- 『アイビーゼラニウムの花』 作者:コーヒーCUP / ミステリ リアル・現代
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全角69192文字
容量138384 bytes
原稿用紙約201.15枚
人気モデルであった幼馴染・香耶美が殺害された。白菊は同級生・矢原と被害者の妹・穂乃香と事件を調べることになる。芸能界関係者などの話を聞いているうちに、白菊は三年前の事件を思い出す。現在の事件を追いながら、三年前、香耶美とともに解決した事件を思い出していく――。その先にある、冷たい真実。
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「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者のことだ。」
by フローレンス・ナイチンゲール
第一章【メリッサの花―二〇〇七年―】
桜の花が散り始めた。つい二週間前まで満開になって、新一年生を迎えていたのに。風が吹くたびに薄いピンク色の花びらが舞う。それはそれで幻想的で綺麗だ。
そんな風景を二階から三階にあがるための階段の窓から見ていた。窓の外には桜並木が立ち並んでいる。春がきた、とこの間騒いだところだ。どうせ桜が全部散ったころには、夏がきた、と騒ぎ出すに違いない。
もう、四月も終わり。それが実感できる。しかし、まだ高校二年生になったという実感はわかない。自分の周りに、そんなに変化がないからだろう。
時間は夕方の四時。つい三十分ほど前に、一日の授業を終えた。今は下駄箱に向かい歩いている。ちなみに、ついさっきまで、俺はくだらない質問に答えて苛ついていた。
そのことを思い出すと、腹が立つ。
「なあ、白菊(しらぎく)って、白根葵(しらねあおい)と幼馴染ってマジ?」
学生ならばだれもがダルイと感じる授業を終えて、担任のどうでもいい連絡を聞き、一日の学校生活が終えた直後だった。掃除のために、机を教室の後ろへ下げていたとき、クラスでは目立っている茶髪の不良生徒にそう訊かれた。彼に話し掛けられるのは初めてだったが、彼は遠慮なく、呼び捨てで呼んだ。
白菊とは俺の苗字だった。フルネームは白菊来夏(らいか)といい、よく、変わった名前だね、と言われる。しかし、下の名前で呼ばれることはほとんど無い。一部の馴れ馴れしい女子が時々「来夏君」などと呼んできたりするだけだ。家族からは当然、下の名前で呼ばれるが、友人関係で俺のことを下の名前で呼ぶ奴は居ない。唯一、俺のことを「来夏」と呼び捨てにしていた白根も、もう居ない。
「ああ、幼馴染って言うか、家が近所だっただけだ」
適当な返事をしておいた。一年生のときから何度となく、この質問され続けていた。最近では質問される数が減っていたので、内心ではほっとしていたが、まだ訊いてくるやつがいた。
「マジかよ、すげえじゃん」
不良は俺の返事を聞いて、両手で拳をつくって、笑顔のまま「すげぇ」を連呼していた。まったく……一体、何だと言うのか。俺と白根葵の関係を知ると、大抵の者は笑顔で喜んで、今の不良のように「すごい」や「すげぇ」を連呼する。当事者の俺から言わせれば、鬱陶しいだけなのだ。幼馴染、ただそれだけだ。
「あのさ、白根葵って昔から美人だったわけ?」
「……よく覚えてないが、普通の女子よりは綺麗だったと思うぞ」
「だよな。そうじゃなきゃ、あんな美人には急になれないぜ」
白根葵とは、俺の幼馴染だ。しかし、彼女は『白根葵』という名前では無い。本名は本田香耶美(ほんだかやみ)という。白根葵は芸名だ。
彼女は十六歳でモデルの世界に入った。元々、信じられないくらい美人だった……らしい。正直、俺には分からない。小さいときから彼女を見ていた俺には、彼女が美人かそうじゃないかなんてのはわからない。ただ、俺の両親も近所の人間も、小学校の先生も、彼女をみたら驚いていたのは覚えている。大人が驚くほど、彼女は美人だったらしい。
そんな彼女はモデルの世界に入って、少し雑誌に載った。本当に小さな写真がそんなに有名じゃない雑誌に載せられた。そこからが、彼女の快進撃の始まりだった。
その小さな写真が口コミ、ネット、ケータイなどで世間に広まっていった。
一ヵ月後、彼女は有名な雑誌に特集を組まれた。そしてその雑誌には多くの彼女の写真が載った。中には水着姿のもあったらしい。
そして、彼女の人気は爆発した。知名度はグングン上がっていき、二ヶ月もすれば、もはやスターだった。なかでも若者の世代に人気が出た。十代で白根葵を知らない奴はいないだろう。
「でも残念だな。あんな美人が殺されちまうなんて」
不良がそう言った瞬間、俺は険しい顔をした。その顔を見た不良が、慌てて俺に謝り、逃げ去るように離れていった。鬱陶しいの消えて、気分がよくなった。
机を下げて、掃除に向かった。掃除をしながら、俺はずっと、白根葵のことを思い出していた。彼女の子供のころから、彼女の死顔まで。
彼女は、3ヶ月前に、何者かにより殺害された。
彼女は刺殺されていた。殺されていたのは俺の家の近所、つまり彼女の実家の近所でもある土手だった。
二月十四日の朝。彼女はその土手で心臓を刺されて、死んでいたのを近所の住民によって発見された。発見者はすぐに救急車を呼び、警察に通報した。残念ながら、彼女は病院で正式に死亡が確認された。
これが、つい最近までマスコミが騒いでいた『人気モデル連続殺人事件』だ。白根葵は、二人目の被害者であった。
一人目の被害者は人気アイドル歌手グループ『テンドロビューム』の一人である真山弥子(まやまやこ)という十七歳、つまりは俺や白根と同い年の子であった。彼女はグラビアなどでも活躍していたらしい。そういう事に疎い俺は、事件がおきるまで、真山の存在自体知らなかった。
白根が殺される一ヶ月前、彼女は仕事からの帰り道、鈍器で頭を強打され、殺された。このときはまだ『人気モデル殺人事件』だった。
白根が殺されていた土手は、いつも俺が日課のマラソンに使う道の近くだった。そのことで警察からも事情を訊かれた。「君、白根君が殺された日も、走ってた?」こんな感じで、鋭い視線をあびせてきた。俺は「その日は足が痛かったから走ってない」と答えた。警察もそれ以上は何も訊いてこなかった。
白根葵のの殺害現場はどこかおかしかった。彼女は服装も乱れていたし、所持していたバッグも荒らされていて、その中に入っていた化粧品なども散乱していた。警察が調べたところによると、彼女の携帯電話が消えていたそうだ。
この事からして、熱狂的ファンが殺したのではないか、という推測が世に飛び交った。
夕方の校舎はいつも通りうるさい。吹奏楽部が奏でる音楽、野球部がボールを打つ音、サッカー部が壁にボールをぶつける音、運動系の部活の掛け声。それらが全部聞こえてきて、耳障りだ。早く帰ろう。こんなところに長居は無用だ。
俺は帰宅部だし、友人といえる存在もいないので、一人で勝手に帰れる。
コンクリートで作られた階段を駆け下りていく。階段に俺の足音が響き、それさえも耳障りだった。
二階から一階に降りるための階段の途中で、俺は階段を降りていた足をとめた。前方に知っている人物がいたからである。窓から差し込む夕日が、その人物を少し不気味に見せたが、彼女が危険な人物でないことを知っていたので、特に驚くことも何もなかった。
目の前にいる人物は、本田穂乃香(ほんだほのか)ちゃんだった。白根葵、つまりは本田香耶美の実の妹。今年、一年生として入学していたのは知っていたが、学校で彼女と会うのは初めてだった。
少し、いや、かなりやせている。元々、細い子だったが、最後にあったときより更にやせている。ショートカットで、メガネをかけて、少しだけ福耳なのが特徴だ。
「こんにちは、白菊さん。お久しぶりですね」
笑顔で挨拶をしてきた彼女に、俺はほんの少し安心した。香耶美の葬式で彼女を見かけたときは、気の毒だった。よほどショックだったんだろう、泣きじゃくっていた。
香耶美と彼女は本当に仲のいい姉妹だった。小さいときは香耶美が何かすると、彼女も真似る。そんな妹の姿を、姉は微笑んでみていた。いつかの懐かしい思い出だ。
どうやら、大切な姉の死から、少しは立ち直ったみたいだ。
「久しぶりだね。だいぶ落ちつたみたいで、安心した」
「ええ、お葬式のときは取り乱して、すいません」
「仕方ないだろう、あんなことがあったんだ。俺だって、取り乱した気分だったよ。けど、俺は親族じゃないから、そこまでできなかっただけさ」
葬式のときの俺は、かなり冷静だったはずだ。周りから見ればおかしいと感じられるかもしれないが、涙一つ、流さなかった。勿論、香耶美の死は悲しかった。
「白菊さん――いや、白菊先輩の方がいいんでしょうか?」
「どっちでも構わないよ。そんなことを気にするほど、俺は神経質じゃないから」
事実、俺は彼女に呼び捨てにされようと気にはしない。だから、さっきの不良にも「呼び捨てにするな」とは言わなかったんだ。
「じゃあ、白菊先輩って呼ばせてもらいます。実は、今日、先輩に会わせたい人がいるんです」
「俺に?」
はい、と元気の良い返事が返ってきたが、俺は不思議でたまらなかった。そもそも、彼女と俺はそこまで親しくも無い。確かに、小さいときは遊んだりしたが、俺が香耶美との友人関係を解消してからは、そんなこともなくなった。だから、今、こうして話していること事態、久しぶりなのだ。
穂乃香ちゃんは、突然、目の色を変えた。さっきまで笑顔だったのに、険しい顔になっている。
「君が、白菊来夏君か」
後方から突然声をかけられた。振り返ると、俺より数段上の階段にたっている男がいた。どこかで見たことのある顔だ。穂乃香ちゃんと似たようなメガネをかけていて、髪の毛はボサボサだ。どこか怪しげで、見るからにインテリ系だ。ボサボサの頭は寝癖か天然パーマかさえ分からない。体から美気味なオーラが出ている気がする。
彼は俺を見下ろして、睨んでいるようだった。何だろ? 俺は何かうらまれるようなことをしただろうか? 学校では特に人とかかわりを待たないから、恨まれることは無いと思う。
「一体誰だ、みたいな顔をしてるね。まあ、仕方ないよ、一度も話したこと無いんだから。自己紹介をしとこうか、僕は矢原春風(やばらはるかぜ)っていう。君と同じく、二年だ。僕は何度か君の事を見かけて知ってたんだけど、どうやら君は知らないようだね」
彼の言う通り、俺は彼のことを知らない。そもそも見かけたから覚えてる、なんてのは中々の記憶力が必要だ、生憎、俺は彼と違い、そんな記憶力は持ち合わせていない。
「君の事は穂乃香から色々と聞いたよ。だから興味を持ったんだ。聞くところによると、君は白根葵と幼馴染なんだって? すごいじゃないか」
こいつもさっきの不良と同類か、と呆れた。幼馴染だから、すごいわけじゃない。それに、幼馴染なんかより、香耶美の実の妹である穂乃香ちゃんの方が数倍すごいと思う。
当の穂乃香ちゃんは少しはなれたところで壁にもたれかかって、窓の外を眺めていた。のん気なもんだ。
「いやあ、実は僕、白根葵の大ファンでさ。だから君のことが羨ましくて仕方が無いんだ。わかるかい?」
変な奴だ。第一印象はそれだった。いきなり自己紹介から入るやつなんて、珍しい。しかも人のことを「君」と呼ぶ。何か見下されている感じがして、いい気はしない。一人で喋り続けて楽しいのだろうか。少しだけだが、神経を疑う。
しかし、こんな面倒なことに巻き込まれるとは思わなかった。巻き込まれたのは仕方ない。早く帰りたいから、ささっと話を終わらせよう。
俺は矢原と目を合わせるため、少しだけ上を向いた。
「で、矢原、お前は一体何の用だ? 早く帰りたいから、手短にすませてくれると、ありがたい」
すると矢原は少し困ったような顔をして、頭をかいた。
「僕は手短に終わらせたいよ。けど、短くすむかすまないかは、君次第なんだよね」
どういう意味か、サッパリわからない。今俺にわかるのは、目の前にいる矢原という男は、とても面倒な奴で、あまりかかわりたくない、ということだけだ。
ずっと立ってるのもつらいので、壁にもたれかかった。人と話している最中に失礼だと思うが、つかれたのだから仕方が無い。
「で、用はなんだ?」
横目で矢原を見ながら訊いた。すると彼は笑顔で、首をかしげながら、とんでもない質問をしてきた。
「白根葵……つまり、君の幼馴染である本田香耶美の携帯電話を見せてくれないかい?」
それが香耶美の殺害現場から消えた携帯電話であることは、すぐに分かった。
矢原の質問は完全に予想外だった。何か予想していたはわけではないが、まさかその質問をされるとは思っても見なかった。
矢原は嫌味っぽく微笑みながら俺を見ていた。その視線は「さあ、答えてみろよ」と言ってるようで、俺を追い詰めていく。落ち着くんだ、俺。ここで焦って何になる。余裕を見せないといけない。
「一体なのことだ?」
余裕を見せるつもりが、まったくそんな事できなかった。言い返せた言葉は何とも幼稚だ。しかも少しだけ声が震えていた気がする。最悪のできだった。これは感付かれたかもしれない。
矢原はまだ笑顔でいた。いや、先ほどより微笑みが増しているようにも見える。今のあいつみたいなのが、本当の余裕だ。
「おいおい君、話が違うぞ。君が手短にって言うから僕は単刀直入に訊いたんだ。それをごまかすのは駄目だな。手短に終わらないよ」
「俺は確かに手短に終わらせてくれと言った。しかし、質問の意味がわからないと、答えれない」
何とか言い返すが、うまい言葉が出てこない、相当頭が混乱しているせいで、冷静に物事を考えられないせいだ。
「じゃあ、もう一回言おうか。言っとくけど、僕は穂乃香から君が耳に障害があるとは聞いてないからね。あって、そのせいで聞こえないなら今のうちに言ってくれ。すぐに紙に同じ質問書くから」
失礼な奴だ、と言ってやりたいが、残念ながら今の俺にそんなことを言う余裕は無いらしい。ポケットに入れている手の中に汗をかいているのが感じれた。情けない……。
そんな俺を気にしているのか、気にしていないのかは知らないが、矢原が再びまたあの質問をしてくる。
「だからあ。君の幼馴染の携帯電話を見せてくれないか、って質問したんだよ。どう? 今度こそ聞こえた? 耳に届いた?」
勿論、聞こえた。耳に届き、そんなに大きな声でもないのに、鼓膜に響いた感じまでした。
もう駄目だ。早くこの場から去りたい。いや、去らなければならない。俺はそう考えた。もう、適当なことを言って逃げるしかない。逃げるが勝ち、という言葉があるくらいだから、逃げるのは悪いことではないはずだ。
「お前の質問の意味は理解した。じゃあ答えてやる。俺はそんな携帯電話は持ってない。よって、見せることもできない。残念」
「残念、なんて言葉は聞きたくないね。クイズ番組やらギターをひく芸人とかを見てるせいで聞き飽きてるんだ」
「よくテレビを見てるんだな」
「ほめて貰えるとは光栄だね」
褒めちゃいない、話題を変えたいだけだ。そしてすぐにここから逃げたいだけだ。しかし、こいつと話していると何故かは知らないが、無性に腹が立つ。会話を成り立たせる気がないようにも見える。
矢原は相変わらずの笑顔で、俺を見ている。見通している、そう感じてしまう。
「……もう話は終わりだ。俺は帰らせてもらう」
壁から離れて、階段を下り始めた。後ろからは矢原の視線を感じて、それが痛い。
階段をまだ数段しか下りていないところで、俺の目の前に障害物が現れた。いや、人を障害物扱いするのは失礼な話だ。俺の目の前には穂乃香ちゃんが立って、行く手を阻んだ。グルかよ……、心の中でそう愚痴る。
「白菊先輩……お願いです、本当のことを言ってください」
世界中の悪人を集めて、本当のことを言ってくれ、と全員にいう。その中で自分の罪を全て嘘偽りなく話す悪人は一体全体の何%だろうか。こんなどうでも良いことを考えてしまった。
「本当の事って……」
言葉に詰る。言い訳はしたい。しかし、目の前にいる涙目の穂乃香ちゃんの視線を浴びると、喉まででてきていた言い訳が、体のどこかへ消えていく。彼女のその弱弱しい目は、どこか香耶美を感じてしまう。香耶美は弱弱しくはない。しかし穂乃香ちゃんに香耶美の面影を感じる。姉妹とは恐ろしい、心からそう思う。
俺が戸惑っていて、穂乃香ちゃんが俺をみつめていると、後ろから階段を下りる足音と矢原の声が聞こえてきた。
「二月十四日の朝に、君の現住所の近く、つまり白根葵こと本田香耶美の実家の近くの土手で彼女は遺体で見つかった。なんとその土手は、彼女の幼馴染であるA君、つまり君が毎日、日課のマラソンに使う道だった」
俺は矢原の説明に怯え、穂乃香ちゃんを見ていた。矢原とは視線を合わせたくは無かった。
「不思議なことに、彼女が殺された日に限って、そのA君は足が痛かったためマラソンをしていなかった」
「な、何が不思議なことだ。実際に走っていなかったんだぞ」
「けど、そんな証拠はどこにも無い。恐らく、世界中を旅しても君があの日、走っていなかったという証言をする人はいないだろうね」
当たり前じゃないか。
俺がマラソンをする時間は朝の五時ごろだ。何でそんな時間に走るのか、と訊かれると、人に見られなくないからだ、と答える。
朝の五時という早い時間のため、家族も俺が走ったか走っていないかは分からない。俺があの日走ってない、と証言できるのは俺だけだ。
「僕の予想が正しければ、本田香耶美の本当の第一発見者は君なんだよ。しかし君は警察に連絡はしなかった。すぐにその場から逃げたんだ、携帯電話を盗ってね」
「でたらめを言うな!」
「そうやって怒鳴るところが、余計に怪しいよ」
うるさい、と怒鳴りたい。しかし、怒鳴るとまた怪しまれる。怒鳴ったところでそういう連鎖を招くだけだ。
「お前がそう推理するのは勝手だ。しかし、証拠が無い。それどころか、お前の話が事実だとしたら、香耶美を殺したのは俺と言ってるようなものだぞ」
軽く目を瞑りながらそう言い訳をする。目の前にいる穂乃香ちゃんのグスッという鼻をすする音がした。彼女は泣きかけているらしい。もしかしたら、もう泣いているのかもしれない。どちらにしても、罪悪感を感じてしまう。
「君が人を殺せるはずないじゃないか。さっきも言ったけど、僕は穂乃香から君の事を色々と聞いたんだ。三年前のことも、君のご両親のことも」
瞑っていた目をいっきに開かせ、後ろにいた矢原を睨んだ。矢原はそれでも笑みを浮かべていて、俺と違ってまだまだ余裕があった。
その余裕の表情に鋭い視線をぶつけても、何も変わらない。
矢原を睨みつけたまま、穂乃香ちゃんに文句をつけた。
「あんまり人のことをべラべラ喋らないでくれ」
「す……すいません」
どうやら本当に悪いと思っているらしく、彼女の声には重みがあった。逆にそれが俺の罪悪感を増やしていく。
「おいおい、穂乃香を攻めるのは間違ってる。俺が穂乃香に無理やり喋らせたんだから」
「どのみち、喋ったなら同じだ」
「喋ったなら同じ、か。本当のことをしゃべってくれないA君よりはマシだと思うけど」
ああ、鬱陶しい。こいつのこの嫌味っぽい口調が鬱陶しくて仕方が無い。
「僕は君は人を殺せない、と考えてる。だから、白根葵を殺したのは君じゃない。けど、君は間違いなく、あの日、走ってたんだよ。けど、君はそれを警察に隠した。何故か、と考えると答えは出る。走っていたとばれたらまずいことになる、と君は思った。何がまずいのか、が問題だね。そして僕が出した答えが、君が携帯電話を盗った、というものだったんだよ」
こいつは二月十四日、俺を観察でもしていたのだろうか。
「しかし、お前の推理はどこかおかしいぞ。俺が走ったという証拠はない。それに、俺が本当に走っていて、香耶美を見つけたら流石に通報する」
「普通はそうするね。けど、残念ながら君は通報できないんだよ」
「何が言いたいんだ?」
「簡単なことだね。君は、僕や穂乃香なんかより、命の重さを知ってる。ただそれだけの事さ」
なっ、と声が漏れた。なんとも馬鹿馬鹿しい矢原の言葉に、呆気にとられた。
「君が、幼馴染である彼女の死体を見つけてしまったら、きっと冷静ではいられないだろうね。僕が君なら怖くて逃げ出す」
ああ、もう無理だな。完全に諦めがついた。まさかここまで推理されてるとは思わなかった。矢原は俺の過去や、殺人事件の詳細から、パズルをつくるかのように丁寧に推理していたったのだろう。只者じゃない。
十二年前から、俺は命というもコンプレックスを抱いている。十二年前のある日、俺は目の前で、父親が母親を殺す場面を目撃した。
その時は俺はまだ四歳だった。しかし、その光景は頭に焼き付いていて、今も覚えている。そしてこれから俺が生き続けていく限り、永遠に忘れることは無いだろう。例え、記憶喪失になっても、あの光景だけは忘れれなと思う。
その日、父親と母親は口論をしていた。なんでも父が浮気をしていて、それが母にばれたらしい。それで母が父を責めたのだ。逆上した父はまだ幼かった俺の目の前で、母を包丁で刺し殺した。胸を刺された母はその場に倒れた。
母を中心に広がる血の海。父があげる後悔から奇声。ただ怖くて、大声で泣いていた自分。まだわずかに息があった母が最後に言った言葉――許さない。ただ一言そう言った。
地獄絵図、とはよく言ったものだ。
その後、父は当然逮捕された。今も手紙だけでやりとりはしていた。母を殺した犯人に違いは無いが、それでも父親だった。母を殺したことを心底後悔していたし、反省もしていた。懲役十五年が父が父の刑期だ。
俺は親戚の家に預かれた。今が俺がすんでいる家は、その親戚の家だ。
恐らく、そういう出来事のせいで命というものに敏感になっている。小学生のときに、虫を殺していた同級生を鼻血がでるまで殴ったりした。そういうのは意識的にやったことではなく、無意識のうちにやっていた。
周りの人間は俺のそういう行動を「異常」と呼んだ。しかし、香耶美だけは「優しさ」と呼んだ。
そして、三年前、俺と香耶美が中学二年になったばかりの頃、学校で殺人事件が起きた。最悪なことに、その事件で犠牲になった先輩は、屋上から飛び降りて死んだ。そして、俺の目の前に落ちてきた。ドンッという鈍い頭を強打する音、頭から出る血、香耶美の叫び声。それらは覚えている。しかし、残念ながら俺は死体を見た途端、気が遠くなり、倒れた。
その二つのことから、俺は死と言うものが怖くて仕方なくなった。だから、あの日も逃げたんだ。
二月十四日の朝。矢原が言うとおり、俺は土手を走っていて、そこで本田香耶美を発見した。
香耶美は土手で横割っていて、目を細く開いていた。それが死人の目であることは、過去の経験上、すぐに分かった。彼女の左胸付近には、ナイフが刺さっていて、そこから彼女の血が彼女の体をつたり地面に落ちていた。
発見したのは、本当に偶然だった。いつも走る土手を、いつも通り走っていただけだった。それなのに、そこで香耶美は殺されていた。
衣服が乱れていたのを覚えている。襲われた、とすぐに理解できた。
その彼女の横に、携帯電話があった。最近の流行では、携帯電話にシールなどを貼り付けたりするらしいが、そんなものは貼り付けられていなかった。ただのカメラつきのシルバーの携帯電話。
あの時、土手を走っていた俺は、香耶美の死体を見つけた直後から、混乱していた。冷静に物事を判断するなど、まったくできなかった。ただ、3年前まで仲が良かった幼馴染が死んだ。その現実を必死に受け止めていた。
すぐに警察に通報すべきだったのだろう。しかし、考えてみれば、それはすごく勇気のいることだった。幼馴染がころされている、と通報してみろ、疑いの矛先は、真っ先に自分にいく。
偶然にも、毎日走る土手で、偶然、仲の良かった幼馴染を発見した……偶然が多い。疑われてしまう。
そう考えると、情けないことに急に怖くなった。疑われるのはかまわない。ただ、その疑われる事件が、香耶美の殺された事件になる。そんなのは耐え切れないと思った。
気がつけば、その場から立ち去っていた。落ちていた携帯電話を拾って――。
「白菊先輩?」
はっ、と我に返った。目の前にいる穂乃香ちゃんが心配そうな顔で、俺を見ていた。その目は、やはり涙目だった。小動物を連想してしまう。
「大丈夫かい、顔色が悪いよ」
矢原がニタニタとした笑顔でまったく心配などしてないくせに訊いて来た。その表情から、奴がすでに勝利を確信してることが分かった。……そして俺が矢原の言うとおり、顔色が悪いのなら、それは俺の敗北を意味している。
冷や汗をかいているのが感じれた。
「白菊先輩……本当に、持ってるんですか、姉の携帯電話」
「持ってるよねえ。君しかいないよ。うん、きっとそうだ、間違いない」
信じられない、というような感じでいる穂乃香ちゃんとは対照的に、矢原は相変わらずの余裕ぶりだった。
「君がいくら隠しても無駄だよ。君がここで、持ってない、と主張してもいい。けど、僕は君が彼女の携帯電話を持ってる可能性があるって警察に言うよ。疑われるのは君だ。疑われたいなら、否定するといい。選択権は君にある」
何が選択権だ。ほとんど、正直に言えよ、と脅してるような物じゃないか。脅迫だ。
「もし、俺が認めたらどうるんだ?」
「決まってる。調べるんだよ事件を」
「本気か? 警察が調べても分からなかったことを、たかが高校生三人が調べて分かると思ってんのか」
きっぱりと奴の言葉を否定した。だが、現実的に考えてみろ。俺の意見が正論だろう。今の警察の捜査力で分からなかったんだ。それが俺達にわかるはずが無い。
かいていた冷や汗を袖でぬぐい、軽く息を吐いた。いつの間にか、穂乃香ちゃんは俯いていた。
「警察でも調べて分からなかった事件を君は一度解いたことがあるだろう、三年前に」
「あれは……あれは偶然だ」
変な記憶を蒸し返させないでくれないか。もう十二年前のことも三年前のこと、二月十四日のことも、全部忘れたいんだ。
「偶然、か。なら、もう一度偶然を起こそうじゃないか」
「偶然がそう何回も起こるか。たまにしか起きないから、偶然なんだよ」
「じゃあ、君が白根葵の死体を発見したのは、偶然じゃないのか?」
馬鹿なことを訊くな。俺が日ごろからあそこを走っていたことも、香耶美があそこで殺されていたことも、それを俺が発見したことも……全て偶然だ。
「偶然だよ、あれは」
俺がそう答えた瞬間、矢原が大声で笑い出した。その笑い声は階段に響き、先ほどまでここを支配していた緊張感を吹き飛ばした。矢原はお構いなしに、膝を叩き笑っていた。そして俯いていた穂乃香ちゃんも俺を見開いた目で見ていた。
そこで、俺は自分の失敗に気がついた。
「君、実に初歩的なものに引っかかったね。君は今、自分が第一発見者であることを認めたんだ」
……推理小説や、刑事ドラマに出てくる『追い詰められた犯人』の気持ちはこんなものだろうか。俺は、何も考えれなかった。言い訳も何も出てこない。ただただ、自分のミスを恨んだ。確かに、矢原が自分の推理を聞いてから、敗北は確信していた。それでも、真実だけは隠そうとした。だから、話題をそらそうとしたんだ。
また冷や汗が出てきた。
「僕の勝ちだ」
矢原が俺を指差し、満足げな笑顔で言い放った。言い返す言葉は無い。完全な敗北。
「さてさて、敗北の代償を払ってもらうよ」
俺を見ながら、矢原は階段を下り始めた。足音が妙に響くと思ったら、先ほどまで続いていた吹奏楽部の演奏が終わっていた。
「ふん。代償ってのは何だ。警察に突き出すのか?」
開き直って、唇を尖らせながら訊くと、矢原はまた笑った。
「警察に突き出したりなんかしないよ、僕は優しいんだ。わかるだろう?」
ちっとも分からない、という声がした。俺ではなく、穂乃香ちゃんのこえだ。矢原はそれを無視して、続ける。
「さっき言ったろう。三人で事件について調べるんだよ。僕らには警察が持っていない強力な捜査の手がかり……携帯がある」
嫌味のつもりだろうか。矢原はやけに「携帯」の部分を強調していった。別にそれをつっこむ気は無い。
「君には、これから僕らに付き合ってもらう。それが第一の代償」
「まだ、あるのか?」
恐る恐る訊いてみると、矢原は唇を尖らせながら言った。
「近所においしいラーメン屋ができたんだ。明日にでも、奢ってももらうよ。これが第二の代償。で、代償はそれで終わり」
なんだそれは、と気が抜けた。しかし、同時に安心もした。
穂乃香ちゃんは俺を見つめていた。驚いていてる表情だった。仕方ない。よく知っている人物が、自分の姉の捜査の邪魔をしていた張本人なのだから。
「……わ、私」
穂乃香ちゃんが俺から目をそらした。そして、小声で呟いた。
「私、恨んでません。白菊先輩のこと。けど、少し腹がたってます。だから……私にも、代償を払ってください」
彼女の意外な言葉に驚きを隠せなかった。まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。しかし、断るわけにはいかない。悪いには全面的に俺なのだから。
「……いつでもいいです。姉のお墓参りに、行ってください」
それって代償なのかい、と矢原が穂乃香ちゃんをからかっていた。彼女はそんな矢原の頭を叩き、空気読んでよ、と注意していた。
踵を返し、二人から背を向けた。今日はこれくらいで勘弁して欲しい。
「白菊君」
後ろから矢原に声をかけられた。なんだよ、まだ用があるのか。もう、十分だろう。俺は携帯を盗んだことを認めた。そして事件を調べるのに協力をする。更に、約束どおり、明日ラーメンを奢ってやる。それで十分だろう。
振り返ると、真顔の矢原が俺を見ていた。
「なんだかんだ言ってるけど、僕だって人の子だよ。実を言うと、君に同情してる。君は同情なんてして欲しくないだろうけど、してしまうんだよ」
矢原はしばらく黙って、今度は質問してきた。
「君だって、幼馴染の死の真相を知りたいだろ」
「ああ」
「だったら君も僕も穂乃香も、目標は同じ。本田香耶美の死の真相をしりたい、そうだろう?」
今度は穂乃香ちゃんに同意を求めた。彼女は、ゆっくりと頷く。
「じゃあ、文句は無いよね。いっしょに調べよう。嫌だけど僕に脅されてじ仕方なく調べる、じゃなくて、君の意思で本気で調べて欲しい。……やってくれるかい?」
よく分からないが、俺は強く頷いた。恐らく、俺の中でも香耶美の死の真相を知りたいという気持ちがあったのだろう。矢原は俺の返答に満足したようだ。
「じゃあ、明日の夕方の六時に、ラーメン屋にきてくれ。そこで話し合いもしたい。あっ、携帯電話を持ってきてくれよ」
「分かった」
また矢原に背を向けて、帰ろうとした。が、また、後ろから呼び止められらた。いい加減、腹が立ったので、何だ、と声を荒らげてしまった。
「……いやいや、簡単な質問を一つしたいんだ。……ラーメン屋の場所、知ってる?」
矢原にラーメン屋の道を聞いたあと、別れた。今は校門から出て、アスファルトの道を歩いている。しかし……大変なことになってしまった。
明日から忙しくなるだろう。でも、それでいいかもしれない。また偶然がおこれば、香耶美を殺した犯人を見つけ出せるかもしれない。
にしても、矢原春風は厄介だ。只者じゃない。今まで出会ったことの無いタイプの人間だ。
事件の真相を知りたい――か。懐かしい言葉だ。三年前にも、俺は同じ言葉を聞いたことがある。あの時は、香耶美が言ったんだ。
三年前の記憶がみずみずしく蘇ってきた。
第二章【スノードロップの花―二〇〇四年―】
二〇〇四年・夏
「遅い」
運動場を見渡せる二階の渡り廊下で、外を眺めていた香耶美が遅れてきてもいない俺に、少しきつい感じで言ってきた。
「遅くはないだろう。約束もしてないし、何時に来いとも言われてないぞ。俺は、いきなりあんまり親しくない同級生から、香耶美ちゃんが呼んでるよ、と言われて、すぐに来たんだ。それで遅いといわれても、どうしようもできない」
運動所を眺めている彼女の背中を見ながら、少し言い訳がましく反論する。こんな反論が香耶美に通用しないこと位は、長い付き合いで分かっているが、してしまう。
時間は昼休みで、運動場では活発的な生徒たちがサッカーなどをしていて遊んでいた。夏の暑さのせいか、ここ最近、同級生を含めるうちの学校の生徒たちはテンションが高い。その高さについていけない。
俺はどちらかというと、教室で静かにしてるタイプだ。運動が苦手というわけでは無い。現に、陸上部に所属していて、大会でもそこそこの成績を残している。
香耶美はその陸上部のマネージャーである。
「遅いったら、遅い。私はここで十分待ってたんだぞ、この暑さの中で。レディになんてことさせるのよ」
「お前が勝手にしただけだろ。それにお前がレディなら、日本中のオバちゃんは全員、レディになっちまうぞ」
そう言った瞬間、足のつねに激痛が走った。運動場を見たままで俺を見てないのに、見事に香耶美が蹴った。痛い、という表現は甘い気がする。
痛みに耐え切れず、足を抑えてしまった。情けなく「イタッ……」と声を漏らしてしまう。
「……情けない、男ならそれくらい我慢しろ」
「あのな、痛みに男女は関係無いんだぞ。憲法に『男女平等』って項目があるくらいだ」
「なんの関係も無いわよ馬鹿。……まったく」
香耶美は俺の方に振り向いた。今日はメガネをかけていて、どこかかしこそうな感じを出している。滝のような後ろ髪を後ろで一つにまとめていて、前髪はたらしていた。
そのメガネの中の目は吊り上げられていて、俺をまっすぐに睨んでいた。
「な、何だよ。俺はい睨まれるようなことをした記憶は無いぞ」
それでも香耶美は睨んでいて、怖い。彼女を何回か怒らせたことはある。その時もこのように鋭い視線を浴びせられるが、今日は特別にその視線が怖い。
渡り廊下に風が吹き付けて一瞬、涼しくなった。
「あんた、私を馬鹿にしてる? 私の情報網はまるでくもの巣なのよ」
「いや……今はお前がまるでクモのように怖いぞ」
相当小声で言ったにも関わらず、再び俺の足に激痛が走った。地獄耳……今度は口に出さずに、心の中だけで言った。
今度はピョンピョンと跳ねて痛みをこらえてた。そんな俺を見ながら香耶美が、怖い声で言う。
「あんた、水嵩(みずかさ)先輩に告白されたんだって?」
ドキッとして、跳ねるのを止めた。なんで香耶美がそのことを知ってるんだ?
告白されたのは事実だった。昨日の放課後、部活の最中に手紙を渡されたんだ。手紙には、付き合ってください、と女性らしいかわいらしい字で書かれていて、手紙の最後には「明日、返事を聞きます」とも書いてあった。
ラブレターという古風なやつだった。それでも貰って嬉しかったが、何かはわからないが複雑な気持ちになった。
水嵩先輩とはまったく親しくない、というと嘘になる。
彼女は女子陸上部の部長である。三年生で、俺達より一つ年上、男子陸上部からも女子陸上部からも人気がある存在だ。何度か話したことがある。
ショートカットにの髪型でメガネではなくコンタクトをしている。特徴、という特徴は無い。強いて言うなら、常に腕時計をしていることだ。例え走っていて、休憩していても、腕時計だけははずさない。理由は直接聞いたことが無いが、噂では聞いたことがある。その腕時計は亡くなった父親からもらった最後の誕生日プレゼントらしい。
香耶美が怒っている理由がわかった。告白されたことを教えなかったことに怒っているのだ。そんな傲慢な。
「モッチーが朝、丁寧に教えてくれたわ。まあ、情報料として五〇円取られたけどね」
「……桃山め」
モッチーとは同級生の桃山一哉の香耶美がつけたあだ名である。こんな可愛らしいあだ名がついているが、その実態はただの不良モドキであり、金の亡者だ。何かあるたび、何円か見返りとして求めてくる。桃山も俺らと同じ陸上部に所属しているが、幽霊部員だ。部活に顔を見せる日などめったに無い。
あいつめ……どこから情報を仕入れたんだ? そして、それを香耶美に売りつけるとは、最悪だ。今度会ったらブン殴ってやる。そう心に決めておいた。
渡り廊下には運動所ではしゃいでいる生徒たちの声が結構、大きく聞こえてくる。
「とにかく、水嵩先輩に告白されたんでしょう、白状しなさいよ」
白状って……。
しかし、きれている香耶美にはもう何をいっても通用しない。せめて、この場に穂乃香ちゃんがいたなら、少しは状況も変わっていたかもしれない。香耶美は穂乃香ちゃんに弱い。唯一の弱点、と言ってもいい。
残念ながらこの場に穂乃香ちゃんはいない。仕方が無いので、素直に白状する。しかし、そのまま白状するのも嫌ので、少し反論しておくことにした。
「確かに告白されたよ。されましたよ。けど、それを一々お前に言う必要はないんじゃないか」
「ふん。どうせ、告白されてはしゃいでたりしたんでしょ。あんたのことだもん、告白されたくらいで、テンション上がってんじゃないわよ」
「そりゃあ、テンションも上がったさ。それは仕方ない。告白なんて、今までされたこと無かったんだから。三週間に一度は必ず告白をされるお前と一緒にするな」
香耶美はその容姿のせいか、告白されることが多い。小学校との時も、同級生下級生関係なく、告白されていた。その状況は、中学二年の今でも変わらない。
「とにかく、どうするの? 告白を断るのか、付き合うのか、どっち?」
「なんで、お前に言わなきゃいけない」
俺が少しきつめに言うと、後ろから肩を叩かれた。突然のことでおどろいた。振り返ると、坊主刈りの頭をした知り合いが立っていた。同い年とは思えないほど長身で、俺を見下ろしながらニッコリと笑っていた。髪型と身長のせいか、よく不良と間違われることが多い。
「なんだ、柳か」
「なんだ、とは味気ないね。二人が一触即発みたいな感じだったから、急いで止めに入ったつもりなんだけど」
柳はそういうとまたニッコリと笑った。こいつは笑顔が似合うやつだ、と思う。日頃からよく笑う奴で、怒った場面など見たことが無い。陸上部の後輩達にも優しくて頼りになる先輩と慕われている。
「ナギからもなんか言ってやってよ。この男、昨日告白されたのよ」
香耶美は俺を指差しながら柳にも怒りをぶつける。「ナギ」とは柳のあだ名だ。「やなぎ」の「なぎ」だ。フルネームは柳竜平、という。後輩たちからは「竜先輩」と呼ばれて、本人はその呼び名がかなり気にいっている。
「カーヤもそう怒ることは無いと思うよ」
柳が笑いながら、そして俺の肩を数回叩きながら、香耶美に言った。「カーヤ」は香耶美の陸上部でのあだ名。名づけたのは暇人、桃山だ。
「いいじゃん告白くらいされても。白菊がもててるって証拠だよ。それに安心しなよ。白菊はカーヤを捨てたりしないって」
柳が笑いながらそう言うと、香耶美は即座に彼の腹部に蹴りを入れようとしたが、柳は見事にかわした。その代わり俺が横腹にパンチをしといた。それが結構効いたらしく、柳は「うっ」と横腹を抑えた。
「捨てるって何よ、捨てるって。私はこいつと付き合ってるわけじゃないの」
その通りだ、と俺は横から口出しをする。柳は俺からの思わぬ反撃に驚いていたが、俺と香耶美を交互に見て、呟いた。
「予想以上に、照れるね」
勿論、地獄耳の香耶美に聞こえた。今度はちゃんとした蹴りが柳の腹部にはいった。それと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
チッと舌打ちした音が聞こえた。それが香耶美のものだとすぐに分かるのも、長年の付き合いのせいだろう。
「鳴っちゃたじゃない。仕方ないわ……来夏、放課後にまた話があるから部活にちゃんと来なさいよ」
そういうと走って渡り廊下から立ち去った。
香耶美と俺はクラスが違う。俺は柳と同じクラスだが、香耶美は桃山と同じクラスだ。だから情報を売られたんだろう。
立ち去る香耶美に後姿を見ながら、蹴られた場所を抑えた柳が、苦しそうに言った。
「厄介なことになっちゃったな」
俺は黙って頷いた。本当に厄介なことになってしまった……。
放課後、俺はゆっくりとした足取りで部室に向かっていた。昼休みのできごともあり、あまり部活に行きたくなかった。サボろうとしたが、柳が「嫌なことは早いこと終わらした方が心が楽だよ」という定番の説得をしてきたので、行くことにした。当の柳は掃除当番で、少し遅れて来るそうだ。
俺らが所属している陸上部に部室と言われるものは無い。通常の運動部は部室を持っていない。だから、俺が今向かっているのは、正式な部室ではない。生徒が勝手に「部室」と呼んでいる倉庫だ。
円盤投げで使う円盤や長距離リレーで使うバトン、ほかに石灰やコーンなどをいれている倉庫が運動場の端にあり、陸上部はそこを部室として利用している。勿論、そこで部活について真面目に話し合うことなど無い。部室は手が空いている部員が陰で休む場所でり、雑談の場である。
時間は三時半。運動場ではほかの運動系の部活の一年生が運動場にとんぼをかけて整備している。あればかりは後輩の仕事だ。俺たちも一年前は嫌と言うほどやらされていた。しかし、陸上部は運動場の面積の十分の一程度しか使わないので、整備もらくだ。
少し強い風が吹いて桜の木の葉がゆれて音を出した。
「卒業式の日の桜の木ほどむなしい物はないわ。だって、つぼみだもの」小学校の卒業式のとき、泣きながら香耶美そう言っていたのを覚えている。言われてみればそうだな、と当時の俺は感心していた。泣いていた香耶美を見ながら当時の俺は、初めて香耶美に対して「可愛い」という感想を持ったと同時に、泣いている香耶美を慰めなければと思い、必死の慰めの言葉をかけた。
風がやんで、葉がゆれるのをやめた。空を見上げると、雲ひとつ無かった。今日は夕立は降らないだろうな。
しばらくして、倉庫の前についた。長方形のその倉庫の壁は白く、鉄の扉は錆びていて所々茶色くなっている。扉にはいかにも思春期の少年たちが書いたようないかがわしい落書きもあれば、「最強」「夜露死苦」なども書かれている。
そんな扉の取っ手をつかみ、ゆっくりと開けた。真っ暗だった倉庫の中に、少しずつ光が入っていき、中の物が見えてきた。
倉庫の中にはコーンやダンベルが適当に並べられていて、いかに陸上部が倉庫を整理していないかがわかった。
そんな倉庫の中に一人、見覚えのあるやつがMDウォークマンを片手に持ち立っていた。
「やぁ旦那。今日は随分早く来ましたね」
俺たちの学校の赤いジャージを着ていて、耳が少し隠れるくらい髪が伸びている。その髪の毛は少し茶色っぽい。身長は俺と同じ位で、ごく普通。細いその目にはコンタクトがされている、らしい。整った顔つきをしているので、美形といえば美形だ。
そいつは光が入ってきても少し薄暗い倉庫の中で、立ちながら口に懐中電灯をくわえ、倉庫の中を照らしていた。
「桃山ぁ、テメェ、よくも堂々とここにいられるな」
俺はかなりの剣幕でその男……モッチ−こと、桃山をにらんだ。彼はそんな俺を面白がるように、唇だけで笑った。いやな奴だ、まったく。
桃山はすぐに口から懐中電灯をはずすと、俺の方を向いた。
「いられるな、ってなんですか。忘れました? 僕はここの正式な部員ですよ。部費だって払いましたよ。いて当然じゃないですか」
「部員だと? よく言える。お前が部活にくるときなんて、かなり限られてるじゃねぇか」
「ああ、そうでしたっけ?」
相変わらず、とぼけるのがうまいやつだ。俺はこいつ知り合ってまだ一年と少ししか経っていないが、こいつにごまかされて事は何回もある。しかし、今日はごまかされてはいけない。こっちはこいつのせいで、大迷惑をかけられてるんだ。
「そういえば旦那。水嵩の女社長から愛の告白をされたそうじゃないですか。いいですねぇ、青春してますか?」
桃山は俺のことをなぜか旦那と呼ぶ。そして部長のことは社長と呼ぶので、女子陸上部の部長の水嵩先輩は「女社長」。香耶美は「カーヤの姉さん」と呼び、柳のことは「副社長」と呼ぶ。桃山がなぜそういう呼び方をするのか、最初はわからなかった。今も分からないが、もうどうでもよくなった。
「なにが青春だ。お前はその情報を香耶美に売りつけたろう。そのせいでこっちがどれだけ迷惑してると思ってんだ」
かなり怖い口調で言ったが、桃山は笑顔だった。
「怒らない怒らない。カルシウム不足ですか? 忘れたら困りますね。私は情報を売ってくれと言われたから、売ったんです。私がカーヤの姉さんに売りつけたわけじゃありません。元々、旦那が女社長に告白されたのは、学校中に広まってるんですよ」
「……う、嘘だろ」
「本当ですよ。考えてみてください。あの女社長が告白するなんて、大事件ですよ。それがほかの学生に漏れないとお思いですか? 噂は女子陸上部員がほかの部活の友達などに教え、もう学校中の話題の種です。それを今朝、カーヤの姉さんが聞いて、もっと詳しい事情を聞きたいと今朝、私に情報を求めたんです。だから、私は情報を売った。今、この学校での一番の話題話は、旦那が告白されたことですよ。おめでとうございます、有名人になれましたね」
うれしくねぇよ、と心の底から思った。しかし、事態がそこまで深刻な状態になってるとは知りもしなかった。というか、水嵩先輩が告白するというのは、そこまで大事件なのか?
桃山はMDをポケットの中にしまい、懐中電灯を適当に地面に置くと、ジャージのポケットから飴玉を一袋出して、それを俺に投げ渡してきた。受け取ってみてみると、「イチゴ味」と袋に書かれた丸くてピンク色の飴玉だった。
「おいしいですよ、食べてみてください。お金は取りませんから」
「いきなりだな」
飴玉を口に入れた瞬間、口の中に甘味が広がった。そこまで甘いものが好きじゃない俺は、つい「うっ」と声を漏らしてしまった。
「どうしたんですか? 毒でも入ってましたか。入れた覚えは無いんですけどねぇ」
そう言うと桃山はポケットからもう一つ同じ飴を出して、自分の口に入れた。しばらく口の中で飴を転がしているとつぶやく様に、「こりゃかなり甘い。甘すぎです。糖尿病になっちまいますよ」と笑いながら言った。
しばらくすると、柳が遅れてきた。柳は倉庫の中にいる桃山を見ると、驚いた顔をして、あれは幻かい? と桃山を人差し指で指しながら俺に訊いて来た。心外だなぁ、と桃山が腕を組んで愚痴をもらすと、ははは、と大声で笑った。
「ところで、カーヤはまだ来てないの」
柳が桃山に渡された飴を口の中で転がしながら、倉庫の壁にもたれかかっていた俺に訊いて来た。柳は倉庫の地面にあぐらをかいて座り、桃山は倉庫の端に背中を預けて座っていた。
「そーいえば、来てないな」
「旦那にしては良い事でしょう。カーヤの姉さんは今日は掃除当番ですよ。ウチのクラスの担任は掃除にはやたらうるさくてねぇ。きっと色々と言われてるんだと思いますよ」
桃山がニヤニヤとした顔で俺をチラリと見た。すぐに視線をそらしたら、柳と桃山が一緒になって笑った。失礼な奴らだ。
「来てないと言えば副社長。社長も来てないですね」
桃山が不思議そうに首をかしげながら柳に訊いた。そういえば、そうだ。部長である菅田(かんだ)先輩がまだ来ていない。よく思い出してみると、神田部長は昨日も来ていなかった。
菅田部長は、現在、この男子陸上部に所属する唯一の三年生部員だ。唯一の三年生ということで、部長だ。そしてほかに三年生がいないので柳が副部長になった。
菅田部長以外にも男子陸上部員の三年は春にはいた。しかし、皆して「受験で忙しい」などという理由をつけて引退試合さえ出ずに止めてしまった。俺としては、受験がだから仕方ないか、と思ったが香耶美や柳からしては「受験ぐらいでやめるなよ」という感じだったらしい。確かに、野球部やサッカー部にも三年部員はいる。
「菅田部長は昨日から休みだよ。なんでも塾の補習があるんだって。夏だし、受験も本番なんだろうね」
柳はそういうと近くに転がっていたダンベルを片手に持って、上下に動かした。柳の腕力はしゃれにならない。片手で腕立て伏せを平気でするし、握力は四五くらいある。中学二年としては異例だろう。
「受験ですか。来年には私らも塾の補習とかで忙しくなるんですかね」
「なるんだろう。それは仕方ないんじゃないか。受験だって、人生の一大イベントの一つなんだから」
俺がそう言うと桃山がからりと笑い、笑いながら言った。「良いですね、旦那は。だって成績の心配なんてしなくていいですもん。わあ、羨ましい」
桃山がそう言うと柳も、まったくだね、と桃山に同意した。いやいや、俺はそこまで成績はよくない。確かに「行ける高校が無い」という状況ではないが、そこまで余裕でもない。一年後、どうなっているかは分からない。
成績といえば、香耶美は頭が良い。定期テストであいつに勝った事が無い。それでもあいつは点数など気にしていない。あいつはいつもテストが終わると、私は高校行かないからテストなんて無意味なのよ、と愚痴をこぼしている。
香耶美が高校を行かないという決意は本物だろう。あいつは進学など一切考えていない。就職する気である。それはあいつの家庭環境じゃ仕方ないかもしれないが、それでも進学するべきだと俺は思う。
香耶美の家は少し難しい家庭だった。香耶美の妹である穂乃香ちゃんが生まれてすぐ。二人の母親はなくなった。その後、彼女たちの父親がなんとか二人を育てていた。しかし、去年、その父親がガンになり、入院した。今も入院生活を送っている。
勿論、家庭の経済は苦しい。香耶美は自分は就職して、父の医療費を出し、そしてなんとしてでも穂乃香ちゃんを高校に入学させる気だ。
このまま香耶美が高校に入学すると、穂乃香ちゃんが入学できなくなる。妹思いの香耶美はそれはなんとしてでも避けたい事態であった。彼女らの親戚から経済支援をしようとする者はいるが、断っていた。
一年後、一体どうなるか分からないが、おそらく香耶美は就職するだろう。
「もう四時ですね。そういえば旦那、呼び出されてるんじゃないですか」
柳が腕時計を見なが見て言った。もう四時か。
「呼び出しされてるんだよ、お前の言うとおり。今日の四時半に屋上に来い、と昨日渡された手紙に書いてあるんだ。だから、告白をYESと答えるにしても、NOと答えるにしても、あと三十分で屋上に行かなきゃならねえんだよ。それなのに、話がある、と言った張本人がいつまでたってもこないんだ」
「屋上に呼び出されてるなんて、最高のシチュエーションじゃないですか。一昔前の恋愛ドラマみたいですよ」
褒めてんのか、それは。
俺は少しだけ腹が立っていた。掃除当番で遅いのは仕方ない……それでも待たせすぎだろう。話があると言ったのは香耶美の方だ。掃除を抜け出してでも、早くくるべきではないか。仕方ない。後二十五分経って来なかったら、もう屋上に行こう。
勿論、告白の回答はもう決めている。香耶美が来たら、ちゃんとその事について話すつもりだ。そもそも、なんで俺が告白されたことにあいつが一々口を出すんだ。
この文句を昼休みが終わった後に、柳に言うと、乙女心もちゃんと分かってやりなよ、と言われた。一体何のことなんだか。
「待たせたわね」
倉庫の入り口から、突然、聞き覚えのある声が聞こえてきた。どうやら、四時半には間に合ったようだ。
「タイムリミットギリギリで登場。これもまた一昔前のドラマですねぇ」
桃山が楽しそうな声が聞こえてきた。
扉の方を振り向くと制服姿の香耶美が両腕を腰にあてて立っていた。少しだけ汗をかいている。どうやら走ってきたそうだ。顔色も少しだけ悪い。息も荒い。
「遅れて、ゴメン。誰かのせいで掃除が長くなったの」
そう言うと香耶美は鋭い目つきで笑いっぱなしの桃山をにらんだ。桃山はそんな香耶美を見て、さらに笑顔になる。
「それは大変でしたね、カーヤの姉さん。同情しますよ」
「ふざけないでよモッチ−。あんただって掃除当番だったでしょう! 何こんな所でくつろいでるの」
掃除当番だったのか! と俺と柳が軽い衝撃を受けている中、桃山は悪びれもせず、笑いながら言い訳を仕出した。
「こんな所っていうのはひどいぜすぜ。ここはわが学校の陸上部部室なんですから。それにそう怒らないでくださいよ。今日は旦那といい、怒る人が多い日だ。怒るとね、せっかくの顔に皺が入っちまいますぜ」
怒らしてんのは誰だ、という俺の心の叫びを読み取ったのか、近くにいた柳が小声で「落ち着きなよ」と言ってきた。ああ、分かってる。俺は落ち着くさ。けど問題は俺じゃないんだよ柳。
「何が、怒らないでください、よ。怒らしてるのはアンタなのよ。分かってる?」
「分かってますよ」
「分かってるなら尚悪い!」
これは理不尽な、と桃山が大げさに言った。何が理不尽なんだよ……。
さてさて。桃山と香耶美の言い合いをこのまま聞いていても面白いだろうが、そういう訳にはいかない。タイムリミット、つまり待ち合わせの時間は刻一刻と迫っているのだ。腕時計を見てみると、後二十分しかないことに気がついた。
「アンタが掃除をサボったお陰で色々とややこしい事がおきたのよ」
「いいじゃないですか。人はややこしい事が多いほど強くれるんですよ」
香耶美は激怒しながら、桃山は完全に楽しみながら言い合いをしている。楽しんでるところ悪い、と思いながら俺は香耶美に声をかけた。
「おい、時間が無いんだ。さっさとしてくれないか」
そう言うと香耶美が桃山に向けていた鋭い目つきを俺に向けてきた。般若、という言葉が頭によぎったのは俺だけだろうか。
「ええそうね。じゃあ、私が気になってるのは一つだから、その質問に答えてちょうだい」
俺が頷くと同時に、桃山と柳が「いよいよですね」「いよいよだね」と楽しそうに会話をしてるのが聞こえてきた。鬱陶しい奴らだ。香耶美が二人を睨むと、奴らは目をそむけた。
「質問は簡単よ。告白は、うけるの? うけないの?」
やっぱりその質問か。しかし、動揺する必要も無い。答えはもう決めているし、それで香耶美が怒ることも無いだろう。
「――NO。断るよ」
それを聞いた香耶美は安堵したような表情になった。そして、ホッとした、と呟いた。香耶美の反応は静かでよかったが、うるさかったのは桃山と柳だった。
「旦那、なぜですか? せっかく面白い三角関係が見れると期待してたのに。ひどいですよ」
ひどいのはお前だろう。
「白菊、つまんない選択だね、きみらしいけどさ。もう少し場を盛り上げてよ」
きみらしいけど、とはかなり失礼ではないだろうか?
「で、旦那。断るって言うのは、やっぱり水嵩先輩の『例の噂』が怖いんですか?」
倉庫を出て、屋上に向かおうとした俺の背中に、桃山が彼としては珍しいまじめな声で質問してきた。……例の噂? なんだそれは。
「例の噂っていうのが何だか知らんが、俺が断るのは俺のためだよ。水嵩先輩には何度かお世話になってるけど、付き合う、となると話は別だからな」
「……旦那、あなたの情報量の少なさには呆れます」
はっ? どういうことだろうか。例の噂、というのはそんなに有名な話なのか。それを訊こうと振り返ろうとした瞬間、俺の肩をさきほどまで安堵の表情をうかべていた香耶美の手が掴んだ。香耶美の表情はさっきと違い、信じられない、といった感じのものだった。
「あんた、本気で噂を知らないの?」
知らないよ、と素直に答えたらきっと色々と言われるだろうな。だからと言って、知ってるよ、という嘘は今更つけない。ああ、どうしもない。
ひとまず「知らん」と素直に答えて、肩から香耶美の手をはずし、早足で校舎に向かった。その俺の後を香耶美がしつこく追ってくる。
「知らないのに、告白されたの」
告白したことに文句をつけるなら、まだ分かる。しかし告白されたことに文句を言われるのは納得できない。俺の意思じゃどうしようもできないことだ。
噂というのは何だろうか。桃山や香耶美の態度を見る限り、かなり有名な事で、水嵩先輩について重要なことらしい。四時半まであと少ししか無いが、その噂というのを一応、どんな物か知っておきたい。
校舎の桜の木の近くにベンチがある。五分くらいなら時間をとれる。少しだけ香耶美にその噂について教えてもらおう。
俺はすぐさまそのベンチ向い、それに香耶美もついてきた。
ベンチの上にある砂を払い、そこに座った。隣に香耶美が座る。桜の木を見ると、再び「卒業式の日の桜の木ほどむなしい物はないわ」という香耶美の言葉がまた蘇った。
「で、噂って言うのは何だ?」
そう訊くと、香耶美は制服のポケットからメモ帳を取り出した。以前にも、香耶美から同級生の変な噂について聞いたことがあった。それは同級生がクスリ――つまり覚せい剤やシンナー――をやっているのではないかという噂だった。
後からそれは真っ赤な嘘だということが分かったが、噂が広まっていたときはひどかった。誰もその同級生に近づこうとしなかった。当時の俺は、その同級生についてそんな噂が流れていることを知らなかった。だから香耶美に、「なんで皆はあいつを避けてるんだ?」と訊いた。そのときの香耶美も今のようにメモ帳を出して、噂を教えてくれた。
このメモ帳は、香耶美曰く「乙女の情報ブック」と言われるもので、香耶美が友人などから聞いた噂をメモしているものである。情報といえば、桃山だ。あいつは学校中の噂を全部熟知している。だから、そういう情報を知りたがる奴に情報を売っているのだ。
「私も大雑把な噂しか聞いてないのよ」
「それで十分だ。時間もないし、さっさと終わらせよう」
俺たちの座っているベンチの正面は校舎だ。白い壁があり、二階と三階の部分には窓がある。四階にも窓はあるが、転落事故などを防止するため、開かないようになっている。
香耶美が口を開き、噂を説明しようとした――その時だった。
ドンッという鈍い音がして、俺たちの目の前に何かが落ちてきた。座っていた俺と香耶美は落ちてきたものを見た瞬間、驚きのあまり立ち上がった。香耶美にいたって、しばらく小声で何かをブツブツと言ったあと、大声で叫んだ。その叫び声は学校中に響きそうな声で、運動場にいた生徒が一斉にこっち見てきた。
俺はしばらく呆然と立ち尽くし、香耶美の叫び声や事態に気づいたほかの生徒たちの声などを聞きながら、落ちてきたものを見つめていた。
俺の目の前にいる、落ちてきた者。それは、水嵩先輩だった。
仰向けになって倒れていて、いつも通りのショートヘアーは衝撃で乱れ、頭から大量の血が流れている。制服を着ていて、上靴を履いている。表情……あの時の母と同じ目だった。父に殺されたときの、母と同じ目。無気力で、それでも何かを感じさせる目。落ちてきた衝撃で、腰がおかしな方向に曲がっていた。血のにおいが鼻についた。
すぐに騒ぎを聞きつけた教師たちが集まってきた。そしてその周りには死体を見ようとする生徒たちがいる。香耶美は震えて、泣いていた。
離れなさい! という教師の言葉が聞こえてくる。それは俺にかけらrタ言葉では無く、集まってきた生徒にかけられた言葉だった。
一人の教師が水嵩先輩に近づいて肩をゆする。もう、手遅れだ。それは脈を確認しなくても、鼓動を確認しなくても、呼吸を確認しなくても、目で分かる。あんな目は生きている者にはできない。
香耶美はベンチに崩れるように座り、そして目の前にいる先輩を見ないためと涙を拭くために手で目を抑えていた。口から嗚咽が漏れているのが、聞こえてくる。
俺は未だに立ち尽くして、目の前にある現実を見つめていた。
またしばらくすると、「大丈夫ですか!」「大丈夫かい!」という桃山と柳の焦っている声が聞こえてきた。
桃山はベンチで泣いている香耶美にかけより、なんとか泣き止ませようとしていた。柳がすぐに俺に駆け寄り、大丈夫かい? と心配そうに訊いてきた。
「ああ。大丈夫……」と言ったところで、目の前の景色がぼやけて来た。手で額を抑えた。足が震えてきた。上手く、立てなくなってきた。
倒れる、と思った。体のバランスを失い、背中から倒れていったが、柳がなんとか片手で受け止めてくれた。やはりこいつの腕力はすごい。
景色がドンドンぼやけていき、目の前に何があるのかさえ分からなくなった来た。ただ、「白菊! しっかり!」という柳の声と「旦那!」という桃山が俺を呼ぶ声だけはしっかりと聞こえていた。
目の前の景色が真っ暗になり、二人の声も聞こえなくなった。
目がさめた時、俺は保健室のベッドの上にいた。ベッド周りには香耶美や柳や桃山がいた。全員、かなり深刻そうな顔をしている。
「ああ、目覚めちゃいましたか。私はてっきり毒りんごのせいで目覚めるにはカーヤの姉さんのキスがいると思ったんですけどね」
桃山が早速訳のわからないことを言い出した。しかし、その声にはいつもの元気は無く、事の重大さを受け止めているとわかった。これはこいつなりの場を落ち着かせるために言葉だ。
ゆっくりと体を起こし、保健室にある時計を見た。六時を少し過ぎている。どうやら、二時間近く気を失っていたらしい。この二時間の間に、おそらく多くのことが起きただろう。
「自殺らしいよ」
柳が呟くように言った。こいつも、かなりショックを受けているだろう。なんだかんだで、男子陸上部員は結構水嵩先輩にはお世話になっている。それは俺も柳も香耶美も例外ではない。桃山はもともと幽霊部員だったが、俺らほどじゃないにせよ、世話になっていた。
自殺か。なんとなく、分かっていた。
「詳細は分かるか?」
目覚めてからの第一声だった。口の中が渇いていて、何かを飲みたい気分だったが、今はそんなことをいってる場合ではない。
「今のところは屋上から飛び降りて自殺、ということしか分からないって。今も学校中に警官がいるよ。明日は臨時休校らしいよ」
「そりゃそうだろう」
ベッドの横でいすに座って俯いている香耶美を見た。この二時間の間に、こいつは何を考えていただろうか。おそらく、警察からも事情を聞かれただろう。どうせ俺も、事情を聞かれるだろう。
「……大丈夫か?」
自然と口から出た言葉だった。香耶美はゆっくりと顔をあげた。目と目の周りが赤い。相当泣いたのだろう。泣かない方がおかしい。鼻も少しだけ赤い。
香耶美は鼻をすすった後、不機嫌な声で、
「大丈夫なわけ……ないでしょう」と言った。
「だよな」
大丈夫なわけがない。それは正論だ。あんな光景を見て、大丈夫な奴がいたら、それこそ別の意味で大丈夫じゃない。
それから沈黙が続いた。まさか、こんな事態になるとは思っても無かった。なんで、水嵩先輩は自殺なんかしたんだろうか。人を屋上に呼び出しておいて、それまで死ぬ。こんなの納得できない……。というか、水嵩先輩が自殺なんて信じられない。あの人は、そんな事をする人じゃないだろう。
「ああ、そういえば旦那が目覚めたら知らせてほしいと警察の人に言われてるんでした。私、知らせてきます」
場の空気がいやなのだろう。桃山が逃げるように保健室から出て行くと、それを追って柳が「僕も行くよ」と言いながら出て行った。柳も沈黙に耐え切れなくなったらしい。保健室の扉が閉まると、再び沈黙が訪れた。
ふと香耶美を見ると、香耶美も俺のほうを見ていた。視線がぶつかり、なんとなく気まずくなってしまった。俺は何か言おうと頭の中でかける言葉を捜していたが、先に口を開いたのは香耶美だった。
「ねえ、調べましょうよ」
唐突、だった。一瞬、こいつが何を言っているのか理解できなかった。二時間前は大泣きしていたやつだぞ。自分で何をいっているのか、分かってるんだろうか?
香耶美の目は俺を捕らえてはなさい。そして続けて言った。
「私、事件の真相を知りたい」
俺は香耶美をただ見つめていた。彼女の瞳の中で、何か得体の知れないものが見えた気がした。少なくとも、今、俺の目の前にいる香耶美は今まで俺が見てきた香耶美とは違う。
夏なのに、少し寒気がした。
第三章【鳳仙花の花―二〇〇七年―】
二〇〇七年・春
矢原に場所を教えてもらったラーメン屋は『仰天ラーメン』という店で、駅の近くの商店街の中にある。つい最近出来たばかりだが、数回テレビの取材が来たらしい。何でも、そこの店の激辛ラーメンというのがすごく辛くて上手いと食通や激辛マニアの中では有名らしい。
俺は特にラーメンなどに味は求めない。腹さえ満たされればそれでいいと思っている。中学の時にそのことを桃山に話したら「ああ、旦那。それは欧米とかヨーロッパの考え方ですよ」と言われたことがある。欧米やヨーロッパが本当にそんな感じで食生活を送っているのかは、俺は知らない。
商店街の中は騒がしい。スーパーの前では店員さんが「安いですよ!」と声を張り上げていて、魚屋の前ではタイムサービスを知らせるための鈴を店員さんが鳴らしていて、それを聞きつけた主婦たちが一斉に魚屋に向かう。戦場みたいだ。
しばらくそんな商店街の中をゆっくりと歩きながら進んでいると、仰天ラーメンが見つかった。矢原が教えてくれた通り、商店街の少し奥の方にあった。赤い看板で大きく『仰天ラーメン!』と書かれている。店の外には小さな黒板が出ていて、メニューの値段などが書いてあった。扉のところには暖簾がしてある。
腕時計を見ると、六時を少し過ぎたところだった。矢原と穂乃香ちゃんは、もう来ているだろうな。
ポケットの中に手を入れると、携帯の感触がした。勿論、俺の携帯ではない。これは香耶美の携帯である。普通の携帯と変わらないはずなのに、妙に重く感じる。
矢原は一体、この携帯で何をする気だろうか? 事件を調べると言ったって、どうやって調べる気なんだ。さっぱり分からない。……まあ、あいつの考えてることなんか、分かるはずも無い。捜査方法くらいは、ちゃんと教えてくれるだろう。
店のドアは自動ドアで、俺が近づくとゆっくりと開いた。店の中に足を踏み入れた瞬間、いらっしゃいませ! という大きな声が聞こえてきた。仕事なんだろうが、うるさい。
店の入り口に近くにレジがあり、そこにいた店員が「お一人様ですか」と訊いてきた。
「いや、友人と待ち合わせてるです」
素直に答えた後、俺は「友人」と言ってしまったことに後悔した。俺は矢原と穂乃香ちゃんとも友人ではない。知人だ。今の俺に、友人など言う存在はいないに等しい。俺の携帯電話には家族と柳と桃山のメールアドレスと電話番号くらいしかない。友人といえるのは、あの二人だけだ。といっても、あの二人とも滅多に連絡はとらない。
「白菊君、こっちだよ!」
矢原の大きな声が店内に響いた。店内を見ると、カウンター席のほうでこっちに向かって楽しそうに手を振っている矢原が見えた。……頼むから、落ち着いてくれ。
レジの店員に頭を下げて、カウンターの方に向かった。店内はうるさく、テーブル席のほうでラーメンを食べている客たちが大声で話している。もう少し静かに食事を取れよ、と思ったのは俺だけは無いはずだ。
カウンター席は『J』の形になっていて、席の向こうでは厨房で職人さんたちが汗を流し必死にラーメンを作っていた。ご苦労様です。
カウンター席の端の方の席に矢原と穂乃香ちゃんはいた。隣同士に座っていて、矢原の隣りの席が空いていて、穂乃香ちゃんの隣りの席は見知らぬ中年の男性が座ってラーメンを食べていた。俺は矢原の隣りに座り、早速ポケットから香耶美の携帯を出し、矢原に渡した。
突然のできごとに少しキョトンとした矢原だが、すぐにそれが誰の携帯か理解し、受け取った。
「ああ、これが彼女の携帯。シルバーでストラップも着いてない。良い様に言えばシンプルだ。悪いように言えば、ダサい、だね」
携帯を受け取った矢原はその携帯を手で持ち、ジッと見つめていた。
「姉はストラップとかそういうの嫌ってたから」
矢原の横の穂乃香ちゃんが説明しているのを聞きながら、俺はその説明に納得していた。香耶美は確かにストラップとかを嫌っていた。いや、別にストラップを嫌っていたわけではない。そういうチャラついたものが嫌いだった。その気持ちはなんとなく分かった。
「それより、白菊君、何か注文しなよ。せっかくラーメン屋に来たんだからさ。ここのラーメンはおいしいらしいよ」
「遠慮しとく。お前らこそ、何か頼んだらどうだ」
そう言うと、矢原は唇で笑った。
「愚問だね。もう僕ら二人は注文してるよ」
そうですか。それはお早いことで。
俺が注文しないのには理由がある。それは勿論、今日、おごらなければならないからである。矢原と穂乃香ちゃんが何を注文したなのかは知らないが、ラーメンとは安いものじゃない。二人分で千円位はかかる。生憎、俺の財布には二千円程度しか入っていない。特に今月何か買う予定は無いが、一応、千円程度は財布に入れておいた方がいい。そのために、俺は何も注文できない。
店員さんが俺の前に水の入ったコップを置いてくれた。少しだけのどが渇いていたので、それを飲む。冷たいものが欲しくなった。……アイスでも注文しようかな。
「矢原、お前らは何を注文したんだ?」
「ああ、おごる身としては不安なんだね?」
一々、癇に障るようなことを言うな。
「おごらしてもらう身としても遠慮したんだよ。僕らは激辛ラーメンを注文したよ。これでも、安いほうさ。なんったて一杯四五〇円。二人分で九〇〇円だ」
近くにおいてあったメニュー表を見てみると、確かに激辛ラーメンはこの店では一番安いラーメンだった。目玉商品を一番安値にするとは、少し変わった店だ。
「あ、あのぉ白菊先輩」
穂乃香ちゃんが恐る恐るといった感じで俺の名前を呼んだ。そんなに怖がる必要はないと思う。
「なんだい穂乃香。注文を追加するのかい?」
静かにしてて、と穂乃香ちゃんが矢原に注意した。この男がそんなことで静かにするものか。それは出会って一日しか経っていない俺でもわかる。
「注文を追加するなら、僕も良いかな?」
「追加するのはかまわんが、追加分の料金は自分で払えよ」
「意外とケチだね。意外じゃないけどさ」
どっちなんだとツッコミを入れたくなる。しかし、今は矢原の相手をするときではない。俺は横でブツブツと文句をたれている矢原を無視して、穂乃香ちゃんに声をかけた。
「なんか質問でもある?」
質問、というより苦情ならありそうだね。横で矢原がかなりの小声で呟いたが、再び無視をする。
穂乃香ちゃんは質問するのをためらっているようで、何か言いたそうにだけしていて、見ていて、少しだけ面白い。そんな穂乃香ちゃんに矢原が、アドバイスを出す。
「何を遠慮してるんだい。言いたいことは、言わなきゃ。言いたいことも言えず、後悔した人間がこの地球上に何人いると思ってるんだい?」
穂乃香ちゃんを慰めるための言葉は、俺の心に割れたガラスとして突き刺さる。痛みは無い。ただ、全くその通りだな、という事実を認める自分が哀れで仕方が無い。
言いたいことをも言えず後悔した人間――それはまさに俺だろうな。勿論、俺以外にもそういう人はたくさんいるが、三年という月日が経った今でも、その後悔が薄れていない俺は少数派だと思う。
何で俺はあの時、香耶美に、たった一言が言えなかったのか。
「電源……」
穂乃香ちゃんの小さな声が聞こえて、我に返った。
「えっ、何?」
「……電源は、つけましたか?」
ああ、なるほど。そういう質問か。ゆっくりと首を小さく横に振った。
「安心してくれ。つけたことは、一度も無い。ただ、持ってただけだ」
訂正しなくてはならないだろうか。今の発言は、正確に言えば間違っている。つけたことは無い、ではないのだ。つけれなかった、の方が正しい。
香耶美の携帯を持って、何度電源をつけようとしたことか。携帯の中に何かヒントがあるかもしれないと期待しながら。しかし、電源をつけようとするたびに、頭の中には香耶美の死顔が浮かんできて、怖くなる。あれは呪いかなにかだろう。
「そうですか……よかったぁ」
穂乃香ちゃんはいつのまにか矢原から渡された香耶美の携帯を両手で包み、それを複雑そうな表情で見つめている。久々に姉に会えたような感じなのだろう。しかし、同時にこれからこの携帯で事件の真相を調べるという不安。それらが入り混じっている表情だ。
不安は俺にもある。当たり前だ。今から警察の真似事をして、殺人犯を暴き出そうとしているのだから、それくらいはある。
矢原はなさそうだな。
「君、今とっても失礼なことを考えたろう?」
突然、矢原が水を飲みながら睨んできた。お前は人の心が読めるのか、というツッコミは飲み込み、とりあえずごまかしておこう。
「いや、思ってない」
「嘘つきが死刑になるなら、君は今すぐ銃殺されてるよ」
「そんなことになったら、世界中の人間は全員死ぬぞ」
「まったくだね」
少し笑い、コップの水を一気に口の中に流し込んで、飲み込んだ後、矢原は「すこし、失礼するよ」といい立ち上がり、トイレに向かった。
矢原がいなくなり、一つ席があいている状態で俺と穂乃香ちゃんが隣同士になった。今しかないかな、と思う。俺が昨日からずっと彼女に質問したかったことを、訊きたい。
目の前の水の入ったコップを持ち、水を少しだけ飲む。唇にコップの表面についていた水滴がつき、冷たくて気持ちいい。
「なあ穂乃香ちゃん、一つ訊いていいかな?」
そう声をかけると、彼女は顔だけを俺に向けた。さっきと同じ、すこし複雑な表情。それを俺に見せないために、すこしだけ笑顔を作る。
「なんですか?」
そこで俺は昨日から訊きたくてしかった無かったことを口に出した。
「君と矢原はどういう関係なんだ?」
穂乃香ちゃんは途端に顔を赤くした。彼女は感情表現が激しいな。
「春風、とのですか……」
矢原のことを既に「春風」と呼んでいる時点で、どういう関係かは予想はつく。彼女だって矢原だって、高校生。恋愛をしていたって、おかしいことは何一つ無い。
「お、お恥ずかしい話ですか……俗にいう……彼氏というものなんです」
予想していた回答だ。穂乃香ちゃんを赤らめた顔を俯かせている。彼女の中では、彼氏、というのはお恥ずかしい話なのか。
「なるほどね。いつ知り合ったの?」
「今年のお正月です……」
今年の正月というとまだ香耶美が殺されていなくて、一人目の被害者である真山弥子が殺される少し前だ。それに正月というと、俺が桃山と柳の三人で初詣に行ったときだ。男三人で初詣という、なんとも虚しいものだったのを記憶している。
「あいつ……姉の、ストーカーだったんですよ」
穂乃香ちゃんがクスッと笑ったあと、そう言った。最初は彼女が一体何を言っているかは分からなかったが、すぐに、矢原が白根葵のファンだと昨日、自ら告白していたのを思い出した。一瞬、頭が真っ白になる。
ストーカーというのは、やはり人の後を追う、あのストーカーだろう。というか、それ以外は無いのだが。
「あいつ、姉の熱狂的なファンだったんです。熱狂的、って言葉じゃ足りないくらい、ファンでしたけど。それで、ある日、本当に偶然、姉を夜の街で見かけたそうです。それが去年の十二月の終わりだったそうです」
ちょうどその日は、香耶美が実家、つまり現在の穂乃香ちゃんと両親が暮らしている家に帰っていた日らしい。香耶美はそのときは勿論、テレビや雑誌の取材のときのように化粧はしていなかった。
「それで安心したんでしょうか。姉は、夜に肉まんが食べたくなったらしく、コンビニに行ったんです。その帰り道を、あいつに見られたんですよ」
元々、化粧をしなくとも香耶美は美人だったらしい。何度も言うが、俺にはわからない。
その化粧をつけていない顔の写真も多数、ネットなどで出回っていた。熱狂的という言葉じゃ足りない位の白根葵のファンであった矢原は、おそらくその写真も見ていて、香耶美の化粧をつけていない顔も知っていたんだろう。
「あいつは姉の帰り道を追って、実家を突き止めたんです。それから、実家を見張るのがあいつの日課になったそうです」
しかし、香耶美は肉まんを買った後、すぐに事務所から連絡が入り、事務所に帰った。そのとき、矢原は白根葵の家を突き止めたという喜びを噛み締めながら家に帰っていた。当然、香耶美が仕事に戻ったとは知る由も無い。
そして、香耶美の実家を見張っていると、当然、同時に穂乃香ちゃんのことを監視することにもなる。
「笑える話でしょう? あいつ、お正月にいきなり家のチャイムを鳴らして、でた私にこう言ったんです」
「一緒に初詣に行こう。もちをおごりますから」
後ろから声がした。誰の声かは言うまでもない。矢原春風……香耶美をストーキングをしている最中、その妹に恋をした変人。
矢原は自分の席に座ると、腕を組んで、笑った。
「勝手に人の話をしないで欲しいね。まるで僕が悪いことをしたみたいじゃないか」
「いい事を教えてやる。ストーカーは悪いことだ」
「恋愛にストーカーも何もないね。あるのは情熱と愛情だけさ」
なんとも訳のわからない矢原らしいことを言うと、彼は補足説明をし出した。
「穂乃香の言う通りだけど、僕の名誉のために付け足しておきたいことがある」
ストーカーに名誉もなにもあるものか、と思ったが口には出さない。
「確かに、僕は白根葵の後を追って、それであの家を見張った。けどね、穂乃香を初めてみた日から、監視の対象は白根葵ではなく、本田穂乃香に変わったんだよ」
よくもこんな大勢の人がいる店の中で堂々とそんなことが言えるなぁ、と感心すると同時に呆れた。言った本人は満足していたが、穂乃香ちゃんは顔を再び赤くして、やめてよ……、と消えそうな声で矢原を止めようとしていたが、そんなのは無駄だ。
「恥ずかしがることは無いよ、穂乃香。人間は愛してなんぼ、愛されてなんぼだよ。僕は君を間違いなく、愛してる。これのどこが悪い」
変人というより変態になってきたな。店の一部の客が矢原の声を聞き、小声で何かを言いながら、こちらを見ている。その状況に耐えれなかったのか、穂乃香ちゃんは俯いた顔を真っ赤にして立ち上がり、早足でトイレに逃げ込んだ。
「恥ずかしがることはないと思うけどね」
矢原は近くに居た店員さんを呼び、空になったコップに水を入れてもらった後、すぐに一口だけ飲んで、少しだけ真面目な顔つきで俺に話し掛けてきた。
「白菊君、穂乃香がいないうちに話しておきたいことがあるんだ。多分、本田香耶美にの事件で重要なことだと僕は思ってる」
「……なんで穂乃香ちゃんがいない時に話しておきたいんだ?」
「穂乃香もこれから話すことは知ってるよ、というか、僕は彼女から教えてもらったんだ。だけど、穂乃香としてはあまり話したくも、聞きたくも無い話題だと思う。遺族として、そして一人の女の子としてだ」
なるほど。つまり、これから矢原が話す「重要なこと」というのは、少々、性的なものなんだろうな。女の子の前で話したくない話というと、それ以外は見当がつかない。
「じゃあ、話してくれ」
そう切り出すと、矢原は小さく頷き、話し出した。
「今の警察の捜査力っていうのはすごいね。死亡推定時刻とか、凶器が何がだとか、そんなものはすぐに分かっちゃうんだよ。被害者の死亡するまでの行動なんかも、すぐに調べる。そして被害者の知人等から、犯人を導き出したりする」
そこまで言うと矢原はもう一口、再び水を飲んだ。つられて俺もコップを持ち、少量の水を口に含み飲み込んだ。
そして横で話していた矢原を少し睨む。
「じれったいな。話は短くまとめろよ。お前は結局、何が言いたいんだ?」
「……警察の捜査情報って言うのは、遺族にある程度、伝わってくる。穂乃香は刑事さんが両親に説明しているのを盗み聞きしたらしいけど、君にとってもあんまり嬉しくないことが、司法解剖でわかったらしい……」
しばらく間をおいて、矢原は俺の目をまっすぐ見た。
「白根葵……つまり本田香耶美は、処女じゃなかったらしい」
その言葉の意味くらいは分かる。驚いていないというと、嘘になるだろう。ただ、心底驚いた、というほどでもないのも事実だ。性交渉位は、俺たちの年代になると、特に珍しいことではない。
それでも、やはり少しは驚いているらしい。体は素直で、コップを持っていたが静止してしまっていた。なんとも、分かりやすいリアクションだ。
俺と矢原はしばらくの間、沈黙した。お互いにどういう言葉を使うべきか迷っていた。
その沈黙を破ったのは、矢原の方だった。
「まあ、この事実から分かることは二つだよ」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
「香耶美は、誰かと交際していた可能性があるな」
俺がそう言うと矢原も俺を真似て頷いた。
「可能性は高いだろうね。そして、その交際相手は事件に関わっているかもしれない」
「そうなるな」
俺は頭の中で三年前を思い出していた。あの時のことは忘れられない。水嵩先輩を自殺に追い詰めた犯人を突き止めた後、俺が陸上部をやめるきっかけとなった出来事を、頭の中で思い出していた。
あいつが、そうなんだろうか。
「ところで、白菊君。ラーメンが遅いと思わないか?」
矢原の店への軽めの苦情で、俺は思い出すのをやめた。もういい加減、忘れた方がいい。あれはあれ、これはこれだ。
「ねぇ、ちょっと質問していいかな」
矢原が天井を見上げながら訊いてきた。どうせまた、いやなことを聞いてくるんだろう。それに、
「嫌だと答えたところで、止めてくれはしないんだろう」
よくわかってるね、と矢原は笑った。まったく……。
「君はまわりくどいのが嫌いらしいから、簡潔に質問しよう。……三年前、何で中学の陸上部を退部したんだい?」
「……お前が言うとおり、俺は回りくどいのは嫌いだ。だから答える。それの質問には、答えられない」
答えるのか答えないのか、どっちなんだよと自分でも思う。だが、変な嘘をついて昨日のようになってしまったら、どうしようもない。だから、ここは素直に「答えられない」と答えるのがベストだ。
意外なことに、矢原は俺の回答に不満を持たなかったらしい。
「そう答えると思ったよ。君が陸上部を退部した理由は、穂乃香が何度も生前の白根葵に訊いたけど、彼女も答えてくれなかったらしいからね」
穂乃香ちゃんは一体どれだけの俺の個人情報をこの変人に教えたのだろうか。正直、迷惑だ。こいつなら得た俺の情報を学校中に撒き散らしたり、よからぬ噂を流したりしそうで怖い。
「君、再び失礼なことを考えたろう」
大きく首を横に振る。矢原のため息が聞こえてきたが、気にはしない。
しばらくすると、穂乃香ちゃんが戻ってきた。さっきほどではないが、それでもまだ顔は赤い。彼女は姉と違い、シャイである。
穂乃香ちゃんが戻ってきたと同時に、店員さんがお盆で矢原と穂乃香ちゃんが注文したラーメンを持ってきた。この店一番人気の激辛ラーメンをだ。
お待ちどー、と言いながらラーメンを二人の前に置いた。ほとんど同時に、矢原と穂乃香ちゃんの、えっ、という驚きの声が聞こえてきた。穂乃香ちゃんはともかく、矢原まで驚いていたことに、俺は驚いた。
二人の前に置かれていたラーメンを覗き込んだ時、二人が驚いたのを理解した。
なんとも、赤い。
ラーメン、といわれて連想するものといえばメンマにナルト、薄い肌色のスープに、黄色の綺麗な麺がラーメン鉢に入っていてその上に緑色のねぎとトウモロコシが少しだけ乗っていて蓮華がついている、というおいしそうな物なのだが、今俺の目の前にある『仰天ラーメン』の激辛ラーメンは、店の名の通りに仰天させられるものだ。
赤い、というのが一番正しいたとえだと思う。同時に、変、といのも一番正しいたとえだ。とにかく、普通のラーメンではない。普通のラーメンと一緒なのはレンゲとねぎが入っているところだけだ。
赤いスープ、赤い麺、赤いメンマ、形を崩したナルトに、山盛りのねぎ、というのが激辛ラーメンだった。
「……ラーメンなのか? これ」
「僕に訊かないでくれよ。その質問、難しすぎるから」
矢原はゆっくりと蓮華を持ち、スープをすくった。赤いスープは、「俺、辛いっすよ」と言ってるようで、怖い。ちなみに、矢原の横では穂乃香ちゃんがさきほどまでの赤い顔とは正反対の、真っ青な顔で真っ赤なラーメンを見て硬直していた。
矢原は蓮華に入ったスープとにらみ合い、ちらりと俺の方を見た。
「飲んでみる?」
「悪いが、そんな勇気は持ち合わせてない」
僕もだよ、と矢原は呟いた後、再びスープとにらみ合いを始めた。恐らく、心の中では別のものを注文しておけばよかった、と後悔しているだろう。穂乃香ちゃんは、硬直したまま動かない。
そんな二人を横目で見ながら、俺はゆっくりと立ち上がった。そろそろ、帰らしてもらおう。どうせ、今日はもう話し合いなんて出来ないだろう。
立ち上がった俺を見て、矢原は蓮華を持ったまま言った。
「帰るのかい? それはそれで構わないけどね。明日の放課後、図書室に来てくれ。明日から、いよいよ捜査開始だよ」
笑って言ったつもりだろうが、口しか笑えていなかった。そんな彼を少しだけ可愛そうにと思いながら、頷いた。
そして二人に背を向けたところで、再び矢原に声をかけられた。
「君、代金は置いていってくれよ」
聞こえないように舌打ちをする。覚えていたか。
あの赤いラーメンの代金である九百円を矢原に渡し、俺は店を出て、商店街を歩いていた。明日から忙しくなるな。それもいいか。
矢原の声が頭の中でずっと響いている。
『三年前、何で中学の陸上部を退部したんだい?』
確かに俺は水嵩先輩の事件を調べ終えてからすぐに、陸上部を退部した。そしてそれ以降、香耶美とは話をすることも無かった。
俺が退部した理由を知るのは俺と香耶美だけだ。他の奴らは、全く知らない。桃山も柳も、俺が退部した理由は香耶美が教えてない限り、知らないはずだ。
なんで止めた、だと。ふざけた質問だ。じゃあ矢原、逆に質問してやろうか。
「……あんな物を見て、退部せずにいられるか?」
商店街を歩く人々を見ながら、呟いた。
放課後の図書室は静まり返っていた。いくつも並んでいる長い机の一つに座り、俺は適当にとってきた本を読んでいた。読書、などというものはあまりしない。本が読めない、というわけではないが、読む気にならない。特にホラーやミステリーなどは絶対に読まないようにしている。ああいう本は、人が死にすぎる。
図書室はもうクーラーがついていて、少々肌寒く感じてしまう。その肌寒い室内には、数名の生徒が本を読んでいるだけで静かなものだ。カウンターの向こうでは司書さんがパソコンをいじっていて、キーボードを叩く音が聞こえてくる。
十分ほど前にここにきたのだが、呼び出した矢原はまだ来ていない。そういえばあいつは何組なんだろうか? よく考えれば俺はあいつのことを全く知らない。知りたくも無いから良いけど。
本に目を戻す。この本は地球温暖化について詳しく書かれている本で、つい最近話題になっていた。特に興味もないが、暇なので適当に読んでいる。
図書室の時計に目をやると、五時前だった。七時間目の授業が終り、もう三十分近く経っている。おかしい。もうほとんどのクラスがホームルームも終わっているはずだ。事実、俺も二十分前にはここにいた。矢原と穂乃香ちゃんが遅すぎる。
人に待たされるのはあまり好きじゃない。ああ、そういえば水嵩先輩が自殺した日も香耶美に待たされたのを覚えている。あの時はたしか掃除当番だったんだ。
ゆっくりと本を閉じて、席を立ち上がり、本を戻しにいった。あまりにも退屈な本だ。もう少し時間がつぶせる本がほしい。そう思い、本棚を適当に見回る。
しかし、矢原は一体何をするつもりなのか。香耶美の携帯は確かに役に立つだろう。それにそれだけではそんなに大きな情報は掴めないだろう。そもそも、あいつは一体どうやって事件を調べていくつもりなんだ。さっぱり分からない。
何か良い策でもあるのだろうか。
大体、高校生三人がどれだけ調べれるんだろう。警察だってかなり力を入れた事件だ。何百人もの警察官で調べたに違いない。それでも分からなかった事件を俺たちだけでとくなんて、無謀すぎる。
ため息がでた。そんな無謀な計画にのっている自分が居るのだ。香耶美の死の真相を知りたいのは事実だ。だから今こうして、何かに期待し、矢原を待っているのだ。
『真実を知ろうとするからややこしくなるの。私たちは、事実だけを知ればいい』
三年前、水嵩先輩の事件を調べているときに香耶美が言った言葉だ。真実と事実がどう違うのか。当時の俺は勿論として、今の俺にもイマイチわからない。
本棚から何も取らずに席の戻った。何もしないで待っていよう。
「白菊、来夏さんですか?」
そう後ろから声をかけられたので振り向く。そこにはかなり長髪の女生徒が立っていた。彼女の髪の毛が目に付いたのは、校則で禁止されているはずなのに彼女の髪が金髪だったからである。上のフレームのないメガネをかけて、真面目そうに見えた。
「そう、そうですけど」
彼女の胸元を見ると、白い制服の胸ポケットに名札がついているのが見えた。名札には、彩原、と緑色で名前が彫られている。緑色、ということは三年生……先輩だ。
この学校では色で学年を判断する。今年は赤が一年、青が二年、そして緑が三年。来年にならばこれが一つずれることになる。
「矢原君が準備室の方にきてくれって」
そういうと彩原先輩は図書室のカウンターの置くにある扉を指差した。そこは『図書準備室』と呼ばれている部屋で、図書委員以外の立ち入りは禁止されている部屋だ。
「や、矢原がですか?」
彩原先輩は俺の質問に小さく頷いた。なんで矢原が図書準備室にいて、それを先輩が伝えに来るのだろうか? 訳が分からない。
しかし矢原が準備室に居るのなら行くしかない。立ち上がり、先輩に礼を言って、図書準備に向かう。
図書室は壁は全て本棚で覆われていて、そして細長い机がぎっしりとつめられている。そこにはいくもの椅子がある。生徒たちはいつもそこで本を読んだり、真面目なものは勉強したりするのだ。図書準備室はその机たちの正面にある貸し出しカウンター、もしくは返却カウンターと呼ばれるカウンターの奥にある。図書委員が休憩したり、話し合いをしたりする場所だと聞いたことがある。
カウンターの奥にある扉の前に立ちドアノブを握ろうとしたとき、なぜかその腕を止めてしまった。本当に入って良いのか? そう疑問を持ったとき、扉の置くから声が聞こえた。
「入っておいで。食べたりしないよ。僕はまずいものは食べないんだ」
聞こえてきたのは間違いなく矢原の声だった。まずいもの……確かに美味くはないだろうが。ま、あいつの失礼な言葉には慣れてきた。
ドアノブをまわし中に入る。図書準備室の中をはじめて見た。長方形の形をした部屋のなかには、真ん中に円形の机が置かれていて、その上には大量の書籍が積まれている。壁は図書室と同じように本棚に覆われている。
扉を閉じて、再び部屋を見渡す。円形の机と本棚、それ以外は何もないといえる。ただ、俺の横にはかなり背の高いサボテンが置かれていて、とても気になる。そのサボテンは俺より少し小さいくらいのサイズで、その緑色の体から小さな刺が数え切れないほどでている。
「ああ、それはサボテンだよ。知ってる?」
円形の椅子に座りながら、円形の机に肘をついている矢原が声をかけてきた。
「サボテンを知らない奴なんていないだろ」
「世界は広いからね。なにがあるか分からないよ。まあ、サボテンはおいといて、とりあえず話し合いをしようじゃないか。座るといい」
そういうと矢原は机の上の全ての書物を自分の座っている椅子の隣の置いた。そのおかげで机の上には何も無くなった。
矢原の反対側の席に座り、早速気になっていることを質問した。
「なんで図書準備室に入ることが許可される? ここは図書委員以外は立ち入り禁止だろ」
「おいおい、君は馬鹿かい。じゃあ、君は学校内で誰かに聞かれるかも知れないのに、堂々と殺人事件の話をしろっていうのか。アンビリーバボーだ。ここだったら誰かに盗み聞きされる心配もないと思ったんだけど」
「そうじゃない。なんで俺たちがここに入れる? 図書委員でもないのに」
そう少しきつめに言うと矢原は驚いたような顔をした後、何かを思い出したように手を叩いた。
「言い忘れてたか」
矢原はそう言った後、親指を立ててそれを自分の胸に指した。何が言いたいか、よく分からない。
「僕は、この学校の図書委員委員長」
……なるほどな。納得した。だから俺たちは今この部屋にいれるのか。なるほどなるほど。しかし、また疑問がでてきた。
「お前が委員長という話は信じよう。だが、何故だ? お前は二年だろ。委員長なんてのは三年生がやるものだろ」
俺の話を聞いた矢原は何度か頷いたあと、ではその質問にお答えしよう、といいながら立ち上がった。何故立ち上がったかは分からないし、興味もない。
「君の言うとおりだね。委員長なんてものは三年生がやるもだ、二年生なんてのはせいぜい副委員長を任されるか任されないか、そんなものだ。図書委員も最初はそうだったさ。今年最初に集まったとき、三年生の彩原先輩が委員長になって、僕が副委員長になった。ここまではお分かり頂けたかな?」
とりあえず理解できていたので一度だけ頷いておく。彩原先輩とはさっきの人だろうな。俺が頷いたことを確認すると矢原はまた喋りだす。
「一度はそう決まって僕を含めた図書委員会は安心したんだけどさ、彩原先輩が一言、こう言った。私は副委員長がいいです、とね。そんなわけで僕が委員長になった。彩原先輩以外の三年生は全員仲良く、委員長なんかしたくない、と異口同音だったからね」
話だけ聞いていていると今年の三年生はかなり我侭だと感じてしまう。まあ、先輩なんてものはいばっていて我侭なものだけど。
しかし意外だ。彩原先輩とはさっき会ったばかりだし、ろくに話もしてないがそんな我侭そうな人には見えなかった。どちかというとかなり責任感のありそうな、優等生、という感じがしたんだけど。人は見かけによらない、ということだろうか。
「言っておくけど、彩原先輩は僕以上に図書委員の仕事をしてるし、僕の手伝いだってしてくれるいい人だよ。まあ、かなり変わった人ではあるけど」
「お前にだけは言われたく台詞だな」
「失礼だね、僕のどこが変わっているんだい」
全部だよ、言ってやりたいが口には出さないでおこう。どうせまた訳のわからない言い訳をされるのがオチだ。
「とにかくだ。彩原先輩は良い人で変わった人だ。僕が言うんだから間違いはない」
その自信はどこから湧き出て来るんだだろうか。教えて欲しいものだ。喋り終えて満足したのか、矢原が席に座った。それと同時に俺は穂乃香ちゃんがいないことに気がついた。
「今日は穂乃香ちゃんはどうしたんだ?」
「穂乃香ならもうすぐ来るよ。それより、穂乃香が来るまでの間にこれでも読んどいてくれ」
矢原は自分の足元においてあったカバンを机の上に出し、その中からクリアファイルを出して、ファイルに入っていた一枚の白いプリントを差し出してきた。そのプリントはどうやら家庭用のプリンターのA4の紙で、何かが印刷されている。
「今回の『人気モデル連続殺人事件』の一人目の被害者の詳細が丁寧にまとまれてるよ。それを読んで、とりあえず今回の事件を知るといい」
それはありがいたい。俺はこの事件に関して、ほとんど大雑把なことしか知らない。怖くてまともにニュースを見れなかったんだ。
プリントを受け取り読み始める。プリントには一人目の被害者のことが事細かに書かれている。生年月日から、その生涯を終える瞬間のことまで。
真山弥子がこの事件の一番目の被害者である。彼女は白根葵と同じ事務所に所属していて、人気アイドル歌手グループ『テンドロビューム』で人気を博していた。年齢は十五歳で、生きていたら恐らくどこかの高校に入学していた。
『テンドロビューム』として活躍したり、バライティ番組にも多々出演し、写真集などもだしていて、かなりの人気があった。
芸能界関係者からは死後、礼儀正しい子だった、などと言われている。警察関係者が真山と親しかった友人や仕事仲間などに話を聞くと、色んなことが分かったが、有力な情報は得られなかった。
友人たちからの情報では真山は昨年の秋頃からカメラを趣味にしていて、よくデジタルカメラを持ち歩いていたという。その他、彼氏が欲しい、と言っていたり普通の学生生活が送りたいなどという愚痴をよくこぼしていたという。
芸能界関係者からは、仕事の態度はよかった、と褒め言葉が多かった。
友人、芸能界関係者ともに彼女に恋人はいなかったと言っている。
そんな彼女は二〇〇七年一月十三日に死ぬことになる。その日、彼女を最後に目撃したのはマネージャーだった。仕事場から近くの駅まで車で送ったのだ。駅で彼女を降ろし、そこで別れた。彼女家はその駅から三つ先の駅の近くだった。
彼女も有名人だったので変装はしていた。警察が調べた結果、駅の監視カメラに電車に乗る変装した彼女がちゃんと写っていたという。
そして翌日の朝に彼女は見つかる。彼女は自宅近くの人気のない裏道で、横たわっているのが見つかった。彼女が普段は通らない道だった。残念ながら、このとき既に彼女は息絶えていたということだ。
司法解剖の結果、彼女は午後九時から十時までの間に死亡したとされている。死因は頭を鈍器で強打されたことによる脳挫傷。
警察が必死に犯人をつきとめようとしたが有力な容疑者は現れなかった。
プリントにはそのほかにも書かれている。それは彼女の生年月日や通っていた学校や、出演し番組などで、あまり事件には関係なさそうだ。
「何か不思議に思ったことはあるかい?」
プリントを机の上において首を回していると矢原が訊いて来た。
「感想はいくつかあるが、不思議に思ったことは一つだ」
「何?」
「お前も気づいてるだろ。事件当日の真山の行動だよ。なんで人気のない裏道なんかに行ったんだろうな。夜中に、しかも一人で」
「一人ではななかったと思うよ。恐らく、犯人とだ」
そうだな、と相槌をうつ。
犯人はどうやって彼女を裏道へ呼び寄せたのだろうか。待ち合わせをしていた、と一瞬考えたがそれはおかしい。近くには彼女の実家があるんだ。待ち合わせならそこでしたらいいではないか。じゃあ、どうやって?
無理やり連れて行った、というのも可能性としては十分ある。変質者に襲われて人気のない所に連れ込まれた、というのはよくあることだ。しかし、そうなると香耶美の事件とこの事件は無関係になってくる。それに変質者も馬鹿じゃない。連れ去った人をいくら人気のないところとはいえ、道で襲ったりするのか? それに彼女に襲われた形跡は無いはずだ。
じゃあ、どうやって――。
そういえば香耶美もそうだ。何であいつはあんな所にいたんだろうか? 朝の五時に女が一人で土手にいるなんて普通は考えられない。
「白菊君、真山の行動意外に不思議に思ったことはないかい?」
「……特に無いな」
「そうかい。僕はあるんだよ。どうして、真山弥子と本田香耶美までの殺害の間に一ヶ月もの空白があったんだろう?」
言われてみればそうだ。確かに妙だな。一ヶ月の空白は長い気がする。真山が殺された後、香耶美の事務所はかなりモデルたちの仕事を減らしたし、モデルたちの警備も強化した。しかし、香耶美が殺されたのは朝の五時。朝の五時だったら、警備が強化されていたときも殺すことは十分可能ではないのか?
それともやはり警備が手薄になるのを待っていたのか。そうなると、犯人はかなり冷静だ。感情で突っ走るタイプではない。
しかし、本当にそうだろうか。犯人が冷静だったから、空白期間が生まれたのだろうか。違う気がする。ほかに可能性はある。
香耶美を殺すタイミングを伺っていて、そしてあの日、早朝から出かけた香耶美を殺した。早朝となれば犯人からしてみたら飛んで火に入る夏の虫だ。しかしそれだとおかしい。……そうなると何で香耶美があの日、あんな時間にあそこにいたのか説明できなくなる。
あの日、香耶美があそこにいたのはちゃんとした理由があったからだ。そしてそれは恐らく犯人とも関係している。
じゃあ、他の可能性はなんだろうか。……たとえば、
「……香耶美は、殺す予定じゃなかった」
つい声に出してしまった。その声を聞いた矢原が俺の方を見て、ニヤリと笑う。かなり不気味な笑みだ。
「なるほどね。それはいい考えだと思うよ。それなら、空白期間の説明は出来る」
説明は確かにできる。殺す予定じゃなかったから、一ヶ月期間があいた、という説明が。しかしここでもまた次の問題がでてくるのだ。何故、香耶美は殺されることになったのか。一ヶ月経ったからといって、そんな簡単に人を殺す理由が生まれるものなのか。
人を殺した奴の気持なんか考えたくもないが、ひとまず自分がもし殺人者だったら、と考えてみよう。殺す動機というのはどうやったら生まれるんだ。警察は事件の真相に気がついていないんだ。犯人なら不安はあるだろうが、喜ぶだろう。そんな中、人を殺す動機が生まれるとしたら……自分が犯人だと誰かにばれたときではないだろうか。そして口封じのため、殺す。
「本田香耶美は一人で真山の死の真相を調べた。三年前、君らがやったように。そして、真相を突き止めた」
「そして、それが犯人にばれて殺された……っていうことか」
「これが真実かどうかはわからないけど、説明はできるね。そして、一応だけど筋も通ってるじゃないか。それに今のが事実だとしたら、僕の推理にある裏付けができる」
俺は首をかしげた。
「僕の推理、だと。なんだよそれは」
「ひ、み、つ」
人差し指を立ててそれを唇に当てながら笑顔で言う。人生経験上、これほど気持の悪いものは初めて見た。今日の夢に出てこないことを祈ろう。
矢原は再び白いプリントを俺に差し出してきた。その顔はさっきとは全然違う、真面目な顔つきだ。
「さっきのプリントは真山の事しか書いてなかったろう。これには、本田香耶美のことが書いてある。悪いけど、読んでもらえるかな。感想も欲しい」
……香耶美のデータか。知ってることもあるが、俺の知っている香耶美は三年前までのもので、そんな物は古くて役に立たないだろう。あまり読みたくないプリントではあるが、読むしかない。
ゆっくりとそのプリントを受け取り、机の上に置いて読みはじめる。
白根葵こと本田香耶美が芸能プロダクション入りしたのは中学を卒業してしばらく経ってからだった。中学を卒業した彼女は家族を支えるため、近所の工場に勤めていたが、ブレイクしてからはそこを退社している。
彼女は芸能界でブレイクするまで少々の時間はかかった。それまでの間は芸能界で仕事などなく、彼女は工場でひたすら汗を流す日々を送っていた。
ブレイクしてテレビや雑誌などにも多くでてきた頃、彼女はとても嬉しそうだったという。
テレビでは陽気なキャラで通っていた彼女だが、事務所の人間や芸能界関係者からは、人付き合いが悪い、と不評だったことが分かっている。そのせいか彼女は交友関係がほとんどなかった。
その少数の友人たちからの話では、親しい人には優しかった、という声が聞けたという。その友人たちは彼女に彼氏などはいなかったと証言している。同じ証言は事務所の人間からもされている。
真山が殺された後はかなり白根葵としての活動は控えていた。
そして今年の二月十四日の午前五時半頃に、彼女の遺体は冬の寒空の下、その冬の空よりも冷たくなり発見された。
彼女は刺殺されていて、胸にナイフが突き刺さっており死因は心臓付近刺されたことによる失血死と判断されている。
警察の捜査は難航している。彼女の近辺を調べているが彼女の交友関係は少なく、それら全員が怪しく見えるのだ。なんたって犯行時間は午前五時前後とされていて、そんな時間にアリバイがある人間は居ない。全員、容疑者にされても仕方ないのだ。
本田香耶美と一番目の被害者の真山の共通では事務所だった。事務所関係者は真山と本田は仲のいい方だったと話している。実際、楽しそうに喋っているところが多々目撃されている。
香耶美と真山の共通の友人、というのが捜査線上に浮かぶ。そんな人物は少なく、ほとんどが同じ事務所のタレントだった。しかしそのタレントたちも、香耶美とは話したことがある程度、と答える人が多かった。
凶器のナイフからは本田香耶美本人の指紋がついているだけで他にはついていなかった。ちなみにこのナイフは香耶美が真山の事件後、護身用として買っていたという証言が取れた。
「おい、やっぱり香耶美は殺される予定じゃなかったんだ」
プリントを全部読まずに俺はそう決定付けた。そうだなんだ、犯人にとっても香耶美を殺害するのはきっと想定外の出来事だったんだ。
「何でそう言い切れるんだい?」
「凶器だ。凶器のナイフは香耶美の物だった。つまり犯人は殺す用意をしていなかったんだ。殺す準備をしていたら、凶器くらい自分のを使うだろ」
この推理にはかなりの自信がある。だって、その通りではないか。犯人が香耶美を殺す予定で土手にいる香耶美を殺したなら、凶器は自分のを使おうと考える。その場にナイフがあるなんて犯人は考えないだろう。となると、やはり香耶美は殺す予定じゃなかった。
しかもこの推理でいくと、香耶美は二月十四日当日まで殺されることにはなっていなかった。俺が香耶美を発見するまで、香耶美は誰かと一緒にいたんだ。そしてその誰かが香耶美をなんらかの理由で殺した。
「確かに推理としては成り立ってるけど、まだまだ否定できるね。凶器が彼女のナイフだったのは、彼女が抵抗したからかもしれない。犯人に殺されそうになった彼女は護身用のナイフで抵抗したが、もみ合いになっているうちに自分の胸にナイフが刺さる。それにナイフには彼女以外の指紋はついていなかったそうだよ。つまり犯人は手袋か何かをしていたんだ。殺す予定の無い人間が、手袋をしていたのかい?」
矢原の意見は見事なもので、何か反論しようにも出来ない。そうだった。ナイフに香耶美以外の指紋はついていなかったのだ。やはり犯人は香耶美を殺すつもりだった。
「あんまり焦って推理する必要なんか無い。そんな資料じゃ、たいしたことは推理できないしね。ただ、この資料かも分かることはある。犯人は間違いなく、本田香耶美の知り合いだ」
矢原の言葉に頷く。それはまず間違いないだろう。香耶美の知り合いでもあり、そして同時に真山の知り合いでもあっただろう。じゃなきゃ、真山を裏道になんか連れ出せないし、香耶美と土手にはいられない。
「白菊君、僕が何故、君に協力を要請したと思う?」
矢原が突然、笑顔でそう訊いて来た。何故、と言われても困る。とりあえず思うことを口に出しておこう。
「何故って……扱いやすかったからだろ。丁度俺には、香耶美の携帯を持ってるという弱みがあったからな。そういうのに漬け込んだんだろ」
言い終わると矢原は、ははは、と声をあげて笑い、膝を叩いた。かなりバカにされている感じががして、不愉快だが、もうこいつのこういう態度には慣れている。こいつはこういうやつなんだ、と半ば諦めているのだ。
「面白い回答だね。けど、正解だよ。その通りだ。君なら本田香耶美の捜査に協力してくれるという自信があったし、いざとなれば携帯のことで脅せばすむ」
少しは遠慮して否定しろよ。しかし、それはゆるぎない事実なんだろう。確かに俺ならかなり扱いやすかったに違いない。
「けどね、それだけじゃない。僕は君という力も欲しかったけど、君がもっていた携帯も欲しかったんだ。何故か、分かるよね?」
分かるよね、とどこか優しい表情で訊いて来たが、そんなの分かるはずも無い。こいつは一体どう考えて、俺が分かると思ったんだろうか。
俺が無言のまま首を振ると、だよね、と言った。だよね、と思うなら訊くな。
「さっきも言った通り犯人は被害者二人の知り合いだよ。知り合いをどうやって調べようかと思ったとき、一番手っ取り早い方法は携帯を調べることだと思ったんだ。携帯なら、メアドや電話番後も登録されてる。それにメールの覆暦もある。今の時代、誰と何通メールをしたかは携帯で分かることだ」
「なるほど……それでお前はまず、犯人は誰か、よりも、携帯はどこか、を推理したんだな。そして俺にたどり着いた」
矢原は、その通りだよ、と嬉しそうに笑顔で言う。まったく、本当にとんでもない奴だ。警察ですらたどり着けなかった携帯のありかを、一人で推理して見つけ出すなんて、普通の人はできないし、やろうともしないだろう。
「それで携帯は昨日渡しただろう。知り合いの特定はできたのか?」
「穂乃香が昨日の夜に携帯を調べてくれて、一番親しそうな人を特定したらしい。今はその人と連絡をとっているよ」
……待ってくれ。連絡を取っている、だと。連絡を取ってどうする気だ? 嫌な予感がする。
「矢原……お前まさか、会う気か?」
恐る恐る、そう尋ねると矢原は何時も通りの笑顔を俺に向けた後、小さく頷いた。やはりそうか。
元々、どう捜査する気なんだ、とこの二日間何度も考えた。誰かと会うのではないか、とも考えはした。誰かと会い、何かの話を聞くというのは最もやりやすい捜査ではあるが、リスクをかなり負うことになる。
忘れてはいけないのは、香耶美は生前、かなり売れていたモデルだったということだ。そうなると、香耶美の知り合いというのは、やはり芸能人やモデルなどが多くなる。彼らと会って話すなんていうのは、実にご遠慮したい。そもそも、俺たちみたいな普通の高校生に会ってくれるのかが問題ではないか。
それに一番の問題は、マスコミだ。彼らには香耶美が殺された直後、色々とされた。いきなり家に押しかけてきて、「香耶美さんとはどういう仲だったんですか?」と訊いてきたり、電話をかけてきてしつこく質問されたりと、かなりのストレスをためさせられた。
そんな奴らにもしも、俺たちが香耶美の事件を調べていると知れてみろ……やつらの「報道」という「遊び」の玩具にされるのがオチじゃないか。
芸能人、というものはいつでもどこでもマスコミが張りついている、と俺は考えている。
「会うしか方法は無いからね。そう、あからさまに嫌そうな顔をされても困るんだよ。なら訊くけど、会う以外の捜査方法を教えてくれよ。それ以外の捜査なんて、警察が全部やっただろうけどね」
「会って話しを聞く位、警察がしてないわけ無いだろ」
というかそんなものは捜査の中では一番最初にするものではないのか。そんなものを今更して、何がどうなるっていうんだ。
しかし矢原はいとも簡単に反論してきた。
「君は何も分かってないね。いいかい? 警察もそりゃあ聞き取り位しただろうね。というか、してなかったら大問題だよ。けどね、芸能界関係者や事務所の人間が全部なにも包み隠さず話すと思うかい?」
「違うって言うのか。バカ言うなよ、警察に嘘なんかついてどうするよ」
「警察に嘘をついてるんじゃないよ、彼らは。隠さなければいけない事実だってあるさ。ましてや芸能界だ。それに証拠があるね。君に見せたさっきのプリント。本田香耶美のデータを書いたプリントには、彼氏はいなかった、と書かれていた。あのプリントは穂乃香が警察から聞いた情報を元に作ったんだ。君も昨日言ったろう。本田香耶美には彼氏がいると」
確かにそれは間違いないと思っている。香耶美には付き合っていた男が居た。香耶美が体を許すくらいの相手が、確かに存在したんだ。
しかし……。
「香耶美が付き合ってるのを隠していただけもかもしれないだろ」
「真山が殺された後、本田香耶美にも事務所サイドから伝令があったらしいよ。余計なことは喋るな、とね」
言葉が出なかった。つまり、事務所がモデル等に口止めをしているのだ。それは当たり前のことかもしれない。事務所としてはモデルを殺されたということだけで大打撃。ましてや、その事から今後の営業に支障が出るかもしれない。支障が出ないように口止めするのは、自然なことだ。何人ものモデルと、何人ものスタッフが居るんだ。そんなところがもし倒産でもしたら、路頭に迷うものが続出する。それを防ぐためには、少々の犠牲や犯罪は仕方ない……。
「恐らく、本田香耶美が殺された後も、伝令は出たはずだよ。だから芸能界関係者やモデル仲間はたいした情報を警察には提供しなかった……嫌な話だね」
本当に嫌な話だ。軽く息を吐いてから、俺はさっきまでとは打って変わって真剣な表情になっている矢原に問い掛けた。
「会ったとしても、たいした情報は得られないかもしれないぞ。それでもいいのか?」
「……構わないね、僕は。いいのかどうかは、君が決めれば良い」
なんとも自分勝手な回答だ。そう思いため息をついた。それとほぼ同時に、扉が開く音がした。扉の方を見ると、息が荒い穂乃香ちゃんがカバンを片手に立っている。
「やあ、穂乃香。三河菖蒲(みかわあやめ)さんとは連絡は取れたかい?」
矢原の質問に穂乃香やんは言葉ではなく、頷きで返した。かなり苦しそうだ。どうやら走ってここまで来たらしい。額に汗をかいている。
……三河菖蒲だと。
「矢原っ、まさか香耶美が一番親しくしていたっていうのは……三河菖蒲なのか」
矢原も穂乃香ちゃん同様に頷きで返す。こいつの場合は苦しいのではなくて、ただ単に俺をおちょくっているだけのようだ。
三河菖蒲というと一昨年あたりからテレビや映画などでよく見るようになったモデルだ。演技力が高く評価されている。香耶美と同じ事務所という事は知っていたが、まさか仲が良かったとは知らなかった。メディアのことには疎い俺でも、彼女は知っている。
穂乃香ちゃんは息を整えながら、額の汗をハンカチで拭き、矢原の隣の席に着いた。そして俺と矢原にカバンから出した一枚の白いプリンを見せた。
「あ、姉の……」
「穂乃香、急いで喋らなくて良いよ」
息が荒いまま何かを説明しようした穂乃香ちゃんを矢原が止めた。かなり苦しそうに喋っていたからだ。これは矢原なりの優しさなんだろう。
机の上に置かれたプリントを見る。そこには縦に何名かの名前が書かれていて、そのうちの三つは丸で囲まれている。
しばらくすると息を整えた穂乃香ちゃんがプリントについて説明を始めた。
「姉の携帯にメールアドレスが登録されていた人の名前を一応書きとめておきました。そして、メールの覆歴から一番親しかった人を特定しました。それが、三河さんです」穂乃香ちゃんは次の言葉を間も入れず、続けて言う。「次の日曜日、会うことになりました。白根葵の妹ですって、姉の携帯に登録されていた携帯電話番号に電話して言ったんです。会いたい、と言ったらすぐに時間の開いてるときを調べて会ってくれることになりました」
その後も穂乃香ちゃんはきちんと色々と説明していたが、俺はほとんどそれを聞いてはいなかった。穂乃香ちゃんが差し出したプリントをジッと見つめていた。何名か有名人の名前が書かれていて、三河菖蒲、神野恵美、小原玲子の三つの名前は丸で囲まれている。神野と小原は、真山が属していた「テンドロビューム」の残りのメンバーだ。どうやら、この三人と会うらしい。
他にも穂乃香ちゃん自身の名前や、香耶美の両親の名前もある。ただ、俺がそのプリントをジッと見てるのには訳があった。
そこに、俺の名があったからだ。
喫茶店『TEMPO』はこの間、俺たちが話し合ったラーメン屋『仰天ラーメン』から少し離れた場所にある。商店街の傍にあるものの、客は何時も少ない。店のコーヒーの味に問題があるわけでも、店長が客に対して「お前に飲ませるコーヒーはねぇ!」と怒鳴ったりするほど嫌な人でもない、普通の人だ。客が少ないのは場所が悪いからだ。『TEMPO』は商店街の中にある細い曲がり角を抜けたところにあり、その存在を知るものは地元の人間でも少ない。
店内はいたって普通の喫茶店。どこかレトロな感じはする、少々おしゃれな店だ。その店の奥は外からは見えないし、中から見えにくい。
その奥にある少し長めのテーブルに俺と穂乃香ちゃん、矢原が並んで座っている。そして向き合って、三人の若い女性が座っている。
真ん中には肩まで伸ばした黒い髪のサングラスをかけて、黒い服を着た女性。耳には高そうなピアスをしている。彼女こそ、ドラマや映画で活躍しているモデル、三河菖蒲。香耶美と仲が良かったという人物。
その右隣に座っているのがかなり若い女性。とは言ったもの、俺らと同年代。茶髪の髪は耳あたりまでしか伸びていなくて、かなり短め。似合っていないフレームの太い黒いメガネをかけていて、俯いている。彼女は小原玲子だ。『テンドロビューム』の一人。
最後の一人は今、注文したアイスコーヒーをストローで飲んでいる。赤い髪の毛で、それを腰くらいまで伸ばしている。先ほどまでマスクをしていたが、今はコーヒーを飲むためはずしている。瞳まで赤い。彼女は『テンドロビューム』最後の一人、神野恵美。
冷静に三人を見て分かることは特に無い。一つ分かることがあるのは、小原は緊張している、ということ位だ。先ほどから俯いたまま、顔をあげない。
緊張しているといえば、穂乃香ちゃんもだ。俺の隣でかなり緊張している。膝に乗せた拳が震えているのが良く見えるし、それに顔も赤い。ただ、ちゃんと三人を見るようにその赤面を隠すことも無く、目の前の有名人たちを真っ直ぐ見ている。
有名人を目の前にしたら、個人差は出るだろうが、穂乃香ちゃんのように緊張するのが普通だ。俺や矢原のように冷静すぎるのが異常なのだ。
矢原はというと、先ほどから緊張して困っている自分の彼女が隣にいるのに、そんなのは見ないでメニュー表と睨めっこをしながら「どれにしようかな、どれにしようかな」と小声でブツブツ呟いている。非道だ。
俺はというと矢原のことを悪くは言えず、困っている穂乃香ちゃんを助けることも無く目の前の三人を見つめていた。俺らの方を向いているのは三河さんだけで、『テンドロビューム』の二人は片方は俯き、もう片方はコーヒーを飲んでいるだけ。
先日、図書準備室で穂乃香ちゃんが言い放った。話の進行は私に任せてください、と。
それはありがたい話だ、と思った。彼女なら話の進行はしやすい。嫌な話しになるが、彼女は遺族なのだ。この事件の二番目の被害者の。そして三人の友人の。
穂乃香ちゃんなら相手も気を使ってくれるだろう、同じ女性だし。見知らぬ男子高校生が話を進めるよりはいいだろう。
ちなみに、俺たちはまだ一言も喋っていない。午前十時にこの店で会うと約束をしていたので、俺たち三人は九時五十分頃にこの店についた。その時はまだ三人で会話があったものの、店に三河さんなどが入ってきて目の前の席に座った瞬間から、会話が無くなり、現在にいたる。
そろそろ話し合いを始めたい。穂乃香ちゃんを見ると、額にすごい汗をかいていた。よほど緊張しているらしい。
突然、穂乃香ちゃんが立ち上がった。それに驚いて矢原を除くその場に居た全員が彼女に注目する。矢原はメニュー表をみたままである。穂乃香ちゃんは全員に見られたことにより、赤い顔をさらに赤くする。
「きょ……今日は、時間をつくって頂いて、ありがとうございまさぅ」
緊張のせいで言葉が震えているし、呂律も回っていない。「す」の発音が出来ていないほどだから、重症だ。
三河さんを見てみると、立ち上がっている穂乃香ちゃんをしばらく見つめた後、突然声をあげて笑い出した。それには流石に驚いたのか矢原がやっと顔をあげる。どう考えても、あげるタイミングを間違っている。
三河さんは口元を隠しながら大きな声で笑っていた。それは、バラエティ番組などを見ていた一般の人があげる笑い声と似ている。心から、笑っている。
一通り笑い終えた三河さんがやっと喋ってくれた。
「ごめんねぇ、笑っちゃって。けど、本当にあの葵ちゃんの妹なのかな、と思っちゃったの。それ位、性格は似てないわ」
三河さんのその気持は分かる。恐らく、香耶美と親しい人間ならこの気持は分かるはずだ。穂乃香ちゃんがここまでシャイなのに対し、姉の香耶美は「照れる」という言葉を知っているのかと問いたくなるほど、堂々としていた。
この姉妹は他にも似てない点が多々ある。しかし、似ている点もある。それは、真面目さだ。香耶美もそうだったが、穂乃香ちゃんも真面目だ。
「穂乃香ちゃん、座ったら」
俺がそう小声で言うと穂乃香ちゃんは慌てて座る。矢原は再びメニュー表とにらみ合いを始めた。どうやらこの男は話し合いに参加する気は無いようだ。なんとも、無責任。
穂乃香ちゃんは額にかいていた汗をポケットから出したハンカチで拭いて、コップの水を飲み、そして深呼吸を一回した。落ち着こうとしているんだろう。
しかし……三河さん、只者じゃない。この場の空気がさっきよりも軽くなった。さっきまでは全員が一言も喋らなくて重い空気だったのが、軽くなった。それは三河さんが大笑いしたからだ。これを計算でやったというのなら……彼女はすごい。
「今日は、姉の話しが聞きたくて」
「うん、聞いてる。私たちの知ってることなら、喜んで教えてあげるわ」
穂乃香ちゃんはまず事件には触れないで、香耶美がどんな仕事をしていたかなどを聞き始めた。いきなり事件の話をするのは止めておいた方がいい、と矢原がアドバイスしたからだろう。
矢原がどういう意味をこめてそのアドバイスをしたかは知らないが、そのアドバイスは的確だっただろう。事件の話をいきなりして、三人と話しづらくなって困るのは勿論として、少しでも多くの情報を得る必要がある。
事務所サイドから伝令がきているんだ。事件のことについては余計なことは喋るな、と。つまり、彼女たちは事件のことについてはあまり話せない。話そうとしないはずだ。
変に事件の話をして話を有耶無耶にされるより、普通の会話をしてその中から多くの情報を得るほうがいい。勿論、事件の話もしなくてはならないだろうが。
図書準備室で矢原と行き着いた一つの結論……犯人は真山と香耶美の共通の知り合い。それはつまり、この三人に当てはまる。
この三人を犯人扱いするわけではないが、可能性は十分ある。
「葵ちゃんはいい娘だったわよ。仕事熱心って感じ。与えられた仕事は全部やってたもの。売れっ子モデルにもなると、ある程度の我侭が出てきて与えられた仕事をやらない、なんて子もいるのに葵ちゃんは本当にがんばってやってた。それにスタッフとかにも優しくて人気もあったわ。けど、そのせいでモデル仲間から嫌われてたりしてたみたい。本人は全然気にしてなかったけどね」
三河さんが香耶美のことについて話している最中も、店内は静かなものだった。なんたって俺たち以外の客はいないのだから。それを見込んで、この店で会うことしたらしい。
穂乃香ちゃんが彼女の話しに相槌をうったり、また質問をしたりと続けているだけで、俺を含めたほかのメンバーが話すことは無かった。
葵ちゃん。三河さんは香耶美のことをこう呼んでいる。これは親しかったということなのだろうか。他の芸能界関係者やモデル仲間がどう香耶美のことを呼んでいたか分からないが、親しそうな雰囲気はする。
モデル仲間から嫌われていた、か。香耶美がそんなことを気にするはずが無い。あいつは、そんなのは慣れている。同性の嫉妬など、あいつからしてみれば空気のようなもので、そこにあるのが当たり前だったはず。中学時代、あいつに同性の友達は数名いたものの、やはり女子からは嫌われていた。別にあいつが悪いわけではないのだけど。
しかし、香耶美がそれで落ち込んだりすることは無く、いつも「ほっとけばいいのよ」と言っていた。
「姉と、親しかった人などはいますか?」
穂乃香ちゃんの質問に三河さんは、うーん、と顎に手を当てて悩んでいた。
「親しかった……か。葵ちゃんはあんまり人付き合いは良くなかったからね。いい娘だったんだけど、どこか冷たい所があったな。けど、案外私は親しい方だったよ」
「というか、葵が本当に親しかったのは菖蒲姉さんだけよ」
初めて、三河さんと穂乃香ちゃん以外の人間が喋った。喋ったのはコーヒーを飲んでいた神野だ。声からして、何故か不機嫌そうだ。
「事務所の中でも葵と喋ったりする人間はいたけど、三河さん程親しかった人はいないわ。私だって喋ったりメールしたりしたけど、あんまり葵のことは知らなかったもの」
「そんなこと無いでしょう」
「そんなことありますよ。私、葵の中学時代の話なんてされたこと無いもの。姉さんはされたんでしょう?」
中学時代の話だと。それは水嵩先輩の話だろうか。いや、そんなはずは無い。香耶美はあの話をするわけがない。あれは俺たちにとっては封印した記憶。忘れなければいけない過去。
「私にだって少ししかしてくれなかった。玲ちゃんはどう?」
三河さんが隣で俯いていた小原玲子に尋ねた。彼女は突然質問されたことに驚いて、エッ、と赤らめた顔をあげた。彼女も緊張しているらしい。俺たちが有名人である彼女に会って緊張するのは分かるが、何故彼女の方が緊張しているのだろうか。どうでもいいが、穂乃香ちゃんと気が合いそうだ。
「わ、私にもそんなに話してくれなかった……けど、親しくしてたつもり、です」
彼女の緊張は穂乃香ちゃんは以上だ。
「ごめんね、玲ちゃんシャイなのよ」
よくそれでモデルなんて商売をやってるもんだ。あんな仕事は万人の目の前に姿をさらすことだろう。それで緊張しないのだろうか。
「私、君の存在だって姉さんに教えてもらうまで知らなかった」
神野が俺を指差しながら言った。突然指を指された俺は驚きはしたものの、すぐに訊き返す。
「俺のことをですか?」
「ああ、あなたが白菊君か。へえ、噂どおり」
三河さんが俺のことをジロジロ見ながら言う。正直、止めて欲しかったが、止めて欲しい、ともいえない。クスクス、という矢原の笑い声が聞こえてきた。腹が立つ。
「あの、香耶美が俺のことを話してたんですか?」
三河さんが答えると思ったが、予想外に答えたのは神野だった。
「君の話は相当聞かされた。最初に君の事を葵が三河さんに話して、それを私に教えてくれたの。それで私が、白菊君ってどんな人、って訊いたのよ。言っちゃ悪いけどその場の話題づくりでよ。けど、葵はかなり君につていて話してくれた。あそこまで必死に葵が話してたのは、後にも先にもそれ以来」
「私も……された」
神野の話しに小原も同意する。香耶美が俺の話をしていたか……嬉しいようで、悲しいようで、何か複雑な気持になる。
香耶美は俺の話をしていた。しかし俺はどうだろうか。香耶美のことを一日でも早く忘れようとしていたり、香耶美と関係を隠そうとしていたりした。情けない。
「私はあなた以外にも、桃山君……だっけ? その子の話もされたわ」
三河さんが俺を見るのをやめて、コップの水をストローで飲みながら言った。桃山の話もされたのか。ということは、柳の話もされただろう。……三河さんはどうやら相当親しかったようだ。香耶美が俺のことや桃山や柳のことを話すなんて、親しかった証拠だ。
ここは一発勝負に出てみるか。
「質問して良いですか」
「どうぞどうぞ」
「真山さんと香耶美はどういう仲でしたか?」
場の空気が凍った。先ほどまで笑顔だった三河さんからも笑顔は消え、小原は我関せずと言わんばかりに再び俯き、神野は俺を少し睨んだ。穂乃香ちゃんは事件の話をし出し俺に驚き、俺を見開いた目で見た。
しばらく誰も言葉を発しなかったが、矢原が突然カウンターに向かって「店員さーん、抹茶パフェ一つ!」と大声で注文した。空気を読め。
「……やっぱり、そっちの話しが聞きたかったのかぁ」
三河さんが笑顔で俺を見る。
「騙すつもりはありませんでした。ただ、俺たちも必死なんです。警察だけには任せられないんですよ」
彼女たちも事件の話をされないとは思っていなかっただろう。そして三河さんの言葉から見て、薄々だが事件のことを俺たちが知りたがっていたのも気づいていただろう。
「弥子は多分、姉さんの次に葵と親しかったと思う。仲良かったもん、あの二人」
神野が俺を睨むのはやめ、目をそらして話してくれた。仲が良かったか……これは何か事件に関係あるのか。
「香耶美が真山さんの事件について、調べてたりしてませんでしたか?」
その質問をした途端、俯いていた小原がいきなり顔をあげた。彼女は、しまった、という顔をしたが無視するわけにはいかない。彼女は何か知っている。
「小原さん、何か知ってるんですか?」
「…………」
彼女は再び沈黙し俯こうとするが、それを三河さんが言葉で制する。
「玲ちゃん、答えなさい。彼らも必死なのよ」
笑顔をやめ、真剣な表情の三河さんが言う。そこから威圧を感じてしまう。小原は少し間をあけた後、小声で話し始めた。
「弥子ちゃんが殺された後……私、葵ちゃんに色々訊かれた。警察にどんなこと訊かれた、とか。なんか事件のことで知ってることはないかって。けど、事件のことを知りたいのは多分、弥子ちゃんと仲が良かったからで……」
もういいですよ、と俺はまだ話を続けようとする小原を止めた。これ以上話さしたら悪い。やはりそうか。香耶美はやっぱり事件を調べていたんだ。それがどういう目的かは知らないが、あいつのことだ、また好奇心からだろう。
「そういう事なら、私も訊かれたよ」
神野が実に不機嫌そうに言った。
「けど玲の言う通りだよ。葵だって、弥子の死の真相が知りたかっただけだよ。今のあんたらと同じだ」
死の真相が知りたかっただけ……。彼女たちは知らないのだ、香耶美が人の死の真相を調べるのがこれが二回目であることを。
コップの水を一口のみ、緊張で乾きかけていた喉を潤した。
三河さんが突然、自分の膝に置いていた黒い高級そうなセカンドバッグをテーブルの上に置く。その行動の意味が、俺たちは理解で来たかった。
彼女はセカンドバッグを開けると、そこから髪留めを取り出した。それには造花がつけられている。赤く小さな薔薇のような造花。しかし、それは薔薇ではない。これは……。
「――鳳仙花ですね」
俺がそう言うと三河さんは少し驚いた顔をした。
「へぇ、これ鳳仙花なんだ。ずっと薔薇だと思ってた。これね、葵ちゃんが事務所に入ってきたときにくれたんだ。二人ももらったでしょう」
彼女に質問にテンドロビュームの二人は頷く。そして彼らもまた、これが鳳仙花だと知らなかったようだ。知らなかった、と顔にかいてある。……なんてことだ。香耶美、お前は一体……。
この三人はこの髪留めの意味を知らない。香耶美が密かにだしていた、隠れたメッセージを読み取れないでいる。しかしわざわざその意味を知らせることも無いだろう。知らない方がいいこともある。香耶美と親しかった人に、その意味を伝えるのは傷つけるだけでなんの得も無い。
とりあえず話を進めよう。再び水を一口飲む。
「三河さんは、事件後香耶美に何かされましたか?」
「うーん、どうだろう。二人みたいに質問はされてないな。……ああ、そういえばストーカーに悩んでたみたい。それは事件以前からだけど。けどモデルの仕事をしてる以上、そういうのはいあってしょうがないの。ただそれにすごいおびえていたわ」
矢原……お前のことを言ってるんだぞ。ちらりと矢原を見ると、俺から目をそらしていた。逃げやがったな。
その時、俺の膝が数回突付かれた。つついたのは穂乃香ちゃんで、震える指で弱く突付いていた。何故か、表情が暗い。
「どうしたの」
俺が小声で聞くと、穂乃香ちゃんは指同様、震える声で三人には聞こえないよう返事をした。
「春風がストーカーをしてたのは、今年の一月までで、それ以降は私と付き合ってたからしてません。真山さんが殺され後、あいつはストーカーはしてません」
衝撃が体の中を稲妻の如く貫いた。そうだ、矢原は去年の暮れストーカーをしていただけでそれ以降はしてない。つまり、今年に入って新しいストーカーがでてきたんだ。それは事件とは無関係だろうか。関係が有るとしたら……。
「すいません、香耶美と親しかった男性っていますか?」
その質問に再び場が凍りつく。何故か三人とも、その質問は避けようとしていたようだ。やはり何かあるに違いない。
沈黙の中、再び矢原が「店員さーん、抹茶パフェまだですか?」と叫んだ。空気を読め、本当に。ところが突然、矢原は三河さんに目を向けた。
「テレビで見るより綺麗ですね、三人とも。後で一緒に写真、とってもらえますか」
こいつは一体何をしに来たんだろう。さっきまで一言も話していなかった矢原が話し掛けてきたことに驚いた小原が顔をあげた。神野は呆然としている。ちなみに穂乃香ちゃんが大きくため息をついたのを俺ははじめて見た。
「いやぁ僕は美人には目が無くてですね。現に白根葵の大ファンだったんですよ」
変態親父だ。なにを堂々とそんなことを言っているんだ。
「ですから、知りたいんですよ。彼女が何故か殺されたのか、誰に殺されたのか。分かりますよね。だから話してもらえませんか。警察に隠した情報も全部」
矢原は笑顔でそう訊いているが、三人の表情は笑顔などではない。固まっている。
「白根葵と親しかった男性はいたはずなんですよね、羨ましいことに。アナタたちは、それを知ってるはずだ。特に三河さん、あなたが知らないはずが無い」
沈黙がまた訪れる。穂乃香ちゃんが矢原を止めようと「ちょっと春風」と声をかけるが、矢原はそんなことは気にしてないようだ。
しかし、矢原の無理やりな尋問も良いかもしれない。事件の話をこの三人から聞きだすには少々荒っぽい方がいい。もうたいした情報は得られないだろう。
「……玲ちゃん、恵美ちゃん。あなたたちは先に事務所に帰ってて。私もすぐ帰るけど」
その言葉に小原と神野は驚きを隠せないようで大きく開けた目を三河さんに向けるが、彼女が「早く」と言うと、その言葉に従い席を立ち上がる。
これを止めようかどうか迷ったが、矢原が止めないので俺も止めないことにした。穂乃香ちゃんは首を左右に揺らしかなり戸惑っていたけど。
二人は一応俺たちに頭を下げ、店を出て行った。
「……二人を帰らしたってことは話してくれるですよね」
「ええ、話してあげる。ただ私の知ってることなんて大した事じゃない。何の役にたたないかもしれない」
「良いですよ。こっちは藁をも掴む思いなんです。どんな些細なことでも構いませんよ。ああ、三河さんも抹茶パフェいかがですか? 奢りますよ、彼が」
俺を指差しながら矢原が笑顔でメニュー表を三河さんに渡す。待て待て。
「なんで俺なんだよ」
この反論は当然しなければならないものだ。今回は奢る理由が無い。
「仕方ない。僕は今日、財布を持ってないんだよ」
矢原がサラリと言った爆弾発言に俺も穂乃香ちゃんも、三河さんまで驚いた。
「さっき自分から抹茶パフェを注文してだろう。あの料金はどうするんだ」
「頼んだよ」
「ふざけんな」
仕方ないじゃないか、と矢原が訳のわからない言い訳をする。今のうちに注文をキャンセルした方が良いのではないかと思っているうちに店員さんが笑顔でお盆に矢原の注文した抹茶パフェを乗せてやってきた。
店員さんは笑顔のまま、どうぞ、と言いながら事情も知らないで抹茶パフェをテーブルに置き去っていく。ここまでくるとキャンセルなどできるはずもない。……どうしたらいいだろう? 俺は甘いものはあまり好きじゃないから、食べれない。
腹が立つがここは矢原に渡しておこう。今度また、料金を請求してやればいい。利子をつけて。そう決めて抹茶パフェを矢原に渡した。渡されたパフェを笑顔で矢原は受け取る。
さて。
「すいません。話しが脱線してしまいましたが、お話を聞かせてください」
そう切り出すと三河さんは神妙に頷き、コップの水を少し飲んだ後、話し始めた。
「『テンドロビューム』が葵ちゃんより先輩ってことは知ってるわよね。葵ちゃんが事務所入りしてた頃、玲ちゃんも恵美ちゃんも弥子ちゃんも活躍してた。葵ちゃんが売れ始めたときね、ほとんど知られてないけど、弥子ちゃんに恋人が出来た。弥子ちゃんは嬉しそうにしてたのを今も覚えてるわ。けどね、彼女、捨てられたの。……その恋人が、葵ちゃんに惚れたのよ。馬鹿みたいな話だけど、これが本当の話なんだから。それで弥子ちゃんをすてた恋人は、葵ちゃんに告白したわ。葵ちゃんは断ったらしいけど、そいつはしつこく何度も告白したらしいわね。その後は知らない。ただ、そんなことがあったのに葵ちゃんと弥子ちゃんは仲が良かった、不思議なくらい」
……真山の行動はおかしい。何故、すてられる原因となった香耶美と仲良くしていたんだろうか。 香耶美には罪は無い、とでも思っていたのか。そんな事思えるのか。
そして香耶美だ。あいつは告白をどうしたんだろうか? 最後まで断り抜いたのか、それとも……。
思考めぐらせていると矢原の声が聞こえてきた。
「その馬鹿男と会いたいんですけど」
その案には大賛成だ。会って話をしたい。いや、問い詰めたい。どういう気持で香耶美に近づいたのかを。どういう気持で真山を捨てたのか。
そして叶うなら、一発殴りたい。
「……来週の日曜、同じ時間にここにいて。連れて来れたら、連れてくる。事務所が違うから、無理やりつれてくるわけにもいかないの」
「……誰かは教えてくれないんですか?」
俺の質問に、三河さんは悲しそうな顔で首を横に振る。
「相手のプライバシーもあるし、本当に連れて来れるか分からないから」
相手のプライバシーか。そんなものを考えている余裕はないんだが、考えなければならないのか。そんな尻軽男のプライバシーまで……。
三河さんはバッグを持ち立ち上がった。
「今日はここまで。じゃあ、また来週」
それだけ言うと彼女も店を出て行った。後姿を見送ったが、別れの挨拶まではしなかった。そんなもの笑ってできるほど俺の頃は今、平常ではない。
穂乃香ちゃんがテーブルの上に置かれている鳳仙花の造花がついた髪留めを見つめている。香耶美の密かなメッセージ。
「なあ、矢原」
俺が話し掛けると矢原は抹茶パフェを頬張りながら、なんだい、と訊き返してきた。
「今回の話し合いで収穫はあったか?」
「あったじゃないか、すごい収穫が。大漁旗をあげてもいい位だ。特に最後の三河さんの話は貴重だね。あれは警察にも話してないだろう。正直、とてもじゃないけど事件とは無関係と言えないね」
その言葉に俺も穂乃香ちゃんも頷く。必ず何らかの形で事件に関わっているだろう。しかし矢原も気づいていないらしい。今の話し合いで、本当の最大の収穫を。
「一種類の花にも、色んな花言葉があるんだよ」
俺が突然、花の話をを始めたから流石の矢原も少々驚いている。
「矢原、鳳仙花の花言葉知ってるか?」
首を振る矢原。穂乃香ちゃんにも視線を向けてみるが、彼女も首を横に振る。なるほど。
「鳳仙花の花言葉花はな」しばらく間を空けて、続けて言った。「『私に触れないで』」
二人の表情が固まった。あの矢原が驚きのあまり表情を無くしている。愉快な映像だ。しかし、そんな愉快な物を目の前にしても、俺も二人同様、笑えない。まったく、笑えない。
なんで香耶美はこんなメッセージを残したのだろうか。
鳳仙花――三年前の事件にもこの花は出てきた。あの事件にはあまり関わることはなかったが、あの花が水嵩先輩の飛び降りた屋上に供えられていたことがある。
ゆっくりと、頭の中でその事を思い出す。
第四章【ロべリアの花】
二〇〇四年・夏
屋上では風をじかに体に受けることとなる。その風は着ていた制服や髪、そして抱えていた花束を靡かせた。空はどんより曇っていて、雨が降るかもしれないという感じのはっきりしない天気。
俺はその場にしゃがんだ。目の前には沢山の花束やお菓子、そして手紙などが置かれている。これを見ると水嵩先輩はやはり人望が厚かったんだなと思う。
彼女が自殺して、一週間が経つ。葬式なども終了したし、学校の騒ぎも一応は収まりつつある。先日、やっと事件以後禁止されていた陸上部の活動も再開され、久々に部長とも会えた。女子陸上部も再開されたが、見ているととても気の毒だった。元気な人などいなくて、皆暗い顔をしていた。
色とりどりの花束が並べられている。そこは彼女が飛び降りた場所。彼女は俺の肩ほどの高さのコンクリートの塀を乗り、そこから飛び降りたのだ。その塀に花束が支えられて立っている。勿論、それは今、俺の前の前にある塀である。
先に供えられていた花束たちと並べるように持っていた花束を置き、そして目を瞑り手を合わせた。
彼女の死後、ここを訪れるのは初めてである。もっと早く来なければならなかったんだろうが、なぜか行く勇気が出なかった。そしてやっと今日、香耶美や柳に催促され行く決心を固めたのだ。花束は柳が用意してくれていた。用意周到なもんだ。
目をあけて立ち上がる。そろそろ帰ろう。あまり長居する所でもない。
「ああ旦那、いましたね」
呂律の回っていない声が聞こえてきたので、声の聞こえた校舎に通じる扉の方を見ると、飴玉を口の中で転がしている桃山がゆっくりとした足取りで俺の方に向かって手を振りながら歩いてきた。
「カーヤの姉さんも人使いが荒い。まああの人らしいですけど。……水嵩先輩の墓参りは終わったんですか」
「ここは墓じゃない。まあ、墓参りみたいなもんだが。終わったよ」
俺が花束を見ながらそう言うと、桃山は満足げに頷いた。
「なら、もういいいでしょう。カーヤの姉さんが部室で待ってます。行きましょう」
「あいつまだ、調べる気かっ」
つい声を上げてしまいそれが屋上に響いたが、桃山はあくまで笑顔のままだった。
「仕方ありませんよ。けど旦那、あなたも無視できる問題じゃないですよ。これが自殺なのか、事故なのか、果てまた殺人なのか。これは知りたいでしょう?」
笑顔だが桃山もかなりこの事件でショックを受けていた。そして恐らく、どうしようもない怒りを覚えている。俺と同じように。
風が再び吹いて、花束たちが揺られて音を立てる。
水嵩先輩の死を警察は自殺という事で片付けたらしい。しかし、それに疑問の声をあげる者がいた。本田香耶美だ。
あいつは事故直後からこの事件について「調べよう」と言っていて、今も柳と桃山を傘下に加え、陸上部の活動をしながらも水嵩先輩の事件を調べている。その活動に俺も参加を強要されているが、参加はしていない。
人の死に関わらない方がいい。事件を調べていた香耶美に俺はそう言った。別にあいつを傷つけるつもりも何もなく、単純にそう思ったから口にしたのだ。しかし、香耶美はこの一週間、事件を調べ続けている。
「何も知らないで終わるのなんて御免だわ」
柳の話では香耶美はそう言っていたそうだ。彼自身も水嵩先輩の死の真相を知りたいと思って香耶美に協力して、事件を調べている。桃山が何故、二人に協力しているのかは知らない。まあ、こいつ自身も真相を知りたいのだろう。
俺だって真相は知りたい。何で水嵩先輩が死んだのか――遺書でも残っていたら、自殺だと断定できただろうし、その理由も明らかになる。
しかし、水嵩先輩の遺書らしいものは見つかっていない。
だから彼女の死は謎に包まれているのだ。自殺なのか事故なのか、果てまた殺人なのか。それについてはまったく分からない。警察は、塀を乗り越えて飛び降りた、と推測し自殺と判断した。塀の周りに特に争った形跡はなく、殺人ではないと断定し、塀を登った、ということは水嵩先輩の自らの意思によるもので、そこから自殺と決められた。
確かにあの塀の上から飛び降りたんじゃ、事故の可能性は少ない。遊び半分で上るような所じゃない。殺されたとしても、あんな所から落とされそうになったら抵抗して争った形跡は残る。其れが無い。だとすれば警察の判断が一番正しいだろう。
しかし、自殺だとすればおかしい。彼女は何故遺書を残さなかったのか。それと、何で四時半の前に自殺したのか。
俺は先輩に四時半に屋上で告白の返事を聞かせてくれと頼まれていた。なのに彼女は俺の返事を聞く前に死を選んだ。おかしくはないか。自殺するならば誰もその周りには近づかせない様にする。それなのに四時半に屋上に俺が来るようにした。もしも何かが違っていれば、俺に自殺を止められていたかもしれない。自殺志願者としてはそれだけは避けたいのではないか。
それに自殺志願者が、自殺する前日に告白をするのか。
水嵩先輩の死後、俺も警察から話を聞かれた。彼女が俺に告白していた、という証言がありとあらゆる人からとれたのだ。それで警察から「そのラブレターを見せてくれ」と要求され、仕方なく見せた。それと生前の水嵩先輩との関係も聞かれたりもしたが、それだけで終わったのはありがたかった。
部室に足を踏み入れるのは何か抵抗をおぼえた。倉庫の汚れた鉄の扉を前に、足を止めてしまう。いつもは平気な顔でこの重い扉を開け、堂々と部室に入るのだが、今はこの中で何が行われているんだろうと考えると入りたくなくなる。きっと柳と香耶美が事件いついて話しているだ。
扉の前で停止している俺を見て後ろに立っていた桃山がため息をついた。
「旦那、ここまで来たら諦めましょう。参加したくないのは分かりますよ。けどですよ、けどですよ。二回言ってしまいましたがね。カーヤの姉さんも副社長も、私も遊び半分で調べているわけではないんです。お分かりいただけますよね?」
それは分かる。そう言うと桃山は言葉を続ける。
「なら、旦那も協力してくださいな。水嵩先輩に告白されたんでしょう? 仮にも旦那を好きだった人が亡くなってるんです。しかも実に謎の多い死に方です。死の真相、知りたいでしょう。いや旦那、きつい事は言いたくないですけどね、あなたは真相を知るべきだと私は思いますよ」
桃山の言葉は御もっともろしか言いようのないことで否定できない。俺自身が知らなくてはいけないことなのだ。しかし、知ることが正しいとは限らないんだ。けど……もう覚悟を決めるしかないようだ。
「なあ桃山、例の噂って言うのは何だったんだ?」
別に話を逸らしたわけじゃない。俺なりに事件を調べるという意思を示したのである。それはどうやら桃山に伝ったようで、感謝しやすぜ、と古風な口調で言われた。
例の噂――それは水嵩先輩についての噂。先輩が死ぬ寸前、香耶美が俺に説明しようとしていたあれである。
ここ一週間、どうも例の噂が気になって仕方なかった。
「それについても私が説明してあげるわ」
突然、目の前の倉庫の扉が砂と擦れ合う嫌な音を立てながら開いた。その中にはジャージ姿の香耶美が笑顔で立っていて、その隣に柳も立っていた。
一つ言っておかなくてはならない。
「盗み聞きはよくない」
その言葉に香耶美が真面目な顔つきで答えてくれた。
「盗み聞きなんて人聞きが悪いわ。聞こえたの、あんたの声が。それだけよ」
倉庫の奥にはコーンやマット、円盤投げの円盤、リレーのバトンなど陸上用具が見える。できれば、砲丸をこいつの口に突っ込み黙らしてやりたい。
そんなこと出来るはずがないから俺は香耶美を睨むことくらいしか出来ない。しかし目の前にいる香耶美も睨み返してくる。
周りからは柳と桃山の笑い声が聞こえてくる。もうため息をつく位の行動しか取れなかった。なんとなく、何時もどおりに戻った感じがする。
「時間も勿体ないし、歩きながら説明してあげるわ。ついて来て」
そう言うと香耶美は校舎の方に向かって歩き出した。
「おい、どこに行くんだ」
彼女の背中に向かって声をかけると、振り向きもせず答える。
「化学室よ。説明はしてあげるから、ついてきなさい」
なんで化学室なんかに行くのかという疑問が出てきたが、それもちゃんと説明してくれるのだろう。ここは従うしかないようだ。
俺は柳と桃山の二人と目を合わせた後、早足で香耶美を追った。
「水嵩先輩は確かに良い人でしたよ。それは間違いありません。ただね、綺麗な花ほど刺があるもんで、先輩にも黒い噂があったんですよ」
上靴に履き替えて化学室に向かうために階段を上っている最中、桃山が例の噂について説明をしだした。香耶美は自分では説明する気がないらしい。桃山は右手に開いた生徒手帳を持っている。彼は情報収集が趣味なのだ。学校のありとあらゆる噂を熟知している。学校だけではなく個人情報もかなり熟知していて、何か知りたいことがあれば同級生たちはまず真っ先に桃山を頼る。
生徒手帳のメモ欄にそれらの情報は書かれていて、今はそれを読みながら説明している。彼にとっての生徒手帳は、香耶美の「乙女の情報ブック」のようなものだ。勿論、そこに書かれている情報量は圧倒的に桃山のほうが上である。
「宮木先生はご存知ですよね」
桃山が質問してきた。宮木、と言われたが一瞬誰だかわからないかったが、俺の代わりに香耶美が答える。
「理科の先生よ。あの若い先生」
そういわれて、ああ、と声がもれた。宮木邦一(みやきくにかず)という男の若い教師だ。今年からうちの学校に来て、その若さで一部の女子生徒から人気を誇っている。そういえば理科の教師だった。毎週理科の授業はあるのに、忘れていた。
「旦那、物忘れが激しすぎますよ。大丈夫ですか。九九はいえますか」
「馬鹿にしてるのか」
「はい」
蹴り落としてやろうかと思い脚を上げたが桃山が笑顔で、冗談ですよ、と手を肩くらいまで上げながら言ったので蹴るのはやめた。
「とにかく、その宮木先生と水嵩先輩には少々、黒い噂が流れ始めました。私がその情報をキャッチしたのは一ヶ月ほど前です」
少し間をおいて桃山は口を開いた。
「二人が恋人同士の関係にあると噂され始めました。ただ、それだけなら良かったんですが、も一つ、同時に良くない噂も流れたんです」
「良くない噂っていうのが、その例の噂か」
桃山が小さく頷く。例の噂、と聞いた時点で決して良い噂ではないだろうと思っていたので大して驚きもしない。
「旦那、あまり期待はしませんが……二ヶ月間に起こった近所の親父狩りの事件を知っていますか?」
親父狩りというと、数人の若者が情けないことに、気の弱そうな中年の男性を狙って金をたかる犯罪だ。それは知っているものの、それが近所で起きたかは知らない。
しかしここで素直に、知らない、と言えないな。しばらく黙っていると、知らないんでしょ馬鹿、という香耶美の声が聞こえてきた。知らないのは事実だから、言い返すことも何も出来ない。
桃山がため息をつき、また説明をしだす。
「二ヶ月ほど前に近所の公園で親父狩りがあったんです。被害者は五十代男性で、財布の中の一万円札を全部持ってかれたそうです」
「このご時世にお気の毒なことだ」
「ええまったくです。で、その事件の被害者は頭を強打されたらしいんですよ。それで気を失ってる間に盗まれた。怪我は大したことじゃなかったんですけどね」
頭を強打されて気を失ったんだから、大したことはないと言ってもかなり痛かっただろう。それに内出血くらいはしてるんじゃないか。
「それから数週間後かな、ついに例の噂が流れ始めたんだよ」
さっきまで黙っていた柳が突然喋りだした。そういえば、こいつに花束の礼をまだ言っていない。後でいいか。今はそんなときじゃないし。
桃山が真剣な顔つきで深く頷き息を吸った。
「その事件の犯人が、水嵩先輩じゃないかと噂され始めたんです」
流石にこの言葉には驚いてしまい、階段を上っていた脚を止めてしまった。俺が止まったことで三人も止まってしまい、妙な静かさが四人を包む。水嵩先輩が親父狩りの犯人……馬鹿げた噂だ。
俺は余裕を見せるために笑顔を作り三人の顔を見たあと、桃山に訊いた。
「おいおい、まさかその噂を信じてるわけじゃないよな」
「旦那、流石に私らもそんなに薄情じゃありませんよ。一週間前までこれっぽっちも信じていませんでした。ただね、この一週間の間その親父狩りについて調べてみると……疑っちまいます。事件当日、その公園の近くで先輩を目撃した人が何人かいたんだすよ」
ふざけるなっ。そう怒鳴ろうとしたが止めた。桃山も顔もそうだが、柳も香耶美も全員、暗い顔をしていた。こいつらだって信じたくないんだろう。
しかし……そんな馬鹿げた話しがあるかっ。当たり所の無い怒りをコンクリートの階段にぶつけるため、思いっきり踏んづける。ただ俺の足が痛いだけで、後は大きな音が響くだけで虚しい。
黙っていた香耶美が口を開いたのは数秒たってからだった。
「勿論、私はまだ先輩の無罪を信じてる。水嵩先輩の死とその事件は無関係じゃないと思った。だから事件を調べてみたのよ。けど、水嵩先輩が何で死んだかは分からない。だから私たちは今度は、宮木先生について調べようと思ったの」
香耶美は冷静に言ったつもりだろうが、その声は何かに耐えていることを感じさせた。香耶美にとっても水嵩先輩は失いたくない人だったろう。
またしばらく静けさが俺たちを包んだが、桃山が手を叩いたことでその静けさはやぶられた。
「さあ、化学室に行きましょう。今日の目的はそれなんでしょう?」
何時の間にか笑顔に戻っていた桃山は一人階段を上り始める。こいつほど、ムードメーカーの才能を持ったやつはいないだろう。桃山につられ、俺も柳も香耶美も再び階段を上り始める。
ふと、気づいた。
「おい、化学室に行って何をするんだ?」
その質問に答えてくれたのは柳だった。
「宮木先生について調べてみようと思ってね。先生と知り合いの生徒が僕の知り合いにいて、そいつが化学室にいるんだよ。それでそいつの話を聞いてみようと思って」
化学室の扉の前に立った瞬間に妙な臭いが鼻についた。化学室の扉の硝子は内側からカーテンがされていて室内が見れないようになっている。実に怪しい教室だ。
「放課後になるといつもこんな感じですよ。変な臭いがするって言って、吹奏楽部がこの教室の近くだけでは練習しませんから」
そういえばこの階には誰の姿も見当たらない。遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえてくるだけで、後は何も聞こえてこない。
「斎藤学っていう奴で、一年の時に知り合ったんだ。中々面白い奴だよ」
柳がそう説明してくれるが名前さえ聞いたこの無い奴だ、何か不安になる。それにこんな臭いにする教室にいれるなんて、普通の人間ではないのではないか。
不安だけが増幅されていくの感じる。
「まあ、私も斎藤君は知ってることは知ってるけど話したことは無いからどういう人かまでは知らないのよね。ただ、だいぶ変わってそう」
「カーヤの姉さんだけには言われたくないでしょう」
桃山が笑いながら言うが、香耶美に睨まれすぐに笑うのを止めた。それに桃山、お前にも言われたくないと思うぞ。
「とにかく入ってみよう」
そう言うと柳は勢いよく扉を開けた。また臭いが強さを増して、さっきまでは余裕だった三人も鼻を抑え始める。すごい臭いだ。
化学室の中はまだ夕方だというのに真っ暗だった。蛍光灯は点いていないし暗幕カーテンがされていて、窓から差し込む光の入室を拒んでいる。
その暗闇の中、人影が見えた。そして次に声聞こえた。
「入るなら入れ。そしてすぐにドアを閉めろ」
その声は確かに男の声だった。しかし、声がこもっている。とにかく言われたように鼻を抑えたまま、すぐに化学室の中に入った。そして最後に入った桃山が扉を閉め、最初に入った柳が扉の近くにあった蛍光灯のスイッチをつける。
蛍光灯が全て点き、化学室の中が明るくなって、室内がどうなっているかが見える。大きなテーブルが縦に三つ、そして横に三つずつ床に固定されていて、動かないようになっているのが特徴な化学室。何度か入ったことはある。
その一番奥のテーブルに斎藤学はいた。ドラマなどで科学者がよく着ている白衣を学生服の上から着ていて、黒い髪の毛は跳ね上がっている。銀縁めがねでマスクをしている。
彼は急いで暗幕カーテンと窓を全て開けて、窓のところにあった換気扇のスイッチを入れた。一分程で空気が入れ替えが終わり、匂いもだいぶなくなった。鼻を抑えるのを止める。
斎藤はマスクをはずし適当にテーブルに置くとこちらに近づいてきた。
「柳と陸上の愉快な仲間たちか。大勢の客がきたと思えば、厄介なやつばかりだな。よりによって桃山までいる」
そういうと斎藤は俺の隣に立っていた桃山を睨みつけた。こいつは色んな所で何をやっているんだろう。明らかに嫌われている。
しかし当人はそんなことを気にする奴ではない。
「なんですか久しぶりに会ったのに冷たいなあ。私と斎藤君の仲じゃないですか、もう少し再会を喜んでもいいじゃないですか」
「ふざけるな。俺はお前のその顔を見るだけで虫唾が走るんだ」
「そんなこと言わないでくださいよ。私は斎藤君を一人の友人として愛してますよ」
「今すぐ頭から塩酸をかけて殺してやろうか」
白衣を着た男にそう言われると中々迫力があるもので桃山も、怖いなぁ、と言うとそれ以上は口を開かなかった。
斎藤がスイッチの近くに立っている柳に目を向けた。
「久しぶりだな。お前がこんな所に来るとは珍しい。雨が降らないことを祈るよ」
さっきまでは桃山を睨みつけていた顔が緩み笑顔になっている。そしてその笑顔に答えるように柳も笑顔になった。
「できれば来たくなかったんだけどね。厄介なことがおきて、君の力が必要なんだ」
そう言われた斎藤は、意味が分からない、というように首をかしげた。
「俺の力なんているのか? 化学以外のことは全部、専門外だぞ」
「いやいや、今日は宮木先生について聞きたいことがあるんだ」
その説明を聞いた途端に斎藤は笑顔を崩し、先ほどと同じ不機嫌な顔に戻った。どうやら桃山だけではなく宮木先生も嫌いらしい。
俺は隣の桃山に斎藤に聞こえないよう小声で話し掛けた。
「おい、この斎藤ってやつはどういう奴なんだ?」
さっきの会話からしてこいつはこの斎藤という男と面識があるんだろう。期待通り、桃山は胸ポケットから生徒手帳を取り出し、小声で説明しだした。
「斎藤学って名前で、私らと同じ二年生です。一年生の頃に『化学部』という廃部になっていた部活を復活させました。現在の部員は斎藤一人だけです。ちなみに顧問は宮木先生。放課後はいつもこうして化学室にこもって怪しげな実験を繰り返してます。私は一年生の頃に彼に興味を持って、色々と調べたんです。調査の一貫として彼をマーキングしたことが原因で、嫌われちまいました」
こいつはどうかしている。興味を持ったからマーキングをしたって……どういうマーキングをしたのかは知らないが、斎藤のあの嫌いようからしてきっと色々とやってはいけない事をしたんだろう。少し彼が気の毒に思える。
斎藤には聞こえてなかったようだが香耶美には会話が聞こえたようで、口を挟んで来た。
「結構、有名人よ。あんまり授業に出席しないで、放課後以外にも化学室が使われていない間は授業中でも一人でここで実験してるらしいわ」
「えっ……じゃあ授業エスケープしてんのかよ。先生たちは注意しないのか?」
「旦那、それは調べてますよ。斎藤の父親は市議会委員なんです。お偉いさん、という奴でしょう」
なんだ後ろ盾に親父さんが絡んでるのか。まあ、そんなのは俺と直接関係は無いから別に構わない。これで一応、斎藤学という奴がどういう奴かというのは大体分かった。
さっきまで柳と話していた斎藤がこちらを見てきた。
「お噂どおりの美貌だな。あんたが本田香耶美さんか」
メガネを人差し指で上げて、香耶美を見ている。その目は珍しいものを見つけたような目で、人をみる目ではない気がした。
香耶美はそんなことは慣れているのか、特に気にしていないようだ。
「初めまして。お褒めの言葉、ありがとう」
「別に褒めたつもりは無いんだがな……ああ、君が最近噂の白菊君か」
香耶美から目をそらして今度は俺を見てきた。最近噂のって……俺はまだ噂になっているのか。人の噂も七十五日というから、後十週間近く噂が流れるのか。嫌だな。
「とにかく、入り口の前で集られては困る。適当なテーブルに座ってくれ」
斎藤はそう命令した後、さっきまで実験をしてテーブルに向かった。実験をしていた奥のテーブルには怪しげな水が入ったビーカーがいくつか並べられていて、近くには試験管が転がっている。斎藤はそのテーブルの上の物を片付け始めた。
俺たちは近くのテーブルに近づき、置いてあった椅子に腰をかけた。
「面白い奴だろ」
柳が親指で教室の奥にいる斎藤を指差しながら嬉しそうに言う。久しぶりに会えたのがそんなに嬉しいのか。同じ学校なのだからいつでも会えると思うけど。
「まあ、面白い奴ではあるが……ちゃんと協力してくれるのか」
それが最大の不安要素であった。どこか異質な感じがして、信用なら無いというか……とにかく心配なのだ。
「協力はしてくれるでしょう。私たちはただ、宮木先生の話を聞きにきただけなのよ。協力しない理由が無いわ、彼がよっぽど嫌な奴じゃない限り」
「よっぽど嫌な奴だったらどうする?」
「思いっきりぶん殴る」
香耶美が手の甲の血管が薄く見えるほど強く握った拳を見せてくる。どうやら冗談ではなく、本気のようだ。こいつならやりかねないし、小学校時代、何度か男子生徒を殴ったことが実際にある。そのうちの一人に俺も含まれている。
「そんな心配することは無いよ。斎藤はいい奴だ」
柳の「いい奴だ」という台詞ほど疑わなければならないものは無い。柳自身はいい奴で交友関係も広く、いい奴だ。しかし柳は誰にでも「いいやつだ」という癖がある。こいつは人長所は見つけれるが短所を見つけようとしない。
しかし、確かに変わったやつではあるが悪い奴では無さそうだ。
しばらくすると片付けを終えた斎藤がこちらに来た。テーブルは四人用で俺と香耶美が隣同士に座り向き合うように柳と桃山が座っていたが斎藤は気にすることもなく、邪魔する、とだけ言って俺と香耶美の間に椅子を持ってきて座った。
「こいつの近くにはいたくないんでな」
正面に座っている桃山を指差しながら斎藤が不機嫌な顔をする。対照的に桃山は笑顔のままだ。
「なんですか。かつては『モッチーアンドサッチー』と呼ばれ仲じゃないですか。もう少しフレンドリーにいきましょう」
「お前が一人でそう呼んでただけだ。お前がしたことを警察に通報して、牢獄にぶち込んでやろうか」
一体桃山は一年前に斎藤に何をしたのだろうか。まあ、知らない方がよさそうなので無駄な詮索は止めておこう。
「まあ。過去のことは忘れて、とにかく今日は協力してくださいな。どうしてもサッチーから宮木先生の話しが聞きたいんですよ」
「その呼び方止めろ。気色が悪い」
「じゃあ何が良いですか?」
「モッチー、いい加減にしなさい。じゃないと絞めるわよ」
一体何を絞めるのか……。香耶美の迫力のある言葉に桃山は黙る。
「流石は『女王』と呼ばれてるだけあるな、迫力がある。あいつを黙らせてくれてありがとう」
斎藤は律儀に香耶美に小さく頭を下げて礼を言った。意外と常識は身につけているんだな。香耶美自身、お礼を言われたことよりも、斎藤の発言の中に理解しがたい内容があって、其れに驚いて目を大きくあけていた。
「どういたしまして。……けど私、『女王』なんて呼ばれたことはないわ」
「うん? 俺はあいつからそう呼ばれてると聞いたんだけど」
桃山が急いで柳の背中に隠れる。こいつの最終目標は何だろう? 意味の分からない噂を流し、どうでもいいことを調べ上げ……何がそんなに楽しんだろう。
香耶美を見ると怒りのせいか、目が鋭くなっていた。そしてさっきまで握っていた拳を机の上に置いて、さらに強く握る。これは今度刺激したら、爆発でもするんじゃないか。
それを横目に斎藤が柳に目を向けた。
「大雑把な部分だけは柳に聞いた。協力はする。ただ、俺にも話す代わりに事件のあらすじだけ聞かせてくれるか」
協力する――その言葉を聞いて、ひとまず安心した。拒まれるとは思っていなかったものの、やはり不安はあったのだ。
その言葉を聞いて安心したのは俺だけではないようで、香耶美の息を吐く音が聞こえてきたし、柳がさらに笑顔を緩めた。隠れていた桃山も小さく拍手をしながら笑顔で出てきて、席についた。
「じゃあ、まず僕らが掴んでいるだけの情報は教えるよ。その代わり、後でちゃんと話してよね」
柳が念を押すと斎藤は、くどい、と一言いい小さく頷いた。その返答に満足して柳は事件について語り始めた。まず一週間前に水嵩先輩が自殺したことから、その前日に俺に告白したこと。そして俺がさっき聞いた例の噂――洗いざらい全て話した。
柳の話を聞いている間、全員が黙っていた。斎藤は柳の話しに時折頷くだけで、言葉は発しなかった。香耶美は腕を組んで何かを考えていたし、桃山はテーブルに肘をついて数度あくびをしただけだ。
その間、俺はこの化学室を見渡していた。教室の一番奥には水道がありそこでビーカーなどを洗うらしい。扉側の壁にはガラスの戸の棚があり、中にはホルマリン漬けにされた標本が大量に並ぶ。見ていて気持ち良いものじゃない。
教室の前方には先生用の大きなテーブルがあり、そこは整理されてなくてビーカーや試験管、薬品ビンに電池などが乱暴に置いてある。斎藤はどうやらココは整理する気はないらしい。それは宮木先生が嫌いだからだろうか。
生徒たちが使うほかのテーブルは綺麗にされている。そして床にも特にゴミなどは落ちていなくて、もしかしたら普通の教室よりも清潔かもしれない。
窓は今は全て開いていて時々、気持の良い涼しい風が吹き込んでくる。その度に窓の端の暗幕カーテンが靡いた。換気扇はもう止まっている。片付けのついでに斎藤が消したのだろう。
そんな化学室を見渡している間に柳が斎藤の説明を終えた。俺は化学室を見渡すのをやめ、姿勢を正す。
事件の詳細などを知った斎藤は顎に手を当ててしばらく何を考えて黙っていたが、しばらくすると口を開いた。
「状況は読み込めた。そういう理由があるなら、俺に出来ることは喜んで協力しよう。それに……宮木の野郎はあまり好きじゃないんだ。正直、あいつが化学室に入るのを止めて欲しいくらいだ。あいつの悪い噂くらいなら知ってる」
「ほ、本当っ?」
柳の期待に膨らんだ質問に対して斎藤は冷静に、ああ、という一言で返した。落ち着きがあるのか、冷血漢なのか。どちらでも構わないけど……。
「それに水嵩先輩とは何度か話したことがある。俺としても彼女の死の真相は知りたい……利害は一致しいたようだな」
斎藤は小さく口元に笑みを浮かべると、俺の方を見てきた。目が合う。……こいつもまた、何かに怒りを抱いていた。それは目で分かる。口元では確かに笑っているが、その目は何かに怒りの炎を燃やしている。
「協力、感謝するよ」
俺はとりあえずは何も言わずに握手を求め、右手を差し出した。斎藤も握手を拒むことは無く、素直に右手を出して握手をした。
「それじゃあ、まずは宮木の噂から話してやろう」
俺たちは握手を解き、手を戻した。そして斎藤が宮木の噂に着いて話そうと口を開いた――その時だった。
急に入り口の扉が開く音がした。驚いて俺たち五人は扉の方に目を向ける。そして化学室に入ってきたその人物を見たとき、さらに驚き、情けないことに五人とも口を開けてしまった。柳にいたっては目を見開いている。
耳までしか伸ばしていない黒い髪の毛で、細丸いメガネをかけた若い男。鼻が少し高くて、輪郭も綺麗だ。黒いスーツをちゃんと着こなしていて、学校用のスリッパをはいている。これなら一部の女子生徒から人気が高いのも分かる。
間違いない。理科担当の教師、宮木邦一だ。
「へえ」と桃山が小さく声を漏らした。そして続けて聞こえてくる。「噂をすれば、とはよく言ったものですね」
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■作者からのメッセージ
今回は前回の更新から一ヶ月以上たってしまいました。
今回からは第四章、第二の過去編となります。予定ではかなり長くなる予定です。正直、今年中に終わるかさえ分かりませんが、どうかお付き合いください。
そしてこの章は「ひとまず」、過去編の解決編となります。「ひとまず」ですよ、「ひとまず」。第三の過去編もあります。
やっと過去編でも主要キャラ以外に出せた。
指摘・感想・アドバイス・苦情などなどお書きください。
四月四日 サトー カヅトモ様の報告により、誤字訂正。
四月八日 甘木様の指摘をうけ、一部修正。&更新。
四月二十三日 更新&祟られる者様の指摘をうけ、一部訂正。
四月三十日 更新&猫舌ソーセージ様の指摘をうけ一部訂正。
六月四日 更新&甘木様の指摘を受け一部訂正
六月十四日 更新&甘木さんのアドバイスをうけて一部追加&誤字訂正。
七月十三日 更新。
八月十六日 甘木さまの指摘により訂正&更新。
九月二十六日 甘木様と神夜さまの指摘により修正&更新。