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『憧憬の果てに【「序章」一話〜三話】修正』 作者:fog / ファンタジー 異世界
全角24460文字
容量48920 bytes
原稿用紙約75.7枚
少年は何かに憧れそれを掴もうとした。そこにあったのはギシアという知らない世界。様々な人と出会いながら、少年は進む。彼の道には何が待っているのだろうか?多くの思い駆け巡る、無から始まるファンタジー!
 鳥――
 古来からの人の理想。絶対に辿り着けない領域。
 風に乗り光を浴び、そこから世界はどう見えるのだろう?
 だれもあなたの邪魔をしない。そんな夢のような場所で何を思うのだろう?
 広大な大地を見下ろしてある鳥がつぶやく。
「人だって風を感じられる。光を浴びれる。世界を見れる。私達は羽しかない。羽がなければ私じゃない。だから人がうらやましい」

               【序章】一話『 無知から始まる智天使 』

 周りを見れば、ビル、びる、ビル。人が支配するのなら当然の風景の中、彼は立っていた。
 下を見れば行き交う車がソラ豆程度の大きさに見える。五階建てのマンションの屋上も見下ろせる。
 彼の頭上ではスズメが円を描いて踊っている。やがてふんわり彼の肩に足をつけた。そのスズメの頭を彼は優しく撫でる。
「嫉妬するよ。自由ってのは一体どんなものなんだい?」
 スズメは彼を見て首をかしげる。その純粋な瞳にはただ彼が映る。
「人は……翼を失った天使とは程遠いなあ。人が翼を手に入れたとして天使にはなれないんだろう」
 彼は軽くため息をついて顔を後ろに向ける。網の柵が目前にあり、柵に四角く囲まれている地面の真ん中には、円で囲まれたHの文字が大きく書かれていた。
 柵の外側にいる彼は自分の世界に浸り、自由を感じていた。
 軽くスズメに微笑み人差し指を差し出す。スズメは弱くつついてからそれにのった。
 彼が天高くスズメをかかげると、スズメは青空に浮いた。彼に背を向け前だけを見てまっすぐ進んでいく。
 だんだん、だんだん小さくなる。彼はスズメが青に消えるまでずっとその尾を眺めていた。
 彼の瞳に一枚の羽毛が映り、振り子のように動く。そっと手の平を上へ向けるとゆっくり降りてきたそれは動きを止めた。
 彼はその手を握りズボンのポケットにそれを収めた。
 それから改めて下を覗く。彼は一瞬凍りついた。中くらいの長さの無造作ヘアーが風でわずかに揺れる。
「何もかもがこれで終わる。高校生活も家族も。でも仕方ないよな……」
 彼は目をつむり人生の様々なことを思い起こす。
「うーん。よく考えたら俺ってイケメンだったんだなあ。結構もてたよな。それに学校の成績は悪かったけど運動は出来たし。俺ってなかなか幸せ者だったんだな」
 彼は腕を組みながら二回頷いた。腕を解き、両手を広げてゆっくり深く息を吸い、吐く。
(死んだらどうなるんだろう? まあどうであれ今よりはいいに決まってる)
 すっと目を開ける。そして決心したように身を乗り出して跳んだ。
 体が宙に投げ出される。天地が逆転した。体全体で風をきっている。
 彼は強く目をつむった。暗い。
 ただ暗かった……
 少し時が経って、彼は暗い中に自分を感じた。もういないはずの自分。
 しかし上下も左右も感じられない。黒以外はなにもない。
 これが自分の求めた世界なのか、と彼は思った。その時遠くの、本当に遠くの方から男の声が聞こえた。
「人が倒れているではないか。どうしてこんな所に……」
 男の声を聞いて彼は自分が生きていることに気付く。そのまま意識を失った。



 窓からは目を細めてしまうほどの光が降り注ぐ。窓のわずかに開いている隙間を通り抜けた風が、端っこに留めてあるカーテンを小さく揺らす。机の上で開かれた教科書の面がやわらかい音を立てて変わる。
 青空を流れ、少しずつ形を変える雲。太陽に美しく影をつけられた入道雲をじっと見つめる彼の頭を先生の教科書が軽く叩く。
「なーにぼーっとしてんだ? おまえ化学以外の成績はどうなんだ? もう一回二年生の思い出作りたくないだろう」
 彼は叩かれた部分をやさしく擦っている。
「すみません。雲に見とれてて……」
「おまえの脳みそも雲でできてんじゃないのか?」
 クラスメートがクスクス笑う。黄昏てるのもなんかかわいい、なんて女子生徒の声もちらほら。
 薄黄色い光が、白で埋め尽くされてるま緑だった黒板に差している。
 こんな平凡な繰り返しを彼は机に肘をつきながら虚しく感じていた。
 もう一度雲を見る。太陽がその後ろに隠されてしまっていた。まるで丸呑みされてしまったかのようで、その雲は悪魔の顔をかたどっているみたいに見えた。
 その顔は大きく口を開けた。開けてこっちに近づいてくる。
 辺り一面が闇に包まれていく。だんだん黒が濃くなる。そしてとうとう何も見えなくなってしまった。
 彼には何がどうなっているのだかまったく分からなかった。周りを見ようにもどっちが右なのか左なのかわからない。
 その時、一筋の光が彼に差した。その光の源は天使のような甘い輝きを放っている。決して弱々しいわけじゃなく、その安定感が全ての生き物に安心を与える。そんな光だった。
 彼はその光へ急いだ。とにかく味方に感じられた。
 上から差しているので走っているかなんて分からない。それでも光に向かって進むことが出来た。
 しだいに光が大きくなる。そこに辿り着くとその光がまぶしく彼を照らした。
 巨大な安心に包まれて彼はゆっくり目を閉じた。

 気付けばやわらかい地面の上。手には布の感触。そんな所で彼は目を覚ました。
 そこには木材でできた天井があった。ランプがぶら下がっている。
 周りを見回してみれば壁も床も木材だった。
 部屋の真中にはテーブルがある。部屋の角に取り付けてある棚には花瓶が置いてあり、チューリップのような赤い花が飾られている。窓から差し込む薄赤い光がその花を照らし、さらに色濃く見せていた。
 彼は部屋の隅にあるベッドに横たわっていた。しばらくぼーっと花を見つめる。とりあえず見つめる。
「あれ?」
 彼はやっと異変に気付いて起き上がった。ベッドから降りて窓から外を見る。
 一瞬眩しくて目をつむる。目が慣れて、畳ぐらいの大きさの窓から見える光景に彼は目を奪われた。
 不純物のないオレンジの空――と、木材でできた家々がいくつも並んでいる。人々がその手前にある石の板が敷き詰められた道を行き交う。
 紳士服みたいなものを着ている男やピンクのドレスを着ている女などが歩いていた。
 彼の頭に昔のヨーロッパの貴族が西部劇の町を歩いている姿が浮かんだ。
 家々の先に緑の森が見え、その周りに少し黄色がかった緑の平原が広がっている。
 こんな意外な景色に彼が目を丸くしていると、後ろのドアが音を立てて開いた。
 彼は驚いて振り向いた。そこには男が立っていた。
 白い布を肩から足元まで纏っているが、それでも相当がたいのいいことがわかる。彼よりも一回り以上も大きい、ワイルドな感じの男だ。
 カウボーイの帽子を被っていて、その境目から覗ける目だけみると野生の猛獣と見間違えそうだ。
 男はその顔をニヤッと変えて言った。
「やっと目が覚めたか。君はダネルの森なんかで一体何をしていたんだ? 見るからに弱々しい君なんかが入ったら夜には猛獣のエサなのに」
 男は少年が不思議そうに見ているのを気にも留めずに続けた。
「それにしても見慣れない服だな。コメノス王国からきたのか? あそこは海上貿易が盛んだからな」
 少年は自分が着ているクリーム色のフード付きパーカーと灰色の長ズボンを見た。それから顔を上げて言う。
「あ、あの……ここはどこですか?」
「ここはロア国のフェン町だよ。そこのダネルの森の中で君が倒れていたからここまで連れてきたんだ」
 男は窓から見える森を指差した。
 少年は混乱した。
 (俺は死んだ。死んだはずなのに生きてる。みんな死んだらこんな所にくるのか?)
 そんな風に考えをめぐらせている間に、男はお盆に乗ったスープの皿とパンをテーブルに置いて椅子に腰を下ろした。
「まあ人それぞれ言えない事の一つや二つある。なんで森にいたかなんて聞くことはやめよう。さあ食べなさい。半日以上寝ていてお腹が空いただろう」
 少年の腹が鳴った。少年はいろいろ考えるのをやめ、椅子に座ってスープを口に運び始めた。
 男は怖い顔だが、どこか人に安心感を与える雰囲気があった。
 太陽がもう半分隠れた頃、少年は動揺が少し落ち着いたので本来最初に聞くべきだったことを口にした。
「おじさんは誰ですか?」
 男はそう聞かれて少し悩んだ。悩んだ挙句に慎重に言葉を選びながら言った。
「私は訳あって旅をしている者だ。名前はヘクトル。歳は二十四で出身はロア国の城下街イリオン。君は?」
 どうせ言っても分からないだろうと思ったが一応少年は言った。
「俺……僕の名前は楠志紀。志紀でいいです。日本に住んでいるんですけど……」
 ヘクトルと名乗る男は少し驚いた様子だったがすぐに真顔に戻った。
「クスノキシキ? 変わった名前だな。……しかしそれも当然だろう。ニホンから来たと言ったね」
 志紀は頷く。自分が思っていたリアクションと全く違っていたので逆に驚いた。
 ヘクトルは椅子から立ち上がり、窓へ歩く。
 夕焼けの空はもう半分近く紫がかっている。ヘクトルの野獣の目には半円の夕日が映り真っ赤に燃えている。
「十年に一度くらい君みたいな人がこのギシアにやってくる。アメリカから来たと言う人やロシアから来たと言う人。君みたいにニホンから来たなんて人もね」
 ヘクトルは志紀の方へ向き直り真剣な面持ちで言う。
「今ある文献ではその『ここではない世界』から来た人のほとんどが戦争に巻き込まれたり獣に襲われたりして死んだ。残りは突然いなくなったが何年かして死体で見つかった。一人が死ぬと何年かしてまた他の人がくる……」
 志紀は驚くことも忘れて抜け殻になっていた。
 他の人にも自分と同じように来てしまった人がいることより何より、その全てが死んでいる事にショックを受けた。自分も死ぬのかと。
「今言った事は『ここではない世界』から来た者が現れたら最初に言う事が義務付けられている言葉だ。釘をさしておくが、『ここではない世界』へ君が帰る方法は私には分からない。そしてここギシアでは君のような人は大事に扱うようにいわれている。『ここではない世界』から来た人をケルビムと呼んでいるのだが、ケルビムが存在する国はなぜか毎回必ず戦いに勝利する」
 志紀が落ち込んでいることに気付いたヘクトルは、志紀の両肩に手を置いて顔を覗き込んで言った。
「シキ君。安心しなさい。君の命はこの私が死んでも守る。なにせ君はケルビムなのだから! 帰る方法はゆっくり探せばいい」
 志紀が気弱に頷くとヘクトルはまた椅子に腰掛けた。
 布のローブの隙間から剣の柄が見えたので志紀は椅子から転げ落ちそうになった。
「ああ、怖がらなくてもいい。さっきはどこの誰だか分からなかったから身分は隠したが、私はロア国陸軍の一隊の隊長を任されているんだ。王の命令でここに来たのだがイリオンからここフェンまで森を迂回していると馬でも二週間近くかかるから森を突っ切ってきたんだ。普段はあの森を人が通るなどありえないから君はまさに危機一髪だったな!」
 ヘクトルは高らかに笑った。志紀は苦笑いをするしかなかった。
 外はもう完全に暗闇になっていた。ヘクトルは一階にある食堂まで志紀を案内すると言った。
 どうやらここは宿屋らしい。
 部屋を出ると広く長い廊下が横に続く。その床は赤いジュータンが隙間なく敷かれている。左右には部屋に繋がる扉がたくさんあった。 
 壁には所々、なにやら恐ろしい形相をした髭と髪の長い老人の肩から上だけの銅の彫刻が取り付けられていた。右手で剣をかかげている。
 少し歩くと下りの階段が螺旋を描いて現れた。
 そこから壁が手すりに変わっている。その階段は食堂の真ん中から伸びていた。
 降りるとそこは人でごった返していた。
 この四角い教室三つ分くらいの広さの空間に、円形のテーブルが大小含めて十個以上置かれている。
 ヘクトルは店の隅にある空いているテーブルを見つけてそこに腰掛けた。志紀もそのすぐ隣に座る。
 志紀は周囲の人間を観察した。様々な格好をしている。
 酒の入ったグラスがのってるお盆をせかせか運んでいる長いブロンド髪の女性は、カチューシャがないメイドみたいな服を着ている。
 酒を運んできたその女性をジロジロ見ているごついスキンヘッドの男は、布でできたオレンジのシャツのようなものを着ていた。胸の筋肉が浮き出るほど小さい服だった。ズボンはジーンズに似ているが、おそらく材質は違うのだろう。
 その男とは逆に小さめの相席にいる男は黒のローブに身をつつみ、フードを顔の半分まで被っている。
 昼間に見た貴族のようなものも含め、とにかくいろいろな格好をした人がこの店にいた。
 厨房への開き戸の横の壁に掛けてある絵にはヨーロッパにありそうな城が描かれていた。店の出入り口側の隅に中世の青銅の鎧を思わせるものが飾られている。
 何もかもが初めて見るもので志紀の興味をそそった。
 そんなこんなで店の周りを見渡していると、隣にはさっきのブロンドの女性がお盆を抱えて立っていた。
 志紀は固まった。
 近くで見るとすごく綺麗な顔立ちをしている。ふわふわの金色の髪がそれをさらに引き立てている。年は志紀と同じくらいだろう。さっきの男がジロジロ見るのも無理はないと志紀は思った。
 彼女は志紀にニコっと微笑む。志紀の目が点になった。生まれてから十七年の間いろんな女性と会話してきた彼だが、ここまでストライクな人は初めてで微笑まれただけで動けなくなった。
 次に彼女はヘクトルを見た。
「この方、目を覚ましたんですね。よかった。ヘクトルさんがダネルの森に倒れてたなんていうからもう手遅れかと思って……ほんとに心配しました」
「ああ、ついさっきな。どうやら彼はケルビムのようでね。森に迷い込んだらしくて」
「ケルビム!?」
 彼女の目が輝く。お盆をテーブルに置いて志紀の右手を両の手で取った。
「私、ケルビムの方ってはじめて見ましたわ。そう言えばどことなく目鼻立ちが私達と違って綺麗ね」
 自分の顔を覗き込んでくるので、志紀は赤くなってヘクトルの方を向いた。ヘクトルはニヤニヤ笑いを浮かべている。
「彼女はアイリス。この店一番の人気者だよ。言っただろう? ケルビムはここでは勝利をもたらす者。天の使いだ。大抵の人の反応はこんな感じさ」
 アイリスは慌てて手を離してお盆で顔を半分隠すと赤くなった。
「いやだ私ったら。つい興奮しちゃって。あの、あなたのお名前は?」
「志紀」
 と、小声で呟く。
「良い名前ね」
 と、彼女は言った。そんなやりとりをすまなそうにヘクトルは遮る。
「アイリス。ミュレーニとポワトロを二つずつ持ってきてくれ。今日は朝昼抜いているからもう腹ペコなんだ」
 彼女はまだ何か話したそうだったが、仕方なく小走りで厨房へ向かった。
 志紀がぼーっとその姿を見てるので、ヘクトルがニヤニヤしながら小突いてきた。
「彼女が気になるかい? まだ間にあうよ。彼女に恋人はいないからね」
 志紀は恥ずかしさで俯いた。そして無理矢理話題を変えようと顔を上げた。
「彼女は僕の名前を良い名前って言ってましたけど……」
 志紀は彼女の話から離れてない事に気付いてはっとした。ヘクトルのニヤニヤ笑いはまだ消えていない。
「ああ、シキという部分だけならね」
 彼が話を軽く流すので、志紀はもう精神的に参ってしまった。
 気付くと厨房で色々なウエイトレスが志紀の方を見ながらこそこそ何か言っている。志紀がその方向を見ると黄色い声をあげた。
 ケルビムってのはそんなにすごいのか、と志紀は考えたが要はイケメンだからであった。
 夕食は小さいフランスパンをくり抜いて中にシチューを入れたような料理や、焼いた七面鳥みたいな肉にサラダが盛り付けられたものなど、志紀には少し豪華に思えるようなものが並べられた。
 それを全て胃袋に収めてヘクトルと志紀は部屋に戻った。
 窓から月光が淡く部屋を照らしている。
 ヘクトルは天井からぶらさがっているランプに火打石で火を灯した。暗がりがほんのり照らされる。
 ヘクトルはベッドに腰を下ろした。志紀も促されて隣のベッドに座る。
 窓の外では月がぼんやり弧を描く。それを眺めるヘクトルの目は、野生の狼の眼力に引けを取らないだろう。しかしその目はどこか寂しさがある。一匹狼でいることに不満があるようだ。
 ヘクトルは小さくため息をつくと、白いローブの中からペンダントを取り出し飾りの部分を開いた。そこには肩に手を置かれ微笑んでいる黒髪を束ねたの女性がいた。
 志紀は気付かないフリをして天井のランプを見つめた。火がゆらゆら踊っている。それにつられて部屋の明かりも不安定に彩られる。
 赤やオレンジ色の不規則の火を見つめながら、志紀は今日の出来事を振り返った。
 自分が死のうとしたこと。違う世界に来ていたこと。親切なおじさんが助けてくれていたこと。そしてウエイトレスの女性。
 なぜかこの世界は志紀にはとても心地がよかった。なぜここに来てしまったか考えることなどとうに忘れていた。
「湯にもつからせてやれなくてすまない。都に戻ればあるのだが……何せ必要ないと思ってあまり金は持ってきていないんだ」
 唐突に話し掛けられたので急いで志紀が振り向くと、ヘクトルはいつの間にかペンダントをしまって志紀に正面を向けていた。
「あ、大丈夫です気にしなくても。僕は一度死んだような身だし……」
 志紀は慌てて言った。親切な人に心配をかけるというのは結構心苦しいものである。
 ヘクトルは一度死んだような身というのを森に倒れていた事と解釈してゆっくり頷いた。
「しかし、そういうわけにはいかない。君はケルビムだ。私は君をイリオン城へ無事に送り届けるという義務を負った。何かあったら私に言ってくれ。できる限りのことはするつもりだ」
「え? 城へ送る? 一緒にいてくれるんじゃないんですか?」
 ヘクトルの言葉がまだ途中のところで志紀は言った。
 志紀の心に不安が見え隠れしている。それを感じとったヘクトルはさらにやさしい口調で説明した。
「もちろん城に着くまでは私が命をかけて君を守る。しかし私とてケルビムの全てを知っているわけではない。一緒にいたいのは山々だが、残念ながら私一人の手に負えることではないんだ。ケルビムを城に届けることはひとつの義務になっているし、城に行けば何かしら書物から帰るヒントが見つかるかもしれない。安心したまえ。城には君に害を与えるような者はいないよ」
 頷きはしたが、どんなに丁寧に説明されても志紀の心は痛む。この人がいなくなってから先、自分に何が待っているか知れないという不安が志紀の頭にしがみついて離れなかった。
 もう寝よう、とヘクトルはランプの火を吹き消した。帽子をテーブルに置く。月光に照らされる短髪の黒髪が炎のよう天を指す。
 志紀が横になるのを確認してから彼もベッドに入った。
 ヘクトルが熟睡してからも、志紀は中々寝付くことができなかった。
(そう、俺は一度死んだ身。帰りたいなんて一言も口には出してない。こっちで生きることも良いなんて思ったりもした。だって向こうにいたって……)
 志紀に様々な思いが巡った。少し涙ぐむ。布の掛け布団でゴシゴシ拭った。
 月明かりにやさしく包まれて、精神的に参っていた志紀はいつの間にか深い眠りについていた。
 その月は彼を起こさないように、静かにいつまでもいつまでもやさしく包み込んでいた。

               二話『 外 』

 鳥たちの合唱だけが響き渡る乾燥した朝。白い日差しが横向きにフェンの町を照らす。その光は志紀の寝ている部屋にも四角く降り注いでいる。
 それが眩しくて志紀は壁の方へ寝返りを打つ。
 木の板から匂う自然の香りが部屋中に満ちていて、志紀は心地よく夢の中にいることができた。


 誰も彼の邪魔をする者がいない。そんな素晴らしい青の中を彼は進んでいた。
 森は遥か下、雲は遥か上、海は遥か向こう、そして虚しい現実は遥か彼方の違う世界に。
 彼は宙に浮いている。羽はない。だから歩いている。ガラスの板が敷かれているみたいに何気なく。ただ歩く。
 これは彼が望んだ世界。自由になりたいという想い。
 いつの間にか森が遠く後方に、前には平原広がる。
 真下には街があった。
 中心には堂々と城が建っている。それを取り囲むようにして色とりどりの屋根が円を描く。何重もの円の間を人々が生きる。
 楽しそうに立ち話をする女性。酔って肩を組みながら歩く男達。
 街の一角には広場があり、子供たちがはしゃいで駆け回る。噴水の囲いには空をじっと眺める女性が腰を下ろしている。
 そんな光景を目にして志紀は立ち尽くす。それから小さく呟いた。
「うらやましいなあ」


 ガチャ。
 ドアノブが回る音がして志紀は現実に引き戻される。
 その心には何かわからないがしこりが残っていた。
 不思議な事に志紀は今見た夢は覚えてたものの、昨日自分が死のうとした理由が全く思い出せなかった。
 夢から覚めた志紀の心にはなぜか悲しみはなく、嬉しさが感じられる。嬉しいのに涙が出た。
 頭は働いていないのに、彼はとにかく涙を止められなかった。
「泣いて……いるんですか?」
 甘い声がしたので振り返ると、そこには女神を思わせるような美しい女性が心配そうに彼を覗き込んでいた。
 志紀のもともと真っ白だった頭が完全に活動停止した。しかしすぐに意識を取り戻して上半身を起こし、袖で目をこする。
 そこにはアイリスがいた。
「悪い夢でも見てたんですね。かわいそうに」
 これも夢のような気がして志紀は手の甲をつねったが、現実らしかった。
 それから左のベッドを見た。ヘクトルの姿はない。見回してもこの部屋には志紀とアイリス以外いなかった。
「ヘクトルさんならお仕事があるそうで今朝早くに街へ出かけられました。ですから帰ってくるまであなたのお世話をするように頼まれたんです。あ、これ朝ご飯です」
 そう言ってアイリスはテーブルにお盆を置いた。
 ミルクと昨晩のシチューみたいな料理と赤や橙色の見慣れない野菜のサラダが乗っている。
 それを見ながら半分ぼーっとして志紀は言う。
「これ……どうやって食べるんすか?」
 アイリスははっとした顔でドアの外へ駆けていった。
 しまったと思い、志紀はベッドから飛び降りて彼女を追いかける。
「別にいいよ! そんくらい自分で持ってくるから!」
 急いで一階へ駆け下りた。
 食堂は昨日のような人ごみはなかった。数人がぽつんとテーブルで朝食を口にしている。
 そこには例のスキンヘッドの男達もいて、一瞬ジロッと志紀を睨んだが続きを食べ始めた。
 厨房の小さい開き戸を押してアイリスが出てきた。少し息を切らしていて、手にはスプーンとフォークを持っている。
 ごめんなさい、と一言謝ってそれを志紀に手渡した。それから二人で階段を上り、部屋へ歩き始める。
「ヘクトルさんは私が十歳くらいの頃から兵隊としてここに度々やってきて、よくこの宿に泊まるんです」
 アイリスは話し始めた。
「森から迷い出てきた獣から私を助けてくれたりして……あの人にはとても感謝しています」
 志紀はあまり関心がなさそうに返事をした。アイリスに見とれてしまっていたからだ。彼女は坦々と話を続けるが、志紀の頭には入ってこない。
 アイリスの様子をじっと眺めていると、志紀の視界から突然彼女が消えた。
「キャア!」
 悲鳴が聞こえた。地面には突っ伏す彼女の姿があった。
 彼女は自分の世界に浸っていたためにほんの小さな段差に気付かずに転んだのだった。手で支えようとしたが間にあわなかったらしく、片腕をすりむいていた。
「大丈夫すか!?」
 血が出ていたので志紀はあたふたした。とりあえずポケットから白いハンカチを取り出して巻いてあげた。
 少し沈黙が流れた。
 ありがとうございます、と小さく呟いてアイリスは気恥ずかしそうにしながら立ち上がった。
「そういえば志紀さんはここに来て間もないんですよね?」
 少し顔を赤らめながらアイリスが言った。志紀は軽く頷いた。彼女は両の指先をお腹の辺りで軽く交差させた。
「そうだ! 朝食を済ませたら町を散歩しませんか? きっと面白いものがいっぱい見られますよ」
 彼女が嬉しそうにそう言うので志紀は断る事ができない。もとより断るつもりなどないが。
 考えてみれば志紀はこの宿屋から一歩も外へ出ていないので、町を歩く事にすごく興味があった。
 志紀が承諾したのでアイリスは目を輝かせた。
「じゃあ外で待ってますから早く来てくださいね。あ、食器はそのままで結構です。後で係りの者が片付けますので」
 彼女はそれだけ言って階段を駆け下りていった。志紀は呆然とそこにつっ立っている。頭を掻いた。
 志紀は急いで朝食を飲み込んだ。
 部屋を飛び出て階段を駆け下りると、食堂にはさっきのスキンヘッドの男とフードの男がまだいた。
 スキンヘッドの男が一瞬志紀を見てニヤッとしたかと思うと、隣のフードの男に頭を叩かれて顔を背けた。
 志紀はそんなやりとりに全く気付いてない様子で、外へ繋がる扉に手を伸ばした。扉の横のカウンターには受け付けと見られる男が上を向き、いびきをかいて寝ていた。
 扉を開けると開くのにあわせて外からの光が流れ込む。
 全開にすると目の前が一瞬真っ白になった。だんだんそこに色が付けられていく。
 真前にはこげ茶の建物。三角屋根の上には濃いブルーが広がり、白い飾りが浮かんでいる。
 石板の道には早朝までの静まり返った様子はなく、人が行き来している。
 いつの間にか太陽は少し斜め上に昇っていた。
 志紀は外へふらふら誘惑された。太陽の光が目にしみる。手で太陽を隠せば光が手の形をなぞる。
「もう来たんですか!? もっとゆっくりなさってよかったのに。まだ三十秒くらいしか経ってませんよ」
 アイリスが宿屋の壁にもたれかかっていた。その顔は本当に驚いているようだ。
 早く来いといわれたから志紀は急いだが、いくらなんでも早すぎたらしい。
 彼女はさっきまでの仕事用の服とは違って地味で茶色の、襟が白い半そでのワンピースを着ていた。皮のブーツも黒から茶色に変わっている。頭には桃色のリボンを巻いたストローハットを被っていた。
 三十秒以下で着替えた彼女のことの方が逆に志紀を驚かせた。
 アイリスが寄りかかっている今までいた宿屋を見てみると、横向きに家が三、四軒くらい建ちそうなほど大きい二階建てだった。
 志紀が口をあけて見上げているとアイリスが近寄ってきた。
「このお店はイリーっていって宿屋にレストランを兼業しているんですよ。お店の名前は城下街イリオンの名前をもらったみたいです」
 志紀はまだぽかんとしている。これは他の質素な家を差し置いて一際目立っている。
 三角屋根がぎざぎざにいくつも繋がっていて、扉も室内とは違いこちらからだとライオンの顔のレリーフやら飾りがすごい。
 窓枠が白い以外木の色一色なのに随分と豪華である。
「今度温泉もひこうって盛り上がってるんですよ。……あ!向こうにお店がたくさん並ぶ道がありますから行きましょう」
 アイリスが楽しそうに道を歩きだすので、志紀は急いで横に並んだ。
 それから家と家の間の路地を三つ四つ通った。
 路地を抜けるとそこには大通りが広がった。
 家が背を向き合っている間にあるこの道は意外と幅広い。真っ白い石の板がまんべんなく敷き詰められ、道の左右には白布の屋根の屋台が一直線に立ち並んでいる。
 結構多くの人がこの通りを行き交っている。
「ここは真昼になるともっとにぎやかになるんですよ」
 彼女は言った。
 それから二人は店を見物し始めた。
 煙を出している店があるので見てみると、タコの足をまるまるいくつも串に刺したものを網で焼いていた。紙の扇で煽がれていて、煙からは醤油の香りがする。
 隣の店では黒い布が敷かれた台の上にアクセサリーと思えるものがたくさん並んでいた。金色の冠を頭につけた王様の横顔の鎖がついたものや、青色に輝くビー玉ほどの大きさの石がついている指輪などがある。
 そのなかの一つが志紀の目を引いた。手にとって見ると、それは首飾りだった。
 輪は黒いゴムかなにかでできていて、取り外しの部分の銀のフックはもう片方の銀のわっかに引っかけるようになっている。
 飾りの部分は鉛でできているのか少し重い。毛が後ろに逆立っている白銀の狼の横顔だった。目の部分は赤い石がはめ込まれて鋭く光っている。
「兄ちゃんお目が高いねえ。それは今日仕入れたばかりのコメノス王国の品だ。今なら安くなってるけど一つどうだい?」
 黒いタンクトップを着た顎鬚の男が台の向こう側から言った。腕に真っ黒な竜の刺青を彫ったその男は、足を組んで椅子に腰掛けている。
 志紀は首飾りの下にあった値札と思えるものを見てみたが全く読めない。札には点やら縦棒やらが書かれていた。
 この世界の通貨なんて持っていないので、志紀はそれを置いて立ち去ろうとした。
 するとその横をすらっと細い手が伸びて台にコインを何枚か置いた。
 そこにはアイリスが顔を覗かせていた。
「まいどあり」
 店の男が言った。
 店から離れて志紀が呆然としている。
「これのお礼ですよ」
 彼女は笑顔でハンカチが巻いてある腕を触って言った。
 志紀が面目なさそうに下を向いて頭を掻いていると、彼女が近づいてきてさっきの首飾りを志紀の首に回した。あまりに近いので志紀はどぎまぎした。
 付け終えてから彼女は距離をとると、両の手の平を軽く叩いた。
「まあ、やっぱり思ったとおり。とっても似合ってますよ」
 志紀は今度は恥ずかしくて下を向いて頭を掻いた。
「ありがとう」
 アイリスは少しはにかんだ。
 二人とも全く喋らない。
 そのうちお互い恥ずかしがっているのがおかしくて志紀は笑った。彼女もつられてクスクス笑う。
「よかった。さっきから私が一方的に話してばっかりで嫌われてるのかと思いました」
 志紀が慌ててかぶりをふるのでまた彼女は笑った。
 そんなこんなでまた屋台を見て回り始めた。
 お面や民族衣装など、見たことがないものがたくさんあったので志紀を飽きさせなかった。
 太陽はいつの間にか真上から照っていた。
 二人は屋台の大通りを抜けた。そこには広場があった。
 地面の赤レンガが円形に敷き詰められ、その周りを家が円を描いて建っている。中心には立方体の台座があった。
 上には石像が置かれていた。
 志紀は台座の前で立ち止まった。そして石像を見上げる。
 男が二人、二十代前半くらいに見える。一人は整ったサラサラしてそうな髪形で、ライオンの文様が入った胸と肩当ての鎧を着ている。
 そして柄と比較するととても大きな剣を右手で前に構えている。肩当てからはマントが後ろになびいているが、どちらかというと風より男の闘志でなびいている感じだ。
 もう一人はクルクルの毛の長髪で、すごく美形だ。フード付きのローブを首から床に着くまで纏っていて、大剣の男の隣で横向きに立って弓を構えている。手首の所より少し長い手袋をはめていた。
 志紀はこの石像を見て素直にかっこいいと思った。この二人には武器を持った人間が百人でかかっても勝てないような闘志が感じられた。
「これは百年前に現れたギシアの伝説の英雄リーチとデューセの像です。この二人は鬼神のごとき強さを持っていて、ギシア中の様々な戦争を鎮めたと伝えられています」
 志紀の横に立ってアイリスは説明した。志紀は関心のある返事をした。
 この石像は、何故か志紀に親近感を持たせた。
 しばらく見つめていると、遠くから響きのいい鐘の音が聞こえてきた。残響音が呼応する。
「もう真昼ですね」
 アイリスが言った。
 いつの間にか広場には人が増え、子供がはしゃいでいた。振り返ると大通りはすごい人込みだった。
 彼女は何かに気が付いたようにはっとして言う。
「そ、そうだ。町の外にあるダネルの森の浅いところに私のお気に入りの場所があるんですけど、行きませんか?」
 志紀が頷く。彼女は弱く苦笑いをして手招きした。
 家々を過ぎるとそこには平原が広がり、生い茂る雑草の中に所々生える白い花は一際目立っていた。
 その黄色い平原に緑色の大きな森が横にどこまでも伸びている。
 アイリスは一本の木に近づいてその幹を確認した。幹には石で削り取られたような傷がついている。
 彼女は木を一つ一つ見ながら森の中へ進んでいった。傷を目印にしているようだ。
 彼女が急ぐので、志紀は結構早足でついていった。草をかきわけなければ進めなく、まるでジャングルのようだ。
 少し進むとやがて木のない空間が現れた。土は芝生のような雑草で覆い尽くされ緑一色だ。
 その空間の真ん中には一本の巨大な木が堂々と立っていて、それを囲むように周りは泉があった。
 真上から降り注ぐ日光が巨大な木をより神聖なものに引き立てている。
 僅かに揺れる水面によって反射した光が星のようにあちこちで現れては消える。
 さらにそれは晴天をそのまま映す鏡でもあった。青と白の美しい調和がそこにある。
 耳を澄ませば森の囁きが聞こえる。それに答えるように鳥がさえずる。
 どこからともなくハーブに似た香りも漂う。
 木々で囲まれたこの場所を見た志紀は、考える事を止めた。ただこの自然を五感を使って感じるだけ。
「どうですか? ここは人里に近い部分ですから獣もやってきませんので、私は疲れたときによく来るんです。前にヘクトルさんと一緒にきた時に、一度だけ迷った獣に会ってしまった事があるんですけど……」
 アイリスの言葉で志紀の脳が動いた。
「すげー……こんな所初めて来た」
 志紀は中央にそびえる巨大な木を見つめていた。風が吹き、膨大な数の葉が揺れて、水面の木陰が左右に振られる。
 ここに来てよかったと志紀は本気で思った。この場所だけでなく、この世界に。
 自分のほったらかしにしてしまった何かを、また拾って一考する機会をもらったような気持ちだった。
「よ、よろこんでもらって何よりです」
 木を見つめる志紀の後ろにいるアイリスの声は何故か震えている。
「し、ししし、シキさん」
 彼女の様子が何かおかしいので志紀が心配して振り返ろうとした時、この自然の森に響きのいい金属音がこだました。
「ごめんなさい!」
 彼女の大声が聞こえたと思うと、鋭利な刃物が志紀の首をめがけて素早く向かってきた。そして血が刃物に付く。
 志紀の衣服の肩の部分から血が染み出てきた。彼のものすごい反射神経で間一髪肩をかすった程度で済んだのだ。
 志紀は唖然とした。あまりの出来事に驚いて片膝を地面についた。
 目の前には震えた両手でナイフを志紀に向けているアイリスの姿があった。
 彼女のストローハットが音を立てずに雑草の群れに舞い降りた。
 彼女は何も考えられないという感じの顔で、青ざめていた。
 しかしすぐに我に返ると、もう一度振りかぶって志紀の首にナイフを振り下ろしてきた。
 膝が震えていて立てない志紀はもう覚悟するしかなく、強く目をつむった。
 だが今回は血が飛ばなかった。
 何も感じないので志紀がゆっくり目を開けると、彼女の左腕を大きな手が掴んでいた。
 彼女の後ろには眉間にしわを寄せたヘクトルがいた。その目は静かで何の感情も放ってはいない。
 振り返ったアイリスの顔は更に真っ青になった。彼女は小刻みに震えている。
 その震えが大きくなったと思った時、彼女はナイフを持っている左手を離した。
 そして自由になった右手でその鋭く光る先端を自分の喉元に向けた。
 志紀は驚く事しかできなかったが、ヘクトルは急いで刃を掴んで彼女の手からそれをもぎ取った。
 それから彼はアイリスの腕を掴んでいる左手を離した。握っている右の拳からは血が滴れ落ちている。
 何もなくなったアイリスは涙を浮かべたかと思うと、顔を両手で覆い隠してその場に崩れ落ちた。
 ごめんなさい、と何度も何度も呟いている。
 ヘクトルは困った顔で左頬を掻いた。
「こういう場合は怒った方がいいのかな?」
 志紀は肩をおさえながら弱々しく立ち上がった。
「一体これは……?」
 ヘクトルは握っているナイフを投げ捨てた。
「ああ、君に説明しないいけないな。しかしとにかく時間がない。アイリス立てるかい?」
 彼は左手をアイリスに差し出した。彼女は頷いてから顔を拭いつつ手に掴まって立ち上がった。
「フューロはどこにいる?」
 ヘクトルが言うと、アイリスは驚いた顔で彼の方を向いた。
「どうしてそれを……」
「宿屋に戻ったらシキ君がいないんでね。食堂にいた二人組みの男が金を数えながら君たちのことを話していたんで、少し荒く脅してやったら全部吐いたよ」
 シキは首をかしげた。
 ヘクトルは落ちているストローハットを拾うと軽く払ってアイリスの頭にかぶせた。
 それから志紀を見て、目で「行こう」という合図をした。
 そしてアイリスの背中を押しながら促す。
「さあ、早くフューロの所へ」
 アイリスは未だに顔を拭っていたが、そのまま歩き出した。
 志紀は並んでいるヘクトルとアイリスに加わった。
 森を抜けるとフェン町が姿を現した。昼過ぎの家々は日光でその木目がよく見える。
 その中に差し掛かる時、志紀が口を開いた。
「何があったんですか?」
 ヘクトルは右にいる志紀を見た後、左のアイリスの方を向いた。
「アイリス。シキ君に説明してあげなさい。君の口から聞かないと彼も納得できないだろう」
 彼女は俯いたまま少し黙っていたが、少し経つと話し始めた。
「……私には弟がいるんです。その弟が大勢の人に捕まってしまって。それであなたを殺さなければ弟を殺すと言われたんです。それから機会を伺ってヘクトルさんがお仕事だと嘘をついたりして……でもシキさんがとてもやさしいので私なかなかできなくて……」
 アイリスはまた顔を拭って謝った。ヘクトルは彼女の頭を手の平で軽く二回たたいた。
「と、いうことだよ。おそらく宿屋の二人もその仲間もルゴ国の者だろう。昨日の会話を盗み聞きされていたんだな。今朝私は預けていた馬の様子を見に行って、帰ってきたら君がいないので本当にびっくりしたよ。探していたら丁度森へ向かう君等を見たんだ。……で、彼女は謝っているが、君はどうする?」
 志紀はただまっすぐ前を見つめながら答える。
「いいよ別に……そういう理由ならしょうがないじゃんか」
(今朝スプーンとかを忘れていたのは俺を狙うことに気を取られてうっかりしたからか)
 このような事を頭で考えてはいたが、志紀の心の奥底では自分の命を狙う者の存在についての驚きでいっぱいだった。
 しばらく家々を曲がりくねって歩くと、やがて目の前に窓のないボロい建物が立ちはだかった。
「ここです」
 一行は立ち止まった。ヘクトルの目つきが変わる。
「相手は大人数だ。君たちは下がっていなさい」
 彼はローブの内側に下げている剣に手をかけて、ボロ屋のドアノブを握った。
 それから物凄い音と勢いでそのドアは開かれ、ヘクトルは中へ駆けた。が、立ち止まった。
 太陽の光が丁度ドアへ向かって射しているで外からでも中の様子を覗うことができる。
 その光景を見た志紀は一瞬息が止まった。ドアが開いたのは刹那のことだが、それでも志紀にははっきり見えたものがあった。
 後ろ向きの少年がドアの音に反応して首を少しこちら側に向けていた。ほんの少し首を動かしただけなので顔は分からない。
 しかし背と雰囲気から少年というのが何となく分かる。髪は金髪だ。
 そして志紀の目を奪ったのはその金髪にも付着している物。血だった。
 体中のあちこちが血だらけで、その少年が着ている物、白かったであろう少し大きめの半そでのシャツや横に少し大きい濃い緑色のズボンはほとんど血で染まっていた。
 簡単に言えば全身血まみれだった。
 志紀は立ち尽くしたが、その横を少年と同じ金髪が横切った。
 アイリスは少年の方へ駆けながら大声で叫んだ。
「フューロ!」

           三話『 約束 』

 アイリスが駆け込んで行くのに従って、志紀もその後に続いた。中に踏み込むと、志紀の隣ではヘクトルがその太い腕を組んでいた。
 志紀は部屋に入ってすぐ歩みを止めた。
 フューロと呼ばれる少年は部屋の中央に立っている。その隣にはこのボロ家を支えるためのものと見える心許無い柱が天井にまっすぐ伸び、地面ではちぎれた縄がそれを囲んでいた。
 そして部屋のあちこちには数人の男が倒れていた。一人は部屋の隅の樽に頭だけを突っ込んでいる。他の男は床に倒れていて、剣を腹に刺されたまま仰向けになっている者もいれば、血を吐いていて折れた槍にすがりつこうとする格好のまま力尽きている者もいた。
 アイリスは気が動転していて周りの様子には気付いていない。ふらつきながらフューロに近づいた。
「大丈夫なの!? ああ……一体どうしてそんな……血まみれで」
 アイリスの声に反応して、ゆっくりとフューロは正面を向けた。中学一年生くらいの年と思われる彼は、肩にかかりそうな少し長い金色の髪を持ち、アイリス同様綺麗な顔立ちをしている。
 まさに『綺麗』という言葉が適当で、どちらかというと女性に近い顔をしていた。
 フューロをよくよく見て、志紀は意外なことに気付く。その体、血こそ付いているものの傷一つ負っていなかった。
 ヘクトルはフューロへ歩み寄り、周りを見回した。
「これを全部一人でやったのか?」
 少年は依然として平静を保っていて、頬に付いた血を腕で拭って――いや、拭ったというよりは延ばしてから小さく口を開いた。
「こいつらが姉さんの悪口を言ったから」
 透き通るような可憐な声だった。
 その返答にヘクトルは呆れたのか深く鼻息を吐いた。
「大した奴だな。しかし何故最初からやらなかったんだ?」
 フューロは自分にすがりついてわんわん泣くアイリスを見下ろしながら表情を変えずに言った。
「抵抗したら姉さんを殺すって言われた。でも結局我慢できなくて。ごめんなさい」
 謝っている割には気持ちがこもっていないと言うべきか、フューロからは感情が窺えない。
 この少年の雰囲気は、陽にも、ましてや陰にも属さない。『無』というのが近い表現ではないだろうか。
 誰も喋らないので、しばらくアイリスのすすり泣く音だけが唯一の音声になった。
 だが突然、沈黙をかき消すかのように、部屋の隅にもたれ掛かって倒れていた男がふらつきながら起き上がった。近くに落ちていた剣を拾いあげてフューロに向かって走ってくる。
「このガキがあああ!」
 男は剣を振りかぶりフューロの首めがけておもいきり振り下ろした。まさに首を切り落とされんというその瞬間、フューロは男の手首を後ろ向きのまま掴んだ。
 それから男の手首をひねり、勢いよく振り上げた。剣が宙に跳ね、回転しながら落ちてくる。
 フューロは、驚き少し怯えた顔をしている男の方に振り返り、左手の掌を男に向けて疾風の如く突き出した。
 ちょうどそこに剣の柄が合い、そのまま男の右腕を貫く。そして悲鳴を上げさせる間もなく男めがけてフューロの右肘の追撃が襲ってきた。
 男は肘を顔に喰らってふっ飛ぶ。
 倒れた男は右腕から血を流し、仰向けのまま動かなくなった。
 くるりと反対に向きを戻したフューロの顔には返り血が更に付いている。
 両膝をついて、すがりついたままの格好で両腕を伸ばしているアイリスは凍ったように動かなかった。
 志紀は血を見て気持ち悪くなったのか、手で口をおさえている。だがフューロは眉一つ動かさない。
 フューロのどこに向けられているのか分からなかった視線が志紀の目へと移る。
 そのどこまでも深い、奈落の底のような奥深さを持つ瞳を前に、志紀は体中が麻痺し、どこまでも永遠に続く真っ暗な落とし穴に落ちたような感覚を覚えた。
 志紀は目を逸らすことができず、少しの時が流れる。しかし、その沈黙を破るようにしてヘクトルが言う。
「うむ、こいつらはルゴ国の者だな。ケルビムの命を狙ったのだからおそらく打ち首は間逃れないだろう。だがケルビムの存在を伝える他の仲間はすでにルゴ国に向かってしまったと見ていい。こうなれば一刻も早く城に届けねば」
 フューロの肩に手を置いてからヘクトルは出口へと向かった。フューロは何事もなかったかのようにその後ろに続いた。アイリスは急いで立ち上がってフューロに並び、彼の身を案じて声をかける。
 アイリスに色々と気使われながら、フューロは出口の手前で立ち尽くしていた志紀を横切った。
 一瞬横目で志紀を見たが、何もそこには存在していなかったかのように視線を戻した。
 それから少しの間全く動けなかった志紀は、やがて震える足を無理矢理引っ張る。急ぎ足で外へ出た。だが、何故かだんだん足の運びを緩め、動きを止めた。それから後ろを振り返る。
 中ではまだ男達が血を流して倒れている。仰向けの男は苦しそうにうめき声を上げていた。
 志紀は後味が悪そうに少し目下げた。そして、ヘクトル等の後を追って歩き出した。


 一行は屋台の大通りの前で立ち止まった。
「私はこの子が心配なので。ここで失礼します」
 アイリスはフューロの肩に手を添えて深く一礼した。その後チラッと志紀を見る。涙を浮かべたかと思うと、フューロの肩に手を回して向きを変えて歩いていった。
 角を曲がって路地から彼女等がいなくなってから、ヘクトルと志紀は通りに向けて歩き出した。
 志紀は先ほどからずっと下を向いたまま一言も喋らずにいた。そんな彼の様子を知ってか知らずか、ヘクトルは話し始める。
「彼女も悔しいのだろうな。ルゴ国の者にいいように扱われ、危くケルビムを殺してしまうところだったのだから」
 志紀の視線は依然地面に向けられたままだった。
 ヘクトルは帽子を深く被り直し、ため息をついた。
「このフェン町は通称『悲しみが枯れ残る町』と呼ばれている。数年前、この町はルゴ国の奇襲にあった。全く無防備だったここは一日でほぼ壊滅状態。生き残った者は僅か。ルゴ国の奇襲の理由は未だに分かっていない。だが何にせよ、この町の生き残った人々の心には深い傷とルゴ国への恨みや怒りが根強く刻まれてしまっている。多くの悲しみを背負いながら、生き残った人々はたった数年でここまで復興させたのだ。そしてその復興の足掛かりとなったのがこの大市場だ」
 ヘクトルは周囲の屋台を手の平で示した。
 志紀はゆっくりと顎を上げて辺りを見回した。それから前の一点だけを見ながら口を開く。
「恨みや……怒りや仇があれば……何をしてもいいと思いますか?」
 ヘクトルは固い表情を変えないままでいる。
「生き残った人々の傷は君が思っているより遥かに深い。彼を見たまえ」
 そうしてヘクトルが指差したのは朝の装飾屋の男だった。腕を組んでいびきをかいている。
「上手く隠しているが、彼の腕に彫っている絵の下に刃物で刺された跡がある。傷を負いながら何とか逃げ延びる事が出来たのだろうな」
 志紀はそう言われて、刺青の竜の中心部あたりの皮膚が少し変形している事に気が付いた。
 そしてすぐにヘクトルの方に顔を向けた。その表情は少し青ざめている。
「血は……血を見ても平気なんですか? 人が苦しんでいるのを見ても大丈夫なんですか?」
 その純粋な瞳に心を押されてか、ヘクトルの顔にも少し動揺が見えたがすぐに気を立て直して被りを振った。
「私は戦で血も倒れる人も道端の石ころの数ほど見て慣れている。君と同様に彼らもそれを見慣れていないのは事実だ。しかし恨みがそれを帳消しにしているのだろう。……アイリスとフューロの両親もあの奇襲によって命を落としている」
 彼の返答に不満を感じているのか、志紀は顔を背けた。ヘクトルは空を仰いだ。
「アイリスはダネルの森にいて助かり、フューロは深手を負ったが一命をとりとめた。彼は目の前で両親を殺されたらしくてね、その時から笑う顔も泣く顔も怒る顔も見ることがなくなってしまった。おそらく心中は憎悪で満たされているだろうな」
 彼は肩で息を吸って思い切り吐くと、歩調を速めた。それから聞こえるか聞こえないか程度の声で呟く。
「町は元通りになっても、悲愁は枯れ残ってしまった」


 町の真ん中にある広場から端を繋ぐ真一文字の大市場を三十分程歩き続け、ようやく二人は出口近くまでやって来た。
 通り抜けた店には様々な物が並んでいたが、志紀にはそれを眺める余裕もなかった。その目はどこか虚ろで、視点が定まっていないようだった。
 ヘクトルが歩みを止め、少し作ったような笑いを浮かべて志紀のほうに振り返った。
「さて、出発のために預けてある馬を引き取りにいかないとな。あと先程の奴等への身柄の手配を。すぐに戻るから待っていてくれ」
 そう言い残すと、大通りを外れた道を歩いていった。
 日は傾きかけている。出口に近いせいか、最後の屋台は志紀の遠く後方にあった。もう真昼ほどの人込みは窺えない。
 志紀は赤茶に染まっている横長の板が敷き詰められた壁にもたれ掛かった。町の出口には扉のない縁だけの木の門があり、その横には物見櫓が堂々と聳えていた。
 志紀はそれを下から上へ流れるように見上げ、そのまま空を仰いだ。ほっと息をつく。
 空を眺めるのが癖になっている志紀は、思いにふけったり考え事をする時は決まって顔を上げる。
 彼はいつしかの友達との会話を思い出していた。
 下校途中、中学校で人権問題が取り上げられたので友達同士が青臭い議論を交わして盛り上がっていた時の一言。
『人を殺すっていうのは本当に悪い事?』
 一人の友達がそんな事を言うものだからまた議論が上下した。悪い事だとしきりに騒ぐ子もいたし、動機によってはいいなんて口開く子もいた。
 どちらかといえば志紀は他人がどうなっても構わない方だったから、他人が殺そうが殺されようがどうってことないと思っていた。
 そう自分で意識していたのに、実際志紀は倒れている人を見て不快という感覚を持っていた。
 そんな事を考えている内、何故ここへ来てしまったのだろうという疑問が自然と湧き上ってきた。未だに死のうと思った理由が思い出せずにいた。
 全く思い当たる事のないその理由を懸命に考えている所で、志紀の視界の下に金色の何かが映った。
「何をした」
 唐突に話してきた透明な声の源を追ってみると、そこにはフューロが立っていた。
 血は洗い落とされていて長そでのYシャツのような服から白い肌が覗ける。髪以外は長ズボンも含め白一色となっていたが、何故かそれが似合う程の秀麗な容姿を持っていた。
 血が落ちてあらわになった顔は、本当に女性と身間違えてしまいそうなほど綺麗であった。着痩せするのか、男一人をふっ飛ばすとは思えないほど体つきは細く見える。
「姉さんがお前を見て泣いてた。何をした」
 相も変わらず感情のこもっていない音調でフューロは言った。
「え? え? 何って何が?」
 突然聞かれて訳が分からない志紀は、あたふたするしかなかった。
「姉さんを泣かすなんて許せない。姉さんは僕が守る」
 そう言ってからフューロは間髪いれずに右拳を持ち上げて志紀めがけて勢いよく振り下ろした。
 風を切って向かってくる拳を、志紀はその超反射神経でギリギリかわすことができた。右に飛んだ勢いでそのまま一回転する。
 志紀の顔があった場所は拳が通り抜け、そのまま後ろの木の壁を物凄い音を響かせぶち破った。
 事態は呑み込めないが、少し落ち着きを取り戻した志紀は素早く立ち上がった。
「よく分からないけど、そうやってなんでもかんでも力で解決しようとするなんて……」
 フューロは無表情のまま首を傾げたが、次に蹴りを放ってきた。志紀はそれを後ろに跳んでかわす。
「さっきの奴にだってそうだ。血を流して苦しそうに倒れていたじゃないか。お前は何とも思わないのかよ?」
 フューロは蹴りをかわされた事に驚いたのか、また首を傾けた。志紀に向かいながら答える。
「ルゴ国の奴がどうなろうと僕の知ったことじゃない。あんな奴らはさっさと死ねばいいんだ」
 それから左ストレートを飛ばす。
 今度はかわしきる事ができず、志紀は右腕を曲げたまま顔の前に上げた。フューロの拳は腕に直撃し、志紀は後ろにふっ飛んで仰向けに倒れる。
 志紀は急いで起き上がろうとしたが腕に激痛が走り、顔を歪める。が、左手で腕を抑えながらも何とか立ち上がった。
「そんな事……お前がやってるのはそいつ等と同じ事じゃないのかよ! 人の痛みも考えないで! 同じじゃねえか!」
 フューロは志紀に向かってゆっくり歩いている。
「うるさい」
 声の調子は変わらないが、志紀には何かしらの感情が伝わってきたような気がした。
 そのあとに襲ってきたカマイタチのような鋭い回し蹴りをしゃがんでかわす。
「理屈じゃねえんだな。お前にゃ無理矢理じゃないと伝わらないみたいだ」
 志紀は立ち上がる勢いでフューロに飛び込んだ。痛みを必死にこらえながら右手を振り上げてフューロの顔めがけて突き出す。
 しかし、勝負は呆気なく終わった。
 志紀のパンチはフューロに届く前に止まり、代わりに志紀がボディーブローを喰らっていた。
 息が詰まったような声を上げて志紀はその場に両膝をついた。
 起き上がろうと頑張るが、腹と右腕の痛みで力が抜けて左腕も地面につけた。その目はしっかりとフューロを見据えていて、悔しさが滲み出ている。
「お前なんかに……今に見てろよ。いつかお前より強くなって痛みを分からせてやる!」
 フューロはそんな志紀の様子を見て、いつかの思いを馳せていた。


――「あなた!」
 炎上する正午のフェンの町。
 逃げ遅れた幼きフューロとその両親の家に叫び声が響いていた。
 銀色に鋭く光る剣に体を貫かれたフューロの父は、血を流してぐったりと倒れたまま事切れる。
 部屋の壁に掛けてある絵画や、皿をしまうガラス棚に血が飛び散っている。
 部屋の中央にある木のテーブルの横で倒れて動かない父を見て、フューロは怯え震えていた。
 窓の外から流れ込む灼熱の真紅で、その部屋は地獄絵図と化す。
 フューロの父を刺した男は剣を振って血を払った。その姿は黒くぼやけていてはっきりしない。
 男は一歩また一歩とフューロに近づいた。
 頭を抱え、恐怖の表情を浮べるフューロに母親が這うように近づき、その体を抱きしめた。
「この子は! どうかこの子だけは見逃して下さい!」
 涙を流して請う彼女を見下ろして男は立ち止まった。そして目を瞑ってゆっくり被りを振った。
「悪いな……一人も逃がすなってのが王の命令なんだ。ここで死んでくれ」
 それから男は剣を下に向け両手で握り、フューロを抱え込む背中に思い切り振り下ろした。その剣は背中を貫きフューロの腹にまで届いた。
 男が剣を引き抜き、向きを変えて歩き出す。その体はもはや返り血だらけだった。
 フューロの母は我が子を抱きしめる力を失い、音を立てて床に倒れた。フューロは腹から血を流し、うつ伏せに倒れる。
 遠退く意識の中で、フューロの心には憎悪が沸き上がってきた。その感情を振り絞って言葉を発する。
「殺してやる。いつかお前を殺してやる!」
 男は歩みを続け、ドアを開けた。少しだけ顔を後ろに向けて言う。
「……お前がもし生き伸びたなら、その時は俺よりも強くなって俺を殺してくれ……」
 それだけ残し、男は燃え盛る町に消えていった。


 少し時が流れ、門から見える太陽は半分隠れていた。
 我に返ったフューロは、左腕で体を支えている志紀をじっと見つめる。
 ――ホントウハ、ダレカニトメテホシカッタンダ。ボウソウスルボクヲ。ワカッテイルノダケド、ニクシミガカッテニボクノカラダヲソウサスル。ダカラ、タスケテホシカッタンダ。タスケテ――
 声にならない想いをフューロは抱いていた。憎しみで満たされているフューロは決してそれを言葉にする事はできない。
 だからそれは代りの形で表された。
「強く」
 音の上下がなく感情が表せない。
 だが志紀にはその想いをすくいとることができた。『悲しみ』は志紀の胸に届いた。
 痛いはずの右腕に、志紀は強く力を込める。よろけながらも何とか立ち上がった。その表情は、困っているような、同情しているような、何ともいえない感じである。
 フューロは右手を緩やかに左胸までもっていき、軽く添えた。
「約束」
 静かで透き通っているのにはっきり聞こえる声で言った。彼の一色で塗りつぶしたような瞳に夕日がぴたりとはまり、濃く燃やしている。
 彼の様子を見て、志紀も頑張って右腕を動かした。小さく呻いたが、なんとか左胸に置けた。
 志紀は右の手の平に何か熱いものを感じ取った。そこから流れ込んでくる何かは、一定のリズムを刻んで彼をふるわせる。
 二人の視線は一直線に繋がった。
 志紀は微笑んだ。
「ああ、約束だ」
 真横から走る光は、二人を真紅に染めた。
 その色は段々と薄くなる。やがて辺りを浅紫にした。
「いた! フューロ!」
 突然の女性の声に、志紀は驚く。急に意識された右腕に痛みが走り、力抜けて垂れた。
 フューロの後方からアイリスが駆けてきていた。帽子は被っていない。
 フューロはろう人形のように無表情のまま後ろを見た。
「もう、ベッドに、いないと、思ったら、こんな、所まで、抜け出て。 余計な、心配、させない、でって、いつも、言ってる、でしょ」
 息を切らしながらアイリスはフューロの襟を掴んで力任せに揺らした。それから志紀に気付き、少し顔付きを曇らせる。
「あ、ご、ごめんなさい」
 視線を横に逸らしてアイリスは突然謝った。志紀はどうってことないという顔をしてみせる。
 彼女に揺さぶられて右手を胸に当てながら力無く振られるフューロの様子は、ひどく滑稽というべきか、愉快である。
 志紀は思わず吹き出し、笑った。
 そんな様子を見てか、アイリスは目を丸くして志紀を見つめていた。フューロはまだ揺れている。
 太陽はもう完全に落ちた。
「おや? いつの間にかみんな揃っているようだね」
 路地から太い声がした。そこに現れた声の主は手綱を引いていた。
「今やっと準備ができたんだ。見たまえこの素晴らしい馬を。大の男を軽く三人は乗せられるぞ」
 ヘクトルは満面の笑みで言った。
 手綱の先には一頭の黒い馬がいた。太陽さえあれば、まばゆい光沢のつやがあるであろう滑らかな毛並。太く逞しい筋肉を持ったその馬は見事というほかに無く、主人同様に志紀の一回りも二回りも大きかった。馬の背中にある皮で拵えた敷き物には、白布の袋がいくつか紐でぶら下がっている。
 ヘクトルは扉無しの門の所まで手綱を引っぱった。手招きをされて志紀が近寄る。
 ふと、馬の三歩手前で止まって振り返った。元気が無いアイリスを見る。
 志紀は優しく微笑んだ。
「今度、遊びにくるから。そしたらまた町を案内してよ」
 笑顔でそう言われて安心したのか、彼女から笑みがこぼれる。
 アイリスは右手を左胸にそっと置いた。
「ええ、約束。絶対遊びに来てね」
 志紀もそれにならって添えた。
 それから門の方に向き直って馬に近づく。
 ジャンプする勢いで足りなかった分をヘクトルに押し上げられて、志紀は馬にまたがった。左手でしがみつく。
 続いてヘクトルも志紀を囲うように後ろにまたがる。
「さあ、行こう! 目指すは城下街イリオンだ!」
 ヘクトルは声を張り上げて言い、手綱を振って馬の体を叩いた。
「約束」
 後ろから透明な声が聞こえたのと同時に馬は走り始めた。門をくぐり、平原へととび出す。
 生きのいい馬に志紀は振り落とされまいと片手でがんばっている。
「さっきと様子が違うようだけど、もう悩み事はいいのかい?」
 ヘクトルは尋ねた。志紀は小さな笑みを絶やさないまま頷く。
 二人を乗せた漆黒の馬は、半月に照らされる夜の原っぱにゆっくり溶けて消えた。
2007/05/02(Wed)21:47:26 公開 / fog
■この作品の著作権はfogさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 三話仕上がりました。宿題とか色んなものに追われてなかなか進めず、焦っていたので見直しのレベルが低かったかもしれません。もしかしたらとんでもない文章があるかも……これでも一応細かく見直したんですけどね。
 そして今回、描写がとても少ないのは見逃してやってください。別に逃げてるわけじゃないんですよ(いや、ほんとに)。でも「ここは絶対必要だろ」とかいうのがあったら指摘してやってください。
 内容はやっとスタート地点に立てたって感じです。長すぎますかね?
 しかしまあ、とりあえずここから盛り上がっていく『予定』なので、もう少しだけ
お付き合い願います。それでダメだったら煮るなり焼くなりご自由に。むしろ蒸して下さい。

あと例によって誤字脱字及びおかしな表現等がありましたらご指摘お願いします。
ではでは感想・批評お待ちしております。
追記:ご指摘がありましたのでタイトルを変更致しました。三話までを【序章】としました。
この作品に対する感想 - 昇順
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