- 『現世陰陽抄』 作者:サトー カヅトモ / リアル・現代 ファンタジー
-
全角24709.5文字
容量49419 bytes
原稿用紙約72.1枚
一
太陽はとうに沈み月が昇っているというのに、この街はそれを感じさせない。央城という地名も相まって、正に不夜城という表現が相応しい。彼は空き缶を放りながらそう思った。黒い髪に瞳、背格好には特にこれといった特徴はないが、その鋭い眼光はありきたりの外見には似つかわしくない。空き缶がこぁん、と間抜けな音をたててゴミ箱に着地する。
「ナイスシュート」
からかっているのか本気で褒め称えているのか、判断のつかない声をかけられる。
「時間か?」振り向くと一人の青年がいた。ゴーグルつきのヘルメットをかぶり、すらりと伸びる上背はぶっきらぼうな彼よりも頭一つ分は高い。ヘルメットの青年は「ようやくね」と肩を竦めて見せて、ヘルメットを渡す。彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな顔しないでよ、リュー。仕方ないっしょ? それ、ちゃんと着けてくんないとお仕事前に捕まっちゃうかもだし」
「……わかってる。さっさといくぞ」
「りょーかい」
軽い声の後、鋼の馬がいななく。
徳川 竜樹は、青年――芦屋 修司が駆るこのバイクに乗り、疾走するのは嫌いではなかった。邪魔臭いヘルメットというものを着けなければならない、という欠点がなければ好きだと言ってもいいほどだと竜樹は思う。
壁と化す大気を凶悪な突進力で切り裂きながら疾走する。
目前にあった車のテールランプやビル群の明かりは一瞬で背後へと流れ去り、不夜城の魔力もその効力を失い夜の世界へと飲み込まれていく。
この街、央城は二つの顔を持つ。
夜のない華やかな発展都市の顔と――
「リュー、このまま突っ込むよ!」
魑魅魍魎が跋扈する魔都の顔を。
「いつでも構わん。派手に行け」
竜樹はジャケットから得物であるハンドガンを取り出す。
二人が辿り着いたのは陰の央城とも言うべき、開発途中で放棄された地区。そこは廃墟の二文字でも足りぬほどに荒れ果てている。整備などされてもいない路上でも、速度を緩めることなく修司は駆け抜けていく。
目前には明らかに自然にできたとは思えない、黒いドーム状の空間が待ち構えている。この魔空間こそが、人々がこの地を捨て去った理由。通称、鬼の巣。
どぶん、と泥沼にでも落ちてしまったような不快感が肌を刺し、その直後周囲からけたたましい咆哮が二人を出迎える。そして更に深い黒色が二人の視界にフィルタをかける。夜の闇を集めたような空間の中央部には黒い球体が見える。あれこそが鬼の巣の核たる存在である。
黒の球体より這い出る鬼がこのドーム状の巣を出る前に狩る。それが竜樹たちの所属する陰陽寮の――現代の陰陽師たちの役割である。
「た、た、頼むぞ、リュー!」
「いい加減に慣れろ、お前も」
前方、傾いた廃ビルに人影が二つ。人影は、人間が落ちたなら即死は確実と思われるその高さから、こともなげに飛び降りた。その人影の大きさは人間と殆ど変わらないが、その全身は墨を塗りたくったように真っ黒で、それでいて瞳だけはぎらぎらと赤く輝き、額には体色同様の黒い角がある。彼らこそがここに住まう鬼である。
竜樹は両足に力を入れて身体をバイクに固定し、両手に一丁ずつハンドガンを構え、きっかり一発ずつ撃つ。
陰陽寮特製の破魔弾が角に着弾すると、鬼たちは苦悶の声を上げ、霧散していった。魑魅魍魎の類を一発でしとめるには、彼らの霊的急所を破壊することが絶対条件となる。鬼であれば角か瞳を狙うのが最適であるが、竜樹のように一撃必殺を狙ってできる陰陽師はそう多くはない。
「次」
「あ、相変わらずすっげぇ腕前……」
瓦礫の山の中、目を光らせていた一匹が躍り出る――と同時に銃声。
「不意打ちならその目立つ目を黒く染めて出直せ」
一瞬で塵と消えた鬼を見下ろす竜樹は、視界が暗さを増したことに気づく。
――上。
虚空より迫る鬼の数は四。
「シュウ!」
「わかってる!」
修司が更に加速させ、狂爪より逃れる。
しかし――
轟音と共に通路の下より三匹の新手が現われる。
「うっそォ!」
「このまま突っ切れ。道は――」
銃声。
修司のこめかみ辺りから連続して三度。竜樹がその位置から撃つのは、マズルフラッシュが修司の目に入らないように配慮しているためなのだろうか。そんなことを考えながら、震える足の手綱を握りなおし、指示通りに疾走する。
「俺が切り開く」
鬼の出現で更に酷い状態になったコースから、通行可能なラインを即座に読み取り修司は愛車を駆る。
芦屋 修司は、どちらかと言えば勇敢な部類には属さない。寧ろ、根っからの臆病者である。そんな彼がこんな危険極まりないバイトをすることに決めたのは、報酬がかなりの高額であることだけが理由ではない。
不思議と竜樹の言葉を聞くと、胸の内側から枯れかけた闘志が蘇っていくのを感じるのだ。臆病者の殻を抜け出したい。幼少期より強く願いながらも踏み出すことのできなかったその一歩は、もしかしたらまだ諦めなくてもいいのかもしれない。まだ、手遅れではないのかもしれない。
竜樹といれば、自分は変われるのかもしれない。
その想いが、震える修司の身体に力をみなぎらせてくれる。
「さっきの奴らで最後だ。シュウ、このまま回れ」
「はァ? 回れ、ってここでターンしろっての? いくらなんでもそりゃ無茶だって! このスピードで倒れたら即死じゃん!」
「倒れんように俺が支える。それにチンタラしてたら追いつかれる」
ちら、と修司の視線がミラーに落ちる。そこには竜樹の言うようにさっきの鬼たちが迫ってくる姿が映っている。修司は引きつった声を出す。クラッシュした瞬間や、鬼に追いつかれた瞬間を想像して青い顔になる。
「……っく、ち、畜生ォ! しし、信じるぞ、リュー!」
そして逡巡の後、震える声でやけになったように叫ぶ。
直線だったタイヤの軌跡が歪み、楕円を描くように変化する。速度は落とさないままでUターンどころか、Iターンと言えるような急激な回転にバイク、修司が共に悲鳴を上げる。横殴りの衝撃、ぐらつく視界、恐怖を呼び起こす爆音の中、一人顔色を変えてすらいない竜樹が、文字通り二人とバイクを支えるように、右脚を砕けたアスファルトの上に杭と突き立てた。
「……ッ! ま、わ、れぇぇえええッ!」
およそ人間の片足で支えきれる重量の限界を軽く超えてしまうような負荷が自分の足に加わっているというのに、叫ぶ修司とは打って変わって冷静な顔を竜樹は崩さない。
修司にしてみれば運に見放されなかったためにその曲芸染みた運転が成功した、と考えるのが道理というものだ。まさか本当に言葉通り生身の片足で支えられるなんて考えもしないことだろう。だから修司は知らない。
後ろでしれっとした顔の友人の右脚がぼろぼろになっていることや、普通ならば即手術ものの大怪我を負ったその足から、悪夢のような速度で傷跡が消え去っていることなどは。
そもそも修司はこの竜樹という少年の素性を詳しくは知らない。
たまたま同じ学園に通っていて、自分に割のいいバイト先を教えてくれた友人であるとしか認識していない。それは徳川 竜樹という男が自分のことを全く話さない性質を持つことにも起因しているが、最も大きな要因はバイト先の責任者で、美しくも棘のある薔薇のような印象を振り撒く指揮官に強く命令されたためである。
――メンバーの素性を探るような真似をするな、と。
「いいタイミングだ」
ターンの直後、鬼が追いつき竜樹が二発の弾丸を放った。
二匹をしとめ、残りの二匹が大地を蹴り、跳躍する。
踏み抜かれたアスファルトは一瞬で爆ぜ、そこにかかった負荷の強大さを示す。
宙を舞う二匹の片割れがその身体を粉々にされてもなお、鬼は怯まない。
猛々しい雄叫びと共に、そこいらの刃物などとは比べ物にならないほどに鋭い爪が竜樹に迫る。爪の先端が微かに竜樹の額を割り、一滴の血を流させたところで鬼は他の同胞と同じように露と消えた。
竜樹はハンドガンをジャケットの奥にしまい、額を撫でる。指先に着いた血液は、急所に弾丸を打ち込まれた鬼たちのように消え去った。そのときにはもう既に額の傷はなくなっていた。
鬼の巣を抜け、不夜城のねぐらを目指し、二人は廃墟の街を駆ける。
呼吸を乱す意地の悪い風たちに辟易しながら、竜樹はもう見慣れた星の見えない夜空を見上げた。遠い日に見上げた満天の星空を思い出し、竜樹はそれを追い出すようにため息を吐く。
暴風に連れ去られた思い出を見送ると、竜樹はそっと目を閉じた。
「今日も無事に全員帰ってきたみたいだな」
報告書を受け取って、暁 ほのかは咥えた煙草に火を点ける。紫煙を燻らせてブラインドの隙間から外界を窺う。毒々しいほどの明かりの群れの奥、黒き大穴――鬼の巣の方角を見据え、煙をゆっくりと吐き出す。
「あの高校生のコンビ……」
振り返り、思い出すように虚空を見上げて目を閉じる。
「徳川 竜樹と芦屋 修司ですか?」
差し出された合いの手にそうそう、と頷いて宛がわれたデスクに腰かける。ここはどこにでもあるような少々年季の入った、薄暗いオフィス。ちかちかと瞬き、寿命が近いことを声高に主張しだす蛍光灯の下、副長はしっかりと根を張った大樹のように聳えている。
「大したスコアじゃないか。今夜もひぃ、ふぅ、みぃ、よ……十匹。使った弾もジャスト十発。文字通りのワンショット・ワンキルとはね。となると一晩で二十五万か」
「は。一人当たり十二万五千円の稼ぎです。あの若さでここまで稼ぐ陰陽師は稀ですね」
破魔弾は一発二万五千円。鬼を一体狩る毎に与えられる報酬は五万円。それがここ、陰陽寮央城支局での相場である。ほのかは大学を出て三年間フリーの陰陽師として世界を転々とし、去年からここの支局長を任されている。
「それだけ物騒になった、ということか」
「全くです」即座に肯定する副長。
ほのかは陰陽師の名家、暁家に生まれ、退魔の技を磨いてきた。本当はまだまだ世界を巡り、修行の旅を続けたかったのだが、現当主である父に急遽呼び出され、今に至る。当初はなぜそんな呼び出しを受けたのかさっぱりわからなかったが、支局長としてこの辺り一帯と係わりを持つようになって、その理由がわかった。
異常とも言える速度で鬼たちの出現頻度が増加している。就任当初は二月に一度の討伐だったものが、今では週に数回もの討伐要請が出る有様だ。あの不気味な黒い穴も徐々にその大きさを増していく。
「龍脈は乱れに乱れ、鬼は次から次へと湧き出し、鬼を生み出す黒球への対処法は皆無。そしてこの状況で海を越えて御客人の来訪、か」
煙草を灰皿に押しつけ、引き出しから一枚の写真を引っ張り出す。
「それは?」問う副長に写真を手渡し「ついさっき家から届いた。明日には全職員に通達できるように手配を頼む」ほのかは新しい煙草を取り出す。副長は写真に視線を落とし、目の錯覚であることを願いながらもう一度確認し、よた、と一歩後ろに下がる。
写真に写っている男は、その巨躯を黒いコートに包みサングラスで瞳を隠し、口元は獰猛な笑みで吊り上がっている。獅子のたてがみを髣髴とさせる金色が見る者の目を引く。
「聖堂守護騎士団所属の魔人。暴食狂、ブランケット イェーガー」
ひび割れた天井に向けて煙を吐き出し、
「魔術師協会が動き出したらしい。憂鬱だろ?」
ほのかは苦笑した。
副長は汗を滲ませた額を一度拭うと、大慌てで退室した。これからこのことをまとめ、各職員に知らせる準備に取りかかるのだろう。
「……本当に、憂鬱だな」
副長の背中を見送って一人になると、ほのかは嘆いた。
「折角大物が来るってのに、こんな重たいモノ背負ってたら自由に戦えないじゃないか」
まだ長い煙草を摘み、宙に放る。煙草は瞬く間に炎に包まれ、床に落下するよりも速く、気まぐれな炎によって焼失した。
ほのかは締め切っていた窓を開ける。入室を許可された夜風がほのかの紅の髪を揺らす。まだ桜も咲いていないのに随分と温い風であった。
私立百花院学園。
央城市にある教育機関の中で最も巨大なこの私立学園は、陰陽師を育成する特殊課があることで全国的に有名である。
芦屋 修司はこの学園の特殊課に通う三年生。ショック療法で臆病の虫を退治しようと入学するも、さして効果が見られないまま三年へと進学した春の日――丁度今から一年ほど前に徳川 竜樹と出会ったのだった。
「お。リュー、発見!」
竜樹との付き合いも一年。色々思い返してみると感慨深いものがあるのだろう。昨日もがっぽり稼がせてもらったことだし、久しぶりにがつんと美味い飯でも奢ってやるか。そんな風に考えながら見知った背中に手を伸ばした。
「おっす。オニーサン暇そうだねぇ」
「……何か用か?」
眠そうにとろんと垂れた目じゃ迫力がないな、なんて思いながら修司は小声で語りかける。
「リューには随分世話になってるからさ。たまには恩返しの意味も込めて飯でも奢ろうかな、なぁんて思ってるんだけど、どうよ? これから」
サラリーマンのように猪口でくい、と酒を呷るジェスチャーをする。
「そうか。遠慮なく昨日の稼ぎ分食わせてもらおう」
「ぜ、全額はちょっと勘弁してくれよ、リュ〜〜……」
冗談だ、と珍しくも仏頂面以外の表情、しかも笑みを浮かべて竜樹は言った。
もう一ヶ月もしないうちに自分はここを卒業することになるんだな、とまだ花を咲かせない桜の木々を眺めながらしんみりと修司は思う。修司は央城の大学への進学が決まっているが、竜樹がどのような進路を歩もうとしているのかを修司は知らないし、尋ねるつもりもない。別に気にならないわけではないが、きっと竜樹はいつものように適当にはぐらかすのだろうと予想しているからだ。
それならば、卒業と同時に交流が絶えてしまう可能性も考慮し、今のうちに少しでも恩返しをしておきたい。そんな心理が働いて今日はこんなにも太っ腹な気分なのかもしれない、と修司は自己分析する。
適当にぽつぽつと会話を交わしながら校門近くまで行くと、何やらざわついている。
「何の騒ぎだ、これ?」
校門から街へと流れていく制服たちは、どうやら見慣れぬオブジェに戸惑っているらしい。一歩、また一歩とそこに近づくにつれ、それが置物ではなく生物であることがわかった。その正体は校門に背を預け、頭を垂らしている男。ぴくりとも動かず、眠っているようにも見える。日本人離れした巨躯に黒いコート、サングラス。そして金色の髪。修司はその男から何故か、酷く不気味な印象を受けた。
「――シュウ」
隣を歩いていた竜樹の足が止まる。同時、竜樹の声を引き金にしたかのように、男が身体を預けていた校門から身を離す。修司の目には、竜樹の顔に驚きと困惑がべっとりと張り付いているように見えた。
「すまん。あれは俺の客だ。悪いが飯の件は次でいいか?」
「お、おう。構わないけど……」
誰なんだ? そう続くはずだった修司の言葉は、いつもよりも一段と強く竜樹の背中が拒絶しているように思われ、修司の喉で掻き消えた。
「ハローハロー、元気そうだな。ドラゴンボーイ」
「お前ほどじゃない。……久しいな、ブラン」
肉食獣のような獰猛さを感じさせるその男を前にしても、竜樹は萎縮した様子など欠片も見せず、いつも通りのぶっきらぼうな物言いだった。
一旦家に戻った後、修司がオフィスに顔を出すといつもはないざわめきがあった。
「あの……何かあったんですか?」
「君か。今日は徳川とは一緒ではないのかね? まぁ、いい。これを」
目の下に隈を作った副長に一枚の紙を渡される。直立不動の姿勢が常態である副長はふらふらと僅かながら左右に揺れている。徹夜でもしたのだろうか、と首を捻り修司は渡された紙に目をやる。
そこには「危険人物襲来」の見出しと、その隣にでかでかと顔写真が掲載されてあった。
――マジで?
修司は声が漏れるのを何とか堪えると、食い入るようにそれに目を走らせた。
(魔術師協会の聖堂守護騎士団、筆頭騎士ブランケット イェーガー来日。陰陽寮本部では最近の鬼の巣活性化と何らかの関係があると考えている。重要参考人として捕獲することができれば最良だが、目標の戦闘能力を考えれば難しいと予想される。発見した場合は無理をせずに所属局長に速やかに通達すること……)
書かれている文を読み、もう一度写真に目をやる。やはり見間違えではない。
こいつ、あのときリューが客だって言った大男……!
混乱する修司の鼻腔を、煙草の臭いがふわりとくすぐる。
「どうした少年? 顔、真っ青だぞ?」
煙草を咥えたスーツ姿の女性――暁 ほのかにいきなり肩を組まれ、悲鳴のような声を上げて修司は身体を離した。
「失礼なヤツだな、私は君を取って食うつもりなどないぞ。その男なら別だがな」
ほのかは写真を咥えた煙草で指して、心外だといった表情で腕を組んだ。
「す、すいません……じゃなくて! こ、この人……」口ごもりながら修司はそれをほのかに突きつけて尋ねた。「その、そんなにヤバイ人なんですか?」
「ヤバイなんてもんじゃない」
ぷは、と煙を吐いてほのかは目を細めた。
「最悪だ。協会側で個人のものに限れば、こいつの戦闘能力は最強だ。そしてこの国の現在の状況下だと更に面白くないことになる」
「下手をすれば協会側と全面戦争になりかねん、ということだ。そしてそうなるように動き出す馬鹿どももいるだろうな。協会側にも、こちら側にも。……事実、陰陽寮本部では一連の鬼の巣活性化は協会の仕業だと言い出す者もいる。こちらもあちらも一枚岩ではないというのに。何故そうまでして戦争をしたがるのか理解に苦しむ」
「副長、喋りすぎだ」
鋭い視線で釘を刺されると副長はその大きな体躯をぴんと伸ばした。
「も、申し訳ありません! 芦屋、今聞いたことは口外無用で頼むぞ。……おいどうした、聞いているのか?」
写真の男の危険性を知らされ、修司はますます混乱した。どうして竜樹がそんな危険人物と顔見知りなのか? 竜樹は男の正体を知っているのか? 目眩がした。
リューは、学生とは思えないくらいに陰陽術の世界について詳しく知っていた。それにあの戦い方はどう見ても素人のそれじゃない。そして協会の騎士団、しかも筆頭騎士なんてのと顔見知り……。リュー、お前は一体……?
「きょ、局長」
写真とほのかを何度も交互に眺め、迷いに迷った後、
「俺、この男、見ました。ついさっき、学園の校門で……」
震える声でそう絞り出した。修司のその一言でもたらされた波紋が支局オフィスを揺らした。局員の視線が自分に集まっていくのを修司は感じた。
「百花院の校門前だと! 何故、不破は気づかなかったのだ!」
「喚くな、副長。それでブランケットはそこで何をしていた? 時間はいつ頃だったか覚えているか?」
「じ、時間は学園から家に戻って着替えてだから……そ、その、一時間は経ってないと思います。そ、それから、俺、そのときリューと、徳川 竜樹と一緒だったんですけど、リューがそいつのこと自分の客だ、って言って、そいつもリューのことを待っていたみたいで、ふ、二人で繁華街の方に……」
しどろもどろになりながら修司はできるだけ正確にそのときのことを説明した。副長とほのかは同時に「徳川が?」と驚き、そして顔を見合わせた。
「局長、もしや徳川は協会の?」
「断定はできないが少なくとも無関係ではないだろうな」
咥えていた煙草を灰皿に押しつける。
「副長、各局にこのことを通達。手の空いている人間は百花院学園から繁華街の方を虱潰しに捜索。徳川 竜樹はブランケット同様に重要参考人として扱う。徳川でもブランケットでも、発見したら私への報告を第一としろ。早まった真似はするな」
そして修司に目を向け、「芦屋は私とここに残れ」と告げた。
修司は――目の前が真っ暗になったように思えた。うろたえてはいても、こうなることは簡単に予想できた。当然だ。これは事と次第によっては、戦争の引き金になる大事件なのだから。だが、それでも友人を売ってしまったという罪悪感が消えない。雨に打たれ続けたように全身ががくがくと震えた。ほのかの言葉も耳には入っていたが、脳が理解できなかった。修司はただ震えながらその場に立ち竦んでいた。
鉛色の雲が空を覆い始める。温く、薄気味の悪い風がぞわりと竜樹の頬を撫でた。じわりとアスファルトの黒がその深さを増す。……雨か。頬を打つそれを拭い、竜樹は天を仰いだ。
「さて、と」
学園から繁華街へと二人は歩き、人気のない裏路地に入り込むとブランはごきごきと指を鳴らす。
「雨も降ってきた。立ち話もなんだし場所を移そうぜ?」
「好きにしろ」
竜樹の了承の言葉に続き、ブランの手元からぐぉん、と奇妙な音と共にその掌に黒く歪んだ不気味な空間が発生する。ブランはぐにゃぐにゃと意思を持つかのように蠢くそれを竜樹に向ける。すると黒の空間はたちまちに竜樹を飲み込み、竜樹は裏路地から完全に姿を消した。
一瞬視界が黒く塗り潰されたかと思うと、真っ逆さまに落下していくような浮遊感に包まれ、別空間へと放り出される。竜樹は塀から飛び降りる猫のように宙で身を捻り、軽やかに着地する。
辿り着いたそこは薄暗い空間だった。丸いテーブルに白いテーブルクロスをかけたものがいくつも並び、壁ではちろちろと蛇の舌のように炎が踊る。どこからともなく流れてくるジャズミュージックがこの空間をバーか何かのように思わせる。壁に灯る十二の炎がここの照明機能。この円形の空間にはテーブルセットと炎以外のものは存在しない。気紛れな管理人が何かを望まない限りは。
背後に人の気配がした。
「また模様替え、か?」竜樹の問いに、「ええ。それも殆ど私一人でね」と愚痴のような答えが返ってきた。高いトーンの声に振り返ると、ブランと同じ金色の髪をした少女がそこに立っていた。肩に届くウェーブした髪は綺麗に整えられ、黒を基調としたドレスはやけにひらひらとしている。外見だけならばどう見ても十代前半くらいにしか見えない。
「お久しぶりね、竜樹。――お座りなさいな」
近くの椅子に座り、白い手袋をはめた小さな手で向かいの椅子を勧めながら少女は微笑む。竜樹は素直にその言葉に従う。
「コーヒーがいいかしら? それとも紅茶? いらないなんて選択肢はなしよ?」
再会の喜びをその可愛らしい笑顔で表しながら、少女は白いテーブルをこつ、こつ、たたん、と指で四度ノックする。少女にノックされた場所には忽然と二人分のカップとコーヒー、紅茶用のポットが現われる。
「緑茶……、グリーンティーはないのか?」
「何? 貴方もブランと一緒なの? 折角、貴方用のカップを用意していたのに……」
少女がつまらなそうにカップを指で弾くと、くつくつと笑う声が響いた。壁沿いに燃える灯りの下、まるで初めからそこにあったかのように置かれているソファに、ブランが座っていた。
「いいじゃねぇか、イリス。器なんぞ、百均の茶碗でも人間国宝の名器でも、味に大した違いが出るわけでもねぇだろ」
立ち上がり踵でソファの足を蹴ると、ソファはすぐに姿を消す。ブランはそのまま二人のテーブルに近づくと、隣のテーブルから椅子を引き出してそれにどっかと腰かけた。ゴンゴンと無遠慮にテーブルを叩くと、少女のときと同様に急須と湯飲みが現われる。
「うるさいわね。わたしは綺麗なティーセットで優雅なティータイムを楽しみたいの。最近はここを使う人もすっかりいなくなったし、唯一の住人が貴方みたいな品性の欠片もない野蛮人だとその思いも一入なのよ」
イリスは余程そのカップを使いたかったのか、しゅんとしている。ブランは、ああそうかよ、と湯飲みに茶を注ぎながら面倒そうに呟いた。そして湯気を放つ湯飲みを引き寄せるともう一度ノックし、別の湯飲みを取り出す。
「待て、ブラン」
急須を傾けていたブランの手を竜樹の声が止める。そして竜樹は、イリスが用意したカップを指差しながら「そっちに頼む」と言った。
「はァ? 正気かお前? 茶ァ飲むなら湯飲みだろうがよ」
「貴方、さっき自分で言った台詞覚えていないの? どんな器でも味に違いはないのでしょう?」
しょぼくれていた顔をぱっと輝かせ、イリスは急須をひったくる。とぽとぽと緑茶を注ぐイリスの嬉しそうな表情を横目に見ながらブランは呟く。
「おい、兄弟。あんまり甘やかすなよな、こいつ絶対調子に乗るからよ。……それともお前、幼女趣味だったのか?」
「どんな些細なことでも完全中立の立場を取らないとややこしくなるからな。お前たちの場合は」
「それで俺と同じ茶をイリスと同じカップで飲む、ってか? そんなことにまで気ィ回すなんざ、相変わらずの苦労性だなァ、オイ」
「……誰のせいだと思っている?」
やれやれ、と頭を振り受け取った湯飲みを傾ける。熱いお茶が胸の奥にじんと染み込んだ。もう一口だけすすり、音をたてて湯飲みを置いた。話を本題に持っていくぞ、という竜樹の意思は、それだけの仕草でちゃんと二人にも伝わったようだった。イリスの表情から笑みが消え、ブランはサングラスを外し、碧眼を尖らせた。
「一体、何があった? 滅多なことでは動かない……いや、動けない立場だろう。お前は」
「ああ。会長の力を借りてできるだけ目立たないようにはしているが、そろそろばれてるだろうな、陰陽寮の連中に」
この世界には陰陽師のような異能者集団は星の数ほどもあるのだが、その中でも群を抜いている勢力は三つ。西洋に本拠地を置く魔術師協会。アジア――特に日本を中心地として動いている陰陽寮。そして、その実体を知る者は殆どいない狂信者の会。
この三大勢力は互いへの干渉を極力控えることを暗黙の了解として、これまでは大きな衝突もなくやってきた。どんなに大規模な霊災害が発生しようと、余程のことでもない限り独力で対応するというスタンスなのである。それがこの状況――日本の鬼の巣が不自然に活発化した状況――で、陰陽寮本部がある日本に魔術師協会の人間が現われる。
これは好ましい状況とは言えない。
何故ならば相互不干渉を暗黙の了解としているのは、互いの関係が良好とは言えないからである。陰陽寮と協会は、お互いに自らを母体にして他勢力を飲み込むべき――どちらも一枚岩と呼べる状態ではないので、団体の総意ではないのだが――と主張。狂信者たちは不気味な沈黙を保っているが、協会、陰陽寮のトップは共に彼らこそが最大の懸念事項と考えているため、やはり関係は冷ややかである。
些細な切欠でもそれを口火として大勢力同士がぶつかれば、自然発生する霊災害など比べ物にならない大惨事となることは間違いない。それを知りながらもブランを遣したとなれば、そこには相応の理由があるのだろうと竜樹は考える。
「これは未確認の情報なのだけれど、それが事実だとしたら万が一にも遅れるわけにはいかないと会長は判断したの」
「お前にも力を貸してもらうぜ、クロウ リュージュ。聖堂守護騎士の一員としてな」
二
それは、予想していたものとはかけ離れた日々だった。
足が竦むような恐怖も心臓が張り裂けそうな絶望もない。特殊科なんて名乗っていても授業内容がちょっと違うだけで、普通科と大した違いはないのだと修司が気づくのにそんなに時間は必要ではなかった。肩透かしをくらったような気持ちになる自分の他にもう一人、胸を撫で下ろす自分がいることに落胆しつつ始業式をゆらゆらと受け流していた。
三年生へと進級した春。目ぼしい変化が見られないまま迎えた最後の学年。
竜樹との出会いは突然だった。
新しい自分へと変わりたいと願う思いと、そんな必要はもうないんじゃないかという思いの間で悶々としていると、いつの間にか教室の窓から見える景色が赤く染まり始めていた。
「……帰ろっかな」
鞄を手に立ち上がる。
ふと、妙な気配を感じた。
周囲を見渡すが誰もいない。ちり、と額が疼く。
――ここじゃなくてもっと上……、屋上?
見上げた場所には見慣れた天井と蛍光灯があるだけ。迷いは一瞬。どうせ何もありゃしない。だから、屋上のドアを開けてすぐ帰ってくるだけ。ほんのちょっぴり寄り道したって構わないだろう?
誰に使うわけでもないのにそんな言い訳を並べて、修司は屋上へと足を運ぶ。掃除をするときでもなければ滅多に訪れる機会のない、屋上への階段をどうしてか足音を忍ばせて進む。
妙に胸を騒がせる自分に「誰もいないって」と言い聞かせてドアノブに手を伸ばす。
「…………」
伸ばした手が止まる。
今、誰かの声が聞こえなかった?
「…………」
また聞こえた。今度はさっきとは別の声。間違いない。この頼りないドア一枚挟んだ向こうに誰かがいる。そう察知すると修司は身を屈めた。このまま突っ立っていたら、ガラスに映る自分の影に気づかれてしまうかもしれないと判断したのだ。
ドアに耳を押し当てる。
向こう側の会話がさっきよりもよく聞こえるようになる。声は二つ、一つは男、もう一つは女の声。修司は悩んだ。
――これ、もしかして誰かの告白シーンだったり……する?
それならば覗き見なんてするべきではない。そう考え、引き返そうとドアに背を向けた瞬間――
世界が揺れた。
爆音、閃光、衝撃音。校舎全体はがくがくと怯えるように震え始める。ドアの隙間から夕日のものとは異なる赤い光が漏れる。修司の中の何かがざわめいていた。臆病者のくせに、人一倍小心者のくせに、なんでこんなに気になるのさ。自分に悪態を吐きながらもその手はドアノブに伸びる。
極力音を出さないようにノブを回し、ほんのちょっとだけドアを開く。
ごう、と熱を持った突風が吹きつける。まるで溺れているような息苦しさが修司を襲う。細めた目を必死に開け、そこにあるものを捉えようとする。
屋上には二人の男女がいた。男は修司と同じ学生服を着て、平々凡々とした姿格好をしているくせにその眼光は鋭く、これだけ離れていても威圧感を与えてくる。女は黒のスーツに身を包み、口には火の消えた煙草を咥え、暴風にその長く紅の色をした炎のような髪を流しながら嬉しそうに笑っていた。そしてその手には、二振りの――燃え盛る小太刀。
「ほう……、いい動きをするじゃないか」
咥え煙草の小太刀使い、暁 ほのかが笑う。対する鋭い眼光の学生、徳川 竜樹はじっとほのかを見る。正確には、彼女の手に握られた二振りの小太刀を。
「暁の人間だったか。その若さで四宝を使いこなすとはな。驚きだ」
「学生に褒められても嬉しくもないぞ……と言いたいところだが、その体捌き――」
煙草を吐き捨て、踏み抜くほどの勢いで地を蹴りつけ竜樹に接近する。
「素人ではないな?」
問いつつも、振り下ろされる炎の小太刀をほのかの腕を掴み、防ぐ。揺らめく大気が、その炎が幻覚の類ではないことを表していた。
もう一方が動き出すよりも速く、竜樹は脚を折畳み膝蹴りでほのかの脇腹を狙う。ほのかは軽やかに跳躍し、繰り出された竜樹の膝を踏み台にして竜樹の手を振りほどき、後ろに飛ぶ。
「くそ……。なんなんだ、その出鱈目な握力は」
「出鱈目なのはあんただってそうだろう。よく学生相手にそんな物騒なものを出す気になれたな」
無理に振りほどいた代償としてほのかの手首は皮膚が破れ、血が噴出していた。しかし、それも一瞬。瞬きするほどの刹那の時間でその傷は消え去る。
「ふん。この辺りなんて外国と比べれば平穏そのものなんだ。どうせ鬼なんて数えるほどしか出やしない。これを見て腰を抜かさない程度の度胸があれば雇ってみてもいいだろうと思っていたんだよ。……それに不破の推薦では暁が断れるはずもないしな」
ほのかの小太刀は確かに目にするだけで本能が警鐘を鳴らしてもおかしくはない。いきなりそれを見せられて肝を冷やさない人間は少ないだろう。それが例え陰陽師であったとしても。
しかし竜樹は感心した表情になったが、恐怖心はこれっぽっちも抱いてはいないようだった。その様子に悪戯心で軽くほのかが突っかかり、この戦闘は始まった。
「……それじゃあもう俺たちが戦う必要はないんじゃないか?」
「つれないことを言うな。生温い鬼共の相手にはうんざりしていたんだ! もう少し私の錆落としに付き合えッ!」
突進、そして間合いの外から斬撃を繰り出す。
それは届かないはずの一撃だったが、紅蓮の刀身に宿る炎が独自の意思を持つかのように竜樹に迫る。しかし竜樹が掌をかざすと、猛る炎は真っ二つに裂けた。
「ハッ! 本当に出鱈目なヤツだ!」
裂かれた炎の後ろから躍り出たほのかが続けざまに小太刀を振るう。炎の波が今度は二つ。竜樹は身を屈め、腕を交差して頭部を守りつつ炎に向かい躊躇いもなく突っ込んだ。先ほどのように炎を裂いたところを狙う腹積もりだったほのかは、虚を衝かれる形になった。咄嗟に繰り出した小太刀は蹴りによって弾き飛ばされ、苦し紛れに放ったもう一方は炎を裂いた衝撃波によって同じくほのかの手を離れる。
宙を舞い放物線を描いて地面に転がった小太刀は、やがて双方共に泡のように掻き消えた。刹那の戸惑いを見せつつも距離を取ろうと背後に飛び退くほのかを、再びは逃がさない。竜樹はほのかを追い、掌打を腹に見舞う。物理的な作用とは別のものが鋭い衝撃となってほのかの身体を貫いていった。
「ぐ……っ!」
その小太刀同様に派手に吹き飛んだほのかに、竜樹はあえて追撃を加えない。もうこれで充分だろう。その瞳がそう語っているのを知りながらも、ほのかは闘志を押し止めようとはしない。
「潜在状態でこれなら、もう少し出力を上げても問題はないよな?」
「……まだ続けるのか?」
「すまないとは思っている。だが、この負けず嫌いな性分はどうやら一生治りそうにないらしい。誓おう。これが最後の一撃だ。だから、付き合え」
心底楽しそうに笑うほのかにつられるように、
「了解した」
竜樹も微かにではあるが笑う。
そんな二人の周囲に、しんしんと雪が降るように淡い碧色の輝きが虚空より舞い降りる。それは引きつけられたようにほのかの両手に集い、紅蓮の小太刀を形成していく。
科学とは対極の位置に存在する技術体系を人は魔術と呼ぶ。魔術はそれを育んできた人間の歴史などによって細分される。陰陽術もまた、そのように細分化された魔術の一つである。
このように膨大な魔術が名称や形式を変えながら世界中に広がっているのだが、どれだけ細分化されようとも揺るぎなく、全魔術師に共通する理がある。
それは、魔術師を定める理。
行使する魔術によって呼び方は変わるが、最も古く一般的なものではエーテル・ギアと呼ばれるそれを完全に使いこなすこと。それが魔術師を名乗るための条件である。
陰陽術では霊子武装と呼ばれるそれが、今ほのかの手に握られている二振りの小太刀。遠い先祖の代より暁の魂に刻まれてきたその双剣の名は朱雀双翼。三大勢力の一つ、陰陽寮において四宝と言われるほどの霊子武装である。
「名を――聞いていなかったな。私はほのか。暁 ほのかだ」
穏やかな声とは裏腹の猛り狂う灼熱の炎が小太刀に巻きつく。竜樹はそんな光景を目にしても顔色を変えない。そして相変わらずのぶっきらぼうな口調で答えた。
「徳川 竜樹」
ほのかは両手を高らかに天へと掲げる。炎が竜巻のように小太刀を包み、小太刀は天を衝く巨大な炎の大太刀へと変貌する。
「ではいくぞ、徳川!」
竜樹の身体が黄金の輝きに包まれ、ほぼ同時に紅蓮の大太刀が振り下ろされた。
桁外れの爆音と大地震でもきたかのような激しい揺れ、そして目を開けてはいられないほどの閃光の洪水が修司を襲う。修司は悲鳴を出す暇さえも与えられず、光の奔流から目を守るので精一杯になっていた。
吹雪の雪山で一人遭難したような恐怖に呼吸を乱す。初めて見る陰陽術師同士の戦闘は想像していたよりもずっと衝撃的で、身体の芯から震えが沸き起こった。足は大地に根を張ってしまい一歩も動けない。だが、逃げ出してしまいたい程の恐怖と同時に、結末を見届けたいと願う気持ちもまた、確かに修司の中にあった。
そして徐々に戦闘の余波が消え去り視界が元通りになると、修司はそっと息を潜めて二人の様子を窺う。
生きている。二人はしっかりと自分の足で立ち、互いに向き合っていた。
ほっと胸を撫で下ろしながら修司は二人の様子を探る。まだ何か言い合っているようだが、これ以上戦闘行為を続ける気はないらしい。
そしてほのかは夕日の光に溶けてしまいそうな赤髪を風になびかせ、煙草を咥えて歩き出す。
――やば、こっち来た。
修司は焦った。無事にあの二人の戦いが終わりはしたものの、修司の足は未だに根を張ったままなのだ。殺される、ってことはないよな? なんて冷汗を浮かべていると――
「……あれ?」
竜樹がほのかを呼びとめ、校庭を親指で指す。するとほのかは進む方向を変え、フェンスへと近づくと、それに手をかけて飛び降りる。竜樹もまたそれに続いた。二人のそんな突然の行動に対しても、さっき見た戦闘から判断すれば死にはしないだろう、と修司は冷静に考えていた。
「だけど、さっき……、あいつ、俺のこと見てなかった?」
それよりも修司にとって気がかりだったのは、ほのかが引き返す直前に竜樹と――この時点では修司にとっては名前も知らない存在だったが――目が合ったように思えたことだった。
そんな問いに答えるものなどいる筈もなく、修司はぼんやりと屋上への扉の隙間から赤く染まった空を見ていた。広大な赤い空に対してそこに浮かぶ雲たちは数も大きさもちっぽけで、言いようのない頼りなさを修司に連想させていた。
次の登校日、修司は気づけば屋上で見たあの学生を探していた。登校中、授業中、授業間の短い空き時間などに。
見つけてどうしよう、ってんだろね。そんな自分に気づく度に苦笑を浮かべはしたが、彼を探そうとする視線は動きを止めなかった。見つかれば、もしかしたら機密保持とかそんな感じの理由で殺されるかもしれない。修司の頭にぷかぷかと浮かんでくるそんな可能性を否定できる理由などはないのに、それでも修司は竜樹を探した。
ぞくぞくと修司の全身が粟立っていく。
誰もいない道路を只管にバイクで駆け抜けていく感じかな。修司は思った。倒れれば無残なことになることは確実。そんな状況でも、求めているのはブレーキではなくてアクセル。その思考回路はまるでスピード狂の自殺志願者。
修司の頭の中では、今まで見たこともないような速度で走る愛車の姿と、それに跨り狂気的な笑みを浮かべる自分が、更に速度を増していく。
……なぁんてね。
今度は苦笑と共にため息も吐き出した。
ま、実際にそんな度胸はなくても、想像するだけならタダだよな。修司は頬杖をついて、他の級友たちと同じように授業に耳を傾けることにする。耳を右から左へとすり抜けていく言葉の羅列に誘発され、欠伸を二つ、三つと噛み殺して授業終了の合図を待つ状態の修司に、その言葉が相応しいのかは疑問だが。
窓の外では青く広大な空が横たわっていた。
昼休みになると、修司は混雑の極みにある購買部より適当に食料を見繕い、屋上へと足を運んだ。昼の屋上は晴天の下で食事を取ろうと考えた生徒たちの活気により、そこそこの賑わいを見せていた。
修司は春の青空を横目に見ながら開いているベンチに腰かける。そっと頬を撫でる春風は、冷たさと共に何かの始まりを予感させる新しい匂いを運んでくる。校門近くの桜並木はまだその花びらを開花させずにいるが、もう間もなく見慣れはしても不思議と見飽きはしない春の顔とも言えるあの美しさを取り戻すだろう。
「隣、空いているか?」
ヤキソバパンを頬張ろうと修司があんぐりと大口を開けた瞬間だった。その落ち着いた声が降ってきたのは。声の主を見やり、修司はパンを口に入れる直前でよかった、と開口しながら心底そう思った。これで口の中に何かが入っていたら、間違いなく噴き出してしまっていただろうから。
そこにいたのは始業式の放課後、修司の前であの激闘を繰り広げた二人の人物の内の一人、徳川 竜樹だった。
「うぉわ……んごっ!」
間の抜けた声を上げてベンチからずり落ちそうになる修司の口を竜樹が掌で塞ぐ。
「騒ぐな。今日はこの間の件で話がある。惚けても無駄だということと、こちらから危害を加えるつもりはないこと。この二点を了承できたら頷け」
竜樹は修司たちとはとても同年代とは思えないほどの威圧感を纏い、軽く合わせただけでも腰を抜かしそうなほどの鋭い視線で牽制する。修司はこめかみに銃を突きつけられているようで、生きた心地がしなかった。血の気が引いていくのがわかる。
な、何だよこいつ……、漫画の中の殺し屋みてぇ……!
修司が改めて竜樹に抱いたイメージは、随分と物騒なものだった。
最初にその姿を見たときは修司と同じ学生なのに、陰陽師としてのその実力に憧れにも似た感情を抱いたというのに。
それでも何とか心を落ち着かせようと、ぜーはーと荒い呼吸を繰り返した。そうして吐き出される空気の生暖かさに竜樹は僅かに顔をしかめる。
だ、だけど、危害を加えないとか言ってるし、きっと大丈夫だよな、うん、そうだ。そう思うことにしとこう。それに……これはチャンスでもある! こいつに近づいていれば、スリリングな非日常――俺が捜し求めていたものに辿り着ける気がする!
そう自分に言い聞かせると、もう一度口を覆われた状態で深呼吸し、竜樹に視線を合わせて頷く。
「初めに名乗っておこう。俺は徳川 竜樹。お前は芦屋 修司、だな?」
乾いてしまった唇を軽く舐め、ぶんぶんと首を縦に振る。右手に持ったヤキソバパンはそのまま口に運ぶ気にもなれず、かといって余計な動きを見せるわけにもいかないと思われ、修司は間抜けな格好で竜樹の話を聞くことになった。
「次に確認だ。始業式の日、俺ともう一人との戦闘を見ていたのはお前で間違いはないな? ……重ねて言うが誤魔化そうなどとは思うなよ」
「は、はい! みさっ、見させていただきましたっ。誰にも口外しておりませんし、これからもそんなことするつもりはありませんッ」
竜樹の視線の鋭さが更に増し、修司は千切らんばかりの勢いでパンを握り締め、背筋を伸ばして口を動かした。竜樹はしばらくだらだらと汗を流す修司を眺めていたが、「そうか」と呟いて立ち上がる。当てが外れたと竜樹のその横顔は語っていたが、修司はそんなことには気づきもしなかった。
「あ! ちょい待って! いや、待って下さい!」
「……どうした?」
呼び止めてから修司は思った。この寡黙で凄腕の陰陽師に近づく方法なんてあるのだろうか、と。修司はいくら百花院の特殊科に通う生徒とは言っても、今すぐ現場に出られるような実力者ではない。
だが、そこまで考えて――修司にとっては、であるが――妙案が浮かんだ。
この理由ならば許可される可能性は少なくても、俺の台詞としてはおかしくないはず。駄目で元々。当たって砕けろ、だ! 気合を入れるように右手に力を込める。そのせいでパンが千切れ落ちるが、気にもかけずに修司は言った。
「あの、俺を弟子にしてもらえないっすか?」
「……弟子、だと?」
仏頂面の陰陽師は驚きの表情を浮かべた。
「はい! 俺、陰陽師になりたいんス! 是非とも徳川さんの下で修行を積ませていただければと――」
「いいだろう」
竜樹は即決した。当の修司はどうせ渋られるだろうと、玉砕覚悟で言ってみただけに拍子抜けしてしまった。
「あまりにも俺の予想と違っていたため、本題は俺の胸の内に秘めておこうと思っていたが……、まさかそっちから切り出されるとはな」
「え?」と今度は修司が驚く番だった。
「今日、俺がお前に会いに来た理由はスカウトだ。正規職員とはいかないのだが、陰陽寮で働くことをお前に勧めにきたのだ。説得の手間が省けて助かった」
ひょう、と風が竜樹の黒髪を揺らした。
修司は徐々にではあるが心臓の鼓動が強くなっていくのを感じた。胸の奥に何かが芽吹いたようでもあり、心地よい震えが全身に広がる。
修司の新しい世界の扉が開いた瞬間であった。
「放課後に詳しい話をする。……それから、俺のことは呼び捨てで構わん。学年はお前の方が上なのだからな」
修司の手から半分に千切られたヤキソバパンが落ちた。吊り上がっていた口の端がわなわなと震えていく。修司は今ほど自分の耳を疑った記憶はない。
「と、と……、年下ァ〜〜ッ?」
素っ頓狂なその声に、屋上中の視線が集まる。
竜樹は既に校舎の中へと姿を消していた。
何故こんな夢を見たのだろう。ぼんやりとした頭で修司は考える。目覚めてすぐだからなのか、頭の回転がいつもより三、四割は鈍く感じられた。
昨日は結局、竜樹たちを発見することができなかった。とはいっても、修司は夜の八時くらいに家に帰されたのだから、それからどうなったのかなんてわかるはずもない。修司とほのか、副長以外の人間はそれ以降も捜索を続けていた。が、その後の報告をわざわざ末端の修司に伝えてくれるほど今の陰陽寮は暇じゃない。
昨夜、ほのかと副長は緊急招集により陰陽寮本部へと赴き、修司は捜索へと加わることさえも禁じられて家に帰された。理由は簡単。修司がいても足手まといにしかならないからだ。嘘の苦手そうなほのかが、あれこれとそれらしい理由を考えてはくれていたが、修司だって馬鹿ではない。今の状況で自分は猫の手にすらなれないのだ、と理解できてしまった。
家に帰ると夕食も取らず、修司は部屋へと篭った。
部屋の隅、ベッドの上で膝を抱えて蹲っていると、暗い気持ちばかりがぐるぐると胸の中で渦巻く。修司は電気も点けずに、石のようにその場から動こうともしなかった。こんなことをしていても何の解決にもならないことなど、わかってはいた。それでも、金縛りにあったように修司の身体は動かない。
――リューみたいに強くなれるなんて最初から考えてもいなかった。だけど、俺みたいなヤツでも、少しは役に立てるんだって思ってた……。
きつく握り締められる拳、歯軋りの不快な音が口の中から聞こえた。
「畜生……」
――何もできない。居場所さえない。こんな肝心なときに、俺には何もできない……!
意識が睡魔に刈り取られるまで、修司は自分を呪い続けた。
――相変わらず理解できないな。
陰陽寮の本部、央城の中央部より車を一時間も走らせた山奥にそびえるそれを眺めつつ、ほのかは先程まで咥えていた煙草を踏み消す。今は緊急会議の合間の小休止。この会議は陰陽寮の最高幹部のみが出席を許され、副長はほのかを送ってからは麓の駐車場の車の中で待ち惚けだ。
ほのかは新たに煙草を咥え、火を点ける。
気晴らしにと周囲を見渡せば、まるで平安時代にでも迷い込んだように、科学の匂いを感じさせない。周囲は必要最低限の人の手しか加えられておらず、鬱蒼とした山中に獣の気配が充満している。天を仰げばそこには満天の星空が広がっていた。そして視線を戻せば、ぼう、と松明を明かりにしてその屋敷の姿が闇に浮かぶ。
この陰陽寮の本部は完全な木造建築で、電気はおろか水道さえも通っていない。庭先には井戸があるが、ほのかはそのことを喜ぶ気にはなれない。
「下らないな。平安からの伝統なんぞを着飾ってみたところで、どんなメリットがあるというのだ? 欲しいのは伝統ではなく電灯だな。ただでさえこんな山中で木造建築だというのに、こんな裸火を照明に用いるなど……」
「そうじゃの。ここでお前さんの怒りを買えば、たちまち山火事になりかねん」
悪態をつくほのかに、かか、と笑いながら声をかけたのは陰陽寮の頂点の一角、司空家の当主であった。かなりの高齢であるのに矍鑠としていて、三番目の足にしている杖を奪ったとしても問題はないようにさえ思える。ほのかはあの杖は絶対に仕込み杖だと信じている。そんな疑惑の杖を見てから、ほのかは相好を崩す。
「……なるほど、それはいいな。ここいら一帯を人質に当主の座を渡せと親父に強請ってみるか。今は海神のも留守だし、不破のじーさんにも一泡吹かせたい」
「かっか。「ねだる」と「ゆする」に同じ漢字を当てはめた先人にも、お主のような娘がいたんじゃろうなぁ」
どれだけ物騒な冗句であっても、からからと笑って受け流すこの翁には、ほのかは好感を持っていた。いや、他の二人――というよりも二家には冗談が通じない。今の言葉を聞かれていたら、四宝剥奪くらいは言い渡されるかもしれない。
四宝。その言葉に横の翁を盗み見るが、変わらぬ飄々とした雰囲気を纏い、じっと闇を見ている。それも当然である。いくら四家の当主とはいえ、他人の心の声を聞けるほど妖怪染みてはいない。ほのかは安堵の気持ちと共にその視線を追うが、そこには不気味にしか思えない木々が立ち塞がっているだけだった。
陰陽寮は創設当時より、四人の最高幹部によってその活動方針を決定していた。その四家が、「海神」、「司空」、「不破」、「暁」である。彼らは四聖獣の名を冠する霊子武装を家宝とし、代々最も優れた戦闘能力を有するものへと受け継がれてきた。通常、霊子武装は一人一つなのだが、それを代々継承することによって強大な――それこそ四宝と呼ばれるまでの力を有するまでに昇華させた。
家柄を重視する。他の魔術師集団でも多少は見られることではあるが、陰陽師という魔術師ほどその傾向が顕著な集団は世界でも稀である。そしてそれこそが他の二大勢力より圧倒的に数で劣っていた陰陽寮が、三大勢力の一角に食い込むほどの力を持つに至った要因の一つである。
だが、それ故に起きる事件というものもある。強大な霊子武装の価値に目が眩んだのか、何らかの事故に巻き込まれたのかは不明だが、十数年前に海神、司空の四宝継承者が消えてしまったのである。
陰陽寮は揺れに揺れたが、この件については四家の当主、不破、暁の四宝継承者以外には伏せられ、現在に至っている。勿論捜索は続いているが、今のところは何の情報も得られていない。
その当時の司空の継承者――つまり蒸発した二人の内の一人が、この翁の息子である。
「黄龍の儀……か」
翁の呟きと、ほのかが煙草を踏み潰す音が重なった。ほのかの足元には踏み潰された煙草の亡骸が無数に転がっていた。墓標の代わりに空になったケースを放る。
「成功すると思われますか?」
気のいい友人同士の関係から、四家の現当主と次期当主の関係へと戻し、ほのかは尋ねる。先程までの会議で、不破の当主が提案したその儀式の成否について。翁はゆっくりと首を横に振った。
「さて……、の。何しろおよそ千年の歴史を持つ陰陽寮において、かの儀式は唯の一度しか行われておらん。皆目検討もつかぬ。前回執り行われたのが数百年も昔ではのぅ……」
「しかし、本来ならば……その……」
言いかけてほのかは言葉を濁す。黄龍の儀は最も力溢れる霊脈の一点、即ち霊穴を中心に、そこから等距離の東西南北に四宝を置いて霊脈の力を顕現させる儀式である。しかし今は鍵となる四宝の半数が行方知れずなのだ。
「その通り。かの儀式には四宝が不可欠のはず。不破のジジィめ、どうするつもりじゃ?」
ほのかが口篭ったことなど気づきもしない様子であっさりと流し、後半は殆ど独りごちるように目を細める。普段は日向の縁側がよく似合う好々爺ではあるが、四家当主の肩書きは伊達ではないらしい。今の翁には四宝が揃わないことはともかく、血を分けた息子の安否などは些事でしかないらしい。そのことに胸を痛めてしまうのは優しさではなく、甘さでしかないのだろう。自らの立ち居地を思い返しながらほのかは目を伏せた。やるせないが、立ち止まることなどはできない。ほのかは自分にそう言い聞かせた。
ざ、と風が吹いた。遠くで野鳥が慌てて飛び立つ音がした。
「そろそろ戻るかの。暖かくなってはきたものの、骨と皮ばかりの儂には堪えおる」
ほのかは翁に付き従うようにその背を追いかけた。
今回の緊急会議の議題は協会の筆頭騎士ブランケットと、学生ながらも脅威の実力を誇る徳川 竜樹についてであった。
古風な屋敷の最奥の間にて、僅かな篝火の中で四名の人間が座っている。司空の翁、不破の翁、暁の現当主であるほのかの父、そして暁家四宝後継者のほのかである。
ほのかはその身柄を預かっていた支局長として竜樹の特徴をかいつまんで説明する。その中でも殊更注目を浴びたのは、霊子武装を所持している模様だが、それを使わず準陰陽師――霊子武装は持たなくとも特殊な武器で退魔を行うもの――用の武装を用いていたことだ。
これが自らの手の内を隠すための行動だとしたら、協会関係者の可能性が強くなる。しかしながらほのかは一年前に竜樹と相対した際に、竜樹の霊子武装の能力を垣間見ている。あの時を振り返っても、竜樹が自分の武装を隠そうとする様子などはなかった、とほのかは確信している。
それに竜樹をほのかに紹介してきたのは不破家なのだ。不破家は陰陽師としてだけではなく、財閥としての力もかなり強い。その調査力をもってすれば、協会関係者であることを調べるのはそう難しくないはずだ。
「……わからぬことに延々と費やす時間など我らにはない」
全く進展を見せない会議に皆が落ち着きをなくし始めた頃、不破家当主が口を開いた。司空の翁と年頃を同じくしているはずなのに、その声にはおよそ老人とは思えない程の気が満ちている。それは彼が当主であると同時に、四宝後継者でもあるからなのだろうか。ほのかはふとそんな疑問を覚えた。
「知っての通り現在の我らは危うい。鬼の巣は急速な広がりを見せ、協会の筆頭騎士が姿を見せたことにより足並みに乱れが生じ始めた。この波紋はともすれば、我らを引き裂く津波ともなりかねん」
この覇気さえも感じさせる翁、不破 往道が言っているのは、鬼の穴の巨大化に協会側が一枚噛んでいる、という噂のことだ。その場の全員がすぐに思い当たったらしく、額を掻くものや、露骨にため息を吐くものもいた。
今は協会への不信感止まりだが、これが過激化してもしもあの筆頭騎士に突っかかりでもすれば、たちまち協会との間で戦争が起きる。それだけは避けねばならない。
円を組むように座っていた皆の視線が往道に集まる。
「あの魔人の目的、徳川の素性が共に不明瞭ならば、無駄に時を費やすは愚。そちらが後手に回るのを覚悟し、今は我らに可能なことをすべきであろう」
部屋に灯る松明が揺れた。
「我は、古の秘伝「黄龍の儀」をもって鬼の巣を消し去ることを提案する」
ざわめきが起きた。
確かに鬼の巣が消え去れば今回の件はそこまで大事にはならない。鬼の巣の拡大と協会筆頭騎士の到来という、二つの要因が重なっているからこそ、ここまでの騒ぎになっているのだ。
一部の過激派がこの二つの要因を結びつけて不安を煽っているからこそ、浮き足立ってしまうのだ。鬼の巣を消し去り、ブランケットの来訪は鬼の巣の異常事態を懸念した協会長が下した苦汁の決断なのだ、とでも言ってやれば自ずと騒ぎは消えていく。それが不破家当主の考えなのだ、と皆が理解した。
「我ら陰陽寮と協会は、双方が一部に過激な考えをもつものを抱えてはいるが、上層部は無駄な血を流すことを好むほど愚かではないはずだと我は思っておる。此度のことも時期が時期なだけに無言で流すことはできぬが、いずれ協会長の意向を尋ねる機会を作ればそれで充分であろう」
ざわめきがなくなったのを見計らい、胸元まで伸びる顎鬚を撫でながら、往道は締め括った。
「不破の。皆も思うことがあるじゃろう。どうじゃ、ここらで一息ついては?」
司空翁の言葉に皆が無言で互いの顔を眺め合うと、往道はうむ、と首肯した。
小休止を挟んでからはとんとん拍子だった。ブランケットと竜樹の行方は、引き続き不破家諜報部が探り、他の面々は鬼の巣の警戒に当たる。問題の二つの四宝についてだが、代用品を用いて儀式に臨むことになった。どうやら往道はブランケットが来日する以前より、鬼の巣対策として黄龍の儀を行うことを考えていたらしい。不破の大書庫の奥底に眠っていた古文書を紐解き、かの儀式について熱心に調べていたのだ。
そうして導き出した結論として、四宝ほどの力はなくともそれなりの魔具を揃えれば、黄龍を召喚することが恐らくは可能だろう、ということだった。それらの強力な魔具に関しても、不破家が世界中を探し回ることになり、結局ほのかの仕事はこれまでと大差ないものである。
――いや、そうでもない、か。
まだ充分に長い煙草を灰皿に叩き込みながら奥歯を噛み締める。解散となる直前、思い出したように往道がほのかを呼び止めた。そしてブランケットと竜樹に関するもう一つの推論を語り聞かせた。
それによればほのかの支局に、裏切り者と思われる人間がいる。完全な黒ではないが、今の状況では白とは言えないのならば処分するべきだ、と往道は言った。本来ならば慎重に当たるべきだが、切迫したこの現状では迅速な判断が必要である。つまり、往道はほのかに、疑わしい部下がいるので始末しろ、とそう告げたのだ。
取り出した煙草が咥える直前で炎上する。ほのかは朱雀双翼を受け継いでからはその影響で発火体質となり、極端に頭に血が上るとこのように苛立ちが炎となって顕現する。座り慣れた支局長の椅子から太陽を睨み、荒っぽくブラインドを下げた。
「……荒れてますね」
「ああその通りだ。副長、愚痴を聞いてくれるか?」
副長は主に仕える執事のように、なんなりと、と促した。
「私はずっと下っ端でいたかったよ。不破の爺さんの言うことは正論だし、やっておかなくてはならんことだと理解はできる。――だが、どうしても私の性には合わん。上でふんぞり返って部下を切り捨てるよりは、捨て駒として切り捨てられる方がまだましだ!」
そう言う間に部屋の中では、三つほど炎の花が咲いては散っていった。息を荒げるほのかを見て、副長はごほんと一つ咳払いをすると、その顔から笑みを消した。
「……四宝を受け継いだ時からわかっていたのではないですか? 貴方の陰陽師としての道は、机の上の計算だけで数多の部下を殺す道でしかないと、そう確約されていたはずです。四宝継承者を万が一にも死なせるわけにはいかないのですから」
一際大きな花が咲いた。副長の目の前、短く刈り込まれたその前髪を焦がす程の距離。
「切り捨てるより切り捨てられる方がいい? そんなのは当然でしょう。死んでしまえば自責の念も、魂を押し潰す程の後悔も、背負わなくてよいのですから」
比喩ではなく、下手をすれば本当にほのかならば視線で人を殺すことができる。しかしそんな悪魔染みた凝視を流すわけでもなく、しっかりと受け止めながら、この人の良さそうな副長は声を張り上げる。
「どうか甘えないで頂きたい! 四宝を受け継ぐということは即ち先人たちの魂、ひいては我々の魂を背負い、屍の道を進むということ! それができないと仰るのならば、今すぐに四宝を返し、ここから立ち去って頂きたい! ……迷いと怯えに満ちた背中で背負える程、我らの魂は軽くありません」
今にも飛びかかっていきそうな勢いで腰を浮かせ、忌々しげに歯軋りするほのかではあったが、怒気を吐き出し、背もたれに身体を預ける。華奢な身体がとすん、と沈む。
「……ああ、その通りだ副長。自らが歩いている道に自信の持てない先導など、後ろに続くものたちにとっては邪魔でしかない。そんなヤツは松明と地図を渡して引っ込むべきだ。
――いいだろう。二度とは迷わん。お前たちは私のために死ね。私はお前たちのために生きよう」
「は! 元よりそのつもりであります」
哀しいような、嬉しいような、或いはその両方の意味を含ませた微笑を湛え、ほのかは煙草を取り出した。つい、と差し出すと嫌煙家のはずの副長はそれを受け取った。自前のライターを副長に放り、ほのかは自分も一本咥えると指先に炎を点し、煙を吐き出す。
「……苦いものですね、煙草とは」
「そのうちに慣れるさ。どんな味にも、どんな感情にも、な……」
目を細めながらゆっくりと味わう。
そしてそれを灰皿に落とすと、
「副長、ヤツを呼び出せ」
瞳の奥に冷たい炎を点し、ほのかは命じた。
-
2007/04/15(Sun)00:14:35 公開 / サトー カヅトモ
■この作品の著作権はサトー カヅトモさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
更新などをしてみました。
誤字、脱字、妙な表現などありましたらご報告下さると幸いです。