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『カフェオレ』 作者:rice / 恋愛小説 未分類
全角34210文字
容量68420 bytes
原稿用紙約101.25枚
高校三年生の相沢歌奈(あいざわ・かな)は、いまいち受験生になりきれない。ある日、勉強から逃れるつもりで家を飛び出した歌奈は、小さな喫茶店に足を踏み入れる。そこで、不思議なおじさんと、その息子に出会う。
 桜が少しずつ花を付け始めた。桜の枝を飛び回っては蜜を飲む小鳥の数が増えてきた。歌奈はその光景を眺めていた。昔から庭にある桜の木だった。昔はとてつもなく大きく見えた桜の木は、いつのまにか小さく縮こまっていた。
「歌奈、お勉強は?」
 家の中から声がする。母・真由子の声だった。真由子はどこにでもいる教育ママだった。歌奈には小学生のころから勉強をしろと口うるさく言っていたし、塾だけでなく、英会話にも通わせていた。
 母にせかされて、歌奈は黙って桜の木から目を離した。歌奈の部屋は、その桜の木に面した、家中で一番日当たりの良い二階にあった。真由子の教育熱心さのあまり、歌奈は一番見晴らしの良い部屋を与えてもらっていた。真由子の熱心さは、勉強する環境にまで及んでいた。歌奈は、桜の木に一番近い窓辺に、勉強机を置いていた。
 歌奈は開け放した窓を閉めた。柔らかな風が止んだ。鳥の声が止んだ。部屋はしんと静まり返った。
「…やりたくないな」
 今日は日曜日だった。歌奈はこの春で高校三年生になる。受験生である。第一志望は県内の大学であった。家からも通える距離だ。歌奈はおそらく受かるであろうと踏んでいた。国立の大学だったが、偏差値は手が届かないほどの高さではなかった。歌奈が二年生のときの調子で勉強を続け、成績を落としさえしなければ、よほどのことがない限り受かると思われた。通っている塾の先生にもそう言われていた。
 机の引き出しを開けて、財布を取り出し、中身を確認した。千円札が五枚と、小銭が五百円ちょっと。昨日、毎月のこづかいをもらったばかりだったから、お金は十分にあった。歌奈は、クローゼットを開けて、淡い若草色のスプリングコートをハンガーから外した。コートのポケットに財布を突っ込むと、それをいったんベッドの上に置き、鏡に向かった。肩の上で切りそろえた栗色の髪をくしで簡単に整えた。この髪の色は、染めたわけではなかった。生まれつき、色素が薄かったのだ。
 ベッドの上のコートをはおり、枕元に伏せてあった携帯電話を取ると、部屋のドアを開けて、静かに階段を下りた。そして、キッチンをそっとのぞき込んだ。真由子は大好きなチェッカーズの曲を歌いながら、流し台を掃除していた。歌奈は母に背中を向けると、音をたてないように廊下を歩いた。玄関まで行くと、履き慣れたナイキのスニーカーをつっかけて、そのままドアを開けて玄関を飛び出した。
 入り口を出て、自分の家の『相沢』の表札の前まで行ってから、スニーカーをしっかりと履き直した。それから、コートの襟を直しつつ、歌奈は真っ直ぐに歩いた。行き先は特に決まっていなかった。

 家を出たあと、歌奈は近所の公園まで行った。小さな男の子が、アニメのヒーローごっこをして遊んでいた。それを笑って見届けると、またどこへ行くともなく歩いた。
 公園を過ぎて、十分くらい歩いただろうか。歌奈は、人通りの少ない路地裏に、小さな喫茶店があるのを見つけた。長いことこの街に住んでいたが、こんな喫茶店は初めて見た。近づいてみると、それはレンガ造りの古い店だった。入り口の周りに無造作に置いてある、赤と黄色の花が洒落た雰囲気を出していた。歌奈は興味をそそられ、考える間もなく、扉に手をかけていた。
 押すと、カランカランとベルが音を立て、戸が開いた。まず、入って真っ直ぐのところに、カウンターがあった。木製で、前には脚の長い丸椅子が五つ並んでいた。窓辺には、これまた木製の丸いテーブルと、背もたれのついた椅子があった。一つのテーブルには椅子が四つあり、それが全部で三組あった。ベージュ色の壁には、小さな絵がかけてあった。歌奈以外に、お客は他にいないようだった。歌奈が店内を見回していると、カウンターの奥から、黒いエプロンをした中年のおじさんが顔を出した。
「いらっしゃい」
 おじさんは、屈託のない笑顔をした。歌奈もそれにつられて笑うと、カウンターの丸椅子に座った。
「何にします?」
 歌奈は、小さな声で、カフェオレ、と答えた。
「ホット? アイス?」
「アイスで」
「かしこまりました」
 おじさんはにこりと笑って言った。歌奈もまたつられて笑ってしまった。不思議な人だなぁと、歌奈は密かに思った。ここまでよく笑う店員は初めてだった。
 しばらくして、冷たいカフェオレが目の前に置かれた。歌奈がストローの袋を破ってカフェオレに立てると、おじさんが話しかけてきた。
「お譲ちゃん、見ない顔だね。 近所の子?」
 歌奈は、ストローに付けようとした唇を離して答えた。
「歩いて15分くらいのところです」
「そうか。 今日は初めて来てくれたの?」
「はい」
 歌奈はカフェオレを一口飲んだ。冷たく甘いカフェオレが、喉をすっと通り過ぎた。喫茶店ではたいていカフェオレを頼むが、ここのカフェオレは今までで一番美味しいのではないかと思われた。
「お譲ちゃん、失礼だけど、ハーフなの?」
 また聞かれた。歌奈はこの髪の色のせいで、よくそういう質問をされる。目の色も茶色系統だったから、余計にそう見えるのだろう。
「いえ、生まれつきこうなんです」
「へえ。 その髪の色、きれいだね」
 おじさんは慣れた口調で褒めた。さらりと女性を褒めることのできる男性は、女性慣れしている。そう母から聞かされていた。きっとこのおじさんもいろいろな女性と付き合ってきたのだろうと考え、歌奈は愛想笑いを浮かべてまたカフェオレを飲んだ。それにしても、このカフェオレは美味しい。
「美味しいですね。 ここのカフェオレ」
 それを聞くなり、おじさんは目の色を輝かせてカウンターから身を乗り出した。
「お譲ちゃん、味が分かるじゃない。 ウチはかなり気を使ってるからね。 どの飲み物にも、食べ物にも」
「こういうのって、どこでも同じだと思ってました」
「いやあ、それが違うんだな」
 おじさんはますます饒舌になり、歌奈もすっかり打ち解けてしまった。本当に不思議な人。歌奈はまた思った。
「お譲ちゃん、学生さんだよね? 今何年生なの」
「今度、高校三年になります」
「じゃあ、受験生だ。 大学どこ狙うの?」
「今のところ県内です」
 歌奈はそう言ってから、一瞬悩んだ。『今のところ』というフレーズはいらなかったような気がした。今考えている大学しか、行く気はなかったし、他の大学のことを調べるのは面倒な気がしていた。だから、『県内です』だけで良かった気がした。おじさんは感心した顔をして、手元にあったグラスを磨きながら言った。
「ウチにも息子がいるけどさ、…あ、今はもう就職してるんだけどね…お譲ちゃんくらいの時期には大学なんて一切考えてなかったね」
 息子さんがいるのか。歌奈は思った。こんなに話し好きな人の息子だから、きっととてもフレンドリーな人に違いない。
「どちらにお勤めなんですか?」
 その質問をして、歌奈は少し大人っぽくなった気がした。よく、大人同士でそんなせりふを耳にしたことがあったからだ。
「ナントカ出版って会社だったかな。 雑誌の取材の仕事らしいけど。 僕の前じゃ仕事の話はしないからなぁ」
 歌奈は、カメラのフラッシュライトが激しくたかれる中で、すらりとした手足の女性モデルがポーズをとっている瞬間を想像した。
「二年前からそこに勤めていてね、まぁまぁお給料もいただいているんじゃないかな」
 おじさんは磨き終わったグラスを、後ろの食器棚にしまった。店内に、ボーンという時計の音が響いた。この店に入ったときに、時計なんかあっただろうか。歌奈は後ろを振り向く。すると、入り口のすぐ横の柱に、古びた柱時計がぶら下がっていた。振り子が一定のリズムで左右に揺れ、アンティーク調の装飾がとてもかわいらしかった。
「もうお昼だね。 何か食べていくかい?」
 うっかり、はいと答えそうになってから、歌奈は、母に黙って家を出たことを思い出した。しかし、そんなことは携帯で連絡をとれば済む話だ。けれど、歌奈は母に電話をしたくなかった。真由子はヒステリックに電話口で叫ぶに違いない。ご近所では、温厚な優しい母親を演じている真由子だったが、教育に関することになると、途端に人が変わる。さてどうしたものかと、歌奈は考えた。
「今日は初めて来てくれたし、お譲ちゃん可愛いから、サービスするよ」
 おじさんは相変わらず人の良い笑みを浮かべている。歌奈は、そんなおじさんの顔を見ると、断ることができなくなった。仕方なしに、素直に事情を説明した。母親が教育熱心なママであること。黙って家を出てきたこと。
 話を聞くと、おじさんは大声で笑いながら言った。
「じゃあ、エスケープってわけだ。 やるなあ、お譲ちゃん。 こんなに可愛い顔して」
 歌奈は、二度も可愛いと言われて少し照れくさかった。おじさんは、カウンターの上に置かれている、時計と同じ、アンティーク調の茶色い古びた電話の受話器を取りながら言った。最近では滅多にお目にかかれない、ダイヤル式の電話だった。
「お譲ちゃんのおうちの電話番号は? ああ、いや、別に個人情報をどうこうするつもりはないんだけどね」
 いたずらっぽく笑いながら、おじさんは言った。歌奈は首を傾げながら、素直に電話番号を教えた。おじさんは慣れた手つきでダイヤルを回すと、向こう側の人が電話に出るのをじっとまった。どうやらなかなか電話が繋がらないらしい。歌奈は、チェッカーズの曲を大音量で歌う母の姿が目に浮かんだ。今頃、電話の呼び出し音にようやく気付いて、焦って電話口まで走っているのだろう。それを思い浮かべると、歌奈は思わずふふっと笑った。おじさんは歌奈の笑い声に気付くと、にやっとしながら人差し指を口の前に持ってきて、静かに、と示した。それと同時に、電話が繋がったらしく、おじさんは咳払いをしてから話し始めた。
「あ、奥さんですか? あの、僕、娘さんの友達の父親ですけど…ええ、初めまして。 あの、うちの娘が、お宅の娘さんを急に家に呼んで…申し訳ありません。 はい、いやいや、春休みの宿題で質問があったみたいで。 それで、お昼になっちゃったので、うちでお昼どうかなと思いまして…はい、すみません。 はい…」
歌奈はおじさんの巧みな言葉遣いに目を見張った。ますます不思議さが募るばかりであった。本当に、本当に、不思議な人。歌奈は何度も心の中でつぶやいた。
「お譲ちゃん、お母様が話したいって」
 おじさんは受話器を歌奈に差し出した。歌奈は黙ってそれを受け取り、右耳に当てた。母の声が聞こえる。どうやら怒ってはいないようだ。
「歌奈? お友達の家なのね。 あんまり長居しちゃダメよ」
「分かってるよ」
「お友達って、何て子?」
「ミカちゃんだよ。 よく家でも話してるじゃん」
 歌奈は、思わず一番家が近い友達の名前を告げていた。ミカには後でメールでもして謝っておけばいい。歌奈は、あたかもミカの家にいるかのように話を続けた。
 真由子は満足そうに受話器を置いた。友達に頼りにされるほど、うちの子はよく出来るのね。そんな解釈でもしたのだろう。教育ママとしてすっかり満たされた気分のようだった。
 歌奈が受話器を切ると、おじさんは弾けるような笑顔で親指をグッと立ててウインクした。歌奈も思わず同じように親指を立てた。
 母親をこんなふうに騙したのは、歌奈には初めてのことだった。だから、やたらと興奮していたし、おじさんも楽しそうにしていた。そのせいで、歌奈は、後ろの入り口の扉が、カランカランと音を立てて開くのに気付かなかったし、歩み寄ってくる足音にも気付かなかった。


「こんな若い子連れ込んで何してんだよ」
 急に後ろで声がして、歌奈は驚いて振り向いた。そこには、少し日に焼けた、スポーツ刈りの男が立っていた。色褪せたジーパンに、白いシャツ。銀色のネックレスが首元で光っていた。
「おお、リョウジ。 今日はやけに早いんだな」
「近くまで来たから、ついでにメシ食ってこうと思ってさ」
 リョウジという男は、歌奈の隣の席に座ると、肩にかけていたカバンをカウンターの上に乱暴に置いた。特に重たいものは入っていないらしく、金具のカチャンという音がしただけだった。歌奈は、あっけにとられた目で、男を見上げた。歌奈よりずっと大きいらしく、顔を見るのに見上げなければならなかった。男は歌奈の目線を無視して、おじさんにパスタを注文した。そして、ジーパンのポケットから携帯を取り出し、そそくさとメールのチェックをする。歌奈は、その大きな身体からは想像もつかないような、長くきれいな指先に見とれた。
「お譲ちゃん、ゴメンね。 いきなり。 こいつがさっき言ってたうちのバカ息子」
「は?」
 歌奈はすっとんきょうな声をあげた。こんな話好きなおじさんの息子だから、フレンドリーな人に違いない。そんな空想は、見事に破られた。
「無愛想でしょう? リョウジ、あいさつしなさい。 うちの常連が一人増えたんだから」
 男は携帯をパチンと閉じると、カウンターの上に置き、歌奈を横目で見た。そして、口を開くなり言った。
「あんた、英語ペラペラなの?」
 おじさんは、あちゃー、と言うように、目を覆った。歌奈は首を横に振る。
「何だ、ガイジンだと思ったのに」
「こら! お譲ちゃんにそんな失礼なことを…」
「自己紹介でもすればいいの?」
「あ…あの…」
 歌奈がしどろもどろに言うと、おじさんも男もこちらを向いた。
「あ…私…帰ります」
「メシくらい食ってきゃいいじゃん」
 男は無表情のままカウンターの奥を見つめながら言った。歌奈はまた男の顔を見た。正面からは気付かなかったが、横から見ると、以外とまつ毛が長く、鼻の形も整っている。歌奈は、いったん帰ろうとして崩した姿勢をまた立て直して座った。その姿を見て、おじさんはほっとしたように笑った。そのとき、男が笑うのを歌奈は見逃さなかった。おじさんとそっくりの、屈託のない笑顔。歌奈は、確かにこの男はおじさんの息子なのだろうと確信した。





四月の半ば。歌奈の家の桜は、だいぶ散ってしまっていた。生命力を失った花びらは、かすかにその色を身体にとどめながらも、地面に落ちて泥まみれになっていた。もうあの美しさは見る影もなかった。初めてあの喫茶店に行ってから、もう一月が過ぎようとしている。歌奈は、あの日から喫茶店へは一度も行っていない。何となく、行きたいようで、行きたくないような気分だった。自分でもはっきり分からなかった。ただ、あのリョウジという男の存在が気になっていた。
もう一度あの店に行けば、おじさんに会えるし、もしかしたらリョウジという男にも会えるかもしれない。しかし、勉強がある。真由子がいる。また母親を騙すのにも気が引けるし、ミカの名前を再度使うのも申し訳ない気がする。
 午後一時。お昼ご飯は適当に夕飯の残り物を食べ、数学の問題集の続きをやろうとしていた。真由子は今、友達と一緒に芝居を見に行っている。元演劇部の血が騒ぐらしい。しょっちゅう友達から誘われては、ここから駅三つほどしか離れていない劇場へ足を運んでいる。帰りは夕方だと言っていた。
「日曜日だし」
 歌奈はつぶやく。
 机の引き出しを開けた。財布が転がっている。ここのところ、どこにも遊びに行っていなかった。三年生ということで、進学校である歌奈の高校の生徒のほとんどは、休みの日は塾、もしくは図書館などで自主学習をしていた。歌奈は、特に上の大学を目指す気もなかったから、月に少なくとも一度のペースで入っている模試さえしっかり受けていれば、何とかなるだとうと思っていた。塾は自分の授業が入っている日しか行っていなかったし、学校の予習もそこそこに、たいてい大好きな音楽を聴いていることが多かった。今も部屋には、お気に入りのロックが流れている。女の子にしては、過激な曲が好きだねと、よく言われていた。
「日曜日だもんね」
 もう一度つぶやいた。二つ折りの財布をチェックする。前までは千円札が五枚だった。しかし、そのうちの一枚は、一月前に、あの喫茶店でカフェオレとランチを食べたときに使ってしまった。だから今では千円札が四枚だった。まだこづかいはもらっていない。真由子はたまにこづかいのことを忘れる。催促しない限り、一円ももらえずに終わるというときさえある。それでも、今の財布の中身は、一人でどこかに行くには十分だった。
 クローゼットを開ける。薄い若草色のスプリングコートを手に取る。ポケットに財布と携帯を突っ込む。栗色の短い髪を整える。少し、気取って唇に桃色の口紅をのせてみた。つるりとした光沢と、桜の花びらのような色が唇に残った。


 カランカランと、久しぶりに聞いた音が耳の鼓膜を揺らす。歌奈は、一月前の喫茶店にまたやって来た。おじさんに会いたかったし、もしかしたら、リョウジという男に会えるかもしれないという気がしていた。
「いらっしゃい」
 カウンターで何か書き物をしていたおじさんが顔をあげる。久々の歌奈の顔に、大きな笑顔を作った。
「お譲ちゃん、久しぶりだねぇ。 もう来ないんじゃないかと思って」
「こんにちは」
 歌奈も笑顔で答える。そして、カウンターの奥や、窓辺の丸いテーブルのあたりに目をやる。お客は他にいない。その仕草を見ていたおじさんが、歌奈に言う。
「リョウジは仕事でね。 大体日曜は休みになっているんだけどね。 急な取材らしくて、今朝早く出て行ったよ。 最近多いんだ。 休みなのに仕事が入ること」
 一瞬、心の内を読まれた気がして、歌奈は焦った。しかし、すぐに偶然おじさんがそう言っただけだと思い直した。おじさんが何にしましょうと聞いてきたので、歌奈は前と同じ、カフェオレを頼んだ。
「お譲ちゃんの名前、聞いてなかったよね。 聞いてもいい?」
 おじさんはカウンターの奥に一度引っ込めた顔を、また出して言った。
「歌奈です。 相沢歌奈。 歌うっていう字に、奈良の奈」
「歌奈ちゃんか。 いい名前だね」
「おじさんは? 何て名前なんですか」
 コートを脱ぎながら歌奈は聞いた。店内は路地裏にあるわりには日当たりも良く、今日は特に暖かかったから、どうも少し暑く感じた。歌奈は目の前に置かれた、水入りのグラスを取り、一口含んだ。
「沖野義晴。 義理の義に、晴れるっていう字」
 おじさんは目じりにしわを寄せて笑った。四十後半から、五十過ぎくらいと言いったところだろうか。あれだけ大きな息子がいるのだから、その辺りが妥当だろう。歌奈はまた水を口に含んだ。別に喉が渇いているわけではなかった。何となく、手先がお留守になるのが嫌な気がした。歌奈は、名前を聞いたからといって、名前で呼ぼうという気にはならなかった。もう歌奈の中では、沖野義晴は『おじさん』ということで定着していた。
 おじさんはカフェオレを歌奈の前に置いた。
「あ、アイスで良かったよね? ほら、今日は暖かいから」
「はい。 ありがとうございます」
 歌奈はストローの袋を破り、カフェオレに立てた。そのとき、後ろでカランカランと音がした。歌奈は、思わず振り向いた。
「あれ、また若い子連れ込んでやがる」
 あの男だった。歌奈は少しぎこちなく頭を下げた。男はおかまいなしにカウンターの隣の席へ座る。ジーパンに、春なのに暑そうな黒っぽいジャケットを着ていた。この前と同じように、大したものは何も入っていないと思わせるほどに軽そうなカバンを、カウンターの上に叩きつけるように置いた。そして、またそそくさとメールを見る。
「早かったじゃないか」
「昼前に終わったから」
 リョウジはおしぼりで手を拭きながら言った。
「この子、歌奈ちゃんっていうんだってさ」
 おじさんが嬉しそうに言う。男は黙ったままだ。
「おまえも名前くらい教えてあげなさい」
 男は、冷ややかな目で歌奈を見ると、低くかすれた声で言った。
「涼一」
「りょういち?」
 歌奈は繰り返した。おじさんが、気がついたように付け加える。
「みんなこいつのこと、リョウジって呼んでるけど。 本名は涼一だよ。 涼しいっていう字に、漢数字の一。 歌奈ちゃんもリョウジって呼んでくれればいいから」
 リョウジは、余計なこと言うなという目つきでおじさんを見た。おじさんは相変わらずにこにこして、リョウジの前に、入れたてのコーヒーを置いた。
「おまえ高校生だろ? 勉強しろよ」
 リョウジはぶっきらぼうな口調で歌奈に言う。目は一切見てくれない。歌奈は、少し心の端っこがちくちくした。
「大学はそんなに頭いいところじゃないから、焦ってやらなくても…」
 そう言いかけて、歌奈は口を閉じた。何だか、勉強したくない言い訳のように聞こえた。こんなことを言ったら、ぶっきらぼうなこの男を怒らせるような気がした。しかし、リョウジは特に何の興味も示さず、ふーん、と言っただけだった。歌奈はそれが何となく悔しかった。バカにされたような気がした。子供扱いされているような気がした。
「歌奈ちゃん、甘いもの好き?」
 おじさんが身を乗り出して聞いた。歌奈は、うんとうなずく。すると、カフェオレの隣に、黄色い色をしたケーキが置かれた。
「なあに? これ」
「今、研究中のメニューだよ。 歌奈ちゃんに味見してもらおうかと思って」
 歌奈は嬉しそうにそのケーキを眺めた。カボチャでも使っているのだろうか。黄色がとても鮮やかだった。土台として使われているタルト生地が、サクサクで香ばしそうな色をしている。歌奈は、一緒に出された銀色のフォークを持つと、ケーキに刺して一口食べた。ふんわりした甘さが広がった。
「美味しい! すごい美味しいねえ、これ!」
 それを聞くと、おじさんはガッツポーズをした。どうやら、思ったとおりの反応だったらしい。かなりの自信作のようだ。黙々と食べ続ける歌奈を横目で見ていたリョウジは、ふっと笑って言った。
「もっとおとなしく食えよ。 ついてるぞ」
 歌奈は一瞬何のことかと思った。考える間もなく、リョウジは、歌奈の前に置かれているおしぼりをつかむと、歌奈の唇の左端についていたケーキのかすをふき取った。歌奈は、自分の顔が熱くなるのを感じた。リョウジは、ふき取ったあとのおしぼりを眺めて、首を傾げた。
「おまえ化粧してた? ゴメン、口紅取れちまった」
 リョウジは、べっとりと淡い桃色のついたおしぼりを歌奈に広げて見せる。歌奈はますます顔が熱くなる気がした。どうして今日に限って口紅なんかつける気になったんだろう。しかも、何のために?
 おじさんは苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。うちの息子が失礼なことを…とでも言いたそうな瞳だった。歌奈はうつむいてしまった。恥ずかしかった。ケーキのかすのことではない。口紅のことでもない。何がどうして恥ずかしいのか、自分でもはっきりしなかった。リョウジは何もなかったかのように、また携帯を開いている。仕事関係のメールなのか、少し眉をしかめている。おじさんは、洗い終わった食器を、ごしごしと布巾でぬぐっている。
 みんな、歌奈のことなど特に構っている様子もなかった。それなのに、歌奈はどうしてか恥ずかしかった。よく冷えたカフェオレを飲んだ。冷たい液体が、食道を通って、胃壁の表面を舐めていった。それでも、顔の熱は引いていきそうもなかった。





「歌奈、最近お勉強してるの?」
 真由子は歌奈の顔を覗き込んだ。金曜日の夜だった。歌奈は、学校から帰ると、見るわけでもなくテレビをつけ、たまたまチャンネルが合わされていた、特に興味のないニュースの音声だけを聞いていた。しかし、音は耳を素通りしていった。歌奈はまったく別のことを考えていた。真由子は電気代を気にして、テレビをすぐに消した。ニュースキャスターの顔が、一瞬だけゆがんで消えた。
「ねえ、聞いてる?」
 歌奈は顔をあげる。真由子は、いつもの教育ママの顔をしている。歌奈は息をゆっくり吐き出した。
「塾の先生に何て言われてるか知らないけど、もう四月も終わりなのよ。 分かってるの?」
 ソファにゆっくりと身を沈め、歌奈は大あくびをした。真由子の声は聞こえるが、歌奈の思考はどこか別のところを彷徨うようだった。ソファの手ごろな柔らかさが心地よかった。
「周りのみんなはこれから先、どんどん伸びていくのよ。 浪人生だっているのよ。 このままじゃ追い越されるわよ」
 そんなことはとっくに分かっている。歌奈はそう思った。五月が過ぎれば、部活を引退した子たちは勉強に精を出すだろう。模試の順位には浪人生も絡んでくるし、歌奈が後ろの人に追い越される可能性は捨てきれない。いや、歌奈自身、追い越されるだろうと確信していた。歌奈は、ある程度の成績を維持している。維持してはいるが、それだけだ。特別に抜きん出た得意教科があるわけではない。特別に勉強を頑張っているわけでもない。あくまで、普通より少しできる。それだけだ。
 真由子は、うつむく歌奈の隣に座った。ソファが真由子の重みで少し揺れる。歌奈は、これから母親に何を言われるか察しがついた。
「あと中間テストまで一ヶ月ってところでしょう? それが終われば期末テスト。 夏休みまでには夏期講習の申し込みもしなきゃいけないし。 センター試験だって一月の真ん中あたりじゃないの。 受験生っていうこと、もっと意識しなきゃだめなのよ」
 やっぱり。いつもそれだ。歌奈は頭が痛くなった。息も詰まる思いだった。真由子はまた、眉間にしわを寄せて、聞いてるの、と尋ねた。歌奈は、消えたテレビ画面の奥に映るモノクロの自分を見つめていた。
「いいお部屋もあげてるし、ママはご飯にも気を使ってるわ。 塾のお金だって出してるのはママとパパなのよ。 それ相応の努力はしてもらわなきゃ困るの。 分かる?」
 歌奈は立ち上がった。もう嫌だった。いつからこんなに母親がうっとうしくなったのだろう。中学生のころまでは、文句を言いつつも、母親の言うことに従ってきた。それが、今になって急に逆らいたくなった。母親が間違ったことを言っているわけではない。すべて正しいことだ。歌奈はそれをしっかりと把握している。それでも、どうしても従いたくなかった。歌奈は何も言わずに居間を出ると、玄関を飛び出した。
 後ろから真由子の声がした気がした。それもかまわず、歌奈はわき目もせずに走った。外はすっかり暗くなっていた。何度もつまずいて転びそうになったが、とにかく走った。気付けば、路地裏の、あの喫茶店の前まで来ていた。
 青白い電灯に照らされて、喫茶店の看板が文字を浮かび上がらせている。歌奈は、初めてその看板の文字を眺めた。
「カナリヤ」
 ゆっくり読み上げた。手作りらしい温かみのある文字だった。歌奈は、財布を持っていないことに気付いた。そして、靴ではなく、スリッパを履いてきてしまったことにも気付いた。どうりで走りにくかったはずだ。歌奈は両側の頬をぺしぺしと二回叩いた。自分が動揺していることがよく分かる。母親にあんな態度を取ってしまったことも悔やまれた。歌奈はすっかり自己嫌悪に陥っていた。
 お金がなければ店には入れない。いくらおじさんが優しくても、お金を払えないお客を、どうして相手にしなければならないのか。だいたい、自分はこの店の常連などではない。たまたま店主と気が合い、息子を紹介してもらい、名前を教えあった程度だ。知らず知らずのうちに、ここの店に助けを求めていた自分が嫌になった。歌奈は、入り口の階段に座り込んだ。四月も終わりだったが、今晩は少し冷え込む。歌奈は、上着を何も持って来なかったことを後悔した。そのまま、肩を抱く格好で、うつらうつらとまどろんでいった。


 何分たったか分からなかったが、自分に近づいてくる足音が聞こえた。歌奈は、夢うつつにその音に気付いていたが、身体が疲れて力が入らず、顔を上げる気になれなかった。そのままその足音は歌奈の目の前まで来て止まった。
 歌奈はようやくゆっくりと顔を上げることが出来た。ぼやける視界が、徐々に整っていく。複数の輪郭線が、一本のはっきりした線になる。
「またおまえか」
 聞き覚えのある低い声がした。一瞬、子守唄のようにも聞こえた。歌奈は小さく声をあげた。
「リョウジ」
 リョウジは鼻でふんと笑うと、いきなり呼び捨てか、とぼやいた。歌奈はすぐにごめんなさいと謝った。
「風邪引くぞ、受験生」
 リョウジは歌奈の腕を無理やり引っ張って立ち上がらせると、店の中に押し込んだ。歌奈は、倒れそうになりながら、店に駆け込んだ。おじさんがカウンターの向こうから、驚きの目で歌奈を見る。
「歌奈ちゃん、どうしたの? こんな時間に」
 後ろを振り返って、壁に掛かっている時計を見ると、すでに八時になろうというところだった。
「家出少女」
 リョウジはおもしろがってそう言った。おじさんはキッとリョウジをにらんで、そういうことを言うなというように首を振った。リョウジはおとなしくそのジェスチャーに従った。
「ほら、座って。 今日は冷えるのに。 そんな薄着でうろついて」
 歌奈は、改めて自分の格好を見た。汚らしいスリッパに、よれよれのジャージ。髪の毛も、走ってきたせいか、ぐちゃぐちゃになっていた。
 リョウジに促されるままに、歌奈はカウンターの席へすわり、リョウジも隣へ座った。おじさんは、歌奈にホットのカフェオレを出してくれた。歌奈はかすれた声でありがとうと言い、それを静かにすすった。
「恥ずかしいカッコ」
 リョウジはからかうように言った。歌奈は反論できなかったし、する気もなかった。恥ずかしい格好なのは承知だった。あれだけ急いで家を出たのだから。
「何かあったのかい? 家の人とケンカでもしたの?」
 おじさんは何て察しがいいのだろうと、歌奈は感心した。そして、黙ってうなずいた。
「若いうちだけだよ。 そうやって身体ごとぶつかっていけるのは」
 おじさんのその言葉を聞いたとき、歌奈は思わず涙をこぼしていた。ぽろぽろこぼれて、もう止まらなかった。おじさんは黙っておしぼりを差し出した。歌奈はそれで目を押さえた。リョウジが隣で見つめていた。歌奈はそんなことはどうでもよかった。ただ、思いっきりしゃくりあげて泣いた。
「いいよなあ、女はそうやって泣けるから」
 リョウジが平坦な声を出した。そして、歌奈の背中を優しくさすってくれた。歌奈は、もっとひどくしゃくりあげた。悲しかったからではなかった。もちろん、それも多少はあっただろうが、本当は、リョウジにそうやってもっと触れていたかったからだった。
 




 六月。梅雨の最もじめじめした季節だった。みんなはこの時期が嫌いだと言う。しかし、歌奈はそんなに嫌いでもなかった。雨の日は、街の騒音が雨音で消えるから、静かで好きなのだ。
「ママ、ちょっと出かけてくるね」
 歌奈は、キッチンでチェッカーズをくちずさむ真由子の背中に言った。真由子は振り向き、少し何か言いたげな顔でうなずく。歌奈は、行ってきますと小さな声で言うと、そのまま玄関へ向かった。
 あの金曜の夜、歌奈は母親に、あの喫茶店のことを話した。たまたま散歩で見つけて、そこの店主と仲良くなったと話した。あの日、夜九時ごろ、家に帰ると、真由子と父・恭平が居間で何か話し込んでいた。真由子は泣いていた。恭平は帰ったばかりらしく、スーツにネクタイ姿のままだった。歌奈は、わざと明るい声でただいまと言って、両親の前に座った。それから、あの喫茶店の話をしたのだ。
 真由子は、勉強はしっかりやってほしいと言った。恭平も、将来絶対に無駄にはならないと言って、歌奈を諭した。歌奈は何も言わなかった。
 それ以来、家族の間で、歌奈の進路のことが話題に上ることはなかった。歌奈が進路や勉強のことを口にするのは、学校や塾の先生との間だけだった。
 歌奈は成績を維持し続けた。模試の成績も、定期テストも、まずまずのようだった。部活を辞めた途端に、他の子の成績が奇跡的に伸びるようなことはなかった。今までの積み重ねだと、みんなは言った。歌奈は、笑いながら、そうなんだと言うだけだった。


 家の庭の桜が、すっかり葉っぱだらけになっていた。もうすぐ本物の夏が来る。そのころには、桜の葉も濃くなっているだろう。歌奈は、葉っぱだけの桜の木も好きだった。春と夏とのギャップが好きだった。
「リョウジ…リョウジ…」
 歌奈はつぶやいていた。気付くとよくその名前をつぶやいていることがある。あの金曜日以来、店に顔は出していなかった。かれこれ一ヶ月以上、行っていないことになる。母や父に話してから、何だか行ってはいけないような気がしていた。感覚的過ぎて、どうしていけないのかという理由などまったくなかった。ただ、何となく。それだけだった。
 ポケットの中の携帯が音をたてた。すぐに携帯を開くと、真由子からのメールだった。
『遅くならないでください』
 歌奈はすぐに返信をした。一言、わかった、とだけ文字を打ち込んで。
 ついでに時間を見た。午前十時五十分。お昼はランチでも食べて行こうかと考えた。六月分のこづかいはそのままそっくり残っていた。それというのも、記述模試とマーク模試があったために、土日は見事につぶされ、遊びに行く余裕がなかったからだ。学校帰りの遊び時間などは、課外授業で削られていく。授業を終えると、真っ直ぐ家に向かうしかなかったのだ。今日は久々の休日だった。だから、久々にあの店に顔を出そうと思った。おじさんと世間話でもして、そして、…もしかしたら、リョウジに会えるかもしれない。
 昨日降っていた雨は、朝になると止んでいた。歌奈は路地裏へ差し掛かった。黒と茶のぶちの猫が、歌奈の足音を聞いて逃げていった。『カナリヤ』と、白地に焦げ茶で書かれた看板が見えた。階段を上がり、レンガ造りの喫茶店の扉を開ける。カランカランとベルが鳴る。
「歌奈ちゃん」
 おじさんが嬉しそうに声をあげた。歌奈は、窓辺のテーブルに目をやった。三人のお客が、一つの丸テーブルに座ってコーヒーを飲みながら談話している。カウンターの隅には、くしゃくしゃになった新聞に目を這わせる年老いた男性が一人。この店で自分以外の客を見るのは初めてだった。
「お客を見るの、初めてでしょう?」
 おじさんはいたずらっぽく笑いながら、歌奈の前に水入りのグラスを置いた。
「普通、込むのは平日の朝だからね。 駅が近いから」
 歌奈はうなずきながら、一緒に出されたおしぼりで手を拭く。ひんやりとして、じめじめと蒸し暑い日には心地よかった。
「今日は珍しい方かな。 休日のこの時間は特に」
「リョウジさんは?」
 思わず聞いてしまった。しかし、けっこう今の質問は自然にできたと思い、歌奈は内心ほっとしていた。何となく、人前でリョウジの話をするのは嫌だと思っていた。
「あいつなら寝てるよ。 だいたい日曜は休みってことが多いからね」
 日曜はたいてい休み。歌奈はその情報を、しっかりと胸に焼き付けた。
「昼はこっちで済ませることが多いから、たぶん十二時過ぎには来ると思うよ」
 歌奈は身体をひねって後ろの柱時計を見た。十一時過ぎだ。十二時までは時間がある。歌奈はしばらくここで時間をつぶし、リョウジが来るのを待とうと思った。
「リョウジがさ」
 おじさんがカフェオレを歌奈の目の前に置いて言う。
「あ、カフェオレで良かった? いつもの調子で作っちゃったけど」
「はい。 カフェオレ大好きなので」
 本当のことだった。コーヒーはダメだったが、カフェオレは飲みやすいから好きだった。特別他のものを飲みたいと思うとき以外は、必ずカフェオレと決めていた。
「そうそう、それで、リョウの書いた記事が載ったんだよ」
「記事?」
「そう。 ほら、これ」
 おじさんは嬉しそうに、歌奈の目の前に雑誌を広げた。タイトルに、『GREENS』と書かれている。月刊の雑誌で、連載小説から、芸能情報、料理のレシピ、旅行の情報まで幅広く載っているものだった。若者向けではなく、どちらかと言えば、大人向けの雑誌のようだった。表紙の雰囲気からも、上品そうな感じがした。小さな記事に、大きく赤丸がついている。歌奈はその部分を注意深く見た。
「熱海?」
 熱海の温泉宿についての記事だった。旅行関連のページだろうか。宿の場所や料金だけをピックアップしたものではなく、旅先のレポートといった感じだった。
「あいつ、一人旅が好きでねえ。 大学のころなんか、夏休みにはいろんなとこ行ってたよ。 平気で野宿だってしちゃうしさ」
「へえ、野宿も?」
 歌奈は驚いた。確かに、初め会ったときは、日に焼けた顔のせいか、ワイルドなイメージがあった。
『険しいでこぼこの山道を越えたとき、目前に広がったのは、広い海原と、濃い緑の森。それらの大自然に囲まれ、木造のどこか懐かしい宿が一軒、ぽつんと立っている…』
 普段のリョウジからはまったく想像もつかなかった。文末には、括弧の中に、『沖野涼一』と書かれている。間違いなく、これはリョウジの書いたものだ。彼はこんな文章を書けるのか。歌奈は、パソコンのキーボードに向かうリョウジの姿を思い浮かべようとした。おじさんが、歌奈の前にカフェオレを置いてくれた。よく冷えて、グラスに水滴が溜まっている。
 ふと、一緒に掲載されていた写真が目に留まった。古びた木造の温泉宿。紺色ののれんが揺れている。背景に浮かび上がった空の色が鮮やかだった。
「飯島…さえこ?」
 写真の下に、そう名前が印刷されている。これを撮った人物に間違いなかった。歌奈は、この『飯島さえこ』の顔を見てみたくなった。
 リョウジの書いた記事をもう一度読み直してから、歌奈は表紙を閉じた。『S出版』と、隅の方に書かれている。
「そうそう、S出版って言うんだ。 リョウジの出版社」
 歌奈と同じ部分に目をつけたらしく、おじさんが言った。
「S出版って…どこにあるんですか?」
「えーとね、確かN市だよ。 電車で三十分くらいだったかな」
「おじさん、行ったことありますか?」
「いやいや。 あいつはそういうことされたくない人だからさ。 働くところを知り合いに見られたくないらしいよ」
 ふーんと、歌奈は気の抜けた返事をした。N市。S出版。またその情報をしっかり頭に叩き込んだ。
「あいつの書いた記事、他にもあるんだよ。 あそこの本棚に入ってるから、良かったら」
 歌奈は、おじさんが指差した先を見た。本棚に、整頓されて雑誌が並んでいる。よく見ると、どの雑誌にも、リョウジの記事が掲載されていると思われるページに付箋が貼ってある。息子の仕事ぶりが嬉しいのだろう。
 時計の針が、十二時十分前を指した。歌奈は、そろそろリョウジが来ないかと、そわそわし出した。髪の毛を手ぐしで簡単に整えた。服のしわを伸ばした。
 入り口のベルの音が鳴るかどうか、それだけに集中していた。どうしてこんなにリョウジが気になるのか、自分でもはっきりしない。
――好きなのかな。 リョウジのこと
 歌奈は何度もそう思った。けれど、好きと言い切るには、あまりにその気持ちは淡すぎる気がした。歌奈は、恋愛はもっと激しいものだと感じていた。
 扉のベルはなかなか鳴らない。代わりに携帯が音を立てた。歌奈は、携帯をポケットから出した。メールが一通。真由子からだろうか。
『お昼はどうするの』
 やはり。予想があたった。真由子は少しのことでもメールを入れる。歌奈は『外で食べる』とだけ打って、送信ボタンを押した。
 携帯を閉じて、顔を上げたとき、目の前にリョウジがいた。歌奈は驚いて思わず声をあげた。前のカウンターに立っているのは、おじさんだとずっと思っていた。いつからここにいたのだろうか。
「男とメールか」
 リョウジはにやにやして言った。歌奈は首を横に降る。
「そんなのいないもん」
 歌奈は携帯をすぐにポケットにしまった。少し緊張しているのが自分でも分かった。このままメールアドレスでも聞けないものかと思ったが、さすがにそんなことはできなかった。
「おかわり、いるか?」
 リョウジは平然として歌奈に尋ねる。歌奈は黙ってうなずいた。
「こいつマジでカフェオレ好きだなあ」
「あはは。 でも、なかなか味の分かる子だぞ」
 おじさんは楽しそうに返事をする。リョウジはカウンターの奥に引っ込んだかと思うと、しばらくして、歌奈のコップに冷えたカフェオレを注いでくれた。
 歌奈はお礼を言ってから、ふと、さっき写真の下に書いてあった、『飯島さえこ』のことが気になった。
 リョウジはカウンターから出ると、歌奈の隣に座った。
「あの」
 窓辺に座っていたお客が、会計を始めた。歌奈は、レジの音が気になって仕方なかった。リョウジは、何だよという目つきでじっとこちらを見てくる。ますます、歌奈は言葉に詰まってしまった。
「その…写真なんですけど」
 ようやく声を発したとき、会計を済ませた客が、扉のベルをガランガランと鳴らして出て行った。歌奈は、その音が止むのを待った。リョウジはますます不思議そうな顔をして見つめてくる。
「飯島っていう人が撮ったやつ」
 そこまで何とか言うと、歌奈はようやくうつむいていた顔を上げた。どうしてこんなに緊張するのだろう。
「ああ、さえこの写真ね。 おまえこの雑誌読んだのか」
 リョウジは、歌奈の横に置かれていた雑誌を手に取る。そして、パラパラと自分の記事の載ったページを開き、歌奈の前に広げた。
「これだろ。 けっこう面白い構図の写真撮るだろ、こいつ」
 リョウジは感嘆の眼差しで、その写真を眺めた。木造の古びた宿、紺色ののれんに、窓辺にぶら下がる風鈴の大群。歌奈は、リョウジのその眼差しが何となく気に食わなかった。飯島さえこ…飯島さえこ…と、何度も心の中で繰り返した。
「さえこってさあ、マジおもしろい奴だぜ。 話してて飽きない。 今度連れて来ようか? 絶対ハマると思う」
 私と話しているときはどうかしら、なんて聞けなかった。歌奈は、一度何とか上げた顔を、また下に向けてしまった。リョウジは、話を上手くできる女性が好きなのだろうか。どうして、飯島さえこのことをこんなに買っているのだろうか。まさか、恋人ですか、とも、聞けるわけもなかった。
「そう言えばこの前、取材の帰りにラーメン屋行ったんだけどさ、こいつ女のくせして俺より食うんだぜ。 ラーメン食った後にカツ丼はキツイよなあ。 なあおまえ、どう思う?」
「どうも思わない」
 歌奈はそれだけ言うと、席を立った。リョウジは、何だあいつ、と言いたげな目つきで、立ち上がった歌奈を見ていた。リョウジが大きかったので、座っていても、歌奈より大きく見えた。おじさんが、テーブルの片づけをしながら、歌奈が帰ることに気付き、いそいでレジに向かう。
「お昼は食べていかないの? あ、そうか、勉強があるよね。 ごめんごめん」
 歌奈は何も言わず、黙って千円札を出した。おじさんはレジを叩き、歌奈におつりを渡す。歌奈は、おじさんに頭を下げ、リョウジの方を見ることなく、扉を開けて出て行った。後に、カランカランと、ベルの音だけが響いていた。


「ばか…ばか…ばか」
 歌奈は何度も繰り返した。何がどうしてこんなに気に食わないのだろう。別に、リョウジのことが好きなわけでもないのに。
「あんな奴、死んじゃえばいいのよ」
 それだけ吐いた後で、やっぱり死んでもらったら困るな、と思い直した。言い過ぎたと反省した。
「好きなわけじゃないもん」
 公園が近づいてきた。男の子数人と、女の子数人が遊んでいる。歌奈は足を止め、その公園に入った。小さいころ、よくここで遊んだ思い出が蘇ってきた。そう言えば、私の初恋はいつだったっけ、と思いを巡らせてみる。
「保育園のときだよね」
 ふいにつぶやく。
「でも、好きって言うのとは違うかなあ」
 相手は、同じクラスだった男の子だった。顔立ちはけっこう整っていたと思われる。その子が他の女の子と口を聞いたり、話題を出したりすれば、歌奈はすぐにすねたものだった。別に、彼氏・彼女の関係でもなかったのに。
「飯島さえこ」
 公園の中央にある砂場を横切り、奥の花壇まで歩いた。花壇の前にある緑色のベンチに腰掛けた。最近置かれたものらしく、まだ真新しい。
「呼び捨て」
 リョウジは、『さえこ』と呼び捨てしていた。歌奈は、それも気に食わなかったし、リョウジが、飯島さえこの話題のときに、やたらと楽しそうにしていたことも気に食わなかった。そして、飯島さえこの撮った写真を眺めるときの目つきも。
「飯島さえこって、美人かな」
 ベンチの前を、男の子たちが駆け抜けていった。まだ小さい。リョウジの背丈の何分の一くらいかなあと考えてみる。
 目の前に鳩が一匹降りてきた。必死に何かをつついている。歌奈は、リョウジの存在を頭から消そうとして、勢いよく立ち上がった。鳩が驚いて空に舞い上がる。
「関係ないよ」
 つぶやく。
「リョウジも、飯島さえこも」





 夏休みに入り、一週間ほどが経過した。梅雨のじめじめした気候が走り抜け、カラリとした夏になった。部屋の窓から見える桜の木が、葉っぱを濃くした。風が少し吹くたびに、葉っぱがざわざわと音を立てる。空の入道雲が、時間ごとに形を変えて、ゆっくりと頭を持ち上げる。
歌奈は、夏休みの宿題を前にして、冷たく冷えたカフェオレを飲んでいた。コンビニで買った、パックのカフェオレだった。
宿題はすでに半分以上を終えている。学校では毎日と言うほどに課外授業があり、歌奈も本当は参加するはずだった。しかし、課外授業には、歌奈は参加しなかった。塾の授業に週何回か参加し、あとは学校の宿題と、塾のテキストをやるつもりだった。大学受験の勉強に、夏のすべてを費やす気には到底なれなかった。去年の今頃は、家族で旅行に行く計画をしていた。
「甘い」
 ストローから口を離してつぶやいた。パックの表面に、うっすらと水滴が浮かんでいる。コンビニの袋が、窓から吹いてきた風に揺れて、机の上から転がり落ちた。カサカサと、無機質な音をたてて飛んでいく。
「甘すぎるよ。 このカフェオレ」
 喫茶店カナリヤのカフェオレが飲みたくなった。いつも、あそこのカフェオレは、ちょうど良い甘さが保たれていた。六月に行ってから、七月の頭に一度だけ、顔を出したことがあった。しかし、その日はリョウジに会わなかった。
「リョウジ…いるかな」
 カレンダーの曜日を確認すると、今日は火曜日だった。リョウジの休みの日は、日曜だ。今日行ったところで、会えるという保証はない。
「好きなわけじゃないわ」
 自分に言い聞かせる。
「あんな人、好きになっちゃいけないの」
 何の根拠もなかった。また、飯島さえこの名前が浮かんだ。歌奈は、頭を振り振り、その名前を頭の中からかき消した。そして、また残りの宿題に手を付け始めた。





「ねえ、いいかげんにしてよ」
 真由子が金きり声をあげた。歌奈は両手で耳を押さえる。真由子はおかまいなしにまた金きり声で言った。
「大学はあなたの一生を左右するのよ。 どうしてお勉強ができないの?」
 歌奈は、キッチンのテーブルのイスに座り、麦茶を飲みながら、のんびりとファッション誌を眺めていた。それを見かねた真由子が、とうとうかんしゃくを起こしたのだ。
「あなた、学校の課外にも全然出てないそうじゃない」
 夏休みはもう八月の半ばだった。
「先生から電話があったのよ。 お盆明けからはちゃんと出てきなさいって」
 ファッション誌のページに、涼しそうなワンピースが載っていた。淡い水色の、いかにも涼しそうな。
「ねえママ」
 歌奈はふいに言った。
「このワンピ欲しい」
 真由子はますますひどい金きり声で叫んだ。完璧ないつものヒステリーだ。真由子は普段は温厚そうな母親に見えるし、実際その通りだ。だが、時折、ひどくヒステリックになるときがある。歌奈はこのヒステリックな母親に、たまに愛想が尽きることがある。もちろん、悪いのは自分だと心得ているのだが。
「塾の授業にはちゃんと出てるよ。 宿題も塾のテキストも毎日やってるし。 模試の成績だってそれなりのもの取ってるじゃない」
「ママが言ってるのはそういうことじゃないの」
 歌奈は、ようやく雑誌から目を上げた。真由子の目には涙が滲んでいる。
「受験生の時期は、学校に行くのが一番なの。 いろんな子の顔を見て、刺激を受けるのがいいの。 塾ばっかりに頼って失敗した子、ママは見たことあるの。 だから、お願い。 学校の授業にだけはしっかり行ってちょうだい」
 どうしてそんなにむきになるのか、歌奈には理解できなかった。とりあえず、その場は軽い返事をした。真由子はその返事を聞き、ようやく少しばかりヒステリーが治まりつつあった。歌奈はまた麦茶を飲んだ。急に、カフェオレが飲みたくなった。





 八月最後の日。歌奈は、こっそり家を抜け出して、カナリヤへ足を運んだ。真由子は朝から暑い暑いと言っては、居間のソファでぐったりしている。昼ごはんを食べた後、歌奈は真由子に感づかれないように玄関の扉を開けた。
 蝉しぐれが激しい。公園の前を通り過ぎ、駅前の路地裏へ急いだ。蝉が小さく鳴いて、歌奈の頭の上を横切った。見上げると、蝉は、銀色に輝く太陽の奥に消えていった。
 カナリヤのある路地裏は、一向に日が当たらないようだった。ひんやりとした空気が流れ、そこだけ時が止まったように思えた。
 歌奈は、階段を上り、扉を開ける。カランカランと、ベルが涼しげな音を立てる。
「こんにちは」
 そっと扉から顔を出し、店内を見渡した。今日もお客はいない。もう昼の二時過ぎになっていたから、ランチを目当てにやって来た客は、とっくに帰ってしまったころなのだろう。
 しばらく沈黙が流れた。歌奈は、一瞬、店を間違えたような気になった。しかし、すぐにカウンターの奥から、懐かしいおじさんの顔が見えた。
「いらっしゃい。 久しぶりだねえ」
 久しぶりに見るおじさんの笑顔が、さっき見上げた太陽のように感じられた。歌奈は、軽く会釈しながらカウンターの席に座る。おじさんはすかさず冷たい水とおしぼりを出してくれた。
「もう夏も終わりだねえ」
 おじさんはにこにこしながら、ぴかぴかのグラスを一つ、棚から出した。
「今年はどこか行ったの?」
 歌奈は苦笑いをしながら首を横に振った。おじさんは、勉強があるねと言いながら、グラスに、よく冷えたカフェオレを注ぎ、歌奈の前に置いた。
 いつものようにストローを立てて、一口飲んだ。ああ、この味だ。歌奈は思わず微笑んだ。このごろはコンビニの甘ったるいカフェオレか、麦茶ばかりだった。おじさんの作るカフェオレが、いやに美味しかった。
 しばらくおじさんと雑談にふけった。今年はやたら暑かっただとか、勉強の調子とか、真由子のヒステリックな性格だとか。歌奈は、よく大笑いをした。おじさんがあまりにユーモラスな話し手だったからだ。こんなに笑ったのは何日ぶりだろうかと思った。


 三時を過ぎたころ、店の扉が開き、ベルが音を立てた。歌奈はゆっくりと扉の方を向いた。心臓が飛び跳ねた。
「おお、リョウジ。 飯島さんも一緒か」
 飯島。歌奈はその言葉を聞き逃さなかった。久々に、黒のスポーツ刈りの頭を見た。リョウジ。歌奈は何度も名前を繰り返した。そして、その後ろから入ってきた、明るい金髪の頭も見た。黒髪のリョウジと、対比的な色をしていた。
「受験生じゃねえか」
 入ってきて歌奈を見るなり、リョウジは言った。歌奈は黙って会釈する。後から入ってきた金髪の頭は、リョウジの肩越しに歌奈を見つめてきた。歌奈は、やはり無言のまま、その金髪を見つめる。
「あら、かわいい子じゃない」
 金髪は、リョウジの横をすり抜け、歌奈の隣に座った。
「リョウジの知り合い?」
「店の常連」
 リョウジはそれだけ言って、金髪の隣に座った。金髪は軽く相槌を打つと、肩にかけていた黒く大きなカバンから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を歌奈に差し出した。
「飯島さえこです。 カメラマンしてます」
 そう丁寧に言うと、にこりと笑った。一瞬、歌奈はその笑顔に見とれた。飯島さえこ。これが飯島さえこなのか。飯島さえこはカバンを下ろした。リョウジのカバンとは違って、ドスンと重たく、固そうな音を立てた。カメラマンというからには、機材やら何やらが、たくさん詰まっているのだろう。歌奈はただ呆然としていた。ショートカットの金髪の髪の毛が、飯島さえこの小さめの頭によく似合っていた。細身の体に、真っ赤なシャツを着ていた。派手な印象があったが、気味の悪い派手さではなかった。派手というよりも、鮮やかと言った方が合っているくらいだった。
「あなたは?」
 さえこは歌奈の顔をのぞき込んで言った。
「相沢…歌奈です」
「カナちゃんかあ。 かぁわいい名前ね」
 おじさんが、さえことリョウジの前に水とおしぼりを置いた。歌奈は、自分のカフェオレを一口飲んだ。リョウジは、おしぼりを額に当てて、目を閉じた。外はとても暑かったようだ。さえこも、水を何度も口に含んでは、真っ赤なシャツの襟元をぱたぱたとやっている。さえこは色白だった。日に焼けたリョウジとは、身格好が何もかも正反対に思われた。
「今日はどうしたの?」
 おじさんがリョウジとさえこの前にメニュー表を広げて言った。さえこはメニューを眺めながら言う。
「取材がはかどらなくて、昼過ぎまでかかっちゃって。 お昼ごはんまだ食べてないんですよ。 それで、カナリヤの近くに来てたついでに食べて行こうかと思って」
 さえこはメニューの中の品物をいくつか指差した。リョウジもその後に注文をした。おじさんはいそいそとカウンターの奥に戻り、調理を始めた。しばらくして、油のはじける香ばしい香りが立ち込めてきた。
「カナちゃんって今いくつなの?」
 さえこが、黙りっぱなしの歌奈に言った。
「高校三年です」
「じゃあ受験生だ。 大学は? けっこう上とか狙っちゃってるの?」
「県内だってよ」
 リョウジが口を挟んだ。歌奈は思わずリョウジの方を見た。久しぶりに見る顔だった。スポーツ刈りがこんなに似合う人もそういないと思った。雑誌の記者よりも、陸上かサッカーの選手なのではないかと思われるくらいだった。肌も、日に焼けたせいか前より少しばかり浅黒くなっている。それが一層、リョウジをスポーツ選手のように見せる。それでも、歌奈が学校の運動部の人たちに抱いているのと違って、ちっとも汗臭いような印象がないから不思議だった。
「リョウジったら、この子とどういう関係よ?」
 さえこがにやにやしながらリョウジをからかった。リョウジは面倒臭そうな声で答える。
「ただの常連」
 歌奈はその言葉が無償に嫌いだと思った。『ただの常連』。今すぐリョウジの目の前に行って、違うと叫びたかった。しかし、そんなことできるはずがない。歌奈は、一人でまたカフェオレのストローに口を付けた。飲むわけでもなく、ただストローの先をがじがじと噛んでいた。隣では、仕事の打ち合わせが始まっている。歌奈には口出しできない世界だった。前からそう思っていたが、今日はリョウジがより遠くにいるように思えて仕方なかった。
 料理が運ばれてからも、さえことリョウジの会話は止まらなかった。ときどき聞こえるリョウジの笑い声を聞くたび、歌奈は胸の奥が痛かった。
「歌奈ちゃん、カフェオレのおかわりいる?」
 おじさんが優しく言った。歌奈は、いつの間にかカフェオレを飲み干していたことに気付いた。おじさんはまた、おかわりは?と尋ねた。しかし、歌奈は首を横に降ると、財布をポケットから取り出した。
「帰ります」
 ここのところ遊びに行っていなかった。財布には、やはりもらったこづかいがそのままそっくり残っていた。千円札を出し、おつりをもらった。ちょうど、出した千円札はピン札だった。リョウジとさえこが、ちらりとそのピン札を見た。何だか、自分がいいとこのお嬢さんにでも見られているような気がしてならなかった。一生懸命働いている二人の横で、自分は親にもらったお金を惜しみなく使っている。そのことが、歌奈を余計に辛くさせた。
 歌奈はおつりをしまうと、そそくさと店を出た。むんとした熱気が身体中を攻めてきた。何だか泣きたい気分になった。階段の下にうずくまり、歌奈は音もたてずに泣いた。リョウジの、さえこを見る眼差しが悔しかった。どうしてあんなに憧れの目をするのか。尊敬と、愛情が感じられた。どうして、どうして、どうして…。歌奈の頭の中に、『どうして』がぐるぐる回り出した。
 カランカランとベルの音がして、誰かが店から出てきた。名前を呼ばれ、歌奈が顔を上げると、そこにおじさんがいた。優しい笑顔のおじさんは、歌奈の隣に腰を下ろした。
「歌奈ちゃん、リョウジが好きなんだろ」
 おじさんは店内に聞こえないように小さい声で言った。歌奈ははっとしておじさんの顔を見た。
「自分じゃよく分からないだろうけどね」
 また、涙が溢れてきた。どうしておじさんの優しさに触れるたび、こうも泣きたくなるのだろう。いつかの夜も、歌奈はおじさんの優しい言葉に涙した記憶がある。
「リョウジの奴、ぶっきらぼうだし、歌奈ちゃんのこと子供扱いしてるように見えるけどね。 あれでけっこう歌奈ちゃんのこと気に入ってると思うよ」
「何でわかるんですか」
 歌奈はようやく声を絞り出した。おじさんはしばらく息を止めていたようだったが、すぐにぷつんと弾けたように笑い出した。
「そりゃ僕はあいつの親父だからだよ」
 レンガ造りの階段の上を、一匹の蟻がはって行くのが見えた。歌奈は、それを目で追ったが、すぐにレンガの隙間に入り込んで見えなくなってしまった。隙間からは、ところどころ緑の草が顔を出していた。
「母親がいないんだ。 リョウジには」
「母親?」
 おじさんは空を仰いだ。ビルのコンクリートの間から見える空は、細長く、一本の線を描くようだった。
「バツイチなんだよなあ、おじさんは」
 苦笑いをしながら、おじさんは歌奈を見た。少しだけ恥ずかしそうだった。歌奈には、その苦笑いが、いたずらがばれたときの子供のように見えた。
「リョウジが保育園くらいのときでねえ。 あいつの母親、他に好きな男できたって言って、家を出てったんだよ。 まあ、学費は全部負担するからって言ってくれたから、僕も文句一つ言わずに、はいどうぞ…っつってね」
 歌奈は思わず笑ってしまった。笑っていいことではないのに、おじさんの話しっぷりを見ると、どうも笑わずにいられないのだ。
「僕もさっぱりしすぎだよなあ。 お金で手を打つなんてねえ。 でもねえ、学費はけっこう重要だよ? 小・中・高と、お金はいつも付いて回るんだから」
 学費。その言葉の意味を、何とかして噛み砕こうと思った。歌奈は、母親と父親の顔を浮かべた。――二人が、自分に投資しているお金。歌奈はそう考えてみた。
「親御さんは大切にしないとね。 おっと、話がそれたかな」
 おじさんはまた笑った。歌奈もそれにつられて笑ってみる。本当に、このおじさんは不思議な人だ。
 歌奈の頭を撫でてから、おじさんは店に入っていった。また来てねとだけ言い残して。歌奈は、取り残されてからも、しばらくレンガの階段の上に座っていた。どうしても立ち上がる気になれなかった。身体の骨を抜かれたように感じた。指先が、自分の指先でないように思われた。
 本当に好きなのかしら。本当に好きなのかしら。歌奈はまだその言葉の意味を実感できずにいた。





 夏が終わった。秋が始まり、体育祭などの学校行事も終えた。受験生にとっての正念場に差し掛かるころだった。歌奈は、相変わらずの生活をしていた。授業はとりあえず聞く。宿題も手をつけ、塾の授業にも参加する。ただ、周りの受験生のような、切羽詰った様子はまったくなかった。特別に勉強ができるわけでもなく、効率のよいことをしているわけでもなかった。
「お母さん」
 十月の半ば日曜日。歌奈は、キッチンで洗い物をする真由子に声をかけた。
「推薦受けたいんだけど」
 真由子は驚いて振り向いた。泡がフローリングの床に飛び散った。歌奈は思わず顔をしかめた。いつもフローリングを傷つけないようにとうるさく言っている真由子が、さっそく床に洗剤の泡を飛ばしたからだ。
「ねえ、泡飛んだよ」
「先生には言ったの?」
 歌奈はうなずいてみせる。真由子は、そんな話聞いてないという表情でため息をついた。
「何かいけなかった?」
「だって…あなた、ろくにお勉強もしてないじゃない」
「学校じゃいつも優等生で通ってるもん」
 真由子は、床に飛び散った泡を、テーブルの上の布巾でぬぐった。出しっぱなしになっていた水道の蛇口を閉めた。
「夏休みの課外も出なかったくせに」
 いやみったらしく言う真由子に、歌奈は堂々と反論をする。
「テストの成績は悪くないって言われてるし、内申も大丈夫って、先生は言ってる」
「やってみればいいじゃない」
 真由子は吐き捨てるように言った。どうしてこんなに冷たいのか、歌奈にはまったく理解できなかった。
「もっと上を狙う気ないの?」
 洗い物に戻りながら、真由子が静かに言った。水の音と、食器の触れ合う音で、聞き取りにくかったが、何とか音を拾った。歌奈は、ないとだけ小さな声で告げると、自分の部屋にこもった。


 窓辺の桜の木がざわついている。葉っぱもすっかり色が変わってしまった。もうすぐ丸裸になる。歌奈は、小さいころの落ち葉広いを思い出した。何もしないで、昔の思い出に浸るのが好きだった。部屋にはロックの激しい曲調。身体をかすかに揺らしてリズムを取りながら、歌奈の思考はいつものように、カナリヤの方へ移動していた。
 毎週にでも顔を出せたらいいのに。歌奈は何度も思った。
「好き」
 おじさんに言われてから、自分の気持ちを再認識し始めていた。確かに自分はリョウジに恋をしているらしい。それも、なかなか恋と気付くには淡すぎる想いだったが。リョウジは大人で、自分は未だに高校すら卒業していないガキだ。どうせ叶うはずはないと、よく分かっていた。
「さえこに惚れてる」
 リョウジを思い浮かべるたび、さえこの顔も一緒に浮かぶ。歌奈は、自分がさえこにヤキモチを焼いていることも気付いていた。その気持ちを否定することはできない。リョウジが好きだということも。この際、素直になってしまおうと思った。
「日曜か」
 歌奈はカレンダーを見る。財布の中身を見る。髪の毛をとかす。鏡に映った歌奈の栗色の毛は、肩まで伸びていた。きれいな髪なんだから、伸ばせばいいのにと、いつも真由子に言われていた。ただ、歌奈は自分で髪型をアレンジしたりできないからと、必ず美容院では短く切ってもらうようにしていた。伸ばす決心をしたのは、つい最近のことだった。
「けっこう伸びたなあ」
 肩に当たっている毛先をいじりながら、財布をポケットにしまった。階段を下り、キッチンをのぞくと、真由子は冷蔵庫の整理をしている。今日の夕方から、近所のスーパーでセールが始まるらしい。それに向けての整理をしているのだろう。買いだめが好きな真由子は、セールに出かける前に必ず冷蔵庫のチェックを怠らない。歌奈はやはり何も言わずに家を出た。夕飯までに帰ればいいと考えながら。


 昼下がりの住宅街は、のったりのったりとした空気が流れている。しかも今日は休日だ。みんな家で寝ているのだろうか。それとも、どこかへ遊びに行っているのだろうか。
 駅前の道は込んでいた。カップルの姿や、友達同士で歩く姿が多かった。そのにぎやかな空気を避けるかのように、歌奈はいつもの路地裏へ入った。そこだけやけに静かだ。歌奈は、カナリヤの看板の前に来た。扉を開ける前に、ガラス越しに店内をのぞく。今日は老夫婦が窓辺に一組いる。歌奈は、一瞬まごついた。前髪は変な風にねじれていないだろうか。後ろの髪は真っ直ぐになっているだろうか。この服はおかしくないだろうか。一通りチェックした後、歌奈は扉を開けた。聞きなれたベルの音が響く。その音と同時に、カウンターの奥から人影がのぞく。おじさん、と声をかけようとした瞬間、それがおじさんでないことに気付いた。リョウジ。
「またおまえか」
 リョウジは無表情で言う。
「おじさんは…」
「出てる。 俺が代理」
 歌奈はどうしたものかと思った。いつもならカウンターのおじさんの真ん前に座るところだった。リョウジの前に座ったら、それだけで思考のすべてが止まりそうだ。それに、何を話せばいいのかまったく分からない。
「座れよ」
 立ちすくむ歌奈を見かねてリョウジが席を指差した。自分の真ん前の席。歌奈はどぎまぎしながら、その席に座った。
「何飲む?」
 水とおしぼりを置きながらリョウジは言った。歌奈は何を言えばいいのか分からなくなった。
「ああ、カフェオレだよな」
「ホットで…」
 ようやく声が出せた。何でこんなにぎこちないのだろう。自分が不甲斐なく思えた。
「勉強してるのか?」
 カフェオレの準備をしながらリョウジが尋ねる。歌奈はおしぼりを開いて手をふいた。
「推薦入試を受けようと思って」
「じゃあ、おまえ先生受けいいんだな」
 戸棚から真っ白なカップを取り出しながら、リョウジがこちらをちらりと見た。
「優等生してるから」
 歌奈は水を口に入れた。ひやっとしたものが、胃に流れ込む。数分ほどして、リョウジがカフェオレを目の前に置いてくれた。
「俺が入れたやつ、初めてだろ」
 白い湯気が、カップからゆらゆらと昇っている。歌奈は勢いよくうなずいた。
「飲んでみ。 絶対美味いから」
 ゆっくりとカップの端に口を付けた。調度良い熱さだった。今日は少しばかり寒かったから、とても心地よく感じられた。おじさんの入れたカフェオレとは少し違った。おじさんのカフェオレは、上品な、甘すぎない味だった。リョウジのカフェオレは、少し家庭的な、おじさんよりもずっと甘い味がした。
「甘い」
 歌奈はつぶやく。
「嫌いか? その甘さ」
「ううん。 美味しい」
 それを聞くと、リョウジは嬉しそうに笑った。あ、こんなふうに笑いかけてくれたの、初めて――。歌奈は少し幸せな気分になった。お腹が温かくなった。カフェオレのせいだろうか。
「さえこがさ」
 リョウジがふと思い出したように切り出した。歌奈は、少し身体が強張った。リョウジの口から『さえこ』と聞くのが、何だか苦手だった。
「来月結婚するんだって」
 ケッコン?歌奈は耳を疑った。
「おまえも式に来れたら来いだって」
 リョウジはどこからか葉書を取り出し、歌奈の前に差し出した。十一月の三週目の日曜日。この日は確か、模試の予定はなかったはずだ。歌奈は頭の中で、自分の予定表を開いてみる。しかし、いまいちその結婚という言葉を理解しきれなかった。誰と結婚するというのだろう。葉書には、沖野涼一ではない男性の名前が載っている。
「結婚って?」
「おまえその年で結婚も知らねえのか?」
 リョウジがすっとんきょうな声をあげた。歌奈は、そうじゃないというように首を横に振る。
「同業の奴と結婚するんだとよ。 俺なんか彼氏いるなんて聞かされてなかったから、マジで驚いた」
「彼氏」
 歌奈はつぶやいた。リョウジには聞かされていなかった。つまり…リョウジは、さえこがフリーだと思い込んでいて…――。
「好きだった?」
 思わず聞いてしまった。リョウジは一瞬固まった。しかし、すぐに答えた。優しい声だった。
「好きだった」
 老夫婦の話し声が、やけに大きく聞こえた気がした。時計が背中の後ろで鐘を打った。リョウジと歌奈は、それきり黙りこんでしまった。扉のベルが響き、おじさんが帰ってきた。
「歌奈ちゃん。 いらっしゃい。 悪いねえ、ちょっと近所で用事があって」
 歌奈は頭を下げると、残っていたカフェオレを飲み干した。少しばかり熱く感じられたが、無理やり喉に流し込んだ。そしてすぐに席を立った。運良く小銭があったから、きっちりおつりのないようにお金を出し、カウンターに置いた。
「ごちそうさま。 お母さんが怒るといけないから」
 早口に言って、そのまま店を出た。そして後悔した。いつもいつも、唐突にやって来て、唐突に帰ってしまう。よく考えれば、とても失礼なことだと思った。唯一失礼でないのは、必ずお金を払うことくらいだろうか。路地裏を出て、人の多い通りに出た。住宅街に差し掛かるころ、歌奈は泣いていた。瞬き一つせず、涙だけが音もなく滴り落ちていった。





 十一月の三週目。歌奈は、家にいた。さえこの結婚式には顔を出すまいと決めていた。別に、さえこが嫌いなのではなかった。リョウジに会いたくなかった。
 さえこに彼氏がいて、リョウジの恋は砕け散ったということを、歌奈はじっと考えた。これで自分がリョウジに付け入る隙ができたと考えることもできた。だが、そんなことはできなかった。リョウジの、一瞬だけ見せた悲しい目が、今も脳裏に焼きついている。あの目から、いかにリョウジがさえこに想いを寄せていたかが分かった。恋愛経験は少なめの歌奈だったが、それくらいはよく分かった。女の勘とでも言うのだろうか。
 もらった葉書によると、そろそろ式が始まるころだ。今ならきっと、店にリョウジはいないはずだ。仕事仲間のさえこの結婚式をすっぽかすような奴には見えない。
 歌奈は家を出た。今日は真由子にことわりを入れてから出掛けた。真由子は、ソファで編み物に必死になっていた。この時期、必ず真由子は編み物に没頭し始める。手編みのセーターを旦那である恭平に着せて、近所の感心を得ようと、そんなところだろう。つくづく策略深い母親だと、歌奈は思った。それでも、たまに見せる真由子のそんな一面が、自分より年下の少女のように見えることがあった。
「まずはセーター。 次に、マフラーになるのよね」
 歌奈は家を出たあとにつぶやいた。セーターを編む目的で初めて、それがいつの間にか時期に間に合わなくなり、結局はセーターへと目的を変更する。去年もそうだったと、歌奈はしっかり覚えていた。


 公園の前を通り過ぎるとき、親子連れが何組か、公園で遊んでいた。親同士は世間話。子供同士は砂場で何か作っている。笑い声が、すごく遠くで聞こえる気がした。
 駅前にさしかかる。どの人も、マフラーを手放さないでいる。今日は寒かったが、人通りは絶えなかった。歌奈は、人に何度もぶつかりそうになりながら、路地裏へ足を急がせた。
 カナリヤの看板を見つけた。もしかしたら、おじさんもさえこの結婚式に行っているのではと、不安になった。しかし、店にはちゃんと明かりもついていたし、コーヒーの香りも漂っていた。歌奈は安心して扉を開けた。ベルが鳴った。
「いらっしゃい」
 いつものおじさんの声がする。歌奈はこんにちは、とあいさつをした。
「あれ、飯島さんの結婚式には行かなかったの」
「場所が遠いから」
 嘘ではなかった。駅をいくつも通り越し、一時間は電車に揺られていなくてはならない。歌奈は、そんなに長い時間、電車の小さな箱の中で過ごす気にはなれなかった。受験生ということを考えると、そんなに遠くまで足を運ぶのも気が引ける。それに、さえことはこの前初めて会っただけであって、仲良しというには程遠かった。
「リョウジは今朝早く出てったよ。 ちゃんとスーツ着込んで」
 おじさんはカフェオレの準備をしながら言う。歌奈は、リョウジのスーツ姿を想像した。きっとスーツ姿も引き締まって、似合うのだろうなと思った。すぐにカフェオレは出来上がり、歌奈の前に置かれた。温かいカフェオレを一口お腹に流し込んだ。
「どうして、リョウジなんですか?」
 歌奈はふいに尋ねた。おじさんは一瞬、何のことかというような顔をしたが、すぐに気付いて答えた。
「涼一なのに、どうしてリョウジかって?」
「うん」
「涼一ってつけたのは、あいつの母親なんだよ」
 おじさんがそう言ったとき、客が入ってきた。数人のお年寄りの男性だった。窓辺の丸テーブルに座り、大笑いしながら話し出した。おじさんは話を中断して、客に水とおしぼりを出した。
「ちょっとごめんよ」
 歌奈にそう言ってから、おじさんはしばらくカウンターに引きこもってしまった。歌奈は、席を立つと、本棚にある雑誌の中から、青い付箋のついたものを一冊取り出した。リョウジが書いた記事が載っている。この前見たものと同じような、旅行関連のページに、リョウジの記事は載っていた。
「東海道」
 東海道にある一軒の宿の記事だった。山姥でも出ないかと思われるような、そんな宿だった。リョウジはこういった宿が好きらしい。そして、写真の下にはもちろん『飯島さえこ』の名。
 しばらくその記事にふけっていると、おじさんが戻ってきた。窓辺の客たちは、おじさんが作ったサンドイッチを美味しそうに頬張っている。よほどお腹が空いていたのだろうか。歌奈のお腹もぐうと鳴った。もうお昼が近くなっていた。
「歌奈ちゃんも何か食べてくかい?」
「じゃあ、私もサンドイッチにしようかな」
 おじさんはにこりとして、また奥に戻っていった。歌奈は、記事の続きを読み出した。
『時計は無意味に感じられた。ゆったりとした時間の中で、好きなように過ごしているうち、世間のことなどどうでもよくなってくる…』
 自由奔放に見えるリョウジは、きっと人気のある高級な宿など、嫌いに違いない。歌奈はいつの間にか微笑んでいた。さえこが撮った、女将さんの顔は、しわだらけの顔をいっそうしわだらけにして笑っていた。写真を撮るのに、こんなに自然に笑えるものなのだろうか。さえこの技量が感じられた。
「お待ちどうさま」
 おじさんが、真っ白な皿の上に、サンドイッチをきれいに並べて置いた。歌奈は、おしぼりで手をぬぐってから、卵が挟まったものを一口かじる。バターの中に、かすかにマスタードがきいている。
「美味しい」
「そうかい。 やっぱり歌奈ちゃんは味が分かる子だねえ」
 本当にとても美味しかった。真由子の作ったものより、断然いい味だった。
「それで、さっきの続き」
 歌奈は、口の中のものを飲み込んでから言った。窓辺の客の笑い声が響いてきた。おじさんは、少し客の方に目を向けてから話し始めた。
「うん。 それでね、涼一ってのは、リョウジの母親がつけた名前なんだ。 リョウジは、その名前を嫌がってて、人にはそう呼ばせないようにしてたんだ」
「どうして嫌がるんですか?」
「リョウジの母親は、男を作って出て行った…って、前言ったでしょ」
 歌奈はうなずいた。 
「そんな母親を、リョウジは恨んでたよ。 もちろん、もらえる金はもらっとくって言ってたけどね。 この前言った、学費のこと」
 学費。歌奈は自分があのときした解釈を思い出した。親が子供に投資するお金。何だか、その表現は間違っているような気がした。もらえるから、とりあえずもらうお金。リョウジにとってみれば、そういう意味なのではないかと思えた。
「だから、涼一って名前で人に呼ばれたくないみたいだよ。 『一』にもう一本棒を付けて、『ニ』って字にして。 それで、『涼ニ』ってことにしたらしい」
「変なの」
「僕が、『涼』っていう字を気に入ってるの、あいつは知ってたから。 だから、その字だけは変えないで、『一』だけを変えて…ってね。 何だか適当だけど」
 でも、雑誌の名前は、確かに『沖野涼一』だった。歌奈がそう思ったとき、おじさんが同じタイミングで言った。
「雑誌は涼一で通してるけどね」
「どうして?」
 歌奈は、かじりかけの卵サンドのかけらを口に放り込んだ。おじさんは、頭をかいた。それから、つぶやくように言った。
「まだ、母親が好きなんだろうな」
 少し、卵が喉につっかえた気がして、歌奈はカフェオレを喉に流し込み、卵を胃袋に落とした。
「マザコンっぽいところがあったからね。 あいつ」
 歌奈は思わず笑った。おじさんも、照れくさそうな顔をした。
「私も、マザコンだよ」
「歌奈ちゃんも?」
 窓の外から、車のクラクションが聞こえた。
「お母さんとケンカするけど、でもすごく好き。 あ、ヒステリックなところと、教育ママなところは苦手だけど」
 あとから付け足した歌奈の言葉に、おじさんは大笑いした。今度は、窓辺のお年寄りの客が、おじさんの方をじろじろ見た。おじさんはその視線に気付き、コホンと咳払いをしてから言う。
「雑誌の仕事だって、母親に自分の仕事ぶりを見てもらえるように…じゃないかな」
 車のクラクションがまた響いた。ブレーキの音も少し。
「母親がよく読んでた雑誌が、あの『GREENS』なんだよ。 だから、…わざわざあの出版社に入って、それで…」
 大きな音が響いた。衝突音。
「ありゃ、また誰かぶつけたかな。 この辺、縦列駐車でぶつける奴らが多くてね」
 おじさんは困ったように溜め息をした。歌奈には、悲しみや後悔を吐き出したように思えた。
 歌奈は、野菜サンドをかじった。サクッと、レタスが音を立ててちぎれた。トマトの酸味が、口に広がる。おじさんは、店を出て、衝突した現場へ急いだ。負傷者でもいたら、救急車を呼ぶ必要があるからだ。歌奈は、サンドイッチを食べながら、リョウジの顔を思い浮かべた。ぶっきらぼうな言葉の一つ一つが、今さらとても重たく感じられた。
 窓辺の客は、衝突音のことについて議論を始めた。昔、何処何処で車をぶつけられて、自分はどんなケガを負っただとか。少しずつ、その話は、自分がいかにひどい事故に遭ったかという自慢話に発展しつつあった。
 窓の外は、野次馬でごったかえしているのだろうか。ざわつきが激しくなっている。時計が鐘を打った。今頃、式場では何が行われているのだろうか。リョウジは、どんな顔で、大好きな人のドレス姿を眺めているのだろうか。





 一月。センター試験も終わり、歌奈は受験に一区切り付けた。推薦入試は上手く行き、県内の大学に四月から通うことになった。センター試験は、学校の方針から、全員受けなくてはならなかった。しかし、合格を決めた歌奈には、何ともつまらないものだった。
 真由子は、散々文句を言っていたが、歌奈が合格したことを知ると、ヒステリーも治まり、すっかり穏やかな母親になった。受験のストレスが、歌奈でなく真由子にきていたのだろう。歌奈は、部屋でロックを聞きながら、桜の丸裸の枝を眺めるのが日課になった。週に数回は近所のコンビニでバイトをし、二月に入ったら自動車免許も取ろうと考えていた。すべてが上手く行っているように思われた。
 ただ、歌奈の頭の中には、一つだけ忘れられないことがあった。もちろんリョウジのことだ。さえこの結婚報告を聞いてから一度も会っていない。もしも会ったら、歌奈は自分を抑えることができないと思った。だから、もう二度とカナリヤへは行かないと思っていた。
 そうして、四月になり、大学生活が始まり、また夏が来た。桜の葉がまた、色を濃くした。歌奈は、半分、リョウジのことを忘れかけていた。彼氏もできた。すっかりキャンパスライフを楽しんでいるようだった。


 夏休みに入って一週間ほどした日曜日、歌奈は、彼氏とデートの約束をし、駅で待ち合わせをすることになった。家から駅へ向かう途中、ふと、あの路地裏が目に留まった。まだ、あの喫茶店はあるだろうか。おじさんは。そして…リョウジは?
 思わず足を踏み入れてしまった。カナリヤの文字が目に入る。古ぼけたアンティーク調の看板。外装も、相変わらずだ。レンガ造りの階段。プランターの中の花。何もかも一年前と同じだ。扉を開ける。ベルが鳴る。そして――。
「いらっしゃい」
 カウンターから人が出てきた。懐かしい笑顔。歌奈は思わず微笑んだ。
「お久しぶりです」
 頭を下げた。おじさんだ。あの時とまったく変わっていない。歌奈は嬉しくてたまらなくなった。カウンターの席に真っ直ぐ座る。おじさんはにこやかに言う。
「歌奈ちゃんか。 本当に久しぶりだねえ。 すっかり大人っぽくなって」
「大学生ですから」
 歌奈は笑って答えた。おじさんはやはり前と何も変わらない手つきで、歌奈に水とおしぼりを差し出し、カフェオレを入れてくれた。甘すぎない、上品な味。だんだん、一年前の記憶が蘇ってきた。
「これからデートなんです」
 おじさんはそれを聞いて、驚いた顔をした。
「ボーイフレンドができたのかい。 歌奈ちゃん可愛いからねえ。 男は放っておかないよなあ」
 歌奈はいたずらぽく笑った。しばらく雑談にふけった。ああ、この感じ。前と何も変わらない。歌奈は少し大人に近づき、おじさんはほんの少しだけしわが増えた。ただそれだけだ。
 後ろで時計が鐘を打った。歌奈は焦って時間を見る。約束の時間を十分ほど過ぎていた。歌奈は焦って席を立った。急いでお金を渡し、おじさんにあいさつをして店を出た。おじさんは、優しい笑顔で、また来なさいねと言ってくれた。歌奈はうなずいて返事をした。


 扉を開け、路地裏を抜けようと思ったとき、目の前に、背の高い男がいた。歌奈は、今までにないくらいに大きく目を開いた。
「リョウジ」
 リョウジは、ジーパンに真っ白なシャツという、一年前とまったく変わらない様子だった。スポーツ刈りの頭は相変わらずだし、焼けた肌の色もそのままだ。
「久しぶり」
 歌奈はうなずいた。
「髪、伸びたな」
「うん。 やっとここまで」
 歌奈は、肩の下まで伸びた毛先を触りながら笑って言った。すると、カバンの携帯が音をたてた。歌奈はすぐに携帯を取り出し、電話に出た。
「ごめんね。 ちょっと寝坊しちゃって…電車一本遅らせてもいい? うん…そう。 じゃあ、すぐ行くから。 本当にごめんね」
 電話を切ると、リョウジが言った。
「男か」
 沈黙が流れた。蝉の鳴き声と、人の行き交う雑踏だけが響いた。リョウジは静かに言った。
「もっと早く気付いてれば良かった」
「え?」
 歌奈はリョウジの目をじっと見つめた。リョウジも歌奈を真っ直ぐに見つめた。
「毎日すっげえ寂しかった」
 そのまま、リョウジは歌奈を抱いた。力強く。けれど優しく。
「さえこのことで頭いっぱいだった。でも、おまえに会えなくなって、毎日つまらなくなった」
 リョウジは、洗い立てのシーツと同じ匂いがした。お日さまに似ていると、歌奈は思った。
「何もかも遅すぎた」
 それを聞くと、歌奈は涙が溢れた。震える声で、歌奈はつぶやいた。
「好きだったのよ」
 リョウジはまた言う。
「全部、遅すぎた」
 遠くから子供の泣き声がした。そして、しばらくしてその声は止んだ。リョウジは歌奈を離した。
「ごめんな」
 歌奈はうなずき、リョウジの横をすり抜けた。リョウジは、その背中に向かって言った。一年前の、ぶっきらぼうな口調で。
「俺、カナリヤって店の名前、最近すげえ好きになった」
 歌奈は振り返った。リョウジは、子供のような笑顔で言った。
「おまえと似てるから」
 それを聞くと、歌奈はふっと笑った。
「カフェオレ、卒業しろよ。 もう大学生だろ」
 ゆっくりうなずき、歌奈は路地裏から遠ざかった。冷たい路地裏の空気から抜けて、人ごみのうだるような暑さの中へ飛び出た。





 ようやく駅につき、彼氏と落ち合った。
「お茶でもしてようか。 次の急行、まだ先だから」
 歌奈は彼氏に促されて、駅に付いている喫茶店に入った。鳥かごが入り口のすぐそばにあり、中に小鳥が一羽、入っていた。
「この鳥、何ていうの? インコ?」
「カナリヤだよ」
「これがカナリヤ?」
 歌奈は、じっとその鳥を見た。二人は一番奥のソファに座った。
「おまえカフェオレだろ?」
 歌奈の彼氏は笑って言う。歌奈は首を横に振った。
「コーヒーにする」
 歌奈はにこりと笑った。入り口の鳥かごの中で、カナリヤが一つ鳴き声をあげた。
2007/03/23(Fri)13:09:58 公開 / rice
■この作品の著作権はriceさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
恋愛なのか、ただの憧れなのか…っていう曖昧な気持ちを書きたくて、チャレンジしてみました。自分にもよくあったんですが、好きかそうでないかを判断するのって難しいんですよね…。私だけかもしれないですけど・笑
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