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『高速バス』 作者:たつや / リアル・現代 恋愛小説
全角14554文字
容量29108 bytes
原稿用紙約46枚
午後21:00
秋分を過ぎても夜の蒸し暑さはいっこうに衰える事なく、新宿西口の街路灯には
無数の蛾が群れていた。街は今からが本番と様々な姿をした者達が入り乱れている。
これから歌舞伎町に繰り出そうとするサラリーマンの塊、セイラー服の女子を
何とか口説こうとする怪しげな男、合コンでもあったのか手を振り合い散っていく
ドレスアップした女達、そして警官にふらふらの足で食ってかかる酔っぱらい。
光で霞む夜空に喧嘩と歓声が絶え間なく放り投げられる。亜由美そんな喧騒を
横目にバス停の時刻表を確かめていた。出発まであと40分ある、LEDが消えるのを
待たずに携帯をバックにしまい側の長椅子を見た。50歳前後の小太りの女性が
下を向き寝息をたてていた。置き引きに合わぬようにと用心しているのだろう足の間に
大きな荷物を挟んでいた。しかしこれだけ熟睡していると盗まれても気づかないのでは
と亜由美は思った。高速バスが来るまで見ていてやろう、女性の右隣にそっと腰を下ろした。
何気なく視線を自分のタイトスカートに落とすとそこから伸びる足の黒いストッキングがひどく
破れていた。裂け目からのぞく白い太股。自分の足でありながらも艶めかしく感じた。
新宿までの電車は座ってきた。帰宅ラッシュも終わりそう込んでいたわけでもない。
気づいていいはずなのに………、こんな姿を人目にさらしていたかと思うと情けなかった。
しかしかといって履き替える場所もない、お客からもらったセリーヌのハンカチを取り出し
足にかけたが隠しきれない。やはりアパートに帰ろう。そういうことなんだ。そう思いながら
もまた書き置きをみてしまう。短い言葉が亜由美を叱る。アパートを出てからこんなことの
繰り返し。ずっと迷っていた。本当にこれでいいのか答がまだでてない。考える事がありすぎ
てどうしていいか解らない。故郷へ帰る高速バスが発車するまであと40分、まだ引き返せる。
今ならまだ。駅前の大きな空間はそんな亜由美を今にも飲み込みそうな勢いで
さらに原色の輝きを増していった。
出発21:40分

22歳の時、東京の大学を卒業した亜由美は親の強い希望で地元の銀行に就職した。
経済学部で経営学を選考していた亜由美は関連した部署に就けたらと淡い期待を
持っていた。しかし期待は叶うことなく庶務課に配属された。ボールペンが何本
パンフが何枚、キャンペーン用のティッシュの用意。金融とは全く関係のない雑務
に明け暮れる毎日、各部署からの何でも屋的扱いに亜由美は塞ぎ込むよう
になった。朝、食べたくないと食事もせずに家を出て行く娘に両親は不安を感じた。
明るい子だったのに今は帰ってきても話一つしない。それどころかため息ばかりつき
部屋から出てこない。手元に置こうと無理に連れ戻したが悪かったのだろうかと悔やんだ。
しかし、入社から一年を経とうとするある日、亜由美は両親に会わせたい人がいると
打ち明けた。翌週、男は家を訪ねてきた。仕立てのいいスーツ、つるしでない事は
サラリーマンをしてきた父親の方が直ぐに気づいた。男は母親の出した座布団に
座らず深々と頭を下げ挨拶をした。テレビで同じような場面を見た事はあるが父親も
母親も初体験、しかし、なめられてはと父親は背骨が痛くなるほど反り返って見せた。
「お休みにもかかわらずお邪魔をさせて頂き申し訳ありません」
部署は違うが亜由美と同じ銀行マンだった。年齢は32歳、外国為替の取引を
担当する第一線のエリート。慶応の経済学部を出たあとアメリカに留学し、5年前
に日本に帰ってきたと本人の口から経歴が語られた。
「ご出身はどちらなんですか?」
母親が普段見た事のない高そうな湯飲み茶碗をお盆に乗せてきた。それもフタ付きだ。
亜由美は手に口をあて笑いをこらえた。男は亜由美を見ることなくまっすぐ前を向き
母親の質問に答えた。
「両親は幼い頃に亡くなり叔父夫婦に育てられました」
「そうですか」
男はまだ座布団に座らなかった。オレンジより更に濃いカバーに覆われたそれは6畳しかない
部屋の中で小さな丘のように存在を主張した。話が10分ほど過ぎた頃、男はまた突然改まり
だし、あの言葉を父親に向かって言った。
「お父さん、亜由美さんと結婚させてください。お願いします」
「………」
父親が何か言おうとすると亜由美が口を開いた。
「もうお腹に赤ちゃんがいるの」
「本当なの?」
親の目は娘のお腹に釘付けになった。母親は夫をにらみ声なき声で何も言うなと釘を刺した。
父親としてはどういう経緯で二人がそうなったのか気にはなった。しかし言葉を飲み
込んだ。条件としては申し分ない。のどがカラカラになった。手元も見ず蓋のついたままの
お茶を口に当てた。母親は眉間にしわをよせ夫の茶碗を取り上げた。ピント張りつめた空気
「お父さん」
「不束な娘だけれど頼んだよ」
そう言い終わると父親の背中から背骨が抜けた。あなたの役目は終わったと母親は娘に顔を
向けた。
「良かったわね亜由美」
よくつり上げたとでも言わんばかりに娘をほめた。父親は傍らでうなだれた。式は2月後
お腹が目立たぬうちにと信濃川沿いの洋風チャペルで行われた。白壁の洋館の階段を新郎
に抱きかかえられ亜由美は下りてくる。テレビでしか見たことはないが宝塚の男役に身を
ゆだねるヒロインのよう、子供の頃からあこがれた桂由美デザインの純白のウエディング
ドレスが日の光にきらきらと輝いている。ライスシャワー、沢山のフラッシュ、そして同僚
たちの祝福の言葉、自分を見失いかけていた亜由美は水の中から水面へ顔を出した気持ち
になれた。愛されている幸せ、母になる喜び、女としての人生が今幕をあけた。
空に向かって両手を高く伸ばしたくなった。

午後21:05
すやすやと寝ていた女性の股の間で携帯電話の着信音がなった。氷川きよしの箱根八里の
半次郎、サビの部分がけたたましい電子音となって女性を飛び起きさせた。一瞬何が
起こったのだろうと口を開けたままあたりを見回した。そして一拍おいたあと要約
それが電話の呼び出しだと気づき手提げバックに手をやった。
「ああ、おめらか」
話す内容からすると息子からの電話か?女性はおととい新潟から上京し息子
のアパートに泊まったらしく、勝手に部屋を整理された息子が大事なレポートが
なくなったと母親を責めている電話だった。大きな髪留めを直しながら女性は意地悪な
口調で言った。
「そらか?エッチな本ばっからったろ」
それを聞いて息子がなんと言ったのかは解らないが電話の会話はすぐに終わった。
女性は自分が大声で話していたことに気づき亜由美に向かって頭を下げた。
「息子さんですか?」
「ええ、あんま返ってこないもんで久しぶりに来てみたんだけど」
話し好きなのか寝起きのウオーミングアップなのか、女性は息子の愚痴を始めた。
よけいな事を言わなければ良かったと後悔したが遅い。しかし聞くうちに軽快な
話術に引き込まれいつの間にかうなずいていた。合いの手がはいればこっちのもの
女性は心地よさそうに話を広げだした。大学を終えて新潟に帰ってくると思っていた息子
が大学院に行きたいと言ったのが昨年のこと、博士号をとって地元の大学の助手
にしてもらうからという約束で女性は渋々許した。専攻は生命科学、今流行の遺伝子研究
に没頭し寝る暇もないと母親には電話で帰郷出来ない言い訳をしていた。かれこれ一年
抜き打ちでアパートへ行ってみると、布団は万年床、風俗雑誌と缶ビールの空き缶で部屋
は散らかっていた。女がいる様子はないが自堕落な暮らしをしている事は違いない。あれ
のどこが勉学に没頭する学生の部屋だというのだと女性は訴えた。
「仕送りしてやらんからねと脅かしてやりました」
もっともだと亜由美は苦笑した。


男の子の出産、一年の産休、そのあと両親に子供を預け銀行に復職するつもりだった。
しかし潰れるはずのない銀行が倒産した。乳飲み子を抱えたままどうしよう?目の前が
真っ暗になった。だが夫は真のエリートだった。すぐさま好待遇で他行に引き抜かれた。
このとき自分を選んでくれた夫に感謝し、自分の男を見る目も間違っていなかったと胸
をなで下ろした。もしそうでなかったらなどと考えたくもなかった。しかし悪いことは
続いた。亜由美の父親が病に倒れた。脳梗塞で右半身に麻痺が残り言葉が不自由になった。
他人と上手く意思疎通が出来なくなった父は瘧っぽくなり、介護する母に当たり散らした。
子供を託して就職活動するなどとても出来る状態ではなかった。しかたなく亜由美は
アパートで子供相手に3年を過ごした。耐えられたのは夫の優しさがあったからだ。
家事を手伝ってくれることはなかった(時間的制約)が育児に関して妻を孤立させる
ことはなかった。早くに両親を亡くした夫は子供を育てるという難行を待ち望んでいた
冒険のように楽しんだ。持ち帰った仕事で忙しいのに息子が遊んでくれと溢れる
エネルギーで突進してきても夫はそれを受け止めた。笑い会う父と子、それを見ている
と嬉しくなり家族という一体感を感じた。そして子供が幼稚園に行くようになり
亜由美にも時間が出来た。金銭的に不自由していた訳ではないが仕事に出たいと思う
ようになった。なになに君のママ、と名前をなくした存在に飽き飽きししていた。夫に
頼み銀行子会社の派遣会社に登録させてもらった。簿記経理一般事務のこなせる亜由美
は銀行が融資している中小企業にすぐさま派遣された。午前9時午後3時の勤務だったが
損益計算書・貸借対象表を読みこなせる亜由美は貴重がられた。学んだ経営学が生かせる
そう思った亜由美は経営者にアドバイスし効果は利益となって現れた。仕事が面白く
なり夫に子供の迎えを頼むことも多くなった。それでもそのときまでは夫婦のパワーバランスは
夫が勝っていた。銀行も子会社の亜由美の噂を聞きつけ本社の契約社員にならないかと
打診があった。業績次第では正社員として迎え希望する部署に配属させる。そう言う
付帯条件もついていた。息子はこの春小学一年生になる、鍵っ子にさせてしまって
いいのだろうか?夫に聞いた。しかし聞く前に子供思いの夫が何を言いたいかは
解っていた。それでも聞いたのはいいよと言って欲しかったからだ。迷うふりをして
自分を束縛しているのは貴方なのよと重荷を背負わせたかった。


午後21:08
「でも楽しみですね、将来は学者さんですか」
「ええ、馬鹿な私に似なくて良かったですて、あの人が残してくれた唯一の宝です」
夫は10年前に亡くなったと女性は言った。そして訪ねもしないのに亡き夫との
なれそめを語り出した。二人は中学のクラスメート、自分は中学を卒業し叔父
の食堂で働いたが彼は高校大学と奨学金をもらいながら勉強を続け医者になった。
再会は同級会、年頃の同級生は医者になった彼の周りに群がり何とかデートの
約束を取り付けようとする。手にビール瓶を持った女達がキャッキャッと笑う。
「そのなかに?」
「いーえ、器量もこんなだし、学もないから」
自分に声をかける男などいないと女性は一時間ほどして席を立った。明日は
仕出しの弁当を作らなくてはならず朝が早い、早く帰って寝ないとと起きられない。
余韻を引きずりながら軽自動車に乗り込もうとした。すると背中で自分の名を呼ぶ男の声
振り返ると彼だった。もうかえるの?との問いかけに事情を話した。明日の夜会えないか
なと誘われた。なぜ?と聞き返すと君と会えるのを楽しみにしていたと彼は言った。
「馬鹿にされてるみたいでね、結局いかなかった、そしたら手紙が来たのよ」
女性の顔はとても嬉しそうだった。今でも文面を覚えていると言った表情が
可愛らしく見えた。
「で、なんて?」
「ずっと気になっていましたってね あはは、あの人ブス好きなのかね」
「デートしたんですか?」
「河原でね」
ねんねだったと語る女性、男性と二人っきりになるのが怖くて中学の時よく写生で
出かけた河川敷で会ったと笑った。土手の下で草野球をする小学生達が声をはりあげ
ていた。その近くには2.3人の少女、きっとかっこいい男の子でもいるのだろう
女性は彼に聞いた。何で自分なのかと。
「で?」
亜由美も話に引き込まれ身体を横に向けた。
「わかりませんだって、ほんとなんかもうちょっと気の利いた言葉ないのかねとこっちが笑っちゃったよ」
何年か後、二人は結婚し、アパートに暮らし始め、一年後息子が生まれた。
しかし、その頃夫は小児科で責任ある地位につかされていた。帰りも遅く朝も早い、
息子と遊ぶことなど数えるほどしかなかった。当然のごとく息子は父を軽ん
じるような物言いをするようになった。もうちょっと子供のことを考えてやっ
てくれと帰宅した夫に言った。すると『すまんな………』そういったきり茶碗を
もったまま眠ってしまった。女性は背中に毛布をかけ夫の手から茶碗と箸をとった。
そんな日が一年ほど続いたある日、息子が交通事故にあい瀕死の重傷を負った。足を
複雑骨折、膵臓が破裂し、そのほかの内臓器官もダメージを受けていた。
夫は院長に頼み込み自分の病院に転院させ息子の治療をした。受け持っている患者
の子供と重傷の息子、夫は病院に寝泊まりし2月家に帰ってくることはなかった。
「あの人のあんな切なそうな顔それまで見たことがなかった」
そのときの苦しい胸の痛みを思い出したのか女性は手のひらを撫でた。
爪の大きい太い指、関節に寄った皮、そして右手のかまぼこ型の金の指輪
亜由美は目を伏せた。


息子は小学6年生、夫は部長になっていた。亜由美は正社員となり審査部で
働いていた。融資を統括する最終的な決定機関だった。この部署にあがってくるのは1億
以上の案件に限られていた。それ故に支店からあがってきた情報を分析する能力と決断力
が必要とされた。失敗すれば銀行にとってダメージは大きい、しかしその反対に成功すれば
利益はもとより銀行のステータスは増す。すべては担当者本人の能力にかかっていた。
そんなハードな環境の中で亜由美は着実に実績を上げていた。はじめの頃は夫の七光りと
陰口もあったが今はそんな皮肉を言う行員はいなかった。そして大きな案件が亜由美に任さ
れた。新潟では有数の製紙会社、越後製紙が生産設備の増強を計るため融資を申し込んできた。
これが完成すれば中国に押され気味の製紙業界で画期的なコストダウンと品質の向上が
可能となる。利益率が飛躍的に上がることは容易に予想できた。しかしその為にかける
投資額が巨大すぎて他社が二の足を踏んでいた。その額ざっと300億、銀行にとっては
慎重にならざるを得ない額だった。綿密な調査を繰り返し勝算ありと頭取達の前で
プレゼンした。完璧だった。融資は決まり製紙会社は日本最高の生産能力を有する異なった。
しかし、結果が出たわけではない、設備が完成し稼働そして利益を上げ始めて亜由美の実績
として認められる。しかしここで思いもよらぬ事態が起きた。業界一位の双子製紙が敵対的
買収を仕掛けてきた。成功すれば越後製紙は双子製紙の子会社となりメインバンクはメガバンクに
移り地銀の出る幕はなくなる。亜由美の立場は悪くなった。そこまで調べなかったのかと
上司はもとよりあれほど賛成した頭取達も手のひらを返したように責め立てた。中には
亜由美は双子製紙に高額の報酬を約束され、その見返りに内部情報をリークしたのではないかと
噂も立った。こうなると居場所はどこにもなかった。買収が成立不成立に関わらず
上司共々責任を取らされ左遷された。新人の頃いた庶務課の倉庫係、やめろと言う暗示
このままでは夫の立場も危うくなる。亜由美は辞表をだした。しかし家に帰っても居場所は
なくなっていた。仕事にかまけ学校行事も日祭日も部屋にこもって資料整理ばかりしていた
母親を息子は見限っていた。反対に夫とは兄弟のように仲良さそうに話していた。
そして転機は間もなくやってきた。夫にNY支店勤務の辞令が下った。亜由美のことで少なか
らず夫も社内的痛手を負っていた。ほとぼりが冷めるまで日本の外で羽をのばしてこいという
上司の温情だった。それにNY勤務は左遷ではなく栄転に間違いはない。夫は即座に承諾
し家に帰る亜由美にそのことを告げた。しかし亜由美にはふつうつとした思いがあった。
誰にも予想できない事態、その責任を取らされ自分は辞職、夫はそれを踏み台にして栄転。
子供を帰国子女にはしたくないからと単身赴任してくれと言った。夫はさして異論を
唱えなかった。というよりその方が気が楽だと言いたげにも見えた。2月後夫はNYへ
行った。すると息子は全寮制の中学を受験したいといいだし半年後家を出て行った。
なにかの小説ではないがそして誰もいなくなった。そんな家に亜由美はぽつねんとした。
心配した銀行の元同僚が訪ねてきて夫の秘密を知った。大手外資系の女性敏腕ファンド
マネージャーと懇意にしているらしい。銀行にとっても夫からもたらされる情報は非常
に有益なため大人同士の問題と目をつぶっている、元同僚は自分の持ってきたケーキを
パクバク口に運びながら語った。亜由美はこの同僚を絞め殺したくなるのを必死に耐えた。

午後21:10
贅沢にレースを使ったドレスの少女が父親の胸に抱かれ亜由美達の前を
通り過ぎる。後ろからは荷物を持った母親が携帯で誰かと話しながら夫を追いかける。
様子からして娘の習い事か何かの発表会がこの近くであり、ついでに食事でもしていこう
とレストランに入ったが、途中で娘が寝てしまったというような夫婦の様子だった。
去っていく親子を見送りながら女性は目を細めた。
「あの時ほど主人に感謝したときはありませんでしたよ」
「そうでしょうね」
気づくと長いすの端にサラリーマンとおぼしき男性が立っていた。亜由美は脇に置い
たバックを膝に乗せどうぞ目配せした。しかし男性は恥ずかしがり屋なのか結構ですと
遠慮した。高速バスで移動するサラリーマンは大抵会社ら新幹線代をもらい差額を
懐に入れる。ささやかな横領、愛すべき小心者、よれよれの背広に悲哀が漂っていた。
「息子も父親の仕事の大変さを身にしみて実感したょ。あんな学問やろうとしたのも入院
が切っ掛けなんですよ」
入院中息子は同じ病棟の子供達と接し、自分のように外科的な治療では治らない
遺伝的病気があることを知った。研究はしているが今の医学ではまだどうにもならないと
息子は父に教えられた。仲の良かった子がある日を境にふっといなくなる。
しばらくしてその子は死んだのだと知る。死ぬことの簡単さ、生きる事の難しさ
幼い息子の胸の中で何かが変わったのだろうと女性は言った。
「それから半年後です、夫が死んだのは、心筋梗塞だったらしいです。疲れてるのに無理して」
一年前、購入した家の居間に夫の遺影が飾られた。線香の香りが漂う部屋でまだ幼い息子と二人
女性は途方に暮れたという。


亜由美は家を出た、家出なのだろうがそれすら気づく者はいない。糸の切れた蛸、じっとして
いられなかった。誰にも必要とされない自分、妻でもなく、母でもなく、女でもない。
昨年ボーナスで買ったエルメスのバッグ一つで東京行きの深夜の高速バスに飛び乗った。
何度か出張で来る事はあったがいつも会議室へ行って帰ってのとんぼ返り。買い物はおろか
知り合いとお茶をした事もない。夜明けの新宿駅に下り立ったはいいがこれからどこへ向かって
歩き出していいか解らなかった。とにかく住むところを見つけよう、すべてはそれからだと
安いアパートを借りた。しかし安いと行っても8万近く、現金だけでカード類は置いてきた。
それこそ保険証も、持ってきた物と言えば運転免許書ぐらい。無謀なことは解っていたが
今までの生活を捨て出てきたかった。当然、敷金礼金で現金は底をついた。仕事関係のつては
こちらにもいる。相談したら仕事を紹介してくれたかもしれない。しかし嫌だった。もうあんな
仕事はしたくない、全く違った自分に変わりたい、そう思った。容易く見つかる仕事といえば
水商売しかなかった。中学生の子供がいるんですけれど大丈夫でしょうかと?電話口の男性に
尋ねると熟女が好みの沢山いるからと面接に呼ばれた。初めての世界、まだ自分のような女でも
大丈夫なのかと不安はあった。面接してくれた店長は人当たりがよく、支払いについても
細かく説明してくれた。砂糖とクリープが多めに入れられたコーヒーを出されすすった。
幾分落ち着いた頃『どうしますか?』と尋ねられ『お世話になります』と答えた。出来るかな
んて解らないただ変わりたかった。先に勤めていた年下の女性に一通りの事を身体で教えられた。
その日から店に出た。こういうのは勢いと店にあったドレスを着せられ客に付いた。体中さわられ
下着に手を入れられた。見渡すとたばこの煙の向こうで女性達が身をよじらせていた。店長は何も
言わない。そういう店だった。ホテルに行こうと誘われた。そう言う店だった。客が女を持ち帰れ
ばマージンが店に入る。断るのは自由だが売り上げがあがらなければ3ヶ月目には首、亜由美は客
を取った。何億という融資の担当をしていた自分が手取り1万5000円で体を売っている。安ホテル
の堅いベットで客の荒々しい愛撫に感じれるわけもない。しかしそうしている自分に喜びを感じた。
復習、夫にかと聞かれるとそうではないような気がする、ただ壊れていく自分が愛おしい、そんな説明
しがたい感情だった。ある日店に出ると店長に宣伝用のスチール写真を撮影すると言われた。スタジオ
など無かった。店の一室を模様替えしソファーにピンクのシルクカバーを掛け、そこでガーターベルト
だけして横たわる、胸を手でかくし、恥部は膝をおりまげ見えるか見えないか、そんなポーズで
と店長に指示された。部屋の前の廊下には女達が小学校の時のインフルエンザ注射のように並んだ。
カメラマンの前で目一杯笑顔をつくる女達、さすがに顔は出したくないと店長に言った。顔出したほう
が使命取りやすいけれどいいの?ときかれた。答えない亜由美を見て『なら片手で目かくして良いよ』
と折れてくれた。順番がきてカメラの前に身をなげだした。


午後21:13
そういう女性の表情に疲れは感じなかった。だから亜由美も大変でしたねと言えなかった。
「中学生のあの子が言うんですよ。親父みたいになるってね、母親としては複雑ですよ。
医者になったばっかりに死ぬ羽目になったのに、でも正直嬉しかった。死んだあの人が
息子の中で生きてるんだなって」
「再婚されなかったんですか?」
女性は大笑いした。子持ちのこんなブスもらってくれる物好きなんていないと大きな口で
笑い飛ばした。いけないと思いながら寂しくはなかったか?と聞いてしまった。
酒の席の酔いに流され何度か男ともそう言う事もあった。心ときめいた相手がいなかった
わけでもない。
「ならなぜ?」
「怖かったのかもね」
夫を嫌いになったのでもなく、目の前の男を心底惚れていたわけでもない。いつまでも
女でいたいと男にのめり込めるほど素直ではない。それよりも再婚する事で息子に嫌われ
たくなかった。何もない自分には息子が恋人、親ばかなのはわかっているがそれほど
愛していた。
「過ぎた嫁とか亭主とかいうじゃない、私には息子が過ぎた子供、自分が産んだなんて信じられないくらい」
女性は息子を大学へやる為に必死になって働いた。昼間は食堂・夜はコンビニ
息子はぐれもせず母親の期待に応えた。高校大学と全て一発合格、しかし医学部には
いかず理系の説明されても解らぬ学部に入学した。遺伝子の研究には国内最先端の場所
だと言う事はぶっきらぼうな息子の物言いでも何とか理解出来た。
「本当は地元の国立大の医学部に入ってもらいたかったんですけれどね………」
言うだけ馬鹿よねと首を傾けた。


目の前にいたカメラマンに亜由美は声をあげた。そこにいたのは大学時代つきあっていた
彼氏だった。メモリー交換に下を向いていた男が顔を上げた。
「なぜおまえがここに………」
男の名は本間司、亜由美と同じ経済学部だったが趣味の写真が賞をとり、三年で大学を
中退した。そのあとは有名なカメラマンのアシスタントになり、自分でも写真を撮り続けた。
頑固だが本間の撮る写真は美しく儚げだった。亜由美が大学を卒業するとき、俺の側にいろ
と言われた。うれしかった。しかし、アシスタントの収入など雀の涙にもならない。
それとてあったりなかったり。吉野屋でバイトした方がずっといい。実際そうして
亜由美が本間を支えた時期もあった。『かならず一流になって楽させてやるから』演歌の
世界のような台詞に心も揺れた。しかしそんな娘を熱病にかかっているのだと父親が
強引に引き離した。悲劇のジュリエットを演じながら心の中ではホッとしていた。そうだ
父親が言うように自分は熱病にかかっているのだと。新潟に帰ってからも半年ほどは本間と
メールのやりとりをした。しかし仕事も面白くなく、恋愛の煩わしさにも疲れた亜由美は
メールを返すのを止めた。ストーカーになるかもと暫くはおびえたがそれ以降本間が目の前に
現れる事はなかった。そう思うといい男だったのかもしれない、そして自分を本気で愛して
くれていたのかもしれないと罪悪感にかられた。
「うん………ちょっとね」
そう言うしかなかった。店が終わった後、本間に誘われ飲みに言った。イヤだ行きたくないと断ることも
出来たのについて行った。全て話した。聞かれない事まで話した。なぜ連れ去っていってくれな
かったとくだを巻いた。ストーカーになられるのが怖かったはずなのにそうしなかった本間を
叩いた。もしあの時強引に連れ去っていてくれたなら自分はこんなにはならなかった。だらしなく
泣いた。他に客がいるのにかまわず泣いた。本間はただじっと聞いていた。
「なんとかいいなさいよ」
「ずっとひっかかってた」
「とっくに忘れてたんじゃないの」
「そうしたかったさ」
「恨んでる?」
「どういってほしい」
「聞くの怖いからいい」
亜由美は酔った、酔って見せた。自分一人じゃ帰れないと言葉にせずに本間の肩に頭を乗せた。
抱きかかえられ店を出た。どこかからすえたドブの臭いがした。それでも夜風は心地よかった。
ふらつく身体を抱え上げられ車の助手席にそっとおかれた。動き出す車、窓に街角で自分と同じ
性を売る女達が映る。虚ろな目で酒臭い息をはーとはく、タバコを亜由美の膝に置かれた。
いらないと首をふり目を閉じた。そして二人は本間のアパートで肌を重ねた。亜由美は懐かしい
胸に頬をあてた。胸板が薄くなった気がした。それでもかまわない。何もしようとしない本間
自身を目覚めさせ自分の物にした。腕に頭をのせ久しぶりに感じる安心感にうとうととした。
まだこの男が好きなんだとまどろみの中で思った。カーテンの間からライトのような月が見えた。
明るすぎると文句を言った。


午後21:15
「でも息子さん、帰ってくるっていったなら良いじゃないですか」
「そんなの信じちゃいんせんよ」
女性はハンドバックから飴を取り出し包みを破いた。オレンジの香りのするそれを口にほうばり
前を向いた。きっと息子はもっと遠くへ行くだろうと女性は言った。
「さみしいですよ」
息子の才能を認めているのは誰ならぬ彼女自身、帰ってこなくていいなどと言う良い母はなれない
だからこそ母親を裏切って外の世界に出て行ってほしい。それこそ死んだ夫の分まで思い通りに
生きてほしいと女性は言った。
「いいんですかそれで?」
「そうしたら今度は私も男、見つけますよ。コブがとれたんだなんとかなるかもしんないし」
そうはしないと思った。なぜならとても幸せそうな顔をしている。不思議だった。
夫を早くになくし、息子は旅立ちが近いというのに自信に満ちている。やり遂げた
という満足感なのか。
「大丈夫」
「あんた口達者らね」
「そんな」
「まだなんとかなるかね?うふふ」
女性ははにかみ太い指を口に当てケタケタとわった。隅にいたサラリーマンも何事かと
こちらを見た。屈託のない笑顔、可愛らしいと思った。女性のご主人もこんなふうに気持ちよく
笑う所に惹かれた気がした。


亜由美は自分のアパートを引き払い、本間の所に転がり込んだ。押しかけ同性のような物だった。
正直、一人暮らしが寂しすぎて限界だった。そんなところに本間の温もり、二人は離れていた
時間を取り戻そうとするかのように愛し合った。しかし生活は相変わらずだった。あれから
10数年経つというのに花どころか芽も出ていない。それでも風俗もネットで宣伝する
ようになり、客引きの為の写真撮影を頼まれるようになってから何とか食っていけるように
なったと本間は恥ずかしそうに言った。机の上のバインダーにはさめられた作品をめくった。
本間の写真は昔と変わらず美しく儚げだった。
「あ、これ」
店のスチール写真を撮った時、気づかぬうち本間は亜由美の素顔を写していた。
「私こんなに美人じゃないよ、なんか合成してない?」
亜由美からバインダーを取り上げ本間はじっと眺めた。
「いい女だよ」
褒められたとは思わない、悔しかった。どこがいい女だというのだ。好きな男と一緒にいるというのに
自分はまだ風俗の仕事を辞めてはいない。それどころか離婚もしていないし、逃げ隠れして生きている
本間に追い出されても文句は言えない。いや、ここを追い出されたらもう行くところが無く
なり、望み通り完全に壊れてしまう。なぜこうも優しいのか、そしてなぜこうも自分は勝手なのか
本間に寄りかかりながらその肩を突き放したくなる。
「なあ、モデルになってくれないか」
「おばさんだよ」
「いいだろ、俺なら」
昔、そう言われた事が合ったけれど恥ずかしいと絶対に撮らせなかった。でも今は自分の女だと言われ
たようで嬉しかった。
「ヌードな」
「うん、何でも見せてあげるよ」
その言葉に嘘はなかった。本間が自分を撮りたいと思うならそうさせてやりたかった。
例え写真が世に出て家族に知られる事になろうともそんな事はどうでもいい。自分を
必要としてくれるこの男の為ならかまわないと思った。2日後、亜由美は仕事を休んだ。
本間の借りたスタジオでレンズに向かって肌をさらけ出した。気持ちよかった。
フラッシュが焚かれるたびに透き通っていく感覚、撮影が終わり即座にプリントアウト
された写真はスチール写真と比較にならぬほど美しい女を切り取っていた。自分自身に
怯えていた胸の中にわずかだが勇気の火がともった。
「好きよ」
溜まらず本間に抱きついた。抱き寄せる腕が震えていた。
「昨日、君の旦那が家に来たんだ」
心臓が握りつぶされるような痛みを亜由美は感じた。


午後21:20
 バス停には乗客が15人ほど集まっていた。しかし椅子に座っているのは女性と亜由美だけ
サラリーマンを含め他の客は思い思いにぶらぶらと時間を潰している。タバコを吸う者
ipodの音楽に体を揺らす者、ハンバーガーをほうばる者、他人に話しかけられるのが
いやなのかみんな一定の距離を置き好きな事をしている。一通りの話しを終えた女性は
亜由美に興味をもった。
「でもあなた綺麗だねえ、まだ独身かい?」
「いえ中学の子供もいます」
へえーと驚いた顔の女性の声に恥ずかしくなりあたりを見回した。巡回中の警官が後ろを
通り過ぎたくらいで此方に目を向けた者はいない。
「里帰りかい?」
「仕事でしばらくこっちに、これから帰るんですけど」
「旦那さんまってるよ」
「そうでしょうか?」


夫は亜由美の母親からいなくなった妻の行きそうな所を聞き、訪ね回ったそうだ
しかし見つからない、もう一度母親に聞くと昔引き離した本間の所かもしれない
とすまなそうに打ち明けられたという。雑誌社の友人のツテを頼りに要約ここを
探し当てたと夫は淡々と話したらしい。
「どういってた?」
「妻を返してほしいと言われたよ」
もう遅い、自分は夫にも子供にも言えないような事を沢山した。こんな日の為に
汚れた。もう彼らの所には戻れない。
「私の仕事の事は?」
「気づいていない」
「教えてやればよかったのに」
「そうしたかった。そうすれば諦めて帰ると思った。でも止めた」
「………」
スタジオの椅子に座り、本間の掛けてくれたバスローブの襟を掴んだ。
本間は撮影用のライトを一つ一つ消していく。灼熱の太陽の下にいるよう
だった空間が暗くなっていく。そしてついにスタジオ隅のテーブルを
照らす蛍光灯だけになった。スタジオの厚いドアがギギーっという音を
たて開き建物の管理者が顔だけをのぞかせた。
「あと10分で出て行ってくれ」
そう言い残すと、すぐにドアを締め足音を響かせ去っていった。本間は
亜由美に携帯電話とメモを渡した。
「電話しろ」
「いいの?」
電話をかけていいの?本間を脅迫、自分の意志などないかのようなずるい言い訳
「ああ」
メモの電話番号にかけると懐かしい夫の声が聞こえた。ごめんとは言いたくなかった。
すると夫が言った。
「ごめん」
「なによそれ」
「やりなおそう」
「彼と一緒にいること知ってるんでしょ」
「それでもいい」
「なによそれ、だらしない」
言う言葉、言う言葉が反対に自分に突き刺さる。
「銀行やめたんだ」
「え!」
ファンドマネージャから得た情報で為替の取引を仕掛けたところ全くのガセネタで
銀行に大きな損失を与え実質解雇のようなものだったと語った。それに息子が学校で
傷害事件を起こし退学になった。今は自分と家で暮らしている。アメリカで出来た
友人と一緒に小さな会社だが立ち上げようと思う。亜由美と息子と自分でアメリカで
暮らしたいと言われた。そしてそれ以上夫は亜由美の事は聞こうとはしなかった。ただ
帰ってきてくれ、まっていると言い残して電話は切れた。本間がバックにカメラをしま
っていた。さっきの管理人が又入ってきて『早く出て行ってくれ』と迷惑そうに言った。
本間が怒った。
「5分や10分、がたがたいうな」
あまりの迫力に管理人は身をすくめ出て行った。
「家族の所へ帰れ」
「だって」
「仕事の事言わなかったろ、まだ未練があるってことだ」
「そんなんじゃないって」
「わかってる。でも俺の所にいたらお前は駄目になる。
待っていてくれる場所があるなら帰れ、亭主、最後泣いてたぞ」
そう言うと本間はバッグを肩に掛けた。


午後21:30分
「待ってるわよ」
自信がなかった。帰っても又同じ事を繰り返してしまうかもしれない。
もうどこにも居場所はないと思って出てきた。なのに東京であった事の何もかも
秘密にしたまま夫の所へ戻ろうとしている。今朝起きたら、本間がいなくなっていた。
イラクへ行くと書き置きがあった。
『今度こそ命がけで写真を撮ってくる。だからお前も女かけて必ず幸せになれ』
成田に追いかけていった。すでに本間の姿はなかった。ロビーでうなだれながら書き置きを
何度も読み返した。自分の為に、自分を守る為にイラクを選んだのだ。もうこれ以上
壊れていくのを思いとどまらせようと。そんな優しくしてもらう価値のない女なのに。
「私、他に好きな人がいるんです」
女性は一呼吸於いて亜由美の手に手を重ねた。
「なら、二人の男を想ったらいいは」
「違いますね、貴方と」
二人の前に風が吹いた。高速バスが目の前に滑り込むように入ってきた。バラバラだった
客がいつの間にかバスの前に列をなしていた。女性は又の間にあったバッグを持ち立ち上がった。
そして亜由美に言った。
「私もそう出来たらしたかもしれない、ただ心底想ってくれる人が1人しかいなかっただけよ」
10分後、客を乗せたバスはまだ眠りそうにもない夜の新宿から走り去った。
ガラス窓に映る亜由美は泣いていた。本間にさよならが言えなかったからだ。
2007/04/01(Sun)14:03:10 公開 / たつや
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