとして精巧にできているって」
私は、初めて万次さんにコンバットを見せたときの、あの輝く瞳を思い出した。とても美しいものを眺めているような、そんな澄んだ瞳をしていた。
「先生が、そんなことを?」
「はい」
「そうか。 それは良かった」
ケンは満面の笑顔で言うと、紅茶をすすった。そのとき、私のお腹から奇怪な音がした。
「お腹が空いているのかな?」
私は照れくさくて、小さな声で、はい、と言った。それを聞くと、ケンは大笑いをした。
「それじゃぁケーキなんて甘いものはお腹に良くないね。 エイミーに何か作らせよう。 何が食べたい?」
「あ…じゃぁ…オムライス…が、食べたいです…」
「オムライスか。 私も大好きだよ。 もうすぐお昼だから、ちょうどいい」
そして、彼はキッチンにいるエイミーを呼んで、オムライスを2人分作らせた。初めて会った人と、昼食を共にするのは変な感じだった。けれど、ケンは他人に感じられなかった。おそらく、お互いに捨て子だったという過去があるからだろう。そして、柏木万次という共通の人物がいるから、というのもあるかもしれない。
昼食を食べ終えると、ケンは、コンバットのプログラミングについて説明を施してくれた。あの戦闘用の機能を壊すこと。そして、私一人ではどうにもできなかった細かい部位の修理について。
「何かあったらここに連絡しなさい。 逆探知もできないようになっているし、ここなら確実に私とコンタクトが取れる」
そう言って、彼は小さなプレートをくれた。シルバーの固い板に、細長い画面が付いていて、そこに細々と番号が浮かび上がっている。
「ありがとうございます。 きっと、カオスを修理してみせます」
私が頭を下げて言うと、ケンは微笑みながら言った。
「君も私も、幸せ者だ」
彼は続けた。
「柏木万次という、素晴らしい人物に出会えたのだから」
私は元気に、はい、と答えた。
小屋の窓から、背の高いセコイアがのぞいた。空を突き刺すように、迷いもなく、それは真っ直ぐに天を求めていた。
(十) スイッチ
翌朝、工場に戻ると、お兄さんが心配そうな顔をして駆け寄ってきた。ケンのところに行っていたのは、わずか一日だけのことだったのに、どうしてかその一日は長く感じられた。
それにしても、これほどまでにことが上手く行くのはおかしいと思った。ケンのいる町に着くと、あのロボットがケンのもとへ私を連れて行ってくれて、そして、ケンはすんなりとコンバットについて教えてくれて、私にこのプログラムを与えてくれて…。何もかも上手く行き過ぎている。どこかに落とし穴がありそうで、怖かった。
一日ぶりのカオスの顔は、相変わらず綺麗だった。私はカオスにただいまを言うと、さっそく、ケンに渡されたプログラムを使い、カオスの戦闘用の機能を壊すことにした。
怪しいあの男たちに、カオスを持っていかれる前に、彼のコンバットとしての力を壊さなくてはならない。ケンもそれを望んでいた。だから、私はすぐに仕事に取り掛かった。
プログラムをコンピューターに入力しようと、機器に手を触れた瞬間に、耳の奥から声が聞こえた。頭の中身に、直接聞こえた、と言った方が適しているようだった。
――リン
聞き覚えのある声だった。聞き間違いかと、私はとくに気にもせずに仕事を続けようとした。しかし、また耳の奥から声がした。それはまた私の名前を呼んだ。
「誰?」
私が尋ねると、声は何も言わなかった。もう一度問いかけたが、返事はなかった。そこで、私は目をつぶって強く念じてみた。心の奥底で、私は声に問いかけた。
――誰?
――僕だよ
そう、その声はケンだった。昨日別れたばかりなのに、一体どうしたというのだろう。
――コンバットの戦闘機能の処理を、今すぐ行ってもらいたい
彼の声は少々上ずっていた。焦りが感じられる。
――どうしてですか?
――君のいる場所に、製造会社の人間が迫っている
製造会社の人間?カオスの居場所がばれたということだろうか。私は動揺を隠せないままに聞いた。
――じゃあ、私はどうしたら…
――今すぐ壊すんだ。戦闘機能を。
そこまででケンの声は途絶えた。彼の科学技術はどこまで進歩しているのだろう。テレパシーのようなものが扱えるなんて。私はしばらくぼーっとしていたが、すぐに正気に戻り、コンピューターに手を伸ばした。そのときだった。
修理部屋の外の廊下で、銃声が響いた。鉄の塊が落ちる音がした。私は、背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。振り返ると、鍵をかけたはずの扉が開き、開いた先には、いつか見た、武装集団の一人がいた。万次さんを撃ち殺した、あの武装集団と同じ格好をしていた。
これもおそらくはロボットに違いない。その武装兵は、持っていた銃を、静かに私に向けた。考える間もなく、万次さんを撃ち殺したときと同じ銃声が、私の耳を貫いた。
私は目をぐっとつむった。このままカオスともお別れだろうと、諦めの思いが胸を痛めつけた。銃声は数発、立て続けに聞こえた。
おかしなことに、焦げ臭い香りが鼻についたのにもかかわらず、私の身体は無傷だった。万次さんはもういない。私を守ってくれるものは何一つないはずだった。ゆっくりと目を開いたその先で、武装兵のロボットがバラバラの部品になって崩れ落ちていた。あっけにとられた私の視界に、背の高い男性の後姿があった。どこかで見た後姿。黒髪の短髪。
「カオス」
私は震える声でつぶやいた。私の声に気付き、その男性は振り返った。確かにカオスだった。カオスは修理中のはずだった。どうして動くことが出来たのだろう。
「動けるの?」
もう一度尋ねると、カオスは私の頬に手を伸ばそうとして、そのまま倒れこんでしまった。倒れこんだカオスは、ぴくりとも動こうとせずに、床にうつ伏せになっていた。
その倒れたカオスの背中を見つめていると、私は視界がぐちゃぐちゃになった。ぽたぽたと、涙が目から溢れ出た。どうしてこんなに涙が出るのか、自分でもまったく分からなかった。けれど、ただ涙がぽろぽろこぼれるから、こぼれるがままにしておいた。自分でも理由が分からないから、自分ではどうしようもなかったのだ。
ケンの声はもう聞こえなかった。壊れてばらばらの鉄くずになった武装兵は、悲しげな光を帯びて、冷たい床の上でこちらを眺めていた。私は、涙はそのままに、崩れ落ちたそのロボットの欠片を、スクラップ場へ運んだ。命の抜けたロボットたちとともに、その武装兵も、スクラップの山の一部となった。
修理部屋へ戻り、カオスを修理台の上へ戻すことにした。しかし、カオスの身体はひどく重いので、私ひとりの力では、運び上げることができなかった。適当に、部屋の前を通りかかった作業ロボットを呼び、カオスを運ぶのを手伝ってもらった。電子音を響かせながら、作業用ロボットは快く引き受けてくれた。そして、仕事を終えると、すぐにどこかへ去って行った。カオスは、相変わらずの美しい顔をして、天井の一点だけをじっと見つめていた。私は、カオスの顔をじっと見て、小さな声でありがとうを言った。彼に命を助けられたのは、これで二度目だった。
ケンからもらった小さなチップを、コンピューターに挿入すると、何本もあるコードをカオスの身体に取り付けた。あとは、スイッチを一つ押すだけで、自動的に彼のコンバットとしての機能は破壊される。これでカオスが、普通のロボットとしてやっていける。戦闘用としてのロボットよりも、きっとずっと幸せになれるはずだ。私は、カオスに問いかけた。
「戦闘用でなくなっても、後悔しない?」
カオスはじっと天井を見つめていた。電池が切れている。当たり前だ。しかし、私の目には、かすかに彼がうなずくように見えた。気のせいかもしれない。けれど、確かに彼は柔らかく微笑んだ。
私はスイッチを押した。
気がついたら朝になっていた。壁にもたれかかって、私は熟睡していた。寝ぼけた頭のまま、私はコンピューターの画面を覗いた。すると、そこには、『complete』の文字が浮かび上がっていた。コンバットとしての、戦闘用としての機能が、ついに破壊されたのだろうか。カオスは相変わらずだ。私は急に不安になった。失敗していないだろうか。本当に、私はケンの言ったとおりにできたのだろうか。
緊張の眼差しで、カオスの瞳を見つめていたとき、ケンに渡されたあの金属のプレートが頭をよぎった。ジーパンのポケットに入れたままだったはずだ。私はジーパンの後ろのポケットを探り、あのプレートを取り出した。ケンの名前と、画面に小さな番号が浮かび上がっている。あの地下室で見たときと、番号が変化している気がした。明らかに電話のそれでも、無線機のそれでもない。一体何なのだろうか。私は、昨日、ケンがテレパシーのようなものを使って私に話しかけてきたことを思い出した。このプレートと、あのテレパシーのようなものは、何か関係があるのだろうか。試しに、近くに置いてあった電話に、この番号をダイヤルしてみた。聞こえるのは、低いブザーのような音だけだった。電話じゃない。それでは、どれなのだろう。無線機はこの部屋には置いていないが、おそらくお兄さんに聞けば在り処くらい教えてくれるかもしれない。しかし、ケンのような優れた科学者が、無線機などを使うだろうか。もっと、高度な技術を駆使したものかもしれない。私は、プレートを胸に当ててじっと考え込んだ。
――ケン、どうしたら話ができるの?
もし、万次さんだったら、どうするだろう。私がそう考え始めたときだった。耳の奥で、またケンの声がした。
――リン?リンなのか?
確かに聞こえた。私は、プレートを胸に当てたまま、昨日と同じように強く念じた。
――ケン、私の声、聞こえるんですか?
――もちろんだとも。
――カオスのことで。
私は、昨日、ケンとの会話が途切れたあとのことを説明した。武装兵のこと。戦闘機能を壊したこと。ケンは声を高らかにして、安心したように答えた。
――おそらくうまくいっているはずだ。
――今、彼は充電中です。 外傷もほぼ治しましたし、あとはあの機能がうまく破壊できているかどうか。
――僕が今からそちらへ行こう。
ケンは軽い口調で言った。ケンが来る?どうやって?
――すぐに着けるから、少しだけ待っていてくれ。
それだけ早口に言って、また通信は途絶えた。いくら念じても、もう彼の声はしなかった。あれだけ離れた田舎の町から、こんな都会の真ん中のスクラップ場まで、彼はどうやって来るつもりなのだろう。それも、誰にも気付かれずに。彼はおそらく追われる身のはずだから、人に見られてはいけない。ああまでして、誰にも分からないような地下室を作るくらいなのだから。
「ねぇ、カオス? あなたを作ったご主人が、もうすぐこっちに来るんだって」
カオスは無表情のままだった。
10分ほど固まったままで、私はカオスを見つめていた。ケンはどれくらいで来るつもりなのだろう。彼の技術をもってすれば、瞬間移動のようなことも可能なのだろうか。私は少し疲れていたので、大きなあくびをした。目をこすりながら、私は後ろにあるコンピューターの方を見た。すると、驚いたことに、そこにケンがいた。
「ケン?」
思わずつぶやいた。イスに座り、彼はじっと画面に手を触れている。
「ケン、いつの間に?」
ケンは、ゆっくりとささやくように話した。
「うまくいっている。 さすが、柏木万次の教え子だ」
嬉しそうに笑った。私は、思わずケンの隣から、コンピューターの画面を覗き込んだ。
「大丈夫。 充電さえ済めば、カオスはまた動けるようになる。 おそらく数日かかるだろうけどね」
「本当ですか?」
私は思わずケンに抱きついた。ケンはよろめきながら、私の身体を受け止めた。私は抱きついたまま、ケンに聞いた。
「どうやってここまで?」
「君の持っているプレートがあるだろう」
私は、ケンから身体を一旦放すと、ポケットに入っていたプレートを取り出し、彼の手に置いた。ケンはその文字の上を指でなぞりながら言った。
「この番号は、地球表面の座標を表しているんだ」
ケンは難しいことを言った。私はよく分からなかったが、とにかくうなずいてみた。
「この番号で、君のいる位置が割り出せる。 そこへ、瞬間とまではいかないけれど、移動をした、というわけだ。 科学というよりも魔法みたいだね」
そう言って、無邪気に笑って見せた。ケンは、ゆっくりとコンピューターの画面に手を這わせている。指先には、指輪のようなものがはめられていた。
「この指輪、何ですか?」
「私は目が見えないからね。 これのおかげで点字と同じように文字が読める」
「…その指輪が、平らな文字でも点字と同じように? …してくれるってことですか?」
「そうだ。 目が見えないから、これがあるとすごく便利だ。 普通の平面の本でも読むことができる」
私は思わず溜め息をついた。彼に不可能という文字はないように思われた。目が見えないことを、ハンディキャップとしてとられていない。そんなハンディキャップは、彼の前では何でもないようだった。
ケンが画面の上を一通り読み終わったと思われたころ、私は尋ねた。
「これから、私とカオスは普通の生活ができるんですね」
ケンの顔が一瞬曇った。
「どうかしたんですか」
「残念だけどね」
ケンは静かに告げた。
「彼の記憶…つまり、メモリーシステムが、戦闘用機能を壊したときに、いっしょに壊れてしまっている」
私は耳を疑った。カオスの顔を見た。瞳の色が、少しセピアがかったように見えた。
「失敗…ということですか」
「いや、失敗ではない。 これ以上ないくらいの成功だ」
「じゃあ、どうして…」
「あのプログラムは、あまりに強すぎるんだ。 何せ、もともとの主要な機能であった戦闘機能を壊すくらいだからね。 他の機能に支障が出てもおかしくない。 人間で言う副作用のようなものだ」
私は愕然とした。何も言えなかった。
「メモリーシステムが壊れたと言っても、今までの記憶が飛んだだけだ」
ケンは私を慰めるように言ったが、私はそんなものは慰めに思えなかった。今までのカオスとの会話も、楽しかったことも、すべて消えてしまっている。つまり、今のカオスにとって、私はまったく知らない赤の他人なのだ。
「それに、コンバットの製造会社には私が手を回してある。 もう襲ってくることもない。 平穏に過ごせるはずだ。 明日、もしくは明後日の朝刊にはそのことが一面記事で載るだろう」
私はそんな言葉には耳もくれなかった。カオスとの日々が消える。そのことだけが、私の思考回路を巡っていた。ケンは、悲しそうに、小さく、すまない、と言った。私は首を振りながら、大丈夫、と言い、このプログラムを与えてくれたこと、それから、今までの助言、お世話になったことに対してお礼を言った。
「この子に会うのは本当に何年ぶりだろう。 もし私の目が見えていたなら、あの美しい瞳を見ることができただろうに」
ケンは残念そうに言って、ゆっくりとイスから立ち上がると、手探りでカオスのいる修理台のところまで行った。そして、そっと、生まれたての卵を扱うように、優しく手を這わせた。ちょうど、万次さんが初めのときにしていたように。しばらくの間、再会をじっくり味わうように、彼はカオスと無言の会話をしているように見えた。私が治した傷跡に触れながら、何度も小さくうなずいた。
ケンは一通りカオスに触れ、彼の開いたままのまぶたをそっと閉じた。そう言えば、私はあの瞳の色を忘れたくなくて、彼の瞳を開けたままにしていた。私は、カオスは眼球が乾いて仕方なかっただろうなと、少し笑った。
しかし、閉じる瞬間のカオスの瞳は、完全なオリーブグリーンではなかった。どちらかと言えば、セピア色――。
私はそれについては何も言わなかった。戦闘機能を壊してから、少しだけ、カオスの瞳の色が変化した気がしていたが、それは気のせいだと、自分自身に言い聞かせていた。ケンは、最後に私の頭を撫でると、ゆっくりと姿を霞め、消えていった。もとのあの地下室に戻ったのだろう。何となくだったけれど、彼とは二度と会えないような、そんな気がした。ケンは人間だろうかという考えが、ふっと頭をよぎった。私のような凡人では計り知れない頭脳。まるで、神様のような――。
私はカオスの顔を見つめた。彼の記憶に、もう私の名前は残っていない。おそらく、彼の名前である、『カオス』という言葉すら、忘れてしまっているだろう。充電は、あと一日もあれば済んでしまう。どうせ私のことが記憶にないのなら、このまま彼が眠ったままでもいいと思った。
部屋の壁を隔てた向こう側で、鉄の触れ合う音が聞こえる。スクラップ場では、何千体ものロボットが運ばれ、どこかの工場で溶かされ、別の鉄の部品になっていることだろう。カオスも、もしかしたらそのうちの一つに加わっていたかもしれなかった。
目がじーんとしてきて、熱い涙が頬を走った。無償に悲しくて、大声を上げて泣いた。こんな泣き方をしたのは、ロボットの猫を拾ったあの日以来だった。
(十一) 瞳
翌朝、私は工場長にお礼を言いに行った。今まで、カオスの修理に部屋を使わせてくれたことや、かくまってくれたこと。カオスにはもう戦闘機能はないということも。ケンの話を出すと、ケンの身に危険が迫るかもしれない。だから、爆発のショックで壊れたのだと言っておいた。
工場長は、無精ひげを生やした、いかにも怖そうなおじさんだった。けれど、私がお礼を言って頭を下げるなり、彼は優しい声で、どういたしまして、と言ってくれた。そして、まだこの事務所にいてもかまわないとまで言ってくれた。しかし、私はもうここを出るつもりだった。行き先もないけれど、私と、もう一体、ロボットが入るくらいのスペースを持ったアパートくらい、探すつもりだった。学校は、工場が壊されてから、きっぱりと辞めてしまった。もともと成績も危うかったから、何かきっかけさえあれば辞めてしまう度胸くらいできていた。
コンバットの製造会社は、ケンの言ったとおりつぶれていた。ケンがカオスを見に来たその日。何世紀も形を変えずに残っている新聞の夕刊に、大きく見出しが出ていた。ケンは、『明日か明後日』と言っていたが、その日のうちに載るとは思わなかった。もちろん、その中心となった誰かは、警察のもとにいる。責任者を失った会社は、もうやっていけないことになったのだ。
私はカオスの眠る修理部屋へ行った。カオスの充電は、もうあと数分で完了する。次に目覚めるころには、彼の頭の中には、『カオス』という名前も、『リン』という名前もない。また一から出直しということになるのだろう。
部屋中に高らかにブザーの音が響いた。充電が完了した合図だ。私は息を呑んで、横たわるロボットの顔を見つめた。
ロボットはぴくりと動いた。かすかにまぶたが開く。
しばらく薄く目を開き、天井を見つめていた。そして、今度は大きく目を開いた。一つ、深く呼吸をする。
ゆっくりと上半身を起こした。目の前の壁を見つめる。そして、隣でじっと自分を見つめる人間に気付く。その人間の目をじっと見つめ返す。顔はずっと固まったままだ。
私は、その一連の動きを、微動だにせず眺めていた。生まれたてのロボットで、感情の機能を備えているロボットは、みなこのような行動をする。過去に万次さんと直したロボットにも、このような行動をとるものはたくさんいた。だから、とくに何も不思議に思わなかった。しかし、ただ一つ、どうしても理解できないことがあった。
彼の目は、やはりセピア色をしていた。
オリーブグリーンの鮮やかな瞳ではなかった。彼は今、セピアの街の住人なのだ。あの日見た夢と同じだった。身体は確かに人間の街にいる。それなのに、彼の心はセピアの街、つまり、ロボットの街にいるのだ。私は言葉を発することができずにいた。カオスが目覚めたら、話してやりたいことが山ほどあった。たとえ彼の記憶がなくなっていたとしても、はじめましてのあいさつくらいはするつもりでいた。しかし、そのために用意していたせりふは、すべて吹き飛んでしまっていた。
「だれ」
ロボットは私に問いかける。首をかしげ、私の目を見つめる。セピア色の目は、疑問に満ちた様子で私と向き合っている。
「だれ」
私は名前を言うことができなかった。パリンと、胸の中で何かが砕けた気がした。気付けば涙を流していた。前までのロボットだったら、――カオスとしての記憶の残るロボットだったら――私はきっと迷わず彼の胸に飛び込んで泣いただろうに。けれど、今はもうそれができずにいた。彼は、私にとってまったくの知らないロボットだ。そして、彼にとっても、私はただの見知らぬ人間なのだ。そのことを考え出したら、もう感情を抑えられなかった。私は修理部屋を飛び出した。長い廊下を駆け抜け、スクラップ場へ行った。命の抜けたロボットの身体が、あちこちに横たわっていた。
足元を見ると、そこに小さな犬のロボットが落ちていた。前足が一本なくなっている。瞳が両方とも抜け落ちている。あまりに無残な姿だった。それを拾い上げると、私はそっと抱きしめた。
――リンは強い子だ
万次さんの声が聞こえた気がした。でも、私はもう、自分が強い子だという自信が持てずにいた。カオスが私のことを忘れてしまったことだけで、もうこんなに悲しくて、泣くのを我慢できずにいる。こんな私は、きっと世界で一番弱い存在なんじゃないかと思った。
私は数時間、そこでロボットの抜け殻を眺めていた。途中、何台か作業用のロボットが通り過ぎた。彼らは無言で、自分の仕事だけをこなしにいってしまった。感情はない。ただ、人間の命令に従い、あくまで自分の与えられた仕事だけをこなすために存在している。
カオスは、人間の命令に従い、人を殺すためだけに作られた。しかし、ケンによって自在に考える力を与えられ、人を大切にすることも知った。今、カオスの頭の中身は、またその名の通り、混沌としていて何の秩序もない。何の決まりもないから、彼に何を言おうときっとすべて無駄にきまっている。私はじっと考えた。これから、彼とどう過ごしていけばいいのか。
私はゆっくりと目を閉じた。
混沌とした時の流れの塊に、私は独り、ぽかんと浮かんでいた。その流れは、速くなったかと思うと、急にものすごく遅くなったりして、まったく何の秩序もない。足元に地面はなかった。空もなかった。辺りは真っ暗だった。私は、思い切り走り回りたい衝動にかられた。手足をじたばたさせた。しかし、地面がない。私は、この足が踏みつける何かを求めて、必死にもがいた。だんだんと息ができなくなってくる。一度吸い込んだはずの空気が、うまく肺の奥まで行き渡っていない。私は気を失った。
気がついたとき、私はどこかに横たわっていた。そこにはきちんとした地面があった。見慣れた景色。瞬時に私は思い出した。地面も、空も、自分自身も、すべてがセピア色に染まった世界だった。ロボットたちの、セピアの街だった。ゆっくりと起き上がり、私はあたりを見回した。空の果てまで伸びる地平線の奥から、誰かがこちらへ歩いてくる。私は、その姿を確かめる間もなく、すぐにそれが誰か分かった。
「カオス」
夢中でその『誰か』に走っていった。その『誰か』は、近寄ってくる私の姿に一瞬おびえたようだった。それは確かにカオスだった。セピア色の瞳をした、ロボットの街の住人であるカオスだった。
「カオスでしょう?」
息をはずませて私は尋ねた。セピア色の瞳のカオスはうなずくことさえしなかった。私は、ゆっくりと彼の手を取ると、自分の胸にその手のひらを押し当てた。
「私のここには、あなたとの思い出が全部詰まってるの。 あなたは知らないかもしれないけど」
カオスはセピアの瞳で私を見下ろしている。私は繰り返し、繰り返し、彼に言った。
「私の名前は、リン。 あなたの名前、教えてくれる?」
何度繰り返したか分からない。けれど、私は、あきらめなかった。
「教えて。 あなたの名前を」
カオスはぴくりとも動かなかった。私は、彼の手を離し、彼に抱きついた。そのがっしりした身体に、腕を回した。やはりそれでも彼は動かない。森の奥の、孤独な一つの岩のように、頑として動かなかった。それでも構わず、私は言葉を続けた。
「私ね、あなたのこと、大好きよ」
カオスの着ていたシャツからは、懐かしいオイルと鉄の香りがした。私は、また何度も何度も、それこそ彼の耳にタコができるくらい、言葉を繰り返した。
「大好きよ。 あなたのこと」
どれくらいそんなことを続けただろうか。私は、何も考えずに、ただ同じ言葉をゆっくりと言い続けた。
ふと、私は、万次さんの言葉を思い出した。
――おまえのリンという名前。 誰が付けたか知っているか?
そう言えば、私のこの名前は、唯一親が残したものだった。私は、小さな声で、『リン』という言葉を唱えてみた。すると、頭の上で、誰かが『リン』と発音した。
思わず見上げると、そこにはカオスの顔があった。カオスは、抱きついたままの私を見下ろし、低くよく通る声で、『リン』とつぶやいた。私はその瞳を見た。奥の方に、微かにオリーブグリーンの輝きが見えた。
「カオス?」
私が問いかけると、彼はもう一度、リン、と言った。私は、彼に尋ねた。
「私の名前は、リン。 あなたの名前、教えてくれる?」
ゆっくりと、確実に、彼は答えた。
「カオス」
もう一度、彼は言った。
「名前は、カオス」
私は、また、ぎゅっと、彼の身体に抱きついた。彼は、ぎこちない手つきで、私を抱きしめた。
「カオス、私ね、あなたのことが大好きなのよ。 世界で一番。 大好きなのよ」
もう、彼がロボットであろうとどうでもよかった。ただ、私はカオスを愛していた。一人の人間として。
「リン」
カオスがゆっくりと言う。
「リンのこと、好きだよ」
その言葉を聞き、私が顔を上げたとき、今度は彼の瞳は、深い鮮やかなオリーブグリーンをしていた。そして、セピアの世界は崩れ落ち、後には鮮やかな世界が残っていた。カオスの黒い短髪も、空の鮮やかな紺青も、大地の濃くどっしりとした肥沃な色も。
カオスが静かに言った。
「しばらく会えないけど、きっとまた元に戻る。 俺は、リンの心の中にちゃんといる。 リンは強い子だから大丈夫。 だから、もう悲しい涙を流しちゃいけない。 俺は、リンのこと、信じてるから」
私はもう一度彼の胸に顔をうずめ、さっきよりも強く抱きしめた。カオスは、強く、けれど優しく私を抱きしめた。
もうすべてが上手く行く。私は、そう思った。足元で、地球が音を立てて回転しているのを感じた。地軸の傾きさえ、感じられた。私は、そのとき、嬉しくて泣いた。
目が覚めた。
足元には、さっき私が拾い上げた壊れたロボットが転がっていた。
スクラップの山にうずもれたロボットが、私を見つめている。私はそのロボットたちのセピア色の瞳を見て、にこりとした。
戻ろう。
ゆっくりと立ち上がって、私は工場へ足を運ばせた。
すべてがまた始まる。
新しい日が始まるのだ。
紺青の空が、私を見下ろしている。大きく空の青を吸い込んだ。鼻歌を歌った。万次さんがよく歌っていたものだった。耳の奥から、低い、よく通る声が私を呼んだ気がした。一度立ち止まり、大きく背伸びをして、また歩いた。工場は少しずつ近づいてくる。修理部屋へ戻ったら、また一から始めよう。
もう私は大丈夫。すべて上手く行く。何の根拠もなしに、そう思えた。
地球の回転が、空を通して伝わってくる。太陽の傾きが、地軸の傾きを教えてくれた気がする。
私は歩き続けた。大地をしっかり踏みしめて。
(十二) エピローグ
「ねえ、私のジーパンは?」
私は大声で叫ぶ。お気に入りのジーパンが見つからない。クローゼットにもないし、イスの上にもかかっていない。
「私のジーパン」
もう一度言うと、アパートの狭いキッチンの奥から、低い声がした。
「洗濯してるよ」
「えー! ジーパン洗っちゃダメだよお」
「汚いから洗わないと」
「ジーパンってのはそんなに洗っちゃダメなの」
キッチンから、黒い短髪が顔を出す。私は寝癖のついた髪の毛をとかしながら言う。
「履き古した感じがいいんだから」
鏡ごしに、セピア色の瞳が私の黒い瞳を見つめた。私は、自分の瞳と、セピア色の瞳の色をじっと見比べた。
カオスと私は、小さな安いアパートに住み着いた。もう半年ほどになる。私は近くの修理工場で雇ってもらい、カオスはアパートの狭い部屋で、専業主婦をやっている。まるで、夫婦のようにも見えた。リアルなカオスの顔を見て、私たちを本物の恋人同士だと考える人も少なくない。しかし、私は本当にカオスを愛していたし、カオスも私を好きでいてくれた。それでも、やはり私たちは人間とロボットだ。だから、その壁だけは越えられなかった。それでもかまわないと思った。
私はもう一人じゃないし、カオスはもうコンバットではない。その事実だけで十分だった。
カオスがキッチンの奥でジュージューと何かを焼きだした。私はようやく乾いたジーパンに足を通す。ぐっと背伸びをし、中古屋で見つけたおんぼろのラジオから流れる音を聞いていると、カオスがテーブルの上に皿を載せた。皿の中にはホットケーキ。
「練習したんだよ。 リンが出かけてる間に」
「すごーい! カオスのホットケーキ、初めて食べるわ」
私の声に反応して、カオスは嬉しそうに子供のような笑顔を浮かべた。この笑顔は、あのときとまったく変わっていない。それを見るたび、私は心が安らぐ気がした。
「初めてじゃないよ」
カオスはフライパンを洗いながら言う。私はその言葉を聞き逃していた。ナイフとフォークを持つと、またカオスは言った。
「前にも食べたことあるじゃない」
私はようやく彼の言葉に気付いた。『前にも』…?顔を上げると、カオスが生クリームの入ったチューブを手にしてテーブルの前にいる。
「リンは生クリームがいいんだよね」
そう言って、私のホットケーキの上に、たっぷりの生クリームをのせてくれた。ちょうど、私がずっと前にやったように――。
じっと生クリームたっぷりの皿を眺めていると、カオスが心配そうに言った。
「多すぎた?」
「ううん。 そんなことない」
カオスの瞳を見つめると、一瞬、その色はオリーブグリーンのように見えた。しかし、一度瞬きをしてまた見ると、やはりセピア色だった。
「しばらく会えないけど、きっとまた元に戻る。 俺は、リンの心の中にちゃんといる」
カオスが小さくつぶやいた。今度は聞き逃さなかった。カオスの瞳は、確かにセピア色をしている。私は目をこすった。あの夢の中で聞いた言葉と同じだった。当の本人は、何事もなかったかのように、また専業主婦を始めた。
カシーン…カシーン…
どこか遠くで、鉄の触れ合う音がする。生まれたときからその音を聞き続けている気がする。人間の街は、今日も色で溢れている。今頃、セピアの街はどうなっているのだろう。
「私、あなたが大好きよ」
カオスの背中に言うと、彼はこちらを振り向いて、前と同じ、屈託のない笑顔を浮かべた。
今日は快晴。ベランダからのぞく紺青の空に、手が届きそうな気がした。
-
2007/05/05(Sat)00:16:39 公開 /
rice
■この作品の著作権は
riceさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
こんにちは。未来モノは初めて書きます。私が一番書きたかったのが、ロボットと少女の恋愛の形だったので、未来の描写はかなり未熟と思われます。みなさまからのアドバイスをお待ちしています。
※話が長いので、少しずつUPしていきます。
4月7日 四、五話をプラスしました。
4月10日 六、七話をプラスしました。
4月14日 八話をプラスしました。
4月18日 九話をプラスしました。
4月23日 十話をプラスしました。
4月30日 最終話まで。完結しました。