- 『記憶喪失』 作者:朱蛇福丸 / ショート*2 未分類
-
全角3334.5文字
容量6669 bytes
原稿用紙約10.2枚
それは一瞬の出来事だった。
すぐ後ろでガラスの割れる音がして振り向くと、白いボールとガラスの破片が飛んできていて、スローモーションのようだと思っているうちに、頭に衝撃が走った。
私は白いベッドに横になっていた。細い指が動くのを、この目で確認すると、その指を腕ごと持っていかれた。皺の目立つおばさんが、泣きながら握り締めていた。
「気が付いたのね、生きてるのよね」
呆気にとられる私に、おばさんは彼女の娘の事を話してくれた。私は他人の苦労話を聞いているような気分だった。あんたの娘が、後頭部にガラスが刺さって……それが何だ。
大変だったんですね、と言ったら、おばさんは目を丸くした。
「何言ってるの。りーちゃんのことよ」
「え、だって、おばさんの娘さんは佐藤里香さんでしょ」
「それは貴女の名前よ。しっかりして頂戴」
おばさんは泣きそうになっていたが、私の記憶が正しければ、私の名前は
「私は……坂田麻衣子ですけど……」
ヒステリックな叫び声に、頭がキーンとした。
目を覚ましてから、退院するまでは早かった。退院の日、私はおばさんに連れられて『家』に帰った。私の家ではない。玄関に入って「お邪魔します」と靴を脱いだら、おこられた。私たちの家なんだから、と。
私はどうやら、記憶喪失、らしい。だが、記憶ははっきりしている。東京ではなく、長野に住んでいた。母子家庭の2人暮らしではなく、父と母と兄がいた。学校の制服だって、もっと可愛らしかった。猫だって、飼っていなかった。
これから私は、佐藤里香として生きていかなければならないのか。
私は、『里香さんの通っている学校』までの道を知らない。おばさんに連れられて、ぼんやりと初めてやって来たような世界を眺める。夢でも見ているようだ。
「先生には、一応記憶喪失だって伝えてあるから」
唐突に、おばさんが言う。まるで独り言だ。
「え、言っちゃったんですか」
「だって、今のりーちゃんは今までのりーちゃんとは違うもの」
もっと、大人しい、知的な子だったはずよ、とおばさんは失礼な事を言った。
学校まで送ってもらい、馴れ馴れしい『先生』に連れられて、2年6組の教室に入った。
生徒たちが静まり、視線が集まる。どいつもこいつも能面みたいな顔だ。私に、佐藤里香に興味が無いのだろう。そんなに好かれている気はしない。時期外れでも、美少女でもない平凡な転校生だって、こんな顔はされないと思う。むしろ、嫌われているとも取れる。居心地が悪くて、すぐに、彼らの中に馴染んでしまわなければ、と焦った。
「佐藤はこの前の事故で記憶喪失になっているそうだ。早く記憶が戻るように、みんな協力してくれ」
「よ、よろしくお願いしまっす!」
何人かがポカンと口を開けた。
「ははは、佐藤はすっかり明るくなって帰ってきたな」
そういえば、佐藤里香さんは大人しくて知的な子なんだっけ。どうでもいい。坂田麻衣子は明るく社交的な、活発な人間だ。隣で形式的な笑い方をして、場を和ませようとしている教師は、気にしない。
休み時間、佐藤里香は独りだった。むしろ、1日中、独りだった。だからといって避けられるわけではなく、皆、一瞥はくれた。病み上がりが珍しいのだろうか。二日ほど、私は息苦しい部屋の中で必死に生きていた。
ある朝のことだ。何人か言葉を交わす程度の友人が出来た頃……つまり、周りが私に慣れてきた頃。
「りーちゃん、私のことは覚えてるよね」
周りで談笑していた女子たちが黙る。大人しそうな女の子が話しかけてきたが、残念ながら覚えていない。他クラスの子だろうか。私は首を横に振る。
「ごめん。覚えてない……」
酷く悲しそうな顔をされた。少し怒気が含まれているようにも見える。私は妙に動揺する。
「あ、じゃぁ、自己紹介して。できるだけ、面白く」
おどけるようにして、すぐに付け足した。女の子は苦笑すると、口を開いた。
「名前は台田真美。部活はりーちゃんと一緒で、文芸部だよ。よろしく」
「そっか。よろしくね、真美ちゃん」
右手を差し出すと、照れるように握手をしてくれた。
佐藤里香は、文芸部だそうで。私は、自分で言うのもなんだが、文才は欠片もない。と思う。
週2の体育の時間がやってきた。教科が苦手な私にとって、こんなアピールチャンスはなかった。ハンドボールをやるらしい。好きなスポーツなので、ワクワクした。
だが、ボールは回ってこない。佐藤里香にパスはもちろん、向かってくる人間さえいなかった。むっとする。右目が怒りにひくつく。
もしかして、佐藤里香って、運動音痴だったのだろうか。
私は違う。
むきになって集団の中へ突っ込んだ。敵チームの人が持っていたボールをもぎ取り、軽くドリブルすると、目を見開いて驚いているゴールキーパーの後ろにある、がら空きのゴールに向かって、飛び、投げた。ボールは枠に当たり、地面にバウンドし、勢い良くネットを引っ張った。ひょろ〜、と力なく笛が鳴る。場が静まる。どうだ、見たか。
見学をしていた真美が気まずそうに言ってきた。
「そっち、りーちゃんのチームのゴールだよ」
ひかえめな言い方だが、私に冷や汗をかかせるには充分だった。
「ごめん! つい……」
自分と同じ赤色のゼッケンを着ている人たちに向かって叫んだ。パラパラと拍手が起きた。
「すっごーい!」
「里香さん、運動神経良かったんだねー!!」
「今まで手ぇ抜いてたの!?」
その後、ボールがどんどん回ってきた。私はどんどんゴールした。
その一日でクラスメイト全員の名前を覚えた。誰もが、覚えていないといった傍から名乗ってくれたからだ。スポーツの出来る人間は、男女問わず、女子にモテる。
ただ、先生たちはがっかりしたようだ。佐藤里香は親が言うほど知的なだけに、頭が良かったらしいが、私はそうじゃない。はっきり言って、馬鹿である。そこは仕方がないだろう。授業で当てられる度に、この頭の中にそんな情報が入っているのか、と頭を抱えた。
休み時間は女の子たちが話しかけてきた。
意外だ。別人のようだ。仲良くなれそうだ。
個性あふれる顔ぶれの、どれもが同じような事ばかり言うのは滑稽だった。ただ……時折、真美が寂しそうにこちらを見るのが、気がかりだった。
見る見るうちに馴染んだ学校の放課後。案外居心地が良いな、と思っていると
「一緒に帰ろ」
と真美がやってきた。
歩きなれた道を二人並んで歩く。
「すっかり変わっちゃったね、りーちゃん」
「寂しい?」
冗談のつもりで言ったのだが、真美は本当に寂しそうな声で言った。
「少し、ね。なんだか、りーちゃんが遠くに行っちゃったみたいで。」
「きっと、すごい別人になっちゃったんだろうね」
彼女と話しているとき、私は無駄に陽気になる。無理をしている。お互いに。
今までに積み上げた友情を、ジェンガのように下から崩して、倒れないように気をつけて、取ったジェンガを、ポケットにしまってしまうような。
「そうだね」
真美は取り繕うような明るい声を出した。
反比例する。
真美との友情と、クラスの中の私の存在。
自慢じゃないけど、私は、この見知らぬ部屋の中で、随分な人気者になっていた。クラスの中で、私が大きくなっていくと、私の中で、真美は小さくなっていった。時々罪悪感で胸が一杯になる。
いつのまにか、私は真美と目を合わせなくなっていた。私は、生まれ変わった人気者の佐藤里香として生きていた。
それは一瞬の出来事だった。
すぐ後ろでガラスの割れる音がして振り向くと、白いボールとガラスの破片が飛んできていて――
「りーちゃんっ!! 危ない!!」
真美が私に向かって突進していた。スローモーションのようだと思っているうちに、頭に衝撃が走った。
その後、真美が私を突き飛ばし、私は後頭部をぶつけ、床に散らばっていた破片に頭部を軽く切った。真美は腕を大きく切りつけ、ボールが側頭部に当たり、私と一緒に入院した。真美は私より、少しだけ入院日数が長かったらしい。
残念なことに、坂田麻衣子は、そのことを覚えていない。否、知らない。
-
-
■作者からのメッセージ
はじめまして。朱蛇福丸といいます。
形だけは、それっぽくなるよう努力しました。
題材はよくあるものかもしれません。皆様の意見が聞きたいです。
小説の投稿は初めてなので、辛口批評楽しみにしてます。
ちなみに私、乙一さんがものすごく好きです。