- 『消えた琥珀と眠る岩』 作者:バター / 未分類 未分類
-
全角3313文字
容量6626 bytes
原稿用紙約9.9枚
ディオンは、とても美しかった。
あたしがディオンに逢ったのは確か五歳になった時だったと思う。動物学者のパパに付き添って、鬱蒼と茂るジャングルの中を歩いていたときだった。ジャングルっていうのは例えで、実際に彼が居たのは高い山の中だったけれど。
茂る木々が少しばかりはれたそこに、彼は居た。小さな泉のある、岩の上。その姿があまりにも神々しくて、私は彼から目を離せなくなってしまった。
「エイミー。あれが、最後の宝石だよ」
パパが私にそう教えてくれた。眼鏡の似合う優しいパパ。そのパパの目が、まるで子供みたいにキラキラしてて、驚いたのを覚えてる。
私は、毎日のように山を登った。もちろんパパも一緒に。彼は必ずしもそこに居るわけではない。常に移動し、目印を付け最終的にその岩の上で眠る。そこは彼の家のようで、何人も、どんな生き物も近付いてはいけないような、そんな雰囲気を醸し出していた。
いつしか彼は私を意識する様になった。余りにも彼に会いに行きすぎたのかもしれない。彼は私の姿を目ざとく見つけると、木々の間へ体を移し、体の縞模様でカモフラージュして私から逃げていた。それを追いかけるのも楽しかった。
「ディオン、ディオン」
「エイミーはディオンに夢中だな」
「だってパパ、とっても綺麗なんだもの。ディオンは世界で一番美しいわ」
私がそんなことを口にすると、パパは少しだけ寂しそうな顔をした。
「そうだね、ディオンは美しい。でも美しいから、彼は一人ぼっちなんだ」
パパはその日、私にたくさんのお話をしてくれた。ディオンが独りぼっちになったお話とか、何でディオンがあの場所に居るのかとか。私はパパの話を聞いて、たくさん泣いてしまった。
だってだって、余りにもディオンが可哀想なんだもの。余りにも、人間が勝手なんだもの。
ディオンが独りぼっちになったのは、彼らが余りにも美しすぎたから。彼らの体にあらぬ噂がたったから。それを人間が勝手に利用しようとしたから。ディオンがあの場所に居るのは、あの場所でお母さんと離れ離れになったから。ディオンの目の前で、ディオンのお母さんは殺されてしまったんだって。
ずっと一人ぼっちのディオン。お嫁さんも、お友達も居ないでずっと一人ぼっち。だからいつも悲しそうなの? 寂しそうなの?
「エイミー、ディオンのお友達になる」
「そうか。ディオンもきっと喜ぶよ」
私はそれからもずっと彼に会いに行った。パパが居なくても一人で、毎日毎日、気付けば幾年もの年月が流れていて、私は10歳。ディオンも私と同じ、10歳になっていた。あの頃よりも、ずっと大きくなって、ずっと優しい顔をして、相変わらず美しい毛皮を持っていた。
「ディオン」
彼は私にだいぶ慣れていた。私が近付いても、もう逃げなくなっていた。……逃げる元気も、なかったのかもしれない。彼の体に触れる事はなく、彼も私にそれ以上近付く訳でもなく、私たちはただ同じ時間を過ごしていた。彼のお気にいりの、あの岩の上で。
その日も、いつもと同じはずだった。
ピクッと、彼の耳が反応した。そして彼は遠くの空を見る。私もそれにつられて空を見た。山の天気は変わりやすい、なんてことよく言うけれど、本当にそんな感じで。さっきまで晴れていた空に急に暗雲が立ちこめる。それは次第に私たちの方へやって来た。
彼はゆっくりとその体を起こし、奥にある洞穴のような彼のねぐらへと移動する。そしてちらっと私を振り返る。まるで、ついて来ないのか? とでも言うように。一気に嬉しくなって、私は彼の後を追いかける。禁断の距離を超えないように。
すぐに嵐はやってきた。さっきまで居た岩には、たくさんの雨粒と、飛んできた木片や葉っぱが覆いかぶさっていた。泉も濁ってしまった。彼は遠くを見ている。ただただ遠くを見ている。
私が5歳も年をとる間に、彼のいる環境は本当に変わってしまった。縄張りにしていただろうその山は、半分ほどになってしまった。彼が口にしていた動物たちも、それに合わせて減ってしまった。いくら彼が強いとしても、相手が居なければ話にならない。
もう何日も、彼は自分にとってのご馳走を口にしていない。私がいくらそれを持ってきても決して口にはしなかった。
「ディオン」
彼は私を見ない。私を見れば、一気に襲ってしまうだろう、そんなことをわかっているのだ。だから私も、それ以上は言わなかった。
嵐は一向に収まらない。ついに夜が来て、朝を向かえて。それが三度繰り返した。空腹を何度通り越したかわからない。それは私も彼も同じだった。きっと今頃、救助隊やらが捜索してくれているはずだ。
そうは思っても、この絶望的な状況に、私は何度思いつめたことだろう。
ふいに思い立ったのは、すぐだった。私は、ついに彼に触れた。触れたとき、彼の体は身震いを起こしたようだったけれど、撫でるうちにそれは消えた。けれど彼は剣呑とした瞳を私に向けている。そのしなやかな毛に、肌に、自分の頭をくっつける。若干の匂いはあったけれど、とても心地よかった。
そして私は口にする。
「ディオン、食べていいよ」
笑顔で、彼に言った。彼はきっとわかってる。私はいいんだ、だって一人の人間だもの。でもね、ディオンは違うのよ。この世に立った一つの命なのよ。もう、彼しか子の世界には存在しないんだもの。
「貴方に生きて欲しいから」
私は彼の首に腕を回した。彼の口のすぐ横に、私の首がある。そこを思い切り噛んだら、すぐに意識は飛んで行くだろう。それで彼が満たされるなら、それでいい。
彼の顔が首に近付くのがわかった。私は目を閉じてそのときを待った。
けれどその感触は、痛みではなかったの。ざらりとした感触、驚いて顔をあげると、彼は優しい瞳を私に向けて……そしてその大きな舌で私の首を舐めた。何度も何度も。子供をあやすように、慈しむように。
彼は私を食べなかった。ただただ、彼に抱きついて、私はそれから眠りについた。安心したのか、それとも他の感情か。ディオンに抱かれながら、私は深い眠りについた。
目が覚めたのは、パパの声が聞こえたから。瞳を開けると眩い陽の光が飛び込んでくる。嵐は、いつの間にか去っていた。聴こえたと思ったらやはりパパが居た。何人か見知らぬ人もいた。きっと彼らは救助隊なんだろう。
「ディオン、ほらディオン。助かったよ、私たち、助かった……」
抱きしめていた、その体。温かかった、その体。美しい琥珀色の瞳を閉じ、彼は冷たくなって居た。柔らかな毛の感触も、もはや失われていた。あのときに気付いていればよかった。
初めて会った時の、輝かしいほどのその美しさ。けれど彼は今、美しい毛皮の下に骨しかないくらい痩せ細っていた。どれだけ我慢したのだろう。どれだけ耐えていたのだろう。いつから、口にして居なかったんだろう。
ディオンは、美しいディオンは、私の胸の中で死んでいた。最後に見せたあの優しさを残して、この世界にたった一匹だけ生きて居た彼は、とうとうその命を終えてしまった。この世界にもう、彼は居ないのだ。彼と同じ血を持つものは、もう、居ないのだ。
「ディオン……苦しくは、なかったの?」
ありがとう。私を抱きしめてくれて。ありがとう。私を許してくれて。
「大好きだよ、ディオン」
それは変わらず、この先もずっと。
彼の愛したその地に、彼を埋めたのはそれから2日後の事。あの岩の袂に、彼の亡骸を、埋めた。美しいあの姿を、私はもう見ることが出来ない。彼はもう、この世界に居ないのだから。
今でも私はあの岩へ通う。毎日とまではいかないが、彼を思うたびに山を登り、あの岩に座り、彼と最後に過ごしたあの洞穴で寝ることもあった。そこには彼の姿が刻み込まれているようだったから。
美しいディオン。最後の、ペルシャトラ。
標本にされることもなく、彼は今……彼の愛したあの場所に、静かに眠っている。
彼のことを私が忘れることは、私が死ぬその時までないだろう。
-
2007/03/27(Tue)01:24:33 公開 / バター
■この作品の著作権はバターさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
先日、この動物ではないですが、絶滅動物の剥製が飾られるということで見に行ってきました。人間の勝手によって、剥製でしか見ることの出来ない動物の多さ、意外に多いんですよね。そんなことを思いながら書いたものです。何かありましたら、どんどん仰ってください。